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火曜日, 10月 16, 2012

デカルトによる量の次元の統一:メモ

        (デカルト数学リンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: デカルト:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/blog-post_16.html
デカルトによる量の次元の統一(1637年):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/blog-post_16.html(本頁)

【作図】ルートaを作図します!例題で√7の作図も!【初等幾何学】 https://youtu.be/DxVhWvXkXq4

https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/09/finding-square-roots-geometrically.html

デカルトによる数学的功績のひとつに、量の次元の統一がある。
(近代的自我の哲学的基礎づけなどはデカルトの功績の一部にすぎない。リンク:→四則演算コギト変奏)。
 
以下、半円を使用したデカルト「幾何学」該当部分の説明の邦訳(上半分の相似な図形の比を用いた線分による説明は省略)。

[平方根の抽出]


「…GH[図]の平方根を出さねばならぬとすれば、それと一直線上に単位であるFGを加え、FHを点Kで二等分して、Kを中心とする円FIHを描き、点Gか らFHと直角にIまで立てる。GIは求める根である。立方根その他についてはあとで述べる方が都合がいいから、いまは何も言わないでおく。」
(「幾何学」邦訳『デカルト著作集1』4頁より)

 ___________________


ただし、このデカルトの説明だけでは初学者にはわからないかもしれない。それは以下の書籍で紹介されているユークリッド第二巻の証明が前提になっているのに、その説明が自明なものだとして省略されているからだ。

以下、 日本の数学西洋の数学―比較数学史の試み (中公新書 ... より

日本の数学西洋の数学―比較数学史の試み』 (中公新書 611): 村田 全: 本. ... 村田/全 1924‐2008年、神戸市生まれ。北海道大学数学科卒業。立教大学教授、桃山学院大学教授などを歴任。


 「量の次元の統一の要求」28−29頁


       D
       |
      x             
      |
A_____B___C
    a     b


x^2 = ab の幾何学的解法
AB=a,BC=b として、AC=a+bを直径とする半円を描き、
Bに垂線を立てて半円との交点をDとすると、BDが求める長さ x
である。
このことは △ABDと△DBCとが相似となることから、

  a:x= x : b すなわち x^2=ab

として証明される。
ただし『原論』第2巻では、まだ相似の理論が示されていないので、
この定理も第2巻の定理を使って別の形で証明されている。

(日本の数学西洋の数学―比較数学史の試み (中公新書 ): 村田全 29頁)

参照:
"ユークリッド原論 縮刷版" ユークリッド 著
http://drunkard-diogenes.blogspot.jp/2011_12_01_archive.html
[ 第2巻: 幾何学的代数 ]
 命題14: x^2 = ab

別の解説:
http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/j-kadaimath/0401/index.htm


4.   
平方根の作図(第3学年)
 デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。しかし,デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分は図3の作図で与えられる線分の長さとして考えることができる。


例:
    √0.25=0.5
    |
____|_
  1  0.25


   √4=2
    |
    |
    |
    |
    |
    |
    |
____|________________
  1          4


√4=2
 |
_|____
1   4


 こうして,デカルトによってすべての数式は線分の長さとして考えられ,それに代数的演算を行ってもまた線分の長さとして与えられることが示された。つま り数式の演算と図形の作図とが結びつけられ,数式の演算がそのまま図形の研究に用いられるようになった。このことが次の時代のニュートン (1642~1727)の運動力学の研究に用いられ,そのまま現代科学の発展に大きく貢献している

///////

http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/j-kadaimath/0401/index.htm

数学史点描「デカルトの業績をたどる」
神戸市立桜の宮中学校
崎 正則
1.はじめに

 最近の中学校の数学では,授業時数の削減に伴い,内容の精選などから最低限の授業を行い,時間があれば定着のための計算演習を繰り返すというやや「味気ない」授業が展開されているケースが多い。
 課題学習の大切さが言われても,実施する余裕がなく,一方でそれまでの授業との関連がない内容のものを突然実施しても,生徒たちにとって「なぜこの課題が?」と課題学習の目的を理解できない場合が多く,効果を上げていない。
 そこであらためて1時間の授業を組むのではなく,ひとつの単元の授業の流れの中で動機付け,まとめなどの場面で適当に配置でき,教科書や問題集にない(あるいははずれた)内容に触れつつ,かつ授業内容をバックアップするような課題学習の作成に取り組んだ。
 そのひとつとして,歴史のなかで数学の進歩に貢献した人物を点描し,彼等の足跡,業績をたどりながら,今学んだことの本当の大切さやその背景にある考え方の深まりを感得させることができるような授業を考案した。
 すでに教科書でも取り上げられたことがあるが,ギリシャのターレスの相似の話,アルキメデスの円周率の計算,ピタゴラスと彼の教団等々,歴史上の数学者 は個性的である。これらを中学生に分かりやすく噛み砕いて話していると,参考書や問題集では知ることができない生き生きとした現実の数学の世界に触れ,生 徒たちの意欲・関心を大いに高めることができる。
 このような研究の流れのなかで,今回このレポートでは「デカルトの業績」をたどりながら,座標,相似な図形,平方根,三平方の定理などに触れていく課題 学習を例示する。1年から3年までの内容を含んでおり,全部を1時間で行うとすれば少々多めである。そこでどの学年でも,必要に応じて一部省略して用いる ことができるようにしてある。
  関係ある単元は,
  1) 第1学年 比例と反比例:座標
  2) 第2学年 図形と証明:証明のしくみ
  3) 第3学年 平方根:平方根
  4) 第3学年 図形と相似:平行線と線分の比
  5) 第3学年 三平方の定理:三平方の定理の利用
である。

2.授業の内容

(1)  デカルトおよびその背景について

 ほとんどの生徒たちにとって「デカルト」は初めて聞く名前だろう。最初にデカルトの肖像(右図)を提示し,彼の生涯やその業績について簡単にたどってみる。私がまとめた主な足取りは以下のとおりである。
Rene Decartes
デカルト(1596~1650)

[ルネ デカルト(Rene Decartes)]
  1) 1596 フランス トゥレーヌ州ラエに生まれる。
 富裕な支配階級の出自であるが,母をなくし,祖母たちの手で育てられる。生来,体が弱かった。
  2) 1606 フランス ラフレーシュの学校に入学。校長シャルレ(生涯彼のよき理解者)によって「朝は好きなだけベッドに横たわっていてもいい」と許可される。
 人文学(語学,歴史,弁論,道徳など)とスコラ哲学(アリストテレス創始)を学ぶが,その煩瑣な論法を批判し,新しい学問体系を作ろうと志す。
「ある考えが正しいかどうかは,これから導き出された結果が現実の世界の中で起こっていることをどれだけうまく説明できるかによって決められる」
  3) 1616 フランス ボアティエで大学に入学
  4) 1619 ドイツ軍将校として30年戦争に参加
 10月ドナウ川上流ウルムの町で夜営。11月10日みた夢からヒントを得て幾何学(図形)の代数(数式,関数)への応用を考えつく。
  5) 1623 イタリア ベネチア
 このころガリレオ・ガリレイがイタリアにいたが,彼には会っていない。
  6) 1627 フランス パリ
 それまではどちらかといえば自由気ままに生きていたが,枢機卿の説得で人生の目的として学問を志す。
  7) 1628~1640  オランダ アムステルダム
   スペインから独立したばかりで進取の雰囲気に満ちた賑わいの町で,静かに研究に没頭する。
   1637
3つの「試論」と「方法序説」
光の屈折の法則,虹の現象の説明
動物機械論:現代のロボットやコンピュータの予想
真空の否定:太陽から地球への影響は渦運動によって起こる(太陽風)
「方法序説」によって,解析幾何学の原理を確立する。しかしながらガリレオの宗教裁判の結果を恐れ,なかなか出版に踏み切れなかった。
  8) 1641 オランダ ハーグ
   1649 スウェーデン女王クリスティナと出会い,スウェーデンに招聘される。
 招きに応じて行ったが,早朝より女王への講義,環境の変化で体調を崩す。
  9) 1650 スウェーデン ストックホルムで死去

(2)  中学校数学でデカルトの関係する部分

 現代の数学全般,とりわけ解析学の土台が彼によってつくられているわけであるが,この課題学習で取り上げることができる内容を以下に挙げる。

1.座標(第1学年)
 デカルトの足取りの4)で,朝のベッド上で思索中に,格子状の天井に止まる蝿を見ていて座標平面の考え方を思いついた,といわれている。彼以前にも「点の座標」は遠くはギリシャのアポロニウスが取り上げている。また同時代のライバル,フェルマーも提唱している。
 しかし,デカルトの業績は,負の数を数直線上で0より左に伸びる部分に位置する数としてその概念を確立したうえで,すべての実数に対応する座標平面を考案したことである。
 グラフについては,小学校時に正の数を対象とした第1象限のみのものを学習しているが,「比例と反比例」で初めて正負の数すべてに対応する座標平面まで拡張する。このときに,デカルトの行なったことの意味を知らせたい。
 授業では,ヨーロッパの地図に座標軸を入れたものを準備して配布し,デカルトの一生の主な場所〔1)~9)〕を座標で表しながら説明したい。

2.

図形との結びつき(第3学年)
 座 標を用いると,対応する2つの数量を1つの点として表すことができる。2つの対応する数量が変化していく様を,座標平面上で視覚的に表すことができるわけ である。その全体は,平面上では一種の図形として捉えることができる。例えば,一次関数は直線,二次関数は放物線である。  第3学年で「三平方の定理」の学習が終わった段階では,少々進んだ内容ではあるが,円の方程式を示してやっても,生徒たちは理解可能だし,興味・関心を 引き起こすことができる。これは,高校に入ってから三角関数への導入を分かりやすくするためにも役立つ。

3.

相似な図形の比を用いた線分の作図(第3学年)
 デカルト以前では式の次数をそろえるということが大切なことであった。例えば,
  y=x+m  y2=mx
のように,長さが長さに等しい,面積が面積に等しい,という形式の場合のみを取り扱っている。つまり,一次の式aは1つの線分を意味し,a2 は面積を意味していた。
   しかし,デカルトは,このa2 は 1:a=a:a2 を意味するだけの数式として考えた。これは図1の作図を通して簡単に長さとして示すことのできるものである。
 同様に,abは二次式として面積を意味するものであったが,デカルトは図2のように 1:a=b:ab によって結びつけられた同じ次元(長さ)を表すものとして考えうることを示した。




さらに別の説明:



        D
        |
        √a             
        |
A_____O_B___C
     a     1 
        =単位線分


「平方根√aについては、図3のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
て描きます。次に、ABの中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、点Bから
垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、△ABD∽△DBCで
すから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

*単位線分とは、長さ1の線分のこと。
(上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

はじめて読む数学の歴史 - 上垣渉 - Google ブックス

__________

付録:

デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
http://fr.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9ories_scientifiques_de_Descartes
(仏訳者への書簡より)
「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から
出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すな
わち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極
の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

« Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la métaphysique, le tronc est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se réduisent à trois principales, à savoir la médecine, la mécanique et la morale, j'entends la plus haute et la plus parfaite morale, qui, présupposant une entière connaissance des autres sciences, est le dernier degré de la sagesse. »

Les Principes de la philosophie, lettre-préface de l'auteur

デカルト、哲学の木。
道徳が「知恵の最後の段階」にくる。

   道徳学
   |◯  機械学 
医学 |   /◯   ◯果実→公衆へ
 \◯|  /        
  \||/  枝、諸々のその他の学問  
   ||
   ||   幹、自然学  第二の部分 哲学原理2~4/4
-ーー||ーー-
  /\/\  根、形而上学 第一の部分
                  省察、哲学原理1/4

参考:中公世界の名著325頁
この前段の学問に、日常道徳、数学を含む論理学がある。
http://3f.img.v4.skyrock.net/3215/74513215/pics/3117005059_2_3_tSvffL9U.jpg
http://real-illusion.skyrock.com/3117005059-L-Arbre-de-Descartes.html

142 件のコメント:

  1. 【幹細胞】移植した神経幹細胞の機能は移植先の環境に大きく左右され分化に影響/九州大
    1 :白夜φ ★:2012/10/17(水) 21:23:41.39 ID:???
    <九大、神経幹細胞で解明 移植先の環境、分化に影響>

    移植した神経幹細胞の機能は移植先の環境に大きく左右され、遺伝子が期待通りに働かず
    細胞の分化が抑制される場合があることを九州大の岡田誠司准教授(脊椎脊髄医学)らが解明し、
    16日付の英科学誌「ネイチャーコミュニケーションズ」電子版で発表した。

    人工多能性幹細胞(iPS細胞)など、複数の細胞に分化する幹細胞を使った医療が注目されているが、
    移植先の環境が与える影響は未解明で、臨床応用の障害になっていた。
    今回の成果により「効果的で安全な移植が可能になる」としている。

    岡田准教授らは、実験でマウスの胎児の脳から取り出した神経幹細胞を使用。

    2012/10/17 00:00 【共同通信】
    ____________

    ▽記事引用元 47NEWS
    http://www.47news.jp/CN/201210/CN2012101601002043.html

    ▽関連
    ・Nature Communications
    Direct isolation and RNA-seq reveal environment-dependent properties of engrafted neural
    stem/progenitor cells
    http://www.nature.com/ncomms/journal/v3/n10/abs/ncomms2132.html
    ・九州大学
    移植された神経幹細胞の機能が、生着した環境に大きく依存することを証明
    ~より安全で効果的な細胞移植治療のための解析方法の確立~
    http://www.kyushu-u.ac.jp/pressrelease/2012/2012_10_16.pdf

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  2. 速度と加速度というかmv派とmv^2派の対立は質料と形相の対立であって、
    カントが卒論でそれを調停しようとしたことは、後の第一批判につながっている。
    ただカント自身のライプニッツヘの無理解(ライプニッツこそ質料と形相をつな
    いだほとんど唯一の思想家だったのに)は皮相な形で後世のライプニッツ軽視
    の風潮を生み、それは今日の哲学と科学との乖離を決定的にした。

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  3. 年代順改訂版

    「我思う、故に我あり」デカルト
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する、Ego sum cogitans.)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う」ハイデガー
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

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  4. 年代順改訂版

    「我思う、故に我あり」デカルト
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する、Ego sum cogitans.)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う」ハイデガー
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール


    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。

    ヘーゲル、
    フッサール、
    デリダ、
    ドゥルーズ、
    あたりにもあるかも知れない。

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  5. 年代順改訂版

    「我思う、故に我あり」デカルト
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う」ハイデガー
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール


    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

    ヘーゲル、
    フッサール、
    デリダ、
    ドゥルーズ、
    あたりにもあるかも知れない。

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  6. 年代順改訂版

    「我思う、故に我あり」デカルト
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う」ハイデガー
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ、Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール


    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

    ヘーゲル、
    フッサール、
    デリダ、
    ドゥルーズ、
    あたりにもあるかも知れない。

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  7. 年代順改訂版

    「我思う、故に我あり」デカルト
    「我歩く、故に我あり」ホッブズ
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う」ハイデガー
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール


    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

    ヘーゲル、
    フッサール、
    デリダ、
    ドゥルーズ、
    あたりにもあるかも知れない。

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  8. 年代順改訂版

    「我思う、故に我あり」デカルト
    「我歩く、故に我あり」ホッブズ
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う」ハイデガー
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ、Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール


    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

    ヘーゲル、
    フッサール、
    デリダ、
    ドゥルーズ、
    あたりにもあるかも知れない。

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  9. 年代順改訂版

    「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う」ハイデガー
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ、Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール


    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

    ヘーゲル、
    フッサール、
    デリダ、
    ドゥルーズ、
    あたりにもあるかも知れない。

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  10. デカルト『幾何学』第一巻

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  11. 年代順改訂版

    「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』第43節)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ、Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  12. 71 :52, 年代順改訂版 :sage :2012/10/22(月) 14:10:30.37 P

    「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』第43節)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ、Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  13. 71 :52, 年代順改訂版 :sage :2012/10/22(月) 14:10:30.37

    「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』第43節)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  14. wikiより

    「我思う、ゆえに我あり」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis、羅: ego cogito, ergo sum)は、デカルトがフランス語の自著『方法序説』(Discours de la methode)の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito = 私は思う、ergo = それゆえに、sum = 私はある)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Etienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[1]、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている[2]。

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  15. 71 :52, 年代順改訂版 :sage :2012/10/22(月) 14:10:30.37

    「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』第43節)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  16. 71 :52, 年代順改訂版 :sage :2012/10/22(月) 14:10:30.37

    「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』第43節)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  17. 71 :52, 年代順改訂版 :sage :2012/10/22(月) 14:10:30.37 

    「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『省察』「第三論駁」)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html
    全集12,16
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』FGW1-94,IV. §17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』第43節)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  18. 改訂版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum.cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『省察』「第三論駁」)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー
    http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html
    全集12,16
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』FGW1-94,IV. §17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「「我あり、我思う」と言っても、それはもはや、「この人間としての我がある」ということ
    を意味してはいない。…判断停止の後も、…我思うという超越論的な言い方には、もう一つの
    項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのもの
    を思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギター
    トゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
    フッサール(『デカルト的省察』第11〜14節)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』第43節)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  19. 改訂版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum.cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『省察』「第三論駁」)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』FGW1-94,IV. §17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのもの
    を思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギター
    トゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える」
    フッサール(『デカルト的省察』第11〜14節)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』第43節)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  20. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『省察』「第三論駁」)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、
    この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)
    を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  21. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『省察』「第三論駁」)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの
    思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  22. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『省察』「第三論駁」)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身の
    うちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言
    える」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  23. SCHOPENHAUER stellt den Gegen-Satz auf: »Cogito ergo est - d.h. wie ich gewisse Verhältnisse (die mathematischen) an den Dingen denke, genau so müssen sie in aller irgend möglichen Erfahrung stets ausfallen« (W. a. W. u. V. II. Bd., C. 4)

    http://www.textlog.de/1299.html

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  24. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『省察』「第三論駁」)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身の
    うちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言
    える」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  25. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身の
    うちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言
    える」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  26. 「「我あり、我思う」と言っても、それはもはや、「この人間としての我がある」ということ
    を意味してはいない。/…我あり(エゴ・スム)がもつ 絶対的明証は、我(エゴ)がもつ超越論
    的な生と習慣的な固有性についての、多様な自己経験にも及んでいる…。/…判断停止の後も、
    …我思うという超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思う
    こと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそ
    れ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験
    がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
    フッサール(『デカルト的省察』第11、12~14節)

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  27. 「我あり(エゴ・スム)がもつ 絶対的明証は、我(エゴ)がもつ超越論
    的な生と習慣的な固有性についての、多様な自己経験にも及んでいる…。我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思う
    こと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそ
    れ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験
    がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
    フッサール(『デカルト的省察』第12~14節)

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  28. 「我あり(エゴ・スム)がもつ 絶対的明証は、我(エゴ)がもつ超越論的な生と習慣的な固有性についての、多様な自己経験にも及んでいる…。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそ
    れ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験
    がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
    フッサール(『デカルト的省察』第12~14節)

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  29. 「我あり(エゴ・スム)がもつ 絶対的明証は、我(エゴ)がもつ超越論的な生と習慣的な固有性についての、多様な自己経験にも及んでいる…。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
    フッサール(『デカルト的省察』第12~14節)

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  30. 「我あり(エゴ・スム)がもつ 絶対的明証は、我(エゴ)がもつ超越論的な生と習慣的な固有性についての、多様な自己経験にも及んでいる…。我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
    フッサール(『デカルト的省察』第12~14節)

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  31. 「我あり(エゴ・スム)がもつ 絶対的明証は、我(エゴ)がもつ超越論的な生と習慣的な固有性についての、多様な自己経験にも及んでいる…。我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」フッサール(『デカルト的省察』第12~14節)

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  32. 「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」フッサール(『デカルト的省察』第12~14節)

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  33. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我あり(エゴ・スム)がもつ 絶対的明証は、我(エゴ)がもつ超越論的な生と習慣的な固有性についての、多様な自己経験にも及んでいる…。我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身の
    うちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言
    える」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  34. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言
    える」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  35. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  36. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  37. 「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、「われ考う(コギト)」
    の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な「われ考
    う」であり、侵入という形でしか押しつけられえない「われ考う」である。」
    フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)

    「デカルトの懐疑は、感覚の呪縛を解き、真なるものの光にたえず導かれて夢の風景を通り抜ける。
    だが、その懐疑は、懐疑する人、つまり思考し存在しないのと同じく気違いじみた(デレゾネ)こ
    とのできない人の名において、狂気を追放するのである。」
    フーコー(『狂気の歴史』第二章邦訳67頁)

    「理性」raison ←→ 「非理性」deraison

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  38. 「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)

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  39. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、「われ考う(コギト)」の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な「われ考う」であり、侵入という形でしか押しつけられえない「われ考う」である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  40. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、「われ考う(コギト)」の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な「われ考う」であり、侵入という形でしか押しつけられえない「われ考う」である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  41. 「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、「われ考う(コギト)」の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な「われ考う」であり、侵入という形でしか押しつけられえない「われ考う」である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)

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  42. 「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
    フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
    ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、「われ考う(コギト)」の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な「われ考う」であり、侵入という形でしか押しつけられえない「われ考う」である。」
    フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」
    デリダ(『エクリチュールと差異』上)

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  43. 「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
    フッサール(『デカルト的省察』§14)

    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
    ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)

    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、「われ考う(コギト)」の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な「われ考う」であり、侵入という形でしか押しつけられえない「われ考う」である。」
    フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)

    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」
    デリダ(『エクリチュールと差異』上)

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  44. 「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
    フッサール(『デカルト的省察』§14)

    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
    ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)

    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」
    フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)

    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」
    デリダ(『エクリチュールと差異』上)

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  45. 「かれはおおもとのさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…
    かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳
    214ー5頁)

    「われからかう、ゆえにわれあり」ガッサンディ
    ピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi、1592年1月22日-1655年10月24日)
    ガッサンディの批判は、自らの唯物論を教会の教理に順応させたデカルトにも向けられた。感覚から与えられる印象を疑った「デカルト的懐疑」を観念の遊戯と考え、「存在は思惟によってのみ認められる」とするデカルトに対し「存在は、まさしく思惟からと同様に、他のいかなる作用からも推測することができる」と反論した。

    反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年

    http://d.hatena.ne.jp/nikubeta/20120515/p1
     エピクロス哲学の研究は1637年のペイレスクの死によって41年まで中断します。その中断の直後にデカルトとのあいだの有名な論争が起こりまし た。ガッサンディはデカルトがとなえる絶対に確実な知識の基礎付け方法を批判します。「私は考えるゆえに私はある」というのは「考えるものはある」という 命題を前提にしているので、第一真理ではない。神の完全性に依拠するデカルトの議論は循環している。観念は感覚に由来するので生得観念はない。概念的区別 から霊魂と身体の実体的区別を導くことはできない。ガッサンディによれば神の存在は世界に見られる目的性の観察から証明できる。また霊魂の不死性は信仰箇 条に属する問題であるとします。



    • [PDF]
    「某氏からデカルトへの書簡(1641年7月)」訳解 - 名古屋文理大学

    www.nagoya-bunri.ac.jp/information/memoir/.../2011_05.pdf
    ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - クイック ビュー
    山田弘明 著
    あり,その内容はデカルトの「第五答弁」に対してガッサンディ主義の立場から細かな点を再反論 ... かれらは質. 問に対して,色や光を思い浮かべることができないと. 答えた」と言われているからである.名前を明かさな. いことにデカルト ..... いう安全装置があるゆえに一応安定を保っているにせ .... れ,それが神の不興を買うだろうと思われるときには, ...


    ュ - このページを訳す共有
    12 Nov 2010 – Curro ergo sum. I run therefore I am. ..


    Curro, ergo sum! - 我走る、故に我有り
    これは Google に保存されている http://blogs.yahoo.co.jp/okinamoro/22735799.html
    pugno ergo sum.   我戦う、故に我あり。
    fleo ergo sum.       我泣く、故に我あり。
    clamo ergo sum.   我叫ぶ、故に我あり。
    curro ergo sum.    我走る、故に我あり。
    pergo ergo sum.   我進む、故に我あり。

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  46. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「われからかう、ゆえにわれあり」ガッサンディ(ヘーゲル『哲学史講義』下より孫引き。上記のホッブズ発言をガッサンディのものとする人もいる)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「かれはおおもとのさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂 人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、「われ考う(コギト)」の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと 無縁な、まったく外的な「われ考う」であり、侵入という形でしか押しつけられえない「われ考う」である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  47. 改訂新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「われからかう、ゆえにわれあり」ガッサンディ(ヘーゲル『哲学史講義』下より孫引き。上記のホッブズ発言をガッサンディのものとする人もいる。『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「かれはおおもとのさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂 人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、「われ考う(コギト)」の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと 無縁な、まったく外的な「われ考う」であり、侵入という形でしか押しつけられえない「われ考う」である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  48. 最新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「われからかう、ゆえにわれあり」ガッサンディ(ヘーゲル『哲学史講義』下219頁より孫引き。上記のホッブズ発言をガッサンディのものとする人もいる。『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「かれはおおもとのさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂 人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、「われ考う(コギト)」の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと 無縁な、まったく外的な「われ考う」であり、侵入という形でしか押しつけられえない「われ考う」である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  49. 最新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「われからかう、ゆえにわれあり」ガッサンディ(ヘーゲル『哲学史講義』下219頁より孫引き。上記のホッブズ発言をガッサンディのものとする人もいる。『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「かれはおおもとのさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  50. 最新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「われからかう、ゆえにわれあり」ガッサンディ(ヘーゲル『哲学史講義』下219頁より孫引き。上記のホッブズ発言をガッサンディのものとする人もいる。『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「かれはおおもとのさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  51. 反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年
    http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y

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  52. Disquisitio metaphysica:
    seu dubitationes et instantiae adversus Renati Cartisii metaphysicam et responsa (Google eブックス)
    前表紙
    Pierre Gassend Gassendi (Dit Gassendi)

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  53. 最新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「われからかう、ゆえにわれあり」ガッサンディ(ヘーゲル『哲学史講義』下219頁より孫引き。上記のホッブズ発言をガッサンディのものとする人もいる。『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  54. 最新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ホッブズ(『「省察」第三論駁』)
    「われからかう、ゆえにわれあり」ガッサンディ(ヘーゲル『哲学史講義』下219頁より孫引き。上記のホッブズ発言をガッサンディもしている。その記述がある『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  55. 「私は歩いているので、私は散歩だ(je suis promenant, donc je suis une promenade)」ホッブズ(「省察 第三論駁」)
    http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56

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  56. 最新版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「私は歩いているので、私は散歩だ(je suis promenant, donc je suis une promenade)」ホッブズ(「省察 第三論駁」)
    http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html
    「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

    7:45 午前
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    Blogger yoji さんは書きました...


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  57. 訂正版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『哲学原理』他)
    「私は歩いているので、私は散歩だ(je suis promenant, donc je suis une promenade)」ホッブズ(「省察 第三論駁」)
    http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html
    「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  58. 訂正版:

    「我思う、故に我あり(ego cogito , ergo sum . cogito ergo sum)」デカルト(『方法序説』『哲学原理』他)
    「私は歩いているので、私は散歩だ(je suis promenant, donc je suis une promenade)」ホッブズ(「省察 第三論駁」)
    http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56
    「我歩く、故に我あり(ambulo ergo sum)」ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y
    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)
    「私は思惟する事物である 」ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )
    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」ジョージ・バークリー(『人間原理論』)
    「我思う=我あり(同語反復)」カント?(第一批判A355)
    「我思われる、故に我あり」フランツ・バーダー(全集12,16)
    http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html
    「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)
    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)
    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)
    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)
    「我 思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを 思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだ とも言える。」フッサール(『デカルト的省察』§14)
    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」ハイデガー(『存在と時間』§43)
    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」(ラカン、セミナール14)
    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)
    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)
    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」デリダ(『エクリチュールと差異』上)
    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」ゴダール(『映画史』1B)
    「君あり、故に我あり」サティッシュ・クマール

    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  59. [平方根の抽出]
      I


    F G K   H

    また 、GH[図]の平方根を出さねばならぬとすれば、それと一直線上に単位であるFGを加え、FHを点Kで二等分して、Kを中心とする円FIHを描き、点GからFHと直角にIまで立てる。GIは求める根である。立方根その他についてはあとで述べる方が都合がいいから、いまは何も言わないでおく。

    (「幾何学」邦訳『デカルト著作集1』4頁)

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  60. http://books.google.co.jp/books?id=3CQQh9fWLQgC&hl=ja&hl=ja&pg=PA4&img=1&zoom=3&sig=ACfU3U3cZqHeQZnEa0Rs8z_Of3-Mhy8Xjw&w=410

    http://books.google.co.jp/books?id=3CQQh9fWLQgC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false

    The Geometry of Rene Descartes
    著者: Rene Descartes

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  61.   I


    F G K   H
    また 、

    返信削除
  62. http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20060901/1157077958


    この記述を単なる整数の列 [1, 2, 2, 1]で表現します。この数列はアミダを完全に記述します。ただし、縦線の本数の違いを区別できない(下図)ので、数列に縦線の本数を添えて、[1, 2, 2, 1]3のように書きましょう。次は、[1, 2, 2, 1]3、[1, 2, 2, 1]4、[2, 3, 3, 2]4の図です。

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  63. http://ogawakeiic.exblog.jp/10658308/ 絵本作家ムナーリは デカルトの方法の4規則と老子を引用している。明察分析総合枚挙。これに老子の 不可知論?が加わる。
    topsy.com/ogawakeiic.exblog.jp/10658308/
    Amazon.co.jp: モノからモノが生まれる: ブルーノ・ムナーリ,萱野 有美: 本
    Amazon.co.jp: モノからモノが生まれる: ブルーノ・ムナーリ,萱野 有美: 本. ... デカルト の方法における4つの規則企画の方法を知る豪華さについて緑色のリゾット企画の 方法論デザインの問題がある分野とは? 問題とはなにか? スケッチとデッサン模型分析 表 ...

    返信削除
  64. http://nam-students.blogspot.jp/2011/12/blog-post_25.html
    NAMs出版プロジェクト: デカルトの四則演算:メモ

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  65. http://horirium.blog7.fc2.com/blog-entry-179.html

    horirium |ツーサークル・ローラー (ペーパークラフト)

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  66. http://www1.ttcn.ne.jp/a-nishi/sphericon/sphericon.html


    スフェリコン

    ホーム > 幾何学おもちゃ > スフェリコン


    スフェリコン(sphericon)は1970年英国人Colin Roberts氏によって発明された.

    スフェリコンは,正方形を対角線を軸に回転させて出来る上下2つの円錐を,軸を含む平面で2等分し,一方を90°回転して張り合わせてできている.

    こうして出来た立体は全体が1つの曲面で囲まれて,重心の上下動なく平面上をゆれながら転がる.

    スフェリコンのアニメーションへ(328K)




    半円板を2枚中心で図のようにつなげ固定したものの凸包としても定義できる.
    ヘキサ・スフェリコン

    正6角形を元にして同様の方法で作られたヘキサ・スフェリコン(hexasphericon)も重心の上下動なくゆれながら転がる.

    ヘキサ・スフェリコンのアニメーションへ(366K)
    ↑上へ
    [ホーム] [幾何学おもちゃ] [多面体おもちゃ] [Java Applet] [Links] [更新情報]

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  67. Sphericon -- from Wolfram MathWorld
    http://mathworld.wolfram.com/Sphericon.html

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  68. http://blog.livedoor.jp/y11269/archives/84622.html


     ヘーゲルの「理性」における「国家」とは、デカルトの

    「類・種・種差・固有性・偶有性」

    の五つの「普遍者」の「固有性」であろう。※2
     デカルトは、この「普遍者」を、三角形の例えを用いて、説明している。その説明は、図形を「類」、図形のなかの三角形を「種」、二等辺三角形など、三角形のなかの種類を「種差」、二等辺三角形の二辺が等しいなど、ある種類の三角形の持つ性質を「固有性」、ある三角形が運動し、ある三角形が運動しないことを「偶有性」と呼ぶ。
     図形である「類」が人類、三角形である「種」が民族、三角形の種類である「種差」が、ある民族のなかの情報の同時共有性を意味するなら、「国家」内部の情報の共有性と「国家」理性が噛み合わず、国民による「国家」への敵対の合意が大きく、「国家」の枠組みがもろくあり、「国家」が、「国家」という枠組みを守るために、対外的標的を創る時、「国家」による戦争つまり「偶有性」という運動が起こるのである。
     さらに、また、国民による「国家」への敵対する合意が、「国家」間の合意より大きい時、つまり「国家」理性より、大きい時に、戦争は起こるのである。これが、「同時存在」である。
     国家間の戦争は、「偶有性」にあたる。しかし、「国家」内部からの共同性の確立と「国家」外部の戦争の可能性が、同時平行的にかなり多い確率であるのなら、「国家」という「固有性」はすでに壊されていることになるから、観念上にも、「国家」とは「普遍者」の形態とは言えないことになる。





    ※1ヘーゲル「B 歴史における理性とは何か」『歴史哲学講義(上)』訳者 長谷川宏 岩波文庫 1994年6月16日 P.37
    ※2デカルト「五九」「哲学原理 第一部 人間人間の諸原理について」『哲学原理』訳者 桂 寿一 岩波文庫 1964年4月16日 P.74~76

    2:59 午前  
     yoji said...
    デカルトの説明:例

    類:三角形
    種:直角三角形
    種差:直角がある
    固有性:底辺の二乗が他の二辺の二乗の和に等しい
    偶有性:あるものは動く、あるものは動かない

    デカルト哲学原理59

    類、種、差異、固有性、偶有性(偶然的、出来事)

    Genus, Specie, Differentia, Proptium Accident


    Aristotle (Topics, a iv. 101 b 17-25): 
    definition (horos), genus (genos), differentia (diaphora), property (idion), accident (sumbebekos).


    述語 
    Predicate
    Julius Pacius
    五個の述語となりうるものの間の十の関係 


    http://en.wikipedia.org/wiki/Predicable

    Predicable (Lat. praedicabilis, that which may be stated or affirmed, sometimes called quinque voces or five words) is, in scholastic logic, a term applied to a classification of the possible relations in which a predicate may stand to its subject. It is not to be confused with 'praedicamenta', the schoolmen's term for Aristotle's ten Categories.
    The list given by the schoolmen and generally adopted by modern logicians is based on the original fivefold classification given by 

    Aristotle (Topics, a iv. 101 b 17-25): 
    definition (horos), genus (genos), differentia (diaphora), property (idion), accident (sumbebekos). 

    The scholastic classification, obtained from Boëthius's Latin version of Porphyry's Isagoge, modified Aristotle's by substituting species(eidos) for definition. Both classifications are of universals, concepts or general terms, proper names of course being excluded. There is, however, a radical difference between the two systems. The standpoint of the Aristotelian classification is the predication of one universal concerning another. The Porphyrian, by introducing species, deals with the predication of universals concerning individuals (for species is necessarily predicated of the individual), and thus created difficulties from which the Aristotelian is free (see below).



    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%9E_(%E5%88%86%E9%A1%9E%E5%AD%A6)

    由来 [編集]

    そもそも「属」と「種」は、アリストテレスの論理学に端を発する語である。ある特定の事物を類似により集めたものを「種 (species)」としたとき、それをさらに一般化したものを「類 (genus)」という。例えば「動物は生物の一である」と言ったときは動物が「種」で生物が「類」であり、「昆虫は節足動物の一である」と言うときには昆虫が「種」で節足動物が「類」である。

    2:50 午前  
     yoji said...
    http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kodai/kodai02c2.html


     〈定義〉は、最近〈類 genos〉[定義される種を含むもっとも小さな類]と〈種差 diaphra〉[その類中で、定義される種の他の種とのもっとも大きな違い]、すなわち、〈質料〉と〈形相〉とからなる。たとえば、人間は、[理性ある動物]と定義され、「理性ある」が〈種差〉、「動物」が〈類〉になる。

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  69. 体系 [編集]
    『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。
    デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。これに対して後にヴィーコなどが反論する事となった。
    方法 [編集]
    ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
    明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)
    考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)
    最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)
    何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)

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  70. 教えることが禁じられていたため、デカルトはそれらをラ・フレシュ学院卒業後、ポワティエの大学で学んだ。「理解力のなかにあって、まず、はじめに感覚の中になかったものは何もない」32)これは、アリストテレスからスコラ哲学に受け継がれ格言のように言いならわされている考え方だった。デカルトは、このトマス的伝統から離れてアウグスティヌス的伝統に近づいた。デカルトの目的は、哲学を普遍的な数学にすることであり、すなわちそれは、最も簡単な根本概念から厳密な演繹の方法ですべてのことが解決される学問にするということであった。デカルトは、そのために第一に必要なことは、学問・知識の統一であると考えた。

    たとえて“デカルトの木(哲学の木)”と称されるその木は、根は形而上学(第一哲学)、幹は自然(科)学、三本の枝はそれぞれ中心に道徳、左右に機械学・医学が配置されてある。

    果実、
    機械学・道徳学・医学→哲学へ
    ◯    ◯ ◯ 
     \  / /
      \/ /  枝、諸々のその他の学問
       ll
       ll   幹、自然学
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学


    「機械学」とは、いわゆる機械的技術の知である。今日で言うところのテクノロジー(工学)にあたり、この技術知は自然科学によって支えられている。この言葉が「力学」という意味に用いられるようになったのは、18世紀頃のことである。デカルトやガリレオの少し前までの時代では、技術は職人すなわち下層階級の領分に属する卑しい手仕事であり、自然学あるいは一般に学問は身分の高い人々(特に僧侶)の独占物だった。「自然学」は、世界がいかにあるかを示すものであり、その中で力学的世界観が述べられ、これは今ならば「物理学」と訳される言葉である。デカルトの自然学は、いまだ素朴な形ながら物理学と化学とを含んでおり、それはさらに、生物を一種の機械と見る彼の見解によって生物学に接続されることになる。一方「医学」は、単に身体の健康のためのみならず、精神の健康のためにも必要であるとされていた。また、デカルトにとって「道徳」は、他の学問の完全な認識を前提するものであり、知恵の最終段階であった。機械学によって人間の支配下に置きうる自然の力も、医学によって得られる健康もなお悪用できるものであるため、それらは「道徳」によって正しく導かれなければならない。人は何のために真理を求め(つまり学問をして)、それを通して真の道徳を求めるのか。デカルト

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  71. デカルト哲学[編集]
    体系[編集]
    『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。
    デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。これに対して後にヴィーコなどが反論する事となった。

     果実、
    機械学・道徳学・医学→哲学へ
    ◯  ◯   ◯
     \ l  /
      \ll/  枝、諸々のその他の学問
       ll
       ll   幹、自然学
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学

    方法[編集]
    ものを学ぶためというよりも、教える事に向いていると思われた当時の論理学に替わる方法を求めた。そこで、もっとも単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
    明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れない事。(明証)
    考える問題を出来るだけ小さい部分にわける事。(分析)
    最も単純なものから始めて複雑なものに達する事。(総合)
    何も見落とさなかったか、全てを見直す事。(枚挙 / 吟味)

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  72. “ Thus, all Philosophy is like a tree, of which Metaphysics is the root, Physics the trunk, and all the other sciences the branches that grow out of this trunk, which are reduced to three principal, namely, Medicine, Mechanics, and Ethics. By the science of Morals, I understand the highest and most perfect which, presupposing an entire knowledge of the other sciences, is the last degree of wisdom. ”

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  73. Une dernière difficulté qui a été soulevée contre le système cartésien est que l'on ne comprend pas comment, d'un être absolument parfait sous tous rapports, ont pu naître des êtres finis et donc aussi partiellement imparfaits. Le fond de toute chose est parfait, et cependant l'imperfection subsiste dans ces choses. Pour Descartes, cette objection ne tient pas compte du fait que toute finitude n'est qu'une limitation, une négation : un néant d'être. Il y a là une théodicée implicite : les choses créées sont nécessairement finies, et leur finitude est néanmoins une source de perfection pour le monde si nous le considérons dans son ensemble.
    Les Principes de la philosophie (1644)[modifier | modifier le code]
    Article détaillé : Les Principes de la philosophie.
    Descartes établit une classification des connaissances en comparant la connaissance à un arbre :
    « Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la métaphysique, le tronc est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se réduisent à trois principales, à savoir la médecine, la mécanique et la morale, j’entends la plus haute et la plus parfaite morale, qui, présupposant une entière connaissance des autres sciences, est le dernier degré de la sagesse. Or comme ce n’est pas des racines, ni du tronc des arbres, qu’on cueille les fruits, mais seulement des extrémités de leurs branches, ainsi la principale utilité de la philosophie dépend de celles de ses parties qu’on ne peut apprendre que les dernières. »

    返信削除

  74.  果実、
    医学・機械学・道徳学 →哲学へ
    ◯  ◯   ◯
     \ l  /
      \ll/  枝、諸々のその他の学問
       ll
       ll   幹、自然学
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学

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  75. デカルト哲学[編集]
    体系[編集]
    『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。
    デカルトの哲学体系は人文学系の学問を含まない。これは、『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトが歴史学・文献学に興味を持たず、もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。これに対して後にヴィーコなどが反論する事となった。

    果実、
    医学・機械学・道徳学 →哲学へ
    ◯  ◯   ◯
     \ l  /
      \ll/  枝、諸々のその他の学問
       ll
       ll   幹、自然学
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学


    « Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la métaphysique, le tronc est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se réduisent à trois principales, à savoir la médecine, la mécanique et la morale, j’entends la plus haute et la plus parfaite morale, qui, présupposant une entière connaissance des autres sciences, est le dernier degré de la sagesse. Or comme ce n’est pas des racines, ni du tronc des arbres, qu’on cueille les fruits, mais seulement des extrémités de leurs branches, ainsi la principale utilité de la philosophie dépend de celles de ses parties qu’on ne peut apprendre que les dernières. »

    返信削除
  76. 【哲学の木】
     (『哲学原理』仏訳序文)
     哲学は一本の木にたとえることができる。すなわち、その根は《形而上学》、幹は《自然学》、枝は《機械学》《医学》《道徳》の3つである。木の実がつみとられるのは枝の先からだけであるように、哲学の効用も最後の諸学にかかているのだが、それにはまず根本の形而上学が肝心である。
     《形而上学》は絶対的明証性に基づくものであり、その基礎は、人間精神と神と世界の存在証明にある。このために、デカルトは、まず、《方法的懐疑》によって、人間精神の存在を証明し、ここから、次に、《本体論》《因果説》《連続創造説》の3つによって神の存在を証明し、最後に、《神の誠実》によって、世界の存在を証明するのである。

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  77. http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kinsei/kinsei02c.html

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  78. デカルト哲学

    『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。


    デカルト、哲学の木
    道徳が「知恵の最後の段階」にくるので
    以下でも良い

    果実、
       道徳学
       ◯   機械学 →哲学へ
    医学 l   ◯
     ◯ l  /
      \ll/  枝、諸々のその他の学問
       ll
       ll   幹、自然学
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学

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  79. 中公世界の名著325頁

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  80. デカルト哲学

    『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。


    デカルト、哲学の木
    道徳が「知恵の最後の段階」にくるので
    以下でも良い


    枝、
    諸々のその他の学問

       道徳学
       l   機械学 
    医学 l◯  /
     \ l  /◯果実→哲学へ
     ◯\ll/ 
       ll
       ll   幹、自然学
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学

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  81. デカルト哲学

    『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。


    デカルト、哲学の木
    道徳が「知恵の最後の段階」にくるので
    以下でも良い


    枝、
    諸々のその他の学問

       道徳学
       l   機械学 
    医学 l◯  /
     \ l  /◯       果実→哲学へ
     ◯\ll/ 
       ll
       ll   幹、自然学  第二の部分
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学 第一の部分

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  82. デカルト哲学

    『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。


    デカルト、哲学の木
    道徳が「知恵の最後の段階」にくるので
    以下でも良い


    枝、
    諸々のその他の学問

       道徳学
       l   機械学 
    医学 l◯  /
     \ l  /◯      ◯果実→公衆へ
     ◯\ll/ 
       ll
       ll   幹、自然学  第二の部分
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学 第一の部分


    中公世界の名著325頁


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  83. デカルト哲学

    『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。


    デカルト、哲学の木
    道徳が「知恵の最後の段階」にくるので
    以下でも良い


    枝、諸々のその他の学問  ◯果実→公衆へ

       道徳学
       l   機械学 
    医学 l◯  /
     \ l  /◯      
     ◯\ll/ 
       ll
       ll   幹、自然学  第二の部分
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学 第一の部分

    中公世界の名著325頁


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  84. デカルト哲学

    『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。


    デカルト、哲学の木
    道徳が「知恵の最後の段階」にくるので
    以下でも良い

       道徳学
       l   機械学 
    医学 l◯  /    ◯果実→公衆へ
     \ l  /◯       
     ◯\ll/  枝、諸々のその他の学問  
       ll
       ll   幹、自然学  第二の部分
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学 第一の部分

    中公世界の名著325頁


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  85. この前段に
    日常道徳
    数学を含む論理学がある

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  86. デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
    http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
    (仏訳者への書簡より)
    「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すなわち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

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  87. 『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。


    デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
    http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
    (仏訳者への書簡より)
    「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すなわち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

    デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
    http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
    (仏訳者への書簡より)
    「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すなわち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

    « Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la métaphysique, le tronc est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se réduisent à trois principales, à savoir la médecine, la mécanique et la morale, j’entends la plus haute et la plus parfaite morale, qui, présupposant une entière connaissance des autres sciences, est le dernier degré de la sagesse. Or comme ce n’est pas des racines, ni du tronc des arbres, qu’on cueille les fruits, mais seulement des extrémités de leurs branches, ainsi la principale utilité de la philosophie dépend de celles de ses parties qu’on ne peut apprendre que les dernières. »

    デカルト、哲学の木
    道徳が「知恵の最後の段階」にくるので
    以下でも良い

       道徳学
       l   機械学 
    医学 l◯  /    ◯果実→公衆へ
     \ l  /◯       
     ◯\ll/  枝、諸々のその他の学問  
       ll
       ll   幹、自然学  第二の部分 哲学原理2~4/4
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学 第一の部分
    省察、哲学原理1/4

    中公世界の名著325頁



    この前段の学問に
    日常道徳
    数学を含む論理学がある

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  88. 『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。


    デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
    http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
    (仏訳者への書簡より)
    「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すなわち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

    デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
    http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
    (仏訳者への書簡より)
    「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すなわち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

    « Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la métaphysique, le tronc est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se réduisent à trois principales, à savoir la médecine, la mécanique et la morale, j’entends la plus haute et la plus parfaite morale, qui, présupposant une entière connaissance des autres sciences, est le dernier degré de la sagesse. Or comme ce n’est pas des racines, ni du tronc des arbres, qu’on cueille les fruits, mais seulement des extrémités de leurs branches, ainsi la principale utilité de la philosophie dépend de celles de ses parties qu’on ne peut apprendre que les dernières. »

    デカルト、哲学の木
    道徳が「知恵の最後の段階」にくるので
    以下でも良い

       道徳学
       l   機械学 
    医学 l◯  /    ◯果実→公衆へ
     \ l  /◯       
     ◯\ll/  枝、諸々のその他の学問  
       ll
       ll   幹、自然学  第二の部分 哲学原理2~4/4
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学 第一の部分
                      省察、哲学原理1/4

    中公世界の名著325頁



    この前段の学問に
    日常道徳
    数学を含む論理学がある

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  89. 『哲学の原理』の仏語訳者へあてた手紙の中に示されるように、哲学全体は一本の木に例えられ、根に形而上学、幹に自然学、枝に諸々のその他の学問が当てられ、そこには医学、機械学、道徳という果実が実り、哲学の成果は、枝に実る諸学問から得られる、と考えた。


    デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
    http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
    (仏訳者への書簡より)
    「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すなわち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

    デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
    http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
    (仏訳者への書簡より)
    「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すなわち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

    « Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la métaphysique, le tronc est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se réduisent à trois principales, à savoir la médecine, la mécanique et la morale, j’entends la plus haute et la plus parfaite morale, qui, présupposant une entière connaissance des autres sciences, est le dernier degré de la sagesse. »

    デカルト、哲学の木。
    道徳が「知恵の最後の段階」にくるので、以下でも良い。

       道徳学
       l   機械学 
    医学 l◯  /    ◯果実→公衆へ
     \ l  /◯       
     ◯\ll/  枝、諸々のその他の学問  
       ll
       ll   幹、自然学  第二の部分 哲学原理2~4/4
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学 第一の部分
                      省察、哲学原理1/4

    中公世界の名著325頁

    この前段の学問に、日常道徳、数学を含む論理学がある

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  90. デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
    (窓)http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
    (仏訳者への書簡より)
    「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から
    出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すな
    わち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極
    の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

    ? Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la m?taphysique, le tronc
    est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se
    r?duisent ? trois principales, ? savoir la m?decine, la m?canique et la morale, j’entends la plus
    haute et la plus parfaite morale, qui, pr?supposant une enti?re connaissance des autres sciences,
    est le dernier degr? de la sagesse. ?

    デカルト、哲学の木。
    道徳が「知恵の最後の段階」にくる。

       道徳学
       l   機械学 
    医学 l◯  /    ◯果実→公衆へ
     \ l  /◯       
     ◯\ll/  枝、諸々のその他の学問  
       ll
       ll   幹、自然学  第二の部分 哲学原理2~4/4
    -ーーllーー-
      /\/\  根、形而上学 第一の部分
                      省察、哲学原理1/4

    参考:中公世界の名著325頁
    この前段の学問に、日常道徳、数学を含む論理学がある。
    (窓)http://3f.img.v4.skyrock.net/3215/74513215/pics/3117005059_2_3_tSvffL9U.jpg
    http://real-illusion.skyrock.com/3117005059-L-Arbre-de-Descartes.html

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  91. 「…GH[図]の平方根を出さねばならぬとすれば、それと一直線上に単位であるFGを加え、
    FHを点Kで二等分して、Kを中心とする円FIHを描き、点Gか らFHと直角にIまで立てる。
    GIは求める根である。立方根その他についてはあとで述べる方が都合がいいから、いまは何も
    言わないでおく。」(「幾何学」邦訳『デカルト著作集1』4頁より)

    ___________________


    ただし、このデカルトの説明だけでは初学者にはわからないかもしれない。それは以下の書籍
    で紹介されているユークリッド第二巻の証明が前提になっているのに、その説明が自明なもの
    だとして省略されているからだ。


          D
          |
          x
          |
    A_____B___C
       a     b


    x^2 = ab の幾何学的解法
    AB=a,BC=b として、AC=a+bを直径とする半円を描き、
    Bに垂線を立てて半円との交点をDとすると、BDが求める長さ x
    である。
    このことは △ABDと△DBCとが相似となることから、

      a:x= x : b すなわち x^2=ab

    として証明される。
    ただし『原論』第2巻では、まだ相似の理論が示されていないので、
    この定理も第2巻の定理を使って別の形で証明されている。

    (日本の数学西洋の数学―比較数学史の試み (中公新書 ): 村田全 29頁)


     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。しかし,
    デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分は図3の作図で
    与えられる線分の長さとして考えることができる。
    http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/j-kadaimath/0401/index.htm
    http://2.bp.blogspot.com/-bF5g3ar8GoQ/UHgX-rcXggI/AAAAAAAANgE/44E6RqYIAdU/s1600/zu02.gif


    例:
       √0.25=0.5
        |
    ____|_
      1  0.25



    √4=2
     |
    _|____
    1   4


     こうして,デカルトによってすべての数式は線分の長さとして考えられ,それに代数的演算
    を行ってもまた線分の長さとして与えられることが示された。つま り数式の演算と図形の作図
    とが結びつけられ,数式の演算がそのまま図形の研究に用いられるようになった。このことが
    次の時代のニュートン (1642~1727)の運動力学の研究に用いられ,そのまま現代科学の発展に
    大きく貢献している

    返信削除

  92. 「…GH[図]の平方根を出さねばならぬとすれば、それと一直線上に単位であるFGを加え、
    FHを点Kで二等分して、Kを中心とする円FIHを描き、点Gか らFHと直角にIまで立てる。
    GIは求める根である。立方根その他についてはあとで述べる方が都合がいいから、いまは何も
    言わないでおく。」(「幾何学」邦訳『デカルト著作集1』4頁より)
    ___________________
    ただし、このデカルトの説明だけでは初学者にはわからないかもしれない。それは以下の書籍
    で紹介されているユークリッド第二巻の証明が前提になっているのに、その説明が自明なもの
    だとして省略されているからだ。

          D
          |
          x
          |
    A_____B___C
       a     b

    x^2 = ab の幾何学的解法
    AB=a,BC=b として、AC=a+bを直径とする半円を描き、
    Bに垂線を立てて半円との交点をDとすると、BDが求める長さ x
    である。このことは △ABDと△DBCとが相似となることから、
      a:x= x : b すなわち x^2=ab
    として証明される。ただし『原論』第2巻では、まだ相似の理論が示されていないので、
    この定理も第2巻の定理を使って別の形で証明されている。
    (日本の数学西洋の数学―比較数学史の試み (中公新書 ): 村田全 29頁)

    http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/j-kadaimath/0401/index.htm
     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。しかし,
    デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分は図3の作図で
    与えられる線分の長さとして考えることができる。
    http://2.bp.blogspot.com/-bF5g3ar8GoQ/UHgX-rcXggI/AAAAAAAANgE/44E6RqYIAdU/s1600/zu02.gif
     こうして,デカルトによってすべての数式は線分の長さとして考えられ,それに代数的演算
    を行ってもまた線分の長さとして与えられることが示された。つま り数式の演算と図形の作図
    とが結びつけられ,数式の演算がそのまま図形の研究に用いられるようになった。このことが
    次の時代のニュートン (1642~1727)の運動力学の研究に用いられ,そのまま現代科学の発展に
    大きく貢献している

    返信削除
  93. 「…GH[図]の平方根を出さねばならぬとすれば、それと一直線上に単位であるFGを加え、
    FHを点Kで二等分して、Kを中心とする円FIHを描き、点Gか らFHと直角にIまで立てる。
    GIは求める根である。」(「幾何学」邦訳『デカルト著作集1』4頁より)
    ___________________
    ただし、このデカルトの説明だけでは初学者にはわからないかもしれない。それは以下の書籍
    で紹介されているユークリッド第二巻の証明が前提になっているのに、その説明が自明なもの
    だとして省略されているからだ。

          D
          |
          x
          |
    A_____B___C
       a     b

    x^2 = ab の幾何学的解法
    AB=a,BC=b として、AC=a+bを直径とする半円を描き、Bに垂線を立てて半円との交点をDとすると、BDが求める長さ xである。このことは △ABDと△DBCとが相似となることから、
      a:x= x : b すなわち x^2=ab
    として証明される。ただし『原論』第2巻では、まだ相似の理論が示されていないので、
    この定理も第2巻の定理を使って別の形で証明されている。(日本の数学西洋の数学― 中公新書 : 村田全 29頁)

    (窓)http://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/j-kadaimath/0401/index.htm
     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。しかし,
    デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分は図3の作図で
    与えられる線分の長さとして考えることができる。
    (窓)http://2.bp.blogspot.com/-bF5g3ar8GoQ/UHgX-rcXggI/AAAAAAAANgE/44E6RqYIAdU/s1600/zu02.gif
     こうして,デカルトによってすべての数式は線分の長さとして考えられ,それに代数的演算
    を行ってもまた線分の長さとして与えられることが示された。つま り数式の演算と図形の作図
    とが結びつけられ,数式の演算がそのまま図形の研究に用いられるようになった。このことが
    次の時代のニュートン (1642~1727)の運動力学の研究に用いられ,そのまま現代科学の発展に
    大きく貢献している

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  94. mv 本質 デカルト
      mv2存在 ライプニッツ

    カントが両者調停を試みる

               0 ロック
       0の否定 ライプニッツ

      カントが両者調停を試みる

    ただしそこにスピノザへの誤解と無視があった

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  95. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9E%9C%E4%BD%93

    哲学との関連[編集]

    松果体が内分泌器であることが分かったのは、比較的最近である。脳内の奥深くにある

    ことから、哲学者は松果体には重要な機能があると考えていた。松果体の存在は神秘な

    ものとされ、迷信や形而上的な理論がまといついた。

    デカルトはこの世界には物質と精神という根本的に異なる二つの実体があるとし(現代

    の哲学者たちの間ではこうした考え方は実体二元論と呼ばれている)、その両者が松果

    体を通じて相互作用するとした。デカルトは松果体の研究に時間を費やし[16]、そこを

    「魂のありか」と呼んだ[17]。 松果体が人間の脳の中で左右に分かれていない唯一の器官

    であると信じていたためである。この観察は正確ではない。顕微鏡下では、松果体が2つ

    の大脳半球に分かれているのが観察できる。







    松果体に関するほかの理論としては、流体を

    放出するバルブとして働いているというものがあった。手を頭に当てて思索を行うと、

    そのバルブを開くことができると考えられていた。

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  96. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9E%9C%E4%BD%93

    哲学との関連

    松果体が内分泌器であることが分かったのは、比較的最近である。脳内の奥深くにある
    ことから、哲学者は松果体には重要な機能があると考えていた。松果体の存在は神秘な
    ものとされ、迷信や形而上的な理論がまといついた。
    デカルトはこの世界には物質と精神という根本的に異なる二つの実体があるとし(現代
    の哲学者たちの間ではこうした考え方は実体二元論と呼ばれている)、その両者が松果
    体を通じて相互作用するとした。デカルトは松果体の研究に時間を費やし[16]、そこを
    「魂のありか」と呼んだ[17]。 松果体が人間の脳の中で左右に分かれていない唯一の器官
    であると信じていたためである。この観察は正確ではない。顕微鏡下では、松果体が2つ
    の大脳半球に分かれているのが観察できる。

    16^ Descartes and the Pineal Gland (スタンフォード哲学百科事典)







    松果体に関するほかの理論としては、流体を

    放出するバルブとして働いているというものがあった。手を頭に当てて思索を行うと、

    そのバルブを開くことができると考えられていた。

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  97. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9E%9C%E4%BD%93 松果体

    哲学との関連

    松果体が内分泌器であることが分かったのは、比較的最近である。脳内の奥深くにある
    ことから、哲学者は松果体には重要な機能があると考えていた。松果体の存在は神秘な
    ものとされ、迷信や形而上的な理論がまといついた。
    デカルトはこの世界には物質と精神という根本的に異なる二つの実体があるとし(現代
    の哲学者たちの間ではこうした考え方は実体二元論と呼ばれている)、その両者が松果
    体を通じて相互作用するとした。デカルトは松果体の研究に時間を費やし[16]、そこを
    「魂のありか」と呼んだ[17]。 松果体が人間の脳の中で左右に分かれていない唯一の器官
    であると信じていたためである。この観察は正確ではない。顕微鏡下では、松果体が2つ
    の大脳半球に分かれているのが観察できる。

    16^ Descartes and the Pineal Gland (スタンフォード哲学百科事典)
    17^ Descartes R. Treatise of Man. New York: Prometheus Books; 2003. ISBN 1-59102-090-5

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  98. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9E%9C%E4%BD%93 松果体

    哲学との関連

    松果体が内分泌器であることが分かったのは、比較的最近である。脳内の奥深くにある
    ことから、哲学者は松果体には重要な機能があると考えていた。松果体の存在は神秘な
    ものとされ、迷信や形而上的な理論がまといついた。
    デカルトはこの世界には物質と精神という根本的に異なる二つの実体があるとし(現代
    の哲学者たちの間ではこうした考え方は実体二元論と呼ばれている)、その両者が松果
    体を通じて相互作用するとした。デカルトは松果体の研究に時間を費やし[16]、そこを
    「魂のありか」と呼んだ[17]。 松果体が人間の脳の中で左右に分かれていない唯一の器官
    であると信じていたためである。この観察は正確ではない。顕微鏡下では、松果体が2つ
    の大脳半球に分かれているのが観察できる。

    16^ Descartes and the Pineal Gland (スタンフォード哲学百科事典)
    17^ Descartes R. Treatise of Man. New York: Prometheus Books; 2003. ISBN 1-59102-090-5

    Descartes and the Pineal Gland (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
    http://plato.stanford.edu/entries/pineal-gland/

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  99. >>452
    デカルトは1638年に、メルセンヌあての手紙の中で、当時のガリレオについて、
    「まず、ガリレイの書物について私の意見を申し上げる。 彼は(ガリレイ)は出来る限り
    スコラの誤りをすてさり、自然学(現在の科学全般)の問題を数学的根拠に基づいて究めようと
    努めている。この点では、私は完全に彼と考えは一致している。」とデカルトは記述している。

    デカルトは、「人生に有用であると同時に確証された認識」は、「四つの規則」(方法序説、第二部)
    によって実践したと記述している。 この「四つの規則」とは、
    ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。



    上記の「四つの規則(思考法)」は、“対象”あるいは“問題”に対して、的確な解答(=理論)が創出するまで、
    何回でも繰り返すことが出来る。
    今日の論理実証主義は、「四つの規則」の②~④に当てはまるものであり、デカルトの「①明証的な直観認識」の
    最も重要な規則(思考法)が、抜けているわけである。

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  100. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

      分 析
       |
    直観 |
    ___|_____
       |  枚挙
       |
      総 合

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  101. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

      分 析
       |
    直観 | 演繹
    ___|_____
    演繹 | 枚挙
       |
      総 合

    返信削除
  102. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

       分 析
        |
     直観 |(演繹)
    ____|_____
    (演繹)| 枚挙
        |
       総 合

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  103. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

       分 析
        | 分割
     直観 |(演繹)
    ____|_____
    (演繹)| 枚挙
    体系化 |
       総 合

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  104. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

       分 析
        | 
     直観 | 分割
    ____|_____
    体系化 | 枚挙
        |
       総 合

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  105. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

       分 析
        | 
     直観 | 分割
    ____|_____
     体系化| 枚挙
        |
       総 合

    返信削除

  106. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

       分 析
        | 
     直観 | 分割
    ____|____
     体系化| 枚挙
        |
       総 合

    返信削除

  107. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

         分 析
          | 
       直観 | 分割
    延長____|____思惟
       体系化| 枚挙
          |
         総 合

    返信削除

  108. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

         分 析
          | 
       直観 | 分割
    思惟____|____延長
       体系化| 枚挙
          |
         総 合


    思惟と延長は逆でいい

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  109. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

         分 析
          | 
       直観 | 分割
    思惟____|____延長
       体系化| 枚挙
          |
         総 合


    思惟と延長がカントと逆。

    返信削除

  110. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

         分 析
       ①  | ②
       直観 | 分割
    思惟____|____延長
       体系化| 枚挙
       ③  | ④
         総 合


    思惟と延長がカントと逆。

    返信削除

  111. ①「明証的な直観認識(方法的懐疑を使用する)

    ②「分析的演繹}~出来るだけ多くの小部分に分ける。

    ③「総合的演繹」~論理体系化する。

    ④「総合的枚挙」~帰納法と実証的(実験も含む)検討を総合的に行う。

         分 析
       ①  |  ②
       直観 | 分割
     思____|____延
     惟    |    長
       体系化| 枚挙
       ③  |  ④
         総 合


    思惟と延長がカントと逆。

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  112. 定本トランスクリティーク124~3頁参照

    http://ethan3.tumblr.com/post/1015417412
    『方法序説』。いま読んでもぜんぜん違和感がない。時代や場所が違えば考え方も異なる、とはいえ、時代を場所を超えて普遍的な考えもあるのだなーと改めて 思った次第。多種多様の物語や習慣などに共通するパターンを見出すのが構造主義なら、もしそこにデカルトの関心が向かえば構造主義者になっていたかもしれ ないと思わせるような文章がある。

    (柄谷行人は、『探究Ⅱ』で、『悲しき熱帯』という回想的スタイルが『方法序説』と類似している。レヴィ・ストロースが「あれほど遠くまで探し求 めに行く真理」は、デカルトと同様に、旅や探検が見出す多様性を取り去ったところにある。そして、彼が見出す武器は、デカルトと同じく数学(構造主義)な のである。彼は、多種多様な婚姻形態や神話に対して、そこにいわば普遍的な「理性」が存することを認める。と記している。)

    デカルトが自然に対して数学を用いたのなら、レヴィ・ストロースは、人間の思考や習慣に数学を用いたと言える。

    『方法序説』第二部より

    <(ところで私のことを言えば、もし私がただ一人の先生しかもたなかったならば、あるいはまた偉い学者たちの意見がいつの時代でも種々異なっていたのを知るに至らなかったならば、私は疑いもなく第二の種類の人間(注1)に数えられていたであろう。

    しかし私は、すでに学校時代に、どんな奇妙で信じがたいことでも哲学者の誰かが既に言っているものだ、ということを知った。)また[私は]その後旅に出て、 我々の考えとは全く反対の考えを持つ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、我々と同じくらいにあるいは我々以上 に、理性を用いているのだ、ということを認めた。

    そして同じ精神を持つ同じ人間が、幼時からフランス人またはドイツ人の間で育てられるとき、仮にずっとシナ人や人食い人種の間で生活してきた場合 とは、いかに異なったものになるかを考え、また我々の着物の流行においてさえ、十年前には我々の気に入り、また十年経たぬうちにもう一度我々の気に入ると 思われる同じものが、今は奇妙だ滑稽だと思われることを考えた。

    そして結局のところ、我々に確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもか かわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であることの方がはるかに真実らしく思われるのだから、 そういう真理にとっては賛成者の数の多いことは何ら有効な証明ではないのだ、ということを知った。

    こういう次第で私は、他を置いてこの人の意見をこそ取るべきだと思われる人を選ぶことができず、自分で自分を導くということを、いわば強いられたのである。

    (しかし私は、ただ一人闇の中を歩む者のようにゆっくりと行こう、すべて細心の注意を払おう、と決心した。そしてそうすれば、たとえ少ししか進めなくても、せめて倒れることだけは免れるだろう、と考えた。

    のみならず私は、理性に導かれずに前から私の信念の中へ入り込んでいた意見のどれをも、はじめから一挙に投げ捨てようとは思わなかった。それに先 立ち、まず十分な時間を費やして、自分の企てる仕事の計画を立て、自分の精神が達しうるあらゆる事物の認識に至るための、真の方法を求めようとしたのであ る。 )>

    (注1)他人の意見に従う、謙虚な人間。

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  113. デカルト.Descartes,Rene, ❶J.198.223/❷M.198/❸T.124-151,145(:夢),131(:構造主義の先祖),169,227,
     『省察』,❸T.132@,141,142,
     『方法序説』,❸T.24,126〜,133@,134,140@

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  114. 定本トランスクリティーク32~3頁
    http://yokato41.blogspot.jp/2013/06/blog-post_29.html
    さて前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。しかしながら、いまや私はただ真理の探求のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた。ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私 の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた。(……)

    私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮想しようと決心した。

    しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた、私がこのよう に、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」je pense, donc je suis.というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。(デカルト『方法序説』野田又夫訳)

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  115. 定本トランスクリティーク140頁
    http://blogs.yahoo.co.jp/leic523/34685228.html
    それにつづいて私は、私が疑っているということ、したがって私の存在はあらゆる点で完全なのではないということを反省し、私は私自身より完全ななにものかを考えることをいったいどこから学んだのであるか、を探求することに向かった。そして私は、それが、現実に私より完全であるところのなんらかの存在者から、でなければならぬということを明証的に知った。」(すなわちこの完全なものの観念は、)「私よりも完全でかつ私が考えうるあらゆる完全性をみずからのうちにもつところの存在者、すなわちひとことでいえば、神であるところの存在者によって、私のうちにおかれたものである、というほかはなかった。(デカルト『方法序説』 野田又夫訳)

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  116. 定本トランスクリティーク32~3頁
    http://yokato41.blogspot.jp/2013/06/blog-post_29.html
    (さて前にもいったように、)実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。しかしながら、いまや私はただ真理の探求のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた。ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私 の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた。(……)

    私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮想しようと決心した。

    しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた、私がこのよう に、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」je pense, donc je suis.というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。(デカルト『方法序説』野田又夫訳)

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  117. 定本3:136~7
    http://yokato41.blogspot.jp/2013/06/blog-post_29.html

    《ここで、フッサールは、心理的自我と現象学的(超越論的)自我を分けているだけでなく、その「自我分裂」自体をさらに「傍観者として」見ている自我を指摘している。

    (……)正確にいえば、経験論的自我と、それを超越論的に還元しようとする自我と、それによって超越論的に見出された自我があるというべきなのである。フッサールは、ここで、デカルトが混同した「私は疑う」と「私は考える」の区別、いいかえれば、超越論的還元を行う私(疑う私)と、そのような還元によって見出される超越論的主観の区別を取り戻している。》(『トランスクリティーク』p136)

    ……しかし、《この区別は、フッサールにある深刻なパラドックスをもたらす。世界は超越論的自我によって構成されるが、すべてを疑おうとすることの私は世界に属している》、として次の文が引用される。

    <しかしまさにこの点に困難がある。あらゆる客観性、すなわちおよそ存在するあらゆるものがそこに解消される普遍的相互主観性が人間性以外の何ものでもないことは明らかである。この人間性は疑いもなく、それ自体世界の部分的要素である。世界の部分的要素である人間的主観性が、いかにして全世界を構成することになるのであるか。すなわち、みずからの志向的形成体として全世界を構成することになるのであるか。世界は、志向的に能作しつつある主観性の普遍的結合の、すでに生成し終え、またたえず生成しつつある形成体なのであるが、そのさい、相互に能作しつつある主観そのものが、単に全体的能作の部分的形成体であったよいものであろうか。

    そうなれば、世界の構成部分である主観が、いわば全世界を吞み込むことになるし、それとともに自己自身をも吞み込むことになってしまう。何という背理であろうか。>(フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)137頁


    この後、柄谷行人は、フッサールの他者を「自我の変様態」以上のものではない、フッサールが構成する他者は真に他者的ではない、としつつ自らの他者論を展開するのだが、それはここでは割愛して、カントのアンチノミーが語られる。

    フッサールが指摘したパラドックスは、カントがアンチノミーとして述べたことにすぎない。われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている、と。しかし、このような議論は少しも新しくない。フッサールはその問題に最後に遭遇したが、最初に出会うべきだったのである。つまり、「他なるもの」は、最後に出会うものではなく、超越論的批判そのものをそもそも動機づけているものなのだ。フッサールの現象学は究極的に独我論的であり、そこからの出口はない。P139

    ………


    《われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている》

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  118. フッサール.Husserl,Edmund,❶J.223/❷M.6(『幾何学の起源』),36-8@,127/❸T.134@〜140,135@@,137@/❹A.202 ,
     『デカルト的省察』,❸T.135@@,138@@,
     『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』,❸T.137@

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  119. 定本3:132頁

    それでは私は何であるか。思惟するものである。思 惟するものとほ何か。むろん,疑い,理解し,肯定し,否定し、し,欲しない,また想像もし,そして感覚す るものである。


    省察第二部より

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  120. http://www.historytoday.com/sites/default/files/Descartes-reflex.JPG
    Illustration of the pain pathway in René Descartes' Traite de l'homme (Treatise of Man) 1664.

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  121.  しかし,デカルトは,このa2 は 1:a=a:a2 を意味するだけの数式として考えた。これは図1の作図を通して簡単に長さとして示すことのできるものである。
     同様に,abは二次式として面積を意味するものであったが,デカルトは図2のように 1:a=b:ab によって結びつけられた同じ次元(長さ)を表すものとして考えうることを示した。



    さらに別の説明:



            D
            |
            √a
            |
    A_____O_B___C
        a     1 
            =単位線分


    「平方根√aについては、図3のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
    て描きます。次に、ABの中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、点Bから
    垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、△ABD∽△DBCで
    すから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

    *単位線分とは、長さ1の線分のこと。
    (上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

    はじめて読む数学の歴史 - 上垣渉 - Google ブックス


    a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a

    a/BD = BD /1
    両辺にBDをかける
    となり、BD^2=a と

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  122.  しかし,デカルトは,このa2 は 1:a=a:a2 を意味するだけの数式として考えた。これは図1の作図を通して簡単に長さとして示すことのできるものである。
     同様に,abは二次式として面積を意味するものであったが,デカルトは図2のように 1:a=b:ab によって結びつけられた同じ次元(長さ)を表すものとして考えうることを示した。



    さらに別の説明:



            D
            |
            √a
            |
    A_____O_B___C
        a     1 
            =単位線分


    「平方根√aについては、図3のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
    て描きます。次に、AC?の 中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、点Bから
    垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、△ABD∽△DBCで
    すから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

    *単位線分とは、長さ1の線分のこと。
    (上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

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    a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a

    a/BD = BD /1
    両辺にBDをかける
    と BD^2=a となる

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  123. デカルトによる量の次元の統一=平方根の作図:
     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。
    しかし,デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分
    は下の図の作図で与えられる線分の長さとして考えることができる。


              D
       o      | o
      o       √a  o
              |
      A_____O_B___C
        a       1 
              =単位線分

    「平方根√aについては、図3のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
    て描きます。次に、ACの 中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、
    点Bから垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、
    △ABD∽△DBCですから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

    *単位線分とは、長さ1の線分のこと。
    (上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

    a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a
    a/BD = BD /1
    両辺にBDをかける
    と BD^2=a
    BD=√a

    返信削除
  124. デカルトによる量の次元の統一=平方根の作図:
     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。
    しかし,デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分
    は下の図の作図で与えられる線分の長さとして考えることができる。


              D
       o      | o
      o       √a  o
              |
      A_____O_B___C
        a       1 
              =単位線分

    「平方根√aについては、図のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
    て描きます。次に、ACの 中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、
    点Bから垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、
    △ABD∽△DBCですから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

    *単位線分とは、長さ1の線分のこと。
    (上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

    a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a
    a/BD = BD /1
    両辺にBDをかける
    と BD^2=a
    BD=√a

    返信削除
  125. デカルトによる量の次元の統一=平方根の作図:
     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。
    しかし,デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分
    は下の図の作図で与えられる線分の長さとして考えることができる。


              D
       o      | o
      o       √a  o
              |
      A_____O_B___C
          a     1 
              =単位線分

    「平方根√aについては、図のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
    て描きます。次に、ACの 中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、
    点Bから垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、
    △ABD∽△DBCですから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

    *単位線分とは、長さ1の線分のこと。
    (上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

    a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a
    a/BD = BD /1
    両辺にBDをかける
    と BD^2=a
    BD=√a

    返信削除
  126. デカルトによる量の次元の統一=平方根の作図:
     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。
    しかし,デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分
    は下の図の作図で与えられる線分の長さとして考えることができる。


              D
       o      | o
      o       √a  o
              |
      A_____O_B___C
          a     1 
              =単位線分

    基本形として以下の図を考えるとわかりやすいかも知れない。
            D
       o    |    o
      o     √a     o
            |
      A_____B_____C
        a   O  1 
              =単位線分

            D
           /|\
       o  / | \  o
      o  /  √a  \  o
        /   |   \
      A/____B____\C
        a   O  1 
              =単位線分
    a=√a=1

    「平方根√aについては、図のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
    て描きます。次に、ACの 中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、
    点Bから垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、
    △ABD∽△DBCですから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

    *単位線分とは、長さ1の線分のこと。
    (上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

    a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a
    a/BD = BD /1
    両辺にBDをかける
    と BD^2=a
    BD=√a

    返信削除
  127. デカルトによる量の次元の統一=平方根の作図:
     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。
    しかし,デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分
    は下の図の作図で与えられる線分の長さとして考えることができる。


              D
       o      | o
      o       √a  o
              |
      A_____O_B___C
          a     1 
              =単位線分

    基本形として以下の図を考えるとわかりやすいかも知れない。
            D
       o    |    o
      o     √a     o
            |
      A_____B_____C
        a   O  1 
              =単位線分

           /D\
       o  / | \  o
      o  /  √a  \  o
        /   |   \
      A/____B____\C
        a   O  1 
              =単位線分

         o /D\ o
       o  / | \  o
      o  /  √a  \  o
        /   |   \
      A/____B____\C
        a   O  1 
              =単位線分

    a=√a=1

    「平方根√aについては、図のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
    て描きます。次に、ACの 中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、
    点Bから垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、
    △ABD∽△DBCですから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

    *単位線分とは、長さ1の線分のこと。
    (上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

    a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a
    a/BD = BD /1
    両辺にBDをかける
    と BD^2=a
    BD=√a

    返信削除
  128. デカルトによる量の次元の統一=平方根の作図:
     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。
    しかし,デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分
    は下の図の作図で与えられる線分の長さとして考えることができる。


              D
       o      | o
      o       √a  o
              |
      A_____O_B___C
          a     1 
              =単位線分

    基本形として以下の図を考えるとわかりやすいかも知れない。
            D
       o    |    o
      o     √a     o
            |
      A_____B_____C
        a   O  1 
              =単位線分

           /D\
       o  / | \  o
      o  /  √a  \  o
        /   |   \
      A/____B____\C
        a   O  1 
              =単位線分

         o /D\ o
       o  / | \  o
      o  /  √a  \  o
        /   |   \
      A/____B____\C
        a   O  1 
              =単位線分

    a=√a=1

    「平方根√aについては、図のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
    て描きます。次に、ACの 中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、
    点Bから垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、
    △ABD∽△DBCですから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

    *単位線分とは、長さ1の線分のこと。
    (上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

    a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a
    a/BD = BD /1
    両辺にBDをかける
    と BD^2=a
    BD=√a

    返信削除
  129. デカルトによる量の次元の統一=平方根の作図:
     デカルト以前では,aが線分であると考えると√aは意味を持っていなかった。
    しかし,デカルトにとっては,1とaを表す線分が与えられた場合√aを表す線分
    は下の図の作図で与えられる線分の長さとして考えることができる。


              D
       o      | o
      o       √a  o
              |
      A_____O_B___C
          a     1 
              =単位線分

    以下の図を基本形として考えるとわかりやすいかも知れない。

            D
       o    |    o
      o     √a     o
            |
      A_____B_____C
         a  O  1 
              =単位線分

           /D\
       o  / | \  o
      o  /  √a  \  o
        /   |   \
      A/____B____\C
         a  O  1 
              =単位線分

         o /D\ o
       o  / | \  o
      o  /  √a  \  o
        /   |   \
      A/____B____\C
         a  O  1 
              =単位線分

    a=√a=1

    「平方根√aについては、図のように、線分a(AB)と単位線分*(BC)を一直線にし
    て描きます。次に、ACの 中点Oを中心とし、半径OAの半円を描きます。そして、
    点Bから垂線BDを立てますと線分BDが平方根√aを表すのです。なぜなら、
    △ABD∽△DBCですから、a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a となるからです。」

    *単位線分とは、長さ1の線分のこと。
    (上垣渉『はじめて読む数学の歴史』270頁)

    a: BD = BD : 1 となり、BD^2=a
    a/BD = BD /1
    両辺にBDをかける
    と BD^2=a
    BD=√a

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  130. Bが中心からずれるに従って左右の三角形は同じ角度ずつ形を変えてゆく

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  131. 以下の図を基本形として考えるとわかりやすいかも知れない。

            D
       o    |    o
      o     √a     o
            |
      A_____B_____C
         a  O  1 
              =単位線分

         o /D\ o
       o  / | \  o
      o  /  √a  \  o
        /   |   \
      A/____B____\C
         a  O  1 
              =単位線分

    a=√a=1
    Bが中心からずれるに従って左右の三角形は同じ角度ずつ形を変えてゆく



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  132. 方法序説

    第三部では、著者がこの方法からとりだした道徳の規則のいくつかが示されるであろう。第四部では、著者が神と人間精神との存在を証明するに用いた諸理由、すなわち著者の形而上学の基礎、が示されるであろう。第五部では、著者が探求した自然学の諸問題の順序、および特に心臓の運動と医学に属する他のいくつかの問題との説明、さらにまた、われわれの精神と、動物の精神との間に存する相違、が示されるであろう。最後の第六部では、著者が自然の探求においてさらに前進するために必要だと考えるものはなんであるか、彼に著述をさせた理由は何か、が示されるであろう。

    返信削除
  133. デカルト『哲学原理』(岩波文庫、1964年)
    http://kazumin.de-blog.jp/blog/2011/08/1964_6d4e.html
    http://fr.wikipedia.org/wiki/Th%C3%A9ories_scientifiques_de_Descartes
    (仏訳者への書簡より)
    「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から
    出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、すな
    わち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする究極
    の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(p. 29)

    « Ainsi toute la philosophie est comme un arbre, dont les racines sont la métaphysique, le tronc est la physique et les branches qui sortent de ce tronc sont toutes les autres sciences qui se réduisent à trois principales, à savoir la médecine, la mécanique et la morale, j'entends la plus haute et la plus parfaite morale, qui, présupposant une entière connaissance des autres sciences, est le dernier degré de la sagesse. »

    Les Principes de la philosophie, lettre-préface de l'auteur

    デカルト、哲学の木。
    道徳が「知恵の最後の段階」にくる。

       道徳学③方法序説
       |◯  機械学 
    医学 |   /◯   ◯果実→公衆へ
     \◯|  /        
      \||/  枝、諸々のその他の学問  
       ||
       ||   幹、自然学  第二の部分 哲学原理2~4/4 ⑤⑥
    -ーー||ーー-
      /\/\  根、形而上学 第一の部分        ④
                      省察、哲学原理1/4

    参考:中公世界の名著325頁
    この前段の学問に、日常道徳、数学を含む論理学がある。
    http://3f.img.v4.skyrock.net/3215/74513215/pics/3117005059_2_3_tSvffL9U.jpg
    http://real-illusion.skyrock.com/3117005059-L-Arbre-de-Descartes.html

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  134. 方法序説(序?)

     この序説が長すぎて一気に読みとおせぬようなら、六部に分けてもよい。第一部では、もろもろの学問についてのさまざまな考察が示されるであろう。第二部では、著者が求めた方法の含むおもな規則が示されるであろう。第二部では、著者が求めた方法の含むおもな規則が示されるであろう。第三部では、著者がこの方法からとりだした道徳の規則のいくつかが示されるであろう。第四部では、著者が神と人間精神との存在を証明するに用いた諸理由、すなわち著者の形而上学の基礎、が示されるであろう。第五部では、著者が探求した自然学の諸問題の順序、および特に心臓の運動と医学に属する他のいくつかの問題との説明、さらにまた、われわれの精神と、動物の精神との間に存する相違、が示されるであろう。最後の第六部では、著者が自然の探求においてさらに前進するために必要だと考えるものはなんであるか、彼に著述をさせた理由は何か、が示されるであろう。

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  135. 『方法序説』(ほうほうじょせつ、方法叙説とも、仏: Discours de la méthode)とは、1637年に公刊されたフランスの哲学者、ルネ・デカルトの著書である。

    刊行当時の正式名称は、『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』(仏: Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.)であり、元来は3つの科学論文集を収めた500ページを超える大著だった。今日の『方法序説』として扱われているテキストは、その書籍中の最初の78ページの「序文」部分であり[1]、自身の方法論の発見・確立や刊行に至るまでの経緯を述べている。

    序説と訳されるDiscoursは、Traitéが教科書のように体系的に書かれた論説であるのに対して、形式ばらない論考の意であり、デカルト自身がメルセンヌへの書簡で「方法の試み」であると呼んでいる。哲学的な内容はその後に出版された『省察 Meditationes de prima philosophia』とほぼ重なっているが、『方法序説』は自伝の記述をふくみ、思索の順序を追ってわかりやすく書かれているため、この一冊でデカルト哲学の核心を知ることができる。当時、多くの本がラテン語で書かれることが多い中、ラテン語の教育を受ける可能性が低かった当時の女性や子供たちでも読めるように、フランス語で書かれ、6つの部分に分かれている。

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  136. 著作 編集

    著作を時系列で並べると以下のようになる。

    1618年『音楽提要』Compendium Musicae
    公刊はデカルトの死後(1650年)である。
    1628年『精神指導の規則』Regulae ad directionem ingenii
    未完の著作。デカルトの死後(1651年)公刊される。
    1633年『世界論』Le Monde
    ガリレオと同じく地動説を事実上認める内容を含んでいたため、実際には公刊取り止めとなる。デカルトの死後(1664年)公刊される。
    1637年『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique,Les Météores,La Géométrie)
    試論(屈折光学・気象学・幾何学)を除いて序説単体で読まれるときは、『方法序説』Discours de la méthode と略す。
    1641年『省察』Meditationes de prima philosophia
    1644年『哲学の原理』Principia philosophiae
    1648年『人間論』Traité de l'homme
    公刊はデカルトの死後(1664年)である。
    1649年『情念論』Les passions de l'ame

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  137. 筑摩書房 幾何学 / ルネ・デカルト 著, 原 亨吉 著
    http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480095657/

    シリーズ:ちくま学芸文庫
    定価:本体1,100円+税
    Cコード:0141
    整理番号:テ-6-4
    刊行日: 2013/10/09
    ※発売日は地域・書店によって
    前後する場合があります
    判型:文庫判
    ページ数:240
    ISBN:978-4-480-09565-7
    JANコード:9784480095657
    購入
    著者について1
    著者について2

    ルネ・デカルト
    デカルト,ルネ
    1596〜1650年。フランス、トゥレーヌ州の法服貴族の家に生まれる。イエズス会系のラフレーシ学院でスコラ哲学や数学を、ポアティエ大学で法学と医学を学ぶ。欧州を転々としながら、科学者たちの知己を得、数学や光学の研究に携わる。1628年以降、オランダに移住。『省察』『哲学原理』などの著作を遺し、近代哲学の基礎を築いた。招聘先のストックホルムにて死去。

    省察
    哲学原理
    この著作者の本の一覧をみる

    われ惟う、ゆえにわれあり。―あまりにも有名なこの「方法的懐疑」によってデカルトが企図したのは、何よりもまず数学的言明の確実性を神によって保証させるということであり、彼の哲学は数学と密接な関係にあった。本書『幾何学』は、デカルトの方法の“最重要試論”であり、『方法序説』1637 の本論として発表された。数学者としての顔も併せ持つデカルト像をトータルで把握するための必読図書であるとともに、数式において未知量や係数に記号を使用する「記号代数」を創始した先駆的事例として、数学史上、揺るぎない価値を持つ著作。

    第1巻 円と直線だけを用いて作図しうる問題について
    第2巻 曲線の性質について
    第3巻 立体的またはそれ以上の問題の作図について

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  138. マイナスはデカルト座標の位置を表すにすぎない


        +
        |
        |
    -___|_____+
        |  
        |
        -


    マイナスはデカルト座標の位置を表すにすぎない


        +
        |__
      c | a|
    -___|__|___+
     |b | d
     |__|
        -


    aとbの面積は同じ

    aとbに座標軸を対して対峙する四角形はマイナスの符号がつく

    cとd

    これは新たな太い座標軸が現れたと考えればいい
    +-は常にある

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  139. マイナスはデカルト座標の位置を表すにすぎない


        +
        |
        |
    -___|_____+
        |  
        |
        -


        +
        |__
      c | a|
    -___|__|___+
     |b | d
     |__|
        -


    aとbの面積は同じくプラス

    ただしaとbに座標軸を対して対峙する四角形はマイナスの符号がつく

    cとdだ
    これは新たな太い座標軸が現れたと考えればいい

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  140. まとめ:相似と合同は似てるけど同じじゃない!

    『合同』は全く同じ図形だから、辺の長さまで同じ。 記号は『≡』。 『相似』は似ている図形だから、辺の長さの比が一緒になる。 記号は『∽』。2019/11/30

    https://media.qikeru.me>congruence-similarity
    知っておきたい!相似と合同の3つの違い | Qikeru

    https://www.jyuku-plus.jp>special>knowledge>jyuku
    記号にすると「≡」と「∽」!三角形の「合同」と「相似」の ...

    中学2年生で「合同」を、3年生で「相似」を勉強して、似ている!?と感じた人もいるでしょう。違いを理解できていればいいのですが、もしかすると ...

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  141. 地域通貨花子1
    ⁦‪@TiikituukaHana‬⁩


    【作図】ルートaを作図します!例題で√7の作図も!【初等幾何学】
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    2023/03/31 14:22


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