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土曜日, 11月 28, 2015

パゾリーニ「私たちはみんな危機に直面している」Pasolini "Siamo tutti inpericolo"1975

                        (リンク::::::::::映画
パゾリーニ「私たちはみんな危機に直面している」Pasolini "Siamo tutti in pericolo"1975
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NAMs出版プロジェクト: Porcile 演劇版『豚小屋』パゾリーニ とスピノザ

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『私たちはみんな危機に直面している』
Siamo tutti in pericolo / intervista di Furio Colombo a Pier Paolo Pasolini. "Siamo tutti in pericolo". Intervista a Pier Paolo Pasolini, L'Unità 1 novembre 1975 mercoledì 11 maggio 2005, di Redazione Antenati - 49996 letture. Questo che ...
http://www.girodivite.it/Siamo-tutti-in-pericolo-intervista.html

Pasolini
1975.11.01
『パゾリーニあるいは〈野蛮〉の神話』青弓社 ファビアン・S・ジェラール 1986 pp.162-174より

『私たちはみんな危機に直面している』(一九七五年一一月一目)

     このインタビューは、一一月一日土曜日の一六時から一七時の間、つまりピエル・パオロ・パゾリ
    ーニが殺害されるわずか数時間前に行なわれた。表記のタイトルはパゾリーニ自身がつけたものであ
    るということを、ぜひ明記しておきたい。実はこの会話ーーこの時も、その前の時と同じように、私
    たちはしばしば異った見解を主張し合ったーーを終えて、私は彼に、この対談に特につけたいタイト
    ルがあったら、と尋ねたのである。彼はちょっと考えていたが、別に何でもいいからと答え、話題を
    変えた。それからまた何かで私たちは、彼の受け答えに常に現れる主たる論点に戻っていった。彼が
    言った。「問題全体の核心、意味はこういうことだ。つまり、今この瞬問にも君を殺してやりたいと
    思っている者が何者であるかを、君は知ることもできないのだ。よかったら、タイトルはこうしてく
    れ、われわれがみんな危機に直面しているのはなぜか、とね。」

                             フリオ・コロンボ


コロンボ パゾリーニ、君はあっちこっちの論説や最近の文章で、君が嫌うものをあげている。たく
さんのもの、たくさんの制度、思い込み、そしてたくさんの人間と権力に、君は単身、闘いをいどん
だわけだ。話が簡単なように「状況」と言うことにするが、この言葉で、君が闘っている相手全体を
ひっくるめて言っているということは含んでおいてもらいたい。まず始めに、ひとつ君に異議を申し
立てよう。「状況」は、君が非難するいろんな欠陥にもかかわらず、君が自分でこれがパゾリーニだ
と認める存在の全体を包容しているということ。つまり、説明するとだね、能力とか才能を君に本来
属しているものとすれば、君が利用する媒体の方は、「状況」に属するものだろう。出版にしろ映画
にしろ組織にしろ、どんなささいなものに至るまでね。さて、ちょっと、君の思考には魔法の力がそ
壮わっていると仮定してみよう。君の身振りひとつで、なにもかも、君の嫌うものは消えてしまうん
だ。すると一体、君はどうなる? 君は一人になって、手段というものもなくなっているのじゃない
かね。ぼくのいう意味は、自己表現の手段とか、あるいは......

パゾリーニ わかるよ。ところで、実は、その、思考に魔法の力がそなわっているという話なんだが
ね。ぼくは話だけじゃなくて、本当に信じているんだぜ! それで霊能者を気取ろうと言うのじゃな
いがね。だが、じっとひとつ釘を打ち続けていれば、いずれは家一軒倒すこともできるということも
あるからね。それに、マルコ・パネッラ以下の急進社会党がいい例だろう。たったあれっぽっちの人
数で、国中の心を動かしてしまったんだから(パネッラの意見はぼくのと違うこともあるが、君も知ってい
る通り、ぼくは来週の彼らの集会に参加することにした)。歴史には、これよりずっと大きなスケールで、
同じような例がある。歴史には、拒否が常に重大な役割を果たしてきた。聖人たちにせよ、隠者たち
にせよ、それから知識人たちにしても、歴史を作った人間だちとは、「ノー」を言った連中であって、
枢機卿の太鼓もちや腰巾着などではなかった。だが拒否は、有効であるためには、けちくさい拒否で
はなく壮大でなくてはいけないし、部分的ではなく全面的、合理的ではなく不合理でなくてはならな
いんだ。アイヒマンというのは、君も知っているだろう、まさに良識のかたまりみたいな奴だったね。
しかし彼には何か欠けていたのか? 「ノー」を言えない男だったんだ。出世してトップに立ったが、
手始めに、つまらん管理や事務しかやっていなかった時点でね。そりゃ、友人の何人かには、ヒムラ
ーが気にくわんくらいは、はっきり言いもしたろう。ちょっとはくさしもしたろうさーー今だって現
に、どこの出販社でも編集室でも、放送局の副局長室や廊下でもやっているみたいにね。もっと言え
ば、彼は、これこれの列車は一日一回しか止まらないーー収容所の人間のトイレやパンや水のために
ーーが、二回にした方が能率的あるいは経済的なのに、などと怒ったりもしたろう。だが要するに、
彼は一度だって歯車にストップをかけはしなかったんだ! だから、ぼくたちが関心を持つポイント
は三つある。つまり、君のいわゆる「状況」だが、それが何であるか、それを止め、あるいは破壊し
なければならないのはなぜか、そしてそれに着手するにはどうすればいいかだ。
・・・・・

コロンボ それでは、「状況」というのを説明してくれないか。君もちゃんと承知しているんだろう
が、君の声、君の発言のひとつひとつが、ちょっと埃の中を射し通る太陽の光みたいな感じがする。
美しいイメージだけれども、読者にとっては、いまひとつ全部ははっきりしないということも言えそ
うだからね。

パゾリーニ 太陽のイメージとは光栄だが、そこまで高望みはしていないよ。ぼくはただ、ぜひとも

自分の身のまわりを見つめて、悲劇に気がついてもらいたいと思うだけだ。では、悲劇とは何なの
か? 悲劇とは、人間がもう存在していないということだ。見るものはもう、お互いに射ち合いをす
る、妙な戦車ばかりだ。そして、ぼくら知識人はと言えば、去年の、ひどいのは十年前の鉄道時刻表
を調べて、おもむろに言うんだ。「おかしいなあ。あの二本の列車はここを通ってなかったはずだが。
何だってまた、あんなに懐し合うようになったものだろう? 機関士の頭がおかしくなったにのか、脱
走犯のしわざか、それとも何か陰謀かもしれんな」。陰謀説は特に刺戟的だね。現実に立ち向かうと
どうしても背負わねぱならなくなる重荷から、ぼくらを解放してくれる。ぼくらがこの部屋で話して
いる間にも、誰かが地下室の底でぼくらを片付ける計画を練っているとしたらすごいじゃないか。イ
ージーで単純、これぞレジスタンスの思想そのものさ。ぼくらは何人かの仲間を失う。次に、組織を
作る。最後に、今度はぼくらが敵を次々と片付けていく。血湧き肉躍るゲームじゃない加ね?
 『パリは燃えているか』をテレビでやった時、視聴者がみんな涙ぐんでいたのを、ぼくはよく知って
いるよ。視聴者は、歴史が美しく純粋な姿で、家の正面を洗うみたいに、きれいに洗いこまれた形で
繰り返されることを熱烈に望んでいたんだね。基本的なことは、ぼくはこちら側にいて、君はあちら
側にいるということ。だが、人々が何かを選択した時、それと同時に払わねばならなかった、血や苦
悩や痛みという代価を、軽々しく話題にするのはやめよう。君が歴史のこの時間、この一分一分にじ
っと顔を押しつけている以上、選択とは常にひとつの悲割であるだろう。だが、これは認めよう、あ
の時代には、ことはもっと単純だったんだ。SSやサローのファシスト、こういったものならまとも
な人間は、勇気と良心の助けはいったが、それでもなんとか、自分の内面生活の外に投げ棄てたーー
革命はいつ、pここから始まるのだ。しかし今では事情か違ってしまった。ある者は一見友情いっぱい
といった様子で、君の前に登場する。親切で上品だが、彼は[対敵協力」ーーそう、たとえばテレビ
ヘの——をするんだ。生活のためとか、とにかく犯罪じゃないんだから、とかいうことでね。そして
またある者ーーあるいは、ある者たちとか集団のこともあるーーは君の前に現れて、イデオロギー的
脅迫やら警告やら宣伝やら、これまた脅しに近いような非難やらを浴びせて君を跳びあがらせるのだ。
彼らは、旗やスローガンを振り立てて、入れかわり立ちかわり現れる。だが結局、この連中と「権
力」と、どこが違うというんだ?
・・・・・・ 

コロンボ では君の考えでは、正確に言って権力とはどんなものなのかね? 権力はどこにある?
 どこで見つけられる? 君は権力をどう定義しているんだ?

パゾリーニ 権力とは、われわれを征服する側とされる側に分断する教育システムだよ。ただ、注意
しなくちゃいけないのは、それはわれわれをーーいわゆる支配から、一番貧しい人たちに至るま
で、「全員」を仕込もうという「画一的」教育システムだということだ。だから、全員が同じものを
欲しがり同じように行動することになるわけだ。仮にぼくが取締役会だの株式操作だのを操る身だっ
たとしたら、ぼくはそれを利用するだろう。たとえ棒切れ一本しか持ててない身だったとしても、そ
れを利用するということにかけては同じだ。ぼくが人を打つとき、それはつまり欲しいものを手に入
れるために暴力をふるっているんだ。それでは、なぜそれが欲しいのか? それを欲しがるのはいい
ことだと、教えこまれているからさ。したがって、ぼくは自分の正当な権利を行使しているというこ
とになる。ぼくは人殺しだが正当だというわけさ。

コロンボ 君は政治とイデオロギーを区別していないとか、たとえば若い人たちにおけるファシスト
と非ファシストの根本的な相違を認めなくなったーーだが相違はあるはずだよーーとも批判されてい
るが。

パゾリーニ さっきの古い時刻表の話は、まさにそのことを言ったんだよ。君は見たことがあるかな、
マリオネットで、胴体と顛が反対向きについていて、子供たちに大受けしているのがあるだろう?
(ついでに言うと、同じような傾向のトリックをトトが成功させたんだと思うね)。ぼくは、知識人や社会学者、
専門家、ジャーナリストなどという、高尚この上ない意囚を持った連中の立派な一座も、ちょうどこ
れと同じことをやっていると思う。一方でことが起きると頭はあらぬ方を見るのさ! ぼくはファシ
ズムが存在していないとは言わない。山にいるのに海の話をするのはやめろと言っているんだ!
もそも同じ景色じゃないんだから。ここでは、殺しの欲求が支配している。そしてこの欲求がわれわ
れを結びつけているのだ。ひとつの社会体制全体の無残な破産が生んだ、悲しい兄弟としてね。
 ぼくは、君だちと同じくらい、われわれの問題が、のけ者たちを切り離すことで解消すればいいと
思っている。ぼくにも見えるのだ、のけ者たちが。彼らみんなを、これはのけ者だと見分けられるく
らいだ! モラヴィアにも言ったんだが、これが不幸というものだ。ぼくは生きている間中、代価を
支払うんだからな。まるで地獄下りをする人間のようなものだ。だが帰って来る時にはーー帰って来
るとしたらーーぼくは地平のかなたの、異界のことを見て来たということになる。君たちは強いてぼ
くの言うことを言じてくれなくてもいいけれども。ぼくが確かに言えるのは、君たちは真実を正面か
ら見すえないですむように、絶えず話題を変えねばならないのだということだな。

コロンボ その「真実」と言うのは?

パゾリーニ その言葉は使わなければよかったな。「自明のこと」と言いたかったんだが......。そう
言い直させてもらおう。第一の悲劇は、万人共通で強制的で道をあやまった教育だ。これが、誰もが
どんなことをしてもすべてを手に入れようとひしめき合う闘技場のまん中に、われわれみんなを追い
やるんだ。この闘技場に、われわれは追いやられるんだよ。まるで陰気で奇妙な軍隊のようにね。こ
こでは、大砲を持っている者もいれば、棒切れだけの者もいる。まっ先にすべきなのは、型どおり
「一番弱い者の味方に」つくことだろう。しかしぼくに言わせれば、ある意味では全員が弱者なのだ。
全員が犠牲者だんだから。また同時に、全員が有罪でもある。みんな殺戮ゲームも辞さないというん
だからね。彼らは、自分の欲しいものが手にはいりさえすればいいんだ。実際、彼らの受けた教育は、
手に入れること、所有すること、破壊することに尽きている。

コロンボ では、ぼくの最初の質問に戻らせてもらおう。君には魔法が使えて、何でも消てしまえ
る力があるとする。だが君は本を書いて食っているんだし、君のものを読んでくれるインテリだって
必要としているだろう。つまり、文化的所産のーー教育のあるーー消費者たちをね。君は映画を作る
が、そこでたくさんの流動的大衆ーー実際、君の映画は、たいてい大衆的な大成功だったね。つまり、
君は観客に貪(むさぼ)るがごとく消費されてるってことだよーーだけでなく、必須の媒介として、技術、組織、
企業の大きな機構をも必要とする。もし君が、こういったものを全部、初期キリスト教時代か近世中
国あたりの魔法使いの仙人境よろしく消してしまうとしたら、君には一体何が残るのだろう?

パゾリーニ すべてが残るさ! つまり、ぼく自身と、生きてこの世に在るという事実と、ものを見
たり、働いたり、理解したりする能力とが。物語を語り、言葉に耳を傾け、方言を記述し、マリオネ
ット芝居を作るための方法はいくらでもあるんだ。そして、ほかの人たちにはさらにたくさんのもの
が残るね。ほかの人たちは、その時はぼくと教養ないし無知の程度を同じくして、ぼくに反発するこ
とができる。世界が広がり、すべてはぼくらのものなんだから、ぼくらはもう、略奪し合うための株
式や取締役会や棍棒を使わなくてもすむのだ。いいかい、ぼくらの多くが夢みていたこの世界ーーも
う一度言うが、これが去年の、いやこの場合はもっとずっと昔の、時刻表を読かということだーーに
は、片や山高帽をかぶり、ポケットからドルがあふれている卑劣な雇用者がいて、片や子供を連れて
公正な扱いを乞う、やつれた後家さんがいたんだよ。要するに、ブレヒトの美しい世界だね......。

コロンボ まるでその世界にノスタルジアでも感じているみたいだね!

パゾリーニ とんでもない。ぼくはただ、雇用者を倒すために闘いはしても、だからといってその地
位を乗っ取ろうなどとは思わなかった、貧しくてまっとうな人たちにノスクルジアを感じるだけさ!
この人たちはすべてから締め出されてぎたから、誰もこの人たちを侵略することすらしなかったのだ。
しかし、ぼくは介のあの反乱する黒人たちには不安を感じるね。彼らは、つまるところ支配者たちに
そっくりだろう。同じくらい追い剥ぎ根性が強くて、何が何でもすべてを所有しようとしている。
 全面的な暴力に向かう、あの暗い執拗さは、本当のアイデンティティーを隠蔽してしまう。現代で
は、瀕死で病院にかつぎ込まれた人間はーーまだ少しでも息のあるうちはーー退院の見込みはどのく
らいあるのか知る方に一生懸命で、自分をこんな目に合わせた犯罪のからくりについて警察が言うこ
とには、それほど注意を向けないものだ。今、はっきりさせておきたいのだが、ぼくはわざわざ訴訟
を起こそうとも思わないし、誰が一番有罪であるかを見つけ出すために、原因と結果の連鎖を調べま
わったりもしない。
 ぼくらは、君が「状況」と言っているものを定義してしまったようだ。まったく、どしゃ降りの時
に下水口が詰まっているようなものだね。水位が上がってくる。それは罪のない水なんだ。海の荒々しさも、川の流れの意地悪さもない雨水だ。それなのに、何かの原因で、この水は下に流れて行かず
に上がって来るのだ。この水は、子供の水遊びや『雨に歌えば』の曲に現れるのと同じ水なんだ。し
かしこの水は上がって来て、少しずつ君を浸していく。そして、そうなってしまったら、ぼくはこう
言う。「いちいちあちらこちらにラベルを貼ったりして、ぼくたちの時間をすっかり無駄にするのは
よそう。みんなで溺れてしまわないうちに、このひどい湯ぶねの水をどこから抜くか、探そうじゃな
いか」とね。

コロンボ それで君は、そのために、義務教育はすっぱり廃止してしまって、無知で幸福な、小さな
羊飼いたちだけを駆け回らせておこうと言うのかね!………

パゾリーニ そんな風に言ってしまえば、たしかに馬鹿げているだろうよ。だが、やはり今のような
義務教育では、どうしても、あらゆる形の希望を奪われたローマの「剣闘士(グラディアートル)」みたいなものしか生ま
れて来ないんだ。現代では、大衆はますます重荷なものになりつつあり、同時に、大衆の怒りや絶望
然は十倍にもなっている……。ぼくは自分の論文で学校の閉鎖を推奨して、厭がらせを言ってみたん
だがねーーしかしそういうごとにぽたりそうもないな! 今度は君たちの方で、ぼくに別の解決を提
案してくれる番だよ。
 たしかにぼくは、解放され自分自身の主人となることのみを目指した彼抑圧者たちの、純粋で直接
的な革命を懐しく思う。そしてまた、あのような出来事が、再びイタリアの、あるいは世界の歴史に
起こりうるだろうと希望を持っていることもたしかだ。うまくすれば、この考えがぼくのこれからの
詩のひとつにインスピレーションを与えてくれるだろう。だがそれは、ぼくの根本的な思想の表現と
してであって、ぼくが知っているもの、見ているものの表現としてではないだろうね。
 ここまで来たら遠慮なく言おう。ぼくは地獄に降りて行く人間だ。ぼくの知っていることは君たち
の平安を乱しそうもない。だが君たちも気をつけてほしい。地獄は君たちのところにも上って来るの
だから。地獄は、本当に、あらゆる仮面をかぶり、あらゆる旗印に隠れてしのび寄って来る。新しい
制服とーー時にはーー新しい口実を考え出して来る。そして、地獄がその攻撃や打撃や殺しの欲求と
必要を、いよいよ強め、いよいよ広げているというのもまた、本当なのだ。「激しい生」とでも言お
うか、それを味わってきた人間の、私的で危険な、たった一人の試みも、もうそうそう長くは続くま
い。君たちは自分を錯覚してはいけない。君たちこそ、君たちの学校、君たちのテレビ、君たちのお
となしい新聞で、所有と破壊を基盤にした恐るべき秩序をがっちり守っているんだ。
 長生きするよ、君たち、ひとつの犯罪にラベルを貼りつけることさえでされば気がすむ人たちは。
ぼくから見れば、それは大衆文化への数ある操作のひとつにすぎない。ことが起きるのは防げたいか
ら、寸法通りの引き出しを作り、さっさと閉めこんで安心するというわけさ!

コロンボ しかし何の廃止にしても、そこには必ず新しい創造も要求されるはずだね、君自身も破壊
者なのでない限りは。たとえば、こういう場合、書物は一体どうなるのだろうか! 人間より文化を
気にしているととられると困るんだが、こうした「生き残ってきた」メデディアは、君のよう、今とは
違った世界のヴィジョンの中でだって、野蛮なーーという非難が対にはしょっちゅう寄せられるんだ
がーー状態に後退させることはできないし、しかも君は、そのメディアがもっと……「発展した」も
のになるのは拒むというんだろう。

パゾリーニ その言葉にはぞっとするね。

コロンボ まあ一応そう言っておこう。しかしこの問題はなかなか重大だよ。ナチズムの時代にして
もSFの中にしても、焚書はいつも皆殺しの第一歩だった。いざ学校やテレビが廃止になったら、君
はどうやって君の小さな世界を活性化していくというんだ?

パゾリーニ ぼくは、その点に関してモラヴィアと対談して説明しておいたつもりだがね。「廃止す
る」というのは、ぼくの言葉に直すと「変革する」という意味になる。ただし、ドラスティックに、
死にもの狂いで変革するんだよ、ぼくたちのドラスティックで死にもの狂いの状況が要求しているよ
うにね! モラヴィアとか、特にフィルポとぼくとは、どうももうひとつ本当の対話にならないんだ
が、それは、ぼくたちの見ているもの、知っている人間、聞いている声が同じではなかったと思われ
るからだ。君たちにとっては、出来事というものは、ちゃんとした記事になり、きれいにまとめられ、
きちんとページに組んであり、はっきりしたタイトルもついていて、ペーパーナイフで切り開いたと
ころで初めて存在するんだ。だが、その裏側には何かあるだろうか? 組織検査をして、こう宣告す
る勇気のある外科医が必要だろう。「諸君、これは癌です。生やさしい疾患じゃありませんよ!」そ
れでは、癌とは何なのか? それは、すべての細胞をとてつもなく変質させ、あらゆる既知の論理の
枠外に増殖させる病気だ。
 さて、過去の健康に思いをはせる病人か懐旧的(ノスタルジック)だというなら、発病前は馬鹿かつまらぬ人間だった
ということになるのだろうか?
 今や何を措いても、ぼくたちの眼前のイメージが誰の目にも同じになるよう、何か努力をしなくて
はならないだろう。あの政治屋たちがみんなで画一一的なつまらん御託をまくし立てるのを聞くと、ぼ
くは頭がへんにたりそうだ。連中は、自分がどこの国の話をしているのかもわかってないね。月と同
じくらい、はるか遠くにいらっしゃる。作家たちも右に同じだ。社会学者も。それから、ありとあら
ゆる専門家連中もね。

コロンボ どういうわけで、そんな問題を君の方がずっとはっきり見ていると言えるのだね?

パゾリーニ 自分のことはもう話したくないな。ぼくはあまりに自分を語りすぎてしまったのかもし
れない。ぼくが自分の経験を体を張って手に入れているということも、みんなが知っているじゃない
か! それにぼくの本や映画もあるしね。間違っているのはぼくの方だということも、ないとは言え
ない。だがやはり、ぼくは言いたい、ぼくたちはみんな、危機に直面しているんだとね。

コロンボ パゾリーニ、君が人生をそう見ている以上はーーこの質問を受けてくれるかどうかわから
ないがーー、その危険や危機を避けるにはどうすればいいと思う?

日が暮れてくる。パゾリーニがあかりをつけていなかったので、ノートが取りにくくなってくる。私
たちは一緒に、そこまで私が取ったノートを見直す。それから彼は、私の質問のリストを貨してくれ
ないかと言う。「ちょっと決めつけすぎかなと思うところがあるからね。じっくり考えさせてくれよ。
見直さなきゃならん。それに、結論を出すまでに時間ももらいたいし。君の最後の質問への答を少し
考えてみるよ。知っているだろう、ぼくはいつも話すより書く方が楽でね。ノートは、ぼくのコメン
トをつけて明日の朝返すよ」。
 翌一一月二日の日曜日、ピエル・パオロ・パゾリーニの生命なき肉体は、ローマ警察の死体置き場にあ
った。
              フリオ・コロンボ
                「トゥットリブリ」誌一九七五年一一月八日号より


Siamo tutti in pericolo / intervista di Furio Colombo a Pier Paolo Pasolini. "Siamo tutti in pericolo". Intervista a Pier Paolo Pasolini, L'Unità 1 novembre 1975 mercoledì 11 maggio 2005, di Redazione Antenati - 49996 letture. Questo che ...
http://www.girodivite.it/Siamo-tutti-in-pericolo-intervista.html 

Siamo tutti in pericolo / intervista di Furio Colombo a Pier Paolo Pasolini


"Siamo tutti in pericolo". Intervista a Pier Paolo Pasolini, L’Unità 1 novembre 1975
mercoledì 11 maggio 2005, di Redazione Antenati - 50016 letture
Questo che pubblichiamo è il testo dell’intervista di Furio Colombo a Pier Paolo Pasolini pubblicato sull’inserto "Tuttolibri" del quotidiano "La Stampa" l’8 novembre del 1975 Questa intervista ha avuto luogo sabato 1° novembre, fra le 4 e le 6 del pomeriggio, poche ore prima che Pasolini venisse assassinato. Voglio precisare che il titolo dell’incontro che appare in questa pagina è suo, non mio. Infatti alla fine della conversazione che spesso, come in passato, ci ha trovati con persuasioni e punti di vista diversi, gli ho chiesto se voleva dare un titolo alla sua intervista. Ci ha pensato un po’, ha detto che non aveva importanza, ha cambiato discorso, poi qualcosa ci ha riportati sull’argomento di fondo che appare continuamente nelle risposte che seguono. "Ecco il seme, il senso di tutto - ha detto - Tu non sai neanche chi adesso sta pensando di ucciderti. Metti questo titolo, se vuoi: "Perché siamo tutti in pericolo"".
Pasolini, tu hai dato nei tuoi articoli e nei tuoi scritti, molte versioni di ciò che detesti. Hai aperto una lotta, da solo, contro tante cose, istituzioni, persuasioni, persone, poteri. Per rendere meno complicato il discorso io dirò "la situazione", e tu sai che intendo parlare della scena contro cui, in generale ti batti. Ora ti faccio questa obiezione. La "situazione" con tutti i mali che tu dici, contiene tutto ciò che ti consente di essere Pasolini. Voglio dire: tuo è il merito e il talento. Ma gli strumenti? Gli strumenti sono della "situazione". Editoria, cinema, organizzazione, persino gli oggetti. Mettiamo che il tuo sia un pensiero magico. Fai un gesto e tutto scompare. Tutto ciò che detesti. E tu? Tu non resteresti solo e senza mezzi? Intendo mezzi espressivi, intendo...
Sì, ho capito. Ma io non solo lo tento, quel pensiero magico, ma ci credo. Non in senso medianico. Ma perché so che battendo sempre sullo stesso chiodo può persino crollare una casa. In piccolo un buon esempio ce lo danno i radicali, quattro gatti che arrivano a smuovere la coscienza di un Paese (e tu sai che non sono sempre d’accordo con loro, ma proprio adesso sto per partire, per andare al loro congresso). In grande l’esempio ce lo dà la storia. Il rifiuto è sempre stato un gesto essenziale. I santi, gli eremiti, ma anche gli intellettuali. I pochi che hanno fatto la storia sono quelli che hanno detto di no, mica i cortigiani e gli assistenti dei cardinali. Il rifiuto per funzionare deve essere grande, non piccolo, totale, non su questo o quel punto, "assurdo" non di buon senso. Eichmann, caro mio, aveva una quantità di buon senso. Che cosa gli è mancato? Gli è mancato di dire no su, in cima, al principio, quando quel che faceva era solo ordinaria amministrazione, burocrazia. Magari avrà anche detto agli amici, a me quell’Himmler non mi piace mica tanto. Avrà mormorato, come si mormora nelle case editrici, nei giornali, nel sottogoverno e alla televisione. Oppure si sarà anche ribellato perché questo o quel treno si fermava, una volta al giorno per i bisogni e il pane e acqua dei deportati quando sarebbero state più funzionali o più economiche due fermate. Ma non ha mai inceppato la macchina. Allora i discorsi sono tre. Qual è, come tu dici, "la situazione", e perché si dovrebbe fermarla o distruggerla. E in che modo. 
(...)
Che cos’è il potere, secondo te, dove è, dove sta, come lo stani?
Il potere è un sistema di educazione che ci divide in soggiogati e soggiogatori. Ma attento. Uno stesso sistema educativo che ci forma tutti, dalle cosiddette classi dirigenti, giù fino ai poveri. Ecco perché tutti vogliono le stesse cose e si comportano nello stesso modo. Se ho tra le mani un consiglio di amministrazione o una manovra di Borsa uso quella. Altrimenti una spranga. E quando uso una spranga faccio la mia violenza per ottenere ciò che voglio. Perché lo voglio? Perché mi hanno detto che è una virtù volerlo. Io esercito il mio diritto-virtù. Sono assassino e sono buono.
Ti hanno accusato di non distinguere politicamente e ideologicamente, di avere perso il segno della differenza profonda che deve pur esserci fra fascisti e non fascisti, per esempio fra i giovani.
Per questo ti parlavo dell’orario ferroviario dell’anno prima. Hai mai visto quelle marionette che fanno tanto riderei bambini perché hanno il corpo voltato da una parte e la testa dalla parte opposta? Mi pare che Totò riuscisse in un trucco del genere. Ecco io vedo così la bella truppa di intellettuali, sociologi, esperti e giornalisti delle intenzioni più nobili, le cose succedono qui e la testa guarda di là. Non dico che non c’è il fascismo. Dico: smettete di parlarmi del mare mentre siamo in montagna. Questo è un paesaggio diverso. Qui c’è la voglia di uccidere. E questa voglia ci lega come fratelli sinistri di un fallimento sinistro di un intero sistema sociale. Piacerebbe anche a me se tutto si risolvesse nell’isolare la pecora nera. Le vedo anch’io le pecore nere. Ne vedo tante. Le vedo tutte. Ecco il guaio, ho già detto a Moravia: con la vita che faccio io pago un prezzo... È come uno che scende all’inferno. Ma quando torno - se torno - ho visto altre cose, più cose. Non dico che dovete credermi. Dico che dovete sempre cambiare discorso per non affrontare la verità.
E qual è la verità?
Mi dispiace avere usato questa parola. Volevo dire "evidenza". Fammi rimettere le cose in ordine. Prima tragedia: una educazione comune, obbligatoria e sbagliata che ci spinge tutti dentro l’arena dell’avere tutto a tutti i costi. In questa arena siamo spinti come una strana e cupa armata in cui qualcuno ha i cannoni e qualcuno ha le spranghe. Allora una prima divisione, classica, è "stare con i deboli". Ma io dico che, in un certo senso tutti sono i deboli, perché tutti sono vittime. E tutti sono i colpevoli, perché tutti sono pronti al gioco del massacro. Pur di avere. L’educazione ricevuta è stata: avere, possedere, distruggere.
Allora fammi tornare alla domanda iniziale. Tu, magicamente abolisci tutto. Ma tu vivi di libri, e hai bisogno di intelligenze che leggono. Dunque, consumatori educati del prodotto intellettuale. Tu fai del cinema e hai bisogno non solo di grandi platee disponibili (infatti hai in genere molto successo popolare, cioè sei "consumato" avidamente dal tuo pubblico) ma anche di una grande macchina tecnica, organizzativa, industriale, che sta in mezzo. Se togli tutto questo, con una specie di magico monachesimo di tipo paleo-cattolico e neo- cinese, che cosa ti resta?
A me resta tutto, cioè me stesso, essere vivo, essere al mondo, vedere, lavorare, capire. Ci sono cento modi di raccontare le storie, di ascoltare le lingue, di riprodurre i dialetti, di fare il teatro dei burattini. Agli altri resta molto di più. Possono tenermi testa, colti come me o ignoranti come me. Il mondo diventa grande, tutto diventa nostro e non dobbiamo usare né la Borsa, né il consiglio di amministrazione, né la spranga, per depredarci. Vedi, nel mondo che molti di noi sognavano (ripeto: leggere l’orario ferroviario dell’anno prima, ma in questo caso diciamo pure di tanti anni prima) c’era il padrone turpe con il cilindro e i dollari che gli colavano dalle tasche e la vedova emaciata che chiedeva giustizia con i suoi pargoli. Il bel mondo di Brecht, insomma.
Come dire che hai nostalgia di quel mondo.
No! Ho nostalgia della gente povera e vera che si batteva per abbattere quel padrone senza diventare quel padrone. Poiché erano esclusi da tutto nessuno li aveva colonizzati. Io ho paura di questi negri in rivolta, uguali al padrone, altrettanti predoni, che vogliono tutto a qualunque costo. Questa cupa ostinazione alla violenza totale non lascia più vedere "di che segno sei". Chiunque sia portato in fin di vita all’ospedale ha più interesse - se ha ancora un soffio di vita - in quel che gli diranno i dottori sulla sua possibilità di vivere che in quel che gli diranno i poliziotti sulla meccanica del delitto. Bada bene che io non facio né un processo alle intenzioni né mi interessa ormai la catena causa effetto, prima loro, prima lui, o chi è il capo-colpevole. Mi sembra che abbiamo definito quella che tu chiami la "situazione". È come quando in una città piove e si sono ingorgati i tombini. l’acqua sale, è un’acqua innocente, acqua piovana, non ha né la furia del mare né la cattiveria delle correnti di un fiume. Però, per una ragione qualsiasi non scende ma sale. È la stessa acqua piovana di tante poesiole infantili e delle musichette del "cantando sotto la pioggia". Ma sale e ti annega. Se siamo a questo punto io dico: non perdiamo tutto il tempo a mettere una etichetta qui e una là. Vediamo dove si sgorga questa maledetta vasca, prima che restiamo tutti annegati.
E tu, per questo, vorresti tutti pastorelli senza scuola dell’obbligo, ignoranti e felici.
Detta così sarebbe una stupidaggine. Ma la cosiddetta scuola dell’obbligo fabbrica per forza gladiatori disperati. La massa si fa più grande, come la disperazione, come la rabbia. Mettiamo che io abbia lanciato una boutade (eppure non credo) Ditemi voi una altra cosa. S’intende che rimpiango la rivoluzione pura e diretta della gente oppressa che ha il solo scopo di fari libera e padrona di se stessa. S’intende che mi immagino che possa ancora venire un momento così nella storia italiana e in quella del mondo. Il meglio di quello che penso potrà anche ispirarmi una delle mie prossime poesie. Ma non quello che so e quello che vedo. Voglio dire fuori dai denti: io scendo all’inferno e so cose che non disturbano la pace di altri. Ma state attenti. L’inferno sta salendo da voi. È vero che sogna la sua uniforme e la sua giustificazione (qualche volta). Ma è anche vero che la sua voglia, il suo bisogno di dare la sprangata, di aggredire, di uccidere, è forte ed è generale. Non resterà per tanto tempo l’esperienza privata e rischiosa di chi ha, come dire, toccato "la vita violenta". Non vi illudete. E voi siete, con la scuola, la televisione, la pacatezza dei vostri giornali, voi siete i grandi conservatori di questo ordine orrendo basato sull’idea di possedere e sull’idea di distruggere. Beati voi che siete tutti contenti quando potete mettere su un delitto la sua bella etichetta. A me questa sembra un’altra, delle tante operazioni della cultura di massa. Non potendo impedire che accadano certe cose, si trova pace fabbricando scaffali.
Ma abolire deve per forza dire creare, se non sei un distruttore anche tu. I libri per esempio, che fine fanno? Non voglio fare la parte di chi si angoscia più per la cultura che per la gente. Ma questa gente salvata, nella tua visione di un mondo diverso, non può essere più primitiva (questa è un’accusa frequente che ti viene rivolta) e se non vogliamo usare la repressione "più avanzata"...
Che mi fa rabbrividire.
Se non vogliamo usare frasi fatte, una indicazione ci deve pur essere. Per esempio, nella fantascienza, come nel nazismo, si bruciano sempre i libri come gesto iniziale di sterminio. Chiuse le scuole, chiusa la televisione, come animi il tuo presepio?
Credo di essermi già spiegato con Moravia. Chiudere, nel mio linguaggio, vuol dire cambiare. Cambiare però in modo tanto drastico e disperato quanto drastica e disperata è la situazione. Quello che impedisce un vero dibattito con Moravia ma soprattutto con Firpo, per esempio, è che sembriamo persone che non vedono la stessa scena, che non conoscono la stessa gente, che non ascoltavano le stesse voci. Per voi una cosa accade quando è cronaca, bella, fatta, impaginata, tagliata e intitolata. Ma cosa c’è sotto? Qui manca il chirurgo che ha il coraggio di esaminare il tessuto e di dire: signori, questo è cancro, non è un fatterello benigno. Cos’è il cancro? È una cosa che cambia tutte le cellule, che le fa crescere tutte in modo pazzesco, fuori da qualsiasi logica precedente. È un nostalgico il malato che sogna la salute che aveva prima, anche se prima era uno stupido e un disgraziato? Prima del cancro, dico. Ecco prima di tutto bisognerà fare non solo quale sforzo per avere la stessa immagine. Io ascolto i politici con le loro formulette, tutti i politici e divento pazzo. Non sanno di che Paese stanno parlando, sono lontani come la Luna. E i letterati. E i sociologi. E gli esperti di tutti i generi.
Perché pensi che per te certe cose siano talmente più chiare?
Non vorrei parlare più di me,forse ho detto fin troppo. Lo sanno tutti che io le mie esperienze le pago di persona. Ma ci sono anche i miei libri e i miei film. Forse sono io che sbaglio. Ma io continuo a dire che siamo tutti in pericolo.

Pasolini, se tu vedi la vita così - non so se accetti questa domanda - come pensi di evitare il pericolo e il rischio?

È diventato tardi, Pasolini non ha acceso la luce e diventa difficile prendere appunti. Rivediamo insieme i miei. Poi lui mi chiede di lasciargli le domande. "Ci sono punti che mi sembrano un po’ troppo assoluti. Fammi pensare, fammeli rivedere. E poi dammi il tempo di trovare una conclusione. Ho una cosa in mente per rispondere alla tua domanda. Per me è più facile scrivere che parlare. Ti lascio le note che aggiungo per domani mattina". Il giorno dopo, domenica, il corpo senza vita di Pier Paolo Pasolini era all’obitorio della polizia di Roma


















ドイツの社会学統計では妊娠中に夫が戦地に行っていた妊婦から

同性愛者が多く生まれている

急激な社会的変化とストレスが胎児の脳と身体のバランスを崩す

それを認めた上で共生すべきだろう

基本的人権の無視はブーメランだ


國分は自由間接話法を重視していない。

自由間接話法は映画における詩的技法だから、

例えば独白のようなシーンでも自由間接話法によって異化される。

(誰の見た目かによって意味が変わる。)


…疎外とは物質化に必然的に伴う外部化、

経済学的には集合力の対義語だ


ヘーゲルに影響を受けた知識人の弱点は弁証法を容易に信じてしまう点であり、

なお悪いことに止揚という観念操作(=相手の捨象)によって疎外を乗り越えられると誤認する。

悪しき政治主義だ


プルードンのようにはっきり止揚を拒絶すべきだ

(相対する商業的交換者は相手を捨象せず、社会的集合力を共有する。)


とはいえヘーゲルの弁証法は実は生物学モデルであり、止揚にはなっていない…

循環になっている

ここにヘーゲルの可能性があるが、政治学者はエソロジーを軽視しているから

理解出来ない




…疎外とは物質化に必然的に伴う外部化、

経済学的には集合力の対義語だ

吉本なら逆立と言うだろう


ヘーゲルに影響を受けた知識人の弱点は弁証法を容易に信じてしまう点であり、

なお悪いことに止揚という観念操作(=相手の捨象)によって疎外を乗り越えられると誤認する。

悪しき政治主義だ


プルードンのようにはっきり止揚を拒絶すべきだ

(例えば相対する商業的交換者は相手を捨象せず、社会的集合力を共有する。)


とはいえヘーゲルの弁証法は実は生物学モデル(対幻想)であり、止揚にはなっていない…

循環になっている

ここにヘーゲルの可能性があるが、政治学者はエソロジーを軽視しているから

理解出来ない





14 件のコメント:

  1. 1970三島
    1975パゾリーニ
    1980サルトル
    1986タルコフスキー
    1989手塚治虫
    1994ドゥルーズ
    1998黒澤明

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  2. 1955坂口安吾、アインシュタイン
    1956溝口健二
    1960和辻哲郎
    1965谷崎潤一郎
    1970三島
    1975パゾリーニ
    1980サルトル
    1986タルコフスキー
    1989手塚治虫
    1994ドゥルーズ
    1998黒澤明

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  3. ドイツの社会学統計では妊娠中に夫が戦地に行っていた妊婦から
    同性愛者が多く生まれている
    急激な社会的変化とストレスが胎児の脳と身体のバランスを崩す
    それを認めた上で共生すべきだろう
    基本的人権の無視はブーメランだ

    浅田彰、パゾリーニ、三島
    同性愛者には自らの孕む不合理性ゆえに
    稀に明晰さへの桁違いの志向が見られる

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  4. いくつか抜き書きしてみました
    投稿者 ふるみね 投稿日 2013/2/10
    形式: 単行本
    《   この影の市のただなかで幽体離脱を
        嗾(けしか)ける、かくも生気にみちた世界を
        色褪せたものに変えてしまう涙とともに。》 「政治集会」「『グラムシの遺骸』より」四方田犬彦訳『パゾリーニ詩集』みすず書房

    《   きみはすでに痩せた手で
        この沈黙を照らしだす理想を描いてみせた
        (われわれのためにではなかった。》 「グラムシの遺骸」「『グラムシの遺骸』より」四方田犬彦訳『パゾリーニ詩集』みすず書房

    《   パルチザンの首に巻きつけられたのと
        同じ赤い布切れ、
        墳墓のそば、白蝋細工のうえに、》 「グラムシの遺骸」「『グラムシの遺骸』より」四方田犬彦訳『パゾリーニ詩集』みすず書房

    《   何かの偶然で世界を愛することになるとしたら、それは激しく単純な官能愛によるしかない。それはかつて迷い多き青春にあって》 「グラムシの遺骸」「『グラムシの遺骸』より」四方田犬彦訳『パゾリーニ詩集』みすず書房

    《   ごらん、彼らは貧しさのうちにも生を怡(たの)しんでいる。
        力に満ち、何ごとにも構えずに、神話が蘇る
        ……けれどもぼくは、》 「グラムシの遺骸」「『グラムシの遺骸』より」四方田犬彦訳『パゾリーニ詩集』みすず書房

    《   伝統は擁護者を自称する者によって
        毎日のように殺戮されていく。
        民衆とともに死んでゆくのは、

        宗教の光に微笑する大地だ、
        畑の質素な農民と荒屋(あばらや)もまた。
          〔……〕

        道徳の光であり抵抗であった、われわれの実存も。》 「わが時代の信仰」「『わが時代の信仰』より」四方田犬彦訳『パゾリーニ詩集』みすず書房

    《    悲しみの肉の薔薇、
         受肉した五つの薔薇とともに、
         原初の薔薇に宿る薔薇の癌。》「薔薇の形をしたポエジー」『薔薇の形をしたポエジー』より」四方田犬彦訳『パゾリーニ詩集』みすず書房

    《    ぼくは生きながら火で焼かれた猫のようだ。
         トレーラーのタイヤに踏みつぶされ、
         餓鬼どもの手で無花果の木に吊るされたというのに、》「絶望した生命力」『薔薇の形をしたポエジー』より」四方田犬彦訳『パゾリーニ詩集』みすず書房

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  5. 5つ星のうち5.0フリウリ語からイタリア語へ
    投稿者フリ2011年4月2日
    形式: 単行本
    パゾリーニが詩人でもあったと聞いたことはありましたが,モラヴィアいわく「今世紀後半にイタリア語で書いた最大の詩人」といわれるほどの存在であったとは知らなかったです。また,パゾリーニが詩を書き始めたのは「イタリア語」ではなく,母の故郷で使われていたマイナー言語,「フリウリ語」であったということも,もちろん知りませんでした。

    このようなことを含めて,訳者の四方田氏の解説はかゆいところに手が届くように丁寧で,初めてパゾリーニの詩に接したぼくには,非常に助かりました。訳自体も,原詩の雰囲気を伝えているらしいことがわかる日本語でした。詩については,ぼくの琴線には後期作品に多く触れるものがありました。

    ただし,「本文の文字が小さくて読みにくい」「目次が本文の後ろにある」など,デザインが無用に破格なところは,ぼくは好きではありません。

    何より「読みにくい」というのは最悪で,文章の何が本当で何が嘘かをみるのを,故意に困難にしているかのようです。
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  6. エンニオ・モリコーネ「50 Movie themes hits (Gold Edition Volume 2)」
    https://itun.es/jp/rF93E


    最後に鳥のタイトルバックソング所収

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  7. Porcile (opera teatrale) - Wikipedia
    https://it.m.wikipedia.org/wiki/Porcile_(opera_teatrale)
    X episodio Modifica
    Julian incontra Spinoza, il filosofo morto da più di duecento anni, come in un sogno. Spinoza è presente poiché egli è un filosofo che si è appellato alla ragione ed è di estrazione borghese come Julian: lo spirito avverte il ragazzo che, richiamando a sé la ragione, potrà vincere l'impeto degli affetti e liberarsi dal suo amore per i maiali, conducendo una vita sì di compromessi, ma in mezzo agli altri.

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  8. Teatro 2 (Porcile - Orgia - Bestia da stile) eBook: Pier Paolo Pasolini: Amazon.it: Kindle Store
    https://www.amazon.it/Teatro-Porcile-Orgia-Bestia-stile-ebook/dp/B00IXPRJ3U/

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  9. Porcile: il testo drammatico di Pasolini tra voce interiore e temporalità | scriverecinema
    https://scriverecinema.wordpress.com/porcile-il-testo-drammatico-di-pasolini-tra-voce-interiore-e-temporalita/


    -X Episodio

    – personaggi in scena: Julian/ Spinoza
    – azione: dialogo in forma di discorso diretto
    – temporalità della scena: continua alla precedente, in forma di
    sospensione attraverso il dialogo con il filosofo (forma esternata di un monologo
    interiore di Julian).
    – temporalità della fabula corrisponde a:
    a) tempo del porcile dei porci:
    JULIAN: “Lei è il nuovo dottore?”
    SPINOZA: “No, io sono Spinoza.”
    JULIAN: “Chi?”
    SPINOZA: “Spinoza!”
    JULIAN: “Qui, nel porcile?”
    SPINOZA: “Sì, qui con te nel porcile.”
    JULIAN: “Ma come…”
    SPINOZA: “Sì, resta da stabilire qual è il vero porcile,
    tuttavia dal salone e dal giardino
    dove si celebra la Festa della Fusione
    io ti ho seguito, mentre te la squagliavi,
    e sei venuto fin qui, nel porcile dei porci .”

    返信削除
  10. STY:内なる声と一時の間パゾリーニによって劇的なテキスト| scriverecinemahttps://scriverecinema.wordpress.com/porcile-il-testo-drammatico-di-pasolini-tra-voce-interiore-e-temporalita/-Xエピソード - ステージ上の文字:ジュリアン/スピノザ - アクション:直接話の形で対話 - シーンの一時はの形で、前のものを継続しますモノローグの哲学者(有声フォームとの対話を介してサスペンションインナージュリアン)。 - 寓話の一時はに対応しています。A)豚のSTYの時間:JULIAN:「あなたは新しい医者か?」スピノザ:「いいえ、私はスピノザよ。」JULIAN: "誰?"スピノザ:「スピノザ!」JULIAN:「ここでは、豚舎で?」スピノザ:「はい、ここにあなたと豚舎インチ」JULIAN: "しかし、どのように..."スピノザ:「はい、それは何を実際の豚舎を決定するために残っています、しかし、リビングルームと庭から我々は、合併の饗宴を祝う場所私はあなたの中squagliavi、あなたに従っています、あなたは豚のSTYに、ここに来ました。」

    返信削除


  11. ù
    Google 翻訳
    https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja?sl=it&tl=ja&u=http%3A//nam-students.blogspot.jp/2017/05/porcile.html




    JULIAN
    Lei è il nuovo dottore?

    SPINOZA
    No. io sono Spinoza.

    JULIAN
    Chi?

    SPINOZA
    Spinoza!

    JULIAN
    Qui, nel porcile?

    SPINOZA
    Sì, qui con te nel porcile.

    JULIAN
    Ma come...

    SPINOZA
    Certo, resta da stabilire qual è il vero porcile:
    tuttavia, dal salone e dal giardino
    dove si celebra la Festa della Fusione,
    io ti ho seguito, mentre te la squagliavi,
    e sei venuto qui, nel porcile dei porci.
    96

    JULIAN
    E perché... Mi hai seguito?

    SPINOZA
    Ti seguo da tanto tempo, giovane Julian!
    E ciò, a dire il vero, è strano
    perché tu non sei Jaring Jelles, né Simon de Vries,
    né Peter Balling e tantomeno sei Koerbagh,
    condannato al carcere per eresia e in carcere morto.

    JULIAN
    No. Io non sono nessuno di tutti questi tuoi eroici scolari.

    SPINOZA
    Venticinque anni! Alla tua età io commerciavo in frutta.
    Era il 1656 o '57. Sento ancora l'odore delle arance
    che si coglievano in Spagna e ad Amsterdam si sbucciavano.
    Eravamo una famiglia borghese ; e, ai prodotti
    della natura, facevamo compiere un ciclo sociale
    perché fossero consumati da bocche olandesi
    anziché spagnole, e aumentasse cosi il loro valore.
    Tutto incominciava. Franciscus van den Ende,
    ex gesuita mi insegnò il latino,
    per cui divenni libertino. Non è cambiato niente,
    lo vedi : come gli amici di Ida,
    io, ragazzo, mi schierai contro I vecchi.

    JULIAN
    Tu forse vuoi rimproverarmi?

    SPINOZA
    Oh no! Oh no! Perché «io lascio ciascuno
    vivere secondo la sua complessione, e ammetto
    che chi lo vuole muoia, per ciò ch'egli crede suo bene,
    dato che ho permesso a me stesso
    97








    di vivere per la libertà». Ciò io scrissi - molto
    più tardi, è vero - una decina d'anni dopo, quando
    mi era più facile essere saggio. Non ti rimprovero.
    Se ti racconto qualcosa della mia vita, è solo
    perché assomiglia un po'alla tua.

    JUDAN
    Che la tua vita assomigli. Non assomigli alla mia,
    non ha più per me - e tu Io sai - alcuna importanza.

    SPINOZA
    Lo so. Sto parlandoti solo per dimostrarti
    come io sia...la persona meno adatta a essere qui
    accanto a te, in questo supremo momento.

    JULIAN
    Vuoi dire che io avrei avuto piuttosto bisogno di un confessore? È cosi?

    SPINOZA
    Infatti. Invece, pensa!,
    quando avevo la tua età, le mie opinioni
    erano rigidamente eretiche! La Sinagoga
    mi offerse molto denaro, perché tacessi
    e la mia eresia non desse scandalo. Non accettai.
    Un marrano, in nome della Cabala, tentò di ammazzarmi.
    Il vecchio Isaak Aboab, mi maledisse
    dall'alto del suo pulpito. Quanto soffrii!
    Si crede che I rivoluzionari siano sempre forti
    e che quindi non soffrano, come se I dolori
    e le vergogne che essi si sono cercati, fossero
    per essi scontati e naturali...

    JULIAN
    Ma perché dici questo?

    98

    SPINOZA
    Beh, un'abiura (contro il conformismo dei padri
    padroni di tonnellate di arance), un tentativo
    di corruzione (inscenare una finta integrazione
    del figlio ribelle), l'eresia del figlio - lo scandalo -
    la persecuzione. Siamo nel 1667 o nel 1967?

    JULIAN
    Tu, però, sei stato un eroe.

    SPINOZA
    Ma tu sai che bisogna esserlo, e in che modo.

    JULIAN
    Non è Io stesso.

    SPINOZA
    Bene, se proprio vuoi sentire da me parole di condanna,
    te le dirò ma non per condannarti,
    bensì per dirti su che realtà diversa
    si fondi la ragione per cui proprio io sono qui.
    Un intero capitolo della mia «Etica», giovane Julian,
    si intitola : «La schiavitù umana, ossia...
    le forze degli affetti». Non c'è dubbio è un affetto
    che ti attrae tra questi porci, e quindi ne sei schiavo.
    Chi fa ciò, «benché veda il meglio, è costretto,
    tuttavia, a seguire il peggio», dicevo.

    JULIAN
    Mai affetto fu più forte di questo che mi attrae tra questi porci.

    SPINOZA
    La tua protervia non contraddice Ia tua incertezza
    «esse non sono contrarie per natura, ma per accidente»!
    99







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  12. JULIAN
    Dunque, se in qualche modo mi condanni, perché sei qui?

    SPINOZA
    Aspetta, voglio aggiungere ancora... una «Dimostrazione»
    all'assurdità del mio essere qui. Ho concluso
    la mia «Etica» con un capitolo, giovane protervo Julian,
    il cui titolo suona, per analogia al precedente,
    «La potenza dell'intelletto,
    ossia la libertà umana». Un inno alla Ragione -
    non lontana dall'idea che ne aveva Cartesio.
    Te I'ho detto : la mia era già una perfetta famiglia borghese!
    E inoltre nel mio «Tractatus politicus», il succo
    è che «solo nella Città l'uomo può essere
    razionale e libero». Dovrei dunque esser qui per dirti
    «Liberati della schiavitù degli affetti, Julian,
    per mezzo della ragione: e quindi torna tra gli uomini,
    se vuoi essere un uomo!». E aggiungerei : «Va laggiù,
    nel luogo dove il cocktail della Fusione infuria:
    là ti aspetta il compromesso, sì, ma anche la libertà
    dell'eresia e della rivoluzione».

    JULIAN
    Perché dunque non mi dici questo (che del resto so)?

    SPINOZA
    Forse tu non Io ricordi : ma prima di smettere del tutto
    di leggere, e lasciarti assorbire dal silenzio
    e da un'esperienza ripetuta, ripetuta
    come I canti liturgici ー tu hai letto ー o meglio
    hai cominciato a leggere ー un ultimo libro
    che fu la mia «Etica», appunto.
    Ne hai letto solo poche pagine, che riguardano Dio.

    JULIAN
    Lo ricordo appena.

    100

    SPINOZA
    «Per eternità intendo la stessa esistenza... »

    JULIAN
    «... In quanto si concepisce seguire necessariamente
    dalla sola definizione della cosa eterna... »
    Sì : ti avevo imparato a memoria perché non ti capivo.

    SPINOZA
    Strana contraddizione in questo ebreo quarantenne!
    Spiegare Dio con la Ragione: voglio dire,
    con la Ragione che era già scientifica - e borghese!
    Dio era, già, un vecchio problema ; e quella Ragione
    non trovava dunque ancora un nuovo oggetto su cui parlare?
    Io sono morto giovane, Julian, a soli quarantacinque anni.
    Ma sono, in compenso, duecentonovanta anni che sono morto.
    Se dunque aggiungiamo la mia esperienza alla tua
    (che non hai voluto fare, ma hai fatto malgrado te stesso)
    siamo, insieme, di una vecchiaia veramente maestosa:
    abbiamo, cioè, l'età stessa della nostra Epoca.
    Ma per un'Epoca, tre secoli non son poi molti
    essa è dunque in realtà nel fiore della gioventù
    (ha più, molto più, la tua età che la mia).
    La decisione che tu ora prendi è dunque la decisione
    che potrebbe prendere questa intera nostra giovane Epoca...

    JULIAN
    Ma io non prendo nessun & decisione...

    SPINOZA
    L'hai presa, invece. E da tempo. Cosa significa
    essere stati per tre mesi senza parlare, senza mangiare,
    senza dormire, senza sognare, senza morire?

    JULIAN
    Eh! Forse sparire.
    101





    SPINOZA
    Ricordi I'«Etica»?
    «Noi in tanto patiamo, in quanto siamo
    una parte della natura che non pub essere concepita
    per sé, senza le altre... »

    JULIAN
    «Si dice che patiamo, quando in noi sorge qualcosa,
    di cui non siamo se non causa parziale... » Va bene!

    SPINOZA
    Io, primo filosofo della Ragione (poiché Cartesio
    già ne era condizionato) dovrei dirti : «Parla, mangia,
    sta sveglio, lavora, agisci, non sparire».
    Ma I'oggetto della mia ragione era Dio.
    Non posso pretendere che tu viva per fame di verità.
    Dunque muori, se questo ti fa piacere, esci dal mondo.

    JULIAN
    Dal mondo del Sig. Herdhitze e del Sig. Klotz?

    SPINOZA
    Dal mondo del Sig. Herdhitze e del Sig. Klotz, e del loro
    [contrario

    JULIAN
    Io ero già fuori dall'intrigo di questo contrario.

    SPINOZA
    Ma senza esserci mai entrato veramente.

    JULIAN
    Ci saranno certo state delle buone ragioni.

    SPINOZA
    Si, la previsione di ciò che saresti stato oggi,
    in questo porcile dove sei venuto tutti i giorni
    e dove hai perso dunque, come in una masturbazione
    o in un raptus mistico, i rapporti col mondo.

    返信削除
  13. JULIAN
    Bene. E a cosa mi porta dunque, ciò, oltre
    che verso la perdita della Ragione?

    SPINOZA
    A quella che tu ritieni la tua felicità.

    JULIAN
    Si, infatti io sono l'uomo più felice della terra!

    SPINOZA
    Appunto in quanto tu sei felice tu sei.
    Col tuo essere tu ti esprimi.
    Chiama come vuoi quel tuo modo di comunicare
    che tuo padre chiama «né obbedire né disobbedire»:
    fatto sta che per esempio molti santi hanno predicato
    senza dire una sola parola-col silenzio,
    con l'azione, con il sangue, con la morte.
    Ah, non si tratta certo di discorsi
    che possano essere definiti razionali.
    A testimoniare questa forma di linguaggio
    che nessuna Ragione può spiegare, neanche
    contraddicendosi, tu sei stato chiamato.

    JULIAN
    Non voglio essere ridotto a cavia neanche della tua «Etica».


    SPINOZA
    Julian, non hai capito? Sono qui per abiurare la.
    Essa non è stata che un libro - come il «Don Chisciotte»
    come la «Monadologia» o come i «Principia mathematica»:
    libri sublimi, se vuoi eppure opere
    nate da un mondo che avrebbe prodotto, alla fine,
    il tuo padre umanista e il suo socio tecnocrate.
    Anzi, quelle opere non hanno fatto altro
    che dar gloria a loro; avallare la loro storia.
    È vero la Ragione (loro) mi è servita a spiegare Dio.
    Ma una volta che, spiegato Dio, la Ragione
    ha esaurito il suo compito, deve negarsi:
    non deve restare che Dio, nient'altro che Dio.
    Se mi sono soffermato su alcuni punti, cari al vecchio Spinoza, è per farti capire quanto abbia ragione il nuovo, e quanto esso in te ami la sola, la pura presenza di un Dio che non consola.

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  14. パゾリーニ「不純行為」#2『愛しいひと』42~3頁より

    AMADO MIO preceduto da ATTI IMPURIby Pier Paolo Pasolini

     一月からぼくらは芝居のけいこを始めた。民話劇『子供たちと小妖精(エールフィ)たち』で、戦争が終わったらすぐにもカスティッリオーネで公演するつもりで、ぼくがそのために書きおろしたものだ。あの日々のけいこはぼくの少年たちにとって無上の喜びの瞬間をなしたし、思うに彼らは大人になってからも、自分たちの少年期のある種の象徴(エンブレム)として思い出すことだろう。ニシューティは小妖精のひとりで、ぼく自身は人喰い鬼(オールコ)だった。しかし民話の筋立ても言っておかなければならない。なん人かの小妖精が、父親の人喰い鬼と一緒に、森の真ん中で、追い剥ぎをして暮らしていたが、ときたま人を喰うこともあった。いまは彼らの掘っ立て小屋の前、緞帳下の空き地にいる。舞台に立った彼らはまちがいなしにいじわるで皮肉屋で邪悪な役に扮するのだけれども、と同時に感じのよい少年たちであってもよい。するとそこに歌声が聞こえてくる。子供が二人、家出をして、冒険を求めて森に入り込んだのだ。人喰い鬼と小妖精たちは子供の声を聞きつけて、身を隠す。そしてあの二人が野営地にさしかかったとたん、跳び出して彼らを生け捕りにしてしまう。人喰い鬼がなにがしか悪事をはたらきにでかけているあいだ、捕虜の番をするのは小妖精たちの役目だ。こうして戯曲の核心にぼくらは入る。「よい」世界があることを子供たちが小妖精たちに明かして見せることに、この戯曲の核心はあるのだけれども、はたしてどうやって? 小妖精たちに遊びを教えることを通して。小妖精たちはだんだんに子供たちの遊びにひきこまれていく。そしてとうとうみな一緒に逃げ出す決心をする。ちょうどそのとき子供たちの叔父さんが折よくふいにやって来たので。だが、なんとしたことか、いちばん肝心なときになって人喰い鬼が帰ってきて叔父さんと決闘をはじめる。この果たしあいは初めのうちこそ互いにお世辞と善意の抗議でしのぎを削っていたのに、やがて公然と険悪になって、グロテスクな闘いから凄まじい闘いへと変化する。しかし人喰い鬼が虎、怪物、ジャッカルなどの助勢を求めてよばわると、森からは小鳥たちのさえずりとヴァイオリンの音色が彼にこたえ、人喰い鬼が闇と嵐を求めると、あたり一面に燦然と光がふりそそぎ、ついに絶望しきった彼がおこがましくもその山刀に訴えると、袋のなかにあるのは山刀のかわりにパイプだ。よいひとも改心したひとも歌いながら退場する。



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