不立文字 No dependence upon words and letters (non-dependence upon words or letters)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/12/dependence-upon-words-and-letters-non_24.html @Bodhidharma
https://terebess.hu/zen/bodhidharma-eng.htmlFour Sacred Verses of Bodhidharma
(T2008.360a24-360c12 & 2008.364c9-364c24)
達磨四聖句 dámó sì shèng jù [Daruma no Shiseiku]
教外別傳 jiào wài bié zhuàn [Kyōge betsuden]
不立文字 bú lì wén zì [Furyū monji]
直指人心 zhí zhĭ rén xīn [Jikishi ninshin]
見性成佛 jiàn xìng chéng fó [Kenshō jōbutsu]
A special transmission outside the scriptures;
No dependence upon words and letters;
Direct pointing at the soul of man;
Seeing into one's nature and the attainment of Buddhahood.Translated by D. T. Suzuki
Essays in Zen BuddhismKindle版 D.T. Suzuki (著)
不立文字〔悟りは文字ではなく、心から心へ伝える〕
角川ソフィア文庫
禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年 二祖
┃
僧璨(そうさん)生年不詳(推定500年~505年頃) 禅宗の第三祖
┃
道信 580~651年 四祖
┃弘忍 602~675年 五祖
┃
慧能大観 638~713年 六祖
Bodhidharma's Definition of Zen
Four Sacred Verses of Bodhidharma (Daruma no Shiseiku 達磨四聖句)
教外別伝 Kyõge betsuden A special transmission outside the scriptures;
不立文字 Furyû monji No dependence upon words and letters;
直指人心 Jikishi ninshin Direct pointing at the soul of man;
見性成仏 Kenshõ jõbutsu Seeing into one's nature and the attainment of Buddhahood.
Bodhidharma (Essays in Zen Buddhism – First Series 176)
Essays in Zen BuddhismKindle版 D.T. Suzuki (著)
Essays in Zen Buddhism Kindle
『釈門正統』は書名通り、天台宗こそが釈門の正統であると主張した書物である。当時の最大勢力である禅宗に対する批判が、随処に見られる。
巻三「弟子志」では、
禅宗は菩提達磨が中国に伝えた当時、不立文字のような説がなく、ただ面壁して習禅するのみである。後に南泉普願が教外別伝・不立文字・見性成仏などの説を創った。また菩提達磨が慧可に四巻の『楞伽経』を渡し、教えに従い一家の宗旨を了知せよと明言したにもかかわらず、慧能以降の禅徒は払拳棒喝を貴ぶこととして重んじ、経論による理解を完全に捨てたのである。さらに禅宗の者にその所以を聞くと、禅宗は修無き証無くと答えるのみである。このような者には、当然天台六即の奧義を理解できない。禅の真意を体得できる者にしても、経論が述べた禅定の概念から離脱することがなく、天台が説いた定聖行の範囲に過ぎないのである。
と言うように、禅宗の教えが論理一貫しない点を示した。
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%8F%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%86
釈門正統
宗鑑撰。八巻。続蔵第百三十冊。宋の1237年(嘉煕元)撰。
天台宗の記伝史である。釈門の正統が天台宗にあることを論述したもの。天台宗以外にも禅宗、華厳宗、法相宗、律宗、密教の相承についてもふれている。
南泉普願 - Wikipedia
南泉普願(なんせん ふがん、748年 - 835年)は、中国唐代の禅僧。俗姓は王氏、鄭州 新鄭(河南省新鄭市)の人である。 目次. [非表示]. 1 経歴; 2 公案. 2.1 南泉斬猫. 3 伝記資料; 4 脚注; 5 参考文献. 経歴[ソースを編集]. 757年(至徳2年)、10歳で新鄭に ある大隗山の大慧禅師に入門し、仏道修行に励んだ。777年(大暦12年)、30歳で中岳 嵩山に行き、具足戒を受け、会善寺の暠律師について四分律を学んだ。その後も学問を 続け、経は『楞伽経』や『華厳経』を学び、論は三論を学んだ。 後に、馬祖道一に入門し、 教学を ...
伝記資料
脚注
参考文献
- 芳賀洞然 『五燈会元鈔講話:中国禅界の巨匠たち』 淡交社、1996年。ISBN 4473014762。
南泉普願禅師の話 - Biglobe
南泉普願禅師の話 南泉普願(なんせん・ふがん。七四八~八三四)禅師は、馬祖道一( ばそ・どういつ)禅師の法嗣であり、長沙景岑(ちょうさ・けいしん)禅師や趙州従しん( じょうしゅう・じゅうしん)禅師などの師である。猫を斬ったとして有名な和尚である。 南泉 禅師は河南省・新鄭(しんてい)の人で、俗姓は王氏、七五七年に大隗山(だいかいざん )の大慧禅師により受業(じゅごう。出家)し、三十歳のとき嵩岳(すうがく)で受戒した。 それから戒律を究め、楞伽経(りょうがきょう)と華厳経を習い、さらに中論・百論・十二門 論を ...
南泉斬猫
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.7.htm
ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の猫について言い争っていた。
南泉は猫を提示して言った。
「僧たちよ、禅の一語を言い得るならば、この猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨
てよう」
誰一人答える者はなかった。南泉はついに猫を斬った。
夕方、趙州が外出先から帰ってきた。南泉は彼に猫を斬った一件を話した。趙州
は履( くつ )を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。南泉は言った。
「もしお前があの時おったならば、猫は救えていたのに...」
初祖・達磨
(あの、赤い置物のダルマさんのモデルです/釈尊と同じインド人といわれ、海路より中国に入っています...)
二祖・慧可(“無門関・第41則/達磨安心”)
三祖・僧燦 (そうさん/燦は火のヘンではなく王のヘンですが、登用漢字からは入力不可...)
四祖・道信
五祖・弘忍(ぐにん、こうにん/慧能を法嗣としたことで有名です...)
六祖・慧能(えのう...“無門関・第23則/第29即)
(六祖以降は、このような呼び方はしないようです)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E7%A5%96%E7%B5%B1%E7%B4%80
『仏祖統紀』(ぶっそとうき 繁体字: 佛祖統紀; 簡体字: 佛祖统纪)は、中国・南宋の僧志磐が、咸淳5年(1269年)に撰した仏教史書である。全54巻。天台宗を仏教の正統に据える立場から編纂されている。
目次
概要
method of Zen which was to see straightway into the truth of Enlightenment and attain Buddhahood without going through so many stages of preparation prescribed by the scholars. Our knowledge of the life of Bodhidharma comes from two sources. One, which is the earliest record we have of him is by Tao-hsüan道宣in his Biographies of the High Priests 高僧伝 which was compiled early in the T‘ang dynasty, A.D. 645. The author was the founder of a Vinaya sect in China and a learned scholar, who, however, was living before the movement of the new school to be known as Zen came into maturity under Hui-nêng, the sixth patriarch, who was nine years old when Tao-hsüan wrote his Biographies. The other source is the Records of the Transmission of the Lamp景徳傳燈録, A.D. 1004, compiled by Tao-yüan道原early in the Sung dynasty. This was written by a Zen monk after Zen had received full recognition as a special branch of Buddhism, and contains sayings and doings of its masters. The author often refers to some earlier Zen histories as his authorities, which are, however, lost now, being known by the titles only. It is quite natural that these two accounts of the life of Bodhi-Dharma should vary at several points. The first was written when Zen was not yet fully established as a school, and the second by one of the Zen masters. In the first, Dharma, the founder of Zen, is treated as one of the many other Buddhist priests eminent in various fields as translators, commentators, scholars, Vinaya-followers, masters of meditation, possessors of miraculous virtues, etc., and Dharma could not naturally occupy in such a history any very prominent position distinguishing himself from the other ‘high priests’. He is described merely as one of those ‘masters of meditation’ whose conception of dhyana did not differ from the old traditional one as was practised by the Hinayana followers.
禅の方法は、啓蒙主義の真実を真っ直ぐ見て、仏教徒が定めた準備の段階を何度も経ることなく仏陀を達成することでした。 Bodhidharmaの私達の知識は2つの源から来ます。私たちが彼から最も古い記録であるものは、唐時代、AD645の初期に編纂された大僧祭の経歴で、Tao-hsuan道宣告によるものです。著者はVinaya宗派の創始者中国と禅学者として知られていた新学派が生まれる前に暮らしていた学習学者は、タオヒサンがバイオグラフィーを書いた9歳の慧能(ヒュンネン)のもとで成熟した。もう一つの資料は、宋初期のタオユアン道原で集められた「景徳傳簿」の送付記録である。これは、禅が仏教の特別支部として完全に認められ、師匠の言葉や行為を含んだ後、禅僧によって書かれたものです。著者はしばしば、彼の当局として以前の禅の歴史を参照していますが、今は失われており、タイトルだけで知られています。 Bodhi-Dharmaのこれらの2つの記述がいくつかの点で変わるはずです。最初は禅が学校としてまだ完全に確立されていないときに書かれ、禅のマスターの1人が2番目に書かれた。最初に、禅の創始者であるダルマは、翻訳者、解説者、学者、ヴィナヤ追随者、瞑想の巨匠、奇跡の所有者など様々な分野で著名な多くの仏教司祭の一人として扱われており、ダルマそのような歴史のなかで、他の「大祭司」とは区別される非常に顕著な位置を自然に占有することはできませんでした。彼はヒヤヤナの信者が実践していたように、ディアナの概念が旧来の伝統的な概念と異なることのない、「瞑想の主人」の1人としてしか記述されていない。
続高僧伝 - Wikipedia
続高僧伝』(ぞく こうそうでん)とは、梁の慧皎の「高僧伝」に続けて撰せられた中国の 高僧の伝記集である。唐の道宣撰、30巻、645年(貞観19年)の成立である。 目次. [非 表示]. 1 概要; 2 十科分類; 3 テキスト. 3.1 日本語訳. 4 参考文献. 概要[編集]. 梁の初め から唐の初めに至る約160年の間の僧伝を集めている。別名、「唐高僧伝(唐伝)」とも いう。成立の過程において、たびたび増補改訂が繰り返されており、自序では貞観19年 に至る144年の僧侶500名(正伝340名、附伝160名)を収録したと述べているが、現行 本に ...
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%BE%B3%E5%82%B3%E7%87%88%E9%8C%B2
景徳傳燈録(けいとくでんとうろく、新字表記:景徳伝灯録、全30巻)は、中国・北宋代に道原によって編纂された禅宗を代表する燈史である。
過去七仏から天台徳韶門下に至る禅僧その他僧侶の伝記を収録している。多くの禅僧の伝記を収録しているため、俗に「1,700人の公案」と呼ばれているが、実際に伝のあるものは965人である。 1004年(景徳元年)に道原が朝廷に上呈し、楊億等の校正を経て1011年に続蔵に入蔵を許されて天下に流布するようになったため、年号をとって、景徳傳燈録と呼ばれるようになった。これ以降、中国禅宗では燈史の刊行が相次ぎ、それはやがて公案へと発展した。 現在もなお、景徳傳燈録は禅宗を研究する上で代表的な資料であり、必ず学ぶべきものとされるが、内容は必ずしも史実とは限らない部分もある。
なお、撰者に関しては、元々は拱辰が編集したが、朝廷に提出する旅の途中で道原に横取りされて提出されてしまったとの説があるが、中国の仏教学者陳垣によって否定されている。
目次
内容
全30巻の内容は次の通りである。
- 釈迦を含む過去七仏から西天14祖の龍樹まで
- 西天15祖の迦那提婆から西天27祖の般若多羅まで
- 菩提達磨から東土五祖の弘忍まで
- 四祖道信傍流の牛頭宗及び、北宗神秀など南宗以外の僧
- 六祖慧能門下。荷沢神会、南嶽懐譲、青原行思、慧忠国師など
- 南嶽門下。馬祖道一など。及び、馬祖門下。百丈懐海など
- 馬祖門下の続き。西堂智蔵、塩官斉安、帰宗智常など
- 馬祖門下の続き。南泉普願など
- 百丈門下。潙山霊祐、黄檗希運、福州大安など
- 南泉門下。趙州従諗など。及び、白居易など
- 潙山門下。仰山慧寂、香厳智閑、王敬初など
- 黄檗門下。臨済義玄、裴休など。及び、仰山門下
- 南嶽系統。風穴延沼、首山省念など
- 青原門下。石頭希遷。及び、石頭門下。天皇道悟、丹霞天然、雲巌曇晟、投子大同など
- 青原三世。徳山宣鑑、石霜慶諸、洞山良价、夾山善会など
- 徳山門下。巌頭全豁、雪峰義存など。及び、石霜門下。九峰道虔など
- 洞山門下。雲居道膺、曹山本寂など
- 雪峰門下。玄沙師備、長慶慧稜、鏡清道怤など
- 雪峰門下の続き。保福従展、雲門文偃など
- 雲居門下。及び、曹山門下。育王弘通など
- 玄沙門下。羅漢桂琛など
- 雪峰三世。
- 雲門門下。
- 羅漢門下。法眼文益など
- 法眼門下。天台徳韶など
- 法眼門下の続き
- 禅宗以外の参禅者。宝誌、傅大士、南嶽慧思、智顗、僧伽、萬迴、豊干寒山拾得、布袋。及び、短い問答
- 長い問答
- 偈頌
- 銘・歌・書
テキスト
- 『東禅寺版 景徳傳燈録』(禅文化研究所) 古版
- 『四部叢刊』第104巻、第105巻
- 『高麗本 景徳傳燈録』(中文出版社)
- 『大正新脩大蔵経』第51巻「史伝部」3 元版
- 『中華大蔵経』景徳傳燈録 金版
- 『景徳傳燈録』(新文豊出版公司) 民国常甯寺本
上記のように、テキストには諸版あり、その校訂だけでも1つの研究分野を為し得、これまでに数多くの研究成果が公表されている。
関連項目
参考文献
外部リンク
Bodhidharma's Definition of Zen
Four Sacred Verses of Bodhidharma (Daruma no Shiseiku 達磨四聖句)
教外別傳 Kyõge betsuden A special transmission outside the scriptures;
不立文字 Furyû monji No dependence upon words and letters;
直指人心 Jikishi ninshin Direct pointing at the soul of man;
見性成佛 Kenshõ jõbutsu Seeing into one's nature and the attainment of Buddhahood.
Bodhidharma (Essays in Zen Buddhism – First Series 176)
Zen masters say "Don't seek the truth - just drop your opinions
Four Sacred Verses of Bodhidharma (Daruma no Shiseiku 達磨四聖句). 教外別傳 Kyõge betsuden A special transmission outside the scriptures;. 不立文字 Furyû monji No dependence upon words and letters;. 直指人心 Jikishi ninshin Direct pointing at the soul of man;. 見性成佛 Kenshõ jõbutsu Seeing into one's nature and the attainment of Buddhahood. Bodhidharma (Essays in Zen Buddhism – First Series 176). Accomplishing Beforehand. "When the task is done beforehand , then it is ...
Zen - New World Encyclopedia
An important (and related) concept for all Zen sects in East Asia is the notion of Dharma transmission, the claim of a line of authority that goes back to the Buddha via the teachings of each successive master to each successive student. This concept relates to Bodhidharma's original depiction of Zen: A special transmission outside the scriptures; (教外別傳): No dependence upon words and letters; (不立文字): Direct pointing to the human mind; (直指人心): Seeing into one's own nature ...
不立文字〔悟りは文字ではなく、心から心へ伝える〕
角川ソフィア文庫
Zengo: Furyū monji.
Translation: Not dependent upon words and letters. Source: Bodhidharma.
Zen has certain characteristics and teachings that are well expressed in eight phrases (called the Hakku-gi, or, “Eight Principles”).
1. The True Dharma Eye Treasury.
2. The Marvellous Mind of Nirvāṇa.
3. The True Form of the Formless.
4. The subtle Dharma Gate.
5. Not dependent upon words and letters (furyū monji). 6. A special transmission outside of the scriptures.
7. Direct pointing to the heart of man.
8. Seeing one’s Nature and becoming a Buddha.
Furyū monji, along with the following three expressions in particular, best characterize the purport of the Zen sect. It is said that these four, four-character phrases were recited by the First Patriarch, Great Master Bodhidharma, but their origin was probably ascribed to the Great Master in the Tang and Song dynasties.
In the Zen school, the phrase “not dependent upon words and letters” is not read [in the Japanese style as] monji o tatasezu, but is read from the top [beginning] of the phrase as fu-ryū-mon-ji. Needless to say, “not dependent upon words and letters” is not to set-up words and letters. This means that the Buddhist teachings and the mind-and-heart (kokoro) of the Buddha do not rely upon letters and words alone, but rather a mind-to- mind transmission (ishin denshin). That was apparent in the transfer of the Great Dharma from Bodhidharma to the Second Patriarch Huike (487-593, who is said to have severed his own arm in his quest for the Dharma), and was most emphasized in the Sixth Patriarch Huineng’s Southern Zen school. What’s more, tracing it back, the beginning of the transmission from mind to mind was in the “holding up a flower” (nenge) and “smiling” (mishō) that transpired between Śākyamuni Buddha and the Venerable Kāśyapa. “Not dependent upon words and letters” and “a special transmission outside of the scriptures” also originated therein.
There is a limit to what can be sufficiently or satisfactorily expressed by the written or spoken word, and it is impossible to sufficiently and satisfactorily express
oneself with written and spoken words alone. Even were one to try to completely express the essence or perfection of some thing, it would be extremely difficult to be exhaustive in that regard. Written and spoken words are merely instruments (tedate), and not the sole good. The Buddha Mind or Buddha-nature cannot be grasped by, nor explained with, letters and words. That is the “method” (tedate) of wordy explanations cut off, and the absolute realm where they don’t go. It is also called “the way of words cut off” (gengo dōdan: beyond description), “the path of words severed” (gonryo rozetsu), “words destroyed, thought extinguished” (bōgon zetsuryo), or “beyond the reach of
words” (gonsen fugyū). It is not possible to attain the Buddha Mind except through the mind. This is non-dependence on words and letters and the transmission from mind to mind. It is a face to face confrontation between mind and Mind, human-nature and Human-nature, that transcends words and letters. What is necessary is living, personal experience, beyond the reach of words. Words must have the support of personal experience. Words like that flash with power, life and truth.
It is said that the Buddhist layman Vimalakīrti’s Silence (ichimoku) was like thunder (Zengo 5). Not muteness, it was the great sound of Silence which roars like thunder. That very Silence was the eloquence of wordlessness (mugon) and a proclamation of Truth itself. It was to “silently know each other’s minds” (mokushiki shintsū), and a mind-to-mind transmission.
In the Essentials of the Transmission of Mind, the eminent Tang dynasty Zen Master Huangbo Xiyun admonished that the “spiritually enlightening nature (reikakushō) cannot be captured with words. Students of the Way, once and for all just silently unite (mokkei) with it without mind (mushin ni shite).” Wang Yangming too said that “the Four Books and Five Classics do not go beyond an explanation of this substance of the
mind” (Instructions for Practical Living), and the Song dynasty Confucian scholar Lu Xiangshan (1139-1191) said, “the Six Classics are my footnotes” (The Complete Works of [Lu] Xiangshan), i.e. that the literature was no more than a mere explanatory footnote of the Original Mind, or Original Nature.
Just as Wang Yangming’s academic style was called both Yangming’s Mind-and- Heart School, and Yangming Chan (Zen), it involved the study and practice of dhyāna- meditation, and was Zen-like in its idealism. His thought came to Japan to form the Yō- mei Studies (Yōmeigaku) movement that produced a succession of great men and scholars. Lu Xiangshan’s teachings are also very Zen-like, and since Wang Yangming was his successor, their school is also called Lu and Wang’s Mind-and-Heart School.
Words can play a role in guiding one to Mind, but they do not reveal the Mind, nor do they reveal Truth. What is required is a renewed cognizance of the fact that there is a world not dependent upon words and letters, where words and letters have been cut off.
The essentials of Zen Buddhism, selected from the writings of Daisetz T. Suzuki
Zen Buddhism, selected writings : Suzuki, Daisetz Teitaro, 1870 ...
The sense of Zen -- Zen in relation to Buddhism generally -- The history of Zen -- Satori, or, Enlightenment -- Practical methods of Zen instruction -- The reason of unreason : the koan exercise -- The Zen doctrine of no-mind -- The role of nature in Zen Buddhism -- Existentialism, pragmatism and Zen -- Painting, swordsmanship, tea ceremony. Boxid IA105801. Camera Canon 5D. Donor recycledrecords. Identifier zenbuddhismselec00suzu. Identifier-ark ark:/13960/ t2k651q0d.
Zen: The Reason Of Unreason by Timothy Hugh Barrett - Goodreads
Bodhidharma
https://terebess.hu/zen/bodhidharma-eng.htmlFour Sacred Verses of Bodhidharma
(T2008.360a24-360c12 & 2008.364c9-364c24)
達磨四聖句 dámó sì shèng jù [Daruma no Shiseiku]
教外別傳 jiào wài bié zhuàn [Kyōge betsuden]
不立文字 bú lì wén zì [Furyū monji]
直指人心 zhí zhĭ rén xīn [Jikishi ninshin]
見性成佛 jiàn xìng chéng fó [Kenshō jōbutsu]
A special transmission outside the scriptures;
No dependence upon words and letters;
Direct pointing at the soul of man;
Seeing into one's nature and the attainment of Buddhahood.Translated by D. T. Suzuki
A special [separate] transmission outside the teachings,
do not depend on written words,
directly point to the human mind,
see one‘s nature and become Buddha.Translated by Piya Tan
Separate transmission outside the teachings (mind to mind transmission),
not posit the letters,
direct to the mind,
penetrate the self-nature and attain the Buddhahood.Translated by Sing Song Liu 劉興松
No postulation of any thesis in words---
Transmission outside the scriptures---
Point straight at the mind of man---
See your nature and be enlightened.Translated by Whalen Lai
慧能
六祖法寶壇經淺釋 上宣下化老和尚講述http://www.drbachinese.org/online_reading/sutra_explanation/SixthPat/sixthpat_10.htm
自性動用。共人言語。外於相離相。內於空離空。若全著相。即長邪見。若全執空。即長無明。執空之人有謗經。直言不用文字。既云不用文字。人亦不合語言。只此語言。便是文字之相。又云直道不立文字。即此不立兩字。亦是文字。見人所說。便即謗他言著文字。汝等須知。自迷猶可。又謗佛經。不要謗經。罪障無數。
「 此れは是れ三十六対の法なり。若し解く用うれば、即ち一切の経法を通貫す。
出入して即ち両辺を離るるには、自性の動用なり。
人と言語するに、外は相に於て相を離れ、内は空に於て空を離れよ。
若し全く相に着すれば、即ち邪見を長じ、若し全く空に執すれば、
即ち無明を長じ、又た却って経を謗(そし)って、文字を用いずと直言す。
既に文字を用いずと云わば、人も亦た合(まさ)に語言すべからず。
只だ此の語言は、便ち是れ文字の相なり。又た文字を立てずと直道するも、
即ち此の不立の両字も亦た是れ文字なり。
現代語訳:
このとき、六祖大師は、弟子の法海、志誠、法達、神会、智常、智通、
志徹、志道、法珍、法如らを呼び出して言った、
「君たち十人の者よ、以前から君たちは普通の人とは異なっていた。
私の死後、それぞれの地方の指導者になりなさい。
私はいま君たちが教えを説くとき宗旨のかなめを失わないようにしてあげよう。
まず『三科の法門』を取り上げ、『三十六対』を運用して、
その相対をなすものを出入させて、相対性を除いてゆかねばならぬ。
どんな教えを説くにも、自己の本性の座を離れてはならぬ。
もし誰かが君たちに教えを求めたなら、
言葉のすべてを相対的に構成し、すべて対の方法を用いよ。
出てくるものと去りゆくものとが互いに条件となって、
けっきょく一双の相対性がすっかり取り除かれ、(それを設定する)場所もまったくなくなる。
『三科の法門』というのは、陰と界と入である。
陰とは五陰であって、色、受、想、行、識のことである。
入とは十二入であって、外の六塵は、色、声、香、味、触、法であり、
内の六門は、眼、耳、鼻、舌、身、意のことである。
界とは十八界のことであって、六塵と六門と六識のことである。
自己の本性はちゃんと万物の事象をも道理をも包みこんでいることを含蔵識という。
もし分別を起こすと、たちまち転識というものが働き、
意識が展開されて六識が生れ、六門から出て、六塵を見るのである。
六識・六門・六塵の三乗から成る十八界は、自己の本性から働きを起こすのである。
自己の本性がゆがんでいると、ゆがんだ十八界を作ることになり、
自己の本性が正しいと、正しい十八界を作ることになる。
含蔵識が悪を含んで働けば、衆生の働きであり、善を含んで働けば、仏の働きである。
その働きは何から出るかといえば、自己の本性から出てくるのである。
対にする方法とは、外界の対象について心のない五対がある。
天は地と対し、日は月と対し、明は暗と対し、陰は陽と対し、水は火と対している。
これが五対である。次に万物のあり方をいうことばに十二対がある。
語は法と対し、有は無と対し、有色は無色と対し、有相は無相と対し、
有漏は無漏と対し、色は空と対し、動は静と対し、清は濁と対し、
凡は聖と対し、僧は俗と対し、老は少と対し、大は小と対している。
これが十二対である。
次に自己の本性が働きを起こす十九対がある。
長は短と対し、邪は正と対し、痴は慧と対し、愚は智と対し、乱は定と対し、
慈は毒と対し、戒は非と対し、直は曲と対し、実は虚と対し、
険は平と対し、煩悩は菩提と対し、常は無常と対し、悲は喜と対し、
喜は瞋と対し、捨は慳と対し、進は退と対し、生は滅と対し、
法身は色身と対し、化身は報身と対している。
これが十九対である。」
師は言った、
「以上が三十六対の方法である。もしこれらを運用できたならば、
すべての経典の教えの全部を通貫することができ、
これらの出し入れによって相対の立場を脱却するのは、自己の本性の働きである。
人と対話するとき、外的には形の上に立ちながら形に執われないし、
内的には空の立場にありながら空に執われない。
もしすっかり形に執われれば、ゆがんだ考えをつのらせることになり、
もしすっかり空に執われれば、無知をつのらせることになって、
さては経典をそしって、『文字は不用だ』というまでに至る。
文字は不用なら、人は言葉を使ってはならぬことになる。
[なぜならば]この言葉こそは、文字のすがたなのであるから。
また『文字を立てぬ』とまでいっておるが、
その〈不立〉ということばがやはり文字であるのだ。
(そういう偏見のやからは)人が説くのを見ると、すぐさまその大をそしって、
『彼は文字に執われている』といいたてる。
君たちはよく心得ておかねばならぬ、自分で本心を見失うのはまだしも、
仏の経典をまでそしるに至っていることを。
経典をそしってはならぬ。
そのための罪は数えきれぬものとなる。
外面的な形に執われながら、作られた立場で真理を探し求め、
あるいは広大な道場をしつらえて、有無ということの過失を説きたてる。
このような大は無限の時を重ねても、自己の本性を見ることはできない。
教えに従って修行することをすすめないで、ただ人の説法を聞くという修行なのだから。
また何ものをも思わないで、菩提の本性を妨げてはならない。
もし話を聞くだけで修行しないなら、かえって人によこしまな思いを起こさせる。
ただ教えに従って修行し、執着を離れた説法をせよ。
もし君たちが悟って、これ(三十六対法)によって説き、
これによって運用し、これによって修行し、これによって作為するなら、
宗旨の本すじを失わないであろう。
もし人が君の意見を尋ねるとして、有を問われたら無で答え、
無を問われたら有で答え、凡を聞かれたら聖で答え、聖を問われたら凡で答えよ。
対立した一双の概念が相互に条件となって、中正の道理の意味が出てくるのだ。
君は一つ問われたら、その一つだけに答えるのだ。
その他の問いにもすべてそのようにするならば、道理をはずすことにならないであろう。
もし人が『何を暗と呼ぶのか』と尋ねたら、こう答えよ、
『明が因であり、暗は縁である。明が沈むと暗である』と。
このように明でもって暗をあらわし、暗でもって明をあらわし、
もち出すものととり去るものとが相互に条件となって、
中正の道理の意味が完成するのである。
その他の質問にもすべてこのようにするのだ。」
のちに師は十人の僧に法を伝え、
同時に『壇経』をつぎつぎに教え授けていって、
宗旨を見失わぬようにと指示された、
「君たちはこれで私の法を得たからには、この『壇経』を代々世に広めてゆくのだ。
後世の人はこの『壇経』に出会うことができたなら、
目のあたりに私の教えを受けるのと同じことだ。
もし『壇経』を読めば、きっと自己の本性を悟ることができよう。」
解釈とコメント:
慧能は晩年に3科36対の法を説いたと言われる。
それにしても10.1章の慧能の説法は大変長く複雑な内容である。
3科36対の法は整理して表にすると表9のようになる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD
禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年
┃
僧璨(そうさん、生年不詳(推定500年~505年頃))禅宗の第三祖
┃
(2代略)
┃
慧能大観 638~713年 六祖
禅宗
6世紀のインド僧達磨が中国に渡来して始まり、唐代に中国独自発展した。宋代にさらに盛んになり、日本にも強い影響を与えた。大乗仏教ではあるが、不立文字など自力での悟りを求めるのが特色。
禅宗とは
禅とはサンスクリット語(梵語)の Jhana の音を漢字で表した禅那の省略形である。もとの意味は「静慮」であり、心を集中して正しく思惟するため坐禅を組むという仏教の修行法の一つである。坐禅は戒律とともに仏教修行の基本的要素の一つであり、どの宗派でも行われるものであったが、禅だけを重んじる宗派が現れ、それが禅宗と言われた。禅宗では、その教えは言葉や経典で伝えることはできないので、「教外別伝」とか「不立文字」といい、直感的な悟りの境地は、師が弟子に質問する(公案という)ことで弟子が自ら体得するものとされた。Episode “今日は曇っているから答えない”
(引用)禅とは何かと聞かれて、趙州は答えて言った、「今日は曇っているから答えない」。禅の大家鈴木大拙は、同書でこのようにも言っている。
同じ問いに雲門の答えは、「それだ」であった。また別の折には、師は全然肯定的ではなかった。かれは言った、「言うべき言葉は一つもない」。<鈴木大拙/工藤澄子訳『禅』1987 ちくま文庫 p.125>
(引用)くりかえしていう。禅を概念化してはならない。それはどこまでも体験的に把握すべきものである。しかしわれわれ人間は、誰も無言ではいられない。何らかの方法で自己を表現しなければならない。もし経験に表現を与えることをやめるならば、われわれは一つの体験すら持ち得ないことになる。一切の伝達の方法を奪われては、禅は禅で無くなるであろう。・・・禅の概念化は避けられない。<鈴木大拙『同上書』 p.167-168>かくして「不立文字」であるはずの禅の極意も、「文字」でしか表せないと言うことになるのか。鈴木大拙の『禅と日本文化』の第一章「禅の予備知識」をみてみよう。
(引用)禅は初唐即ち八世紀に中国に発達した仏教の一形態である。その真の始まりはさらに早く、六世紀の初め、南インドから中国に来た菩提達磨から起こったのである。その教義は大乗仏教の一般教義と変りはない。その教えるところも、もちろん一般の仏教のそれである。しかし、禅の目的は、インド・中央アジア、そして中国においても、その発展するにしたがって建設者の教えの周囲に堆積したいっさいの皮相な見解を除去して、仏陀自身の根本精神を教えんというにある。これらの「皮相な見解」は儀礼的、経典的であり、かつ民族心理の特殊性にもとづくものといってよい。禅は仏陀の精神を直接に見ようと欲するのである。<鈴木大拙/北側桃雄訳『禅と日本文化』1940 岩波新書 p.2>では仏陀の精神とは何か。それは般若(ブラジュニヤ=智慧)と大悲(カルーナ=愛)であると、鈴木大拙は説く。これからさきは彼の著作をお読み下さい。その著作は多いが、上記引用の二書が比較的手にしやすいように思われます。
中国で発展した禅宗
禅宗の始祖の達磨、いわゆる「だるまさん」は、正しくは菩提達磨 Bodhi-dharma といい、南インドの王族に生まれ、南朝の宋・梁のころ広州に渡来し、さらに北魏の都洛陽で教化にあたった。しかし洛陽では受けいれられず、少林寺に入り、面壁黙座(壁に向かって黙って座り続ける)を行い、528年に没した。その禅の実践を重んじる「不立文字」の精神は弟子の慧可(えか。東魏、北周で活躍)らに引き継がれ、その後も相伝され、8世紀の慧能によって禅宗教団としての組織化が出来上がり、唐の仏教隆盛の中で独自の地位を占めた。中国禅宗の有名な寺が河南省の少林寺で、唐王朝との特別なつながりが強い。その後、禅宗にはさまざまな宗派が分かれたが、達磨の十世の法統を継いだ臨済義玄が開いた臨済宗と、洞山良价とその弟子の曹山本寂との流れを汲む曹洞宗とが日本に伝えられた。中国の禅僧については、<鎌田茂雄『中国の禅』1980 講談社学術文庫>に詳しい。Episode 最初に「喝――!」と言い出した禅僧
臨済とは「川のほとり」の意味で始祖が河辺に小庵をむすんだのでそう言われる。その主著は『臨済録』で現在も臨済宗寺院では修行の拠り所となっている。臨済の師は黄檗であったが、師のもとに入堂するたびに三十回棒で殴られてた、あきらめてほかの師について修行したのち黄檗を訪ね、こんどは黄檗の横っ面を一発ひっぱたき、喝――!と怒鳴りつけた。それでようやく入堂を許されたという。今でもよく聞く「喝」を最初に言い出したのは臨済だった。<水上勉『禅とは何か―それは達磨から始まった―』1988 新潮選書 p.28-31>禅 四聖句
http://zen.halfmoon.jp/yonnseiku.html
四聖句
達磨大師が言われたとされる禅の根本思想。
「不立文字」(ふりゅうもんじ)
「教外別伝」(きょうげべつでん)
「直指人心」(じきしにんしん)
「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)
この4つの句は別々の独立した教えではなく、4句が繋がりあって禅のいうところの悟りの到達までの道標を示すものである。
○ 四聖句とは
不立文字
これは“文字にして伝えることができない”という意味といわれる。禅においての悟りは純粋に経験をして体感するもので、それは文字として悟りを表現することはできないということを意味している。「以心伝心、不立文字」という言葉が達磨大師の書かれた「血脈論」という書物に書かれている。悟りや究極の真理というものは、人から人、師匠から弟子に、心をもって心を伝える(以心伝心)ものであり、決して文字や言葉で伝達するものではない(不立文字)ということである。また気を付けなければならないのが、文字や言葉で伝えてはならないというものではなく、伝えることができないものであるということである。 よって禅宗では文字や言葉での解釈以外の行動として坐禅の修行を行い、その経験から悟りや心理を得ようとしているのであると思われる。
仏教の始祖である釈迦の教えを“教内の法”と呼び、これは仏教の経典を中心とした過去の知の集大成を表すものである。通常の仏教ではこの経典などをよりどころとし、解脱の道を模索していくのであると考える。しかし禅宗では以心伝心(こころをもってこころをつたえる)の考え方が一番大切なものであると考える。この以心伝心の真理や悟りを得ることを“教外別伝”と呼ぶ。
当然過去の経典や先達の教えを読んで・学ぶことは大切なことであると定義はするが、最終的な心理追及には自己の経験に基づく自身の価値基準が大切であるということを説くのがこの教外別伝といえるのではないかと考える。(実際禅宗での書籍、文献はかなり多くあり、禅語や禅問答など文字や言葉で伝えるものは多数存在はする。)
自転車に乗るためにいくら人に乗り方を聞いても、本を読んで勉強しても自転車にすぐ乗れるものではなく、実際に自転車に相対して乗って・転んでみてようやく乗りこなすことができるようになるのと同じことを示唆しているのであると思われる。
真理追及のためには、修行を通したところでの経験が必要であるとの認識である。
般若心経では不増不減(増えることもなければ減ることもない)という言葉があります。すべては空であるという教えですが、人は有増有減に固執してしまいがちであり、そのために心が曇ってしまうのではないかと言われます。この直指人心ということばは、“人の心をまさに指し示す”ことを表しており、「まわりの外の雑事に気を取られていては心理の追及には遠く及ばない。ただ自身の内なる心を見つめよ。」ということを示すことばではないかと思われます。禅語(偈)に“心とは鏡のようなものである”という言葉がありますが、良いものを映しても悪いものを映しても鏡はそれを素直に映し出すのみであり、鏡自体が良くも悪くもなることはない(不変)と言われます。心は不変で不増不減のものでありこの不変の部分に、人間の性である固執を離れて向き合うことが大切であるとの教えではないでしょうか。
見性成仏
見性成仏とは直訳すると、自身に備わる仏の部分に気が付けば、それはすなわち仏であるという意味になります。 日本の南北朝時代に足利将軍との問答集として記述された夢窓疎石の「夢中問答集」という書物があります。この中で“大智”について述べた部分で、“知恵は煩悩を働かせる。知恵を働かせることをやめ、大智に立ち返らせることが必要である。”と述べておられます。さらに「酒によっている状態からハッとさめて本心に立ち返るようになる」ことが悟りの道であると書かれています。酔って飾っていた自分が、本来の自分になることが悟りであるということがこの問答集から伺えます。
結局、修行を通して自身の心に向き合い(直指人心)、本来の自分になる(見性成仏)ことが大切であると説くのがこの句であると言えます。悟りに至る道筋は一人ひとり違うので、そのためには修行という経験が必要であり、その悟りとは自分の内部に存在するものであるというのが、この四聖句といえるのではないだろうか。
不立文字
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%AB%8B%E6%96%87%E5%AD%97
禅 四聖句 とは、
http://zen.halfmoon.jp/yonnseiku.html
達磨大師が言われたとされる禅の根本思想。
「不立文字」(ふりゅうもんじ)
「教外別伝」(きょうげべつでん)
「直指人心」(じきしにんしん)
「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)
この4つの句は別々の独立した教えではなく、4句が繋がりあって禅のいうところの
悟りの到達までの道標を示すものである。
教外別伝(きょうげべつでん) A special transmission outside the scriptures;
仏教の始祖である釈迦の教えを“教内の法”と呼び、これは仏教の経典を中心とした
過去の知の集大成を表すものである。通常の仏教ではこの経典などをよりどころとし、
解脱の道を模索していくのであると考える。しかし禅宗では以心伝心(こころをもって
こころをつたえる)の考え方が一番大切なものであると考える。この以心伝心の
真理や悟りを得ることを“教外別伝”と呼ぶ。
不立文字(ふりゅうもんじ) No dependence upon words and letters;
“文字にして伝えることができない”
禅においての悟りは純粋に経験をして体感するもので、それは文字として悟りを
表現することはできない
悟りや究極の真理というものは、人から人、師匠から弟子に、心をもって心を伝える
(以心伝心)ものであり、決して文字や言葉で伝達するものではないということ
直指人心(じきしにんしん) Direct pointing at the soul of man;
“人の心をまさに指し示す”
修行を通して自身の心に向き合うこと
見性成仏(けんしょうじょうぶつ) Seeing into one's nature and the attainment of Buddhahood.
本来の自分になること
禅の法系図:
釈迦牟尼仏 B.C.463(or593)~
┃
(27代略)
┃
菩提達磨 ?~528年 祖師
┃
慧可大祖 487~593年 二祖
┃
僧璨(そうさん)生年不詳(推定500年~505年頃) 禅宗の第三祖
┃
道信 580~651年 四祖
┃
弘忍 602~675年 五祖
┃
慧能大観 638~713年 六祖
┏━━┳┻━━━━━━━━━━━━┓
青原行思 永嘉玄覚 南獄懐譲
┃ ┃
石頭希遷 馬祖道一 709~788年
┏━┻━┓ ┏━━┻━━━━━┓
┃ (中略) ┃ 南泉普願 748~834年
(以下略)┃ 百丈懐運 ┃
┃ ┣━━━━┓ 趙州従諗
龍潭 黄檗希運 潙山霊祐771~853年
┃ ┃ ┣━━━━━┓
徳山宣鑑780~865年 臨済義玄 香厳智閑 仰山
┃ ?~867年 ?~898年
雪峯 ┃
┣━━━━━━━┓ (12、3代略)
玄沙835~908年 雲門 ┃
廓庵禅師 12c?
(曹洞宗)(法眼宗) (雲門宗)(臨済宗) (潙仰宗)
(影山純夫『禅画を読む』126頁他参照)
NAMs出版プロジェクト: 『血脈論』以心伝心、不立文字
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_67.htmlhttp://iriz.hanazono.ac.jp/data/zenseki_083.html
一巻 続蔵2-15、『少室六門』 二、『禅門撮要』 上 |
菩提達磨に帰せられる作品。唐中期の出現。見性を強調し、達磨の血脈がそこにあるとする。『悟性論』や『観心論』とともに、平安末期に日本に伝わり、達磨宗のよるところとなったようで、かつて金沢文庫にその本が存したという。抜隊の『塩山和泥合水集』にも引用があり、日本では広く読まれたらしい。続蔵に収める本は、紹興癸酉(1153)に見独老人任哲が付した序があり、おそらくは鎌倉時代に伝来したテキストであろう。 (禅籍解題 83)http://iriz.hanazono.ac.jp/frame/data_f00d3_t2009k.html
373b1,0,第六門血脈論。
373b2,0,三界興起同歸一心。前佛後佛以心傳心。
373b3,1,不立文字。
373b4,0,問曰。若不立文字。以何爲心。答曰。汝問吾。…
ダルマの目はどちらから?
http://www.shiroyama.or.jp/kotozuke/darumanome.html
神社寺院では正月になるとよく「ダルマ」が見られます。ダルマは禅宗の祖といわれる「達磨大師」を模したものです。達磨大師は南インドで国王の第三王子として生まれた5世紀後半から6世紀前半の人で、中国で仏教を布教した僧侶だといわれます。
鎌倉時代に日本に伝わった禅宗では達磨大師を重要視し、大師を描いた掛け軸や札を仏像のように用いますが、この達磨大師には壁に向かって座禅を九年行って手足が腐ってしまったという伝説があり、手足のない形で置物が作られるようになったようです。
と、すれば仏教に深く関係があるわけですから、神社でダルマを見かけるのもおかしなものですが、日本人はそんな原理主義的な考え方をしませんから、現在では禅宗でも真言宗でも神社でも、参拝者に人気があれば扱っています。
…
どうも一般的には「最初は左、満願で右」、選挙では「最初は右、当選で左」が多いようです。
間違いやすいのは、「右目」・「左目」というのがダルマにとってのことなので、「最初は向かって右、満願で向かって左」が憶えやすいと思います。
これは、「向かって右が上手」とか、「右に出る者はいない」という言葉があるとか、席は向かって右が上位とされることに起因しているという説もありますが、どうもはっきりした決まりはないようです。
目入れは「無い目玉を描き入れる」のではなく、「心の目の開眼・入魂を表現した」ことだとされます。目を入れることを「点睛」というのも同じ意味です。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%81%AF%E4%BC%9A%E5%85%83
五灯会元(ごとうえげん)は、中国南宋代に成立した禅宗の灯史である。
「五灯録」と総称される、
という5種の、皇帝の勅許によって入蔵を認められた灯史を総合する意味で編纂されたものであり、書名は、その事を端的に表現している。その後も灯史の編纂は清朝まで歴代続けられるが、本書が画期となって、従来の灯史の系譜とは異なった意味合いを有した書が、禅の系統から現われて来る。それは、『仏祖歴代通載』や『釈氏稽古略』という、禅宗の系譜のみでなく、仏教全体の歴史を著した著作の編纂である。そこには、天台宗の立場から編纂された仏教史書である『仏祖統紀』への対抗意識も潜在的に有していたことが考えられるが、その反面、他宗派の衰勢により、禅宗が仏教界を支えなければならない時代状況が作用したものと考えられる。
なお、清代には、本書の続編としての『五灯会元続略』(遠門浄柱撰, 1651年)、『五灯全書』(霽崙超永撰, 1693年)が編纂されている。
外部リンク
________
https://translate.google.co.jp/translate?hl=ja?sl=auto&tl=ja&u=http%3A//book.bfnn.org/books/0848.htm
達磨大師血脈論
達摩祖師著
達摩大師血脈論序
右朝奉郎通判建昌軍事賜緋魚袋任哲作
原人之心,皆具佛性。泛觀諸家禪說一切經文,原其至當之理,未有不言自己性中本來真佛。達磨西來,直指人心,見性成佛;蓋謂自己真佛,不出一性之中。人人不自委信,所以向外馳求。將謂自性真佛外更有別佛,故諸佛諸祖師說法要人省悟自己本來真佛,不假外求。又緣種種法語泛濫不一,轉使學人惑亂本性,無悟入處。惟有達磨血脈論,並黃檗傳心法要二說,最為至論。可以即證自己佛性,使人易曉。比之求師訪道,鑽尋故紙,坐禪行腳,狂費工夫,相去萬倍,此非小補。紹興癸酉見獨老人任哲序。
達摩血脈論
渝州華嚴寺沙門釋宗鏡 校刻
三界混起,同歸一心,前佛後佛,以心傳心,不立文字。問曰:若不立文字,以何為心?答曰:汝問吾即是汝心,吾答汝即是吾心。吾若無心因何解答汝?汝若無心因何解問吾?問吾即是汝心,從無始曠大劫以來,乃至施為運動一切時中,一切處所,皆是汝本心,皆是汝本佛。即心是佛,亦復如是。
欽
返信削除岩波書店, 1971 - 542 ページ
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鈴木大拙隨聞記 - 261 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
志村武 - 1967 - スニペット表示 - 他の版
志村武. 三、東洋思想研究のメッカ大拙先生は、漢文の独自な妙趣をじゅうぶんに心得えていただけに、そして,禅の思想を表現するのには漢文が最適の言語であることを実感していただけに、日本人の漢文読解力の低下傾向を深く憂い、ここに心を残しつつ黄泉へ去っていったのである。たしかに、掸を文字として表現するのには漢文が最もふさわしい。「教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏」禅宗の本質を端的に表明するこの四句も、英訳すれば次のようになってしまう。"レ 81 - 001&111 . 9.119 ョ 199101106 ^ 0 ^ 0 ...
新編東洋的な見方 - 99 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
鈴木大拙, 上田閑照 - 2002 - スニペット表示
日本人はこれらの人々の事蹟と言語を忘れてはならぬのだ。原文はいくらか読みやすくしておいた。)二九六三年二月『心』)〈一〉「人の心そのものを直指し、その心性を洞見せしめて仏と成らしめる」という語義。その際、見即ち性、性即ち見というように強調される。「不立文字、教外別伝」と組み合わされて禅の宗義をあらわす代表的な言葉として伝えられて来た。(二)「妙好と云うのは、もと蓮華の美わしさを歎称しての言葉であるが、それを人間に移して、その信仰の美わしさに喩えたものである」(『鈴木大拙全集』第一〇巻一三 ...
禅と京都哲学 - 第 31 巻 - 101 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
上田閑照, 北野裕通, 森哲郎 - 2006 - スニペット表示
大拙は不立文字教外別伝の禅に対して「文字も亦道」と唱え出で、禅史上で始めて「禅思想」というものを打ち建て、言語道断の界を普遍的理知の界へ向けて開示した。しかしこの場合の「文字」、この ... を、以下に少し詳しく見てみる。一一「文字も亦道」の宣揚「 文字も亦道」という言葉は、現在では、『鈴木大拙全集』(岩波書店刊)第十八巻所収の「 禅の第一義」第一篇第一の「緒言」に出ている言葉である。「文字も亦道」という言葉、 少なくともこの言葉に よつて表わされる言詮の道についての . 01 第一部禅と京都哲学鈴木大拙.
續鈴木大拙選集 - 第 7 巻 - 108 ページ
https://books.google.co.jp/books?id...
鈴木大拙貞太郎 - スニペット表示 - 他の版
鈴木大拙貞太郎 思ふ形跡がある。不立文字、教外別傳などいふことが唱へられて、 頓悟の說が盛んに行はれて來禪が唐代に勃興した頃は、看經叉は穀鋅などいふものが禪寺では大分輕視せられたでないかと百醜千拙つお經禮佛〕これは一寸の思ひっき故、 もう少し硏究してみねばなるまい。中^底を行くもの。にもある。が、^理の外に禪^とでもいふべき^ :ぬもあり得る如くである。卽ち穉境と禪理との卽佛』、『心外無 1 一別佛 I 佛外無二別心-』、『森雜离象一法之所"印』等は、禪理といふ方がよいやう.が、さてまた少し考へ ...
Off the Job Training: わもんな言葉4-不立文字
https://sanotomo3.blogspot.com › 2012/06
2012/06/08 · 鈴木大拙さんがどこかで「『不立文字』といいながら、禅には多くの言葉がある」といった意味のことをおっしゃって(書いて)いましたが、伝達の手段として言葉は ... ついでながら、禅には四聖句というものが ...
南泉斬猫
返信削除http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.7.htm
ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の猫について言い争っていた。
南泉は猫を提示して言った。
「僧たちよ、禅の一語を言い得るならば、この猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨
てよう」
誰一人答える者はなかった。南泉はついに猫を斬った。
夕方、趙州が外出先から帰ってきた。南泉は彼に猫を斬った一件を話した。趙州
は履( くつ )を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。南泉は言った。
「もしお前があの時おったならば、猫は救えていたのに...」
さあ、“南泉斬猫”です。これも風変わりな公案で、昔から非常に有名なものです。
ここには、南泉と趙州という名前が出てきます。趙州とはもちろん、“無門関第1則
・趙州狗子”に登場する趙州禅師のことです。つまりこの公案は、趙州が南泉禅師
のもとで修行をしていた頃の話です。時代はまさに唐の末期、中国における禅宗の
大隆盛期の出来事です。
ちなみに、小猫を斬った南泉禅師の師は、馬祖道一です。また、その師は南岳
懐譲、そしてその師は六祖・慧能となります。この慧能はなぜ六祖なのかといえば、
中国における禅宗の初祖・菩提達磨(ボダイダルマ)から数えて、六代目の法嗣(ほっす
/法を継ぐ者)ということです。
初祖・達磨
(あの、赤い置物のダルマさんのモデルです/釈尊と同じインド人といわれ、海路より中国に入っています...)
二祖・慧可(“無門関・第41則/達磨安心”)
三祖・僧燦 (そうさん/燦は火のヘンではなく王のヘンですが、登用漢字からは入力不可...)
四祖・道信
五祖・弘忍(ぐにん、こうにん/慧能を法嗣としたことで有名です...)
六祖・慧能(えのう...“無門関・第23則/第29即)
(六祖以降は、このような呼び方はしないようです)
この“南泉斬猫の公案”は、動物愛護の人々や西洋人からは、小猫を殺すという
ことで問題にされたりもしているようです。しかし、動物愛護はまた別の次元の話で
す。“シュレーディンガーの猫(量子力学)”も、こんな目にあっているわけですから。
さて、この公案自体は、非常に難解なものであり、単に哲学的に理解するのは不
可能と言われます。むろん、南泉が小猫を斬ったことを非難したり、そこに趙州がい
なかったことを残念がっていたのでは、話しになりません。
禅の書では繰り返し述べていることですが、“公案”は倫理や一般的な常識論とは
別次元の領域で展開しています。つまり、実際に禅修業を積んだ者が、禅眼を開い
てこそ、うなづき得るものだということです。この公案によれば...
“ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の猫について言い争っていた”
...と言います。一体何について言い争っていたのかは、この公案からは何も分
かりません。つまり、ここでは、その争いの内容は問題ではないということです。
しかし...ここは少し脱線し、当時の僧たちは一体どんな議論に熱中していたの
かを考察してみます。“無門関・第二十九則/非風非幡”で、二人の僧がこれと似た
ような議論をしています。
場所は...広州の法性寺(ほっしょうじ)。五祖・弘忍から衣鉢を受けて六祖となった
慧能は、“無門関・第二十三則/不思善悪”の後、15年間ほど、中国の禅宗史の
表舞台から遠ざかっています。まだ僧侶の身分にもなっていない行者(あんじゃ/在俗
の修行者)が法嗣/六祖となったことで、禅宗界が大揺れになった大事件以後です。
その15年間...慧能は身分を隠して山中で修行を重ね、禅の境涯を深めてい
たと推測されます。そして、まさに六祖として名乗り出たのが、この“無門関・第二
十九則”となった広州の法性寺での出来事だったのです。
儀鳳(ぎほう)元年(西暦676年)のことであり、慧能は行者の身分のまま、法性寺印
宗のもとで、涅槃経(ねはんきょう)の講義を聞いていたといいます。
さて、この“無門関・第二十九則”で、僧たちが何を議論していたかということで
すが、寺の境内の幡(ばん/はた・・・高い竿の上から垂れ流す布)についてでした。
涅槃経の講義を聴いているうちに外も暗くなり、少し風が出てきました。その風で、
寺の幡がハタハタと音をたて始めます...
「幡が動いたぞ...」後ろの方で講義を聞いていた僧のひとりが、ポツリと言います。
「いや...それは違う...風が動いたのだ...」隣の僧が、ささやき返します。
すると、この話に回りの僧たちも加わり、ガヤガヤとしだいに騒ぎが大きくなって
行きます。講義をしている印宗も、どうも後ろの方が騒がしいと気付いています。
そこで...そのそばでこの議論を聞いていた慧能が...ついに言いました。
「幡が動いた、風が動いたと、馬鹿なことを言う...それは、幡が動いたのでも、風
が動いたのでもない...君たちの心が動いたのだ...」
うーむ...この“無門関・第二十九則/非風非幡”の解説は、その折にじっくりと
考察することにします。今ここでは、その当時の僧たちは、こんなことを議論してい
たということだけを記しておきます。当時も今も、若い僧たちが議論している内容は、
それほど違いはないようです。
したがって...一匹の小猫のことで東堂と西堂の僧たちが言い争いをしていたと
いうのも、おそらくこんな類の話だったと推測できます。しかし南泉のもとには、常時
数百人の修行僧がいたと言われます。こうした巨大な禅道場という背景を考えれば、
やはり生半可な場景ではなかったと思います。