盲亀浮木:メモ
NAMs出版プロジェクト: 盲亀浮木(もうきふぼく)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/01/blog-post_96.html【仏教入門】盲亀浮木のたとえ話
https://youtu.be/hwzWlCSUtwE+__ +_
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(ソ♯#♯#Y+/ 盲亀(100年に一度浮かび上がる)
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雑阿含経☆他
めざめた人(ブッダ)については、(ダンマパダ)第一四章にまとめられています。
人間として生をうけることはむずかしい。死すべきものが生きることはむずかしい。正しい教えは聴きがたいものであり、もろもろのめざめた人の出現は得がたいことである。(一八二)
「人身うけがたし、仏法聴きがたし」ということばがよく引かれます。人間としての生命を受けたことが尊いのです。
また「盲亀浮木に会う」(『法華経』妙荘厳王本事品[#27☆☆☆]など仏典に多数出てきます)ということばもあります。それはガンジス河のような大きな河で、目の見えない亀が流されている。それがたまたま流れてきた木に出会って、そこに穴がある。その穴に身をひそめて救われることができる。こんな奇遇はなかなか起こりがたいことでしょうが、仏法を聞くというのも、そのようなまことにありがたい尊いことである。「有り難い」ことだから「有り難い」と、さらに「ありがたい」となるわけです。そういうたとえに使われるのです。
中村元原始仏典
☆☆☆
《仏には値いたてまつることを得難し。優曇波羅華の如く、又、一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し。》
法華経
【読み】 もうきのふぼく
【意味】 盲亀の浮木とは、出会うことが甚だ困難であることのたとえ。また、めったにない幸運にめぐり合うことのたとえ。
【盲亀の浮木の解説】
【注釈】 大海の底にすみ、百年に一度だけ海面に出てくる盲目の亀が、海面に浮かぶ一本の木に出会い、その木にあいている穴に入ることは容易ではないという、仏教の説話から。
もとは、仏または仏教の教えにめぐり合うことは、非常に難しいことをいったもの。
「盲亀浮木に値あう」の略。
「盲亀の浮木、優曇華の花」と続けてもいう。
「優曇華の花」は、三千年に一度咲くという想像上の吉兆の花。
【出典】 『雑阿含経』 『涅槃経』
【注意】 -
【類義】 一眼の亀浮木に逢う/千載一遇
T0099_.02.0108c06: | (四〇六) | 如是我聞。一時佛住獼猴池側重閣講 |
T0099_.02.0108c08: 海。有一盲龜。壽無量劫。百年一出其頭。海
T0099_.02.0108c09: 中有浮木。止有一孔。漂流海浪。隨風東西。
T0099_.02.0108c10: 盲龜百年。一出其頭。當得遇此孔不。阿難
T0099_.02.0108c11: 白佛。不能世尊。所以者何。此盲龜。若至
T0099_.02.0108c12: 海東。浮木隨風。或至海西。南北四維圍
T0099_.02.0108c13: 遶亦爾。不必相得。佛告阿難。盲龜浮木。雖
T0099_.02.0108c14: 復差違。或復相得。愚癡凡夫。漂流五趣。暫
T0099_.02.0108c15: 復人身。甚難於彼。所以者何。彼諸衆生。不
T0099_.02.0108c16: 行其義。不行法。不行善。不行眞實。展轉
T0099_.02.0108c17: 殺害。強者陵弱。造無量惡故。是故比丘。
T0099_.02.0108c18: 於四聖諦。當未無間等者。當勤方便起増
T0099_.02.0108c19: 上欲。學無間等。佛説此經已。諸比丘聞佛
T0099_.02.0108c20: 所説。歡喜奉行
T0099_.02.0108c21: 雜阿含經卷第十五
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0086_,01,0909a05&key=盲亀&ktn=&mode2=2
T0086_.01.0909a06: 千里水中有一盲龜。水上有一浮木有一孔。
T0086_.01.0909a07: *龜從水中百歳一跳出頭。寧能値木孔中不。
T0086_.01.0909a08: 諸比丘言。百千萬歳尚恐不入也。所以者何。
T0086_.01.0909a09: 有時木在東*龜在西。有時木在西*龜出東。
T0086_.01.0909a10: 有時木在南*龜出北。有時木在北*龜出南。
T0086_.01.0909a11: 有時*龜適出頭。木爲風所吹在陸地。*龜百
T0086_.01.0909a12: 歳一出頭。尚有入孔中時。人在三惡道處。難
T0086_.01.0909a13: 得作人過於是*龜。何以故。三惡處人。皆無
T0086_.01.0909a14: 所知識亦無法令。亦不知善惡。亦不知父母。
T0086_.01.0909a15: 亦不知布施。更相噉食強行食弱。如此*曹
T0086_.01.0909a16: 人。身未曾離於屠剥膿血瘡。從苦入苦從冥
T0086_.01.0909a17: 入冥。惡人所更如是
T0086_.01.0909a18: 佛言。譬如人有揜者初亡甚多。至亡妻子田
T0086_.01.0909a19: 宅。羸跣無所復有。尚復負餘。財主大促責。
雑阿含経 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/雑阿含経寿命百千歳になる一匹の盲亀があった。 この盲亀は大海から大海へと流れ浮いている浮木を求めていた。 この浮木は一枚の小さな木の板で、そこにはちょうど亀の頭が入る程度の小さな穴があいていた。 風に吹かれ波に揺られた浮木はひとつところに定着しないで、いつも洋上をゆらゆら流れ浮いていた。 そこへ一匹の亀が百年に一度東からやってきて、たった一度だけ頭をもたげると言うのである。 この盲亀がちょうど頭をもたげようとしたとき、その小さな穴のある板が東風に吹かれて南の方へ移動し始めた。 盲亀が東方へ遊泳してきてもその板が南方へ流されるので、その小板に触れることすらできない。 まして、小さな穴の中に頭を入れることは不可能であった。 それから百年過ぎたある日、盲亀が南方からきて一度だけ頭をもたげた。 すると例の小板はあいにくと南風に吹かれて西の方へ移動した。 このようにして、盲亀が西方からくると小板は西風にあおられて北方へ、 北方からくると北風に揺られてその小板は他の方向へ移動する。 このようにして百年に一度だけ頭をもたげ、ちょうどその小板の小さな穴に、 その盲亀が頭を突き出すことは至難である。 (『中部』三・一六九頁以下。「南伝」第十一巻下、二百十六~二百十七頁 漢訳『中阿含』巻五十三。「大正蔵」第一巻七百六十一中~下) |
昭和文学大全集3 志賀直哉 「盲亀浮木」~クマ~(愛犬)短編を長文引用。志賀直哉のキャラ、小説技術が良く出ている。写真のクマは見栄えのする堂々たる犬。どう見てもセッターである。 ( 政党、団体 ) - 反俗日記 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/xhhfr149/27039786.html?__ysp=55uy5LqA5rWu5pyoIOW%2Fl%2BizgOebtOWTiSDniqw%3D監督:豊田四郎
製作:滝村和男、佐藤一郎
脚色:八住利雄
撮影:安本淳
音楽:芥川也寸志
キャスト
時任謙作:池部良
直子:山本富士子←このヒトの演技力にも問題が
時任信行:千秋実←黒澤の『七人の侍」など、田舎芝居的演技をなんで評価されたのか分からない。才能?
謙作の父:中村伸郎←手堅い演技。本物。
本郷の婆や:荒木道子
愛子の母:長岡輝子←うまいな。腰が据わっている。
石本:仲谷昇←役柄限定の役者
高井:北村和夫←千秋実と似ているところがある。
人間として生まれ難いのは...『雑阿含経』の中には、有名な盲亀浮木の譬... - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1286618987?__ysp=6ZuR6Zi%2F5ZCr57WMIOebsuS6gOa1ruacqA%3D%3D人間として生まれ難いのは...
『雑阿含経』の中には、有名な盲亀浮木の譬喩が説かれています。
ある時、釈尊が
「たとえば、大海の底に一匹の盲亀がいて、百年に一度、海上に浮かび上がるのだ。
その海には、一本の浮木が流れていて、浮木の真ん中に、一つの穴がある。
盲亀が百年に一度浮かび上がった際に、その浮木の穴へ、ちょうど、頭を突っ込む
ことがあるだろうか」と尋ねられた。
阿難という弟子が、「そんなことは、毛頭、考えられません」と答えると釈尊は、
「誰でも、そんなことはありえないと思うだろう。だが、何億兆年よりも永い間には
絶対にないとは、誰も言い切れないであろう。人間に生まれるということは、この例え
よりもありえない有り難いことなのだよ」
と言われたそうですが、これは生物学的にひとつの卵子と何億という精子の中の
わずか1匹との結びつきを意味していると思いますか?
それとも心霊的な生まれ難さを意味していると思いますか?
____
以下に盲亀浮木は訳されていない。
ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1 (岩波文庫 青 329-1) | 中村 元 |本 | 通販 | Amazon
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5 Comments:
(以下「映画についての雑談」は『大系黒澤明』第4巻(2010年)に再録された。)
映画についての雑談 黒澤明
映画とは何か?
これを、的確に定義づけることはむずかしい。
昔、志賀直哉さんがこれは近ごろの名文であるといって、お孫さんの書いた文章をどこかの雑誌に発表したことがある。[注:志賀直哉「盲亀浮木」]
それは、「私の犬」という題だが、こんなふうに書いてある。
私の犬は熊に似ている、狸にも似ている、狐にも似ている……と、その大の特徴をあげて、その点が似ている他の動物の名前を沢山ならべ、そしておしまいに、しかし、犬だから一番犬に似ている、 と書いてある。
僕は、それを読んで思わず吹き出してしまったのを覚えている。今、こんな話を持ち出したのは、映画というものは、他のいろいろな芸術に似ているからで、映画には、大変文学的なところもあれば、演劇的なところもあるし、哲学的な面も、美術的、音楽的な要素もある。
しかし、映画はあくまで映画だ、 と言いたい。
映画を見ていて、映画美というか映画でなければそういう感動もないし、映画以外にはこういうことは表現出来ない、しかもそれが大変うまくいっている、そんな時には見ていて何かゾクゾクッとするような感動がある。 そういうものにひかれてお客さんも見に来るんだと思うし作っている人もそういうことをやりたいからやっている。
つまり、そこに映画があるんだ、 と僕は考えているだけだ。
では、そういうものをどんなふうに表現するかというと、僕の場合は、いつの場合でも、プロデューサーなり会社なりの出してきた企画はやったことがない。自分は今こういうことを言いたい、というのが作品になっていく。この自分が言いたいというものが映画の根になる企画だ。それを育てて一本の本にしていくのが脚本だ。その本に花を咲かせ、果実を実らせるのが演出だ。 そして、 その演出の仕事の中には、俳優の演技の指導、撮影、録音、美術、音楽、編集、ダビングという仕事がある訳だが、一応はそう分類しても、僕としてはその全部が一かたまりに溶け合って、 その一つ一つを切り離しては考えられない。
プロデューサーが持ってきた企画をやる、 そして、 それをあるシナリオライターが書いて、演出だけを引き受けるという人もいるけれど、僕の場合は、最初からおしまいまで全部自分でやっているわけです。
『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督・昭和13年)の時、完成が近づくころはもう何日も眠っていない。衣裳部屋へ行くと、おばさんが見かねて布団を延べてくれてちょっと眠りなさいって言ってくれる。でも、そうはしていられない。ただ、一度たまらなくなって1時間ぐらいその布団につんのめるようにして眠ってしまった。そうしたら、その間に、照明さんが荷重(ライトを支える吊り板)から落ちる事故があって……。
その後セットヘ入って行った僕を山さんが珍しくきつい眼で見て「黒さん、何処へ行ってたの?」と言われたI時は、本当に穴があったら入りたかった。 それからは荷重(にじゅう)の上の照明部は腰を太綱でしばって、落っこちでも大丈夫なようにして……とにかく忙しくて大変だった。
ある時、徹夜が続いたあと、やっと仕事が終わって表へ出た時の照明部の会話を今でもおぼえている。
「おい、きれいな夕暁けだなあ!」
「ばか、あれは朝けだぜ!」
盲亀浮木(もうきふぼく):
志賀直哉の小説の題名にもなった、その確率論的世界観…
「有り難う」の語源とされる
【仏教入門】盲亀浮木のたとえ話
https://youtu.be/hwzWlCSUtwE
[四肢を引っ込める亀を肯定的に見た別の比喩は仏教以前にあった]
____浮木(穴が空いている)
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(ソ♯#♯#Y+/ 盲亀(100年に一度浮かび上がる)
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____海底____
参考:
『雑阿含経』 『法華経#27』
“ありがとう”は仏教から生まれた言葉|ぴょんたのひまわり日記
http://ameblo.jp/go-go-pyonta/entry-10214506442.html
【ライフ】今話題の「汚部屋」、家事代行サービスのプロが見た放置した人々の末路 モノに埋もれた老後の大変すぎる実態
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1みつを ★2018/01/03(水) 04:05:07.02ID:CAP_USER9>>20
http://toyokeizai.net/articles/-/202542?display=b
2018年01月01日
古堅 純子 : 幸せ住空間セラピスト
近年、テレビや雑誌でたびたび取り上げられている「ゴミ屋敷」や「汚部屋」問題。片づけのビフォー・アフターの番組も視聴率が高いと聞きます。
ハウスキーピング協会が主催している「整理収納アドバイザー」の資格講座には、キャンセル待ちが出るほど申し込みが殺到。私の講演会への参加者も、かつては掃除や片づけのプロを目指す人が多かったのですが、今では主婦やサラリーマン、定年後の一般男女が中心です。これほど「片づけ」が注目されている背景には、「うちもいつかゴミ屋敷になってしまうのでは」という、潜在的な不安があるのではないでしょうか。
私が家事代行サービスの仕事を始めた1990年代の終わりごろ、お客様は一部の富裕層に限られていました。それも、きれい好きの家庭がきれいな状態を「維持」するために、掃除のプロを入れるというケースが多かったように思います。ところがここ十数年は、家を片づけてほしいという「レスキュー」の依頼が増え、丸々1軒がゴミ屋敷と化しているケースも珍しくなくなってきました。
「生前整理」をやらなかった人の悲しい実態
「片づけられない人」は昔からいましたが、その存在が顕在化し、驚くべき勢いで急増し、内容もどんどんエスカレートしているというのが、業界に長く携わってきた私の実感です。私が提唱する「生前整理」は、「高齢者宅の片づけ」についての講座をきっかけに作った造語ですが、今となってはいろいろな意味で、高齢になってからでは遅いと感じています。その体験は、拙著『定年前にはじめる生前整理』にも詳しく書いています。
「そのうち片づけよう」と言いながら年を取り、片づける体力やモチベ
ーション、判断力や遂行力も低下して、人生の後半をモノに煩わされながら、やがて切なくこの世を去る人たちを、たくさん目にしてきました。
お客様のAさん(80代女性)の自宅は、亡くなったご主人の仏壇までたどりつけないほど、モノがあふれていました。やがて彼女も亡くなりましたが、ご主人の仏壇の周りにはモノが多すぎて線香をあげることもできず、彼女の遺影とお骨は、隣の部屋の質素なテーブルの上に置かれていたのです。その光景を見た私は、涙があふれて止まりませんでした。
(リンク先に続きあり、夫の退職金を食いつぶす、物欲が止まらない妻)
「一眼の亀」(イチゲンノカメ)という仏教説話が収載された仏典を探している。宗教関係の話で聞いた。
回答
(Answer)
仏教の比喩「一眼亀(いちげんのかめ)」について記述のあった次の資料を紹介した。
『広説佛教語大辞典 上』(中村元著 東京書籍 2001)
p50〈一眼亀(いちげんのかめ)〉の項に、「きわめてまれなことを表すたとえ。一つしか目のない亀が、大海に浮いている一本の木にある穴の中に首をつっこむほどまれなこと」とあり。
『日蓮聖人全集 2 宗義2』(日蓮〔著〕 春秋社 1996)
「開目抄」p185上段に、「一眼の亀の浮木に値うなるべし」との記述があり、下段の現代語訳に「その法華経の行者に出会うことは(法華経妙荘厳王本事品に説かれるように)一方の眼しか残っていない亀がたまたま浮木の孔に出会うようなものである。」とあり。
備考に追記あり。(2015/03/25)
回答プロセス
(Answering process)
インターネットで概要を調べた後、仏教用語の辞典や仏典を調査した。
調査済み資料は次のとおり。
仏教用語の辞典
『仏教比喩例話辞典』(森章司編 東京堂出版 1987)
p27〈一仏・他仏〉(いちぶつ・たぶつ)の項中「(前略)無量劫の寿命を持つ一匹の盲亀が、百年に一度海面に頭を出し、(中略)〈盲亀浮木の喩〉で表現されることもある。」(法華経七・八、心地観経一など)
仏典
「雑阿含経 巻十五」(『国訳一切経 印度撰述部 阿含部2』 大東出版社 1992 所収)
p350-351「盲亀経」あり。ただし、〈一眼〉という表現は見られない。
「開目抄」(『日蓮聖人全集 2 宗義』日蓮〔著〕 渡辺宝陽編 春秋社 1996 所収)
p185上段訓読文に「一眼の亀の浮木に値うなるべし」とある。
p185-186下段 現代語訳に「その法華経の行者に出会うことは(法華経妙荘厳王本事品に説かれるように)一方の眼しか残っていない亀がたまたま浮木の孔に出会うようなものである。」とある。
「妙荘厳王本事品」(『法華経大講座 9』小林一郎著 久保田正文増補 日新出版 1978 所収)
p301原文・読み下し文・解説あり。
「妙荘厳王本事品第二十七」(『法華経 梵漢和対照・現代語訳 下』植木雅俊訳 岩波書店 2008)
p536大蔵経 p537読み下し p551解説あり
「『雑阿含経』、『涅槃経』、『大智度論』などにも、アレンジ版が見られ、鳩摩羅什訳では「一眼の亀」となっている。対応する原文は「盲眼」とも、「一眼」とも断ることなく、ただ「亀」となっている。」とあり。
読み下し文 「是に二子、父母に白して言さく、善哉父母、願わくは時に雲雷音宿王華智仏の所に往詣して、親覲し供養したまえ。所以は何ん、仏には値いたてまつること得難し、優曇波羅華の如く、又一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し。」
「妙荘厳王本事品」(『法華経 下(ワイド版岩波文庫43)』坂本幸男訳注 岩本裕訳注 岩波書店 1991 所収)
p298 上段に原文、下段に読み下し文あり。
p381(注)「一眼の亀 大海に一孔を有する浮木の漂えるあり、海底に百年に一回浮上する一眼の盲亀あり、この盲亀が一浮木の孔に出逢うことは殆んど不可能と云ってよい程困難であるが、愚痴の凡夫は五道に流転して人身を復することはそれよりも困難であるという(雑阿含経15巻大正蔵2巻108頁下)。今は仏に値い難きことを譬えるなり。」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000108064
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