火曜日, 3月 31, 2015

弁証法の拒絶:ゴダール『ソシアリスム』(2010)&『さらば、愛の言葉よ』(2014)&『イメージの本』(2018)

  https://twitter.com/slowslow2772/status/1618563476699611136?s=61&t=oqDD0hSjW8nvqS4omb9Qcg    

弁証法の拒絶:ゴダール『さらば、愛の言葉よ』&『ソシアリスム』、
改題、
弁証法の拒絶:ゴダール『ソシアリスム』(2010)&『さらば、愛の言葉よ』(2014)&『イメージの本』(2018)
http://nam-students.blogspot.com/2015/03/blog-post_31.html @    
https://www.blogger.com/blog/post/edit/28938242/1994235123863813579         

映画リンク::::::::::本頁
参考:

NAMs出版プロジェクト: 資本主義と死の欲動

http://nam-students.blogspot.jp/2017/11/blog-post_6.html
ゴダール経済学を語る 2012
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/12/les-economistes-il-faut-les-fusiller.html?m=1

弁証法の拒絶:ゴダール『さらば、愛の言葉よ』
GODARD  "Adieu au langage" 

【物語】
「人妻と独身男が出逢う。ふたりは愛し合い、口論し、叩き合う。一匹の犬が町と田舎を彷徨う。季節はめぐり、男と女は再会する。犬は気付くとふたりのもとに落ち着く。他者が個人の中にいて、個人が他者の中にいる。そして登場人物は三人になる。かつての夫が全てを台無しにし、映画の第二幕が始まる。第一幕と同じようで、それでもどこか異なる。人類からメタファーへと移り、犬の啼き声と赤ん坊の泣き声で物語は終わる。」(プレスより)

ゴダールの3Dは、ドゥルーズがゴダール作品の特質として最初に指摘した、弁証法の拒絶の結実だ。映画内の章にも1(隠喩)と2(自然)はあるが3はない(『ソシアリスム』にはあったが)。エイゼンシュテインがその立体映画論において未来に存在を楽観視した民衆のための広場はそこにはないが、未来の代わりに現在がある。子供の代わりに犬がいる(『ソシアリスム』に続いてではあるが、デリダへの応答は珍しい*)。

夫婦から生まれる赤ん坊の隠喩はヘーゲルの弁証法のプロトタイプだが、ゴダールは音だけで処理する。
想像力がある者は現実に頼らない、ということだろう。

未来はないと言ったが、前半仕切りに流れるスラブ行進曲(音楽ではなく音への遡行、むしろ数学への傾倒)は、プーチンの暴走を予言している。ゴダールはプロセスをそのまま作品にしているが、未来を予言しているところもある。例えば、『ソシアリスム』冒頭に出ていた経済学者はシャルリーへのテロに巻き込まれて2015年に殺されている。

左右のカメラをわざとズラすシーンは2箇所。ともに男女の乖離を描いているが、すぐに元に戻る。モンタージュされないのだ。2Dではどういう処理になるのだろうか?
ちなみに同じく視差を扱って成功しているのは宮崎駿の風立ちぬ(冒頭メガネのシーン)くらいだろう。

3Dの効用は、望遠が使えず、画角が一定になり、人物に近づくしかなくなるために、かえって被写体が生き生きしてくることだ。

邦題が不評だが、ハードボイルド小説を踏まえた命名はこれまでのゴダール作品の流れからは正しい。しかし今回はもっと素のゴダールが出ている。
引用群はここではない何処かではなく(アフリカが記号的に使われるが)、日常を異化効果によって蘇らせる。『ソシアリスム』にあった資本への視点は消え、自然への視点が増えた。映画の引用は素材が3Dではないからか後退しており、それがいい方向性を示している。『リア王』の時のソニマージュ(における実験の体験)を立体映画でやり直している観がある。もっと私小説的なのだ。

政治的問題は男女間の問題(排泄と平等及び『アリア』的女性の叫びの変奏)に二重写しされる。
ゴッホの点描を見た後のような視覚の広がりを歴史的にゴダールは我々にもたらした。
普通の日本語字幕が浮き出て見えることで映像と観客との溝は広がるのだが、その溝が心地よい。

弁証法の拒絶は、同一化への希求の表れ(キリーロフ〜『中国女』でも描かれた〜)でもある。 

近年称えられたモナリザ3D絵画説と呼応して、実に刺激的な作品だった。

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以下の写真は『ソシアリズム』より


2015年シャルリー事件で殺された経済学者ベルナール・マリス(『資本主義と死の欲動』未邦訳)はゴダール『ソシアリスム』冒頭に出演していたそうだ。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Bernard_Maris
http://www.outsideintokyo.jp/j/review/jeanlucgodard/

<第1楽章 こんな事ども>
(地中海の月明かりで)黒黒々とした海面。

経済学者ベルナール・マリス「(オフ)お金は公共財産だ。」
アリッサ(アガタ・クーチュール)「(オフ)水と同じ?」
マリス「(オフ)そうだ。」

同パンフより

Фильм социализм  Film socialisme 2010 godar
https://youtu.be/MTQJuyeSKgA
『ソシアリスム』より
2015年に殺された経済学者(ベルナール・マリス)
2015年にシャーリーへのテロで巻き込まれ殺された経済学者ベルナール・マリス(『資本主義と死の欲動』未邦訳)はゴダールソシアリスム冒頭に出演していたそうだ。
「新潮」201503鼎談の浅田彰発言参照
http://fr.wikipedia.org/wiki/Bernard_Maris
http://www.outsideintokyo.jp/j/review/jeanlucgodard/




『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』: ジャック・デリダ, マリ=ルイーズ・マレ, 鵜飼 哲
http://www.amazon.co.jp/dp/448084743X/
内容紹介
猫に自らの裸を見られた体験から始まる講演など4編を収録。デカルト、カント、レヴィナス、ラカン、ハイデッガーを辿り直し、動物と人間の伝統的な対立関係を考察する。

デリダはブーバーの猫に関する考察に批判的だが(23頁)、明らかにレヴィナス経由でブーバーに負っている。43頁のゴダールが引用した猫からの視線は柄谷行人が引用したブーバーの考察そのものだ。矮小化した上でブーバーを批判しているのだ。なお本書第IV章でデリダはハイデガーの「3」へのこだわりを揶揄している(282頁他)。弁証法批判と言えよう。動物への視点も批判的にではあるがハイデガーからゴダールへと還流している。

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以下、参考サイト:




ゴダール『さらば、愛の言葉よ』(5)音楽


 『さらば、愛の言葉よ』で引用されている音楽は、おなじみのベートーヴェン交響曲第7番第二楽章をはじめ、シベリウスのワルツや交響曲第二番、あるいはシェーンベルクなど、多くはクラシックだ。中でも印象的なのは、繰り返し鳴らされる弦の低音で、これはチャイコフスキー『スラブ行進曲』の冒頭である…
 と、こう書くと、まるでそれが『スラブ行進曲』の始まりを予感させるか音楽であるかのように読めるかもしれないが、そうではない。この映画で鳴らされる弦の合奏は、ごく主観的に書くなら、禍々しい時代の予兆を感じさせるような陰にこもった響きであり、とても原曲の『スラブ行進曲』ような、勇ましい展開を期待できるものではない。これは他の引用にも言えることで、ベートーヴェンやシベリウスの交響曲が引用されているからといって、その楽章全体をきいたときの感慨が引用によって立ち上がるかといえば、そんなことはまるでない。
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デルタ関数とは

 デルタ関数とは、空間の一点にだけ存在する粒子を数式中に表現したいためにディラックによって発明された関数である。  理論上の話だが、ある一点において密度は無限大、 しかしその密度を積分して全体量を求めると有限量であるという性質が欲しかったのである。  イメージとしては次のような関数である。
   のところでだけ無限大となり、それ以外のところでは 0 である。  しかし無限大というのは数値ではなくて、限りなく大きくなる極限を考えるときのイメージに過ぎないので、 これを定義として使うのは数学的にふさわしくない。  しかも「0 を含む区間で積分すると有限の値になる」という性質もまだ言い表せていない。
 実は次のように定義しておけば万事解決することが分かる。
 ここで出てくる  は任意の実連続関数であるとする。  どんな形の関数  を使っても、デルタ関数と掛け合わせて積分すると、  での  の値だけが拾われて出てくるとするのである。
 なぜこれでうまく行くのかを説明しよう。  上の定義のところに、常に 1 であるような関数  を当てはめてみる。  すると次のように、デルタ関数を積分すると有限値である 1 になることが導かれる。
 さらに、どんな関数を使っても  における値  しか拾ってこないことから、  以外の区間での  の値はデルタ関数によって無効化されていることになる。  つまり、  以外の区間では  となっているのだと言えるだろう。
 というわけで、(1) 式や (2) 式では無限積分を使っているが、 積分区間に  を含んでいさえすれば同じ形の式が成り立っているとして良い。
 デルタ関数は関数に似てはいるが、実は関数ではない。  これを関数だと認めると、数学での分類の上ですっきりしない部分が出てくるらしいのである。  それで数学では関数 (function) ではなく超関数 (distribution) というものに分類されている。  しかし物理学徒はそのようなことには無頓着なのだ。
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はるの魂 丸目はるのSF論評


非Aの世界
THE WORLD OF NULL-A

A・E・ヴァン・ヴォークト
1945


 第二次世界大戦終戦の年に発表され、日本では文庫として1966年の冬に登場している。私は、1979年の第20版を所有している。300円。近年、新装版として再発行されたが、在庫限りのようである。
 SFの中では、歴史的作品として名高い。今回、おそらく初再読であるが、初読は高校生の頃だろう。どうにも、入り込めなかったのを覚えている。たしか、続編の「非Aの傀儡」も持っていて、読んでいたはずなのだが、手元にない。記憶もおぼつかない。
 今回、読み終えて、それでも腑に落ちない点があり、ちょっとネットで調べたら「一般意味論」とアリストテレス(A)の前提の否定についての解説を見つけ、ようやく得心がいった。20世紀初頭から1933年頃に形成された理論というか、考え方だったのだね。
 それを前提にしてヴォークトがSFに仕立て上げたわけだ。20世紀後半に、エコロジー思想が一部のSFに取り入れられていったように。ふうん。
 それで得心がいったからといって、どうなるものでもないのだが、その非A=一般意味論がある故に、話しがややこしくて、私には理解できなかった作品である。今も、すっきりしたとは言えない心持ちである。私の理解力は浅いのだ。
 さて、2006年の時点で読み直してみて、「機械」(世界をコントロールするコンピュータ)と、その機械が行うゲームによって職業などが決まるという社会や、拡張された脳、クローンと、同一性確保による記憶の移転での「無限の生」など、現代SFではナノテク・ヴァーチャルリアリティ技術・バイオ技術などによって表現される外挿が行われている点で、歴史的名作であろう。
 また、ひとつの考え方や方法論を外挿するとどのような作品が可能なのかを理解させる点でも、優れた作品かも知れない。
 話しはというと、非A者であるギルバート・ゴッセンは、機械によるゲームによって非A者の世界である金星に行くことを願っていた。しかし、自らの記憶が偽りのものであることを知った彼は、宇宙規模の陰謀に巻き込まれていることを知る。一度は殺され、その記憶があるのに、再び彼は生を得て、金星で目覚める。自分に一体何が起きているのか、誰が自分を殺そうとするのか、誰が自分を操っているのか、誰がどんな目的で彼の記憶を操作しているのか。様々な疑問を自ら解決しつつ、次第に判明する地球と金星の危機に対応するためにギルバート・ゴッセンは、彼をサポートする人たちとともに奮闘する。
 というところでよいのかな。
 つい先日読んだばかりなのに、私が非A人ではないばかりに、作品のイメージすらおぼつかない。とほほ。
 さてと、1945年に書かれた本作品だが、舞台は2560年。2018年に一般意味論協会が金星の非A的可能性を認識し、2100年代に非A的能力を伸ばすための機械によって選別された人が金星に来るようになっていた。舞台の2560年頃の地球人口50億人。金星には2億4千万人が暮らしている。
 大体、20世紀中葉の作品では地球人口が50億人ぐらいで、当時の予想人口の倍というのが多い。50億人は多かったのであろう。

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http://aiaikawa-rj.lyricnet.jp/2015/02/blog-post.html
昨年出た村上春樹の短編集『女のいない男たち』は、浮気する女たちのせいで傷つく男たちがテーマになっていた。ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』のベースも人妻と独身男がおりなす物語ではあったが、女はなぜ簡単に二股をかけるのか?と糾弾する勢いの村上春樹に比べ、ゴダールはそんなことはどうでもよくて、大事なのは犬であるというのが結論だ。サルトルの『存在と無』、デリダの『動物ゆえに我あり』などが引用され、人間批判が展開される。

たとえば「登場人物って嫌い」と女が言う。
人は世の中に登場した瞬間から、他人に意味づけされる。その結果、他人の言葉はわかるが自分の言葉がわからない状態になる。登場人物とは、自分の言葉を失った人間のことなのだ。

たとえば「自由な生き物は干渉しあわない。手にした自由が互いを隔てるのだ」という言葉が愛犬ロクシ-の動画に重ねられる。
不自由な人間は、自由を求めて不毛に争い合うというわけだ。

たとえば、子供をつくろうと男に言われた女が「犬ならいいわ」と答える。
これほど未成熟な映画があるだろうか。ゴダールに理由なんてない。あるのはロクシ-への愛と3Dへの好奇心のみだ。
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動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある (単行本): ジャック・デリダ, マリ=ルイーズ・マレ, 鵜飼 哲: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/448084743X/

内容紹介

猫に自らの裸を見られた体験から始まる講演など4編を収録。デカルト、カント、レヴィナス、ラカン、ハイデッガーを辿り直し、動物と人間の伝統的な対立関係を考察する。



初稿:
ゴダールの3Dは、弁証法の拒絶だ。エイゼンシュテインがその立体映画論において未来に存在を楽観視した民衆のための広場はそこにはないが、未来の代わりに現在がある。子供の代わりに犬がいる(デリダへの応答は珍しい)。
夫婦から生まれる赤ん坊の隠喩はヘーゲルの弁証法のプロトタイプだが、ゴダールは音だけで処理する。
想像力がある者は現実に頼らない、ということだろう。
左右のカメラをわざとズラすシーンは2箇所。ともに男女の乖離を描いているが、すぐに元に戻る。モンタージュされないのだ。
2Dではどういう処理になるのだろうか?
ちなみに同じく視差を扱って成功しているのは宮崎駿の風立ちぬ(冒頭メガネのシーン)くらいだろう。
邦題が不評だが、ハードボイルド小説を踏まえた命名はこれまでのゴダール作品の流れからは正しい。しかし今回はもっと素のゴダールが出ている。
引用群はここではない何処かではなく、日常を異化効果によって蘇らせる。ソシアリスムにあった資本への視点は消え、自然への視点が増えた。『リア王』の時のソニマージュ(における実験の体験)を立体映画でやり直している観がある。もっと小説的なのだ。
政治的問題は男女間の問題に二重写しされる。
ゴッホの点描を見た後のような視覚の広がりを歴史的にゴダールは我々にもたらした。
普通の日本語字幕が浮き出て見えることで映像と観客との溝は広がるのだが、その溝が心地よい。
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621: 
浅田彰が『構造と力』で言及した伊藤高史の「SPACY」
Spacy 1981 - Takashi Ito
https://youtu.be/Mf18mahEAjo

《共産主義が一度だけ存在した
あのときだけだ
ウェンブリー・サッカー・スタジアムで--
ハンガリーが英国を
6対3で破ったときだ
英国の個人プレーに対し
ハンガリーは全員で戦った》
ゴダール『アワーミュージック』より

  Dans “Notre musique” (2004), Godard himself lance :
 « Le communisme a existé deux fois quarante-cinq minutes, au stade de Wembley, quand le Honved Budapest a battu la Hongrie par 6-3 (sic). Les Anglais jouaient individuel, les Hongrois jouaient ensemble » . 

Godard rend un bel hommage amer au Barça de Guardiola. - Interviews - Coupes d'Europe

Le casting improbable est un art : dans le nouveau (et “difficile ” –terme pudique) Jean-Luc Godard, “Film Socialisme”, projeté au Festival de Cannes dans la section Un Certain Regard et qui sort en salles mercredi, on croise Patti Smith, l'ex-tenniswoman Cathy Tanvier, le philosophe Alain Badiou et Andrés Iniesta. Le compère de Xavi au sein du milieu barcelonais, pourtant, n'apparaît pas en chair et en os mais le temps de quelques plans d'archives fulgurants, au milieu de maillots blancs mancuniens, au soir de la démonstration de force des Blaugranas en finale de Coupe d'Europe (2-0). 

Le football et Godard, une mélodie en sous-sol mais bien présente tout au long de son œuvre. Comme le montre la récente biographie que lui a consacré Antoine de Baecque (1), JLG est un vrai fan de sport –dans une de ses rares apparitions comme acteur, dans le “Paris nous appartient” de Rivette, on le voit à la terrasse d'un café parisien en train de lire L'Equipe, journal auquel il accorda un entretien remarqué en 2001. S'il est encore plus fan de tennis (le sport le plus cinégénique qui soit avec la boxe), JLG aime le foot, un art qu'il juge plus « vrai » que le cinéma, d'une certaine façon : « Dans les arts, on peut dire : ʺOn marque plein de butsʺ [...] et puis, si vous avez une grande gueule ou si vous êtes riche ou si vous êtes une vedette, on vous croit » , déclarait-il y a une quinzaine d'années. Comme toute passion, cet attachement a ses scènes originelles, comme celle-ci que le cinéaste racontait dans un entretien télévisé : « Je me souviens très bien de la fin de la guerre. Je jouais au football et quelqu'un est venu annoncer "La guerre est finie !". J'étais gardien de but et comme j'ai tourné la tête, j'ai pris un but » . Godard parle football comme il filme, à coups d'aphorismes fulgurants, paradoxaux ou obscurs ( « Je ne comprends pas pourquoi ils mettent une photo de Zidane en Une d'un magazine de foot, plutôt qu'une photo du ballon » ), mais aussi de plans splendides.

S'il n'a jamais réalisé de film sur le foot (contrairement à un de ses disciples, l'Allemand Hellmuth Costard, avec un essai de cinéma-vérité sur Georges Best, “Fussball wie noch nie”), le cinéaste franco-suisse a parsemé son œuvre de références footballistiques. Dans “Une femme est une femme” (1964), Jean-Claude Brialy joue au golf avec un balai dans son living en écoutant le commentaire radio d'un clasico : « Del Sol à Puskas, Puskas à Del Sol, Del Sol à Di Stefano, Di Stefano à Del Sol... Oh, je pleure parce que le Real est grand aujourd'hui...  » . Dans “Numéro deux” (1975), un petit garçon regarde à la télévision la percée victorieuse de Cruyff à la première minute de la finale de la Coupe du monde 1974 contre l'Allemagne, pendant que son grand-père lui demande de « mettre la troisième chaîne » . Dans “Notre musique” (2004), Godard himself lance : « Le communisme a existé deux fois quarante-cinq minutes, au stade de Wembley, quand le Honved Budapest a battu la Hongrie par 6-3 (sic). Les Anglais jouaient individuel, les Hongrois jouaient ensemble » . 

Godard n'aime donc que les équipes mythiques, mais qui ont acquis ce statut dans l'agonie. Après avoir tout raflé pendant cinq ans, le Real du milieu des sixties entame son déclin ; les Pays-Bas de Cruyff ont essuyé une défaite impensable face à l'Allemagne ; la grande Hongrie est victime de sa défaite contre la RFA à Berne et des évènements politiques au pays. Sport populaire, le foot est traversé par les pulsions (argent, voyeurisme, violence) de la société. « Pour Godard, c'est simple. Si un c'est la solitude et, sans doute, la folie ; et si deux, c'est toujours la dialectique du couple, [...] à partir de trois, c'est la guerre mondiale » , écrivait le critique Serge Daney. On imagine ce que ça peut donner à vingt-deux et 50.000 spectateurs... En 1979, “Sauve qui peut (la vie)”, sans doute le plus beau film de Godard, voit Dutronc lâcher des commentaires scabreux en regardant sa fille jouer au foot ( « T'as encore jamais eu envie de la caresser ou de l'enculer ? » ). “Soigne ta droite” (1987) se termine sur des images d'acteur rejouant, telle une mise au tombeau, le drame du Heysel, survenu deux ans plus tôt, entrecoupées de plans des Rita Mitsouko enregistrant l'album “The No Comprendo”. Et, peu après la finale du Mondial 2006, l'oracle de Rolle lâchait : « A la crucifixion du Christ, ils étaient dix-sept. A la première d'Hamlet, ils étaient cent cinquante. Mais, pour la finale du Mondial, ils étaient deux milliards de téléspectateurs » .

C'est d'ailleurs un genre de crucifixion que donnent à voir les plans d'Iniesta dans “Film Socialisme”. Au ralenti, le joueur s'effondre, trébuche contre un adversaire, finit au sol la tête collée au ballon. Avant et après, on voit des plans de Staline, d'Hitler, de Don Quichotte, d'avions, de canons, on entend flotter les noms d'Hemingway, Orwell, Dos Passos, les fantômes d'une guerre civile perdue par les Catalans. Quelques jours après une défaite, footballistique cette fois, contre l'Inter, Godard disait dans une interview aux Inrockuptibles apprécier le Barça de Guardiola, mais déplorait qu'il ne soit pas vraiment capable d'aligner plusieurs prestations de très haut niveau : « Barcelone n'arrive pas à tenir deux matchs de suite à son niveau. [...] Pourquoi n'y arrivent-ils pas ? Quand on n'y arrive pas, on fait moins de matchs » . Comme s'il y voyait la même splendeur inégale et fragile qu'il a souvent attribuée à ses propres films, lui qui disait : « Le cinéma, c'est faire durer un petit peu quelque chose d'extraordinaire » .
Jean-Marie Pottier 
(1) Godard, biographie, Grasset.

フィルムソシアリズムには倒されるイニエスタの下半身の映像が出てくる
予告編より
追記:

資本主義と死の欲動 〔フロイトとケインズ〕単行本  2017/11/25

ジル・ドスタレール (著), ベルナール・マリス (著), 斉藤 日出治 (翻訳) 藤原書店

https://www.amazon.co.jp/dp/4865781501/


フロイトとケインズが看破した「資本主義」の自己破壊への道


貨幣とは病的欲望の対象であると指摘したフロイトに応答し、世界恐慌のなかで、経済成長は

「死の欲動(タナトス)」の先送りだと看破したケインズ。二人の天才のメッセージを通じて、

経済的な「自由」の拡大とされる現代のグローバリゼーションが、実際は自己破壊のリスクの

際限ない拡大であることを示す。ケインズ研究の大家と気鋭のエコノミストによる野心作。



2015年シャルリー事件で殺された経済学者ベルナール・マリス(『資本主義と死の欲動』)は

ゴダール『ソシアリスム』冒頭に出演していた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Bernard_Maris

http://www.outsideintokyo.jp/j/review/jeanlucgodard/

<第1楽章 こんな事ども>

(地中海の月明かりで)黒々とした海面。


経済学者ベルナール・マリス「(オフ)お金は公共財産だ。」

アリッサ(アガタ・クーチュール)「(オフ)水と同じ?」

マリス「(オフ)そうだ。」


同パンフ採録シナリオより

Фильм социализм  Film socialisme 2010 godar


イメージの本2018

参考:
『イメージの本』 引用映画作品●,書籍◆,絵画□,音楽♡,リスト

イントロダクション、アヴァンタイトル(五本の指):



□レオナルド・ダ・ヴィンチ、『洗礼者ヨハネ』、1507〜1516、69 cm × 57 cm、油彩、パネル(クルミ材)、ルーブル美術館、パリ

●ジャン=リュック・ゴダール 『リア王』 (1987)
●マルコー『クローズド・ヴィジョン』(Closed Vision,1952)
●ロベール・ブレッソン 『ジャンヌ・ダルク裁判』 (1962)
●ルイス・ブニュエル/サルバドール・ダリ 『アンダルシアの犬』 (1929)
●イェルヴァン・ジャニキアン/アンジェラ・リッチ=ルッキ 『透明性』 (Trasparenze, 1998)
●スティーヴン・キジャク 『スコット・ウォーカー30世紀の男』 (Scott Walker: 30th Century Man, 2006)
●ローレンス・オリヴィエ『ハムレット』 (1948)
●アーサーペン 『奇跡の人』 (1962)

◆ジョルジュ・ベルナノス 『辱められた子供たち』 Les Enfants humiliés (1949年)
◆ドニ・ド・ルージュモン 『手で考える』 Penser avec les mains (1936年)
◆アントナン・アルトー 「糞便性の探究」 『神の裁きと決別するため』 (1947年) 「宇野邦一訳、河出文庫、2006年]
◆シャルル=フェルディナン・ラミュ 『徴は至る所に』Les Signes parminous (1919年)

♡スコット・ウォーカー‘Cossacks Are’ “The drift ”(2006年)


1. リメイク:

●ロバート・アルドリッチ 『キッスで殺せ!』 (1955)
●ジャン=リュック・ゴダール 『新ドイツ零年』 (1991)
●フリードリヒ・W・ムルナウ 『最後の人』 (1924)
●ニコラス・レイ 『大砂塵』 (1954)
●ジャン=リュック・ゴダール 『小さな兵隊』 (1960)
●ピエル・パオロ・パゾリーニ 『ソドムの市』(1975)
●アブデラマン・シサコ『禁じられた歌声』 (2014)
●リドリー・スコット 『ブラックホーク・ダウン』 (2001)
●ジャン=リュック・ゴダール 『カラビニエ』(1963)
●ロベルト・ジオドマーク/エドガー・G・ウルマー 『日曜日の人々』 (1930)
●ジャックロジエ 『ブルー・ジーンズ』 (1958)
●スティーヴン・スピルバーグ 『ジョーズ』 (1975)
●ジョルジュ・フランジュ 『獣の血』 (1949)
●セルゲイ・エイゼンシュテイン 『ストライキ』 (1924)
●ロベルト・ロッセリーニ 『戦火のかなた』 (1946)
●アルフレッド・ヒッチコック『めまい』 (1958)
●フランク・ボーゼイギ 『河』 (The River, 1928)
●ジャン・ヴィゴ 『アタラント号』 (1934)
●ジャン=リュック・ゴダール 『決別』 (1993)
●キング・ヴィダー 『ルビイ』 (1952)
●セルゲイ・エイゼンシュテイン 『イワン雷帝』(1944-46)
●ジャン=リュック・ゴダール 『子供たちはロシア風に遊ぶ』 (Les Enfants jouent à la Russie, 1993)

◆ジュール・ミシュレ 『フランス革命史』 (1847-53年)[桑原武夫・樋口謹一・多田道太郎訳、 中公文庫、2006 ]
◆フリッツ・マウトナー 『言語』 Le Langage ( 1907年)


2.ペテルブルク夜話:

●セルゲイ・ボンダルチュク 『戦争と平和』 (1965-67)
●ジャン=リュック・ゴダール 『リア王』 (1987)
●アンドレ・マルロー 『希望』 (1938-39)
●ジャン=ピエール・メルヴィル 『海の沈黙』 (1949)
●ロベルト・ロッセリーニ 『無防備都市』(1945)
●ジャン=リュック・ゴダール 『決別』 (1993)
●フリッツ・ラング『ニーベルンゲン ジークフリート』(1924)
●ジャン・コクトー 『オルフェの遺言』 (1959)
●アレクサンドル・ソクーロフ 『エルミタージュ幻想』(2002)
●アルトゥール・アリスタキシアン 『手のひら』(Ladoni, 1993)
●ジャン=リュック・ゴダール 『リア王』 (1987)
●ボリス・バルネット 『アリョンカ』 (1961)
●溝口健二 『雨月物語』(1953)
●アベル・ガンス 『ナポレオン』 (1927)
●ジャン=リュック・ゴダール 『さらば、愛の言葉よ』(2014)
●フリッツ・ラング 『怪人マブゼ博士』 ( 1933)
●ジャン・ルノワール 『ゲームの規則』 (1939)
●ジャン=リュック・ゴダール 『アワーミュージック』(2004)

◆シャルル ペギー 『クリオ』 (1917年) [宮林寛訳、河出書房新社、2019年]
◆ジョゼフ・ド・メーストル 「サン・ペテルスブルグの夜話』 (1821年) [岳野慶作訳、 中央出版社、1948年]
◆ジャン アヌイ 『ひばり』 (1952年) 『アヌイ作品集第一巻』 所収、 鈴木力衛訳、白水社、1957年]
◆ウィリアム・シェイクスピア『リア王』 (1608年) [松岡和子訳 ちくま文庫、1997年]
◆アンドレ・マルロー 『希望』 (1937年) [岩崎力訳、 新潮文庫、1971年]

3. 線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて:

●アル・ラズティス 『リュミエールの列車』(Lumière's Train, 1979)
●ジャン=リュック・ゴダール 『決別』 (1993)
●ジャック・ターナー 『ベルリン特急』 (1948)
●アレクセイ・ウチーチェリ 『爆走機関車 シベリア・デッドヒート』 (2010)
●テオ・アンゲロプロス 『霧の中の風景』 (1988)
●アンリ=ジョルジュ・クルーゾー 『情婦マノン』(1949)
●ジャン・コクトー 『オルフェ』 (1950)
●クリス・マルケル 『アレクサンドルの墓』 (1992)
●ジャン=リュック・ゴダール 『フォーエヴァー・モーツアルト』 (1996 )
●ジョージ・キューカー 『ボワニー分岐点』(1956)
●バスター・キートン/クライド・ブルックマン 『キートン将軍』 (1927)
●ロイ・ウィリアム・ニール 『闇夜の恐怖』 (1946)
●クリス・マルケル 『フクロウの遺産』 (L'héritage de la chouette, 1989)
●ジョゼフ・フォン・スタンバーグ 『上海特急』 (1932)
●ジャン=マリ・ストローブ/ダニエル・ユイレ 『シチリア!』 (1999)
●ジョン・スタージェス 『ガンヒルの決斗』 (1959)
●ヴィクトル・トゥーリン『トゥルクシブ』 (Turksib,1929)
●ジャン=リュック・ゴダール 『自由と祖国』 (Liberté et patrie, 2002)
●ジャン=リュック・ゴダール 『はなればなれに』(1964)
●ジャン=リュック・ゴダール 『映画というささやかな商売の栄華と衰退』 (1986)
●ウィリアム・A・ウェルマン 『家なき少年群』 (1933)
●チャールズ&レイ・イームズ 『おもちゃの汽車のトッカータ』 (1957)
●ボリス・バルネット 『青い青い海』 (1935)
●ジャック・ペルコント 『火の後』 (Après le feu, 2010)
●マックス・オフュルス 『快楽』 (1952)

◆ライナー・マリア リルケ 「貧しさと死の書」、「時詩集』(1905年) [大山定一訳、 『近代世界文学26リルケ』 所収、筑摩書房、1974年]
◆フョードル・ドストエフスキー 『白痴』 (1868年) [望月哲男訳、河出文庫、2010年]
◆ホリス・フランプトン 「映画の超歴史のために」(1971年) [松岡和子訳、 『季刊フィルム』 13号、1972年]
◆フィリップ・ド・ヴィリエ『聖王ルイの物語』 Le Roman de Saint-Louis (2013年)
◆ワシーリー・グロスマン 『人生と運命」 (1960年) [齋藤紘一訳、みすず書房、2012年 ]
◆シャルル・ボードレール 「旅」、 「悪の華』 第二版(1861年) 『ボードレール全詩集1』所収、 阿部良雄訳、ちくま文庫、1998年]
◆ウィリアム・フォークナー 「南部の葬送ガス灯」(1954年) [牧野有通訳、『フォークナー全集25』 所収、富山房、1984年]

4.法の精神:

●ピーター・ワトキンス 『ラ・コミューン(パリ、1871年)』 (La Commune (Paris, 1871), 2000)
●アリス・ギー 『バリケードの上で』 (Sur la barricade,1907)
●レオンスペレ 『カドール岩の神秘』 (Le mystère des roches de Kador, 1912)
●ピーターホワイトヘッド 『芸術の一つとみなされるテロリズム』 (Terrorism Considered as One of the Fine Arts, 2009)
●アレン・ホルバー 『君国の為に』 (The Heart of Humanity, 1918)
●ジャン=ダニエル・ポレ 『地中海』 (1963)
●アレクサンドル・ドヴジェンコ 『大地』 (1930)
●フェデリコ・フェリーニ 『道』 (1954)
●ジャン=リュック・ゴダール 『ウイークエンド』(1967)
●フリッツ・ラング 『怪人マブゼ博士』 (1933)
●ロベルト・ロッセリーニ 『ドイツ零年』 (1948 )
●ジェリー・ルイス 『底抜け大学教授』 (1963)
●セルゲイ・パラジャーノフ 『ざくろの色』 (1969)
●ルイス・ブニュエル 「忘れられた人々』 (1950)
●ジャン=リュック・ゴダール 『JLG/自画像』 (1994)
●ジャン=リュック・ゴダール 『アワーミュージック』(2004)
●フリッツ・ラング 『M』(1932)
●ロベルト・ロッセリーニ 『神の道化師、フランチェスコ』 (1950)
●ジョン・フォード 『若き日のリンカーン』 (1939)
ユーセフ・シャヒーン 『カオス』 (Le Chaos, 2007)
トッド・ブラウニング 『フリークス』 (1932)
●ロベルト・ロッセリーニ 『火刑台上のジャンヌ・ダルク』 (1954)
●ロベール・ブレッソン 『田舎司祭の日記』 (1951)
●ジャン=リュック・ゴダール 『フォーエヴァー・モーツアルト』 (1996)
●アルフレッド・ヒッチコック 『私は告白する』 (1953)
●ロベール・ブレッソン 『ジャンヌ・ダルク裁判』 (1962)
●カール・テオドライヤー『怒りの日』 (1943)
●オーソン・ウェルズ 『上海から来た女』 (1948)
●ジャン=リュック・ゴダール/ジャン=ピエール・ゴラン 『万事快調』 (1972)
●セルゲイ・エイゼンシュテイン 『アレクサンドル・ネフスキー』 (1938)
●オサーマ・モハンメド/ウィアーム・シマヴ・ベデルカーン 『シリア・モナムール』 (2014)
●アラン・レネ 『夜と霧』 (1955)
●ルイ・フイヤード 『ファントマ』 (1913)
●ギー・ルセルティスール 『チャールズ一世の裁判』(Le Procès de Charles 1er, 1963)
●レオ・マッケリー 『吾輩はカモである』 (1933)
●テックス・エイヴリー 『人間を嫌った猫』 (The Cat That Hated People, 1948)
●ガス・ヴァン・サント 『エレファント』 (2003)
●ジャック・コンウェイ 『奇傑パンチョ』 (1934)
●セルゲイ・エイゼンシュテイン 『メキシコ万歳!』(1932/79)
●マルセル・カルネ 『悪魔は夜来る』 (1942)
●ルイス・ブニュエル 『糧なき土地』 (1933)
●フリッツ・ラング 『メトロポリス』 (1927)
●ジガ・ヴェルトフ集団 『ウラジミールとローザ』(1971)
●ステリオ・ロレンジ 『恐怖と徳 ロベスピエール篇』(La terreur et la vertu : Robespierre, 1964)
●イングマール・ベルイマン 『牢獄』 (1949)
●ジャン・コクトー 『美女と野獣』 (1946)
●エミール・コール 「操り人形たちの家でのドラマ』(Un drame chez les fantoches, 1908)

◆ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』 (1862年) [西永良成駅、 ちくま文庫、 2012-14年]
◆アルチュール・ランボー 「民主主義」、 「イリュミナシオン』 (1873-75年) [宇佐美斉訳、『ランボー全詩集』所収、 ちくま文庫、1996年)
◆シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー 『法の精神』( 1748年) [野田良之 稲本洋之助 上原行雄 田中治男・三辺博之 横田地弘訳、岩波文庫、1989年]
◆ヴィクトル・ユゴー 「セルビア擁護」 Pour la Serbie、 『言行録 亡命以後』 (1876年)
◆ポール・ヴァレリー 「均衡」 L'équilibre, 『続ロンブ』(1927)
◆ジャック・リヴェット 「秘密と法」 Le secret et la loi (1999年)
◆オノレ・ド・バルザック 『娼婦の栄光と悲惨』(1838-47年) [飯島耕一訳、 藤原書店、2000年]
◆アンドレ・マルロー 『征服者』 (1928年) [小松清訳、新潮文庫、1952年]
◆A・E・ヴァン・ヴォークト 『非A/3(仏訳題: 非Aの終焉)』 La Fin du À (1984年)
◆サミュエル・ベケット 『イマージュ』 L'Image (1988年)レフ・トルストイ 『戦争と平和』 (1865-69年)[ 工藤精一郎訳、 新潮文庫、1972年]

5. 中央地帯:

●マイケル・スノウ 『中央地帯』 (1971)
●オーソン・ウェルズ『アーカディン氏』(1955)
●アレクサンドル・ドヴジェンコ 『大地』 (1930)
●アルフレッド・ヒッチコック 『汚名』 (1946)

◆フランツ・ブロスウィマー 『エコサイド種の大量絶滅小史』 Écocide: Une brève histoire de l'extinction en masse des espèces (2002年)
◆ジョージ・オーウェル 『カタロニア讃歌』(1938年)[都築忠七訳、岩波文庫、1992年]
◆アンドレ・マルロー 『人間の条件』 (1933年) [小松清・新庄嘉章訳、 新潮文庫、1978年]
◆モーリス・ブランショ 『期待/忘却』 (1962年) [豊崎光一訳、白水社、1980年]
◆ジョゼフ・コンラッド 『西欧人の眼に」 (1911年) [中島賢二訳、岩波文庫、1998年]

幸福なアラビア:

●マヤ・デレン/アレクサンダー・ハミッド 『午後の網目」(1943)
●ジャン・リュック・ゴダール 『ゴダール・ソシアリスム』(2010)
●ビエル・パオロ・パゾリーニ 「アラビアン・ナイト』(1974)
●ラオール・ウォルシュ 『バグダッドの盗賊』 (1924)
●セシルBデミル 『十字軍』 (1935)
●ユーセフ・シャヒーン 『アデュー・ボナパルト』 (1985)
●ビエル・パオロ・パゾリーニ 『王女メディア』 (1969)
●ジャン=ダニエル・ポレ『地中海』(1963)
●ジャン=リュック・ゴダール 『パッション』 (1982)
●アルタヴァスト・ペレシャン 『我ら』(1969)
●ロジェ・レーナルト 『最後の休暇』 (1947)
●ユーセフ・シャヒーン 『アルジェリア人、 ジャミラ」(Djamila l'Algérienne, 1958)
●ブルーノ・モル 『チュニスへの旅』 (Die Tunisreise, 2007)
●ナーセル・ヘミール 『鳩の失われた首飾り』 (Le collier perdu de la colombe, 1990)
●ナーセル・ヘミール 「バーバ・アジーズ』 (2005)
●ビエル・パオロ・パゾリーニ 「アラビアン・ナイト』(1974)
ユーセフ・シャヒーン 『中央駅』 (Gare centrale, 1958)
●ジャン=リュック・ゴダール 『ヒア&ゼア/こことよそ』 (1976 )
●ゴダール 『フォーエヴァー・モーツアルト』 (1996)
●ムフィダ・トラトリ 『男たちの季節』 (La saison des hommes, 2000)
●ゼバスティアン・ブラーメシューバー『ムアッジン』 Muezzin, 2010)
●ジャン=リュック・ゴダール 『真の偽造パスポート』(Vrai faux passeport, 2006)
●レイラ・ブージド 『目を開くと』 (À peine j'ouvre les yeux, 2015)
●ジョルジュ・フランジュ 『ジュデックス』 (1963)
●ジュリアン・デュヴィヴィエ 『地の果てを行く』(1935)
●ベルナール・ボルドリー 『レミー・コーション/毒の影』(1953)
●ファウジ・ベンサイーディ『千カ月』 (Mille mois, 2003)
●ムフィダ・トラトリ 『王宮の沈黙』 (Les silences du palais, 1994)
●モハマッド・マラス 『夜』 (Al-ail, 1992)
●クライヴ・ドナー 『バグダッドの盗賊』 (1978)
●アスガー・ファルハディ 『彼女が消えた浜辺』(2009)
●ナーセル・ヘミール 『シェヘラザード 千夜一夜物語』 (Sheherazade: Les 1001 nuits, 2011)
●アレクサンドル・ドヴジェンコ 『大地』 (1930)
●マイケル・ベイ 『13時間 ベンガジの秘密の兵士』(2016)
●クシシュトフ・ウカシェヴィッチ4デイズ・イン・イラク』 (2015)
●メルザック・アルアッシュ 『テラス』 (Les terrasses, 2013)
●フランシス・アリス 『REEL/UNREEL』(2011)
●アーサーペン 『奇跡の人』 (1962)
●ジャン=リュック・ゴダール 『軽蔑』 (1963)
●オーソン・ウェルズ 『市民ケーン』 (1941)
●マックス・オフュルス 『快楽』 (1952)

◆ギュスターヴ・フローベール 『サランボー』 (1862年)
[笠間直穂子訳(抄訳)、 『ポケットマスターピース 07 フローベール』所収、 集英社文庫、2016年]
◆エドワード ・サイード 「西洋の陰で」 (1985年) [坂野由起子訳 『権力、 政治、文化 (上)』 所収、 太田出版、2007年]
◆セルア・リュスト・ブルビナ 「アラブ人は語ることができるか」 Les Arabes peuvent-ils parler?、 サイード 『西洋の陰で』所収 (2011年)
◆ジュール・ミシュレ 『フランス革命史』(1847-53年)[桑原武夫・樋口謹一・多田道太郎訳、 中公文庫、2006年]
◆ポール・ヴァレリー 「ある声の聖歌」 Psaume sur une voix、 『続ロンブ』 (1927年)
◆アレクサンドル・デュマ 『幸福なるアラビア』L'Arabie heureuse (1860年)
◆フレデリック・プロコシュ 『ムカラへの9日間(仏訳題: 幸福なるアラビアの偶然)』 Hasards de Arabie heureuse (1953年)
◆アルベール・コスリー『砂漠の中の野望』 Une ambition dans le désert (1984年)
◆アンヌ=マリー・ミエヴィル『言葉になった映像』Images en parole (2002年)
エリアス・カネッティ 『人間の領域 Le territoire de l'homme』 (1973年)

(リスト作成=堀潤之氏) を一部改変

194 無名画座@リバイバル上映中[sage] 2022/09/30(金) 12:10:55.47  ID:i0wFXEjM 
1966年の来日

https://pbs.twimg.com/media/FcicpKaaIAEFCze?format=jpg
溝口の墓参り
カイエの羽生、今村インタビュー
大島、吉田と座談会
マリナ・ブラディと次回作を打ち合わせる為の来日だが、

蓮實重彦「せせらぎのバルト」
ゴダールはその時たまたま撮影中だったあるフランス映画に出演中のマリナ・ヴァラッディにご執心で、次回作の出演交渉のためだとか、いろいろ言われていましたが、来日の正しい理由はさっぱりわかりません。


水曜日, 3月 25, 2015

4スタンス理論:メモ

           (スポーツリンク:::::::::

NAMs出版プロジェクト: 4スタンス理論:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/03/blog-post_25.html(本頁)


4スタンスマトリックス:右足の重心 (上から見た図)

 ______つま先側A       パラレルタイプ 
|M・ジャガー  | M・ジャクソン     A2・B1
|石川遼、本田o | M・ジョーダン
|ロナウ O __o    ボルト
|ジーニョ /  \_o 稲本、長友
|イチロー(     )o 王
|  A1 \_   |  A2
内側1_____) /_____外側2
   B1   | |   B2  |
 松井秀喜  / /    長嶋  |
 リベリー |  |マラドーナ   |
 ジダン  \_/|ベッカム、メッシ|
 岡崎、中村憲剛 |香川、柏木、俊輔|
 ブッフォン   |C・クライバー |
        踵側B_______| クロスタイプ 
                  [A1・B2]

廣戸聡一氏の公式本(*)と多少違う。松井と長嶋は逆。
ロナウジーニョもA1ではなくA2とされる。本田は公式本に従った。
(*廣戸聡一『4スタンス理論 バイブル』2014,2015年,実業之日本社、他)
    _
   |\        /\
   |\\       ||
     \\      ||
      \\     ||
       \\|   ||
       _\|   \/

      A1     A2
__________|___________
      B1  |  B2
      __  
      ||   /\
      ||    \\|
      \/    _\|_
      /\      |\
      ||      |\\
      L|        \/ 


 _             __ 
|\       /\    ||  /\
|\\      ||    ||   \\|
  \\     ||    \/   _\|_
   \\    ||    /\     |\
    \\|  ||    ||     |\\
    _\|  \/    L|       \/

   A1    A2    B1     B2















4スタンスマトリックス:右足の重心 (上から見た図)

 ______つま先側A       パラレルタイプ 
|M・ジャガー  | M・ジャクソン     A2・B1
|石川遼   o | M・ジョーダン
|ロナウ O __o    ボルト
|ジーニョ /  \_o 稲本、長友 
|イチロー(     )o 王 
|  A1 \_   I  A2 
内側1_____) /_____外側2
   B1   l I   B2  | 
 松井秀喜  / /    長嶋  | 
 リベリー I  Iマラドーナ   | 
 ジダン  \_/|ベッカム、メッシ| 
 本田、中村憲剛 |柏木、俊輔   | 
 ブッフォン   |C・クライバー |
        踵側B_______| クロスタイプ 
                  [A1・B2]

廣戸聡一氏の公式本(*)と多少違う。公式本では本田はA1、松井と長嶋は逆、
ロナウジーニョもA1ではなくA2とされる。
(*廣戸聡一『4スタンス理論 バイブル』2014,2015年,実業之日本社、他)

https://www.youtube.com/watch?v=2Eq4iRTNXRA
FOOT×BRAIN 150411 ゲスト:廣戸聡一


軸:
みぞおち内 みぞおち外
   A1 A2
   B1 B2
首付け根外 首付け根内
(同190頁より)

   パラレル  クロス パラレル
        (  )
     B1 _B2_ B1
     A2|\A1/|A2
    //\| \/ |/\\
   || || /\ || ||
  vww ||/__\|| wwv  1は人差し指、
      / /  \ \      2は薬指が基点
      | |  | |
      | |  | |
       \|  |/
      /_|  |_\ 
    A1・B2クロス/A2・B1パラレル

クロスタイプは左右対角同士の肩と股関節を連動させて動く。
パラレルタイプは左右同側同士の肩と股関節を連動させて動く。 
(『サッカー4スタンス理論』電子版2014年035頁より)

1は人差し指、2は薬指が基点(同227頁より)

______

クロスタイプ↓は左右対角同士の肩と股関節を連動させて動く。

        (  )    軸:
      ___B2___  首付け根
     /  \A1/  \ みぞおち
    //\  \/  /\\
   || |  /\  | ||
   mn | /__\ | nm
      / /  \ \ 
      | |  | |
      | |  | |
      2B|  |B2
      /_|  |_\
       A1  1A

パラレルタイプ↓は左右同側同士の肩と股関節を連動させて動く。

        (  )    軸:
     B1 _||_ B1 首付け根
     A2|    |A2 みぞおち
    //\|    |/\\
   || ||    || ||
   mn || __ || nm
      / /  \ \ 
      | |  | |
      | |  | |
      \B1  1B/
      /_|  |_\
      2A    A2

『サッカー4スタンス理論』電子版2014年035頁より

    _
   (_)
 ___|___
    | クロスタイプ
    | 重力に対する絶対的な垂直意識
    |_
   /   \_ー
  / _ー
 /_ー
_ー
   _
  (_)
 ___\___
     \  パラレルタイプ
      \ 重力に対する相対的な垂直意識
       \_
      /  \_ー
     / _ー
    /_ー
   _ー
廣戸聡一『4スタンス理論 バイブル』(2014,2015年,実業之日本社)264頁参照



A:進行方向の前足上に軸を作る(軸はみぞおちを通る)、
   _
  (_)
 ___\___
     \  
     |\ 
     | \_
     |/  \
     /    \/
    /

B:進行方向の後足上に軸を作る(軸は首付け根を通る)、
         _
        (_)
      ___\___
         /|
        / |
       /  |
      / \ |
     |   \|
     |    \

廣戸聡一『4スタンス理論 バイブル』(2014,2015年,実業之日本社)194,195頁参照


_____

   パラレル  クロス パラレル
        (  )      軸:
     B1 _B2_ B1   Bは首付け根
     A2|\A1/|A2   Aはみぞおち を通る
    //\| \/ |/\\
   || || /\ || || 基点:
   mn ||/__\|| nm 1は人差し指、
      / /  \ \    2は薬指 が基点
      | |  | |
      | |  | |
      \B|  |B/
     2/*1  1_\2
       A    A
    A1・B2クロス/A2・B1パラレル
*:
 ______つま先側A       パラレルタイプ 
|M・ジャガー  | M・ジャクソン     A2・B1
|石川遼   o | M・ジョーダン
|ロナウ O __o    ボルト
|ジーニョ /  \_o 稲本、長友 
|イチロー(     )o 王 
|  A1 \_   I  A2 
内側1_____) /_____外側2
   B1   l I   B2  | 
 松井秀喜  / /    長嶋  | 
 リベリー I  Iマラドーナ   | 
 ジダン  \_/|ベッカム、メッシ| 
 本田、中村憲剛 |柏木、俊輔   | 
 ブッフォン   |C・クライバー |
        踵側B_______| クロスタイプ 
                  [A1・B2]

廣戸聡一『4スタンス理論 バイブル』(2014,電子版2015年,実業之日本社,190~1頁)、
『サッカー4スタンス理論』(電子版2014年,030,035,227頁)参照。




参考:
綾瀬はるか B1 20160115
https://www.youtube.com/watch?v=dOiDa6G3tuA

日曜日, 3月 22, 2015

「世界建築史をめぐって」 中川武、原広司、柄谷行人2015年3月21日(土) 早稲田大学大隈記念講堂 大講堂


                     (柄谷行人リンク:::::::::
http://nam-students.blogspot.jp/2015/03/20153-21.html(本頁)
参考:
NAMs出版プロジェクト: 都市はツリーではない:資料(削除済み)
http://nam-students.blogspot.jp/2008/01/blog-post.html
新歩行者主義(New Pedestrianism、NP)
NAMs出版プロジェクト: バックミンスター・フラー:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/11/wikipedia_22.html
NAMs出版プロジェクト: ラマヌジャン
http://nam-students.blogspot.jp/2016/12/blog-post_21.html
注解:浅田彰インタビュー2016 ゲンロン4 現代日本の批評Ⅲ 上 より(浅田孝他)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/02/2016-4.html(削除済み)
NAMs出版プロジェクト: 熊本城 再建へ 2017
http://nam-students.blogspot.jp/2017/07/blog-post_1.html





シンポジウム
( 公 開 )
「世界建築史をめぐって」
中川武、原広司、柄谷行人
2015年3月21日(土) 早稲田大学大隈記念講堂 大講堂
http://www.lah-waseda.jp/news/post/132.html
 

10+1 web site|建築の世界史──中川武教授最終講義のために中川武教授最終講義・記念シンポジウム「世界建築史をめぐって」|テンプラスワン・ウェブサイトhttp://10plus1.jp/monthly/2015/07/pickup-01.php …



以下、twitterより

早稲田で中川武教授最終講義。なぜか柄谷行人が来るので行ってみる。
柄谷さんがレジュメを作ってきていてびっくり(写真)。
途中、隣の原広司に斬りかかるなど、いつもの柄谷節でたいへん面白い。
驚くことに、大隈講堂はほぼ満員。 


柄谷行人、原広司、中川武。 思想家、建築家、歴史家と立場はまるで違えど、「オリジナル世界全史」の希求者という点では横一列。そして、柄谷さんが建築の領域に切り込んで来て、議論が動き出しそう。 

RT @zorach2002: とりあえず分かったことは、哲学者の柄谷行人によると、建築には住居とモニュメントがあり、モニュメントを作る人に方が偉い。安藤忠雄はモニュメントを作る人になろうとしている。
sasaki_makoto(佐々木真)37分前



ご登壇いただいた先生、ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。


倒錯したマルクス主義としての住宅産業の席巻。学者として「マルクス主義」だけ、あるいは「建築家」だけというのは割り切れれるだろうが、「マルクス主義者として建築家としてやっていく」というのは、厄介な矛盾を引き受けなければ可能性もないということか。美学の問題も。K.マイケル・ヘイズ。

「世界集落への旅」も振り返ってみれば「都市からの撤退」の一つ。柄谷の図式でいう商品交換様式の場から互酬様式の場の探求、かつそこに普遍的な「構造」を見出すという。「マルクス主義者」であったらしい西山卯三は「建築家」を否定しハウスメーカーを育成した。その結果は今日見る通り。

最後に中川先生は「初めて建築家の講演を聞いたのは学祭にお呼びした原広司先生の講演でした」と。そのとき原先生は「マルクス主義者として建築家としてやっていく」とおっしゃったそうな。そして退官シンポに再び原先生をお招きするという。なんだかこういうエピソードは好い。

レボリューションのもともとの意味は回転(revolve)、つまり時間や世代を回すという意味。そのことと生物における変態を原広司さんはかけたのではないかな。生物や歴史には後戻りできない閾がある、といえる。前者の場合、変態がそうだろう。

都市とは交換の場である、というのはマルクスの『経済学批判』の中のテーゼの一つ、都市には色々性格がある、というのはロッシの『都市の建築』の劈頭で述べられる事でもある。

マックス・ウェーバーの周縁革命論をヘーゲル批判として読むこと、しかし、中心、周縁、亜周縁といった場合、世界システム論やアナール派とどう距離をとるのか。

モニュメントからインストルメント(住宅)へというのは、ロシア・コンストラクトヴィスト(リシツキー)、バウハウス(マイヤー)、チェコ・アヴァンギャルド(タイゲ)らのテーゼでもある。

社会とは生産様式の事である、はアンリ・ルフェーヴルらの前提でもある。柄谷の生産様式から交換様式へというテーゼはあらためて「生産様式」を彷彿させる(フレドリック・ジェイムソン)。網野善彦はバリバリの構造派、史的唯物論の内部批判なのである。

大隈講堂なう。 
  

979 名前:考える名無しさん :2015/03/22(日) 22:52:08.88 0
GOTO, Haruhiko 
@haruhikogoto 
原さんの、構造で止まってんじゃないかという指摘に、柄谷さんが、お前の言っていることもトポロジカルな構造だと切り返したところが、今日の一番注目を集めたところでしたね。 
でも、両者のつかう「構造」には、ねじれの関係があって、共通言語になってないと思います。 
0:29 - 2015年3月22日


48 名前:考える名無しさん :2015/04/10(金) 08:53:23.12 0
シンポジウムとは名ばかりで、柄谷先生の独壇場、持論を振りまき、その果てには 
「建築を定義すれば、住宅とモニュメントに二分される」「住宅は生活からの必然であり、 
モニュメントは国家権力の象徴、あるいは市民が自ら求める象徴」。司会者の 
「都市が抜けていませんか」には「都市も国家の一部。支配者側に属する。 
支配者と言っても独裁者は直ぐに破たんするもの」「あくまで成功する支配者(国家) 
とは、被支配者に対し、搾取=分配、贈与=返礼をきちんと実行する」 
建築のことは何もわからないと前置きしながら、語ること語ること。 
「中川先生のスライドにあったピラミッドが非常に良い例。搾取と分配が 
きちんと実行され、しかも権威と象徴も示したたぐいまれなモニュメント建築」 
この日の主役であるはずの中川先生のテーマ「夢の世界建築史」なんて 
ぶっ飛んでしまいました。さすがの原先生もタジタジのステージでした。 
70歳を過ぎてもこの圧倒的なパワーは一体何なのでしょうか。 
未だに毒づき角が立っている大先輩を久しぶりに拝見し、元気を頂戴致しました。


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トポロジカルからフラクタルな構造への転換が、
モニュメントから住居への転換に対応し、時間の導入を可能にするだろう。
そこまで構造を規定して始めてその構造が異なる価値観を持つ人々の共通の基盤になる。
そこでは柄谷の交換図は建築よりも都市(=柄谷自身は国家と同義で都市という言葉を使うが、アソシエーションを体現する都市も原理的にはあり得る)に対応する。

経済学などでも利子率iの導入が動態への第一歩だろうが、それは貨幣価値を固定しているので、
恣意的な動態だ。

追記:
 at 3:26pm - 3 Apr 15:

“@engawajournal: ザップ「古賀茂明の話したいこと」アーサー・ビナード 20150402 - dailymotion.com/video/x2lkc0f_… …”
この図は分かり易い。右上と左下を入れ替えれば、柄谷行人の交換図と似ている。
image.2chlog.com/2ch/live/livew… (https://twitter.com/yojisekimoto/status/583878150666326016?s=17