雑誌
宮沢賢治学会イーハトーブセンター編集委員会 編. 宮沢賢治学会イーハトーブセンター <Z13-4331>
一225一
また、彼が紙片や書き込みの字をラムステットの筆跡だと鑑
定してくれたのも、さらなる好運といえる。その意味で第一
の証言者はハレン氏である。
四、もう一人の証言者
私が帰国してから1ヶ月後の十一月、日本フィンランド協
会専務理事·早川治子氏が『日本フィンランド協会ニュース』
のバックナンバーを送って下さった。それで初めて知ったの
だが、その『ニュース』の№ 24·25·26·28·29 (一九八九
年八月から~一九九一年一月)には、市河かよ子氏の随筆「ラム
ステッド博士のこと-フィンランドの思い出-」(随筆集
『白樺を焚く』岡倉書房,昭和十六年六月より)が五回に
わたり連載されていたのである。
著者の市河氏は、元駐フィンランド公使·市河彦太郎の夫
人で今年九一才。一九三二年から三年間、夫君と共にヘルシ
ンキに滞在中、以前から親交のあるラムステットとさらに深
い交わりを続けられた方である。
その連載の第三回に、賢治の童話集淫文の多い料理店』
がラムステットの愛読書であったことを書いておられたのに
は驚かされた。少し長い引用になるが、ぜひ紹介しておきた
い。十月なかばの話で、博士が入院していると聞いた市河夫
妻がお見舞いに行かれたときのことである。
病室が清潔で、設備のゆきとどいているのに驚いた。浴
室もついているし、電燈も、卓上スタンド、天井の電燈、
夜間用の暗い紫色の電燈もあって、ベッドについているス
イッチで,病人が自由に、消したりつけたりできるように
なっていた。
博士は、そのスイッチをにぎって、あちこちの電燈を得
意気につけたり消したりしながら、
ー-あんまり便利なので、つい勉強してしまいます」と,
弱々しい声で言われた。
御病気中に、何を勉強していらっしゃるのですかと私た
ちが質問すると、
--え、日本語の勉強を少しばかり……」
と答えながら、枕の下から、小さな日本語の文法書をと
り出した。そのはずみに、何か、もう一冊の本が、枕の下
から、床の上にすべり落ちた。私は、拾ってあげるつもり
で、何気なく手にとると、それは、日本語の本であった。
--字引をいきながら、少しづつ読んでいます。とても、
おもしろい本です」
私は、その本をひらいてみた、方言のたくさん使ってあ
る本であった。私は、その本と、著者の名を、手帳にかき
とめておきたいとおもったが、あいにく手帳を忘れてきた
ので,手提のなかにはいっていた、電車の切符の裏へ、急
いで書きつけておいた。
ずっとあとになって、その切符の裏をみると、宮澤賢治。
大正十五(ママ)年。注文の多い料理店。と書いてある。果して
「注文の多い料理店」というのが、その本の名前であった
かどうか、私ははっきり思い出せなぃ。
(連載第三回より)
日本から遠く離れたフィンランドの病院で闘病生活を続け
ながら、無名の青年·宮沢賢治から贈られた童話集を病室に
持ち込み、熱心に読んでいるラムステットの姿が目に浮かぶ。
真の文学作品はいかに人に作用するものであるかを、改めて
感じさせるエピソードではないだろうか。
おわりに
0 件のコメント:
コメントを投稿