カント『視霊者の夢』1766年
Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik
形而上学の夢によって解明されたる
視霊者の夢
0:0 夢想的
前置き |
(霊とは何か)|(霊的世界)
1:1 |
1:2
否定的__独断的__|________肯定的
|
1:4|
2:1
1:3 |___歴史的__
(精神錯乱)| (方法論)
|
2:2|
2:3
現実的
目 次
前置き 本文に対しては甚だ僅かなことしか約束
しないところの
第一部 独断的であるところの
第一章 随意に解いたり切り離したりすることのできるもつれた
形而上学的結び目
第二章 霊界との交互関係を開示すべき神秘哲学の断片
第三章 反カバラ。霊界との交互関係を止揚する一般哲学の断片
第四章 第一部の考察全体からの理論的結論
第二部 歴史的なる
第一章 その真理性が読者の任意の照会にゆだねられる一つの物語
第二章 霊界を行く一狂信家の忘我的旅行
第三章 本書全休の実践的結論
__________________________________
/| /| 人 (教育論/認識)/|オ
/ (//預言) / | / |
/ 視| / | / |プ
/___|____________間___|____________/ |
/| 霊| /| | (/快、不快) /| |ス
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/(/欲求)者| 学 /(性格論/ + ) 知性的/ | |・
/___|___|________/___|_両性、人類______/ | |
| | の| | | | | | |ポ
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|の | / | 自 然| の |形/ |而 上 |学 | /学|
|た |/ | | |/ | | |/ |ゥ
|め |___|_______|____|___|_______|____| |
|に /| | (徳|論) /| | | /| |ム
| / |人 倫|の | / |理性の限界内における | / | |
| /(法学) |形 而 上 学| /宗教(目的論) | / | |ム
|/___|___|_______|/___|___|_______|/ | |
| | | | | | | | |
| |啓 蒙|と は 何 か| | | | | |
| | |_______|____|___|_______|____|___|
| | / | | /(空間)(時間)|(数学)| /
| | / 純 粋 | 理 |性/ 批 判 | | /
| |/ | |/(物理学) | |/
| |___________|____|___________|____/
| / (倫理|学) / (美|学) /
| / 実 践 理 性 批 判 | / 判 断 力 批 判 | /
| / | /(目的論) | /
|/_______________|/_______________|/
カント『視霊者の夢』1766年
- 『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』Träume eines Geistersehers, erläutert durch Träume der Metaphysik
カントは『視霊者の夢』を「形而上学的結び目」としての霊の考察から始めている。霊とは何か。霊は存在するのか、霊という語は何を意味しているか。これらの問いに対して、カントは「大学の方法的な饒舌」を否定することから始め、「私は何も知らない」というソクラテス的無知を出発点としている。
しかし霊という言葉は、それが幻影であれ、現実的なものであれ一般 に使用されていることは事実である 。 したがってその 「隠れた意味」が開示されなければならない。カントは「霊的」という語を「物質的」という語との対比において考察を進める。「物質的」とは、(1)ある空間内において存在 (延長)し 、(2)他の物質の侵入に 抵抗する何かがある (不可入的)場合をいう。
それらの合成が、不可入的かつ延長的な全体を与える単純な諸実体は、物質的統一と称されるが、それらの全体は、物質と呼ばれる。
これに対 して 「霊的」とは、(1)不可入性の特性を具有せず、(2)それをどんなに集め合わせても一つの固い全体を形づくることはない。
この種の単純な存在者は非物質的存在者と名づけられ、またもしそれらが理性を持つ場合は、霊と名づけられる。
霊は、(1)単純な実体として空間内に現存し、活動性を持つが空間の充実としての抵抗をもたず、物質的存在者に対しても可入的である。(2)直接的現在の場所は点ではなく、それ自体一空間であるが延長を持たない。延長の限界が形を定めるのであるから、霊は如何なる形も考えられない。
ところで、いま「人間の魂」が一つの霊であるとすれば、それは次のように考えなければならない。(1)物体 界における人間の魂の場所は、その変化が私の変化があるような物体である。すなわち私の身体が私の魂の場所 である。 (2)身体内の私の魂の場所については、「私が感覚するところに私は在る」とされている。カントは 霊の活動性、可入性、無延長性等の特性から推測して、人間の魂についても、それを脳髄の極小部分に閉じ込め るような物体的考え方をせず、私の身体において私の感ずるところに在るという考え方をしている。
以上がカントの霊の規定であるが、この際問題は、霊という超経験的概念に対するカントの認識論的基本姿勢にある。注目すべき特徴をあげると、まず「普通の経験を頼りにして」考察が進められていることである。それは端的には 「常識の立場」である。「常識は、真理を証明し、また解明しうる諸根拠を洞察する以前に、しばしば真理に気づく」からである。次に、この経験を頼 りにする常識の立場が、直ちに経験論の立場を意味する ものではないことである。この点に関しては、カントは極めて慎重である。「霊的と名づけられるような種類の 存在者が一体可能であるかどうか」。カントは自問して、次のように自戒している。
この際私はこの最も深遠で最も不分明な問題において、最も容易に切迫してくる性急な決定を警戒せざるをえない。
http://www.fukushima-nct.ac.jp/~welfare/lib/arc_fnct/47/06-008.PDF
「悟性の秤りは、やはりまったく偏りがないわけではない、つまり未来への希 望という銘をもつその腕木は、その腕木についている皿に乗る軽い根拠でも、他の側のそ れ自身ではより大きな重みの思弁を高くはね上げるような機構的な利点をもっている。これは、私が恐らく除きえない、また実際決して除こうとは思わない唯一の不正である」
「しかし、死とともにすべてが終わるという思想に堪えることができ、また その高貴な心術が未来への希望にまで高められなかったような誠実な心は、いまだかって なかったであろう。したがって、来世への期待を善良な心の感情の上に基礎づける方が、 逆に心の正しい態度を来世への希望の上に基礎づけるより、人間性と道徳の純粋さに一層 適合しているようにおもわれる」
http://www.kochinet.ed.jp/ko-rinri/pdf_data/
近代批判の鍵 - 柄谷行人
http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-36.html>
カント論に関して、私はこの本(『理性の不安』)から決定的な影響を受けた。私の『トランスクリティーク…カントとマルクス』という著作は、『視霊者の夢』からカントの可能性を見る坂部氏の本なしにありえなかった、といっても過言ではない。しかし、最初に『理性の不安』を読んだとき、私はむしろそれを文学評論として読んだのである。というのも、坂部氏は、カントの『視霊者の夢』に関して何よりも、「自己を嘲笑する」ことから始めるカントの書き方に注目していたからである。氏はそこに、ディドロやスターンの文学との共時的な類似を見出している。一八世紀の小説では、サタイヤや書簡体など多種多様な表現形式がとられたが、一九世紀に「三人称客観」の手法が確立したとき、それらは未熟な形式として抑圧されてしまった。
「三人称客観」の視点は仮構であるが、それはカントでいえば、「超越論的主体」という仮構に対応するものである。逆にいうと、カントが超越論的主体を仮構した時点で、小説に生じたのと同じことが哲学におこった。坂部氏がとらえたのはそのような変化である。『視霊者の夢』に見られるカントの「理性の不安」や多元的分散性は、『純粋理性批判』では致命的にうしなわれてしまった、と坂部氏はいう。カントの柔軟な思考と文体は、「学校の文体といわば妥協し、伝統的な形而上学の枠どりに何らかの程度復帰して、自己の思考の社会化に乗り出すと同時に、必然的にうち捨てられることになる」(「カントとルソー」{坂部恵集第2巻}p232)。
とはいえ、坂部氏は、『純粋理性批判』よりも『視霊者の夢』のほうが重要だといっているわけではない。坂部氏がいいたいのは、『純粋理性批判』あるいは「批判哲学」は、それよりも前の『視霊者の夢』から見るとき、別の可能性、つまり、近代哲学を超える可能性をもちうるということである。すなわち、坂部氏は、近代批判の鍵を、近代以前にさかのぼるかわりに、十八世紀半ば、すなわち、啓蒙主義とロマン主義の境目の一時期に求めたのである。そこでは、もはや啓蒙的合理性が成り立たなくなっている。にもかかわらず、そこであくまで啓蒙的スタンスを維持しようとするならば、「自己嘲笑」的なスタイルによってしかありえない。カントが『視霊者の夢』でとった文体は、そのような苦境が強いたものである。
「近代批判の鍵」・『坂部恵集1』月報(岩波書店)より
___________________
以下、本文より抜粋
(
0:0、130頁)
「…理由もなく何も信じないというのも、また一般の風評のいうところについては、吟味もせずに一切を信じるのも、同じように愚かな先入見である…」
(
1:1、132頁)
「…私は霊が在るか否かを知らない、実際それ以上に、霊という語が何を意味するかを、私は少しも知らない。」
(1:1、134頁)
「…この種の単純な存在者は非物質的存在者と呼ばれ、またそれらが理性を有するならば、霊と名づけられるであろう。だがそれらの合成が、不可入的かつ延長的な全体を与える単純な諸実体は、物質的統一と称されるが、それらの全体は、物質と呼ばれる。」
(1:1、135頁)
「この際私はこの最も深遠で最も不分明な問題において、最も容易に切迫してくる性急な決定を警戒せざるをえない。」
(
1:2、140頁)
「われわれはコーヒーを飲むとき、人間の生命がそれから成るべき原子を呑みくだすのだという、ライプニッツの
冗談めいた思いつきも、もはや笑うべき思想ではないであろう。」
(
1:3、167頁)
「…哲学は、かくて悪い仲間関係において振り懸かる嫌疑につつまれる。なるほど私は上の箇所でその
ような現象における精神錯乱に異議をとなえなかった、むしろ精神錯乱をなるほど空想的な霊の交互関係の原因とし
てではないが、その当然の結果としてそれと結びつけはした、しかし極まるところを知らない哲学と一致点にもち来
たらせられ得ないような、いかなる種類の愚事が存するであろうか? それゆえ読者が、視霊者をもう一つの世界の
半公民と見なす代わりに、簡単にそして立派に彼らを入院候補者として片づけ、それによってそれ以上の一切の探索
をまぬがれるとしても、私は決して読者をそのことで恨みはしない。」
(
1:4、169頁)
「以前には私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、今私は自分を自分のでない外的な理性の位置
において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点から考察する。両方の考察の比較はたしかに
強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真
の位置におくための、唯一の手段でもある。」
(1:4、169頁)
「悟性の秤りは、やはりまったく偏りがないわけではない、つまり未来への希 望という銘をもつその腕木は、その腕木についている皿に乗る軽い根拠でも、他の側のそ れ自身ではより大きな重みの思弁を高くはね上げるような機構的な利点をもっている。これは、私が恐らく除きえない、また実際決して除こうとは思わない唯一の不正である」
(
2:1、178頁)
「あ る種の背理的な事物が、単に一般にそれについて話されるというだけの理由で、分別のある人々に受け入れられるということは、いつでもそうだったしまた恐ら く将来もそうあり続けるだろうからである。交感、占い棒、予感、妊婦の構想力の霊能、月相の動植物への影響等々は上の背理的事物に属する。」
(2:1、178頁)
「のみならず、先日一般地方民が、普通学者たちが軽信性のゆえに彼ら に投げかけるのを常とする冷笑の返報を、立派に学者たちにしたのではなかったであろうか? なぜなら、多くの風説によって、子供や女たちがとうとう怜悧な 男どもの大部分をして、ありふれた狼をはいえなだと思うに至らしめたからである、もっとも今ではフランスの森の中をアフリカの猛獣が走り廻ることはない、 ということを分別のある人なら誰でも容易に洞察するけれども、われわれが初めは真理と欺瞞を差別なしに掻き集めるのは、その好奇心と結びついた人間悟性の 弱さの然らしめるところである。だが次第に諸概念が純化され、僅かな部分が残り、残りのものは掃き寄せられた塵芥として投げ捨てられる。」
(
2:2、183頁)
「というのは後者の根拠は十分に知られており、また大部分、心の諸力の選択意志的な志向と、空虚な好奇心をいくらか多く制御することによって防止す ることができもするが、他方それに反して前者はすべての判断の第一の基礎にかかわり、それが正しくなければ、論理学の諸規則はそれに逆らってほとんど何も なし得ないからである! そこで私はわれらの著者において感官の妄想を知力の妄想から分離して、彼が彼の幻想のもとに立ち止まらずに、背理的な仕方でこじ つけたようなことを省略する。(中略)似非経験でさえ大部分理性からの似非根拠よりも一層ためになる。」
(
2:3、198頁)
「しかし、死とともにすべてが終わるという思想に堪えることができ、また その高貴な心術が未来への希望にまで高められなかったような誠実な心は、いまだかって なかったであろう。したがって、来世への期待を善良な心の感情の上に基礎づける方が、 逆に心の正しい態度を来世への希望の上に基礎づけるより、人間性と道徳の純粋さに一層適合しているようにおもわれる」
(2:3、199頁)
「カンディード…『さあわれわれの幸福をおもんばかり、庭に出て働こうではないか』」
参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/エマヌエル・スヴェーデンボリ#.E8.A9.95.E4.BE.A1
スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/イマヌエル・カント#cite_note-10
1766年、『視霊者の夢』を出版[注釈 3][6]。カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについてこう述べている[7]。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎないのである。-(中略)-別の世界についての以上の見解は論証することはできないが、理性の必然的な仮説である。スエーデンボルグの考え方はこの点において非常に崇高なものである。-(中略)-スエーデンボルグが主張したように、私は、〔身体から〕分離した心と、私の心の共同体を、すでにこの世界で、ある程度は直感することはできるのであろうか。-(中略)-。私はこの世界と別の世界を同時に往することはできない。-(中略)-。来世についての予見はわれわれに鎖されている。」
3^ エマヌエル・スヴェーデンボリ(英語読みではスウェーデンボルグ)の千里眼という超常現象については、それが存在するのか自分は判断できないとして、読者に判断を委ねている。
6^ 須田朗『視霊者の夢のカント』(哲学会誌17、1982)pp.1‐20
7^ K・ペーリツ編、甲斐実道、斎藤義一訳、『カントの形而上学講義』(三修社、1979)pp222-227
11 Comments:
理想社3
p183
2:2
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-1.html
カントは「感官一般の錯覚は、理性の欺瞞よりもずっと注目すべき現象だ」という。
というのは後者の根拠は十分に知られており、また大部分、心の諸力の選択意志的な志向と、空虚な好奇心をいくらか多く制御することによって防止することができもするが、他方それに反して前者はすべての判断の第一の基礎にかかわり、それが正しくなければ、論理学の諸規則はそれに逆らってほとんど何もなし得ないからである! そこで私はわれらの著者において感官の妄想を知力の妄想から分離して、彼が彼の幻想のもとに立ち止まらずに、背理的な仕方でこじつけたようなことを省略する。(中略)似非経験でさえ大部分理性からの似非根拠よりも一層ためになる。
カントはこの第三の事例について、「それが本当かどうかの完全な証明が極めて容易に与えられるに相違ないような種類のもの」だとするばかりで、是非を断じていない。しかし、カントがどのように考えたかは、第二部第一章の終わりで示唆されている。
ある種の背理的な事物が、単に一般にそれについて話されるというだけの理由で、分別のある人々に受け入れられるということは、いつでもそうだったしまた恐らく将来もそうあり続けるだろうからである。交感、占い棒、予感、妊婦の構想力の霊能、月相の動植物への影響等々は上の背理的事物に属する。p178
ここで言う「分別のある人々」にはもちろんカント自身も含まれており、彼は自らの純真を自嘲している。そして、「そのすぐれた悟性と洞察とが、そのような場合に欺かれることを不可能ならしめるようなお方」や「公使たるもの」、「名家の人々」など、地位と教養のある人々として挙げられていたすべての人々も含まれるだろうことは間違いない。これまでカントは、関係者たちが知的であることを、あたかも情報の信憑性が高い理由であるかのように扱ってきたが、どんでん返しが用意されていたというわけだ。さらにカントはだめ押しをする。
のみならず、先日一般地方民が、普通学者たちが軽信性のゆえに彼らに投げかけるのを常とする冷笑の返報を、立派に学者たちにしたのではなかったであろうか? なぜなら、多くの風説によって、子供や女たちがとうとう怜悧な男どもの大部分をして、ありふれた狼をはいえなだと思うに至らしめたからである、もっとも今ではフランスの森の中をアフリカの猛獣が走り廻ることはない、ということを分別のある人なら誰でも容易に洞察するけれども、われわれが初めは真理と欺瞞を差別なしに掻き集めるのは、その好奇心と結びついた人間悟性の弱さの然らしめるところである。だが次第に諸概念が純化され、僅かな部分が残り、残りのものは掃き寄せられた塵芥として投げ捨てられる。
p178
カントが例に挙げたのは「ジェヴォーダンの獣」として知られる事件のことである。当時、フランスのジェヴォーダン地方で正体不明の「獣」に人々が襲われる事件が頻発していた。カントがクノープロッホ嬢宛書簡を書いた一七六三年の翌年、一七六四年に最初の被害者を出して以来、この「獣」に襲われて命を落とした人は一説にはおよそ百人前後にのぼるとされる。ちょうどカントがスウェーデンボリ問題に取り組んでいるあいだ、隣国のフランスではこの「ジェヴォーダンの獣」の話題でもちきりだった。
フランス国王が賞金を懸け、幾度も山狩りが行なわれたのにもかかわらず被害がなかなかやまなかったため、「獣」の正体について憶測が憶測を呼び、流言飛語が飛び交った。人々は「獣」を何か恐ろしい怪物のように想像し、人間の手によってアフリカからつれてこられたハイエナだという説がまことしやかに語られたほか、さまざまな奇怪な風説が流布された。しかし、討伐隊によって大型の狼が仕留められてから噂は収束にむかう。
この「ジェヴォーダンの獣」事件はカントに示唆を与えただろう。不安と動揺、あるいは熱狂や過度の好奇心の渦中にあっては、「分別のある人」であっても風説に惑わされる。カント自身がそうだったのだ。しかし、頭を冷やして検討し直せば、報告された事例はすべて伝聞によるものであり、それらはいわば「スウェーデンボリ伝説」とでも言うべき事柄であった。仮に見かけ上は事実と一致していたとしても、「それはちょうど詩人が譫言を言っているのに、ときどき結果と一致するときには、人びとがそう信じ、あるいは少なくとも彼ら自身そう言うように、彼らが時折予言すると思われる」ようなものだ。哲学的含蓄に富んだ議論を期待した読者は肩すかしをくらったような気分になるかもしれないが、これが、スウェーデンボリの心霊現象と伝えられたものについて、カントのくだした事実上の結論であった。私自身は、ことによると伝説の発端には、立ち会った人々に奇異な感じを抱かせるような何かがあったかもしれない、とも思う。しかし、それも世に広まっていく過程で、それを語る人々の期待と好奇心によって何倍にも誇張されていったのだろう。ジェヴォーダンの人々がありふれた狼をハイエナに類した怪物と思い込んだように。
「…哲学は、かくて悪い仲間関係において振り懸かる嫌疑につつまれる。なるほど私は上の箇所でその
ような現象における精神錯乱に異議をとなえなかった、むしろ精神錯乱をなるほど空想的な霊の交互関係の原因とし
てではないが、その当然の結果としてそれと結びつけはした、しかし極まるところを知らない哲学と一致点にもち来
たらせられ得ないような、いかなる種類の愚事が存するであろうか? それゆえ読者が、視霊者をもう一つの世界の
半公民と見なす代わりに、簡単にそして立派に彼らを入院候補者として片づけ、それによってそれ以上の一切の探索
をまぬがれるとしても、私は決して読者をそのことで恨みはしない。」(1:3 p167)
(1:4 p169)
「以前には私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、今私は自分を自分のでない外的な理性の位置
において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点から考察する。両方の考察の比較はたしかに
強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真
の位置におくための、唯一の手段でもある。」
(1:2、140頁) 「われわれはコーヒーを飲むとき、人間の生命がそれから成るべき原子を呑みくだすのだという、ライプニッツの 冗談めいた思いつきも、もはや笑うべき思想ではないであろう。」
(1:3、167頁)
「…哲学は、かくて悪い仲間関係において振り懸かる嫌疑につつまれる。なるほど私は上の箇所でその ような現象における精神錯乱に異議をとなえなかった、むしろ精神錯乱をなるほど空想的な霊の交互関係の原因とし てではないが、その当然の結果としてそれと結びつけはした、しかし極まるところを知らない哲学と一致点にもち来 たらせられ得ないような、いかなる種類の愚事が存するであろうか? それゆえ読者が、視霊者をもう一つの世界の 半公民と見なす代わりに、簡単にそして立派に彼らを入院候補者として片づけ、それによってそれ以上の一切の探索 をまぬがれるとしても、私は決して読者をそのことで恨みはしない。」
(1:4、169頁)
「以前には私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、今私は自分を自分のでない外的な理性の位置 において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点から考察する。両方の考察の比較はたしかに 強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真 の位置におくための、唯一の手段でもある。」
後者2つはトラクリに引用された
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2921618
講談社学術文庫
カントシレイシャノユメ
カント「視霊者の夢」
著者: イマヌエル・カント
翻訳者: 金森誠也
発行年月日:2013/03/11
サイズ:A6判
ページ数:174
シリーズ通巻番号:2161
ISBN:978-4-06-292161-9
定価(税込):714円
内容紹介
<心霊現象>に哲学者が挑む
霊界は空想家がでっち上げた楽園である――。
哲学者として「霊魂」への見解を示し、『純粋理性批判』へのステップとなった重要著作を初めて文庫化。
解説=三浦雅士
理性によって認識できないものは、形而上学の対象になりうるか――。哲学者カントが、同時代の神秘思想家スヴェーデンボリの「視霊現象」を徹底的に検証。当時高い世評を得ていた霊能者へのシニカルかつ鋭利な批判を通して、人間の「霊魂」に対する哲学者としての見解を示す。『純粋理性批判』に至るステップとなった、重要著作。
ところでわたしは、霊があるかどうかを知らない。いやそればかりか、霊という言葉が何を意味するかすら、まったくわかっていない。そうはいっても、わたし自身この言葉をしばしば用いているし、あるいは他の人たちが使っているのを聞いている。だから、たとえそれがいかなる幻想であろうと、あるいは何か実在するものであろうと「霊」という言葉によって何事かが理解されねばなるまい。――<本書 第一部第一章より>
※本書は、1991年に論創社より刊行された『霊界と哲学の対話――カントとスヴェーデンボリ』(金森誠也編訳)所収の「視霊者の夢」その他を文庫化したものです。
目次
訳者まえがき
詳述する前に、きわめてわずかなことしか約束しないまえがき
第一部 独断編
第一章 好き勝手に解きほぐしたりあるいは断ち切ることが
できる混乱した形而上学的な糸の結び目
第二章 霊界との連帯を開くための隠秘哲学の断片
第三章 反カバラ。霊界との共同体をとりこわそうとする通俗哲学の断片
第四章 第一部の全考察からの理論的結論
第二部 歴史編
第一章 それが本当かどうかは読者の皆さんの随意の探究にお委せする一つの物語
第二章 夢想家の有頂天になった霊界旅行
第三章 本論文全体の実践的結末
参考資料1 『神秘な天体』(抜粋)――エマニュエル・スヴェーデンボリ
参考資料2 シャルロッテ・フォン・クノープロッホ嬢への手紙――イマヌエル・カント
訳者あとがき
学術文庫版の訳者あとがき
解説 批評家の夢 三浦雅士
視霊者の夢、おもろいカント - 風船子迷想録
d.hatena.ne.jp/fusen55/20101117/1289949977
カッシーラーは「カントの生涯と学説」において、カントの「視霊者の夢」と「感性界と英知 界との形式と原理」のあいだの驚くべき飛躍に注意を促している。前者は1766年、後者 は1770年。簡単に言えば、あの世の話を面白おかしくからかって ...
カント「視霊者の夢」 (講談社学術文庫) | イマヌエル・カント, 金森誠也 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon
2013
https://www.amazon.co.jp/dp/B01MYYX3NJ/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
トップカスタマーレビュー
5つ星のうち 3.0視霊者の腸内を下剤で浄化せよ(P79より)
投稿者 tenbun 投稿日 2013/6/8
形式: 文庫
哲学者カントが、同時代の神秘思想家スヴェーデンボリの「視霊現象」を考察した批判本になります。
スヴェーデンボリは生きたまま、あの世に幽体離脱して死者と語ったり、霊界の様子を多くの著書に表しました。
内容は、スヴェーデンボリが、夫人しか知らないことを透視したこと、亡夫しか知らない領収書の在り処を聞き出し婦人に証明したこと、遠方の大火事を千里眼しその事実を証明したことについての、カントの考察が書かれています。
カントは、この本を「友人のおしつけがましい要望に応じた」ものP116といい、その結果に友人は満足していないだろうという。友人は、スヴェーデンボリの超能力をカントが認めてくれると期待したのだろうが、カントはこの本で、結論は待とう、「他者の判断の方が重いということがわかれば、他者の判断をおのれの判断とする」P80といいながらも、明らかにスヴェーデンボリの超能力を「否定」P135しています。
カントは、スヴェーデンボリを「われらの夢想家」P112、または「著述家の夢想」P114と呼び、「彼の個人的幻視はそもそも証明できない」といい、この問題(幽霊物語、死霊の出現、霊的存在)は、「哲学的学説の洞察の限界」P86を超えている、「憶測するだけで、積極的に考えられない」感覚的からかけはなれた事物ゆえに否定で対処せざるを得ないというのである。<...続きを読む ›
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カント全集 3 前批判期論集
著者名等 カント/〔著〕 ≪再検索≫
著者名等 坂部恵/編 ≪再検索≫
著者名等 有福孝岳/編 ≪再検索≫
著者名等 牧野英二/編 ≪再検索≫
出版者 岩波書店
出版年 2001.10
大きさ等 22cm 588,12p
NDC分類 134.2
目次 神の存在の唯一可能な証明根拠;負量概念の哲学への導入;自然神学と道徳の原則の判明
性;1765‐66年冬学期講義計画公告;視霊者の夢;空間における方位の区別の第一
根拠について;可感界と可想界の形式と原理;モスカティ著『動物と人間の構造の身体上
の本質的相違について』の論評;さまざまな人種について;汎愛学舎論
内容 内容:神の存在の唯一可能な証明根拠 福谷茂/訳. 負量概念の哲学への導入 田山令
史/訳. 自然神学と道徳の原則の判明性 植村恒一郎/訳. 一七六五-六六年冬学期
講義計画公告 田山令史/訳. 視霊者の夢 植村恒一郎/訳. 空間における方位の区
別の第一根拠について 植村恒一郎/訳. 可感界と可想界の形式と原理 山本道雄/訳
. モスカティ著『動物と人間の構造の身体上の本質的相違について』の論評 福田喜一
郎/訳. さまざまな人種について 福田喜一郎/訳. 汎愛学舎論 福田喜一郎/訳.
解説. 索引あり
ISBN等 4-00-092343-9
書誌番号 3-0201067517
Kant, Immanuel, 1724-1804
詳細情報
タイトル カント全集
著者標目 Kant, Immanuel, 1724-1804
出版地(国名コード) JP
出版地 東京
出版社 理想社
出版年 1966
大きさ、容量等 363p 図版 ; 22cm
価格 1500円 (税込)
JP番号 51004188
巻次 第1巻
別タイトル 自然哲学論集
部分タイトル 活力測定考,地震論,物理的単子論,自然地理学講義草案,月の火山,天候におよぼす月の影響
部分タイトル 自然哲学論集 / 亀井裕 訳
出版年月日等 1966
NDC 134.2
対象利用者 一般
資料の種別 図書
言語(ISO639-2形式) jpn : 日本語
「カント全集」(岩波書店版)収録作品リスト | Philosophy Guides
https://www.philosophyguides.org/data/kant-complete-works/
カント全集1 前批判期論集1
活力測定考(大橋容一郎訳)
地球自転論(大橋容一郎訳)
地球老化論(大橋容一郎訳)
火について(松山壽一訳)
地震原因論(松山壽一訳)
地震の歴史と博物誌(松山壽一訳)
地震再考(松山壽一訳)
以下カント判断力批判#28より
《力 Macht とは大きな障害に優越している能力である。その同じ力は、力をそれ自身所持しているもの
の抵抗にもまた優越しているとき威力 Gewalt と称せられる。…
われわれは雷雨、暴風雨、地震などにおいて神が憤怒しており、しかも同時に神の崇高性が表出されて
いると表象するのをつねとするが……
われわれの職分がその力を超えて崇高であると考えるところのわれわれの内に存する能力によって、深い
畏敬をわれわれの内に起こさせる存在者の崇高性の理念へ達することができる》
カントは判断力批判#28で地震に触れその節の末尾を柄谷は定本一で引用している。
カントの思考がここまで行きつくには、
スウエーデンボルグルソーヒュームを経なければならなかった。
そうでなければ1750年代の自然科学論文で満足したままだったろう。
1756年地震論文(リスボン地震に触発された)では唯物論、
夢は独断論に対して批判哲学ではなく懐疑主義的歴史観で対抗しているが弱いし、
1766夢論文でスウエーデンボルグを独断論/懐疑論で切るが十分ではない。
カントの強みは自然科学、論理学、倫理学が渾然としているところだ。
(だからそれらを整理するカテゴリーが逆に意味を持つ)
柄谷行人の地震論での錯誤でその渾然としたカントを体現してしまっている。
2000年代マルクスの唯物論に物足りなくなった柄谷と、
1760年代自然科学に物足りなくなったカントとはパラレルだ。
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