月曜日, 4月 03, 2017

マルクス・カレツキ・ケインズ(1933)

                  ( 経済学マルクスリンク::::::::::

NAMs出版プロジェクト: マルクス・カレツキ・ケインズ1933
https://nam-students.blogspot.com/2017/04/1933.html
http://nam-students.blogspot.jp/2017/04/blog-post.html リンク切れ
NAMs出版プロジェクト: ケインジアンの交差図 1936
http://nam-students.blogspot.jp/2015/03/blog-post_12.html
The Collected Writings of John Maynard Keynes, The General Theory and After: A Supplement, Vol. 29: John Maynard Keynes, Elizabeth Johnson, Donald Moggridge: 洋書
https://www.amazon.co.jp/Collected-Writings-Maynard-Keynes-General/dp/1107634997/
マクラッケン
https://nam-students.blogspot.com/2018/06/blog-post_49.html
一般理論#3
http://nam-students.blogspot.com/2018/07/3.html

Harlan Linneus McCracken
Published by Falcon Press, USA (1933)
https://books.google.co.jp/books?redir_esc=y&hl=ja&id=rvOSZG3_BoQC&q=marx#v=snippet&q=marx&f=false
p.41~56 Chapter 3 Karl Marx

____


浅野栄一『ケインズ「一般理論」形成史』( 一九八六年)を読むとケインズが1932~3年にマルクス再生産表式関連書評から有効需要のアイデアを得たのは確かだろう(135~6頁)。少なくとも1933年の草稿で表明するきっかけを得たことは歴史的事実だ。カレツキのようにツガン経由で転形論の文脈に詳しかった可能性もあるが。
カレツキのような数式を出していないのでマルサスらにも当てはまる一般論の範囲ではある。両者に共通する部門の3分割は転形論の成果だ。2部門だと山田盛太郎のような限界を露呈する。
ちなみに(ゲゼルの)スタンプ通貨の への言及も思い付きによる付け足しではなく、1933年というかなり前から考えられていたものだということがわかる(139頁[以下全集29:117?])。

(1933年?のケインズはスタンプなる用語を使っていないが、明らかにゲゼルマネーのことを書いている。「ユートピアン型」に分類されているが…。浅野の解釈は正しい。しかも計数器で減価させるという電子マネーシステムにつながる認識をケインズは示している。M>M',M=M,M<M'云々もマルクスと比較した一般理論#23の有名な文言につながるものだ。)


草稿を所収したケインズ全集第29巻の邦訳を求めたい。

追記:
その後刊行された

学生たちのノートを要約再構成したライムズ『ケインズの講義』邦訳1993年,106頁では1933年10月23日の講義で上記の内容を扱ったと証言される。マルクスの理論が検証されたようだ。ゲゼルは1934年10月29日講義156頁に名前が出るだけ。


https://www.amazon.co.jp/dp/4492813314/

ケインズ全集 第29巻: 一般理論とその後:第13巻および第14巻への補遺 単行本 – 2019/6/28

ケインズ全集 第29巻: 一般理論とその後:第13巻および第14巻への補遺 2019/6/28
John Maynard Keynes (原著), ケインズ (著), 柿原 和夫 (翻訳)
以下同書103頁より


 協力経済と企業家経済の区別は、カール·マルクスの萌芽的観察と幾分の関係がある。もっともその後、
彼はこの観察をきわめて非論理的にしか利用しなかった。彼は、現実の世界における生産の性質は、しば
しば経済学者が想定するようにC-M-C、すなわち別の商品(あるいは労力)を入手するために、ある商品
(あるいは労力)を貨幣と交換する場合ではない、と指摘した。それは私的消費者の視点ではあり得る。
しかしそれはビジネスの態度ではない。ビジネスの態度はM-C-Mの場合、つまり、いっそう多くの貨幣を
入手するために貨幣を手放して商品(あるいは労力)を入手するのである(*)。この点は以下の理由がある
ために重要である。

(*) H・L・マクラッケン 「価値理論と景気循環」[ニューヨーク、一九三三年]四六頁を参照。ここで現
代理論との関係でマルクスの理論のこの部分が引用されている。M'がMを超過する部分はマルクスの剰余
価値の源泉である。次のことは経済理論の歴史における一つの珍品である。古典的な公式 C-M-Cに公式
M-C-M'をいろいろな形態で向かい合わせてきた過去一〇〇年間の異端者たちは、実際の経験の中で次のど
ちらが支配的な時期に暮らしていたかに従って、M'はいつも必ず Mを超過しなければならないと信じるか、
あるいは Mはいつも必ずM'を超過しなければならないと信じるかのどちらかをとる傾向があった。資本主
義体制は必然的に搾取的特徴を持つと信じるマルクスたちは M'が超過するのが不可避であると主張する。
他方で、デフレーションと過少雇用に向かう固有の傾向があると信じるホブソン、あるいはフォスターと
キャッチングス、あるいはダグラス少佐は、Mの超過が不可避であると主張する。しかしながらマルクスが、
徐々に強度を増す一連の危機によってか、あるいは企業家の倒産と過少雇用によって、連続的な M'超過が
中断されるのは不可避であろうと付け加えたとき、その中断の間にはたぶん M が超過しなければならず、
彼は中間の真理に近づいていた。私自身の議論は、もしそれが受け入れられるならば、古典派経済学者たち
を依然として MとM'はつねに等しいとの信念で孤立したままにしておき、少なくともマルクスの追随者と
ダグラス少佐の追随者とを融和する効果を持つだろう!



104頁


 古典派理論は次のように想定する。企業家が生産過程に着手するのは、自分の取り分になると予想する生産物で測った価値の量に依存する、と。すなわち、自分自身に帰属すると予想する生産物が多ければ多いほど、いっそう多くの雇用をするのである。しかし企業家経済においては、企業計算の性質に関するこの分析は間違いである。企業家は、生産物の数量ではなく、その取り分になるだろう貨幣の数量に関心を寄せるのである.産出量を増やせば彼の貨幣利潤を増やせると企業家が予想するならば、たとえその利潤が以前よりも少ない生産物数量であるとしても、産出量を増やすだろう。
 このことの説明は明白である。産出量を増やすために生産諸要素を雇用すると、企業家は生産物ではなくて貨幣の支出(disbursement)に巻き込まれる。企業家が一雇用するかどうかを決定する際に選択できるのは、ある用途に貨幣を使うか、それとも別の用途に使うか、あるいはまったく使わないかのいずれかである。彼は(手持ちあるいは借入れにより)一〇〇ポンドを使用できるとする。彼は、 一〇〇ポンドを使用するとき、その一〇〇ポンドに対する利子を含む可変費用を控除した後に、 一〇〇ポンドを上回る貨幣に替えることができるだろうと予想するなら、その一〇〇ポンドを使用するだろう。彼が直面するただ一つの問題は、 一〇〇ポンドを使ういろいろな用途の中から、貨幣で測って最大の利潤を生み出すだろう用途を選ぶことである。将来の価格は、それが予見される限りで、持越し費用および所与の商品の現物価格と先物価格を関係づけるその間の生産機会をあれこれ考慮したうえで、すでに現行価格に織り込まれていることを覚えておかなければならない。したがって、資産保有者が推計する貨幣および既存諸資産保有の相対的有利さを、現物・先物価格の構造がすでに均衡させている、と想定しなければならない.したがって、貨幣を使って生産過程に着手することの貨幣で測った有利さが増すならば、それは企業家がより多く一雇用するのを促進するだろう。ある状況ともう一つの状況を比べると、ある状況のほうがもう一つの状況よりも貨幣利潤が大きくて生産量は少ないけれども雇用量は多いことが起こり得るだろう。企業家は、獲得するであろう生産量によってではなく、現物・先物価格の構造全体を考慮に人れたときの貨幣使用の諸機会によって導かれるからである。
 こうして、古典派理論を企業家経済に適用しようとすると、古典派理論はいわば両端でわれわれを失望させる。なぜなら、企業家の労働需要が企業家に帰属するであろう生産物の分け前に依存するというのは正しくないし、また、労働供給が労働に帰属するであろう生産物の分け前に依存するというのも正しくないからである。これらの根本的な乖離が最初にあるために古典派理論から出発できないのであり、議論がさらに進んだ段階では古典派理論の結論を移り気な企業家経済に適合させられないのである。



第I部 準備
第3章 『一般理論』に向かって

116頁(95)
    III
 企業家経済を中立状態に維持するためにどんな手段を採用できるか考えるのは興味深い。それらは四つの主要類型(*)
に分かれると思う。その最初の三つは実用型で、第四はたぶんユートピアン型である。
⑴借入れによる政府支出(**)は、それが経常勘定であれ資本勘定におけるものであれ、それらを埋め合わせ要因とし
 て導入できるだろう。民間支出が費用に比して下落しているときにはそれを増加させる。民間支出が増加してい
 るときには減少させ、もし必要があればそれを負にする、すなわち、以前の借入れを返済するのである。
⑵支出は利子率の変化によって促進または抑制されるだろう。なぜなら、後ほど見るように、利子率は消費と投
 資双方の支出促進を意図して引き下げられるからである。
⑶いっそう支出しそうな個人の手に増加もしくは減少した所得が渡るように所得を再分配できる。
⑷一方で、利用できる支出手段が経常生産費を超過するのを防ぐ対策と、他方で、未支出の所得が所有者の手中
 で腐って無価値になる対策を講じることができるだろう。
 最初の三つは実用的な制御方法であり、私はこれまで多くの場でそれらを論じてきた。第四は若干敷行するに値す
るだろう。なぜならそれは、所得の完成品あるいは運転資本への支出以外への利用をいわば禁じる場合に必要になる
類の措置の例示に適しているからである。
 貨幣の代わりに、それが所得になるときにはその都度再発行される日付入り計数器(counters)を持っていると仮 
定しよう。そして、運転資本量は一定だと仮定して話を始めよう。企業はそのとき生産諸要素に計数器で支払うだろ
う。その計数器には生産諸要素が協業して生産する産出物の完成予定日が刻まれている。そして、これらの計数器は
完成品の経常産出物を購入するために然るべきときに使われる。計数器はこの目的以外には利用できず、刻まれた日
付までにそのように使われない計数器は無効になる。しかしながら、完成品と交換に日付入りの計数器を受け取る企
業には、次の生産期間に使用できる新しい計数器を受け取る資格が与えられる。また、公衆が(不注意によるかその
他の理由により)無駄にした計数器がある場合には、企業は手渡された旧計数器と交換に、比例的により多くの新計
数器を与えられる。たとえば、計数器の十分の一が使われずに無効になるとすると、企業が手渡した旧計数器の数の
九分の十の新計数器を受け取る。
 しかしながら、集計的運転資本が増加中であるならば、何らかの当局(政府か銀行システム)が、公衆が運転資本
の増加に等しい数の期限がくる計数器をその当局に引き渡すように(課税により強制的にか、あるいは、利子率を付
して自発的にかして)仕向けなければならない。また、運転資本が減少中であるならば、公衆の経常的購買力を増加
するために、対応する措置が取られなければならない。

    IV
 このような、あるいは類似の防護措置を採るもとで、最初は完全雇用状態から出発すると仮定するならば、古典派
理論の諸仮定は完全に満たされる。企業は全体として、ある期間を通して、雇用する生産諸要素にすでに支払った額
を超えてあるいは下回って、利潤あるいは損失のどちらかを生みだすことはできない。ある企業がこうむる損失は、 …

(*)閉鎖体系においてである。非閉鎖経済では、システムの一部を均衡により近く維持できる手段がさらにある。たとえば、関税、
輸入割当、外国為替管理である。
(**)つまり、租税の対応する変化が釣り合っていない支出である。


カレツキ研究の展望―「有効需要の理論」をめぐって 鍋島直樹 2015
http://jshet.net/docs/journal/56/562nabeshima.pdf

《これと同様にクラインも,1951年に公刊されたハロッド『ケインズ伝』の書評(Klein 1951)において,「最近,カレツキの景気循環理論を再検討したのちに,他の貢献に加えて,彼がじっさいにケインズ体系のあらゆる重要な要素を含む体系をつくり出していたことを,私は確信した」(447)と述べている.さらに彼は,カレツキの理論が,明示的に動学的であること,所得分配の問題を考慮していること,投資注文と投資支出の区別を行なっていることを挙げ,それはケインズの理論よりもいくつかの点において優れているとさえ論じている.》

Klein,  L.  R.  1951.  The Life of John Maynard Keynes.  Journal of Political Economy  59 (5): 443.

Article provided by University of Chicago Press in its journal The Journal of Political Economy.
Volume (Year): 59 (1951)
Issue (Month): ()
Pages: 443-443

《 In the past few years I have begun to wonder why Keynes's General Theory was so successful in gaining professional interest and whether the same ideas were not actually coming independently fromother sources. At the theoretical level,others had some ideas about isolated as-pects of economic behavior relevant to aself-contained, general theory of employ-ment; but almost none, it appears, hadthe insight to bring all the relations to-gether into one system. Keynes's spark of genius was just this. Recently, after having re-examined Kalecki's★ theory ofthe business cycle, I have decided that he actually created a system that contains everything of importance in the Keynesian system, in addition to other contributions. Kalecki does not deal atall with liquidity preference and the interest ratel yet I believe that he has atheory of employment that is the equal of Keynes's. Kalecki's theory attracted attention for reasons largely unrelated to its revolutionary statement of the theory of employment, and he certainly lacked Keynes's reputation or ability to draw world-wide attention; hence his achievement is relatively unnoticed.
 Some respects in which Kalecki's model is superior are that it is explicitly dynamic; it takes income distribution aswell as level into account; and it makes the important distinction between investment orders and investment outlays.The dynamics of Kalecki's model attracted interest immediately. He did not go into the problem of unemployment equilibrium and the contrast with classical theory; indeed, his model contrasts with classical ideas on the possibility of achieving a stable solution. His consumption function is constructed with a unit marginal (and average) propensity to consume for workers and a value between zero and unity for the marginal propensity to consume of others. A more realistic view would have permitted the workers' marginal propensity to be less than unity and greater than the other marginal propensity but surely this is a refinement.》
★" M. Kalecki, "A Macrodynamic Theory of Business Cycles," Econometrica, III (July, 1935),327-44.
参考:

ハロッドによる評価は都留重人が『現代…群像』解説で指摘していた。クラインは他の著書(ケインズ革命)でゲゼルにも言及している。
マルサスはニュートンをケインズはアインシュタインを意識している。

参照:

ケインズ『一般理論』形成史 単行本 – 1987/2

https://www.amazon.co.jp/dp/4535576394/
浅野栄一『ケインズ「一般理論」形成史』 一九八六年

上記の都留重人によれば
マクラケン資本論解説からケインズも有効需要を思いついた。
ケインズ全集29
1932年~ケインズ草稿補遺

The Collected Writings of John Maynard Keynes, The General Theory and After: A Supplement, Vol. 29: John Maynard Keynes, Elizabeth Johnson, Donald Moggridge: 洋書
https://www.amazon.co.jp/Collected-Writings-Maynard-Keynes-General/


H.L.MacCracken  Value Theory



Value Theory and Business Cycles - Harlan Linneus McCracken - Google ブックス
https://books.google.co.jp/books?id=rvOSZG3_BoQC&printsec=frontcover&dq=VALUE+THEORY+AND+


Sanjeev Sabhlok

Keynes’s plagiarism of Malthus and McCracken – Sanjeev Sabhlok's revolutionary blog
http://www.sabhlokcity.com/2012/03/keyness-plagiarism-of-malthus-and-mccracken/

HARLAN LINNEUS MCCRACKEN
It was at this very moment, sometime early in 1933 and purely by chance, that Keynes received an unsolicited copy of a newly published book, Value Theory and Business Cycles, written by an American economist at the University of Minnesota by name of Harlan Linneus McCracken. That Keynes read at least a portion of this book while writing the General Theory has been evident since the publication of volume xxix of Keynes’ Collected Writings in 1979. In «a draft of chapter 2 from the last 1933 table of contents» (Moggridge in cw, xxix, 76), there is an extended footnote which begins:
Cf. H.L. McCracken, Value Theory and Business Cycles, [New York, 1933], 46, where this part of Marx’s theory is cited in relation to modern theory.
(cw, xxix, 81, fn.; square brackets in the original)
Most scholars have attached little significance to this citation since neither McCracken nor Marx had appeared to have had much to contribute to our understanding of how the General Theorycame to be written as it was. This is in spite of the fact that Value Theory and Business Cycles is about the conflicting approaches to the business cycle one would be prone to take were an economist to follow Ricardo rather than Malthus. Indeed, the book is largely about the impossibility of utilising Ricardian analysis in explaining the business cycle in contrast to the need to employ the kind of analysis pioneered by Malthus. All this is set out in the preface. Firstly McCracken discusses Ricardo:
The analysis appears to show that no embodied value theorist can logically explain a business cycle. He either involves himself in a dual theory of value, a logical inconsistency, or explains nothing but a secular trend. The presentation is quite critical, since it deals, as we believe, with the ‘false trails,’ based upon an erroneous theory of value, formulated by Ricardo.
(McCracken 1933, v)
Keynes, in arguing that because his contemporaries were following in the steps of Ricardo the notion of involuntary unemployment is a «possibility of which the classical theory does not admit» (cw, vii, 15), or that there is a «vitally important chapter of economic theory which remains to be written without which all discussions concerning the volume of aggregate employment are futile» (ibidem, 26) appears to be making a claim almost identical to the characterisation made by McCracken: an inability to generate a cyclical downturn appeared to be a consequence of adopting a Ricardian approach to the business cycle. In turning to Malthus, however, McCracken presents an argument that would be mirrored in the General Theory:
Malthus serves as a logical starting point for the consideration of business cycles, first, because he stressed the importance of ‘short run’ factors, and second, because his value approach was from the demand side. Consistent with his theory of value, he held that business might be depressed, either by a voluntary failure of demand on the part of those who had the power but not the will, or by an involuntary failure of demand by those who had the will but not the power.
(McCracken 1933, v-vi)
This is the same Malthus and the same contrast with Ricardo that would later on be found in the General Theory itself.
KEYNES’S LETTER TO MCCRACKEN
Until now, however, the question whether Keynes had actually read McCracken’s writings on Ricardo and Malthus was unanswerable. That he had read the sections on Marx was unarguable but whether he had read any of the rest of Value Theory and Business Cycles could only be left to conjecture.
Moreover, the question of Malthus’s writings having been a significant influence on Keynes’s thinking is far from accepted. It is for these reasons that a 1933 letter from Keynes to Harlan McCracken uncovered in June 2007 is of such significance (see Kates 2008). The letter makes clear the answers to both of these issues: firstly, whether Keynes read more of McCracken than just the section on Marx, and secondly, whether Malthus had been a major influence on Keynes’s thought. The following letter, dated 31st August 1933, was found in the McCracken archive at Lsu where it had lain since being deposited in 1961.[13]
Dear Dr. McCracken,
Having now read your book, I must again thank you for having sent it to me. For I have found it of much interest, particularly perhaps the passages relating to Karl Marx, with which I have never been so familiar as I ought to have been.
In the matter of Malthus, you will perhaps have seen from my account of him in my lately published “Essays in Biography”, which appeared before your book was out, but after I think you had written it, that I wholly agree with you in regarding him as a much under-estimated pioneer in the line of thought which to-day seems to me by far the most likely to lead to progress in the analysis of the business cycle. Your contrast between Ricardo and Malthus contains, I am convinced, the essence of the matter.
Yours very truly,
J. M. Keynes
The answer to whether Keynes read McCracken is quite clearly stated at the very start of the letter. Keynes wrote «having now read your book», a statement which should settle any doubts about whether Keynes had read the other parts of the book dealing with matters aside from Marx.
But what is far more significant is Keynes’s statement on the relevance of Malthus to how economic theory must develop. Keynes is unequivocal: it is Malthus’s «line of thought» that is «by far the most likely to lead to progress in the analysis of the business cycle» (italics added). Keynes does not endorse any of the specifics of Malthus’s analysis but its overall approach. It is a restatement of the sentiment found in his biographical essay where Keynes lamented, «if only Malthus, instead of Ricardo, had been the parent stem from which nineteenth-century economics proceeded» (cw, x, 100-101). Malthus does not provide the final answers, but it is from his analysis, according to Keynes, that economic theory ought to have initially developed, and even though it had not done so then, it should nevertheless do so now. It is Malthus’s «line of thought» that Keynes would now himself adopt.
SUPPLY CREATED ITS OWN DEMAND
One could, of course, decide Keynes had found someone else who had come to the same conclusion as he had on Ricardo and Malthus. Coincidence possibly or parallel development of ideas. One could thus say there is nothing in their mutual agreement on these questions that suggests McCracken had influenced Keynes except for this: it is from McCracken that Keynes takes the phrase “supply creates its own demand” as a definition of Say’s Law.
It has been generally assumed those words have their origins in the early nineteenth century, most probably because when Keynes first uses the phrase himself, he states «from the time of Say and Ricardo the classical economists have taught that supply creates its own demand» (cw, vii, 18). The implication is that this was a standard form of words that had been the common property of early writers on economic matters in describing the law of markets. In actuality, neither this form of words nor any close variant has ever been found in any of the classical writers.[14] These words are, however, with only one minor variation, found in McCracken and with specific reference to Say’s Law. The following is from McCracken’s discussion of involuntary failure of demand:
The Automatic Production-Consumption Economists [ie those economists who accept Say’s Law] who insisted that supply created its own demand, that goods exchanged against goods and that a money economy was only refined and convenient indirect barter missed the significance of the money economy entirely.
(McCracken 1933, 159; italics added)
Thus, the one phrase virtually every economist can be expected to know was first written by Harlan McCracken. None of this is to suggest plagiarism since Keynes himself assumed an antique origin for these words from amongst the early classical writers. But whether consciously or not, here we have a book known to have been read by Keynes while writing the General Theory in which are found words that are found no earlier anywhere else as a definition of Say’s Law. The evidence is, of course, circumstantial but is irresistible for all that: McCracken had profoundly shaped Keynes’s thought. It was McCracken’s understanding that it was Say’s Law which divided Ricardo from Malthus, and it was McCracken’s interpretation of Say’s Law and the major role Say’s Law had played in shaping the subsequent development of economic theory, that were adopted by Keynes. These became the standard framework for understanding this classical principle and its significance.
MCCRACKEN AND THE MPC
One other area of overlap should be noted, the highly suggestive parallel between McCracken’s discussion of demand failure in Malthus and Keynes’s subsequent analysis in relation to the marginal propensity to consume. Chapter 8 of the General Theory presents what Keynes regarded as the basic relationship between the level of income and the level of consumer demand. This relationship is presented as a «fundamental psychological law >> (cw, VII, 96).
Compare this with the following passage in McCracken found in a chapter titled «The Malthusian System of Economic Thought>. There McCracken wrote that diminishing marginal utility of goods in aggregate might lead to a fall in the level of demand relative to supply. The consequence is a fall in the proportion of one’s income spent as incomes rise, and here too psychology has a part to play:
It is readily discernible that Malthus was introducing a psychological element into value and price, and the law of demand and supply… By a rigorous application of the principle of diminishing utility, Aftalion showed how the intensity of desire for any given good declines as additional units are acquired or consumed, and in like manner intensity of desire for all goods declines as we climb down the scale of needs from the more necessitous goods to the less necessitous.
(McCracken 1933, 214-215)
In Malthus’s time, it would have been impossible to imagine an entire society having run out of demands in general. Malthus therefore attributed the insufficiency of demand to extreme inequalities of wealth where those with high incomes did not spend all they had received. A century later, Aftalion (1913) in an attack on the law of markets, can conceive of a situation in which diminishing marginal utility for goods in general might lead to a decline in consumption expenditure. This too is discussed by McCracken in a section of his book that one is directed to in the passage on Malthus just quoted. There McCracken wrote:
Psychological observation reveals the existence of a long scale of desires, but desires of diminishing intensity… The intensity of desire diminishes as we increase our power to satisfy the lesser needs.
(Ibidem, 145)
This is the same concept used by Keynes and here too it is presented as a psychological principle. Moreover, McCracken adds to the allure for Keynes of finally embodying this concept into mainstream economics with the suggestion that this would be a theoretical breakthrough of the highest order of significance:
If Aftalion has succeeded in establishing the possibility of a voluntary failure of demand by those who have purchasing power but insufficient keenness of desire, when facing expanded production under the influence of the principle of diminishing utility, then it constitutes one of the greatest contributions to economic theory in a generation. Say’s Law of Markets, according to which production financed consumption and supply generated adequate demand is in serious need of modification.
(Ibidem, 149, fn.; italics in the original)
This passage is also noteworthy in that it gives a name to the relevant principle: «Say’s Law of Markets».[15]
COMPLETING THE TASK
The fortuitous arrival of McCracken’s Value Theory and Business Cycles in early 1933 was a prime example in the parallel development of thought. Keynes immediately recognised the strong similarity of view. How much Keynes already understood of the context of the Malthus-Ricardo correspondence or the General Glut debates is difficult to know. But McCracken, being as he was a specialist in the history of thought, would have added to Keynes’s understanding of the issues at stake, and provided an appreciation of what was needed to refute Say’s Law.
However, in showing that savings might grow as a proportion of income as income increased, it would have been clear to Keynes that less than half the task in demonstrating the possibility of demand deficiency was complete. What was still needed was a theory to explain why the additional savings made available because of a proportionate drop in consumption would not be channelled into investment through adjustments in the rate of interest. The elements that went into this part of the story were, in essence, the theory of liquidity preference, the marginal efficiency of capital and the related notions of expectations and economic uncertainty. These were, however, concepts that in early 1933 Keynes had not yet appreciated the significance of. As he noted in an oft-quoted passage in his letter to Harrod (cw, xiv, 85), these concepts would be assembled one by one.
Each of these concepts had already been discussed in depth in the contemporary economic literature by leading economists but in each case with a different purpose in mind. Moreover, each of these economists had had a book published during the early 1930s while Keynes was preparing the General Theory. Two of these works were published in 1933 and two in 1934, the years of greatest intensity in the development of Keynes’s core ideas.
JOHN R. COMMONS
The first of these economists was John R. Commons. In 1961, McCracken published his Keynesian Economics in the Stream of Economic Thought, a work that had developed out of his graduate seminar at LSu on Keynesian theory. In it he devoted an entire chapter to the work of Commons. This chapter is, moreover, no mere diversion but 34 pages in length and titled simply «John R. Commons». In his explanatory footnote, McCracken’s first sentence stated that «perhaps the reader is entitled to a brief explanation as to why a rather extended treatment of Commons is included in a study of Keynesian economics» (McCracken 1961, 61, fn.). It is a question that might well be asked.
Although not mentioned in his book, McCracken had in fact undertaken his doctorate under Commons at the University of Wisconsin, completing his thesis in 1922 and receiving his Ph.D. in 1923. According to university records, the thesis was embodied in an article that was published in the Review of Economic Statistics in 1922 and titled, «Secular Trends and Business Cycles: a Classification of Theories». Its joint authors were listed as J. R. Commons, H. L. McCracken and W. E. Zeuch.
And although the article is about classifications of the theory of the cycle, its very first paragraph deals with the differences between Malthus and Ricardo. The differences outlined would be entirely familiar to anyone who had read the General Theory. Then well into the article the following discussion occurs which expands on their contrasting theories of the cycle in which it is noted that «Malthus differed from Ricardo at almost every point» (Commons, McCracken and Zeuch 1922, 258). Note the difference in policy that follows from Malthus’s approach relative to Ricardo’s. It is clear why Keynes preferred Malthus’s theories to Ricardo’s:
According to Ricardo, there could be no universal or general overproduction of goods….
“But Malthus contended that the great mass of commodities is exchanged directly or indirectly for labor, either productively or unproductively. Hence, compared with labour, all of the goods may fall in value at the same time. And this general fall in value proceeds from a ‘glut,’ just as any one commodity falls in value from an excess of supply, compared with labor or money.
It followed that Ricardo’s remedy for overproduction of some goods was more production of other goods. It followed that Malthus’ remedy for overproduction was an increase in unproductive consumption, such as taxes, public employment, highways, improvement of landed estates and more employment of menial servants instead of ‘productive’ laborers.
(Ibidem)
Then in a footnote reference to a discussion on Sismondi, and where it is noted that in the theory being discussed «the market becomes glutted because effective demand was lacking» (ibidem, 251), the authors state:
This question [Sismondi] argued heatedly with J. B. Say and Ricardo. The two latter consistently held that ‘goods exchange against goods’ and therefore supply could never exceed demand.
(Ibidem, 251, fn.)
Thus, going beyond McCracken one encounters arguments found within the institutionalist school in looking at the nature of the business cycle. None of this is presented as an example of parallel discovery but as part of a process in which the ideas that had been developed by Commons and his students were filtered through to Keynes via McCracken. These were mature ideas that had been debated extensively and were part of a literature on the cycle that was available to scholars across the world.
COMMONS AND EXPECTATIONS
But what makes it even more likely that Keynes would have sought out and read this article was that he was a long-time admirer of Commons and needed no introduction through McCracken. Skidelsky, in his biography of Keynes, noted the high regard Keynes had had for Commons since the 1920s. He stresses that Commons had been an «unacknowledged» although «important» influence on Keynes:
Commons, an institutional economist who taught at Wisconsin University, is an important, if unacknowledged, influence on Keynes. Indeed, Keynes wrote to him in 1927 that ‘there seems to me to be no other economist with whose general way of thinking I feel myself in such general[16] accord’.
(Skidelsky 1992, 229)
Once Keynes had turned to Commons, the book that would almost certainly have come to his attention was Commons’ then most recent publication, Institutional Economics, published in 1934 while Keynes was in the midst of his background research on the General Theory. And it turns out that the central issue raised by Commons was the issue that became the minor theme of the General Theory, the role of expectations in decisions to invest. One might be thought to be drawing a long bow to relate Commons and Keynes in regard to expectations, yet it was McCracken who made this connection without suggesting that Keynes might have taken the idea from Commons. Explicitly McCracken, who understood both Commons and Keynes with extraordinary clarity, having been taught by one and directly influenced the other, recognised how close their thinking on this issue was. McCracken, in looking back on the Keynesian Revolution, makes this observation:
A final feature of Institutional Economics centers around the word ‘futurity.’ Commons definitely anticipated Keynes by approximately twenty years.
(McCracken 1961, 69)
Futurity was Commons’ depiction of value as an estimate of the future flow of income expected to accrue as the result of an investment. This is how McCracken describes the parallel notions in Commons and Keynes:
In class notes of 1921 the author found this statement: ‘Value is a mental appraisal in the present of future uses of incomes.’ The same idea was later included in Institutional Economics: ‘It is evident, indeed, that the entire concept of value is volitional instead of mechanistic, since value is a present estimate of something expected in the future.’
The meaning given to this formal definition was almost precisely the idea later expressed by Keynes in his General Theory (1936), in which Chapter 5 is devoted to expectations….
It is the judgment of the writer that Commons and Keynes have here given us the greatest single contribution to economic theory in this century.
(Ibidem, 70-71; italics in the original but the bolding has been added)
McCracken sums up the comparison by stating that «we learn both from Commons and from Keynes that the value of all goods, commodities, or services is the discounted present worth of future expectations» (ibidem, 73). This was, as McCracken explains, a long-held and long-developed theory of Commons’, outlined at length in a book published in 1934. With Keynes, on the other hand, the marginal efficiency of capital, his name for this form of valuation, is a novel concept not previously presented in any of his prior works. Keynes, in his famous letter to Harrod on the development of the underlying concepts of the General Theory lists the MEc as having occurred last of all in the development of his own thinking and describes its gestation as difficult, writing:
After an immense lot of muddling and many drafts, the proper definition of the marginal efficiency of capital linked up one thing with another.
(cw, xiv, 85)
Moreover, Whalen notes that in a speech given in 1925, Keynes directly excerpts passages from a book written by Commons in that same year. The book, Reasonable Value, is a mimeographed typescript but one which had been published in that form and had been personally distributed by Commons to selected recipients (Whalen 2008, 229). Given the extensive quotes that Keynes took from this book in the speech he gave in 1925, it is clear that Keynes read this book.[17]
And what is of great significance is that section five of Reasonable Value deals with and is titled «Futurity», the issue dealt with by Keynes in the General Theory, which McCracken argued was «the greatest single contribution to economic theory in this century» and which McCracken had further argued that Commons had preceded Keynes by twenty years. Whalen (and others) have examined the connection between Keynes and Commons during the 1920s. More fruitful and of far greater potential importance would be an examination of the role Commons played in shaping Keynes’s ideas in the early 1930s as the General Theory was being written.
IRVING FISHER
That Irving Fisher had developed the concepts embodied in Keynes’s Marginal Efficiency of Capital before Keynes had done so himself seems almost entirely beyond argument. In the General Theory we find the following acknowledgement of Fisher’s work:
Although he does not call it the ‘marginal efficiency of capital,’ Professor Irving Fisher has given in his Theory of Interest (1930) a definition of what he calls ‘the rate of return over costs’ which is identical with my definition… Professor Fisher uses his ‘rate of return over cost’ in the same sense and for precisely the same purpose as I employ ‘the marginal efficiency of capital’.
(cw, vii, 140-141)
Although a fulsome and apparently straightforward recognition of precedence, Patinkin explains how Keynes’s acknowledgement of the fact of this prior development came about:
Now, in the General Theory (p. 141) Keynes himself had attributed priority for the notion of the marginal efficiency of capital to Fisher; and only recently have we (with the help of Paul Samuelson) learned the fascinating story of how this priority was brought to Keynes’ attention by Redvers Opie, at almost the last minute before publication.
(Patinkin 1982, 9)
The details of how Keynes was alerted to the fact that others had recognised in a late draft of the General Theory the identical concept within Fisher’s writing is dealt with at length as a footnote to a transcribed discussion that took place at the University of Western Ontario in October 1975. It was Samuelson who had suggested that Opie had been the one to mention to Keynes that Fisher had priority in the development of this concept. The footnote to the discussion between Patinkin and Samuelson then spells out how this issue was sorted out some forty years after the events described:
Since the Conference, Samuelson has discussed this question with Redvers Opie himself, who in reply provided him with a copy of a handwritten note (dated August 5, 1935) which R.F. Kahn sent to Opie at Oxford, and which in its entirety reads:
Guillebaud tells me that you maintain that Fisher, in his Theory of Interest (1930), has a definition identical with Keynes’ definition of the ‘marginal efficiency of capital.’ I wonder if you could let me have the reference.
A scribble at the bottom of this note indicates that Opie then referred to ‘Fisher pp. 155, 168.’
This note together with the fact that the first record of Keynes’ recognition of Fisher’s priority in this matter is in a letter which Keynes wrote to Roy Harrod three weeks later, on August 27, 1935 (jMk xiii, p. 549; Patinkin 1976 (a). 80-1) constitute fairly conclusive confirmation of Samuelson’s suggestion. Samuelson thinks that he himself may have learned of this incident from Schumpeter.
(Patinkin and Leath 1977, 89, fn.)
Keynes’s own reaction to being told others had discovered that Fisher had priority in outlining what Keynes had called the «marginal efficiency of capital» is quite interesting in its own way. In the passage below, which is from the letter to Harrod referred to by Patinkin and Leith in the above quotation, Keynes wrote:
My definition of the marginal efficiency of capital is quite different from anything to be found in [Marshall’s] work or in that of any other classical economist (except for a passage which he makes little subsequent use of in Irving Fisher’s latest book).
(cw, xiii, 549)
Thus, whether Fisher had made subsequent use of this concept or not, Keynes accepts that the concept that in the General Theory is known as the marginal efficiency of capital is exactly the same as Fisher’s «rate of return over cost». In this case, however, and unlike with McCracken, others recognised Fisher had already discussed the same concepts before they had been discussed by Keynes. Keynes therefore acknowledged Fisher’s priority which would not in all probability have occurred had Opie not drawn this parallel to the attention of others.




『ケインズ「一般理論」形成史』(浅野栄一135~6頁)によると、1933年末にはケインズが有効需要論を新しい理論体系の中心に据えることを明示的に表明するに至ったという。
 この全集第19巻に収められた[1933年『一般理論』草稿#2]では、ケインズはさらに、有効需要問題を処理する際の彼の新しい分析視角のひとつを明確化している。
 1933年アメリカの経済学者H.L.マクラッケンは、経済学説史に関する著書『価値論と景気循環』を出版したが、たぶんみずからの理論の想源を調べていたケインズはただちにこれを読み、そのなかのマルクス理論の解説部分からヒントを得て、草稿でつぎのように書いていた。

《協同体経済と企業家経済の間の区別はカール・マルクスによってなされた意味深長な観察と若干の関係をもっている。》

 The distinction between a co-operative economy and an entrepreneur economy bears some relation to a pregnant observation made by Karl Marx,-  


それによると、マルクスは、現実世界の生産の性格が、経済学者たちがしばしば想定しているようなC一M-C′(商品一貨幣一他の商品という交換)のケース――これは私的消費者の観点からのものである一一ではなく、M-C一M′(貨幣一商品一より多くの貨幣という交換)のケース――これが事業の態度である――であることを指摘したが、この指摘はケインズの想定する企業家経済を分析する際の重要な視点を提供している、というのである。
 この商品と貨幣との交換過程に関する範式は、もともとマクラッケンが、剰余価値の源泉を流通過程ではなく生産過程に求めていったマルクスの説明を、『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の叙述に即しながら解説したものであり、マクラッケン自身はマルクスに忠実にこの範式を使用していたのであるが、ケインズは、この範式に独自の解釈を施し、それにマクラッケンの著書では触れられていなかった『資本論』第2巻の三つの資本循環に関する分析の内容を盛り込んで、つぎのように主張する。それによれば、前者の範式は古典派理論の想定する経済像を表現したものであり、そこでは、

《企業家の生産過程開始への意欲は、彼の取り分となると期待されるものの生産物表示での価値量に依存する、すなわち、彼に帰属するより多くの生産物への期待のみが彼にとっての雇用増大への誘因となる》

 (The classical theory supposes that ) the readiness of the entrepreneur to start up a productive process depends on the amount of value in terms of product which he expects to fall to his share; i.e. that only an expectation of more product for himself will induce him to offer more employment.

と考えられている。しかし、

《企業家経済の下では、これは企業打算の性格についての間違った分析である。企業家の関心は、彼の取り分となる生産物の量ではなく、貨幣の量にある。彼は、産出量を増加させることによってその貨幣利潤を増加させることができると期待するならば、たとえこの利潤が以前よりも少ない生産物量を示すとしても、その産出量を増加させるであろう。》


   [ But] in an entrepreneur economy this is a wrong analysis of the nature of business calculation. An entrepreneur is interested, not in the amount of product, but in the amount of money which will fall to his share. He will increase his output if by so doing he expects to increase his money profit, even though this profit represents a smaller quantity of product than before.

ケインズ全集・J.M.K Vol.XXIX,p. 81~2参照  [Keynes (1979), pp.81-2.]

マルクスのケインズへの影響はカレツキと似ている。バーナード・ショーへの手紙におけるマルクス批判などは擬態だったということになる。邦訳を望みたい。

『ケインズ「一般理論」形成史』(浅野栄一135~6頁)によると、1933年末には
ケインズが有効需要論を新しい理論体系の中心に据えることを明示的に表明す
るに至ったという。
 この全集第29巻に収められた[1933年『一般理論』草稿#2]では、
ケインズはさらに、有効需要問題を処理する際の彼の新しい分析視角のひとつ
を明確化している。
 1933年アメリカの経済学者H.L.マクラッケンは、経済学説史に関す
る著書『価値論と景気循環』を出版したが、たぶんみずからの理論の想源を調
べていたケインズはただちにこれを読み、そのなかのマルクス理論の解説部分
からヒントを得て、草稿でつぎのように書いていた。

《協同体経済と企業家経済の間の区別はカール・マルクスによってなされた意
味深長な観察と若干の関係をもっている。》

それによると、マルクスは、現実世界の生産の性格が、経済学者たちがしばし
ば想定しているようなC一M-C′(商品一貨幣一他の商品という交換)のケ
ース――これは私的消費者の観点からのものである一一ではなく、M-C一M
′(貨幣一商品一より多くの貨幣という交換)のケース――これが事業の態度
である――であることを指摘したが、この指摘はケインズの想定する企業家経
済を分析する際の重要な視点を提供している、というのである。
 この商品と貨幣との交換過程に関する範式は、もともとマクラッケンが、剰
余価値の源泉を流通過程ではなく生産過程に求めていったマルクスの説明を、
『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の叙述に即しながら解
説したものであり、マクラッケン自身はマルクスに忠実にこの範式を使用して
いたのであるが、ケインズは、この範式に独自の解釈を施し、それにマクラッ
ケンの著書では触れられていなかった『資本論』第2巻の三つの資本循環に関
する分析の内容を盛り込んで、つぎのように主張する。それによれば、前者の
範式は古典派理論の想定する経済像を表現したものであり、そこでは、

《企業家の生産過程開始への意欲は、彼の取り分となると期待されるものの生
産物表示での価値量に依存する、すなわち、彼に帰属するより多くの生産物へ
の期待のみが彼にとっての雇用増大への誘因となる》

と考えられている。しかし、

《企業家経済の下では、これは企業打算の性格についての間違った分析である
。企業家の関心は、彼の取り分となる生産物の量ではなく、貨幣の量にある。
彼は、産出量を増加させることによってその貨幣利潤を増加させることができ
ると期待するならば、たとえこの利潤が以前よりも少ない生産物量を示すとし
ても、その産出量を増加させるであろう。》

(参照:ケインズ全集・J.M.K Vol.XXIX,p. 81~2)

マルクスのケインズへの影響はカレツキと似ている。バーナード・ショーへの
手紙におけるマルクス批判*(邦訳ケインズ全集28巻)などは擬態だったということ
になる。邦訳を望む。

13,14の補遺だから29はそのあとか。14は2016年邦訳が出た。

邦訳ケインズ全集28:55頁より
バーナード・ショー宛て、1934年12月2日

 私の『資本論(Das Kapital)』についての感じ方は、『コーラン』についてのそれと同じです。私は、そ
れが歴史的に重要であることを承知しており、また多くの人々ーーそのすべてが馬鹿者ではありませんが、そこ
に或る種の「千年の岩(Rock of Ages)」(訳注:賛美歌)と霊感の内包を見出していることも知っています。しかもなおそれに目
を通すとき、それがこのような効果を持ち得ると自らに説明することが出来ないのです。その退屈で時代遅れのアカ
デミックな議論は、目的のための材料として、余りにも不適切なように見えます。それにしても、私が申し上げたよ
うに、『コーラン』についてと正に同じものを感じます。いったい如何にして、これらの書物の双方が、世界の半ば
をめぐって、戦禍を齎(もたら)し得たのでしようか? そのことが、私に衝撃を与えます。私の理解には、明らかに、或る種
の欠陥があるでしよう。あなたは、『資本論』と『コーラン』の双方を信じますか。或いは「資本論」だけですか。
しかし、後者の社会学的価値がどうあれ、その現代的な経済学的価値は(時折の、しかし非建設的で非連続的な洞察
のひらめきは別として)ゼロです。
あなたは、それを読み直す約束をされますか、もし私がそうするとして....?
 ご健康を念じつつ。
                          常にあなたの
                             J・M・ K


以下、61~2頁より


  ジヨージ・バーナード・ショウ宛て、1935年1月1日
親愛なるバーナード・ショウ
 お手紙ありがとうございます、私は努力してあなたの言葉を心に留めましよう。あなたが言われることにはーー通
常そうですから何かがあるに違いありません。しかし、私は、先週、出版されたばかりのマルクスーエンゲルス
往復書簡集を読みつつ、昔のカール・マルクスに別の光を当ててみたのですが、大きな進展はありませんでした。私
は二人の中ではエンゲルスの方を好みます。私は、彼らが研究遂行の或る方法と執筆上のひどい仕方ーーその双方を、
彼らの後継者たちが忠実に維持してきたのですがーーを発明したのを見ることができます。しかし、もしあなたが私
に、彼らは経済の難問に対する解決の手がかりを発見したのだとおっしやるなら、やはり私は困惑しますーー私は時
代遅れの議論以外の何ものをも見出し得ないのです。
 しかしながら、私の心境を理解して頂くためには、私が、世界の人々の経済問題についての考え方を恐らく今
ただちにではなく、向こう10年間のうちに大きく変革すると思われる経済理論に関する書物を書いていると自
ら確信していることを、あなたに知って頂かなければなりません。私の新しい理論が正しく理解され、政治や感情や
情熱と混ぜ合わされたとき、行動や事象に及ぼす影響において、どのような最終的結果を齎すか、予見することはで
きません。しかし大きな変化が起こるでしょうし、なかんずく、マルクシズムのリカード的基礎は打ち壊されるで
しょう。
私は、このことを、現時点であなたが、或いは他の人々が、信じて下さるとは期待し得ません。しかし、私
自身としては、私の言っていることは単なる希望ではないと思っていますーー心中、私は完全に確信しているのです。
 リディアが、あなたとシャーロットによろしく、と。
                          常にあなたの
                             J・M・ K‘But whatever the sociological value of [Das Kapital] I am sure that its contemporary economic value (apart from occasional but inconstructive [sic] and discontinuous flashes of insight) is nil’ (1934, JMK to George Bernard Shaw, 2 December, quoted in Robert Skidelsky, John Maynard Keynes, vol. 2 (1992), p. 520). 
‘To understand my state of mind … you have to know that I believe myself to be writing a book on economic theory, which will largely revolutionise … the way the world thinks about economic problems. When my new theory has been duly assimilated and mixed with politics and feelings and passions, I can’t predict what the upshot will be in its effects on actions and affairs. But there will be a great change, and, in particular, the Ricardian foundations of Marxism will be knocked away’ (1935, JMK to George Bernard Shaw, 1 January, quoted in Skidelsky, John Maynard Keynes, vol. 2, pp. 520–21).
George Bernard Shaw (left) and John Maynard Keynes (right),
at the Fitzwilliam Museum, Cambridge, U.K., 1936


ケインズ『一般理論』形成史
 著者名等  浅野栄一/著  ≪再検索≫
 出版者   日本評論社
 出版年   1987.2
 大きさ等  22cm 202p
 NDC分類 331.74
 件名    ケインズ ジョン・メイナード
 件名    Keynes John Maynard.
 目次    第1章 『貨幣論』(『貨幣論』の学説史的位置づけ;当時の政策論議中の前進的萌芽)
;第2章 離陸の諸契機(世界大不況の影響;カーン論文とケンブリッジ・サーカスの役
割;『貨幣論』をめぐる諸論争);第3章 新しいヴィジョンの形成(前進への諸兆候;
「生産の貨幣的理論」に向けて;新しい資本主義経済像の模索;革命のプロセスについて
のケインズ自身の証言);第4章 経済理論の革新へ;第5章 『一般理論』の成立(草
稿段階の総仕上げ;校正刷をめぐる論戦;形成史からみた『一般理論』;『一般理論』出
版後のケインズ)
 内容    参考文献:p195~198
 ISBN等 4-535-57639-4


《…1933年末にはケインズが有効需要論を新しい理論体系の中心に据えることを明示的に表明するに至ったことを確認しておこう。
この章[1933年草稿#2]では,ケインズはさらに,有効需要問題を処理する際の彼の新しい分析視角のひとつを明確化している。それはこうである。
 この年アメリカの経済学者H.L.マクラッケンは,経済学説史に関する著書『価値論と景気循環』を出版したが,たぶんみずからの理論の想源を調べていたケインズはただちにこれを読み,そのなかのマルクス理論の解説部分からヒントを得て,草稿でつぎのように書いていた。「協同体経済と企業家経済の間の区別はカール・マルクスによってなされた意味深長な観察と若干の関係をもっている。」31)それによると,マルクスは,現実世界の生産の性格が,経済学者たちがしばしば想定しているようなC一M-C′(商品一貨幣一他の商品という交換)のケース――これは私的消費者の観点からのものである一一ではなく,M-C一M′(貨幣一商品一より多くの貨幣という交換)のケース――これが事業の態度である――であることを指摘したが,この指摘はケインズの想定する企業家経済を分析する際の重要な視点を提供している,というのである。
 この商品と貨幣との交換過程に関する範式は,もともとマクラッケンが,剰余価値の源泉を流通過程ではなく生産過程に求めていったマルクスの説明を,『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の叙述に即しながら解説したものであり,マクラッケン自身はマルクスに忠実にこの範式を使用していたのであるが,ケインズは,この範式に独自の解釈を施し,それにマクラッケンの著書では触れられていなかった『資本論』第2巻の三つの資本循環に関する分析の内容を盛り込んで,つぎのように主張する。それによれば,前者の範式は古典派理論の想定する経済像を表現したものであり,そこでは,「企業家の生産過程開始への意欲は,彼の取り分となると期待されるものの生産物表示での価値量に依存する,すなわち,彼に帰属するより多くの生産物への期待のみが彼にとっての雇用増大への誘因となる」と考えられている。しかし,「企業家経済の下では,これは企業打算の性格についての間違った分析である。企業家の関心は,彼の取り分となる生産物の量ではなく,貨幣の量にある。彼は,産出量を増加させることによってその貨幣利潤を増加させることができると期待するならば,たとえこの利潤が以前よりも少ない生産物量を示すとしても,その産出量を増加させるであろう。」32)
31)ケインズ全集・J.M.K Vol.XXIX,.,p. 81
32)ケインズ全集・J.M.K Vol.XXIX,.,p. 82》

浅野栄一135~6頁


125頁:
「古典派雇用理論の第一公準と第二公準」

古典派の公準 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/古典派の公準
古典派の公準(こてんはのこうじゅん)とは、ケインズが、彼の著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において示した命題。第1編第2章「古典派経済学の公準」において、古典派経済学及び新古典派経済学(ケインズはマーシャルピグーなどの新古典派経済学を古典派経済学と合わせて「古典派経済学」と呼んでいる)の雇用理論の要約の中で示した。

目次

内容編集

古典派の第1公準編集

企業の利潤が極大化されるとき、実質賃金は、労働の限界生産物に等しい。
労働の限界生産物が実質賃金に等しくなるように雇用量(労働需要量)は決定される。
  • 利潤=(生産物価格X生産(販売)量)-(名目賃金X雇用量)
  • 実質賃金=名目賃金/生産物価格
  • 労働の限界生産物=生産(販売)量の増加/雇用量の増加(1単位あたり)
名目賃金10に対し生産物価格2(実質賃金5)であり、雇用量を1増加させると生産(販売)量が10増加する(労働の限界生産物10)ものとする。このとき雇用量を1増やせば利潤は10増加する。そして労働の限界生産物逓減により、労働の限界生産物が実質賃金5と等しくなるまで下がったとき、利潤が最大化されることになる。
なおこの第1公準からは労働需要曲線が導出される。

古典派の第2公準編集

労働者の余剰効用が極大化されるとき、一定の労働量が雇用されている場合の実質賃金の限界効用は、その雇用量の限界不効用に等しい。
労働の限界不効用が実質賃金の限界効用に等しくなるように労働供給量は決定される。
なおこの第2公準からは労働供給曲線が導出される。

古典派の見解編集

古典派経済学に立脚すれば、実質賃金率の柔軟な変動[1]が与えられれば、調整の過程における摩擦的失業、労働者の希望する実質賃金率の高止まりによる自発的失業以外の失業はありえない。
ケインズによると、古典派の見解が受容される限り、完全雇用を達成する方策は次のようなものとなる。
  • (賃金財産業の)労働生産性の引き上げによって物価(賃金財)を引き下げ、実質の賃金率(名目賃金/物価)を高める。
  • 非賃金財価格を賃金財価格に比して騰貴させることで、非賃金財価格の労働需要曲線を右方シフト(労働需要を増加)させる。
  • 労働の非効用(苦痛)を低下させることで、労働供給曲線を右方シフト(労働供給を増加)させる。
  • 職業安定所や職業訓練所の充実によって、摩擦的失業を減少させる。

ケインズの見解編集

ケインズは、労働者が実質賃金率の変化に応じて労働供給量を決定することはないと主張し、古典派の第2公準を否定した[2]。そして、この公準に立脚する限りでは説明できない非自発的失業(生産物に対する有効需要の変動によって生じる失業)という現象があることを明らかにした。
失業についてのより詳しい説明は、第19章「貨幣賃金の変動」でなされている。

脚注編集

  1. ^ なお実質賃金率の上昇は、代替効果の点から見た場合、余暇を選択した場合の機会費用を上昇させ、余暇の減少と労働供給の増加(所得の増大)をもたらす。所得効果の点からみた場合は、余暇の増大と労働供給の減少(同一の所得)をもたらす。
  2. ^ ケインズは古典派の第2公準がセイの法則の成立する範囲でのみ成立すると考えた

文献情報編集

  • 「ケインズ「有効需要の原理」再考」美濃口武雄(一橋論叢1999.06.01)[1]

関連項目編集




11
12
13
16
20
22
23
29
30

9/30未邦訳
『ケインズ全集』の刊行状況 ( 経済学 ) - 平井俊顕 (ひらい・としあきToshiaki Hirai)blog
https://blogs.yahoo.co.jp/olympass/55261266.html 2015/10

14がその後邦訳刊行

ケインズ全集 第14巻 一般理論とその後
 著者名等  ケインズ/〔著〕  ≪再検索≫
 著者名等  中山伊知郎/〔ほか〕編  ≪再検索≫
 出版者   東洋経済新報社
 出版年   2016.1
 大きさ等  22cm 454,198p
 注記    The collected writings of John Maynard K
eynes.の翻訳
 NDC分類 331.74
 件名    経済学‐ケンブリッジ学派  ≪再検索≫
 要旨    有効需要の原理、流動性選好利子理論、非自発的失業、資本の限界効率―ケインズ理論の
核心に、ホートリー、ロバートソン、ピグー、ヒックス等からよせられた誤解、疑問や批
判に対し、論文・書簡などで応答した論争の記録。『一般理論』草稿の集注版も収録。
 目次    第2部 弁護と発展(一般理論以後);付録 『一般理論』草稿の集注版
 内容    有効需要の原理、非自発的失業、資本の限界効率…。ケインズ理論の核心に、ホートリー
、ロバートソン、ピグー、ヒックスなどからよせられた誤解、疑問や批判に対し、論文・
書簡などで応答した論争の記録。
 ISBN等 4-492-81313-6


e-books(en)



石倉論考
 The distinction between a co-operative economy and an entrepreneur economy bears some relation to a pregnant observation made by Karl Marx,— though the subsequent use to which he put this observation was highly illogical. He pointed out that the nature of production in the actual world is not, as economists seem often to suppose, a case of C-MC, i.e. of exchanging commodity (or effort) for money in order to obtain another commodity (or e#ort). That may be the standpoint of the private consumer. But it is not the attitude of business, which is a case of M-C-M, i.e. of parting with money for commodity (or effort) in order to obtain more money. This is important for the following reason.
  The classical theory supposes that the readiness of the entrepreneur to start up a productive process depends on the amount of value in terms of product which he expects to fall to his share; i.e. that only an expectation of more product for himself will induce him to offer more employment. But in an entrepreneur economy this is a wrong analysis of the nature of business calculation. An entrepreneur is interested, not in the amount of product, but in the amount of money which will fall to his share. He will increase his output if by so doing he expects to increase his money profit, even though this profit represents a smaller quantity of product than before.18

Keynes (1979), pp.81-2.


36 Comments:

Blogger yoji said...

Value Theory and Business Cycles - Harlan Linneus McCracken ...
books.google.com>...>Economics>Theory
Value Theory and Business Cycles was originally published in 1933 during the great depression. It is the purpose of the ...
Value Theory and Business Cycles by Harlan Mccracken Linneus ...
www.questia.com/.../value-theory-and-business-cycles

3:28 午後  
Blogger yoji said...

『ケインズ「一般理論」形成史』(浅野栄一135~6頁)によると、1933年末には
ケインズが有効需要論を新しい理論体系の中心に据えることを明示的に表明す
るに至ったという。
 全集第29巻に収められた[1933年『一般理論』草稿#2]では、
ケインズはさらに、有効需要問題を処理する際の彼の新しい分析視角のひとつ
を明確化している。
 1933年アメリカの経済学者H.L.マクラッケンは、経済学説史に関す
る著書『価値論と景気循環』を出版したが、たぶんみずからの理論の想源を調
べていたケインズはただちにこれを読み、そのなかのマルクス理論の解説部分
からヒントを得て、草稿でつぎのように書いていた。

《協同体経済と企業家経済の間の区別はカール・マルクスによってなされた意
味深長な観察と若干の関係をもっている。》

それによると、マルクスは、現実世界の生産の性格が、経済学者たちがしばし
ば想定しているようなC一M−C′(商品一貨幣一他の商品という交換)のケ
ース――これは私的消費者の観点からのものである一一ではなく、M−C一M
′(貨幣一商品一より多くの貨幣という交換)のケース――これが事業の態度
である――であることを指摘したが、この指摘はケインズの想定する企業家経
済を分析する際の重要な視点を提供している、というのである。
 この商品と貨幣との交換過程に関する範式は、もともとマクラッケンが、剰
余価値の源泉を流通過程ではなく生産過程に求めていったマルクスの説明を、
『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の叙述に即しながら解
説したものであり、マクラッケン自身はマルクスに忠実にこの範式を使用して
いたのであるが、ケインズは、この範式に独自の解釈を施し、それにマクラッ
ケンの著書では触れられていなかった『資本論』第2巻の三つの資本循環に関
する分析の内容を盛り込んで、つぎのように主張する。それによれば、前者の
範式は古典派理論の想定する経済像を表現したものであり、そこでは、

《企業家の生産過程開始への意欲は、彼の取り分となると期待されるものの生
産物表示での価値量に依存する、すなわち、彼に帰属するより多くの生産物へ
の期待のみが彼にとっての雇用増大への誘因となる》

と考えられている。しかし、

《企業家経済の下では、これは企業打算の性格についての間違った分析である
。企業家の関心は、彼の取り分となる生産物の量ではなく、貨幣の量にある。
彼は、産出量を増加させることによってその貨幣利潤を増加させることができ
ると期待するならば、たとえこの利潤が以前よりも少ない生産物量を示すとし
ても、その産出量を増加させるであろう。》
(参照:ケインズ全集・J.M.K Vol.XXIX,p. 81~2)

マルクスのケインズへの影響はカレツキと似ている。バーナード・ショーへの
手紙におけるマルクス批判*(邦訳ケインズ全集28巻)などは擬態だったということ
になる。邦訳を望む。
(13,14の補遺だから29はそのあとか。14は2016年邦訳が出た。)

3:29 午後  
Blogger yoji said...


VALUE THEORY AND BUSINESS CYCLES: Harlan Linneus McCracken
Seller Image
More images
VALUE THEORY AND BUSINESS CYCLES

Harlan Linneus McCracken

Published by Falcon Press, USA (1933)
Used Hardcover First Edition
Quantity Available: 1
From: Andre Strong Bookseller (Blue Hill, ME, U.S.A.)
Seller Rating: 5-star rating
Add to Basket
US$ 475.00
Convert currency
Shipping: US$ 34.00
From U.S.A. to Japan
Destination, rates & speeds
About this Item: Falcon Press, USA, 1933. Hardcover. Condition: t. First edition. 5 3/4 x 8 3/4 in. xiii, 270 pp. Blue cloth boards with gilt (?) spine titles and blindstamped Falcon Press logo on cover. This is the extremely rare first edition of 1933. A little known work that influenced Keynes' General Theory, in which Keynes paraphrased (or some say plagarized) McCracken's phrase "supply created its own demand". Condition is VERY GOOD ; minor shelf wear, some water-staining to spine and just the upper left edges of the front. Spine is a bit sunned and quite toned, with the titles a bit difficult to read. The rear cover has some paper adhering to it, possibly from a DJ. Binding is tight and the text is bright and spotless. A very scarce, influential work on economic theory. Econ. RGR. Seller Inventory # 21288

More information about this seller | Contact this seller 1.

Value Theory and Business Cycles: McCracken, Harlan Linneus
Stock Image
Value Theory and Business Cycles

McCracken, Harlan Linneus

Published by Books for Business
ISBN 10: 0894990675 ISBN 13: 9780894990670
Used
Quantity Available: 1
From: Phatpocket Limited (Waltham Abbey, HERTS, United Kingdom)
Seller Rating: 5-star rating

3:31 午後  
Blogger yoji said...

タイトル  マルクスとケインズ
版情報   新版
著者名等  ポール・マティック/著  ≪再検索≫
著者名等  佐藤武男/訳  ≪再検索≫
出版者   学文社
出版年   1982.4
大きさ等  22cm 235p
注記    Marx and Keynes:the limits of the mixed 
economy./の翻訳
NDC分類 331.74
件名    経済学-社会主義学派  ≪再検索≫
件名    ケインズ経済学  ≪再検索≫
内容    参考文献:p221~223
ISBN等 4-7620-0048-5
書誌番号  3-0190057308

3:08 午前  
Blogger yoji said...

以下はケインズ一般理論草稿を考慮していない

マルクスとケインズ
版情報   新版
著者名等  ポール・マティック/著  ≪再検索≫
著者名等  佐藤武男/訳  ≪再検索≫
出版者   学文社
出版年   1982.4
大きさ等  22cm 235p
注記    Marx and Keynes:the limits of the mixed [1969]
economy./の翻訳

ローザ
プルードン
ゲゼルへの言及あり
カレツキの名はない

12:02 午前  
Blogger yoji said...

『ケインズ「一般理論」形成史』(浅野栄一135~6頁)によると、1933年末には
ケインズが有効需要論を新しい理論体系の中心に据えることを明示的に表明す
るに至ったという。
 この全集第29巻に収められた[1933年『一般理論』草稿#2]では、
ケインズはさらに、有効需要問題を処理する際の彼の新しい分析視角のひとつ
を明確化している。
 1933年アメリカの経済学者H.L.マクラッケンは、経済学説史に関す
る著書『価値論と景気循環』を出版したが、たぶんみずからの理論の想源を調
べていたケインズはただちにこれを読み、そのなかのマルクス理論の解説部分
からヒントを得て、草稿でつぎのように書いていた。

《協同体経済と企業家経済の間の区別はカール・マルクスによってなされた意
味深長な観察と若干の関係をもっている。》

それによると、マルクスは、現実世界の生産の性格が、経済学者たちがしばし
ば想定しているようなC一M-C′(商品一貨幣一他の商品という交換)のケ
ース――これは私的消費者の観点からのものである一一ではなく、M-C一M
′(貨幣一商品一より多くの貨幣という交換)のケース――これが事業の態度
である――であることを指摘したが、この指摘はケインズの想定する企業家経
済を分析する際の重要な視点を提供している、というのである。
 この商品と貨幣との交換過程に関する範式は、もともとマクラッケンが、剰
余価値の源泉を流通過程ではなく生産過程に求めていったマルクスの説明を、
『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の叙述に即しながら解
説したものであり、マクラッケン自身はマルクスに忠実にこの範式を使用して
いたのであるが、ケインズは、この範式に独自の解釈を施し、それにマクラッ
ケンの著書では触れられていなかった『資本論』第2巻の三つの資本循環に関
する分析の内容を盛り込んで、つぎのように主張する。それによれば、前者の
範式は古典派理論の想定する経済像を表現したものであり、そこでは、

《企業家の生産過程開始への意欲は、彼の取り分となると期待されるものの生
産物表示での価値量に依存する、すなわち、彼に帰属するより多くの生産物へ
の期待のみが彼にとっての雇用増大への誘因となる》

と考えられている。しかし、

《企業家経済の下では、これは企業打算の性格についての間違った分析である
。企業家の関心は、彼の取り分となる生産物の量ではなく、貨幣の量にある。
彼は、産出量を増加させることによってその貨幣利潤を増加させることができ
ると期待するならば、たとえこの利潤が以前よりも少ない生産物量を示すとし
ても、その産出量を増加させるであろう。》

(参照:ケインズ全集・J.M.K Vol.XXIX,p. 81~2)

マルクスのケインズへの影響はカレツキと似ている。バーナード・ショーへの
手紙におけるマルクス批判(邦訳ケインズ全集28巻)などは擬態だったということ
になる。
邦訳が出れば日本人経済学徒のケインズ観は一変するかも知れない。
2018年現在、全集の3分の2が邦訳されているが、残り1/3の中でも本巻が最重要であろう。
邦訳が待たれる。

2:12 午前  
Blogger yoji said...

商品名: The Collected Writings of John Maynard Keynes, The General Theory and After: A Supplement, Vol. 29

2:13 午前  
Blogger yoji said...

金曜日、7月6、2018

一般理論に向けて
一般理論に向けて
支出がその支出を生み出すという
自分の収入、つまり、
支出。 これは、より一般的な命題である
前者よりも。 前者を意味すると解釈されなければならない
総生産コストの変化が
総額の均等な変動によって均衡がとられた
後者はコストの変化の不等式と一致している
生産の変化と支出の変化。
供給がそれ自身の需要を創出するという教義は、
リカルド以来の世紀の古典主義理論を支配する
それを確立した。 これに対するマルサスの強力な議論
理論は完全に忘れていた、部分的に
.. [現時点で原稿のページが欠落しています]。
協同組合の経済と
起業家経済は妊娠と何らかの関係がある
カール・マルクスによる観察 - その後の使用にもかかわらず
彼はこの観察を非常に非合理的であった。 彼
実際の世界における生産の性質
経済学者がしばしば想定しているように、
CM-C '、すなわち、お金のための商品(または労力)を交換すること
別の商品(または努力)を得るために。 そうかもしれない
私的消費者の立場である。 しかし、それは
MC-M 'の場合であるビジネスの態度、すなわち
商品(または努力)のためのお金と別れる
より多くのお金を得る*これは以下の
理由
Cf.HL McCracken、価値理論とビジネスサイクル、[New York、1933] p。 46、
ここでマルクスの理論のこの部分は現代理論に関連して引用されている。 過剰
私たちの価値。 歴史の好奇心です
経済理論の過去100年の異端者は、
形または別のものは、式MC-Mと古典的な式
CMCは、Mが常に常に必要以上に
Mであるか、またはMが必ずしもM 'を超えていなければならない
M'over Mはマルクスの源泉です
81

準備
古典的な理論は、
起業家は生産的なプロセスを開始するには、
彼が落ちると予想している製品に関しての価値
彼の分け前に。 つまり、より多くの製品を期待しているだけです
彼自身がより多くの雇用を提供するよう誘導するでしょう。 しかし、
起業家の経済これは自然の誤った分析です
ビジネス計算の 起業家は、
製品の量ですが、お金の金額は
彼の分け前に落ちる。 そうすれば彼は彼の出力を増やすでしょう
彼のお金の利益を増やすことを期待していますが、この利益
以前よりも少量の製品を表します。
これの説明は明白です。 雇用
アウトプットを増やすための生産要素は、
商品の支出ではなく、お金の支出にpreneur。
提供するかどうかを決定する際の彼の前の選択
雇用は、この方法でお金を使うことと、
他の方法で使用しても、まったく使用しないでもかまいません。 彼はコマンドを持っている
L1ooの(手元または借りて)、彼はそれを使用する
彼は変動費を差し引いた後に期待しています
£1ooへの関心を含む、それを£ioo以上にする
彼の前の唯一の質問は、さまざまな
最大の利益を生むように£iooを採用する方法
利益面でお金の面で。 未来が覚えておかなければならない
価格は、予想される限り、すでに反映されている
現在の価格で、様々な考慮を考慮した後
コストと生産の機会を
その間に、与えられた
どちらか一方が実際の経験で支配的な期間に、 マルクス
資本主義者の必然的に搾取的な性格を信じる者
システムでは、必然的にMの過剰を主張する:Hobson、またはFoster and Catchings、
デフレの固有の傾向を信じているメジャー・ダグラスと
雇用者の下では、必然的にM.マルクスの過剰を主張する
中間的な真理に近づいたとき、
一連の危機によって必然的に中断され、徐々に
または起業家の倒産と不完全雇用、その間に、
おそらく、Mは過剰でなければならない。 私自身の主張は、それが受け入れられれば、
マルクスの信者と、マルクスの信者との和解
メジャー・ダグラスは、古典的なエコノミストを依然として高く、乾燥させているという信念で
MとM 'は常に等しい
82

2:35 午後  
Blogger yoji said...



https://translate.google.com/translate?sl=en&tl=ja&u=http%3A//nam-students.blogspot.com/2018/07/towards-general-theory.html

一般理論に向けて
支出がその支出を生み出すという
自分の収入、つまり、
支出。 これは、より一般的な命題である
前者よりも。 前者を意味すると解釈されなければならない
総生産コストの変化が
総額の均等な変動によって均衡がとられた
後者はコストの変化の不等式と一致している
生産の変化と支出の変化。
供給がそれ自身の需要を創出するという教義は、
リカルド以来の世紀の古典主義理論を支配する
それを確立した。 これに対するマルサスの強力な議論
理論は完全に忘れていた、部分的に
.. [現時点で原稿のページが欠落しています]。
協同組合の経済と
起業家経済は妊娠と何らかの関係がある
カール・マルクスによる観察 - その後の使用にもかかわらず
彼はこの観察を非常に非合理的であった。 彼
実際の世界における生産の性質
経済学者がしばしば想定しているように、
CM-C '、すなわち、お金のための商品(または労力)を交換すること
別の商品(または努力)を得るために。 そうかもしれない
私的消費者の立場である。 しかし、それは
MC-M 'の場合であるビジネスの態度、すなわち
商品(または努力)のためのお金と別れる
より多くのお金を得る*これは以下の
理由


81

準備
古典的な理論は、
起業家は生産的なプロセスを開始するには、
彼が落ちると予想している製品に関しての価値
彼の分け前に。 つまり、より多くの製品を期待しているだけです
彼自身がより多くの雇用を提供するよう誘導するでしょう。 しかし、
起業家の経済これは自然の誤った分析です
ビジネス計算の 起業家は、
製品の量ですが、お金の金額は
彼の分け前に落ちる。 そうすれば彼は彼の出力を増やすでしょう
彼のお金の利益を増やすことを期待していますが、この利益
以前よりも少量の製品を表します。
これの説明は明白です。 雇用
アウトプットを増やすための生産要素は、
商品の支出ではなく、お金の支出にpreneur。
提供するかどうかを決定する際の彼の前の選択
雇用は、この方法でお金を使うことと、
他の方法で使用しても、まったく使用しないでもかまいません。 彼はコマンドを持っている
L1ooの(手元または借りて)、彼はそれを使用する
彼は変動費を差し引いた後に期待しています
£1ooへの関心を含む、それを£ioo以上にする
彼の前の唯一の質問は、さまざまな
最大の利益を生むように£iooを採用する方法
利益面でお金の面で。 未来が覚えておかなければならない
価格は、予想される限り、すでに反映されている
現在の価格で、様々な考慮を考慮した後
コストと生産の機会を
その間に、与えられた


Cf.HL McCracken、価値理論とビジネスサイクル、[New York、1933] p。 46、
ここでマルクスの理論のこの部分は現代理論に関連して引用されている。 過剰
のM'over Mのマルクスの余剰価値の源です。 歴史の好奇心です
経済理論の過去100年の異端者は、
形または別のものは、式MCM 'と古典的な式
CM-C 'は、Mが必ずかつ必然的に超過しなければならない
Mであるか、またはMが必ずしもM 'を超えていなければならない

どちらか一方が実際の経験で支配的な期間に、 マルクス
資本主義者の必然的に搾取的な性格を信じる者
システムでは、必然的にMの過剰を主張する:Hobson、またはFoster and Catchings、
デフレの固有の傾向を信じているメジャー・ダグラスと
雇用者の下では、必然的にM.マルクスの過剰を主張する
中間的な真理に近づいたとき、
一連の危機によって必然的に中断され、徐々に
または起業家の倒産と不完全雇用、その間に、
おそらく、Mは過剰でなければならない。 私自身の主張は、それが受け入れられれば、
マルクスの信者と、マルクスの信者との和解
メジャー・ダグラスは、古典的なエコノミストを依然として高く、乾燥させているという信念で
MとM 'は常に等しい
82

2:42 午後  
Blogger yoji said...



https://translate.google.com/translate?sl=en&tl=ja&u=http%3A//nam-students.blogspot.com/2018/07/towards-general-theory.html

TOWARDS THE GENERAL THEORY
shall substitute the proposition that expenditure creates its
own income, i.e. an income just sufficient to meet the
expenditure. This, we shall find, is a more general proposition
than the former. For whilst the former must be taken to mean
that a change in the aggregate cost of production will be
balanced by an equal change in aggregate expenditure, the
latter is consistent with inequality between changes in the cost
of production and changes in expenditure.
The doctrine that supply creates its own demand has
dominated classical theory during the century since Ricardo
established it. Malthus's powerful arguments against this
theory were completely forgotten, partly
.. [A page of manuscript is missing at this point].
The distinction between a co-operative economy and an
entrepreneur economy bears some relation to a pregnant
observation made by Karl Marx,-though the subsequent use
to which he put this observation was highly illogical. He
pointed out that the nature of production in the actual world
is not, as economists seem often to suppose, a case of
C-M-C',i.e. of exchanging commodity (or effort) for money
in order to obtain another commodity (or effort). That may
be the standpoint of the private consumer. But it is not the
attitude of business, which is a case of M-C-M', i.e. of
parting with money for commodity (or effort) in order to
obtain more money.* This is important for the following
reason


81

2:42 午後  
Blogger yoji said...

PREPARATION
The classical theory supposes that the readiness of the
entrepreneur to start up a productive process depends on the
amount of value in terms of product which he expects to fall
to his share; i.e. that only an expectation of more product for
himself will induce him to offer more employment. But in an
entrepreneur economy this is a wrong analysis of the nature
of business calculation. An entrepreneur is interested, not in
the amount of product, but in the amount of money which will
fall to his share. He will increase his output if by so doing he
expects to increase his money profit, even though this profit
represents a smaller quantity of product than before.
The explanation of this is evident. The employment of
factors of production to increase output involves the entre
preneur in the disbursement, not of product, but of money.
The choice before him in deciding whether or not to offer
employment is a choice between using money in this way or
in some other way or not using it at all. He has the command
of L1oo (in hand or by borrowing), and he will use it if by
so doing he expects, after deducting his variable costs
including interest on the £1oo, to turn it into more than £ioo
The only question before him is to choose, out of the various
ways of employing £ioo, that way which will yield the largest
profit in terms of money. It must be remembered that future
prices, in so far as they are anticipated, are already reflected
in current prices, after allowing for the various considerations
of carrying costs and of opportunities of production in the
meantime which relate the spot and forward prices of a given


Cf.H.L. McCracken, Value Theory and Business Cycles, [New York, 1933] p. 46,
where this part of Marx's theory is cited in relation to modern theory. The excess
of M'over M is the source of Marx's surplus value. It is a curiosity in the history
of economic theory that the heretics of the past hundred years who have, in one
shape or another, opposed the formula M-C-M' to the classical formula
C-M-C', have tended to believe either that M'must always and necessarily exceed
M or that M must always and necessarily exceed M', according as they were living

in a period in which the one or the other predominated in actual experience. Marx
and those who believe in the necessarily exploitatory character of the capitalist
system, assert the inevitable excess of M: whilst Hobson, or Foster and Catchings,
or Major Douglas who believe in its inherent tendency towards deflation and
under-employment, assert the inevitable excess of M. Marx, however, was
approaching the intermediate truth when he added that the continuous excess
of M' would be inevitably interrupted by a series of crises, gradually increasing
in intensity, or entrepreneur bankruptcy and underemployment, during which,
esumably, M must be in excess. My own argument, if it is accepted, should at
least serve to effect a reconciliation between the followers of Marx and those of
Major Douglas, leaving the classical economists still high and dry in the belief that
M and M'are always equal
82

2:43 午後  
Blogger yoji said...

浅野:

分となると期待されるものの生産物表示での価値量に依存する,すなわち,
彼に帰属するより多くの生産物への期待のみが彼にとっての雇用増大への
誘因となる」と考えられている。しかし,「企業家経済の下では, これは
企業打算の性格についての間違った分析である。企業家の関心は,彼の取
り分となる生産物の量ではなく,貨幣の量にある。彼は,産出量を増加さ
せることによってその貨幣利潤を増加させることができると期待するなら
ば,たとえこの利潤が以前よりも少ない生産物量を示すとしても,その産
出量を増加させるであろう。」32)
 ここでケインズは,産出量増加のための生産諸要因の雇用には,不可避
的に生産物の支出ではなく貨幣の支出を企業家に必要とさせるので,企業
家が行なうべき雇用提供への選択は,どのような仕方で貨幣を使うべきか
(あるいはまったく使うべきでないか) というものであり,当然に貨幣の
支出は貨幣で表わして最大の利潤をもたらすような仕方で行なわれる, と
注釈を加えている。これは, さきに述べた企業家主権と貨幣経済という彼
の経済観を企業家の行動に即して述べたものであるが,同時に, マルクス
のいう貨幣資本循環の視点から分析することにより企業家経済をいっそう
明確に把握しうることを述べたものである。経済過程を循環分析の視点で
捉える方法についてはケインズは早くから完全に身につけていたが, ここ
で貨幣資本循環の視点を意識的に採用することによって,資本主義経済の
推進的動機を正確に把握するとともに,そこでの実現問題--有効需要問
題--の重要性を明確化することができたのである。
 ただ, ここでケインズが企業家の関心が利潤を含んだ形での貨幣資本の
回収にのみあり,回収された資本の生産物表示での大きさはいっさい問わ
ないとしたことは,一面では,古典派理論と彼の新しい理論との相違を際
立たせようとしたための勇み足といえるが,他面では,彼の分析視角が貨
幣資本循環のそれに局限されたものであり,資本の再生産過程の十分な分
136
第4章

3:02 午後  
Blogger yoji said...

General Theory and After: v. 29: A Supplement (Collected works of Keynes) (英語) ハードカバー – 1979/11/22
John Maynard Keynes (著), Donald Moggridge (編集)
カスタマーレビューを書きませんか?

3:18 午後  
Blogger yoji said...

参考:

古典派とは?



ケインズ一般理論#1注で古典派の命名がマルクスのものであると言及している
マルクスをよく読んでいる

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/古典派経済学
ジョン・メイナード・ケインズによれば、古典派の用語を初めて用いたのは、カール・マルクスであるという。マルクスは、1859年に出版された『経済学批判』において、古典派経済学による商品の分析について次のように記した。

商品を二重の形態の労働に分析すること、使用価値を現実的労働または合目的的な生産的活動に交換価値を労働時間または同等な社会的労働に分析することは、イギリスではウィリアム・ペティに、フランスではボアギユベールに始まり、イギリスではリカードに、フランスではシスモンディに終わる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的最終成果である。[3]

ケインズは、「古典派経済学」という用語にひとつの混乱をもたらした。『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、新古典派とみなされるマーシャルやピグーを含めて、その理論を「古典派理論」と呼んだからである[4]。現在では、この用法は一般に使われないが、ときにケインズの意味で「古典派」「古典派理論」と呼ぶ人がいるので注意を要する。ケインズは、古典派理論の本質はセイ法則を前提とするところにあり、『一般理論』はそれをくつがえすものであるとした[5]。

イギリス系の経済学者に加えて、マルクスを古典派に数えることもある[6]。


引用
[3] ^ カール・マルクス『経済学批判』、国民文庫、1953年、58-59ページ

経済学批判
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHiJ.html
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html
-p.57, l.13-
 商品を分析して二重の形態の労働に帰すること、つまり使用価値を現実の労働または合目的的な生産的活動に帰し、交換価値を労働時間または同質の社会的労働に帰することは、イギリスではウィリアム・パティ、フランスではボアギュベールにはじまり(15)、イギリスではリカアド、フランスではシスモンディにおわる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的な成果である。

   序 言
   第一部 資本について
    第一篇 資本一般
     第一章 商品
      A 商品分析のための史的考察☆
     第二章 貨幣または単純流通
      一 価値の尺度
      B 貨幣の度量単位についての諸学説
      二 流通手段
       a 商品の変態
       b 貨幣の通流
       c 鋳貨。価値表章
      三 貨幣
       a 貨幣蓄蔵
       b 支払手段
       c 世界貨幣
      四 貴金属
      C 流通手段と貨幣についての諸学説
   附録 一
    「カール・マルクス著 経済学批判」(フリードリヒ・エンゲルス)
    「経済学批判」についての手紙(カール・マルクス)
    経済学批判序説(カール・マルクス)
   附録 二
    「経済学批判」の準備ノートから
    カウツキー版序文
    研究所版序文
   解 説



『経済学批判』(けいざいがくひはん、Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)は、カール・マルクスの6編プランから成る経済学批判体系の第1分冊に相当する著作である。フェルディナント・ラッサールの協力により、ドゥンカー書店から1859年に出版された。「序言」「第1章 商品」「第2章 貨幣または単純流通」から成る。

経済学が用いている経済的カテゴリーを批判することをつうじて、資本主義経済のシステムを批判することを目的としている。

この本の「序言」によると、資本主義経済のシステムを資本・土地所有・賃労働・国家・外国貿易・世界市場の順序で考察することになっていた。そのうち公刊されたのは、第1部「資本について」のうちの最初の2章、商品と商品流通(から生じる貨幣の諸機能)についてだけである。続きは上の計画をもとに分冊形式で出す予定だったが、1867年に『資本論』(副題に「経済学批判」)の形で出ることになった。『資本論』では最初の章に『経済学批判』の内容が要約され、また叙述が改善されているとマルクスは言っている。

「序言」では唯物史観の簡単な定式が述べられている。

邦訳では補録として、『経済学批判要綱』から転載された「経済学批判への序説」が収められている。

なお『経済学批判』の序言“Vorwort”と、『経済学批判要綱』の序説“Einleitung”は別物である。

日本語訳 編集

『経済学批判』杉本俊朗訳 大月書店国民文庫 ISBN 4-272-80040-X
外部リンク 編集

A Contribution to the Critique of Political Economy(原著英語訳,html)
岩波文庫(昭和31年5月25日)
関連項目 編集

下部構造
上部構造
アジア的生産様式

古典派の使用例最古は1847年
哲学の貧困2:1:7
?


宿命論派経済学者があり、ブルジュワ自身が実践において、かれらが富を獲得することをたすけるプロレタリアの苦悩に無関心であるのとおなじく、かれらの理論においてかれらがブルジュワ的生産のふつごうとよぶところのものに対して無関心である。この宿命論学派のなかには古典派とロマン派とがある。古典派はアダム・スミスやリカードのように、なお封建社会の遺物とたたかいつつ、ただ経済関係から封建的汚点をふきとり、生産力を増大し、産業や商業に新しい飛躍をあたえることのみをつとめているブルジュワジーを代表する。この闘争にあずかるプロレタリアートは、この熱狂的な仕事に夢中になって、ただ一時的偶然的苦悩をもつにすぎず、み


…ロマン派は、ブルジェワジーがプロレタリアートに直接対立し、貧困が富とおなじほど大量に産出される、現代に属する。

つぎには人道学派がくる。これは現在の生産関係の悪い方面を気にかける。これは、気やすめや、現実の対照をすこしでもごまかそうとつとめる。それはプロレタリアートの悲嘆、ブルジュワ相互間の拘束のない競争を、心からなげく。

博愛学派は完成された人道学派である。これは対立の必然性を否定する。これはすべての人をブルジュワにしようとする。


経済学者がブルジュワ階級の科学的代表者であるのとおなじように、社会主義者と共産主義者とはプロレタリア階級の理論家である。



プルードンは

氏はただ、資本と労働とのあいだを、経済学と共産主義とのあいだを、たえず動揺する

とされる



貧困の哲学では、


#7:1
[ホッブズ]
かれの著作 『リヴァイアサン 』はさんざん中傷されたが 、こうした古典的なアンチノミ ーを展開したものにほかならない 。

税は 、アダム ・スミスが警察という語で総称した予防 ・強制 ・抑圧 ・懲罰の制度の一群に属する 。

1:43 午後  
Blogger yoji said...

資本論に対抗できる本はカントの純粋理性批判だろう
柄谷も両者を並べている
しかも理性の限界を規定するカントの書は倫理的に資本論を補完する
無論構造的に独立しているが
資本の自己増殖に理性の限界を対置するのは必須だ
G-R-G'
ただしR=理性は増殖しない
むしろ格律として減らすべきだ

10:51 午前  
Blogger yoji said...

邦訳ケインズ全集28:55頁より
バーナード・ショー宛て、1934年12月2日

 私の『資本論(Das Kapital)』についての感じ方は、『コーラン』についてのそれと同じです。私は、そ
れが歴史的に重要であることを承知しており、また多くの人々ーーそのすべてが馬鹿者ではありませんが、そこ
に或る種の「千年の岩(Rock of Ages)」(訳注:賛美歌)と霊感の内包を見出していることも知っています。しかもなおそれに目
を通すとき、それがこのような効果を持ち得ると自らに説明することが出来ないのです。その退屈で時代遅れのアカ
デミックな議論は、目的のための材料として、余りにも不適切なように見えます。それにしても、私が申し上げたよ
うに、『コーラン』についてと正に同じものを感じます。いったい如何にして、これらの書物の双方が、世界の半ば
をめぐって、戦禍を齎(もたら)し得たのでしようか? そのことが、私に衝撃を与えます。私の理解には、明らかに、或る種
の欠陥があるでしよう。あなたは、『資本論』と『コーラン』の双方を信じますか。或いは「資本論」だけですか。
しかし、後者の社会学的価値がどうあれ、その現代的な経済学的価値は(時折の、しかし非建設的で非連続的な洞察
のひらめきは別として)ゼロです。…


以下、61~2頁より


  ジヨージ・バーナード・ショウ宛て、1935年1月1日


私は、先週、出版されたばかりのマルクスーエンゲルス
往復書簡集を読みつつ、昔のカール・マルクスに別の光を当ててみたのですが、大きな進展はありませんでした。私
は二人の中ではエンゲルスの方を好みます。私は、彼らが研究遂行の或る方法と執筆上のひどい仕方ーーその双方を、
彼らの後継者たちが忠実に維持してきたのですがーーを発明したのを見ることができます。しかし、もしあなたが私
に、彼らは経済の難問に対する解決の手がかりを発見したのだとおっしやるなら、やはり私は困惑しますーー私は時
代遅れの議論以外の何ものをも見出し得ないのです。
 しかしながら、私の心境を理解して頂くためには、私が、世界の人々の経済問題についての考え方を恐らく今
ただちにではなく、向こう10年間のうちに大きく変革すると思われる経済理論に関する書物を書いていると自
ら確信していることを、あなたに知って頂かなければなりません。私の新しい理論が正しく理解され、政治や感情や
情熱と混ぜ合わされたとき、行動や事象に及ぼす影響において、どのような最終的結果を齎すか、予見することはで
きません。しかし大きな変化が起こるでしょうし、なかんずく、マルクシズムのリカード的基礎は打ち壊されるで
しょう。…

11:02 午前  
Blogger yoji said...

マルクスとケインズを並置させるとき、カレツキの重要性が増す

11:06 午前  
Blogger yoji said...

ケインズ全集 第29巻: 一般理論とその後:第13巻および第14巻への補遺 単行本 – 2019/6/28
John Maynard Keynes (原著), ケインズ (著), 柿原 和夫 (翻訳)
カスタマーレビューを書きませんか?

7:00 午後  
Blogger yoji said...



第3章「一般理論」に向かって
103
[ここで原稿の一頁が消失している。]


    III
 協力経済と企業家経済の区別は、カール·マルクスの萌芽的観察と幾分の関係がある。もっともその後、彼はこの
観察をきわめて非論理的にしか利用しなかった。彼は、現実の世界における生産の性質は、しばしば経済学者が想定
するようにC-M-C、すなわち別の商品(あるいは労力)を入手するために、ある商品(あるいは労力)を貨幣と
交換する場合ではない、と指摘した。それは私的消費者の視点ではあり得る。しかしそれはビジネスの態度ではない。
ビジネスの態度はM-C-Mの場合、つまり、いっそう多くの貨幣を入手するために貨幣を手放して商品(あるい
は労力)を入手するのである(*)。この点は以下の理由があるために重要である。

(*) H・L・マクラッケン 「価値理論と景気循環」[ニューヨーク、一九三三年]四六頁を参照。ここで現代理論との関係でマルク
スの理論のこの部分が引用されている。M'がMを超過する部分はマルクスの剰余価値の源泉である。次のことは経済理論の歴史
における一つの珍品である。古典的な公式 C-M-Cに公式 M-C-M'をいろいろな形態で向かい合わせてきた過去一〇〇年間
の異端者たちは、実際の経験の中で次のどちらが支配的な時期に暮らしていたかに従って、M'はいつも必ず Mを超過しなければ
ならないと信じるか、あるいは Mはいつも必ずM'を超過しなければならないと信じるかのどちらかをとる傾向があった。資本主
義体制は必然的に捧取的特徴を持つと信じるマルクスたちは M'が超過するのが不可避であると主張する。他方で、デフレーショ
ンと過少雇用に向かう固有の傾向があると信じるホブソン、あるいはフォスターとキャッチングス、あるいはダグラス少佐は、M
の超過が不可避であると主張する。しかしながらマルクスが、徐々に強度を増す一連の危機によってか、あるいは企業家の倒産と
過少雇用によって、連続的な M'超過が中断されるのは不可避であろうと付け加えたとき、その中断の間にはたぶん M が超過しな
ければならず、彼は中間の真理に近づいていた。私自身の議論は、もしそれが受け入れられるならば、古典派経済学者たちを依然
として MとM'はつねに等しいとの信念で孤立したままにしておき、少なくともマルクスの追随者とダグラス少佐の追随者とを融
和する効果を持つだろう!

#29,103頁

1:38 午前  
Blogger yoji said...

658 a[sage] 2019/10/16(水) 03:34:35.05 ID:on9F5OjX
ケインズ全集 第29巻: 一般理論とその後:第13巻および第14巻への補遺 2019/6/28
John Maynard Keynes (原著), ケインズ (著), 柿原 和夫 (翻訳)
以下同書103頁より

 協力経済と企業家経済の区別は、カール・マルクスの萌芽的観察と幾分の関係がある。もっともその後、彼はこの
観察をきわめて非論理的にしか利用しなかった。彼は、現実の世界における生産の性質は、しばしば経済学者が想定
するようにC-M-C、すなわち別の商品(あるいは労力)を入手するために、ある商品(あるいは労力)を貨幣と
交換する場合ではない、と指摘した。それは私的消費者の視点ではあり得る。しかしそれはビジネスの態度ではない。
ビジネスの態度はM-C-Mの場合、つまり、いっそう多くの貨幣を入手するために貨幣を手放して商品(あるい
は労力)を入手するのである(*)。この点は以下の理由があるために重要である。

(*) H・L・マクラッケン 「価値理論と景気循環」[ニューヨーク、一九三三年]四六頁を参照。ここで現代理論との関係でマルク
スの理論のこの部分が引用されている。M'がMを超過する部分はマルクスの剰余価値の源泉である。次のことは経済理論の歴史
における一つの珍品である。古典的な公式 C-M-Cに公式 M-C-M'をいろいろな形態で向かい合わせてきた過去一〇〇年間
の異端者たちは、実際の経験の中で次のどちらが支配的な時期に暮らしていたかに従って、M'はいつも必ず Mを超過しなければ
ならないと信じるか、あるいは Mはいつも必ずM'を超過しなければならないと信じるかのどちらかをとる傾向があった。資本主
義体制は必然的に捧取的特徴を持つと信じるマルクスたちは M'が超過するのが不可避であると主張する。他方で、デフレーショ
ンと過少雇用に向かう固有の傾向があると信じるホブソン、あるいはフォスターとキャッチングス、あるいはダグラス少佐は、M
の超過が不可避であると主張する。しかしながらマルクスが、徐々に強度を増す一連の危機によってか、あるいは企業家の倒産と
過少雇用によって、連続的な M'超過が中断されるのは不可避であろうと付け加えたとき、その中断の間にはたぶん M が超過しな
ければならず、彼は中間の真理に近づいていた。私自身の議論は、もしそれが受け入れられるならば、古典派経済学者たちを依然
として MとM'はつねに等しいとの信念で孤立したままにしておき、少なくともマルクスの追随者とダグラス少佐の追随者とを融
和する効果を持つだろう!

11:35 午前  
Blogger yoji said...

658 a[sage] 2019/10/16(水) 03:34:35.05 ID:on9F5OjX
ケインズ全集 第29巻: 一般理論とその後:第13巻および第14巻への補遺 2019/6/28
John Maynard Keynes (原著), ケインズ (著), 柿原 和夫 (翻訳)
以下同書103頁より

 協力経済と企業家経済の区別は、カール·マルクスの萌芽的観察と幾分の関係がある。もっともその後、彼はこの
観察をきわめて非論理的にしか利用しなかった。彼は、現実の世界における生産の性質は、しばしば経済学者が想定
するようにC-M-C、すなわち別の商品(あるいは労力)を入手するために、ある商品(あるいは労力)を貨幣と
交換する場合ではない、と指摘した。それは私的消費者の視点ではあり得る。しかしそれはビジネスの態度ではない。
ビジネスの態度はM-C-Mの場合、つまり、いっそう多くの貨幣を入手するために貨幣を手放して商品(あるい
は労力)を入手するのである(*)。この点は以下の理由があるために重要である。

(*) H・L・マクラッケン 「価値理論と景気循環」[ニューヨーク、一九三三年]四六頁を参照。ここで現代理論との関係でマルク
スの理論のこの部分が引用されている。M'がMを超過する部分はマルクスの剰余価値の源泉である。次のことは経済理論の歴史
における一つの珍品である。古典的な公式 C-M-Cに公式 M-C-M'をいろいろな形態で向かい合わせてきた過去一〇〇年間
の異端者たちは、実際の経験の中で次のどちらが支配的な時期に暮らしていたかに従って、M'はいつも必ず Mを超過しなければ
ならないと信じるか、あるいは Mはいつも必ずM'を超過しなければならないと信じるかのどちらかをとる傾向があった。資本主
義体制は必然的に搾取的特徴を持つと信じるマルクスたちは M'が超過するのが不可避であると主張する。他方で、デフレーショ
ンと過少雇用に向かう固有の傾向があると信じるホブソン、あるいはフォスターとキャッチングス、あるいはダグラス少佐は、M
の超過が不可避であると主張する。しかしながらマルクスが、徐々に強度を増す一連の危機によってか、あるいは企業家の倒産と
過少雇用によって、連続的な M'超過が中断されるのは不可避であろうと付け加えたとき、その中断の間にはたぶん M が超過しな
ければならず、彼は中間の真理に近づいていた。私自身の議論は、もしそれが受け入れられるならば、古典派経済学者たちを依然
として MとM'はつねに等しいとの信念で孤立したままにしておき、少なくともマルクスの追随者とダグラス少佐の追随者とを融
和する効果を持つだろう!

12:59 午前  
Blogger yoji said...

ケインズの理論はマルクスをゲゼルに接続する

12:59 午前  
Blogger yoji said...

→搾取的特徴を

1:00 午前  
Blogger yoji said...

 古典派理論は次のように想定する。企業家が生産過程に着手するのは、自分の取り分になると予想する生産物で測った価値の量に依存する、と。すなわち、自分自身に帰属すると予想する生産物が多ければ多いほど、いっそう多くの雇用をするのである。しかし企業家経済においては、企業計算の性質に関するこの分析は間違いである。企業家は、生産物の数量ではなく、その取り分になるだろう貨幣の数量に関心を寄せるのである.産出量を増やせば彼の貨幣利潤を増やせると企業家が予想するならば、たとえその利潤が以前よりも少ない生産物数量であるとしても、産出量を増やすだろう。

4:24 午後  
Blogger yoji said...

準第3章 F一月llll論』に向かって

104頁

 古典派理論は次のように想定する。企業家が生産過程に着手するのは、自分の取り分になると予想する生産物で測った価値の量に依存する、と。すなわち、自分自身に帰属すると予想する生産物が多ければ多いほど、いっそう多くの雇用をするのである。しかし企業家経済においては、企業計算の性質に関するこの分析は間違いである。企業家は、生産物の数量ではなく、その取り分になるだろう貨幣の数量に関心を寄せるのである.産出量を増やせば彼の貨幣利潤を増やせると企業家が予想するならば、たとえその利潤が以前よりも少ない生産物数量であるとしても、産出量を増やすだろう。
 このことの説明は明白である。産出量を増やすために生産諸要素を雇用すると、企業家は生産物ではなくて貨幣の支出(disbursement)に巻き込まれる。企業家が一雇用するかどうかを決定する際に選択できるのは、ある用途に貨幣を使うか、それとも別の用途に使うか、あるいはまったく使わないかのいずれかである。彼は(手持ちあるいは借入れにより)一〇〇ポンドを使用できるとする。彼は、 一〇〇ポンドを使用するとき、その一〇〇ポンドに対する利子を含む可変費用を控除した後に、 一〇〇ポンドを上回る貨幣に替えることができるだろうと予想するなら、その一〇〇ポンドを使用するだろう。彼が直面するただ一つの問題は、 一〇〇ポンドを使ういろいろな用途の中から、貨幣で測って最大の利潤を生み出すだろう用途を選ぶことである。将来の価格は、それが予見される限りで、持越し費用および所与の商品の現物価格と先物価格を関係づけるその間の生産機会をあれこれ考慮したうえで、すでに現行価格に織り込まれていることを覚えておかなければならない。したがって、資産保有者が推計する貨幣および既存諸資産保有の相対的有利さを、現物・先物価格の構造がすでに均衡させている、と想定しなければならない.したがって、貨幣を使って生産過程に着手することの貨幣で測った有利さが増すならば、それは企業家がより多く一雇用するのを促進するだろう。ある状況ともう一つの状況を比べると、ある状況のほうがもう一つの状況よりも貨幣利潤が大きくて生産量は少ないけれども雇用量は多いことが起こり得るだろう。企業家は、獲得するであろう生産量によってではなく、現物・先物価格の構造全体を考慮に人れたときの貨幣使用の諸機会によって導かれるからである。
 こうして、古典派理論を企業家経済に適用しようとすると、古典派理論はいわば両端でわれわれを失望させる。なぜなら、企業家の労働需要が企業家に帰属するであろう生産物の分け前に依存するというのは正しくないし、また、労働供給が労働に帰属するであろう生産物の分け前に依存するというのも正しくないからである。これらの根本的な乖離が最初にあるために古典派理論から出発できないのであり、議論がさらに進んだ段階では古典派理論の結論を移り気な企業家経済に適合させられないのである。

4:28 午後  
Blogger yoji said...

浅野139頁

立的均衡の条件をいわば最適均衡の条件から区別する必要を指示すること
ができなかった誤りを犯していたとしたうえで, 人びとはその所得を, 企
業の経常産出物の購入に支出できるだけでなく, 現金の保蔵のためにも,
企業への貸付けのためにも,また, 銀行からある資産を購入するためにも
使用することができるので, 産出物の費用がかならずすべて回収されると
いう保証はどこにもないことを抽象的なモデルを使って説明している。
 続いてケインズは, 企業家経済を中立的に保つ方策として, 政府の貸付
支出,利子率操作,所得再分配政策のほか, スタンプ貨幣の発行というア
イデアもあることを述べ, これらの方策によって完全雇用が維持されれば
古典派理論の諸仮定は完全に満たされるが,現実には総貨幣支出を総産出
物費用に自動的に一致させるメカニズムは存在せず,むしろ産出量と雇用
量とは予想販売価格が限界可変費用に一致した点で決定されること,そし
てこのことは個別企業に妥当するだけでなく, 「総雇用量もまた同じ仕方
で決定される」6) と主張している。このようにケインズは, 古典派雇用理
論の第一公準がミクロとマクロの両面で妥当することを確認している。
 しかし,同時にケインズは, つぎのように主張することを忘れない。す
なわち,「実質貸金の正常水準は体系の他の諸力によって決定されるだろ
う。完全雇用状態が到達されるまでは, それは結果であって, それ自体が
決定要因の一つではない。 貨幣賃金の変化は一般的にはそれに影響を与え
ないだろう。」「われわれは, 雇用量と実質賃金の間の相関関係を経験的に
よく見出すかもしれない。しかし,これは,一方が他方の原因だからでは
なく,両者がともに同じ原因の結果だからである。」)
 最後に,本章への付論として, ケインズは古典派雇用理論の二公準を取
り上げ,これについて論じた短文を書いている。それによれば,「古典派
理論は,(1)産出物の限界単位の価値はそれの生産に要する可変費用に等し
い,および,(2)産出物の限界効用は労働の限界負効用に等しい, という基
139
経済理論の革新へ

5:54 午後  
Blogger yoji said...


鍋島直樹
現代の政治経済学-マルクスとケインズの総合

ポストケインズ的理想の教科書
2020年
実際の大学講義を元にしたわかりやすい教科書。
ポストケインズ的に画期的だ。
特に#7のカレツキによる有効需要の導出(158頁)、
#10のミンスキーの金融不安定性仮説の説明が優れている(228頁)。
この二つは貴重で、鍋島の過去の論考よりわかりやすい。
残念なのは#5の貨幣の説明だ(100頁)。
商品貨幣論の後に信用貨幣論の説明があるので誤解を生む。
実際の講義で試用する際は、メソポタミアの信用貨幣の事例を紹介するべきだ。
書名は空回りしている感もあるが、全体的には索引もついていて親切なつくり。

6:06 午前  
Blogger yoji said...



鍋島直樹
現代の政治経済学-マルクスとケインズの総合
2020

レビュー
ポストケインズ的理想の教科書
実際の大学講義を元にしたわかりやすい教科書。
ポストケインズ的に画期的だ。
特に#7のカレツキによる有効需要の導出(158頁)、
#10のミンスキーの金融不安定性仮説の説明が優れている(228頁)。
この二つは貴重で、鍋島の過去の論考よりわかりやすい。
残念なのは#5の貨幣の説明だ(100頁)。
商品貨幣論の後に信用貨幣論の説明があるので誤解を生む。
実際の講義で試用する際は、メソポタミアの信用貨幣の事例を紹介するべきだ。
書名は空回りしている感もあるが、全体的には索引もついていて親切なつくり。

6:08 午前  
Blogger yoji said...

価値形態論は商品貨幣論を強化するものと誤解されるので
一方で再生産表式を信用貨幣論と繋げる必要がある
その際カレツキの再生産表式解釈が参考になる

7:16 午前  
Blogger yoji said...



yoji12:38 午後
219 あ[sage] 2020/11/27(金) 05:29:06.93 ID:0
以下、根井『「ケインズ革命」…』中公新書147~8頁より

《…カレツキは、前に説明した利潤決定に関する命題(P=I+C)を、カール・マルクスの再生産表式を利
用することによっていとも簡単に導き出した。
 いま、経済体系を投資財を生産する第1部門、資本家の消費財を生産する第2部門、および賃
金財を生産する第3部門の三つに分割しよう(*p.154)。
 各部門の産出量の価値Vは、利潤Pと賃金Wの和に等しい。すなわち、
Vi=Pi+Wi  (i=1,2,3)
第3部門の産出量は、一部はそれを生産した労働者によって消費され、残りは他の部門におけ
る労働者によって消費されるから、
 P3=W1+W2      (5)
が成り立つ。
 ここで、第1部門と第2部門の産出量の価値を合計すると、
 V 1 + V2=P 1+ P2+ W 1+ W2   (6)
となるが、(5)式を(6)式に代入すると、ただちに次の式が得られる。
 V 1+ V2=P 1+ P2 + P3         (7)
 (7)式は、経済全体の利潤が、投資財の産出量の価値と資本家の消費財の産出量の価値の和に等
しいことを示している。利潤決定に関する命題は、こうして得られるわけである。》

参照:
http://byoubyou.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b710.html
カレツキの再生産表式は、マルクスの再生産表式の価値部分のみを表現しているもので、
現物部分の存在を無視している。資本家の利潤は、資本家個人の消費に回る分と再投資さ
れる分(蓄積)に分かれるが、それに賃金財生産部門を独立した部門としているのが、
カレツキ の独創的なところである。

返信削除

yoji12:38 午後
217 あ[sage] 2020/11/27(金) 04:20:18.30 ID:0
参考:
《…カレツキは、以上みた論文Kalecki[1968]*の最後の部分において、マルクスの『資本論』第3巻、第15章のい
わゆる「剰余価値の実現」の問題を論じた一節「直接的搾取の諸条件と剰余価値の実現の諸条件とは同一で
はない。‥‥‥‥」を引用して、「マルクスは、明らかに、資本主義の動態に対する有効需要の影響を深く認
識していた」としつつも、「彼は、彼の再生産表式によって叙述されている過程を、有効需要の問題の帰結
として資本主義に内在する矛盾という観点から体系的に吟味することをしなかった」と、マルクスにおける
『資本論』第3巻の「剰余価値の実現」の問題=「有効需要の問題」と第2巻の再生産表式論との関連の未
展開を批判する。》
http://www.unotheory.org/news_II_8
 栗田康之 :カレツキの資本主義経済論―マルクスおよび宇野理論との関連で―(PDF形式:563KB)

*("The Marxian equations of reproduction and modern economics"1968
「マルクスの再生産の方程式と近代経済学」1968,1991未邦訳

(簡単に言えば、カレツキはマルクス再生産表式の生産手段(生産財)部門をさらに二つ
にわけることで有効需要の概念をケインズに先駆けて定式化した。マルクスの表式のままだと
2階級間の階級闘争しか見えてこない)

返信削除

yoji12:38 午後
212 あ[sage] 2020/11/27(金) 00:12:51.11 ID:0
価値形態論は商品貨幣論を強化するものと誤解されるので
一方で再生産表式を信用貨幣論と繋げる必要がある
その際カレツキの再生産表式解釈が参考になる

12:39 午後  
Blogger yoji said...


以下、根井『「ケインズ革命」…』中公新書147~8頁より

《…カレツキは、前に説明した利潤決定に関する命題(P=I+C)を、カール・マルクスの再生産表式を利
用することによっていとも簡単に導き出した。
 いま、経済体系を投資財を生産する第1部門、資本家の消費財を生産する第2部門、および賃
金財を生産する第3部門の三つに分割しよう(*p.154)。
 各部門の産出量の価値Vは、利潤Pと賃金Wの和に等しい。すなわち、
Vi=Pi+Wi  (i=1,2,3)
第3部門の産出量は、一部はそれを生産した労働者によって消費され、残りは他の部門におけ
る労働者によって消費されるから、
 P3=W1+W2      (5)
が成り立つ。
 ここで、第1部門と第2部門の産出量の価値を合計すると、
 V 1 + V2=P 1+ P2+ W 1+ W2   (6)
となるが、(5)式を(6)式に代入すると、ただちに次の式が得られる。
 V 1+ V2=P 1+ P2 + P3         (7)
 (7)式は、経済全体の利潤が、投資財の産出量の価値と資本家の消費財の産出量の価値の和に等
しいことを示している。利潤決定に関する命題は、こうして得られるわけである。》


参照:
http://byoubyou.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b710.html
カレツキの再生産表式は、マルクスの再生産表式の価値部分のみを表現しているもので、 現物部分の存在を無視している。資本家の利潤は、資本家個人の消費に回る分と再投資さ れる分(蓄積)に分かれるが、それに賃金財生産部門を独立した部門としているのが、カレツキ の独創的なところである。

資本家が二つに分かれたのではなく
カレツキは賃金財生産部門を下に加えたと読める。

12:41 午後  
Blogger yoji said...



ケインズとマルクスとゲゼル

浅野栄一『ケインズ「一般理論」形成史』( 一九八六年)を読むとケインズが1932~3年にマルクス再生産表式関連書評から有効需要のアイデアを得たという。本書全集29巻に根拠がある。

以下同書103頁より引用、


《 協力経済と企業家経済の区別は、カール·マルクスの萌芽的観察と幾分の関係がある。もっともその後、彼はこの観察をきわめて非論理的にしか利用しなかった。彼は、現実の世界における生産の性質は、しばしば経済学者が想定するようにC-M-C、すなわち別の商品(あるいは労力)を入手するために、ある商品(あるいは労力)を貨幣と交換する場合ではない、と指摘した。それは私的消費者の視点ではあり得る。しかしそれはビジネスの態度ではない。ビジネスの態度はM-C-Mの場合、つまり、いっそう多くの貨幣を入手するために貨幣を手放して商品(あるいは労力)を入手するのである(*)。この点は以下の理由があるために重要である。

(*) H・L・マクラッケン 「価値理論と景気循環」[ニューヨーク、一九三三年]四六頁を参照。ここで現代理論との関係でマルクスの理論のこの部分が引用されている。M'がMを超過する部分はマルクスの剰余価値の源泉である。次のことは経済理論の歴史における一つの珍品である。古典的な公式 C-M-Cに公式 M-C-M'をいろいろな形態で向かい合わせてきた過去一〇〇年間の異端者たちは、実際の経験の中で次のどちらが支配的な時期に暮らしていたかに従って、M'はいつも必ず Mを超過しなければならないと信じるか、あるいは Mはいつも必ずM'を超過しなければならないと信じるかのどちらかをとる傾向があった。資本主義体制は必然的に搾取的特徴を持つと信じるマルクスたちは M'が超過するのが不可避であると主張する。他方で、デフレーションと過少雇用に向かう固有の傾向があると信じるホブソン、あるいはフォスターとキャッチングス、あるいはダグラス少佐は、Mの超過が不可避であると主張する。しかしながらマルクスが、徐々に強度を増す一連の危機によってか、あるいは企業家の倒産と過少雇用によって、連続的な M'超過が中断されるのは不可避であろうと付け加えたとき、その中断の間にはたぶん M が超過しなければならず、彼は中間の真理に近づいていた。私自身の議論は、もしそれが受け入れられるならば、古典派経済学者たちを依然として MとM'はつねに等しいとの信念で孤立したままにしておき、少なくともマルクスの追随者とダグラス少佐の追随者とを融和する効果を持つだろう!》

以上の本文でケインズへのマルクスからの間接的な影響は明らかだろう。
そしてケインズ自身による脚注がより重要である。これは私見では(ゲゼルの名前が明示されていないので分かりにくいが)ゲゼルの減価通貨を念頭に置いている。
ケインズは一般理論#23で簡潔にマルクスとゲゼルを比較していたがその理論的背景がここに書かれている。
M>M',M=M,M<M'云々もゲゼルという反措定がなければ意味がわからない。
営利企業と協同組合の比較だけならそもそも貨幣理論は必要ないのである。

学生たちのノートを要約再構成したライムズ『ケインズの講義』邦訳1993年,106頁では1933年10月23日の講義で上記の内容を扱ったと証言される。マルクスの理論が検証されたようだ(ゲゼルは1934年10月29日講義156頁に名前が出るだけ)。

本書の他の箇所で言うと、(ゲゼルの名はやはりないが)116頁以下の「ユートピアン型」に分類される経済学者はゲゼルだろう。
しかも計数器で減価させるという今日の電子マネーシステムにつながる認識をケインズは示している。

そうなるとマルクスから間接的に有効需要の原理をケインズが見出したという浅野の理屈は逆に遠のくが、それは仕方ない。
有効需要の原理はケインズにとってマルクスでなくマルサス読解などからすでに自明だったのである。

9:42 午後  
Blogger yoji said...

ケインズ全集 第29巻: 一般理論とその後:第13巻および第14巻への補遺 単行本 – 2019/6/28
John Maynard Keynes (原著), ケインズ (著), 柿原 和夫 (翻訳)
5つ星のうち5.0
https://www.amazon.co.jp/ケインズ全集-第29巻-John-Maynard-Keynes/dp/4492813314/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&keywords=ケインズ全集+29&qid=1670735294&sr=8-1


ケインズとマルクスとゲゼル

浅野栄一『ケインズ「一般理論」形成史』( 一九八六年)を読むとケインズが1932~3年にマルクス再生産表式関連書評から有効需要のアイデアを得たという。本書全集29巻に根拠がある。

以下本書103頁より引用、


《 協力経済と企業家経済の区別は、カール·マルクスの萌芽的観察と幾分の関係がある。もっともその後、彼はこの観察をきわめて非論理的にしか利用しなかった。彼は、現実の世界における生産の性質は、しばしば経済学者が想定するようにC-M-C、すなわち別の商品(あるいは労力)を入手するために、ある商品(あるいは労力)を貨幣と交換する場合ではない、と指摘した。それは私的消費者の視点ではあり得る。しかしそれはビジネスの態度ではない。ビジネスの態度はM-C-Mの場合、つまり、いっそう多くの貨幣を入手するために貨幣を手放して商品(あるいは労力)を入手するのである(*)。この点は以下の理由があるために重要である。

(*) H・L・マクラッケン 「価値理論と景気循環」[ニューヨーク、一九三三年]四六頁を参照。ここで現代理論との関係でマルクスの理論のこの部分が引用されている。M'がMを超過する部分はマルクスの剰余価値の源泉である。次のことは経済理論の歴史における一つの珍品である。古典的な公式 C-M-Cに公式 M-C-M'をいろいろな形態で向かい合わせてきた過去一〇〇年間の異端者たちは、実際の経験の中で次のどちらが支配的な時期に暮らしていたかに従って、M'はいつも必ず Mを超過しなければならないと信じるか、あるいは Mはいつも必ずM'を超過しなければならないと信じるかのどちらかをとる傾向があった。資本主義体制は必然的に搾取的特徴を持つと信じるマルクスたちは M'が超過するのが不可避であると主張する。他方で、デフレーションと過少雇用に向かう固有の傾向があると信じるホブソン、あるいはフォスターとキャッチングス、あるいはダグラス少佐は、Mの超過が不可避であると主張する。しかしながらマルクスが、徐々に強度を増す一連の危機によってか、あるいは企業家の倒産と過少雇用によって、連続的な M'超過が中断されるのは不可避であろうと付け加えたとき、その中断の間にはたぶん M が超過しなければならず、彼は中間の真理に近づいていた。私自身の議論は、もしそれが受け入れられるならば、古典派経済学者たちを依然として MとM'はつねに等しいとの信念で孤立したままにしておき、少なくともマルクスの追随者とダグラス少佐の追随者とを融和する効果を持つだろう!》

以上の本文でケインズへのマルクスからの間接的な影響は明らかだろう。
そしてケインズ自身による脚注がより重要である。これは私見では(ゲゼルの名前が明示されていないので分かりにくいが)ゲゼルの減価通貨を念頭に置いている。
ケインズは一般理論#23で簡潔にマルクスとゲゼルを比較していたがその理論的背景がここに書かれている。
M>M',M=M,M<M'云々もゲゼルという反措定がなければ意味がわからない。
営利企業と協同組合の比較だけならそもそも貨幣理論は必要ないのである。

学生たちのノートを要約再構成したライムズ『ケインズの講義』邦訳1993年,106頁では1933年10月23日の講義で上記の内容を扱ったと証言される。マルクスの理論が検証されたようだ(ゲゼルは1934年10月29日講義156頁に名前が出るだけ)。

本書の他の箇所で言うと、(ゲゼルの名はやはりないが)116頁以下の「ユートピアン型」に分類される経済学者はゲゼルだろう。
しかも計数器で減価させるという今日の電子マネーシステムにつながる認識をケインズは示している。

そうなるとマルクスから間接的に有効需要の原理をケインズが見出したという浅野の理屈は逆に遠のくが、それは仕方ない。
有効需要の原理はケインズにとってマルクスでなくマルサス読解などからすでに自明だったのである。

9:44 午後  
Blogger yoji said...


シュムペーターによれば、マルサスが人口論以外の点で名声を博すべき資格が三つある。
第一は貨幣分析に対する貢献
第二は貯蓄と投資との理論
第三はスミスの『諸国民の富』の理論の反リカード的方向への改鋳

マルサス『経済学原理』第7章第3節「富の増大にたいする一刺激と考えられる蓄積、すなわち資本に追加するための収入からの蓄積について」

マルサスは、倹約、節約で資本を追加しても、その分の消費が減り、生産過剰になる、富を増やすには消費(有効需要)を増やす必要があるとする
「貯蓄は個々の人びとにとってつねに有徳なことであるとしても、国民経済的にみた場合には、貯蓄は生活水準の上昇という公共利益を害することなしに、一定の点を越えることは許されない
ある点以上に押し進められた収入の資本への転化は、生産物への有効需要を減少することによって労働者階級を失業におとしいれる」
マルサスは、その「ある点」を解明できなかったが、ケインズが解明した
ケインズは、「合成の誤謬」において、個人の貯蓄額は、その意思によって増減できるが、社会全体の貯蓄額は人々の意思にかかわりなく社会全体の投資額によって決まるとする
もし投資が増えると所得も増え、所得に依存する消費も増え、投資と貯蓄が等しくなる水準で所得が決まる
Y=C+I
Y−C=S
したがって、I=S (Y;所得、C;消費、I;投資、S;貯蓄)

マルクスとの関係で言えば、恐慌についての再生産表式論争がある
恐慌の原因について、セイとリカードは、不比例説を主張し、マルサスは過少消費説を主張して対立した
マル経では、不比例説がツガン・バラノフスキー、ヒルファーディング、過少消費説がカウツキー、ローザ・ルクセンブルクなどである

9:50 午後  
Blogger yoji said...



ライブ・経済学の歴史―“経済学の見取り図”をつくろう | 小田中 直樹 |本 ...

www.amazon.co.jp/ ...
Amazonで小田中 直樹のライブ・経済学の歴史―“経済学の見取り図”をつくろう。

マルサスについても補完すべきだが初心者向けの良書を知らない。
前述の越村『四元的価値のパラダイム マルクス経済学と近代経済学の統一のために』がマルサスの位置付け、見取り図としては正しいが。

以下はブローグ?の見立て、

シュムペーターによれば、マルサスが人口論以外の点で名声を博すべき資格が三つある。
第一は貨幣分析に対する貢献
第二は貯蓄と投資との理論
第三はスミスの『諸国民の富』の理論の反リカード的方向への改鋳

マルサス『経済学原理』第7章第3節「富の増大にたいする一刺激と考えられる蓄積、すなわち資本に追加するための収入からの蓄積について」

マルサスは、倹約、節約で資本を追加しても、その分の消費が減り、生産過剰になる、富を増やすには消費(有効需要)を増やす必要があるとする
「貯蓄は個々の人びとにとってつねに有徳なことであるとしても、国民経済的にみた場合には、貯蓄は生活水準の上昇という公共利益を害することなしに、一定の点を越えることは許されない
ある点以上に押し進められた収入の資本への転化は、生産物への有効需要を減少することによって労働者階級を失業におとしいれる」
マルサスは、その「ある点」を解明できなかったが、ケインズが解明した
ケインズは、「合成の誤謬」において、個人の貯蓄額は、その意思によって増減できるが、社会全体の貯蓄額は人々の意思にかかわりなく社会全体の投資額によって決まるとする
もし投資が増えると所得も増え、所得に依存する消費も増え、投資と貯蓄が等しくなる水準で所得が決まる
Y=C+I
Y−C=S
したがって、I=S (Y;所得、C;消費、I;投資、S;貯蓄)

マルクスとの関係で言えば、恐慌についての再生産表式論争がある
恐慌の原因について、セイとリカードは、不比例説を主張し、マルサスは過少消費説を主張して対立した
マル経では、不比例説がツガン・バラノフスキー、ヒルファーディング、過少消費説がカウツキー、ローザ・ルクセンブルクなどである

9:54 午後  
Blogger yoji said...

ケインズのマルクスへの言及については以下もある

ケインズとシュンペーター: 現代経済学への遺産

前表紙
根井雅弘
NTT出版, 2007 - 171 ページ
0 レビュー
ケインズとシュンペーターの理論は本当に対立しているのか。経済学史上の難問に挑んだ、正統的かつスリリングな思索のドラマ。

10:05 午後  

コメントを投稿

<< Home