参考までに以下ハイデガーが参照したヘルダーリンの詩から
邦訳ヘルダーリン全集2,197~202頁より
ゲルマニア (1801年)
かつて身々を現わしたことのある天上の者たち、
あの遠い世の神々の姿を
招くことはもはや許されない。しかし
おんみら 故郷の数々の河流よ、いまおんみらとともに
この心が愛しながら歎くとき、ほかに何を望もうか、
聖なる悲しみにつつまれたこの心は? 溢れる期待とともに
国土は横たわっている、そして炎熱の日に似て 頭上真近く
天空は きょう予感をたたえて
あこがれるわれらを覆っている。
それは約束にみちみちた空だ、しかしまた
脅威をはらんでわれらに迫っているように思われる。しかしわたしはそのもとを去るまい。
わたしの魂はうしろをふりかえって 過ぎ去って行った者たちのもとへ
逃れて行ってはならないのだ、それらはわたしにはあまりにもなつかしい存在なのだが。
かれらの美しい面輪を、今を昔にして
見ようとするのは、死と結ぶにひとしいだろう、
死者を呼び醒ますのは ほとんど許されぬことなのだ。
遁れ去った神々よ、かつておんみらは現存し、
より真実な存在であったのだ、そのおんみらにも時運はあった。
いまわたしは一切をおおうまい。
…
「…おんみの祝いの日に、ゲルマニアよ。
おんみはその祝いの司祭なのだ、
そして武具をもたぬ身で忠言を贈るのだ、
四方の王らと民たちに。」
おんみはその祝いの司祭なのだ、
そして武具をもたぬ身で忠言を贈るのだ、
四方の王らと民たちに。」
第39巻 ヘルダーリンの讃歌『ゲルマーニエン』と『ライン』1934/35年冬学期。木下康光 トレチアック,H.訳
Martin Heidegger - 1996 - プレビュー - 他の版
Heidegger had previously offered two other major lecture courses on Hölderlin: a 1934/35 course on Hölderlin's hymns “Germania” and “The Rhine” (published as volume 39 of the Gesamtausgabe), and a course on the hymn “Remembrance” ...ゲルマニア
かつて身々を現わしたことのある天上の者たち、
あの遠い世の神々の姿を
招くことはもはや許されない。しかし
おんみら 故郷の数々の河流よ、いまおんみらとともに
この心が異しながら歎くとき、ほかに何を望もうか、
聖なる悲しみにつつまれたこの心は? 溢れる期待とともに
国土は横たわっている、そして炎熱の日に似て 頭上真近く
天空は きょう予感をたたえて
あこがれるわれらを覆っている。
それは約束にみちみちた空だ、しかしまた
脅威をはらんでわれらに迫っているように思われる。しかしわたしはそのもとを去るま
い。
わたしの魂はうしろをふりかえって 過ぎ去って行った者たちのもとへ
逃れて行ってはならないのだ、それらはわたしにはあまりにもなつかしい存在なのだが。
かれらの美しい面輪を、今を昔にして
見ようとするのは、死と結ぶにひとしいだろう、
死者を呼び醒ますのは ほとんど許されぬことなのだ。
遁れ去った神々よ、かつておんみらは現存し、
より真実な存在であったのだ、そのおんみらにも時運はあった。
いまわたしは一切をおおうまい。
すなわち、一つの時代が終り 天日が消えると、
まず滅びの運命を受けるのは司祭だ、だがその跡を追うように
神殿と彫像と風習とが
冥界に去り、輝きをとどめるものは何もない。
ただ墓地から立つ煙のように
伝説という金いろの雲がその上に垂れこめて、
疑い惑うわれらをつつむのだ、
そのとき何びともおのが思いをしかと言うことはでぎない、ただ
かつてあった神々の影を求め、
新たに大地を訪れるべき永遠の者たちを予感する。
来たるべき者たちへのあこがれがわれらをじりとさせておかない。
そのとき神人たちの聖なる群は もはや
青空にためらってはいないのだ。
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