月曜日, 12月 28, 2009

ジョットの寓意画



NAMs出版プロジェクト: ジョットの寓意画
http://nam-students.blogspot.jp/2009/12/blog-post_28.html@

先日、タロットの原型をペトラルカにあると書いたが、ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂(La Cappella degli Scrovegni,14世紀初めに建立)の方が少し早いことに気付いた(参考:伊泉龍一『タロット大全』p540、渡辺晋輔『ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂』)。
以下、その寓意画を紹介する(*がタロットに特に関係する)。
実際の礼拝堂では、善と悪それぞれ七つある対立する概念が向かい合わせの壁の下部に間隔をあけて描かれる。こうした構造は15世に制作が開始されたブランカッチ礼拝堂(岡崎乾二郎『経験の条件』参照)にも影響を与えたらしいが、内容的には(最後の審判を欲望の行き着く先の第三項と考えるなら)スピノザのエチカの感情論および第四部附録を想起させる。

スクロヴェーニ礼拝堂

     入り口 
    最後の審判(上段、下段中央に入り口)      
《希望》*     《絶望》
《慈愛》      《嫉妬》      
《信仰》     《不信仰》     
《正義》      《不正》      
《節制》      《憤怒》      
《剛毅》*    《移り気》     
《賢明》      《愚鈍》*
[美徳の寓意][悪徳の寓意](下段)     
 七美徳像    七悪徳像

最後の審判

《希望》*と《絶望》


《慈愛》と《嫉妬》



《信仰》と《不信仰》



《正義》と《不正》



《節制》と《憤怒》



《剛毅》*と《移り気》



《賢明》と《愚鈍》*

(参考:タロット「愚者」)




参考:
http://commons.wikimedia.org/wiki/Cappella_degli_Scrovegni
http://www.mystudios.com/gallery/giotto/preamble.html
http://www.mystudios.com/gallery/giotto/40a.html

ちなみに映画『デカメロン』では監督のパゾリーニ自身がジョット(の一番弟子?)を演じていたのが印象的だった。


参考:
http://www.pasolini.net/francais_cinema_decameron02.htm
http://www.pasolini.net/celine_allegati05.htm#maesta
http://www.pasolini.net/celine_allegati06.htm#Scrovegni
『パゾリーニ あるいは<野蛮>の神話』青弓社p121

http://www.youtube.com/watch?v=H9inqnnBHyQ#t=9m30s

金曜日, 12月 25, 2009

ペトラルカ(『凱旋』)とタロット

                   (美術文学リンク:::::::::
NAMs出版プロジェクト: ペトラルカとタロット
http://nam-students.blogspot.jp/2009/12/blog-post_25.html (本頁)

タロットカードの原型はペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304-1374)の寓話的な詩集『凱旋(Trionfi=トリオンフィ)』にあると言われている。
『凱旋』という作品は全部で六部から構成されており、
「愛」⇒「純潔(貞潔)」⇒「死」⇒「名声」⇒「時」⇒「永遠」の順番で、後のものが前のものを打ち倒して勝利し、凱旋するという流れになっている。

以下、画像左が『凱旋』の挿し絵またはイメージ画。右及び()内が該当するタロットカード(参考:伊泉龍一『タロット大全』p411)。


愛(恋人)




純潔(節制)




死(死)





名声と時間(正義と隠者)






永遠(世界)




参考:
http://www.geocities.jp/deargoddess_web/tarot/history/history2/history_2.html
http://blog.livedoor.jp/ikedesu/archives/cat_955603.html
http://www.tarothistory.com/2009/04/07/matching-the-triumphs/
http://www.mystudios.com/artgallery/J/Jacopo-Del-Sellaio/Triumph-of-Chastity,-inspired-by-Triumphs-by-Petrarch-1304-74.html
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/domenico/michelin/triumphs.html

http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/costa/triumph.html
http://pre-gebelin.blogspot.com/2007_12_01_archive.html




Trionfi  Francesco Petrarca
Petrarch's Triumphs.

http://www.classicitaliani.it/index133.htm

http://www.classicitaliani.it/petrarca/poesia/trionfi01.htm
http://www.classicitaliani.it/petrarca/poesia/trionfi02.htm
http://www.classicitaliani.it/petrarca/poesia/trionfi03.htm
http://www.classicitaliani.it/petrarca/poesia/trionfi04.htm
http://www.classicitaliani.it/petrarca/poesia/trionfi05.htm
http://www.classicitaliani.it/petrarca/poesia/trionfi06.htm

https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja?sl=it&tl=ja&u=http%3A//www.classicitaliani.it/petrarca/poesia/trionfi06.htm


ペトラルカ
凱旋

Francesco Petrarca
Triumphi

名古屋大学出版2004年

イタリア語
Trionfi Francesco Petrarca


英語
Petrarch's Triumphs.
見出しがラテン語
本文俗語?

俗語叙事詩

1374年没年に完成

FRANCESCO PETRARCA

I TRIONFI

Edizione di riferimento
Francesco Petrarca, Canzoniere, Trionfi, Rime varie, a cura di Carlo Muscetta e Daniele Ponchiroli, ed. Einaudi, 1958

TRIUMPHUS CUPIDINIS

TRIUMPHUS PUDICITIE

TRIUMPHUS MORTIS

TRIUMPHUS FAME

TRIUMPHUS TEMPORIS

TRIUMPHUS ETERNITATIS

Appendice

Trionfo d'Amore

Trionfo della Pudicizia

Trionfo della Morte

Trionfo della Fama

Trionfo del Tempo

Trionfo dell'Eternità

Appendice

01

02

03

04

05

06

07
以下、最終章「永遠の凱旋」最終部より
  Questi trionfi, i cinque in terra giuso
avem veduto, et a la fine il sesto,
Dio permettente, vederem lassuso; 123

  e ’l Tempo, a disfar tutto così presto,
e Morte in sua ragion cotanto avara,
morti inseme seranno e quella e questo. 126

  E quei che Fama meritaron chiara,
che ’l Tempo spense, e i be’ visi leggiadri
che ’mpallidir fe’ ’l Tempo e Morte amara, 129

  l’obblivion, gli aspetti oscuri et adri,
più che mai bei tornando, lasceranno
a Morte impetuosa, a’ giorni ladri; 132

  ne l’età più fiorita e verde avranno
con immortal bellezza eterna fama.
Ma inanzi a tutte ch’a rifar si vanno, 135

  è quella che piangendo il mondo chiama
co la mia lingua e co la stanca penna;
ma ’l ciel pur di vederla intera brama. 138

  A riva un fiume che nasce in Gebenna
Amor mi diè per lei sì lunga guerra
che la memoria ancora il cor accenna. 141

  Felice sasso che ’l bel viso serra!
ché, poi ch’avrà ripreso il suo bel velo,
se fu beato chi la vide in terra,
  or che fia dunque a rivederla in cielo? 144


 かくして、地上に五台の凱旋車を、
われらは見てきた。そして最後に、第六の、
天主に約束された凱旋車を、彼方の空で視るであろう。

 そして万物をかくも速やかに崩壊する《時》が、
己が清算にきわめて貪欲な《死》が、
その何れもが共に滅ぼされるであろう。

 しかも、まことに相応しき人々の、赫々たる《名声》を
《時》は、かき消し、《時》と、酷き《死》とが、
土気色に変えた、かの耀かしき美貌が、

 かつてなき美しさを甦らせ、
忘却を強欲な日々に残し置き、
暗く陰険なる相貌は、惨き《死》に置き去りにするであろう。

 女(おみな)らは、緑の花の齢(よわい)が立ち返り、
不滅の美と共に、永遠の名声に耀くであろう。
しかも、甦るすべての淑女の先頭に立つは、

 かの女人。わが言葉と疲れたぺンに、
世人が泣き濡れて、その名呼ぶ女(ひと)が。
その完き姿を視るを、天もまた待ち侘びる女が。

 シェベンナに生まれたーつの川の辺で、
《愛(アモール)》は、かくも長き戦を
僕に仕掛け、追憶は今も心に焼き付く。

 ああ美しき顔(かんばせ)を納めた、かの石よ、幸あれ!
地にて女(おみな)に見(まみ)えた人が、至福の人なれば、
美しきヴェールの甦った、その後に、女人と
 天上にてめぐり逢うは、ああ、いかばかりの至福なるか?

了 邦訳220~1頁より

水曜日, 12月 23, 2009

ライプニッツ『二十四の命題』1690

<「二四の命題(Die 24 Sätze)」と命名し注目したのはハイデッガーである。短いながら、その内容は、晩年の『モナドロジー』にも似て、存在の定義から発して倫理への示唆にまで至る。つまり、「理由及び理由律」(1)→「可能」(2)→可能の存在要求的性格(5)→「最大」(9)→「多様性」(13)→「秩序(判明な認識、美、完全生)」(18)→「喜び」(18,23,24)という進行は、ライプニッツ形而上学全体を俯瞰するようなスケールをもつ。>『ライプニッツを学ぶ人のために』(世界思想社p.189より)

以下、ハイデッガー 薗田宗人訳『ニーチェ3』 (白水社pp.222-225)より
(カタカナ表記をひらがな表記に変えた。ラテン語原文はhttp://la.wikisource.org/wiki/24_th%C3%A8ses_m%C3%A9taphysiquesより。その他、池田善昭『『モナドロジー』を読む』、ライプニッツ著作集8、海神通信にも邦訳及び解説がある。)

 ライプニッツ『二十四の命題』
 Godefridus Guilielmus Leibnitius 24 thèses métaphysiques

 一 なぜ無ではなく、なにかが実在するのか、という根拠が自然のなかにある。これは、根拠なしにはないものも生じない(Nihil fit sine ratione )という大原理の帰結である。同様にまた、なぜなにか他のものではなく、むしろこのものが実在するかという根拠がなければならない。
1. Ratio est in Natura, cur aliquid potius existat quam nihil. Id consequens est magni illius principii, quod nihil fit sine ratione quemadmodum etiam cur hoc potius existat quam aliud rationem esse oportet.

 二 この根拠は、なんらかの現実的存在者、すなわち原因のなかになければならない。というのも、原因とはひとつの現実的な根拠以外のなにものでもない。そして可能性と必然性(あるいは可能性に対立する否定的なもの)の真理は、可能性が現勢的に実在するもののなかに基礎づけられなければなにものをももたらさない。
2. Ea ratio debet esse in aliquo Ente Reali, seu causa. Nihil aliud enim causa est, quam realis ratio; neque veritates possibilitatum et necessitatum (seu negatarum in opposito possibilitatum) aliquid efficerent nisi possibilitates fundarentur in re actu existente.

 三 だが、この存在者は必然的でなければならない。そうでなければ、なぜそれが実在しないのではなくむしろ実在するのかというひとつの根拠が、さらにこの存在者の外に求められねばならない。それは仮定に反する。すなわちその存在者とはすべてのものの究極的根拠であり、普通これが一言で神と呼ばれている。
3. Hoc autem Ens oportet necessarium esse, alioqui causa rursus extra ipsum quaerenda esset cur ipsum existat potius quam non existat, contra Hypothesin. Est scilicet Ens illud ultima ratio Rerum, et uno vocabulo solet appellari DEUS.

 四 それゆえ、なぜ実在が非存在より優勢であるかという原因がある。つまり必然的存在者とは、実在せしめるものである。
4. Est ergo causa cur Existentia praevaleat non-Existentiae, seu Ens necessarium est EXISTENTIFICANS.

 五 だが、なにかを実在せしめ、あるいは可能性に実在を要求せしめる原因は、さらにすべての可能的なものに、実在への衝動をもたらしめる。なぜなら、一般にいくつかの可能的なものにだけ限定される根拠は見いだされないからである。
5. Sed quae causa facit ut aliquid existat, seu ut possibilitas exigat existentiam, facit etiam ut omne possibile habeat conatum ad Existentiam, cum ratio restrictionis ad certa possibilia in possibilia in universali reperiri non possit.

 六 それゆえ、すべての可能的なものは、それが現勢的に実在している必然的存在者に基づいているのに従って実在しようとし、かかる必然的存在者なしには、可能的なものが現勢態に至る道はないということができる。
6. Itaque dici potest Omne possibile EXISTITURIRE, prout scilicet fundatur in Ente necessario actu existente, sine quo nulla est via qua possibile perveniret ad actum.

 七 しかし、まだこのことからすべての可能的なものが実在するという帰結は出てこない。それがたしかに帰結されるのは、すべての可能的なものが共に可能なときである。
7. Verum hinc non sequitur omnia possibilia existere : sequeretur sane si omnia possibilia essent compossibilia.

 八 しかし、いくつかの可能的なものは他の可能的なものと相容れないがゆえに、ある可能的なものは実在に至らないことがある。さらにいくつかの可能的なものが他の可能的なものと相容れないのは、同時性に関してだけではなく、宇宙全般にわたって相容れないのである。けだし未来のものは現在のもののなかに包含されているからである。
8. Sed quia alia aliis incompatibila sunt sequitur quaedam possibilia non pervenire ad existendum, suntque alia aliis incompatibilia, non tantum respectu ejusdem temporis, sed in universum, quia in praesentibus futura involvuntur.

 九 しかしながら、実在に至ろうとするすべての可能的なものの葛藤から、少なくとも次のことが起こる。すなわちそれによって、もっとも多くのものが実在するようなものの系列、すなわちすべての可能的なもののなかの最大の系列が実在するのである。
9. Interim ex conflictu omnium possibilium existentiam exigentium hoc saltem sequitur, ut existat ea rerum series, per quam plurimum existit, seu series omnium possibilium maxima.

 十 ただこの系列だけが決定されたものである。たとえば、もろもろの線のなかでは直線が、もろもろの角のなかでは直角が、もろもろの図形のかかではもっとも容量の大きなもの、円かあるいは球形が決定されたものなのである。そして、液体がおのずとその本性に従って球形をなして滴るように、宇宙という自然においても、最大の容量をもった系列が実在する。
10. Haec etiam Series sola est determinata, ut ex lineis recta, ex angulis rectus, ex figuris maxime capax, nempe circulus vel sphaera. Et uti videmus liquida sponte naturae colligi in guttas sphaerica, ita in natura universi series maxime capax existit.

 十一 ゆえに、完全性が〔ゲルハルト版には欠如〕現実性の量にほかならないがゆえに、もっとも完全なものが実在する。
11. Existit ergo perfectissimum, cum nihil aliud perfectio sit, quam quantitas realitatis.

 十二 しかし、完全性はただ質料にのみ、すなわち、その量がいずれにせよ同じであるとことの時間と空間とを満たすものにのみ置かれるべきではなく、むしろ形相と多様性に置かれなければならない。
12. Porro perfectio non in sola materia collocanda est, seu in replente tempus et spatium, cujus quocunque modo eadem fuisset quantitas, sed in forma seu varietate.

 十三 そこからしてさらに、質料がいたるところで同一ではなく、形式を通じて多様であるということが、結果として生じるのである。そうでなければ、可能なかぎりのかくも多くの多様性は得られないであろう。私が別のところですでに述べたことには触れないとして〜〜これ以外の仕方ではいかなる多様な現象も生じないであろう。
13. Unde jam consequitur materiam non ubique sibi similem esse, sed per formas reddi dissimilarem, alioque non tantum obtineretur varietatis quantum posset. Ut taceam quod alibi demonstravi, nulla alioque diversa phaenomena esse extitura.

 十四 こうして、判明な思惟可能性を最大限に出現させる系列が優位を占めたことになる。
14. Sequitur etiam eam praevaluisse seriem, per quam plurimum oriretur distinctae cogitabilitatis.

 十五 ところで、判明な思惟可能性は、事物に秩序を、そして思惟者に美を与える。実に、秩序とは多くのもののあいだを区別する関係にほかならない。混乱が生じるのは、多くのものが集まっていて、しかもあるものを他のものと区別する根拠がないときである。
15. Porro distincta cogitabilitas dat ordinem rei et pulchritudinem cogitanti. Est enim ordo nihil aliud quam relatio plurium distinctiva. Et confusio est, cum plura quidem adsunt, sed non est ratio quodvis a quovis distinguendi.

 十六 それゆえに、それぞれの部分を他の部分と区別する根拠をもたない原子は、そしてまた一般的にそのような物体は廃されることになる。
16. Hinc tolluntur atomi, et in universum corpora in quibus nulla est ratio quamvis partem distinguendi a quavis.

 十七 そこから、総じて世界は調和世界(κόσμον コスモス)であり、秩序に満ち、認識する人びとにこの上ない満足を与えるのである。
17. Sequiturque in universum, Mundum esse Kosmon, plenum ornatus; seu ita factum ut maxime satisfaciat intelligenti.

 十八 認識する人の喜びとは、美、秩序、完全性を表象することにほかならない。そして苦痛はすべて、なんらかの無秩序なものを含んでいるが、しかしこれは表象する者に関してのことである。なぜなら、絶対的にいえば、すべてのものは秩序づけられているからである。
18. Voluptas enim intelligentis nihil aliud est quam perceptio pulchritudinis, ordinis, perfectionis. Et omnis dolor continet aliquid inordinati sed respective ad percipientem, cum absolute omnia sint ordinata.

 十九 そこで、ものの系列のなかでなにかが私たちに不快の念を与えるとすれば、それは知性認識の欠陥から生じるのである。けだしすべてのものを判明に認識することは、必ずしもすべての精神にとって可能ではななく、他を見ずにひとつの部分だけを見る人には、全体の調和を見ることは不可能である。
19. Itaque cum nobis aliqua displicent in serie rerum, id oritur ex defectu intellectionis. Neque enim possibile est, ut omnis Mens omnia distincte intelligat; et partes tantum alias prae aliis observantibus, non potest apparere Harmonia in toto.

 二十 宇宙のなかにも正義が観察されることは、このことの結果である。けだし正義とは、精神に関しての秩序、ないしは完全性にほかならない。
20. Ex his consequens est in Universo etiam justitiam observari, cum justitia nihil aliud sit, quam ordo seu perfectio circa Mentes.

 二十一 そしてもっとも大きな根拠は精神に属する。なぜなら精神を通じて、できるだけ小さい空間にできるだけ多くの多様性が得られるからである。
21. Et Mentium maxima habetur ratio, quia per ipsas quam maxima varitas in quam minimo spatio obtinetur.

 二十二 そして精神は、世界の第一次的な単位的統一であり、第一の存在者のもっとも忠実な模像であるといえる。なぜなら精神は必然的真理を、すなわち第一の存在者を動かし宇宙を形づくるべくさせたもろもろの根拠を、判明に表象するからである。
22. Et dici potest Mentes esse primarias Mundi unitates, proximaque simulacra Entis primi, distincte percipiunt necessarias veritates, id est rationes quae movere Ens primum, et universum formare debuerunt.

 二十三 第一の原因は至高の善性に属するものである。というのも、それはもっとも多くの完全性をもののなかに生ぜしめ、また、精神にもっと多くの喜びを与えるからである。けだし喜びとは完全性(表象 perceptionis ではない)を表象することからなるのである。
23. Prima etiam causa summae est Bonitatis, nam dum quantum plurimum perfectiones producit in rebus, simul etiam quntum plurimum voluptatis mentibus largitur, cum volptas consistat in perceptione perceptionis.

 二十四 悪さえもがより大きな善に奉仕するまでに至るのであり、そして苦痛は精神のなかに存するのであるから、より大きな喜びを目ざして進むことが必要である。
24. Usque adeo, ut mala ipsa serviant ad majus bonum, et quod dolores reperiuntur in Mentibus, necesse sit proficere ad majores voluptates.

 (第十一および第二十三の命題は、草稿に従って訂正されている。)



参考:

"Leibniz behauptet, daß nicht zwey
Blätter einander völlig ähnlich seyn."
Stich nach Schubert, 1796
http://www.lehrer.uni-karlsruhe.de/~za146/barock/leibniz1.htm

「識別できない二つの個物はありません。 私の友人に才気煥発な一人の貴族がいて、ヘレンハウゼンの庭の中、選帝侯婦人の御前で私と話をしていたときのことでありますが、そのとき彼は全く同じ二つの葉を見つけられると思っていました。 選帝侯婦人はそんなことは出来ないとおっしゃいました。 そこで彼は長い間駆けずり回って探したのですが無駄でした。 顕微鏡で見られれば二つの水滴とか乳滴も識別され得るでしょう。」
(1716年6月2日クラーク宛第4書簡)

「互いに完全に似ている二つの卵、完全に似ている二つの葉とか草は庭の中には見いだされない。従って、完全な類似性は非充足的な抽象的な概念においてしか生じないが、その場合事物は、あらゆる仕方においてではなく、ある一定の考察様式に従って考察されているのである。」
「第一真理」(生前未発表)
http://nam-students.blogspot.com/2009/01/primae-veritaes.html#%E5%A4%A9%E4%BD%BF


【不可識別者同一の原理 principium identitatis indiscerniblium,principle of the identity of indiscernibles 】
 (『モナドロジー』9など)
 [自然においては、2つの存在がたがいにまったく同一で、そこに内的規定に基づく違いが発見できないなどということはなく、それゆえ、たがいに識別できない2つのものは、実は、同一の1つののものである]とされる。
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kinsei/kinsei02g.html

http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50026615.html


Leibniz mit Herzogin Sophie, Karl August von Alvensleben und zwei Hofdamen im Herrenhäuser Garten. Illustration aus einer 1795 erschienenen Leibniz-Biographie von Johann August Eberhard
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Leibniz_und_Alvensleben.jpg&filetimestamp=20070325202518

http://de.wikipedia.org/wiki/Karl_August_I._von_Alvensleben

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/23/Leibniz_und_Alvensleben.jpg


追記:
デリダは日本での講演でハイデガーのライプニッツの命題ヘの言及を重視している(邦訳『他者の言語』)。根拠律は大学=近代の根拠でさえあると言っている。