水曜日, 4月 08, 2020

2013/12/11「主流派経済学」のいかがわしさ ー 失われた20年の正体(その4) 島倉原

「主流派経済学」のいかがわしさ ー 失われた20年の正体(その4) | ASREAD
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「主流派経済学」のいかがわしさ ー 失われた20年の正体(その4)


こんにちは、島倉原です。
今回は、前回(その3:正しい経済理論とは何か)列挙した、失われた20年の原因を巡る諸説のうち、①生産性低下説、②「ゾンビ企業」生存説、について述べてみたいと思います。
これらはいずれも、いわゆる「主流派経済学(新古典派経済学)」の理論をベースに出てきたものです。

「生産性」で全てを説明しようとする主流派経済学

私が日本経済の長期低迷について本格的に調べ始めた約3年前、経済学者の知人が「そのテーマに関して学界で有名な論文」として紹介してくれたのが、”The 1990s in Japan: A Lost Decade”(日本の1990年代:失われた10年)という論文(以下、「林=プレスコット論文」)でした(オリジナルは2000年に発表され、2002年にReview of Economic Dynamicsに掲載)。
これは、林文夫(当時東京大学教授、現在一橋大学教授)という日本の経済学者と、エドワード・プレスコット(当時ミネソタ大学教授、現在アリゾナ州立大学教授)というアメリカの経済学者の共同論文で、以下のような内容です(プレスコット氏は「リアル・ビジネス・サイクル理論」という、新古典派ベースの主流派経済学の中でも最先端とされている理論の創始者として、2004年にノーベル経済学賞を受賞しています)。
「日本の失われた10年の原因は、財政による景気刺激の不十分さ、流動性の罠(金融緩和が景気刺激に効かない状態)、バブル期の過剰投資の反動、といったものではない。これらは(短期的な)景気後退を説明するものであって、今回の長期にわたる経済不振を説明する理由としては不適当である。
また、企業の設備投資のための資金調達が阻害されている訳でもないため、金融システムの崩壊も原因ではない。
真の原因は生産性の伸び率の低下と、1988年の労働基準法改正を背景とした労働時間の減少で、特に重要なのが前者である。これらは新古典派経済学の経済成長理論で説明できる。
問題解決のためには、生産性を取り戻すためにどのような政策変更(構造改革)をすべきかを追究すべきである。」
(林=プレスコット論文より筆者要約)
ここでいう「新古典派経済学の経済成長理論」にはいくつかの類型があるのですが、基本的には「国内総生産」というGDPの定義そのものに着目して、
実質経済成長率=生産要素の実質増加率+技術進歩率
実質GDP=実質生産要素×技術水準
という具合に、経済成長の要因を「生産要素(生産設備と人々の労働力の組合せ)」と「技術進歩」に分解し、両者の掛け合わせによってGDPの水準が決定される、とする理論です(実務上は、GDPを生産資本で割って得た数値を「全要素生産性」と定義し、これを「技術水準」に相当するものと位置付けます)。
そして、「日本経済の長期低迷とは、上記『全要素生産性』の伸び率、すなわち生産技術の向上率等が鈍化したことが主な原因であることが、理論的にも、実証的にも確認できる」という林=プレスコット論文の結論はある意味単純明快で、「最先端理論」の生みの親であるノーベル賞級学者が執筆者の1人だったこともあり、それ以前からあった「構造改革論」を後押し、あるいはそれを否定しづらい空気を作るのに少なからず影響を与えています。
なお、要点の最終段落にもある通り、林=プレスコット論文では「生産性の伸び率が低下した原因」自体は特定されていません(「非効率な企業や衰退産業を支援している政策の結果ではないか。そのような政策は生産性向上のための投資意欲を削いでしまう」という推測はしています)。
そして、同じく新古典派成長理論に基づき書かれているのが、星岳雄(スタンフォード大学教授)/アニル・K・カシャップ(シカゴ大学教授)著「<何が日本の経済成長を止めたのか 再生への処方箋」(日本経済新聞社、2013年)という本(以下、「星=カシャップ本」)です。
同書は、日本の民間政策シンクタンクである総合研究開発機構(NIRA)から委託された2つの調査研究論文(2011年と2012年に発表)が基になっており、日本経済の成長が鈍化した原因として、①ゾンビ企業(生産性や収益性が低く本来市場から退出すべきであるにもかかわらず、債権者や政府からの支援により事業を継続している企業)の存続、②厳しい政府規制、③マクロ経済政策の失敗(不良債権問題への対応の遅れ、「無駄な財政支出」も含めた財政再建への不十分な取り組み、日銀の不十分な金融緩和)、の3つを挙げつつ、いわゆる「小泉改革路線」を徹底すべきであると結論付けています。

林=プレスコット論文に対する違和感

林=プレスコット論文を初めて読んだ当時、私自身は新古典派成長理論の基本的な枠組みぐらいは知っていましたが、リアル・ビジネス・サイクル理論なぞはつゆ知らず、同論文におけるモデル実証プロセスは正直ほとんど理解できませんでした。
にもかかわらず、途中まで読んだ段階でその論理展開に強烈な違和感を覚え、それ以降はおざなりにしか読むことができませんでした(その意味では「理解できませんでした」というより、「違和感のせいで理解しようという気になれませんでした」という方が正確かもしれません)。
私が抱いたのは、
「『全要素生産性』とは単にGDPと生産要素から逆算して出てくる技術的な概念に過ぎず、それ自身にいわゆる『(供給側の効率指標である)生産性』を体現する独立した実態がある訳ではない。」
「実際、不況で売上が低迷する時は、工場や店舗などの『全要素生産性』は定義上低下するが、これらの運営効率が不況と同時に突然低下したわけではない。今の日本経済はむしろこうした状況にあると思われるにもかかわらず、『全要素生産性の低下=生産(供給)側の効率低下』と杓子定規に片づけるのは本末転倒、あるいは『生産性』という言葉じりを捉えた論理のすり替えではないか?」
という疑問です。
同様な見地からの反論は、岩田規久夫・宮川努編「失われた10年の真因は何か」(東洋経済新報社、2003年)の中で、同書に収録された林氏の同趣旨の論文「構造改革なくして成長なし」に対して、マクロ経済における「需要」の役割を重視するケインズ経済学者である吉川洋氏(東京大学教授)によってもなされています(そこでは、「供給側の効率低下が原因ではない全要素生産性低下」の事例として、「ある日突然車が入ってこなくなった駐車場の案内係の労働生産性」が示されています)。

「主流派経済学の前提」をくつがえした長期デフレ

上記論点について、「構造改革なくして成長なし」の中で林氏は以下の通り述べています。
「総需要を強調するケインズ経済学でさえも、需要不足は長期的には価格の調整を通じて解消されるとされる。ケインズ経済学は、景気循環のような短期の経済変動を説明するには有効かもしれないが、90年代の日本のような長期の停滞を説明するには無理がある。」
(「要約」でも述べた通り、林=プレスコット論文にも同趣旨の記述が見られます)
実はこの議論の背景には、
「需要は短期的な要因でしかなく、長期の経済動向を説明するのは生産サイドである」
「長期的には貨幣が経済に対して中立的であって、経済に実質的な影響を与えない」
という新古典派経済学の大前提が存在しています。こうした前提があるがゆえに、生産サイドの要因だけに着目する新古典派成長理論が正当化される、というわけです(これに対して吉川氏は「需要は長期的にも大きな役割を果たす」としていて、両者の議論は全くかみ合っていません)。
この前提のもとでは、当時既に現実化していたデフレ(=相対的な需要の低迷)も短期的な調整プロセスと位置付けられます(案の定、林=プレスコット論文の結論部分にも「日本のこの低成長状態は恐らく今後長引かない」と予想する記述が見られます)。
ところが、日本銀行のエコノミストである川本卓司氏は、「日本経済の技術進歩率計測の試み」(2004年)という実証論文の中で、林=プレスコット論文を念頭に置きつつ「1990年代の全要素生産性低下の6割以上は『資本(生産設備)と労働の稼働率変動』によるもので、同時期に技術進歩率が減速したという証拠はほとんど、あるいは全く見いだされなかった」と指摘しています。
「稼働率変動(低下)」とは、上記で私が想定した状況そのものであり、この分析結果は、林=プレスコット論文が「長期」と捉えている1990年代の約10年間、日本経済低迷の原因が「供給」よりもむしろ「需要」にあったことを意味しています。
つまり、林=プレスコット論文に基づいた「供給サイドの構造改革論」は、そもそも議論の大前提が破たんしているということです。
さらに決定的なのは、星=カシャップ本の冒頭「はじめに」に見られる、以下のような記述です。
「このアプローチ(新古典派成長理論のこと:筆者注)は供給側に焦点をあてたアプローチで、総需要の短期的な変動をみるには適していないが、長期的な成長を理解するには大変有用である。」(同書10ページ)
「新古典派モデルは、財が効率的に生産される限りにおいて需要は生まれてくるとの想定になっていることから、長期的な経済成長を推計する際に需要を捨象することができる。しかし需要が停滞するときは、技術進歩がもたらす生産能力の拡大は有効に利用されず、無駄となってしまう。日本の場合には、過去15年以上にわたり明らかに需要側に問題があった。これを象徴するのが1990年代半ば以降、日本経済にはびこってきた持続的なデフレである。内需が不振であったため、日本は過度に輸出に依存せざるを得なかった。」(同書19ページ。太字・下線は筆者によるもの)
両氏は意識しているのかどうかわかりませんが、この記述は「新古典派成長理論の前提は現実と噛み合わない、したがって問題解決には無効な理論である」と自ら宣言したに等しいのではないでしょうか?
それとも10年や15年は、新古典派成長理論にとっては「長期」ではない、ということなのでしょうか?(そう捉えているわけではないことは、文脈から明らかです)
信じがたいと言いますか、同書ではこの後約160ページにわたり、「無効な理論」に基づく議論が延々と展開されます。
うがった見方かもしれませんが、彼らにとってこうした理論は経済学者としての己の存在基盤そのものであるため、「疑うべからざるもの」であり、よしんば無効とわかっていてもしがみつかざるを得ないのではなかろうか、とすら思えてしまいます(前述の通り、林氏と吉川氏の間の議論が平行線のままなのも、こうした状況を反映しているのかもしれません)。
星=カシャップ本の分析や提言は、昨今の「アベノミクス」にも通じるところがあります。
しかしながら、その背景にはこうした非現実的な議論の枠組みが存在するということを、今一度認識すべきでしょう。
(参考文献)
Hayashi, Fumio, and Edward C. Prescott: “The 1990s in Japan: A Lost Decade,” Review of Economic Dynamics (2002).
岩田規久夫・宮川努編「失われた10年の真因は何か」(東洋経済新報社、2003年)
星岳雄/アニル・K・カシャップ「何が日本の経済成長を止めたのか 再生への処方箋」(日本経済新聞社、2013年)
(NIRA研究報告書版はこちら
川本卓司「日本経済の技術進歩率計測の試み:『修正ソロー残差』は失われた10年について何を語るか?」(金融研究、2004年)