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木曜日, 1月 18, 2018

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫) 文庫– 2017/10/11 フランソワ・ジュリアン (著), 中島 隆博 (翻訳), 志野 好伸(翻 訳)


道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ :フランソワ・ジュリアン (著)
http://nam-students.blogspot.jp/2018/01/vs-20171011.html @

『森の生活』と東洋思想:メモ(転載)
http://nam-students.blogspot.jp/2010/02/blog-post_22.html


孔子の思想におけるその社会変革的な面は、孟子によって強調された。しかし、現実には、儒教は、法や実力によってではなく、共同体的な祭祀や血縁関係によって秩序を維持する統治思想として機能した。

世界史の構造 柄谷行人


孟子の「革命是認」とは、「共和制への移行の是認」ではなく、「王朝交替の容認」と理解するのがよい
角川ソフィア文庫 孟子 佐野大介

孟子の四端(したん)

3 公孫丑上 6

人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以は、今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内ばんとする所以に非ざるなり。誉を郷党朋友に要むる所以に非ざるなり。其の声を悪(にく)んで然るに非ざるなり。是れに由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るは、猶其の四体有るがごとし。

所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子将入於井皆有怵惕惻隠之心非所以内交於孺子之父母也。非所以要誉於郷党朋友也。非悪其声而然也。由是観之、無惻隠之心非人也。無羞悪之心非人也。無辞譲之心非人也。無是非之心非人也。惻隠之心、仁之端也。羞悪之心、義之端也。辞譲之心、礼之端也。是非之心、智之端也。人之有是四端也、猶其有四体也。

 人には皆、他人の不幸を見るに忍びないと思う心がある、といえる理由は以下のようなものだ。
 今、ある人が、幼児が突然井戸に落ちそうになっているのを見たとしたら、驚き憐れむ心を起こす。その幼児の親と交際を結ぼうとするからではない。名誉を郷里の人や友人に認めてもらいたいからではない。〔見殺しにしたという〕悪名を嫌がってそうするのでもない〔人なら自然とそうする〕。
  このことから考えると、惻隠の心のないものは、人とはいえない。羞悪の心のないものは、人とはいえない。辞譲の心のないものは、人とはいえない。是非の心のないものは、人とはいえない。惻隠の心は、仁の萌芽である。羞悪の心は、義の萌芽である。辞譲の心は、礼の萌芽である。是非の心は、智の萌芽である。人にこの四つの萌芽があるのは、人に必ず両手両脚があるのと同様である。



>②四端・四徳
 老婆心ながら四端・四徳を説明しておきます。
 幼児が井戸に落ちそうなのを見れば、どのような人であっても憐れみの情がおこってくる。これを「惻隠(そくいん)」と呼ぶ。恥を知る心を「羞悪(しゅうお)or廉恥(れんち)」、譲ってへりくだる心を「辞譲(じじょう)」、判断する能力を「是非(ぜひ)」と呼ぶ。
 この四端(したん)の心の形式(情)に、それぞれ対応する徳が仁義礼智の四徳です。
人間性の「仁」には「惻隠」が、
正しさの「義」には「羞悪」が、
倫理的な序列を尊重する能力「礼」には「辞譲」が、
価値を判断する才能「智」には「是非」が対応します。
 孟子の約1500年後の朱子は、糸の端というイメージを使って、「端とは糸の端のようなもので、中にとどまっていて現れず、その「緒」だけが外に出て目にみえる」とした(p.82)。また朱子は、「仁」以外の徳がすべて「仁」に帰することを強調した(p.306の注)。本書も井戸に落ちそうな幼児への憐れみから論を起こしています。
 性善説と一元論と仁で、どのように強力になるかを本書は説いているともいえましょう。

参考:
『論語』の君子と脳機能(by 篠浦伸禎)http://nam-students.blogspot.jp/2014/01/blog-post_334.html

●『論語』の君子と脳機能
               /\
 四次元          /  \
             / 君子 \ 
        左   /_    _\   右
 三次元       /  |  |  \
          /   義  信   \
         /__  |  |  __\
 二次元    /   | |  | |   \
       /    | 智  仁 |    \ 
      /___  | |  | |  ___\
 一次元 /    | | |  | | |    \
    /     | | |ネし| | |     \
   /______|_|_|__|_|_|______\ 

『論語』の中心的な徳目「仁・義・礼・智・信」はそれぞれ一次元から三次元の左右の脳の使い方にあてはまる。

「仁・義・礼・智・信」をすべて兼ね備えた君子とは、脳のあらゆる機能を高く使っている人であり、時空間を超越した四次元的な存在として位置づけられそうだ。

また『論語』を読むと、義や智といった左脳がかかわる働きよりも、仁や信などの右脳がかかわる働きのほうをより重視していることが分かってくる。

(篠浦伸禎「孔子の教えは脳に効く」『孔子の人間学』致知出版社79頁より)

一次元 「礼」=相手に敬意を示す謙虚な態度。例:挨拶
二次元右「仁」=相手を思いやる心。     例:表情を読む
二次元左「智」=知識。           例:名前をつけて記憶する
三次元右「信」=信用。           例:サッカーのパス
三次元左「義」=正義。           例:本の執筆
四次元「君子」=脳全体をバランスよく使う。

              権  礼?



道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫) 文庫 – 2017/10/11


  • 1.憐れみをめぐる問題
  • 2.性と生について
  • 3.他者への責任
  • 4.意志と自由
  • 5.幸福と道徳の関係
  • 訳者解題――存在と道徳への問い直し

道徳を基礎づける―孟子vs.カント,ルソー,ニーチェ

講談社 2002
ドウトクヲキソヅケルモウシウブイエスカントルソーニーチェ
現代フランス思想のトップランナーが仕かける孟子と啓蒙哲学者の対話

井戸に落ちそうになった子供を助けようとするのはなぜか――。
誰にでもある経験を起点に、カント、ルソーや孟子を比較検証。洋の東西を軽々と超える、現在フランス哲学の俊秀の快著。


ある王の逸話――謁見の儀の折、1頭の牛が供犠のために引き連れられて横切ってゆくのを、王が目にしたときのことである。処刑場に引き立てられる無辜の民にも似た、この動物の怯えた様子に忍びず、王は牛を放すように命じた。
その時、家臣たちが尋ねた。「犠牲をやめるべきでしょうか」。王は答えた。「それはできない。この牛に代えて羊を用いよ」。……
王は、怖じけづいた1頭を自分の目で見てしまった。その怯えは彼の目の前に不意に出現したので、心の準備をしておくこともできなかったのだ。ところが、もう一方の動物の運命は、彼にとっては観念にすぎなかった。……
王は苦しんでいるものを「目のあたりにすること」に「忍び」なかった。彼は他者――それが動物でさえも――の運命に無関心ではいられなかったのである。――(本書より)


梁恵王上#7
孟子「王よ、民衆が、『王が牛を惜しんだ』と言うのを不思議に思うことはございません。小さな羊をもって大きな牛に替えたのですから〔一見惜しんだように見えます〕、彼らにどうして王のお気持ちが理解できましょう。〔しかし〕王がもし罪のないものが死地に行くのを憐れんだのであれば、〔どちらも憐れなのは同じなのに〕どうして牛と羊とを区別されたのですか」。


  • 〈1〉憐れみをめぐる問題
  • 第1章 忍びざるものを前にして☆
  • 第2章 基礎づけか比較か――あるいは基礎づけのための比較
  • 第3章 憐れみの「神秘」
  • 第4章 道徳心の徴候
  • 〈2〉性と生について
  • 第5章 人性論
  • 第6章 善か悪か
  • 第7章 失われた性を求めて☆☆
  • 〈3〉他者への責任
  • 第8章 人間性、連帯
  • 第9章 天下を憂う
  • 〈4〉意志と自由
  • 第10章 妄想的な意志?
  • 第11章 自由の観念無しに
  • 〈5〉幸福と道徳の関係
  • 第12章 正義は地上に存す
  • 第13章 地は天に肩を並べる
  • 第14章 これは中国的教理(カテキスム)ではない
  • 第15章 道徳心は無制約者(天)に通じる

☆☆
礼と権(状況判断)関連:
http://www1.odn.ne.jp/kushida/hk_kwb-j/hk_0210j.html
 4月のコラム03法治-名と実の一致」で少し触れたが、人間の心情や人間関係を重んずる儒家は、理念と現実との間に立ち塞がるギャップを積極的に埋めようと考えた。「権道」という。
 『孟子』につぎのような話がある。

ある人が孟子に、「男と女が物を受け渡しするのに、直接手渡ししないのは礼でしょうか」と問うた。孟子は言う、「礼です」と。「では、嫂(あによめ)が溺れているとき、嫂を救うのに手を差し出すのはどうですか」と。(孟子)「嫂が溺れているのに救わないのは豺(やまいぬ)や狼(おおかみ)と同じです。男と女が物を受け渡しするのに直接手渡ししないのは礼だが、嫂が溺れている時に手を差し出して助けるのは権道です」と。(『孟子』離婁上)



関連本:


 素晴らしい論考が、まるで小説のようにスラスラと語られています。哲学書とは思えないほどなのですが、まぎれもなく哲学書です。西洋と東洋を比較し、両者に網の目を張ることが本書の目的でしょうが、日本では孟子は人生のハウツー本と化し、一方の西洋思想は日本人の常識の中に入り込んでしまいましたが、本書は孟子を中心とした東洋思想の素晴らしさを、あらためて認識させてくれます。その一端を本書に従って紹介します。

1.道徳的ジレンマ
 1967年、イギリスの哲学者フィリッパ・フットが考案した、5人を助けるために1人を殺すことは許されるのかと問うた「トロッコ問題」に似たジレンマ問題が、訳者により巻末の「講談社学術文庫のための解題」に紹介されています。
 ひとつは孔子の例です。葉公が孔子に語った。「わたしのところに直躬という者がいる。その父が羊を盗み、子がそのことを証言した」。孔子が言う。「わたしのところの直なるものは、それとは異なる。父は子のために隠し、子は父のために隠す。直はそのなかにある」と「父子互隠」を擁護します(p.344)。
 もうひとつはカントの「人殺しが友人を追いかけてきて、その友人をかくまうために(友人はいない)と嘘をついてよいのか」という状況です。ここでカントは「すべての言明において正直であることは、・・・・理性命令なのである」とします(p.342)。嘘をついてはいけないのですから、「友人はいる」と答えることになります。孔子とは正反対の態度です。どちらが正しいということではありませんが、両者は対極にあります。

2.孟子の基本
 孟子の基本思想は、言わずと知れた“性善説”となりますが、下記の二つと合流することで、さらに強力な理論になります。

①心身一元論
 ジュリアンは心身一元論という用語は使っていないのですが、西洋思想を常識化してしまった者には、こういってもらった方が分かりやすい。「人間が動物と異なる点はほとんどない。庶民はそれを失っているが、君子はそれを保持している。p.212」、「人間の中に身体と魂のような対立を持ち込んだりすることはない。p.217」、「心も特定の働きをなしていることでは、その他の器官(聴覚や視覚など)と同じ資格である。p.220」、「すべての二元論を防いでいる。p.221」とありますから、心身一元論で間違いないでしょう。
 さらに、ニーチェ以来疑わしくなった善悪の区別を、孟子は考慮しないしないという指摘につながっていきます(p.217)。

②四端・四徳
 老婆心ながら四端・四徳を説明しておきます。
 幼児が井戸に落ちそうなのを見れば、どのような人であっても憐れみの情がおこってくる。これを「惻隠(そくいん)」と呼ぶ。恥を知る心を「羞悪(しゅうお)or廉恥(れんち)」、譲ってへりくだる心を「辞譲(じじょう)」、判断する能力を「是非(ぜひ)」と呼ぶ。
 この四端(したん)の心の形式(情)に、それぞれ対応する徳が仁義礼智の四徳です。人間性の「仁」には「惻隠」が、正しさの「義」には「羞悪」が、倫理的な序列を尊重する能力「礼」には「辞譲」が、価値を判断する才能「智」には「是非」が対応します。
 孟子の約1500年後の朱子は、糸の端というイメージを使って、「端とは糸の端のようなもので、中にとどまっていて現れず、その「緒」だけが外に出て目にみえる」とした(p.82)。また朱子は、「仁」以外の徳がすべて「仁」に帰することを強調した(p.306の注)。本書も井戸に落ちそうな幼児への憐れみから論を起こしています。
 性善説と一元論と仁で、どのように強力になるかを本書は説いているともいえましょう。

3.徳の実践法
 では、このような徳はどのように実践されるのでしょうか。それは、本性に目覚め、容易さを知り、容易なうちに、(為すべきことではなく)為すことを為すとなりましょうか。

①容易さの称賛
 「人間の誤りは一般に、一生懸命努力し、ことさらにすることにある。p.136」と孟子は指摘します。西洋では、叙事詩的なモデルを用いて、英雄的な行為は自律的で主体の意志によるものと理解してきました(p.237)。中国では、『孟子』ばかりでなく、『孫子』も『老子』も容易さを称賛してきました(p.137)。例えば『孫子』なら、「勝兵は先ず勝ちてしかる後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いてしかる後に勝を求む」でしょうか。『老子』なら、「上善は水のごとし」でしょうか。

・植物の成長モデル;西洋が叙事詩的な英雄モデルなら、中国では孟子に限らないでしょうが、植物の成長モデルを使います。道徳性は自然に生じるようにすべきなのです。草木を引っ張って成長させることはできないのですから(p.195)。

・道の比喩;また、道の比喩もよく使われます。本性(端)を使わないでいると、道が雑草でふさがれてしまうように、心もふさがってしまいます(p.135)。実践の践は、足で踏むという意味です。足で踏めば道ができるのです(p.221)。

・環境条件の重視;効果を直接的に求めるのではなく、準備された条件からその帰結として効果が生ずべきなのです(p.194)。そればかりでなく教育がなされることも必要です(p.195)。そこで、孟母三遷の故事が生まれるのです(p.197)。

②神経科学の成果
 上記の「トロッコ問題」を使った研究がきっかけとなって、道徳の脳科学的研究が進みました。これまでの研究の動向を概観した論文によりますと、道徳判断には情動が関与していると述べられています。情動の生成を担う脳の領域と作業記憶を司る領域が関与していると考察しています。情動つまり「端」と、作業記憶つまり「道」が、道徳判断を生成しているといえるかもしれません。人間の体の器官に不必要なものはひとつもありませんから、情動にも善悪はありません。人は情動の判断をもとに道徳習慣を作っているのではないでしょうか。

③聖人を模倣する
 経験と教育により本性に目覚め、容易さを知り、徳の実践に移ることになりますが、具体的に何をしたらよいのか迷ってしまいます。そこで登場するのが先人たちの模範的行為です。孟子は、この模範的行為を模倣することで、誰でもが完璧な聖人になれるといっています(p.188)。

④できないのではない、為さないのだ
 といわれても、できないものはできない。そんな気持ちを理解して勇気づけようとするのが、江戸時代の米沢藩主、上杉鷹山(ようざん)の「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という歌です。
 しかし、鷹山の意図は知りませんが、この歌は強い意志を鼓舞しており、容易さを称賛する中国思想とは異なっています。「成らぬは人の」を「為さぬは人の」に変えれば、中国思想に近くなるように思えます。

⑤リスク論の弊害
 今日でも、わたしたちを行動から遠ざけているものがあります。例えば予防原則(precautionary principle)です。予防原則とは、行動のリスクが不明な時、ダメージがないと科学的に証明されるまで、行動は避けるべきだとする原則です。どんな行動も成功率は100%にはなりませんから、リスクを想定する限り行動は起こせないことになります。

⑥中国思想
 長くなりますが、中国思想ならびに本書のまとめとして、もっとも感銘を受けた部分を引用しておきます。
「中国思想は、すべての実在を、プロセスを表す言葉(たとえば「道」)で理解し、この独特の範疇によって、道徳の領域と自然学の領域の距離を縮めようとした。道徳的な能力が、目に見えない形であれ、わたしの中に存在する以上、それは外に向かって、目に見える形で、自らを現そうとする。感覚できるものは、目に見えないものの延長線上にあるのであって、その単なる帰結にほかならず、目に見えないものから切り離されてはいない。そのため、徳を完成させること(成徳)は、徳を客体化することと同じである。あるいは、孟子がいうように、わたしが自分の本性と完全に一致すれば、本性はその能産的な効果を発揮して、その結果、他人と自分を「動」かさずにはいられないのである。(p.232)」

4.制度・法・契約の欠如
 制度や法、ましてや契約という概念がないことが孟子の欠点となりますが(p.124,163など)、それは欠点というより、無しで済ますことができるので無いのです。自由も同じことです(p.202)。

①性善を信じきれないカントとルソー
 カントは、徳が幸福をもたらすことは論理的には考えられることだが、経験的にはそれは偶然でしかないとします。
 ルソーも同じで、道徳性は報われてしかるべきだと考えるのですが、現状は悪人が栄え、正しい人は虐げられているとします。
 また、性善を端(はな)から信用しないのがホッブスということになりましょうか。だから西洋では制度・法・契約が必要になるのです。

②変貌するルソーの憐み
 憐れみの感情こそ、反省する間もなくその救助に向かわせるとルソーはいう。ルソーは孟子とそっくりなのですが(p.55)、性善を信じきれないルソーは、次のようにもいうのです。「自己を苦しんでいる人の立場におくことで、人は逆に、その人のように苦しんでいないことに喜びを感じる」、「その人が苦しんでいる不幸から免れている」と利己主義に転じるのです(p.60)。これでは「端」に道徳の根源性をみることはできません。

③二つの道
 人間の本性を知るには二つの道があります。ひとつは天の道です。わたしとは天道の大いなるプロセスが個別に具現化したものであり、その天命により生を活性化する使命を担った者なのです。これは『中庸』や『易経』の発想です(p.106)。ここでは暗示的に本性と天道の関係が語られているだけです。
 もうひとつは、孟子の発想です。自分の経験から出発する道です。「端」、つまり持って生まれた使命、その「情」の反応がありさえすれば、大いなるプロセスの中に根ざしていることに気づくのです(p.107)。
 「端」に始まる道徳性は、個人から家族や国という中間段階を経て、天下に至るのです(p.235)。ここでは、制度も法も契約も必要ありません。
 道徳感情論という分野が西洋倫理学にあり、シャフツベリ、ハチスン、ヒューム、スミスといった思想家が分類されます。広義の感情という観点から道徳を記述する点で、孟子と類似しています。なかでもスミスの経済学は、国の富が“見えざる手”によってもたらされるとする点は「道」に似ていますし、彼は『道徳感情論』を著しており、道徳とも矛盾しません。

④万物はわたしの中に備わる
 私たちを人々に結び付けるのは仁の効果によります。「仁はあらゆる徳の基礎にあり、それらの徳を拡充させるものである。道徳性は仁に要約される。p.152」とあります。仁という文字は、「人」と数字の「二」からなります。人が二人いれば現れるという意味です(p.151)。
 ルソーがそうであるような、他者とわたしの間にある障壁、個人主義により構築された自己の感情から始まるのではありません。さらにいえば、相手の立場になってという態度から生まれる感情でもありません。「孟子は、自己の感情からではなく、他者が自己の内に有しているという感情から始めている。p.158」のです。これは観念論でも、神秘主義でもありません(p.154-5)。
 主体と客体のどちらも考慮に入れない理論、内在も超越もない理論、そういう意味で「万物はわたしの中に備わっている。p.154」のです。
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著者のフランソワ・ジュリアンは古典学に通じ、ギリシア哲学を学んだ後、
中国に滞在して中国思想を学んだパリ第7大学の教授です。
こちらが西洋哲学を学ぶように、西洋でも東洋哲学を学ぶ人がいるのは当然ですが、
実際に彼らの著作に出会う機会は多いとはいえない気がするので、
本書は少し新鮮でした。

まず、ジュリアンは孟子が語った「憐れみ」の感情を取り上げます。
苦しんでいる人を見ると無関心でいられない「憐れみ」の情。
西洋の個人主義では、たとえばルソーが「憐れみ」を利己主義の論理で解釈したように、
「憐れみ」をうまく位置づけることができません。

しかし、忍びざる「憐れみ」の概念は中国的な見方には合致しています。
彼はその理由を、中国人が唯一で絶対的な審級を導入することなく、
対照的な両極(天と地、陰と陽、外と内など)の相互作用によって世界を把握していることに見ています。
「憐れみ」は孤立した自我から発生するのではなく、わたしと他者の相互作用における感応であって、
個人主義的でも個人性を否定するものでもない、個人横断的な中国的な概念の現れだ、とジュリアンは述べます。

このように、ジュリアンはカントやルソーなどの西洋思想に孟子の思想を引き合わせることで、
両者の総合ではなく、双方の違いを考えることで両者をより理解する道を目指しています。

ジュリアンは中国ではじめて孟子がカント的なア・プリオリなものを定義したとし、
西洋が自我−主体という観点から神学的な基準を立てて、普遍的な道徳心を一挙に立てたのに対し、
孟子はアナロジーを用いて、人間に備わる共通した道徳性について語ったと述べます。
このような両者の比較によって、僕はこれまでと違う角度で孟子の思想を考える機会を得ました。
自己と他者との相互作用という観点は、和辻哲郎の倫理学の基盤でもありますし、
西洋から見れば、日本と中国の発想には相当似通ったところが見られるのではないかとも感じました。

孔子とソクラテス、荀子とホッブスなどの興味深い対比も本書の魅力です。
人間の本性を欲望と考えたホッブスが、自らを制限する法から契約を構想したのに対し、
人間の本性を「悪」とした荀子は、道徳的地平に囚われていたために孟子を反駁しきれなかった、
という分析も面白かったのですが、
そこから中国が政治的秩序を道徳の延長に構想するのか、
それとも道徳に変わる別のもの(法など)なのかが常に問題となるという指摘にもハッとさせられました。

ジュリアンはルソーが人間とは「人間的である」ことだと語ったのに対し、
中国思想では他人との関係において「人間である」と考えているとします。
「万物はわたしの中に備わっている」という孟子の発言の意図を、
万物とわたしとの根底的な連なりのことを語っていると解釈し、
他者との生き生きとしたつながりこそが「仁」だと説明します。

 孟子は、自己の感情からではなく、他者を自己に有しているという
 感情から始めている。つまり、孟子は個人を否定しているのではな
 く、個人をあらかじめ他者との関係から分離していないのである。

仁であることで存在に備わる個人横断的な次元を開き、他者へとつながっていくわけです。
こうした自他の連帯は個人の存在より先行しているといえます。

このようなジュリアンの考察からすれば、
東洋的思想においては自他の連帯は西洋ほどの課題ではないことになります。
たとえば日本の〈フランス現代思想〉が連帯よりも逃走、切断に偏ったものになっているのも、
東洋が他者との連帯を当然視していることが前提となっているように思えます。
そうなると、東洋において当たり前のことを西洋にぶつければ、
西洋を相対化することは簡単だと言えます。
前述した和辻哲郎もそうですが、「近代の超克」とはそのような動きと言えますし、
最近のポストモダン思想の流れにもこのような面が散見できます。
(逆に言えば、西洋のポストモダン的な「主体の解体」を日本に持ち込んでも、
実態はただ東洋の伝統を語っているだけになったりします)
そのようなことに思い当たるためにも、本書を読むことが役に立つと思われます。

僕がなるほど、と感心したのは、
中国人が仁の徳による連帯さえあれば十分と考えたため、
政治体制を真剣に考えなかったという指摘です。
そのような社会では「法」は賞罰を定めるものとなり、
支配者が手にする抑圧の道具でしかない、とジュリアンは言うのです。
どこぞの憲法草案が、憲法が権力を縛るものだという常識を理解せず、
道徳を名目とした国民抑圧の欲望を語っていたことにも、
儒教的(江戸的)な発想がいまだ抜けきっていないことが影響しているような気がします。

そのほか、孟子の語る「天」が人間の世界に内在する根元であるという分析や、
徳の世俗的な成功という命題から後退した孟子が、
ギリシア・ローマのストア派と同様のストイシズムへと至るという考察もおもしろく、
なかなか読み応えがあります。
西洋と東洋の両方に目配りするのは楽ではないかもしれませんが、
日本の中国思想研究の本からは得られない知見は刺激的と言えるでしょう。
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『森の生活』と東洋思想:メモ(転載)
http://nam-students.blogspot.jp/2010/02/blog-post_22.html



なおソローはJoshua Marshmanの The works of confucianを参照したらしい。

参考:
http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/kanmei.html
http://www.1-em.net/sampo/rongo_lingual/index_09.htm
論語各国語訳

森の生活 原文
http://thoreau.eserver.org/walden00.html#toc

 その他に孟子Mencius、曽子Thseng-tseu(Zengzi またはTsang)からの引用がある。

"That in which men differ from brute beasts," says Mencius孟子, "is a thing very inconsiderable; the common herd lose it very soon; superior men preserve it ...

「人が獣類と異なるところは、言うに足らぬほどわずかに過ぎない。大衆は、たちまちのうちにその違いを失い、優れた人は注意深くそれを保とうとする」(今泉訳11法の上の法279)
 ↓
「孟子曰、人之所以異於禽獸者幾希、庶民去之、君子存之。」(離婁章句下、『孟子』 第八巻-19、岩波文庫下81頁)

書き下し文:「孟子曰く、人の禽獣に異なる所以(ゆえん)の者は幾ど(ほとんど)希(まれ)なり。庶民はこれを去り、君子はこれを存す(そんす)。舜は庶物(しょぶつ)を明らかにし、人倫を察か(あきらか)にす。仁義に由りて(よりて)行う、仁義を行うに非ざるなり。」

口語訳:「孟子がおっしゃった。『人間と鳥獣とが異なっている点は、ほとんど僅かなものである。庶民は鳥獣との違いを失い、君子はその違いを保持している。舜は万物の理法を明らかにして、人間の踏み行うべき倫理を明らかにした。舜帝は、(先王から続く)仁義の道に依拠して行ったのであり、自分独自の仁義を実践したわけではないのだ。』

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/moushi006.html

「人間の自然なものの捉え方」(今泉訳17章春401頁)

「良心」あるいは「人之情」(孟子告子章句上8「牛山の木の喩」より、岩波文庫下p241)

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