フェルマー予想と「谷山・志村予想」の証明の原論文と,最終定理の概要を理解するためのPDF - 主に言語とシステム開発に関して
http://language-and-engineering.hatenablog.jp/entry/20140720/FermatsLastTheoremPDFNotes谷山豊 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/谷山豊谷山による問題(谷山・志村予想の原型)
谷山予想は、1955年9月に栃木県日光市で開かれた代数的整数論の国際会議で、日本の若手の出席者が中心となって未解決の興味ある問題を集め、それを英訳して配布したものの中に問題という形で、今日「谷山予想」と呼ばれているものの原型が含まれていた、といわれている[8]。この時配布されたものは印刷されずに終わった[8]が、後に、英文によるものは『谷山豊全集』pp.147-148に、また日本語訳のものは『数学』第7巻第4号(岩波書店)に掲載された[9]。以下の2つの問題が、谷山予想の原型である。
人物
- 盟友だった志村五郎は、谷山を次のように述懐している。
著書
- 『谷山豊全集』 杉浦光夫ほか編、日本評論社、1994年10月、増補版。ISBN 4-535-78209-1。-1962年に家族や友人の自費出版で刊行された旧版に、書簡等を加えたもの
共著
脚注
注釈
- ^ 名前は本来「とよ」と読むのが正しいが、「ゆたか」と読み間違える人が多かったので、いつからか自ら「ゆたか」と名乗るようになったという。そのため世界的には「ユタカ・タニヤマ(Yutaka Taniyama)」の名前で知られている。
- ^ 遺書は前記引用部分に続いて、図書館や知人から借りた本や研究室の鍵、研究資料や私物などの処分、金銭関係(預金通帳の置き場、未だ受け取っていない仕事の報酬や未払いのガス代)、大学での講義の進行状況について記され、末尾は「いずれにせよ、駒場の方々にかなり御迷惑をお掛けすることになるのをお詫びしたい。」と結ばれている[3]。
- ^ 谷山の突然の死にショックを受け、遺族に頼み込んで彼の背広を譲り受けている。遺体が発見された時、譲り受けた谷山の背広が傍にあったという[6]。
出典
- ^ “CiNii博士論文 - Jacobian varieties and number fields”. 国立情報学研究所. 2017年7月15日閲覧。
- ^ a b 「谷山東大助教授が自殺 数学界の権威 “自信失った”と遺書」、読売新聞1958年11月17日付夕刊(東京本社版)、5頁
- ^ a b 『谷山豊全集』増補版 p.324
- ^ 『官報』第9596号 本紙「叙任及び辞令」(1958年12月15日)
- ^ 『谷山豊全集』増補版 p.365
- ^ a b 西條 2016, p. 185.
- ^ 西條 2016, p. 141.
- ^ a b 足立 2006, pp. 311 f
- ^ a b 足立 2006, p. 312
- ^ 足立 2006, pp. 312 f
- ^ a b c 「谷山豊再び注目 「フェルマーの最終定理」証明に道筋」、朝日新聞1993年11月16日付夕刊(東京本社版)、3頁
参考文献
- 足立恒雄 『フェルマーの大定理 整数論の源流』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2006年9月。ISBN 4-480-09012-6。
- 西條敏美 『知っていますか?日本数学者ゆかりの地 日本数学の源流を訪ねて』 恒星社厚生閣、2016年6月。ISBN 978-4-76-991585-0。
関連項目
外部リンク
- 大辞林 第三版『谷山豊』 - コトバンク
- 埼玉県庁(埼玉ゆかりの偉人) at Archive.is (archived 2013年7月2日)
- 難問に挑んだ世界的数学者 谷山 豊(たにやま とよ/ゆたか) | 加須インターネット博物館(加須市教育委員会生涯学習部生涯学習課)
- O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “Yutaka Taniyama”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews.
そっくりハウス 谷山浩子 - 歌詞タイム
真夜中 目がさめた おへやのまん中に小さなおうちがありましたわたしの住んでいる おうちとよくにてるやねもとびらも かべの色も そっくりハウス どこからきたそっくりハウス ここにあるそっくりハウス 何から何までおんなじおうち まどからのぞいたら 小さな おとうさん ...
来歴
埼玉県騎西町(現・加須市)出身。開業医の家庭に、八人兄弟の六番目として生まれる。
体が弱く、旧制浦和高等学校を2年休学して1950年に卒業。この頃に高木貞治の『近世数学史談』を読んで、数学者を志すようになる。
その後、東京大学理学部数学科、数学科助手を経て、1958年に東京大学助教授に就任。同年5月、理学博士(東京大学。論文『Jacobian varieties and number fields』[1] )。10月には婚約が決まり、プリンストン高等研究所からの招聘を受けるが、その矢先の11月17日に豊島区池袋の自宅アパートでガス自殺を遂げる[2]。享年32(満31歳没)。兄と久賀道郎に宛てた遺書は大学ノート3枚に及び[2]、その冒頭には、
と綴られていた[注釈 2]。没後、従七位に叙せられている[4]。墓は善応寺(加須市)。戒名は「理顕明豊居士」[5]。
その後、婚約者・鈴木美佐子も、「彼の後を追う」という遺書を残して12月2日にガス自殺[注釈 3]。翌年1月25日、谷山・鈴木両家による「葬婚式」が行われた。善応寺にある谷山の墓には彼女の遺骨も埋葬され、墓石には二人の戒名が並んで刻まれている[7]。
業績
抽象代数学の分野である環論におけるイデアル(英: ideal, 独: Ideal)は環の特別な部分集合である。整数全体の成す環における、偶数全体の成す集合や 3 の倍数全体の成す集合などの持つ性質を一般化したもので、その部分集合に属する任意の元の和と差に関して閉じていて、なおかつ環の任意の元を掛けることについても閉じているものをイデアルという。
整数の場合であれば、イデアルと非負整数とは一対一に対応する。即ち整数環 Z の任意のイデアルは、それぞれただ一つの整数の倍数すべてからなる主イデアルになる。しかしそれ以外の一般の環においてはイデアルと環の元とは全く異なるものを指しうるもので、整数のある種の性質を一般の環に対して一般化する際に、環の元を考えるよりもそのイデアルを考えるほうが自然であるということがある。例えば、環の素イデアルは素数の環における対応物であり、中国の剰余定理もイデアルに対するものに一般化することができる。素因数分解の一意性もデデキント環のイデアルに対応するものが存在し、数論において重要な役割を持つ。
イデアルは整数の算術から定義される合同算術の方法と同様の剰余環(商環)の構成にも用いられる、この点において群論で剰余群(商群)の構成に用いられる正規部分群と同様のものと理解することができる。
順序集合に対する順序イデアルの概念は環論におけるこのイデアルの概念に由来する。またイデアルの概念を一般化して分数イデアルの概念を考えることもでき、それとの区別のためここで扱う通常のイデアルは整イデアルと呼ばれることもある。
【Wiki 谷山志村予想】
谷山志村予想(たにやましむらよそう、Taniyama-Shimura conjectureは、「すべての有理数体上に定義された楕円曲線はモジュラーであろう」という数学の予想であった。現在は証明され、定理となっているので、モジュラー性定理またはモジュラリティ定理(Modularity theorem)と呼ばれることもある。(本記事では、この三つの用語を区別することなく使用する。)
アンドリュー・ワイルズ(Andrew Wiles)は、半安定楕円曲線のモジュラリティ定理=谷山志村予想を証明し、この証明はフェルマーの最終定理とも深く関連する。
【Wiki 谷山 豊】
谷山 豊(たにやま とよ(ゆたか)、1927年11月12日 - 1958年11月17日)は、埼玉県加須市(旧:騎西町)出身の数学者。谷山予想は、1955年9月に栃木県日光市で開かれた代数的整数論の国際会議で、日本の若手の出席者が中心となって未解決 の興味ある問題を集め、それを英訳して配布したものの中に問題という形で、今日「谷山予想」と呼ばれているものの原型が含まれていた、と言われている。
【Wiki 志村 五郎】
志村 五郎(しむら ごろう、1930年2月23日 - )は日本の数学者。プリンストン大学名誉教授。静岡県浜松市生まれ。
盟友であった谷山豊と取り組んだ谷山・志村予想によってフェルマー予想の解決に貢献し、また、アーベル多様体の虚数乗法論の高次元化、アーベル多様体のモジュライ理論とモジュライに対応するCM体上のアーベル拡大を記述する保型関数を構成し、志村多様体論を展開。これによってクロネッカーの青春の夢の一般化を行った(ヒルベルトの23の問題における第12問題への貢献)。フィールズ賞こそ受賞していないものの、国際数学者会議に4度招待講演者として招聘され、スティール賞、コール賞を受賞した輝かしい経歴を持つ日本を代表する数学者の一人である。
志村氏の方針は王道である。トリッキーでなく、本質的な問題を解くこと。新たな展望を与えること。また、10年くらい研究してある程度見込みがつくと、他の分野にも広げること。蛸壺を嫌う。大家然とすることを忌避する。
そんな合理主義の志村氏であるが、1989年に、谷山豊氏の回想を書いた。なぜ今更、谷山豊氏に言及したか、の言い訳をしている。なんでも夫婦で1986年頃、谷山豊氏の話題になって、涙がおさえきれなくなった。その理由は、「谷山がかわいそうでたまらなかった。」それで書いたという。志村氏の合理主義の裏の熱い思いを垣間見るのである。
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