Foucault : Discipline and Punishement. English subtitles
「司法はポリスに奉仕する」(ミシェル・フーコー) - 日本アートNipponArtのブログ
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Michel Foucault : la justice et la police
Antenne 2 - 25 avril 1977 - 02min 03s
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――あなたにとって、社会における裁判官の役割とは何でしょう?
ミシェル・フーコー
………
――何の役に立っていますか?
ミシェル・フーコー
何の役に立つか? ………
意地悪な言い方すると…… もちろん意地悪じゃないんだよ、僕は。
だとしたとすると、すぐにでも言えるよね。
裁判官は、結局のところ、警察が機能するのに役立ってる、って。
18世紀に起こった大事件はというと、司法の改革だとか、自由の獲得だとかって思われてる。
18世紀に起こった、何か大切なこと。発明だ。
この発明の考案者たちの功績は十分認められてはいないけど、フランス人だってことは分かってる。
つまり、それが警察だ。
警察は一つの発明だ。今あるその形態は、18世紀の、君主行政の発明だ。
事実、警察は18世紀以来、人々の振舞いを絶えず監視する、休むことなく矯正する、ある種の素晴しい決定機関のようなものだったんだ。
司法のなんてものじゃない。規律を決定づける一最高機関だったんだ。
法の適応が問題だったんじゃない。諸個人が順応する、正常な振舞いの獲得が肝要だったんだ。
そう。この規律化を担ったのが警察だ。
警察は18世紀の間ずっと、結局は卑劣で、持続性のない、いい加減なものでもあった司法権力のすき間にあって、人々を監視・矯正したんだ。
さあ。僕は思うんだが、このような警察の役割。みんなはそれが警察に従属したものだと考えてるんだけど、僕は違う。本当の土台だ。この土台の上に現在の司法は機能している。
司法。司法ってのは公的なレベルや法的なレベル、祭儀のレベルも含むが、文書に書きとめる。それ以外の目的では何らその役割を果たしていない。
これら管理・統制の本質は、標準・規律化のコントロールだ。そしてこの標準・規律化を確固たるものにしている、それが警察だ。
司法は警察に奉仕している。歴史的にも、事実、制度的にも。
参考:
貫成人『図説・標準 哲学史』より
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『監獄の誕生』
Surveiller et punir / Michel Foucault — BNFA, Bibliothèque Numérique Francophone Accessible
1975
http://www.bnfa.fr/livre?biblionumber=26874 1975
- Quatrième de couverture
- PREMIÈRE PARTIE. SUPPLICE
- Chapitre premier. Le corps des condamnés
- CHAPITRE II
- II. PUNITION
- CHAPITRE PREMIER
- CHAPITRE II. La douceur des peines
- III DISCIPLINE
- CHAPITRE PREMIER. Les corps dociles
- L'ART DES REPARTITIONS
- LE CONTRÔLE DE L'ACTIVITÉ
- L'ORGANISATION DES GENESES
- LA COMPOSITION DES FORCES
- CHAPITRE II. Les moyens du bon dressement
- LA SURVEILLANCE HIÉRARCHIQUE
- LA SANCTION NORMALISATRICE
- L'EXAMEN
- CHAPITRE III. Le panoptisme
- CHAPITRE PREMIER. Les corps dociles
- Chapitre Premier. Des institutions complètes et austères
- CHAPITRE II ;Illégalismes et délinquance
- CHAPITRE III Le carcéral
http://www.arsvi.com/b1900/7500fm.htm
『監獄の誕生――監視と処罰』
Foucault, Michel 1975 Surveiller et punir: Naissance de la prison, Gallimard.=1977 田村 俶 訳,『監獄の誕生――監視と処罰』, 新潮社
■Foucault, Michel 1975 Surveiller et punir : Naissance de la prison, Gallimard=197709
田村 俶 訳,『監獄の誕生――監視と処罰』,新潮社,318p.
※ =1979 [1977] Alan Sheridan, trans., Discipline and Punish: The Birth of the Prison,Vintage,ix+333p.
■目次
◆第3部 規律・訓練
第1章 従順な身体
「技術=政治の領域。」142 この領域では・・・
①「まず取締りの尺度。・・・細部にわたって身体に働きかけること、細微な強制権を身体に行使すること、力学の水準そのものにおける影響―運動・動作・姿勢・速さを確実に与えること・・・」142
②「つぎに取締りの客体。・・・表徴であるよりも体力(「見た目」よりも「実」ひざわ)・・・」142
③「最後に取締りの様相。それは結果によりも活動の過程に留意する、絶えまのない恒常的な強制権を含むものであり、・・・」142
「身体の運用への綿密な取締りを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順=効用の関係を強制するこうした方法こそが、≪規律・訓練discipline≫と名づけうるものである。」143
①配分の技術
(1)「しばしば規律・訓練は、閉鎖を、つまり他のすべての者には異質な、それじたいのために閉じられた場所の特定化を要求する。」147
→「私立学校」、「兵営」、「製造所の寄せ集めが、ついで十八世紀の後半には工場が、・・・」
(2)「しかし、≪閉鎖≫のこの原則は、規律・訓練の装置のなかでは恒常的でも不可欠でも充分でもない。この装置は、はるかに柔軟かつ巧妙なしかたで空間 を再構成するのである。しかもまず、基本的な位置決定もしくは基盤割りの原則にもとづいて。」148 →「修道院の独房」
(3)「機能的な位置決定の準則が、・・・規律・訓練中心の諸施設では徐々に記号体系化しようとする。」149
(4)「規律・訓練〔の施設〕では、基本的要素は相互に置き換えが可能である、・・・規律・訓練〔の施設〕では、基本単位は所属分野(支配の単位)でも場 所(所在の単位)でもなくて序列である。・・・それぞれの身体を定着させるのではなく配分して、ある諸関係の網目のなかにその身体を順次めぐらせる、こう した位置決定によって、規律・訓練はそれぞれの身体を個別化するのである。」150-151
→「学級」
「学校の空間を、学ぶだけのみならず監視し階層化し賞罰を加える一つの装置として機能せしめるようになった。」152
②活動の取締り
(1)「時間割・・・その三つの主要な方策―拍子をつけた時間区分、所定の仕事の強制、反復のサイクルの規制・・・」154
(2)「時間面での行為の磨きあげ。」155-156
(3)「身体と身振りの相関化・・・」
(4)「身体=客体の有機的配置」→「担え銃」の例
「これこそは、身体の道具本位の記号体系化とでも呼びうるような事態の一例である・・・動かすべき身体の諸要素・・・の系列と、操作する客体〔=物体〕の諸要素・・・の系列。」157
「権力は、身体=兵器、身体=道具、身体=機械という一種の複合をつくりあげるわけである。」
(5)「尽きざる活用。・・・つまり〔時間の〕使用というより尽きざる消費である。」158
③段階的形成の編成
「第一には、時の流れを、連続的であれ平行的であれ線分に分割し、各人がその線分の特定な終局にまで達しなければならない。」161
「第二点として、これらの段階を或る分析的な図式にもとづいて編成すべきである―可能なかぎり単純な諸要素のいくつかの連続が、或る増大する複雑さにもとづいて結び合わされるからである。」161
「第三には、時間中心のこれらの部分部分に目標を与えて、それぞれの部分の終りを試験でしめくくるべきであり、その試験には、受験者が規定上の水準に達し たかどうかの指示、当人の技術習得が他の者のそれと同一内容であるとの保証、各個人の能力の区別という三重の機能が与えられる。」162
「第四点として、いくつかの系列から或る系列を配置して、各人に適する訓練を、その水準・古さ・位階に応じて各人に定めるべきであって、共通して行われる訓練には、分化した役割が与えられ、それぞれの区別には、種別的な訓練が含まれる。」162
「連続しておこなわれるさまざまな〔人間〕活動の≪系列≫化によって、権力が時間の流れをすっかり攻囲する事態が生み出される。すなわち、詳細にわたる管 理の、また、時間を厳守した一刻ごとの(区別・矯正・懲罰・排除を中心とした)介入の可能性であり、つぎに、個々人が自分のたどる系列のなかで占める水準 に応じて個々人の特色を定めうる、したがって個々人を活用しうる可能性であり、時間と活動とを集積して、その双方を一個人の最後の能力たる最終的な成果の なかで総体化され利用可能なかたちで再び見出しうる可能性である。」163
④さまざまの力の組立
(1)「一つの身体は、人々が配置し動かし他の身体に連結しうる一つの要素となる。その身体の豪胆さや力とは、・・・身体が占める位置、身体がおおう間 隔、身体が位置移動をおこなう場合の元にある規則正しさ・りっぱな秩序である。部隊に属する兵卒は、或る勇気や或る名誉の持主である以前に、とりわけ、動 的な空間部分なのである。」166-167
(2)「ある複合的時間を形づくるために、規律・訓練が結び合わす必要のある各種の時間継起上の系列である。」167
(3)「〔人間の〕さまざまの力の、注意ぶかく計算されたこうした組み合わせは、精確な命令組織をぜひとも必要とする。」168
「要約して言うとすれば、規律・訓練は規制する身体をもとにして四つの型の個人性を、というよりむしろ、四つの性格のそなわった個人性を造りだすのであ る。つまりそれは(空間配分の作用によって)独房的であり、(活動の記号体系化によって)有機的であり、(時間の累積によって)段階的形成を旨とし、(さ まざまな力の組立てによって)組合せを旨とする。しかもそのために規律・訓練は、四つの主要な技術を用いるのである。つまり、まず一覧表をつくりあげ、つ ぎに操練を規定し、さらに訓練を強制し、最後には、力の組合せを確保するため≪戦術≫を整える。≪戦術≫とは、持場の指定された身体、記号体系化された活 動、養成された能力などを用いて仕組をつくりあげ、そこでは各種の力の所産をそれら力の計画的な組合せによって増大させる技法であって、こうした戦術は規 律・訓練の実務の最高形式といってよいだろう。」169-170
第2章 良き訓育の手段
①階層秩序的な監視
「規律・訓練の行使は、視線の作用によって強制を加える仕組を前提としている。」175
「多種多様で交錯した監視にかんする、また相手にみられずに相手を見なければならない視線にかんする、ささやかな技術が存在したのであり、・・・」176
・例として
→医療的行為の道具としての「病院=建物」、訓育のひとつの差要素としての「学校=建物」
・これら建築物がもたらす監視を・・・
「それを些細なものだと考える人があるとすれば、個々人の行動についての段階的な客観化および次第に精密になる基盤割の監視をめざした、より小規模だが欠点のない、こうしたすべての装置の役割を忘れさっている人に限られるだろう。」178
「規律・訓練の階層秩序化された監視における権力は、一つの物として所有されるわけでもなく、一つの権利として譲渡されるわけでもなく、一つの機械仕掛と して機能するのだ。・・・実はその装置全体が、≪権力≫を生み出して、この永続的で連続した領域のなかに個々人を配分している。・・・取締る役目の者をも たえず取締るからである。・・・ひそかに機能するからである。・・・」181
②規格化をおこなう制裁
(1)「規律・訓練的なすべての組織の中心では、ささやかながら刑罰の機構が機能するのである。その機構は、それ自身の掟や種別的な罪や特定の処罰形式や裁判審級などをふくむ、一種の裁判権を有する。」181-182
(2)「だが規律・訓練に派特定の処罰方式がふくまれるとしても、ただ単にそれは一般の裁判の縮小モデルというわけではない。規律・訓練上の刑罰の対象になるものは、規則などへの違反、規則に妥当しない一切の事柄、規則を離れる一切の事柄であり、逸脱である。」182
→要は「不適合」が裁かれる。
(3)「規律・訓練的な罰は、逸脱をなくすという機能をもつ。したがってその罰は、本質的には矯正感化的でなければならない。」
「少なくとも大抵の場合には、規律・訓練的な処罰は義務じたいと異種同形であり、規則違反への報復というより、義務のくり返し、義務の反覆(反復?-ひざわ)の強要である。」183
(4)「規律・訓練における処罰は、恩恵=制裁の二重の体系の一要素にほかならない。しかもこの体系こそが訓育および矯正の過程のなかで作用的になる。」184
→罰よりも褒賞
(5)「序列や段階にもとづく〔個々人の〕配分には、二重の役割が含まれる。つまり、逸脱を明示し、性質と能力と適性を階層秩序化することであり、他方、懲罰を加え褒賞を与えることである。」185
「序列はそれじたいが褒賞もしくは処罰にひとしいわけである。」185
そして、規律・訓練による刑罰制度は法律による刑罰制度と対立する186-187
③試験
「監視をおこなう階層秩序の諸技術と規格化をおこなう制裁の諸技術とを結び合わせるのが、試験である。」188
(1)「試験は、権力の行使にあたって可視性という経済策を転倒する。・・・ところが規律・訓練的な権力のほうは、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する。」190
従来の権力 自分=可視 被権力者=不可視
<規律・訓練>的権力 自分=不可視 被権力者=可視
(2)「試験はまた個人性を記録文書の分野の対象にする。」192
「診断・検査は、付属的にもつこうした書記装置のおかげで、相関する二つの可能性をきりひらく。その一つは、記述可能で分析可能な客体として個人を組立てうる可能性である・・・。もう一つの可能性としては、比較中心の或る体系を組立てることであり、・・・」193
(3)「試験は、記録作成のすべての技術に守られ助けられることで、それぞれの個人を一つの≪事例≫に仕立てる。つまり、一つの認識にとっては一つの客体 を構成し、と同時に一つの権力にとっては一つの支配を構成する、そうした≪事例≫である。・・・事例とは、記述され評価され測定され他の個人と比較され、 しかも個人性じたいにおいてそうされうるような個人をさす。しかもまた、訓育されるべき、もしくは再訓育されるべき、さらに分類されるべき、規格化される べき、排除されるべき等々の、そうした個人をもさすのである。」194
「最後に試験は、個人を権力の成果および客体として、知の成果および客体として構成する上述の諸方式の中心に位置している。試験こそが、階層秩序的な監視 と、規格化を行う制裁とを結びつけることで、配分や分類や力および時間の最大限の抽出や段階的形成による連続的な累積や適性の最もふさわしい組立てなど の、大がかりな規律・訓練的な機能を確保する。」195
第3章 一望監視方式
・規律・訓練の諸制度の、深部で起こった各種の過程の顕著な側面について211
(1)「規律・訓練の機能面の逆転。・・・ところが今後、規律・訓練にはその性能があるという理由で、積極的な役目を果たさせて、個々人の効用の可能性を増加させることが求められるようになる。」211
(2)「規律・訓練の諸機能の分散移転。・・・しなやかな取締方式、移し替え取込みうる取締方式に変わるわけである。」212
(3)「規律・訓練の諸機能の国家管理。」
「≪規律・訓練≫は、或る施設とも或る装置とも同一視されえない。それは或る型の権力であり、その権力を行使するために道具・技術・方式・適用水準・標的をともなう或る様式である。」
→それを「担当」できるものとして
「施設」、「〔権力的〕諸段階」、「装置」、「国家装置(治安警察)」216
(1)「ひとまとめに言いうるとすれば、規律・訓練は人間の多様性の秩序化を確保するための技術である。」
三つの基準→①経費がかからず、②効果を最大限にし、③権力の増大と権力の装置とを結びつける
(2)「規律・訓練は一種の反=法律だと考える必要があるのである。」→2つの理由でもって222-
(3)「・・・それらの方式は組立てられ一般化されて、知の形成と権力の増大が或る円環的な過程によって規則正しく強化し合う、そうした水準に達している点である。」224
◆第4部 監獄
第1章 「完全で厳格な制度」
1「われわれが手放すわけにはいかない監獄のこうした≪自明の理≫は、第一に≪自由の剥奪≫という単純な形式に基礎をおく。」
2「だが監獄のもつ自明の理は、個々人を変容する装置という、仮定されるか要求されるかの差はあれ、その役割にも根拠をおいている。」232
「要約すれば、すでに十九世紀初頭から刑法上の投獄は自由の剥奪をと同時に技術による個々人の変容をも担当してきたのである。」233
・「監獄」が≪あらゆる点で規律・訓練的≫235であるための原則
(1)「第一の原則としての孤立化。」→そのための2つ(4つ)の理由。235-
(2)「孤立化とともに労働は、〔受刑者の〕監禁本位の変容の一つの動因として定義されるわけである。・・・労働は監禁制度の不可物でも緩和物でもなく、 とどのつまり、徒刑の場合であれ懲役の場合であれ拘禁の場合であれ、立法者自身の理解では、労働は全く必然的に監禁制度に伴うべきものである。」239
(3)「監獄は刑罰の軽重を調整する一つの手段になる傾向があるのだ。」242
第2章 違法行為と非行性
・≪行刑の条件≫として
(1)「刑罰としての拘禁は、個人の行動の変容を根本的機能としなければならない。・・・矯正の原則」267
(2)「被拘禁者はその刑罰の軽重にもとづき、だがとくにその年齢、その性質にもとづき、またその当人に用いるべしと要求される矯正技術や当人の変化の段階にもとづき独房に入れるか、少なくとも配分されなければならない。・・・分類の原則」268
(3)「刑罰とその刑期は、被拘禁者の個性にもとづき、進歩もしくは堕落など入手される結果にもとづき変更されうるものでなければならない。・・・刑罰調整の原則」268
(4)「労働は被拘禁者の変容ならびに漸進的社会化を生む根本的な部分の一つでなければならない。・・・義務として、また権利としての労働の原則」268
(5)「公権力にとって被拘禁者の教育は、社会の利益のために不可欠な配慮であり、また同時に被拘禁者にたいする義務である。・・・行刑上の教育の原則」268
(6)「監獄組織の少なくとも一部分は、個々の囚人の良き形成に留意する道徳的かつ技術的能力を有する専門家が監督し責任をもつべきである。・・・拘禁の技術的帰省の原則」268-269
(7)「元の被拘禁者が〔社会的〕再適応を行うまで、監禁には取締りと援助の施策がともなわねばならない。・・・補足的な制度の原則」269
第3章 監禁的なるもの
・規律・訓練の最も強度な状態における形態→「メトレー施設」が準拠している五つのモデル
①「家族モデル」
②「軍隊モデル」
③「仕事場モデル」
④「学校モデル」
⑤「裁判モデル」294
・いわゆる「監禁群島」297のもたらした重大な結果
(1)「・・・人々は無秩序〔=放埒〕から法律違反へ、また反対方向として法律への違反から或る規則、或る平均的なもの、或る要請、或る規格などからの逸脱へいわば当然事でもあるかのように移し替えられてしまう。」299→連続性
(2)「さまざまな手続きをふくむ監禁的なるものをもってすれば、重大な≪非行者≫の徴募が可能である。この監禁的なるものによって、≪規律・訓練的な生 産≫とでも名付けられるものが組織され、そこでは排除や拒否の側面があるにもかかわらず磨きあげの作業がすっかり営まれる。」300
「監獄が非行性を罰するのは真実ではあるが、本質的には非行性は、今度は監獄によって究極的にくりかえされる監禁のなかで、監禁によって作り出される。」301
(3)「しかしながら監禁制度の、しかも法律上の投獄をはるかに超えたその制度拡大の多分最も重要な結果はというと、その制度のおかげで処罰権が自然かつ正当とされ、不法不正への黙許から刑罰行為までの水準が少なくとも低下せしめられるにいたった点である。」301
「投獄するまでにいたらず人を閉じ込める≪矯正≫施設の最低段階のものと、法律違反を特定したのちにその罪人を送りこむ監獄との間では、差異はほとんど感じられない(しかも感じられてはならない)のである。」302
(4)「・・・つまり司法権力における、ないしは少なくともそれの運用における内的な解体であり、判断≪=判決≫を行うさいの困難の、しかも有罪宣告をく だすさいの一種の恥辱の増大であり、規格的なものと規格外的なものを評定し評価し診断し見分けたいとの裁判官における激しい欲求であり、しかも治療したり 社会復帰させたりという名誉の主張である。」303
「・・・彼らが≪治療本位の≫裁定をくだしたり≪社会復帰をめざす≫投獄を決定したりするのは彼らが行使する権力の経済策によるのであって、彼らの周到さやヒューマニズムに発する経済策にもとづくのではない。」304
(5)「社会の監禁網は身体の現実的支配と果てしない観察とを同時に確実におこなうのであって、自らの固有性の点で、権力の新しい経済策に最も合致した処 罰装置であり、しかもこの経済策そのものが必要とする知の形成のための道具である。こうした監禁網は自らの一望監視的な作用のおかげでこの二重の役割をは たすことができるのである。」304
(6)「そのことで多分説明がつくのは、監獄の、ただしすでにその誕生当初から非難の的であるこのささやかな発明の、極端な永続性である。」
■引用
◆規律・訓練 discipline
ミシェル・フーコー Michel Foucault 1926.10.15~1984. 6.25
フランスの哲学者、歴史家。形成期には、哲学のみならず精神医学を学び、ポーランド、スウェーデン、ドイツなどで臨床の経験を積んだ。この「哲学者」の著作の多くが、医学、歴史、文学などの領域に相わたるものとなっている理由の一半はそこにある。
最初の著書は『精神疾患と人格』 Maladie mentale et personnalité (1954、62年改訂されて『精神疾患と心理学』 Maladie mentale et psychologie )であるが、真にフーコーをフーコーたらしめた処女作というべきは、大著『狂気の歴史――古典主義時代における』 Folie et déraison : Histoire de la folie à l’âge classique (61、改訂新版62)である。フーコーの企図は「狂気」の復権などではない。定義からして言葉を与えられず、言葉を発しない、この狂気という「沈黙」の「考古学」を企てることによって、パスカルの言う「もう一つの狂気」、すなわち普通人の正気と考えられているものを照らし出そうとしたのである。当然のことながらそれは、ほとんど言葉を残していない狂気そのものから発しては行い得ず、それについての同時代者たちの言葉の「発掘」によって行われる。
次作『臨床医学の誕生――医学的眼差しの考古学』 Naissance de la clinique : une archéologie du regard médical (63)は、身体の疾患に関する医師の言葉のみを特権的対象として、主に18世紀末から19世紀初頭にかけて生じた、医学的眼差しの根源的な変換に光をあてる。サブタイトルが示すように、これもまた『狂気の歴史』に続いて一つの「考古学」であった。可視と不可視の解きほぐし難い絡み合いについてそこに展開される論述は、フーコーのあらゆる仕事についてまわるものとなる。
すでに高かったフーコーの盛名を、さらに世界的なものにしたのが次著『言葉と物』 Les Mots et les choses, une archéologie des sciences humaines (66)である。そこにおいて、フーコーの企てはいちだんと野心的になる。すなわち、「人間諸科学の考古学」とのサブタイトルが示すように、「(科)学」の対象としての「人間」の来歴を問い、それが思いのほかに新しい、最近のものであり、しかも、そのようなものであるかぎりにおける「人間」の死は近い、と述べることによって、多くの誤解を伴う物議をかもしたのである。
■目次
- 第一部 身体刑 (Torture / Torture)
- 第1章 受刑者の身体 (Le corps des condamnés / The body of the condemned)
- 第2章 身体刑の華々しさ (L'éclat des supplices / The spectacle of the scaffold)
- 第二部 処罰 (Punition / Punishment)
- 第1章 一般化される処罰 (La punition généralisée / Generalized punishment)
- 第2章 刑罰のおだやかさ (La douceur des peines / The gentle way in punishment)
- 第三部 規律・訓練 (Discipline / Discipline)
- 第1章 従順な身体 (Les corps dociles / Docile bodies)
- 配分の技術 (L'art des répartitions / The art of distributions)
- 活動の取締り (Le contrôle de l'activité / The control of activity)
- 段階的形成の編成 (L'organisation des genèses / The organization of geneses)
- さまざまの力の組立 (La composition des forces / The composition of forces)
- 第2章 良き訓育の手段 (Les moyens du bon dressement / The means of correct training)
- 階層秩序的な監視 (La surveillance hiérarchique / Hierarchical observation)
- 規格化をおこなう制裁 (La sanction normalisatrice / Normalizing judgement)
- 試験 (L'examen / The examination)
- 第3章 一望監視方式 (Le panoptisme / Panopticism)
- 第四部 監獄 (Prison / Prison)
- 第1章 完全で厳格な制度 (Des institutions complètes et austères / Complete and austere institutions)
- 第2章 違法行為と非行性 (Illégalismes et délinquance / Illegalities and delinquency)
- 第3章 監禁的なるもの (Le carcéral / The carceral)
- 『監獄の誕生』について
- 固有名詞索引
◆第3部 規律・訓練
第1章 従順な身体
「技術=政治の領域。」142 この領域では・・・
①「まず取締りの尺度。・・・細部にわたって身体に働きかけること、細微な強制権を身体に行使すること、力学の水準そのものにおける影響―運動・動作・姿勢・速さを確実に与えること・・・」142
②「つぎに取締りの客体。・・・表徴であるよりも体力(「見た目」よりも「実」ひざわ)・・・」142
③「最後に取締りの様相。それは結果によりも活動の過程に留意する、絶えまのない恒常的な強制権を含むものであり、・・・」142
「身体の運用への綿密な取締りを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順=効用の関係を強制するこうした方法こそが、≪規律・訓練discipline≫と名づけうるものである。」143
①配分の技術
(1)「しばしば規律・訓練は、閉鎖を、つまり他のすべての者には異質な、それじたいのために閉じられた場所の特定化を要求する。」147
→「私立学校」、「兵営」、「製造所の寄せ集めが、ついで十八世紀の後半には工場が、・・・」
(2)「しかし、≪閉鎖≫のこの原則は、規律・訓練の装置のなかでは恒常的でも不可欠でも充分でもない。この装置は、はるかに柔軟かつ巧妙なしかたで空間 を再構成するのである。しかもまず、基本的な位置決定もしくは基盤割りの原則にもとづいて。」148 →「修道院の独房」
(3)「機能的な位置決定の準則が、・・・規律・訓練中心の諸施設では徐々に記号体系化しようとする。」149
(4)「規律・訓練〔の施設〕では、基本的要素は相互に置き換えが可能である、・・・規律・訓練〔の施設〕では、基本単位は所属分野(支配の単位)でも場 所(所在の単位)でもなくて序列である。・・・それぞれの身体を定着させるのではなく配分して、ある諸関係の網目のなかにその身体を順次めぐらせる、こう した位置決定によって、規律・訓練はそれぞれの身体を個別化するのである。」150-151
→「学級」
「学校の空間を、学ぶだけのみならず監視し階層化し賞罰を加える一つの装置として機能せしめるようになった。」152
②活動の取締り
(1)「時間割・・・その三つの主要な方策―拍子をつけた時間区分、所定の仕事の強制、反復のサイクルの規制・・・」154
(2)「時間面での行為の磨きあげ。」155-156
(3)「身体と身振りの相関化・・・」
(4)「身体=客体の有機的配置」→「担え銃」の例
「これこそは、身体の道具本位の記号体系化とでも呼びうるような事態の一例である・・・動かすべき身体の諸要素・・・の系列と、操作する客体〔=物体〕の諸要素・・・の系列。」157
「権力は、身体=兵器、身体=道具、身体=機械という一種の複合をつくりあげるわけである。」
(5)「尽きざる活用。・・・つまり〔時間の〕使用というより尽きざる消費である。」158
③段階的形成の編成
「第一には、時の流れを、連続的であれ平行的であれ線分に分割し、各人がその線分の特定な終局にまで達しなければならない。」161
「第二点として、これらの段階を或る分析的な図式にもとづいて編成すべきである―可能なかぎり単純な諸要素のいくつかの連続が、或る増大する複雑さにもとづいて結び合わされるからである。」161
「第三には、時間中心のこれらの部分部分に目標を与えて、それぞれの部分の終りを試験でしめくくるべきであり、その試験には、受験者が規定上の水準に達し たかどうかの指示、当人の技術習得が他の者のそれと同一内容であるとの保証、各個人の能力の区別という三重の機能が与えられる。」162
「第四点として、いくつかの系列から或る系列を配置して、各人に適する訓練を、その水準・古さ・位階に応じて各人に定めるべきであって、共通して行われる訓練には、分化した役割が与えられ、それぞれの区別には、種別的な訓練が含まれる。」162
「連続しておこなわれるさまざまな〔人間〕活動の≪系列≫化によって、権力が時間の流れをすっかり攻囲する事態が生み出される。すなわち、詳細にわたる管 理の、また、時間を厳守した一刻ごとの(区別・矯正・懲罰・排除を中心とした)介入の可能性であり、つぎに、個々人が自分のたどる系列のなかで占める水準 に応じて個々人の特色を定めうる、したがって個々人を活用しうる可能性であり、時間と活動とを集積して、その双方を一個人の最後の能力たる最終的な成果の なかで総体化され利用可能なかたちで再び見出しうる可能性である。」163
④さまざまの力の組立
(1)「一つの身体は、人々が配置し動かし他の身体に連結しうる一つの要素となる。その身体の豪胆さや力とは、・・・身体が占める位置、身体がおおう間 隔、身体が位置移動をおこなう場合の元にある規則正しさ・りっぱな秩序である。部隊に属する兵卒は、或る勇気や或る名誉の持主である以前に、とりわけ、動 的な空間部分なのである。」166-167
(2)「ある複合的時間を形づくるために、規律・訓練が結び合わす必要のある各種の時間継起上の系列である。」167
(3)「〔人間の〕さまざまの力の、注意ぶかく計算されたこうした組み合わせは、精確な命令組織をぜひとも必要とする。」168
「要約して言うとすれば、規律・訓練は規制する身体をもとにして四つの型の個人性を、というよりむしろ、四つの性格のそなわった個人性を造りだすのであ る。つまりそれは(空間配分の作用によって)独房的であり、(活動の記号体系化によって)有機的であり、(時間の累積によって)段階的形成を旨とし、(さ まざまな力の組立てによって)組合せを旨とする。しかもそのために規律・訓練は、四つの主要な技術を用いるのである。つまり、まず一覧表をつくりあげ、つ ぎに操練を規定し、さらに訓練を強制し、最後には、力の組合せを確保するため≪戦術≫を整える。≪戦術≫とは、持場の指定された身体、記号体系化された活 動、養成された能力などを用いて仕組をつくりあげ、そこでは各種の力の所産をそれら力の計画的な組合せによって増大させる技法であって、こうした戦術は規 律・訓練の実務の最高形式といってよいだろう。」169-170
第2章 良き訓育の手段
①階層秩序的な監視
「規律・訓練の行使は、視線の作用によって強制を加える仕組を前提としている。」175
「多種多様で交錯した監視にかんする、また相手にみられずに相手を見なければならない視線にかんする、ささやかな技術が存在したのであり、・・・」176
・例として
→医療的行為の道具としての「病院=建物」、訓育のひとつの差要素としての「学校=建物」
・これら建築物がもたらす監視を・・・
「それを些細なものだと考える人があるとすれば、個々人の行動についての段階的な客観化および次第に精密になる基盤割の監視をめざした、より小規模だが欠点のない、こうしたすべての装置の役割を忘れさっている人に限られるだろう。」178
「規律・訓練の階層秩序化された監視における権力は、一つの物として所有されるわけでもなく、一つの権利として譲渡されるわけでもなく、一つの機械仕掛と して機能するのだ。・・・実はその装置全体が、≪権力≫を生み出して、この永続的で連続した領域のなかに個々人を配分している。・・・取締る役目の者をも たえず取締るからである。・・・ひそかに機能するからである。・・・」181
②規格化をおこなう制裁
(1)「規律・訓練的なすべての組織の中心では、ささやかながら刑罰の機構が機能するのである。その機構は、それ自身の掟や種別的な罪や特定の処罰形式や裁判審級などをふくむ、一種の裁判権を有する。」181-182
(2)「だが規律・訓練に派特定の処罰方式がふくまれるとしても、ただ単にそれは一般の裁判の縮小モデルというわけではない。規律・訓練上の刑罰の対象になるものは、規則などへの違反、規則に妥当しない一切の事柄、規則を離れる一切の事柄であり、逸脱である。」182
→要は「不適合」が裁かれる。
(3)「規律・訓練的な罰は、逸脱をなくすという機能をもつ。したがってその罰は、本質的には矯正感化的でなければならない。」
「少なくとも大抵の場合には、規律・訓練的な処罰は義務じたいと異種同形であり、規則違反への報復というより、義務のくり返し、義務の反覆(反復?-ひざわ)の強要である。」183
(4)「規律・訓練における処罰は、恩恵=制裁の二重の体系の一要素にほかならない。しかもこの体系こそが訓育および矯正の過程のなかで作用的になる。」184
→罰よりも褒賞
(5)「序列や段階にもとづく〔個々人の〕配分には、二重の役割が含まれる。つまり、逸脱を明示し、性質と能力と適性を階層秩序化することであり、他方、懲罰を加え褒賞を与えることである。」185
「序列はそれじたいが褒賞もしくは処罰にひとしいわけである。」185
そして、規律・訓練による刑罰制度は法律による刑罰制度と対立する186-187
③試験
「監視をおこなう階層秩序の諸技術と規格化をおこなう制裁の諸技術とを結び合わせるのが、試験である。」188
(1)「試験は、権力の行使にあたって可視性という経済策を転倒する。・・・ところが規律・訓練的な権力のほうは、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する。」190
従来の権力 自分=可視 被権力者=不可視
<規律・訓練>的権力 自分=不可視 被権力者=可視
(2)「試験はまた個人性を記録文書の分野の対象にする。」192
「診断・検査は、付属的にもつこうした書記装置のおかげで、相関する二つの可能性をきりひらく。その一つは、記述可能で分析可能な客体として個人を組立てうる可能性である・・・。もう一つの可能性としては、比較中心の或る体系を組立てることであり、・・・」193
(3)「試験は、記録作成のすべての技術に守られ助けられることで、それぞれの個人を一つの≪事例≫に仕立てる。つまり、一つの認識にとっては一つの客体 を構成し、と同時に一つの権力にとっては一つの支配を構成する、そうした≪事例≫である。・・・事例とは、記述され評価され測定され他の個人と比較され、 しかも個人性じたいにおいてそうされうるような個人をさす。しかもまた、訓育されるべき、もしくは再訓育されるべき、さらに分類されるべき、規格化される べき、排除されるべき等々の、そうした個人をもさすのである。」194
「最後に試験は、個人を権力の成果および客体として、知の成果および客体として構成する上述の諸方式の中心に位置している。試験こそが、階層秩序的な監視 と、規格化を行う制裁とを結びつけることで、配分や分類や力および時間の最大限の抽出や段階的形成による連続的な累積や適性の最もふさわしい組立てなど の、大がかりな規律・訓練的な機能を確保する。」195
第3章 一望監視方式
・規律・訓練の諸制度の、深部で起こった各種の過程の顕著な側面について211
(1)「規律・訓練の機能面の逆転。・・・ところが今後、規律・訓練にはその性能があるという理由で、積極的な役目を果たさせて、個々人の効用の可能性を増加させることが求められるようになる。」211
(2)「規律・訓練の諸機能の分散移転。・・・しなやかな取締方式、移し替え取込みうる取締方式に変わるわけである。」212
(3)「規律・訓練の諸機能の国家管理。」
「≪規律・訓練≫は、或る施設とも或る装置とも同一視されえない。それは或る型の権力であり、その権力を行使するために道具・技術・方式・適用水準・標的をともなう或る様式である。」
→それを「担当」できるものとして
「施設」、「〔権力的〕諸段階」、「装置」、「国家装置(治安警察)」216
(1)「ひとまとめに言いうるとすれば、規律・訓練は人間の多様性の秩序化を確保するための技術である。」
三つの基準→①経費がかからず、②効果を最大限にし、③権力の増大と権力の装置とを結びつける
(2)「規律・訓練は一種の反=法律だと考える必要があるのである。」→2つの理由でもって222-
(3)「・・・それらの方式は組立てられ一般化されて、知の形成と権力の増大が或る円環的な過程によって規則正しく強化し合う、そうした水準に達している点である。」224
◆第4部 監獄
第1章 「完全で厳格な制度」
1「われわれが手放すわけにはいかない監獄のこうした≪自明の理≫は、第一に≪自由の剥奪≫という単純な形式に基礎をおく。」
2「だが監獄のもつ自明の理は、個々人を変容する装置という、仮定されるか要求されるかの差はあれ、その役割にも根拠をおいている。」232
「要約すれば、すでに十九世紀初頭から刑法上の投獄は自由の剥奪をと同時に技術による個々人の変容をも担当してきたのである。」233
・「監獄」が≪あらゆる点で規律・訓練的≫235であるための原則
(1)「第一の原則としての孤立化。」→そのための2つ(4つ)の理由。235-
(2)「孤立化とともに労働は、〔受刑者の〕監禁本位の変容の一つの動因として定義されるわけである。・・・労働は監禁制度の不可物でも緩和物でもなく、 とどのつまり、徒刑の場合であれ懲役の場合であれ拘禁の場合であれ、立法者自身の理解では、労働は全く必然的に監禁制度に伴うべきものである。」239
(3)「監獄は刑罰の軽重を調整する一つの手段になる傾向があるのだ。」242
第2章 違法行為と非行性
・≪行刑の条件≫として
(1)「刑罰としての拘禁は、個人の行動の変容を根本的機能としなければならない。・・・矯正の原則」267
(2)「被拘禁者はその刑罰の軽重にもとづき、だがとくにその年齢、その性質にもとづき、またその当人に用いるべしと要求される矯正技術や当人の変化の段階にもとづき独房に入れるか、少なくとも配分されなければならない。・・・分類の原則」268
(3)「刑罰とその刑期は、被拘禁者の個性にもとづき、進歩もしくは堕落など入手される結果にもとづき変更されうるものでなければならない。・・・刑罰調整の原則」268
(4)「労働は被拘禁者の変容ならびに漸進的社会化を生む根本的な部分の一つでなければならない。・・・義務として、また権利としての労働の原則」268
(5)「公権力にとって被拘禁者の教育は、社会の利益のために不可欠な配慮であり、また同時に被拘禁者にたいする義務である。・・・行刑上の教育の原則」268
(6)「監獄組織の少なくとも一部分は、個々の囚人の良き形成に留意する道徳的かつ技術的能力を有する専門家が監督し責任をもつべきである。・・・拘禁の技術的帰省の原則」268-269
(7)「元の被拘禁者が〔社会的〕再適応を行うまで、監禁には取締りと援助の施策がともなわねばならない。・・・補足的な制度の原則」269
第3章 監禁的なるもの
・規律・訓練の最も強度な状態における形態→「メトレー施設」が準拠している五つのモデル
①「家族モデル」
②「軍隊モデル」
③「仕事場モデル」
④「学校モデル」
⑤「裁判モデル」294
・いわゆる「監禁群島」297のもたらした重大な結果
(1)「・・・人々は無秩序〔=放埒〕から法律違反へ、また反対方向として法律への違反から或る規則、或る平均的なもの、或る要請、或る規格などからの逸脱へいわば当然事でもあるかのように移し替えられてしまう。」299→連続性
(2)「さまざまな手続きをふくむ監禁的なるものをもってすれば、重大な≪非行者≫の徴募が可能である。この監禁的なるものによって、≪規律・訓練的な生 産≫とでも名付けられるものが組織され、そこでは排除や拒否の側面があるにもかかわらず磨きあげの作業がすっかり営まれる。」300
「監獄が非行性を罰するのは真実ではあるが、本質的には非行性は、今度は監獄によって究極的にくりかえされる監禁のなかで、監禁によって作り出される。」301
(3)「しかしながら監禁制度の、しかも法律上の投獄をはるかに超えたその制度拡大の多分最も重要な結果はというと、その制度のおかげで処罰権が自然かつ正当とされ、不法不正への黙許から刑罰行為までの水準が少なくとも低下せしめられるにいたった点である。」301
「投獄するまでにいたらず人を閉じ込める≪矯正≫施設の最低段階のものと、法律違反を特定したのちにその罪人を送りこむ監獄との間では、差異はほとんど感じられない(しかも感じられてはならない)のである。」302
(4)「・・・つまり司法権力における、ないしは少なくともそれの運用における内的な解体であり、判断≪=判決≫を行うさいの困難の、しかも有罪宣告をく だすさいの一種の恥辱の増大であり、規格的なものと規格外的なものを評定し評価し診断し見分けたいとの裁判官における激しい欲求であり、しかも治療したり 社会復帰させたりという名誉の主張である。」303
「・・・彼らが≪治療本位の≫裁定をくだしたり≪社会復帰をめざす≫投獄を決定したりするのは彼らが行使する権力の経済策によるのであって、彼らの周到さやヒューマニズムに発する経済策にもとづくのではない。」304
(5)「社会の監禁網は身体の現実的支配と果てしない観察とを同時に確実におこなうのであって、自らの固有性の点で、権力の新しい経済策に最も合致した処 罰装置であり、しかもこの経済策そのものが必要とする知の形成のための道具である。こうした監禁網は自らの一望監視的な作用のおかげでこの二重の役割をは たすことができるのである。」304
(6)「そのことで多分説明がつくのは、監獄の、ただしすでにその誕生当初から非難の的であるこのささやかな発明の、極端な永続性である。」
■引用
◆規律・訓練 discipline
「まず取締りの尺度。すなわち、不可分な統一単位ででもあるかのように身体を、かたまりとして、大ざっぱに扱うのが問題なのではなく、細部にわたって身 体に働きかけること、微細な強制権を身体に行使すること、力学の水準そのものにおける影響――運動・動作・姿勢・速さを確実に与えることが重要である。つ まり、活動的な身体へおよぶ無限小の権力である。つぎに取締りの客体。それは行為の意味表示的な構成要素もしくは身体言語ではなく、またそれらではもはや なく、[身体の]運動の経済や効果や内的な組織である。束縛の対象は[身体の]表象であるよりも体力であって、真に重要である唯一の儀式は訓練のそれであ る。最後に取締りの様相。それは活動の結果よりも活動の過程に留意する、絶えまのない恒常的な強制権を含むのであり、最大限に詳細に時間・空間・運動を碁 盤目状に区分する記号体系にもとづいて行われる。身体の運用への綿密な取締りを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎのないものとし、体力に従順=効用の 関係を強制するこうした方法こそが《規律・訓練discipline》と名づけうるものである。」
(Foucault[1975=1977:142-143])
「構成要素として個々人をもつとされる社会については,そのモデルは契約および交換という抽象的な法律上の形式から借用される,との意見がもっぱらであ る。商業中心の社会は,個々の法的主体の契約関係として表わしていい,というわけである。多分そうだろう。なるほど十七世紀と十八世紀の政治理論は,しば しばこの図式に従っているように思われる。しかし忘れてはならないのは,同じ時代には,或る権力および或る知の相関的構成要素として実際に個々人を組立て るための,或る技術が存在したという点である。なるほど個人というものは,社会の《観念論上の》表象の虚構的な原子であるにちがいないが,しかしそれは 《規律・訓練》と名づけられる,権力の例の種別的な技術論によって造りだされる一つの現実でもあるのである。たとえば,権力は《排除する》,それは《抑制 する》,それは《抑圧する》,それは《取締まる》,それは《抽象する》,それは《仮面をかぶせる》,それは《隠蔽する》などの,否定・消極的な関連でつね に権力の効果を述べるやり方は中止しなければならない。実際には,権力は生み出している,現実的なるものを生み出している,客体の領域および真実について の祭式を生み出している。個人,ならび個人について把握しうる認識は,こうした生み出しの仕事に属している。」 (Foucault[1975=1977:196])
「原理上は平等主義的な権利の体系を保証していた一般的な法律形態はその基礎では,規律・訓練が組立てる,本質的には不平等主義的で不均斉な,微視的権 力の例の体系によって,細々とした日常的で物理的な例の機構によって支えられていた。しかも,形式的には代議制度は,万人の意思が直接的にであれ間接的に であれ,中継の有無を別にして,統治権の基本的段階を形づくるのを可能にする反面では,その基盤において規律・訓練のほうは,力と身体の服従を裏付けるの である。」(Foucault[1975=1977:222])
「むしろ,規律・訓練は一種の反=法律だと考える必要があるのである。その明確な役割は,のり越えがたい不均斉の導入,相互関係の排除である。その第一 の理由は,規律・訓練は個々人のあいだに《私的な》絆をつくりあげ,その絆たるや,契約の義務とは全く異なる一つの拘束関係だからである。ある規律・訓練 を受諾することは,なるほど契約の手続きで承認されるものかもしれないが,その規律・訓練が強制される仕方,それが働かせる機構,ある人々に対する他の 人々のあべこべにしえない従属関係,いつも同じ側に固定される《より多くの権力》,共通の規則についても別々の《成員》では違ってくる立場の不平等性,以 上の事態によって,規律・訓練による人々の絆は対立するものとなり,後者の絆は,規律・訓練的な機構を内容としてもつようになるや系統的に絶たれてしまう のである。たとえば,労働契約という法的擬制を,どんなに多くの[規律・訓練の]実際の処置がゆがめるかは周知のとおりである。工場における規律・訓練が 最も重要なわけではないのだから。次の理由としては,法律体系が普遍的規範にもとづいて法的主体を規定するのに対して,規律・訓練は[人々の]特色を示 し,分類をおこない,特定化する。ある尺度にそって配分し,ある規範のまわりに分割し,個々人を相互にくらべて階層秩序化し,極端になると,その資格をう ばいとり,相手を無効にする。ともかくも規律・訓練は,自らが取締りをおこない自分の権力の不均斉[な諸機能]を作用させるそうした空間や時間のなかで は,けっして全面的ではないがけっして取消されもしない,法律の一時停止を実施する。規律・訓練はどんなに規則遵守的で制度中心的であっても,その機構上 は一つの《反=法律》である。」(Foucault[1975=1977:222-223])
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ミシェル・フーコー Michel Foucault 1926.10.15~1984. 6.25
フランスの哲学者、歴史家。形成期には、哲学のみならず精神医学を学び、ポーランド、スウェーデン、ドイツなどで臨床の経験を積んだ。この「哲学者」の著作の多くが、医学、歴史、文学などの領域に相わたるものとなっている理由の一半はそこにある。
最初の著書は『精神疾患と人格』 Maladie mentale et personnalité (1954、62年改訂されて『精神疾患と心理学』 Maladie mentale et psychologie )であるが、真にフーコーをフーコーたらしめた処女作というべきは、大著『狂気の歴史――古典主義時代における』 Folie et déraison : Histoire de la folie à l’âge classique (61、改訂新版62)である。フーコーの企図は「狂気」の復権などではない。定義からして言葉を与えられず、言葉を発しない、この狂気という「沈黙」の「考古学」を企てることによって、パスカルの言う「もう一つの狂気」、すなわち普通人の正気と考えられているものを照らし出そうとしたのである。当然のことながらそれは、ほとんど言葉を残していない狂気そのものから発しては行い得ず、それについての同時代者たちの言葉の「発掘」によって行われる。
次作『臨床医学の誕生――医学的眼差しの考古学』 Naissance de la clinique : une archéologie du regard médical (63)は、身体の疾患に関する医師の言葉のみを特権的対象として、主に18世紀末から19世紀初頭にかけて生じた、医学的眼差しの根源的な変換に光をあてる。サブタイトルが示すように、これもまた『狂気の歴史』に続いて一つの「考古学」であった。可視と不可視の解きほぐし難い絡み合いについてそこに展開される論述は、フーコーのあらゆる仕事についてまわるものとなる。
すでに高かったフーコーの盛名を、さらに世界的なものにしたのが次著『言葉と物』 Les Mots et les choses, une archéologie des sciences humaines (66)である。そこにおいて、フーコーの企てはいちだんと野心的になる。すなわち、「人間諸科学の考古学」とのサブタイトルが示すように、「(科)学」の対象としての「人間」の来歴を問い、それが思いのほかに新しい、最近のものであり、しかも、そのようなものであるかぎりにおける「人間」の死は近い、と述べることによって、多くの誤解を伴う物議をかもしたのである。
Michel Foucault : Les Mots et les Choses (INA, 1966)
http://youtu.be/CVy_frFL7w4
http://youtu.be/CVy_frFL7w4
『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』
◇更新:20041207
1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編(2000)
『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』筑摩書房、375頁。5500円。
目次
1978
219 フーコーによる序文 廣瀬浩司訳
220 十九世紀司法精神医学における「危険人物」という概念の進展 上田和彦訳
221 権力をめぐる対話 菅野賢治訳
222 狂気と社会 M・フーコー+渡辺守章
223 紹介文 鈴木雅雄訳
224 私の好きなウージェーヌ・シュー 渡辺響子訳
225 驚くべき博識 坂本佳子訳
226 アラン・ペイルフィットの釈明……ならびに、ミシェル・フーコーの返答 國分功一郎訳
227 伝統的な政治的枠組み 國分功一郎訳
228 危険、要注意 高塚浩由樹訳
229 近代テクノロジーへの病院の組み込み 小倉孝誠訳
230 性と政治を語る M・フーコー+渡辺守章+根本長兵衛
231 危機に立つ規律社会(記事)
232 政治の分析哲学 M・フーコー+渡辺守章
233 〈性〉と権力 渡辺守章訳
234 哲学の舞台 M・フーコー+渡辺守章
235 世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか M・フーコー+吉本隆明
236 M・フーコーと禅 佐藤清靖訳
237 神秘なる両性具有者 鈴木雅雄訳
238 権力に関する明言―一部の批判に答えて 菅野賢治訳
239 「統治性」 石田英敬訳
240 犯罪者の善用について 高塚浩由樹訳
241 軍は大地の揺れる時に 高桑和巳訳
242 M・フーコー、「権力構造」を分析する哲学者とのコンプレックス抜きの会話 菅野賢治訳
243 シャーは百年遅れている 高桑和巳訳
244 テヘラン-シャーに抗する信仰 高桑和巳訳
245 イラン人たちは何を考えているのか? 高桑和巳訳
246 レモンとミルク 高桑和巳訳
247 鮮烈な驚き 西宮かおり訳
248 素手での反抗 高桑和巳訳
249 反体制派への挑戦 高桑和巳訳
250 理念のルポルタージュ 高桑和巳訳
251 イラン人女性読者へのミシェル・フーコーの回答 高桑和巳訳
252 イランの反抗はカセット・テープ上を走っている 高桑和巳訳
253 反抗の神話的指導者 高桑和巳訳
254 フーコーから「ウニタ」への書簡 西宮かおり訳
255 治安・領土・人口 小林康夫訳
日本語版編者解説(小林康夫)
(dall’intervista a Michel Foucault realizzata da Serge Moati il 25 aprile 1977 e tradotta da noi)
Moati: Qual è secondo lei la funzione di un giudice nella società? ...A cosa serve?
Foucault: A cosa serve? Se fossi cattivo... ma anche se non lo sono, lo dirò lo stesso. Serve, in fondo, a permettere alla polizia di funzionare. Ora, si crede sempre che il grande avvenimento del XVIII secolo sia la riforma giudiziaria, l’acquisizione delle libertà, e via dicendo. Di importante, nel XVIII secolo, c’è stata un’invenzione, un’invenzione il cui merito non è stato abbastanza riconosciuto ai suoi inventori, che sono dei francesi: si tratta della polizia. La polizia, nella sua forma moderna, è un’invenzione del XVIII secolo e della monarchia amministrativa. E infatti la polizia è stata, dal XVIII secolo in poi, un’istanza formidabile di regolazione sociale, di sorveglianza perpetua, di correzione incessante del comportamento degli uomini; e un’istanza non tanto di giustizia quanto di normalizzazione. Non si trattava tanto di far applicare la legge, quanto di ottenere un comportamento normale, conforme, degli individui. E questo lo ha fatto la polizia, lo ha fatto per tutto il XVIII secolo, e lavorando negli interstizi di un potere giudiziario che in fondo era troppo ampio, discontinuo, disattento e così via. Bene, e credo che questa funzione poliziesca... della quale si dice sempre che dev’essere subordinata alla polizia, che è in fondo il vero zoccolo duro su cui funziona attualmente la giustizia... La giustizia non è fatta che per registrare a livello ufficiale, a livello legale, a livello rituale anche, questi controlli che sono essenzialmente dei controlli di normalizzazione e che vengono assicurati dalla polizia. La giustizia è al servizio della polizia; lo è storicamente e, di fatto, istituzionalmente.
Il 13 gennaio 2014 il tribunale del riesame di Torino ha confermato l’arresto (avvenuto il 9 dicembre) di Chiara Zenobi, Claudio Alberto, Mattia Zanotti, Nicolò Blasi, così come l’ipotesi di reato formulata dai Pm Antonio Rinaudo e Andrea Padalino per i fatti avvenuti a Chiomonte il 14 maggio 2013: «attentato con finalità terroristiche».
Riportiamo alcune considerazioni svolte in un intervento intitolato Quando il nemico parla chiaro: brevi note sugli ultimi arresti:
Nelle carte dell’inchiesta, gli inquirenti, forzando il piano strettamente giuridico, sostengono una tesi squisitamente politica. Dopo aver fatto una breve storia degli atti legislativi e dei vertici internazionali che hanno portato all’installazione del cantiere di Chiomonte, i magistrati sostengono che si tratta di procedure democratiche. L’azione contro il cantiere – assieme allo stillicidio di pratiche di contrasto di cui il faldone giudiziario fornisce un ampio elenco – viene definita «terroristica» non tanto per le sue caratteristiche specifiche, ma in quanto si oppone alla democraticità di una decisione intergovernativa. Seguiamo questa logica. Tutte le imposizioni dello Stato hanno un involucro legale, cioè sono formalmente basate sul Diritto. Tutto ciò che mette realmente in discussione un progetto statale è dunque passibile di «terrorismo». Rimane solo il dissenso platonico. Dare concretezza al proprio NO, che in fondo è la caratteristica essenziale del movimento No Tav, risulta quindi antidemocratico. Benito Mussolini avrebbe detto «nulla fuori dallo Stato, nulla contro lo Stato». Il totalitarismo parla oggi un linguaggio diverso. Non ti stanno bene le nostre imposizioni democratiche? Sei un terrorista.
参考:
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400fm06.htm
『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』
201 寛容の灰色の曙 森田祐三訳
「ル・モンド」紙、九九九八号、一九七七年五月二十三日、24ページ、(一九六三年製作、一九六五年イタリア公開、ピエル・パオロ・パゾリーニの「愛の集会」について)
「そぞろ歩いたり、日なたぼっこをしている集団に、パゾリーニはたまたま通りかかったかのようにマイクを差し出し、誰にともなく、セックスや夫婦、快楽や家族、婚約とその習慣、売春とその料金といった諸々のことが交錯する、未決定の領域である「愛」について質問をする。」(本文より)
『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』
201 寛容の灰色の曙 森田祐三訳
「ル・モンド」紙、九九九八号、一九七七年五月二十三日、24ページ、(一九六三年製作、一九六五年イタリア公開、ピエル・パオロ・パゾリーニの「愛の集会」について)
「そぞろ歩いたり、日なたぼっこをしている集団に、パゾリーニはたまたま通りかかったかのようにマイクを差し出し、誰にともなく、セックスや夫婦、快楽や家族、婚約とその習慣、売春とその料金といった諸々のことが交錯する、未決定の領域である「愛」について質問をする。」(本文より)
『 ミシェル・フーコー思考集成 全10巻』筑摩書房
蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編
◆Ⅰ1954-1963 『狂気・精神分析・精神医学』
◆Ⅱ1965-1967 『文学・言語・エピステモロジー』
◆Ⅲ1968-1970 『歴史学・系譜学・考古学』
◆Ⅳ1971-1973 『規範・社会』
◆Ⅴ1974-1975 『権力・処罰』
◆Ⅵ1976-1977 『セクシュアリティ・真理』
◆Ⅶ1978 『知・身体』
◆Ⅷ1979-1981 『政治・友愛』
◆Ⅸ1982-1983 『自己・統治性・快楽』
◆Ⅹ1984-1988 『倫理・道徳・啓蒙』
◆Ⅰ1954-1963 『狂気・精神分析・精神医学』
◆Ⅱ1965-1967 『文学・言語・エピステモロジー』
◆Ⅲ1968-1970 『歴史学・系譜学・考古学』
◆Ⅳ1971-1973 『規範・社会』
◆Ⅴ1974-1975 『権力・処罰』
◆Ⅵ1976-1977 『セクシュアリティ・真理』
◆Ⅶ1978 『知・身体』
◆Ⅷ1979-1981 『政治・友愛』
◆Ⅸ1982-1983 『自己・統治性・快楽』
◆Ⅹ1984-1988 『倫理・道徳・啓蒙』
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-88 倫理/道徳/啓蒙』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm12.htm
1985
◆361 生命-経験と科学 廣瀬浩司訳
「形而上学と道徳」誌、九〇年度、第一号「特集=カンギレム」、一月-三月号、一九八五年、3-14ページ。
M・フーコーは「形而上学と道徳」誌の、師ジョルジュ・カンギレム特集号に新しいテキストを寄稿したいと願っていた。疲労のため、彼は『正常と異常』の英訳に付けた序文(n°219〔『ミシェル・フーコー思考集成Ⅶ』所収〕参照)を改稿することしかできなかった。本テキストは一九八四年の四月末に提出された。したがって、フーコーが印刷認可を与えた最後のテキストである。
「真理とはこのうえなく深い嘘である、とニーチェは言っていた。ニーチェから近いと同時に遠いカンギレムは次のように言うだろう。真理とは、生命の長い年代記において、もっとも新しい誤りである。さらに正確に言うならば、真と偽の分割や真理に付与された価値は、生命が発明し得たもっとも特異な生き方をかたちづくっているのだ。生命はその究極の起源以来、誤りの可能性をみずからのうちにはらんでいるのだから、と。」(本文より)
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm12.htm
1985
◆361 生命-経験と科学 廣瀬浩司訳
「形而上学と道徳」誌、九〇年度、第一号「特集=カンギレム」、一月-三月号、一九八五年、3-14ページ。
M・フーコーは「形而上学と道徳」誌の、師ジョルジュ・カンギレム特集号に新しいテキストを寄稿したいと願っていた。疲労のため、彼は『正常と異常』の英訳に付けた序文(n°219〔『ミシェル・フーコー思考集成Ⅶ』所収〕参照)を改稿することしかできなかった。本テキストは一九八四年の四月末に提出された。したがって、フーコーが印刷認可を与えた最後のテキストである。
「真理とはこのうえなく深い嘘である、とニーチェは言っていた。ニーチェから近いと同時に遠いカンギレムは次のように言うだろう。真理とは、生命の長い年代記において、もっとも新しい誤りである。さらに正確に言うならば、真と偽の分割や真理に付与された価値は、生命が発明し得たもっとも特異な生き方をかたちづくっているのだ。生命はその究極の起源以来、誤りの可能性をみずからのうちにはらんでいるのだから、と。」(本文より)
返信削除http://blog.livedoor.jp/kay_shixima/archives/52482541.html
「いつの日か、世紀はドゥルーズ的なものになるだろう」(「劇場としての哲学」1970,コレクション3)、かつてミッシェル・フーコーはドゥルーズを讃えるテクストの冒頭にこう書き記しました。この言葉の現代的意義を我々はもう一度問い直さねばならないのです。
http://1libertaire.free.fr/MFoucault244.html
返信削除Theatrum philosophicum
Michel Foucault
« Theatrum philosophicum », Critique, no 282. novembre 1970, pp. 885-908. (Sur G. Deleuze, Différence et Répétition. Paris. PUF, 1969, et Logique du sens, Paris, Éd. de Minuit, coll. « Critique », 1969.)
Dits Ecrits tome II texte n°80
Il me faut parler de deux livres qui me paraissent grands parmi les grands : Différence et Répétition, Logique du sens. Si grands sans doute qu'il est difficile d'en parler et que peu l'ont fait. Longtemps, je crois, cette oeuvre tournera au-dessus de nos têtes, en résonance énigmatique avec celle de Klossowski, autre signe majeur et excessif. Mais un jour, peut-être, le siècle sera deleuzien.
返信削除https://opac.lib.city.yokohama.lg.jp/opac/OPP1500?ID=11&SELDATA=TOSHO&SEARCHID=4&START=11&ORDER=DESC&ORDER_ITEM=SORT4-F&LISTCNT=10&MAXCNT=1000&SEARCHMETHOD=SP_SEARCH&MENUNO=0
カント全集 13 批判期論集
著者名等 カント/〔著〕 ≪再検索≫
著者名等 坂部恵/編 ≪再検索≫
著者名等 有福孝岳/編 ≪再検索≫
著者名等 牧野英二/編 ≪再検索≫
出版者 岩波書店
出版年 2002.03
大きさ等 22cm 508,9p
NDC分類 134.2
内容 内容:
ランベルト往復書簡集の公告 谷田信一/訳.
医師たちへの告示 谷田信一/訳.
七つの公開声明 北尾宏之/訳.
シュルツ著『宗教の区別なき万人のための人倫論試論』についての論評 福谷茂/訳.
偽版の違法性について 円谷裕二/訳.
G・フーフェラント著『自然法の原則にかんする試論』についての論評 円谷裕二/訳.
L・H・ヤーコプの『メンデルスゾーンの「暁」の検討』に対する二、三の覚え書き 円谷裕
二/訳. 思考の方向を定めるとはどういうことか 円谷裕二/訳.
純粋理性批判の無用論 福谷茂/訳.
弁神論の哲学的試みの失敗 福谷茂/訳.
哲学における最近の高慢な口調 福谷茂/訳.
誤解から生じた数学論争の解消 田山令史/訳.
魂の器官について 谷田信一/訳.
哲学における永遠平和条約の締結が間近いことの告示
内容 遠山義孝/訳.
人間愛からの嘘 谷田信一/訳.
出版稼業について 谷田信一/訳.
R・B・ヤッハマン著『カントの宗教哲学の検討』への序文 谷田信一/訳.
Ch・G・ミールケ編『リトアニア語=ドイツ語辞典』へのあとがき 谷田信一/訳.
形而上学の進歩にかんする懸賞論文 円谷裕二/訳. 解説. 索引あり
形而上学の
に
考古学への言及no.100
フーコー思考集成3:155
「司法はポリスに奉仕する」(ミシェル・フーコー)は思考集成に収録されていないのだろうか?
返信削除『ミシェル・フーコー思考集成 全10巻』筑摩書房
http://www.arsvi.com/w/fm05.htm#01c
Que représente le corps policier dans une démocratie? Lors d’une entrevue accordée en 1977, le célèbre philosophe Michel Foucault parlait de la police comme d’une « formidable instance de régulation sociale, de surveillance perpétuelle, de correction incessante du comportement des gens. Une instance non pas tellement de justice que de normalisation ». [10]
返信削除[10] Serge Moati. Michel Foucault : la justice et la police. Antenne 2, 02min03s, 25 avril 1977.
Badiou interviews Michel Foucault (1965) 1/3 English Subtitles
返信削除http://youtu.be/PFyB09FrtaY
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm4.htm
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
(アラン・バデューとの対話)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年二月二十七日、65-71ページ。
この討論は、つづくNo.31と同様、一九六五-一九六六年度、ディナ・ドレフュス企画、ジャン・フレシェ監修のもとに教育テレビ・ラジオ放送によって制作された番組である。
これらの番組は最近、国立教育資料センターおよびナタン出版社によって、『哲学者の時代』シリーズにビデオカセットとして再版された。一方、「カイエ・フィロゾフィック」誌増刊号(一九九三年六月)にもこれらの番組内容の逐語的な転写が掲載されているが、それはここに収録したテクストと大きく異なっている。なお、ここに収録したテクストのみが、討論の参加者たちによる見直しを通過したものである。
31 哲学と真理 慎改康之訳
(アラン・バデュー、ジョルジュ・カンギレム、ディナ・ドレフュス、ジャン・イポリット、ポール・リクールとの対談)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年三月二十七日、1-11ページ。前項No.30の紹介事項を参照。
「第一部(J・イポリット、G・カンギレム)」「第二部(M・フーコー、P・リクール)」「第三部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、M・フーコー、D・ドレフュス)」「第四部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リクール、A・バデュー、D・ドレフュス)」という構成になっている。
「しかし、おのれから出発して表明され得るような人間の本質、また、可能な認識すべての基礎であると同時に認識の可能な限界そのものの基礎でもあるような人間の本質を規定しようと試みる、そのときから、ひとは誤謬推理のただなかにいるのです。」(本文より)
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
返信削除http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm7.htm
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホーヘン高等技術学校にて収録)。
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、ということです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取したいと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(本文より)
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=55m50s
返信削除http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=56m
返信削除Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm7.htm
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホーヘン高等技術学校にて収録)。
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、ということです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取したいと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(本文より)
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=56m
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=55m50s
返信削除Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm7.htm
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノ
ヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-
197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホ
ーヘン高等技術学校にて収録)。
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、
プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、と
いうことです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取した
いと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考
えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(42〜43頁より)
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=56m
返信削除Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm7.htm
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議)
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、
プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、と
いうことです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取した
いと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考
えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(42〜43頁より)
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
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http://yojiseki.exblog.jp/5792100/
返信削除スピノザの「マルチチュード」とプルードン
プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。
以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意しなくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われるのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は『国家論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピックアップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』の最後に書かれた言葉である)。
この『エチカ』の一節は、自由連想による観念連合をどう集合論的に束ねるかという問題として位置づけられるが、政治的な組織化の問題と直結するということでもある。
ネグリは政治主義的に捉えたが、プルードンのそれは政治組織を経済組織に還元するものであり、人民銀行案などがその具体例だった。
ネグリや上野修(『精神の眼は論証そのもの』)はスピノザを契約論者ではないと述べている。たしかにスピノザはホッブズやルソーのような社会契約論者とは違う。しかし、柄谷行人が『世界共和国へ』でプルードンは社会契約(片務的でない双務的なそれ)をさらに徹底したと述べたように、スピノザもその契約論を力能に重点を置いて徹底したと考える方が、さらなるスピノザの可能性を開くと思う。
そしてその視点こそがプルードンとスピノザをつなぐ潜在的な可能性をも解き放つと思う。
http://yojiseki.exblog.jp/5792100/
返信削除ラカンによるプルードン評
ラカンはプルードンの恋愛論(おそらく『革命と教会における正義』におけるそれ)に関して「セミナール2」において以下のように述べています。
「プルードンを読まれることを薦めます。この人は揺るぎない精神の持ち主で、教父のような確かな語調で語る人です。彼は人間の条件についてほんの少し身を引いて考察し、一般に考えられているよりずっと手を焼かされると同時に繊細なこの事柄、つまり貞節に接近しようとしました。(中略)プルードンの思考はことごとくロマンティックな幻想に刃向かうものですが、一見したところ神秘主義的とも見えるような文体で結婚における貞節を規定しようとします。そして彼が解答を見いだすのは象徴的契約としてしか認識できない何ものかにおいてなのです。」(「ソジー」『フロイト理論と精神分析技法における自我―1954-1955 (下) 』岩波書店pp146-7)
相手である異性を通して「すべての男/女」につながろうとする恋人同士の感情の奥に潜む無意識をラカンは、プルードンの相務的契約=相互主義的交換理論をヒントに読み解こうとしています。ラカンもプルードンも原理的な主張と政治的な主張を一つの文章の中で行なおうとしていて文章が難解になる点が似ているのですが、そこから明確な解答を得ようとする方向性も似ています。
二人とも交換=契約によってカオスを脱しようとしているのです。
もちろんラカンは「剰余享楽」(これはセミナール16にある用語)にも注意を払っています。マルクスの用語である剰余価値をラカンは「剰余享楽」と読み替えるなど、思い切った試みをしています。かつて、ラカンはフロイトよりもジャネの方がすぐれていると指摘したことがあるらしいですが(『ラカン』マローニ、新曜社)、マルクスやフロイトに対する見直しもラカンを鍵に行えるかもしれません。
ちなみに、プルードンの交換システムなどは、文学理論とは違う「現実界」のものですが、ラカンの立場からは「象徴界」と「想像界」を含むボロメオの結び目(これはイタリアのボロメオ家の紋章が名称の元になっている)をつなぐ試みとして考えることも出来るでしょう。ラカンとプルードンの違いをあえて指摘するならば、ラカンの方が、契約を保障する象徴的な第三項により多くの構造上の力点を置いている点でしょう。
ところで、『ジャック・ラカン伝』(河出書房新社、p26,69)を読むと、ラカンは若いころスピノザのエチカの構成を表す図面(色付の矢印つき)を部屋に飾っていたそうです。プルードンも『革命と教会における正義』で『エチカ』から引用していましたが(第5部定理20)、これは相互主義の理論的強化に役立つ部分でした。ラカンとプルードンのスピノザ理解(具体的にはラカンの飾った図はどのようなものだったのでしょうか?)も興味深いところです。
スピノザとプルードン
返信削除http://yojiseki.exblog.jp/7002538/
「こうしてスピノザは、社会契約論を、政治制度をはじめとするさまざまな社会的経済的システム全体の問題として再検討すべきであるとの考えに至った」柴田寿子「スピノザ政治論とカルヴィニズム」『スピノザと政治的なもの』平凡社(p230)
上記はスピノザの『神学・政治論』を論じた論文の一節だが、まるでプルードンを論じた言葉のようでもある。
多元的なスピノザによる聖書分析をさらに多元的に読み取ることが重要だということだろう。
上記論文は、カルヴィニズム(厳格な決定論を持つプロテスタントの一派)に対する反発がスピノザの時代状況から読みとれるという論文だったが、カルヴィニズムの持つ決定論に関してのアンビバレンツな態度は、ゴドウィンとの比較を可能にするかも知れない。
(なおプルードンは『革命と教会における正義』でスピノザの『エチカ』第五部から引用している。)
http://yojiseki.exblog.jp/5792100/
http://yojiseki.exblog.jp/4900101/
さて、社会契約の持つ一元的な危険性と、スピノザ=プルードンの唱える多元性を図解するとどのようなものになるだろうか?
これは以前別ブログでアップした「都市はツリーではない」が参考になると思う。
http://nam-students.blogspot.com/2008/01/blog-post.html
社会契約がツリー状で、プルードンの試みた交換銀行の相互契約はセミラティス状ということになる。
返信削除プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、
精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には
「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一
切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)
という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群
衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意しなく
てはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われるのを見
る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情に多く刺激さ
れ、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は『国家
論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピックア
ップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』最後の言葉)。
返信削除Badiou interviews Michel Foucault (1965) 1/3 English Subtitles
http://youtu.be/PFyB09FrtaY
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm4.htm
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
(アラン・バデューとの対話)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年二月二十七日、65-71ページ。
この討論は、つづくNo.31と同様、一九六五-一九六六年度、ディナ・ドレフュス企画、ジャン・フレシェ監修のもと
に教育テレビ・ラジオ放送によって制作された番組である。
これらの番組は最近、国立教育資料センターおよびナタン出版社によって、『哲学者の時代』シリーズにビデオカセ
ットとして再版された。一方、「カイエ・フィロゾフィック」誌増刊号(一九九三年六月)にもこれらの番組内容の
逐語的な転写が掲載されているが、それはここに収録したテクストと大きく異なっている。なお、ここに収録したテ
クストのみが、討論の参加者たちによる見直しを通過したものである。
31 哲学と真理 慎改康之訳
(アラン・バデュー、ジョルジュ・カンギレム、ディナ・ドレフュス、ジャン・イポリット、ポール・リクールと
の対談)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年三月二十七日、1-11ページ。前項No.30の紹介事項を参照。
「第一部(J・イポリット、G・カンギレム)」「第二部(M・フーコー、P・リクール)」「第三部(J・イポリット、
G・カンギレム、P・リクール、M・フーコー、D・ドレフュス)」「第四部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リ
クール、A・バデュー、D・ドレフュス)」という構成になっている。
「しかし、おのれから出発して表明され得るような人間の本質、また、可能な認識すべての基礎であると同時に認識の
可能な限界そのものの基礎でもあるような人間の本質を規定しようと試みる、そのときから、ひとは誤謬推理のただな
かにいるのです。」(本文より)
返信削除プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、
精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には
「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一
切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)
という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群
衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意し
なくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われ
るのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情
に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は
『国家論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピ
ックアップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』最
後の言葉)。
ネグリ、フーコー、ドゥルーズがプルードンに言及していないのは、マルクス主義的言説空間の中に彼らがいたからだ。
サルトルはプルードンに言及している。
返信削除プルードンは『革命と教会における正義』(邦訳なし)の第八章(「良心と自由」)でスピノザの『エチカ』から、
精神の感情に対する関係に関した部分(第5部定理20備考)を引用している。
この引用部分にはネグリによって有名になった「マルチチュード」という言葉が入っているが、実は『エチカ』には
「マルチチュード」という語の用例はここにしかないのだ。以下、プルードンの引用した箇所を転載する。
「これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情に対してなしうる一
切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存することが明白である。
1 感情の認識そのものに。
2 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに。
3 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感情よりも時間(継続)
という点でまさっているその時間(継続)という点に。
4 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数(引用者注:=マルチチュード、この場合「群
衆」の意味ではない)であるということに。
5 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ、相互に連結しうるその秩序に。
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次のことを注意し
なくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に一人が他の人よりも多く捉われ
るのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較してその人間が他の感情によりもある一つの感情
に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々はその感情を大と呼ぶ。」
(『エチカ』第5部定理20備考より。引用は岩波文庫から)
ネグリは「以下ヲ欠ク」(『現代思想』1987.9)という論考で、ここでの「マルチチュード」という言葉の用法は
『国家論』で展開される群衆論とは一見無関係だが、思考法として深く関係するのだと述べている。
プルードンのスピノザへの評価はアンビバレントなものだが、のちにネグリによって評価された部分をいち早くピ
ックアップしているのは興味深い(ちなみに『以下ヲ欠ク』という言葉は未完となったスピノザの『国家論』最
後の言葉)。
ネグリ、フーコー、ドゥルーズらがプルードンに言及していないのは、マルクス主義的言説空間の中に彼らがいた
からだろう。サルトルはプルードンに言及している。
『フーコーコレクション』ちくま学芸文庫(全6巻+1巻)
返信削除◆フーコー・ガイドブック
◆1 狂気・理性
◆2 文学・侵犯
◆3 言説・表象
◆4 権力・監禁
◆5 性・真理
◆6 生政治・統治
* 第1巻は著作のごく簡単な要約と『思考集成Ⅰ』所収の年譜、以降は『思考集成』の選集
『フーコー・コレクション 1 狂気・理性』
Foucault,Michel 1994 Dits et écrits 1954-1988,Edition établie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Gallimard.
=20060510 小林 康夫・石田 英敬・松浦 寿輝 訳,筑摩書房,442p.
■目次
ビンスワンガー『夢と実存』への序論
心理学の歴史 1850‐1950
科学研究と心理学
『狂気の歴史』初版への序
狂気は社会のなかでしか存在しない
ルソーの『対話』への序文
父の“否”
狂気、作品の不在
哲学と心理学
宗教的逸脱と医学
十七世紀の医師、裁判官、魔法使い
文学・狂気・社会
狂気と社会
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 2 文学・侵犯』
■目次
ルーセルにおける言うことと見ること
かくも残酷な知
侵犯への序言
言語の無限反復
夜明けの光を見張って
距たり・アスペクト・起源
幻想の図書館
アクタイオーンの散文
空間の言語
血を流す言葉
J=P・リシャールのマラルメ
書くことの義務
物語の背後にあるもの
外の思考
彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった
アリアドネーは縊死した
作者とは何か
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 3 言説・表象』
■目次
侍女たち
世界の散文
歴史の書き方について
これはパイプではない
科学の考古学について―「認識論サークル」への回答
『ポール・ロワイヤルの文法』序文
ジャン・イポリット1907‐1968
ミシェル・フーコー『言葉と物』英語版への序文
第七天使をめぐる七言
劇場としての哲学
ニーチェ、系譜学、歴史
私の身体、この紙、この炉
解説:松浦寿輝
『フーコー・コレクション 4 権力・監禁』
■目次
GIP(監獄情報グループ)の宣言書
監獄についての調査、沈黙の鉄格子を打ち破ろう
歴史への回帰
大がかりな収監
知識人と権力
人民裁判について―マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論
監獄的監禁について
狂人の家
監獄についての対談― 本とその方法
ミシェル・フーコー―哲学者の回答
地理学に関するミシェル・フーコーへの質問
医学の危機あるいは反医学の危機?
ソ連およびその他の地域における罪と罰
真理と権力
権力の眼
権力と知
解説:松浦寿輝
『フーコー・コレクション 5 性・真理』
■目次
性現象と真理
身体をつらぬく権力
性の王権に抗して
世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか
性現象と孤独
性の選択、性の行為
倫理の系譜学について―進行中の仕事の概要
快楽の用法と自己の技法
『性の歴史』への序文
自由の実践としての自己への配慮
生存の美学
自己の技法
個人の政治テクノロジー
解説:石田英敬
『フーコー・コレクション6 生政治・統治』
■目次
1.真理と裁判形態……西谷修訳
2.〈生物-歴史学〉(ビオ・イストワール)と〈生物-政治学〉(ビオ・ポリティック)……石田英敬訳
3.ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文……松浦寿輝訳
4.社会医学の誕生……小倉孝誠訳
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
6.「統治性」……石田英敬訳
7.十八世紀における健康政策……中島ひかる訳
8.全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて……北山晴一訳
9.啓蒙とは何か……石田英敬訳
10.道徳の回帰……増田一夫訳
11.生命――経験と科学……廣瀬浩司訳
編者解説……石田英敬
■引用
返信削除5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
「 こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を超えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやって来る言語(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ。権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか? しかし、まず、もし仮にこれらの生が、ある一瞬に権力と交錯することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか? 結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか? それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交っ>0210>た短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑(モニュメント)があるのだ。時を超えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。
要するに私は、世に知られることなき人々の伝説(レジェンド)のために、これらの人々が不幸或いは激怒の中で権力との間に交わしたディスクール群に発して、幾つかの基礎原基を集めてみたいと思ったのである。」(pp.210-211)
「 私がここに集めた文書は同質のものである。そのため、単調に見えてしまう危険がおおいにある。しかしすべてはそれぞれ調和を欠いて機能しているのである。語られていることとその語り方の不調和。嘆き嘆願する者と彼らに対してあらゆる権力を持つ者との間の不調和。提起される問題の微細さとそこに繰り出される権力の大きさとの間の不調和。儀式と権力の言語と、激怒或いは無力者の言語との間の不調和。それらのテクストはラシー>0227>ヌやボシュエ或いはクレビヨンの方を向くようなテクストである。しかし、彼らとともにそれらのテクストが担うのは、民衆のざわめきであり、悲惨、暴力、《卑小なること》と言われもしたことどもであり、同時代の文学が扱うことのできなかったであろうことどもである。(中略)
その不調和が消え去る日がやってくるだろう。その日以降、日常の生の水準で機能するだろう権力は、もはや近くて遠く、全能できまぐれ、あらゆる正義の源泉であり、あらゆる誘惑の対象であり、政治的原理であると同時に魔術的力でもあった君主の権力ではなくなるだろう。司法、警察、医学、精神科学といった多様な制度が絡まり合った、より微細で、分化されつつ連続する網目によって権力は構成されるだろう。そして、そこに形成されることになるディスクールは、もはやかつてのような人工的で不器用な古い演劇性を持>0228>ちはしないだろう。観察と中立性からなる言語であろうとする言葉の中に展開されるディスクールが現れるのだ。その日以降、平凡なものは、行政、ジャーナリズム、科学の効率的だが灰色の格子によって分析されることになるだろう。そこでは、彩りきらめく言葉は、それらの格子から少しばかり離れたところにある文学の中に探しに行くほかないだろう。十七世紀と十八世紀、人々は未だ無骨で野蛮な時代に属していて、そこには様々に媒介的な多様な格子は未だ存在しなかった。悲惨なる者たちの身体とその喧騒は ほとんど直接的に、王の身体と儀礼性に直面していたのである。そこにはまた、共通の言葉も存在せず、叫びと儀式性との、そう言いたければ無秩序とそれが従わねばならなかった形式の厳格さとの間の衝突があった。そこから、その政治のコードの中への日常生活の初めての浮上を遠くから見る私たちの眼に、それらの言語は不思議な閃光を帯びたもの、金切り声と緊迫した強度を帯びたものとして現れるのであり、そしてそれは、ついで人々がこうした事物と人間を《事件》、三面記事や事例として捉えるようになると、消え去るであろう。」(pp.227-229)
「監視し、見張り、不意をつき、禁止し、罰するだけのものであるなら、おそらく権力は軽々と容易に解体されるであろう。しかし、権力は人々をそそのかし刺激し生産するのである。権力は単に耳と眼ではない。それは動かし語らせるのである。」(p.230)
啓蒙とは何か[pp.303-361]
返信削除カントの『啓蒙とは何か』の検討
(1) ドイツの啓蒙とユダヤ解放運動が、「両者ともに、どのような共通のプロセスに自分たちが依り処をもつものなのかを知ろうとするようになる」(p.364)。
(2) カントは、一つの全体や、将来の成就から出発して、〈現在〉を理解しようとはしない。彼は〈今日〉は、〈昨日〉にたいして、いかなる差異を導入するものなのか、一つの差異を求めるのである。
(3) カントが、どのように〈現在〉についての哲学的問いを立てるのかを理解するために、重要と思われる特徴を抽出する。以下4点
3-1:啓蒙の特徴は脱出にあり、カントは脱出とは「私たちを〈未成年〉の状態から脱却させる過程である」と記す(pp.366-367)。
3-2:〈脱出〉はカントにおいて、両義的である。「カントはそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている」が、「同時に一つの使命、義務として定時している」(p.367)。
3-3:「啓蒙は、人間存在の人間性を構成しているものに影響を及ぼす変化のこと」だというカントの答えは、両義性を伴う。カントは、未成年を脱出するためには二つの条件を定め、それらは二つとも「精神的であると同時に制度的、倫理的であると同時に政治的なものだ」(p.367)。
3-3-1:服従に属することと、理性の使用に属することを明確に区別しなければならない(p.367)。
3-3-2:理性はその公的な使用においてこそ自由であるべきであり、その私的な使用において服従させれれたものであるべきだ(p.370)。
3-4:いかにして理性の使用が、理性にとって必然的な形をとりえるのか、諸個人が可能なかぎり厳格に服従しているときに、いかにして知る勇気が堂々と行使されうるのか、という問題が問われる。→自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となる(p.372)。
カントの三大批判都と『啓蒙とは何か』の間に結び付きが存在する。「啓蒙」を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとするモーメントであると描いている(p.372)。
↓
フーコーの仮説:『啓蒙とは何か』が批判的省察と歴史についての考察との、言わば連結部に位置する→歴史についての省察、さらに、自分が物を書く〈時〉、その時だからこそ物を書くというその単独な〈時〉についての個別的な分析、という三者を結び付けて考えたのは初めてのことだった。歴史における差異としての〈今日〉、また、個別的な哲学的使命の動機としての〈今日〉、についてのこのような反省こそ、このテクストの新しさだ、と私には思えるのである(p.374)。
↓
カントのテクストを参照することによって、私は、現代性を、歴史の一時期というよりは、むしろ一つの〈態度〉として考えることができないだろうか(p.375)。→ギリシア人たちのいうエートス
〈現代性〉の態度の必然的な例:ボードレール→一九世紀における現代性の最も先鋭的な意識のひとつを認められる(p.375)
ボードレールの現代性の4つのポイント
(1)「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」であるが、現代性は、時間の流れを追うだけの流行とは区別される。それは、現在性とは、逃げ去る現在についての感受性の事象ではなく、現在を「英雄化」一つの意志なのだ(p.376)。
→「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」(p.377)。
(2)遊歩は、「眼を開き、注意を払い、思い出のなかに収集することで満足する」。ボードレールは遊歩の人に、現代性を対置する。→ボードレールの現代性の例=デッサン画家:コンスタンタン・ギース
ボードレールがいう現代性とは、「〈現在〉のもつ高い価値は、その〈現在〉を、そうであるのとは違うように想像する熱情、〈現在〉を破壊するのではなく、〈現在〉がそうある在り方の裡に、〈現在〉を捕捉することによって、〈現在〉を変形しようとする熱情」(p.378)である。
(3)現代性の意志的な態度は、それに欠かすことの出来ない禁欲主義と結びついている。現代的であるとは、過ぎ去る個々の瞬間の流れにおいて、あるがままに自分自身をうけいれることではなく、自分自身を複雑で困難な練り上げの対象とみなすこと(p.379)。
(4)上記の、1、アイロニカルな英雄化 2、現実的なものを変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、3、自己禁欲的な練り上げは、社会ではなく、ボードレールが芸術と呼ぶ場所で成立する(p.380)。
フーコーはボードレールの現代性の特徴を、これらボードレール的な現代性の4点によって要約しているのではなく、そうではなく〈哲学的な問い〉が〈啓蒙〉に根差しており、「私たちを啓蒙に結び付けている絆が、教義の諸要素への忠誠というようなものではなく、むしろ一つの態度の絶えざる再活性化なのだ」(p.380)ということを指摘している。→この態度を、〈哲学的エートス〉として特徴づけることができる。
〈哲学的エートス〉のネガティヴな特徴づけ
(1) 啓蒙は受け入れる/拒否するという二者択一を拒否するということを意味している。「弁証法的なニュアンスを導入することなど、この恐喝の外にでることにはならないのだ」(p.381)。
(2) 人間主義のテーマと啓蒙の問題とを混同するような歴史的道徳的混迷主義をも逃れなければならない(pp.384-385)。
〈哲学的エートス〉のポジティヴな特徴づけ
(1)〈哲学的エートス〉は、一つの限界的態度として性格づけることができる。それは、拒絶の態度ではない。ひとは、外と内との二者択一を脱して、境界に立つべきなのだ。批判とは、まさしく限界の分析であり、限界についての反省なのだ(p.385)。
(2)限界に立つことで実行されるこの仕事が、一方では、歴史的調査の領域を開くものであるべきだということ、他方では、変化が可能であり、また望ましくもある場所を把握し、また、その変化がどのようなものであるべきかを決定するために、現実と同時代の試練を自ら進んで受けるべきだ(p.387)。
(3)Q:つねに部分的で局所的な実験にとどまり続けることによって全体的な諸構造に逆に規定されないか?
A1:完全で決定的な認識を断念しなければならないのはその通り。
A2:しかし、無秩序と偶然性においてしか行われることを意味しない。その作業は、固有の賭けられたもの、均一性、体系性、一般性をもつ(pp.388-389)
・固有の賭けられたもの
能力と権力のパラドクスといった技術的諸能力の増大と権力関係の強化とをどのように切り離しうるかということ(p.390)
・均一性
行うことの諸々の様態を組織している合理性の諸形式を対象とするとともに、他人たちが行うことに反応しつつ、またある程度までは自らのゲーム規則を変更しつつ、人間がそれらの実践のシステムのなかで行動するときの自由を対象として扱う(p.390)。
・体系性
如何にして、私たちは私たちの知の主体として成立してきたのか、如何にして私たちは、権力関係を行使し、またそれを被るような主体として成立してきたのか、また、如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか、という体系化である(p.391)。
・一般化
歴史的―批判的調査は、つねに、一つの素材、一つの時代、限定された実践と言説が作り出す一つのまとまりであり、非常に個別的なものだが、西欧社会という尺度において、それらの調査は一般性をもつ(p.391)。→〈問題化〉の諸様式の研究は、一般的な射程を持った諸問題を、歴史的に単独な諸形態において分析するという方法なのである(p.392)。
まとめ
私たち自身の批判的存在論、それをひとつの理論、教義、あるいは蓄積される知の恒常体と見なすのではなく、一つの態度、一つのエートス、私たち自身のあり方の批判が、同時に私たちに課せられた歴史的限界の分析であり、同時にまた、それらの限界のありうべき乗り越えの分析であるような、一つの哲学生活として、それは理解されるべきなのだ。 カントの啓蒙の問いは、一つの哲学態度として理解できる。そしてその哲学態度は、様々な調査の作業に翻訳されなければならない。それらの調査は、技術論的なタイプの合理性であると同時に、諸々の自由の諸戦略ゲームとしてとらえられた諸々の実践の、考古学的であると同時に系譜学的な研究においてこそ、方法論的一貫性を持つことになる(p.393)。
編者解説「啓蒙とは何か(2)」……石田英敬
「 およそ「西欧」の歴史全体を視野に入れ、そのなかで「発明」された「技法」や「政治テクノロジー」から、「認識」の歴史を捉え返し、私たちをとらえている「政治的理性」の批判を実行すること、そうした方法および態度はむしろフーコーにおいては全仕事を通してつねに一貫した戦略であったと考えるべきなのだ。」(p.450)
「「国家」とは、逆説的なことだが、「個人化」の政治テクノロジー抜きには成り立ちえないものだ。「私たちはどのようにして、自分たち自身を、社会として、社会的実体の要素として、国民や国家の一部として、認識するようになったのか」(「個人の政治テクノロジー」、コレクション第5巻408頁)という問いに答えることこそが、「国家」の問いに答えることである。」(p.451)
*作成:石田 智恵
更新:中田喜一, 箱田 徹
UP:20080831 REV:20091226 20100428
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『フーコーコレクション』ちくま学芸文庫(全6巻+1巻)
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◆1 狂気・理性
◆2 文学・侵犯
◆3 言説・表象
◆4 権力・監禁
◆5 性・真理
◆6 生政治・統治
* 第1巻は著作のごく簡単な要約と『思考集成Ⅰ』所収の年譜、以降は『思考集成』の選集
『フーコー・コレクション 1 狂気・理性』
Foucault,Michel 1994 Dits et écrits 1954-1988,Edition établie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Gallimard.
=20060510 小林 康夫・石田 英敬・松浦 寿輝 訳,筑摩書房,442p.
■目次
ビンスワンガー『夢と実存』への序論
心理学の歴史 1850‐1950
科学研究と心理学
『狂気の歴史』初版への序
狂気は社会のなかでしか存在しない
ルソーの『対話』への序文
父の“否”_______(1/2)
狂気、作品の不在 2
哲学と心理学 2
宗教的逸脱と医学 3
十七世紀の医師、裁判官、魔法使い 3
文学・狂気・社会 3
狂気と社会 3
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 2 文学・侵犯』
■目次
ルーセルにおける言うことと見ること
かくも残酷な知
侵犯への序言
言語の無限反復
夜明けの光を見張って
距たり・アスペクト・起源___________(1/2)
幻想の図書館
アクタイオーンの散文
空間の言語
血を流す言葉
J=P・リシャールのマラルメ
書くことの義務
物語の背後にあるもの
外の思考
彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった________(2/3)
アリアドネーは縊死した 3
作者とは何か ___________(3/2)
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 3 言説・表象』
■目次
________________________(/2)
侍女たち 2
世界の散文 2
歴史の書き方について 2___________(2/3)
これはパイプではない 3
科学の考古学について―「認識論サークル」への回答 3
『ポール・ロワイヤルの文法』序文 3
ジャン・イポリット1907‐1968 3
ミシェル・フーコー『言葉と物』英語版への序文
第七天使をめぐる七言
劇場としての哲学__________________(1970:3/1971:4)
ニーチェ、系譜学、歴史
私の身体、この紙、この炉
解説:松浦寿輝
『フーコー・コレクション 4 権力・監禁』
■目次
GIP(監獄情報グループ)の宣言書
監獄についての調査、沈黙の鉄格子を打ち破ろう
歴史への回帰
大がかりな収監
知識人と権力
人民裁判について―マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論
監獄的監禁について____________________(4/5)
狂人の家
監獄についての対談― 本とその方法
ミシェル・フーコー―哲学者の回答____________(5/6)
地理学に関するミシェル・フーコーへの質問
医学の危機あるいは反医学の危機?
ソ連およびその他の地域における罪と罰
真理と権力
権力の眼
権力と知
解説:松浦寿輝
『フーコー・コレクション 5 性・真理』
■目次
性現象と真理
身体をつらぬく権力
性の王権に抗して________________________(6/7)
世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか__________(7/8)
性現象と孤独__________________________(8/9)
性の選択、性の行為
倫理の系譜学について―進行中の仕事の概要
快楽の用法と自己の技法_____________________(9/10)
『性の歴史』への序文
自由の実践としての自己への配慮
生存の美学
自己の技法
個人の政治テクノロジー
解説:石田英敬
『フーコー・コレクション6 生政治・統治』
■目次
1.真理と裁判形態……西谷修訳
2.〈生物-歴史学〉(ビオ・イストワール)と〈生物-政治学〉(ビオ・ポリティック)……石田英敬訳
3.ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文……松浦寿輝訳
4.社会医学の誕生……小倉孝誠訳
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
6.「統治性」……石田英敬訳
7.十八世紀における健康政策……中島ひかる訳
8.全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて……北山晴一訳
9.啓蒙とは何か……石田英敬訳
10.道徳の回帰……増田一夫訳
11.生命――経験と科学……廣瀬浩司訳
編者解説……石田英敬
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』
返信削除http://www.arsvi.com/b1990/9400fm4.htm
47 「今日」の診断を可能にする構造主義哲学 増田一夫訳
(G・フェルーとの対談)、「ラ・プレス・ド・チュニジー」紙、一九六七年四月十二日付、3ページ。
インタヴューに「ミシェル・フーコー、自身を語る」「ミシェル・フーコー、チュニジアの感想」という囲み記事がついたもの。
「私が、構造主義に対して距離を取りながらも同時に構造主義をなぞって二重化するような関係をもっているのは、このためなのです。距離を取っているというのは、構造主義を直接に実践する代わりにそれについて語っているからですし、なぞって二重化しているというのは、構造主義の言語を語らずして構造主義について語れないからです。」(本文より)
『フーコー・コレクション6 生政治・統治』
返信削除http://www.arsvi.com/b1990/9400fm.htm
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
「 こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を超えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやって来る言語(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ。権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか? しかし、まず、もし仮にこれらの生が、ある一瞬に権力と交錯することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか? 結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか? それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交っ>0210>た短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑(モニュメント)があるのだ。時を超えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。
要するに私は、世に知られることなき人々の伝説(レジェンド)のために、これらの人々が不幸或いは激怒の中で権力との間に交わしたディスクール群に発して、幾つかの基礎原基を集めてみたいと思ったのである。」(pp.210-211)
「 私がここに集めた文書は同質のものである。そのため、単調に見えてしまう危険がおおいにある。しかしすべてはそれぞれ調和を欠いて機能しているのである。語られていることとその語り方の不調和。嘆き嘆願する者と彼らに対してあらゆる権力を持つ者との間の不調和。提起される問題の微細さとそこに繰り出される権力の大きさとの間の不調和。儀式と権力の言語と、激怒或いは無力者の言語との間の不調和。それらのテクストはラシー>0227>ヌやボシュエ或いはクレビヨンの方を向くようなテクストである。しかし、彼らとともにそれらのテクストが担うのは、民衆のざわめきであり、悲惨、暴力、《卑小なること》と言われもしたことどもであり、同時代の文学が扱うことのできなかったであろうことどもである。(中略)
その不調和が消え去る日がやってくるだろう。その日以降、日常の生の水準で機能するだろう権力は、もはや近くて遠く、全能できまぐれ、あらゆる正義の源泉であり、あらゆる誘惑の対象であり、政治的原理であると同時に魔術的力でもあった君主の権力ではなくなるだろう。司法、警察、医学、精神科学といった多様な制度が絡まり合った、より微細で、分化されつつ連続する網目によって権力は構成されるだろう。そして、そこに形成されることになるディスクールは、もはやかつてのような人工的で不器用な古い演劇性を持>0228>ちはしないだろう。観察と中立性からなる言語であろうとする言葉の中に展開されるディスクールが現れるのだ。その日以降、平凡なものは、行政、ジャーナリズム、科学の効率的だが灰色の格子によって分析されることになるだろう。そこでは、彩りきらめく言葉は、それらの格子から少しばかり離れたところにある文学の中に探しに行くほかないだろう。十七世紀と十八世紀、人々は未だ無骨で野蛮な時代に属していて、そこには様々に媒介的な多様な格子は未だ存在しなかった。悲惨なる者たちの身体とその喧騒は ほとんど直接的に、王の身体と儀礼性に直面していたのである。そこにはまた、共通の言葉も存在せず、叫びと儀式性との、そう言いたければ無秩序とそれが従わねばならなかった形式の厳格さとの間の衝突があった。そこから、その政治のコードの中への日常生活の初めての浮上を遠くから見る私たちの眼に、それらの言語は不思議な閃光を帯びたもの、金切り声と緊迫した強度を帯びたものとして現れるのであり、そしてそれは、ついで人々がこうした事物と人間を《事件》、三面記事や事例として捉えるようになると、消え去るであろう。」(pp.227-229)
「監視し、見張り、不意をつき、禁止し、罰するだけのものであるなら、おそらく権力は軽々と容易に解体されるであろう。しかし、権力は人々をそそのかし刺激し生産するのである。権力は単に耳と眼ではない。それは動かし語らせるのである。」(p.230)
啓蒙とは何か[pp.303-361]
返信削除カントの『啓蒙とは何か』の検討
(1) ドイツの啓蒙とユダヤ解放運動が、「両者ともに、どのような共通のプロセスに自分たちが依り処をもつものなのかを知ろうとするようになる」(p.364)。
(2) カントは、一つの全体や、将来の成就から出発して、〈現在〉を理解しようとはしない。彼は〈今日〉は、〈昨日〉にたいして、いかなる差異を導入するものなのか、一つの差異を求めるのである。
(3) カントが、どのように〈現在〉についての哲学的問いを立てるのかを理解するために、重要と思われる特徴を抽出する。以下4点
3-1:啓蒙の特徴は脱出にあり、カントは脱出とは「私たちを〈未成年〉の状態から脱却させる過程である」と記す(pp.366-367)。
3-2:〈脱出〉はカントにおいて、両義的である。「カントはそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている」が、「同時に一つの使命、義務として定時している」(p.367)。
3-3:「啓蒙は、人間存在の人間性を構成しているものに影響を及ぼす変化のこと」だというカントの答えは、両義性を伴う。カントは、未成年を脱出するためには二つの条件を定め、それらは二つとも「精神的であると同時に制度的、倫理的であると同時に政治的なものだ」(p.367)。
3-3-1:服従に属することと、理性の使用に属することを明確に区別しなければならない(p.367)。
3-3-2:理性はその公的な使用においてこそ自由であるべきであり、その私的な使用において服従させれれたものであるべきだ(p.370)。
3-4:いかにして理性の使用が、理性にとって必然的な形をとりえるのか、諸個人が可能なかぎり厳格に服従しているときに、いかにして知る勇気が堂々と行使されうるのか、という問題が問われる。→自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となる(p.372)。
カントの三大批判都と『啓蒙とは何か』の間に結び付きが存在する。「啓蒙」を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとするモーメントであると描いている(p.372)。
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フーコーの仮説:『啓蒙とは何か』が批判的省察と歴史についての考察との、言わば連結部に位置する→歴史についての省察、さらに、自分が物を書く〈時〉、その時だからこそ物を書くというその単独な〈時〉についての個別的な分析、という三者を結び付けて考えたのは初めてのことだった。歴史における差異としての〈今日〉、また、個別的な哲学的使命の動機としての〈今日〉、についてのこのような反省こそ、このテクストの新しさだ、と私には思えるのである(p.374)。
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カントのテクストを参照することによって、私は、現代性を、歴史の一時期というよりは、むしろ一つの〈態度〉として考えることができないだろうか(p.375)。→ギリシア人たちのいうエートス
〈現代性〉の態度の必然的な例:ボードレール→一九世紀における現代性の最も先鋭的な意識のひとつを認められる(p.375)
ボードレールの現代性の4つのポイント
(1)「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」であるが、現代性は、時間の流れを追うだけの流行とは区別される。それは、現在性とは、逃げ去る現在についての感受性の事象ではなく、現在を「英雄化」一つの意志なのだ(p.376)。
→「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」(p.377)。
(2)遊歩は、「眼を開き、注意を払い、思い出のなかに収集することで満足する」。ボードレールは遊歩の人に、現代性を対置する。→ボードレールの現代性の例=デッサン画家:コンスタンタン・ギース
ボードレールがいう現代性とは、「〈現在〉のもつ高い価値は、その〈現在〉を、そうであるのとは違うように想像する熱情、〈現在〉を破壊するのではなく、〈現在〉がそうある在り方の裡に、〈現在〉を捕捉することによって、〈現在〉を変形しようとする熱情」(p.378)である。
(3)現代性の意志的な態度は、それに欠かすことの出来ない禁欲主義と結びついている。現代的であるとは、過ぎ去る個々の瞬間の流れにおいて、あるがままに自分自身をうけいれることではなく、自分自身を複雑で困難な練り上げの対象とみなすこと(p.379)。
(4)上記の、1、アイロニカルな英雄化 2、現実的なものを変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、3、自己禁欲的な練り上げは、社会ではなく、ボードレールが芸術と呼ぶ場所で成立する(p.380)。
フーコーはボードレールの現代性の特徴を、これらボードレール的な現代性の4点によって要約しているのではなく、そうではなく〈哲学的な問い〉が〈啓蒙〉に根差しており、「私たちを啓蒙に結び付けている絆が、教義の諸要素への忠誠というようなものではなく、むしろ一つの態度の絶えざる再活性化なのだ」(p.380)ということを指摘している。→この態度を、〈哲学的エートス〉として特徴づけることができる。
〈哲学的エートス〉のネガティヴな特徴づけ
(1) 啓蒙は受け入れる/拒否するという二者択一を拒否するということを意味している。「弁証法的なニュアンスを導入することなど、この恐喝の外にでることにはならないのだ」(p.381)。
(2) 人間主義のテーマと啓蒙の問題とを混同するような歴史的道徳的混迷主義をも逃れなければならない(pp.384-385)。
〈哲学的エートス〉のポジティヴな特徴づけ
(1)〈哲学的エートス〉は、一つの限界的態度として性格づけることができる。それは、拒絶の態度ではない。ひとは、外と内との二者択一を脱して、境界に立つべきなのだ。批判とは、まさしく限界の分析であり、限界についての反省なのだ(p.385)。
(2)限界に立つことで実行されるこの仕事が、一方では、歴史的調査の領域を開くものであるべきだということ、他方では、変化が可能であり、また望ましくもある場所を把握し、また、その変化がどのようなものであるべきかを決定するために、現実と同時代の試練を自ら進んで受けるべきだ(p.387)。
(3)Q:つねに部分的で局所的な実験にとどまり続けることによって全体的な諸構造に逆に規定されないか?
A1:完全で決定的な認識を断念しなければならないのはその通り。
A2:しかし、無秩序と偶然性においてしか行われることを意味しない。その作業は、固有の賭けられたもの、均一性、体系性、一般性をもつ(pp.388-389)
・固有の賭けられたもの
能力と権力のパラドクスといった技術的諸能力の増大と権力関係の強化とをどのように切り離しうるかということ(p.390)
・均一性
行うことの諸々の様態を組織している合理性の諸形式を対象とするとともに、他人たちが行うことに反応しつつ、またある程度までは自らのゲーム規則を変更しつつ、人間がそれらの実践のシステムのなかで行動するときの自由を対象として扱う(p.390)。
・体系性
如何にして、私たちは私たちの知の主体として成立してきたのか、如何にして私たちは、権力関係を行使し、またそれを被るような主体として成立してきたのか、また、如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか、という体系化である(p.391)。
・一般化
歴史的―批判的調査は、つねに、一つの素材、一つの時代、限定された実践と言説が作り出す一つのまとまりであり、非常に個別的なものだが、西欧社会という尺度において、それらの調査は一般性をもつ(p.391)。→〈問題化〉の諸様式の研究は、一般的な射程を持った諸問題を、歴史的に単独な諸形態において分析するという方法なのである(p.392)。
まとめ
私たち自身の批判的存在論、それをひとつの理論、教義、あるいは蓄積される知の恒常体と見なすのではなく、一つの態度、一つのエートス、私たち自身のあり方の批判が、同時に私たちに課せられた歴史的限界の分析であり、同時にまた、それらの限界のありうべき乗り越えの分析であるような、一つの哲学生活として、それは理解されるべきなのだ。 カントの啓蒙の問いは、一つの哲学態度として理解できる。そしてその哲学態度は、様々な調査の作業に翻訳されなければならない。それらの調査は、技術論的なタイプの合理性であると同時に、諸々の自由の諸戦略ゲームとしてとらえられた諸々の実践の、考古学的であると同時に系譜学的な研究においてこそ、方法論的一貫性を持つことになる(p.393)。
編者解説「啓蒙とは何か(2)」……石田英敬
「 およそ「西欧」の歴史全体を視野に入れ、そのなかで「発明」された「技法」や「政治テクノロジー」から、「認識」の歴史を捉え返し、私たちをとらえている「政治的理性」の批判を実行すること、そうした方法および態度はむしろフーコーにおいては全仕事を通してつねに一貫した戦略であったと考えるべきなのだ。」(p.450)
「「国家」とは、逆説的なことだが、「個人化」の政治テクノロジー抜きには成り立ちえないものだ。「私たちはどのようにして、自分たち自身を、社会として、社会的実体の要素として、国民や国家の一部として、認識するようになったのか」(「個人の政治テクノロジー」、コレクション第5巻408頁)という問いに答えることこそが、「国家」の問いに答えることである。」(p.451)
*作成:石田 智恵
更新:中田喜一, 箱田 徹
UP:20080831 REV:20091226 20100428
フーコーとチョムスキー
返信削除https://youtu.be/lyOym-URjgA
https://youtu.be/i_jyKaqF9yc
ミシェル・フーコー「規律社会について」part1 声のみ
https://youtu.be/Cvyj664XeIM