<「二四の命題(Die 24 Sätze)」と命名し注目したのはハイデッガーである。短いながら、その内容は、晩年の『モナドロジー』にも似て、存在の定義から発して倫理への示唆にまで至る。つまり、「理由及び理由律」(1)→「可能」(2)→可能の存在要求的性格(5)→「最大」(9)→「多様性」(13)→「秩序(判明な認識、美、完全生)」(18)→「喜び」(18,23,24)という進行は、ライプニッツ形而上学全体を俯瞰するようなスケールをもつ。>『ライプニッツを学ぶ人のために』(世界思想社p.189より)
以下、ハイデッガー 薗田宗人訳『ニーチェ3』 (白水社pp.222-225)より
(カタカナ表記をひらがな表記に変えた。ラテン語原文は
http://la.wikisource.org/wiki/24_th%C3%A8ses_m%C3%A9taphysiquesより。その他、池田善昭『『モナドロジー』を読む』、ライプニッツ著作集8、
海神通信にも邦訳及び解説がある。)
ライプニッツ『二十四の命題』
Godefridus Guilielmus Leibnitius 24 thèses métaphysiques
一 なぜ無ではなく、なにかが実在するのか、という
根拠が自然のなかにある。これは
、根拠なしにはないものも生じない(Nihil fit sine ratione )という大原理の帰結である。同様にまた、なぜなにか他のものではなく、むしろこのものが実在するかという根拠がなければならない。
1.
Ratio est in Natura, cur aliquid potius existat quam nihil. Id consequens est magni illius principii,
quod nihil fit sine ratione quemadmodum etiam cur hoc potius existat quam aliud rationem esse oportet.
二 この根拠は、なんらかの
現実的存在者、すなわち原因のなかになければならない。というのも、原因とはひとつの
現実的な根拠以外のなにものでもない。そして可能性と必然性(あるいは可能性に対立する否定的なもの)の真理は、可能性が現勢的に実在するもののなかに基礎づけられなければなにものをももたらさない。
2. Ea ratio debet esse in aliquo
Ente Reali, seu causa. Nihil aliud enim causa est, quam
realis ratio; neque veritates possibilitatum et necessitatum (seu negatarum in opposito possibilitatum) aliquid efficerent nisi possibilitates fundarentur in re actu existente.
三 だが、この存在者は必然的でなければならない。そうでなければ、なぜそれが実在しないのではなくむしろ実在するのかというひとつの根拠が、さらにこの存在者の外に求められねばならない。それは仮定に反する。すなわちその存在者とは
すべてのものの究極的根拠であり、普通これが一言で神と呼ばれている。
3. Hoc autem Ens oportet necessarium esse, alioqui causa rursus extra ipsum quaerenda esset cur ipsum existat potius quam non existat, contra Hypothesin. Est scilicet Ens illud
ultima ratio Rerum, et uno vocabulo solet appellari DEUS.
四 それゆえ、なぜ実在が非存在より優勢であるかという原因がある。つまり必然的存在者とは、
実在せしめるものである。
4. Est ergo causa cur Existentia praevaleat non-Existentiae, seu Ens necessarium est
EXISTENTIFICANS.
五 だが、なにかを実在せしめ、あるいは可能性に実在を要求せしめる原因は、さらにすべての可能的なものに、実在への衝動をもたらしめる。なぜなら、一般にいくつかの可能的なものにだけ限定される根拠は見いだされないからである。
5. Sed quae causa facit ut aliquid existat, seu ut possibilitas exigat existentiam, facit etiam ut omne possibile habeat conatum ad Existentiam, cum ratio restrictionis ad certa possibilia in possibilia in universali reperiri non possit.
六 それゆえ、すべての可能的なものは、それが現勢的に実在している必然的存在者に
基づいているのに従って
実在しようとし、かかる必然的存在者なしには、可能的なものが現勢態に至る道はないということができる。
6. Itaque dici potest Omne possibile
EXISTITURIRE, prout scilicet
fundatur in Ente necessario actu existente, sine quo nulla est via qua possibile perveniret ad actum.
七 しかし、まだこのことからすべての可能的なものが実在するという帰結は出てこない。それがたしかに帰結されるのは、すべての可能的なものが
共に可能なときである。
7. Verum hinc non sequitur omnia possibilia existere : sequeretur sane si omnia possibilia essent
compossibilia.
八 しかし、いくつかの可能的なものは他の可能的なものと相容れないがゆえに、ある可能的なものは実在に至らないことがある。さらにいくつかの可能的なものが他の可能的なものと相容れないのは、同時性に関してだけではなく、宇宙全般にわたって相容れないのである。けだし未来のものは現在のもののなかに包含されているからである。
8. Sed quia alia aliis incompatibila sunt sequitur quaedam possibilia non pervenire ad existendum, suntque alia aliis incompatibilia, non tantum respectu ejusdem temporis, sed in universum, quia in praesentibus futura involvuntur.
九 しかしながら、実在に至ろうとするすべての可能的なものの葛藤から、少なくとも次のことが起こる。すなわちそれによって、もっとも多くのものが実在するようなものの系列、すなわちすべての可能的なもののなかの最大の系列が実在するのである。
9. Interim ex conflictu omnium possibilium existentiam exigentium hoc saltem sequitur, ut existat ea rerum series, per quam plurimum existit, seu series omnium possibilium maxima.
十 ただこの系列だけが決定されたものである。たとえば、もろもろの線のなかでは直線が、もろもろの角のなかでは直角が、もろもろの図形のかかではもっとも容量の大きなもの、円かあるいは球形が決定されたものなのである。そして、液体がおのずとその本性に従って球形をなして滴るように、宇宙という自然においても、最大の容量をもった系列が実在する。
10. Haec etiam Series sola est determinata, ut ex lineis recta, ex angulis rectus, ex figuris maxime capax, nempe circulus vel sphaera. Et uti videmus liquida sponte naturae colligi in guttas sphaerica, ita in natura universi series maxime capax existit.
十一 ゆえに、完全性が〔ゲルハルト版には欠如〕現実性の量にほかならないがゆえに、もっとも完全なものが実在する。
11. Existit ergo perfectissimum, cum nihil aliud perfectio sit, quam quantitas realitatis.
十二 しかし、完全性はただ質料にのみ、すなわち、その量がいずれにせよ同じであるとことの時間と空間とを満たすものにのみ置かれるべきではなく、むしろ形相と多様性に置かれなければならない。
12. Porro perfectio non in sola materia collocanda est, seu in replente tempus et spatium, cujus quocunque modo eadem fuisset quantitas, sed in forma seu varietate.
十三 そこからしてさらに、質料がいたるところで同一ではなく、形式を通じて多様であるということが、結果として生じるのである。そうでなければ、可能なかぎりのかくも多くの多様性は得られないであろう。私が別のところですでに述べたことには触れないとして〜〜これ以外の仕方ではいかなる多様な現象も生じないであろう。
13. Unde jam consequitur materiam non ubique sibi similem esse, sed per formas reddi dissimilarem, alioque non tantum obtineretur varietatis quantum posset. Ut taceam quod alibi demonstravi, nulla alioque diversa phaenomena esse extitura.
十四 こうして、判明な思惟可能性を最大限に出現させる系列が優位を占めたことになる。
14. Sequitur etiam eam praevaluisse seriem, per quam plurimum oriretur distinctae cogitabilitatis.
十五 ところで、判明な思惟可能性は、事物に秩序を、そして思惟者に美を与える。実に、秩序とは多くのもののあいだを区別する関係にほかならない。混乱が生じるのは、多くのものが集まっていて、しかもあるものを他のものと区別する根拠がないときである。
15. Porro distincta cogitabilitas dat ordinem rei et pulchritudinem cogitanti. Est enim ordo nihil aliud quam relatio plurium distinctiva. Et confusio est, cum plura quidem adsunt, sed non est ratio quodvis a quovis distinguendi.
十六 それゆえに、それぞれの部分を他の部分と区別する根拠をもたない原子は、そしてまた一般的にそのような物体は廃されることになる。
16. Hinc tolluntur atomi, et in universum corpora in quibus nulla est ratio quamvis partem distinguendi a quavis.
十七 そこから、総じて世界は調和世界(κόσμον コスモス)であり、秩序に満ち、認識する人びとにこの上ない満足を与えるのである。
17. Sequiturque in universum, Mundum esse Kosmon, plenum ornatus; seu ita factum ut maxime satisfaciat intelligenti.
十八 認識する人の喜びとは、
美、秩序、完全性を表象することにほかならない。そして苦痛はすべて、なんらかの無秩序なものを含んでいるが、しかしこれは表象する者に関してのことである。なぜなら、絶対的にいえば、すべてのものは秩序づけられているからである。
18. Voluptas enim intelligentis nihil aliud est quam perceptio
pulchritudinis, ordinis, perfectionis. Et omnis dolor continet aliquid inordinati sed respective ad percipientem, cum absolute omnia sint ordinata.
十九 そこで、ものの系列のなかでなにかが私たちに不快の念を与えるとすれば、それは知性認識の欠陥から生じるのである。けだしすべてのものを判明に認識することは、必ずしもすべての精神にとって可能ではななく、他を見ずにひとつの部分だけを見る人には、全体の調和を見ることは不可能である。
19. Itaque cum nobis aliqua displicent in serie rerum, id oritur ex defectu intellectionis. Neque enim possibile est, ut omnis Mens omnia distincte intelligat; et partes tantum alias prae aliis observantibus, non potest apparere Harmonia in toto.
二十 宇宙のなかにも正義が観察されることは、このことの結果である。けだし正義とは、精神に関しての秩序、ないしは完全性にほかならない。
20. Ex his consequens est in Universo etiam justitiam observari, cum justitia nihil aliud sit, quam ordo seu perfectio circa Mentes.
二十一 そしてもっとも大きな根拠は精神に属する。なぜなら精神を通じて、できるだけ小さい空間にできるだけ多くの多様性が得られるからである。
21. Et Mentium maxima habetur ratio, quia per ipsas quam maxima varitas in quam minimo spatio obtinetur.
二十二 そして精神は
、世界の第一次的な単位的統一であり、第一の存在者のもっとも忠実な模像であるといえる。なぜなら精神は必然的真理を、すなわち第一の存在者を動かし宇宙を形づくるべくさせたもろもろの根拠を、判明に表象するからである。
22. Et dici potest Mentes esse
primarias Mundi unitates, proximaque simulacra Entis primi, distincte percipiunt necessarias veritates, id est rationes quae movere Ens primum, et universum formare debuerunt.
二十三 第一の原因は至高の善性に属するものである。というのも、それはもっとも多くの完全性をもののなかに生ぜしめ、また、精神にもっと多くの喜びを与えるからである。けだし喜びとは完全性(表象 perceptionis ではない)を表象することからなるのである。
23. Prima etiam causa summae est Bonitatis, nam dum quantum plurimum perfectiones producit in rebus, simul etiam quntum plurimum voluptatis mentibus largitur, cum volptas consistat in perceptione perceptionis.
二十四 悪さえもがより大きな善に奉仕するまでに至るのであり、そして苦痛は精神のなかに存するのであるから、より大きな喜びを目ざして進むことが必要である。
24. Usque adeo, ut mala ipsa serviant ad majus bonum, et quod dolores reperiuntur in Mentibus, necesse sit proficere ad majores voluptates.
(第十一および第二十三の命題は、草稿に従って訂正されている。)
参考:
"Leibniz behauptet, daß nicht zwey
Blätter einander völlig ähnlich seyn."
Stich nach Schubert, 1796
http://www.lehrer.uni-karlsruhe.de/~za146/barock/leibniz1.htm
「識別できない二つの個物はありません。 私の友人に才気煥発な一人の貴族がいて、ヘレンハウゼンの庭の中、選帝侯婦人の御前で私と話をしていたときのことでありますが、そのとき彼は全く同じ二つの葉を見つけられると思っていました。 選帝侯婦人はそんなことは出来ないとおっしゃいました。 そこで彼は長い間駆けずり回って探したのですが無駄でした。 顕微鏡で見られれば二つの水滴とか乳滴も識別され得るでしょう。」
(1716年6月2日クラーク宛第4書簡)
「互いに完全に似ている二つの卵、完全に似ている二つの葉とか草は庭の中には見いだされない。従って、完全な類似性は非充足的な抽象的な概念においてしか生じないが、その場合事物は、あらゆる仕方においてではなく、ある一定の考察様式に従って考察されているのである。」
「第一真理」(生前未発表)
http://nam-students.blogspot.com/2009/01/primae-veritaes.html#%E5%A4%A9%E4%BD%BF
【不可識別者同一の原理 principium identitatis indiscerniblium,principle of the identity of indiscernibles 】
(『モナドロジー』9など)
[自然においては、2つの存在がたがいにまったく同一で、そこに内的規定に基づく違いが発見できないなどということはなく、それゆえ、たがいに識別できない2つのものは、実は、同一の1つののものである]とされる。
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kinsei/kinsei02g.html
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50026615.html
Leibniz mit Herzogin Sophie, Karl August von Alvensleben und zwei Hofdamen im Herrenhäuser Garten. Illustration aus einer 1795 erschienenen Leibniz-Biographie von Johann August Eberhard
http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Leibniz_und_Alvensleben.jpg&filetimestamp=20070325202518
http://de.wikipedia.org/wiki/Karl_August_I._von_Alvensleben
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/23/Leibniz_und_Alvensleben.jpg
追記:
デリダは日本での講演でハイデガーのライプニッツの命題ヘの言及を重視している(邦訳『他者の言語』)。根拠律は大学=近代の根拠でさえあると言っている。
17 Comments:
9,10の系列という考え方が注目に値する。
http://tetsugaku.tripod.com/philosophe/leibniz/24.html
Maria Cristina Di Nino, Verità, interpretazione, inesauribilità e ...
La formulazione rigorosamente filosofica è data da Leibniz: «ratio cur aliquid potius existat quam nihil», «Pourquoy il y a plutôt quelche chose que rien». Per Leibniz il passaggio dal possibile all'esistente è connotato ...
mondodomani.org/dialegesthai/cdn01.htm
Warum ist überhaupt Seiendes und nicht vielmehr Nichts?“
↑ Dies ist nach Martin Heidegger die „Grundfrage der Metaphysik“, vgl. z. B. „Was ist Metaphysik?“.
Pourquoi y a-t-il quelque chose plutôt que rien ?, Leibniz - Adamantin
Pourquoi y a-t-il quelque chose plutôt que rien ?, Leibniz. 15 juillet 2009. La question qui se pose ici est une question fondamentale. Elle est posée pour la première fois par Leibniz, en 1740. Il se demande pourquoi y a-t-il un monde alors ...
adamantin.eurower.net>...>Philosophie
Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は哲学の一分野である形而上
cur aliquid potius existat quam nihil.
Der Satz vom Grund (Adobe PDF) -htmlで見る
est in Natura, cur aliquid potius existat quam nihil - « Grund ist in der Natur, warum etwas vielmehr existiert als nichts». «Natur» ist hier nicht als ein Bezirk des Seienden im Unter- schied zu einem anderen gemeint. «Natur» ist jetzt genannt ...
www.olimon.org/uan/DerSatzvomGrund.pdf
ハイデガー根拠律
52頁
http://www.olimon.org/uan/DerSatzvomGrund.pdf#search='aliquid%20potius%20existat%20quam%20nihil.'
ハイデガー形而上学入門
なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?これがその問いである。この問いが決してありきたりの問いでないということは推察できる。「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」‐これは明らかにすべての問いの中で第一の問いである。 第一の問いといっても、もちろんいろいろな問いの時間的継起の順番から言って第一だというのではない。個々人も諸民族も長い間の歴史の流れの途上で多くの事柄を問うものである。彼らは「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いにつきあたるまでに、様々な事柄を探索し、追及し、吟味する。つきあたるということが、この疑問文を言い表された文として聞くとか読むとかいうことだけでなく、この問いを問うこと、すなわちこの問いを成立させ、これを提出し、どうしてもこの問いを問わざるをえないような状態になるということを意味するのだとすれば、多くの人々は、この問いにつきあたらない。
だがしかもなお!誰でも一度は、いやおそらくときどき、そうとはっきり知らないうちにこの問いの隠れた力にそっと触られるものである。たとえば深い絶望の中にあって、ものごとからすべての重みが消えうせようとし、あらゆる意味がぼやけてしまうとき、この問いが立ち現れる。おそらくそれは鈍い鐘の音のように、ただ一度撞き鳴らされ、現存在の中へと響き入り、次第にまた響きやむだけかもしれない、心からの歓呼の中にもこの問いがある。というのは、この場合すべてのものごとは変わってしまい、あたかもそれがいまはじめてわれわれの周囲にあるかのごとくになり、われわれはそれがあり、しかもそれが現にあるとおりにあると考えるよりも、むしろそれがないのだと考えるほうがかえって考えやすいような気がするからである。或る種の退屈の中にもこの問いがある。この場合、われわれは絶望からも歓呼からも等しく遠ざかっているが、いつまでたっても何の変哲もなく、存在者がいつものごとく、まるで砂漠のようにのさばっていて、われわれは存在者があろうとなかろうとどうでもよいような気持ちになるからであって、そういう場合には特別の形で再びこの問いが響き始める。なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?と。
— マルティン・ハイデッガー 『形而上学入門』(1935年に講義/1953年に出版) 第1章「形而上学の根本の問い」、川原栄峰訳[21]
wiki
http://jibiki.info/j/22/f3/04/f57337f4fd4e78def10ce64a4e174779.htm
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est in Natura, cur aliquid potius existat quam nihil - « Grund ist in der Natur, warum etwas vielmehr existiert als nichts». «Natur» ist hier nicht als ein Bezirk des Seienden im Unter- schied zu einem anderen gemeint. «Natur» ist jetzt genannt ...
www.olimon.org/uan/DerSatzvomGrund.pdf
ハイデガー根拠律
52頁
55頁
ライプニッツによる定式化
ゴットフリート・ライプニッツ(1646年 - 1716年)
この問題を現在 議論されている形で初めて明確に定式化したのは、17世紀のドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツ(1646年 - 1716年)である。ライプニッツは1697年の著作「事物の根本的起原」および1714年の著作「理性に基づく自然と恩寵の原理」で、存在の根拠を探る問題としてこの問いを定式化した。
現に存在するものの十分な理由は個々のもののうちにも、ものの全集合のうちにも、事物の系列のうちにも見出されえない。幾何学の原理の書物が永遠なものであって、その一部分は他から書きとられているものと想定してみよう。そのさい、たとえ現在の書物の(実在している)理由を、元になっている本から説明することができるとしても、何冊書物をさかのぼってみても、十分な理由にいたりえないことは明らかである。そのわけは、こういう書物がなぜずっと以前から実在しているか、いったいなぜ書物が実在しているか、またこういうふうに書いてあるのはなぜか、という疑問がいつも残るからである。
書物について真実であったこのことが、世界のさまざまな状態についても言える。なぜなら、次の状態が先立つ状態からなんらかの仕方で [たとえある変化法則によってであろうとも] 表されるからである。こうしてみれば、先立つ状態へどのようにさかのぼってみても、世界がなぜ(実在しないよりも)むしろ実在するか、またなぜこのようになっているかという、十分な理由を諸状態のうちに見いだすことはないであろう。
だからあなたは、世界が永遠であると仮定してみても、諸状態の継続しか考えない場合には、どの状態のうちにも、十分な理由を見いだすことはないであろう。いやどんな状態をとりだしても、その理由に達することはないであろう。そこで理由は、それとは別のところに問われなければならないことになる。
— ゴットフリート・ライプニッツ (1697年) 「事物の根本的起原」、清水富雄訳[6] (強調引用者)
自然学者として論じるのではなく、形而上学者として論じると、一般にはあまり用いられていない大原理を使うことになる。その原理とは「何事も十分な理由なしには起こらない」、言い換えると「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」というものである[注釈 3]。この原理を認めた上で、当然提出される第一の質問は「なぜ無ではなく、何かがあるのか」というものであろう。実際、何もなかった方が、なにかあるよりも簡単で容易であると言える。次に、事物が存在しなければならないということを認めた上で、「なぜ事物はこういうふうに実在しなければならないのか、別様であってはいけないのか」ということの理由を示すことができなければならない。
— ゴットフリート・ライプニッツ (1714年) 「理性に基づく自然と恩寵の原理」、山内志朗訳[7] (強調引用者)
自然学者として論じるのではなく、形而上学者として論じると、一般にはあまり用いられていない大原理を使うことになる。その原理とは「何事も十分な理由なしには起こらない」、言い換えると「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」というものである[注釈 3]。この原理を認めた上で、当然提出される第一の質問は「なぜ無ではなく、何かがあるのか」というものであろう。実際、何もなかった方が、なにかあるよりも簡単で容易であると言える。次に、事物が存在しなければならないということを認めた上で、「なぜ事物はこういうふうに実在しなければならないのか、別様であってはいけないのか」ということの理由を示すことができなければならない。
— ゴットフリート・ライプニッツ (1714年) 「理性に基づく自然と恩寵の原理」、山内志朗訳[7] (強調引用者)
6^ ライプニッツ (2005) pp. 203-204
^ 山内志朗 (2003) pp. 43-44
ゴットフリート・ライプニッツ 「事物の根本的起原」(ライプニッツ[著], 清水富雄[訳], 飯塚勝久[訳], 竹田篤司[訳] (2005) 『モナドロジー・形而上学叙説』 <中公クラシックス> 中央公論新社 ISBN 978-4326153381 収録)
翻訳元:Leibniz, G, W. (1697) "De rerum originatione radicali"
長綱啓典 (2011) 「ライプニッツにおける弁神論的思惟の根本動機」 晃洋書房 ISBN 978-4771022317
山内志朗 (2003) 「ライプニッツ ―なぜ私は世界にひとりしかいないのか」<シリーズ・哲学のエッセンス> NHK出版 ISBN 978-4-14-0093047
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/1663.html
ライプニッツ「第一の真理」(Primae Veritaes)1、4
http://nam-students.blogspot.com/2009/01/primae-veritaes.html
ライプニッツによる肉体-魂-ペンタグラムの素描 1663年頃。 2
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/1663.html
ライプニッツの法学2
http://yojiseki.exblog.jp/9855090/
http://nam-students.blogspot.com/2010/01/blog-post_28.html
バークリと微分積分 3
http://nam-students.blogspot.com/2010/01/blog-post_21.html
ライプニッツ24の命題 3、4
http://nam-students.blogspot.com/2009/12/1690.html
ライプニッツとパスカル
http://nam-students.blogspot.com/2010/01/blog-post.html
__原理______存在の分類__包摂___________主語__述語_____無限__________
1、矛盾律 同一的なもの 自立的包摂 神 属性 それ自身による〜
2、類比の原理 定義可能 相互的包摂 外延 関係 原因による〜
3、充分理由律 条件づけ可能 一方向的局限可能包摂 内包 関係 内的極限を持つ〜の系列
4、不可識別者同一 個体 一方向的局限不可能包摂 実体 様式、出来事 内的極限を持つ〜の系列
\////// 無矛盾
\//// 2、類比の原理
同一律 \// /|(結合法)
同一的なもの \ / ↑|
& /_\______/__|______
1、矛盾律 \/////分析的|//////
(例: \///(潜在 ↓|//////
アルファベット) \/ 的同一)|//////
/\充分理由律|//////
___________/__\3 ↓ |//////
/////////// (記号法、 |//////
////////// 微分積分dy/dx)|//////
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
//////// ↑ |//////
///////4、不可識別者同一の原理|//////
////// (モナド1/∞) |//////
24命題は2が弱い
現実のみに妥当する原理(充足理由律)は、矛盾律と真に同格であり、、、、、
ラッセル、邦訳ライプニッツの哲学47頁
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