ハミルトン(連邦銀行設立を巡ってジェファーソンと論争した)
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/06/alexander-hamilton-1755-1804.html
(政治学、インデックス)
To Joseph C. Cabell Monticello, February 2, 1816
As Cato, then, concluded every speech with the words, "Carthago delenda est," so do I every opinion, with the injunction, "divide the counties into wards." Begin them only for a single purpose; they will soon show for what others they are the best instruments.
http://www.let.rug.nl/usa/presidents/thomas-jefferson/letters-of-thomas-jefferson/jefl241.php
「カトーがあらゆる演説を、カルタゴは滅ぼされざるべからず(Carthago delenda est)という言葉でしめくくったように、私もあらゆる見解を『郡(カウンティ)を区(ウォード)に分割せよ』という命令でしめくくろう。」
上記はハンナ・アーレントが『革命について』で引用しているアメリカ第三代大統領トーマス・ジェファーソンの手紙のなかの言葉(邦訳文庫398頁。452頁のアーレントによる引用先の記述は間違っている)。
赤字部分を柄谷行人が『哲学の起源』50頁で引用している。
http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&u=http://www.let.rug.nl/usa/presidents/thomas-jefferson/letters-of-thomas-jefferson/jefl241.php&prev=/search%3Fq%3Dhttp://www.let.rug.nl/usa/presidents/thomas-jefferson/letters-of-thomas-jefferson/jefl241.php%26hl%3Dja%26safe%3Doff%26client%3Dfirefox-a%26hs%3DFsy%26tbo%3Dd%26rls%3Dorg.mozilla:ja-JP-mac:official&sa=X&ei=Ysm1UIrVAbGNmQXapIDACA&ved=0CDMQ7gEwAA
ジェファーソンの手紙
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2005/06/index.html
ロバート・オーウェンが、ニューハーモニー・コミュニティの実験に失敗したすぐ後に、当時のアメリカ社会を見て歩いたフランス人にアレキシス・ド・トクヴィルがいる。トクヴィルは、1831年から1832年にかけて独立後間もないアメリカを視察して、それを『アメリカの民主主義』にまとめた。
会社勤めを辞めてフリーになった私は、金はなくても時間だけはたっぷりあるので、それまで読みきれなかった大著に手をつけ始め、中里介山『対菩薩峠』の次には、トクヴィルのアメリカの民主主義』を読み出したのだった。
「大多数のヨーロッパ諸国では、政治生活は社会の上層に始まって少しずつ不完全に社会全体の種々の部分に伝わっているのである。これに反して、アメリカでは、共同体(コムミューン)が郡以前に、郡は州以前に、州は連邦以前に、それぞれ組織されている。」
「ニュー・イングランドでは1650年以来共同体は完全に決定的に組織されている。・・・共同体のうちには、全く民主的なそして平和的な真の活気あふれた政治が支配している。・・・共同体ではすでに共和制が全く生きてはたらいている」
「共同体は、あらゆる種類の司令官たちを任命し、自らに課税し、租税を自らに割当て、徴収する。ニュー・イングランドの共同体では、代表制の法律は認められていまい。すべてのものの利益にかかわることがらは、アテネにおけると同様に公共の場と市民の全体会議とで処理される」講談社文庫上、82-83頁
同書日本語版の訳注にはこうある。95頁
「当時ニュー・イングランドのコムミューン(英語ではTownship)は人口2000~3000位の小さな村であったので、そこではルソーが当時スイスのジュネーブで見出したように民主主義は代表制によらず、直接選挙制で行われることができた。トクヴィルはアメリカの民主政治の基本構造が、このコムミューンに見出され、これが郡を経て州に及び、遂に連邦に達していることを知ったのである」と。
ロバート・オーウェンが、ニューハーモニー・コミュニティの実験に失敗したすぐ後に、当時のアメリカ社会を見て歩いたフランス人にアレキシス・ド・トクヴィルがいる。トクヴィルは、1831年から1832年にかけて独立後間もないアメリカを視察して、それを『アメリカの民主主義』にまとめた。
会社勤めを辞めてフリーになった私は、金はなくても時間だけはたっぷりあるので、それまで読みきれなかった大著に手をつけ始め、中里介山『対菩薩峠』の次には、トクヴィルのアメリカの民主主義』を読み出したのだった。
「大多数のヨーロッパ諸国では、政治生活は社会の上層に始まって少しずつ不完全に社会全体の種々の部分に伝わっているのである。これに反して、アメリカでは、共同体(コムミューン)が郡以前に、郡は州以前に、州は連邦以前に、それぞれ組織されている。」
「ニュー・イングランドでは1650年以来共同体は完全に決定的に組織されている。・・・共同体のうちには、全く民主的なそして平和的な真の活気あふれた政治が支配している。・・・共同体ではすでに共和制が全く生きてはたらいている」
「共同体は、あらゆる種類の司令官たちを任命し、自らに課税し、租税を自らに割当て、徴収する。ニュー・イングランドの共同体では、代表制の法律は認められていまい。すべてのものの利益にかかわることがらは、アテネにおけると同様に公共の場と市民の全体会議とで処理される」講談社文庫上、82-83頁
同書日本語版の訳注にはこうある。95頁
「当時ニュー・イングランドのコムミューン(英語ではTownship)は人口2000~3000位の小さな村であったので、そこではルソーが当時スイスのジュネーブで見出したように民主主義は代表制によらず、直接選挙制で行われることができた。トクヴィルはアメリカの民主政治の基本構造が、このコムミューンに見出され、これが郡を経て州に及び、遂に連邦に達していることを知ったのである」と。
参考:
アメリカ大統領歴代一覧
http://www.american-presidents.info/presidentlist5.html
アメリカ大統領歴代一覧
http://www.american-presidents.info/presidentlist5.html
代 | 政党・任期 | 名前 | 出身州 |
1 | 連邦党 1789.4.30a- 1797.3.4 | ジョージ・ワシントン (1732.2.22-1799.12.14) | ヴァージニア |
2 | 連邦党 1797.3.4- 1801.3.4 | ジョン・アダムズ (1735.10.20-1826.7.4) | マサチューセッツ |
3 | 民主共和党 1801.3.4- 1809.3.4 | トマス・ジェファソン (1743.4.2-1826.7.4) | ヴァージニア |
4 | 民主共和党 1809.3.4- 1817.3.4 | ジェームズ・マディソン (1751.3.16-1836.6.28) | ヴァージニア |
5 | 民主共和党 1817.3.4- 1825.3.4 | ジェームズ・モンロー (1758.4.28-1831.7.4) | ヴァージニア |
6 | 民主共和党 1825.3.4- 1829.3.4 | ジョン・クインジー・アダムズ (1767.7.11-1848.2.23) | マサチューセッツ |
7 | 民主党 1829.3.4 7- 1837.3.4 | アンドリュー・ジャクソン (1767.3.15-1845.6.8) | 両カロライナ |
8 | 民主党 1837.3.4- 1841.3.4 | マーティン・ヴァン・ビューレン (1782.12.5-1862.7.24) | ニュー・ヨーク |
9 | ホイッグ党 1841.3.4- 1841.4.4 | ウィリアム・ハリソン (1773.2.9-1841.4.4) | ヴァージニア |
10 | ホイッグ党 1841.4.6b- 1845.3.4 | ジョン・タイラー (1790.3.39-1862.1.18) | ヴァージニア |
11 | 民主党 1845.3.4- 1849.3.4 | ジェームズ・ポーク (1795.11.2-1849.6.15) | ノース・カロライナ |
12 | ホイッグ党 1849.3.5c- 1850.7.9 | ザカリー・テイラー (1784.11.24-1850.7.9) | ヴァージニア |
13 | ホイッグ党 1850.7.9d- 1853.3.4 | ミラード・フィルモア (1800.1.17-1874.3.8) | ニュー・ヨーク |
14 | 民主党 1853.3.4- 1857.3.4 | フランクリン・ピアース (1804.11.23-1869.10.8) | ニュー・ハンプシャー |
15 | 民主党 1857.3.4- 1861.3.4 | ジェームズ・ブキャナン (1791.4.23-1868.6.1) | ペンシルヴェニア |
16 | 共和党 1861.3.4- 1865.4.15 | エイブラハム・リンカーン (1809.2.12-1865.4.15) | ケンタッキー |
17 | 民主党 1865.4.15e- 1869.3.4 | アンドリュー・ジョンソン (1808.12.29-1875.7.31) | ノース・カロライナ |
18 | 共和党 1869.3.4- 1877.3.4 | ユリシーズ・グラント (1822.4.27-1885.7.23) | オハイオ |
19 | 共和党 1877.3.3f- 1881.3.4 | ラザフォード・ヘイズ (1822.10.4-1893.1.17) | オハイオ |
20 | 共和党 1881.3.4- 1881.9.19 | ジェームズ・ガーフィールド (1831.11.19-1881.9.19) | オハイオ |
21 | 共和党 1881.9.20g- 1885.3.4 | チェスター・アーサー (1829.10.5-1886.11.18) | ヴァーモント |
22 | 民主党 1885.3.4- 1889.3.4 | グローバー・クリーブランド (1837.3.18-1908.6.24) | ニュー・ジャージー |
23 | 共和党 1889.3.4- 1893.3.4 | ベンジャミン・ハリソン (1833.8.20-1901.3.13) | オハイオ |
24 | 民主党 1893.3.4- 1897.3.4 | グローバー・クリーブランド (1837.3.18-1908.6.24) | ニュー・ジャージー |
25 | 共和党 1897.3.4- 1901.9.14 | ウィリアム・マッキンリー (1843.1.29-1901.9.14) | オハイオ |
26 | 共和党 1901.9.14h- 1909.3.4 | セオドア・ルーズベルト (1858.10.27-1919.1.6) | ニュー・ヨーク |
27 | 共和党 1909.3.4- 1913.3.4 | ウィリアム・タフト (1857.9.15-1930.3.8) | オハイオ |
28 | 民主党 1913.3.4- 1921.3.4 | ウッドロウ・ウィルソン (1856.12.28-1924.2.3) | ヴァージニア |
29 | 共和党 1921.3.4- 1923.8.2 | ウォレン・ハーディング (1865.11.2-1923.8.2) | オハイオ |
30 | 共和党 1923.8.3i- 1929.3.4 | カルヴィン・クーリッジ (1872.7.4-1933.1.5) | ヴァーモント |
31 | 共和党 1929.3.4- 1933.3.4 | ハーバート・フーバー (1874.8.10-1964.10.20) | アイオワ |
32 | 民主党 1933.3.4- 1945.4.12 | フランクリン・ルーズベルト (1882.1.30-1945.4.12) | ニュー・ヨーク |
33 | 民主党 1945.4.12j- 1953.1.20 | ハリー・トルーマン (1884.5.8-1972.12.26) | ミズーリ |
34 | 共和党 1953.1.20k- 1961.1.20 | ドワイト・アイゼンハワー (1890.10.14-1969.3.28) | テキサス |
35 | 民主党 1961.1.20- 1963.11.22 | ジョン・ケネディ (1917.5.29-1963.11.22) | マサチューセッツ |
36 | 民主党 1963.11.22l- 1969.1.20 | リンドン・ジョンソン (1908.8.27-1973.1.22) | テキサス |
37 | 共和党 1969.1.20- 1974.8.9 | リチャード・ニクソン (1913.1.9-1994.4.22) | カリフォルニア |
38 | 共和党 1974.8.9m- 1977.1.20 | ジェラルド・フォード (1913.7.14-2006.12.26) | ネブラスカ |
39 | 民主党 1977.1.20- 1981.1.20 | ジミー・カーター (1924.10.1- ) | ジョージア |
40 | 共和党 1981.1.20- 1989.1.20 | ロナルド・レーガン (1911.2.6-2004.6.5) | イリノイ |
41 | 共和党 1989.1.20- 1993.1.20 | ジョージ・H・W・ブッシュ (1924.6.12- ) | マサチューセッツ |
42 | 民主党 1993.1.20- 2001.1.20 | ウィリアム・クリントン (1946.8.19- ) | アーカンソー |
43 | 共和党 2001.1.20- 2009.1.20 | ジョージ・W・ブッシュ (1946. 7. 6- ) | コネティカット |
44 | 民主党 2009.1.20- 2017.1.20 | バラク・オバマ (1961.8.4- ) | ハワイ |
45 | 共和党 2017.1.20- | ドナルド・トランプ (1946.6.14- ) | ニュー・ヨーク |
「年 代」
下が私が西部劇の時代だと思っている年代ですが、五大湖周辺、時代も独立戦争当時の「ラスト・オブ・モヒカン」などは西部劇には入れたくないですね。矢張り西部劇の主人公になるインディアンは平原インディアンのスー族、シャイアン族、カイオワ族、コマンチ族、南西部の荒地の勇士達アパッチ族でしょうね、そして場所も南北戦争以後に州に昇格する当時は準州だったニューメキシコ、アリゾナ、コロラド、ワイオミング、モンタナ、ダゴタなどがいいですねえ。そして終りも「ラスト・シューティスト」ぐらいで、本格的な機関銃、自動車などが出てくる「ワイルド・バンチ」は活劇ものとさせてただきたいものです。年表は石川初太郎編「西部劇歴史年表」を参考にさせていただきました。
舞台となる場所
アリゾナ州
州昇格年 1912年
ニューメキシコが手に入りアリゾナも合衆国が手に入れると、最初に考えられたのは「西部劇」でよく出てくる台詞「カリフォルニアに行く」テキサスからスタートすれば、当時のこの二つの準州を通れば一番近い。だから通路としての開発が最初だった。大河コロラドが流れていても此処は乾燥と砂漠の場所。ところが金、銀、銅などの資源が多く鉱山の町が沢山できた。
「西部劇」
矢張り最初は「駅馬車」だろう。アリゾナのトントからニューメキシコのローズ・バーク゜への駅馬車が舞台である。御者「アンディ・ディヴァイン」がこの駅馬車はローズ・バーグ行きであることを叫んでましたね。そしてもう一つの大きな舞台、銀山の町トウムストンだろう。「荒野の決闘」「OK牧場の決闘」「墓石と決闘」「トウムストン」「ドク・ホリディ」といったワイアット・アープ兄弟、ドク・ホりディとクラントン一家との対決の映画ですね。トゥーソンの東ベンソン国境に近いビスビーの町付近では「決断の3時10分」、「西部の人」「太陽の中の対決」があります。このルートはメキシコヘの逃走路だったのでしょうかねえ。
インディアン
やはりここで一番有名なのはチリカフア、メスカレロ、リパン、ヒカリアというアパッチ族です。最初はこの街道を金探しにカリフォルニアに向かう荒っぽい男達との接触から始まった。1863年には交戦143回インディアンの死者664人捕虜8000人以上と結果となった。大酋長コチィーズは和平を求めチリカフア保留地に一族を纏めた。だがここもしばしば白人に荒され立ち上がったのがジェロニモである。1877年から行動したが1882年にクルック将軍の軍門に下った。3年後再び脱走猛威をふるうが又もクルック将軍に破れ1886年捕虜となり1902年に捕虜として亡くなった。映画はコチィーズのものは「折れた矢」ジェロニモは度々登場するが私は「ジェロニモ」1993が一番好きです。
オクラホマ州
州昇格年 1907年
もともと東部に住んでいたインディアンの部族が白人に追われ住み着いた場所らしい。チョクトウ、チョロキー、チカサウ、セミノール、クリーク、などの部族である。初期には白人が入ったが彼らの目指す金、銀等の鉱脈は無く去って行ったが、住み着く白人も出てきたため政府はアーカンソーの州境に作ったフォート・スミスを始めにして何か所かに砦を作った。当然北にカンザス南にテキサスがあるのでテキサスからカンザスへの牛の搬入路チザムトレイルはこの地区を横切っている。そしてインディアン・テリトリー時代にはインディアンの警察官が取り締まっていたが彼らの権限はインディアンのみに有効で白人には何も出来ないという組織だった。そこでその頃には此処は無法者の天国で他州で悪事を働き此処に逃げ込む。という地区であった。ダルトン兄弟、ビル・ドーリンなどは此処に隠れ家を構えていた。だが1889年ジャクソン大統領の時代にインディアンの土地を開放する数度の「グレート・ラン」によりインディアンの土地はますます狭くなってしまった。そして皮肉にも金は出なかったが石油が噴出したのである。
「西部劇」
グレートランに始まるリチャード・ディックス、グレンフォードの新旧2作の「シマロン」、ランドルフ・スコット「オクラホマ無宿」、ジェイムス・ギャグニー「オクラホマ・キッド」、ジョン・ウェイン「勇気ある追跡」同原作の「トゥル・グリット」、クリント・イーストウッド「奴らを高く吊るせ」など。
カンザス州「インディアン、スー族の言葉で(南風の人々)という意味らしい」
州昇格年 1861年
南北戦争直前に州昇格するとリンカンの要請を受け75000人の義勇兵が参戦。非常に強い軍隊であったようで、南北で争っていたミズーリ州もこのお陰で北軍派の勝利となった。南北戦争の勝利にも大きく貢献したようである。こんなこともあってクァントレルの部隊450人にローレンスの町が襲われ、町は焼かれ150人が死んだ。この州の最大の特徴は交通の中心と言うことで西北、西、西南への主要街道が通っている。駅馬車、次に鉄道、「赤い河」のアビリーンはテキサスでは無く此方のアビリーンであります。
ダッジ・シティ
1870年代にこの町まで鉄道が延び、此処より以西の小麦などの農産物、南からの牛はこの町に集中、人口も急激に増え、その胃袋を満たすためのバッファロー・ハンター、牛を追ってきたカウボーイ、賭博師と町は荒っぽくなるいっぽうで取り締まる側が追いつかず、特に裁判所は北の遠いヘイズの町まで行かなければならなかった。ジャック・ブリッジが初代マーシャルになったが一向に納まらず1878年にバット・マスターソンがシェリフになりやっと落ち着いた。ワイアット・アープも1883年にはマスターソンとともにこの町の治安に当っていた。
「西部劇」
この州を通過して幌馬車、駅馬車は西へ行くのでいろいろ映画になっているのだが「幌馬車」、「赤い河」、「ウインチェスター73」、「無法者の群」当然TVの「バット・マスターソン」、「ガンスモーク」も入るでしょうね。
テキサス州「メキシカン・インディアンの言葉(友愛)と言う意味からだそうだ。」
州昇格年 1845年
この州の立役者は、ミズゥリ出身のステイーブン・オウスティンとインディアン戦で有名になったサム・ヒューストンである。オウスティンは父とともに1821年に植民地を開き13年後には2000人の白人が暮らすようになった。そしてテキサスに手を伸ばしていたメキシコ共和国と戦争することとなる。この指揮をサム・ヒューストンがとり、アラモの玉砕等を経て、サン・ハシントの大勝利で1836年共和国となり独立ヒューストンが初代大統領となる。そして州になるまでは共和国内で独立と合衆国の州とで深刻な内紛もあったようだが1845年28番目の州となる。
南北戦争
直接この地が戦場になる事は無かったが、丁度このときもサム・ヒューストンが州知事で北部支持だったが住民投票で3対1と破れテキサスをさる。直接の戦闘はリオ・グランデ河口の町ブラウンズヴェルの兵站基地の奪い合いぐらいか。戦争後3年間は北軍の軍政下に置かれた。この後発達したのが牧畜業である
テキサスの「西部劇」
独立戦争当時
「アラモの砦」「アラモ」「最初のテキサス人」
大牧場
「大いなる西部」「白昼の決闘」「テキサス決死隊」「西部の男」「ダラス」「赤い河」「テキサス・レンジャーズ」と大変多い。当時鉄道は港町カルヴェストンからヒュウストン付近までしか延びておらず、その上、南部は戦後で活力も無く牛一頭が3$ほど北部では10倍30$の値段がついた。このためにキャトル・ドライブが始まった。テキサス南部は石油の埋蔵量も多くここの舞台は時代は大分進むが「ジャイアンツ」がある。
ロイ・ビーン判事
現在も彼の作った酒場法廷「平和の正義、ペコスより西の法律」は観光地としてのこっている。女優ジャーシイ・リリイこと「リリイ・ラングトリー」に夢中となりもともとの町の名ヴィネガルーンをラングトリイと改名した。映画は「西部の男」「ロイ・ビーン」がある。そういえばポール・ニューマンの「ロイ・ビーン」では最後は油田の町になってましたね。
テキサス・レンジャーズ
共和国初代大統領ヒューストンが財政難のために常備軍を置くよりも資金が安く付く志願兵で警備隊を創った、初代はヘイズ大尉が隊長、副官の一人S・ウォーカーがコルト・ウォーカー・モデルを作り上げた人物である。南北戦争後解散していたが余りの治安の悪さに再び結成、この時のメキシコに逃げ込んだ牛泥棒を30人の部下と追い壊滅させたマクネリイ大尉の話が「テキサス・レンジャーズ」であります。
インディアン
沢山の部族が住んでいたが「西部劇」でこの州で有名なのはコマンチ族、カイオワ族、アパッチ族の一部、殆どの映画はコマンチだが「許されざる者」がカイオワである。
リオ・グランデ
メキシコとの国境がこの河であるために度々「西部劇」には登場する。そして辺境の守り、騎兵隊ものも多くジョン・フォード監督の「リオ・グランデの砦」「アパッチ砦」「黄色いリボン」がこのあたりの話のようであります。
ミズーリ州「インディアンの言葉で泥水と言う意味がある」
州昇格年 1821年
西部というには少し東過ぎるが、こと「西部劇」には無くてはならない州である。それは南北戦争での特別な州になってしまったからだ。州の北部はセントルイスに見られるように北軍色が強いが南部は完全な奴隷州ということでリンカンからの出兵要請があったときに、時の知事クレイポーン・ジャクスンはこれを拒絶、そして南軍へ州自衛軍をつくり派兵した。このため北部の北軍支持派は義勇軍をつくり対決州内で南北戦争が始まってしまった。初めは南部が優勢であったが北軍であった隣の州カンザスからの軍に攻められ知事ジャクスンは追われハミルトン・ギャンブルが新知事となる。南部派はゲリラ戦で対抗する。ここに「西部劇」で有名なクァントレル・ゲリラ部隊、ジェームス兄弟、ヤンガー兄弟の活躍する舞台が生まれた。
「西部劇」
古くはタイロン・ハワー、ヘンリー・フォンダーの「地獄への道」ロバート・ワグナー、ジェフリー・ハンターの「無法の王者ジェシー・ジェームズ」最近のものではキャラダイン、キーチ両兄弟の「ロング・ライダース」その後の「アメリカン・アウトロー」その他の作品の中にクァントレル・ゲリラは多数登場する。
ワイオミング州
州昇格年 1890年
好きな小説家ヘミングウェイの短編に此処へ七面鳥を射ちに来て美味いウイスキーを飲む話がありますが、一度行ってみたい州のひとつですね。現実は東欧からの入植者の多いところでアメリカの恥部と言われる牧場主が東欧系の農民を虐殺した「ジョンソン郡事件」の起きた州です。
「西部劇」
此処はどういっても名作「シェーン」でしょうね。それと興行成績の良くなかったマイケル・チミノ監督の「天国の門」でしょうか。
下が私が西部劇の時代だと思っている年代ですが、五大湖周辺、時代も独立戦争当時の「ラスト・オブ・モヒカン」などは西部劇には入れたくないですね。矢張り西部劇の主人公になるインディアンは平原インディアンのスー族、シャイアン族、カイオワ族、コマンチ族、南西部の荒地の勇士達アパッチ族でしょうね、そして場所も南北戦争以後に州に昇格する当時は準州だったニューメキシコ、アリゾナ、コロラド、ワイオミング、モンタナ、ダゴタなどがいいですねえ。そして終りも「ラスト・シューティスト」ぐらいで、本格的な機関銃、自動車などが出てくる「ワイルド・バンチ」は活劇ものとさせてただきたいものです。年表は石川初太郎編「西部劇歴史年表」を参考にさせていただきました。
西暦年 | 大統領 | アメリカの出来事 | 世界の出来事 | 関係する作品 |
1836 | ジャクソン tex、ヒューストン | メキシコ軍サンタ・アナの攻撃で「アラモの砦」玉砕、デイビー・クロケット、ジム・ボーイ等戦死する。ヒューストン将軍がサンタ・アナ軍を破りテキサス共和国誕生 | ・・・・ | アラモ、アラモの砦、平原の待ち伏せ、最初のテキサス人 |
1837 | ジャクソン tex、ヒューストン | サミュエル・コルト、パタースンに拳銃工場を建設。5月27日ワイルド・ビル・ヒコック、イリノイ州ホーマーに生まれる | 徳川家慶12代将軍となる。 | ・・・・ |
1838 | ビューレン tex、ラマール | テキサス・レンジャース、コルト工場にウォーカー大尉派遣 | 渡辺崋山、高野長英、罰せられる | ・・・・・ |
1840 | ビューレン tex、ラマール | フロリダのセミノース族反乱、ザッカリー・テイラー将軍に鎮圧される | アヘン戦争始まる | 遠い太鼓 |
1842 | タイラー tex、ヒューストン | ジョン・C・フレモント中尉オレゴン・トレイルを開拓ジム・ブリッジャー、ブリッジャー砦を建設。 | モールスの無線電話開通 | 栄光の星の下に、征服者 |
1845 | ポーク | テキサス、合衆国加入、初代知事にサム・ヒューストンが任命される。カンザス、レブラスカ準州になる | 老中水野忠邦免職 | ・・・・・ |
1846 | ポーク | 対メキシコ戦争勃発というより、強引に仕掛けたのだが、この勝利によりメキシコより、カリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコを手に入れる。 | 米船、デンマーク船浦賀に | ・・・・・ |
1847 | ポーク | コルト社カネティカットに新工場建設 | 松前にロシア人上陸 | ・・・・・ |
1848 | ポーク | 対メキシコ戦争終わる。カリフォルニアで金が発見され、やがてゴールド・ラッシュとなる。 | ルイ・ナポレオン大統領になる | カリフォルニヤ、幌馬車、幌馬車隊西へ、西部開拓史、大西部への道 |
1850 | テイラー | カリフォルニヤ州成立人口10万人、セントルイス、ソルトレーク間定期郵便馬車開通 | 国定忠治刑死、清、太平天国の乱勃発 | ・・・・・ |
1851 | テイラー | テキサス最初の鉄道開通、コルト、ネーヴィーモデル発売 | ジョン・万次郎帰国 | ・・・・・ |
1852 | フィルモ | s&w拳銃工場を創る。ウエルズ・ファーゴ商会西部路線に進出 | 明治天皇誕生 | 新天地 |
1855 | ピアース | 西部辺境警備のために第一、第二騎兵隊創設。ジョン・ブラウン奴隷支持派と交戦 | 江戸大地震、千葉周作死亡 | ・・・・・ |
1856 | ピアース | ワイルド・ビル・ヒコックがヘイス・シティの保安官になる。 | 清英戦争「アヘン」 | ・・・・・ |
1857 | ブキャナン | モルモン戦争始まる。s&w金属薬莢銃を製作 | ハリス、徳川将軍と会見 | ・・・・・・ |
1858 | ブキャナン | サン・アントニオ、ザディエゴ間駅馬車開通。レミントン社ネーヴィーモデル発売 | 徳川家茂14代将軍に | ・・・・・ |
1859 | ブキャナン | ジョン・ブラウン陸軍兵器庫を襲撃リー将軍に捕らえられ絞首刑となる。 | 安政の大獄 | カンサス騎兵隊、七匹の無法者 |
1860 | ブキャナン | ジャック・スレイド、ジュレス・ベニーと決闘。セント・ジョゼフ、サクラメント間にポニー・エクスプレス開通 | 井伊大老暗殺 | コロラドの決闘、ミズーリ大平原 |
1861 | リンカーン CSA、ディヴス | 南北戦争始まる。ワイルド・ビル・ヒコック、ロック・クリークでマッカネス一味と決闘 | 生麦事件 | 西部魂、 |
1862 | リンカーン CSA、ディヴス | ゲディスバーグ、シャイロの戦い | ・・・・・ | 西部開拓史、、その他多数 |
1863 | リンカーン CSA、ディヴス | スプリングフィールド銃、ガトリング銃が完成。クァントレル部隊がローレンスを襲う。 | マクシミリアン、メキシコ皇帝へ | 騎兵隊、スプリングフィールド銃、命知らずの男、平原の勇者、その他多数 |
1864 | リンカーン CSA、ディヴス | 北軍、アトランタ包囲、ジャック・スレイド、ヴァージニア・シティで絞首刑にされる。クァントレル死亡。サンド・クリーク大虐殺 | 長州征伐 | 風と共に去りぬ、ソルジャー・ブルー |
1865 | ジョンスン | 南北戦争終結。4月15日リンカーン暗殺される。ワイルド・ビル・ヒコック、スリングフィールドでデイブ・トッドと決闘。シェリダン将軍辺境警備に就く。 | ・・・・・ | ダンディ少佐 |
1866 | ジョンスン | テキサスからの牛の輸送始まる。2月ジェシー・ジェイムズ最初の強盗をする。レノ兄弟鉄道を襲い10.000$を奪う。インディアンの蜂起始まる。政府第七から第十までの騎兵隊を編成これにあたる。 | 徳川慶喜15代将軍となる | 地獄への道、無法の王者、勇者のみ、ロングライダーズ、 |
1867 | ジョンスン | 混血児ジョン・チゾルム、チゾルム・トレイル開拓、アラスカをロシヤより720万ドルで買収 | 明治天皇即位 | ヴェラクルス、大いなる男たち |
1868 | ジョンスン | レノ兄弟逮捕されるが脱走、又も鉄道強盗96.000$を奪う。キット・カースン死亡。インディアンの蜂起ますます激しくなる | 江戸開城 | たくましき男たち、赤い砂塵 |
1869 | ジョンスン | ユタ州ペリモントリー・ポイントで大陸横断鉄道連結される。バッファロー乱獲ビル・コディ一年半で4.280頭を狩り有名に、ワイルド・ビル・ヒコック、ヘイス・シティのマーシャルとなる。 | スエズ運河開通 | アイアン・ホース、大平原 |
1870 | グラント | 騎兵隊に襲われジェロニモ家族を失う。アビリーンに鉄道開通チゾルム・トレイル大賑わい | 五稜郭の戦い | 赤い河、ガン・ファイター |
1871 | グラント | テキサス・レンジャース再組織、西部劇スター、ウイリアム・S・ハート生まれる。ビリー・ザ・キッド最初の殺人「12歳」、ワイルド・ビル・ヒコック、アビリーンのマーシャルになる。ダッジ・シティ大賑わい | 廃藩置県 | 無法者の群 |
1873 | グラント | ロシア大公、西部を旅行ビル・コディーが案内する。ワイアット・アープ、カンサス州エルスワースで初めてマーシャルをする。ジェームズ・ギャング連続列車強盗。マッケンジー大佐アパッチを追ってメキシコ領内へ。コルト・フロンティアモデル、ウンチェスター銃73発売される。 | ・・・・・ | 折れた矢、地獄への道、リオ・グランデの砦 |
1874 | グラント | ワイアット・アープ、ウイチタのマーシャル就任。ダコタ、ブラックヒルでゴールドラッシュ。パンハンドルでバット・マスターソンたち猟師とコマンチの交戦「アドビ・ウォールの戦い」。コマンチの酋長クオナ・パーカー捕らえられる。ピンカートン探偵社ジェームズ農場襲撃、母と異父弟が重傷 | スタンレー、アフリカ探検 | 法律無き町。アメリカン・アウトロー |
1876 | グラント | 平原インディアンとの本格的戦いが始まる、リトル・ビッグホーンでスー・シャイアン連合軍に包囲されたカスターの第七騎兵隊全滅。8月ワイルド・ビル・ヒコックダコタ、デッドウッドで背後より撃たれ死亡。ビル・コディ、シャイアンのイエローハンド酋長と決闘勝利。ジェームズ・ギャングミネソタのノースフィールド銀行襲撃で罠にかかり一味離散。ワイアット・アープ、ドッジ・シティのマーシャルに就任。 | 廃刀令がでる | 壮烈第七騎兵隊、大酋長、最後の一人まで、カスター将軍、小さな巨人、平原児、無法地帯、西部の王者、ミズーリ大平原 |
1877 | ヘイス | サム・バス、ネブラスカで鉄道強盗60.000$を奪う。エド・シェフリン、アリゾナで銀鉱発見トゥムストンの町を開く。ワイアット・アープ、クレイ・アリソンと決闘 | 西南の役 | ・・・・・・ |
1878 | ヘイス | サム・バス、テキサス州ラウンド・ロックでレンジャースに殺される。ジュック・マッコール、シャイアンで絞首刑。ニューメキシコ、リンカーン戦争でビリー・ザ・キッドが躍動 | 京都、大阪間鉄道開通 | 悪名高きテキサス人、 |
1879 | ヘイス | ジェームス・ギャング再起、ミズーリで列車強盗37.000$を奪う。ワイアット・アープ、トゥムストンに赴任。ワイルド・ビル・ヒコックの記念石像がブラック・ヒルのモリア山に建つ。グリドン有刺鉄線の特許をとる。 | 元大統領グラント日本訪問 | テキサスから来た男、チザム、星のない男 |
1880 | ヘイス | アパッチの酋長ヴィットリオ、メキシコ軍との戦いで戦死。パット・ギャレット、リンカーン郡シェリフに就任、12月ビリー・ザ・キッド逮捕される。西部劇スター、ハリー・ケリー誕生 | ボーア戦争 | ホンドー |
1881 | ガーフィールド | ガーフィールド大統領就任4ヶ月で暗殺される。トウムストン人口15.000人アリゾナ最大の町となる。7月、ビリー・ザ・キッド脱獄、フォート・サムナーに潜伏中パット・キャレットに撃たれ死亡。10月、ワイアット・アープ、OKコラルでクラントン一味と対決アープ圧勝。 | 板垣退助、自由党を創立 | 荒野の決闘、最後の無法者、、OK牧場の決闘、墓石と決闘、左利きの拳銃、ドク・ホリデイ、ビリー・ザ・キッド、トゥムストン、その他 |
1882 | アーサー | サンタフェ鉄道エルパソ、デンヴァー間開通。シッティング・ブル降伏。ジム・ブリッジャー77歳で死亡。ヴァージル・アープ、クラントン一味の闇討ちで重傷。4月、ジェシー・ジェイムズ、ボブ・フォードに背後ろより撃たれて死亡。ジェロニモ、クルック将軍に捕まる。モーガン・アープ、クラントン一味の闇討ちで死亡。ジョニー・リンゴー死亡。フランク・ジェームス自首。 | コッホ、結核菌発見 | アパッチ、 |
1883 | アーサー | バッファロー・ビル・コディ、ネブラスカのノース・プラット最初のワイルド・ウエスト・ショウを開く。ダッジ・シティに自警委員会が出来る、ワイアット。アープ、バット・マスターソン、ルーク・ショート揃い踏み | グリニッジ子午線を定める | 西部の王者 |
1885 | クリーブランド | ジェロニモ再び蜂起する。フランク・ジェームス無罪の判決。グラント将軍死亡。ジェロニモ再びクルック将軍に捕まる。 | ベンツ自動車製造 | 酋長ジェロニモ、ジェロニモ |
1886 | クリーブランド | 牛飼いと羊飼いの争い、アリゾナのプレザント谷の争い始まる | ・・・・・・ | 最後の一人まで |
1887 | クリーブランド | 11月、ドク・ホリディ、コロラド州デンバー療養所で死亡、35歳。バッファロー乱獲で絶滅の危機 | ・・・・・ | ・・・・ |
1889 | ハリス | オクラホマ、グレイト・ラン始まる。キャトル・ケイト、エーバラルとリンチにあう | 鉄道東海道線開通 | シマロン、オクラホマ・キッド |
1892 | ハリス | ジョンソン郡の紛争、TA牧場での攻防、ダルトン兄弟コォフィビル銀行強盗失敗 | 第三回オクラホマグレートラン | 天国の門、殴り込み一家 |
1896 | クリーブランド | ドーリン、ユーリカ温泉でティルマンに捕まる。脱獄後H・トーマスに射殺される | ・・・・・ | オクラホマ無宿 |
1903 | ルーズベルト | トム・ホーン絞首刑となる | ・・・・・ | トム・ホーン |
1908 | ルーズベルト | 2月、パット・ギャレット撃たれて死亡、「ワイルド・バンチ」ブッチ・キャシディ&サンダンス・キッド南米ボリビアで銃撃戦、死亡か? | ・・・・ | 明日に向かって撃て |
舞台となる場所
アリゾナ州
州昇格年 1912年
ニューメキシコが手に入りアリゾナも合衆国が手に入れると、最初に考えられたのは「西部劇」でよく出てくる台詞「カリフォルニアに行く」テキサスからスタートすれば、当時のこの二つの準州を通れば一番近い。だから通路としての開発が最初だった。大河コロラドが流れていても此処は乾燥と砂漠の場所。ところが金、銀、銅などの資源が多く鉱山の町が沢山できた。
「西部劇」
矢張り最初は「駅馬車」だろう。アリゾナのトントからニューメキシコのローズ・バーク゜への駅馬車が舞台である。御者「アンディ・ディヴァイン」がこの駅馬車はローズ・バーグ行きであることを叫んでましたね。そしてもう一つの大きな舞台、銀山の町トウムストンだろう。「荒野の決闘」「OK牧場の決闘」「墓石と決闘」「トウムストン」「ドク・ホリディ」といったワイアット・アープ兄弟、ドク・ホりディとクラントン一家との対決の映画ですね。トゥーソンの東ベンソン国境に近いビスビーの町付近では「決断の3時10分」、「西部の人」「太陽の中の対決」があります。このルートはメキシコヘの逃走路だったのでしょうかねえ。
インディアン
やはりここで一番有名なのはチリカフア、メスカレロ、リパン、ヒカリアというアパッチ族です。最初はこの街道を金探しにカリフォルニアに向かう荒っぽい男達との接触から始まった。1863年には交戦143回インディアンの死者664人捕虜8000人以上と結果となった。大酋長コチィーズは和平を求めチリカフア保留地に一族を纏めた。だがここもしばしば白人に荒され立ち上がったのがジェロニモである。1877年から行動したが1882年にクルック将軍の軍門に下った。3年後再び脱走猛威をふるうが又もクルック将軍に破れ1886年捕虜となり1902年に捕虜として亡くなった。映画はコチィーズのものは「折れた矢」ジェロニモは度々登場するが私は「ジェロニモ」1993が一番好きです。
オクラホマ州
州昇格年 1907年
もともと東部に住んでいたインディアンの部族が白人に追われ住み着いた場所らしい。チョクトウ、チョロキー、チカサウ、セミノール、クリーク、などの部族である。初期には白人が入ったが彼らの目指す金、銀等の鉱脈は無く去って行ったが、住み着く白人も出てきたため政府はアーカンソーの州境に作ったフォート・スミスを始めにして何か所かに砦を作った。当然北にカンザス南にテキサスがあるのでテキサスからカンザスへの牛の搬入路チザムトレイルはこの地区を横切っている。そしてインディアン・テリトリー時代にはインディアンの警察官が取り締まっていたが彼らの権限はインディアンのみに有効で白人には何も出来ないという組織だった。そこでその頃には此処は無法者の天国で他州で悪事を働き此処に逃げ込む。という地区であった。ダルトン兄弟、ビル・ドーリンなどは此処に隠れ家を構えていた。だが1889年ジャクソン大統領の時代にインディアンの土地を開放する数度の「グレート・ラン」によりインディアンの土地はますます狭くなってしまった。そして皮肉にも金は出なかったが石油が噴出したのである。
「西部劇」
グレートランに始まるリチャード・ディックス、グレンフォードの新旧2作の「シマロン」、ランドルフ・スコット「オクラホマ無宿」、ジェイムス・ギャグニー「オクラホマ・キッド」、ジョン・ウェイン「勇気ある追跡」同原作の「トゥル・グリット」、クリント・イーストウッド「奴らを高く吊るせ」など。
カンザス州「インディアン、スー族の言葉で(南風の人々)という意味らしい」
州昇格年 1861年
南北戦争直前に州昇格するとリンカンの要請を受け75000人の義勇兵が参戦。非常に強い軍隊であったようで、南北で争っていたミズーリ州もこのお陰で北軍派の勝利となった。南北戦争の勝利にも大きく貢献したようである。こんなこともあってクァントレルの部隊450人にローレンスの町が襲われ、町は焼かれ150人が死んだ。この州の最大の特徴は交通の中心と言うことで西北、西、西南への主要街道が通っている。駅馬車、次に鉄道、「赤い河」のアビリーンはテキサスでは無く此方のアビリーンであります。
ダッジ・シティ
1870年代にこの町まで鉄道が延び、此処より以西の小麦などの農産物、南からの牛はこの町に集中、人口も急激に増え、その胃袋を満たすためのバッファロー・ハンター、牛を追ってきたカウボーイ、賭博師と町は荒っぽくなるいっぽうで取り締まる側が追いつかず、特に裁判所は北の遠いヘイズの町まで行かなければならなかった。ジャック・ブリッジが初代マーシャルになったが一向に納まらず1878年にバット・マスターソンがシェリフになりやっと落ち着いた。ワイアット・アープも1883年にはマスターソンとともにこの町の治安に当っていた。
「西部劇」
この州を通過して幌馬車、駅馬車は西へ行くのでいろいろ映画になっているのだが「幌馬車」、「赤い河」、「ウインチェスター73」、「無法者の群」当然TVの「バット・マスターソン」、「ガンスモーク」も入るでしょうね。
テキサス州「メキシカン・インディアンの言葉(友愛)と言う意味からだそうだ。」
州昇格年 1845年
この州の立役者は、ミズゥリ出身のステイーブン・オウスティンとインディアン戦で有名になったサム・ヒューストンである。オウスティンは父とともに1821年に植民地を開き13年後には2000人の白人が暮らすようになった。そしてテキサスに手を伸ばしていたメキシコ共和国と戦争することとなる。この指揮をサム・ヒューストンがとり、アラモの玉砕等を経て、サン・ハシントの大勝利で1836年共和国となり独立ヒューストンが初代大統領となる。そして州になるまでは共和国内で独立と合衆国の州とで深刻な内紛もあったようだが1845年28番目の州となる。
南北戦争
直接この地が戦場になる事は無かったが、丁度このときもサム・ヒューストンが州知事で北部支持だったが住民投票で3対1と破れテキサスをさる。直接の戦闘はリオ・グランデ河口の町ブラウンズヴェルの兵站基地の奪い合いぐらいか。戦争後3年間は北軍の軍政下に置かれた。この後発達したのが牧畜業である
テキサスの「西部劇」
独立戦争当時
「アラモの砦」「アラモ」「最初のテキサス人」
大牧場
「大いなる西部」「白昼の決闘」「テキサス決死隊」「西部の男」「ダラス」「赤い河」「テキサス・レンジャーズ」と大変多い。当時鉄道は港町カルヴェストンからヒュウストン付近までしか延びておらず、その上、南部は戦後で活力も無く牛一頭が3$ほど北部では10倍30$の値段がついた。このためにキャトル・ドライブが始まった。テキサス南部は石油の埋蔵量も多くここの舞台は時代は大分進むが「ジャイアンツ」がある。
ロイ・ビーン判事
現在も彼の作った酒場法廷「平和の正義、ペコスより西の法律」は観光地としてのこっている。女優ジャーシイ・リリイこと「リリイ・ラングトリー」に夢中となりもともとの町の名ヴィネガルーンをラングトリイと改名した。映画は「西部の男」「ロイ・ビーン」がある。そういえばポール・ニューマンの「ロイ・ビーン」では最後は油田の町になってましたね。
テキサス・レンジャーズ
共和国初代大統領ヒューストンが財政難のために常備軍を置くよりも資金が安く付く志願兵で警備隊を創った、初代はヘイズ大尉が隊長、副官の一人S・ウォーカーがコルト・ウォーカー・モデルを作り上げた人物である。南北戦争後解散していたが余りの治安の悪さに再び結成、この時のメキシコに逃げ込んだ牛泥棒を30人の部下と追い壊滅させたマクネリイ大尉の話が「テキサス・レンジャーズ」であります。
インディアン
沢山の部族が住んでいたが「西部劇」でこの州で有名なのはコマンチ族、カイオワ族、アパッチ族の一部、殆どの映画はコマンチだが「許されざる者」がカイオワである。
リオ・グランデ
メキシコとの国境がこの河であるために度々「西部劇」には登場する。そして辺境の守り、騎兵隊ものも多くジョン・フォード監督の「リオ・グランデの砦」「アパッチ砦」「黄色いリボン」がこのあたりの話のようであります。
ニュー・メキシコ州
州昇格年 1912年
州昇格年 1912年
元々はテキサス共和国の一部であったようだが1848年メキシコ戦争で合衆国が割譲させた土地である。大きな事件としては1916年メキシコ革命軍パンチョ・ビリャが1000人の部下を率いて国境の町コロムバスを襲い火を放ち住民を殺した。合衆国は6000人の討伐隊をメキシコに送り込んだ。
「西部劇」チザムが有名なように此処は1880年代に牧場ブームとなり、この結果牧場主の間で争いが絶えなかった。「リンカーン郡戦争」である。当然主役はビリー・ザ・キッド、パット・ギャレットであります。「チザム」「ヤングガン」「左利きの拳銃」「ビリー・ザ・キッド」「ビリ・ザ・キッド21歳の生涯」など。
インディアン
ナバホ族、コマンチ族、アパッチ族、ですが隣のアリゾナ同様此処はアパッチの活動が一番激しかった。当然ジェロニモの登場であります。
「西部劇」チザムが有名なように此処は1880年代に牧場ブームとなり、この結果牧場主の間で争いが絶えなかった。「リンカーン郡戦争」である。当然主役はビリー・ザ・キッド、パット・ギャレットであります。「チザム」「ヤングガン」「左利きの拳銃」「ビリー・ザ・キッド」「ビリ・ザ・キッド21歳の生涯」など。
インディアン
ナバホ族、コマンチ族、アパッチ族、ですが隣のアリゾナ同様此処はアパッチの活動が一番激しかった。当然ジェロニモの登場であります。
ミズーリ州「インディアンの言葉で泥水と言う意味がある」
州昇格年 1821年
西部というには少し東過ぎるが、こと「西部劇」には無くてはならない州である。それは南北戦争での特別な州になってしまったからだ。州の北部はセントルイスに見られるように北軍色が強いが南部は完全な奴隷州ということでリンカンからの出兵要請があったときに、時の知事クレイポーン・ジャクスンはこれを拒絶、そして南軍へ州自衛軍をつくり派兵した。このため北部の北軍支持派は義勇軍をつくり対決州内で南北戦争が始まってしまった。初めは南部が優勢であったが北軍であった隣の州カンザスからの軍に攻められ知事ジャクスンは追われハミルトン・ギャンブルが新知事となる。南部派はゲリラ戦で対抗する。ここに「西部劇」で有名なクァントレル・ゲリラ部隊、ジェームス兄弟、ヤンガー兄弟の活躍する舞台が生まれた。
「西部劇」
古くはタイロン・ハワー、ヘンリー・フォンダーの「地獄への道」ロバート・ワグナー、ジェフリー・ハンターの「無法の王者ジェシー・ジェームズ」最近のものではキャラダイン、キーチ両兄弟の「ロング・ライダース」その後の「アメリカン・アウトロー」その他の作品の中にクァントレル・ゲリラは多数登場する。
ワイオミング州
州昇格年 1890年
好きな小説家ヘミングウェイの短編に此処へ七面鳥を射ちに来て美味いウイスキーを飲む話がありますが、一度行ってみたい州のひとつですね。現実は東欧からの入植者の多いところでアメリカの恥部と言われる牧場主が東欧系の農民を虐殺した「ジョンソン郡事件」の起きた州です。
「西部劇」
此処はどういっても名作「シェーン」でしょうね。それと興行成績の良くなかったマイケル・チミノ監督の「天国の門」でしょうか。
http://www.usgennet.org/usa/ok/county/muskogee/cemeteries/trro.html
返信削除Township and Range
http://translate.google.co.jp/translate?client=firefox-a&hl=ja&ie=UTF8&oe=UTF8&twu=1&u=http://answers.yahoo.com/question/index%3Fqid%3D20090828131641AAOeHEh
http://answers.yahoo.com/question/index?qid=20090828131641AAOeHEh
How is the township range system important to us today?
返信削除西洋では土地の境界のdistictive市松模様は、早期1780'sにトーマス·ジェファーソンによって考え出された - この広大な荒野のラフと頑丈な文字の前に長いがグラフ化されていた。 ジェファーソン自身ははるかに遠く西アパラチア山脈よりも思い切ったことがないが、オハイオ川の公有地の西側を調査し、細分化のための彼の計画は、すべての西側諸国の恒久的な足跡を残した。 ジェファーソン、東アジアの鏡像であることを想像したウェストバージニア州の農場経営者は、西部の風景の壮大な建築家だった。
1785年の土地条例で定めジェファーソンの計画は、合理的な時間の精神ではなく、自然の地形の影響を反映している。 捨てる "土地境界"の伝統的な測量コンセプト(考慮した土地の自然の特徴を取っている)、彼は厳格なグリッドシステムを設計しました。 まず東西基準線が描かれた。オハイオ川は、ペンシルベニア州の境界線と拡張真西を交差したときは、このいわゆる地理学者のラインが開始されました。 地理学者の線に直角に、すべての6マイル、経絡は番号1から始まり、東から西へと徐々に番号が付けられ、描かれていました。 経絡の交差、6マイルの間隔で、横方向の線が同様に番号1から始まる、南から北へ引かれ、番号が付いていた。 結果として得られる各正方形は郷と呼ばれる36平方マイル管内の境界を形成した。 町は、さらに1平方マイルそれぞれ、または640エーカーの36のセクションに細分された。 各町では、セクション16は、公教育のために予約されていた。 町は西の土地調査の基本的な単位であり、唯一の少数の例外を除いて、まだ標準となっています。
1785年条例に基づいて、最初の調査では、7つの範囲の調査として知っていたし、1785年から1786年に起こった、政府の地理学者トーマス·ハッチンスによってsurpervised。 ジェファーソンが大統領に選出された後、彼は有名なルイス·クラーク探検隊、米国の歴史の中で最初の大陸横断探査を開始した。 1804年から1806年まで続いた遠征は、西部地域の最初の詳細な地図と戻った。
西の探査はフェルディナンドV.ヘイデン、北方領土の地質と地理院の頭の調査で絶頂に達した。 ヘイデンと彼の "地形エンジニア"は、しばしば彼らの三角形を作るために14000フィートのピークのてっぺんに50ポンド遷移や他の機器をラグ。 1850年代に始まり、1870年代によく長持ちする、ヘイデンの探検は、地図製作のauthoratativeモデルとして耐えてきたような明快さと精度の地図を作成。 1879年にヘイデンは連邦測量活動を統合し、ジェファーソンのコンセプトに基づいて、現在も続いて国家マッピングプログラムを開始した米国地質調査所を設立に尽力しました。
Westのジェファーソンの当初の計画の特徴の一つは、しかし、採択されなかった:彼は新しい状態がDolypotamia、AssenisippiaとMetropotamiaなどの名前が与えられることを望んでいた。
オクラホマ州の連邦土地調査はエフード·ダーリン、ウエストの専門検査官は、町やインドの領土の範囲グリッドの最初の基準点を設置したとき、1870年に始まった。 南北ライン(インドのメリディアンと呼ばれる)と東西のベースラインが交差する場所ダーリン現代マレー郡のフォートアーバックルの1マイル南に約スポットで岩の山が付いているこのポイントは、、です。 ベースラインの任意の場所に北か南は、それぞれの郷北または南郷に指定されています。 その位置はインドの子午線の東や西は、その範囲(すなわち、範囲、東または西の範囲)を示します。 郷や範囲の数字は初期の時点で番号1から始まり、インドのメリディアンとベースラインとの交点の周りに群生4の郷は、以下のように(時計回り)に指定されているので:T1N R1E; T1S R1E、T1S R1W; T1N R1W。 遠くの町は、任意の方向に初期点、大きな町や範囲の数字である。 セクション番号は、他の一方で、northeasternmost隅から、北から南へ番号が付けられています。 第1、第3および第5行は、東から西、西から東へ、第2、第4及び第六行に番号が付けられています。 このナンバリングシステムは、上記の図に示されています。 パンハンドル(別の初期点が使用された場所)を除くと、オクラホマ州内のすべての土地は、同じグリッドシステムによって記述することができる。
ソース(S):
http://www.usgennet.org/usa/ok/county/muskogee/cemeteries/trro.html
http://daruma3.cocolog-nifty.com/nh/2005/06/index.html
返信削除ロバート・オーウェンが、ニューハーモニー・コミュニティの実験に失敗したすぐ後に、当時のアメリカ社会を見て歩いたフランス人にアレキシス・ド・トクヴィルがいる。トクヴィルは、1831年から1832年にかけて独立後間もないアメリカを視察して、それを『アメリカの民主主義』にまとめた。
会社勤めを辞めてフリーになった私は、金はなくても時間だけはたっぷりあるので、それまで読みきれなかった大著に手をつけ始め、中里介山『対菩薩峠』の次には、トクヴィルのアメリカの民主主義』を読み出したのだった。
「大多数のヨーロッパ諸国では、政治生活は社会の上層に始まって少しずつ不完全に社会全体の種々の部分に伝わっているのである。これに反して、アメリカでは、共同体(コムミューン)が郡以前に、郡は州以前に、州は連邦以前に、それぞれ組織されている。」
「ニュー・イングランドでは1650年以来共同体は完全に決定的に組織されている。・・・共同体のうちには、全く民主的なそして平和的な真の活気あふれた政治が支配している。・・・共同体ではすでに共和制が全く生きてはたらいている」
「共同体は、あらゆる種類の司令官たちを任命し、自らに課税し、租税を自らに割当て、徴収する。ニュー・イングランドの共同体では、代表制の法律は認められていまい。すべてのものの利益にかかわることがらは、アテネにおけると同様に公共の場と市民の全体会議とで処理される」講談社文庫上、82-83頁
同書日本語版の訳注にはこうある。95頁
「当時ニュー・イングランドのコムミューン(英語ではTownship)は人口2000~3000位の小さな村であったので、そこではルソーが当時スイスのジュネーブで見出したように民主主義は代表制によらず、直接選挙制で行われることができた。トクヴィルはアメリカの民主政治の基本構造が、このコムミューンに見出され、これが郡を経て州に及び、遂に連邦に達していることを知ったのである」と。
一読した感想はこうである。「なんだ、アメリカ自体がコミューンの連合体だったのか」である。
トーマス・ジェファーソン - Wikipedia
返信削除http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%
E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%
E3%82%BD%E3%83%B3#.E5.AF.BE.E3.82.A4.E3.83.B3.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.
A2.E3.83.B3.E6.94.BF.E7.AD.96
対インディアン政策[編集]
ジェファーソンは共和制の理想をイロコイ連邦の合議制民主主義システムに学び、彼らインディアンの議会を自らの政治モデルとして大いに参考とした[76]。「ルイス・クラーク探検隊」を組織し、西方のインディアン部族の文化・言語や風俗を集めてもいる。ジェファーソンはインディアンを「高貴な野蛮人」と呼び、白人とは異なった彼らの文化に対して畏敬の念を隠さなかった。
一方でジェファーソンは、大統領としてインディアンの強制移住政策を公式に立案した最初の人物だった[77][78]。
76
^ 『Debating Democracy: Native American Legacy of Freedom』(Bruce E.Johnson、Clear Light Books、1998年)
シノーラ - 作品情報・映画レビュー -KINENOTE(キネノート)
返信削除http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=4111
基本情報
ジャンル ドラマ
製作国 アメリカ
製作年 1972
公開年月日 1972/10/21
上映時間 0分
製作会社 マルパソ・カンパニー・プロ作品
配給 ユニヴァーサル=CIC
レイティング
アスペクト比 シネマ・スコープ(1:2.35)
カラー/サイズ カラー/シネスコ
メディアタイプ
音声
上映フォーマット
スタッフ
監督 ジョン・スタージェス
脚本 エルモア・レナード
製作 シドニー・ベッカーマン
撮影 ブルース・サーティース
美術 アレクサンダー・ゴリッツェン
ヘンリー・バムステッド
音楽 ラロ・シフリン
編集 フェリス・ウェブスター
字幕 川名完次
キャスト
出演 クリント・イーストウッド Joe_Kidd
ジョン・サクソン Luis_Chama
ロバート・デュヴァル Frank_Harlan
ドン・ストロード Lamarr
ステラ・ガルシア Helen_Sanchez
ジェームズ・ウェインライト Mingo
ポール・コスロ Roy
グレゴリー・ウォルコット Mitchell
ディック・ヴァン・パテン Hotel
リン・マータ Elma
ジョン・カーター Judge
ペペ・ハーン Priest
解説
1900年のニュー・メキシコを舞台に、土地所有権をめぐってくり広げられるガンマンたちの死闘を描く。原作はシドニー・ベッカーマン、監督は「宇宙からの脱出」のジョン・スタージェス、脚本はエルモー・レナード、音楽はラロ・シフリン、撮影はブルース・サーティーズ、編集はフェリス・ウエブスター、美術はアレクサンダー・ゴリッツェン、ヘンリー・バムステッドが各々担当。出演はクリント・イーストウッド、ロバート・デュヴァル、ジョン・サクソン、ドン・ストラウド、ステラ・ガルシア、ジェームズ・ウェインライト、ポール・コスロ、グレゴリー・ウォルコット、リン・マータなど。
あらすじ
どこへ行っても、堕落した西部の町では権力と結びついた名目だけの保安官と町の支配者たちの気まぐれによって、流れ者や弱者が制裁を受けるように、ここシノーラの町でもジョー・キッド(クリント・イーストウッド)は拘置所にぶち込まれた。彼のいい分は全然聞き入れられずに10日間の拘置と労役をいい渡された。そこへ突然、チャンマ(ジョン・サクソン)とその一味が乱入してきた。彼らは、自分たちが住んでいた土地を、わけのわからぬ理由をつけられ、牧場主たちに奪われてしまったのだ。そして幾度となくシノーラの裁判所にもち込んだが、資本家側の判事(ジョン・カーター(1))に判決をのらりくらりとひきのばされ、いっこうにらちがあかなかった。彼らは、保安官を監禁すると土地管理事務所に押しかけ、自分たちの士地であることを証明する唯一の記録を焼いた仕返しに、そこにあった書類を全部焼き払い、外で待っていたリタ(ステラ・ガルシア)を連れてて砂塵の中に消えた。一味が去ったあと、保安官は追跡隊をつのり、さらに大地主のハーラン(ロバート・デュヴァル)はラマー(ドン・ストラウド)、ミンゴ(ジェームズ・ウェインライト)など、すご腕のガンマンを引き連れ、後を追った。またハーランは、キッドの腕を見こみ、500ドルの罰金を払ってやり、彼にも追跡を頼んだ。キッドにしてみれば、別にチャンマたちに恨みがあるわけではなかったが、一味が自分の馬を盗んだことを知って、1000ドルの追跡料をもらってオーケーした。翌日、さらにハーランは待ちあわせていた別のガンマンたちを追手に加え、大勢を率いてチャンマがいると思われる岩山に囲まれた山村にやってきた。村人たちはおびえるだけでなすすべを知らなかった。ハーランは村人たちを広場に集め、チャンマに向かって、もし出てこなければ村人たちを殺すと宣言した。翌日から1日5人ずつ殺していくというのである。キッドはこの処置に反対したが、ハーランに武器を取りあげられて、村人たちと一緒に教会に監禁された。夜明け近く、キッドは、たくみな策略で教会から脱出したが、すぐその後、ハーランは人質を数人射殺した。一方、キッドは酒場にしのび込んでリタと会い、モーゼル銃をぶっぱなしてガンマンたちを釘づけにしてから、リタとチャンマの野営地に向かった。村人を見殺しにしたチャンマにリタは失望し、キッドはちゅうちょするチャンマに銃をつきつけて、正当な裁判を受けるべくシノーラの町へ向かった。ハーランも人質を釈放して、シノーラに帰ることを了承した。町に向かうキッドとチャンマの一行を、ハーランの別働隊が狙撃してきた。この場はキッドの銃さばきで乗りこえたものの、シノーラに着いた途端、再度銃撃を始めた。キッドはハーランの潜む酒場に列車を暴走させると、浮き足だった一味を皆殺しにし、ハーランの胸に弾丸をぶち込んだ。
アメリア・イアハート - Wikipedia
返信削除ja.wikipedia.org/wiki/アメリア・イアハート
アメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart [əˈmiːliə ˈɛərhɑrt]、1897年7 月24日 - 1937年7月2日)は、アメリカの飛行士。姓の表記は「エアハート」がより原語の発音に近い。 目次. 1 概要; 2 経歴. 2.1 生い立ち; 2.2 女性飛行家; 2.3 記録樹立; 2.4 遭難; 2.5 捜索; 2.6 日本軍関与説. 3 脚注. 3.1 注釈; 3.2 出典. 4 参考文献; 5 関連項目; 6 外部リンク. 概要[編集]. 1927年のチャールズ・リンドバーグの快挙に続き、女性として初めての大西洋単独横断飛行をしたことから、ミス・リンディの愛称がある。知的かつ ...
経歴-捜索-日本軍関与説-脚注
伝説の女性飛行士遭難の謎、異説が浮上 | ナショナルジオグラフィック ...
natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/060100126/
伝説の女性飛行士アメリア・イアハートと、ともに世界一周飛行を成し遂げるはずだったロッキード・エレクトラ。1937年7月2日、ニューギニア島のラエを飛び立ち、広大な太平洋の上空で消息を絶った。全旅程4万7000キロ弱のうち1万1000キロを残すのみだった。(PHOTOGRAPH BY SSPL, GETTY). [画像のクリックで拡大表示]. 米国シアトルの近郊。研究者たちが会議テーブルを囲み、古びた飛行機の部品を手にとり、 隣へと回していく。1932年に女性初となる大西洋単独横断飛行を成し遂げ、国民的 ...
【アメリカ】「革命の剣」と呼ばれたジョージ・ワシントンが実際に持っていた剣のコレクションが公開中 [10/26]
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1SQNY ★2018/10/26(金) 14:32:23.99ID:CAP_USER
初代アメリカ大統領のジョージ・ワシントンは数多くの剣を所有していたことで知られています。このコレクションは必ずしもワシントンが自分の好みで集めたものではなく、贈り物や記念品として受け取ったものもあります。ワシントンがなぜ剣にこだわったのか、剣にはどのような意味があったのかを「The Swords of George Washington」の著者であるErik Goldstein氏が語っています。
Washington's Swords: An Interview with Erik Goldstein · George Washington's Mount Vernon
https://www.mountvernon.org/preservation/collections-holdings/washingtons-swords/washingtons-swords-an-interview-with-erik-goldstein
ワシントンは基本的に剣が「男らしさ」のための必需品だと考えており、「田舎で乗馬」「外国の高官のもてなし」といった状況に合わせて毎日剣を選んでいたそうです。これはちょうど、現代の人が状況に合わせて靴や時計を選ぶようなものだったとのこと。現代人がビジネスミーティングに汚れたスニーカーを履いていかないのと同様に、議会と対峙するときのワシントンは時代遅れのさびれた剣を腰につけていきませんでした。
時代と共に剣のデザインは変わっていくため、流行を追ったワシントンの剣のコレクションにはさまざまなデザインがあります。
https://i.gzn.jp/img/2018/10/26/george-washington-swords/005.jpg
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1750年から1790年の間には英国式の剣が流行しました。これらの剣は全て同じデザインに見えますが、丸ひだや飾りびょう、金属のすかし細工など、さまざまな違いがあります。ワシントンは1770年代後半にライオンの頭がついたカトラスを腰から下げていたそうですが、これはイギリスの国章でライオンが使われていることが関係しているとみられています。ワシントンが初代大統領になった後は、この剣は使用されなくなったそうです。
https://i.gzn.jp/img/2018/10/26/george-washington-swords/001.jpg
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独立戦争の終盤には、ワシントンは別の剣も身につけていました。
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フレンチ・インディアン戦争やアメリカ独立戦争において、そしてアメリカ合衆国の指揮官として立つ際に、ワシントンが必ず剣を携えていたことには疑いがありません。しかし、ワシントンが山賊のように剣を振り回していたという考えは誤解です。5人の甥たちに対しても、自分の身、あるいは国や権利を守るため以外は、剣をさやの中に納めておくように伝えていたといいます。ただし、フレンチ・インディアン戦争において待ち伏せ攻撃にあった時は剣を抜き、「10人を殺した」といわれています。
ワシントンの死後、1840年まで、剣は全て家族の手元にありましたが、1843年、ワシントンのおいであるサミュエル・ワシントンの息子は、父から譲り受けた剣を議会へと手渡しました。これが、アメリカ市民にワシントンの剣が渡った最初の瞬間とのこと。その後、南北戦争が始まると、家族内で大切にされていた剣が「成功をもたらす」として注目され、所有者ごと誘拐する形で窃盗などの被害にあうようになります。そして南北戦争によってワシントンの家系も金銭的に困難を抱えるようになり、剣が売られることもあったそうです。
そして盗難や売買を経て、2018年現在では、ニューヨーク州立図書館といった公共施設のほか、ニューヨークにあるティファニーのショールームでも見ることができるとのことです。
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2018年10月26日 08時00分 GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20181026-george-washington-swords/
返信削除『ザ・フェデラリスト』初版の表紙、1788年
『ザ・フェデラリスト』(英: The Federalist Papers)は、アメリカ合衆国憲法の批准を推進するために書かれた85編の連作論文である。これら論文のうち77編は、1787年10月から1788年8月まで「ザ・インデペンデント・ジャーナル」と「ザ・ニューヨーク・パケット」に連続して掲載された。これに他の8編を加えて編集したものが、『ザ・フェデラリスト:すなわち新憲法』と題されて1788年に2巻本でJ. & A. マクリーンによって刊行された[1]。この連作の正しい題は『ザ・フェデラリスト』であり、『ザ・フェデラリスト・ペーパーズ』という題は20世紀になってから使われるようになったものである。
『ザ・フェデラリスト』は、憲法で提案されている政府の仕組みについての哲学や動機を明確で説得力有る文章で綴られているために、現在でもアメリカ合衆国憲法の解釈では一次資料であり続けている[2]。論文の筆者達は憲法の批准について賛成票を投じさせる影響力を持つことと、将来的な憲法の解釈を形作ることの双方を望んだ。歴史家のリチャード・B・モリスに拠れば、それらは「比類のない憲法の解説であり、後のアメリカ人作家による作品のどれよりも幅でも奥行きでも凌駕する政治学の古典である」としている[3]。
目次
概要
編集
論文の掲載当時、執筆者は極秘扱いとされたが、明敏な評論家はそれがアレクサンダー・ハミルトン、ジェームズ・マディソン、ジョン・ジェイの3人の可能性が強いと推量した。1804年にハミルトンが死んだ後、彼が書き上げた論文のリストが公開された。それに拠ると論文の3分の2強はハミルトンが書いたとされており、マディソンの作品と見られていたものまで含んでいた(第49-第58、第62および第63の各篇)。1944年にダグラス・アデアが行った学術研究で下記のように執筆者を仮定した。これは1964年に行われた文章のコンピュータ解析でも裏付けられた。
アレクサンダー・ハミルトン(計51編、第1、第6-第9、第11-第13、第15-第17、第21-第36、第59-第61、第65-第85)
ジェームズ・マディソン(計29編、第10、第14、第37-第58、第62、第63)
ジョン・ジェイ(計5編、第2-第5、第64)
第18篇から第20篇はマディソンとハミルトンの共作だった[1]。
著者の3人は古代ローマの執政官プブリウス・ウァレリウス・プブリコラに因んで「パブリアス」(Publius)という共通の匿名を使った[4]。プブリコラは共和政ローマ初期に復位を目論む王と戦った共和政の護持者として知られている。マディソンは生前に繰り返し憲法の父と呼ばれることを拒んではいたが、後世に概してそう呼ばれることが多く、バージニア州選出のアメリカ合衆国下院の指導的議員(1789年 - 1797年)、アメリカ合衆国国務長官(1801年 - 1809年)を歴任し、最後は第4代大統領(1809年-1817年)を努めた[5]。ハミルトンは1780年代を通じて憲法改定を主唱したものであり、フィラデルフィア憲法制定会議ではニューヨーク州の代表を務め、1789年から1795年まで初代アメリカ合衆国財務長官を務めた。ジョン・ジェイは1784年から連合規約が新憲法に変わる1789年までその下で外務担当官を務め、1789年にはアメリカ合衆国最高裁判所初代長官となり、1795年にはニューヨーク州知事に選出されて最高裁判所長官職を辞し、知事は2期務めて1801年に引退した。
『ザ・フェデラリスト』を構成する論文には多くの注目点がある。第10篇でマディソンが多数派による支配を防ぐ手段を論じ、共和制を拡大していくことを提唱しているところは、哲学的観点から85篇の中で最も重要と見なされており、第14篇ではマディソンがアメリカ合衆国を手段として取り上げ、それが広い領域の共和制に適切であると宣言し、憲法制定会議の制度的および政治的創造性について印象的な弁護で締め括っている。第84篇では、ハミルトンが提案された憲法は権利章典に相当する自由を保護していると主張する事で、権利章典を付け加えることによって憲法を修正する必要性が無いと主張している。やはりハミルトンが書いた第78篇は連邦議会や執行府に対して連邦裁判所による司法審査権の原理に基盤を与えている。第70篇では、ハミルトンが執行府の単独の強力な首長について主張している。第39篇では、マディソンが「連邦主義」と呼ばれることになるものを明確に説明している。第51篇では、マディソンが「人間性についてのあらゆる省察の中で最大のもの」として政府の正当化のためにしばしば引用される印象的論文の中で抑制と均衡のための論議を提供している。
アンドリュー・ジャクソン 1767~1845 - Wikipedia
返信削除https://freeassociations2020.blogspot.com/2021/09/17671845-wikipedia.html