火曜日, 4月 21, 2020

シュンペーター再考

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カフェ de 読む 図解シュンペーターの経済学がよくわかる本 (FLoW ePublication) Kindle版


5-7  資本主義から社会主義へ

資本主義の衰退は非資本主義的な政策を次々と生み出しました。これらは、「生産手段に対する支配、または生産自体に対する支配が中央当局に委ねられている」ような社会主義的社会の前兆を示しています。  

●非資本主義的施策の進展  シュンペーターは、資本主義が衰退していくのに並行して、その一方で社会主義的な兆候の出現を見て取りました 138。シュンペーターはその具体例として、 
①完全雇用を実現するための公共管理 139 
②所得再分配を目的とした税制 
③物価管理に対する規制的な方策 
④労働市場や金融市場に対する公共的な統制 
⑤公共企業によって満たされるべき欲望分野の無際限の拡張 
⑥すべての形態の社会保障政策 140
などを掲げています。

 ●資本主義から社会主義へ 
 上記の施策の中には、 18世紀に存在したものがあります。しかし「自由放任主義の資本主義の原理からははるかに遠く離れたところまできている 141」というのがシュンペーターの見立てです。つまりシュンペーターは、上記の傾向を本来の資本主義の精神からは逸脱するものと考えました。
  そして、これらの将来的推移を考えると、「生産手段に対する支配、または生産自体に対する支配が中央当局に委ねられている 142」ような社会、すなわち社会主義的社会の可能性があるとシュンペーターは考えます。

138『資本主義・社会主義・民主主義(下)』 P 794 
139シュンペーターはニューディール政策を念頭にこのことを述べているように考えられる。 140以上は『資本主義・社会主義・民主主義(下)』 P 794〜 795
 141『資本主義・社会主義・民主主義(下)』 P 795 
142『資本主義・社会主義・民主主義(中)』 P 302


中野明は小国寡民をシュンペーターの理想とする。



資本主義・社会主義・民主主義 (日本語) 単行本 – 1995/5/1

20世紀最大の社会科学者シュムペーターの代表的名著。従来の上中下3巻本を1冊にまとめ、大判の廉価版にしました。ケインズ『一般理論』に続く100周年特別出版。

【目次】
第1部 マルクス学説め

第1章 予言者マルクス
第2章 社会学者マルクス
第3章 経済学者マルクス
第4章 教師マルクス

第2部 資本主義は生き延びうるか
第5章 総生産量の増加率
第6章 資本主義の評価
第7章 創造的破壊の過程
第8章 独占企業の行動
第9章 禁猟の季節
第10章 投資機会の消滅
第11章 資本主義の文明
第12章 くずれおちる城壁
第13章 増大する敵対
第14章 解体

第3部 社会主義は作用しうるか
第15章 戦闘準備
第16章 社会主義の青写真
第17章 青写真の比較
第18章 人的要素
第19章 過渡期

第4部 社会主義と民主主義
第20章 問題設定
第21章 古典的民主主義学説
第22章 いま一つの民主主義理論
第23章 結論





第5部 社会主義政党の歴史的概観
第24章 幼年期
第25章 マルクスの直面した事態
第26章 1875年から1914年まで
第27章 第一次世界大戦から第二次世界大戦まで
第28章 第二次世界大戦の帰結


根井シュンペーターより

『資本主義 ・社会主義 ・民主主義 』のなかにも 、次のような最大級のマルクス賛辞が見られる 。 「経済学者はつねに自分で経済史を研究するか 、さもなくば他人の歴史的研究を利用してきたにもかかわらず 、経済史の事実を他の学問分野にゆだねた 。それがやっと理論に採り入れられるさいにも 、それらは単に例証ないしはせいぜい結論の検証という役割をもつにすぎなかった 。事実は理論と単に機械的に結びつけられていた 。しかるにマルクスの結合は化学的である 。すなわち 、マルクスは結論を生み出す議論そのもののなかに経済史的事実を導入したのである 。彼は経済理論がいかにして歴史的分析に転化されうるか 、また歴史的物語がいかにして理論的歴史 ( h i s t o i r e r a i s o n n é e )に転化されうるかを体系的に理解しかつ教えることにおいて 、もっともすぐれていた最初の経済学者であった (注 2 7 ) 」と 。
 では 、シュンペ ータ ーの資本主義衰退論は 、かい摘まんでいえば 、どのような内容をもっているのか 。ここで 『資本主義 ・社会主義 ・民主主義 』の内容を詳細に紹介する余裕はないので 、彼が第二次世界大戦後に執筆した啓蒙論文 「資本主義 」 ( 『エンサイクロペディア ・ブリタニカ 』一九四六年 )のなかから要約的な説明を引用することにしよう 。



 すなわち 、資本主義の時代が経過するにつれて 、企業者の個人的リ ーダ ーシップが重要性を失い 、ますます 、大会社の内部における雇い人の専門家たちの機械化されたチ ームワ ークに取って代られる傾きをもつこと 、資本主義の構造を擁護していた制度や伝統が滅びていく傾きをもつこと 、資本主義過程はまさにその成功により 、これに敵意をいだく集団の経済的 、政治的地位を高める傾きをもつこと 、また資本主義的階層自体 、主として家族生活のきずなの衰頽 ─ ─それはまた資本主義過程の 「合理化的 」影響に帰せられるであろう ─ ─によって 、以前にそれが持っていた動機づけの図式の支配力や役割をいく分か喪失する傾きをもつこと 、以上がそれである (注 2 8 ) 。



『資本主義 ・社会主義 ・民主主義 』のなかには 、正統派経済学 ( 「新古典派 」と言い換えてもよい )の 「競争 」概念を疑問視するという理論的にも興味深い論点が含まれている 。 
正統派経済学の教科書を繙くと 、まず 、 「完全競争市場 」 ( ①小規模の買手と売手が無数に存在し 、誰も市場で成立する価格を左右できるほどの支配力をもっていない 、 ②生産物は同質で 、製品の差別化は存在しない 、 ③買手も売手もその市場に関する完全な知識をもっている 、 ④資源の移動が完全に自由である 、という四つの条件を満たす市場のこと )なるものが導入されるが 、その後は 、それらの四つの条件のうちのどれかが欠けるごとに 「不完全競争 」の度合いが強まり 、ついには 、寡占そして完全独占に到達するというふうに説明される 。その場合 、完全競争以外のケ ースでは 、静態的な価格理論の考え方 ( 「限界費用 」と 「限界収入 」の均等命題によって利潤が極大化される点を求める )を用いると 、より高い価格とより少ない生産量の組合せが実現されるので経済厚生上望ましくないという結論が引き出される 。
 
 
 不完全競争理論 (または独占的競争理論 )は 、前に触れたように 、一九三〇年代に J ・ロビンソンやチェンバリンによって展開されたが 、シュンペ ータ ーは 、彼らの貢献を認めながらも 、それが 「生産方法一定 」という条件の下での価格競争や品質競争などを論じているに過ぎないことに不満を抱いていた 。シュンペ ータ ーによれば 、 「創造的破壊 」 ( C r e a t i v e D e s t r u c t i o n ) ─ ─ 「内外の新市場の開拓および手工業の店舗や工場から U ・ S ・スチ ールのごとき企業にいたる組織上の発展は 、不断に古きものを破壊し新しきものを創造して 、たえず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異 (注 3 3 ) 」 ─ ─の過程こそがまさに資本主義の本質に他ならないが 、不完全競争や寡占理論などは 、このような 「創造的破壊 」がないという仮定を置いているというのである 。彼の言葉を聞いてみよう 。

 ところが 、一定時点をとらえ 、たとえば寡占的産業 ─ ─少数の大企業からなる産業 ─ ─の行動をながめて 、その内部での周知の運動と反運動とが高価格と生産量制限以外のなにものをも目的としないというふうに考える経済学者は 、まさしくかような仮定 [創造的破壊が存在しないという仮定のこと ]をおいているのである 。彼らは 、瞬間的な状態の与件を 、あたかもそれに対しては過去も将来もないかのごとくに受け取り 、これらの与件に関連せしめて利潤極大の原則をもってこれらの企業の行動を説明しさえすれば 、それでまさに理解すべきものを理解しつくしたと思い込んでしまう 。普通の理論家の論文や政府委員会の報告は 、事実寡占的企業の行動を 、一方では過去の歴史の一こまの結果として 、他方ではただちに変化するにきまっている情勢に対処せんとする試みとして ─ ─足下からくずれ去ろうとしている地盤に立ちながら 、なんとかしてまっすぐに歩こうとしているこれらの企業の試みとして ─ ─みようとはけっしてしない 。別の言葉をもってすれば 、ここでのほんとうの問題は 、資本主義がいかにして現存構造を創造しかつ破壊するかということであるにもかかわらず 、普通の理論家の論文や政府委員会の報告は 、事実寡占的企業の行動を 、一方では過去の歴史の一こまの結果として 、他方ではただちに変化するにきまっている情勢に対処せんとする試みとして ─ ─足下からくずれ去ろうとしている地盤に立ちながら 、なんとかしてまっすぐに歩こうとしているこれらの企業の試みとして ─ ─みようとはけっしてしない 。別の言葉をもってすれば 、ここでのほんとうの問題は 、資本主義がいかにして現存構造を創造しかつ破壊するかということであるにもかかわらず 、普通に考えられている問題は 、資本主義がいかにして現存構造を操作しているかということにすぎない 。このことが認識されないかぎり 、研究者は無意味な仕事をしていることになる 。それが認識されるや否や 、資本主義的行動とその社会的結果とに関する彼の見方は著しく変化するであろう (注 3 4 ) 。



( 2 7 ) J ・ A ・シュムペ ータ ー 『資本主義 ・社会主義 ・民主主義 』上巻 、中山伊知郎 ・東畑精一訳 (東洋経済新報社 、一九六二年 )八一 ─八二ペ ージ 。シュンペ ータ ーは 、また 、次のようにも言う 。 「経済的 、社会的事物はそれ自身の動因によって動く 。そしてその結果生ずる事態は 、個人や集団をして 、彼らが望むところがなんであるにもせよ 、ある特定の仕方で行動せしめる ─ ─それは実際には彼らの選択の自由を失わしめることによってではなく 、その選択を行なう心的状態を形成し 、選択しうる可能性の範囲を限定することによって行なわれる 。かような考え方がマルクス主義の真髄であるというならば 、われわれのすべてはマルクス主義者たらねばならぬであろう 」と (前同 、二三六ペ ージ ) 。 
( 2 8 ) J ・ A ・シュムペ ータ ー 『今日における社会主義の可能性 』 、前掲 、三六 ─三七ペ ージ 。引用は 、 「資本主義 」 (一九四六年 )から 。


( 3 3 ) J ・ A ・シュムペ ータ ー 『資本主義 ・社会主義 ・民主主義 』上巻 、前掲 、一五〇ペ ージ 。 
( 3 4 )前同 、一五二ペ ージ 。ただし 、 [ ]内は引用者による 。



シュンペータの予言











今最も読むに値する経済学者は誰か?なんて会話でよく登場するのが、シュンペーター(Joseph Alois Schumpeter)だ。とくにMOT関係者ならば、シュンペーターは必読。数日前招かれて話をした「サロンdeMOT」のときも、いっときシュンペーターが話題になった。

イノベーションの文脈から『新結合』のみを切り出して議論する向きもあろう。だがシュンペーターの真髄は彼が存命だった1940年代から未来へ向けて予測した未来の資本主義の変化にこそある。シュンペータ研究者は、この未来へ向けた資本主義の青写真を桐箱に入れて「シュンペータ過程」と呼ぶ。

マルクスの労働価値説を真っ向から否定したバヴェルクを師とするシュンペータはマルクスを超えようとした。ただしケインズの影響があまりに大きく、シュンペータ存命中は、ケインズの影に隠れていた印象は隠せないが。

マルクスをはじめ予言をハズすのが経済学者の常。しかしシュンペータのスゴさは、彼がハズした予言は今のところない、ということだ。さて「資本主義はその欠点のゆえに滅びる」と書いたマルクスの逆張りでシュンペーターは「資本主義はその成功により滅びる」と意味深長なことを書いた。

資本主義の生命線であるイノベーションの担い手=企業家(起業家)が大企業の官僚化された専門家へ移行するにしたがい、資本主義の精神は萎縮し活力が削がれてゆき、やがて資本主義は減退する。なので企業家(起業家)は主要な活躍の場を産業分野からしだいに公共セクター、非営利セクターに移ってゆくとも言った。このあたりは、社会起業家の活躍を彷彿とさせる。


シュンペータは「創造的破壊」というコンセプトを議論の真ん中に据えた。創造的破壊を推進する資本主義のethos(行動様式)を保持するアントレプレナーが衰弱し、資本主義の屋台骨ともいえる私有財産制と自由契約制が形骸化すれば、capitalismは衰退しやがては終焉を迎える。

創造的破壊とは不断に古いものを破壊し、新しいものを創造して絶えず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異である。その破壊的な突然変異は、操作も予測も不可能。それをやり遂げるのが市場で活躍し新しい均衡を創造する起業家だ。

さて、現下の大不況、恐慌は結果としての現象ではなく、「過程としての現象」と見るべきだ。溌剌たる資本主義の精神をリスペクトするならば死にかけ企業、死にかけ産業は、死にゆくままにしておき、今こそ起業家が跳梁跋扈する新企業、新産業へと転換してゆく千載一遇のチャンスなのだ。

大方の納税者やリバタリアンの主張どうりにGM,フォードを自然死に任せてゆくのであれば、おおいなる優勝劣敗の資本主義のプロセスは健全に機能しているといえるだろう。GM、フォードなどに巨額の税金を注入して救済するという行き方は、資本主義の否定なのである。もしそうなれば、アメリカ型強欲資本主義、金融資本主義は、統制経済を経て社会主義化してゆく。税金で旧産業の余命延長をはかり、前回のクリントン民主党政権のときに議会に阻まれた国民皆保険もヒラリー・クリントンのもとで今度こそ成し遂げられるだろう。なにせ健康保険にも入っていない無保険の人々が4000万人以上いるのがアメリカだからだ。

シュンペーターを読みこむべきは現下のこの文脈のなかにこそ、である。なぜなら現在進行形で、「シュンペータ過程」が眼前に現出しているのだから!

倒産、失業という血を流して資本主義の精神を取るか。倒産、失業という血をいっとき回避、つまり税金の投入をもって資本主義の精神を自己否定して社会主義化を取るのか。オバマ政権は実に歴史的な局面に来月立つことになる。ここがまさに「シュンペータ過程」であり正念場だ。
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中野剛志「酸素吸入器付き資本主義」に導くコロナ危機 | コロナショックの大波紋 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
2020/04/21
https://toyokeizai.net/articles/amp/344506

「酸素吸入器付き資本主義」に導くコロナ危機

「戦時経済」「長期停滞」の先にある社会主義化


コロナ危機で、各国の経済政策は戦時統制経済のように変貌したが……
コロナ危機で各国政府は大規模な財政支出を行っている。今後は、どの国でも公的部門の役割がより大きい経済構造にならざるをえないことが予測される。このような事態の先に何があるのか。
著書『富国と強兵:地政経済学序説』で、今回の事態に先んじてポスト・グローバル化へ向かう政治・経済・軍事を縦横無尽に読み解いた中野剛志氏が論じる。

「戦時経済」とは似て非なるものか

今回の新型コロナウイルス感染症のパンデミックが引き起こした危機(コロナ危機)により、各国の経済政策は、戦時統制経済のような姿に変貌した。

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例えば、トランプ・アメリカ大統領は自らを「戦時下の大統領」と評し、マクロン・フランス大統領は「これは、戦争だ」と連呼した。
実際、各国では、軍が動員されているし、病院は野戦病院の様相を呈している。外出制限は、まるで戦時下の戒厳令のようだ。
アメリカ政府がGMに人工呼吸器の増産を命じた際の根拠法となったのは、朝鮮戦争時に制定された国防生産法である。
IMF(国際通貨基金)のブログは、4月1日、「戦時下では、軍備への莫大な投資が経済活動を刺激し、特例措置によってエッセンシャルサービスが確保される。今回の危機では事態はより複雑だが、公共部門の役割が増大するという点は同じである」と述べた。
今回のコロナ危機に対する経済政策は、戦時経済に非常に近いというのは間違いない。しかし、次の2点が大きく異なる。
第1に、戦時経済では、政府は国民を戦争や軍需工場へと動員する。そこに巨大な軍事需要が発生する一方で、物資や労働者の供給が不足するため、インフレ気味となり、失業率は下がる。
ところが、コロナ危機では、政府は経済活動を行わないように国民を動員する。したがって、一部の医療物資などでは供給不足による価格高騰がみられるものの、全体としては、消費や投資の激減による需要不足が、強力なデフレ圧力を発生させる。当然、失業率は増大する。
このように、需給バランスという観点からは、コロナ危機下の経済は、戦時経済というよりはむしろ、恐慌(デフレ不況)の様相を呈する。ゲオルギエバIMF専務理事が、コロナ危機を世界恐慌以来のマイナス成長となると述べたとおりである。
ただし、恐慌時には、雇用創出や休業補償・生活保障といった観点から、やはり国家の役割が大きくなるのであり、その意味では、戦時経済と同様ではある。

「酸素吸入器付き資本主義」に導くコロナ危機

「戦時経済」「長期停滞」の先にある社会主義化

コロナ危機と戦時との違いの第2は、敵の所在である。戦時の場合は、敵は他国であり、かつ明確である。これに対して、コロナ危機の場合は、敵は見えにくいウイルスであるうえ、同じ国民から感染する(攻撃を受ける)こととなる。とくにコロナウイルスについては、軽症や無症状の場合があるため、感染者が自覚しにくく、感染抑止のための協力行動をとりにくい。
つまり、共通の敵が明確な戦争の場合とは異なり、国民がコロナウイルスと戦うために自発的に一致団結することが、より難しくなるのである。
ただし、国民が自発的な感染抑止の行動をとりにくいのであれば、国民に行動変容を促し、場合によっては強制する国家の役割はなおさら重要となるのであり、その意味では、やはり戦時経済に似てくる。

シュンペーターが予言した「大転換」

このように、戦時経済とコロナ危機下の経済とでは、大きな違いがありながらも、IMFの指摘どおり、公的部門の役割が増大するという点では同じである。
パンデミックの収束は、現時点では見通せず、長期化の可能性も指摘されている。仮に、長期化すると、各国の経済システムはどうなるのであろうか。
結論から言えば、ジョセフ・A・シュンペーターが予言した大転換がついに起きる可能性があると私は考える。
その大転換とは、「資本主義から社会主義への移行」である。
「何をばかなことを」と一蹴する前に、まずは、シュンペーターの言う「資本主義」「社会主義」の意味を理解してもらいたい。
シュンペーターによれば、「資本主義」とは「生産手段の私有」「私的な利益と私的損害責任」「民間銀行による決済手段(銀行手形や預金)の創造」を特徴とする。とくに重要なのは、「民間銀行による決済手段の創造」であり、これが欠けた社会は「商業社会」ではあっても、「資本主義社会」ではない。
他方、「社会主義」について、シュンペーターは単に「何らかの公的権威が生産プロセスの管理を行う制度」といった程度にしか定義していない。それは、私有財産の否定とか計画経済とかいった、かつてのソ連のような社会主義体制だけを指しているのではない。公的部門による関与が大きい経済システムのことを指して、広く「社会主義」と呼んでいるのである。
そのシュンペーターは、第2次世界大戦後の変化を見て、社会主義への移行が進むと診断した。確かに、戦後の経済システムは、それを「社会主義」と呼ぶかは別にして、ケインズ主義的なマクロ経済運営、労働規制の強化、福祉国家など、国家の経済管理が戦前とは比べものにならないほどに強化された。
なぜ、第2次世界大戦を契機として、国家の経済管理が格段に強まったのか。それは、戦時経済の名残である。
総力戦においては、国家は、国民や資源を戦争のために総動員するため、国家による経済管理が格段に強まる。問題は、その経済管理が戦後も残存するということだ。
https://toyokeizai.net/articles/amp/344506?page=3

「酸素吸入器付き資本主義」に導くコロナ危機

「戦時経済」「長期停滞」の先にある社会主義化

例えば、財政の規模は、戦時中、軍事費の膨張により肥大化する。ところが、戦後、軍事費は縮小しても、財政規模全体は戦前の水準には戻らないのである。この現象を「置換効果」と言う。実際、1929年時点の英仏独のGDP比中央政府支出は15%程度、アメリカはわずか3%であったが、戦争を挟んで、1962年時点では英仏が約25%、独が約20%、アメリカに至っては約18%とおよそ6倍になったのである。
さて、今回のコロナ危機では、各国とも、戦時経済の様相を呈している。もし「置換効果」が働くならば、コロナ危機が去った後も、国家の経済管理は、コロナ発生以前の水準には戻らないということになろう。
しかも、欧州では政府支出がGDPの40%以上を占める国が少なくなく、フランスなどは55%を超えていた。ちなみにアメリカは約35%、日本は約37%である。コロナ危機では、これに加えてさらにGDPの1~2割の規模の経済対策が行われている。ここで「置換効果」が働くなら、GDPの半分かそれ以上を政府支出が支えるような経済が出現することになる。そのような経済は、シュンペーターに言わせれば、ほぼ「社会主義」であろう。

財政政策なしに機能しなくなった資本主義

コロナ危機に加えて、もう1つ、社会主義化へと向かう重要かつ長期的なトレンドがある。21世紀の各国経済は、ローレンス・サマーズの言う「長期停滞」に陥っている。「長期停滞」とは、投資機会が不足し、低金利と低成長が持続する状態である。これに加えて、コロナ危機がデフレ圧力を発生させているから、世界経済の停滞は、より深刻かつ長期化するであろう。
さて、低金利やディスインフレ・デフレに陥ると、民間銀行による信用創造は困難になる。ここで、シュンペーターが、資本主義の決定的な要素は「民間銀行による決済手段の創造」にあるとしていたことを想起されたい。その「民間銀行による決済手段の創造」が低金利やデフレによって阻害されるということは、経済システムが資本主義ではなくなるということだ。
サマーズは、長期停滞下においては、政府が積極的な財政出動を行わなければならないと主張している。さらに、コロナ危機下では、大規模な財政支出がなければ経済を維持できないことは、誰もが認めるところである。
このように、財政政策が支えなければ機能しなくなった資本主義を、シュンペーターは「酸素吸入器付きの資本主義」と呼んでいた。「酸素吸入器付きの資本主義」とは、社会主義への道の途上にある、瀕死の資本主義の姿である。コロナ危機によって、資本主義にも酸素吸入器が必要となったのである。
最後に、誤解を避けるために付言しておくと、私は、資本主義より社会主義のほうが優れていると考えているのではない。
ただ、コロナ危機下の戦時経済と、それ以前からの傾向である長期停滞の2つを踏まえれば、今後は、公的部門の役割がより大きい経済構造にならざるをえないだろうと予測しているだけである。本稿は、シュンペーターの議論と同様、イデオロギーではなく、経済の構造や特徴を論じているにすぎないのである。
したがって、イデオロギー上の理由から、社会主義を拒否して、公的部門の役割をあえて縮小するという選択肢をとることを否定はしない。ただ、酸素吸入器なしで資本主義が機能し続けるかは、保証の限りではないというだけである。