木曜日, 2月 21, 2013

ケンペル『日本誌』及び「鎖国論」:メモ

書評:
小堀桂一郞(1974)『鎖国の思想:ケンペルの世界史的使命』,中公新書


  ケンペル『鎖国論』の邦訳所収


重要なのはケンペル「鎖国論」全文の最新邦訳が所収(61~100頁)されているということだ。
カントが『永遠平和のために』などで参考にしたこの論考は、TPP問題などとも関係するものであり、現在でも参照するだけの価値のある文献だろう(今井正訳『日本誌』全7分冊セット―日本の歴史と紀行-古典叢書-が安価で入手出来ればいいのだが)。
なお「鎖国論」が付録としてつけられた本来の『日本誌』は紀行文(1691~2年日本滞在)である後半も魅力的だが、前半の博物学的な体系的叙述が優れている。
新書という性格上仕方がないが本書には『日本誌』で採用された図版が一切ないのが残念だ。


日本地図:
(ケンペル展図録より)



長崎:



江戸城:





謁見の広間の内部

a牧野備後守の座所。
b幕府高官の着座する場所。
c諸役人が一列に坐っている廊下。
e小石をしきつめた中庭。

1御簾(みす),後ろには,二度目の拝謁の時,将軍や奥方やその一族がいた所。
最初の拝謁の時には,彼らは3.4の後ろに坐っていた。
2の後ろには廷臣たちがいた。
5備後守の定位置。
われわれが拝謁した時には,彼は将軍と話すのに都合のよい6のところに坐った。
7老中。
8若年寄。
9若干の重臣の席。
10侍臣。
11その他の高官。
12一列に並んだ下級の幕臣。
13オランダ使節コルネリウス・フォン・アウトホルン。
14将軍の命令で踊るケンペル。
15オランダ人書記役。
16通詞。
なお本図の四側に掲げたのは各種の日本の武器である。

(平凡社『江戸参府旅行日記』より)


参考:

以下、大分大学・熊谷教子「カントの思考世界と日本」より
http://ir.lib.oita-u.ac.jp/dspace/bitstream/10559/3595/1/23-1-3.pdf

 「訪問の権利は,地球上の表面を共同に所有する権利に基づいて,たがいに交際を申し出る
ことができるといった,すべての人間に属している権利である。地球の表面は球面で,人間
はこの地表のうえを無限に分散していくことはできず,結局は併存して互いに忍耐しあわな
ければならない。人間はもともとだれひとりとして,地上のある場所にいることについて,
他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。」
(『永遠平和のために』)

 外国人が他国に足をふみいれる際にみとめられるのは,所有の権利ではなく、あくまでも訪
問の権利の枠内にとどまるべきだ,とカントはいう。ただ現実の社会情勢は,カントの主張
とぱおおきく隔たっている。ヨーロッパ諸国は,交易や布教活動の名のもとに自国や自派の勢
力拡大を世界の各地でくりひろげる。カントにはそれらの行為は,人格をもつ国家を物件とみ
なす行為に思えた。

 「われわれの大陸の文明化された諸国家、とくに商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度
を比較してみると,かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することは,か
れらにとって,そこを征服することと同じことを意味するが)示す不正は,恐るべき程度に
まで達してしている。アメリカ,アフリカ、香料諸島(モルッカ諸島)、喜望峰などぱ,それら
が発見されたとき,かれらにとってはだれにも属さない土地であるかのようであったが,そ
れはがれらが先住民たちを無に等しいとみなしたからである。東インド(ヒンドゥスタン)
では,かれらは商業支店を設けるだけだという口実の下に軍隊を導入したが,しかしそれと
ともに先住民を圧迫し,その諸国家を扇動して,広範な範囲におよぷ戦争をおこし,飢え、
反乱,裏切り.そのほか人類を苦しめるあらゆる災厄と同様の悪事をもちこんだのである。
 それゆえ中国と日本(ニポン Nipon)が,これらの来訪者をためしたあとで,つぎの
措置をとったのは賢明であった。すなわち中国は,来航は許したが入国は許さず,日本は来
航すらもヨーロッバ民族の一民族にすぎないオランダ人だけに許可し,しかも,その際かれら
を囚人のようにあつかい,自国民との交際に制限をあたえたのである。」
(『永遠平和のために』)


 近代になってヨーロッパの海外進出をくい止める措置として,清朝中国や徳川政権下の日本
をはじめ東アジアのいくつかの国が,鎖国政策をとったことをカントは「賢明な措置」として
肯定している。かれはケンペルの旅行記をとおして,日本が鎖国政策に踏み切った理由をかれ
なりに理解していた。ケンペルは『日本誌』の付録第二章「もっともな理由のある日本の鎖国」
でつぎのような見解をのべている。

 「日本人の場合は,異国との交わりは、ただ生活のため,便益のため、贅沢のために必要な
物資を入手する方便であることは,だれも否定しないであろう。日本の場合には,外国から
もたらすものは,法律は自分の国の国造りのため,宗教は心の安らぎのため,学問は教養の
充実のため,機械技術は生活の必要を充たし,生活に輝きをあたえるため、生産物は衣食生
活に潤いをあたえるため,薬剤は健康をたもつためにほかならない。
 人類の繋りの基盤がここに置かれているならば,自然にめぐまれ,あらゆる種類の必要物
資を豊富に授かっており,かつその国民の多年にわたる勤勉な努力によって国造りが完成し
ている国家としては,自分からは何も求めるものがない外国にたいしては,外国人どもの計
略にのらず,貪慾をはねかえし,騙されないようにし,戦いをしないようにして,その国民
と国境を守ることが上策であり,また為政者の義務でもある。
 その国の位置やその他の条件が,このような隔離を許す状態であり,この国の国民が非常
に強くかつ勇敢で,この隔離状態をまもりとおせるならば。それはたしかに納得できる国家
の行き方であろう。日本は他の世界諸国に比べて、このような有利な条件に恵まれている国
である。」@

 このような賛美ともとれる日本理解とかれの鎖国権護論は,ケンペル自身が「現にわたしが
耳にした限りでも,最近の学者のなかにも何人か,目本の鎖国を非難する議論を展開している
ものがある」@@とかたっているように,ヨーロッバでは賛否両論意見がわかれるところであっ
だ。ヨーロッパ中心主義がつよまる十八世紀半ばをすぎるとなおさらである。


@
1)E、Kampfer,Geshichte und Bcschreibung von Japan,Bd.2,Lemgo 1779,S.395.
  ケンベルの鎖国論は,最初『廻国奇観』に掲載されていが,C.W,Dohmが『日本誌』のドイツ語版
 を編集するさいに,『日本誌』の末尾に収録して出版した。したがって,この論文では,ドーム版『日
 本誌』のページ数をしめすことにする。
@@
2)Phvsische Geogmphie in: Kants Werke Bd.IX,S.159.


/////////


邦訳:

エンゲンベルト・ケンプル著,志筑忠雄訳「鎖国論」,『少年必読日本文庫 第五編』所収,博文館,1891(志筑忠雄訳「鎖国論」,1801成,オランダ語版に基づく)

エンゲルベルト・ケンペル著,今井正編訳『[新版]改訂・増補 日本誌-日本の歴史と紀行-』(7分冊),霞ヶ関出版,2001(ドーム版に基づく)

※ドーム版に基づく小堀桂一郞訳「鎖国論」は下記の小堀桂一郞(1974)に含まれている(pp.61-124).

小堀桂一郞(1974)『鎖国の思想:ケンペルの世界史的使命』,中公新書


『廻国奇観』
http://wolfgangmichel.web.fc2.com/publ/misc/1998/199811_kyudaiho.html#top
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kaempfer/kikan.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/gallery/kenpher/page.html?style=a&part=1&no=1

9 Comments:

Blogger yoji said...

『ケンペル』ミネルヴァ
によると
1708年ケンペルはライプニッツと会っている

3:12 午前  
Blogger yoji said...


【長崎】130年ぶり、出島に橋…対岸とつながる[02/27]©2ch.net

1 : のっぺらー ★ 転載ダメ©2ch.net2017/02/27(月) 12:40:30.40 ID:CAP_USER
長崎市は27日、復元整備を進めている国指定史跡「出島和蘭商館跡」と同市江戸町との間に橋を架ける作業を行った。

明治期に橋が撤去されて以来、出島が対岸と橋でつながるのは約130年ぶり。
今後、手すりなどを取り付け、11月には観光客らが通れるようになる。

出島は江戸幕府の指示で1636年に築造された扇形の人工島で、西洋との唯一の貿易拠点として栄えた。
当時は海に囲まれ、長崎の商人や役人らは石造りの橋を通って行き来していた。
開国後は周囲が埋め立てられ、現在は一部が中島川に面している。

設けられたのは鉄製の「出島表門橋」。
長さ約38・5メートル、幅約4・4メートルで、この日はクレーンで橋げたをつるし、両岸に架ける作業が行われた。
総事業費は約5億6000万円。
川幅が当時より広がっているため形状などは異なるが、橋が架かる場所は同じという。
市は「当時の人と同じ目線で、出島への出入りが体験できるようになる」とアピールしている。

写真:出島(左)と対岸を結ぶ「出島表門橋」の橋げた
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20170227/20170227-OYT1I50019-L.jpg

以下ソース:YOMIURI ONLINE 2017年02月27日 11時55分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170227-OYT1T50048.html

9:17 午後  
Blogger yoji said...



参考:
以下、大分大学・熊谷教子「カントの思考世界と日本」より
http://ir.lib.oita-u.ac.jp/dspace/bitstream/10559/3595/1/23-1-3.pdf

 「われわれの大陸の文明化された諸国家、とくに商業活動の盛んな諸国家の
非友好的な態度
を比較してみると,かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問す
ることは,か
れらにとって,そこを征服することと同じことを意味するが)示す不正は,恐
るべき程度に
まで達してしている。

 それゆえ中国と日本(ニポン Nipon)が,これらの来訪者をためした
あとで,つぎの
措置をとったのは賢明であった。すなわち中国は,来航は許したが入国は許さ
ず,日本は来
航すらもヨーロッバ民族の一民族にすぎないオランダ人だけに許可し,しかも
,その際かれら
を囚人のようにあつかい,自国民との交際に制限をあたえたのである。」
(カント『永遠平和のために』)

 近代になってヨーロッパの海外進出をくい止める措置として,清朝中国や徳
川政権下の日本
をはじめ東アジアのいくつかの国が,鎖国政策をとったことをカントは「賢明
な措置」として
肯定している。かれはケンペルの旅行記をとおして,日本が鎖国政策に踏み切
った理由をかれ
なりに理解していた。ケンペルは『日本誌』の付録第二章「もっともな理由の
ある日本の鎖国」
でつぎのような見解をのべている。

 「日本人の場合は,異国との交わりは、ただ生活のため,便益のため、贅沢
のために必要な
物資を入手する方便であることは,だれも否定しないであろう。

 その国の位置やその他の条件が,このような隔離を許す状態であり,この国
の国民が非常
に強くかつ勇敢で,この隔離状態をまもりとおせるならば。それはたしかに納
得できる国家
の行き方であろう。日本は他の世界諸国に比べて、このような有利な条件に恵
まれている国
である。」@

@E、Kampfer,Geshichte und Bcschreibung von Japan,Bd.2,Lemgo 1779,S.395.
  ケンベルの鎖国論は,最初『廻国奇観』に掲載されていが,C.W,Do
hmが『日本誌』のドイツ語版
 を編集するさいに,『日本誌』の末尾に収録して出版した。

2:34 午前  
Blogger yoji said...

エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 現代ドイツ語読みではエンゲルベアト・ケンプファー、1651年9月16日 - 1716年11月2日)は、ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。出島の三学者の一人。

目次
経歴 編集

旅立ち 編集
現ノルトライン=ヴェストファーレン州のレムゴーに牧師の息子として生まれる。ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている。この2つの経験が、後に平和や安定的秩序を求めるケンペルの精神に繋がったと考えられる。故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルク、リューベック、ダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた。

1681年にはスウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王カール11世がロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とペルシアのサファヴィー朝に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになった。ケンペルの地球を半周する大旅行はここに始まる。

1683年10月2日、使節団はストックホルムを出発し、モスクワを経由して同年11月7日にアストラハンに到着。カスピ海を船で渡ってシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月を過ごす。ケンペルは、この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になった。さらに南下を続けてペルシアに入り、翌年3月24日に首都イスファハンに到着した。ケンペルは使節団と共にイランで20か月を過ごし、さらに見聞を広めてペルシアやオスマン帝国の風俗、行政組織についての記録を残す。彼はまた、最初にペルセポリスの遺跡について記録したヨーロッパ人の一人でもある。


江戸城で西洋のダンスを披露するケンペル。『日本誌』より
日本 編集
その頃、ちょうどバンダール・アッバースにオランダの艦隊が入港していた。ケンペルは、その機会を捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。こうして1年ほどオランダ東インド会社の船医として勤務した[1]。その後、東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた時に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうしてケンペルはシャム(タイ)を経由して日本に渡る。1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在した。1691年(元禄4年)と1692年(元禄5年)に連続して、江戸参府を経験し将軍・徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳・今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した。

2:03 午前  
Blogger yoji said...

鎖国論―影印・翻刻・校註 | エンゲルベルト ケンペル, Engelbert Kaempfer, 志筑 忠雄 |本 | 通販 | Amazon
https://www.amazon.co.jp/dp/4896941934/
2015


書斎
ベスト500レビュアー
5つ星のうち5.0志筑忠雄写本の印影・翻刻・校注書。極めて貴重な書
2017年5月2日
Amazonで購入
ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルのThe History pf Japanのオランダ語訳第二版(1733)の巻末附録の最終章を志築忠雄が訳出した「鎖国論」(1801)を影印・翻刻し、校注を施したのが本書である。影印の部分は我々素人には読解不可能なので、頼りは翻刻の部分と校注である。おりもおり、文部科学省が2017年14日に公表した小中学校の次期学習指導要領の改定案によると、社会科では、教科書の歴史用語が学術研究を踏まえて変更され、江戸時代の「鎖国」の表記が消えるという。 江戸幕府の対外政策を指す用語として使われてきた「鎖国」は、江戸後期に登場したが、実際は長崎や対馬などを窓口として交易が行われていたというのが「鎖国」の表記が消えるという理由である。本当に消えるのか否か、それとも「鎖国政策」として生き残るのか否か、まだ流動的であるが、「鎖国」という用語が日本人の発明でなく、ドイツ人が英語の日本史を書きそれがオランダ語訳され、さらにそれが日本語に訳されて生まれた訳語というのは意外である。本書は手強い書であるが熟読に値する書である。
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7:48 午後  
Blogger yoji said...


https://55096962.at.webry.info/201001/article_15.html

「シュメル -人類最古の文明」(中公新書/小林登志子)という本がある。
この本自体は以前も紹介したことがあり、良本とオススメ出来るので興味のある人は是非とも手にとってみてほしい一品である。




が、この中にちょっと気になることが書いてあり。
前書きの部分なのだが

なお、我が国では「シュメル」ではなく「シュメール」と「長音記号」を入れて表記されることが多いが、これには理由がある。第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した。そこで、我が国におけるシュメル学の先達であった中原与茂九郎先生(京都大学名誉教授)が混同されないように音引きを入れて、「シュメール」と表記された。この話を中原先生から三笠宮崇仁様は直接うかがったという。こうした事情をふまえて、本書では「シュメール」よりも、「シュメル」の方がアッカド語の原音に近い表記でもあり、「シュメル」を採用した。


(三笠宮殿下はオリエント史の専門家で大御所的扱い。この本にも「はしがき」を寄せておられる。)


「引っかかったのは、シュメル人=日本人」だの「シュメル=すめらぎ」だのいう説が戦前の日本に横行していたという話は本当なのかということ。そんなバナナな説が広まるもんなの? 誰も信じなくない?
つか高天原がバビロニアって。そんな高天原俺は嫌だぞ。社会構造的な意味で(笑)
*バビロニアでは負債奴隷が横行してました。
 なので、ハンムラビ「法典」などでは、借金で首が回らなくなって奴隷身分に落とされた人の取り扱いが山ほど出てきます…

と、いうわけで、ちょいちょいと漁ってみたところ、これが意外と根深い話だということが見えてきた。
まず、最初に「シュメルってすめる(すめらぎ)と音似てるよね」と言い出したのは、エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)さんだった。日本について初めて体系的に記述した「日本誌」の著者だ。
*ケンペルはオランダ語読み、出身地のドイツ語読みだとケンプファー

ケンペルはオランダ船でやってきて、鎖国中の日本にやって来て出島に滞在した人物で、医師である。時は、徳川綱吉の時代。「日本誌」が発刊されたのは18世紀初頭だから、その中にちらっと書かれた「シュメル=すめる」説が日本に広まるのは、もっとずっと後のことになる。

時は流れ、200年後。
ケンペルの説を発展させたのは、日本人 原田敬吾。
この人物、日本オリエント学界の創立者であり、こんにちエジプトやメソポタミア関係の文献を漁っていると必ず名前の出てくる杉勇先生と知己の仲であったというから驚きだ。どうやら、そのへんの物好きが好き勝手に吹聴してたんじゃなく、それなりの立場のある学者がマジメに取り組んでいたらしい。

7:18 午前  
Blogger yoji said...


なんで、シュメル語で「王」を何て呼ぶか最初に調べなかったの…。(シュメル語での王は「ルガル」という。ルガル・バンダ とかのルガルね)

いちばん偉い人の役職名に地域名つけてどーすんの(笑) 山陰地方出身の王がアメリカに移住して「俺はサン・インだ」とか名乗ったらおかしかろうに。しかもシュメルってアッカド語なんだよね実は…。シュメル人に代わりアッカド人が台頭したあとでつけられた名前。ほんとにアッカド人に追い出されたシュメル人が日本まで来てたんなら、シュメル語で役職名つけると思う。 うん、なんか片っ端からツッコミどころ満載だよね。
「なんとなく似てる言葉がある気がするから!」とか、あまりにも浅すぎてオカルト好きでも食いつかないネタなんで、今ならもう、学者に危機感を抱かせるほど広まることはないと思う…。

7:19 午前  
Blogger yoji said...

https://ameblo.jp/mah161726/entry-12538516267.html
720年に完成した『日本書紀』では、聖徳太子が煬帝に送った国書(608年)で「天皇」が使われていたと書かれています。これは後追いで創作されたものとする説があります。この説では、日本が「天皇」を使う以前に、中国で既に高宗が「天皇」を使っており、これに触発され、日本も「天皇」を使いはじめたとされます。

高宗の在位期間の649~683年と「天皇」称号の確立時期がきれいに一致することからも、この説は有力であり、『日本書紀』が後から、国書原文で使われた称号を「天皇」と書き換えたという可能性は極めて高いでしょう(「天皇」後追い説)。

逆に、日本が608年の段階で「天皇」を使い、その後に高宗が「天皇」を名乗ったという可能性は極めて低いと考えられます。

「天皇」の称号が使われる以前、日本の君主は「オオキミ(またはオホキミ)」や「スメラミコト(またはスベラギ、スベロギ)」と呼ばれていました。「オオキミ」は漢字で「大王」と書き、史書にも記され、一般的に普及していた呼び方でした。

一方、「スメラミコト」は格式ばった言い方で、「オオキミ」の神性を特別に表す呼び方でした。謎めいて儀式的な響きのする「スメラミコト」が何を意味するのか、はっきりとしたことはわかっていませんが、いくつかの解釈があります。その代表的なものが、「スメラ」は「統べる」、つまり統治者を意味するという説です。

この他に、神聖さを表す「澄める」が転訛したとする説もあります。「ミコト」は神聖な貴人を表します。

「スメラミコト」に匹敵する漢語表現、つまり当時の国際言語を探し求め、宗教的かつ神話的な意味を持つ「天皇」がふさわしいと選定されたのではないかと考えられます。

欧米人はいつ天皇を「エンペラー」と呼んだか

では、世界の人々は「天皇」が中国皇帝に対抗する称号であったということを理解した上で、天皇を「キング」ではなく、「エンペラー」と呼んだのでしょうか。

結論から言って、理解していました。欧米人は天皇を17世紀末から「エンペラー」と呼んでいました。

江戸時代に来日した有名なシーボルトら三人の博物学者は長崎の出島に因んで「出島の三学者」と呼ばれます。

「出島の三学者」の一人で、シーボルトよりも約140年前に来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルという人物がいます。ケンペルは1690年から2年間、日本に滞在して、帰国後、『日本誌』を著します。

この『日本誌』の中で、ケンペルは天皇を「皇帝」と書いています。1693年頃に書かれたケンペルの『日本誌』が、天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられています。

ケンペルは日本の事情に精通しており、「天皇」の称号が中国皇帝に匹敵するものであるということをよく理解していました。そしてケンペルの『日本誌』が普及したことで、天皇が「皇帝」と呼ばれることがヨーロッパで定着しました。

一般的な誤解として、天皇がかつての大日本帝国 (the Japanese Empire) の君主であったことから、「エンペラー」と呼ばれたと思われていますが、そうではありません。1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布時よりも、ずっと前に、天皇は欧米人によって、「エンペラー」と呼ばれていたのです。

7:30 午前  
Blogger yoji said...


https://cool-hira.hatenablog.com/entry/2020/03/03/060426

どうでもいい、じじぃの日記。
シュメール人はどこから来て、どこへ行ってしまったのか?
メソポタミア文明は世界4大文明の1つで世界最古の文明とされ、太陰暦・楔形文字・60進数法等を考え出したといわれる。
たぶん、彼らは古代インダス文明を作った人々と共通祖先なのだろう。
旧約聖書の創世記に登場するノアは、シュメール人のことのようだ。
都市国家として発展したシュメール文明は、紀元前2350年頃サルゴン率いるアッカド王国に征服されセム人の支配を受ける。
やがてシュメール人は自らの支配を取り戻し、紀元前2050年頃ウル第3王朝として復活する。
この時代を最後に、シュメールの栄光はメソポタミアの歴史から姿を消してしまう。
彼らはどこに消え去ってしまったのだろうか。
「シュメール人は、紀元前2000年代にアッカド人に追われて大西洋を越えてアメリカ大陸に逃れたり、アラビア海から北へ逃れて黒潮に乗って極東の日本にも達した」
私たち日本人はシュメール人の末裔らしい。
これを信じるパワーはピラミッドパワーといわれる。

じじぃの「謎のシュメール人は極東の日本に渡った?パワースポットはここですね」

7:34 午前  

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