金曜日, 12月 11, 2015

プルードンの貨幣改革について ゲゼル研究会 http://grsj.org/colum/colum/prouhdon_kaheikaikakunitsuite.htm プルード ン の貨幣改革について ::藤田 勝次郎

プルードンの貨幣改革について       ゲゼル研究会

http://grsj.org/colum/colum/prouhdon_kaheikaikakunitsuite.htm
プルードンの貨幣改革について

::藤田 勝次郎  

Q よくゲゼル理論の先駆者のひとりとしてプルードンの名前があげられるのですが、今日はその辺のことを聞かせてくれませんか。

A 確かにゲゼルは、プルードンだけではないでしょうが、彼から影響を受けていることは確かですね。ゲゼルの主著のひとつに『自然的経済秩序』という著作がありますね。その序文でプルードンについてふれているところがありますが、ゲゼルは、プルードンとマルクスを引き合いに出して、プルードンは今日完全に忘れられているわけではないけれども、「それは正しく理解されてはいない」といって、プルードンをもう一度現代に蘇らせなければならないといっています。

Q ゲゼルはプルードンのどんな点に注目したのでしょうか。

A もちろんそれはプルードンの貨幣改革論です。少し難しい話ですが、プルードンが「商品と労働を通貨の水準にまで高めることによって、貨幣が行使している特権に打撃を与える」ために、途中で挫折してしまったのですが「交換銀行」とか「人民銀行」という組織を作って、それを実現しようとした点です。ゲゼルは、そのようなプルードンの貨幣改革の理論と実践の双方を評価するのです。

Q 初っぱなから難しくなってきましたね。この機会に、ゲゼルの評価しているプルードンの貨幣改革論や信用改革についてわかりやすいように話をしてくれませんか。

A プルードンはもちろんゲゼルより前の人です。彼が執筆活動をしたのは、1840年前後から彼がこの世を去った1865年までのおおよそ25年間なのですが、この時代のフランスでの大きな出来事は、いうまでもなく1848年の二月革命ですね。プルードンはこの二月革命を一貫して冷ややかな目で見ていました。

Q どうしてですか。プルードンは革命の側に立ったのではないのですか。

A 彼は政治革命としての革命には反対し続けました。二月革命も政治革命の方向へ流されているとみたのです。政治革命は権力のにない手の交代にすぎず、権力そのものの変革ではないからなのです。それは現代でも「社会主義」革命と呼ばれていたものの実体が何であったのか思い出せば解りますね。それは、ひとつの抑圧機関に変わる別の抑圧機関が、しかもそれ以前よりもいっそう抑圧的な機関ができただけでしたね。

Q よくプルードンが主張したのは「社会革命」とか「経済革命」とよばれるものだと聞いたことがありますが、それは政治革命とは違うのですか。

A まったく違います。社会の経済関係のもとで、人間は相互にさまざまな活動を通して同等な関係を結んでいます。同じ価値を持ったものを相互に交換する「等価交換」という形式のなかにそれははっきり示されるのですが、プルードンはそうした人間相互の同等性をそのものとして社会の組織のなかに実現してゆくことを相互主義という言葉で示しているのですが、政治権力のもとでの支配-服従の関係は、この相互性とは反対ですね。その意味で彼は権力そのものに対する批判をし続けたのです。

Q その辺はこれくらいにして、早くプルードンの貨幣改革論に進んでくれませんか。

A 申し訳ありません。でもこのような話を回りくどくしましたのは、これが貨幣改革論に大いに関係があるからなのです。プルードンが「権力」とか「権威」と呼ぶものは別に政治の世界に限ったことではないのです。それは経済の世界にもみられるのです。  仮にいまAが商品をもち、Bが貨幣をもっていると考えましょう。両者が市場で取引する場合、商品をもっているAよりも貨幣をもっているBの方が有利なことはいうまでもないですね。プルードンはこうした場合、貨幣は商品に対してつねに「交換可能性」をもっているからだと考えました。貨幣をもってさえいれば、いつでも、また誰からも商品を容易に手に入れることができますね。この「交換可能性」は今日の言葉で言えば、「流動性」といってもよいでしょう。貨幣はいつでもあらゆる商品に交換されるという意味で、「流動性」は100%ですね。それに対して商品財貨は必ずしも販売されるとは限らないという意味で、貨幣に比べてあまり「流動」的であるとはいえません。つまり商品と貨幣はその意味で「同等性」をもっていないことになります。従って先のBがAに対して優位に立つという意味で、二人は「同等」ではないことになります。プルードンはこのような貨幣の商品に対する優位性を貨幣の「王権」と呼び、政治権力のもとでの支配-服従にも似た関係が経済の世界にもあると考えました。

Q 今までの話は一応分かったように思います。では、このことが彼の説いた「交換銀行」や「人民銀行」とどう関わりをもつのですか。

A おおいに関係があります。彼の「交換銀行」や「人民銀行」は、貨幣の商品に対してもっている優位性=権威を喪失させようという意図をもつものだからです。しかも、この問題を彼が提起したのが、二月革命の時だということは大きな意味をもっていますね。つまり、さっきもいいましたようにプルードンは二月革命が権力=権威の廃棄ではなく、その「交代」にすぎないと見ていましたね。しかも彼にとっては権威は政治的権威だけではありません。経済的権威も(さらに宗教的権威も)等しく廃棄されなければならないと考えました。それが「社会革命」なのだと考えたのです。

Q では彼の貨幣改革を目指す「交換銀行」は、何という著作で提起されているのですか。

A プルードンは二月革命の少し前から何人かの仲間と機関紙の刊行を始め、途中政府の圧力によって休刊を余儀なくされ、合計4種の機関紙を相次いで刊行します。この機関紙のひとつに『人民の代表』という名の機関紙があるのですが、1848年4月に「信用と流通の組織 社会問題の解決」という論文を6回にわたって発表するのですが、そこではじめて「交換銀行」の構想を明らかにします。この論文のほか、同じ機関紙に「交換銀行の定款の計画」、「交換銀行」という論文を発表し、そこで細部にわたる銀行組織についてふれています。

Q ではいよいよその「交換銀行」という組織について説明して下さい。

A そうですね。「交換銀行」についてふれる前にあらかじめお話しておきますが、プルードンは「交換銀行」の構想を明らかにした翌年の1849年に「人民銀行」と名前を変えて新しい銀行について発表したのですが、この二つの銀行は本質的に大きな違いはありません。「人民銀行」は「交換銀行」の改訂版だという人もいます。けれどまったく同じというわけではありません。その点はこれからお話ししましょう。

 「交換銀行」はその設立の趣旨や定款に賛同した人びとと銀行との間で交わされる契約によってこの銀行への参加が決まります。この銀行は、すべてがこの加入者の意志によって運営され、国家から完全に独立した自立的組織です。資本金をもちませんし、また営利を目的にしません。この銀行は、加入者の「受領ないし販売した生産物、また引き渡された、あるは近日引き渡されうる生産物の価値を表すあらゆる商業手形と交換に」「交換券」(bon d'echange)と名付けられた一種の銀行券を発行し、それを受け取った人は、それと引き替えに永続的にこの銀行に参加する別の人のもつ商品サーヴィスを手に入れることができますし、またその逆も可能となります。「交換券」には、20、100、500、1,000フラン券があり、端数だけが通常の通貨で支払われるほか、通貨は一切使用されません。また「交換銀行」は、さきに話しましたように営利を目的にするものではありませんので、「交換銀行」のサーヴィスを受けるには、参加者がほんのわずかの手数料、銀行業務を行うに必要な最低の経費にあたる手数料を支払うだけでよいとされます。

Q その場合、「交換券」が過剰に発行されてしまうことはありませんか。

A プルードンによれば、それはありません。といいますのは、「交換銀行」は、つねに商品サーヴィス手形の時価に見合う「交換券」を発行するので過剰発行は原則としてないと考えています。

Q それともうひとつ。銀行が「交換券」を発行するときに商品サーヴィスの「時価」をだれが、どのように決定するのですか。それらの価格を銀行が算定するのですか。

A よいことを聞いてくれました。この点は難しいのですが、大変重要なのです。プルードンによれば、「交換銀行」はそのような価値ないし価格決定にはいっさい関わりません。それはすべて市場のもとで決定されなければならないと考えているのです。「交換銀行」がそのような価値決定の権限をもつことは、それに不当な権威が与えられると考えたからです。プルードンは、どこでも市場を廃止しようという主張はしません。なぜならば、市場は個人の自立と自由の一面を保証しているからです。  けれどまた、今日の新古典派の面々のようにすべてを市場のメカニズムにゆだねることがよいのだとも考えません。例えば、「交換銀行」が参加者の商品と引き替えに「交換券」を発行する場合、原則として市場によって決められた価格に従うことになるのですが、その場合でも、参加者はそれらの商品の原価(「材料費、賃金一般的費用、保険費」などの総額)についての正確な情報を提示することが義務づけられていますし、それらを含めて「交換銀行」の運営の責任は「管理委員会」と名付けられた組織が引き受け、さらに「管理委員会」はつねに「監視委員会」によって点検を受ける義務をもつとしています。つまり、このようなプルードンの考えは、彼が市場の決定を万能視していないことを意味します。彼は市場原理主義をエコノミスムと呼んで批判します。彼は「統計」や「経済計算」に強い関心を持っており、それらによって得られる経済的データが「市場の誤り」をつねに人為的に修正するものと考えたのです。プルードンは、「交換銀行」がそのように市場に依拠しながらも、同時に人為的操作を加味した運営にゆだねられるものと考えていたのです。  いずれにしても、「交換銀行」は「交換券」の発行の対象となる商品サーヴィスなどの「時価」を一方的に決定するものではありませんでした。

 それに対して、生産を管理し生産物の価値を決定する権限を持つ銀行は、むしろイギリスのオウエンやブレイ、ドイツのロードベルトゥスなどによって構想されました。オウエンやブレイの例を引いてみましょう。オウエンの考えた「国民衡平労働交換所」やブレイの「労働券発券銀行」は、銀行に持ち込まれた生産物やサーヴィスを労働価値論の立場からそれらがどれくらいの労働日に相当するかを計算して、それに相当する労働券を通貨の代わりに発行しようとするものでした。フランスでは、プルードンの前にサン-シモン主義に影響されてマゼル銀行という名の銀行が考えられ、それもオウエンやブレイの「交換所」や「発券銀行」と同じようなものでした。マルクスはプルードンの「交換銀行」をマゼル銀行と完全に同一視し、「それは銀行の専制主義を生むだけだ」といって批判していますが、そのような見当違いのプルードン批判はマルクスのプルードンに対する無知を示す以外のなにものでもありません。

Q 難しいですね。でも少し解ったように思います。それともう一つ聞きたいのですが、「交換銀行」はお話の業務以外にほかにどんなことを行うのですか。

A そうですね。「交換銀行」は、市場で買い手の見つからない生産物、つまり余剰となった生産物を購入することで農工業者を救済します。その場合銀行が買い取る価格は、原価の80%であると定款で定められています。それ以外に、当然のことですが、「交換銀行」は、商工業経営者や農民に長期の「資本貸付」や不動産を抵当とした貸付も行います。その場合、貸付はいずれも「交換券」で行われ、その利子もきわめて低いことは申すまでもありません。

Q この「交換銀行」の計画は結局どうなったのでしょうか。

A はい。これはさっきも申しましたように、プルードンが1848年に計画を練ったものですが、ちょうどそのころ彼は、ボナパルトらとともに補欠選挙で当選し、二月革命後の国民議会の議員になります。そこで48年の7月と8月に国民議会にこの計画の実現を訴えますが、否決されてしまい、実現をみませんでした。そこで、それを機会にプルードンはこの計画を練り直し、翌年「人民銀行」と名を改め再出発します。

Q 「人民銀行」は「交換銀行」とどんな点が違っているのですか。

A 先ほども話しましたように、両者は本質的な違いはありません。しかし、細部についていくつか違うところがあります。両者の違いで一番大きなことは、「人民銀行」の場合加入者の制限が設けられたことです。つまり銀行は不特定多数の人に対してその業務を行うというのではなく、はっきりと「人民銀行」に加入する意思を表明した人に対してその業務を行うということです。

Q 「交換銀行」の場合は参加者は無制限だったのですか。

A そうです。この銀行のサーヴィスを受けたいと思う人は誰でもそれを受けることができると考えられました。

Q 「人民銀行」の場合はそうではないのですか。

A 「人民銀行」はいっそう協同組合の色彩を持ち、加入者はあらかじめその意志を示したものに限られます。それと「株」を発行し、それを所有した人がプルードンとともに「人民銀行」のオーナーとなります。先の「交換銀行」は資本がなかったと申しましたが、この点でも両者は違っていますね。「人民銀行」は500万フランの資本を持ちます。それは、100万の5フラン株に分けられ、引受人に渡されます。ただこれは何の利益を伴うものではありません。

Q 「株主」と「加入者」はどう違うのですか。

A 「株主」は今いいましたように「人民銀行」の資本を提供する人ですが、「加入者」は一種の協力者です。それらの双方とも銀行からの便宜供与を受けることができます。

プルードンは本来「人民銀行」の場合も資本なしで設立することを望んでいたのですが、さきにいいましたように、現実にこの銀行を設立する場合、現実にある法規に従わざるをえないことが出てきます。この資本金も当時のフランスの法規を念頭に置いた現実とのやむをえない妥協であったといえましょう。

Q 「人民銀行」も先の「交換銀行」と同様の「交換券」を発行するのですか。

A そうです。ただ名称が「交換券」から「流通券」に代わっていますが、機能に大きな変化はありません。ここでちょっとお話ししておきたいのですが、そもそも「交換銀行」という名称を「人民銀行」に変えた理由は、プルードンがこの銀行が「上から」国家によって作り出されるものではなく、社会によって「自生的に」作られるものであるということを名称の上でもいっそうはっきりとさせたいと考えたからです。

Q 「人民銀行」の仕事は「交換銀行」の場合と同じですか。

A 大筋から見て大きな変化はありません。定款によれば、「人民銀行」の発行する「流通券」は、「返済としてであれ、前貸しとしてであれ」、次のようなものに対してであるとされています。それはもちろん先にいいました「株主」と「加入者」に対してですが、「商業手形、受け取った送り状、委託商品、協同組合などの共同債務、補償金、年金」などです。この場合銀行は管理費として2%の「利子」を得るとされれていますが、その額は4分の1%まで漸次削減されるとしています。限りなく利子率をゼロに近づけようというのです。プルードンの考えた銀行計画は「無償信用」論の具体化だといわれていますね。そして「人民銀行」の発行した「流通券」は通貨と同じように加入者のもとで流通します。

Q 今のお話の「加入者」のもとで流通するといっても、その「加入者」とか「株主」とかを互いにどうして識別するのですか。

A 実際、プルードンは「人民銀行」の設立準備を進め、その場所をフォーブール・サン・ドゥニ街(ここは今でも労働者街なのですが)に決め、その定款を公証人に提出し、「株主」と「加入者」を募集するのです。これは大変評判を呼び、27,00人の「加入者」を集めたといわれています。プルードンは、これらの「加入者」の名の一覧表を事務所に提示し、さらに「加入者」各人の家のドアーの横に「加入者」であるという標識を出すように決めていました。それを見て「加入者」は自分が手に入れた「流通券」を使って取り引きすることができると考えたのです。

Q この計画は実際実現したのですか。

A 残念ですができませんでした。といいますのは、プルードンが自分の機関紙『人民』に書いた論文が、大統領に就任したボナパルトを誹謗しているということで、裁判にかけられ、有罪の判決が下され、入獄を逃れて一時ベルギーに亡命します。そんなことがあって、彼は「人民銀行」の実現が不可能となったと判断し、やむなく1849年12月機関紙の紙上で「人民銀行」の清算を発表するのです。

 それ以後彼はこのような計画を立てることはありませんでした。けれども、このような貨幣改革への意図はいろいろなところに広がります。例えば、この「人民銀行」の計画が立てられたすぐあとで、マルセイユで「ボナール銀行」(Banque Bonnard)という銀行が設立されましたし、また半世紀後になりますが、1894年ドイツのライン・ファルツ州にハルクスハイム・ツェル(Harxheim Zell)にヴァーレンバンク(Warenbank)----「商品銀行」といってよいのでしょうか------という銀行が設立されましたが、それらはプルードンの「人民銀行」の影響を強く受けているといわれています。

Q このようなプルードンの貨幣改革論は、当時のフランスの経済学者によってどのように受け取られたのでしょうか。

A これにつきましては、プルードンとバスティアという経済学者との間で交わされた有名な論争があるのですが、それについてはまた別の機会にお話ししましょう。ただ一言だけふれておきますと、バスティアのような経済学者にはプルードンの「人民銀行」設立の理論的背景になっている「無償信用」論がまったく理解できなかったということです。

 最後になりますが、プルードンの「交換銀行」についてマドール(Madol)という名のある輸出業者がプルードンにあてた手紙を紹介しておきましょう。

「あなた(プルードン)が考えているような、通貨なして済ませるという考えは、別に新しいものではありません。この道の本職は何年も前から通貨の必要性は社会組織の欠如に他ならないといっております。私は、すべての人びとが勘定の振り替えによって互いに決済できるような社会を考えております。どのような形でも、あなたは公衆にこのような考えの旗を高く掲げ、この実現のための計画を提起した最初の人であるという栄誉を与えられるでありましょう。」

2002 Gesell Research Society Japan: All Rights Reserved


《ドクター・プライスの思いつき… 
 「複利を生む貨幣ははじめはゆっくりふえてゆく。しかし、ふえる率はだんだん速くなって 
ゆくので、ある期間がたてば、想像もでぎない速さになる。われわれの救世主が生まれた年に 
五%の複利で貨し出された1ペニーは、今ではもう、すべて純金から成っている一億五千万個 
の地球に含まれているよりももっと大きな額に増大しているであろう。しかし、単利で貸し出 
されたとすれば、同じ期間にたった七シリング4と1/2ペンスにしかふえていないであろう。 
今日までわが国の政府はその財政を第一の道よりも第二の道によって改善しようとしてきたの 
である。
」**》(『資本論』第三巻 第五篇利子生み資本 第24章「資本関係の外面化」より、 
大月書店国民文庫7巻141頁) 

s=c(1+z)^2なる数式*まで持ち出して複利を批判するマルクスはまさに二重の態度を取る。 
複利で儲けようとする人間を嘲笑するが、その現実を変えようとしないという評論家的態度だ。 
複利が実体経済と合わないという指摘は正しい。しかし、短期的には複利は現実をそのシステム 
にあわせようとして被害者を生む。長期的にも、現代では国家が複利による赤字を拡大させてお 
り、これは社会秩序に直結する問題だ。『共産主義者宣言』が一面的なら、『資本論』は悪い意 
味で二重の態度を取った書物だ。 

* 
s = c ( 1 + z )^2 
《このsは資本・プラス・複利の合計、cは前貨資本、zは利子率(一〇〇の可除部分で表わし 
たもの)、nはこの過程が続く年数である。》(上記書143頁) 


**
リチャード・プライス『国債問題につき公衆に訴える』、〔一七七二年〕


54頁
19世紀初期に利用できた生存および疾病についての確率表は,1789年に当時
の著名な数学者であったドグター・プライス(Richard Price, 1723-1791)がマセーノレ(Franci::lMaser出,1731-1824)の個人年金法案。ndividual1ifean~ nuities)のために計算したものであコた。プライ1は18世紀末のイギリスではもフとも署名な数学者であったから,19世紀初期には信頼できるものとして使用された。プライス表の使用の経験を通じて,その正確きに対する信頼は低下L, 1825年の友愛協会特別委員会ではそれに対する疑問の戸があがるが,数学者としのてのプライスの盛名のために,それを否定するところまではいっていない。

39) プライスは数学者であると同時に畠進主革酌立場からの政治問題の執牢者で;!;, ,非国教佐牧師で,フランス革命の支持者としても有名。1789年11月4日,彼は「祖国愛について」と題する講演を行なったが,これに対する抗判としてハタ(EdmundBurke, 1729-'97)が「フフンス革命の考察J(1790)を書L、た。またマルサス「人口論」には,プライスに対する批判がある。数学者としてのプライスには,今世紀になると次のような#凶Uがある。40) 「プライスは木揮な瞳敬を残した白被の意見は当時の人びとに大いに重んじられたが,今では控は,その誤りによってのみ記憶されているムCM.C. BueI ; Health,同出lth,and Population 問theEa.rly Days in the Industrial Revolution, Lonnon. 1926. p. 14) C. Ansell, A Treatise 071 Friendly Societies z"nωhich the D



中野保男 論稿

Marx, Capital, Volume III, Part V, Chapter 24 | Library of Economics and Liberty

http://www.econlib.org/library/YPDBooks/Marx/mrxCpC24.html

The idea of capital as a self-reproducing and thereby self-expanding value, lasting and growing eternally by virtue of its inherent power—by virtue of the hidden faculties of the scholastics—has led to the fabulous fancies of Dr. Price,which far outdo the fantasies of the alchemists; fancies, in which Pitt seriously believed and which he used as pillars of his financial administration in his laws concerning the sinking fund.

V.XXIV.10

"Money bearing compound interest grows at first slowly; but since the rate of increase is constantly accelerated, it becomes so fast after a while as to defy all imagination. A penny, loaned at the birth of our Savior at compound interest at 5%, would already have grown into a larger amount than would be contained in 150 million globes, all of solid gold. But loaned at simple interest, it would have grown only to 7 sh. 4½ d. in the same time. Hitherto our government has preferred to improve its finances in the latter instead of in the former way."*81

V.XXIV.11

He flies still higher in his "Observations on Reversionary Payments, etc., London, 1782." There we read: "1 sh. invested at the birth of our Savior" (presumably in the Temple of Jerusalem) "at 6% compound interest would have grown to a larger amount than the entire solar system could contain, if it were transformed into a globe of the diameter of the orbit of Saturn." "A state need never to be in difficulties on this account; for with the smallest savings it can pay the largest debt in as short a time as its interests may demand." (P. 136.) What a pretty theoretical introduction to the national debt of England!

V.XXIV.12

Price was simply dazzled by the enormousness of the figures arising from geometrical progression. Since he regarded capital, without taking note of the conditions of reproduction and labor, as a self-regulating automaton, as a mere number increasing itself (just as Malthus did with men in their geometrical progression), he could imagine that he had found the law of its growth in the formula s = c(1 + i)Ñ, in which s stands for the sum of capital plus compound interest, c for the advanced capital, i for the rate of interest expressed in aliquot parts of 100, and n for the number of years in which this process takes place.


Notes for this chapter


Richard Price, An Appeal to the Public on the subject of the National Debt, 2nd ed., London, 1772. He cracks the naive joke: "A man must borrow money at simple interest, in order to increase it at compound interest." (R. Hamilton,An Inquiry into the Rise and Progress of the National Debt of Great Britain,2nd ed., Edinburgh, 1814.) According to this, borrowing would be the safest means for private people to gather wealth. But if I borrow 100 pounds sterling at 5% annual interest, I have to pay 5 pounds at the end of the year, and even if the loan lasts for 100 million years, I have meanwhile only 100 pounds to loan every year and 5 pounds to pay every year. I can never manage by this process to loan 105 pounds sterling when borrowing 100 pounds sterling. And how am I going to pay the 5 pounds? By new loans, or, if it is the state, by new taxes. Now, if the industrial capitalist borrows money, and his profit amounts to 15%, he may pay 5% interest, spend 5% for his private expenses (although his appetite grows with his income), and capitalise 5%. In this case, 15% are the premise on which 5% interest may be paid continually. If this process continues, the rate of profit, for the reasons indicated in former chapters, will fall from 15% to, say, 10%. But Price forgets wholly that the interest of 5% pre-supposes a rate of profit of 15%, and assumes it to continue with the accumulation of capital. He does not take note of the process of accumulation at all, but thinks only of the loaning of money and its return with compound interest. How that is accomplished is immaterial to him, since for him it is the innate faculty of interest-bearing capital.


An appeal to the public, on the subject of the national debt.

https://macsphere.mcmaster.ca/bitstream/11375/14773/1/fulltext.pdf
p.19

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以下、別訳


 資本とは、みずからを再生産し、再生産において自らを増殖する価値であり、その生得の属性により──つまりスコラ哲学者たちのいう隠れた素質により──永遠に存続し増大する価値であるという考えは、鍊金術師の幻想でさえ及びもつかぬプライス博士の荒唐無稽な思いつきを生んだのであるが、この思いつきたるや、ピットがこれを本気で信用して、減債基金にかんする彼の法律において財政経済の支柱たらしめたものである。

 「複利を生む貨幣は初めには徐々に増大する。だが、その増大率はたえず加速されるから、ある期間後にはどんな想像も及ばぬほど速くなる。一ペンスがキリスト降誕のとき五%の複利で貸出されたとすれば、それは今日ではすでに、一億五〇〇〇万個の純金からなる地球に含まれるのであろうものより巨額なものに増大しているであろう。だが、単利で貸出されたとすれば、それは同じ期間に七シリング四½ペンスにしか増大しなかったであろう。今日までわが政府は、第一の方法によってでなく第二の方法によって、財政を改善しようとしてきたのである。」〔431〕


八一 リチャード・プライス『国債問題につき公衆に訴える』、〔一七七二年〕第二版、ロンドン、一七七四年〔一八─一九頁〕。彼のいうことは素朴で気がきいている。「ひとは、かねを複利でふやすためには単利で借りなければならない」と。(R・ハミルトン『大ブリテンの国債の起こりと増加にかんする研究』第二版、エディンバラ、一八一四年〔第三部第一篇「プライス博士の財政観の吟味」、一三三頁〕。)これによれば、借金は総じて個人にとっても最も確実な致富手段であろう。だが、私が一〇〇ポンドを年利五%で借りるならば、私は年度末には五ポンドを支払わねばならぬのであって、この投資が一億年間つづくと仮定すれば、そのあいだ、私は毎年いつも一〇〇ポンドを貸出しうるのみであり、また毎年五ポンドを支払わねばならない。この仕方では私は、一〇〇ポンドを借りることによって一〇五ポンドを貸すことにはならない。また、何から私はこの五%を支払うべきか? あらたな借金によって、または、私が国家であるならば租税によって。だが、産業資本家がかねを借りるならば、彼は、利潤をたとえば一五%とすれば、五%を利子として支払い、五%を消費し(彼の食慾は収入とともに増大するとはいえ)、五%を資本化しなければならない。だから、たえず五%の利子を支払うためには、すでに一五%の利潤が前提されている。この過程がつづくならば、利潤率は既述の理由によって、たとえば一五%から一〇%に低落する。しかるにプライスは、五%の利子が一五%の利潤率を前提することを忘れてしまって、この利潤率は資本の蓄積とともに継続するものとしている。彼は、現実の蓄積過程に関係する必要はなく、ただ、貨幣が複利で還流するように貸出しさえすればよい。貨幣の複利還流がいかにして始まるかは、彼にとっては全くどうでもよい、というのは、それは他ならぬ利子生み資本の生得の素質だからである。

 彼は、その著『据置支払にかんする諸考察』、ロンドン、一七七二年、でさらにとっぴなことをいう、──「キリスト降誕のとき」(おそらくエルサレムの寺院で)「六%の複利で貸出された一シリングは、全太陽系が土星の軌道に等しい直径の球に変わったばあいに含みうるであろうよりもいっそう巨額な金に増大していることであろう。」──「だからといって、国家は困難をきたすわけではない。けだし国家は、最小の貯蓄をもって最大の負債を、その利益上必要とされるような短期間に償却しうるからである」(別付、一三、一四頁)と。イギリスの国債にたいする何と結構な理論的手引きであることよ!

 プライスは、幾何級数から生ずる数の尨大さにすっかり眩惑された。彼は、資本をば、再生産および労働の諸条件を顧みることなく、自動的にはたらく機構と見なし、(あたかも、マルサスが人間を幾何級数的に増殖するものと見なしたように)おのずから増殖するたんなる数と見なしたので、彼は、s=c(1+z)^ nという範式において資本増大の法則を発見したものと妄想することができたのであって、この範式中のsは資本プラス複利の総額であり、cは投下資本であり、zは利子歩合(百分比で表現された)であり、nは過程がつづく年数である。〔432〕

  ピットは、プライス博士の誑かしを、すっかり本気にとった。…


『資本論第三巻』(河出「世界の大思想」第一期〈10〉)より

~この邦訳は土星の下りを本文ではなく註に回している。


要するにマルクスは自分の産業資本の分析を引き立てるために、プライスを政治的に貶す。そのため利子の考察は不完全に終わる。また、利潤逓減理論も利子のインフレ吸収を無視した、底の浅いものになり、近代経済学に後れを取ることになる。