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(日本語) 単行本 – 2015/3/25
相互扶助の経済
無尽講・報徳の民衆思想史
ORDINARY ECONOMIES IN JAPAN
A Historical Perspective, 1750-1950
2009
https://www.amazon.co.jp/dp/4622078899/
飢饉に苦しんだ徳川時代の民衆の実践。その伝統は公の歴史の陰で地道に生き続け、震災のボランティア活動につながる。卓越した歴史家の観察眼と想像力の結晶。
https://www.msz.co.jp/book/detail/07889.html
http://hdl.handle.net/10965/448
https://ksu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download
&item_id=1516&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21
#4:
97~203(15~21)
柳田國男:メモ(全集目次)
http://nam-students.blogspot.jp/2013/03/blog-post_30.html
テツオ・ナジタ
Tetsuo Najita
1936年、ハワイ生まれ。1965年、ハーヴァード大学で博士号取得。カールトン・カレッジ、ウィスコンシン州立大学を経て、1969年以降シカゴ大学で教鞭をとる。現在、シカゴ大学ロバート・S・インガソル記念殊勲名誉教授(歴史学・東アジア言語文化研究)。専攻は近代日本政治史・政治思想史。1989年に大阪府より山片蟠桃賞を受賞。
著書 『原敬――政治技術の巨匠』(読売選書、1974)『明治維新の遺産――近代日本の政治抗争と知的緊張』(中公新書、1979)『懐徳堂――18世紀日本の「徳」の諸相』(岩波書店、1992)、 編著(共著)『戦後日本の精神史――その再検討』(岩波書店、1988、2001)ほか。
慢性的な飢饉に苦しんでいた徳川時代の民衆は、緊急時の出費に備え、村内で助け合うために無尽講、頼母子講、もやいなどの「講」を発展させた。当時の民衆の識字率は高く、商いや貯蓄に関して議論し、冊子を作り、倫理は社会的実践に不可欠であるという明確なメッセージも発信したのである。その思想の根底には、伊藤仁斎、安藤昌益、貝原益軒、三浦梅園などの思想を汲む確固たる自然観があった。
徳川末期になると、二宮尊徳のはじめた報徳運動が、村の境界を越えて講を結びつけ、相互扶助的な契約をダイナミックに広げた。その後、講の手法は無尽会社を経て相互銀行に引き継がれていく。
著者は、大阪にあった徳川時代の商人学問所、懐徳堂を調べていたとき、町人知識人の思想が学問所の壁を越えて広がっていることに気づいたという。元来、公的な政治秩序の外側で形成されたこれらの営みは、明治維新後は、国の法体系にどう吸収されていったのだろうか。少なくとも、新しい翻訳語「経済」からは「民を救済する」という意味が脱落するなど、民衆の歴史は劣性遺伝子になっていく。この近代化の社会史が本書では追跡される。
明治初期の混乱や太平洋戦争後の激動を庶民が生きのびたのは、講の精神が脈々と受け継がれたからだった。著者は地方の相互銀行の書庫まで入念に調べ、この歴史がはらむ驚くべき現代性に光を当てる。
卓越した歴史家の観察眼と想像力の結晶であり、日本思想史学の里程標であろう。
日本の読者のみなさまへ
まえがき
第一章 徳の諸相
第二章 常識としての知識
商業と文化/時間、正確さ、中庸/海保青陵/「中」と信用
第三章 組織原理としての講
宗像常礼/講/第一原理としての自然/三浦梅園と村の講/慈悲無尽講、旨趣、約束、富永村
第四章 倫理の実践としての労働
二宮尊徳/仕法と分度/報徳運動
第五章 報徳と国家の近代化
品川弥二郎と平田東助/岡田良一郎/岡田良一郎と柳田國男
第六章 無尽会社
事業志向型の講/講から会社へ/無尽会社の合法化
終章 断片的な言説
解説 五十嵐暁郎
原注
参考文献
索引
2017年10月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
過去、同氏の懐徳堂に関する書を読んでおりました。
岡田良一郎と柳田國男の論戦に関する著述はまさに「白眉」でした。
二宮尊徳はかねてより「ロータリークラブ」の理念を先取りしたような彼の生涯と行動に関心を持っており、その再確認ができたことも大きな収穫でした。
広井論考
https://www.jcia.or.jp/publication/pdf/20160801_kantougen.pdf
・近世までの日本には、「講」(頼母子講、無尽講、「もやい」などと呼ばれる、不測の事態などに備えて仲間内で助け合うためお金を積み立てる仕組み)に代表されるような「相互扶助の経済」の伝統が脈々と存在していた。
・しかもそれは二宮尊徳の報徳運動に象徴されるように、村あるいは個別の共同体の境界を越えて講を結びつけるような広がりをもっていた。
・明治以降の国家主導の近代化の中でそうした伝統は失われ、あるいは変質していったが、しかしその“DNA”は日本社会の中に脈々と存在しており、震災などでの自発的な市民活動等にそれは示されている。 ・そして上記のような相互扶助の経済を支えた江戸期の思想においては、「自然はあらゆる知の第一原理であらねばならない」という認識が確固として存在しており、「自然」というものが相互扶助の経済の基盤として意識されていた。
岡田良一郎
概要
家族・親族
門下
略歴
栄典
脚注
- 『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。
- 『官報』第727号「叙任及辞令」1915年1月7日。
18世紀の大阪に商人たちによって創設されたアカデミー「懐徳堂」。江戸幕府の官許をえたこの学問所では、日本全国と知的ネットワークを結びながら学者や商人を中心とした学問的営為が開花したのだった。これまで、経済思想史あるいは地域史の視点からしか考察されていなかった「懐徳堂」を、18世紀日本における知的・思想的言説の重要なポストとして捉えた本書は、大阪の商人たちが「徳」という言説にこめた意味を明らかにする。思想史の新たな方法的視点によって照らしだされる言説とイデオロギーの社会史。
2013年2月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本は、江戸時代、大阪中心部に開設された「懐徳堂」という幕府公認の民間学問所で営まれた日本思想の歩みである。儒学や朱子学という最近では馴染みのない議論だけに読むには難渋する。しかし、それだけの値打ちはある。
「懐徳堂」とは、江戸時代、1726年から1868年にかけて、大坂商人達が私財を投じて、現在の大阪市中央区今橋に設立、運営した民間教育・研究機関をいう。明治の到来とともに、活動を停止し、戦災で建物も焼失、現在は石碑だけが残っている。
その名の通り、「徳の意味を深く心に省みること」をめざした学校、日本のアカデミーだった。活動中の150年ほどの間、三宅石庵、富永仲基、中井竹山、中井履軒、五井蘭州、草間直方、山方蟠桃などの儒学の思想家を輩出する。明治維新後の日本人の知的活動の多くが、経済、哲学、政治学、社会学など多分野にわたって外来物、西洋的合理主義に侵食されていったなかで、異彩を放つ純日本的な知的営為が、この時代にはあった。
国学者である本居宣長は除いても、萩生徂徠や山鹿素行が政治の中心地である江戸や京都において、幕藩体制をめぐる政治理論として機能したのに対し、「懐徳堂」は、京都の伊藤仁斉とともに、経済首都・大坂において、その商人活動を支える経済倫理を極め、教える場として機能してきた。
なぜ、このような儒学の学問所が、大坂商人達にとって必要だったのか。
網野史学が教えるように中世日本においては、市場町は、世間から隔離された「無縁所」と呼ばれる「公界」であった。封建的領主関係が担う「主従」の「私的」関係とは別の「公的」関係を担う場である。ところが、徳川体制の下では、「士農工商」というように、商人は、最も下層の階層とされた。しかし、一方で、米と銀との交換や米流通の巨大マーケットとして、大坂の商取引は拡大の一途にある。実際、堂島の米相場会所では、世界史上初の商品先物取引市場が誕生している。当然、商人の得る利益も増大していく。
ではいったい、この利益追求には、どのような道徳的根拠が持ち得るのか。商取引は、「欲望」の追求として卑下されるべきものなのか。商売の利益追求と、道徳的秩序との統合、整合性は、どのようにして獲得できるのか。儒学を母胎にして、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神(エートス)」のような議論が展開される。明治以降の近代化を前にして、商品経済、市場経済の到来を準備する思弁である。
即ち、「徳」とは、「善を志向する普遍的な人間の能力、知的能力」であり、「全ての人間は、外的な道徳的、政治的規範の形式や実質をともに<知る>能力を持つ」。「善」とは、誰かにのみ与えられたものではなく、「誰もが有する活動的な可能性」であり、「日常的な仕事の世界で遂行されるべきもの」である。
そして、商取引は、下劣な利己的な行為ではなく、その利益によって国の富を増やす道徳的行為である。売買の倫理とは精確さであり、売買を通じて人間的信用は認識される。「「利」とは人間の合理的判断「正しさ」−善−の認識の延長にある」。商人は、商行為を通じて、社会の「徳」(道徳)や「義」(公正)や「信」(信頼)を確認する。
こうして、大坂商人の商取引は、高い倫理性を有した活動として、儒学のなかで位置づけられる。経済活動に高い倫理性を求める議論は、その後の日本資本主義のエートスを築いて行く。
もう一つ、「懐徳堂」の「徳」をめぐる言説の背景になった日本独自の経済倫理観がある。「経世済民」である。
明治期に英語のPolitical Economyの訳語として、「経世済民」を略して「経済」とされたが、江戸時代に使われた「経世済民」の意味は深い。「経世」とは、「世の中を整える」ことであり、「済民」とは、「民衆を救う」ことを意味する。目的としての「済民」と、手段としての「経世」。経済政策の一種の道徳的基準と言ってよいだろう。
「懐徳堂」は、このような学問・教育所として、江戸時代における知的ネットワークの拠点として機能していた。研究機能と教育機能を兼ね備え、日本における生涯学習の原点とも思える。
並松信久