NAMs出版プロジェクト: スピノザと日本古典文法
http://nam-students.blogspot.jp/2015/01/blog-post_28.html(本頁)
無論スピノザは確信犯なのだが。
さて、大野晋の文法論も、助動詞の「る・らる」が複数の意味を持つ**ことを日本人の特性と結びつけていて興味深い。
要するに日本人は、尊敬に値する人は、自然の成り行きでそうなる、つまり自発的に可能になる事柄に対して受身であるに違いないと無意識に考えているいうことだ。
以下引用。
《Q31…なぜ、一つで四つの機能を果たすかということについては、助動詞のところで説明しますが、「る」「らる」はもともとは「自然にそうなる」とうことです。例えば、日本人は可能だということを「できる」といいます。これは、出てくる、自然にわいてくるということです。だから日本人は、可能だということを自然にわいてくるという形でとらえるわけです。》
《Q35 「る」「らる」にはどうして受身・可能・自発・尊敬という、かなり違った四つの意味があるのでしょうか。
A 「る」「らる」の意味は、「自発」が根本
「る」「らる」という助動詞は、学校文法では自発・尊敬・受身・可能という四つの意味を表すと教え、生徒はそれをただ暗記しますけれど、なぜ一つの言葉がそういう四つの意味をもつのかということを考えてみると、「る」「らる」の性格がもっとよくわかってくるのではないでしょうか。
この四つの意味の根本は、自発、つまり「自然の成り行き」を表すところにあります。日本人は物事を自然の成り行きととらえる傾向が強く、また、成り行きであれば仕方ないこととして容認する傾向も強いのです。例えば、「会議の結論は…することになりました」と報告すれば人々はそうかと承認しますが、「委員会としては…することにしました」と報告することにしました」と報告すると、行き過ぎではないかとか、その考え方には異論があるなどともめたりします。多くの日本人は、成り行きに従うことをもっとも安定したことと考えるのです。…
自然の成り行きで「可能」となる…
自然の成り行きを受け入れる「受身」…
相手が自然に動作をするのが「尊敬」…
「る」「らる」の語源は「生る」か?
以上のように、「る」「らる」の四つの意味は、すべて「自然の成り行きでそうなる」という「自発」の意味が根本であるということがわかっていただけたと思います。それではこのように日本人の意識と深い関係のある「る」「らる」の語源は何かということです。
一般的に、語源を決定することは困難なことですから、「る」「らる」の語源を決定することは不可能だというほかないのですが、試みに推量するなら「生(あ)る」という動詞が語源ではないかと思われます。
…
泣キアル→泣カル(nakiaru → nakaru)となって動詞の末尾と融合して消えてしまうこと、また「生る→自然に発生する」という意味の上からいっても、可能性が少なくないと思います。》
(大野晋『古典文法質問箱』より)
以上、引用終わり。
繰り返すなら、日本人は、自然の成り行きでそうなる、つまり自発的に可能になる事柄に対して受身である人こそが尊敬に値すると無意識に考えている。
ちなみに、これは日本人が求める天皇像そのものだ。
**
小西甚一は「基本の意味だけ覚えこむ。用例ぐるみで覚える。」と『古文の読解』ちくま文庫157頁で書いている(「る・らる」関連は同306~312頁)。
教授法に関して別件になるが、漢文の場合は熟語の文法構造からはいるのがいいだろう。 →補足
//////////
さらにまとめると、
日本人は、自然の成り行きでそうなる、つまり自発(る・らる)的に可能(る・らる)になる事柄に対して受身(る・らる)である人こそが尊敬(る・らる)に値すると無意識に考えている(これは日本人が天皇に求めるものそのもの)。
大野は無視しているが、naの発音は、発声時に鼻が開くという特徴を持つ。念仏や題目がnaで始まるのは偶然ではなく、人々に空気を与えているのだ。だから大野が最後に追記しているaruは語源としては二次的だと思う。nは最初から切り落とせない。
ハイデッガー流に逆説的に言えば、日本人にとって、現存在はあるが、存在はなるのだ。
*
以下再録:
TRASCENDENZA IMMANENZA
Kant Spinoza
| |
Husserl Nietzsche
\ / |
Heidegger |
/ \ |
Lévinas, Derrida Foucault, Deleuze
《Se tale è la ricchezza e, insieme, l'ambiguità contenuta nel diagramma testamentario L'immanence: une vie..., la sua assunzione come compito filosofico implicherà retrospettivamente la ricostruzione di un tracciato genealogico che distingua chiaramente nella filosofia moderna – che è, in un senso nuovo, in gran parte una filosofia della vita – una linea dell'immanenza da quella della trascendenza, secondo uno stemma approssimativamente di questo tipo: 》(Pagina 377 L'immanenza assoluta )
〜その大部分は、新たな意味での「生の哲学」である〜を内在の線と超越の線ではっきり区別す
るような系譜図を遡及的に再構成してゆくという仕事も、その一端として必然的に課されるので
ある。それはたとえば、このような概略的な系統図が目安になるだろう。」
(アガンベン「絶対的内在」邦訳『現代思想2002.8』邦訳改訂版『思考の潜勢力』再録)
追記(例文):
Franco si pentirà.(フランコは後悔することになる・するでしょう)⇒再帰動詞文
これを使役動詞文にすると;Lo farò pentire.(私は彼を(フランコ)を後悔させるでしょう) =Farò in modo che Franco si pentirà.(私はフランコが後悔するようにさせるでしょう)。
これを使役動詞文にすると;Lo farò pentire.(私は彼を(フランコ)を後悔させるでしょう) =Farò in modo che Franco si pentirà.(私はフランコが後悔するようにさせるでしょう)。
「I enjoyed myself, 私は私自身を楽しませた→私は楽しかった」⇒再帰動詞文
神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫) 電子書籍: スピノザ, 吉田 量彦
第五章より
第五章 さまざまな儀礼が定められた理由について。また、歴史物語を信じることについて。つまり、そういう物語を信じることはどういう理由で、また誰にとって必要なのかについて
序文より
…実はこの自由というものは、それを認めても道徳心や国の平和は損なわれない、というだけではない。むしろそれどころか、もしも自由が踏みにじられたら、国の平和も道徳心も必ず損なわれてしまうのである。わたしがこの論考の中で証明したかったのは、何よりもまずこのことなのだ。
これを証明するためにまず必要だったのは、宗教についての数々の重大な先入見を、言い換えれば過去の時代の奴隷根性の遺物を指摘することであり[第一~十五章]、それからまた、至高の権力の持ち主[=主権者]たちに属する権利についての先入見を指摘することであった[第十六~二十章]。
補足:
以下、『漢文入門』(小川環樹7−11頁より)
四 語法概説(単語の結合)
漢文はもともと漢字が並べてあるだけで、それには語尾変化もなく、主語と述語動詞との対応もなく、
また格を示す肋詞もない。従って漢文の解読には、何よりもまず漢文の構文(syntax)を知る必要があ
る。漢文の構文・語法においては、文字(単語)の位置が文章や語句の意味を決定する。文字の位置と
いえば、文字相互の前後関係に要約できる。そこでまず、わが国で常用している二字で成立している漢
語を用いて、この漢語を構成する二字の結合の関係を分析して、研究して見よう。
1日没 2氷解 3撃破 4晩成 5殺傷 6傷害 7読書 8父母
9大国 10流水 11城門 12蒙古 13矛盾 14決然
…
以上ですべての語と語との結合関係を網羅したわけではないが、主要なものはほぼすべて挙げた。こ
れらを整理すると、大体つぎのようになる。
A 主語 述語 国語の口語で「aがbする」「aはbである」を意味する。ただし漢文では主語が
省略される場合が多い。1
B 述語 補語 同語の口語で「aを・へ・に・から・よりbする・bである」などを意味する。7
C 修飾語 被修飾語 国語の口語で「どのようなa」「なにのa」「なにでできているa」、および
「どのようにaする・aである」を意味する。被修飾語が名詞の類のものであれば、修飾語は形容
詞的となり、被修飾語が動詞・形容詞・副詞の類のものであれば、修飾語は副詞的修飾語となる。2、4、9、10、11
D 並列 aとb。aし及びbする。5、6、8
E 選択 aまたはb。aしまたはbする。13、(8)
F 時間的継続 aしてbする。3
G 従属 aのb(aに従属しているb)(10)
H 上下同義 a=b 6(連文,連語)
右にあげた語と語との前後の相互関係は、大体からいって、名詞とか動詞・形容詞とかの実質的意味
内容をもっている語、すなわち実辞についてのべたものであるが、漢文にはまた別に助辞(または助字)
というものがある。
(1から7は名詞にもなる。12は音を漢字で表現した外来語、13は故事、14は音による擬態語の
ようなもの。構文に関しては別途考察する必要がある。)
参考:
タイトル スピノザと中世のヘブライ文法論争--『ヘブライ語文法綱要』の本文校訂のために
著者 手島 勲矢
出版年 1998
著者 手島 勲矢
出版年 1998
スピノザと中世のヘブライ文法論争--『ヘブライ語文法綱要』の本文校訂のために
返信削除手島 勲矢
詳細情報
タイトル スピノザと中世のヘブライ文法論争--『ヘブライ語文法綱要』の本文校訂のために
著者 手島 勲矢
出版年 1998
対象利用者 一般
資料の種別 記事・論文
掲載誌情報(ISSN形式) 00305219
掲載誌情報(ISSNL形式) 00305219
掲載誌情報(URI形式) http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000002903-00
掲載誌名 オリエント / 日本オリエント学会 編
掲載巻 41
掲載号 1
掲載ページ 110~124
言語(ISO639-2形式) jpn : 日本語
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/41/1/41_1_110/_pdf
返信削除主題を示す日本語の「は」は、「ピリオド越え」をすることで、リズムを生む。
返信削除例えば、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたのか見当がつかぬ。…」
こうした三上章の説は、日本語が非論理的なのではなく、日本語に見合った文法が発見されていないだけなのだということを思い至らせてくれる。
上記の「は」が、「虚勢的係り結び」だというのは言い過ぎのような気がするが、浅利誠著『日本語と日本思想』は、こうした問題提議をしていて示唆に富む。
ただし、今現在2chや携帯小説ならではの文例というよりも文法も生みだされている過程にあるのではないだろうか。つまり文法も歴史的にあるいは必然的に動いていると言えるのではないか。
柄谷の理解も中途半端だし(例えば柄谷はハイデガーに自然への回帰ではなく自己言及の形式を見出しているし、亜周辺である日本の症例研究はラカンを踏まえたものだ)、そうした動的な視点が欠けているのが惜しい。
http://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/hobby/color/color_1/post_223.html
返信削除味覚の種類 [編集]
かつて基本的な味の要素として挙げられていたものには、甘味、酸味、塩味、苦味、辛味、渋味、刺激味、無味、脂身味、アルカリ味、金属味、電気の味などがあった。1901年、ヘーニッヒ (D. P. Hänig) はアリストテレスの示した4つの味の舌の上での感覚領域[1]を示した。しかし今日ではこの説は否定されている。1916年、ドイツの心理学者ヘニング(Hans Henning)は、この4つの味とその複合で全ての味覚を説明する4基本味説を提唱した。ヘニングの説によると、甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味を正四面体に配し(味の四面体)、それぞれの複合味はその基本味の配合比率に応じて四面体の稜上あるいは面上に位置づけることができると考えた。
日本では1908年に池田菊苗がうま味物質グルタミン酸モノナトリウム塩を発見した[2]。このうま味は4基本味では説明できないため、日本ではこれを基本味とする認識が定まった。しかし西洋では長らく4基本味説が支持され続け、うま味が認められたのは最近のことである[3]。現在では甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つが化学受容体を介して膜電位の活性化を引き起こしていると考えられており、生理学的にはこの5つが味覚であるといえるため、五基本味と位置づけられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E8%A6%9A
[3] 2010年03月12日 22:47
関本洋司 味覚の受容体 [編集]
味覚受容体細胞は複数の化学物質刺激に対して膜電位が活性化され、その強度は化学物質によって異なる。1つの味覚受容体細胞に対して複数の神経がシナプス接合している。受容体細胞側では膜電位が伝達されると、Ca2+チャネルの働きにより、セロトニン(5-HT)がシナプス間隙に放出され、神経に刺激が伝達される。
味覚の刺激量と感覚の強度との関係は、他の感覚と同様で、刺激量のべき乗に比例して感覚の強度が大きくなる。一方、味覚の種類によって最小感度(閾値)と強度応答は異なる。一般に
苦味が最も感度が高く、
塩味、
酸味、
甘味と続く。また、
苦味と塩味は応答範囲が広いが、
酸味、甘味は狭く、
特にショ糖による甘味は高濃度で応答が飽和する。
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) 単行本 – 2017/3/27
返信削除國分功一郎 (著)
5つ星のうち 5.0 5件のカスタマーレビュー
商品の説明
内容紹介
自傷患者は言った「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」。依存症当事者はため息をついた「世間の人とは喋っている言葉が違うのよね」
――当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか? それ以前に、私たちの思考を条件付けている「文法」の問題なのか?
若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。
【本書「あとがき」より】
中動態の存在を知ったのは、たしか大学生の頃であったと思う。本文にも少し書いたけれども、能動態と受動態しか知らなかった私にとって、中動態の存在は衝撃であった。衝撃と同時に、「これは自分が考えたいことととても深いところでつながっている」という感覚を得たことも記憶している。
だが、それは当時の自分にはとうてい手に負えないテーマであった。単なる一文法事項をいったいどのように論ずればよいというのか。その後、大学院に進んでスピノザ哲学を専門的に勉強するようになってからも事態は変わらなかった。
ただ、論文を書きながらスピノザのことを想っていると、いつも中動態について自分の抱いていたイメージが彼の哲学と重なってくるのだった。中動態についてもう少し確かなことが分かればスピノザ哲学はもっと明快になるのに……そういうもどかしさがずっとあった。
スピノザだけではなかった。数多くの哲学、数多くの問題が、何度も私に中動態との縁故のことを告げてきた。その縁故が隠されているために、何かが見えなくなっている。しかし中動態そのものの消息を明らかにできなければ、見えなくなっているのが何なのかも分からない。
私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた。
(中略)
熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。
その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。
次第に私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。──そのような気持ちが私を捉えた。
(以下略)
出版社からのコメント
中動態とは何なのか? その名称からは、まるで能動態と受動態の中間であるかのような印象を受ける。その印象は正しいのか?
また現在、中動態は少なくとも言語の表舞台からは消えてしまったように思われる。本当にそうだとすれば、それはなぜ消滅してしまったのだろうか?
いや、もしかしてそれはまだ姿を変えて残り続けているのだろうか?
それにしてもなぜわれわれは中動態について教わることがないのか?
若き哲学者は、バンヴェニスト、アレントに学び、デリダ、ハイデッガー、ドゥルーズを訪ね直し、細江逸記を発見し、アガンベンに教えられ、そして新たなスピノザと出会う。
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登録情報
単行本: 330ページ
出版社: 医学書院 (2017/3/27)
言語: 日本語
ISBN-10: 4260031570
ISBN-13: 978-4260031578
発売日: 2017/3/27
商品パッケージの寸法: 21.2 x 15 x 2.4 cm
おすすめ度: 5つ星のうち 5.0 5件のカスタマーレビュー
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1位 ─ 本 > 人文・思想 > 哲学・思想 > 論文・評論・講演集
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5つ星のうち 5.0知的興奮に満ちた一冊
返信削除投稿者 飴細工 投稿日 2017/4/5
実に興味深い本だった。興奮しながら読み進めた。
この本を多くの人々に知っていただきたい。
しかし、「中動態」という語に本書へのとっつきにくさを覚えてしまう人がいたら、それはたいへんもったいないことである。
本レビューは本書の雰囲気だけでも知ってもらうために、それぞれの章についてざっくりとしたメモ書きを並べる。
より多くの方にこの本を手に取っていただければ幸いである。
第1章
人間の行動には「意志」の有無が問われがちである。
人は誰かから謝罪を受けるとき、そこに深い謝意という意志が読み取れなければ満足できない。
道を歩く人を見て、我々は「あの人は自分の意志で歩いている」と信じて疑わない。
しかし、人間は自分の意志で行動の全てをコントロールしているわけではない。
脳科学的に見ても、脳内では意志される前に行動のプログラムが組まれ始めている。
歩くことですら、「私が歩く」という言葉で表しきれない何かがあるのだ。
こういった考察から「能動と受動」という分類の不十分さが指摘され、現在はほとんど意識されない中動態という態への旅が開始される。
第2章
アリストテレスや最古のギリシア語の文法書へ遡り、当時存在した中動態がどのようなものであったのかを探る。
中動態とは、かつて能動態に対立するものであり「経験すること」を示すと思われるが、その後の歴史の中で受動態にその場を取って代わられたものなのである。
第3章
哲学の分野が中動態を「能動対受動の対立を超える第三項」としていわば神秘化してきた経緯を批判し、言語学的に中動態の意味を探る。
中動態とは、主語がその過程の内部にあることを示すものであるということが確認される。
第4章
バンヴェニストとデリダの論争を取り上げ、両者からいいとこ取りをするという器用な手続きをとった後、著者はデリダの次のような主張の重要性を指摘する。
すなわち、中動態を抑圧してきたことが、西洋の哲学の根底にあるのである。
第5章
現在の我々は能動態と受動態とを対立させて思考している(殴るの反対は殴られるである)。
そういった言語によって思考の可能性が規定されているのであれば、能動態と中動態とを対立させて考えていた時代には、それ特有の思考の可能性が展開されていたのではなかろうか。
この問題意識のもと、ハンナ・アレントによるアリストテレス読解を通じて意志の概念について問う。
著者はアレントを懐疑的に読みながら、フーコーを援用し、権力と暴力の関係を分析する。
第6章
古語の歴史を辿り、中動態が辿ってきたであろう運命を探っていく。
ここで著者が掲げる推測は、能動態から中動態が生まれたのではなく、はじめに中動態があったのではないかというものである。
第7章
能動対受動という思考の枠組みに異を唱えた哲学者として、著者はハイデガーとドゥルーズを挙げる。
ハイデガーにおける「意志」批判を検討し、その後ドゥルーズの『意味の論理学』を読み解く。
(私の感想を付せば、本書におけるドゥルーズの位置付けは一読した限りではほとんど理解できなかった。これは私の勉強不足によるところが大であろうから、その辺りの解説は詳しい方々に任せたい。)
第8章
前章に続き、本章ではスピノザを読み解いていく。中
動態という語を用いなかったスピノザではあるが、彼は能動でも受動でもない動詞の形態に注目している。
ここから、著者はここまで探ってきた中動態という概念からスピノザを読み返す。
アガンベンを援用して著者が述べているように、スピノザ哲学の核心には中動態が確たる地位を占めている。
この確認の上で、スピノザにおける能動と受動を問う。
第9章
著者はメルヴィルの『ビリー・バッド』を読む。
バーバラ・ジョンソンを批判的に読み、アレントを援用しながら
著者は過去のテクスト群をじっくり読みながら、中動態についての議論を組み立てていく。
アリストテレスや大昔の文法書などに言及しながら中動態を歴史的に分析する手際などはアガンベン(フーコーら)のそれを思い起こさせるし、アレントのテクストとの粘っこくもシャープな対話は劇の台本を読んでいるかのような感に囚われる。
本書は「読むこと」のお手本を示しており、その意味で人文学のあるべき姿を示していると私には思える。
(最終章でのジョンソン批判にはどこか性急な点が見られなくもないように思われるが、本書の重点はそこには無い。)
『暇と退屈の倫理学』をワクワクしながら読んだ人は一定数いるはずである。
そのような人には間違いなくおすすめできる一冊。賑やかな文末脚注も健在。
このような本を、ツイッター等でも発信力のある著者が著してくれたことがとても嬉しい。
準備中であるという『原子力時代の哲学(仮題)』の出版が待ち遠しい。
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5つ星のうち 5.0非常に読みやすかった
投稿者 Amazon カスタマー 投稿日 2017/4/6
読み始めでは「能動と受動」や「主体と他者」といったものの中間をマークしていくんだろうなぁと見立てていたが、どうもそう単純ではないらしいことが徐々に分かってきて、いい意味で雲行きが怪しくなってくる。
アリストテレスをはじめとして、最近やけに目にするバンヴェニストなど古今東西の言語学者たちのギリシャ語ラテン語英語の研究、そして著者自身の手によるそれらの検討と独自の語源の探究がある。そこから中盤以降は序盤で得られた「中動態」についての一定の見立てを持ちながら、ある「逸話」(カツアゲ!)をキーにして「意志」概念をめぐる問題系へと展開していく。それらは副題にあるように「意志と責任」の考古学的探究と呼べるものなのだった。アレントとハイデガーの関係、フーコーの権力論、ハイデガーの「放下」の概念、ドゥルーズの『意味の論理学』、多数の哲学の諸問題が検討される。やがてスピノザの「本質」概念などへとたどり着き、そして最終章のメルヴィル読解と再び回帰するアレントへ至る。
このような言い方では到底言い足りないほど充実した本書であるが、一貫して通底する内容としては私は良質なスピノザ論として読めた。というか、本書全体を通してはじめてスピノザの何かに触れることが出来たような気がしている。本書がスピノザの『ヘブライ語文法綱要』を通過し、倫理を論じていくところがその経緯を含めて私にとってはハイライトだった。
かつてドゥルーズの『スピノザ実践の哲学』を読んだが、「一陣の疾風が存在の一義性となって吹き付ける(うおぉー!)」という印象しか持てなかったので、本書を読み通したいま、改めて再読している最中である。
あと、これは『暇と退屈の倫理学』でも感じたが、現代思想系にありがちな「ぐねぐねっとして、過剰だったり微妙に言い足りないような文体にしながら、有り難~い雰囲気を醸し出す(そして分かったような気がするが翌日になるともう思い出せない)」みたいな所が一つもなかった。これは「~ではないか?~なのか?」といったクエスチョンマークで接続しながらドライブしていく文体によるのかもしれない。著者のクエスチョンマークは一見して単純で「小並感」を装ったように見受けられるほど簡素なものだが、実は周到に練られた上で発問されたクリティカルなもので、読者をさらに超越論的な問いの方へと誘っていっているように思えた。
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中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) | 國分功一郎 ...
返信削除www.amazon.co.jp/中動態の世界...國分功一郎/.../426...
英文法で教えられるのが「能動態(~する)」と「受動態(~される)」の区別だが、本書のタイトル「中動態」はそれら二つの起源にある、古典ギリシア語など嘗てのインド= ヨーロッパ語に広く存在した動詞の態を指す。 「大学生の頃 ... 第8章「中動態と自由の哲学 スピノザ」で本書は山場を迎える。 「『エチカ』 .... 國分が主に依拠するのは、第一に、「自由意志」という概念に無縁であった古代ギリシア、アリストテレスのカテゴリー論から中動態に対応するカテゴリーを見い出したバンヴェニストによる見事な能動態/中 動態の定義である。
Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 中動態の世界 意志と責任の考古学 ...
www.amazon.co.jp/中動態の世界...國分功一郎/.../426...
原因/結果の機械論的因果論ではなく、非機械論的・非決定論的因果論のもとにある中 動態の世界の存在構造が我々の眼前に展開するのである。 ****************** さて、「 中動態の世界」での自由の概念は、どうなるのか? 「自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう」(262頁)と、 スピノザの「自由/強制」の定義を國分は引き継ぐかのようなそぶりをする。 しかし、「法則の ...
國分功一郎×熊谷晋一郎:「中動態」と「当事者研究」がアイデンティティを ...
wired.jp/2017/08/31/wrd-idntty-kokubun-kumagaya/
2017年8月31日 ... 第1弾のプログラムとして発表された哲学者・國分功一郎と医師・熊谷晋一郎による「『中 動態』と〈わたし〉の哲学」は「中動態」と「当事者研究」という視点から〈わたし〉のありようを問い直すトークセッションだ。4月に医学書院から『中動態の世界』を出版し「 ..... エンタメサイト「Deadline」によると「Black America」は、元奴隷たちが損害賠償としてルイジアナ州、ミシシッピー州、アラバマ州を手に入れて「ニュー・コローニア」(新たな居住地)と呼び、「その土地で自由に自らの運命を決していく」というストーリーだ。
546 名無し名人 (ワッチョイ b502-j9UZ [202.70.237.154])[] 2019/04/08(月) 08:56:27.89 ID:iVLbjuwC0
返信削除いちにさん「し」ごろく「しち」はちきゅうじゅう
じゅうきゅうはち「なな」ろくご「よん」さんにいち
数字を上げていくときと、下げていくときで、四と七は読み方が変わる日本語の不思議
よ(よん)、ななは、和語の数え方だよね(一二三をひふみと読む数え方)