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日曜日, 1月 21, 2018

西部邁『ソシオ・エコノミックス』中央公論社、1975年10月



西部邁(1939~2018)『ソシオ・エコノミックス』中央公論社、1975年10月 [読書]
http://ymsk2002.hatenablog.com/entry/20080715/1216092737
◎プロローグ「方法に関する考察」
○「正統派経済学の限界」
○「経済学における「経験」の回復」☆
◎ソシオ・エコノミックス
○第一章「コミュニティと公正規範」
○第二章「市場と企業」
○第三章「企業の行動目標」
○第四章「企業組織と分配決定」
○第五章「企業組織と投資決定」
○第六章「企業組織と価格設定」
○第七章「消費欲望の個人心理」
○第八章「消費欲望の社会心理」
○第九章「家族と消費」
○第十章「経済政策と社会的統合」
◎エピローグ「実践に関する考察」
○「権力概念をめぐって」
○「社会の部分工学をこえて」

集団の経済行動をソシオ・エコノミックスという枠組でみようとするのは、
新古典派の前提である「すべての決定をアトムである個人に還元して説明
しようとすること」、「合理性を過度に強調すること」がそれぞれ現実と
はかけ離れているからである。こうした視点から、コミュニティ・企業・
家族といった集団の特性を改めて掘り下げることとしたい。
新古典派経済学のリアリティについては、それ自体高度に抽象的な体系と
なってしまっている。そもそも演繹の出発点となる公理自体がリアリティを
欠いているという批判がなされるが、この公理自体実証の判定にさらされる
性質のものではなく、リアリティによっては否定も肯定もされないものとな
っている。
結論からいえば、新古典派の理論の欠陥は、経済行動を包括的に捉えること
ができないという点にある。「理論体系の包括性」が理論の可能的経験的
合成の要件の一つであることを考慮すると、ここにおいて新古典派はリアリ
ティを欠くこととなる。




西部邁『ソシオ・エコノミックス』中央公論社、1975年10月 - alpha_c’s blog[読書]

http://ymsk2002.hatenablog.com/entry/20080715/1216092737
■読むきっかけ

  • 新古典派経済学に対し、その公理ともいえる諸前提、例えば個別の経済主体による「決定」やそれを行う「心理」について、改めて問い直している
  • 学際的アプローチをかねてから訴えてきた著者の視点を改めて見直してみたい

■内容【個人的評価:★★★★−】

  • 新古典派経済学をもとに行ってきた経済運営は、公共的諸問題を受けてその信頼性が揺らいでいる。新古典派が描く経済社会の現実からのかい離は、もともと新古典派経済学が拠って立つところが狭小な論理であることに由来するものである。
  • こうした批判をふまえ、より包括的な社会理論のうえに経済学を再構築する必要がある。

◎プロローグ「方法に関する考察」
○「正統派経済学の限界」

  • 新古典派が前提としている「理性的個人」と「完全競争的市場」は虚構でしかない。新古典派の理論体系は科学的な装いを見せるが、じつはそれが生まれたヴィクトリア朝イギリスの「予定調和の社会観」という時代特有の思想的背景と密接につながりがある。
  • ケインズは、時間・不確実性・組織を経済学に持ち込んだ。ケインズは経済外的な諸要因が経済の運行に重要な影響を与えることを認識していた。たとえば消費関数における「心理法則」、労働供給関数における「賃金の下方硬直性」、投資関数における「利子非弾力性」などである。しかし、これは経験と直観によって持ち込まれた概念であり、周到な説明があるわけではない。

○「虚構としての「経済人」」

  • 正統としての新古典派経済学が、公害問題や所得分配などを扱っていないではないかということは経済学批判としては自立しえない。経済学批判は、基礎的な諸過程の現実性を疑うことを通じてなされるべきである。
  • 人間像としては「組織人格」と「個人人格」がある。すべて理性的個人の意思決定で行動が決まるわけではない。

○「経済学における「経験」の回復」

  • 集団の経済行動をソシオ・エコノミックスという枠組でみようとするのは、新古典派の前提である「すべての決定をアトムである個人に還元して説明しようとすること」、「合理性を過度に強調すること」がそれぞれ現実とはかけ離れているからである。こうした視点から、コミュニティ・企業・家族といった集団の特性を改めて掘り下げることとしたい。
  • 新古典派経済学のリアリティについては、それ自体高度に抽象的な体系となってしまっている。そもそも演繹の出発点となる公理自体がリアリティを欠いているという批判がなされるが、この公理自体実証の判定にさらされる性質のものではなく、リアリティによっては否定も肯定もされないものとなっている。
  • 結論からいえば、新古典派の理論の欠陥は、経済行動を包括的に捉えることができないという点にある。「理論体系の包括性」が理論の可能的経験的合成の要件の一つであることを考慮すると、ここにおいて新古典派はリアリティを欠くこととなる。
  • パーソンズは、経済的行動を個人レベルではなく、社会システムへの適合(A)をつかさどるものであり、目標達成(G)、統合(I)、および潜在的価値パターンの維持(L)といった諸機能との相対で社会的行為として位置づけている。また、経済行動を独立したものでなく、政治システムなどさまざまな他のシステムとの相互交換を行うものとして捉えている。
  • 個人を社会的動物として考えると、企業、家族などの集団を考える方がより有益である。この取り組みは、さまざまな諸科学との共同を受けて行われる必要があるが、これに着手し、失敗したのが制度学派である。
  • 制度学派はプラグマティズムの子であり、アメリカン・デモクラシーの子である。実践への執着の結果科学的方法を軽視してしまった。ガルブレイスの『ゆたかな社会』などは、示唆深いけれども学問的には新古典派への批判になりえない点がある。

◎ソシオ・エコノミックス
○第一章「コミュニティと公正規範」

  • ウェーバーのいうように、あらゆる社会制度はそれを正統とする文化・価値によって支えられなければ存続しえない。資本主義的市場は、能力主義という価値によって支えられてきた。しかし、能力主義については限界があり(競争に参加できない少数者の存在など)、これを万能のものとみなすことはできない。

○第二章「市場と企業」

  • ラニーは、制度化された経済過程に、「自給自足」「互酬」「再分配」「市場的交換」の4つを見いだした。
  • この市場的交換は、企業組織というもう一つの活動規則を伴って初めて成立する。

○第三章「企業の行動目標」

  • 企業は生産要素の固定性を持っている。このことは、新古典派の可塑性、労働力の移動可能性といった前提とは異なる。
  • また、企業の行動原理を「利潤最大化」としているが、これだけではなく企業内部における組織的関係もあり、単純な行動原理をあてはめるのは難しい。

○第四章「企業組織と分配決定」

  • 賃金決定に関する新古典派ケンブリッジアンの差異は、前者が伸縮的な労働市場を考えるのに対し、後者は貨幣賃金率が短期的に硬直的だとみるところにある。
  • 貨幣賃金の硬直性について、それが生じる理由をJ.ロビンソンは歴史的・文化的領域に追いやったが、J.トービンはより経済学的にみようとした。

○第五章「企業組織と投資決定」

  • 投資理論は新古典派にとって最も脆弱な部分である。時間意識の問題こそが投資理論の焦点である。動態論における長期とは、短期が次々と生起する継続のことであり、新古典派のとらえる長期とは異なる。
  • 新古典派モデルには長期が存在しない。第一にセイの法則(貯蓄主体と投資主体を同一視する)を前提としている。第二に、新古典派のミクロ理論からは投資関数を導出できない。

○第六章「企業組織と価格設定」

  • 完全競争市場はセリ人の存在を前提としている。ワルラス的オークションはセリ人が価格シグナルを点滅させるが、実際の市場は、不完全な情報に基づいて個別の取引者が自ら価格シグナルを発信する。不完全情報に基づく以上、均衡の達成は期待できない。
  • われわれは、そうした不確実性の中で種々の制度、組織、規則を作り出し、短期的にはそれらに拘束されながら長期的には新たな拘束へと自分を駆り立てる。

○第七章「消費欲望の個人心理」

  • 消費の理論は何らかの人間観に否応なく関与せざるを得ないものである。新古典派を砂上の楼閣とみなす人々ヴェブレン、ガルブレイス、ラディカルズらは、主たる関心を消費理論に向けてきた。
  • 絶対的欲望ではなく相対的欲望を重視しており、これは社会との関係を前提としたものである。

○第八章「消費欲望の社会心理」

  • 新古典派は、どんな消費選好も強制されたものでない以上自立的であると考えている。しかし、文化そのものが個人の知覚や感情などの共有パターンとして保有されているのであり、「完全に自立的な決定」とは虚構である。

○第九章「家族と消費」

  • 家族の機能は、
    • 1.子供の養育
    • 2.子供のパーソナリティの統合
    • 3.子供へ役割認識を習得させる
    • 4.一般的言語能力の教授
  • である。
  • パーソンズの消費理論は、経済学における消費の諸仮説(以下の七つ)を検討するうえで重要である。
  • このうち、3、4、5、つまりケインズ型消費関数がパーソンズの消費理論に近接している。

○第十章「経済政策と社会的統合」

  • 新古典派は、政府のとるべき行動として、投票による多数決を重視し、パターナリズムを拒否する。正義を個人的良心の中に位置づけようとするミル的な思想には冷笑的態度をとっている。
  • しかしパターナリズムについては必要な場面もある。

◎エピローグ「実践に関する考察」
○「権力概念をめぐって」

  • 新自由主義派とガルブレイスは経済政策における国家権力の増大を激しく批判した。
  • 権力概念の考察には知的練磨を必要とする。

○「社会の部分工学をこえて」

  • 社会計画の多くはそれ自身が新しい難問を生み出し失墜する運命にある。

■読後感
いま読んでみると、きわめて広範な学問的成果に目配りをし、かつ自らの考え方にそった取り組みの結果と思われる。ただし、どちらかというと専門論文のような装いではあり、速読には向かない。
ここにおける検討は、その後の岩井克人加藤尚武の著作にも影響を与えていると思われた。
新古典派理論自体が虚構のうえに築かれたものであることは理解できるが、こうした取り組みが即座に新古典派に変わる枠組を提供するものとも考えがたい。どちらかというと、岩井のような新古典派の枠組を精緻化すると結論自体がひっくり返ってしまうという取り組みの方が、考え方の整理においては有効との印象をもった。
さまざまな経済主体の集団の特性や心理についての考察は非常に参考になるものと思われた。

3 件のコメント:

  1. 西部邁(1939~2018)『ソシオ・エコノミックス』中央公論社、1975年10月 [読書]
    http://ymsk2002.hatenablog.com/entry/20080715/1216092737
    ◎プロローグ「方法に関する考察」
    ○「正統派経済学の限界」
    ○「経済学における「経験」の回復」☆
    ◎ソシオ・エコノミックス
    ○第一章「コミュニティと公正規範」
    ○第二章「市場と企業」
    ○第三章「企業の行動目標」
    ○第四章「企業組織と分配決定」
    ○第五章「企業組織と投資決定」
    ○第六章「企業組織と価格設定」
    ○第七章「消費欲望の個人心理」
    ○第八章「消費欲望の社会心理」
    ○第九章「家族と消費」
    ○第十章「経済政策と社会的統合」
    ◎エピローグ「実践に関する考察」
    ○「権力概念をめぐって」
    ○「社会の部分工学をこえて」


    集団の経済行動をソシオ・エコノミックスという枠組でみようとするのは、
    新古典派の前提である「すべての決定をアトムである個人に還元して説明
    しようとすること」、「合理性を過度に強調すること」がそれぞれ現実と
    はかけ離れているからである。こうした視点から、コミュニティ・企業・
    家族といった集団の特性を改めて掘り下げることとしたい。…
    結論からいえば、新古典派の理論の欠陥は、経済行動を包括的に捉えること
    ができないという点にある。「理論体系の包括性」が理論の可能的経験的
    合成の要件の一つであることを考慮すると、ここにおいて新古典派はリアリ
    ティを欠くこととなる。

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  2. @TiikituukaHana
    2018/01/22 0:55
    西部邁ソシオ・エコノミックス
    ymsk2002.hatenablog.com/entry/20080715…
    方法に関する考察
    1コミュニティと公正規範2市場と企業
    3企業の行動目標4企業組織と分配決定
    5企業組織と投資決定6企業組織と価格設定
    7消費欲望の個人心理8消費欲望の社会心理
    9家族と消費10経済政策と社会的統合
    実践に関する考察

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  3. 西部邁のリアルタイム検索結果-Yahoo!検索(リアルタイム)
    西部邁先生と最後にお会いしたのは今年の1月5日。ご自宅に招いていただき、約7時間、お話ししました。以前から、「病院での延命が目的化した生」を拒否し、はっきりと自己判断ができる間に死を選ぶというご意志を聞いていたため、1月5日に別れを覚悟して帰路につきました。
    Twitter-nakajima1975-3時間前
    関連ワード: 江藤淳-小林よしのり-野坂昭如-村本大輔
    西部邁さん死去 近著に死生観を綴っていた - ハフィントンポスト
    www.huffingtonpost.jp/.../nishibesusumugreef_a_23339138/
    8時間前 ... 西部邁さん(78)が1月21日に亡くなった。亡くなる1カ月ほど前に出版した新著からは、 自分の妻を看取った経験などをもとにした、死生観をつづった章がある。 2017年12月に 出版した新著「保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱 」(講談社現代新書)の中で、人間 の生き死にについてこう見解を述べている。 「述者は、結論から言うと、病院死を選び たくないと強く感じかつ考えている」. また、あとがき(11月付)では、娘に宛てるかたちで こうつづっている。この当時からすでに亡くなることを意識していたかのよう ...

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