日曜日, 8月 18, 2019

R.レイWrayのMMT入門 第一章


R.レイのMMT入門 第一章第一節 ストック-フロー会計の基礎

(ぼちぼちいくよー)
第一章目次(あとひとつ!)

第一章 マクロ会計の基本


第一節 ストック-フロー会計の基礎
第二節 MMT、部門間のバランスと動き
第三節 ストック、フローとバランスシート(バスタブの比喩)
第四節 政府債務は裁量的ではない:2007年大不況の場合
第五節 実物の会計と金融(名目)の会計
第六節 最近の米国における部門バランス:ゴルディロックスと世界クラッシュ

第一章 マクロ会計の基本

この章は、現代金融を理解するために必須となる基礎を抑えるところから始める。どうか辛抱してほしい。ここの重要性は、初めのうちは把握しきれないかもしれない。しかし基本的なマクロ会計を理解せずに政府財政に関する議論を理解することはできない(また、近年多くの国が陥っている財政赤字ヒステリーを批判することもできない)。ユーロ圏の問題を理解するのも同じだ。ユーロ圏問題も金融システム構造が関係している。ギリシャ人、スペイン人、イタリア人が放漫な支出をしているなどという話とは関係がないのだ。だから忍耐強く注意を払ってほしい。高度な数学や複雑な会計ルールの知識は不要だ。内容は単純で基本的だ。 話は論理的に展開していくが、そのロジックは極端なまでにシンプルだ。

1.1 ストック=フロー会計の基礎

誰かかの金融資産は別の誰かの金融債務

あらゆる金融資産には、対応する等額の金融債務が存在している。これは会計の基本原理だ。家計の金融資産として当座預金や普通預金(要求払い預金などとも呼ばれる)があるとすると、それらは銀行にとっての債務(IOU)だ。預金とは家計にとっては資産であり、銀行にとっては債務なのだ。世帯が資産として国債や社債を持っていれば、それは発行者(国や会社)の債務だ。世帯が債務を持つ場合もある。奨学金や住宅ローン、自動車ローンなどだ。これらの債務には、それを資産として持つ債権者がいて、銀行であったり、年金基金やヘッジファンド、保険会社など多種の金融機関だったりする。世帯の「純金融資産」と言ったら、それは全金融資産から全金融債務を差し引いたもののことだ。これが正の値であるとき、その世帯は純金融資産を所有しているということになる。

経済全体を何らかの種類別に部門分割し、各部門の内部にある富と外部にある富を区別すると有益になることが多い。いちばん基礎的な分類は、公共部門(国の政府から地方自治体までもを含む)と民間部門(企業と世帯はここに含まれる)を区別することだ。民間が発行者である金融資産と同じく金融債務を集計すれば、金融資産の合計と金融債務の合計は等しい。これは論理の問題だ。つまり、民間部門のIOU(借用証書)だけをとってみれば、金融資産の総額(純金融資産)は必然的にゼロになる(政府が民間に対する債務を持たない限り)。これは民間の「内側」にある富であることから「内側の富」と呼ぶことがある。民間部門が総金融資産を蓄積するためには「外部の富」、つまり他の部門への金融債権の形になっているはずだ。ここでは基本的な部門分けとして政府部門と民間部門に分割したのでこの「外部の金融資産」は政府のIOUという形になる。民間部門は、政府通貨(硬貨や紙幣を含む)および国債(短期国債から長期国債まで)を純金融資産を持っていて、これが民間の純資産を構成している。

非金融資産(実質資産)についてのメモ

誰かの金融資産は、必ず他者の金融債務によって相殺されている。純金融資産の総額は必ずゼロになる。対して実物資産は誰かの富を表し、それは他者の債務で相殺されるものではない。したがって富の総量は、実質(非金融)資産の価値に等しい。理解のための例として、あなたが借金をして自動車を買うとする。あなたの金融債務(自動車ローン)はオートローン会社の金融資産と相殺されている(あなたのIOUはよく「証券(note)」と呼ばれ、これは支払いの約束だ)。この資産と債務の合計はゼロなので、自動車の価値という資産が残る。以下、この本のほとんどの議論では金融資産および金融債務に注目していくことになるが、個人レベルであれ全体レベルであれ、富の総量を決めているのは実物資産であるということを常に念頭に置くべし。総資産(実質資産および金融資産)からすべての金融債務を差し引くと残るのが非金融(実質)資産、もしくは富の総量ということだ。 (1.4節の説明を参照)

民間の純金融資産は公的債務と等しい

フロー(収入や支出の)の蓄積がストックになる。民間部門がある年に純金融資産(ストック)を蓄積することができたとすれば、その期間の支出が収入よりも少なかった場合だけだ(収入や支出はフロー)。言い換えれば、貯蓄すること(フロー)で金融資産という形の富(ストック)を蓄積したのだ。公的部門と民間部門というシンプルな区分ならば、この金融資産とは政府の債務、すなわち政府通貨と国債である。(銀行の準備預金については後で触れる。これは中央銀行と債務であり民間銀行の資産だ。準備預金は多くの点で政府通貨と似通っていて(しばしば「ハイパワードマネー」としてくくられる)、言わば、わずかな金利が支払われる「ひと晩もの国債」である。

一方、政府のIOUは、政府が税収という形で受け取った以上に支出をすることにより民間部門に蓄積されることになる。これは政府の赤字ということだ。つまりある一定期間(通常は一年)の政府支出と税収のフローを貨幣単位で測定した時に、政府支出の方が多いという事態だ。この赤字は政府部門には債務として蓄積し、これは同じ期間に民間部門に蓄積した金融資産と等しい。

政府の支出と徴税というプロセスの完全な説明は後回しにしている。今ここで理解してほしいのは、この二部門の例において、民間部門が保有する純金融資産は、政府が発行した純金融債務とまったく等しいということだ。仮に、政府が常に歳出と常に等しい均衡財政運営をしているとすると、民間部門の純金融収支はゼロになる。あるいは政府が継続的に財政黒字運営(支出が税収よりも少ない)をしているならば、民間部門の純金融収支は必ずマイナスになる。言い換えれば、民間部門が公共部門に対して債務を負うことになる。

以上から、一つの「ジレンマ」を公式化することができる。この二部門モデルにおいて、「公共部門と民間部門の両方が黒字運営をすることは不可能だ」。公共部門が黒字だったならば、必ず民間部門がその金額だけの赤字になっている。公共部門が未払い債務をすべて払い戻そうとある期間に黒字運営を実行するならば、民間部門は同じ金額だけ赤字となり、純金融資産はゼロまで下落する。

海外の債務=国内資産

もう一つ有用な部門分けとして三部門とする考え方がある。これは、国内民間部門、国内公共部門、そして「世界のそれ以外(“ a rest of the world” (ROW))」部門に分けるのだ。ROW部門とは外国政府、外国企業、外国世帯から成る。この場合の国内民間部門は、たとえ国内政府部門が均衡財政運営、すなわちある期間の支出が税収と等しい運営を行っていたとしても、ROWに対して金融債権を蓄積することが可能だ。その場合、国内民間部門の純金融資産の蓄積は、ROW部門における金融債務の発行総額に等しい。

最後、より現実に近づけて表現すると、国内民間部門は、国内政府の債務とROWの債務の両方からなる正味金融資産を累積することができる。あるいは、政府の債務を蓄積しつつ(純金融資産の蓄積)、ROWに対する債務を発行する(純金融資産の減少)ということもあり得る。次節では、部門バランスの詳細に議論に進もう。

「内側の富」の重要性についてのメモ

MMTは純金融資産に注目することから、「内側の富」を無視しているという批判がなされるが、それは事実に反する。MMTが民間部門の純金融資産(もしくは外部の富)の由来に注意を払おうとしてきたのは、政府財政赤字の望ましさについての世の議論がひどく混乱したものになっているからだ。我々の主張はこうだ。閉鎖経済においては、政府だけが純金融資産の出所だ。開放経済の場合は「世界のそれ以外」もその出所になり得る。しかし国内民間部門がそれ自体で純金融資産を創出することは不可能だ。なぜなら部門内で創出され保持されている金融資産には、必ずそれを相殺する金融債務が民間部門の中に存在するからだ。

但し、国内民間部門内部における金融資産および負債の創出を無視すべきということではない。だれが債務を抱えていて誰が債権者であるのかは重要な問題だ。 一般的に言えば企業部門は、利益を得る能力を拡大するために、債務を持つ側になりやすい。世帯部門は住宅や消費者製品を購入するために債務を持つ一方、将来の大学進学や退職後のために純金融資産を蓄積するため、純債権者にもなり得る。 このように部門内部を詳しく調べると、一部のセグメントが重債務であるとか、他のセグメントが純債権者であるといったことがわかっていく。 例えば高齢者世帯は全体として純債権者であり、若年世代の世帯は純債務者であるとわかった。また金融資産はかなり白人に集中していて、黒人やヒスパニック系の蓄積は小さかった。また、金融資産は最も富裕な1%にどんどん集中しつつあることもわかっている。

これらの問題はすべて重要であり、過去30年間でますます研究が進んできた。 米国およびヨーロッパの多くで世帯の債務が増加したことは、世界金融危機の一因となった。富の少数の者への集中は、西側の民主主義に大きな問題を引き起こしている。企業による借入が生産的な投資のためではなく投機的な資金のためになされていたため、企業は利潤を得るための生産力が改善しなまま債務を負うことになっている。これらの問題はすべて、「外部」と「内部」の両方の金融資産に関係している。MMT以外の学者たち、民間部門の内部における金融資産の分配に焦点を当てがちだった。MMTは、財政緊縮が民間部門の金融資産に外部から及ぼす影響について議論を開こうとしてきた。 両者は補完的なものであって、排他的なものではない。

部門会計の基礎、ストック=フロー概念との関係

経済全体を三部門に分ける議論を続ける。三部門とは、国内の民間部門(世帯や企業)、 国内政府部門(地方や州の政府を含む)、 海外部門(世界のそれ以外の世帯、企業、政府)だった。 各部門のそれぞれについて、ある会計期間における収入と支出のフローがあるとして取り扱うことができる。ここでは期間は一年ということで見ていく。毎年、それぞれの部門が収入と支出を一致させるべき理由はない。 支出が収入よりも少ない場合、それをその年度の黒字(a budget surplus)と呼ぶ。 収入よりも支出が多い場合は、これを年度の赤字(a budget deficit)と呼ぶ。 年間を通じた収支が等しい場合は均衡(a balanced budget)である。

先の議論から、部門の黒字とは、貯蓄のフローと同じ意味であり、それが純金融資産(ストック)の蓄積(正味金融資産の増加)をもたらすことは明らかだ。 同様に、部門の赤字は純金融資産を減少させる。 赤字を計上している部門は、過去数年間に累積された(黒字だったと時期に)金融資産を失うか、赤字を相殺するため新しいIOUを発行していたはずだ。日常的な言葉で言うなら、資産を支出可能な銀行預金と交換する(取り崩す)ことで支出を「賄った」、あるいは、債務を発行して(借金をして)預金を得た、と表現してもよい。あるいは、ある部門の累積資産が減少する場合は、その期間は債務が増加して赤字になっている。 一方、黒字の部門は、純金融資産を蓄積している。その黒字分はは、他の少なくとも一部門に対しての債権という形をとっている。

実物資産についての注意その2

一つの疑問が浮かぶ。純金融資産を蓄積せずに、貯蓄(黒字)を使うことで実物資産を購入していたら? その場合、金融資産は単に別の人の手に渡っているのだ。たとえば、あなたは支出を収入以内に抑えて預金の残高を増やすことができるだろう。ここで預金の形で貯蓄していたくはないと決意すれば、小切手を切って、絵画やアンティークカー、切手コレクション、不動産、機械、あるいはビジネスを購入することができる。これは金融資産を実質資産に交換することだ。ところが、それらを売った人はあなたと反対の取引をしていて、金融資産を持つことになる。要点として、民間部門の内部での活動は、純金融資産をある「ポケット」から別のポケットに移せるだけなのだ。もし民間部門が全体として黒字であるならば、必ず誰かが他の部門への債権としての純金融資産を蓄積している。

結論:ある部門の赤字は他部門の黒字と等しい

以上から、重要な会計原則が導かれる。複数部門の赤字の合計は、残る一部門の黒字額と等しい。ウェエイン・ゴドリーによる先駆的な研究に従い、我々はこの原則をシンプルな恒等式で表すことができる:

国内民間部門の収支 + 国内政府部門の収支 + 海外部門の収支 =  0

例えば、外国部門がある年に収支が均衡していたと仮定する(上の恒等式における海外部門の収支はゼロ)。 ここで国内民間部門は収入が1000億ドル、支出が900億ドルで、年間100億ドルの黒字だったとする。 すると恒等式から、国内政府部門の財政赤字は100億ドルとなる。 上の議論から、国内民間部門は、この年に100億ドルの純金融資産を蓄積しており、それは国内政府部門の100億ドルの債務で構成されているということがわかる。

別の例。海外部門の支出が収入よりも少なく、200億ドルの黒字だと仮定する。同時期に、国内政府部門の支出もが収入より少なくて、100億ドルの黒字だったとする。 上の会計恒等式から、同じ期間おける国内民間部門は300億ドル(200億ドルと100億ドルの和)の赤字だったはずとわかる。この時、資産を売却し負債を発行していて、純金融資産は300億ドル減少していることになる。 一方、国内政府部門は、純金融資産を100億ドル増加させており(他部門への未返済債務を減少させている、または債権を増やしている)、海外部門は、純金融資産を200億ドル増加させている(同様に、他部門への未返済債務を減少させているか債権を増やしている)はずとわかる。
ある一部門が黒字である場合、他の二部門のうち少なくとも一部門が赤字になっているということは確実だ。

ストック変数に注目すれば、ある一部門が純金融資産を累積するためには、少なくとも他の一部門が同額の債務を増加させていなければならない。 すべての部門が黒字となり純金融資産を累積するということは不可能だ。

こうして、もう一つの「ジレンマ」公式を作ることができる。「三部門のうちの一部門が黒字であるとき、少なくとも一つの赤字部門が存在している。」

どんなに頑張っても、すべての部門が同時に黒字になることはない。 住民が全員自分は平均以上だと思っているレイク・ウォビゴン(という米国のラジオ番組プレーリー・ホーム・コンパニオンで、ガリソン・ケイラーが紹介している架空の町)の話とよく似ている。 平均点以上の子供いれば、必ず平均点以下の子供が存在する。これと同様に、赤字部門があれば必ず黒字部門が存在している。


R.レイのMMT入門 第一章第二節 MMT、部門間のバランスと動き

引き続きぼちぼち(とてもゆっくりという意味)いくよー
第一章目次(あとひとつ!)

第一章 マクロ会計の基本


第一節 ストック-フロー会計の基礎
第二節 MMT、部門間のバランスと動き
第三節 ストック、フローとバランスシート(バスタブの比喩)
第四節 政府債務は裁量的ではない:2007年大不況の場合
第五節 実物の会計と金融(名目)の会計
第六節 最近の米国における部門バランス:ゴルディロックスと世界クラッシュ

1.2 MMT、部門のバランスと性質

前節ではマクロ会計の基本を紹介した。 本節では、フロー(支出)とストック(債務)との関係を見ていきながら会計について少し詳しく説明する。経済状況の判断を間違えないためには、フローとストックの関係の「一貫性」(訳注:consistency、矛盾がないこと)を確認することが欠かせない。支出や貯蓄(フロー)には、由来と行先があることを理解する。またある部門の黒字は、他部門の赤字で相殺されていることを確認しなければならない。これらは、野球のスコアを記録することとかなり似ている。実際、現代の金融の世界でもほとんどの「スコア」は電気的に入力されている(電子スコアボード)。

さらにここでは、因果関係についてどんなこと言えるかについても取り扱う。一例として、政府の財政収支が黒字だったクリントン・ゴドリロックスの時期に、米国の民間部門の収支が赤字になっていた理由は何だっだのだろうか。どのようにしてそのような状況に至ったのだろうか、また、それを引き起こしたプロセスは何だったのだろうか。マクロ会計の恒等式(これは必ず正しい)の場合とは異なり、ある部門の収支の要因を確実に述べることはできない。 1990年代後半のゴドリロックス時代に米国の民間部門が赤字になっていた理由を説明するのは簡単なことではない。

財政赤字がいったいどのくらいの期間続くのかの予測はさらに難しい。予測とは、恐ろしく難しいものなのだ。もし容易に予測ができるなら、その結果に賭けをして大儲けができる。

別の言い方をすると、MMTや部門バランスをよく理解したからと言って、それだけで全部の因果を説明できることにはならない。自信過剰になってはいけない。偉大な ウェイン・ゴドリーはよくこう言っていたものだ。「自分は予測をしているのではない。『そうなったならこうなる』と言っているのだ。」

例えば、ウェイン・ゴドリーの仕事を引き継いでいるLevy Economics Institute(www.levy.org)でも同じような方法をとっている。たいていはCBO(米国議会予算庁)による予測を出発点にしている。CBOは、向こう数年間の政府の財政赤字と経済成長の見通しを示している。この予測は法律(すなわち、支出および課税を管理する法律、ならびに赤字削減に関する義務)に基づいて策定される。しかしCBOの予測はストックとフローが一貫しておらず、三部門バランスのアプローチも採用されていない。そういった観点で調べてみると辻褄が合っていないことがわかるのだ。

つまり、示されている政府の財政収支とGDP成長の予測があれば、そこに様々な経済パラメータ(例えば、消費や輸入の同行)の実証的見積もりを加味していくことによって、ストックとフローが一貫したモデルにすることができる。そのモデルを使えば、背後にある部門バランスや債務の動向を判断することができる。 Levy Instituteは、CBOによる予測で使用された経済成長率(例えば、プラス)および政府の財政支出の見通しは、他の二部門(民間および海外部門)の収支や民間債務の状況を考え合わせると、とても整合がとれそうになっていないという指摘をたびたびしてきた。このような分析をするためには、単純な会計恒等式以上の諸事項を検討しなければならないのだが、恒等式から外れていないかどうかは必ず確かめておかなければならない。

赤字から貯蓄へ、債務から資産へ

前節で、ある部門の赤字は他の二部門(のうちの少なくとも一部門)の黒字で相殺されていなければならないということをみた。また、ある部門の債務は他の二部門(の少なくとも一部門)の一つの金融資産と同等になっていなければならないことも確認した。このことはマクロ会計の原則から導かれる。しかし、経済学者としてはもっと多くのことも論じたくなる。経済学者は、科学者と同じように因果関係に関心を持っている。経済学は、複雑な社会システムを扱う社会科学だ。社会の因果関係は単純ではありえない。なぜなら経済現象とは相互依存、ヒステリシス、累積する因果、および期待に影響される「自由意志」などと関係するものだからだ。 しかしそれでも、すでに説明したストックとフローの因果関係から言えてくることはある。 一部の読者は、これから書かれる因果関係はケインズの理論に基づいていることに気付くだろう。

個人の支出は、おおむね所得に支配される。最初に論じるのは、民間部門における支出の意思決定だ。個人に関しては、所得が支出を決定していると主張するのは妥当と考えられる。無収入な人が、物やサービスの決断にあたり厳しい制約を受けていることは間違いない。しかし、さらによく考えてみると、個人レベルでも、収入と支出の間の関連はもっと緩やかであることも明らかだ。収入の範囲内に支出を抑えて純金融資産を蓄積することができるし、金融負債を発行して債務者となることで収入以上に支出をすることも可能だ。 それでも個人や企業おける収入と支出の因果関係は、完全ではないにせよ収入が支出を決めている部分が大きい。 逆に、支出が収入を左右すると信じる理由はほとんどないので、やはり因果の流れはおおまかに収入から支出という方向と結論しよう。

赤字が金融資産を生み出す。個人レベルで金融資産を蓄積するときの因果関係の方向についても言えることがある。 世帯や企業は、収入以上に支出(赤字運営をする)しようと決めた場合、購入資金を調達するために債務を発行することができる。その債務は、貯蓄する他の世帯や会社、あるいは政府に金融資産として蓄積される。 当然のことだが、こうして純金融資産の積み増すことができるためには、支出のために赤字にしようという世帯か、債務という形で富を蓄積しようとする世帯や企業、または政府が存在していなければならない。「タンゴは一人では踊れない」というわけだ。 純金融資産の蓄積を引き起こす最初の出発点は、赤字支出しようというの誰かの意思決定だ。 どれだけの多くの人々が金融資産を蓄積したいと思っても、誰かが赤字支出をしようと思わなければ実現できないのである。

それでも、世帯や企業が赤字支出するためには、蓄積した資産を売却するか、発行する負債を引き受けてくれる相手を見つけることができない限り不可能であることも事実だ。しかし、純金融資産を蓄積しようとする世帯や企業、政府、海外の人々が存在しないとは考えにくい。それゆえ、多くの企業や世帯は、赤字支出のための債務の引き受け先をすぐに見つけることができる。ただし、誰でも、また、どんな企業でも赤字支出ができるということではない。また、主権政府には特別な力、つまり徴税能力があるが、このことが、世帯や企業が政府債務を蓄積するための動機の存在を保証している(これは後で議論する)。

確かに因果関係は複雑であり、また「タンゴは一人では踊れない」とはいえ、結論としては、個人の赤字支出が金融資産の蓄積をもたらす、また、債務が金融資産をもたらすという順番になっている。金融資産の蓄積は黒字、つまり貯蓄行為に由来する。黒字とは、赤字支出で産み出された金融資産の蓄積なのだから、因果は赤字支出が貯蓄になるという順番と結論できる。

社会の総収入は総支出にょって創出される。 経済全体として捉えるとき、この因果関係はより明確だ。社会は単独で収入を増やそうと決めることはできないが、支出を増やそうと決めることはできる。さらに、すべての支出は、必ずどこかの誰かに所得として受け取られている。

最後に、先に論じたように、家計、企業、政府は所得以上に支出することがあることから、支出とは必ず所得に制約されているわけではない。 実際、我々が議論したように、三つの部門のいずれかが黒字であれば、他の少なくとも一部門が赤字になっている。三部門の収支の合計はゼロなずであり、総支出は総収入は必ず一致する。以上すべての理由から、全体で見るときには支出と所得の因果関係を逆転させる必要が出てくる。個人レベルでは、支出に先立って所得があるかもしれないが、全体レベルでは支出が所得を生み出している。

ある部門の赤字は別部門の黒字を生む。前節では,ある部門の赤字は他部門の黒字の合計と等しいという恒等式を示した。 経済を三つの部門(国内民間部門、国内政府部門、海外部門)に分けると、ある部門が赤字であれば、残りの二部門のうち少なくとも一部門は黒字になる。個人の収支分析の場合と同様に「タンゴは一人では踊れない」、つまり、ある部門は、他の二部門のどちらかが黒字になっていない限り、赤字になることはできない。 同様に、ある一部門は、他の部門が債務証券を累積しようとしない限り、債務を発行することができないとも言える。

もちろん、ある部門の内部で発行された債務の多くは、同じ部門内の別の者の債券という形で保有される。例えば、民間部門の企業の債務を調べると、そのほとんどは国内の企業や世帯が債権として保有しているとわかります。先に紹介した語法を使えば、それら企業や世帯の「内部の債務」は、黒字運絵師をしている世帯や企業が「内部の資産」として保有している。ただし、国内民間部門が全体として収入以上に支出していたならば、「外部への債務」を発行しており、他の二部門(国内政府部門と海外部門)の少なくとも一つが「外部の資産」として保有しているはずだ。

赤字の最初の原因は収入より多く支出しようという意思であったことから、因果関係の順番は大きく見れば赤字が黒字を生み、債務が純金融資産を生むのであった。他部門が黒字であることを望んでいない限り、赤字になることができないと理解すれば、このことは普通は問題にならない。純金融資産への志向は存在しているからだ。言ってみれば、金融資産を蓄積したいという欲望が存在するが、定義によりそれは誰かの債務なのだ。

結論

次の話題に移る前に、この節の内容は、どんな国のマクロ会計にも適用されるということを強調しておく。
登場する具体れではドルが使われているが、どの通貨であるかは関係ない。に関係なくすべての結果が適用されます。われわれの基本的なマクロ収支方程式、

国内民間部門の収支 + 国内政府部門の収支 + 海外部門の収支 =  0

これは、どの国のマクロ会計についても厳密に当てはまる。ある国の内部においては、外国通貨のフロー(ストックの蓄積)もあり、その通貨においてもまた同じ恒等式が成立している。

モデルを拡張し、それぞれが独自の通貨を発行する多数の国々を含むものにしても、この原則は何も変わらない。個々の国それぞれについて、また各通貨それぞれについてマクロバランスの恒等式が成り立つ。個々の企業や世帯(ついでに、各国政府)は、複数の異なる通貨建てでの純金融資産を蓄積することができ、ちょうど逆に、個々の企業や世帯(そして各国政府)は、いくつかの異なる通貨建ての純債務を発行することができる。個々の主体が、ある通貨では赤字でありつつ、別の通貨は黒字ということもある(ある通貨で債務を発行し、別通貨で富を蓄積する)、さらに複雑な話になっていく。それでもマクロ収支の恒等式は、すべての国、そしてすべての通貨について成立している。

コラム よくある質問

Q: この入門では「誰かが金融資産を蓄積したいと考えても、誰かが赤字支出しようと意図しない限り、そうすることはできない」と主張されている。しかし、望まずして在庫が蓄積する場合についてはどうなのですか?

A: 企業が「ウィジェット(製品)」を作るのはそれを貨幣という形にするためだ。最終的には製品を売って銀行口座に預金を得たい。売れていない場合に在庫に加算され、それはGDPでは投資としてカウントされる(NIPA:国民所得生産勘定)。民間部門内部の投資の増加は貯蓄の増加(政府および海外部門の収支が変わらなければ)と同じであり、民間部門(世帯や企業を含む)全体の収支への影響はない。ここで、海外の人がそれらの製品を注文したと想定しよう。その場合、会社が製品を売却(銀行口座の預金を受け取る)すると国内投資は増加せず、輸出が増加する – 部門間の収支バランスが変化する。他のすべての項目を無視すれば、国内民間部門がその収支に黒字を得て(貯蓄)、外国部門が「赤字支出」をしている。この言い方は、ここから派生する質問全てに答えられているものではない。本書のもっとあとの方で「サーキット・アプローチ」というものを見るが、そこにおいて、企業はどのように製品の生産資金を調達しているのか、そして、販売することで貨幣トークンの獲得を「実現」するに至らないときにどういうことが起こっているかを見ていくことになる。製品メーカーにおける望ましくない在庫の積み上がりのカウンターパートが家計部門の「貯蓄」だと考えることができる。製品を製造することが世帯の収入を生み出し、それは支出されるか、あるいは貯蓄される。当然ながら、企業は労働者が貯蓄しないことを願う。なぜならばそれは買ってもらえていないことを意味するからだ。世帯が貯蓄すると、製品は投資として在庫となる。これは企業にとっては問題だ。製造費用をカバーできなくなってしまう。しかし、外国人や政府が、需要のギャップを埋めるために介入することができる。売れ残り在庫として蓄積するところだった製品を購入することによって。

Q: 支出は本当に収入で決まりますか?支出のための借り入れについては?

A: 裕福な人は当然、収入がゼロであっても、資産を売却したりそれを担保にして借り入れをすることで、簡単に支出することができる。しかし、多くの世帯にとって所得が支出を決定しているのが事実だ。それはほとんどの人にとっての常識だ。しかし、より大きな視点で見たときに、総計レベルにおいて因果関係を逆転させて考える必要があるということだ。私の世帯の所得であれば、私の賃金や給与に幾ら払おうかという雇用主の意思決定で決まる。だから、世帯の消費は実際には所得に大きく依存する(消費は所得の増加に誘発されるので “誘発支出”と呼ばれる)が、その所得はどこかから得てきたものだ。多くは企業や政府の支出から、あるいは何かの利益、利息からだ。そしてその企業の支出は売上(家計の支出、あるいは外国人や政府や他企業の支出)の見込みに基づいている。また、政府支出と投資と輸出は、少なくともある程度「収入から独立」と言える(今日の所得にそれほど依存していない)。以上のことは経済パフォーマンスと説明するためにも予測するためにも重要だ。論理的な切り方もできる。ある社会は、全体として支出を増やそうと決めることはできるが収入を増やそうと決めることはできない(支出を増やさない限り)。論理的に支出が先なのだ。

Q: 貯蓄者が赤字支出を強いているのであって、その逆ではないのは? 世帯が支出をしないとGDPが低下して税収が下がり、それで財政赤字になるのではないでしょうか。

A: いい論点だ。当然、タンゴは一人では踊れない。もし政府部門が赤字ならば非政府部門は貯蓄をしている。もしくは、政府支出を増やすと非政府部門の支出が活性化するだろう。税収はその結果増え、政府の収支は改善するだろう。


R.レイのMMT入門 第一章第三節 ストック、フローとバランスシート(バスタブの比喩)

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第一章 マクロ会計の基本


第一節 ストック-フロー会計の基礎
第二節 MMT、部門間のバランスと動き
第三節 ストック、フローとバランスシート(バスタブの比喩)
第四節 政府債務は裁量的ではない:2007年大不況の場合
第五節 実物の会計と金融(名目)の会計
第六節 最近の米国における部門バランス:ゴルディロックスと世界クラッシュ

1.3 ストック、フローとバランスシート(バスタブの比喩)

会社や世帯、政府のバランスシートの中のそれぞれの項目は、資産または負債おのおのの残高だ。残高はストック、つまりある時点での価値の測定値である。 ストックはフローの影響を受ける。つまり、流入フローによりストックが蓄積し、流出フローによってストックは減少する。

これをバスタブの水に例えるとわかりやすい。下は水が半分入ったバスタブだ。たまっている水を、水のストックと呼ぼう。今は蛇口からの水が入ってきておらず、排水溝から流れ出す水もない。よって水の量は変化していない。この初期水量をその後の参照ポイントにしよう。

この変化しない水の量は、入金や振り込み、出金がない状態の預金口座(ストック)と似ている。同じように、借金を増やしも減らしもしない債務残高とも似ている。ここでいきなり蛇口を開けたらどうなる?タブに水が流れ込み水のストックが増える。

これはちょうど、貨幣が流れ込み貯蓄され、その結果、預金口座の残高が増えることと似ている。また、新車を買い、持っていた車もそもまま持っている状態とも似ている。所有車のストックは増えている。ここで蛇口を閉じ排水口の栓を外すと、もちろん水は減り始め最後は空になる。それはちょうど、収入がなり支出を続けた状態と同じだ。これは「負の貯蓄」とも言い、預金口座の残高はゼロになるまで減少しうる。同様に、新たな借入をせずに借金を返済すると、借入金の残高は減少する。

最後、蛇口と排水口を両方開く場合、水の残量は、蛇口からの流入が排水溝からの流出より多ければ増加する。預金口座の残高は、収入が支出より多ければ増えるのはこれと同じだ。収入のフローが口座残高のスックを増やしている。この人が収入よりたくさん支出するなら、負の貯蓄によって最終的には預金が尽きる。バスタブで言えば、排水溝からの流出が蛇口からの流入より多ければ、バスタブは空になる。

国民会計(資金循環や国民所得・生産勘定)の中心的な目的は、一つには、民間部門、政府部門、および海外部門のすべての資産・負債のフローとストックをすべて勘定することにある。これらのストックおよびフローを測定するために使用される尺度には貨幣単位(ドル、ユーロなど)を用いるのが一般的だ。すべてを貨幣単位で測定するのは簡単とは限らない。ストックやフローにはその金銭的価値がわかりにくいものがある。たとえば直接的に売買されないものや、そもそも売買されない物品がある(街灯の金銭的価値は?公立公園は?家庭菜園で育っている野菜は?)。あるいは、測定から漏れるフローがあり(バスタブの例で言えば、水道管の漏れやバスタブからの蒸発分)記録がないことも一因だ。現金を紛失する人もいる。自家用車が盗まれたり壊れたりしてもその記録がないこともある。もっと大きいのは、どこにも記録されていないアンダーグラウンド活動だ。したがって実際には、測定の難しさやデータが入手できないことから、統計の上で会計的な不整合が生じるものだ。

国民会計のもう一つの目的は、各経済部門が互いにどのように関係しているかを調べることだ。例えば、政府部門によるモノやサービスへの支出(G)は、民間部門への流れをもたらす。また、税(T)は民間部門からの排水だ。下のグラフでは、GがTより多いため、民間部門の貯蓄というバスタブの水が増加している。

この単純な事例では、政府が赤字支出し、民間部門が貯蓄しており、バスタブの水が増えている。ここから、国民所得・生産勘定の有名な最初の等式が得られる。

S ≡ (G-T)

民間部門の貯蓄(S)というフローは、定義により財政赤字の額(G − T)と等しい。常に等しい(≡は、「定義により等しい」を意味している)。

上は政府部門と世帯部門のような二部門経済の場合だった。ここに企業による投資支出を加味するために企業部門を加えると、蛇口をもう一つの加えるのと同様になる。すると恒等式はこうなる。

S = (G-T) + I

ここでIは国内民間投資だ。

さらに海外部門を加える場合は、さらにもう一組の蛇口と排水口が必要になり、完全な等式は次のようになる。

S = (G – T) + I + NX  (NX は純輸出)

これが総貯蓄の恒等式である。


R.レイのMMT入門 第一章第四節 政府債務は裁量的ではない:2007年大不況の場合

引き続き
第一章目次(あとひとつ!)

第一章 マクロ会計の基本


第一節 ストック-フロー会計の基礎
第二節 MMT、部門間のバランスと動き
第三節 ストック、フローとバランスシート(バスタブの比喩)
第四節 政府債務は裁量的ではない:2007年大不況の場合
第五節 実物の会計と金融(名目)の会計
第六節 最近の米国における部門バランス:ゴルディロックスと世界クラッシュ

1.4 政府債務は裁量的でない:2007年大不況の場合

以前の節で、三部門の恒等式を紹介し、三部門(民間、政府、海外)の債務と資産の合計はゼロであることを確認した。さらに、ただ恒等式を提示するだけでは不十分なので、因果関係についてどのようなことが言えるかを検討した。そこでは、世帯では収入が支出をおおむね決めているものの、経済全体のレベルから見るとこの順番は逆にするべきということだった。つまり、支出が収入を決めている。

個々の世帯は、貯蓄を増やすために支出を減らそうと決意することができる。しかし、もしすべての世帯がより支出を減らすと、総消費なり国民所得が減ってしまう。企業は生産量を減らし、労働者を解雇し、賃金を削減するだろう。これは有名なJ.M.ケインズの「倹約のパラドックス」 – 総消費を削減して貯蓄を増やそうとしても貯蓄は増えず、むしろ所得が減るというものだ。これについては下のコラムでもう少し述べる。

しかし、喫緊の問題がある。というのは米国(そして他の多くの国々)が債務ヒステリーに囚われてしまっているからだ。世界金融危機(GFC)の後、政府の社会的支出(例えば、失業補償)が増加し、税収は激減した。財政赤字が増大し、「終いには国が破産するのではないか」という恐怖、そして財政赤字を減らすための支出カット(そして増税)という動きが広まっている。国家的な議論において(例えば、米国、英国、およびヨーロッパ)、政府の財政赤字は裁量的なものだとされている。政府こそが十分に努力をしなければ、赤字を減らすことはできない、というわけだ。

しかし、政府赤字の削減を提案するならば、そのことが他の部門(民間および海外)の財政にどのような影響をもたらすかが十分配慮されていなければならない。なぜなら、財政赤字が減少するならば、定義により民間部門か海外部門の黒字(財政赤字の裏側の側面)が減少するからだ。このセクションでは、GFCに見舞われたあとに増加した政府財政赤字について見ていこう。財政赤字の増大は裁量的な制御の下で起こったのだろうか(あるいは制御できるものだったのだろうか)。そうでなかったならば、赤字を削減しなければならないという財政赤字ヒステリーに基づく施策自体に疑問符がつく。

2008年大不況の後、多くの国の財政が大幅な赤字に陥った。 (米国のケースについては、以下の図1.1を参照。)多くの人はこれは様々な財政刺激策(米国における自動車産業とウォール街の救済、アイルランドにおける銀行救済など)のためだったとするが、実際にはほとんどの国々における赤字への寄与は、自動安定化に起因するものが最も大きく、裁量的な支出からのものではなかったのだ。

このことは下のグラフから容易に読み取ることができる。このグラフは米国の状況でが、税収(ほぼ非裁量的)、政府消費支出(ある程度は裁量的)、および移転支出(ほぼ非裁量的。訳注:移転支出とは、生活保護費などの社会保障給付)を四半期毎の前年比で表したものだ。:

2005年の税収は絶好調で、その増加率は年あたり15%に上り、GDP成長率をはるかに上回っており、従って非政府部門の税引後利益は減少しており、また政府支出の伸び(ちょうど5%を上回る程度)よりも大きかった。このような財政引締めの後にはしばしば経済の低迷が続くのだが、GFCの後の低迷も例外ではなかった。 経済が低迷すると、ほとんどの場合自動的に財政赤字が増加する。低迷期間を通して政府の消費支出は比較的安定していた(2007–08年の一時的な落ち込み後)のに対し、税収の伸びは三四半期の間に5パーセントのプラスの伸び率が10パーセントの減少率に落ち込み(2007年Q4から2008年のQ2にかけて)、さらに2009年のQ1には15%のマイナスに達した。短期的な政府支出(2007-08年の短期間のスパイク後)、同社の成長率は5%の成長率からわずか3四半期に10%のマイナス成長率に急激に低下した(第4四半期 2007年第2四半期から2008年第2四半期にかけて)、2009年第1四半期にマイナス15%の低水準に達しました。経済が深刻に落ち込んだため、税収は崖から落ちました。経済の低迷が深いとき、税収は簡単に下落するものだ。

移転支出は、2007年以降10%を超える割合で増加したが、これは経済がダメになったためだ。無償給付の増加を伴う税収減は、財政赤字の増加につながる。救済措置や財政刺激でなく、この自動安定化こそが1930年代の大恐慌のように経済が果てしなく落ち込むことを防いだ主要因だった。景気が減速すると政府財政が赤字となり、これが総需要を下支えする。景気に対して反循環的な政府支出と、正循環的な税収という組み合わせにより、政府財政は強力な自動安定剤として機能する。景気が急落すると財政赤字は増加する。

世界的クラッシュの後、米国の世帯部門は急速に支出を切り詰め(不況時の常で)貯蓄を急増させた。財政赤字が急増した主原因は低成長だったのだが、その低成長の原因は世帯部門の貯蓄志向だった。次のグラフを見よ。

このグラフから、世帯貯蓄の顕著な減少トレンドが読み取れる。1980年台半ば以降2005年までに貯蓄は可処分所得の10パーセントからゼロ近くまで下落していた。その原因はこのセクションの射程を越えるが、その裏の側面は世帯債務の増加になる。GFCの後、このトレンドは急転し、世帯貯蓄は1992年の水準に戻った。失業と大多数のアメリカ人の収入が停滞(贔屓目に見て)したことによって見通しが不確実になってことから貯蓄志向が高まった。(貯蓄の増加率がそのまま三部門の恒等式における世帯収支に対応するわけではないことに注意。家計貯蓄の数字がプラスであるのに、部門バランス式における世帯は収入以上に支出していることになるのはこの理由からだ。物好きな人のための章末テクニカルノートを参照)

GDPの9パーセントに及んでいる米国の財政赤字(危機の後に到達している水準)を均衡収支まで持っていくためには、民間部門を赤字に反転させ、GDPの9%の金額を政府の黒字側に持ってこなくてはならない。これはとてつもない金額だ。問題は、支出削減や増税で収支を改善しようという試みが経済成長を妨げることにある。経済が減速すれば恐らく対外経常赤字が減少するだろう。アメリカ人が輸入品を変えないほどにを貧しくなり、給与が下がることによって輸出品の競争力増し、ドルの価値が下がることによって。これらは皆、アメリカ人が痛みを被る調整になる。但し、これは世界経済に影響することなくアメリカ経済だけが減速する場合で、世界経済も同時に減速するならば輸出は増えないだろう。

このセクションの要点をまとめよる。第一に、三部門の収支合計は必ずゼロになる。これは一つの部門の収支を変えることは、必然的に少なくとも他の一部門の収支を変えることを含意している。第二に、総計レベルでは、(主として)支出が収入を決めている。ある部門が収入以上に支出することは可能だが、それは他部門の支出が少なくなることを意味している。政府支出は多かれ少なかれ裁量的であることを認めるとしても、政府の税収(政府の収入に対応)は経済のパフォーマンスに依存する。上の図からわかるように、税収は著しく正循環的に変動する(好景気の時に増加し不況時に激減する)。

政府は常に、もっと多く支出すると決めることができ(政治的に制約されてはいるが)、また常に税率を引き上げることもできる(これも政治的な制約があるが)。しかし政府は税収がいくらになるかを決めることはできない。なぜなら税率は、所得や売上、資産といった政府のコントロール外にある変数に影響するからだ。それゆえ、財政収支がどうなるか、つまり黒字か赤字か均衡であるかは、裁量的に決められるものではない。

海外部門に目を転じると、輸出は概ね国のコントロールの外にある(「外生的」または「国内収入に対して自律的」であるなどと言う)。たくさんの要因の要因に依存している。海外の成長率、為替レート、貿易政策、そして相対価格や相対賃金などだ(さらに輸出を増やす政策が海外に影響を与える)。国内の経済状況が輸出に影響するのは確かだが、緩やかに影響するだけだ(そして米国のような大輸入国の経済減速は世界経済の減速を招きがちで、その結果輸出は増やしにくくなる)。

対して、輸入は国内所得に概ね依存している(加えて為替レートや相対給与や相対物価や貿易政策に。そして米国が輸入を減らそうとすれば、貿易による成長を目指す相手国に確実に影響を与えるだろう)。輸入はまた概ね正循環的でもある。結論としては、対外経常収支の結果、つまりそれが赤字か黒字か均衡であるかは、やはり裁量的に決めることができない。

裁量で決められるものは何だろう? 国内の支出、世帯や企業や政府による支出は裁量的と言える。そして支出は収入に制約される。

部門間の収支はしかし、裁量的に決められるものと考えるべきではない。なぜなら裁量的な変数以外に、裁量の及ばない変数が複雑に絡み合っている上に、マクロ恒等式の制約があるからだ。一番意味があるやり方は、まず国内のリソースが最大限近くまで利用されるように支出を促進し、部門間バランスは、その結果として落ち着くところに落ち着くと考えることだ。後で論じるように、最善の国内政策とは完全雇用と物価安定を目指すことであって、政府債務の額や債務上限のように基本的に非裁量的なものは目指すべきものではないのだ。

コラム:倹約のパラドックス、およびその他の合成の誤謬

マクロ経済学での一番重要な概念の一つが「合成の誤謬」だ。これは個々の主体にとっては正しいことも、社会全体としては正しくなくなるという事態を指す。この代表例が倹約のパラドックスで、個人の場合は(消費への)支出を減らすことによって貯蓄できるのに対し、社会は(投資などへの)支出を増やすことによってしか貯蓄を増やせないというものだ。この例は合成の誤謬の核心を突いている。

高校生やマクロ経済学に触れたことがない人たちは、当然のことながら、自分自身の個人的な状況から社会や経済全体のことを推し量る。このことがしばしば合成の誤謬の問題につながる。 もちろんこれは経済学だけのこととは限らない。ごく 少数の人々は混雑した映画館のドアを素早く出ることができるが、私たちにはできなかったりする。

消費の支出を減らせば誰でも貯蓄を増やすことができる。貯蓄しようと決めることが収入に影響を及ぼさなければだ。そして収入が変わると考える理由がない場合は予定通り消費と減らし貯蓄を増やすことになるだろう。私がこの説明をするときにはメアリーを登場させる。メアリーは地元のファーストフードチェーンで毎日ハンバーガーを食べていた。あるとき彼女は貯金を増やすてために、週に一回ハンバーガーをあきらめることにした。 彼女がこの計画を守ると、貯金(金銭的な財産)は毎週増えていくだろう。

ここからが問題だ。もし誰もがメアリーと同じことをしたら – ハンバーガーの消費の減少は総貯蓄(そして経済的富)を増加させるだろうか?答えは増加しない、となる。何故だろうか? ファーストフードチェーンはハンバーガーの販売数が減るので、労働者を解雇したり、パン、肉、キャットアップ、ピクルスなどの仕入を減らしたりなどするからだ。

失業した労働者は全員所得が減るので貯蓄を切り崩す必要に迫られる。ここで乗数という考え方を使うと、仕事を失った人々による貯蓄切り崩し額の合計と、ハンバーガーの消費を減らすことで貯蓄を増やした人々の貯蓄増の合計が等しくなることを示すことができる。全体レベルでは、貯蓄(金融資産)の蓄積は起こらない。

もちろん、これは単純すぎる例だが 伝えたい大事なことは次のことだ。個人が貯蓄を増やすことに注目する場合、そのマクロへの効果はごくわずかなので、経済全体に与える影響は無限に小さく無視しても差し支えない。しかし、誰もが貯蓄を増やそうとする場合では、経済全体での支出減少の影響を無視するわけにはいかない。ここが、はっきりと理解しなければならないポイントだ。


R.レイのMMT入門 第一章第五節 実物の会計と金融(名目)の会計

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第一章 マクロ会計の基本


第一節 ストック-フロー会計の基礎
第二節 MMT、部門間のバランスと動き
第三節 ストック、フローとバランスシート(バスタブの比喩)
第四節 政府債務は裁量的ではない:2007年大不況の場合
第五節 実物の会計と金融(名目)の会計 
第六節 最近の米国における部門バランス:ゴルディロックスと世界クラッシュ

1-5 実物の会計と金融(名目)の会計

この章ではここまでのところ、金銭的なフローとストックの会計に焦点を当ててきた。「現代金融」にフォーカスした入門書なのでそのようになっている。「お金が世界を回している」とよく言われるが、資本主義経済においては多くの場合において、生産する目的とは、より多くの利益を得ること、すなわち、金銭的費用よりも大きな金銭的収入を獲得することにある。これは確かなことであり、私たちの現代経済の大部分を占めていることでもある。

とはいえ、生産された「実物」も実在している。消費される商品やサービスが生産されていなければそもそも生活が成り立たない。さらに経済学者は「提供プロセス」そのものにも注意を払う必要がある。「提供プロセス」の多くは市場外で行われ直接お金を必要としないことが多い。

ではどうやって実物をカウントすればいいだろう? これが本節のテーマだ。

国家貨幣の単位は、信用や債務、また「価値」と呼ばれるかなりやっかいなものを測定するために便利なモノサシだ。 読者はおそらく本節までで、信用と債務の部分についてはかなり明確に把握できるようになっているだろう。私は政府に対して納税義務を負っている。これは非常に大きい数のドルで測定されている。これは私の債務であり、かつ、政府の資産であり、電子的なバランスシートに記録される。私は銀行に預金を持っていて、これもドルという単位で記録されているが、これは銀行のIOUであり、私の信用でもある(これもまた、コンピュータ上の電気データとして存在しているだけだ)。

「価値」は相当に難しい。種類が異なるものを測定するためには適切な測定単位が必要だ。色や重さ、長さ、密度などは使えない。深い理由はここでは深書ききれないが、通常は国家貨幣の単位が使われる。

そうしないと、物の価値を測るために、物それ自体を使うしかなくなってしまう。例えば砂糖の価値であれば、砂糖自体を基準にするなら難しくはない。重さでもいいし、結晶が揃っていれば粒の数を数えてもいい。まあ普通は体積を使う。キッチンでの用途には体積で十分だ。ただし、単に「×カップ」というわけにはいかず、「×カップの砂糖」といわなければならないし、砂糖とは何であるのかを決めておかなくてはならない。

そうすれば、「私はあなたから1カップの砂糖をかりています」というような借用証書を書いて誰かから1カップの砂糖を借りることができるようになる。しかし、そうするくらいならそドルの単位での借用証書にした方がいい。私たちが住んでいるのは高度に貨幣化された社会だ。ここでは国家貨幣(もしくは名目の測定手段)としてUSドルという単位が使われている。ショップの砂糖売り場に行ったときに1カップの砂糖の値段が1ドルだったなら「私は1ドル借りています」という借用書を書けば済む。その返済は1ドルの現金でもいいし、1カップの砂糖でも、あるいは双方が1ドルの価値だねと合意出来るものなら何でもよいことになる。

私の全財産を計算しようと思ったら、まずドルのIOUという形で銀行や政府や他の金融機関や友人や家族に対して持っている分をまず合計する(中には「1カップの本物の砂糖のIOU」というようなものもあるかもしれない。それに現実性があれば、相手から1ドルを回収できる)。同様に、私自身が発行済みのIOUについても、銀行に対するもの、政府や家族や友人に対するものと合計していく。(同じように、私が「1カップの本物の砂糖のIOU」を発行していたならドルで支払わなければならないものとして勘定に入れるだろう。もし仮に砂糖の貸し借りをドルで清算してはいけないのであれば、これらのIOUは実物資産または実物負債として扱わなければならないことになる。資産の砂糖から負債の砂糖を差し引いたものが純実物砂糖資産ということになる。詳しくは下の実物資産のところで)。こうして合計したら、その総金融資産から総金融債務を引いたものが、私の純金融資産だ。

当然、これで終わりではない。 私は家や車を持っている(そしてキッチンの棚に砂糖があったかもしれない)。 これらの購入資金を調達するためにローンを組んでいて(銀行や自動車金融会社などに自分のIOUを発行した)借金があるとしよう。この借金については上で計算した金融IOUの中に含まれている。しかし私は何年もローンを返済してきたので、そのIOUの残高は今の車や家の価値よりはるかに少ない。そこで車や家の金銭的価値を評価して実物資産とし、上の金融資産と足し合わせることで総資産が算出される。

家や車をどのように評価すればいいかはトリッキーなところで、会計ルールの影響を受ける。しかし、原理の理解のためだけなら重要なことではない。要するに、まず資産の総額(金融資産と実物資産)を計算し、そこから未払いの債務(通常は金融債務だが砂糖を借りている場合もあるかもしれない)を差し引くことで総資産が得られる。当然、これは実物資産と純金融資産で構成されている。よって総資産は純金融資産よりも多い額になる。私には実物資産(自動車、家、砂糖)もあるからだ。

(私の純金融資産がマイナスになることもあり得る。実物資産で埋め合わせられる額ならば良いのだが、そうでなければ「債務超過」だ。世界金融危機の結果、多くの米国人が債務超過に陥った。住宅ローンの残高が住宅の価格より高いということになったのだ。厳密に債務超過だったかは、住宅以外の資産や債務も計算に入れなければならないため判断できないが、多くが債務超過だった可能性は高い)

この入門書のほとんどの部分では経済における金融的な部分に焦点を当てている。そうする理由は、ここが基本的には資本主義の本質であり、資本主義経済の中で「現代貨幣」がどのように機能しているかが大きな関心事だからだ。 結局のところ、これは現代貨幣入門だ。 (ただし、「税が貨幣を駆動する」 (第2.3節を参照)ということは、 資本主義でなかたった昔の社会にも適用できる)

また、資本主義社会だからといって、すべての生産がマネーありきとは限らず、またすべての活動が「もっとお金を稼ぐ」ことや利益のためになされているわけではないのは明らかだ。私の場合、夕食の準備をしてから皿を洗い終わるまでの時間はだいたい二時間だ。お金を稼ぐためではないし、ましてや利益を上げるためでもない。この「生産」プロセスの少なくとも一部分はお金から始まっている。食材のほとんどは買ってきたものだし、水や食器洗い洗剤もそうだ。そうではない材料(特に私の労働)もあるということだ。

これは重要な生産なのだろうか? 疑いようもない。米国のような高度に発達した資本主義経済においてさえ、「労働力」の「再生産」に関係する無給労働なしに金銭的な生産が成り立つとみるのは難しい(いまマルクスの用語を使ったが「労働者を供給する家族のサポート」と言い換えてもかまわない)。家事や子育て、レクリエーション、リラクゼーションなどは非常に重要だが、ほとんどの場合は金銭的な取引を伴わない。これらに金銭的な報酬を支払うこともできるし、実際に支払われることもある。これらは皿洗いのような「フロー」という側面だけでなく、「ストック」の側面もある。若者に知識や技術を蓄積することはのちのち必要になるからだ(経済学者はよく「人的資本」という)。この(成長する)ストックも私達の「実物資産」に加えるべきで、それが私達の総資産となる。明らかに、これをドルという単位で測定することは非常に難しい。それどころか、金銭の形にすることが難しいことも多い。皆が売ることができない「資本」的なスキルを持っていることは確実なことだ。

コラム バランスシートから見る会計

バランスシートは、ある経済主体が所有しているものおよび借りているものを記録する会計書類だ。

バランスシートはバランスしていなければならなず、つまり次の等式が成り立っている必要がある。

FA + RA = FL + NW

純資産(NW)は、この等式を成り立たせる調整のための残差変数と見なすことができる。つまり、純資産は総資産と総債務の差額だ。
金融資産は、他の経済主体に対する金融債権で、実物資産は物理的なモノ(自動車、建物、機械、机、ペン、在庫など)である。金融負債は他の経済に対する金融債務だ。
バランスシートは必ずバランスするものであるから、ある項目に変化があれば、少なくとも一つの他の項目にそれと対応する変化が起こる。

ある世帯が自動車を買う

たとえば、ある世帯が銀行口座の小切手をきることで100ドルの自動車を購入するとすると、銀行口座の残高が100ドル減少し(ΔFA:-$100)、同じ金額の価値である自動車が同額増える(ΔRA:+$100)

総資産は変化していないし、負債(および純資産)の側も変化しないのがわかるだろう。
自動車の支払いの一部(30ドルということにしよう)を自動車ローンを借りて支払う(金融債務が増える)こともあり得る。

バランスシートの両側が30ドル増加し、等式が保たれることがわかる。

民間部門内の他の主体への影響

上では世帯のバランスシートだけを切り取っていたのだが、世帯が自動車を買うとき、自動車メーカー(非金融企業)は預金を得て、自動車を減らしている。世帯がローンを組んだことで、銀行は世帯に対して30ドルの債権を持ち、世帯は銀行預金と(70ドル)とローンで借りた分(30ドル)によって自動車メーカーへの支払いをする。二つのバランスシートは次のようになる。

ある会計主体の上記の会計項目はすべてバランスシート上に記されており、それぞれが必ず他の主体のバランスシートにも載っていることに注意されたい。世帯は30ドルを借りているので、銀行は30ドルを貸している。また、世帯は100ドルの自動車を買ったので自動車会社では100ドルの自動車が売れている、などだ。これら世帯、銀行、非銀行企業ををまとめて民間部門と呼んでいる。ここで自動車の購入が民間部門に及ぼす全体的な影響を計算するなら、上記をまとめて以下のようになる。

トータルへの影響は、これをまとめてこうなる。

したがって、民間部門は全体で60ドルの債務があるが、民間部門を統合すると何も変わっていない。「私はあなたから借りているし、あなたは私から借りている。これを相殺してみよう」。民間部門の「内側の」金融資産の合計はゼロ。残るのは実質資産‐自動車-だけだ。

政府部門を導入する

では世帯でなく、政府が車を買ったとしたらどうなるだろうか。 話を簡単にするために、政府が自動車メーカーに現金を発行することによって購入を行うと考えよう。

民間部門では、メーカーが現金を受け取り(ΔFA:+100)、車を与えている(ΔRA:-100)。

この場合、民間部門は金融債権を政府に対する分として増やしている。この金融資産は民間部門内では相殺されていない。国内経済全体を把握するために政府部門と民間部門を統合すると、バランスシートは次のようになる。

ここでも、経済全体の中で自分が自分に借りていることになるので、全体の金融収支はゼロになる。このとき重要なのは、民間部門の金融収支がプラス(現金の増加)となっていて、政府の収支がマイナス(債務としての現金)になっていることだ。 民間部門のこのプラスの財政収支を「外部の富(outside wealth)」と呼ぶが、それはこれが民間部門以外の主体に対する債権だからだ。

海外部門を加えるときも同様になる。国内の民間部門が海外にたいていプラスの金融債権を持つようなことがある。この場合もプラスの「外部の富」としてカウントされる。そして政府も、海外に対する債権という形で「外部の富」を持つことがあり得る。この場合、国内経済は全体として、海外に対する債権という形で純金融資産を持っていることになる。