水曜日, 4月 03, 2013

マルクス:インデックス

                       (マルクスリンク:::::::::

カール・ハインリヒ・マルクス(ドイツ語: Karl Heinrich Marx、1818年5月5日 - 1883年3月14日)

外部リンク:
ブリュメール | ユダヤ人問題
ヘーゲル法批判 | ザスーリチへの手紙
________|__________
資本論     | ゴータ綱領批判
経済学批判要綱| 個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示

大月書店公式サイト、全集版『資本論』目次:
第一巻
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/VolumeContents?id=BK02_23_01
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NAMs出版プロジェクト: 英語版「資本論」の目次
第二巻
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/VolumeContents?id=BK02_24_00
第三巻
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大月書店 マルクス=エンゲルス全集 9  online
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/VolumeContents?id=BK01_11_00
剰余価値学説史 マルクス=エンゲルス全集 26巻1,2,3 :目次
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マルクス著作目録   作成:中山元
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熊野純彦『マルクス 資本論の思考』2013
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the young karl marx 2017 full movie 
ヒルファーディング『金融資本論』1910
グルントリッセ(1857~8)...(+資本論草稿関連)
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『ドイツ・イデオロギー』(1846):
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二重の意味で自由な労働者 Freie Arbeiter in dem Doppelsinn
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NAMs出版プロジェクト: マルクス 1850年9月15日の中央委員会会議、議事録より
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NAMs出版プロジェクト: フランスの内乱 1871
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NAMs出版プロジェクト: マルクスによる協同組合論(1866+1875ゴータ綱領批判):メモ
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マルクス『資本論』:メモ及び目次
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資本論簡易目次
NAMs出版プロジェクト: Liebig ユストゥス・フォン・リービッヒ
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転形問題
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NAMs出版プロジェクト: 日本資本主義論争
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 資本論(量を起点にした図解):メモ
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NAMs出版プロジェクト: バークリと微分積分(マルクス数学手稿)
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NAMs出版プロジェクト: マルクス経済表(付マルクス直筆経済表)
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NAMs出版プロジェクト: 中山元訳『資本論』:目次(第一部のみ、全四冊、日経)、付冒頭翻訳各種
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NAMs出版プロジェクト: 河上肇 貧乏物語:メモ
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wiki/カール・マルクス
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NAMs出版プロジェクト: マルクス『経済学批判』(1859年刊行)序言
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NAMs出版プロジェクト: ヘーゲル左派とシュティルナー
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NAMs出版プロジェクト: 宇野弘蔵『経済原論』131~2頁、再生産表式関連
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宇野弘蔵、またはマルクスとスピノザ
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NAMs出版プロジェクト: 宇野弘蔵と弁証法:メモ
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『経済学原理論 』上下 鈴木鴻一郎 1960,1962
NAMs出版プロジェクト: 産業連関表
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独占・寡占・完全競争、経済学の系統図(サミュエルソン経済学)
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NAMs出版プロジェクト: ピケティ関連:メモ
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NAMs出版プロジェクト: ミクロ・マクロ経済学(クルーグマン/マンキュー/スティグリッツ/サミュエルソン):目次
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NAMs出版プロジェクト: 各種『資本論』翻訳
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川上重人『シェイクスピアは『資本論』のなかでどう描かれたか』(本の泉社)
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NAMs出版プロジェクト: Smith, Adam『国富論』(v+mのドグマへの反論)
http://nam-students.blogspot.jp/2014/06/smith-adam.html

弁証法の優先権(デューリング再考)〜Table of Dühring "Cursus der Philosophie als streng wissenschaftlicher Weltanschauung und Lebensgestaltung"1875
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_3.html
Dühring『ユダヤ人問題』:目次、メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/durhring.html
NAMs出版プロジェクト: マルクス「ザスーリチへの手紙」:メモ
 http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_2.html
NAMs出版プロジェクト: マリリン・ウェアリング Marilyn Waring
http://nam-students.blogspot.jp/2017/02/marilyn-waring.html
NAMs出版プロジェクト: 逃走論 1984,1986(価値形態論)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/02/19841986.html
マルクスの基本定理 The Fundamental Marxian Theorem 松尾匡HPより
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/marxian-theorems.html

大月書店 マルクス=エンゲルス全集 Web版 - 第16巻 - 1864年-1870年
個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示 (要ログイン)
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マルクスによる協同組合論
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サイモン・クズネッツ関連:メモ
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ドゥルーズ:マルクス、フロイト関連(作業中)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/blog-post_3.html
NAMs出版プロジェクト: シスモンディ『経済学新原理』1819
http://nam-students.blogspot.jp/2016/07/1819.html  
NAMs出版プロジェクト: ニコラス・バーボン
http://nam-students.blogspot.jp/2016/07/blog-post_17.html

ラシャートル版は以下、(kindleにはない)
Le capital / par Karl Marx ; traduction de M. J. Roy, entièrement revisée par l'auteur | Gallica
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1232830.r=Capital,+Karl+Marx.langFR

NAMs出版プロジェクト: ゲーテ Epigrammatisch エピグラム風に 警句的 より
http://nam-students.blogspot.jp/2016/07/epigrammatisch.html

資本論フランス語(ラシャトル)版1872、本源的蓄積1:26にはじめて引用されたゲーテの警句、
Notes
[1] Gœthe, irrité de ces billevesées, les raille dans le dialogue suivant :  : 
Le maître d'école : Dis-moi donc d'où la fortune de ton père lui est venue ?
L'enfant : Du grand-père.
Le maître d'école : Et à celui-ci?
L'enfant : Du bisaïeul.
Le maître d'école : Et à ce dernier ?
L'enfant : Il l'a prise. » 
《原注 ゲーテは、こうした子供だましに腹を立てて、次のような対話でそれを嘲弄している。
先生「お父さんの財産はどこから入ったのですか?」
小学生「お祖父さんからです」
先生「お祖父さんのは?」
小学生「ひいお祖父さんからです」
先生「じゃあ、そのひいお祖父さんのは?」
小学生「人から取ったのです(Il l'a prise)」(La 314.1,大月②933ページ、10行目)

ゲーテ『教理問答』ゲーテ全集、コッタ、1850年、第2部、276pからの引用
林直道1975年245頁より
Katechismus?

東京經大學會誌 学術雑誌 164
江夏美千穂 Authorities Quoted in K. Marx "Capital (Vol. I) IX 188~238頁参照

Goethe - Gedichte: Katechisation
http://www.textlog.de/17936.html

Katechisation 



Lehrer
Bedenk, o Kind! woher sind diese Gaben?
Du kannst nichts von dir selber haben.

Kind
Ei! alles hab ich vom Papa.

Lehrer
Und der, woher hat's der?

Kind
Vom Großpapa.

Lehrer
Nicht doch! Woher hat's denn der Großpapa bekommen?

Kind
Der hat's genommen.


Goethe - Links für die Literaturwissenschaft
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~mmandel/recherche/goethe.html
Goethe's sämmtliche Werke ... Stuttgart und Tübingen: Cotta 1850-51. 30 Bde. (Google books via Univ. of Michigan).2:276p
Goethe's sämmtliche Werke: Vollständige, neugeordnete Ausgabe - Johann Wolfgang von Goethe - Google ブックス 276p
https://books.google.co.jp/books?id=brM_gxFQGnQC&pg=PA273&hl=ja&source=gbs_toc_r&cad=4#v=onepage&q&f=false
 Epigrammatisch エピグラム風に 警句的



〈資本論〉入門 デヴィッド・ハーヴェイ Reading Marx's CapitalwithDavidHarvey
http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/blog-post_25.html
『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 ミヒャエル・ハインリッヒ 
http://nam-students.blogspot.jp/2016/05/21-201445-3.html
Capitalism: Competition, Conflict, Crises , Anwar Shaikh (著) 2016 アン ワル・シャイク
http://nam-students.blogspot.jp/2018/01/capitalism-competition-conflict-crises.html



「家族と市民社会は国家の前提であり、それらはもともとアクティヴなものであるが、思弁のなかであべこべにされる」

ヘーゲル法哲学の批判から〔ヘーゲル国法論(第261節-第313節)の批判〕1843年3~8月
(序説ではない)
『マルクス・エンゲルス全集』第1巻:236頁

参考:
https://www.jstage.jst.go.jp/article/studienzuhegel1995/2004/10/2004_10_41/_pdf
49頁
https://matsuyama-u-r.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1353&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1
65頁



http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=C7sSKOgyN8YJ&p=…5E7%25B6%25BF%25E7%25B3%25B8.ppt

1.マルクスの誤算

『共産党宣言』

カール=マルクス・フリードリヒ=エンゲルス『共産党宣言』1848年。
史的唯物論→階級闘争理論による、資本主義社会の崩壊と、社会主義実現のため、労働者階級(プロレタリアート)の団結を呼びかける。
その一節から

ブルジョアジーはすべての生産用具の急速な改善によって、また無限に容易になった交通によって、あらゆる民族を、もっとも未開な諸民族をも、文明に引き入れる。
彼らの商品の安い価格は、中国の城壁をもことごとくうち崩し、未開人の頑固きわまる外国人ぎらいをも降伏させる重砲である。 

時代背景

時代背景:1840年 アヘン戦争
        1842年 南京条約

       開港:上海・広州・福州・厦門・寧波

       香港のイギリスへの割譲

言葉の具体的対象

ブルジョアジー
         =産業革命後のイギリス資本家

彼らの商品の安い価格
         =綿織物

マルクスの予測(1)

中国がイギリスに開港
資本主義工場生産による商品が中国に流入
中国の社会的な動揺
中国における革命
マルクスの予測(2)

中国の革命
中国市場の突然の縮小
イギリスにおける恐慌
資本家への経済的打撃
ヨーロッパにおける革命
マルクスの誤算

アヘンの輸入量は増加するが、イギリスで生産された綿織物製品などは、ほとんど中国に受け入れられなかった。
なぜか?
「ミッチェル報告書」

イギリスの工場で生産された綿布が中国で売れないことの原因を究明するために、イギリス人はさまざまに調査し研究し、報告書が作成された。
「ミッチェル報告書」1852年
原文と訳文:田中正俊『中国近代史研究序説』東京大学出版会、一九七三年。
ミッチェル報告(1)

中国の異なった地方は、それぞれの土壌・気候にしたがって、異なった生産物を産する。
そして、国内の交易は、主としてこれらの生産物の交換によって成り立っている。
北方では綿花を豊富に産し、南方では米・砂糖・果実・薬・染料・茶などを生産する。
ミッチェル報告(2)

福建の農民はかなりの量の砂糖を生産する。……農民は春に最寄りの港でこの砂糖を、天津その他の北方の港へ、南季節風のあいだに船で運ぶ商人に売る。
その商人のジャンクが四ヶ月ないし六ヶ月のちに沿岸航海を終えて帰ってくると、秋に農民は一部は現金で、他は北方産の綿花で、砂糖の代価を受け取る。
ミッチェル報告(3)

秋の収穫が終わると、老若の別なく農家のすべての者が、この綿花を梳き、紡ぎ、そして織るのにかかる。
こうして二、三年の激しい使用に耐える重い丈夫な手織り綿布を、自分たちの衣料として織り、その余剰を町に売りに行く。
ミッチェル報告(4)

町では店舗をもつ商人が、町の住民や河川上の船に住む人々の必要を満たすために、その綿布を買い取る。この国では一○人中九人までが、この手紡織の布地でつくった衣服を着ている。
ミッチェルの結論

ミッチェルは恐らく実際に目にした光景に基づいて、この手紡織の綿布が、イギリス産の薄手の綿布の輸入を妨げていると結論づける。
マルクスの誤解

マルクスは、このミッチェル報告書などを参考にしながら、中国で革命が起きない理由を考えた。
マルクスの結論=中国では農業と家内手工業とが強固に結びついている。
工業が農業から分離しない→
   アジアは停滞してる

海と帝国という枠組みで中国の五百年にわたる歴史を見てきた私たちは、「ミッチェル報告」から中国各地の産業が海を介して多角的かつ緊密に結びついていることを、読みとることができる。これは決して停滞ではない。清朝という枠組みは、二○世紀になるまで崩壊はしない。しかし、その殻の下で中国社会は、脱皮に向けて変化を遂げつつあった。
なぜイギリス綿布が売れないか?

第1の理由
綿花=インドから東西に広がる
西へ向かった品種=繊維が長い(長毛)
      西では細い綿糸→下着・シーツなど

東へ向かった品種=繊維が短い(短毛)
      東では太い綿糸→作業着など

綿糸(番手)

低い番手(10から20番手)=太い綿糸
高い番手(25番手以上)=細い綿糸

なぜイギリス綿布が売れないか?

第2の理由
中国人の交易ネットワークは、中国東北地方から江南、福建へと広がり、さまざまな物産が絡まり合いながら、流通していた。

250 Comments:

Anonymous 匿名 said...

大月書店 マルクス=エンゲルス全集 Web版
全巻一覧/目次
(p)https://maruen.jugemu-tech.co.jp/

9:39 午後  
Blogger yoji said...

http://syunpo.exblog.jp/15227653/
代表制と独裁体制〜『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
●カール・マルクス著『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日[初版]』(植村邦彦訳)/平凡社/2008年9月発行

 読了した者はさほど多くはなかろうが冒頭の文句だけはよく知られているという書物がこの世には少なからず存在する。さしずめ本書もその部類に入るに違いない。

 ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。(p15)

 ナポレオン一世の甥という以外にさしたる特長を備えているわけではない一人の凡庸な政治家がいかに政権を握ったのか。しかもこの独裁権力が国民投票で圧倒的な支持を得たのは何故か。その顛末を分析したのが本論考である。冒頭の有名なフレーズは、ルイ・ボナパルトが軍事クーデタで政権を掌握したのは偉大なる叔父ナポレオン一世の滑稽な二番煎じに過ぎない、という痛烈なアイロニーを表現したものであることはいうまでもない。

 本書は同時代の政変劇を見ながらマルクスが記したジャーナリスティックな文章ではあるが、聖書やシェイクスピアをパロディ化するなどその表現は文学的機知にも富んでいる。当時のフランスの政情だけでなく西洋一般の教養を備えた者でないと本書の面白味を充分に堪能することは難しいだろう。
 その意味では訳者の註解が大いに役立つ。さらに柄谷行人による長文の解説が本書を今日の読者が読むことの意義を説いて実に貴重である。歴史にみえる反復強迫の問題。柄谷の読解はそれをマルクスのテクストから明解に取り出している。柄谷によればマルクスは表象=代表制の本質から反復強迫の問題に迫っており、その点でその後の世界政治の問題を先取りしていた。

 ルイ・ボナパルトの独裁は議会制民主主義がもたらしたものである。身分代表制議会とは異なり普通選挙に基づく議会では「代表するもの」と「代表されるもの」の関係が不鮮明になり、本来的に恣意的にならざるをえない。
 ボナパルトは、いわばすべてを「代表」するものとして権力を握った。そのような権力の掌握のしかたは、代表制民主主義のなかでしか生まれてこない。ヒトラーのナチズムも日本のファシズムも代表制のなかから出現した。

 マルクスは、ボナパルトの政権掌握を、彼自身の観念や政略、人格に帰すことをきっぱりと否定した。われわれは、ボナパルトの勝利のなかに、最初にあらわれた代表制の危機とその想像的止揚を見ることができる。本書が今日の政治世界をも照射しているとすれば、それはひとえにマルクス=柄谷行人のそのような分析と認識に拠るものである。

9:41 午後  
Blogger yoji said...

http://www.asyura2.com/12/senkyo140/msg/572.html

「そもそも国家の大変革というものは、それが二度くりかえされるとき、いわば人びとに正しいものとして公認されるようになるのです。ナポレオンが二度敗北したり、ブルボン家が二度追放されたりしたのも、その例です。最初はたんなる偶然ないし可能性の思えていたことが、くりかえされることによって、たしかな現実となるのです」
(『歴史哲学講義』長谷川宏訳)


 引用したヘーゲルの言葉を受けたとみられる文章をマルクスが書いている。『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の有名な冒頭だ。

「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史な人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として」と。(植村邦彦訳)

9:49 午後  
Blogger yoji said...

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、1973〜95年のモンターニュ派の代わりに1848〜51年のモンターニュ派、小男の伍長と彼の元帥たちの円卓騎士団の代わりに、借金を抱えた中尉たちを手当たり次第にかき集めて引き連れたロンドンの警官!天才のブリューメル18日の代わりに白痴のブリュメール18日!そしてブリュメール18日の第二版が出版された状況も、これと同じ戯画である。一度目はフランスが破産の瀬戸際にあったが、今度はボナパルト自身が債務者拘留所に入る瀬戸際だった。あのときは列強の連合が国境にいたが、――今度はルーゲ=ダラシュの連合がイングランドに、キンケルブレンターノの連合がアメリカにいる。あのときはサン・ベルナール峠を越えなければならなかったが、今度は一個中退の憲兵隊をジュラ山脈を越えて送り込まなければならない。あのときはマレンゴ以上のものを獲得しなければならなかったが、今度はサン・タンドレ大十字勲章を獲得し、『ベルリン国民新聞』の尊敬を集めなければならない。
人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が、悪夢のように生きている者の思考にのしかかっている。そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事に携わっているように見えるちょうどそのとき、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役にたてようとし、その名前の、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとするのである。こうしてルターは使徒パウロに仮装し、1789〜1814年の革命はローマ共和国に扮したりローマ帝国に扮したりし、そして1848年の革命は、せいぜいここでは1789年の、あそこでは1793〜95年の革命的伝統のパロディを演じることしかできなかった。同じように、新しい言語を覚えたばかりの初心者はそれをつねに自分の母語に訳し戻すものだが、訳語を思い出さないでその言語を使えるようになり、それを使う際に先祖伝来の言葉を忘れるようになったときにはじめて、彼はその新しい言語の精神を身につけたのであり、その言語を自由に使いこなすことができるのである。
それらの世界史的な死者の呼び出しをよく見れば、一つの際だった違いがあることがすぐわかる。カミーユ・デムーラン、ダントン、ロベスピエール、サン=ジュスト、ナポレオン、旧フランス革命の英雄たちや諸党派や大衆は、ローマの決まり文句を使って、近代市民社会を解き放ち打ち立てる、という彼らの時代の課題を成し遂げた。すなわち、ある人々は封建的地盤を粉砕し、その上に生えていた封建的な頭を刈り取った。他の一人は、フランス国内では、その中ではじめて自由競争が発展し、分割土地所有が活用され、解き放たれた国民の工業的生産力が利用されることが可能になる諸容態を一掃した。新しい社会構成がいったん打ち立てられると、太古の巨人たちは消え去り、彼らとともに、復活したローマ世界――ブルートゥス、グラックス、プブリコラ、のような人々、護民官たち、元老議員たち、そしてカエサル自身も消え去った。酔いのさめた現実の市民社会は、セー、クーザン、ロワイエ=コラール、パンジャマン・コンスタン、ギゾーといった人々を自分の真の代弁者や通訳とし、この社会の現実の司令官たちはカウンターの後ろに座っており、でっぷりとふとった顔のルイ18世がその政治的首長だった。この社会は、富の再生産や競争という平和な逃走にすっかり熱中してしまい、ローマ時代の幽霊たちが自分のゆりかごを大事に守ってくれたことなど、もはや理解できなくなった。しかし、この市民社会はいまでは現に非英雄的だが、それをこの世に生み出すためにはヒロイズムは、ローマ共和国の古典的に厳格な伝統のうちに理想像と芸術形式を、つまり自己欺瞞を見いだしたのであって、自分たちの逃走の内容が市民的に制限されていることを自分自身に対して隠し、自分たちの情熱を偉大な歴史的悲劇の高みに保っておくためには、そのような自己欺瞞が必要だったのである。発展段階は異なるが、一世紀前にクロムウェルとイングランドの人民もまた同じように、旧約聖書から自分たちの市民革命のための言葉、情熱、幻想を借用した。現実的目標が達成され、イングランド社会の市民的変革が成し遂げられると、ロックがハバククをおしのけることになった。
それらの革命の中で死者を蘇らせたのは、従って新しい闘争を賛美するためであって、昔の闘争のパロディを演じるためではなかった。与えられた課題を空想の中で誇張するためであって、それを現実の中で解決するのを恐れて逃げ出すためではなかった。革命の精神を再発見するため出会って、革命の幽霊を再び出没させるためではなかった。

— カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 - 初版」平凡社ライブラリー

http://dasglasperlenspiel.tumblr.com/post/241511559

9:51 午後  
Blogger yoji said...

http://www.mahoroba.ne.jp/~felix/Humanisphere/Sugita/brumaire-1.html

Location : Home > Humanisphere > Prj. Genpaku > The Eighteenth Brumaire of Loius Napoleon
Title : The Eighteenth Brumaire of Loius Napoleon / The Chapter 1

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
第1章
[Previous] : 序
[Next] : 第2章
[Up] : 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』目次
 ヘーゲルは全ての世界史的な出来事と人物はいわば2度現れるとどこかで言ってた。ただし、こう付け加えるのを忘れてたようだ-1度目は悲劇として、2度目は笑劇として-。*1
 ブリュメール18日のクーデターの二番煎じのドタバタ騒ぎとして、ダントンのかわりにコシディエール、ロベスピエールのかわりにルイ・ブラン、1793年~1795年の山岳党(モンターニュ)のかわりに1848年~1851年の山岳党(モンターニュ)、おじのかわりに甥、という具合。
 人間は自分で自分の歴史を作る。けれども好き勝手にできるわけじゃない。都合がいい環境を選べるわけでもないし、やっぱり、過去からのしがらみってやつで今、目の前の環境のもとでしか作れない。

 もう死んじゃった昔の世代の伝統が、生きてるヤツらの頭にのしかかる。
 まさに革命やろうってその時に、今までなかったものを作り上げようっていうその時だって言うのに、昔の名前とかスローガンだとか衣装だとかせりふだとかを引っ張り出してきて、世界史の新しい場面を乗り切ろうとしちゃうんだ。
 ってなわけで、ルターは使徒パウロの真似をすることになったし、1789年から1814年の革命だってローマ共和国とローマ帝国をかわるがわる真似してた。それに1848年の革命も1789年とか1793年から1795年の革命のパロディだね、こりゃ。
 新しい外国語をお勉強しはじめたら、よく、新しい言葉をいちいち母国語に訳し直して考えちゃうことってあるよね。そんなことしなくなって外国語のままで自由に言いまわしができるようになって初めて外国語をマスターしたって言える。それと同じことさ。

 こんな具合に歴史上の人物を降霊術で呼び戻してきたりって感じで見比べると、今と昔の違いがよーくわかるってもんだ。カミーユ・デムラン、ダントン、ロベスピエール、サン・ジュスト、ナポレオンその他諸々のフランス革命の英雄たちは、ローマ時代の服装してローマ時代の言いまわしをしながら、時代の鎖から解き放ち、近代のブルジョア社会を構築するっていうこの時代の課題に立ち向かった。最初の1人*2は封建性の地盤を破壊し、その上に首を出していた頭を刈っていった。そして残りの4人は、フランス国内では、自由競争が行われ、分割された土地を適切に利用し、自由な国民の生産力を利用できる環境を整えた。また国外ではフランスのブルジョア社会に必要かつ時勢にあった範囲でヨーロッパ大陸の封建的な制度をぶち壊した。

9:54 午後  
Blogger yoji said...

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、1973〜95年のモンターニュ派の代わりに1848〜51年のモンターニュ派、小男の伍長と彼の元帥たちの円卓騎士団の代わりに、借金を抱えた中尉たちを手当たり次第にかき集めて引き連れたロンドンの警官!天才のブリューメル18日の代わりに白痴のブリュメール18日!そしてブリュメール18日の第二版が出版された状況も、これと同じ戯画である。一度目はフランスが破産の瀬戸際にあったが、今度はボナパルト自身が債務者拘留所に入る瀬戸際だった。あのときは列強の連合が国境にいたが、――今度はルーゲ=ダラシュの連合がイングランドに、キンケルブレンターノの連合がアメリカにいる。あのときはサン・ベルナール峠を越えなければならなかったが、今度は一個中退の憲兵隊をジュラ山脈を越えて送り込まなければならない。あのときはマレンゴ以上のものを獲得しなければならなかったが、今度はサン・タンドレ大十字勲章を獲得し、『ベルリン国民新聞』の尊敬を集めなければならない。
人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が、悪夢のように生きている者の思考にのしかかっている。そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事に携わっているように見えるちょうどそのとき、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役にたてようとし、その名前の、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとするのである。

カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」
http://murashit.hateblo.jp/entry/20081030/1225379175

9:56 午後  
Blogger yoji said...


http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/ZurGeschichteJ.html
ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』

 
ハイネ『ドイツ古典哲学の本質 』
――ドイツの宗教と哲学との歴史のために――
伊東 勉訳/岩波文庫(昭和26年11月26日)
原著 Zur Geschichte der Religion und Philosophie in Deitschland
著者 Heinrich Heine

*訳書の旧字体は新字体に、傍点は強調に改めた。
 
    訳者の言葉
    第一版の原著者の序文
    第二版の原著者の序文

    第一巻 宗教改革とマルチン・ルター
    第二巻 ドイツ哲学革命の先駆者。スピノザとレッシング
    第三巻 哲学革命。カント、フィヒテ、シェリング
    訳者註

9:01 午前  
Blogger yoji said...


2013.03.01NEW
マルクス=エンゲルス全集 online スタートしました。

http://www.keiyou.jp/maruen/
Web版『マルクス=エンゲルス全集』は、充実した索引データベースを活かし、探したい箇所をすばやく検索。画像データにダイレクトにアクセス、どの頁も原本と変わらない品質で印刷が可能です。

目次: https://maruen.jugemu-tech.co.jp/

http://www.keiyou.jp/maruen/html/member.html
年間登録料 12,000円

12:17 午前  
Blogger yoji said...


http://www.cpm.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/MEMA/akama_internet2J.html
I
 前号では「インターネットのマルクス・エンゲルス――Marx and Engels Online Library――」と題して,Marx and Engels Online Libraryを紹介した。その後,インターネット上でいくつかのマルクス・エンゲルス関係のサイトを見つけることができたので,本号ではそれについて紹介する。

11:54 午後  
Blogger yoji said...

当サイトの資本論目次は岩波文庫版より

9:00 午前  
Blogger yoji said...

マルクスの方がスピノザの体系に内在する。
その場合、哲学が思惟で、プロレタリアートが延長である。
(ヘーゲル法批判参照)
ヘーゲルの弁証法を唯物論化したと言うが
弁証法そのものが観念論である。
人間が宗教を造ったというが人間は創造主ではない。
不可知論の余地を排除するのが幻想なのだ。
経済決定論をとりつつもやっていることは政治的排他主義である。
マルクスが革命の当事者であったことはない。
そこがプルードンと違う。

8:29 午前  
Blogger yoji said...

マルクス経済表1863年7日6日
全集30巻287頁
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/VolumeContents?id=BK03_30_00
全集30巻291頁
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_30_00&p=339

3:41 午前  
Blogger yoji said...

マルクスを再読するースピノザを媒介にして 的場
http://jshet.net/old/conference/69th/69paper/88matoba.PDF
スピノザとマルクス

マルクスとスピノザを文献学的に検討すれば、それはたぶんマルクスが18 41年学位論文を執筆していた時期に限られる。マルクスは、イエナ大学に提 出した学位論文「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」を執筆中の段 階で、スピノザの二つの作品を読む。その作品とは、ひとつは『神学・政治論 文』、もうひとつは『スピノザ往復書簡集』であった。マルクスは両著から、丁 寧な抜書きを作っていく。しかし、そこにマルクスによる標註はない。スピノ ザの主著とも言える『エチカ』、さらには『国家論』、そして『知性改善論』の ノートもとったのかどうか不明である。

しかし、マルクスとスピノザとの間接的関係はこのノートで終わるのではな い。スピノザの引用はたびたび行われる。とりわけ有名なものは、『経済学批判』 の中に書かれている、「ステュアートは、レッシングの時代にスピノザがモーゼス・ メンデルスゾーンにとって死んだ犬と思われた以上に『死んだ犬』とされたま まであった」(『マルクス・エンゲルス全集』(大月書店)13 巻、143ページ) という表現である。スピノザがマルクスにとっても「死んだ犬」でなかったこ とは、その後マルクスがスピノザをしばしば引用していることでもわかる。

フェルディナント・ラサールへの手紙の中で、「たとえばスピノザの場合でさ え、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」(1858 年 5 月 31 日()前掲書29巻、438ページ)、 と述べている点や、アメリカ在住のアドルフ・クルス宛の手紙で「だがスピノ ザが教えたように、万物を永遠の相のもとで眺めれば、心は休まる」(1852 年7月30日)(前掲書28巻巻、437ページ)と述べている点を見ても、マ ルクスはスピノザの思想、とりわけその方法について深く愛着を持っていたこ とは察しがつく。
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/VolumeContents?id=BK03_29_00
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=484


https://maruen.jugemu-tech.co.jp/VolumeContents?id=BK03_28_00
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_28_00&p=489

3:50 午前  
Blogger yoji said...

スピノザ死んだ犬https://maruen.jugemu-tech.co.jp/VolumeContents?id=BK01_13_00
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK01_13_00&p=176

経済学批判
13・142

3:54 午前  
Blogger yoji said...

フェルディナント・ラサールへの手紙の中で、「たとえばスピノザの場合でさ え、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」(1858 年 5 月 31 日()前掲書29巻、438ページ)、 と述べている
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/VolumeContents?id=BK03_28_00
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_28_00&p=489

3:55 午前  
Blogger yoji said...


マルクスに脱原発の鍵となる自立分散型社会への視座はない。
終生政治的理由により、自立分散型志向のアナキズムを抑圧したからだ。
リービヒ経由で循環型農業の知識はあったとは思うが。

吉本は戦中派の物理学崇拝(物理学科は徴兵を免れ得た)を引き摺っ
ていたが(呆けて回帰しただけかも)、
そもそも原発は原理的にはお湯を沸かして発電するだけで旧式の熱効率の
悪い技術だ。
認識が足りないのである。

また、マルクスの言う「物質的な生活諸条件」は量子力学的なものではない。
マルクスは弁証法を信じているから自らを産んだ諸条件を捨象してしまう。
彼のプルードン批判やデューリング批判がその代表例だ。

7:09 午前  
Blogger yoji said...

橋本努「経済思想」マルクスエンゲルス「ドイツイデオロギー」
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Marx%20German%20Ideology.htm

◆唯物論的歴史観が立脚する諸前提
・われわれが出発する前提は、「現実的な諸個人、かれらの行動、および彼らの物質的な生活諸条件である。」(17)
・「人間は、意識によって、宗教によって、その他お望みのものによって、動物から区別されることができる。人間自身は、かれらがその生活手段を生産——すなわち彼らの身体的組織によって条件づけられている措置——しはじめるや否や、みずからを動物から区別しはじめる。」(17-18)
・生産の様式=「個人の活動のある特定の方法、彼らの生命を表出するある特定の方法、かれらのある特定の生活様式」(18)→「彼らがなんであるかは、彼らの生産と、すなわちかれらが何を生産するのか、また、いかに生産するのかと一致する。したがって、諸個人が何であるかは、かれらの生産の物質的諸条件に依存する。」
・「この生産は、ようやく人口の増加とともにはじまる。人口の増加はそれ自体ふたたび諸個人相互のあいだの交通(Verkehr)を前提とする。この交通の形態は、こんどは生産によって条件づけられている。」
◇生産と交通、分業と所有諸形態=部族的、古代的、封建的(32-)
・部族所有→「古代の共同体所有および国家所有」→「封建的あるいは身分的所有」

◆唯物論的歴史観の本質、社会的存在と社会的意識
・「諸思想、諸観念、意識の生産は、さしあたり直接に、人間の物質的活動と物質的交通という現実生活の言語に編み込まれている。人間の観念作用、思考作用、すなわち精神的交通は、ここではまたかれらの物質的生活態度の直接的な流出として現れる。ある民族の政治、法、道徳、宗教、形而上学などの言語のなかに現れるような精神的生産についても同じことがあてはまる。人間たちはかれらの諸観念、諸思想などの生産者であるが、しかし彼らは、かれらの生産諸力とこれに照応する交通とのある特定の発展よって、交通のはるか先の諸形態に至るまで条件づけられているような、現実的な、活動する人間たちである。」(27)
・「人間たちの頭脳における霧のような[ぼんやりとした]形象も、かれらの物質的な、経験的に確かめうる、かつ物質的諸前提に結びついた生産過程の必然的な昇華物である。こうなると道徳、宗教、形而上学その他のイデオロギーおよびそれらに照応する意識諸形態は、もはや自律性という外観をこれ以上たもてない。それらは歴史をもたない、それらは発展しない。逆に、自分の物質的生産と物質的交通とを発展させる人間たちが、こうした彼らの現実とともに、かれらの思考活動とこの思考活動の所産とをも変革するのである。」(27-28)


7:09 午前  
Blogger yoji said...

基本的なマルクス批判

神田順司

マルクスとユダヤ人問題 (Adobe PDF)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/625/625pdf/kandaju.pdf

…かつてヘーゲル「法哲学」研究に多大な功績を残したイルティンクはマルクスの「ヘーゲル法哲学批判」を評して、マルクスは「ヘーゲルの叙述の政治的意味をほとんど摑むことができなかった」と述べた。マルクスの「ヘーゲル法哲学」に対する唯一正当なこの評価は、しかしながら、この草稿の一面を特徴づけているにすぎない。たしかにマルクスはヘーゲルの『法哲学』を理解できなかった。いや、それどころか彼の「ヘーゲル法哲学批判」のほとんどがヘーゲル『法哲学』の曲解に基づいていると言ってよい。しかし問題は「理解できなかった」ことにあるのではなく、マルクスがヘーゲルに対する無理解あるいは曲解を通して、ヘーゲルがドイツの近代化に向けて体系化した西欧近代の法的政治的諸カテゴリーを「幻想」として、あるいは「妥協」として排除したことにある。こうして人間の恣意や情念の、そして暴力の暴走を阻止するために長きにわたって築かれてきたあらゆる法体系や政治制度が「幻想」として排除され、いまや剥き出しにされた「欲求の体系」が社会や歴史の全面に置かれる。ヘーゲルに対する曲解に基づいたマルクスのこの一面的な「市民社会の発見」が、道徳理論、法理論、国家論そして民族理論の欠如というのちのマルクスのそしてマルクス主義の最大の欠陥に繋がるのである。
 
…マルクスは、すでに彼がユダヤ人問題を摑むには「あまりに抽象的」であると看做していたバウアーの無神論的共和主義的見解 に対して、それが「政治的解放」と「人間的解放」とを混同していると 批判し、ユダヤ人問題の真の解決はその「現世的根拠」を廃棄すること にあるという。だが、マルクスのこの「解決策」は、すでに見たように、 現実のユダヤ人問題の解決とは無関係なものであった。その多くが貧困 層から成るユダヤ人の国民的帰属の求めに対して「ボロ儲けとその諸前 提を廃棄」せよと要求することが、いったい何の解決に繋がるだろうか。 それどころか「欲求の体系」を前提とした彼のこの「解決策」は、ユダ ヤ人問題をその「現世的根拠」に矮小化することによって、「ボロ儲け」 と「カネ」に執着する「守銭奴」ユダヤ人という伝来の偏見を再現する結果になった。このようなマルクスの発言は、のちに彼がみずからを「生 粋のドイツ人」として位置づけ、他方でラサールを、その身体的特徴を捉えて「ユダヤのニグロ」などと侮辱している事実をも考え合わせるな らば、彼がユダヤ人コンプレックスに捉われていたことを十分に示唆し
ている。もちろん彼の人生と著作のほとんどがユダヤ人の「自己嫌悪」 に貫かれていたと見るのは、行き過ぎである。マルクスの「ユダヤ人問 題」をめぐる社会史的思想史的文脈は、すでに見たように複雑であり、 彼の見解を特定の個人や環境の影響に帰することはできない。しかしな がら、こうした歴史的かつ理論的な分析を踏まえてもなお、彼がユダヤ 人コンプレックスを抱えていたことは否定しようのない事実として残 る。マルクスは、みずからの出自や父の改宗について語ることは一度た りともなかった。あるいはハイネやヘスのように、改宗ユダヤ人である ことの、そしてユダヤ人であることの「痛み」を率直に語ることもなかった。マルクスは幼少期に改宗したとはいえ、多くのラビやユダヤ教徒の 親族に囲まれ、ユダヤ人の社会状況を熟知し、かつみずからが徹底した 差別を体験したにもかかわらず、そのようなドイツの差別社会と闘うこ とはなかった。彼はむしろ批判の矛先を同胞に向け、ユダヤ人の解放と は「ボロ儲け」からの解放であると主張した。ちょうどハイネが別の事例について厳しく批判したように、マルクスもまた「自分の出自に気付かれないように、ユダヤ人についてひどい悪口を言って見せた」のである。マルクスの「ユダヤ人問題」は彼自身の「ユダヤ人問題」であった のかもしれない。

11:15 午前  
Blogger yoji said...


20130207トークイベント:メモ
編集 | 削除
20130207トークイベント終了。

キュロス王の二面性、トルコのアジア性、
探究1への言及が感慨深い。

台湾での囲い込み運動説明の話も興味深かった。

だが、想起説の説明はあれでいいのか?
トラクリは勿論、哲学の起源からも一歩進んだわかりやすい説明だったが(精神分析における非対称性との類似)。

さらに、フランスの内乱の引用だけは納得できない。

「彼ら(労働者)は、実現すべき理想を何ももっていない。彼らのなすべきことは、崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものの胎内にはらまれている新しい社会の諸要素を解放することである。」(全集17.320頁)

内在的な革命は当事者しかわからないはずだが、マルクスは常に外部にいて構造を俯瞰する。
また、プルードンの交換銀行が必要だったことは明白なのにマルクスはそれを圧殺する。

//////////

僕の本には書いてないんですけど…
想起ということの問題を改めて考えました。
思い出すというのは、ソクラテス問答法というのは…
相手が思い出すのを助ける
自分は何もしない…精神分析も医者は関係ない
患者が思い出すだけです…後になって理論的にまとめたのは医学用の話で…
そのことを痛む?しかない…

僕はそのことで思うのは、
それは革命の問題もみな同じではないか。
みんながね、どういう理論で、あるいはどういう社会を実現するんですかときくんですよ。
けどねそれは僕はこう答えるんですよ。
それは君たちは知ってるんだ、と。
現にあるんですよ。イソノミアが現代ならどういう社会ですかと聞かれたら、
協同組合ですよと答えます。
自分が経営者で自分が労働者、あるいは共同所有…。支配関係はありません。労働商品ではないから。イソノミア、ノールールです。
協同組合が社会全体であるような社会をマルクスは共産主義と呼んだんですよ。
国家がやってはダメですよ。協同組合が国家にとってかわらなければならないと言っているんです。
マルクスは若いときから言っています‥

「彼ら(労働者)は、実現すべき理想を何ももっていない。彼らのなすべきことは、崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものの胎内にはらまれている新しい社会の諸要素を解放することである。」

解放すべき諸要素はあるんです。それを解放すればいいんです。

要素があるだけで…
それを思い出せばいいだけです。

6:45 午前  
Blogger yoji said...

「人生において調和を求めるなら、生存の戯曲で、私達は俳優でもあるし、
観客でもある事を、どんな時にも忘れてはならぬというあの昔の智慧を
思い起こさせる」
ハイゼンベルクが引用したボーアの言葉
小林秀雄全集別巻2『感想』下169頁


「実際、ここでは私達は、調和を求めるに当って、実生活という偉大なドラマにおいて私達は観客と同時に俳優でもある」
N.ボーア『因果性と相補性』岩波文庫191頁
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/52301.pdf


マルクスは言っていることとやっていることが違う
経済決定論をとなえつつやっていることは政治的なライバルへの中傷
ゴータ綱領批判はいいが具体的なことはやっていないし他人を批判するだけ

二度目が喜劇なんじゃなくて見ようによって変わるのだ
ブリュメールなどは他人事だから喜劇にできる

6:59 午前  
Blogger yoji said...



マルクスは言っていることとやっていることが違う
経済決定論をとなえつつやっていることは政治的なライバルへの中傷、暗躍

ゴータ綱領批判はいいが具体的なことはやっていないし他人を批判するだけ

二度目が喜劇なんじゃなくて見ようによって変わるのだ
ブリュメールなどは他人事だから喜劇にできる

「人生において調和を求めるなら、生存の戯曲で、私達は俳優でもあるし、
観客でもある事を、どんな時にも忘れてはならぬというあの昔の智慧を
思い起こさせる」
ハイゼンベルクが引用したボーアの言葉
小林秀雄全集別巻2『感想』下169頁


「実際、ここでは私達は、調和を求めるに当って、実生活という偉大なドラマにおいて私達は観客と同時に俳優でもある」
N.ボーア『因果性と相補性』岩波文庫191頁
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/52301.pdf

7:00 午前  
Blogger yoji said...



マルクスは言っていることとやっていることが違う
経済決定論をとなえつつやっていることは政治的なライバルへの中傷、暗躍

ゴータ綱領批判はいいが具体的なことはやっていないし他人を批判するだけ

二度目が喜劇なんじゃなくて見ようによって変わるのだ
ブリュメールなどは他人事だから喜劇にできる

「人生において調和を求めるなら、生存の戯曲で、私達は俳優でもあるし、
観客でもある事を、どんな時にも忘れてはならぬというあの昔の智慧を
思い起こさせる」
ハイゼンベルクが引用したボーアの言葉(『因果性と相補性』岩波文庫191頁)
小林秀雄全集別巻2『感想』下169頁より

7:04 午前  
Blogger yoji said...


http://page.freett.com/rionag/marx/thf0.html
[表紙へ]
マルクスのオリジナル版
フォイエルバッハに関するテーゼ

1

これまであったあらゆる唯物論(それにはフォイエルバッハのものも含まれるのだが)の主要な欠点は、事物や現実や感性が客観あるいは観照という形式のもとでだけとらえれていて、人間的な感性的行動、すなわち実践として、主体的にはとらえられていないということである。それで、行動的側面は、唯物論とは対比的に、観念論--それはは自ずと現実の感性的な行動そのものを知り得ないのであるが--から説明されてきた。
フォイエルバッハは感性的な--思考対象から現実に区別された対象を欲したのである。しかし彼は人間的行動自身を客観的な行動としては理解しなかった。それゆえ、彼は「キリスト教の本質」の中で、ただ理論的態度だけを本来の人間的なものとみなし、実践をさもしいユダヤ人的な形態でのみとらえ固定化し続けたのである。したがって、彼は「革命的な」「実践的-批判的な」行動の重要性を理解しなかったのである。

2

人間の思考が客観的な真実に到達できるかどうかという問題は--理論の問題ではなくて、,実践的な問題なのである。実践において、人間は真実、すなわち現実と力を、彼の思考が現世のものであることを証明しなければならない。思考--実践から遊離した--が現実的か非現実的かについての論争は、純粋にスコラ的な問題なのである。

3

環境と教育の変化についての唯物論的学説は、環境が人間によって変えられ、教育者自身が教育されなければならないことを忘れているのだ。それで、この学説は社会を二つの部分--うちの一方を社会の上に超然と高める--に分けざるをえない。
環境の改変と人間の行動あるいは自己変革とが一致することは、革命的な実践としてのみとらえることができ、合理的に理解できるのである。

4

フォイエルバッハは宗教的自己疎外、すなわち呈示された宗教的世界と現世的世界への世界の二重化という事実から出発する。彼の仕事は、宗教的世界をその世俗的基礎へと解消することにある。しかし世俗的基礎がそれ自身から際だって見え、自身を雲のなかに独立した王国として確立するということは、この世俗的基礎の自己分裂と自己矛盾からのみ説明されるべきである。世俗的基礎自身はその矛盾のままに理解され、同時にまた実践的に革命されなければならない。こうして、例えば地上の家族が聖なる家族の秘密として暴かれた後では、今度は前者自身が理論的に、また実践的に破壊されなければならない。

5

フォイエルバッハは抽象的思考には満足せず、直観に訴えかける。しかし彼は感性を実践的な人間的-感性的な行動としてとらえることはなかった。

6

フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それは社会的な諸関係の総体なのである。
フォイエルバッハは、この現実的な本質の批判に携わろうとはせず、それゆえ無理矢理に
1.歴史的経過を捨象し、宗教的心情をそれ自身にたいして固定化し、抽象的な-孤立した-人間的個人を前提とし
2.本質を、単に「類」としてのみ、内的な、無言の、多くの個人をただ自然に結びつける普遍性としてのみとらえることができるのだ。

7

フォイエルバッハは、それゆえ、「宗教的心情」自身が社会的な産物であること、そして彼が分析している抽象的個人が、現実には特定の社会形態に属することを見ない。

8

すべての社会的生活は本質的に実践的なのである。理論を神秘主義に誘い込むあらゆる神秘は、人間的な実践のなかで、そしてこの実践の理解のなかで、合理的に解決されるのである。

9

観照的な唯物論、すなわち感性を実践的行動として理解しない唯物論が到達しうるのは、せいぜい個々の個人と市民社会の直観である。

10

古い唯物論の立脚点は市民社会であり、新しい唯物論の立脚点は人間的社会あるいは社会化された人類なのである。

11

哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を変えることなのである。

7:08 午前  
Blogger yoji said...



マルクスは言っていることとやっていることが違う
経済決定論をとなえつつやっていることは政治的なライバルへの中傷、暗躍

ゴータ綱領批判はいいが具体的なことはやっていないし他人を批判するだけ

二度目が喜劇なんじゃなくて見ようによって変わるのだ
ブリュメールなどは他人事だから喜劇にできる


「哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を
変えることなのである。」

この言葉より以下の言葉の方が深い


「人生において調和を求めるなら、生存の戯曲で、私達は俳優でもあるし、
観客でもある事を、どんな時にも忘れてはならぬというあの昔の智慧を
思い起こさせる」
ハイゼンベルクが引用したボーアの言葉(『因果性と相補性』岩波文庫191頁)
小林秀雄全集別巻2『感想』下169頁より

7:10 午前  
Blogger yoji said...


マルクスは言っていることとやっていることが違う
経済決定論をとなえつつやっていることは政治的なライバルへの中傷、暗躍

ゴータ綱領批判はいいが具体的なことはやっていないし他人を批判するだけ

二度目が喜劇なんじゃなくて見ようによって変わるのだ
ブリュメールなどは他人事だから喜劇にできる


「哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を
変えることなのである。」

この言葉より以下の言葉の方が深い


「人生において調和を求めるなら、生存の戯曲で、私達は俳優でもあるし、
観客でもある事を、どんな時にも忘れてはならぬ…」
ハイゼンベルクが引用したボーアの言葉(『因果性と相補性』岩波文庫191頁)
小林秀雄全集別巻2『感想』下169頁より

7:10 午前  
Blogger yoji said...


http://www2u.biglobe.ne.jp/~ikawag/mystudies.htm
私のグラムシ研究・雑文集
 グラムシ「サバルタン」覚書感想
 上村忠男講演録「グラムシの全体主義について」批判覚書
 『トロツキーとグラムシ』(社会評論社・1999年)批判Vol.1
 『トロツキーとグラムシ』(社会評論社・1999年)批判Vol.2
 『トロツキーとグラムシ』(社会評論社・1999年)批判Vol.3
 「サバルタン再考」

★グラムシ略年譜

 1881年 イタリア・サルデーニャ島生まれ。幼いときの病気で背中に瘤状のものが出来、
       身長も150センチどまり、生涯、さまざまな病気に苦しめられることになる
 1911年 トリーノ大学に進学、言語学を専攻
       当時活発化しつつあった労働運動の影響で社会意識に目覚め、イタリア社会党に
       入党、工場評議会運動を指導する一方、党機関誌の執筆・編集に辣腕をふるう
 1921年 ロシア革命ののちコミンテルンの指導のもと、イタリア共産党の創設に参加
 1922-3年、25年 モスクワでのコミンテルン大会で執行委員に就任、イタリア共産党
         内における指導的な立場を確立
 1924年 国会議員に当選、共産党書記長となる
 1926年 ムッソリーニ・ファシスト政権によって逮捕、獄中生活を余儀なくされる
 1937年 病状の悪化により、出獄を許されるが、病院にて死去、46歳
★グラムシ再評価と現代

  グラムシの死後遺された「ノート」29冊(他に翻訳4冊)は、グラムシの義姉タチャーナ・シュフトの手で散逸を免れ、大戦中はモスクワで保存、戦後イタリア共産党の管理に戻された。
  1947年には、グラムシが獄中から近親者や友人・知人に送った手紙218通がまとめて出版され、イタリア三大文学賞の1つ、ヴィアレッジョ賞を受賞する。そこに込められた豊かな人間味溢れる志操が読む者に深い感動を与え、また文中に展開されている教育観・哲学が注目されたためである。
  翌年1948年から51年にかけて、『獄中ノート』はテーマ別に分けられ、全6巻で刊行された。
  1956年スターリン批判に始まる国際共産主義運動総体の見直しの中で、イタリア共産党による「テーマ別」編纂ではグラムシが意図した真実の姿を伝えていないのではないか、との声が高まり、厳密なテキストクリティークによる校訂版『獄中ノート』(編者の名からジェラルターナ版と呼ばれる)が1975年に刊行された。
  現在ではこの版をもとに、ドイツ語版、フランス語版が刊行され、英語版も刊行中である。
 『獄中ノート』では、「アメリカニズムとフォーディズム」「受動的革命」「歴史的ブロック」「機動戦と陣地戦」「トラスフォルミズモ(変異)」「ヘゲモニー」「実践の哲学」などグラムシ独特のキーワードが散りばめられ、難解な中にも、当時の公認マルクス主義を遙かに超えた優れた知見が散見せられる。
  まず、コミンテルンが資本主義終焉論を唱えていたのに対し、グラムシはアメリカ資本主義の新動向(テイラーシステム導入による生産様式の変化に伴う社会全体の変質)に着目している。後世これが、フォーディズムと呼ばれる資本主義の形態変化を考察する視点となり、ポスト・フォーディズムと言われる現代においても、フランスのレギュラシオン学派などに深い影響を与えている。
  一方彼は大衆文化のもつ力にも着目し、その分析の重要性を指摘した。これは、昨今、英米においてブームの様相を呈しているカルチュラル・スタディーズ(文化研究)の流れに直接間接的な影響となって表れている。
  また、党と大衆と知識人をめぐる独自の論説は、「オリエンタリズム」を唱えたサイードらへの影響が顕著である。
  ポスト冷戦下の現代にあって、マルクス主義系思想家への評価が失墜する一方であるのに対し、唯一その影響力が現代思想(ポスト・モダニズム)の思想家たちにも及ぶ人物として、グラムシへの国際的評価は高まるばかりである。
  彼は現在、世界の人文・社会科学系論文で、最も多く引証されるイタリア人思想家として知られ、本国イタリアでは、そうした情勢を受け、国家版(ナショナル・エディション)「全集」刊行が政府決定された。いまや、文字どおりダンテ、マキアヴェッリ、ヴィーコに並ぶイタリアを代表する大知識人として評価が定まっている。

9:07 午前  
Blogger yoji said...

賃労働者は単なる奴隷ではなく消費者として再生産に加担し
結果的に資本主義の拡大に貢献する
労働者は自らが作ったものを買い戻す
歴史的には自動車の前に鉄道が
鉄道の前に貿易船が投機の対象としてあった


http://members.jcom.home.ne.jp/katote/data23.htm
<マルクスの『資本論』が古典派経済学から区別されるのは、価値形態論に依拠した使用価値
や流通過程の重視であった。なのに、マルクス主義者たちは、剰余価値論がリカード左派のつ
くりだしたものであることを忘れ、それに対するマルクスの批判の意味を汲み取ることができ
なかった。しかし、産業資本の蓄積をうみだす剰余価値は、労働者が作った商品をみずからが
買い戻すという過程においてしか実現しない。>

2:06 午前  
Blogger yoji said...

ブリュメール ユダヤ人問題

資本論    ゴータ綱領批判

10:36 午前  
Blogger yoji said...

ブリュメール ユダヤ人問題
       ザスーリチへの手紙

資本論    ゴータ綱領批判

10:38 午前  
Blogger yoji said...


http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-f127.html
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2011年11月 2日 (水)
美人すぎる革命家ザスーリチ



ロシアの女性革命家ヴェーラ・ザスーリチ(18849-1919)はスモレンスク県の小地主の家に生まれ、モスクワで高等女学校を卒業後、教員免許を取るためにペテルブルクへ赴いた。ナロードニキの運動に参加して、ネチャーエフ事件で逮捕され、投獄・流刑となった。その後キエフにおけるナロードニキの蜂起に参加したのち首都に潜行し、ペテルブルク警視総監を単独で狙撃して逮捕されたが、陪審裁判で無罪となってスイスに亡命した。ブレハーノフらと「黒土分割派」に属したが、スイスに再亡命してからナロードニキと手をきり、ロシア最初のマルクス主義グループ「労働解放団」の創設に加わった(1883)。マルクス、エンゲルスと文通し、彼らとの往復書簡はマルクス主義の重要な文献となっている。レーニンとも親交があって、イスクラ(火花)紙などの編集にもあたったが、ロシア社会民主労働党の分裂後はメンシェヴィキに属してレーニンに反対した。第一次大戦で排外主義者となり、二月革命後はブレハーノフらと反革命派の統一派に所属した。

10:41 午前  
Blogger yoji said...

プルードン  デューリング

カレツキ   プルードン

10:42 午前  
Blogger yoji said...

ブリュメール  l ユダヤ人問題
ヘーゲル法批判 l ザスーリチへの手紙
________l___________
資本論     l ゴータ綱領批判


反措定:

プルードン  デューリング
     十
カレツキ   プルードン

10:57 午前  
Blogger yoji said...


1
M 個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示
第16巻 189ページ
1866年8月末
ジ・インタナショナル・クリア 1867年2月20日 第6号・第7号

11:30 午前  
Blogger yoji said...


http://www.workers-2001.org/maruesensu.htm
31.われわれは、〔生産〕協同組合運動を、階級的敵対にもとづく現在の社会を変革する力のひとつとして認める。この運動の大きな利点は、現在の窮乏、および資本にたいする労働の隷属という専制的体制を、自由で平等な生産者たちの連合〔アソシエーション〕という、共和的で福祉豊かな制度と置き換えることができることを、実践的にしめす点にある。
しかしながら、〔生産〕協同組合制度は、それが個々の賃金奴隷の私的な努力でつくりだせる程度の零細な形態にかぎられるなら、それが資本主義社会を変革することは決してないであろう。社会的生産を、自由な〔生産〕協同組合運動という大規模で調和ある制度に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的諸条件の変化が必要である。この変化は、社会の組織された力すなわち国家権力を資本家と地主の手から生産者の手に移すこと以外には、決して実現されえない。
 われわれは労働者に、〔消費〕協同組合商店を開くよりは、むしろ協同組合的生産の事業をおこすことを勧める。前者は現在の経済制度の表面にタッチするだけだが、後者はこの制度の土台を攻撃するのである。  〔生産〕協同組合がふつうの中間階級的株式会社〔社員株主会社〕に堕落するのを防ぐために、〔生産〕協同組合で働く労働者はすべて株主であろうとなかろうと、同等の利益配分を受けなければならない。たんなる一時的な便法としてならば低い利子を株主に支払うことをわれわれも認めるつもりである。
        「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」

11:39 午前  
Blogger yoji said...


http://www.workers-2001.org/maruesensu.htm 31.

「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」より


(イ)われわれは、〔生産〕協同組合運動を、階級的敵対にもとづく現在の社会を変革する力のひとつとして認める。この運動の大きな利点は、現在の窮乏、および資本にたいする労働の隷属という専制的体制を、自由で平等な生産者たちの連合〔アソシエーション〕という、共和的で福祉豊かな制度と置き換えることができることを、実践的にしめす点にある。
(ロ)しかしながら、〔生産〕協同組合制度は、それが個々の賃金奴隷の私的な努力でつくりだせる程度の零細な形態にかぎられるなら、それが資本主義社会を変革することは決してないであろう。社会的生産を、自由な〔生産〕協同組合運動という大規模で調和ある制度に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的諸条件の変化が必要である。この変化は、社会の組織された力すなわち国家権力を資本家と地主の手から生産者の手に移すこと以外には、決して実現されえない。
(ハ)われわれは労働者に、〔消費〕協同組合商店を開くよりは、むしろ協同組合的生産の事業をおこすことを勧める。前者は現在の経済制度の表面にタッチするだけだが、後者はこの制度の土台を攻撃するのである。  
(ニ)…基金を作ることを勧告する。
(ホ)〔生産〕協同組合がふつうの中間階級的株式会社〔社員株主会社〕に堕落するのを防ぐために、〔生産〕協同組合で働く労働者はすべて株主であろうとなかろうと、同等の利益配分を受けなければならない。たんなる一時的な便法としてならば低い利子を株主に支払うことをわれわれも認めるつもりである。

        「個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示」

参考:
大月全集第16巻 189ページ
1866年8月末
ジ・インタナショナル・クリア 1867年2月20日 第6号・第7号

11:48 午前  
Blogger yoji said...


http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/1033.html

 『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』
五 協同組合運動(労働)
 国際労働者協会の任務は、労働者階級の自然発生的な運動を結合し、普遍化することであって、なんであろうと、空論的な学説を運動に指示したり押しつけたりすることではない。したがって、大会は特殊な協同組合制度を唱道すべきではなく、若干の一般原理を明らかにするだけにとどめるべきである。
 (イ)われわれは、協同組合運動が、階級敵対に基礎をおく現在の社会を改造する諸力のひとつであることを認める。この運動の大きな功績は、資本に対する労働の隷属にもとずく、窮乏を生み出す現在の専制的制度を、自由で平等な生産者の連合社会という、福祉をもたらす共和的制度とおきかえることが可能だということを、実地に証明する点にある。
 (ロ)しかし、協同組合制度が、個々の賃金奴隷の個人的な努力によってつくりだされる程度の零細な形態に限られるかぎり、それは資本主義社会を改造することは決してできないであろう。社会的生産を自由な協同組合労働の巨大な、調和ある一体系に転化するためには、全般的な社会的変化、社会の全般的条件の変化が必要である。この変化は、社会の組織された力、すなわち国家権力を、資本家と地主の手から生産者自身の手に移す以外の方法では、決して実現することはできない。
 (ハ)われわれは労働者に、協同組合商店よりは、むしろ協同組合生産にたずさわることを勧める。前者は現在の経済制度の表面にふれるだけであるが、後者はこの制度の土台を攻撃するのである。
 (ニ)われわれは、実例と教導との双方によって、言いかえれば、新しい協同組合工場の設立を促進することと、また説明し説教することの双方によって、協同組合の原理を宣伝するために、すべての協同組合がその協同収入の一部をさいて基金を作ることを勧告する。
 (ホ)協同組合がふつうの中間的株式会社(societes par actions)に堕落するのを防ぐため、協同組合に働くすべての労働者は、株主であってもなくても、平等の分けまえを受け取らなければならない。たんに一時的な便法として、低い率の利子を株主に支払うことには、われわれも同意する。

11:51 午前  
Blogger yoji said...


http://plaza.rakuten.co.jp/yojiseki/diary/200406010000/
 マルクスがロシアの農村共同体(ミール)に期待を寄せた証拠とされる手紙を紹介します。
定本『トランスクリティーク』の274,488頁でも言及されています。マルクスが、よりその共同体に対する期待を示した記述のある第一草稿はこちらから英語で読めます。

http://www.marxists.org/archive/marx/works/1881/03/zasulich1.htm


「ヴェ・イ・ザスーリチへの手紙」 
              一入八一年三月八日
              ロンドン、北西区、メートランド・パーク・ロード四一番 

 親愛な市民。
 一〇年このかた周期的に私をおそってくる神経病に妨げられて、私は、二月一六日付のあなたの手紙にたいして、もっと早くご返事をさしあげることができませんでした。あなたが私にご提出になった問題について、公表を予定した手みじかな説明をお送りすることができないのは残念です。私はすでに数カ月まえに、この同じ論題について論文を書くことをサンクト-ペテルブルク委員会に約束したのでした。しかしながら、私の学説と言われるものにかんする誤解についていっさいの疑念をあなたから一掃するには、数行で足りるだろうと、思われます。
 資本主義的生産の創生を分析するにあたって、私は次のように言いました。
「資本主義制度の根本には、それゆえ、生産者と生産手段との根底的な分離が存在する。……この発展全体の基礎は、耕作者の収奪である。これが根底的に遂行されたのは、まだイギリスにおいてだけである。……だが、西ヨーロッパの他のすべての国も、これと同一の運動を経過する。」
 (『資本論』フランス語版、三一五ページ)
 だから、この運動の「歴史的宿命性」ほ、西ヨーロッパ諸国に明示的に限定されているのです。このように限定した理由は、第三二章の次の一節のなかに示されています。
 「自己労働にもとづく私的所有……は、やがて、他人の労働の搾取にもとづく、賃金制度にもとづく資本主義的私的所有によってとって代わられるであろう。」(前掲書、三四一ページ)
 こういうしだいで、この西ヨーロッパの運動においては、私的所有の一つの形態から私的所有の他の一つの形態への転化が問題となっているのです。これに反して、ロシアの農民にあっては、彼らの共同所有を私的所有に転化させるということが問題なのでしょう。
 こういうわけで、『資本論』に示されている分析は、農村共同体の生命力についての賛否いずれの議論にたいしても、論拠を提供してはいません。しかしながら、私はこの問題について特殊研究をおこない、しかもその素材を原資料のなかに求めたのですが、その結果として、次のことを叫確信するようになりました。すなわち、この共同体はロシアにおける社会的再生の拠点であるが、それがそのようなものとして機能しうるためには、まずはじめに、あらゆる側面からこの共同体におそいかかっている有害な諸影響を除去すること、ついで自然発生的発展の正常な諸条件をこの共同体に確保することが必要であろう、と。
                親愛な市民よ、あなたの忠実な
                              カール・マルクス

『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』第一巻一九二四年にはじめて発表手稿によるフランス語の原文から翻訳(平田清明訳)

            『マルクス=エンゲルス全集』第19巻p238-239大月書店より




12:04 午後  
Blogger yoji said...


http://www.workersliberty.org/system/files/fscache/CE/01/CE01FB54
“A spectre is haunting Europe — the spectre of communism”

This is most likely to have come from an article by Wilhelm Schulz in the Rotteck and Welcker encyclopaedia (1846), which began: “For the last few years there has been talk about communism in Germany, and it has now become a menacing spectre, of which some take fright and which others use to inspire fright”.

A similar expression is in an anonymous brochure, Der Pauperismus und die Volksschule (1847): “there is a growling of the thunder of discontent with the status quo, and... the flashing lightening illumines the pale spectre of communism”. In an influential book, Socialism and Communism in France (1842) Lorenz Stein referred to “communism, a dark, menacing spectre, in whose reality nobody wants to believe, and whose existence however everyone acknowledges and fears.” (Draper 1994 pp.204-205)

4:08 午前  
Blogger yoji said...

Gespenst

Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreichs
http://books.google.co.jp/books/about/Sozialismus_und_Kommunismus_des_heutigen.html?id=cb1HAQAAIAAJ&redir_esc=y

4:11 午前  
Blogger yoji said...

Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreichs - Lorenz von Stein - Google ブックス
http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=cb1HAQAAIAAJ&q=Gespenst#search_anchor

4:16 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた



http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5


★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらしたといってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。

ヘーゲルからどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義批判はシュティルナーのようなアナキスト的な批判では無いが同じ問題を
はらんでいたのではないだろうか

7:11 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5


ヘーゲルからどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義批判はシュティルナーのようなアナキスト的な批判では無いが同じ問題を
はらんでいたのではないだろうか

7:13 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5


ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスト的な批判とは比べられないが同じ問題を
はらんでいたのではないだろうか

7:14 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがあります

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5


ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスト的な批判とは比べられないが同じ問題を

7:24 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがあります

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5


ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスト的な批判とは比べられないが同じ問題(個人でありつつ連帯は可能か)を孕んでいるのだろう

ただマルクスの共産党宣言はそこまで深いテクストではない

7:29 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがあります

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5


ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスト的な批判とは比べられないが同じ問題(個人でありつつ連帯は可能か)を喚起するだろう

ただマルクスの共産党宣言はそこまで深いテクストではない

7:30 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがあります

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題(個人でありつつ連帯は可能か)を喚起するだろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない

7:32 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題(個人でありつつ連帯は可能か)を喚起するだろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない

7:33 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題(個人でありつつ連帯は可能か)を喚起するだろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない

7:33 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(個人でありつつ連帯は可能か)を喚起するだろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない

7:33 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた


参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(個人でありつつ連帯は可能か)を否が応にも喚起するだろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない

7:35 午前  
Blogger yoji said...


シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(個人でありつつ連帯は可能か)を否が応にも喚起するだろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない
(プルードンとの往復書簡でマルクスの暴力革命志向が批判されている)

7:37 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html

廣松のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(個人でありつつ連帯は可能か)を否が応にも喚起しただろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない
(プルードンとの往復書簡でマルクスの暴力革命志向が批判されている。個人でありつつ連帯は可能かという問題を真摯に考えたのはプルードンだ
その後の共産主義国家による粛清はマルクス哲学に内在する欠点に起因すると思う)

7:40 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html
廣松渉版のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(個人でありつつ連帯は可能か)を否が応にも喚起しただろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない(プルードンとの往復書簡でマルクスの暴力革命志向が批判されている。個人でありつつ連帯は可能かという問
題を真摯に考えたのはプルードンだ
その後の共産主義国家による粛清はプルードンが批判したようなマルクス哲学に内在する欠点に起因すると思う)

7:43 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html
廣松渉版のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(個人でありつつ連帯は可能か)を否が応にも喚起しただろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない(プルードンとの往復書簡でマルクスの暴力革命志向が批判されている。個人でありつつ連帯は可能かという問題を真摯に考えたのはプルードンだ
その後の共産主義国家による粛清はプルードンが批判したようなマルクス哲学に内在する欠点に起因すると思う)

7:43 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html
廣松渉版のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた
(柄谷行人が指摘するように固有名の問題は所有の問題と重なる)

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(個人でありつつ連帯は可能か)を否が応にも喚起しただろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない(プルードンとの往復書簡でマルクスの暴力革命志向が批判されている。個人でありつつ連帯は可能かという問題を真摯に考えたのはプルードンだ。その後の共産主義国家による粛清はプルードンが批判したようなマルクス哲学に内在する欠点に起因すると思う)

7:45 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html
廣松渉版のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた
(柄谷行人が指摘するように固有名の問題は所有の問題と重なる)

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(個人でありつつ連帯は可能か)を否が応にも喚起しただろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない
(プルードンとの往復書簡でマルクスの暴力革命志向が批判されている。個人でありつつ連帯は可能かという問題を真摯に考えたのは
プルードンだ。その後の共産主義国家による粛清はプルードンが批判したようなマルクス哲学に内在する欠点に起因すると思う)

7:47 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html
廣松渉版のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた
(柄谷行人が指摘するように固有名の問題は所有の問題と重なる)

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(個人でありつつ連帯は可能か)を否が応にも喚起しただろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない
(プルードンとの往復書簡でマルクスの暴力革命志向が批判されている。個人でありつつ連帯は可能かという問題を真摯に考えたのはプルードンだ。その後の共産主義国家による粛清はプルードンが批判したようなマルクス哲学に内在する
欠点に起因すると思う)

7:48 午前  
Blogger yoji said...

シュティルナーからマルクス経由、デリダに連なる幽霊学みたいなものがある

参考:
http://www.office-ebara.org/modules/weblog/print.php?blog_id=197
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/n_essay03.html
廣松渉版のドイデではここら辺がまるまるカットされてしまったが、、、

シュティルナーは人間一般といった類をGespenst幽霊にすぎないとして馬鹿にし、個人主義をとなえた
(柄谷行人が指摘するように固有名の問題は所有の問題と重なる)

参考:
http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5

ヘーゲルの言うような類からどう脱するかという問題は当時は切実だったと思う
国家が手に負えなくなって行く時代だからだ

当時の国家による共産主義弾圧はシュティルナーのようなアナキスム的な批判とは比べられないが同じ問題
(=個人でありつつ連帯は可能か)を否が応にも喚起しただろう

ただマルクスの階級闘争という解答が込められた共産党宣言はそこまで深いテクストではない
(プルードンとの往復書簡でマルクスの暴力革命志向が批判されている。個人でありつつ連帯は可能かという問題を真摯に考えたのはプルードンだ。その後の共産主義国家による粛清はプルードンが批判したようなマルクス哲学に内在する
欠点に起因すると思う)

7:49 午前  
Blogger yoji said...


http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/fc75f353783eeb6dabaf17254bff6bb5




★ 実際には、マルクスが青年ヘーゲル派の「問題意識」から抜け出るにあたって、シュティルナーによる批判が決定的に働いたことは明らかである。実は、それこそがマルクスに「認識論的切断」をもたらしたといってよい。マルクスは『フォイエルバッハに関するテーゼ』において、「人間とは社会的諸関係の総体である」と書いた。この「人間」とは、シュティルナーが幽霊と呼んだ「類」にほかならない。その批判に応じるかのように、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』において、つぎのようにいう。《われわれがそこから出発する諸前提は、――現実的諸個人であり、彼らの行為と彼らの物質的生活諸条件である》。

★ 今や、マルクスは現実の諸個人、ただし、社会諸関係の中におかれた諸個人から出発する。たとえば、われわれは、各自、さまざまな社会関係、つまり、生産関係だけでなく、ジェンダー、家族、エスニック、民族、国家その他の関係の次元におかれている。しかも、それらは時に、相互に矛盾するものである。私の「本質」、すなわち、「――であるところのもの」は、それらの関係によって規定される。私の本質なるものは、そのような社会的諸関係の総体であるというほかはない。しかし、「人間」(本質)という想像的な観念は、そのような諸関係を消去してしまう。

★ 一方、同時に、私は、それらの関係によって想定された「本質」とは別の「実存」である。私の実存は、なんら積極的な内容を「所有」しないという意味で「無」である。しかし、それこそが、こうした所与の諸関係に異議を唱えることを可能にする。シュティルナーがいう「唯一者」とはそれである。

★ 重要なのは、シュティルナーがあらゆる諸関係を括弧に入れて「この私」の絶対性を取り出したように、マルクスがいかなる意志、あるいは観念――とりわけ人間という観念――によっても消すことのできない関係の絶対性を取り出したということである。マルクスはその認識を『資本論』において貫いている。すなわち、諸個人を関係項に置かれた者としてのみ見る徹底的な視点(自然史的立場)において。

<柄谷行人;『トランスクリティーク』>

11:55 午後  
Blogger yoji said...


http://y-ok.com/philosophy/philosophy-3/contents-3.html
しかし自然科学の成果によれば、地球も太陽系も、約46億年前宇宙空間のガスや塵が集まって出来たものだと言うことが分かっています。宇宙そのものも約146億年前、量子論的「無」から誕生したことが分かっています。
地球も当初生物はいなかったが、今から見れば地獄のような原始地球環境の海の中で、長い化学進化の末、高分子化合物の中から一個の自己複製分子(最初の生物)が生まれ、それが生物進化の法則に従って進化・増殖し、現在の人間にまで繋がっています。
地球上のあらゆる生物、ヒトもナメクジもチューリップも納豆菌も全て、元々はたった一つの先祖から枝分かれして出来て来たと言うことが、遺伝子DNAの研究で分かっています。

進化の過程で、光合成細菌シアノバクテリアが大繁茂し酸素を作リました。
酸素は海中の鉄イオンを酸化し沈殿させます。オーストラリアのハーマスレーなど、現在の鉄資源は全てその時代の産物です。
地球の酸素、オゾン層も全て地球の歴史の中で、生物が作ったものです。石炭、石油もかっての樹木や動物の化石、遺骸ですよね。

プレートテクトニクスで海底も移動し、大陸さえも動いて衝突したり、離れたりしています。ヒマラヤはインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突して盛り上ったものです。
チョモランマ(エベレスト)の海抜8000メートルを横切るイエローバンドは、もろく崩れやすい為、登頂最後の難関とされていますが、これは海底の生物堆積物が作った石灰岩の地層です。
チョモランマに限らず、地球上の石灰岩、ひいては鍾乳洞、中国桂林の絶景などは全て生物が作ったと言えます。
自然の風景だけでは有りません。セメントの主材料は石灰岩です。都市の景観も又、過去の生物が作っているのだ、と言えるでしょう。

約600?700万年前に、チンパンジーの仲間と枝分かれした人間が、道具を作り、労働によって自然を開拓してきました。
そしてごく最近の、およそ100年くらいの経済活動によって、オゾン層が破壊され、大気の構成さえも変化し、地球環境が大きく破壊されようとしています。
良かれ悪しかれ、この地球は自然と、その一部である生物との合作なのです。

マルクスは『資本論』第一版の序文で、「「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える、私の立場」と述べていますが、今書店を覗くと、人間の歴史を146億年前の宇宙の誕生とその進化の中に位置づけて説明している書籍が目につきます。マルクスの言う「.........私の立場」に立った叙述だと言えるでしょう。

6:47 午前  
Blogger yoji said...

マルクスの唯物論は外部に唯心論を措定し批判しないと自分の立場を確定出来ない。
スピノザのような内在的な思惟と延長の対応がない。

幽霊を信じる人への唯物論的な揶揄はしたがって自らの欠点に反転し得る。

6:48 午前  
Blogger yoji said...

資本論序文1


http://www.dialektische.net/home/K-H-Marx/-zi-ben-lun-3

『資本論』 ~ ひょっとしたら誤解される
Zur Vermeidung möglicher Mißverständnisse ein Wort. Die Gestalten von Kapitalist und Grundeigentümer zeichne ich keineswegs in rosigem Licht. Aber es handelt sich hier um die Personen nur, soweit sie die Personifikation ökonomischer Kategorien sind, Träger von bestimmten Klassenverhältnissen und Interessen. Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag.


 ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いてはいない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、どの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。

7:34 午後  
Blogger yoji said...


   カエサル主義は、ローマ人のあいだでは貴族にたいする平民の勝利と、生活手段の保証としての世界の征服
  が結びついたときに可能になった。……ローマの平民の消費と皇帝の安全のために諸国を組織的に強奪するこ
  と、これこそカエサル主義である。……だが今日では事情が全くちがう。われわれは征服地を失った……、外
  国からは一サンチームも引きだせない。ブルジョアジー、資本家、地主たちにたいして勝利をおさめるために、
  勤勉で自由な中間階級を服従させ、下層民によって支配するために、彼征服国からえた戦利品で下層民を養う
  ことはもはや問題外である。下層民に彼ら自身の生産物で生活させること、一言で言えば彼らを労働させるこ
  とが問題なのである。(『一二月二日のク—デタによって証明された社会革命』La Révolution Sociale démontrée
  par le coup d'État du Deux Décembre, Marcel Rivière, p.294)

 プルードンはルイ・ナポレオンのクーデタを論じた書物(一八五二年)のなかで右のように記している。マルクス
と異なったやり方ではあるがプルードンもまた古代ローマと現代の社会的歴史的条件のちがいを説いて、労働者階
級の問題を、二月革命の新しい重要なスローガンであった「労働の権利」の文脈のなかで提起すると同時に、ボナ
パルトの政権がたどるであろう帝国主義的な政策にあらかじめ警告を与えている。現代のカエサル本義は歴史的必
然によって社会主義に導かれざるをえない、というのがプルードンのテーゼであった。プルードンは「カエサル主
義かアナルシズムか」という形で選択をせまっているのである。

(西川長夫『フランス近代とボナパルティズム』131-132頁)

10:43 午後  
Blogger yoji said...


    ……この時点のマルクスにとって、第一帝政と第三帝政は「悲劇」と「茶番」、真実態とパロディーのち
がいはあるが、いずれにせよ帝政という一つの歴史的な制度の初めと終りなのである。さらにつけ加えれば、悲劇
あるいは真実態としての帝政はその茶番とパロディーが現われることによって歴史から抹殺される。「皇帝のマン
トがついにルイ・ボナパルトの肩にかかるとき、ナポレオンの銅像はヴァンドームの円柱のてっぺんからころげお
ちるであろう」という末尾の言葉が意味しているのは、このことであろう。ボナパルティズムのこのような把捉の
仕方が必ずしも全面的に正しくないことは、後にマルクス自身も認めざるをえないところであるが、しかしマルク
スにとっては帝政全体あるいは帝政そのものが問題であるという点では変らないのである。

10:54 午後  
Blogger yoji said...

Amazon.co.jp: 無資源国の経済学―新しい経済学入門 (岩波全書セレクション): 森嶋 通夫: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4000219006/
5つ星のうち 5.0 息詰まる論争の書 2013/5/25
By okmasamichi
形式:単行本
 本書は、森嶋氏のリカード、ワルラス、マルクス、ケインズなどの研究をバックボーンとして、主流派経済学とは全く異なる筋立てで書かれた論争の書であり、現実の経済を観察して首尾一貫した論理に基づき、経済学の再構成を試みたものである。経済学は「人民たちが物質生活を営んで行く上で何らかの困難に直面している場合には、それらをどうしたら取除くことができるかを究明する」ものであるとする明確な問題意識の下に、森嶋氏は理論を構築していく。
 分析の対象となる経済社会モデルは、農産物・鉱産物は輸入に頼り、その国の産業は製造工業主体の、日本やイギリスのような近代工業社会とする。そのうえで、農産物・鉱産物の価格は取引所に代表される競売買により決定され、製造工業製品(資本財と消費財)の価格はフル・コスト原則により、コストに一定のマークアップ率を乗じて得られる価格とマークアップ率の引き下げ競争によって、決定されるとみなされる。
 この近代工業社会には、労働者と企業者と金利生活者が暮らし、法人として企業、銀行(市中銀行と中央銀行)と政府、そして最後に為替安定基金と外国により、経済が成り立ち、企業は消費財産業と資本財産業に区分され、経済連関表が示される。この経済連関表を主軸として、消費財、資本財、債券、預金、外国為替及び貨幣の超過需要価値額の合計はゼロであるとする「ワルラスの法則」を導き出し、実物財の超過需要(供給)は金融財の超過供給(需要)となることが示される。こうしたお膳立てをしたうえで、失業問題に焦点をあて、近代工業社会は資本が完全操業し、失業がない状態に至る自動調節機能を持つかが分析されていく。
 この近代工業社会においては、供給量が硬直的ではなく生産量は需要に合わせて伸縮的であり、且つ価格は固定的である。このように供給量を需要水準に適応させる決定方式は、「有効需要の原理」と呼ばれる。この「有効需要」とは、所得に依存する消費部分を含めた全需要であって、この有効需要のうち産出量と独立している金利生活者の利子所得、投資、輸出入、政府支出を「外生需要」として区分を行い、失業の問題に論を進める。失業の形態は、資本不足の故に生じる産業予備軍(マルクス型)、資本は十分に存在するが有効需要が十分でないために発生する失業(ケインズ型)、賃金が高いことによって賃金調整の過程で生じる過渡的現象とみなされる失業(古典型)に分類される。
 近代工業社会は明らかに資本の蓄積が進んだ社会であり、文字通り「外生需要」には自動調節機能はなく、そこで実質賃金の調節により失業が解消するのか、古典派の議論の検証が行われる。古典派の議論は、利潤極大化の企業行動に基づき、労働の限界生産力が実質賃金(w/p)に等しい点で労働力の投下が停止するから、実質賃金が更に低下すれば完全雇用に至るとする。この物価水準pは、古典派によれば貨幣数量説の方程式によって決定され、貨幣存在量と流通速度を一定とすれば、生産物総需要量は物価水準pの減少関数、生産物総供給量は賃金wを一定とすればpの増加関数であり、この交点により物価水準と産出量が決定される。この交点において失業が存在するならば賃金wが下落し、需給がシフトして失業が吸収されるのである。しかしながら、この考え方の前提には、流通速度一定等があり、利子率の変更が流通速度に影響を与えるから、全てを実質賃金の伸縮性に任せて自動調節機能があるとすることはできない。そこで、古典派はフィリップス曲線を利用してフル・コスト型の賃金上昇(下落)率の公式を接ぎ木し、フリードマン流の「自然失業率」という考え方を導き出す。この公式は実質賃金の関数である失業率と物価上昇(下落)期待率の双方によって決定されるとし、ここから逆に失業率は賃金上昇(下落)率と物価上昇(下落)期待率の関数として表現され、この関数に従って実質賃金上昇(下落)率が調整され、完全雇用が実現する実質賃金に収斂していくと考える。しかしながら、ここでは貨幣数量説に基づく需給一致の交点で物価水準と産出量が決定されるとする世界は抜け落ちてしまう。こうして古典派の企業は限界生産力に到達するまで、総需要量を考慮することなく生産を続ける「絵に描いた餅で満腹しようとするのと同じ類の愚行」を演じるとされる。賃金wの低下と物価水準pの失業率に与える影響は、むしろ次のように論ぜられる。即ち、失業と共に賃金が引き下げられるならば、賃金下落率以下での軽度の物価水準の下落が生じ、労働者の実質購買力が減少して消費財の売れ行きが不振となり、消費財産業の生産縮小をもたらす。これにより失業は増大する。従って、「われわれは『賃金が下方に伸縮的であっても必ずしも完全雇用が実現するとは限らない』というケインズの結論を承認しなければならない」と。
 こうして近代工業社会には、ワルラス均衡に向けた自動調節機能が存在せず、外生需要としての政府の役割が重要となる。「政府は国民のなかに今なお消えずに残っている勤勉の気風を保存、育成するために、完全雇用ーないしはそれに出来るだけ近い状態ーを実現すべく可能な限りの手を打たねばならない」とされ、議論は財政政策と金融政策に移行する。
 財政政策では、資本財に対する政府支出増と減税による消費促進による有効需要増加の効果の比較が行われる。財政均衡の観点からは、政府支出の増においては増税が、減税においては政府支出の削減が求められ、これらも考慮した分析がなされる。これは、サッチャー政権当時の言い方に倣えば、「大きな政府」か「小さな政府」いずれが雇用、従って国民にとって有益であるかを論じたものと言える。近代工業社会においては、資本財を通じた消費財に対する波及効果により、必要な場合には増税によって資本財の政府支出を増加させ、失業を減少させることが可能である。その反面、減税と政府支出削減の組み合わせは、消費財の有効需要は一時的に増えるものの、政府支出の削減が資本財に向けられた場合、その波及効果は逆転して減税効果を上回り、失業を増大させることとなる。こうして現代の政治家は選挙民に対して減税の甘言を弄することなく、必要ならば増税を訴えねばならない。サッチャー政権などが採用した大幅減税と政府支出の削減を組み合わせた政策は、「明瞭なデフレ政策である」とされる。「小さな政府」「コンクリートから人へ」をスローガンとした我が国の歴代政権を、森嶋氏はどのうように評価するであろうか。
 最後に金融政策が論ぜられる。金融は乗数的な信用創造の機能を備え、この創造された信用にちょうど見合うだけの投資量が存在することは保証されていない。仮に債券の超過供給額と同額の公開市場操作を行っても、信用創造の機能を通じて、その額以上の信用が創造される。従って、中央銀行が微調整を行っても債券利回りは上下に変動し、マークアップ率を通じて生産物価格に影響を与えて、インフレないしはデフレを発生させる。
 いずれをも引き起こさない信用創造率は「自然信用創造率」、金融の各部門が均衡している利子率は「自然利子率」と呼ばれ、これらを巡って公開市場操作、貸出政策などが実施される。中央銀行は自然利子率を上回る利子率の上昇に対応して貨幣創造ないしは貸出政策により民間銀行を通じて債券の超過供給を吸収することでマークアップ率の引き上げによるインフレを回避する。しかしながら、民間の非銀行部門に流出した貨幣は将来的に消費財の有効需要を増大させて消費財価格の上昇につながることとなる。他方、為替安定基金が、自国通貨安によるインフレ対策として、自国通貨買い・外国通貨売りを通じて、民間非銀行部門の貨幣量を減少させることは、将来的なデフレを先送りしていることとなる。両者の政策の将来的効果は逆であり、森嶋氏の含意は、政府(為替安定基金)と中央銀行の協調により、将来的な政策の影響を相殺することが可能ということであろうか。更に、価格騰貴により人々が消費を抑制する「強制貯蓄」(ウィクセル)について、それが賃金の上昇か利子率の上昇のいずれによるかによって、労働者と企業者に与える影響が異なることが示される。その含意は、消費の有効需要を維持するため、中央銀行は利子率の上昇によるインフレを極力回避し、労働者の有効需要を確保する運用を行うべきとして、本書は論を終える。
 管見ではあるが、本書は出版されてから30年以上が経過しているにもかかわらず、取り上げられている問題はいずれも現在的であって、上記以外にも価格理論をはじめとして啓発される視点が多く含まれている。通説を並べただけの教科書とは全くことなり、「入門」の副題は不適切であると思う。論争の渦に巻き込まれ、そのなかで問題意識を研ぎすませ鮮明にし、更には深めることができる、刮目すべき論争の書であった。
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3:00 午前  
Blogger yoji said...

アリギによる歴史の要約。

M-T-M'   資本-領土-資本'

領土主義と資本主義とは二律背反するが、交互発展してきたとも言える。

国家独占資本主義の代表的モデルは ヴェネツィア
世界金融資本主義 の代表的モデルはジェノヴァ

9:52 午前  
Blogger yoji said...

蛇口をひねる前に二段になった水の流れの下段部分を整備しなければ
その下まで水は行かない
地域再投資法が必要なのに政治家は上段しか知らないから何もしない
                       
                      p1  追加的不変資本Mc
                    _産業利潤_追加的可変資本Mv
 _____             |      個人的消費Mk
|第1部門 |           P|_利子z__単利__|
|機械と原料|          利潤|      複利  |
|_____|           /|_地代r__差額地代|
                 /        絶対地代|
 不変資本C 可変資本V 剰余価値M 生産物W       |
       _____\____  /          |
          /  \    /           |
 ____    /  労賃\  /    _産業利潤_  |
|第2部門|  /      \/    |      | |
|生活手段| /       /\ 利潤_|_利子___| |
|____ /   労賃__/__\ / |      | |  
     /    /  /   \\  |_地代___| |
    /    /  /    /\\        | |
 不変資本  可変資本/ 剰余価値  生産物______/_/  
          /        /   
 ____    /        / 
|第3部門|  /        /              
|総生産物| /        /          
|____|/        /          
 ____/ _______/__                      
 不変資本  可変資本  剰余価値  生産物

(p)(窓)http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/35/78/3663578/12.jpg
(邦訳 (p)(窓)http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/35/78/3663578/13.gif )
170 6/20(木)11:03 P↓
  ↑
マルクス経済表(AAは部門の1と2を逆にしたものだが『資本論』再生産表式の順番とは同じ)

7:04 午後  
Blogger yoji said...


>201
疎外という概念に興味があれば岩波文庫
ヘーゲルに興味があれば光文社
ドイツイデオロギー(第3巻)と一緒に読むなら大月全集

以下、大月書店版全集版第40巻online目次より

1844年の経済学・哲学手稿385

序言387
第1手稿390
 労賃390
 資本の利潤402
 1 資本402
 2 資本の利得403
 3 資本の労働にたいする支配と資本家の動機406
 4 諸資本の蓄積と資本家間の競争407
 地代417
 疎外された労働430
第2手稿443
 私的所有のあり方443
第3手稿450
 私的所有と労働450
 私的所有と共産主義454
 必要,生産および分業468
 金484
 ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判~512

9:56 午前  
Blogger yoji said...


>201
疎外という概念に興味があれば岩波文庫
ヘーゲルに興味があれば光文社
ドイツイデオロギー(第3巻)と一緒に読むなら大月全集

以下、大月書店全集第40巻online目次より

1844年の経済学・哲学手稿385

序言387
第1手稿390
 労賃390
 資本の利潤402
 1 資本402
 2 資本の利得403
 3 資本の労働にたいする支配と資本家の動機406
 4 諸資本の蓄積と資本家間の競争407
 地代417
 疎外された労働430
第2手稿443
 私的所有のあり方443
第3手稿450
 私的所有と労働450
 私的所有と共産主義454
 必要,生産および分業468
 金484
 ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判~512

9:57 午前  
Blogger yoji said...

横レス失礼します。とりあえず資本論入門関連で、

小学生にはこれ、理論劇画 マルクス資本論: 門井 文雄, 紙屋 高雪, 石川 康宏: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4780302579
単純にドラマチックだから

中学生には、いまこそ『資本論』 (朝日新書): 嶋 祟: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/402273230X
この種の本は大概第一巻だけだがこれは全三巻をまとめているから

高校生には、超訳『資本論』 (祥伝社新書 111): 的場 昭弘: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4396111118/
読みやすく、原著と並行して読むのにいい
(本来のターゲットはビジネスマン向け)

大学生には、トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫): 柄谷 行人: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4006002335/
転形問題に決着をつけているから

社会人には、 『資本論』第2・3巻を読む〈上〉: 宮川 彰: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4761706139/
経済表に珍しく言及しているから

研究者(志向)には、大月書店 マルクス=エンゲルス全集 online
http://www.keiyou.jp/maruen/
年内には資本論のテキストデータが提供されるはずだから

3:10 午後  
Blogger yoji said...


[2]:sage:13/10/08 16:34
哲学 / カール・マルクス 4 [削除]
それまでの唯心論は、社会科学には適用できたが自然科学には適用できなかった。社会が弁証法的に退化している
ことの判明により、自然科学にも唯心論が適用できるようになった。またこれにより、それまでの動的唯心論が静的唯
心論へと純化された。

1:03 午前  
Blogger yoji said...

…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋
化によって要請される政策目標設定との「同時並行性」を指摘するのであるが,
この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身
によって述懐されていることは,十分に注意されてよい。 宇野自身によるその説
明がない以上,その真意は測りかねるが,たとえばアルチュセールによれば,
「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。
これは並行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実
現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に対して,知性(精神)からの
制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」
の名で知られるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されていると
いうことでもない。精神が身体と「ともに」思考するということであり,一方の
他方に対する優越を禁じているのである。 この関係は,国家と資本とのあいだに
おいても想定可能である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離され
えないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本と「ともに」思考
する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を
展開するのである。国家という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本
の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という「身体」と「と
もに」,あるいは資本という「身体」 に「おいて」 しか思考できない。 こうした
理解を示すかのように,宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と
身体との関係になぞらえるのである(宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476)。
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」大黒弘慈

1:26 午前  
Blogger yoji said...

…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋
化によって要請される政策目標設定との「同時並行性」を指摘するのであるが,
この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身
によって述懐されていることは,十分に注意されてよい。 宇野自身によるその説
明がない以上,その真意は測りかねるが,たとえばアルチュセールによれば,
「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。
これは並行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実
現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に対して,知性(精神)からの
制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」
の名で知られるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されていると
いうことでもない。精神が身体と「ともに」思考するということであり,一方の
他方に対する優越を禁じているのである。 この関係は,国家と資本とのあいだに
おいても想定可能である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離され
えないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本と「ともに」思考
する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を
展開するのである。国家という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本
の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という「身体」と「と
もに」,あるいは資本という「身体」 に「おいて」 しか思考できない。 こうした
理解を示すかのように,宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と
身体との関係になぞらえるのである(宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出
版局1973]:476)。
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」大黒弘慈

1:28 午前  
Blogger yoji said...


マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えたが
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)、マルクスの体系こそスピノザに従属するのである。

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を
形成れば、ただちに受動の感情でなくなる」(エチカ第5部定理3)
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完してあげる必要
はないのである。

6:14 午前  
Blogger yoji said...


マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えたが
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)、マルクスの体系こそスピノザに従属するのである。

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を
形成れば、ただちに受動の感情でなくなる」(エチカ第5部定理3)
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。

6:15 午前  
Blogger yoji said...


マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えたが
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)、マルクスの体系こそスピノザに従属するのである。

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成
するや否や、受動であることを止める」(エチカ第5部定理3)
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。


6:17 午前  
Blogger yoji said...

マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えたが
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)、マルクスの体系こそスピノザに従属するのである。

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成
するや否や、受動であることを止める」(エチカ第5部定理3)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。

6:19 午前  
Blogger yoji said...

マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えたが
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成
するや否や、受動であることを止める」(エチカ第5部定理3)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。

6:22 午前  
Blogger yoji said...

マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)。
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成
するや否や、受動であることを止める」(エチカ第5部定理3)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。

6:23 午前  
Blogger yoji said...

マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)。
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486
(会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成
するや否や、受動であることを止める」(エチカ第5部定理3)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。

リカード経済学を呑み込みつつも租税を無視した点や、プルードン批判の
非合理性も、マルクスの持つ無意識に原因の一つがあるのは精神分析的に
明白だ。

6:30 午前  
Blogger yoji said...

マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)。
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486
(会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成
するや否や、受動であることを止める」(エチカ第5部定理3)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。

リカード経済学を呑み込みつつも租税を無視した点や、プルードン批判の
非合理性も、マルクスの持つ無意識に原因の一つがあるのは精神分析的に
明白だ。
ユダヤ的出自を隠蔽したことと、影響された元ネタの排除はパラレルだ。

6:32 午前  
Blogger yoji said...

マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた
(「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
大月全集29巻、438頁)。
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486
(会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。

マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。

ドゥルーズも精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成
するや否や、受動であることを止める」(エチカ第5部定理3)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に
置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。

リカード経済学を呑み込みつつも租税を無視した点や、プルードン批判の
非合理性も、マルクスの持つ無意識に原因の一つがあるのは精神分析的に
明白だ。
ユダヤ的出自を隠蔽したことと、影響された元ネタの排除もパラレルだ。

6:33 午前  
Blogger yoji said...

問題は、フッサール現象学におけるフレーゲのような存在がマルクス主義及びマルクス経済学に
はいなかった、ということだと思う。

宇野弘蔵(&その後継者としての柄谷行人)やカレツキ(=近代経済学との唯一の架け橋)の考察は
今でも重要だとは思うが…

「最後の鐘が鳴る」などというのはプルードン主義者から見たら神秘主義でしかない。

ヘーゲルやハイデガーが神秘主義に半部浸かりながらも偉そうにできたのは、切り札としてのギリシア哲学を知っていたから。
(ちなみにハイデガーはヘーゲルの時間概念を通俗的だと批判しながらも、隠れギリシア哲学史
たる「精神現象学」を受け継いでいる…)
そしてこの場合、マルクス主義者にとっての「ギリシア」(=切り札)が「(ヘーゲル)弁証法」なのだ。

4:11 午前  
Blogger yoji said...


このスレで初めてマルクスを擁護するが、、、、

一応マルクスは、スミスやリカードやミルやリービッヒ(農学)等、当時の学問
の研究成果を念頭に入れている。

特にケネーやリカードやプルードンを剽窃した経済学は当時の学問を総合した
成果と言っていい。

マルクスは批判しながらパクるのがうまいのだ。
後世の人は批判だけを読むから、例えばデューリング(エンゲルスはこの人を
批判しつつその体系性をパクった)のように抹殺される。

その辺のメカニズム(精神分析的なそれ)を頭に入れて読むとマルクスの
テクストは面白くなる。

逆に言うとそこがわからないと読む意味がない。

6:16 午前  
Blogger yoji said...


大麻と覚せい剤。
有機物と化学合成物質。

この違いが重要だ。
(純粋主義的全面禁止は両者の違いを隠蔽してしまう。)

これらは、科学的にも流通経済的にも単純再生産と拡大再生産の違いに対応する。

アメリカで医療用の大麻が使用されるように、大麻は解禁されるべきだろう。
一方ケミカルな薬剤は規制されるべきだ(一般人ではコントロール出来ない)。
花田清輝が、単純再生産=ユートピアとみなしたのは正しい。

9:27 午前  
Blogger yoji said...







(p)http://honfleur.sakura.ne.jp/bbs/bbslog/200210.txt
2002年10月27日02時13分
柄谷行人『可能なるコミュニズム』より

田畑稔(『マルクスとアソシエーション』)によれば、『資本論』第三巻の草稿
で、マルクスは次のように書いた。
《資本制的生産諸部門の内部では、(部門間の)均衡は不均衡から脱する不断の
プロセスとしてしか自分をあらわさない。というのは、そこでは、生産の(総社
会的)関連は盲目的法則として生産当事者たちに作用し、彼らがアソシエイディ
ドな悟性として、その関連を彼らの共同のコントロールのもとに服属させていな
いからだ。》
マルクスがいう「アソシエートされた悟性」は奇異に聞こえる。しかし、それ
は、ハーバーマスが理性をコミュニケーションによる公共的合意において捉えな
おそうとしたことと比較するとき、理解できるし、もっと含蓄に富んでいる。と
ころで、田畑稔は、エンゲルスが第三巻を編集するとき、マルクスの原文を次の
ように書き換えたことを指摘している。
《資本制的生産諸部門の内部では、個々の生産部門の均衡は不均衡から脱する不
断のプロセスとしてしか自分をあらわさない。というのは、そこでは、総生産の
関連は盲目的法則として生産当事者たちの上に自分を強制し、彼らのアソシエイ
ディドな悟性によって把握されそれによって支配された法則として、生産過程を
彼らの共同のコントロールのもとに服属させていないからだ。(『資本論』第三
巻3-15-3)》
これはほとんど犯罪的な改稿である。エンゲルスは「客観的法則の認識による支
配=自由」と見なしている。ここでは、「アソシエートされた悟性」はヘーゲル
的な理性にほかならない。それは党=国家官僚=理性が経済過程をコントロール
するという考えに導かれざるをえない。そして、コミュニズム=国家集権主義と
いう考えは、根本的にエンゲルスに由来するのである。マルクスは「アソシエー
トされた悟性」が一挙に成立するなどとは考えなかった。《労働の奴隷制の経済
的条件を、自由で連合した(associated)労働の諸条件によって取り替えること
は、時間を要する漸進的な仕事でしかありえない》(『フランスの内乱』)。

7:25 午前  
Blogger yoji said...

341 2/1(土)23:53 P↓
相対的剰余価値の増大には、技術革新以上に、集合力が多く関わる。
この集合力の肯定的側面を見ないと、仮に共産党が政権を取ったとしても
何もできないということになりかねない。
相対的云々というマルクスの命名自体に問題がある気もするが、集合力は社会の根源に関わる
ということを忘れてはならない。
搾取とは労働者が集合力で得た価値を消費者として買い戻し損ねているということだからだ。
こうした掲示板も集合知、集合力の賜物だ。

6:55 午前  
Blogger yoji said...

確かにマルクスはヘーゲルの弁証法を引きずってはいるが、
それは彼の政治思想においてであって、資本論では違う。
資本論のキーワードは二重性であって、これは弁証法とは認識
の前提においてズレる。
商品の二重性、労働の二重性は、弁証法という思考パターン
には収まらない現実観察を要求している。

8:21 午後  
Blogger yoji said...

弁証法のアウフヘーベンの論理に対して、
アウフヘーベンを拒絶する系列の論理がある

前者はヘーゲル、マルクス、後者はプルードン、ドゥルーズなど

単純な結合労働力を発揮するにしても、個人が捨象されるべきではない
後者のアナーキズムが見直されるべき所以だ

また、マルクスの価値形態論にしても後者による読み替えが可能なはずだ

4:21 午前  
Blogger yoji said...

全集1,206
TCIp.249
http://yokato41.blogspot.jp/2013/11/blog-post_5250.html
国家の状態を研究する場合には、人はややもすると、諸関係の客観的本性を見のがして、すべてを行為する諸個人の意思から説明しようとする。だが、民間人の行為や個々の官庁の行為を規定し、あたかも呼吸の仕方のようにそれらの行為から独立している緒関係というものが存在する。最初からこの客観的立場にたつならば、善意もしくは悪意を一方の面でも他方の面でも例外として前提とすることなく、一見して諸個人だけが作用しているように見えるところに(客観的)緒関係が作用しているのが見られるだろう。ある事物が緒関係によって必然的に生じるということが証明されれば、どういう外的諸事情のもとでそれが現実に生まれざるをえなかったか、またその必要性がすでに存在していたのにどういうわけで生まれることができなかったかを発見することは、もはや困難なことではなくなるだろう。使用された物質がどういう外的事情のもとで化合するものかということを化学者が決定するのとほとんど同じ確実さをもって、人はこのことを決定することができるだろう。(マルクス「モーゼル通信員の弁護」崎山耕作訳)
……マルクスが、ブルジョア独裁をむしろ「普通選挙」において見ていることに注意すべきである。『ブリュメール一八日』の背景に、それがあったことはいうまでもない。では、普通選挙を特徴づけるものは何か。それはたんに、あらゆる階級の人々が選挙に参与するということにだけあるのではない。それと同時に、諸個人があらゆる階級・生産関係から「原理的に」切り離されるということにある。議会は封建制や絶対主義王権製においても存在した。しかし、こうした身分制議会においては「代表するもの」と「代表されるもの」が必然的につながっている。真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに、無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって、人々を自由にする。しかし、同時に、それは誰かに投票したという証拠を消してしまう。そのとき、「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって、秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から拘束されない。いいかえれば、「代表するもの」は実際にそうではないのに、万人を代表するかのように振舞うことができるし、またそうするのである。

「ブルジョア独裁」とは、ブルジョア階級が議会を通して支配するということではない。それは「階級」や「支配」の中にある個人を、「自由な」諸個人に還元することによって、それの階級関係や支配関係を消してしまうことだ。このような装置そのものが「ブルジョア独裁」なのである。議会選挙において、諸個人の自由はある。しかし、それは現実の生産関係における階級関係が捨象されたところに成立するものである。実際、選挙の場を離れると、資本制企業の中に「民主主義」などありえない。つまり、経営者が社員の秘密選挙で選ばれるというようなことはない。また、国家の官僚が人々によって選挙されるということはない。人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p230-231)

11:05 午後  
Blogger yoji said...

全集1,206
TCIp.249
http://yokato41.blogspot.jp/2013/11/blog-post_5250.html

国家の状態を研究する場合には、人はややもすると、諸関係の客観的本性を見のがして、すべてを行為する諸個人の意思から説明しようとする。だが、民間人の行為や個々の官庁の行為を規定し、あたかも呼吸の仕方のようにそれらの行為から独立している緒関係というものが存在する。最初からこの客観的立場にたつならば、善意もしくは悪意を一方の面でも他方の面でも例外として前提とすることなく、一見して諸個人だけが作用しているように見えるところに(客観的)諸関係が作用しているのが見られるだろう。ある事物が緒関係によって必然的に生じるということが証明されれば、どういう外的諸事情のもとでそれが現実に生まれざるをえなかったか、またその必要性がすでに存在していたのにどういうわけで生まれることができなかったかを発見することは、もはや困難なことではなくなるだろう。使用された物質がどういう外的事情のもとで化合するものかということを化学者が決定するのとほとんど同じ確実さをもって、人はこのことを決定することができるだろう。(マルクス「モーゼル通信員の弁護」崎山耕作訳)

11:08 午後  
Blogger yoji said...

1 :依頼スレ123:234@かじりむし ★:2014/05/10(土) 20:27:29.69 ID:???
21世紀にマルクスはよみがえるか
http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2014/05/21-2.php
ニューズウィーク日本語版 2014年05月07日(水)18時23分


 今アメリカで、マルクスがブームになっている。『21世紀の資本論』と題す
る700ページ近い専門書がアマゾン・ドットコムのベストセラー第1位になり、
フランス人の著者トマ・ピケティがワシントンにやって来ると、ロック・スタ
ー並みの聴衆が集まった。

 保守派は「マルクスの本がベストセラーになるのは、アメリカの歴史はじま
って以来の危機だ」と警戒し、リベラル派の経済学者、ポール・クルーグマン
は「ピケティは不平等の統一場理論を発見した」と絶賛した。それはこの本が
マルクスと同じく、世界で所得分配の不平等が拡大している事実を明らかにし、
その原因が資本主義にあると主張しているからだ。

 1970年から2010年までにアメリカの賃金の中央値(メディアン)はほとんど
同じだが、上位1%の人々の所得は165%増え、GDP(国内総生産)の20%を超
えた。このような格差の拡大は一時的な問題だと思われ、戦後ずっと多くの国
で所得分配は平等化しているとされてきたが、ピケティのチームは過去300年
の各国の税務資料を調査した結果、戦後の一時期を除いて格差は拡大してきた
という事実を明らかにした。

 次の図のように、不平等度(資本収益の所得に対する比率)は、ヨーロッパ
では20世紀の初めには今のアメリカと同じぐらい高かった。それが1910年以降
、下がったのは、二度の世界大戦と大恐慌で資本が破壊されたためだ。特に海
外投資が植民地の独立によって失われたため、戦後ヨーロッパの資本分配率は
下がり、アメリカより平等になった。70年代までの平等化の時代は例外だった
のだ。

図  http://www.newsweekjapan.jp/column/2014/05/07/newgraphic.jpg
出所:"Capital in the Twenty-First Century"

 ピケティはこの原因を資本蓄積の増加に求め、次のような資本主義の根本的
矛盾を示す:gを成長率、rを資本/所得比率とすると、r>gとなると資本収益
のシェアが高まる。それを投資することで資本蓄積が増えて資本分配率が上が
り、さらに不平等化が進む。

(>>2以降に続く)

2 :依頼スレ123:234@かじりむし ★:2014/05/10(土) 20:28:14.33 ID:???
 世界の歴史を通じてrはおおむねgより大きいが、税引き後でみると両大戦の
時期だけr<gになっている。ヨーロッパではアメリカほど資本蓄積が進まなか
ったので、分配は平等で戦後の成長率は高かった。資本収益率が成長率より低
いと、分配は平等化して成長率は高まる。

 戦争に負けて資本が破壊された日本とドイツの成長率が高かったのも、資本
ストックが英米の水準に追いつく過程と考えれば不思議な現象ではない。日本
の場合は、一人あたりGDPがイギリスに追いついた段階で成長が止まり、90年
代にバブルが崩壊した。それ以降、新興国の参入で世界の成長率が上がったが、
これも資本蓄積が進むにつれて逆転し、不平等化が進むだろう。

 このような資本過剰は、人口が減少して成長率の下がる国でもっとも顕著に
あらわれる。その例が日本である。第二次大戦後、欧米の水準にキャッチアッ
プする過程ではg>rだったが、80年代に逆転した。90年代にはバブル崩壊で成
長が止まり、r>gになって企業の貯蓄超過が起こり、賃金が下がった。

 このような所得格差を経済学では「労働生産性の差が所得格差になる」と説
明してきたが、ピケティも指摘するように、これは単純労働にしか当てはまら
ない。ルパート・マードックが年収2500万ドルもらっているのは、彼が平均的
な労働者の1000倍働いているからではなく、彼が自分の所得を自分で決めるこ
とができるからで、その子の所得が高いのは親の財産を相続できるからだ。

 日本では、別の形で資本過剰による不平等が拡大している。2000年代に入っ
て名目賃金が下がり続け、非正社員の比率が労働者の4割に近づく一方、企業
は貯蓄超過になっている。余剰資金は資本家にも労働者にも還元されないで、
経営者の手元現金(利益剰余金)になっているのだ。資金を借りて事業を行な
うための企業が、リスクを取らないで貯蓄していることが日本経済の萎縮する
原因であり、デフレはその結果にすぎない。

 では、この格差を是正するにはどうすればいいのか。フランス社会党員であ
るピケティは「グローバルな資本課税」を提言するが、これに賛成する人はほ
とんどいない。先進国が一致して増税することは政治的に不可能であり、望ま
しくもない。しかし課税の中心を所得から富に移し、その課税ベースを広げる
べきだという彼の主張は合理的である。

 マルクスの『資本論』がドイツで1867年に自費出版されたとき、1000部売れ
るのに5年かかり、英訳されるのに20年かかった。その本が20世紀の歴史を(
よくも悪くも)変える絶大な影響力をもったことを考えると、21世紀の『資本
論』が全米ベストセラーになったことは、大きな意味をもつかもしれない。
(以上)

3 :名刺は切らしておりまして:2014/05/10(土) 20:29:27.91 ID:2WsDNfSB
イデオロギーで対立させて紛争を煽る道具

4 :名刺は切らしておりまして:2014/05/10(土) 20:32:06.34 ID:/I4hobpc

10:33 午前  
Blogger yoji said...

カウツキー
レーニン
ベルンシュタインは

セットで考えると良い

tcb410

レーニンlカウツキー
ーーーー+ーーーーー
ベルンシl
ュタインl

学者としてはカウツキー
政治家としてはレーニン
経済家としてはベルンシュタイン

6:47 午前  
Blogger yoji said...

差異論文(40巻)におけるマルクスの見たては柄谷も解説したように
デモクリトストとアリストテレスの差異を
エピクロスが止揚するというものだろう

差異論文ノートでマルクスはカントのアンチノミーを研究している
ただ数学手稿でもカントを観念論としていたから
乗り越えるものとしてのカントという立場を取り、結局
ヘーゲル的になる

11:17 午後  
Blogger yoji said...

tcb239参照

11:53 午後  
Blogger yoji said...


アメリカの覇権をマルクスは予想していなかった
資本論第一巻ラストでイギリスとアメリカを比較したのもその後進性を確信していたから
MSなどは独占体の典型だろうが、、
その点はエンゲルスの方が敏感だった

マルクスのアメリカ論なる論文がpdf公開されており、マルクスの先見性を持ち上げている
日本人研究者もいるが、贔屓の引き倒しだと思う。
アメリカに関してはエンゲルスの方がよく観察し、わかっていた。

つねに激動と変化のなかにあって,太西洋の両側の人聞によ うやくその偉大な歴史的使命を予感さぜはじめている 1)J



rスイス一一同共和国の政治情勢J (ニューヨーク・デイリー・トリビ‘ューン〉 1853.5.~全集 :?9 巻 87頁。



1:13

二三四 合衆国の経済的発展は、それじしん、ヨーロッパの──特にイギリスの──大工業の産物である。その今日の姿(一八六六年)では、合衆国は相変わらずヨーロッパの植民地と見なされねばならない。(第四版のために。──その後、合衆国は世界第二の工業国に発展したが、だからといって、その植民地的性格は全くきえ失せてはいない。──F・エンゲルス。)

1:29 午後  
Blogger yoji said...


アメリカの覇権をマルクスは予想していなかった
資本論第一巻ラストでイギリスとアメリカを比較したのもその後進性を確信していたから
MSなどは独占体の典型だろうが、、
その点はエンゲルスの方が敏感だった

マルクスのアメリカ論なる論文がpdf公開されており、マルクスの先見性を持ち上げている日本人研究者もいるが、贔屓の引き倒しだと思う。
アメリカに関してはエンゲルスの方がよく観察し、わかっていた。

「合衆国の経済的発展は、それじしん、ヨーロッパの──特にイギリスの──大工業の産物である。その今
日の姿(一八六六年)では、合衆国は相変わらずヨーロッパの植民地と見なされねばならない。(第四版の
ために。──その後、合衆国は世界第二の工業国に発展したが、だからといって、その植民地的性格は全く
きえ失せてはいない。──F・エンゲルス。)」

資本論第一巻13章より

1:31 午後  
Blogger yoji said...


アメリカの覇権をマルクスは予想していなかった。
資本論第一巻ラストでイギリスとアメリカを比較したのもその後進性を確信していたから。
MSなどは独占体の典型だろうが、、
その点はエンゲルスの方が敏感だった。

マルクスのアメリカ論なる論文がpdf公開されており、マルクスの先見性を持ち上げている日本人研究者もいるが、
贔屓の引き倒しだと思う。
アメリカに関してはエンゲルスの方がよく観察し、わかっていた。

「合衆国の経済的発展は、それじしん、ヨーロッパの──特にイギリスの──大工業の産物である。その今
日の姿(一八六六年)では、合衆国は相変わらずヨーロッパの植民地と見なされねばならない。(第四版の
ために。──その後、合衆国は世界第二の工業国に発展したが、だからといって、その植民地的性格は全く
きえ失せてはいない。──F・エンゲルス。)」

資本論第一巻13章より

1:32 午後  
Blogger yoji said...

資本独占は、それとともに──またそれのもとで──開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化は、それらの資本制的外被と調和しえなくなる時点に到達する。この外被は粉砕される。資本制的私有財産の葬鐘が鳴る。収奪者たちが収奪される。
 資本制的生産様式から発生する資本制的取得様式は、したがって資本制的な私的所有は、自分の労働を基礎とする個人的な私的所有の第一の否定である。だが、資本制的生産は、自然過程の必然性をもって、それじしんの否定を生みだす。これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかも資本主義時代に達成されたもの──すなわち協業や、土地の・および労働そのものによって生産された生産手段の・共有──を基礎とする個人的所有を生みだす。

1:24

1:41 午後  
Blogger yoji said...

http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31193/1/19(3)_P49-82.pdf

1:43 午後  
Blogger yoji said...


アメリカの覇権をマルクスは予想していなかった。
資本論第一巻ラストでイギリスとアメリカを比較したのもその後進性を確信していたから。
柄谷はマルクスとの比較でエンゲルスを批判するが、エンゲルスの方がナイーブな分現実を見ていた。
独占企業に関してもエンゲルスの方が敏感だった。

「マルクスのアメリカ論」なる論文がpdf公開されており、マルクスの先見性を持ち上げている日本人研究者もいるが、
贔屓の引き倒しだと思う。
アメリカに関してはエンゲルスの方がよく観察し、わかっていた。

「合衆国の経済的発展は、それじしん、ヨーロッパの──特にイギリスの──大工業の産物である。その今
日の姿(一八六六年)では、合衆国は相変わらずヨーロッパの植民地と見なされねばならない。(第四版の
ために。──その後、合衆国は世界第二の工業国に発展したが、だからといって、その植民地的性格は全く
きえ失せてはいない。──F・エンゲルス。)」
(資本論第一巻13章より)

9:26 午後  
Blogger yoji said...

「資本独占は、それとともに──またそれのもとで──開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働
の社会化は、それらの資本制的外被と調和しえなくなる時点に到達する。この外被は粉砕される。資本制的私有
財産の葬鐘が鳴る。収奪者たちが収奪される。」
(資本論第一巻24章より)


アメリカの覇権をマルクスは予想していなかった。
資本論第一巻ラストでイギリスとアメリカを比較したのもその後進性を確信していたから。
柄谷はマルクスとの比較でエンゲルスを批判するが、エンゲルスの方がナイーブな分現実を見ていた。
現実の資本独占に関してもエンゲルスの方が敏感だった。

「マルクスのアメリカ論」なる論文がpdf公開されており、マルクスの先見性を持ち上げている日本人研究者もいるが、
贔屓の引き倒しだと思う。
アメリカに関してはエンゲルスの方がよく観察し、わかっていた。

「合衆国の経済的発展は、それじしん、ヨーロッパの──特にイギリスの──大工業の産物である。その今
日の姿(一八六六年)では、合衆国は相変わらずヨーロッパの植民地と見なされねばならない。(第四版の
ために。──その後、合衆国は世界第二の工業国に発展したが、だからといって、その植民地的性格は全く
きえ失せてはいない。──F・エンゲルス。)」
(資本論第一巻13章より)

9:29 午後  
Blogger yoji said...


http://blog.livedoor.jp/mel_fake/archives/51520791.html
以下は『経済学批判』「序言」の問題の箇所を私が翻訳したものである。岩波文庫版、大月書店版それぞれの翻訳と比較されたい。

「私につきまとった疑念を解くため最初に企てたのは、Hegel の法の哲学を批判的に検討する仕事であって、その序文は1844 年にパリで出版された『独仏年誌』に発表した。私の研究は、国家諸形態のような法的諸関係はaus sich selbst その内容がどうであるかによって理解すべきでも、いわゆる人間精神の一般的な発展に照らして理解すべきでもなく、むしろHegel がそれらの全体を18 世紀におけるイングランドとフランスの歴史とを参考に『ブルジョワの社会』と呼んで総括した諸生活関係に根ざしているものであり、それゆえブルジョワ社会の解剖は政治経済学に求めるべきである、との結論に至った。Guizot 氏の国外追放命令によって移動させられたBrüssel でもパリで
始めたこの研究を継続した。私の頭のなかに思い浮かび、そしてそのうちに確実なもの、研究ためのLeitfaden 手引となった一般的な結論は、それを取りまとめると以下のように定式化できる: In der gesellschaftlichen Produktion ihres Lebens gehen die Menschen bestimmte, notwendige, von ihrem Willen unabhängige Verhältnisse ein,
Produktionsverhältnisse, die einer bestimmten
Entwicklungsstufe ihrer materiellen Produktivkräfte entsprechen.その生活の社会的な生産において人間は一定の、必然的な、その意志からは独立した諸関係、すなわち諸生産関係のなかに入る。これら諸生産関係は人間の物質的な諸生産力の一定の発展段階に対応している。これらの
諸生産関係の全体は社会の経済的構造をなしている。すなわちその上に法的及び政治的なÜberbau 上屋が立ち上がり、そしてこの上屋には一定の社会的な諸意識形態が対応している。物質的な生活の生産様式が社会的、政治的及び精神的生活過程一般を規定する。人間の意識が人間の存在を規定するのではなく、逆に人間の社会的存在がその意識を規定するのである。社会の物質的な諸生産力がある発展段階に達すると、それらはそのときに存在する諸生産関係と矛盾するに至る、または、将にそのことの法的な表現なのだが、諸生産力がそれまでそのなかで運動してきた諸所有関係と矛盾するに至る。これらの諸生産関係及び諸所有関係は諸生産力の発展諸形態から諸生産力に対する桎梏(しっこく)へと急変する。そのとき社会的な革命の時期が始まる。経済的な基盤が変化するのに伴って巨大な上屋全体が
ゆっくりとあるいは急速にひっくり返るのである。そのような変革の考察においては常に、経済的な諸生産条件、自然科学の法則に忠実に持続する経済的な生産諸条件の変化と法的、政治的、宗教的、慣習的、あるいは哲学的な諸形態、つまりはイデオロギィ-的諸形態――人がこの衝突を知覚するようになるのはこのイデオロギィ-的諸形態にくるまれてのことであり、また徹底的な議論を交わすのもこのイデオロギィ-的諸形態についてである――とが区別されなければならない。・・・・」 

・・・・・

「諸生産力」はProdukutivkräfte、すなわち様々な種類の具体的有用労働の生産力という意味である。生産力とはいつでも有用労働の生産力のことだからである。(これについては、『資本論』第1巻第1篇第1章第2節を参照されたい。)

10:48 午後  
Blogger yoji said...

著作集第一巻で三枝はマルクス『経済学批判』序言↓を論じている。

            <…‥わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、
簡単につぎのように公式化することができる。人問は、その生涯の社会的生産において、一定の、
必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸カの一定の発展段
階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっ
ており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、
一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、
政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのてはなくて、逆
に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(社会の物質的生産諸力は、その発展があ
る段階にたっすると、いままでそれがそのなかで働いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法
的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生涯諸力の発展諸形態
からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。)経済的基礎の変化に
つれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察
するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革
と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の
諸形態、つづめていえばィデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。(ある個人を
判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにはたよれないのと同様、このよ
うな変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識
を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説
明しなければならないのである。一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかてはもう発展
の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産
諸閔係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとって
かわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけであ
る、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条
件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生
するものだ、ということがつねにわかるであろうから。)大ざっぱにいって、経済的社会構成が進
歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげる
ことができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵
対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形
態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある精算書力は、同時にこ
の敵対関係の解決のこめの物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって。人間社
会の前史はおわりをつげるのである。>

(マルクス『経済学批判』岩波文庫13~15頁より。『世界史の構造』4-5頁参照)

柄谷は引用に際してカッコ内を省略したが、三枝は二番目のカッコ内を重要視する。

11:56 午後  
Blogger yoji said...

                ☆(_)☆
                  ☆

                  貨幣


または、


形態一:単純な価値形態

布(相対的価値形態)=上着☆(等価形態)
///                 \\\
(●                   ●)   |
  >                 <    |
 フ                   フ_  |
   ___    ____  ____   | |
| /  /   |    \/    | _/ |
 >)  )   |__    ☆ __|<  /|
>/___)      |    |  <__/ |
            |____|     | |

                   ||
                   \/



形態二:拡大された価値形態

布(相対的価値形態)=上着☆、小麦☆、金☆、その他☆(等価形態)
///                  \\\      \\\ 
(●                   ●)   |    ●)  |
  >                 <     。   <   |
 フ                   フ_   。。。 フ_  |
   ___    ____  ____   |  。。_   | |   
| /  /   |    \/    | _/ |  ☆|_/  |   _ 
 >)  )   |__    ☆ __|<  /|   <   /|  (☆) 
>/___)      |    |  <__/  \_/<__/ |    
            |____|     |  |     | |


                   ||
                   \/


形態三:一般的等価形態

    金、小麦、上着、その他(相対的価値形態) =布☆(等価形態)
                                  |\/\/|
       ///   ///                  |____|   
       (●    (●                    ●)  |    
         >。   >                  <    |  
     |  フ 。。。フ                    フ_  |
     |  | 。。_  _____  ____   ___    | |   
   _    \|   |\|    \/    |  \ ☆\  _/ |   
  (_)  \ >   | >__      __|  (☆☆( <  /| 
        \>\_/ \>  |    |     (_☆_<__/ |   
    |             |____|           |  |

                   ||
                   \/




形態四:貨幣形態
                          金☆
                             |\/\/| 
  ///   ///       ///        |____|        
 (●    (●        (●                 
   >。   >         >              
|  フ。。。フ       |  フ           
| | 。。_  ___  _| |   ___   
  \|   |\|  \/ | \  /  /       _☆  
 \ >   | >__   |\ > )  )     ☆(_)☆
  \>\_/ \> |   | \>/___)       ☆ 
|          |___|                   

                   ||
                   \/


                |\/\/|
                |____|
                  _☆
                ☆(_)☆
                  ☆

                  貨幣
http://yojiseki.exblog.jp/10813916/

1:23 午前  
Blogger yoji said...

物象化 - Wikipedia
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96
利子は利潤の、すなわち機能資本家が労働者からしぼり取る剰余価値の、一部分でしかないのに、今では反対に、利子が資本の本来の果実として、本源的なものとして現れ、利潤はいまでは企業者利得という形態に転化して、再生産過程でつけ加わるただの付属品、付加物として現れる。ここでは資本の物神的な姿(Fetischgestalt)も資本物神(Kapitalfetisch)の観念も完成している。われわれがGーG’で見るのは、資本の無概念的な形態、生産関係の最高度の転倒と物象化(Versachlichung)、すなわち、利子を生む姿、資本自身の再生産過程に前提されている資本の単純な姿である。

— 第24章「資本関係の外面化」、[3]

なお、マルクスは物象化を場合によってVerdinglichungと書いたりVersachlichungと書いたりしている。以下の文が示すように、彼はこの二つの単語を厳密に区別してはいない。

資本ー利潤、またはより適切には資本ー利子、土地ー地代、労働ー労賃では、すなわち価値および富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化(Verdinglichung)、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合成が完成されている。〔…〕このようなまちがった外観と欺瞞、このような、富のいろいろな社会的要素の相互間の独立化と骨化、このような、物象の人格化と生産関係の物象化(Versachlichung)、このような日常生活の宗教、およそこのようなものを解消させたということは、古典派経済学の大きな功績である。

— 第48章「三位一体的定式」、[4]

物象化論の形成
マルクスは1845年から1846年にかけてエンゲルスとともに書いた『ドイツ・イデオロギー』という草稿で社会的分業について考察し、『資本論』の物象化論につながる視点を示した。

分業は次のことについて最初の例を、早速われわれに提供してくれる。すなわち、人間たちが自然発生的な社会の内にある限り、したがって特殊な利害と共通の利害との分裂が実存する限り、したがって活動が自由意志的にではなく自然発生的に分掌されている限り、人間自身の行為が人間にとって疎遠な、対抗的な威力となり、人間がそれを支配するのではなく、この威力の方が人間を圧服する、ということである。

— カール・マルクス/フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』、[5]

社会的活動のこうした自己膠着、われわれ自身の生産物がわれわれを制御する一つの物象的な強制力と化すこうした凝固ーーそれはわれわれの統制をはみだし、われわれの期待を裏切り、われわれの目算を無に帰さしめるーー、これが、従来の歴史的発展においては主要契機の一つをなしている。社会的威力、すなわち幾重にも倍化された生産力ーーそれはさまざまな諸個人の分業の内に条件づけられた協働によって生じるーーは、協働そのものが自由意志的でなく自然発生的であるために、当の諸個人には、彼ら自身の連合した力としてではなく、疎遠な、彼らの外部に自存する強制力として現れる。

— カール・マルクス/フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』、[6]

『資本論』の物象化論が商品経済における社会的分業のあり方の分析によって商品の物神崇拝を解明するための枠組だったのに対し、この『ドイツ・イデオロギー』の物象化論は社会的分業の発展を軸にした歴史観を提示することが目指されている。物象化は商品経済に固有な現象としてではなく自然発生的分業から生じる現象とされている。「人間自身の行為が人間にとって疎遠な、対抗的な威力と」なる、という視点は『経済学・哲学草稿』の疎外論の延長線上にあるものと見なすこともできる。

商品経済においては労働の社会的性格が商品の交換価値として現れる、という観点が現れるのは1859年発行の『経済学批判』においてである。マルクスは商品の交換価値を分析し、社会的分業の一環であるにもかかわらず直接的には私的な労働が交換価値を生み出す労働であることを指摘した。

一商品の交換価値が現実に表現されている諸等式の総和、たとえば

 1エレのリンネル=2ポンドのコーヒー
 1エレのリンネル=1/2ポンドの茶
 1エレのリンネル=8ポンドのパン、等々。

を考察してみると、これらの等式は、たしかに等しい大きさの一般的社会的労働時間が、1エレのリンネル、2ポンドのコーヒー、2分の1ポンドの茶等々に対象化されていることを意味するにすぎない。しかし実際には、これらの特殊な使用価値であらわされている個人的労働が一般的な、そしてこの形態で社会的な労働になるのは、もっぱらこれらの使用価値が、それらのなかにふくまれている労働の継続時間に比例して、現実に互いに交換されることによってである。社会的労働時間は、これらの商品のなかにいわばただ潜在的に実在しているのであって、それらの商品の交換過程ではじめてその姿をあらわすのである。出発点となるのは、共同労働としての個人の労働ではなくて、逆に私的個人の特殊な労働、交換過程ではじめてそれらの本来の性格を揚棄することによって、一般的社会的労働という実を示す労働である。

— カール・マルクス『経済学批判』、[7]

この指摘をマルクスは「経済学の理解にとって決定的な跳躍点」と自賛した[8]。従来の経済学は商品経済の歴史的特殊性を考慮することができず、したがって商品経済において労働が受け取る特殊な性格を理解することもできなかった、という認識による。

8:14 午前  
Blogger yoji said...

ルカーチの物象化論編集
物象化論が注目されるようになったのはゲオルク・ルカーチの1923年に発表した論文「物象化とプロレタリアートの意識」(『歴史と階級意識』所収)からである。

彼は<人間が作った物が固有の法則性をもって人間を支配する>という事態を物象化と呼び、経済だけでなく政治やイデオロギーの領域にも物象化が存在すると主張した。『資本論』の解釈として提示されたが、実質的には『経済学・哲学草稿』の疎外論に近い発想だったと言える。(ただし『経済学・哲学草稿』がマルクスの遺稿として発表されるのは「物象化とプロレタリアートの意識」より後の1932年である。) 現代における全般的な官僚制化の趨勢を指摘したマックス・ヴェーバーの合理化論も受け継いでいる。

ルカーチの物象化論はサルトルやフランクフルト学派に影響を与え、人間主義的なマルクス主義の一つの源流となった。しかし後にアルチュセールによって、初期のマルクスと後期のマルクスの間には認識論的な切断があり、初期のマルクスが展開した疎外論によって後期のマルクスを理解しようとするのは正しくない、と批判された。

廣松渉の物象化論編集
廣松渉は、ルカーチとは異なり、マルクスとエンゲルスの思想は疎外論から物象化論へと発展した、と主張した。とりわけ『ドイツ・イデオロギー』を転換点として強調した。疎外論が大きな影響を持っていた1960年代に現れた廣松の主張は大きなインパクトを与え、以後日本では疎外論と物象化論を別物と考える立場が支配的となった。

廣松によれば、マルクスは『経済学・哲学草稿』において、実体であるとともに主体である絶対精神の自己外化と自己回復の過程として歴史をみるヘーゲル的な疎外論を使い、労働を実体=主体と設定してその疎外として私有財産を説明しようとした。しかし労働の疎外そのものがどのようにして発生するのかを説明できなくなって破綻した。それに対して『ドイツ・イデオロギー』は、分業に基づく社会関係を歴史の基軸とみる視点により、ヘーゲル的な疎外論から脱却した。この転換は実体主義から関係主義への世界観の転換であり、近代思想の地平の超克であったという。

廣松は以上のようにマルクスの思想を解釈した上でその外延を大胆に拡張し[9]、哲学的な物象化論の体系を作り上げた。以下は単に外面的な拡がりのみを記す。

物=関係の物象化。関係主義の立場から、人々に物在の相で映現しているその「物」は、諸関係の結節を物象化的錯認したものであると捉え返す。
社会的・文化的形象の物象化。人々の営為が、規範を生み出し、因って以て社会的権力・国家を形成し、また、文化的諸価値を形成する、などを役割行動的協働連関におけるそれぞれの物象化として捉える。
歴史における物象化。歴史の法則性・構造変動を役割行動的編成体の通時的動態の物象化として捉える。
廣松は諸科学の最新成果を渉猟しつつ論じているが、「物象化論」は、諸学がとかく共時的編成を志向することに対する内在的批判でもある。 1.は、ヘーゲル論理学における反照規定・物論から始まり、相対性理論・量子力学をも射程に置いたもので、西洋哲学の実体主義批判である。2.は、デュルケム、理解社会学に始まる社会学の諸成果を、『資本論』に於ける価値論を導きの糸に再構成をはかっている。3.は、狭義の歴史法則問題だけではなく、1.2.を踏まえて実践的課題を解く方図として志向された。

宇野弘蔵の物神性論批判編集
宇野弘蔵は『資本論』が商品論において価値の実体が労働であることを指摘している点を批判した。商品論の中心的課題は商品の価値が他の商品の使用価値で表現されるという単純な価値形態が貨幣形態へと発展する論理を示すことであり、価値実体論があると商品の価値が他の商品の使用価値で表現される必要性が不明確になってしまう、という理由による。商品論では生産過程が捨象されているのだから、そこで価値実体が労働であることを指摘すれば資本の下での商品の生産ではなく独立した個々人の生産を想定することになる、とも指摘した。

この観点からは、『資本論』が商品論の最後に置いている物神性論も有害無益となる。そこで登場する労働とは資本主義的生産関係の下での労働ではなくて私的労働一般にすぎないからである。当然、労働と労働の関係が商品と商品の関係として現れる、という物象化論が入り込む余地もなくなる。宇野理論で取り上げられるのは貨幣の物神性と資本の物神性だけである。

脚注編集
[ヘルプ]
^ カール・マルクス『資本論(1)』岡崎次郎訳、大月書店<国民文庫>、1972年、136頁
^ カール・マルクス『資本論(1)』岡崎次郎訳、大月書店<国民文庫>、1972年、169-170頁
^ カール・マルクス『資本論(7)』岡崎次郎訳、大月書店<国民文庫>、1972年、136頁
^ カール・マルクス『資本論(8)』岡崎次郎訳、大月書店<国民文庫>、1972年、355頁。
^ カール・マルクス/フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』廣松渉編訳、岩波書店<岩波文庫>、2002年、66頁
^ カール・マルクス/フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』廣松渉編訳、岩波書店<岩波文庫>、2002年、69頁
^ カール・マルクス『経済学批判』杉本俊郎訳、大月書店<国民文庫>、1966年、49頁
^ カール・マルクス『資本論(1)』岡崎次郎訳、大月書店<国民文庫>、1972年、83頁
^ 「物象化という概念を、人と人との関係の物象化に局定することなく、事物どうしの反照的規定関係の物性化や実体化にまで拡充しては如何? 筆者自身としては敢てこの拡充を企てる者であり、そのことはマルクス・エンゲルスの発想法や存在観に抵触しないと考える。だが、しかし、『物象化』という詞の用法ということで言えば、マルクス・エンゲルスは外延をそこまでは拡張していないのが文典上の事実である」(『廣松渉著作集』第十三巻、岩波書店、1996年、102頁)

8:15 午前  
Blogger yoji said...


http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B1%A1%E5%8C%96
物象化(ドイツ語: Versachlichung または Verdinglichung、英: reification)とは、人と人との関係が物と物との関係として現れること。カール・マルクスが後期の著作(とりわけ『資本論』)で使った概念。マルクス自身は断片的な記述しか残していないが、ゲオルク・ルカーチや廣松渉が重要視したために注目されるようになった。

目次
マルクスの物象化論
『資本論』の物象化論
物象化論の形成
ルカーチの物象化論
廣松渉の物象化論
宇野弘蔵の物神性論批判
脚注
関連項目
マルクスの物象化論編集
『資本論』の物象化論
商品経済においては、社会的分業に基づく人間相互の関係が私的な商品交換を通して取り結ばれるので、個々人の労働は直接的には社会的なものではなく私的なものとなり、労働の社会的性格は商品の交換価値として現れる。労働と労働の関係が商品と商品の関係として現れる。この機構をマルクスは物象化と呼んだ。

およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現れるのである。言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として実証されるのである。それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現れるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物象的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現れるのである。

— 第1章「商品」、[1]

さらに、物象化の結果として生じる思い込みをマルクスは物神崇拝(Fetischismus)と呼んだ。商品がそれ自身として価値を持っているかのように考える商品の物神崇拝である。この物神崇拝から出発して、貨幣がそれ自身の性質によって他の商品と交換できるかのように考える貨幣の物神崇拝、資本がそれ自身として利子を生むかのように考える資本の物神崇拝が生まれる。

一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。〔…〕これらの物、金銀は、地の底から出てきたままで、同時にいっさいの人間労働の直接的化身である。ここに貨幣の魔術がある。人間の社会的生産過程における彼らの単なる原始的な行為は、したがってまた彼ら自身の生産関係の、彼らの制御や彼らの意識的個人的行為にはかかわりのない物象的な姿は、まず第一に、彼らの労働生産物が一般に商品形態をとるということに現れるのである。それゆえ、貨幣物神(Geldfetischs)の謎は、ただ、商品物神(Warenfetischs)の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかないのである。

— 第2章「交換過程」、[2]

利子は利潤の、すなわち機能資本家が労働者からしぼり取る剰余価値の、一部分でしかないのに、今では反対に、利子が資本の本来の果実として、本源的なものとして現れ、利潤はいまでは企業者利得という形態に転化して、再生産過程でつけ加わるただの付属品、付加物として現れる。ここでは資本の物神的な姿(Fetischgestalt)も資本物神(Kapitalfetisch)の観念も完成している。われわれがGーG’で見るのは、資本の無概念的な形態、生産関係の最高度の転倒と物象化(Versachlichung)、すなわち、利子を生む姿、資本自身の再生産過程に前提されている資本の単純な姿である。

— 第24章「資本関係の外面化」、[3]

なお、マルクスは物象化を場合によってVerdinglichungと書いたりVersachlichungと書いたりしている。以下の文が示すように、彼はこの二つの単語を厳密に区別してはいない。

資本ー利潤、またはより適切には資本ー利子、土地ー地代、労働ー労賃では、すなわち価値および富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化(Verdinglichung)、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合成が完成されている。〔…〕このようなまちがった外観と欺瞞、このような、富のいろいろな社会的要素の相互間の独立化と骨化、このような、物象の人格化と生産関係の物象化(Versachlichung)、このような日常生活の宗教、およそこのようなものを解消させたということは、古典派経済学の大きな功績である。

8:15 午前  
Blogger yoji said...

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/疎外

思想史

 マルクスは、この疎外Entfremdungという用語をヘーゲルの『精神現象学』(1807年)から継承し、またフォイエルバッハの、神が人間の善性を客体化した発明である限り、それだけ人間は貧しくなる(「キリスト教の本質」)という思想も取り入れて、経済学用語に鋳直した。

マルクスによる概念
 有機的身体と非有機的身体に分かれ、自然に抗う「自然疎外」が起こることで生命が始まったように、近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、資本・土地・労働力などに転化する。それに対応し本源的共同体も分離し、人間は資本家・地主・賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって機械を操縦する主人であることが失われ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なもの、「人間疎外」となっていく。

マルクスは「疎外された労働」が再生産されるこのような社会関係を『経済学・哲学草稿』(1844年)で分析し、『経済学批判要綱』(1857年 - 1858年)や『資本論』(1867年、1885年、1894年)に継承した。

スターリン主義による歪曲
スターリン主義者は、ソ連において社会主義社会が実現したと宣言したにもかかわらず、疎外が存在する現実を否定するために、疎外という概念そのものを、マルクスの青年期に特有のものとして事実上否定せざるをえなかった。スターリン主義者の理論では、疎外とは搾取のことであるとして、疎外概念は葬り去られた。

サルトルによる概念
 サルトルは、自由な対自として実存する人間は「自由の刑に処せられている(condamné à être libre)」という言葉を残したが、死については、これが実存の永遠の他有化であるという意味で、これを回復不能の疎外であるとした。

8:18 午前  
Blogger yoji said...


柄谷は自分の蔵書のことを疎外と呼んでいた

@東京書籍
高沢秀次との対談

9:06 午前  
Blogger yoji said...


マルクスが資本論で純粋資本主義社会を考察したため、後の研究者が国家への免疫をなくした
(神学論争の代わりにもっと税金について論じるべきだった)

宇野には純粋と言う自覚があったため国家を視野に入れえた

宇野を批判した廣松の方が純粋主義的だった

9:07 午前  
Blogger yoji said...

プロジェクト全体概要 -文生書院
http://www.bunsei.co.jp/ja/bpp/204-project.html

【K.マルクスの理論の根拠となった生資料】
更に,この資料の重要性を明示する例を,社会科学の父と称されるカール・マルクスに求めることができます. 彼の名を不朽にした「資本論」など,彼がその後半生の34年間を大英博物館に通いつめて行った現状分析の素材は,そのほとんど全てが「英国議会資料」であったと言っても過言ではありません。 特に,彼が利用して有名になった「ミッチェル報告書」は,英国議会資料の1859年版第33巻に収められており,英国製品が中国で期待したほど売れなかったために,香港在住のミッチェルが香港提督に宛てて1852年3月15日付けで書いた報告書です. マルクスは,中国が開港すると「密閉された棺に保存されたミイラが外気に触れて解体するように」中国社会は解体し,人々は職を失ってプロレタリアートと化し,世界革命の狼煙をあげると期待したが,現実はそうならなかった.いぶかったマルクスは,この報告書を読んで、その理由を発見したと信じるに至った. つまり,中国では,「農業と家内工業との結合」があり,分業が欠落していた. それほど中国は後進的なのだと理解したわけです.この中国論が後に「アジア的生産様式」という用語を生み,アジア停滞論が社会科学者の間で根強く信じられるきっかけとなりました.又マルクスの「資本論」は,その序文に明言されている通り,英国経済が,資本主義の経済法則を解く上での素材とされており,いたるところにその事例が散りばめられています.こうした事例の大半は,「工場監督(視察)官報告」から取られており,これも「英国議会資料」の一部を構成するものです.

以上「21世紀の関西を考える会」編纂【あうろーら】創刊第2号21-30pより著者である川勝平太教授の御許可を得て、抜粋抄録させて頂きました

6:29 午後  
Blogger yoji said...

CiNii 図書 - 中國近代經濟史研究序説
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN00551407
内容説明・目次
目次
第1篇 方法序説(アジア社会停滞論批判の方法論的反省;東アジア近代史研究の課題;近代世界史と東アジア—明治維新をめぐって)
第2篇 旧中国社会の解体と西欧資本主義(十六・十七世紀の江南における農村手工業;中国社会の解体とアヘン戦争;西欧資本主義と旧中国社会の解体—「ミッチェル報告書」をめぐって)
第3篇 附篇(中国歴史学界における「資本主義の萌芽」研究;マルクス・エンゲルスの「中国論」附「インド論」;Mr,Mitchell to Sir G.Bonham,Hong Kong,March 15,1852,Inclosure No.132,in Correspondence relative to the Earl of Elgin’s Special Missions to China and Japan,1857‐1859,1859.)


中國近代經濟史研究序説
田中正俊著

東京大学出版会, 1973.7
タイトル別名
中国近代経済史研究序説

6:31 午後  
Blogger yoji said...


http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=C7sSKOgyN8YJ&p=%E3%82%A2%E3%82%
B8%E3%82%A2+%E3%83%9F%E3%83%83%
E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB+%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9+%E5%81%9C%E6%BB%9E&u=cl.rikkyo.
ne.jp%2Fcl%2F2007%2Fbungaku-e%2Ffiles%2F071025%25E8%25BF%2591%25E4%25BB%25A3%25E4%25B8%2596%25E7%2595%258C%25E3%2582%25B7%25E3%2582
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1.マルクスの誤算

『共産党宣言』

カール=マルクス・フリードリヒ=エンゲルス『共産党宣言』1848年。
史的唯物論→階級闘争理論による、資本主義社会の崩壊と、社会主義実現のため、労働者階級(プロレタリアート)の団結を呼びかける。
その一節から

ブルジョアジーはすべての生産用具の急速な改善によって、また無限に容易になった交通によって、あらゆる民族を、もっとも未開な諸民族をも、文明に引き入れる。
彼らの商品の安い価格は、中国の城壁をもことごとくうち崩し、未開人の頑固きわまる外国人ぎらいをも降伏させる重砲である。
時代背景

時代背景:1840年 アヘン戦争
        1842年 南京条約

       開港:上海・広州・福州・厦門・寧波

       香港のイギリスへの割譲

言葉の具体的対象

ブルジョアジー
         =産業革命後のイギリス資本家

彼らの商品の安い価格
         =綿織物

マルクスの予測(1)

中国がイギリスに開港
資本主義工場生産による商品が中国に流入
中国の社会的な動揺
中国における革命
マルクスの予測(2)

中国の革命
中国市場の突然の縮小
イギリスにおける恐慌
資本家への経済的打撃
ヨーロッパにおける革命
マルクスの誤算

アヘンの輸入量は増加するが、イギリスで生産された綿織物製品などは、ほとんど中国に受け入れられなかった。
なぜか?
「ミッチェル報告書」

イギリスの工場で生産された綿布が中国で売れないことの原因を究明するために、イギリス人はさまざまに調査し研究し、報告書が作成された。
「ミッチェル報告書」1852年
原文と訳文:田中正俊『中国近代史研究序説』東京大学出版会、一九七三年。
ミッチェル報告(1)

中国の異なった地方は、それぞれの土壌・気候にしたがって、異なった生産物を産する。
そして、国内の交易は、主としてこれらの生産物の交換によって成り立っている。
北方では綿花を豊富に産し、南方では米・砂糖・果実・薬・染料・茶などを生産する。
ミッチェル報告(2)

福建の農民はかなりの量の砂糖を生産する。……農民は春に最寄りの港でこの砂糖を、天津その他の北方の港へ、南季節風のあいだに船で運ぶ商人に売る。
その商人のジャンクが四ヶ月ないし六ヶ月のちに沿岸航海を終えて帰ってくると、秋に農民は一部は現金で、他は北方産の綿花で、砂糖の代価を受け取る。
ミッチェル報告(3)

秋の収穫が終わると、老若の別なく農家のすべての者が、この綿花を梳き、紡ぎ、そして織るのにかかる。
こうして二、三年の激しい使用に耐える重い丈夫な手織り綿布を、自分たちの衣料として織り、その余剰を町に売りに行く。
ミッチェル報告(4)

町では店舗をもつ商人が、町の住民や河川上の船に住む人々の必要を満たすために、その綿布を買い取る。この国では一○人中九人までが、この手紡織の布地でつくった衣服を着ている。
ミッチェルの結論

ミッチェルは恐らく実際に目にした光景に基づいて、この手紡織の綿布が、イギリス産の薄手の綿布の輸入を妨げていると結論づける。
マルクスの誤解

マルクスは、このミッチェル報告書などを参考にしながら、中国で革命が起きない理由を考えた。
マルクスの結論=中国では農業と家内手工業とが強固に結びついている。
工業が農業から分離しない→
   アジアは停滞してる

海と帝国という枠組みで中国の五百年にわたる歴史を見てきた私たちは、「ミッチェル報告」から中国各地の産業が海を介して多角的かつ緊密に結びついていることを、読みとることができる。これは決して停滞ではない。清朝という枠組みは、二○世紀になるまで崩壊はしない。しかし、その殻の下で中国社会は、脱皮に向けて変化を遂げつつあった。
なぜイギリス綿布が売れないか?

第1の理由
綿花=インドから東西に広がる
西へ向かった品種=繊維が長い(長毛)
      西では細い綿糸→下着・シーツなど

東へ向かった品種=繊維が短い(短毛)
      東では太い綿糸→作業着など

綿糸(番手)

低い番手(10から20番手)=太い綿糸
高い番手(25番手以上)=細い綿糸

なぜイギリス綿布が売れないか?

第2の理由
中国人の交易ネットワークは、中国東北地方から江南、福建へと広がり、さまざまな物産が絡まり合いながら、流通していた。

6:38 午後  
Blogger yoji said...

マルクス・コレクション 6 フランスの内乱・ゴータ綱領批判・ ─フランスの内乱・ゴータ綱領批判・時局論 (上)

カール・マルクス 著 , 細見 和之 翻訳 , 村岡 晋一 翻訳

シリーズ:シリーズ・全集
定価:本体3,000円+税
Cコード:0310
整理番号:
刊行日: 2005/09/21
※発売日は地域・書店によって
前後する場合があります
判型:四六判
ページ数:456
ISBN:4-480-40116-4
JANコード:9784480401168
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カール・マルクス
マルクス,カール

マルクス・コレクション 全7冊セット
マルクス・コレクション 1 学位論文・ヘーゲル法哲学批判序説
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資本制経済のうねりが非西洋世界に与える衝撃を目のあたりにして、社会問題へのマルクスの関心は地球規模に拡大する。『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙への寄稿記事とともに、後年パリ・コミューンに際会し起草した『フランスの内乱』とドイツ労働者党イデオロギーへの批判的解釈『ゴータ綱領批判』を併せ収録。

フランスの内乱―国際労働者協会総評議会への呼びかけ
ゴータ綱領批判(ヴィルヘルム・ブラッケへの手紙
ドイツ労働者党綱領への欄外注釈
付録 ドイツ労働者党綱領(ゴータ綱領草案))
時局論(上)インド・中国論(インド論
中国論)

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6:40 午後  
Blogger yoji said...

岡本隆司
近代中国史
199頁
マルクス
中国
アジア的停滞
ミッチェル

7:35 午後  
Blogger yoji said...

ミッチェル報告は、「中国との貿易」1859年で引用されている
筑摩6参照、401頁~

4:04 午前  
Blogger yoji said...

ミッチェル報告は、「中国との貿易」1859年で引用されている
筑摩6参照、401頁~
大月全集13,537頁~

4:08 午前  
Blogger yoji said...


 絶対的
拡大十単純
 相対的



B絶対的A
拡大十単純
C相対的D

  絶対的
 B l A
拡大-十-単純
 C l D
  相対的

マルクスはABCDと記述してゆく
カントの質量関係様相というカテゴリーに似ている
宇野弘蔵これをヘーゲル的トリアーデに変換した
生産流通分配の順序を流通を先にしたのだ
宇野弘蔵の経済原論岩波全書は、それらを知り、
経済政策論とセットなら読む価値はある

マルクスの体系は、価値形態論、再生産表式の二つを知ればそれでいいと個人的には思う。
特にほとんどの議論が再生産表式で解決する。


11:53 午前  
Blogger yoji said...


  絶対的
 B l A
拡大-十-単純
 C l D
  相対的

マルクスはABCDという論理展開で記述してゆく
それはカントの質量関係様相というカテゴリーに似ている
宇野弘蔵はこれをヘーゲル的トリアーデに変換した
生産流通分配の順序を流通を先にし流通生産分配にしたのだ
宇野弘蔵の経済原論岩波全書は、それらを知り、
経済政策論とセットなら読む価値はある

マルクスの体系は、価値形態論、再生産表式の二つを
知ればそれでいいと個人的には思う。
特にほとんどの議論が再生産表式で解決する。

柄谷行人のトランスクリティーク、マルクスその可能性の中心は、
体系的ではないマルクスの読みの成功例として勧める

11:56 午前  
Blogger yoji said...



  絶対的
 B | A
拡大-十-単純
 C | D
  相対的

12:10 午後  
Blogger yoji said...


  絶対的
 B | A
拡大-十-単純
 C | D
  相対的

マルクスはABCDという論理展開で記述してゆく。
それはカントの質量関係様相というカテゴリーに似ている。
宇野弘蔵はこれをヘーゲル的トリアーデに変換した。
生産流通分配の順序を流通を先にし流通生産分配にしたのだ。
宇野弘蔵の経済原論岩波全書は、それらを知り、
経済政策論とセットなら読む価値はある。

マルクスの体系は、価値形態論、再生産表式の二つを
知ればそれでいいと個人的には思う。
特にほとんどの議論が再生産表式で完結する。

マルクスの頭のなかはこうなっている↓
http://2.bp.blogspot.com/-xuLhbrxVrHI/Tq_GZcWjCMI/AAAAAAAADDY/svEAgSpeGFg/s1600/13.gif
http://3.bp.blogspot.com/-19fBFbP8WwA/Tq_GZpwzZgI/AAAAAAAADDk/lAm4SlJbWhc/s1600/12.jpg
(再生産表式の前身であるマルクス経済表。部門1と2が逆なことに注意)

柄谷行人のトランスクリティーク、マルクスその可能性の中心は、
体系的ではないマルクスの読みの成功例として勧める。

12:26 午後  
Blogger yoji said...


http://de.wikipedia.org/wiki/Absolutismus

絶対王政(ぜったいおうせい、英語: absolute monarchism)は、王が絶対的な権力を行使する政治の形態を指す。絶対主義や絶対君主制とも呼ばれる。



http://www.mlwerke.de/me/me25/me25_000.htm
Fünfundvierzigstes Kapitel. Die absolute Grundrente



マルクスの絶対値代は
絶対王政を意識したタームだろう
資本主義に対応しているとは限らない

6:36 午後  
Blogger yoji said...


http://www.ric.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/maru/30.htm
マルクス地代論では、絶対地代の源泉を、農産物が最劣等地の個別的生産価格に規定された生産価格でなしに、価値で販売される点にもとめた。農業部門における資本の有機的構成は、工業などにくらべて低位であるが、そこでの高い個別的利潤率は、資本の移動の自由を前提にすれば、平均利潤率への還元がたえず進められるはずである。ところが農業では、土地所有の独占が農業への自由な流入・流出を阻止するため、工業部門平均をこえた高い利潤部分(超過利潤)が、社会全体の利潤率の均等化に参加せずに農業部門内に止まり、地代として固定化される。

こうしてみれば、絶対地代は農業における資本の有機的構成の低さと土地所有の独占という2つが発生の要因をなすのであり、とくに土地所有が農産物の価値の社会的生産価格への転化を防げている点が肝要である。差額地代が農産物の社会的生産価格と個別的生産価格の差額である。絶対地代の存在は、逆に農産物の市場価格を、生産価格をこえて価値以上を上限に、そこまで高める作用をしているのであり、土地所有をそれにもとずく絶対地代こそが農産物価格上昇の創造的原因になっている。ここに差額地代と絶対地代の明確な差異が見出せる。

極めて難しいのが、マルクスの土地理論。資本主義では土地は売買の対象になるが、労働生産物ではないので、価格は持つが価値は持たない。しかし地代を年利率で割れば、架空の価格が計算される。しかし実際の土地価格は土地の賃貸しから生ずる収入を利子で割ったものである。長期的に見れば利潤率は下がり、利子率は下がり、従って土地価格は上がる。社会の発展に伴い土地価格は上がる。ここに土地投機の基本関係式がある。しかしここで小生の素朴な疑問、この関係式では地代一定の前提になっているが、地代如何によっては、土地の価格は常に高騰するとは必ずしも言い切れないとも主張されるが、その点この関係式はどうなっているのだろうか。

6:59 午後  
Blogger yoji said...

1.マルクス主義は、資本主義を歴史的一段階と考えるから、
価値形態論における貨幣も一段階のひとつだ。

2.剰余価値という搾取の理論化において、価値論と価格論の乖離が課題となる。

1に関してはゲゼルが、2に関してはカレツキが決定的仕事をしているが、
残念ながらヴェルグルとポーランドというローカルな範囲にとどまると思われてしまっている
フシがある。

1:34 午前  
Blogger yoji said...

1.マルクス主義は、資本主義を歴史的一段階と考えるわけだから、
価値形態論における貨幣も段階のなかのひとつかも知れない。

2.剰余価値という搾取の理論化において、価値論と価格論の乖離が課題となる。

1に関してはゲゼルが、2に関してはカレツキが決定的仕事をしているが、
残念ながらヴェルグルとポーランドというローカルな範囲にとどまると思われてしまっている
フシがある。

1:36 午前  
Blogger yoji said...

1.マルクス主義は、資本主義を歴史的一段階と考えるわけだから、
価値形態論における貨幣も歴史的段階のなかのひとつかも知れない。

2.剰余価値という搾取の理論化において、価値論と価格論の乖離が課題となる。

1に関してはゲゼルが、2に関してはカレツキが決定的仕事をしているが、
残念ながらヴェルグルとポーランドというローカルな範囲にとどまると思われてしまっている
フシがある。

1:37 午前  
Blogger yoji said...


1.マルクス主義は、資本主義を歴史的一段階と考えるわけだから、
価値形態論における貨幣も歴史的段階のなかのひとつかも知れない。

2.剰余価値という搾取の理論化において、価値論と価格論の乖離が課題となる。

1に関してはゲゼルが、2に関してはカレツキが決定的仕事をしているが、
残念ながらそれぞれヴェルグルとポーランドというローカルな範囲に
留まると思われてしまっている
フシがある。

1:38 午前  
Blogger yoji said...


1.マルクス主義は、資本主義を歴史的一段階と考えるわけだから、
価値形態論における貨幣も歴史的段階のなかのひとつかも知れない。

2.剰余価値という搾取の理論化において、価値論と価格論の乖離が課題となる。

1に関してはゲゼルが、2に関してはカレツキが決定的仕事をしているが、
残念ながらそれぞれヴェルグルとポーランドというローカルな範囲に
留まると思われてしまっているフシがある。

1:38 午前  
Blogger yoji said...


1.マルクス主義は、資本主義を歴史的一段階と考えるわけだから、
価値形態論における貨幣も歴史的段階のなかのひとつかも知れない。

2.剰余価値という搾取の理論化において、価値論と価格論の乖離が課題となる。
その乖離は国民経済の中で解消され得る。

1に関してはゲゼルが、2に関してはカレツキが決定的仕事をしているが、
残念ながらそれぞれヴェルグルとポーランドというローカルな範囲に
留まると思われてしまっているフシがある。

1:40 午前  
Blogger yoji said...


https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/40/3/40_3_281/_article/references/-char/ja/
(1) マルクス『資本論』、S. 80.確かにマルクスは、X量の商品A=Y量の商品Bという表現を使っているので、価値形態論を、商品からではなく労働生産物から理解しようとするのは間違いであるように見える. しかし、価値形態論の冒頭で彼は「商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、小麦、リンネルなどとして、この世にうまれてくる」 (S.62´強調は引用者) と述べた. ここからすれば、第一形態の商品Aは、市場において初めて商品形態をとったものと考えておかしくはない. また彼は、「商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する」 (S.76) とも述べている.
(2) 永谷は、「価値形態論における物と物との関係とは、相対的形態の商品所有者による一方的な交換請求の関係」としているが、私の解釈は全く逆であり、一方的な交換請求は、等価形態の商品所有者が行うのである. 永谷清『科学としての資本論』弘文堂、一九七五年、六九頁. また宇野-久留間論争において、なぜリンネル所有者が上着を等価形態にとったのか、という論点に対して、両者ともリンネル所有者の欲望から説明しているが、これも私の解釈と異なる. 両者には等置と交換の混同がありはしないか. 宇野弘蔵・向坂遙郎編『資本論研究』河出書房、一九五八年、一五七、一六一頁. 久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』岩波書店、一九五七年、五一頁.

10:01 午後  
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スコーピオンとフェリックスビデオのための+を検索
bookScorpionとフェリックス、Humoristic小説
Skorpionウントフェリックス、Humoristischerローマ

カール・マルクス +
ドイツ
ドイツ語 +
コメディ小説 +
公開されていません
未定稿

'' '' 'スコーピオンとフェリックス、Humoristic小説は' ')(' ''のみである喜劇 +によって書かれたのは架空の物語カール・マルクス +。 彼は19歳だった1837年に書かれ、それは未発表のままです。 フランシスWheen、 ''カール・マルクス。 ''ロンドン:第四エステート、1999; PP。25-26。 これはおそらく''の影響を受けて書かれた紳士、トリストラムシャンディの生涯と意見 +によって'' ローレンス・スターン +。


小説は現在時制で一人称ナレーターに言われています。 プロットは、3つの主要な文字、フェリックス、スコーピオン、およびMertenが、その起源を明らかにするために彼らの探求を中心に展開。 小説はかかると思われる皮肉 の+との論争を哲学 +。 アンナKornbluh。 。 メディエーション。 マルクス主義文学グループのジャーナル。 メディエーション:1号2010年秋マルクス主義文学GroupVolume 25、ジャーナル・オブ・またとして記載されている風刺 +。

本の原稿の存続フラグメントが十分にみなされていない。 フランシスWheen +マルクスの彼の伝記には「奇抜との無意味な急流のような作品を特徴付ける軽口 +」、酔っ奇抜のフィット感で書き上げた」「彼が、その小説の段落が''に「有名な冒頭の段落」など少し変更された形で表示されていることを指摘ルイ・ボナパルトの十八Brumaire + ''。

Siegbertサロモンプロウアー +は本が議論するマルクスの最初の試みであることのための注目すべきであることに留意政治を +、それは、彼の論争を開始することをヘーゲル +。 アンナKornbluh +は 、しかし、作品はと論争であると主張したロック +、 フィヒテ +、とカント +ではなく、ヘーゲル。 彼女はまた、それが若いマルクスは、「彼は存在論的に正の現実内の実の外観の異なる形を追跡する方法徹底的に見えるのベール、背後にlogico-正式な接続を追求し、「どのようにしても示している締結、小説にもっと積極的にコメントしています。

小説は終わっていませんでした。 URL =のhttp://books.google.com/books ID = B2HgZ325ANUC&PG = PA10 | accessdate = 2011年3月6日|年= 1993年|出版社=ケンブリッジ大学出版局| ISBN = 978-0-521-44773-7 |ページ=? 10-小説の唯一のいくつかの章では、現代に生き残ります。 小説の一部は、彼の他のいくつかの初期の作品と一緒に、マルクス自身によって焼かれた可能性があります。 生き残るの部分は、彼が彼の ''詩の書 ''(1837)が発表されたときにマルクスが補足として含まれるものフラグメントです。

マルクスの小説の存続断片は、「の1巻の一部として1975年に初めて英語で出版された「 作品収集マルクス・エンゲルス +。 ''

http://datab.us/i/Scorpion and Felix

*

マルクス/エンゲルス:

スコーピオンとフェリックス +サソリとフェリックス、Humoristic小説(ドイツ語:Skorpionウントフェリックス、Humoristischerローマ)はカール・マルクスによって書かれた唯一の喜劇架空の物語です。

6:27 午前  
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哲学書新刊情報 @Philo_Shinkan 11月12日
【青空文庫本日公開】
『共産黨宣言』(カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス著 堺利彦、幸徳秋水訳 山本寛入力)
「一個の怪物がヨーロッパを徘徊してゐる。すなはち共産主義の怪物である。」「萬國のプロレタリヤ團結せよ!」
【青空文庫】→
http://www.aozora.gr.jp/cards/001138/card47057.html

2:21 午後  
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マルクス経済学 図解雑学   絵と文章でわかりやすい!
著者名等  松尾匡/著  
著者等紹介 1964年生まれ。神戸大学大学院経済学研究科博士課程修了。現在、立命館大学経済学 部教授。理論経済学を専攻。論文「商人道!」で第3回河上肇賞奨励賞受賞。著書「不況 は人災です!みんなで元気になる経済学・入門」など。
出版者   ナツメ社
出版年   2010.10
大きさ等  19cm 223p NDC分類 331.6
件名    経済学-社会主義  
要旨
『資本論』の根本的な見方―「ヒトとヒトとの依存関係」という「社会の正体」から資本 主義経済をとらえなおすことで、その本末転倒な一人歩きを批判する見方―を、現代経済 学の到達点から見ても通用する論理で新たに再構成した。

目次
第1章 なぜいまさらマルクスなのか;
第2章 マルクスの社会分析の基本図式;
第3章  「ヒトとヒトとの依存関係」として社会をとらえる;
第4章 資本主義経済における搾 取と蓄積;
第5章 資本主義経済の歴史―搾取と蓄積のあり方の変遷;
第6章 「モノと モノとの関係」という「見かけ」の現れ方;
第7章 資本循環と利潤率という現れ方;
第 8章 本書と『資本論』の記述の異動;
第9章 マルクス経済学の今後の課題

内容
一人ひとりの人間が暮らしやすくなる社会とは。現代の主流派経済学の手法を取り入れた 現代数理マルクス経済学を数式なしで解説した、マルクス経済思想の心髄に触れる、画期 的入門書。

5:56 午後  
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共産党の片柳進氏が「しくじり先生」に反論「マルクスはしくじってない ...
news.livedoor.com › 国内 › 社会
5 日前 - 片柳進氏が3日、「しくじり先生」の番組内容についてTwitterで反論した。番組で、マルクスの「資本論」によって結果的にソ連は崩壊したと説明された。「マルクスはしくじってない」として、社会主義の失敗ではないと指摘した.
マルクスの「資本論」を“2行”に要約!? オリラジ中田先生の「しくじり偉人伝 ...
togetter.com › カテゴリー › エンタメ › テレビ
2016/05/02 - さらに中田先生は、「マルクスの影響でひとつの国が崩壊した」という独自の仮説からマルクスのしくじりを紐解いていきました。そして、「全ての人間は少し弱くて、少しずるい。そこにどこまで向き合えるかが大切だ」ということを学びました。
くまニュース : 『しくじり先生』マルクスが「資本論」を書けた理由が面白い
blog.livedoor.jp/qmanews/archives/52165293.html
4 日前 - 『しくじり先生』マルクスが「資本論」を書けた理由が面白い,けんぼー@yodasouカールマルクスの資本論を二行にまとめた中田敦彦#しくじり先生 https://t.co/6xNKv3K5l42016/05/02 20:43:11 けんぼー@yodasouマルクスはニートだっ ...
【感想】しくじり先生の「マルクス偉人伝」を見て - read and write
akirwn.hatenablog.com/entry/2016/05/03/233343
6 日前 - その番組内のコーナーの1つである、オリエンタルラジオの中田敦彦さんが世界の偉人たちの「しくじり」を解説する企画「しくじり偉人伝」。 2016年5月2日(月)に放送された回では、かの有名な経済学者カール・マルクスを取り上げ、「人類に夢を ...



高学歴 金持ち 金がない
客観的になれた

10:30 午前  
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【偉人伝】中田敦彦 マルクス資本論を超絶プレゼン 【オリラジ】2016年5月2日

https://www.youtube.com/watch?v=yvYPAzeDs3Q

ソ連崩壊を2行で説明

10:31 午前  
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労働搾取の厚生理論序説 叢書名   一橋大学経済研究叢書  ≪再検索≫ 著者名等  吉原直毅/著  
著者等紹介 1955年一橋大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。以後、一橋大学、大阪大学、 北海道大学を経て99年一橋大学経済研究所助教授、現在同准教授。 出版者   岩波書店 出版年   2008.2 大きさ等  21cm 298p NDC分類 331.6
件名    経済学-社会主義  
要旨    「格差社会」化やワーキング・プア問題が焦眉の現代において、マルクス『資本論』の労 働搾取概念は主流派経済学の理論体系にはない独自性を持つ厚生理論である。本書では、 現代経済学の手法によって、労働搾取概念を厚生経済学における一つの非厚生主義的福祉 指標として、その理論的再構成を探求するプレリュードである。

目次
第1章 今、なぜ労働搾取理論なのか?
第2章 マルクス的一般均衡モデルと均衡解概念
第3章 レオンチェフ経済体系におけるマルクスの基本定理
第4章 一般的凸錘生産経済におけるマルクスの基本定理
第5章 搾取と階級の一般理論
第6章 搾取・富 ・労働規律の対応理論
第7章 労働搾取理論の公理的アプローチに向けて

内容    格差社会化やワーキング・プアが問題の現代において、「資本論」の労働搾取概念は主流 派経済学の理論体系にはない独自性を持つ厚生理論。現代経済学の分析手法に立脚し、労 働搾取概念の厚生経済学的意義を探求する。 ISBN等 4-00-009914-0 ISBN等 978-4-00-009914-1 書誌番号  3-0208014947

3:34 午前  
Blogger yoji said...


Amazon.co.jp: Analytical Foundations of Marxian Economic Theory: John E. Roemer: 洋書
http://www.amazon.co.jp/dp/0521347750/ref=rdr_ext_tmb
Analytical Foundations of Marxian Economic Theory (英語) ペーパーバック – 1989/1/27
John E. Roemer (著)


Analytical Foundations of Marxian Economic Theory | History Economic Thought and Methodology | Cambridge University Press
http://www.cambridge.org/us/academic/subjects/economics/history-economic-thought-and-methodology/analytical-foundations-marxian-economic-theory
Table of Contents

Acknowledgments
Introduction
1. Equilibrium and reproducibility: the linear model
2. Reproducibility and exploitation: a general model
3. The equalization of profit rates in Marxian general equilibrium
4. Viable and progressive technical change and the rising rate of profit
5. Continuing controversy on the falling rate of profit: fixed capital and other issues
6. Changes in the real wage and the rate of profit
7. The law of value and the transformation problem
8. The transformation correspondence
9. Simple reproduction, extended reproduction and crisis
10. Summing up and new directions
Notes
References
Index.

7:45 午前  
Blogger yoji said...

ゲーデルがやった残り半分は、有る意味ボウルズ&ギンタズ1981、ローマーが「一般化された商品搾取定理」として展開していると言える。

しかし、商品は摩滅し貨幣は摩滅しないという圧倒的非対称は疑問に付されない。

ゲゼル…

ケインズを介して両者はつながる。



ギンタズ:

Structure and Practice in the Labor Theory of Value” The Review of Radical Political Economics 12:4, Winter

bowles-gintis rrpe 1981.pdf
http://www.umass.edu/preferen/gintis/bowles-gintis%20rrpe%201981.pdf





他に、

Microeconomics: Behavior, Institutions, and Evolution (Princeton University Press, N.J., 2004).
『制度と進化のミクロ経済学 (叢書《制度を考える》)』 塩沢由典, 磯谷明徳, 植村博恭訳(NTT出版、2013年)

【ボウルズ】1939年生まれ。ハーバード大学准教授、マサチューセッツ大学教授、シ エナ大学教授を経て、現在、マサチューセッツ大学名誉教授、サンタフェ研究所アーサー シュピーゲル研究教授・行動科学プログラムディレクター。 著者等紹介

【塩沢】1943年生まれ。京都大学大学院理学研究科修士課程修了。京都大学理学部数 学科・同経済研究所助手、大阪市立大学大学院経済学研究科・同創造都市研究科教授を経 て、現在、中央大学商学部教授。専門は理論経済学。著書に「数理経済学の基礎」など。 出版者   NTT出版 出版年   2013.7 大きさ等  23cm 572p 注記    Microeconomics.の翻訳 NDC分類 331 件名    ミクロ経済学  ≪再検索≫

要旨    人間の行動と制度は、いかに相互作用し、いかに進化したのか?来るべき“社会科学の統 合”への橋渡しとなる新しいパラダイムを提示する。進化経済学、ゲーム理論、経済諸制 度の理論、群淘汰理論、行動経済学、実験経済学、比較制度分析など最新の分析用具を用 いて、現代経済を成立させている諸要素を解き明かす画期的なテキスト。

目次
第1部 調整と対立:生成的な社会相互作用(社会的相互作用と制度設計;自生的秩序: 経済生活の自己組織化 ほか);第2部 競争と協力:資本主義の諸制度(ユートピア資 本主義:分権的調整;交換:契約、規範、パワー ほか)
第3部 変化:制度と選好の 共進化(制度と個人の進化;偶然、集合行為、制度的イノベーション ほか);第4部  結論(経済的統治:市場、国家、共同体);問題集

内容    進化経済学、ゲーム理論、比較制度分析など、最新の分析用具を用いて、現代経済を成立 させている諸要素を解き明かす画期的なテキスト。来るべき「社会科学の統合」への橋渡 しとなる新しいパラダイムを提示する。

制度と進化のミクロ経済学 (叢書《制度を考える》) | サミュエル・ボウルズ, 塩沢 由典, 磯谷 明徳, 植村 博恭 | 本 | Amazon.co.jp
http://www.amazon.co.jp/dp/4757122950/

5つ星のうち 5.0二重継承理論の経済学への応用
投稿者 ドゥルーズ・ファン 投稿日 2013/12/5
Amazonで購入
ジョセフ・ヒース『ルールに従う』を読んで二重継承理論、遺伝子と文化は共進化するという理論を知り、その解説書を探していました。二重継承理論の若手研究者の Joseph Henrich が『SIENCE Vol.312』に書いた記事に、二重継承理論の名著 Richerson & Boyd 『Not by Genes Alone』 と共に本書が紹介されていました。そして本書の日本語訳があることを知り、さっそく購入しました。二重継承理論は人類学や生物学に近い分野を得意としているという印象ですが、本書は現在の社会を記述しているという点で、こちらに惹かれるものがあります。二重継承理論が経済学とドッキングして、実にエキサイティングです。数式が出てきますが、飛ばして読んでも充分に理解できるように構成されています。現代社会を分析する切り口が豊富に紹介されていますので、今までの理論に物足りなさを感じている方にお勧めです。

ーーーー
某大学院の講義(ゼミ)で読んでます。

この本は、分類すると「進化経済学」という分野になります。
でも、非合理的経済学ではなく、「歴史」「制度」といった社会の進化を
ミクロ的に合理的に説明することを目的としています。

まず、ミクロ部分に、個人の選好を「強い互恵性」と言う概念を用いて拡張します。
詳しく説明すると、典型的な経済人が自己の選好のみ関心を持つ個人であるのに対し
、強い互恵性「たとえ自分にマイナスにであろうとも他人を罰する個人」というものを
導入します。
これは、行動経済学の実験的知見に基づいていて、消して不自然な説明ではありません。
すると、社会は、決してホッブス的ジレンマに陥らずに、高い社会厚生を実現できるようになります。

これがまずひとつ。

また、ルソー的均衡(ホッブス的均衡より厚生の高い状態)であった
社会が、ブルジョア戦略に取って代われていくのをシュミレーションをもって例示します。
このことは、ルソー、マルクス的な歴史の見方(農業ができ、所有権が生まれ、人類に貧富が発生した)
をシュミレーションで裏付けるような形になっています。

最後に多階層選択モデルと言うものを導入します。その結果/主張はいささかびっくりで、
戦争が、人間の利他性を促進すると言うものになります。

こういった選好と制度、社会の進化をリンクさせる理論的フレームとなっているのが、
メイナード・スミスらの進化生物学モデルです。
進化生物学では、遺伝子が、複製されていくのに対して、社会進化モデルでは、「選好」「行動」が複製されていきます。

進化経済学の最先端?を勉強するにはもちろん、進化生物学研究者も見たら面白いと思います。

6:09 午後  
Blogger yoji said...



Reading Marx's Capital Vol I with David Harvey (2008,2010)
http://www.youtube.com/playlist?list=PL0A7FFF28B99C1303

Reading Marx's Capital Vol 2 with David Harvey (2012)
http://www.youtube.com/playlist?list=PLA444E846FD59F94B






〈資本論〉入門 | デヴィッド・ハーヴェイ, 森田 成也, 中村 好孝 2011(原著2010年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4861823455/

〈資本論〉入門 著者名等  デヴィッド・ハーヴェイ/著  ≪再検索≫ 著者名等  森田成也/訳  ≪再検索≫ 著者名等  中村好孝/訳  ≪再検索≫ 著者等紹介 【ハーヴェイ】ジョンズ・ホプキンス大学教授、オックスフォード大学教授を経て、現在 、ニューヨーク市立大学教授。専攻:経済地理学。現在、最も世界で論文が引用されるこ とが多い地理学者であり、マルクス理論研究の世界的権威。 著者等紹介 【森田】駒澤大学非常勤講師。主な著書:「資本主義と性差別」など。 出版者   作品社 出版年   2011.9 大きさ等  20cm 549p 注記    A companion to Marx’s Capital./の翻訳 NDC分類 331.6 要旨    グローバル経済を読み解く『資本論』の広大な世界へ。世界的なマルクス・ブームを巻き 起こしているハーヴェイ教授の最も世界で読まれている入門書。
目次
『資本論』をどう読むべきか;
商品と価値;
貨幣とその諸機能;
資本の生成と労働力商品 ;
労働過程の弁証法と剰余価値生産;
労働日と階級闘争の政治学;
相対的剰余価値の生産 と階級戦略;
機械と大工業1―技術と諸契機の弁証法;
機械と大工業2―機械と階級闘争 のダイナミズム;
剰余価値論から資本蓄積論へ;
資本主義的蓄積と貧困;
本源的蓄積と「 略奪による蓄積」;
省察と予測

内容
グローバル経済を読み解く『資本論』の広大な世界へ。世界的なマルクス・ブームを巻き 起こすきっかけとなった、ハーヴェイ教授の講義を書籍化。現在、最も世界で読まれてい る「資本論」の入門書。 ISBN等 4-86182-345-5 ISBN等 978-4-86182-345-9








   LP
M-C P C'-M-Δm
   mP

下28頁:

 /Pm
G-W…P…W'-G-ΔG
 \A

61頁参照:



https://opac.lib.city.yokohama.lg.jp/opac/OPP1500?ID=5&SELDATA=TOSHO&SEARCHID=0&START=1&ORDER=DESC&ORDER_ITEM=SORT4-F&LISTCNT=10&MAXCNT=1000&SEARCHMETHOD=SP_SEARCH&MENUNO=0




〈資本論〉第2巻・第3巻入門 | デヴィッド・ハーヴェイ, 森田 成也, 中村 好孝 2016(原著2013年)
http://www.amazon.co.jp/dp/4861825695/

〈資本論〉第2巻・第3巻入門
著者名等  デヴィッド・ハーヴェイ/著  
著者名等  森田成也/訳  
著者名等  中村好孝/訳  
著者等紹介 【ハーヴェイ】ジョンズ・ホプキンス大学教授、オックスフォード大学教授を経て、現在 、ニューヨーク市立大学教授。専攻:経済地理学。現在、最も世界で論文が引用されるこ とが多い地理学者であり、マルクス理論研究の世界的権威。 著者等紹介 【森田】国学院大学非常勤講師。主な著書:「資本主義と性差別」など。
出版者   作品社 出版年   2016.3 大きさ等  20cm 544p
注記    A companion on Marx’s Capital.の翻訳 NDC分類 331.6 件名    「資本論」  ≪再検索≫ マルクス,カルル・ハインリヒ
要旨    “第2巻”にこそグローバル経済を読み解く鍵がある。世界的ベストセラー。
上と違い講義の書き起こしではない。youtubeとはかなり違う。

目次
マルクスの方法と『資本論』第二巻・第三巻;
資本の循環―“第二巻”第一~三章;
資本 循環の三つの図式と資本の流れの連続性―“第二巻”第四~六章;
固定資本の問題―“第 二巻”第七~一一章;
商人資本―“第三巻”第一六~二〇章;
利子、信用、金融―“第三 巻”第二一~二六章;
信用制度に関するマルクスの見解―“第三巻”第二七~三七章;
信 用の役割と銀行制度―“第三巻”第二七章以降;
資本の時間と空間―“第二巻”第一二~ 一四章;
流通期間と回転期間―“第二巻”第一五~一七章;
社会的総資本の再生産―“第 二巻”第一八~二〇章;
固定資本の問題と拡大再生産―“第二巻”第二〇~二一章;
省察

内容    マルクス研究の世界的権威であり、世界を飛び回る人気学者ハーヴェイ教授が、その基本 的知識から現代世界の読み解き方までをわかりやすく解説。難解とされる「第2巻」「第 3巻」が面白く理解できる画期的入門書。 ISBN等 4-86182-569-5 ISBN等 978-4-86182-569-9 書誌番号  3-0500353777

内容紹介
グローバル経済を読み解く鍵は、
〈第2巻〉にこそある――

難解とされる〈第2巻〉〈第3巻〉が、
こんなに面白く理解できるなんて!
ハーヴェイだからこそなし得た画期的入門講座。
世界的ベストセラー

マルクスにとってさえ、〈第2巻〉を書き上げるのは困難だったのであり、ましてや『資本論』を読み始めたばかりの読者に、魅力的に解説するのは至難の業である。
〈第2巻〉の主題である「資本の流通過程」は、経済地理学と重なり合うテーマ(資本の空間的移動、流通時間、資本の回転、時間による空間の絶滅……)を対象としており、ハーヴェイにとって最も興味のそそる理論領域と言えよう。
この入門講義は、〈第2巻〉の単なる解説ではなく、その理論の拡張と適用となっている。そうすることで、理論・歴史・現代という三つの位相を巧みに結びつけて、読者の生き生きとした興味と関心を喚起することに成功している。
(「訳者解説」より要約)

■著者紹介
デヴィッド・ハーヴェイ(David Harvey)
ジョンズ・ホプキンス大学教授、オックスフォード大学教授を経て、現在、ニューヨーク市立大学教授。専攻:経済地理学。現在、最も世界で論文が引用されることが多い地理学者であり、マルクス理論研究の世界的権威である。
2008年、『資本論』の講義を撮影した動画を、インターネットで一般公開したが、世界中からアクセスが殺到し、世界的なマルクス・ブームを巻き起こすきっかけとなった。〈第1巻〉の講義を書籍としてまとめた前書『〈資本論〉入門』は、現在、世界で最も読まれている入門書となっている。
本書は、その待望の〈第2巻〉〈第3巻〉編である。〈第2巻〉も含めて講義の動画は、今もネットで公開されている。
邦訳書に、『〈資本論〉入門』『新自由主義――その歴史的展開と現在』『資本の〈謎〉――世界恐慌と21世紀資本主義』『反乱する都市――資本のアーバナイゼーションと都市の再創造』『コスモポリタニズム――自由と変革の地理学』(以上、作品社)ほか。

内容(「BOOK」データベースより)
“第2巻”にこそグローバル経済を読み解く鍵がある。世界的ベストセラー。

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3:32 午前  
Blogger yoji said...


『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 – 2014/4/5
ミヒャエル・ハインリッヒ (著), 明石英人 (翻訳), 佐々木隆治 (翻訳)他
http://www.horinouchi-shuppan.com/#!003home/c22w7

Kritik der politischen Ökonomie: Eine Einführung (Theorie.org) Taschenbuch – 2007 von Michael Heinrich (Autor)
原著単行本初版は2005年?

資本論全三巻プラス国家論を一冊306頁にまとめている。特に第二巻は#6一章だけで済ませている。
「自由な人間たちのアソシエーション(団体)」277頁なる言葉を『資本論』から引用している(1:4)。『フランスにおける内乱』が参照されるべきだろう。
横書きなので#6の表式の説明(172頁6.3)はわかりやすいが、数式は最小限なのでその他のメリットはない。

第一巻#1~5
第二巻#6
第三巻#7~10

対応する邦訳ページ数の記載がない。原著を読み直そうとする人にはハーヴェイの方が親切だろう。思想的には偏っていないので好感は持てるが。索引が便利だが辞書的には使えない。

http://www.horinouchi-shuppan.com/#!003home/c22w7
『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 – 2014/4/5 ミヒャエル・ハインリッヒ (著), 明石英人 (翻訳), 佐々木隆治 (翻訳), & 3 その他

 ミヒャエル・ハインリッヒ(著)  
明石英人、佐々木隆治、  斎藤幸平、隅田聡一郎(翻訳)
 四六判/並製/306頁/本体2,000円
 ISBN 978-4-906708-52-9
Kritik der politischen Ökonomie
日本語版への序文/序 文/凡 例

1 資本主義とマルクス主義
 1.1 資本主義とは何か?
 1.2 労働運動の成立 1.3 マルクスと「マルクス主義」
2 経済学批判の対象
 2.1 理論と歴史
 2.2 理論と批判
 2.3 弁証法—マルクス主義の打ち出の小槌?
3 価値、労働、貨幣
 3.1 使用価値、交換価値、価値
 3.2 労働価値論の証明?(個人的行為と社会的構造)
 3.3 抽象的労働:実在的抽象と通用関係
 3.4 「まぼろしのような価値対象性」: 価値の生産理論か、流通理論か?
 3.5 価値形態と貨幣形態(経済的形態諸規定)
 3.6 貨幣と交換過程(商品所持者の行為)
 3.7 貨幣機能、貨幣商品、現代貨幣システム
 3.8 商品・貨幣物神の「秘密」
4 資本、剰余価値および搾取
 4.1 市場経済と資本:「貨幣から資本への移行」
 4.2 価値の「摩訶不思議な資質」:G-W-G’
 4.3 階級関係:「二重に自由な」労働者
 4.4 労働力商品の価値、剰余価値および搾取
 4.5 労働の価値―「想像上の表現」
5 資本主義的生産過程
 5.1 不変資本と可変資本、剰余価値率、労働日
 5.2 絶対的剰余価値と相対的剰余価値、競争の強制法則
 5.3 相対的剰余価値生産の方法:協業、分業、機械設備
 5.4 資本主義的生産力発展の破壊的潜在力
 5.5 形態的包摂と実質的包摂、フォーディズム、 生産的労働と非生産的労働
 5.6 蓄積、産業予備軍、窮乏化
6 資本の流通
 6.1 資本の循環。流通費用、産業資本と商業資本
 6.2 資本の回転。固定資本と流動資本
 6.3 社会的総資本の再生産
7 利潤、平均利潤および「利潤率の傾向的低下の法則」
 7.1 費用価格、利潤および利潤率 ―諸カテゴリーと日常の神秘化
 7.2 平均利潤と生産価格
 7.3 「利潤率の傾向的低下の法則」―批判的検討
8 利子、信用および「架空資本」
 8.1 利子生み資本、利子および企業者利得 ―資本物神の完成
 8.2 信用貨幣、銀行および「架空資本」
 8.3 資本主義経済の制御機関としての信用システム
9 恐 慌
 9.1 循環と恐慌
 9.2 マルクスにおいて崩壊論は存在したのか?
10 ブルジョア的諸関係の物神崇拝
 10.1 「三位一体定式」
 10.2 反ユダヤ主義についての付論
 10.3 諸階級、階級闘争および歴史決定論
11 国家と資本
 11.1 国家―支配階級の道具?
 11.2 ブルジョア国家の形態諸規定:法治国家、社会国家、民主主義
 11.3 世界市場と帝国主義
12 共産主義─商品、貨幣、国家を越えた社会

訳者解説/訳者あとがき

4:26 午前  
Blogger yoji said...

自動的主体113,1:4など、興味深いタームの引用が続く。

4:28 午前  
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『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 – 2014/4/5
ミヒャエル・ハインリッヒ (著), 明石英人 (翻訳), 佐々木隆治 (翻訳)他
http://www.horinouchi-shuppan.com/#!003home/c22w7

Kritik der politischen Ökonomie: Eine Einführung (Theorie.org) Taschenbuch – 2007 von Michael Heinrich (Autor)
原著単行本初版は2005年?

資本論全三巻プラス国家論を一冊306頁にまとめている。特に第二巻は#6一章だけで済ませている。
自動的主体113,4:1など、キャッチーではないが興味深いタームの引用が続く。
「自由な人間たちのアソシエーション(団体)」277頁なる言葉を『資本論』から引用している(1:4)。『フランスにおける内乱』が参照されるべきだろう。
横書きなので#6の表式の説明(172頁6.3)はわかりやすいが、数式は最小限なのでその他のメリットはない。

第一巻#1~5
第二巻#6
第三巻#7~10

対応する邦訳ページ数の記載がない。原著を読み直そうとする人にはハーヴェイの方が親切だろう。思想的には偏っていないので好感は持てるが。索引が便利だが辞書的には使えない。

4:31 午前  
Blogger yoji said...


『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 – 2014/4/5
ミヒャエル・ハインリッヒ (著), 明石英人 (翻訳), 佐々木隆治 (翻訳)他
http://www.horinouchi-shuppan.com/#!003home/c22w7


資本論全三巻プラス国家論を一冊306頁にまとめている。特に第二巻は#6一章だけで済ませ
ている。
「自動的主体」113頁,4:1など、キャッチーではないが興味深いタームの引用が続く。
「自由な人間たちのアソシエーション(団体)」277頁なる言葉を『資本論』から引用している(1:4)。
本来は『フランスにおける内乱』が参照されるべきだろう。
横書きなので#6の表式の説明(172頁6.3)はわかりやすいが、数式は最小限なのでそれ以上の
メリットはない。

第一巻#1~5
第二巻#6
第三巻#7~10

対応する邦訳ページ数の記載がない。原著を読み直そうとする人にはハーヴェイの方が親切
だろう。思想的には偏っていないので好感は持てる。索引が便利だが辞書的には使えない。

4:35 午前  
Blogger yoji said...


『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 – 2014/4/5
ミヒャエル・ハインリッヒ (著), 明石英人 (翻訳), 佐々木隆治 (翻訳)他
http://www.horinouchi-shuppan.com/#!003home/c22w7

Kritik der politischen Ökonomie: Eine Einführung (Theorie.org) Taschenbuch – 2007 von Michael Heinrich (Autor)
原著単行本初版は2005年?

資本論全三巻プラス国家論を一冊306頁(#1~12)にまとめている。特に第二巻は#6一章だけで済ませている。
「自動的主体」#4,113頁,4:1など、キャッチーではないが興味深いタームの引用が続く。
「自由な人間たちのアソシエーション(団体)」277頁なる言葉を『資本論』から引用している(1:4)。本来は『フランスにおける内乱』が参照されるべきだろう。
横書きなので#6の表式の説明(172頁6.3)はわかりやすいが、数式は最小限なのでそれ以上のメリットはない。

第一巻#1~5
第二巻#6
第三巻#7~10

対応する邦訳ページ数の記載がわかりにくい(資本論は新日本出版版が参照される)。原著を読み直そうとする人にはハーヴェイの方が親切だろう。思想的には偏っていないので好感は持てる。#10における「崩壊論」批判は妥当だ。そして#10で反ユダヤ主義について書かれているのがドイツの現状を想起させる。索引は便利だが辞書的には使えない。

http://www.horinouchi-shuppan.com/#!003home/c22w7
『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 – 2014/4/5 ミヒャエル・ハインリッヒ (著), 明石英人 (翻訳), 佐々木隆治 (翻訳), & 3 その他

 ミヒャエル・ハインリッヒ(著)  
明石英人、佐々木隆治、  斎藤幸平、隅田聡一郎(翻訳)
 四六判/並製/306頁/本体2,000円
 ISBN 978-4-906708-52-9
Kritik der politischen Ökonomie
日本語版への序文/序 文/凡 例

1 資本主義とマルクス主義
 1.1 資本主義とは何か?
 1.2 労働運動の成立 1.3 マルクスと「マルクス主義」
2 経済学批判の対象
 2.1 理論と歴史
 2.2 理論と批判
 2.3 弁証法—マルクス主義の打ち出の小槌?
3 価値、労働、貨幣
 3.1 使用価値、交換価値、価値
 3.2 労働価値論の証明?(個人的行為と社会的構造)
 3.3 抽象的労働:実在的抽象と通用関係
 3.4 「まぼろしのような価値対象性」: 価値の生産理論か、流通理論か?
 3.5 価値形態と貨幣形態(経済的形態諸規定)
 3.6 貨幣と交換過程(商品所持者の行為)
 3.7 貨幣機能、貨幣商品、現代貨幣システム
 3.8 商品・貨幣物神の「秘密」
4 資本、剰余価値および搾取
 4.1 市場経済と資本:「貨幣から資本への移行」
 4.2 価値の「摩訶不思議な資質」:G-W-G’
 4.3 階級関係:「二重に自由な」労働者
 4.4 労働力商品の価値、剰余価値および搾取
 4.5 労働の価値―「想像上の表現」
5 資本主義的生産過程
 5.1 不変資本と可変資本、剰余価値率、労働日
 5.2 絶対的剰余価値と相対的剰余価値、競争の強制法則
 5.3 相対的剰余価値生産の方法:協業、分業、機械設備
 5.4 資本主義的生産力発展の破壊的潜在力
 5.5 形態的包摂と実質的包摂、フォーディズム、 生産的労働と非生産的労働
 5.6 蓄積、産業予備軍、窮乏化
6 資本の流通
 6.1 資本の循環。流通費用、産業資本と商業資本
 6.2 資本の回転。固定資本と流動資本
 6.3 社会的総資本の再生産
7 利潤、平均利潤および「利潤率の傾向的低下の法則」
 7.1 費用価格、利潤および利潤率 ―諸カテゴリーと日常の神秘化
 7.2 平均利潤と生産価格
 7.3 「利潤率の傾向的低下の法則」―批判的検討
8 利子、信用および「架空資本」
 8.1 利子生み資本、利子および企業者利得 ―資本物神の完成
 8.2 信用貨幣、銀行および「架空資本」
 8.3 資本主義経済の制御機関としての信用システム
9 恐 慌
 9.1 循環と恐慌
 9.2 マルクスにおいて崩壊論は存在したのか?
10 ブルジョア的諸関係の物神崇拝
 10.1 「三位一体定式」
 10.2 反ユダヤ主義についての付論
 10.3 諸階級、階級闘争および歴史決定論
11 国家と資本
 11.1 国家―支配階級の道具?
 11.2 ブルジョア国家の形態諸規定:法治国家、社会国家、民主主義
 11.3 世界市場と帝国主義
12 共産主義─商品、貨幣、国家を越えた社会

訳者解説/訳者あとがき

5:03 午前  
Blogger yoji said...


http://www.amazon.co.jp/dp/4406025472/
ref=sr_1_9?ie=UTF8&qid=1464620828&sr=8-9&keywords=%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%
96+%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC


商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
ドイツ語エンゲルス版を主な底本として、マルクス校閲版、エンゲルス校閲版などを参照した「資本論」の全訳。82~89年にかけて新書版全13冊として刊行された訳書の一部改訂版。

登録情報
単行本: 541ページ
出版社: 新日本出版社 (1997/12)
言語: 日本語
ISBN-10: 4406025472
ISBN-13: 978-4406025478


索引含め全六巻


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5つ星のうち 5.0いい意味でも悪いい意味でも読みやすい。
投稿者 泥まみれ 投稿日 2011/12/12
形式: 単行本
俺はさう真面目に経済学を勉強してはゐませんが、資本論は全巻読みました。長谷部訳と大月の全集版を使ひ分けて読んでゐました。資本論の意義はあへて詳しく書くこともないでせう。不滅の古典であることは絶対に否定できません。誤解はないでせうが、本書は資本の理論の本で、資本主義経済の理論を扱つてゐるものです。社会主義が主題ぢやありません。実際、資本論といふのは訳題で、原書の題名はただ『資本』ですから。さて本書は通訳としては一番新しいもので、新書版をさらに改訳してゐます。日本語としてもこなれてゐていい訳ですが、読みやすさを追求しすぎてやや訳し過ぎてゐて訳語も簡素化し過ぎてゐる観があります。ちよつと行き過ぎでせう。その分読みやすいわけですけど。要するにいい意味でも悪い意味でも読みやすいわけですね。訳し過ぎがないといふ意味ぢやむしろ新書版の旧訳のはうがいいでせうね。結局は原書を読むに如くはないのでせうけどね。
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8:11 午前  
Blogger yoji said...

神学・政治論 下 光文社文庫

20:09
ひとが国に対する誠意をもっているかどうかは、神に対する信仰をもっているかどうかと同じく、当人の[単なる意見ではなく]行いを見てみないと分からない。つまりその人が、隣人に愛情深く接しているかどうかを見てみないと分からない。もしこのことにも注意を払うなら、哲学する自由を誰にでも認めている国家体制こそ最善の国家体制であることは、誰がどう見ても明らかとなるだろう。この自由は、わたしたちが示してきた、信仰が誰にでも認めているはずの自由と同じものなのである。

[十]正直に言っておくと、たしかに、こうした自由から不都合が生じる時もある。しかし、不都合が何一つ生じる時もある。しかし、不都合が何一つ生じえないほど賢く組み上げられた制度など、かつて一度でも存在したことがあったろうか。
20:10
すべてを法律によって定めようとする人は、悪癖を正すよりもむしろ呼び起こしてしまうだろう。禁じるのが不可能なことは、たとえそこから往々にして害悪が生じるとしても、やはり認めるしかないのである。たとえば見栄やねたみや貪欲や泥酔や、その他似たようなことからどれほどの災いが生じることだろうか。にもかかわらず、こうしたことは大目に見られている。これらは本当に悪癖だけれども、法律上の命令で禁じるのが不可能だからである。だとすると判断の自由は、なおのこと認められなければならない。こちらは間違いなく美徳であり、しかも抑圧することができないからである。

8:10 午前
yoji said...
鷲田小彌太
スピノザの方へ
163参照

上記後半はマルクスが抜書した部分

9:01 午前  
Blogger yoji said...

以下、スピノザ『神学・政治論 』下 光文社文庫より

20:10
《すべてを法律によって定めようとする人は、悪癖を正すよりもむしろ呼び起こしてしまうだろう。禁じるのが不可能
なことは、たとえそこから往々にして害悪が生じるとしても、やはり認めるしかないのである。たとえば見栄やねたみ
や貪欲や泥酔や、その他似たようなことからどれほどの災いが生じることだろうか。にもかかわらず、こうしたことは
大目に見られている。これらは本当に悪癖だけれども、法律上の命令で禁じるのが不可能だからである。だとすると
判断の自由は、なおのこと認められなければならない。こちらは間違いなく美徳であり、しかも抑圧することができないからである。》


上記はマルクスが抜書した部分(鷲田小彌太『スピノザの方へ』163頁参照)。


9:09 午前  
Blogger yoji said...


『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 – 2014/4/5
ミヒャエル・ハインリッヒ (著), 明石英人 (翻訳), 佐々木隆治 (翻訳)他
http://www.horinouchi-shuppan.com/#!003home/c22w7

Kritik der politischen Ökonomie: Eine Einführung (Theorie.org) Taschenbuch – 2007 von Michael Heinrich (Autor)
原著単行本初版は2005年?

資本論全三巻プラス国家論を一冊306頁(#1~12)にまとめている。特に第二巻は#6一章だけで済ませている。

第一巻#1~5
第二巻#6
第三巻#7~10

「自動的主体」#4,113頁,4:1など、キャッチーではないが興味深いタームの引用が続く。
「自由な人間たちのアソシエーション(団体)」277頁なる言葉を『資本論』から引用している(1:4)。本来は『フランスにおける内乱』が参照されるべきだろう。
横書きなので#6の表式の説明(172頁6.3)☆はわかりやすいが、数式は最小限なのでそれ以上のメリットはない。
対応する邦訳ページ数の記載がわかりにくい(資本論は新日本出版上製版1997が参照される)。

《資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現れ、個別の商品はその富の要素的形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。》(新日本出版社、1997年、[上製版]第一巻59頁)ハインリッヒ新しい読み方52頁3.1より孫引き
https://prezi.com/m/fgqx-_8ycja9/presentation/

原著を読み直そうとする人にはハーヴェイの方が親切だろう。思想的には偏っていないので好感は持てる。#10における「崩壊論」批判は妥当だ。さらに#10で反ユダヤ主義について書かれているのがドイツの現状を想起させる。索引は便利だが辞書的には使えない。


 部門I c1+v1+m1
 部門II c2+c2+m2

 部門1の生産物は素材的には生産手段からなっている。単純再生産が可能であるためには、この生産物は両部門で用いられる生産手段を補填しなくてはならない。したがって以下のような価値比率となる。

 (1)c1+v1+m1=c1+c2

 また、部門IIの生産物は消費手段からなっている。それは両部門の労働者と資本家の使用をカバーしなければならない。そのためには、次の式になる。

 (2)c2+v2+m2=v1+v2+m1+m2

 両等式はどちらも以下のようになる(等式の両辺の同じ項を引くことによって)。

 (3)c2=v1+m1

 つまり、部門IIで用いられる不変資本の価値は、部門Iの可変資本の価値と剰余価値に等しくなくてなならない。

(数式の数字をアラビア数字に変えた)

http://www.horinouchi-shuppan.com/#!003home/c22w7
『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 – 2014/4/5 ミヒャエル・ハインリッヒ (著), 明石英人 (翻訳), 佐々木隆治 (翻訳), & 3 その他

 ミヒャエル・ハインリッヒ(著)  
明石英人、佐々木隆治、  斎藤幸平、隅田聡一郎(翻訳)
 四六判/並製/306頁/本体2,000円
 ISBN 978-4-906708-52-9
Kritik der politischen Ökonomie
日本語版への序文/序 文/凡 例

1 資本主義とマルクス主義
 1.1 資本主義とは何か?
 1.2 労働運動の成立 1.3 マルクスと「マルクス主義」
2 経済学批判の対象
 2.1 理論と歴史
 2.2 理論と批判
 2.3 弁証法—マルクス主義の打ち出の小槌?
3 価値、労働、貨幣
 3.1 使用価値、交換価値、価値
 3.2 労働価値論の証明?(個人的行為と社会的構造)
 3.3 抽象的労働:実在的抽象と通用関係
 3.4 「まぼろしのような価値対象性」: 価値の生産理論か、流通理論か?
 3.5 価値形態と貨幣形態(経済的形態諸規定)
 3.6 貨幣と交換過程(商品所持者の行為)
 3.7 貨幣機能、貨幣商品、現代貨幣システム
 3.8 商品・貨幣物神の「秘密」
4 資本、剰余価値および搾取
 4.1 市場経済と資本:「貨幣から資本への移行」
 4.2 価値の「摩訶不思議な資質」:G-W-G’
 4.3 階級関係:「二重に自由な」労働者
 4.4 労働力商品の価値、剰余価値および搾取
 4.5 労働の価値―「想像上の表現」
5 資本主義的生産過程
 5.1 不変資本と可変資本、剰余価値率、労働日
 5.2 絶対的剰余価値と相対的剰余価値、競争の強制法則
 5.3 相対的剰余価値生産の方法:協業、分業、機械設備
 5.4 資本主義的生産力発展の破壊的潜在力
 5.5 形態的包摂と実質的包摂、フォーディズム、 生産的労働と非生産的労働
 5.6 蓄積、産業予備軍、窮乏化
6 資本の流通
 6.1 資本の循環。流通費用、産業資本と商業資本
 6.2 資本の回転。固定資本と流動資本
 6.3 社会的総資本の再生産
7 利潤、平均利潤および「利潤率の傾向的低下の法則」
 7.1 費用価格、利潤および利潤率 ―諸カテゴリーと日常の神秘化
 7.2 平均利潤と生産価格
 7.3 「利潤率の傾向的低下の法則」―批判的検討
8 利子、信用および「架空資本」
 8.1 利子生み資本、利子および企業者利得 ―資本物神の完成
 8.2 信用貨幣、銀行および「架空資本」
 8.3 資本主義経済の制御機関としての信用システム
9 恐 慌
 9.1 循環と恐慌
 9.2 マルクスにおいて崩壊論は存在したのか?
10 ブルジョア的諸関係の物神崇拝
 10.1 「三位一体定式」
 10.2 反ユダヤ主義についての付論
 10.3 諸階級、階級闘争および歴史決定論
11 国家と資本
 11.1 国家―支配階級の道具?
 11.2 ブルジョア国家の形態諸規定:法治国家、社会国家、民主主義
 11.3 世界市場と帝国主義
12 共産主義─商品、貨幣、国家を越えた社会

訳者解説/訳者あとがき

6:10 午後  
Blogger yoji said...


『資本論』の新しい読み方―21世紀のマルクス入門 – 2014/4/5
ミヒャエル・ハインリッヒ (著), 明石英人 (翻訳), 佐々木隆治 (翻訳)他

資本論全三巻プラス国家論を一冊306頁(#1~12)にまとめている。特に第二巻は#6一章だけで済ませている。

第一巻#1~5
第二巻#6
第三巻#7~10

「自動的主体」#4,113頁,4:1など、キャッチーではないが興味深いタームの引用が続く。
「自由な人間たちのアソシエーション(団体)」277頁なる言葉を『資本論』から引用している(1:4)。本来は
『フランスにおける内乱』が参照されるべきだろう。
横書きなので#6の表式の説明(172頁6.3)☆はわかりやすいが、数式は最小限なのでそれ以上のメリットはない。
対応する邦訳ページ数の記載がわかりにくい(資本論は新日本出版上製版1997が参照される)。

《資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現れ、個別の商品はその
富の要素的形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。》(新日本出版社、
1997年、[上製版]第一巻59頁)ハインリッヒ新しい読み方52頁3.1より孫引き
https://prezi.com/m/fgqx-_8ycja9/presentation/

原著を読み直そうとする人にはハーヴェイの方が親切だろう。思想的には偏っていないので好感は持てる。
#10における「崩壊論」批判は妥当だ。さらに#10で反ユダヤ主義について書かれているのがドイツの現状を
想起させる。索引は便利だが辞書的には使えない。


 部門I c1+v1+m1
 部門II c2+c2+m2

 部門1の生産物は素材的には生産手段からなっている。単純再生産が可能であるためには、この生産物は
両部門で用いられる生産手段を補填しなくてはならない。したがって以下のような価値比率となる。

 (1)c1+v1+m1=c1+c2

 また、部門IIの生産物は消費手段からなっている。それは両部門の労働者と資本家の使用をカバーしなけれ
ばならない。そのためには、次の式になる。

 (2)c2+v2+m2=v1+v2+m1+m2

 両等式はどちらも以下のようになる(等式の両辺の同じ項を引くことによって)。

 (3)c2=v1+m1

 つまり、部門IIで用いられる不変資本の価値は、部門Iの可変資本の価値と剰余価値に等しくなくてなならない。

(数式の数字をアラビア数字に変えた)

6:11 午後  
Blogger yoji said...

労働現場での改革は難しいが
消費の場でなら今すぐ改革は出来る

100の消費者団体があって始めて1つの良心的企業を支えることが出来るくらいだろうが

ストライキには意味がない
まず働けば働くほど人民が豊かになるシステムが必要だ
それがプルードンの交換銀行であり、ゲゼルの減価マネーだ

逆に自分たちのシステム=媒介があればストライキにも意味がある
古田敦也は野球ファンに支持されたではないか…

富の源泉は集合力にある
結合労働力は生産現場でも流通過程でも派生する
これは同時に搾取の源泉でもあるがこうした集合力に自覚的でなければならない
そうでなければゲゼルが『自然的経済秩序』冒頭で述べたように政権を取ったとしても何もできない
協同組合(=生産現場での分配)が推奨されるのはそれが理想的だからというより
結合労働力に自覚的ならざるを得ない形態だからだ

___


サービス労働の場合はインフラから考えないと集合力は見えない
今は全てのインフラが大企業に囲い込まれていてそれが当たり前だと考えられているが
そうではない
mixiやグリーは協同組合になる可能性がほんの一時あったと思う
ゲゼルの減価マネーは減価分が手数料として当局に行く
減価マネーによってのみ唯一税金のない社会が可能だ

通貨システム、貨幣というインフラはまだ完全ではない
マルクス価値形態論とゲーデル不完全性定理を比べてみよう
貨幣はゲーデル数に対応するが、
ゲーデル数は他の商品の性質を捨象しない
マルクス価値形態論はゲーデル不完全性定理の半分までしかカバーしていない
新たな貨幣が今後の可能性として残されている
今のシステムは完全ではない

ゲーデルはスピノザに批判的だが、マルクスを相対化するにはスピノザも有効だ。


5:57 午前  
Blogger yoji said...


かつてスピノザの理性的聖書読解(神学政治論)に興味を示したマルクスだが、その抜き書き
部分を読むと、政治的変革に急なあまり肝心の理性的部分を受け取り損ねている感がある。
それは「最後の鐘」といったメシアニズムの残余となって『資本論』に現れる。
さらにそこがマルクスとの往復書簡で「聖バルテルミ」の記念日を否定したプルードンとの差でもある。

6:16 午前  
Blogger yoji said...

転形問題
このようなマルクスの結論が成り立つには,この例ではあらかじめ価値に等しいと仮定されている費用価格の生産価格化がさらに説かれなければならない。しかしマルクスは,価値からのこうした「修正」(K.Ⅲ.,S.174,邦訳⑥275頁)の意味に気付きながらも,それ以上の追究をしないまま,考察を次のように途中で打ち切るのである。

「費用価格のこのような修正された意味を頭に入れておくことが必要であり,したがって,ある特殊な生産部面で商品の費用価格がその商品の生産に消費される生産手段の価値に等しいとされる場合には,いつでも誤りが起こり得るということを注意しておくことが必要である。われわれの当面の研究にとっては,この点にこれ以上詳しく立ち入る必要はない」(K.Ⅲ.,S. 174,邦訳⑥275-276頁)
国民文庫
3:2:9

転形問題における単一体系解釈
吉村信之信州大学経済学部
https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=2650&item_no=1&attribute_id=65&file_no=1&page_id=13&block_id=45

第二篇第九章
http://plaza.rakuten.co.jp/monozuki226/10006/
柴田敬と高田保馬の転化論論争
http://www.ronsyu.hannan-u.ac.jp/open/n001878.pdf
yoji 時刻: 10:43 午後

11:04 午後  
Blogger yoji said...

 第9章一般的利潤率(平均利潤率)の形成と商品価値の生産価格への転化    (転形問題)

11:08 午後  
Blogger yoji said...

転形問題とは?
価値の大きさが生産価格に転形されるのはいかにしてか(または転形されるか否か)

11:14 午後  
Blogger yoji said...


金融資本論  全二冊
ヒルファディング
岡崎 次郎 訳
資本主義は十九世紀から今世紀にかけて独占段階に突入した.その特質はカルテルおよびトラストの形成による自由競争の廃止に,また,銀行資本と産業資本との関係の緊密化すなわち金融資本の成立にある.著者(一八七七―一九四一)の名を世界的にしたこの現代資本主義の分析は,マルクス経済理論の重要な展開である.
〈 全巻の構成 〉
◆ 金融資本論 上 (ヒルファディング/岡崎 次郎 訳)
定価(本体 1,070円 + 税)(2016年7月12日ごろ重版出来)
◆ 金融資本論 下 (ヒルファディング/岡崎 次郎 訳)
定価(本体 1,070円 + 税)(2016年7月12日ごろ重版出来)

7:37 午後  
Blogger yoji said...

ポスト・マルクス主義と法のインターフェイス 単行本 – 1992/6
青木 孝平 (著)
118頁より

マルクス資本論の所有論化

https://opac.lib.city.yokohama.lg.jp/opac/OPP1500?ID=2&SELDATA=TOSHO&SEARCHID=0&START=1&ORDER=DESC&ORDER_ITEM=SORT4-F&LISTCNT=10&MAXCNT=1000&SEARCHMETHOD=DT_SEARCH&MENUNO=1
所有権法の理論
版情報   新版
著者名等  川島武宜/著  ≪再検索≫
出版者   岩波書店
出版年   1987.8
大きさ等  22cm 339p
NDC分類 324.23
件名    所有権法  ≪再検索≫
要旨    「所有権」として法律的に現象している近代的所有権について、規範論理的な意味をでは
なく、その現実的な社会現象としての構造を分析する。そして、所有権を個人と個人との
間の社会関係として構成して、近代市民法の基礎構造を明らかにする。著者の研究の出発
点となった記念碑的著作。今回、版を改め、新たに著者による解題を付した。
目次    第1章 序説;第2章 近代的所有権の私的性質
;第3章 近代的所有権の観念性と絶対性a
;第4章 商品所有権の流通b
(所有権の商品性;物権取引法);
第5章 資本としての所有権c
内容    付:参考文献
ISBN等 4-00-000910-9

https://www.amazon.co.jp/dp/4007303266/

トップカスタマーレビュー

5つ星のうち 5.0イェーリングの権利のための闘争
投稿者 kaizen #1殿堂 投稿日 2011/6/18
形式: ハードカバー
弁護士になった知人が、法律を勉強するのなら、イェーリングの権利のための闘争 を読めといった。
権利のための闘争を読んだら、じゃ川島 武宜を読めというので読みました。

はしがきの「法解釈がそれ自身の主体性を失い権力に隷従し、また、蒸しそうで頻瑣な教義学に堕するかぎり、それは無用となり或いは有害となるだけである」
というのが印象的でした。
経験的には、法律屋さんは、権力に隷従していて、主体性を失っていると感じていたので。

「物件法の基礎理論」という大学の講義に基づくものとの事。

読んでいったら、イェーリングの「権利のための闘争」 が参照してあったので、なるほど、方理論を連続的に理解しはじめるのに役立ちました。

「近代において、労働が生産手段・生産物とおなじく商品になるに至ってはじめて、生産手段の非所有者も商品所有者として、形式的には対等に対立し、法主体者となるに至ったのである」という記載に対して、集団所有から個人所有への展開が欠落していないか疑問に思った。
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10:45 午後  
Blogger yoji said...


ゴータ
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
そして確かに、物質的富を成り立たせているものは使用価値である)、労働そのものが、人間の労働力という、自然力の現われに過ぎない。

世界史の構造30頁

 「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模で作り出そうとすることは、彼らが現在の生産諸条件の変革を目指して働くということにほかならず、国家補助を受けて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ。」(50)

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
 労働はあらゆる富の源泉ではない。
 自然は、労働と丁度同じほど、使用価値の源泉であり(そして確かに、物質的富を成り立たせているものは使用価値である)、労働そのものが、人間の労働力という、自然力の現われに過ぎない。

 先の決まり文句はどんな子供向け入門書で見受けられるものである。そして、労働がそれに必要な諸対象と諸手段とで遂行されていると仮定される限りで、正しい。


ゴータ綱領批判大月19:15
世界史の構造30頁参照
自然は、労働と丁度同じほど、使用価値の源泉であり(そして確かに、物質的富を成り立たせているものは使用価値である)、労働そのものが、人間の労働力という、自然力の現われに過ぎない。






マルクスの国家社会主義批判
 一方、マルクスが絶対に受け入れなかったのは、ラッサールの「国家社会主義」でした。マルクス派とラッサール派が合同で作ったドイツ社会民主労働党の「ゴータ綱領」(一八七五年)についても、彼は、国家によってアソシエーション(生産者協同組合)を育成するというラッサールの考えを痛烈に批判しています。

   労働者が協同組合的生産の諸条件を社会的規模で、まず最初は自国に国民的規模でつくりだそうとするのは、現在の生産諸条件の変革のために努力することにほかならず、国家の補助による協同組合の設立とはなんのかかわりもないものである! 今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的につくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。(『ゴータ綱領草案批判』、山辺健太郎訳)

   国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって替わるべきだと、マルクスはいっているのです。しかし、何らかの国家の補助がないならば、生産者協同組合が資本制企業に敗れてしまうこと

世界共和国へ

世界史の構造372頁

11:06 午後  
Blogger yoji said...


http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm

[ 生産諸手段の共有を基礎とする協同組合的な社会の内部では、生産者達は彼らの生産物を交換しない。同様に、ここでは生産物に費やされた労働はこれらの生産物の価値として、即ち生産物が持つ一つの物質的特性として現われない。というのは、今では、資本主義社会とは反対に、個人的な労働は、もはや間接にではなく、直接に、総労働の構成部分として存在するからである。]itc453頁

 (「労働収益」という文句は、今日でさえその曖昧さの故に不愉快なものであるが、こうしてあらゆる意味を失う。)

…個々の生産者は…

 彼は、(共同の基金のために彼の労働を控除したあとで)これこれの量の労働を給付したという証明書を社会から受け取り、そして、この証明書で消費手段の社会的貯えの中から、等量の労働価値を要するものを引き出す。

 個々の生産者は、彼がある形態で社会に与えたのと同じ量の労働を、他の形態と交換するのである。

11:12 午後  
Blogger yoji said...



   《労働者が協同組合的生産の諸条件を社会的規模で、まず最初は自国に国民的規模でつくりだそうとするのは、現在の生産諸条件の変革のために努力することにほかならず、国家の補助による協同組合の設立とはなんのかかわりもないものである! 今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的につくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。》(『ゴータ綱領草案批判』、山辺健太郎訳) 国民文庫

   国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって替わるべきだと、マルクスはいっているのです。しかし、何らかの国家の補助がないならば、生産者協同組合が資本制企業に敗れてしまうこと

世界共和国へ
世界史の構造372頁

11:19 午後  
Blogger yoji said...

最初の通読には原書頁数入りの岡崎訳を揃えるのがいいと自分も思う
(宇野柄谷が岩波準拠になる場合が大いので岩波文庫もいいが原書頁数がない)
ただ世界の大思想版をタブレットに入れてから
資本論の読み方が変わった
三千四百円×4冊分なので初心者には勧めないが
脚注を細かく読めるようになった
検索がとにかく便利だ

あと第一巻後半部に関してはフランス語版の邦訳に早めに目を通すべきだ
例えば以下のゲーテからの引用はフランス語版にはじめて追加された

先生「お父さんの財産はどこから入ったのですか?」
小学生「お祖父さんからです」
先生「お祖父さんのは?」
小学生「ひいお祖父さんからです」
先生「じゃあ、そのひいお祖父さんのは?」
小学生「人から取ったのです(Il l'a prise)」(La 314.1,大月②933ページ、10行目)

1:26(現行1:24)

ゲーテ『教理問答』ゲーテ全集、コッタ、1850年、第2部、276pからの引用
林直道1975年245頁、1976年128~9頁より(江夏訳1979,394頁参照)

9:07 午前  
Blogger yoji said...

熊野純彦『マルクス 資本論の思考』
https://www.amazon.co.jp/dp/4796703268 2013/9 せりか書房


「とほうもない商品のあつまり」

…熊野純彦東大教授の「マルクス 資本論の思考」は、こんなふうにはじまる。
《....永山の目に飛び込んできたのは、まずはこういう一節であったはずである。〈資本制的な生産様式が支配している社会の富はひとつの「とほうもない商品のあつまり」として現象し、個々の商品はその富の原基形態として現象している。私たちの研究は、それゆえ商品の分析からはじめられるのである〉......》8頁まえがき
http://www.mishimaga.com/book/2013/11.html

9:14 午前  
Blogger yoji said...

の富は、「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。>
(平井規之訳、新日本出版社、1982年、第一巻59頁、新書全13巻)

<資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。>
(新日本出版社、1997年、[上製版]第一巻59頁)


1:34 午前
Blogger yoji said...

<資本主義的生産様式が支配している社会の富は、「膨大な商品の集積物(1)」として現われている。
したがって、この富の要素形態である商品の分析は、われわれの研究の出発点である。
   (1) カール・マルクス『経済学批判』、ベルリン、一八五九年、三ページ。>
(江夏美千穂、上杉聡彦訳、フランス語版資本論、1979年、法政大学出版局,3頁)@ 1872年ラシャトル版

G-W-G'が
M-A-M'という記載法になる

9:16 午前  
Blogger yoji said...

大月デジタル版もあるが…

9:30 午前  
Blogger yoji said...

マルクスとエコロジー ――資本主義批判としての物質代謝論 (Νuξ叢書 2) | 岩佐茂, 佐々木隆治, 明石英人, 斎藤幸平, 隅田聡一郎, 羽島有紀, 梁英聖, クォン・オボム, ポール・バーケット, ジョン・ベラミー・フォスター, カール=エーリッヒ・フォルグラーフ | 本 | Amazon.co.jp
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%82%B3
%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC-%E2%80%95%E2%80%95%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E6%89%B9%E5%88%A4%E3%81%
A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%B3%AA%E4%BB%A3%E8%AC%9D%E8%AB
%96-%CE%9Du%CE%BE%E5%8F%A2%E6%9B%B8-2-%E5%B2%A9%E4%BD%90%E8%8C%82/dp/4906708609/ref=sr_
1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1469897835&sr=1-2

商品の説明
内容紹介
マルクスはもう終わった? エコロジーは些末なトピック? 世界最先端の研究成果によってみえてきたエコロジーへの関心は、『資本論』からさらに進んだ資本主義批判の理論にも深く関わる意義がそこにはあった。 読み解く鍵は「物質代謝」。 マルクス思想の全貌は、これから明らかになる。 終わっていない、些末ではない、 晩期の研究を知らずにマルクスを語るなかれ!

登録情報
単行本: 364ページ
出版社: 堀之内出版 (2016/6/10)
言語: 日本語
ISBN-10: 4906708609

10:11 午前  
Blogger yoji said...

持株会社

曖昧さ回避 「持分会社」とは異なります。
持株会社(もちかぶがいしゃ)とは、他の株式会社を支配する目的で、その会社の株式を保有する会社を指す。ホールディングカンパニー(Holding=保持、保有)とも呼ぶ。

私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法。以下「独禁法」)では、「子会社の株式の取得価額(最終の貸借対照表において別に付した価額があるときは、その価額)の合計額の、当該会社の総資産の額に対する割合が百分の五十を超える会社」を持株会社と定義している。

目次
概説 編集
本業を行う一方で、他の会社を支配するものを事業持株会社、他の会社の支配を本業とするものを純粋持株会社と呼ぶが、一般に「持株会社」といったときは後者を指す[1]。後述の抜殻方式で持株会社化したときにほんの一部でも事業が残っている(残さざるを得ない)場合は純粋持株会社と呼ばないことがある。

また、持株会社の傘下で、似通った事業を行う子会社を束ねる「中間持株会社」と呼ばれる形態もある(ソフトバンクグループ株式会社の子会社などが採用している)。

「A株式会社」と「B株式会社」を経営統合させ、その際の持株会社に「ABホールディングス株式会社」という形式で名付けるケース[2]も多く、大半の持株会社が「○○ホールディングス」と名付けられている。金融持株会社については、フィナンシャルグループとする系統とホールディングスとする系統、両者の混合系やどちらでもない系統が見られる。

「ホールディングス」(英:Holdings)は、ローマ字表記を用いる場合、日本では通例的に"HD"と略される場合が多い(例:角川GHD、現KADOKAWA)。

「ホールディングス」を名乗る会社が純粋持株会社とは限らない。(例:両備ホールディングス、ツネイシホールディングス、ケーズホールディングス。いずれも事業持株会社)。逆に、(純粋)持株会社の社名を「○○△△ホールディングス」とする義務も存在しない(例:イオン、旭化成、吉本興業。いずれも自身は事業を行わない純粋持株会社)。

持株会社では社員採用を行わず、「事業会社分割時の残留」「株式移転設立時の転籍」「傘下子会社からの出向・転籍」などにより、「持株会社の社員」となるケースがほとんどである(中間持株会社では親会社と子会社の双方から出向か転籍)。また、持株会社と傘下会社の双方を兼職している場合もある。持株会社が採用活動を行うことがあっても、あくまで傘下子会社の採用窓口としての機能のみである。なお、極稀に持株会社の社員として採用後、各グループ会社へ出向する例もある。[3]

歴史 編集
日本では、戦前の財閥本社が純粋持株会社の形態を採っていた。しかし、戦後に制定された過度経済力集中排除法によって財閥解体が行われ、また、独禁法によって、持株会社たる会社の設立及び既存の会社の持株会社化が禁止された。その後、金融ビッグバンの一環で1997年に同法改正によって純粋持株会社が解禁された。解禁後の第1号は、同年に株式会社神戸セントラル開発が商号を変更し純粋持株会社となった株式会社ダイエーホールディングコーポレーションである(その後、同社はダイエーグループの経営悪化による合理化で2001年に解散)。

上場会社においては、1999年に大和證券株式会社が商号を変更し純粋持株会社となった株式会社大和証券グループ本社が第1号である。

近年は、2社以上の経営統合において、共同で持株会社を設立して両社がその子会社となったのちに、合併などの再編を行う事例が多くなっている。[4]また、持株会社が子会社(株式移転方式では旧親会社が持株会社)を合併して事業会社に戻す事例も出ている。[5]

9:49 午後  
Blogger yoji said...

メリット 編集
各部門毎の子会社化からもたらされるメリット。
ある特定の部門の利益にとらわれない、戦略的な本社(親会社としての持株会社)の構築。
新規事業の立ち上げがしやすい。
経営統合で合意済みの他企業に対する買収、グループ化(M&A)がし易い(友好的買収)。
親会社への直接的敵対的買収を通じて、傘下会社の間接的敵対的買収がされる事態が実質不可能となる(親会社である持ち株会社の株は非公開株としている事が一般的である為)。
傘下の各社への権限の委譲がしやすい。
柔軟な人事制度の導入がしやすい。
さらに、子会社からの受取配当金に関して、全額益金不算入扱いとなる。持株会社は、傘下の子会社からの受取配当金を事業の中核としているため、節税メリットは計り知れず(企業によっては数十億円規模の効果となる)、受取配当金に関する節税メリットを最大限活用する目的で持株会社を検討する企業も増加している。
持ち株会社Aの下に事業会社xyzがぶらさがっており、z社で巨額損失が発生したような場合、z社とA社は打撃を受けるが、x社とy社はダメージを受けない。仮に事業部制の場合は、財務が遮断されていないため、無関係のx事業部y事業部にも累が及んでしまう。この事態の最後の選択として、A社はx社y社を売却することにより、その売却代金で、A社自身を救うことができる。カネボウがカネボウ化粧品を売却したのはこの例である。
デメリット 編集
子会社から見た場合、親会社(持株会社)への「お伺い」が増えてしまう。
各子会社(事業会社)間の横の連携がしにくい。
労働条件の交渉について、使用者側の窓口(実際の雇用関係のある子会社なのか、子会社に対して実質的な経営権を有する持株会社(親会社)なのか)が不明となる。
特に純粋持株会社(親会社の主たる収入が子会社からの配当である形態)の場合、持株親会社単体では子会社(あるいは連結ベースでのグループ総体)より信用リスクが大となるため、格付上の「ねじれ」が生じるケースがある。
2010年8月現在において、日本国内の各証券取引所の内規により非上場企業の子会社は上場を認められていない、すなわち非上場の持株会社の子会社を上場する事が実務上不可能[9]であるため、各事業会社が資本市場からの直接金融による資金調達が不可能である。
持株会社およびその子会社に赤字企業がある場合、グループ全体に信用不安が連鎖し、個別企業と見た実力よりも資本市場において株価を通じて過小評価される、いわゆる「コングロマリット・ディスカウント」という状態に陥る。
財閥解体を経て構築された経済システムの有名無実化に繋がる(持株会社による傘下企業全体の財閥化は事実上、法の抜け道となる)。

9:50 午後  
Blogger yoji said...

編集このページをウォッチする
金融持株会社
金融持株会社(きんゆうもちかぶがいしゃ)とは、持株会社の内、子会社とする会社の大半が金融に関する事業を行うものである。

目次
日本 編集

日本では、1998年の独占禁止法改正により設立が解禁された。

概要 編集
日本では、法律によって設立に認可を受けなければならないものがある。例えば、銀行を子会社とするものや保険会社を子会社とするものの場合は、前者は銀行法、後者は保険業法に基づいて内閣総理大臣の認可を受けなければならない。

一方、金融商品取引業者の場合は、他の法人その他の団体が、持株会社に該当し、又は該当しないこととなった場合に、金融商品取引法第50条第1項第8号及び金融商品取引業等に関する内閣府令第199条第4号に基づいて当該金融商品取引業者は遅滞なく、その旨を内閣総理大臣に届け出なければならない。

9:53 午後  
Blogger yoji said...



労働者は階級として見れば自分たちが生産したものを自分たちで買い戻す
(プルードンは利子があるからそれは不可能だと考えたが
マルクスはそうした再生産は現実に可能だと考えたし、それを分析した)

商業資本の二重性(産業利潤内外*に規定可能)は、マルクスとしては歴史的に解消すべき
ものとしてあるのだろう。資本論3で考察されたようにその二重性が歴史的必然であったとしても。

流通過程で利潤率が上がるということは剰余価値が生まれているということだと思うが…
協同組合、労働証券を具体的には考えていただろう。


遠隔地貿易(大航海時代?)については、
「海外貿易は、総じて本来的信用業の源泉の一つをなす」(3:14)わけで
信用資本の分析が待たれる

地産地消、自給自足が理想だ
それは共産主義革命と矛盾しない

4:42 午前  
Blogger yoji said...


ヘーゲル全集『大論理学(下)』武市健人訳注によると、価値形態論(マルクス)
はヘーゲルの影響下にある。
しかし価値形態論はヘーゲルを媒介にし、カテゴリー論(カント)に原型がある。
資本論では、宇野=ヘーゲル的三分割よりもカントのカテゴリー的四分割が
より本質的、内在的なものとしてある。

[1]単純な価値形態
a=b
等価価値(貨幣)bと相対的価値形態(商品)a
商品aの価値は他の商品bの使用価値で表現される。
「主語aの様子を述語bで表現する、質的判断」

[2]拡張された価値形態
ax=b, a=c, a=d,...a=n
「述語bの本質を主語aの量で表現する、量的判断」

[3]一般的価値形態
b=a, c=a, d=a,...n=a
aが等価価値(貨幣)に、bが相対的価値形態(商品)に転換。
「本質(両者の関係)の展開」

[4]貨幣形態
a=Gold(金)として定着、様相が固定化する。
「個別としての普遍(=必然性)の概念の展開の度」

注:「」内は、ヘーゲル全集『大論理学(下)』武市健人訳注より。


価値形態論、図解:

      四:  ◎ 貨幣    a=Gold
          ◯ 
      三: /| 一般的  b=a, c=a, d=a,...n=a
        ☆☆☆     
        ☆☆☆     
      二:|/  拡大   ax=b, a=c, a=d,...a=n
        ◯ 
    形態一:◯=☆ 単純      a=b
(相対的価値形態 = 等価形態) ↑

結論: 貨幣による交換は、関係性に自由をたらすが(マルクスは平等を強調する)、
    等価価値(貨幣)と相対的価値形態(商品)という非対称な関係構造を伴う。

6:32 午後  
Blogger yoji said...



   《労働者が協同組合的生産の諸条件を社会的規模で、まず最初は自国に国民的規模でつくりだそうとするのは、現在の生産諸条件の変革のために努力することにほかならず、国家の補助による協同組合の設立とはなんのかかわりもないものである! 今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的につくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。》(『ゴータ綱領草案批判』、山辺健太郎訳) 国民文庫

   国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって替わるべきだと、マルクスはいっているのです。しかし、何らかの国家の補助がないならば、生産者協同組合が資本制企業に敗れてしまうことは避けがたい。だから、マルクスはプロレタリアートが国家権力を握ることが不可欠だと考えました。にもかかわらず、マルクスがラッサールと対立するのは、つぎの点においてです。ラッサールがヘーゲルにならって国家を理性的なものとしてみなしているのに、マルクスは国家を消滅すべきものとして見ていた。その点で、マルクスはあくまでプルードン派なのです。


柄谷行人
『世界共和国へ』

11:02 午前  
Blogger yoji said...

   《労働者が協同組合的生産の諸条件を社会的規模で、まず最初は自国に国民的規模で
つくりだそうとするのは、現在の生産諸条件の変革のために努力することにほかならず、国家
の補助による協同組合の設立とはなんのかかわりもないものである! 今日の協同組合に
ついていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的につく
りだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。》(『ゴータ綱領草案批判』、山辺
健太郎訳) 国民文庫

   国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって
替わるべきだと、マルクスはいっているのです。しかし、何らかの国家の補助がないならば、
生産者協同組合が資本制企業に敗れてしまうことは避けがたい。だから、マルクスはプロレタ
リアートが国家権力を握ることが不可欠だと考えました。にもかかわらず、マルクスがラッサ
ールと対立するのは、つぎの点においてです。ラッサールがヘーゲルにならって国家を理性的
なものとしてみなしているのに、マルクスは国家を消滅すべきものとして見ていた。その点で、
マルクスはあくまでプルードン派なのです。


柄谷行人
『世界共和国へ』

11:06 午前  
Blogger yoji said...

土地制度史學, 第 18 巻、第 3~4 号

前表紙
御茶の水書房, 1976
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71 ページ
... スは,重農主義について,「曲げすぎた棒をまっすぐするにはその反対の方へ同じくらい
曲げなければならない〖"リという諺を引いて,商工業の方へ重点がかかりすぎたものを
正す .... 3 " 8 , 1960 , ( :ヒ V , VI ^レーニン「藤業における資本主義」『^』第四巻 144 頁.
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4:58 午後  
Blogger yoji said...

On Lenin's Stickbending | International Socialist Review
http://isreview.org/issue/61/lenins-stickbending
It is not clear that the “quote” Cliff uses above is an actual quotation. Later in the same book Cliff writes, “Lenin’s ‘bending of the stick’ right over to mechanical over-emphasis on organization in What Is to Be Done? was, nevertheless, quite useful operationally, whereas, over a period of some four to five years, the Marxists in Russia had aroused a desire in the working class for confrontation at the factory level, the step now necessary was to arouse, at least in the politically conscious section of the masses, a passion for political action.”

5:06 午後  
Blogger yoji said...

蚊居肢: マルクスとラカンの三角形
http://kaie14.blogspot.jp/2016/08/blog-post_88.html

昨晩、読み返しよ(少しばかり)、『資本論』をね‼ ぼくはあれを読んだ数少ない人間の1人だ。ジョレス〔当時代表的な社会主義者〕自身は--(読んでいないように見える)。(…)『資本論』といえば、この分厚い本はきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさえすればいい。これはかなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、無益にやたらと衒学的であったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが言いたいのは、物事をとらえる際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ているということであり、彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。対象の違いは重要ではない。それに結局をいえば、対象は同じなんだから!(ヴァレリー、1918年5月11日、ジッド宛書簡、山田広昭訳)

10:21 午前  
Blogger yoji said...

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と
述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな
笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、
1973〜95年のモンターニュ派の代わりに1848〜51年のモンターニュ派、小男の伍長と彼の
元帥たちの円卓騎士団の代わりに、借金を抱えた中尉たちを手当たり次第にかき集めて
引き連れたロンドンの警官!天才のブリューメル18日の代わりに白痴のブリュメール18日!
そしてブリュメール18日の第二版が出版された状況も、これと同じ戯画である。一度目は
フランスが破産の瀬戸際にあったが、今度はボナパルト自身が債務者拘留所に入る瀬戸際
だった。あのときは列強の連合が国境にいたが、――今度はルーゲ=ダラシュの連合が
イングランドに、キンケルブレンターノの連合がアメリカにいる。あのときはサン・ベルナール
峠を越えなければならなかったが、今度は一個中退の憲兵隊をジュラ山脈を越えて送り込
まなければならない。あのときはマレンゴ以上のものを獲得しなければならなかったが、
今度はサン・タンドレ大十字勲章を獲得し、『ベルリン国民新聞』の尊敬を集めなければならない。
人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るの
ではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべて
の死せる世代の伝統が、悪夢のように生きている者の思考にのしかかっている。そして、生き
ている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事
に携わっているように見えるちょうどそのとき、まさにそのような革命的危機の時期に、不安
そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役にたてようとし、その名前の、鬨の声、衣装を
借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じよ
うとするのである。

カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」
http://murashit.hateblo.jp/entry/20081030/1225379175

9:23 午前  
Blogger yoji said...

1870年

大蔵省に派遣されたヴァルランとジュールドは、国庫が厳重に封鎖され、主要な証券類と書類が持ち去られていることを
知ると、フランス銀行と交渉して五〇万フランを借り入れた。三〇万人の国民軍兵士-連盟兵(フェデレ)
への給与の支給が、生活問題としてぜひともさし当って必要であったからである。しかし彼ら
は、国庫を実力で破壊したり、フランス銀行を強制的に差し押えることまでは考えなかったの
てある。銀行側も革命勢力と事を構えるよりは、領収書と引換えに、小出しの貸付けをしてそ
の場その場を切り抜け、時間かせぎをした方が有利と判断した。

パリ・コミューン桂圭男岩波新書1971
122頁

11:27 午後  
Blogger yoji said...


NEOACA BLOG: 浅田彰『逃走論』
http://neoaca.blogspot.jp/2013/06/blog-post_23.html
https://i.imgur.com/Je2XNLS.gif
https://i.imgur.com/hfKtLsv.gif






柄谷行人著作リスト['80s]一覧
http://karatani-b.world.coocan.jp/80_l.html

マルクス・貨幣・言語 現代思想 1983.03.01 思考のパラドックス、ダイアローグII


柄谷 だから以前に岩井さんに言ったことがあるんだけど、「ケインズ主義」なんていうものはないんですよね。ケインズは当り前のことを言っている。「ケインズ主義」が出てきてからこうなったということではない。もともとそうなのですから、古典派経済学および新古典派こそがケインズの認識を「ケインズ主義」におとしめてしまう、ありもしない均衡体系を設定している。


浅田彰レジュメ:
レポート                   浅田彰

*記号論
記号論は完結した差異のシステムとしての記号体系を前提とする。

 記号体系は分節化された総体であるが、分節の仕方が恣意性に基づいているため、個々の記号は他の記号との差異においてしか規定されえず、したがって、全体が一挙にとらえられねばならない。
 そのような完結したシステムを前提すれば、その中で個々の記号を形作るシニフィアン(sa)とシニフィエ(se')のペアは、ソシュールの言う通り、一枚の紙の表裏のような一体の関係をなすことになる(図1)。

図1
I+++++++++++++I
     ___
        ↓
     _記号_
    /   \
 I se'I se'I
 +----+----+
 I sa I sa I

   *
 商品の総体をこれと同様のシステムとして考えるのは容易である。
 個々の商品は他の商品との差異においてはじめて規定されるが、そうした差異の総体が完結したシステムをなすとき、個々の商品を形作る使用価値と価値のペアは確固たる統一において立ち現われることになる(図2)。

図2

I+++++++++++++I
     ___
        ↓
     _商品_
    /   \
 I 価値 I 価値 I
 +----+----+
 I使用価値I使用価値I

    *
 ところで、このような完結したシステムは前提とすべきものなのだろうか。むしろ、媒介された結果なのではないだろうか。

*価値形態論

 マルクスは、完結したシステムに先立つ場面に遡り、そこに矛盾を孕んだネットワークを見出す。その矛盾はふたつの商品の関係においてすでに明らかである。それらは互いに相手の使用価値を鏡として自分の価値を確証しようとする。相手を《奴》(sa)、自分を《主》(se')にしようとするのである(図3)。


図3
商品I      商品II
 se'   se'
   \  /
    \/
    /\
   /  \
 sa    sa

se':相対的価値形態 …相手の使用価値を鏡として自分の価値を確証する〈主〉
sa :等 価 形 態 …自分の使用価値を鏡として相手の価値を確証してやる〈奴〉


 どちらが《奴》となり、どちらが《主》となるか。この関係はシーソーのようなものであり、磁石のように揺れ動いてやまない。先の比喩で言えば、紙の表裏は一定せず、いわばメビウス的反転をくり返すのである。
 このような混乱は商品の数を増やすほどにひどくなり、矛盾のネットワークが現出される。それはいかにして解決されるのか。
      *
 このネットワークの中から、ある一商品が、他の全商品の価値を身をもって映し出す一般的な鏡として、つまりは全員の《奴》として下方に排除され、ついで逆転運動により、全商品の価値の保証人として、つまりは全員を後見する《主》として、上方から君臨することになる。大文字のSaとしての貨幣の出現である(図4)。



図4

     全員の〈主〉となったSa
    Sa
    /\
   /  \
  /    \ 
 /______\
(__xxxx__)
 \      /
  \    /
   \  /
    \/
     全員の〈奴〉となったsa

 このSaが一般的な媒介のエレメントとなることによってはじめて、ひとまず矛盾が解決され、商品の総体が完結したシステムを形作りうるようになる。その中で個々の商品は固有の価値と使用価値の統一として立ち現われるが、それはSaたる貨幣のもたらす効果なのである(図5)。


図5
       Sa
       /\
      /  \
     /    \
    /      \
   /        \
  (++++++++++)    I 価値 I 価値 I
      ___         +----+----+
       \________/ I使用価値I使用価値I

 このことは記号論一般にあてはめることができる。Saが超越的な中心としてメタ・レベルから場を超コード化することによってはじめて、記号の総体が完結したシステムを形作りうるようになるのである。記号論が《ゼロ記号》として前提してきたものこそ、このSaである。

*流通論

 しかし、近代の貨幣‐資本については、ストーリーはそれでおわりというわけではない。ひとたびメタ・レベルに立った貨幣がただちにオブジェクト・レベルに再投下されて商品に化身し、そこからまたメタ・レベルヘとジャンプする。このプロセスのくり返しこそ、貨幣―資本の運動形式なのである。これを《クラインの壺》によってモデル化する(図6)。

          __
         /__\
図6    貨幣/〇  \\
        II  //
       / \ //
      /   \I
     /   / \
    /  _/  I\
   / _/    \ \
  /_/_______\_\
 (_____________)

 これは一切のスタティックなハイアラーキーを突き崩していく積極的な運動ではあるが、一定のサイクルを際限なく反復するよう強図いられている点では、未だ規制された回帰でしかない。その中で、差異は完結したシステムに封じ込められることをやめて累積的な差異化の運動を行なうようになるが、それもまた一定方向に誘導された運動でしかない。
 ここで注意しなければならないのは、商品から資本への移行が本来なんの保証もないパラドキシカル・ジャンプーー「命がけの飛躍」(salto mortale)だということである。《クラインの壺》の運動は、パラドックスをそのつど一定の仕方で飛びこえながら進行するプロセスなのである。しかし、それはパラドックスに対するなしくずしの解決なのであって最終的な解決ではない。まさにそのことこそが恐慌論の出発点である。



岩井 はっきり構造的に決まっている。漫才の「ツッコミ」と「ボケ」なん
ですね。(笑)
浅田 「ツッコミ」が「資本家」で「ボケ」が「労働者」だと。
柄谷 でもそこには悲劇性はないわな。(笑)
浅田 まあとにかく、そういう説明が成り立つと思うんですよ。岩井さんが
あえてそれを取らなかったのは「利潤」と「利子」を区別したかったからだ
と思うんです。置塩·森嶋·ローマーの「マルクスの基本定理」とい.っのが
あって、「各産業が正の利潤率をもつような価格体系の存在と搾取率が正に
なるような価値体系の存在は同値である」という。ここで言っている「利潤
率」というのは事実上「利子率」なんですよね。
:182

参考:

      _____________________
     /                     \
   A(                       )B 記憶の全体、過去
     \_____________________/
      \                   /
       \ _______________ /従来の心理学、哲学で無視されがちな、 
      A' (               )  B' 精神生活の無数の反復及び、
         \_____________/      無数の切断面
          \           /
記憶全体       \ _______ /
          A'' (_______)B'' 無数の切断面
             \自我の運動 /     
       _______\ ↑↓  /________P 現実的表象を現す運動平面         
      /        \ ↑↓ /身体の形象   /             
     /          \/        /   
    /             S 現在の知覚  /    
   /____________________/
  ベルクソン『物質と記憶』における知覚と記憶、円錐モデル



追記:

ゲーデルの不完全性定理と較べればわかるが、マルクス価値形態論は論理が不徹底で道半ばである。

マルクスの場合、ゲーデル数にあたるものが貨幣になるが、その展開がなされていない。

2:48 午後  
Blogger yoji said...

的場昭弘「マルクスを再読する 主要著作の現代的意義」2017
https://itun.es/jp/sPeLib.l


スピノザを弁証法を拒否した思想家と定義したのは正しい。
ただし、マルクスの唯物論は外部に空想家を措定し、攻撃することによって
自らの立場を確かなものとするようなものであり、言い換えれば他者の唯心論の
おかげではじめてマルクスの唯物論は存在できるのだ(ハイデガーのマルクス批判にも一理ある)。
プルードンはこうした弁証法のまやかしに意識的に決別した最初の人間だ。
だからスピノザ(疑いつつ:ある=精神:身体)*を受け継いだのはマルクスではなくプルードンだ。
その単純な集合労働力理論を批判するのは簡単だが、相対的剰余価値として二次的概念に切り下げたことが、安易な政治主義の跋扈をもたらした。プルードンに関して言えば、彼は銀行を作り
自分たちの貨幣を作ろうとした(マルクスだって労働組合における労働証券を想定していた…)。
プルードンの集合労働力理論の肝は銀行を作ることであって共同体を作ることにはない。
ここに民衆の自然権を(国家に対して双務主義的に)重視したスピノザとプルードンの
共通点がある。
またマルクスは自分のユダヤ人出自を隠蔽し、欺瞞的態度をとった。スピノザとは正反対である。
プルードンの出世作『日曜励行論』も内在的ユダヤ人論だった…
『自然的経済秩序』冒頭のゲゼルによるマルクス批判、プルードン賛美を読み直すべきだろう。
ゲゼル(=プルードンを再評価した)とカレツキ(=マルクスから有効需要原理を抽出した)を経由しないマルクス論は退屈である。


ゲゼルであれば商品は減価するのに対応する価値を表す貨幣が目減りしないのはおかしいと
言うことになるし、カレツキであれば投資と投資決意は違うといったことになる。



マルクスを再読する 主要著作の現代的意義 (角川ソフィア文庫) | 的場 昭弘 |本 | 通販 | Amazon
https://www.amazon.co.jp/dp/4041053684/

商品の説明
内容紹介
「以後の時代」を考えるには、マルクスを再読する必要がある。

資本主義国家が外部から収奪できなくなったとき、いったい資本主義はどうなるのか?
この問題意識から、日本を代表するマルクス研究者が主要著作を読み解いた講義録。

「グローバリゼーションが社会を上位均衡化させる」は、幻想だった。
実際に起こったのは中産階級の崩壊であり、下位均衡化(下の方で貧しくなる事)でしかなかった。
「以後の時代」を考えるには、資本主義後の世界を考えたマルクスを再読する必要がある。

ネグリの帝国論とその課題から入り、アルチュセールからスピノザの思想を押さえたうえで、マルクスの主要著作を、「代議制民主主義が世界に普及している現在において、あえて近代市民社会を批判する」という視点から解題していく。
この挑戦、刺激的な読み解きは、資本主義が支配する世界以外を考えられない私たちの頭を解き放つ。
そして、まるで“中世かポスト現代か”というような、ナショナリズムや民族主義、原理主義が氾濫する現代社会を切り拓き、新しい世界を展望するきっかけとなるだろう。

文庫版まえがき

第一部 現代思想と
一章 アントニオ・ネグリの「帝国」の概念
二章 アルチュセール・ショック
三章 スピノザ革命

第二部 の著作を再読する
四章 現代社会とマルクス
五章 共産主義社会とは何か--『経済学・哲学草稿』の類的本質
六章 唯物論とは何か--フォイエルバッハテーゼの一一番
七章 たえざる運動としての共産主義--『ドイツ・イデオロギー』
八章 構成された価値と労働運動--『哲学の貧困』
九章 共産主義の亡霊と『共産党宣言』
一〇章 国家の解体--フランス三部作
一一章 オリエンタリズム
一二章 方法の問題--『資本論』と『経済学批判要綱』
一三章 社会運動とマルクス

あとがき
文庫版あとがき
解説 佐藤優

内容(「BOOK」データベースより)
資本主義国家が外部から収奪できなくなったとき、資本主義はどうなるのか?この問題意識から、日本を代表するマルクス研究者が主要著作を読み解いた講義録。「グローバリゼーションが社会を上位均衡化させる」は、幻想だった。実際に起こったのは中産階級の崩壊であり、下位均衡化(下の方で貧しくなる事)だ。「“帝国”以後の時代」を考えるには、資本主義後の世界を考えたマルクスを再読する必要がある。



5つ星のうち 5.0マルクスの著書を解説している第5章から読むのがおすすめ
投稿者 荒野の狼 トップ500レビュアー 投稿日 2017/6/11
形式: 文庫 Amazonで購入
マルクス研究者の的場昭弘著の2005年に刊行された本を2017年に文庫化にあたり加筆・修正を加えた全13章からなる本。第5-12章がマルクスの著作のポイントをわかりやすく解説しており、マルクスの思想の概要がわかり優れている。第1-4章と13章は、現代思想・社会にマルクスの考えたかをどう生かしていくかといったことなので、マルクスをある程度知ってからでないと理解はしにくい。よって本書は、まず第5-12章のマルクスの著作を解説する部分から読むことを薦める。この部分で、ところどころ第1-4章に書かれている単語がでてくるので、その部分は、本書の前半を辞書的にかいつまんで読めば理解の助けになる。5章は「経済学・哲学草稿」で、類的本質とは共同体を意味し、この類的共同体の概念こそ共産主義の原型(p152)で、これを「粗野な共産主義」と区別している。後者では、共有財産は共同体のボスの私物と化していて本来の意味での共有財産ではないと批判(例。旧ソ連の国有化は所有者が変わっただけ)p158.社会化というのは、国有化ではなく、所有がその地域に属すということ(例。私立大学は営利企業ではなく教育という公的な目標を立てており、社会的存在)。物的な欠乏がかえって他の人間の力を必要とし、物的欠乏と人間的充足、それが社会主義(=共産主義)とする(p166)。6章は「フォイエルバッハテーゼ」で、“哲学者たちの解釈を想像の世界から現実の世界に移行させるには哲学者自ら実践的活動を行わねばならないとする(p177)。7章は「ドイツイデオロギー」で、”人間はもともと集団で生きる動物だったが、それを捨ててしまった。自分の利益と他人の利益との敵対が生まれた。P184“。”人間独自の本質とは自己保存本能だとか利己心だとかではなく、本来の人間のあり方は共同性、類としての集団性。p204.共同労働というものは人間の自然なものだ“とするp206。8章は「哲学の貧困」で、政治運動と労働運動は分離できないp225とする。9章は「共産党宣言」。”ブルジョア社会こそ実は所有を一挙に独占して、人々に所有を与えない。共産主義者は、所有を廃止していると言っているが、実は所有をさせないのはブルジョアのほうなんだ。むしろ逆に共産主義こそ所有を与えるp241“としている(代議士として選ばれるのはブルジョアp245)。10章は「フランス三部作」。権力者は最も弱いものと合体(例。ルンペン・プロレタリアートp265)。11章は「オリエンタリズム」。12章は「資本論」と「経済学批判要綱」。利己心で説明すると、共同体経済が最初から排除されるp309.共同体とは、それぞれの人間が自分の生産、消費に関して、共通する何かをもっていること。つくりあげたものはみんなのものであるp312。上記を踏まえた上で残りの章を読むとよい。1章は「アントニ・ネグリの帝国の概念」。現代では”情報を含めて本来人々が共有しなければならないものを獲得している全体がブルジョアジーとみなさなければならなくなったp33“とする。2章は「アルチュセール」の思想。3章は「スピノザ」の哲学からマルクスを考える。4章は「現代社会とマルクス」。ソ連は国家独占資本主義の究極の形態とするp138(搾取と収奪を国家を通じて労働者国家の名の下に行う)。13章は「社会運動とマルクス」として筆者の考えをまとめている。
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5:43 午後  
Blogger yoji said...

資本論
1:1:2
人間は、その生産においては、自然そのものと同じようにふるまいうるのみ、すなわち、質料の形態を変化させうるのみである。それどころか、この形態変化労働そのものにおいて、人間はたえず自然力によって支持される。だから労働は、それによって生産される使用価値・質料的富・の唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティがいうように、労働は質料的富の父であり、土地はその母である。

5:28 午後  
Blogger yoji said...

歴史的には所有は貯蓄であり原始的収奪だが
経済学的にはストック
これをマルクスは政治的にしか解決できないと考えている
マルクス経済学はフローしか分析できていないから
ここにピケティブームの徒花的でない必然性がある
根本的にはゲゼルの減価マネーにしか解決策はないと思う
疎外には集合力で対抗するしかない

6:17 午後  
Blogger yoji said...

マルクス、エンゲルスとエコロジー ( その他環境問題 ) - 草莽崛起~阿蘇地☆曳人のブログ(桜の下に「日本」を屠る決意) - Yahoo!ブログ
https://blogs.yahoo.co.jp/assocy/36850884.html?__ysp=44Oe44Or44Kv44K5IOODmuODhuOCo%2BODvCDmr40g5Zyf5ZywIOizh%2BacrOirlg%3D%3D
考察のための素材として、環境問題と関連ありそうな、マルクス、エンゲルスの記述を少しだけ抜粋してみました。

①「より高度な経済的社会構成の立場からすれば、地球にたいする個々の個人の私有は、他の人間に対する人間の私有と全く同じ様に、ばかげたものとして現われるであろう。社会全体、一国民全体でさえも、じつに同時代の一切の社会を合してさえも、彼らは大地の所有者ではない。彼らは、ただ大地の占有者、その受益者であるにすぎない。そしてよき家父として、土地を改良して、後続の諸世代に遺さねばならない」(資本論)


②「われわれが自然を支配するのは、ある征服者がよそのある民族を支配するとか、なにか自然の外にあるものが自然を支配するといったぐあいに支配するのではなく、――そうではなく、われわれは肉と血と脳髄ごとことごとく自然のものである、自然のただなかにあるのだということ、そして自然にたいするわれわれの支配はすべて、他のあらゆる被造物にもましてわれわれが自然の法則を認識し、それらの法則を正しく適用しうるという点にあるのだと、ということである」(エンゲルス『自然の弁証法』より「猿が人間化するにあたっての労働の役割」)


③「消費の排泄物は農業にとって最も重要である。その使用に関しては、資本主義経済では莫大な浪費が行なわれる。たとえば、ロンドンでは450万人の糞尿を処理するのに資本主義経済は巨額の費用をかけてテムズ河をよごすためにそれを使うよりもましなことはできないのである」(資本論)


④「農業の領域において、大工業は、それが古い社会の堡塁(ホウルイ)である『農民』を破滅させ、彼らを賃労働者と置き換える限りにおいて、最も革命的に作用する。こうして、農村の社会的変革要求および社会的諸対立は、都市におけるそれらと均質化される。陳腐きわまる、また非合理きわまる経営に代わって、科学の意識的な技術学的応用が現れる。農業およびマニュファクチュアの幼稚で未発展な姿態にまとわりついていた両産業の本源的な家族のきずなの解体は、資本主義的生産様式によって完了される。

しかし、資本主義的生産様式は、同時に、農業と工業との対立的に形成された姿態を基礎とする、両者の新しいより高い総合、両者の結合の物質的諸前提をつくり出す。資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊穣性の持続の永久的自然条件を、攪乱する。

したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊するこうしてこの資本主義的生産様式は、都市労働者の肉体的健康と農村労働者の精神生活とを、同時に破壊する(324)。しかしそれは同時に、あの物質代謝の単に自然発生的に生じた諸状態を破壊することを通じて、その物質代謝を、社会的生産の規制的法則として、また完全な人間の発展に適合した形態において、体系的に再建することを強制する。」(資本論)

⑤「人間は、彼の生産において、ただ自然のやるとおりにやることができるだけである。すなわち、ただ素材の形態を変えることができるだけである。…この形をつける労働そのものにおいても、人間はつねに自然力にささえられている。だから、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、ただ一つの源泉ではない。ウイリアムペティの言うように、労働は素材的富の父であり、土地はその母である。」(資本論)

⑥「労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一存立条件であり、人間と自然との物質代謝を、したがって人間の生活を、媒介する永遠の自然必然性である。」資本論

8:06 午前  
Blogger yoji said...



いわゆる本源的蓄積
http://hyonmoku58.blog.fc2.com/blog-entry-878.html
742頁

自由な労働者とは、奴隷や農奴などのように彼ら自身が直接に生産手段の一部分に属する
のでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らに属さず、彼らはむしろ生産
手段から自由である、すなわち引き離されてもいるという二重の意味でそうなのである。


Freie Arbeiter in dem Doppelsinn, daß weder sie selbst unmittelbar zu den Produktionsmitteln
gehören, wie Sklaven, Leibeigne usw., noch auch die Produktionsmittel ihnen gehören,
wie beim selbstwirtschaftenden Bauer usw., sie davon vielmehr frei, los und ledig sind.

12:16 午後  
Blogger yoji said...



いわゆる本源的蓄積
http://hyonmoku58.blog.fc2.com/blog-entry-878.html
742頁

自由な労働者とは、奴隷や農奴などのように彼ら自身が直接に生産手段の一部分に属する
のでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らに属さず、彼らはむしろ生産
手段から自由である、すなわち引き離されてもいるという二重の意味でそうなのである。


Freie Arbeiter in dem Doppelsinn, daß weder sie selbst unmittelbar zu den Produktionsmitteln
gehören, wie Sklaven, Leibeigne usw., noch auch die Produktionsmittel ihnen gehören,
wie beim selbstwirtschaftenden Bauer usw., sie davon vielmehr frei, los und ledig sind.


二重の意味で自由な労働者
Freie Arbeiter in dem Doppelsinn,

Das Kapital Band 1
http://www.marx-forum.de/das_kapital/kapital_1/1.789.html
Kapital 1.: 789 - 802 (Ende)
24. Kapitel: Die sogenannte ursprüngliche Akkumulation:
„Geld und Ware sind nicht von vornherein Kapital, sowenig wie Produktions- und Lebensmittel. Sie bedürfen der Verwandlung in Kapital. Diese Verwandlung selbst aber kann nur unter bestimmten Umständen vorgehen, die sich dahin zusammenspitzen:
Zweierlei sehr verschiedene Sorten von Warenbesitzern müssen sich gegenüber und in Kontakt treten, einerseits Eigner von Geld, Produktions- und Lebensmitteln, denen es gilt, die von ihnen besessene Wertsumme zu verwerten durch Ankauf fremder Arbeitskraft;
andererseits freie Arbeiter, Verkäufer der eigenen Arbeitskraft und daher Verkäufer von Arbeit. Freie Arbeiter in dem Doppelsinn, dass sie weder selbst unmittelbar zu den Produktionsmitteln gehören, wie Sklaven, Leibeigene usw., noch auch die Produktionsmittel ihnen gehören, wie beim selbstwirtschaftenden Bauern usw., sie davon vielmehr frei, los und ledig sind.

12:27 午後  
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いわゆる本源的蓄積
http://hyonmoku58.blog.fc2.com/blog-entry-878.html
742頁

自由な労働者とは、奴隷や農奴などのように彼ら自身が直接に生産手段の一部分に属する
のでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らに属さず、彼らはむしろ生産
手段から自由である、すなわち引き離されてもいるという二重の意味でそうなのである。


Freie Arbeiter in dem Doppelsinn, daß weder sie selbst unmittelbar zu den Produktionsmitteln
gehören, wie Sklaven, Leibeigne usw., noch auch die Produktionsmittel ihnen gehören,
wie beim selbstwirtschaftenden Bauer usw., sie davon vielmehr frei, los und ledig sind.


二重の意味で自由な労働者
Freie Arbeiter in dem Doppelsinn,

Das Kapital Band 1
http://www.marx-forum.de/das_kapital/kapital_1/1.789.html
Kapital 1.: 789 - 802 (Ende)
24. Kapitel: Die sogenannte ursprüngliche Akkumulation:
„Geld und Ware sind nicht von vornherein Kapital, sowenig wie Produktions- und Lebensmittel. Sie bedürfen der Verwandlung in Kapital. Diese Verwandlung selbst aber kann nur unter bestimmten Umständen vorgehen, die sich dahin zusammenspitzen:
Zweierlei sehr verschiedene Sorten von Warenbesitzern müssen sich gegenüber und in Kontakt treten, einerseits Eigner von Geld, Produktions- und Lebensmitteln, denen es gilt, die von ihnen besessene Wertsumme zu verwerten durch Ankauf fremder Arbeitskraft;
andererseits freie Arbeiter, Verkäufer der eigenen Arbeitskraft und daher Verkäufer von Arbeit. Freie Arbeiter in dem Doppelsinn, dass sie weder selbst unmittelbar zu den Produktionsmitteln gehören, wie Sklaven, Leibeigene usw., noch auch die Produktionsmittel ihnen gehören, wie beim selbstwirtschaftenden Bauern usw., sie davon vielmehr frei, los und ledig sind.





24:1

自由な労働者とは、──彼じしんは奴隷や農奴などのように直接に生産手段に属するのでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼に属しているのでもなく、むしろ彼が生産手段から自由である、すなわち引離されている、という二重の意味においてである。

4:3参照
だから、貨幣を資本に転化するためには、貨幣所有者は自由な労働者を商品市場に見いださねばならぬのであって、ここに自由というのは、自由な人格として自分の労働力を自分の商品として処分するという、また他方では、売るべき他の商品をもたず、自分の労働力の実現に必要ないっさいの物象から引離されている・自由である・という、二重の意味においてである。

12:42 午後  
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川上重人『シェイクスピアは『資本論』のなかでどう描かれたか』(本の泉社)

 『資本論』の中には第一巻を中心に、次の八つのシェイクスピア作品が登場する。
 「ヘンリー四世・第一部」(第一巻・二カ所)
 「から騒ぎ」(第一巻・二カ所)
 「夏の夜の夢」(第一巻・一カ所)
 「アテネのタイモン」(第一巻・一カ所)
 「お気に召すまま」(第一巻・一カ所)
 「ハムレット」(第一巻・一カ所)
 「ヴェニスの商人」(第一巻・三カ所)
 「ジョン王」(第三巻・一カ所)
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1:33 午後  
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                  (マルクス、リンク:::::::::)
川上重人『シェイクスピアは『資本論』のなかでどう描かれたか』(本の泉社)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/09/blog-post_13.html



柄谷行人氏ロングインタビュー 「ルネサンス的」文学の系譜 『定本 柄谷行人文学論集』刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
http://dokushojin.com/article.html?i=2104
シェークスピアか源氏物語か
>『資本論』はシェークスピアの引用だらけです(笑)。


川上重人『シェイクスピアは『資本論』のなかでどう描かれたか』(本の泉社)

 『資本論』の中には第一巻を中心に、次の八つのシェイクスピア作品が登場する。
 「ヘンリー四世・第一部」(第一巻・二カ所)
 「から騒ぎ」(第一巻・二カ所)
 「夏の夜の夢」(第一巻・一カ所)
 「アテネのタイモン」(第一巻・一カ所)
 「お気に召すまま」(第一巻・一カ所)
 「ハムレット」(第一巻・一カ所)
 「ヴェニスの商人」(第一巻・三カ所)
 「ジョン王」(第三巻・一カ所)


シェークスピア
ヘンリー4世第一部
33,第四版のために
かように剣を使ったが、冥府の竜たるマルクスは「たちまち窮地」におちいって、彼の足もとに息たえたのだ!

シェークスピア
ヘンリー4世
52,1:1:1:3
商品の価値対象性は、つかまえどころがない点で、クイックリおかみ〔シェークスピアの『ウインザーの陽気な女房』や『ヘンリ四世』に出てくる人物〕と異なる。

シェークスピア
から騒ぎ
89,1:1:2
誰かここで、夜番のシーコールに教えてつぎのように語るおひとよしのドッグベリー〔シェークスピアの『むだ騒ぎ』における警吏。おろかでおせっかいな属吏のあだ名〕のことを想いださぬ人があろうか、──「男ぶりがよいということは境遇のたまものだが、読み書きができるということは生れつきだ」と。

シェークスピア
真夏の夜の夢1:1
112,1:1:3:2:a
かように、商品は貨幣を恋しているが、しかし「まことの恋路はままならぬもの」である。

シェークスピア
アテネのタイモン4:3
経哲草稿参照
136,1:1:3:3:a
九一 「黄金? 黄色い、ぎらぎらする、貴重な黄金じゃないか? ……こいつが此ッ位いありゃ、黒も白に、醜も美に、邪も正に、賤も貴に、老も若に、怯も勇に変えることが出来る。……神たち、何とどうです? これ此ッ位いありゃ、神官共だろうが、お傍仕えの御家来だろうが、みんな余所へ引っばってゆかれてしまいますぞ。まだ大丈夫という病人の頭の下から枕を引ッこぬいてゆきますぞ。この黄色い奴めは、信仰を編み上げもすりゃ、引きちぎりもする、忌しい奴を有りがたい男にもする、白癩病みをも拝ませる、盗賊にも地位や爵や介添えや名誉を元老なみに与える。古後家を再縁させるのもこいつだ。……やい、うぬ、罰当りの土くれめ、……淫売め……」(シェークスピア『アセンズのタイモン』〔第四幕第三場、坪内逍遙訳による〕。)
九二 「およそ世に行なわれるもののうち、黄金ほど悪いものはない。それは国をほろぼし、人の家屋敷をうばい、また時には、徳ある人の心を動かして、邪悪な行ないになずませる。それは人々に、わる賢い鉄面皮や、どんな罪業も恥じない不信心を教える。」(ソフォクレス『アンティゴーネ』。)
九三 「貪慾はプルトーそのものを地中からひき出そうとする。」(アテナイオス『学者の饗宴』〔三九七頁〕。)  
 使用価値としての商品は、特殊的な慾望を充たすのであって、質料的富の特殊的な要素をなす。…

シェークスピア
お気に召すまま2:7
176,1:2:4:3

人間は、地上に現われた最初の日と同じように、いまなお毎日、生産する以前にも途中でも消費しなければならない。

地上より世界という舞台が訳語として正確

シェークスピア
ハムレット
286,1:3:8:5
注121
話にもならぬ統計的饒舌家たるポロニアス・アーサー・ヤング〔ポロニアスは『ハムレット』にでる人物であって饒舌な廷臣〕も、同じ考え方である。


シェークスピア
ベニスの商人
4:1
300,1:3:8:6
だが資本は〔シャイロックとともに〕答えていった、──「私のすることに不都合はない! 私が要求するものは私の権利だ! 私の証文に書いてある違約金と抵当物だ!」


シェークスピア
ベニスの商人
4:1
300,1:3:8:6
「そうです、心臓です。証文にそう書いてあります。」〔301〕

シェークスピア
ベニスの商人
4:1
514,1:4:13:9
三〇七 「私が生活する手段を奪うなら、お前は私の生命を奪うのだ。」(シェークスピア〔『ヴェニスの商人』、第四幕第一場〕。)


シェークスピア
ジョン王4:3
利子
461,3:5:26
今日のブルジョア世界の白痴性は、このクソ貴族たる百万長者の「論理」が全イギリスに注入した尊敬によって示される以上には、よく示されえない。

2:27 午後  
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                  (マルクス、リンク:::::::::)
川上重人『シェイクスピアは『資本論』のなかでどう描かれたか』(本の泉社)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/09/blog-post_13.html



柄谷行人氏ロングインタビュー 「ルネサンス的」文学の系譜 『定本 柄谷行人文学論集』刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
http://dokushojin.com/article.html?i=2104
シェークスピアか源氏物語か
>『資本論』はシェークスピアの引用だらけです(笑)。


川上重人『シェイクスピアは『資本論』のなかでどう描かれたか』(本の泉社)

 『資本論』の中には第一巻を中心に、次の八つのシェイクスピア作品が登場する(12箇所)。
 「ヘンリー四世・第一部」(第一巻・二カ所)
 「から騒ぎ」(第一巻・二カ所)
 「夏の夜の夢」(第一巻・一カ所)
 「アテネのタイモン」(第一巻・一カ所)
 「お気に召すまま」(第一巻・一カ所)
 「ハムレット」(第一巻・一カ所)
 「ヴェニスの商人」(第一巻・三カ所)
 「ジョン王」(第三巻・一カ所)


シェークスピア
ヘンリー4世第一部
33,第四版のために
かように剣を使ったが、冥府の竜たるマルクスは「たちまち窮地」におちいって、彼の足もとに息たえたのだ!

シェークスピア
ヘンリー4世
52,1:1:1:3
商品の価値対象性は、つかまえどころがない点で、クイックリおかみ〔シェークスピアの『ウインザーの陽気な女房』や『ヘンリ四世』に出てくる人物〕と異なる。

シェークスピア
から騒ぎ
89,1:1:2
誰かここで、夜番のシーコールに教えてつぎのように語るおひとよしのドッグベリー〔シェークスピアの『むだ騒ぎ』における警吏。おろかでおせっかいな属吏のあだ名〕のことを想いださぬ人があろうか、──「男ぶりがよいということは境遇のたまものだが、読み書きができるということは生れつきだ」と。

シェークスピア
真夏の夜の夢1:1
112,1:1:3:2:a
かように、商品は貨幣を恋しているが、しかし「まことの恋路はままならぬもの」である。

シェークスピア
アテネのタイモン4:3
経哲草稿参照
136,1:1:3:3:a
九一 「黄金? 黄色い、ぎらぎらする、貴重な黄金じゃないか? ……こいつが此ッ位いありゃ、黒も白に、醜も美に、邪も正に、賤も貴に、老も若に、怯も勇に変えることが出来る。……神たち、何とどうです? これ此ッ位いありゃ、神官共だろうが、お傍仕えの御家来だろうが、みんな余所へ引っばってゆかれてしまいますぞ。まだ大丈夫という病人の頭の下から枕を引ッこぬいてゆきますぞ。この黄色い奴めは、信仰を編み上げもすりゃ、引きちぎりもする、忌しい奴を有りがたい男にもする、白癩病みをも拝ませる、盗賊にも地位や爵や介添えや名誉を元老なみに与える。古後家を再縁させるのもこいつだ。……やい、うぬ、罰当りの土くれめ、……淫売め……」(シェークスピア『アセンズのタイモン』〔第四幕第三場、坪内逍遙訳による〕。)
九二 「およそ世に行なわれるもののうち、黄金ほど悪いものはない。それは国をほろぼし、人の家屋敷をうばい、また時には、徳ある人の心を動かして、邪悪な行ないになずませる。それは人々に、わる賢い鉄面皮や、どんな罪業も恥じない不信心を教える。」(ソフォクレス『アンティゴーネ』。)
九三 「貪慾はプルトーそのものを地中からひき出そうとする。」(アテナイオス『学者の饗宴』〔三九七頁〕。)  
 使用価値としての商品は、特殊的な慾望を充たすのであって、質料的富の特殊的な要素をなす。…

シェークスピア
お気に召すまま2:7
176,1:2:4:3
人間は、地上に現われた最初の日と同じように、いまなお毎日、生産する以前にも途中でも消費しなければならない。
(地上より世界という舞台が訳語として正確)

シェークスピア
ハムレット
286,1:3:8:5
注121
話にもならぬ統計的饒舌家たるポロニアス・アーサー・ヤング〔ポロニアスは『ハムレット』にでる人物であって饒舌な廷臣〕も、同じ考え方である。


シェークスピア
ベニスの商人
4:1
300,1:3:8:6
だが資本は〔シャイロックとともに〕答えていった、──「私のすることに不都合はない! 私が要求するものは私の権利だ! 私の証文に書いてある違約金と抵当物だ!」


シェークスピア
ベニスの商人
4:1
300,1:3:8:6
「そうです、心臓です。証文にそう書いてあります。」〔301〕



シェークスピア
から騒ぎ
446,1:4:13:4
注190
地方のドッグベリーたち
この判決は「偉大な無給者」たる地方の治安判事たちによって下されたのではなく、ロンドンで最高裁判所の一つによって下されたのである。

シェークスピア
ベニスの商人
4:1
514,1:4:13:9
三〇七 「私が生活する手段を奪うなら、お前は私の生命を奪うのだ。」(シェークスピア〔『ヴェニスの商人』、第四幕第一場〕。)


シェークスピア
ジョン王4:3
利子
461,3:5:26
今日のブルジョア世界の白痴性は、このクソ貴族たる百万長者の「論理」が全イギリスに注入した尊敬によって示される以上には、よく示されえない。

2:43 午後  
Blogger yoji said...

自由の概念は、
カント(ライプニッツ)が統整的に定義したものをヘーゲルが構成的にとらえ直し
マルクスが唯物論的にとらえ直した、と言えよう
マルクスに倫理はない

      精神的
   ヘーゲル カント
構成的ーーーー+----統整的
   マルクス
      物質的

マルクス:
人間の発展につれて、慾望が拡大するがゆえに、この自然的必然の領域が拡大する。だが同時に、この慾望を充たす生産諸力も拡大する。この領域内での自由は、ただ、社会化された人間・結合した生産者たちが、自然との彼らの質料変換によって、盲目的な力によってのように支配されるかわりに、この質料変換を合理的に規制し、彼らの共同的統制のもとにおくという点──最小の力を充用して、彼らの人間性に最もふさわしく最も適当な諸条件のもとで、この質料変換を行なうという点──にのみありうる。だが、これは依然としてつねに必然の領域である。必然の領域の彼岸において、自己目的として行なわれる人間の力の発展が、真の自由の領域が、──といっても、かの必然の領域を基礎としてのみ開花しうる自由の領域が、──はじまる。〔874〕労働日の短縮は根本的条件である。

3:48:2


ヘーゲル:
エンチ挨拶
自然は、理性をただ必然性のもとに実現するように束縛されているのでありますが、これに反し精神の王国は自由の王国であります。


カント:
〔B843〕〔A815〕ライプニッツ
規準2
叡知者の世界は、単なる自然としては感性界と名づけられるにすぎないけれども、自由の体系としてはしかし、叡知的世界、すなわち道徳的世界(regnum gratiae 恩寵の国)と称することができる

5:43 午後  
Blogger yoji said...

自由の概念は、
カント(ライプニッツ)が統整的に定義したものをヘーゲルが構成的にとらえ直し
マルクスが唯物論的にとらえ直した、と言えよう
マルクスに倫理はない

      精神的
   ヘーゲル カント
構成的ーーーー+----統整的
   マルクス
      物質的

マルクス:
資本論3:48:2
人間の発展につれて、慾望が拡大するがゆえに、この自然的必然の領域が拡大する。だが同時に、この慾望を充たす生産諸力も拡大する。この領域内での自由は、ただ、社会化された人間・結合した生産者たちが、自然との彼らの質料変換によって、盲目的な力によってのように支配されるかわりに、この質料変換を合理的に規制し、彼らの共同的統制のもとにおくという点──最小の力を充用して、彼らの人間性に最もふさわしく最も適当な諸条件のもとで、この質料変換を行なうという点──にのみありうる。だが、これは依然としてつねに必然の領域である。必然の領域の彼岸において、自己目的として行なわれる人間の力の発展が、真の自由の領域が、──といっても、かの必然の領域を基礎としてのみ開花しうる自由の領域が、──はじまる。〔874〕労働日の短縮は根本的条件である。

ヘーゲル:
エンチ挨拶
自然は、理性をただ必然性のもとに実現するように束縛されているのでありますが、これに反し精神の王国は自由の王国であります。


カント:
〔B843〕〔A815〕
規準2
叡知者の世界は、単なる自然としては感性界と名づけられるにすぎないけれども、自由の体系としてはしかし、叡知的世界、すなわち道徳的世界(regnum gratiae 恩寵の国)と称することができる

5:45 午後  
Blogger yoji said...

自由の概念は、
カント(ライプニッツ)が統整的に定義したものをヘーゲルが構成的にとらえ直し
マルクスが唯物論的にとらえ直した、と言えよう
マルクスに倫理はない

      精神的
   ヘーゲル カント
構成的ーーーー+----統整的
   マルクス
      物質的

マルクス:
資本論3:48:3
人間の発展につれて、慾望が拡大するがゆえに、この自然的必然の領域が拡大する。だが同時に、この慾望を充たす生産諸力も拡大する。この領域内での自由は、ただ、社会化された人間・結合した生産者たちが、自然との彼らの質料変換によって、盲目的な力によってのように支配されるかわりに、この質料変換を合理的に規制し、彼らの共同的統制のもとにおくという点──最小の力を充用して、彼らの人間性に最もふさわしく最も適当な諸条件のもとで、この質料変換を行なうという点──にのみありうる。だが、これは依然としてつねに必然の領域である。必然の領域の彼岸において、自己目的として行なわれる人間の力の発展が、真の自由の領域が、──といっても、かの必然の領域を基礎としてのみ開花しうる自由の領域が、──はじまる。〔874〕労働日の短縮は根本的条件である。
(自由の領域は通常自由の国と訳される)
https://www.marxists.org/archive/marx/works/download/pdf/Capital-Volume-III.pdf
The actual wealth of society, and the possibility of constantly expanding its reproduction process, therefore, do not depend upon the duration of surplus-labour, but upon its productivity and the more or less copious conditions of production under which it is performed. In fact, the realm of freedom actually begins only where labour which is determined by necessity and mundane considerations ceases; thus in the very nature of things it lies beyond the sphere of actual material production. Just as the savage must wrestle with Nature to satisfy his wants, to maintain and reproduce life, so must civilised man, and he must do so in all social formations and under all possible modes of production. With his development this realm of physical necessity expands as a result of his wants; but, at the same time, the forces of production which satisfy these wants also increase. Freedom in this field can only consist in socialised man, the associated producers, rationally regulating their interchange with Nature, bringing it under their common control, instead of being ruled by it as by the blind forces of Nature; and achieving this with the least expenditure of energy and under conditions most favourable to, and worthy of, their human nature. But it nonetheless still remains a realm of necessity. Beyond it begins that development of human energy which is an end in itself, the true realm of freedom, which, however, can blossom forth only with this realm of necessity as its basis. The shortening of the working-day is its basic prerequisite.


ヘーゲル:
エンチ挨拶
自然は、理性をただ必然性のもとに実現するように束縛されているのでありますが、これに反し精神の王国は自由の王国であります。


カントが考えたのは 「神の国」(アウグスティヌス)


カント:
判断力の先験的理説 (原則の分析論)

われわれは今や純粋悟性の国を遍歴して、そのあらゆる部分を精密に検証したのみならず、これを測量してこの国のあらゆる事物にそれぞれの位置を規定した。
しかしこの国は一つの島であり、自然そのものによって不変の限界のうちに閉ざされている。それは真理の国(なんと魅力的な名であろう)であり、渺茫たる荒海という、仮象の本来の住家によってとりめぐらされている。b295



〔B843〕〔A815〕
規準2
叡知者の世界は、単なる自然としては感性界と名づけられるにすぎないけれども、自由の体系としてはしかし、叡知的世界、すなわち道徳的世界(regnum gratiae 恩寵の国)と称することができる

6:03 午後  
Blogger yoji said...

自由の概念は、
カント(ライプニッツ)が統整的に定義したものをヘーゲルが構成的にとらえ直し
マルクスが唯物論的にとらえ直した、と言えよう
マルクスに倫理はない

      精神的
   ヘーゲル カント
構成的ーーーー+----統整的
   マルクス
      物質的

マルクス:
資本論3:48:3
人間の発展につれて、慾望が拡大するがゆえに、この自然的必然の領域が拡大する。だが同時に、この慾望を充たす生産諸力も拡大する。この領域内での自由は、ただ、社会化された人間・結合した生産者たちが、自然との彼らの質料変換によって、盲目的な力によってのように支配されるかわりに、この質料変換を合理的に規制し、彼らの共同的統制のもとにおくという点──最小の力を充用して、彼らの人間性に最もふさわしく最も適当な諸条件のもとで、この質料変換を行なうという点──にのみありうる。だが、これは依然としてつねに必然の領域である。必然の領域の彼岸において、自己目的として行なわれる人間の力の発展が、真の自由の領域が、──といっても、かの必然の領域を基礎としてのみ開花しうる自由の領域が、──はじまる。〔874〕労働日の短縮は根本的条件である。
(自由の領域は通常自由の国と訳される)

Die Revenuen und ihre Quellen. - 48. Die trinitarische Formel
http://www.mlwerke.de/me/me25/me25_822.htm
Mit seiner Entwicklung erweitert sich dies Reich der Naturnotwendigkeit, weil die Bedürfnisse; aber zugleich erweitern sich die Produktivkräfte, die diese befriedigen. Die Freiheit in diesem Gebiet kann nur darin bestehn, daß der vergesellschaftete Mensch, die assoziierten Produzenten, diesen ihren Stoffwechsel mit der Natur rationell regeln, unter ihre gemeinschaftliche Kontrolle bringen, statt von ihm als von einer blinden Macht beherrscht zu werden; ihn mit dem geringsten Kraftaufwand und unter den ihrer menschlichen Natur würdigsten und adäquatesten Bedingungen vollziehn. Aber es bleibt dies immer ein Reich der Notwendigkeit. Jenseits desselben beginnt die menschliche Kraftentwicklung, die sich als Selbstzweck gilt, das wahre Reich der Freiheit, das aber nur auf jenem Reich der Notwendigkeit als seiner Basis aufblühn kann. Die Verkürzung des Arbeitstags ist die Grundbedingung.


https://www.marxists.org/archive/marx/works/download/pdf/Capital-Volume-III.pdf
The actual wealth of society, and the possibility of constantly expanding its reproduction process, therefore, do not depend upon the duration of surplus-labour, but upon its productivity and the more or less copious conditions of production under which it is performed. In fact, the realm of freedom actually begins only where labour which is determined by necessity and mundane considerations ceases; thus in the very nature of things it lies beyond the sphere of actual material production. Just as the savage must wrestle with Nature to satisfy his wants, to maintain and reproduce life, so must civilised man, and he must do so in all social formations and under all possible modes of production. With his development this realm of physical necessity expands as a result of his wants; but, at the same time, the forces of production which satisfy these wants also increase. Freedom in this field can only consist in socialised man, the associated producers, rationally regulating their interchange with Nature, bringing it under their common control, instead of being ruled by it as by the blind forces of Nature; and achieving this with the least expenditure of energy and under conditions most favourable to, and worthy of, their human nature. But it nonetheless still remains a realm of necessity. Beyond it begins that development of human energy which is an end in itself, the true realm of freedom, which, however, can blossom forth only with this realm of necessity as its basis. The shortening of the working-day is its basic prerequisite.


ヘーゲル:
エンチ挨拶
自然は、理性をただ必然性のもとに実現するように束縛されているのでありますが、これに反し精神の王国は自由の王国であります。


カントが考えたのは 「神の国」(アウグスティヌス)


カント:
判断力の先験的理説 (原則の分析論)

われわれは今や純粋悟性の国を遍歴して、そのあらゆる部分を精密に検証したのみならず、これを測量してこの国のあらゆる事物にそれぞれの位置を規定した。
しかしこの国は一つの島であり、自然そのものによって不変の限界のうちに閉ざされている。それは真理の国(なんと魅力的な名であろう)であり、渺茫たる荒海という、仮象の本来の住家によってとりめぐらされている。b295



〔B843〕〔A815〕
規準2
叡知者の世界は、単なる自然としては感性界と名づけられるにすぎないけれども、自由の体系としてはしかし、叡知的世界、すなわち道徳的世界(regnum gratiae 恩寵の国)と称することができる

6:08 午後  
Blogger yoji said...

…自由の領域が、──はじまる。〔874〕労働日の短縮は根本的条件である。
(自由の領域は通常自由の国と訳される)

Die Revenuen und ihre Quellen. - 48. Die trinitarische Formel
http://www.mlwerke.de/me/me25/me25_822.htm
Mit seiner Entwicklung erweitert sich dies Reich der Naturnotwendigkeit, weil die Bedürfnisse; aber zugleich erweitern sich die Produktivkräfte, die diese befriedigen. Die Freiheit in diesem Gebiet kann nur darin bestehn, daß der vergesellschaftete Mensch, die assoziierten Produzenten, diesen ihren Stoffwechsel mit der Natur rationell regeln, unter ihre gemeinschaftliche Kontrolle bringen, statt von ihm als von einer blinden Macht beherrscht zu werden; ihn mit dem geringsten Kraftaufwand und unter den ihrer menschlichen Natur würdigsten und adäquatesten Bedingungen vollziehn. Aber es bleibt dies immer ein Reich der Notwendigkeit. Jenseits desselben beginnt die menschliche Kraftentwicklung, die sich als Selbstzweck gilt, das wahre Reich der Freiheit, das aber nur auf jenem Reich der Notwendigkeit als seiner Basis aufblühn kann. Die Verkürzung des Arbeitstags ist die Grundbedingung.


https://www.marxists.org/archive/marx/works/download/pdf/Capital-Volume-III.pdf
The actual wealth of society, and the possibility of constantly expanding its reproduction process, therefore, do not depend upon the duration of surplus-labour, but upon its productivity and the more or less copious conditions of production under which it is performed. In fact, the realm of freedom actually begins only where labour which is determined by necessity and mundane considerations ceases; thus in the very nature of things it lies beyond the sphere of actual material production. Just as the savage must wrestle with Nature to satisfy his wants, to maintain and reproduce life, so must civilised man, and he must do so in all social formations and under all possible modes of production. With his development this realm of physical necessity expands as a result of his wants; but, at the same time, the forces of production which satisfy these wants also increase. Freedom in this field can only consist in socialised man, the associated producers, rationally regulating their interchange with Nature, bringing it under their common control, instead of being ruled by it as by the blind forces of Nature; and achieving this with the least expenditure of energy and under conditions most favourable to, and worthy of, their human nature. But it nonetheless still remains a realm of necessity. Beyond it begins that development of human energy which is an end in itself, the true realm of freedom, which, however, can blossom forth only with this realm of necessity as its basis. The shortening of the working-day is its basic prerequisite.


le vrai régime de la liberté,
体制

7:19 午後  
Blogger yoji said...

自由の概念は、
カント(ライプニッツ)が統整的に定義したものをヘーゲルが構成的にとらえ直し
マルクスが唯物論的にとらえ直した、と言えよう
カントが考えたのは 「神の国」(アウグスティヌス)


      精神的
   ヘーゲル カント
構成的ーーーー+----統整的
   マルクス
      物質的

マルクス:
資本論3:48:3
人間の発展につれて、慾望が拡大するがゆえに、この自然的必然の領域が拡大する。
だが同時に、この慾望を充たす生産諸力も拡大する。この領域内での自由は、ただ、
社会化された人間・結合した生産者たちが、自然との彼らの質料変換によって、盲目
的な力によってのように支配されるかわりに、この質料変換を合理的に規制し、彼ら
の共同的統制のもとにおくという点──最小の力を充用して、彼らの人間性に最もふさ
わしく最も適当な諸条件のもとで、この質料変換を行なうという点──にのみあり
うる。だが、これは依然としてつねに必然の領域である。必然の領域の彼岸において、
自己目的として行なわれる人間の力の発展が、真の自由の領域が、──といっても、か
の必然の領域を基礎としてのみ開花しうる自由の領域が、──はじまる。〔874〕労働
日の短縮は根本的条件である。
(自由の領域は通常自由の国と訳される)

Die Revenuen und ihre Quellen. - 48. Die trinitarische Formel
http://www.mlwerke.de/me/me25/me25_822.htm
das wahre Reich der Freiheit

https://www.marxists.org/archive/marx/works/download/pdf/Capital-Volume-III.pdf
the true realm of freedom

le vrai régime de la liberté,

ヘーゲル:
エンチ挨拶
自然は、理性をただ必然性のもとに実現するように束縛されているのでありますが、
これに反し精神の王国は自由の王国であります。

3:34 午前  
Blogger yoji said...

自由の概念は、カント(ライプニッツ)が統整的に定義したものをヘーゲルが構成的に
とらえ直しマルクスが唯物論的にとらえ直した、と言えよう
カントが考えたのは 「神の国」(アウグスティヌス)だが

      精神的
   ヘーゲル カント
構成的ーーーー+----統整的
   マルクス
      物質的

マルクス:
資本論3:48:3
必然の領域の彼岸において、
自己目的として行なわれる人間の力の発展が、真の自由の領域が、──といっても、か
の必然の領域を基礎としてのみ開花しうる自由の領域が、──はじまる。〔874〕労働
日の短縮は根本的条件である。
(自由の領域は通常自由の国と訳される)

Die Revenuen und ihre Quellen. 48. Die trinitarische Formel
http://www.mlwerke.de/me/me25/me25_822.htm
das wahre Reich der Freiheit
https://www.marxists.org/archive/marx/works/download/pdf/Capital-Volume-III.pdf
the true realm of freedom

ヘーゲル:
エンチ挨拶
自然は、理性をただ必然性のもとに実現するように束縛されているのでありますが、
これに反し精神の王国は自由の王国であります。

マルクスは一周回ってカントに近づいているというのが建設的な読み方だろう

3:39 午前  
Blogger yoji said...


中世キリスト教運動にしても各宗教は当初通常は経済的な互助システムを持つ
ISの話題の陰に隠れたが一時膾炙されたイスラム金融なども評価されるべきだ
シューマッハの仏教経済学なども
ただし根本的にはゲゼルのアイデアが必要
そうでないと宗教も国家も変質するから…
貨幣への洞察が足りないのである

中国の仏教 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/中国の仏教
…この時代(唐)の仏教で忘れてはならないのは、末法思想に基づく三階教の存在である。各宗派の僧が一緒に住む
のが通例であった当時の寺院制度の中で、三階教のみが他宗派とは別組織としての、独自の三階寺院を持つに至った。
しかし、三階教は無尽蔵と呼ばれる金融組織を持っていたことなどから、弾圧の対象となり、姿を消すこととなった。


イスラム互助システムは
リトルライオンという映画に出てきた

https://www.youtube.com/watch?v=7pCUbjqzQE8

マルクス自身は世界政府を考えたので国家による支配は拒否した
具体的には国家に頼らない協同組合が推奨された
それでも後の強権的な一元化への危険の萌芽はあった
その問題はプルードンとの往復書簡にすべて書かれている

3:37 午後  
Blogger yoji said...


河出解説
◆解説 マルクスの前と後 現代の社会科学はいかにマルクスととり組むべきであるか   高島善哉

階級は主体であり民族は母体である(『社会思想史概論』終章)というのが私の着想である



逆の方が創造された共同体に合うが

3:40 午後  
Blogger yoji said...


中世キリスト教運動にしても各宗教は当初通常は経済的な互助システムを持つ
ISの話題の陰に隠れたが一時膾炙されたイスラム金融なども評価されるべきだ
シューマッハの仏教経済学なども
ただし根本的にはゲゼルのアイデアが必要
そうでないと宗教も国家も変質するから…
貨幣への洞察が足りないのである

参考:
中国の仏教 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/中国の仏教
…この時代(唐)の仏教で忘れてはならないのは、末法思想に基づく三階教の存在である。各宗派の僧が一緒に住む

のが通例であった当時の寺院制度の中で、三階教のみが他宗派とは別組織としての、独自の三階寺院を持つに至った。
しかし、三階教は無尽蔵と呼ばれる金融組織を持っていたことなどから、弾圧の対象となり、姿を消すこととなった。


イスラム互助システムは
リトルライオンという映画に出てきた
https://www.youtube.com/watch?v=7pCUbjqzQE8

マルクス自身は世界政府を考えたので国家による支配は拒否した
具体的には国家に頼らない協同組合が推奨された
それでも後の強権的な一元化への危険の萌芽はあった
その問題はプルードンとの往復書簡にすべて書かれている

http://toyodasha.in.coocan.jp/sub9/sub9-86.htm

3:47 午後  
Blogger yoji said...



中世キリスト教運動にしても各宗教は当初通常は経済的な互助システムを持つ
ISの話題の陰に隠れたが一時膾炙されたイスラム金融なども評価されるべきだ
シューマッハの仏教経済学なども
ただし根本的にはゲゼルのアイデアが必要
そうでないと宗教も国家も変質するから…
貨幣への洞察が足りないのである


参考:
中国の仏教 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/中国の仏教
…この時代(唐)の仏教で忘れてはならないのは、末法思想に基づく三階教の存在である。
各宗派の僧が一緒に住むのが通例であった当時の寺院制度の中で、三階教のみが他宗派と
は別組織としての、独自の三階寺院を持つに至った。しかし、三階教は無尽蔵と呼ばれる
金融組織を持っていたことなどから、弾圧の対象となり、姿を消すこととなった。

イスラム互助システムは
リトルライオンという映画に出てきた
https://www.youtube.com/watch?v=7pCUbjqzQE8

Comme un lion
https://youtu.be/yeDx9LU9jMs?t=1m50s

マルクス自身は世界政府を考えたので国家による支配は拒否した
具体的には国家に頼らない協同組合が推奨された
それでも後の強権的な一元化への危険の萌芽はあった
その問題はプルードンとの往復書簡にすべて書かれている

http://toyodasha.in.coocan.jp/sub9/sub9-86.htm





河出解説
◆解説 マルクスの前と後 現代の社会科学はいかにマルクスととり組むべきであるか   高島善哉

階級は主体であり民族は母体である(『社会思想史概論』終章)というのが私の着想である

逆の方が創造された共同体に合うが…



4:10 午後  

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