法の支配における法(Law)とは、不文法であるコモン・ローおよび国会が制定する個々の法律(a law、laws)を含めた全法秩序のうち、基本法(Fundamental laws)のことを指す。基本法は、形式的意義の憲法(憲法典)と区別する意味で、実質的意義の憲法と呼ばれている[注釈 6]。アメリカ合衆国、日本では、成文憲法典を制定されているので、基本法は原則として憲法典のことを指すが、それに限定されるわけではない[注釈 7]。
法の支配は、国会が権限を濫用して被治者の自由ないし権利を侵害することがあり得ることを前提とするものであって、権力に対し懐疑的で、立憲主義、権力分立と密接に結び付いている。ただし、どのように権力を分離するのかはその国の歴史によって異なり、合衆国のように厳格に三権に分立するというものでは必ずしもなく、イギリスのように議会と裁判所を明確に分離しないというような国もある。詳細は英国法#英国法の歴史を参照。
法の支配は、名誉革命によって近代的憲法原理として確立したものであり、上掲のヘドリィの庶民院での演説によって明らかにされているように民主主義とも密接に結びついている。ただし、イギリスのように立憲君主制とも、合衆国のように共和制とも結びつき得るものであり、その国の歴史によって異なる多義的な概念である。ここでいう共和制とは、人民主権の下、選出された代表者が権力を行使する政体のことである[13]。
その目的は、人の支配を排し、全ての統治権力を法で拘束することによって、被治者の「権利ないし自由」を保障することである。イギリスには権利章典というものが存在しない[要出典]ので、そこでの法の支配は権利ではなく、市民的自由を保障することを目的としていると長く解されてきたが、1998年人権法が制定されてからは、伝統的な解釈に変化がみられる[14]。 法の支配は、戦後現代的変容を余儀なくされており、その多義性ゆえ議論は錯綜を極めている。
ダイシーと法の支配編集
法の支配を理論化したのは、ダイシーの『憲法序説』であり、以後国会主権(Parliamentary Sovereignty)と法の支配がイギリス憲法の二大原理とされるようになった[15]。
ダイシーによれば、法の支配は以下の三つの内容をもつものとされる。
- 専断的権力の支配を排した、基本法の支配(人の支配の否定)
- すべての人が法律と通常の裁判所に服すること(法の前の平等、特別裁判所の禁止)
- 具体的な紛争についての裁判所の判決の結果の集積が基本法の一般原則となること。(具体的権利性)
ただし、ダイシー流の法の支配に対しては、ダイシー自身の政治思想や当時のイギリスの政治状況、例えば、コレクティビズム(集産主義)という概念を作り出し批判するのは、自身の政治信条であるホイッグを擁護する点にあるのではないか、フランスでは行政行為に司法審査が及ばないと誤解したことに端を発する行政法に対する不寛容、法の支配の第3番目の内容は国会主権を否定するに等しいなどジェニングズ(W.I.Jennings)による体系だった批判がなされているが、ダイシー流の法の支配は現在でもイギリスの公法学界において多大な影響力を有している[16]。
また、国会主権と法の支配との関係については、ハートVSロン・フラー(en: Lon L. Fuller)論争を代表に議論がなされているが[17]、ダイシー流の法の支配は、国会を上訴権のない裁判所ととらえることなどにより国会主権が多数者支配を是認するものとはとらえず、コモン・ローの伝統的理解にむしろ忠実なものであるとの理解がイギリスの公法学界では通説とされている[18]。
法の支配と法治主義編集
法治主義は、法律によって権力を制限しようとする点で一見「法の支配」と同じにみえるが、法治主義は、手続として正当に成立した法律であれば、その内容の適正を問わない。したがって、「法の支配」が民主主義と結びついて発展した原理であるのと異なり、法治主義はどのような政治体制とも結びつき得る原理である。このような意味での法治主義を後に述べる実質的法治主義と対比する意味で「形式的法治主義」と呼ぶこともある[3]。
他方、「法の支配」の下においては、たとえ「法律(立法)」の手続を経てなされるとしても、法律の内容は適正でなければならず、権利・自由の保障こそ本質的であるとする点に法治主義との差がある。このような違いが歴史的に生じたのは、イギリスにおいては、法とは、「古き国制」に由来する人の意思を超えたものであって、人の手によって創造され得るものでなく、発見するものであると伝統的に考えられてきたことが背景にあるとされている[20]。
もっとも、現在では、ドイツでは、法律の内容の適正が要求される「実質的法治主義」の考え方が主流となっているが、反対に、イギリスでは、アンドレ・マルモーが代表する「古き良き法と法の支配は異なる」とする論調のように、多義的な概念である法の支配に政治哲学的な価値を持ち込むこと自体を批判し、法の支配と(形式的)法治主義を同視する見解が多い。
日本での展開編集
日本の法体系は、長らく慣習法を基調としてきたが、近代化の推進の為、明治憲法は、プロイセン・ドイツ法に準拠することとなり[注釈 8]、以後、法体系は大陸法系を基調として、明治憲法下でも(形式的)法治主義(法律による行政の原則)は認められてきた。
その後、アメリカ法に影響を受けた日本国憲法が制定されると、日本国憲法が法の支配を採用しているものなのかが問題となったが、制定法主義をとり、判例法主義をとるものではないという前提がある以上、ダイシー流の法の支配は採用されていないという点には異論はなく、結局は多義的な法の支配の内容をどのように解するかによってその結論が導かれると解されるようになった。
現在の日本の憲法学においては、「法の支配」の内容は以下の4つとされている[3]。
- 人権の保障 : 憲法は人権の保障を目的とする。
- 憲法の最高法規性 : 法律・政令・省令・条例・規則など各種法規範の中で、憲法は最高の位置を占めるものであり、それに反する全ての法規範は効力を持たない。
- 司法権重視 : 法の支配においては、立法権・行政権などの国家権力に対する抑制手段として、裁判所は極めて重要な役割を果たす。
- 適正手続の保障 : 法内容の適正のみならず、手続きの公正さもまた要求される。この法の適正手続、即ちデュー・プロセス・オブ・ロー(due process of law)の保障は英米法の基本概念の一つでもある。
日本国憲法は、権利の保障は第3章で、憲法の最高法規性は第10章で、司法権重視は76条・81条で、適正手続の保障は31条で、それぞれ定めているので、「法の支配」を満足していると見なされている[3]。
これに対しては、日本国憲法施行の当初から、GHQによる検閲や農地改革等により権利の保障は大きく歪められ、また、最高裁の下す違憲判決の少なさから、日本において「法の支配」は十分に機能していないとする見解もある[要出典]。
このように、現在の日本の公法学において、「法の支配」という概念が広く受容されるようになったが、そのため戦前とられていた法治主義との関係が問題とされるようになった。
現在の日本の憲法学では、ドイツと同様に実質的法治主義と法の支配を統一的に理解する見解が多数であるが[21]、以下に述べるとおり両者を厳格に区別し、法の支配に一定の積極的な意義を見出す論者もいる。
佐藤幸治は、伝統的な「法の支配」における「法」という観念が自律的で自然発生的なルールという意味合いを有していることを指摘して、日本の「法律」という観念との違いに言及し[22]、法の支配を採用して、行政裁判所を廃止した日本国憲法下においても、公定力といった旧憲法下での行政法理論が生き続ける日本の公法解釈のあり方に疑問を呈するだけでなく[23]、(実質的)法治主義は行政による事前抑制に親和的であるのに対し、法の支配は司法による事後抑制に親和的で、国民の司法への積極的な参加とこれを支える多くの法曹の存在が必要であるという積極的な意義がある点に違いがあるとする[24]。
これに対して、阪本昌成は、法の観念については、佐藤と同じく自生的秩序であるとして法の支配と法治主義を厳格に区別しつつも、法の支配を主権者も法律さえも拘束するメタ・ルールであるととらえ、佐藤とは正反対に、国民に一定の行為を要求するものではありえず、むしろ法の形式に着目し、それが一般的・抽象的でなければならず、その内容も没価値的・中立的なものであることを要求するものであるとして、法の支配に政治哲学的な価値を持ち込むことに反対する。英国の公法学界の通説と結論を同じくするが、阪本の学説は、スコットランドの古典的自由主義の渓流を継ぐものなので、当然のことといえる。
なお、中川八洋は、日本の憲法学における「法の支配」の理解は、ダイシー説に依拠しており、伝統的な「法の支配」の概念と相容れないと主張している[要出典]。
2 Comments:
【国会のクイズ王】立憲・小西洋之氏(参千葉)、安倍首相にまた出題「法の支配の対義語は何ですか?」→首相「海の繁栄に...」★4
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※夜の政治
国会での質問で、たびたび答弁者の知識を試すことから「国会のクイズ王」の異名を持つ立憲民主党会派の小西洋之参院議員が2019年3月6日の参院予算委員会で、安倍晋三首相に改めて「出題」する場面があった。
質問は、安倍氏がたびたび口にする「法の支配」に関するもの。安倍氏は直接は質問に答えられず、このことを小西氏は「憲政史上の大事件」だと訴えている。
■「安倍総理に教えて差し上げます」
小西氏の質問は、安倍氏が1月の施政方針演説で、明治天皇が日露戦争時に詠んだ短歌を引用したことを問題視する中で出た。質問は
「安倍総理、よく『法の支配』とおっしゃいますが、法の支配の対義語は何ですか?法の支配の反対の意味の言葉はなんですか?」
というもの。秘書官が助け舟を出そうとして小西氏が「総理秘書官、ダメだよー!」とヤジを飛ばす中、安倍氏は質問には直接答えず、
「まさに法の支配による、この国際秩序を維持をし、平和な海を守っていくことが、それぞれの海の繁栄につながっていく、という考え方を示しているところでございます」
などと答弁。
小西氏は
「法の支配の対義語は、憲法を習う大学の1年生が、一番最初の初日に習うことですよ」
と煽りつつ、「答え合わせ」をしてみせた。
「憲法がよって立つ基本原理すら理解せずに改憲を唱えている安倍総理に教えて差し上げます、法の支配の対義語は『人の支配』です!権力者の専断的行為によってルールを捻じ曲げて、国民の権利や自由を侵害する、そういう時代がかつて人類にあったから、近代立憲主義に基づく憲法をつくる。その近代主義の憲法が基づく理念が、法の支配の原理なんですよ」
なお、「法の支配」の辞書的意味は
「イギリスの法律家コークが、国王は神と法の下にあるべきであるとして、ジェームズ1世の王権を抑制して以来、『人の支配』に対抗して認められるようになった近代の政治原理」(広辞苑第7版)
だとされている。
■小西氏はメディア露出の少なさに不満
そのうえで、小西氏は「出題意図」を明かした。
「安倍総理が対義語を答えられなかったことに国民の皆さんも驚いておられると思いますが、私、予測していたんですが、今から6年前に安倍総理は、日本国憲法で一番大切な憲法13条を1ミリも理解せず、答えることもできず、まさに国民にとって悪夢そのものの答弁をなさったんですね。なので『法の支配』の対義語を知らないのかなー、と思ったら、やっぱり知りませんでした!」
安倍氏は
「勝手にいろんな憶測をしたうえで批判をする、あるいは、かなり人格的な批判をするということは、これは、まだ若い議員であられますから、将来を思えば、そういうことは控えられた方がいいのではないか」
と反発したが、小西氏は
「愚直にやってきただけの人間だが、安倍総理に人生を説かれるほど、私は堕ちていない」
とやり返した。
小西氏は、質疑の様子をツイッターで
「憲政史上の大事件」
「私の質疑の後、安倍総理は明らかに元気がなかった」
などと振り返り、メディアの露出が少なかったことに不満をもらした。
「カルロス・ゴーン氏の保釈よりも、安倍総理が『法の支配』の対義語の『人の支配』を知らなかった事実の方がはるかに日本社会への重大事件なのだが、テレビ報道は残念な限りだ」
2019/3/ 7 17:16
J-CASTニュース
https://www.j-cast.com/2019/03/07352119.html?p=all
https://www.j-cast.com/assets_c/2019/03/news_20190307165127-thumb-645xauto-153695.jpg
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★1が立った時間 2019/03/07(木) 17:50:04.07
前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1551962450/
マグナカルタで有名な大憲章は本当はキリスト教の教皇インノケンティウスの話でキリスト教全体の話である。
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