溝口健二1898-1956「『雨月物語』について」1954.Mizoguchi, Kenji.他
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/1898-1956-mizoguchi-kenji1954.html(本頁)《...いわゆる、「映画の東洋的美感」という、わたしの演出家としての野心が、この作品で、どこまで達成されているか。これもまた、みなさんの御判断を仰ぎたい点です。...》
(溝口健二「『雨月物語』について」1954)
青空文庫には溝口健二の文章は「日本映画趣味」しか公開されていない。近年佐相勉氏によって一冊にまとめられキネマ旬報社から出版された著作集を見ればいいのだが、1954年、戦後の『雨月物語』(1953)を撮ったあと、色彩映画の研究のために渡米した際の講演原稿を紹介したい。新藤兼人は溝口健二の無教養を強調したが、それは間違っている。
1929年の「日本趣味映画」は戦前だからか日本が強調されていたが、ハリウッド講演原稿に見られるように戦後は「映画の東洋的美感」が強調されている。バルザックが好きだったようだが、死の前年(1955年)、溝口健二はサルトルの『恭しき娼婦』の映画化を考えていた(『溝口健二著作集』388頁)。そこには人間の普遍性への認識が基本にある。
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『雨月物語』について (1954)
溝口健二
わたしが『雨月物語』に興味を持って映画を考えたのは、もう大分以前のことになりま
す。全篇を通読して、「蛇性の婬」と「浅茅ケ宿」から、特に強い感銘を受けました。『雨
月』を読まれた方は、どなたでもそうであろうと思います。
「蛇性の婬」は、愛慾の妄執というものを、端的に強烈に描いています。「浅茅ケ宿」に示
されているのは、人問のいのちのはかなさ、言葉をかえれば、人生無常の考え方です。そ
のうら側には、人間の物欲が、妻の生死さへ度外視させるすさまじさを想像させます。
二つの物語は、いずれも共に、独立して、それぞれの主題をもつ、きちんとした短篇で
すが、わたしは、『雨月物語』の映画をつくるならば、この二つを一つのものに、何とかし
て仕上げてみたいと考えました。二つの物語のどちらも、一篇としてとりあげると、話が
足りないから、二つをつぎ合わせて満足な一つにしようというのではありません。
井原西鶴が、色欲二道という有名な言葉を吐いています。人間の本能を、あらゆるかざ
りをとり去って、すっ裸にしてみると、のこるものは、色--すなわち、愛欲と、欲--
すなわち、物欲の二つしかないということらしい。
たまたま、「蛇性の婬」は、その愛欲を、「浅芋ケ宿」は、その物欲を、主題として、奇異
幻怪の人生図をくりひろげています。この二つの物語を一つにすることによって、人間の
あるがままの姿というものが、はっきり浮かび出して来はしないか、わたしの、野心とい
うとおこがましいけれど、もくろみ、というのは、この点にあったのです。
『雨月物語』には通例、怪談ということで通っていますが、多くの徳川期の怪談を集めた書
物の中で、上田秋成翁のこの作品が、ズバ技けて立派な古典として、今日にまでのこって
来た所以をふり返ってみますと、単に、簡潔、雄勁、しかも微妙なニュアンスにあふれた名
文のためばかりとは思えない。
よく読んでみると、秋成が描き出している「奇異」「幻怪」というものは、人間が「欲」
にとらわれた「心の迷い」の非常に具象的で明快なかたちを示しているのではなかろうか。
もとより「奇異」であり、「幻怪」でありますから、この世の合理的な尺度では、はかる
ことはできません。しかし、かえって、こういう非現実な形の中に、人間の本能や欲望が、
本然の姿のままで、まざまざと現われているのではないか。
それが、はっきりと、描き出されているために、『雨月物語』が古典的価値をになっに至
ったのでありましょう。
わたしはちかごろ、映画の傾向として、写実主義が本流となっていることに、いろいろ
と疑問をいだいており、人間の美なり醜なりをできるだけ単純な形で力強く描き出したい
という気持に始終追いかけられているといってもいいくらいです。
『お遊さま』も『西鶴一代女』も、同じこの気持から生み出されたものですが、この二作
をつくったことで、漸く『雨月』を映画化できるという目当がぼつぼつかためられて来た
というわけです。
以上が、まあ、わたしの『雨月』を作りたいという動機もしくは、モティーフというと
ころですが、幸いわたしのこういう気持をくんで、川口松太郎、依田義賢のお二人が協力
して、十分わたしの意図を満足させるに足るいい脚本を書いてくれました。のこるところ
は、演出が成功するかどうかということで、これは、映画作品そのものを見ていただいて、
みなさんの御批判を仰ぐわけですが、多少演出にあたって、自分が何を考えたかを、御批
判の材料の一つとして申し上げておきます。
演出の意図と方法も、結局『雨月』を映画にしようとした動機の中に、包括されている
ので、それ以上に、何か特別なきめ手があるわけではない。
物語の背景は、秋成も戦乱を舞台にしていますがその効果を一層つよめるために時代を、
戦国にずり下げました。愛欲、物欲が、さらに異常にふくれあがって、人間を食ってしま
うという条件を、戦乱という本能露出の絶好の機会に求めたのです。同時に、モーパッサ
ンの短篇から示唆された、非常に現実的な挿話を付加しました。この挿話の現実性が映画
全体の浪漫性ないし象徴性を一層つよめる対比作用に役立つと信じてそうしたのです。
従って、全体にわたり、現実、非現実を通し、わたしは、瑣末な写実描写を一さい省き
去り、喜怒哀楽の率直な、それだけに力強い表現を、ロマンチックな美感の中に、つくり
出すということをたて前にしました。
現実と非現実はギリギリのところで交錯し、その秩序は、一貫して保たせてありますが、
さらに強烈さを要求する場面には、はげしいディフォルメーションと、超現実主義、とで
もいうような拡大を行っております。
しかしながら、物語はあくまで日本のものであり、東洋の神秘なのですから、変形とい
い、拡大といっても、日本の文化的遺産のもつ無類の美しさを標準とし、基調としていま
す。
能に範をとり、修学院、桂両離宮の様式を拝借しているのもそのためです。
これらの日本文化のすぐれた遺産は、驚嘆すべき洗練と単純化を見せています。これを、
映画の表現を通じて、現代の美感として再生させたいのは、わたしの念願ですが、いわゆ
る、「映画の東洋的美感」という、わたしの演出家としての野心が、この作品で、どこまで
達成されているか。これもまた、みなさんの御判断を仰ぎたい点です。
撮影の宮川一夫、美術の伊藤熹朔、音楽の早坂文雄の諸氏が、わたしの意図を十二分に
くみとりすぐれた協力を与えていただいたことを感謝して、挨拶を終りたいと思います。
(一九五四年六月色彩映画研究のためアメリカに渡った時、ハリウッドでの講演原稿より)
す。全篇を通読して、「蛇性の婬」と「浅茅ケ宿」から、特に強い感銘を受けました。『雨
月』を読まれた方は、どなたでもそうであろうと思います。
「蛇性の婬」は、愛慾の妄執というものを、端的に強烈に描いています。「浅茅ケ宿」に示
されているのは、人問のいのちのはかなさ、言葉をかえれば、人生無常の考え方です。そ
のうら側には、人間の物欲が、妻の生死さへ度外視させるすさまじさを想像させます。
二つの物語は、いずれも共に、独立して、それぞれの主題をもつ、きちんとした短篇で
すが、わたしは、『雨月物語』の映画をつくるならば、この二つを一つのものに、何とかし
て仕上げてみたいと考えました。二つの物語のどちらも、一篇としてとりあげると、話が
足りないから、二つをつぎ合わせて満足な一つにしようというのではありません。
井原西鶴が、色欲二道という有名な言葉を吐いています。人間の本能を、あらゆるかざ
りをとり去って、すっ裸にしてみると、のこるものは、色--すなわち、愛欲と、欲--
すなわち、物欲の二つしかないということらしい。
たまたま、「蛇性の婬」は、その愛欲を、「浅芋ケ宿」は、その物欲を、主題として、奇異
幻怪の人生図をくりひろげています。この二つの物語を一つにすることによって、人間の
あるがままの姿というものが、はっきり浮かび出して来はしないか、わたしの、野心とい
うとおこがましいけれど、もくろみ、というのは、この点にあったのです。
『雨月物語』には通例、怪談ということで通っていますが、多くの徳川期の怪談を集めた書
物の中で、上田秋成翁のこの作品が、ズバ技けて立派な古典として、今日にまでのこって
来た所以をふり返ってみますと、単に、簡潔、雄勁、しかも微妙なニュアンスにあふれた名
文のためばかりとは思えない。
よく読んでみると、秋成が描き出している「奇異」「幻怪」というものは、人間が「欲」
にとらわれた「心の迷い」の非常に具象的で明快なかたちを示しているのではなかろうか。
もとより「奇異」であり、「幻怪」でありますから、この世の合理的な尺度では、はかる
ことはできません。しかし、かえって、こういう非現実な形の中に、人間の本能や欲望が、
本然の姿のままで、まざまざと現われているのではないか。
それが、はっきりと、描き出されているために、『雨月物語』が古典的価値をになっに至
ったのでありましょう。
わたしはちかごろ、映画の傾向として、写実主義が本流となっていることに、いろいろ
と疑問をいだいており、人間の美なり醜なりをできるだけ単純な形で力強く描き出したい
という気持に始終追いかけられているといってもいいくらいです。
『お遊さま』も『西鶴一代女』も、同じこの気持から生み出されたものですが、この二作
をつくったことで、漸く『雨月』を映画化できるという目当がぼつぼつかためられて来た
というわけです。
以上が、まあ、わたしの『雨月』を作りたいという動機もしくは、モティーフというと
ころですが、幸いわたしのこういう気持をくんで、川口松太郎、依田義賢のお二人が協力
して、十分わたしの意図を満足させるに足るいい脚本を書いてくれました。のこるところ
は、演出が成功するかどうかということで、これは、映画作品そのものを見ていただいて、
みなさんの御批判を仰ぐわけですが、多少演出にあたって、自分が何を考えたかを、御批
判の材料の一つとして申し上げておきます。
演出の意図と方法も、結局『雨月』を映画にしようとした動機の中に、包括されている
ので、それ以上に、何か特別なきめ手があるわけではない。
物語の背景は、秋成も戦乱を舞台にしていますがその効果を一層つよめるために時代を、
戦国にずり下げました。愛欲、物欲が、さらに異常にふくれあがって、人間を食ってしま
うという条件を、戦乱という本能露出の絶好の機会に求めたのです。同時に、モーパッサ
ンの短篇から示唆された、非常に現実的な挿話を付加しました。この挿話の現実性が映画
全体の浪漫性ないし象徴性を一層つよめる対比作用に役立つと信じてそうしたのです。
従って、全体にわたり、現実、非現実を通し、わたしは、瑣末な写実描写を一さい省き
去り、喜怒哀楽の率直な、それだけに力強い表現を、ロマンチックな美感の中に、つくり
出すということをたて前にしました。
現実と非現実はギリギリのところで交錯し、その秩序は、一貫して保たせてありますが、
さらに強烈さを要求する場面には、はげしいディフォルメーションと、超現実主義、とで
もいうような拡大を行っております。
しかしながら、物語はあくまで日本のものであり、東洋の神秘なのですから、変形とい
い、拡大といっても、日本の文化的遺産のもつ無類の美しさを標準とし、基調としていま
す。
能に範をとり、修学院、桂両離宮の様式を拝借しているのもそのためです。
これらの日本文化のすぐれた遺産は、驚嘆すべき洗練と単純化を見せています。これを、
映画の表現を通じて、現代の美感として再生させたいのは、わたしの念願ですが、いわゆ
る、「映画の東洋的美感」という、わたしの演出家としての野心が、この作品で、どこまで
達成されているか。これもまた、みなさんの御判断を仰ぎたい点です。
撮影の宮川一夫、美術の伊藤熹朔、音楽の早坂文雄の諸氏が、わたしの意図を十二分に
くみとりすぐれた協力を与えていただいたことを感謝して、挨拶を終りたいと思います。
(一九五四年六月色彩映画研究のためアメリカに渡った時、ハリウッドでの講演原稿より)
(「『雨月物語』について」『映画監督溝口健二--生誕百年記念 別冊太陽』128頁)
『溝口健二著作集』(2013)374-377頁
公開年 作品名 製作 / 配給 脚本、脚色 主な出演者 上映時間ほか
1953年
『雨月物語』 大映京都撮影所 / 大映 川口松太郎、依田義賢 京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之、小沢栄 97分/白黒
1954年
『山椒大夫』 大映京都撮影所 / 大映 八尋不二、依田義賢 田中絹代、花柳喜章、香川京子、進藤英太郎、河野秋武 124分/白黒
1954年
『近松物語』 大映京都撮影所 / 大映 依田義賢 長谷川一夫、香川京子、南田洋子、進藤英太郎、小沢栄 102分/白黒
1955年
『新・平家物語』 大映京都撮影所 / 大映 依田義賢、成沢昌茂、辻久一 市川雷蔵、久我美子、林成年、木暮実千代、大矢市次郎 108分/カラー
公開年 作品名 製作 / 配給 脚本、脚色 主な出演者 上映時間ほか
1952年
『西鶴一代女』 児井プロダクション・新東宝 / 新東宝 依田義賢、溝口健二 田中絹代、山根寿子、三船敏郎、宇野重吉、菅井一郎 148分/白黒
1953年
『雨月物語』 大映京都撮影所 / 大映 川口松太郎、依田義賢 京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之、小沢栄 97分/白黒
『祇園囃子』 大映京都撮影所 / 大映 依田義賢 木暮実千代、若尾文子、河津清三郎、進藤英太郎、菅井一郎 85分/白黒
1954年
『山椒大夫』 大映京都撮影所 / 大映 八尋不二、依田義賢 田中絹代、花柳喜章、香川京子、進藤英太郎、河野秋武 124分/白黒
『噂の女』 大映京都撮影所 / 大映 依田義賢、成沢昌茂 田中絹代、七代目大谷友右衛門、久我美子、進藤英太郎、浪花千栄子 84分/白黒
『近松物語』 大映京都撮影所 / 大映 依田義賢 長谷川一夫、香川京子、南田洋子、進藤英太郎、小沢栄 102分/白黒
1955年
『楊貴妃』 大映東京撮影所・邵氏父子 陶秦、川口松太郎、依田義賢、成沢昌茂 京マチ子、森雅之、山村聡、進藤英太郎、小澤榮 98分/カラー
『新・平家物語』 大映京都撮影所 / 大映 依田義賢、成沢昌茂、辻久一 市川雷蔵、久我美子、林成年、木暮実千代、大矢市次郎 108分/カラー
1956年
『赤線地帯』 大映東京撮影所 / 大映 成沢昌茂 京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子、町田博子 86分/白黒
以下、青空文庫より
今度私が泉鏡花氏の『日本橋』を映画化するに当つて、それが諸々方々から大分問題にされたものであつた。
『もんだいに』と云ふと、話しは大きくなるが、鳥渡 した言葉のはしくれにも、
『どうだい君、溝口君が芸者物を撮るさうぢやないか。日頃の唯物論は何処へケシ飛んで仕舞つたんだ!』
『いや、あの人間は、以前からあゝ云つた下町情話ものが得意なんだ。だから、つまりは昔にかへつたわけなんだ。』
と、噂し合ふ有様である。
だが、それは両方とも私にとつて、擽つたい、むしろ迷惑な話しで、なまじい、色眼鏡をもつて見られる事は、心苦しい次第である。
然し、一般の人々の立場から考へて見ると、私は余程、しばしばと作品の方向を変へるやうに思はれてゐるかも知れぬ。
そして、嘗 つてものした愚作「紙人形春の囁き」とか「狂恋の女師匠」とか云ふ、所謂 下町情話物が、私の作品の中では割合に強い記憶を与へてゐるので、人々は、それを土台として、今度の「日本橋」に対して、とやかく云ふのかも判らない。
そこで私は、それらの人々に対し、そして又一時私が凝つた(と称せられる)下町ものから脱けて、思想的の陰影の強いものへと興味を向け、今更に再び下町物へと帰つた事に対して、一通りその理由を語らねばならないと思はれる。
私をして、昔の下町物へと戻らせた動機と云ふのは外 でもない、此の夏、実に思ひがけぬ事であるが、私の「狂恋の女師匠」のプリントを仏蘭西 からわざ/\買ひに来た人があつた。
その人は、日仏協会の人で、絶えず彼我の文明の交換に就いて努力してゐる人であるが、仏蘭西の芸術の当局者の人々よりの依頼を受けて、日本映画を買込みに来たものである。
それは、現在欧州を風靡してゐる東洋趣味からの要求が第一であらうが、嘗 つて村田君が持つて行つた「街の手品師」や、松竹の「萩寺心中」が巴里で上映され、或 は、岡本綺堂氏の「修善寺物語」がそのまゝに日本劇として向うの劇場に、上演されたのに依 り、日本の演劇、日本の映画と云ふものに対する愛好心が刺激された事も、主なる理由として挙げねばなるまいと思はれる。
ところが、仏蘭西の観客にとつては、今の所日本の映画は、たゞ彼等の異国趣味を満足させるに過ぎないであらう。日本の風景、日本の風俗、広重の錦画 を見、ピエル・ロチの『お菊さん』を見る心持ちを以つてのみ、日本映画に愛着を感じてゐるのでなからうか?
それでもよい。それに美を感じ、それを愛して呉れる事は、あながち我等にとつて、恥のみではないのだ。
しかし乍 ら――、彼等の憧れる瓦葺の屋根の下に、彼等の愛する絹の衣の下に、優れた日本の「美を感ずる魂」を含める事が出来たら、よりよき事ではなからうか。
いや、われらは、彼等をして絹の衣の美しさを感ぜしむると共に、その衣の下にある、「日本の心」を感じさせなければならないのだ。
嘗つては、一介の漁奇的な骨董品として輸出された歌麿の美人画は、仏蘭西の後期印象派に革命的な衝動を与へた。それは何故だ。日本の優れた魂が、その絵の中に秘められてゐたからである。
日本人の美に対する感覚、それは数多 の歴史を経、多くの時代を通り、様々な変化をして、或は天才の発見に依り、或は名工の技に依つて長い/\時間の中に、洗練され磨き上げられて来たものである。
それが日常生活の末端までにも、一挙手一投足のうちにまでも、深く/\浸み込んでゐるのである。此処に、日本の生活があるのだ。
私は此の夏頃――即ち、仏蘭西よりプリントの註文があつた頃、次に製作すべき作品の方向に就いて、悩み且つ迷つてゐた。
計らずも、此の交渉を受けた私は、それが動機となつて、再び、日本の古来よりの美に対する愛着が強められた。
労農露国の歌舞伎劇の研究、更にまた、築地小劇場の国性爺合戦、これらは現在の美が、明日の美への飛躍すべき段階である。
私は、之等の運動が無意味でない事を知つてゐる、何故ならば、私自身にも、それと同じき慾求が生れて来たのであるから――
私は、所謂下町物の中でも、最も純粋な泉鏡花氏の『日本橋』を作るに至つた気持は、其処にあるのである。昨日の美をして、明日の美をなし得るならば、望みは之 に越したことはない、古きを温 ねて新しきを知ると云ふ諺である。
そして万が一にも柳の下に鰌 がゐて、此の映画が再び洋行する事が出来たなら、その時こそ、多少なりとも、日本の美しい心が判つて貰へるやうにと、願ひ且つ心掛けてゐるのである。
しよせん、私は放浪者かも判らない。東へ西へと際限なく流れ行くであらうが…………
しかし今はしばし、此の日本の美の上に、錨を下ろす考へである。
底本:「溝口健二集成」キネマ旬報社
1991(平成3)年9月1日初版第1刷発行
初出:「キネマ旬報」
1929(昭和4)年1月1日号
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
ファイル作成:
2011年1月8日作成
作家名: | 溝口 健二 |
作家名読み: | みぞぐち けんじ |
ローマ字表記: | Mizoguchi, Kenji |
生年: | 1898-05-16 |
没年: | 1956-08-24 |
人物について: | 「溝口健二」 |
- 日本趣味映画 (新字旧仮名、作品ID:46981)
今度私が泉鏡花氏の『日本橋』を映画化するに当つて、それが諸々方々から大分問題にされたものであつた。
『もんだいに』と云ふと、話しは大きくなるが、
『どうだい君、溝口君が芸者物を撮るさうぢやないか。日頃の唯物論は何処へケシ飛んで仕舞つたんだ!』
『いや、あの人間は、以前からあゝ云つた下町情話ものが得意なんだ。だから、つまりは昔にかへつたわけなんだ。』
と、噂し合ふ有様である。
だが、それは両方とも私にとつて、擽つたい、むしろ迷惑な話しで、なまじい、色眼鏡をもつて見られる事は、心苦しい次第である。
然し、一般の人々の立場から考へて見ると、私は余程、しばしばと作品の方向を変へるやうに思はれてゐるかも知れぬ。
そして、
そこで私は、それらの人々に対し、そして又一時私が凝つた(と称せられる)下町ものから脱けて、思想的の陰影の強いものへと興味を向け、今更に再び下町物へと帰つた事に対して、一通りその理由を語らねばならないと思はれる。
私をして、昔の下町物へと戻らせた動機と云ふのは
その人は、日仏協会の人で、絶えず彼我の文明の交換に就いて努力してゐる人であるが、仏蘭西の芸術の当局者の人々よりの依頼を受けて、日本映画を買込みに来たものである。
それは、現在欧州を風靡してゐる東洋趣味からの要求が第一であらうが、
ところが、仏蘭西の観客にとつては、今の所日本の映画は、たゞ彼等の異国趣味を満足させるに過ぎないであらう。日本の風景、日本の風俗、広重の錦
それでもよい。それに美を感じ、それを愛して呉れる事は、あながち我等にとつて、恥のみではないのだ。
しかし
いや、われらは、彼等をして絹の衣の美しさを感ぜしむると共に、その衣の下にある、「日本の心」を感じさせなければならないのだ。
嘗つては、一介の漁奇的な骨董品として輸出された歌麿の美人画は、仏蘭西の後期印象派に革命的な衝動を与へた。それは何故だ。日本の優れた魂が、その絵の中に秘められてゐたからである。
日本人の美に対する感覚、それは
それが日常生活の末端までにも、一挙手一投足のうちにまでも、深く/\浸み込んでゐるのである。此処に、日本の生活があるのだ。
私は此の夏頃――即ち、仏蘭西よりプリントの註文があつた頃、次に製作すべき作品の方向に就いて、悩み且つ迷つてゐた。
計らずも、此の交渉を受けた私は、それが動機となつて、再び、日本の古来よりの美に対する愛着が強められた。
労農露国の歌舞伎劇の研究、更にまた、築地小劇場の国性爺合戦、これらは現在の美が、明日の美への飛躍すべき段階である。
私は、之等の運動が無意味でない事を知つてゐる、何故ならば、私自身にも、それと同じき慾求が生れて来たのであるから――
私は、所謂下町物の中でも、最も純粋な泉鏡花氏の『日本橋』を作るに至つた気持は、其処にあるのである。昨日の美をして、明日の美をなし得るならば、望みは
そして万が一にも柳の下に
しよせん、私は放浪者かも判らない。東へ西へと際限なく流れ行くであらうが…………
しかし今はしばし、此の日本の美の上に、錨を下ろす考へである。
('29年1月1日号)
底本:「溝口健二集成」キネマ旬報社
1991(平成3)年9月1日初版第1刷発行
初出:「キネマ旬報」
1929(昭和4)年1月1日号
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
ファイル作成:
2011年1月8日作成
引用者注:
『溝口健二著作集』(2013)36~39頁。
著作集では続けて泉鏡花に挨拶に行った話が所収されていて興味深い。
________________
映画監督のお墓
溝口 健二/Kennji Mizoguti 1898.5.16-1956.8.24 (東京都、大田区、池上本門寺・大坊本行寺 58歳)1999
http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-ckantoku.htm#mizoguti池上の本墓 | 世界のミゾグチ | 京都の分骨墓(2005) |
浅草生まれ。小学校を出たあと職を転々とし、22歳の時、俳優を希望して日活に入る。彼は助監督(この当時は雑用係)にされたが、1922年、日活のお家騒動で多くの監督や俳優が退社したことで監督に昇進(24歳)。25歳、第一作の『愛に甦る日』を発表。同年関東大震災で撮影所が壊滅し、活動の拠点を京都に移す。その後、時代は戦時に突入、映画界は国策映画が中心になり、溝口の創作活動は中断。約10年間にわたるスランプ時代が訪れる。復活したのは亡くなる4年前の1952年(54歳)。ベネチア国際映画祭で国際賞(監督賞)を受賞した『西鶴一代女』で、世界のミゾグチとなった。彼はこの作品で名女優の田中絹代を得、翌年も彼女とタッグを組んで『雨月物語』を撮り、翌々年には『山椒太夫』を創り上げ(共にベネチア国際映画祭銀獅子賞受賞)、ベネチア国際映画祭において3年連続受賞という大記録を打ち立てた。56歳、溝口はスター嫌いで有名だったが、社の方針で美形俳優・長谷川一夫と組むことになり、対立が功を奏して情念のこもった傑作『近松物語』を生み出す。撮影後に白血病を発病し、急速に容態が悪化、58歳で京都に永眠する。生涯に監督した作品は90本。ただし残念ながら戦火もあって現存するのは33本のみだ。
※溝口を語るとき、女優の田中絹代と共に忘れてはならないのが、天才カメラマン宮川一夫の存在だ。宮川は『雨月物語』の7割をクレーン撮影するなど、移動撮影に超絶的テクニックを振るった。また、ワンシーン・ワンカットの名手であり、『新・平家物語』冒頭の群集シーンでは、その自在なカメラワークが「到底ワンカットと思えない」と、トリュフォーやゴダールが映写室に入ってフィルムを確認したという。
池上の寺墓地では、若い僧侶が監督の墓まで案内してくれた。墓の左隣には、“墓は隣同士で”と約束していた新派の名優・花柳章太郎が仲良く並んでいた。 京都満願寺には分骨があり、そちらへは1960年代に来日したJ.L.ゴダールが墓参したという。 |
コンプレックスから勉強したとしても
返信削除溝口のように誰でもなれる訳ではない
新藤兼人の力点は誤解を生む
『満映とわたし』岸富美子・石井妙子 著(文藝春秋): 零画報
返信削除http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-6e2c.html
95歳になる岸富美子。女性映画編集者の草分けであり、「満映」(満州映画協会)の最後の生きた証言者でもある。
15歳で第一映画社に編集助手として入社し溝口健二監督の名作「浪華悲歌」「祇園の姉妹」の製作に参加、その後、原節子主演の日独合作映画「新しき土」の編集助手も務める。映像カメラマンだった兄の渡満に従い、1939年、国策映画会社だった旧満州映画協会に編集者として入社。赴任当時の甘粕正彦理事長の姿を記憶にとどめている。
1945年8月敗戦直後に甘粕は自決する。指導者を失った満映社員とその家族たちはソ連侵攻にともない、朝鮮への疎開を図り奉天まで移動するが、脱出かなわず、再び新京の満映に戻る。国共内戦の勃発と共に、岸一家(夫も映像カメラマン)は日本人技術者として貴重な映画機材を守り、中国人技術者を教育するという決意のもとに中国共産党と共に松花江を渡り、鶴岡に赴く。ここで記録映画の製作などを始めるが、多くの日本人が人員整理の対象となって松花江近くの部落で過酷な重労働を強いられる。1949年、苦難を経て三年ぶりにかつての満映、東北電影製片廠に戻り、中国映画の編集をしながら、中国人スタッフに映画編集の技術を教える。1953年にやっと日本に帰国するが、レッドパージで日本の映画会社には就職できず、岸にはフリーランスで働く道しか残されていなかった。
その歴史に翻弄された苦難の生涯と国策映画会社「満映」の実態を、ノンフィクション作家・石井妙子の聞き書きと解説によって描きだす、戦後70年の貴重な証言本。
内容(「BOOK」データベースより)
甘粕正彦が君臨し、李香蘭が花開いた国策映画会社・満洲映画協会―戦後70年、初めて明かされる満映崩壊後の真実。映画編集者・岸富美子95歳、最後の証言。
岸 富美子 大正9(1920)年、中国奉天省営口で生まれる。15歳で京都の第一映画社に入社し編集助手となる。溝口健二、伊藤大輔といった巨匠作品を手伝った後、日独合作映画『新しき土』に参加。昭和14(1939)年、満洲に渡り満洲映画協会(満映)に入社。敗戦後、中国共産党とともに行動し、昭和28(1953)年まで中国映画の草創期を支える。帰国後はフリーランスとして主に独立プロで映画編集を手がけた。平成27(2015)年、映画技術者を顕彰する「一本のクギを讃える会」から長年の功績を表彰された
石井 妙子 昭和44(1969)年、神奈川県生まれ。白百合女子大学卒、同大学院修士課程修了。ノンフィクション作家。『おそめ―伝説の銀座マダム』(新潮文庫)が大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞の最終候補となる。
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163903149
今月は満洲関連の図書を30冊以上読んだけど、このノンファクションが最も感動する読書だった。
対象となっている人間や事物に関する深い想い入れと、調査インタビューが丹念にされて、浮き彫りにされていく。石井妙子さんの著作物は一通り読んでみたいと思った。
【京都】 1001体の観音さま、45年の修理終了 三十三間堂[12/22]
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1朝一から閉店までφ ★2017/12/22(金) 21:59:39.89ID:CAP_USER
久保智祥2017年12月22日11時18分
写真・図版
修理が終わり本堂に安置される千体千手観音立像=22日午前、京都市東山区の三十三間堂、筋野健太撮影
京都市東山区の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)(国宝)に並ぶ千体千手観音立像(国重要文化財)について、45年間続いてきた保存修理がすべて終わり、22日午前、最後に修理されていた9体が堂内に運び込まれた。
→【京都特集】よむ・みる・あるく
観音立像は計1001体。平安~鎌倉時代につくられ、南北約120メートルの堂内で本尊の千手観音坐像(ざぞう)(国宝)の背後に1体、左右のひな壇に500体安置される。
年間100万人の参拝者が訪れるため、衣類の繊維などのほこりが表面に付着。その下層は、漆や金箔(きんぱく)がはがれやすくなるなどの傷みが進んでいた。
1973年から、年に数体~50体ほどを美術院国宝修理所(京都市)の工房に運び込み、ほこりの除去や表面の金箔(きんぱく)の浮き上がり防止などの修理作業を順次続けてきた。
総事業費は約9億2千万円。6割程度は国庫補助でまかなわれた。文化庁によれば、重文の彫刻1件の修理期間としては過去最長だという。
https://www.asahi.com/articles/ASKDN61DRKDNPLZB00Z.html
2やまとななしこ2017/12/22(金) 22:16:01.83ID:1h8AAj+A
45年前に修理した仏像は また修理しなくてもいいんですか
3やまとななしこ2017/12/22(金) 22:24:12.47ID:P5N9KUTe
ホコリだらけなのは、そのままでええのん???
「お身拭い」とかせえへん習わしなん???
4やまとななしこ2017/12/22(金) 22:32:27.95ID:yr2r8xx/
45年ぶりに1001体揃ったってこと?
5やまとななしこ2017/12/22(金) 22:44:02.91ID:YaDa6WzG
>総事業費は約9億2千万円。6割程度は国庫補助でまかなわれた
経費水増し詐欺って事は無いよな??ww
6やまとななしこ2017/12/22(金) 22:45:24.79ID:YaDa6WzG
>年間100万人の参拝者が訪れるため、衣類の繊維などのほこりが表面に付着。
ガラスなどによって隔離しろよ・・・
7やまとななしこ2017/12/22(金) 22:48:36.61ID:9tev84Qk
岡山理科大学 獣医学部 吉川泰弘 学部長
http://www.ous.ac.jp/vet/interview.html
今回、食品安全委員会委員の候補者となっている吉川泰弘氏については、
当時、食品安全委員会プリオン専門調査会座長として
問題の答申をまとめた重大な責任があります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/171/0017/17106050017029a.html
鳥インフルエンザはウイルスの警告だ!
2006年 吉川泰弘 第三文明社
http://www.daisanbunmei.co.jp/books/book.php?no=03288
第三文明2015年 9月号
政権中枢まで巣くう「日本会議」の実態と危険性とは
菅野完
http://www.daisanbunmei.co.jp:80/3rd/2015_09.html
8(,,゚д゚)さん 頭スカスカ2017/12/22(金) 23:02:44.85ID:9eunWlUX
かつて三十三間堂で弓の技が競われたのだが
最高記録の限界が見えて 競技的なのはオワタ
- ソースはレースはレース鳩777 -
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報われない女を冷徹に描く 「西鶴一代女」を観て|パンクフロイドのブログ
返信削除ameblo.jp/punkflod/entry-11541118400.html
シネマヴェーラ渋谷 【溝口健二 再び】 より. 夜鷹に身を窶したお春(田中絹代)は、羅漢 堂に並ぶ仏の顔を見るうちに、過去の幾人かの男の面影を思い浮かべ、やがて自身の 転落した半生を思い返す。若く美しかった御所勤めのお春は、公卿の若党勝之介(三船 敏郎)と出会ったことにより、真実の愛に目覚める。その後、彼女は松平家のお部屋様、 花魁、女中、商人の妻と変遷し、最後は現在の夜鷹に落ちぶれる。そこに、お春の母親 からお春の生んだ子が、松平家の跡継ぎになる報せが届く。
西鶴一代女 - みんなのシネマレビュー
溝口健二「唐人お吉」の断片フィルムー「西鶴一代女」 ( その他映画 ...
blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/62067842.html
こんにちは、先日You Tubeを検索していましたら、往年の日本映画の巨匠、溝口健二 監督の「唐人お吉」の現存する4分間の映像が投稿されているのを見つけました。この 作品は1930年に制作されたもので、主演は梅村蓉子、フィルムは梅村蓉子が4分の...
特集『大阪物語』西鶴の世界 - RAIZO
返信削除https://www.aozora.gr.jp/cards/001272/files/59346_70987.html
映画『新・平家物語』
溝口健二
清盛が、叡山の僧兵にかつがれた神輿に、矢を射込む場面を、撮影しているところだ。祇園神社の楼門を押し出す行列をさえぎり、清盛が立ちはだかっている。楼門の朱色は、祇園のもののように見えるが、そうではなく、叡山の東ふもとにある坂本の日吉神社である。時代色やふんいきの関係から日吉神社を祇園神社に見立てたが、効果はあったようだ。
ここは、この映画のいわゆるクライマックスなので、リズムを強く高く盛り上げるのに苦労した。清盛が堂々たる英雄振りを発揮するのだが、見た目の勇ましさだけでは、主題からはずれる。仕上げた上でないと分らないが、清盛の無形のきはくが、僧兵たちの武力を、圧倒するように、演出したつもりである。(映画監督)
底本:「週刊朝日 9月18日号 第60巻第38号」朝日新聞社
1955(昭和30)年9月18日発行
入力:かな とよみ
校正:木下聡
2020年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
3 この子の名無しのお祝いに[] 2021/06/23(水) 22:37:56.81 ID:krEvkW6a
返信削除『雨月物語』について (1954)
溝口健二
わたしが『雨月物語』に興味を持って映画を考えたのは、もう大分以前のことになりま
す。全篇を通読して、「蛇性の婬」と「浅茅ケ宿」から、特に強い感銘を受けました。『雨
月』を読まれた方は、どなたでもそうであろうと思います。
「蛇性の婬」は、愛慾の妄執というものを、端的に強烈に描いています。「浅茅ケ宿」に示
されているのは、人問のいのちのはかなさ、言葉をかえれば、人生無常の考え方です。そ
のうら側には、人間の物欲が、妻の生死さへ度外視させるすさまじさを想像させます。
二つの物語は、いずれも共に、独立して、それぞれの主題をもつ、きちんとした短篇で
すが、わたしは、『雨月物語』の映画をつくるならば、この二つを一つのものに、何とかし
て仕上げてみたいと考えました。二つの物語のどちらも、一篇としてとりあげると、話が
足りないから、二つをつぎ合わせて満足な一つにしようというのではありません。
…
物語の背景は、秋成も戦乱を舞台にしていますがその効果を一層つよめるために時代を、
戦国にずり下げました。愛欲、物欲が、さらに異常にふくれあがって、人間を食ってしま
うという条件を、戦乱という本能露出の絶好の機会に求めたのです。同時に、モーパッサ
ンの短篇から示唆された、非常に現実的な挿話を付加しました。この挿話の現実性が映画
全体の浪漫性ないし象徴性を一層つよめる対比作用に役立つと信じてそうしたのです。
従って、全体にわたり、現実、非現実を通し、わたしは、瑣末な写実描写を一さい省き
去り、喜怒哀楽の率直な、それだけに力強い表現を、ロマンチックな美感の中に、つくり
出すということをたて前にしました。
現実と非現実はギリギリのところで交錯し、その秩序は、一貫して保たせてありますが、
さらに強烈さを要求する場面には、はげしいディフォルメーションと、超現実主義、とで
もいうような拡大を行っております。
しかしながら、物語はあくまで日本のものであり、東洋の神秘なのですから、変形とい
い、拡大といっても、日本の文化的遺産のもつ無類の美しさを標準とし、基調としていま
す。
能に範をとり、修学院、桂両離宮の様式を拝借しているのもそのためです。
これらの日本文化のすぐれた遺産は、驚嘆すべき洗練と単純化を見せています。これを、
映画の表現を通じて、現代の美感として再生させたいのは、わたしの念願ですが、いわゆ
る、「映画の東洋的美感」という、わたしの演出家としての野心が、この作品で、どこまで
達成されているか。これもまた、みなさんの御判断を仰ぎたい点です。
撮影の宮川一夫、美術の伊藤熹朔、音楽の早坂文雄の諸氏が、わたしの意図を十二分に
くみとりすぐれた協力を与えていただいたことを感謝して、挨拶を終りたいと思います。
(一九五四年六月色彩映画研究のためアメリカに渡った時、ハリウッドでの講演原稿より)
(「『雨月物語』について」『映画監督溝口健二--生誕百年記念 別冊太陽』128頁)
佐相勉編『溝口健二著作集』参照
9 この子の名無しのお祝いに[] 2021/06/24(木) 20:18:48.03 ID:eUIIL8LO
返信削除https://1.bp.blogspot.com/-gz_evlU1qr0/YNRpYEjRweI/AAAAAAACUj4/6IvcWwgo9VIuo1cwqbDruXuutR72fJL9gCLcBGAsYHQ/s360/566F5429-F90F-4F2F-9B39-15D5EA3DEF94.gif
https://1.bp.blogspot.com/-wm7cOC8SRAk/YNRpXEsiQzI/AAAAAAACUj0/DPOS0QZ_gSg8gRdd4GS2KpC8WtmbYDvAwCLcBGAsYHQ/s360/5045AD2C-E924-4D3A-A79B-2462A60316C2.gif
56 この子の名無しのお祝いに[] 2022/02/15(火) 14:16:07.16 ID:qxrRVI+f
返信削除映画と歴史学 ‐『山椒大夫』から『もののけ姫』へ‐ 京樂真帆子
http://www.shc.usp.ac.jp/kyouraku/profile/thesis/movie.html
…
林屋[辰三郎]の散所論は映画にどのような影響を与えたのであろうか。…
まず、林屋論文でも指摘されているが、説経節では曖昧であった時代設定を明確にしたこと。
安寿と厨子王の父が左遷される年を永保元年(1081)に設定した。映画においても明示はされないが、
踏襲されているようである(3)。
また、説経節では弟を逃がした後の安寿は山椒大夫に折檻の末殺されている。鴎外は安寿を自殺さ
せることで、山椒大夫の搾取の強烈さをぼやかしている。この点も、映画において踏襲されている。
そして、結末。説経節では大夫は鋸引きの刑にあった。鴎外は先述したとおり、大夫に改心をさせ
ている。こうした変更点こそ、鴎外の「近代的・人間的立場」(4)を示すものであろう。
さて、溝口組は鴎外の小説をもとにしながら、林屋説の影響を強く受け、数々の改変を行っている。
注目されるのは以下の三点である。
まず、山椒大夫が京からやってきた荘園領主の使者を迎えるシーンの挿入である(5)。右大臣家の
使者は「御領地見回り」のためにやってきた。このように、中間搾取主体としての「山椒大夫」の在り
方も描かれている。説経節、小説ともにこのような供応する山椒大夫の様子は描いていない。より中世
社会の実像に迫るシーンであろう。
次に、散所を閉鎖空間と描いたこと。説経節、鴎外の小説ともに厨子王が外部の樵と接触する部分を
描く。厨子王は彼らから柴の刈り方を習うのであるが(6)、映画では散所は周りを柵で囲まれた閉鎖
空間で、外部との接触は不可能である。林屋説は、その空間に入ることで隷属が始まるとするのである
から、おそらくは閉鎖空間であることを想定しているであろう。溝口は、それを映像化したのである。
さらに、山椒大夫の末路を破滅と描いたこと。鴎外は山椒大夫は改心し、家はますます栄えた、とし
た。この点は、溝口が最も違和感を感じた点である。映画において、大夫は国外追放となり、さらに屋敷
は解放された散所民たちによって略奪され、火が付けられている(7)。
散所論ではないが、林屋は厨子王の父の設定にも言及している。当時の陸奥の状況を鑑みると、「国司
の違格の罪にとわれたという父正氏は、律令的官人の実務者であり在地豪族の有力者ではあるが、古代
国家の東北政策に対して反抗したことは明らかで、その点で彼は東北に於ける民衆的立場に立った人物と
な」り、その背景に、平将門のイメージが重ねられていた、とする(8)。この点は映画において重要な
プロットとして採用されている。「奴隷解放」の思想は(9)、父から子へと受け継がれねばならない。…
溝口は、明らかに林屋のいうイメージを重ね合わせている。
I have many doubts about the recent trend toward realism in film.
返信削除I am always driven by the desire to depict human beauty and ugliness as simply and powerfully as possible.
I am driven by the desire to depict the beauty and ugliness of human beings in the simplest and most powerful way possible.
Oyusama” and ‘Saikaku Ichidai Onna’ were both born from the same desire.
I was able to finally get a clear idea that “Amezuki” could be made into a movie after making “Oyusama” and “Saikaku Ichidai Onna”.
I am now ready to make “Amezuki” into a movie.
These are my motives or motifs for wanting to make “Amezuki”.
Fortunately, Matsutaro Kawaguchi and Yoshiken Yoda were able to understand my
I am very happy to say that Matsutaro Kawaguchi and Yoshiken Yoda have collaborated with me to write a script that is good enough to satisfy my intentions. The only question is whether the production will be successful or not.
The question is whether the direction of the film will be successful or not, and I would like you to see the film itself,
I would like to mention what I thought about the direction of the film as one of the materials for your criticism.
I would like to mention what I thought about the direction of the film as one of the materials for your criticism.
The intention and method of direction are also included in the motive of making “Amezuki” into a film.
The background of the story is that Akinari also fought in the war.
The background of the story is that Akinari is also set in a time of warfare, but in order to enhance the effect of the warfare, the period was moved down to the Warring States period,
In order to enhance the effect, the story is set in the Warring States period. In order to further enhance the effect of the story, the time period was moved down to the Warring States period.
The warfare was the perfect opportunity to expose their instincts. At the same time, the short story of Maupassant
The realism of this episode is the same as the realism of the film. The realism of this episode is the romantic or symbolic aspect of the film as a whole.
I believed that the realism of the episode would serve as a counterpoint to the romanticism and symbolism of the film as a whole.
Therefore, throughout the entire film, real or unreal, I have omitted all trivial realistic depictions.
and to create a frank, yet powerful, expression of joy, anger, sorrow, and pleasure in a romantic aesthetic.
I have made it my goal to create a frank, yet powerful, expression of joy, anger, sorrow, and anger in a romantic aesthetic.
Reality and unreality intersect on the edge, though the order is consistently maintained,
In scenes that demanded more intensity, I used exaggerated deformation and surrealism.
The story, however, is a Japanese one.
However, since the story is a Japanese one and the mystery of the Orient, deformation or even expansion is not an option.
and expansion, however, is based on the unparalleled beauty of Japan's cultural heritage.
The story is a Japanese tale, a mystery of the Orient.
This is why we have taken our cue from Noh and borrowed the styles of Shugakuin and Katsura Imperial Villas.
These outstanding examples of Japan's cultural heritage display an astonishing sophistication and simplicity. This,
It is my desire to revive this as a contemporary aesthetic through cinematic expression.
I wonder how far I have achieved my ambition as a director of “oriental aesthetics in film,” so to speak, in this film.
I would like to see how far I have achieved this ambition. This is another point on which I would like to ask for your judgment
返信削除It is for this reason that the building takes its cue from Noh and borrows the styles of the Shugakuin and Katsura detached palaces.
These outstanding legacies of Japanese culture show a marvelous refinement and simplification. This,
It is my desire to revive this as a contemporary aesthetic through cinematic expression.
I wonder how far I have achieved my ambition as a director of “oriental aesthetics in film,” so to speak, in this film.
I would like to see how far I have achieved this ambition. This is another point on which I would like to ask for your judgment.
I would like to thank Kazuo Miyagawa for the cinematography, Kisaku Ito for the art direction, and Fumio Hayasaka for the music.
I would like to conclude my remarks by thanking them for their excellent cooperation and understanding of my intentions.
(From a speech I gave in Hollywood in June 1954, when I went to the U.S. to study color films.)
(“About ‘Tales of the Rain and Moon’”, p. 128 of “Kenji Mizoguchi, Film Director: Centennial Commemoration of the Birth of Kenji Mizoguchi, Supplementary Volume of Taiyo”)
返信削除On “Tales of the Rain and Moon” (1954)
Kenji Mizoguchi
It has been a long time since I was interested in “Tales of the Rain and Moon” and thought of making a film about it.
I read through the whole story and thought of “The Tale of Amegetsu” as a movie. I have read through the entire story and was particularly impressed by the “serpentine licentiousness” and “Asakayake Yado”. If you have read “Amezuki,” you may be interested in this film.
I think anyone who has read “Amezuki” would agree with me.
The “serpentine licentiousness” is a straightforward and intense depiction of the delusion of love. The “Asakayake Yado” shows us the delusion of love.
Asakayake Yado” shows us the transience of human life, or to put it another way, the impermanence of life. On the other side is the idea of the impermanence of life.
On the other side, “Asakayake Yado” shows how the greed of mankind makes him disregard the life and death of his wife.
Both stories are independent short stories, each with its own theme.
I thought that if I were to make a film of “Tales of the Rain and Moon,” I would try to combine the two stories into one.
I thought that if I were to make a film of “The Tale of Amezuki,” I would try to combine them into one. I thought that if I were to make a film of “Amezuki Monogatari”, I would want to combine the two stories into one.
I did not want to combine the two stories into a single satisfying story.
Ihara Saikaku famously said, “The two paths of sexual desire. The human instinct is to remove all coverings and to be completely naked.
If we remove all coverings of human instincts and strip them naked, we are left with only two things: color, or love, and greed, or material greed.
It seems that there are only two things left: color, or lust, and greed, or lust for material things.
As it happens, “Snake Lust” and “Asaimoke Yado” are about lust and greed, respectively, and they create a bizarre and fantastic picture of life.
The “Asamoike Yado” is about greed, and the “Asamoike Yado” is about lust. By combining these two stories into one, the true nature of human beings is made clear.
I am not so ambitious as to call it a “story”, but it is a story that I am trying to tell.
I know it is a bit of an exaggeration, but this is what I was trying to do.
The “Amegetsu Monogatari” is usually referred to as a ghost story, but among the many books that collect ghost stories from the Tokugawa period, this one is the most famous.
Among the many books of ghost stories from the Tokugawa period, this work by Akinari Ueda stands out as an outstanding classic and has survived to the present day.
It is not only because of its conciseness, elegance, and subtle nuance, but also because it is a masterpiece of writing.
It is not only because of the conciseness, elegance, and subtle nuances of the text.
If we read carefully, we can see that the “strangeness” and “illusion” that Akinari depicts are the “wanderings of the mind” that human beings are caught up in.
The “strangeness” and “illusion” that Akinari describes may represent a very concrete and clear form of the “wanderings of the mind” caught up in “greed”.
Since it is “strange” and “fantastic,” it cannot be measured by the rational scale of this world.
It is impossible to measure it by the rational scale of this world. However, in this unrealistic form, human instincts and desires are expressed in their natural form,
In these unreal forms, however, human instincts and desires are clearly revealed in their true form.
It is because of this that “The Tale of the Rain and Moon” has become a classic.
The Tale of the Rain and Moon” has become a classic because it clearly depicts this.