火曜日, 9月 25, 2018

貨幣数量説、孟子・クセノフォン他




 テュルゴー  クールノーパレート  シカゴ学派        ┃
 コンディヤック     ┃ 主流派   フリードマン  ルーカス┃ 
ケネー          ┃    ┏新貨幣数量説━合理的期待学派┫
             ┃    ┃              ┃
   (貨幣中立説)   ┃    ┃RBC(リアル・ビジネス・サイクル)モデル
 機械的貨幣数量説━━━┳貨幣数量説┛     外生的 プレスコット
ヒューム        ┃フィッシャー ハイエク     キドランド
 連続的影響説     エッジワース  ドラッカー  バロー サージェント
      シーニョア ┃オーストリア学派   内生的  ┏━━━┛
  平均効用 限界効用 メンガー バヴェルク       ┗DSGE
     セイ   ジェボンズ  転形論争

貨幣数量説

貨幣数量説(かへいすうりょうせつ、quantity theory of money)とは、社会に流通している貨幣の総量とその流通速度が物価の水準を決定しているという経済学の仮説。物価の安定には貨幣流通量の監視・管理が重要であるとし、中央政府・通貨当局による通貨管理政策の重要な理論背景となっている。


歴史:編集

貨幣数量説の萌芽として、14世紀エジプトの歴史家マクリーズィーの議論がある。当時のエジプトでは金と銀の不足により銅貨がインフレーションを起こし、経済危機が発生していた。マクリーズィーは銅貨の流通と物価に注目し、金銀を取引の中心にすえて貨幣政策を行うよう主張した[1]

ヨーロッパにおける貨幣数量説の議論は、文献の上ではサラマンカ学派ジャン・ボダンジョン・ローの真手形ドクトリン、リチャード・カンティロンのエッセイに端緒を発する。スペインでは新大陸からの金塊の略奪と流入は経済の活性化につながっていると報告され、またイギリスでは戦争や海戦の発生により、なんとはなく経済が刺激されていると観想がなされていた一方で、古典派の啓蒙思想においては貨幣の中立性が強調された。国富の増強は生産能力の増強や市場の整備などによるべきであり、貴金属の他国からの掠奪や金鉱の開発など貨幣そのものの増大を目的としても意味がないとされた。  

  1. ^ 加藤博『イスラム経済論』書籍工房早山、2010年。 p166

平山
12:

2.3貨幣数量脱の起源貨幣数量説の起源をたどれば中国の子L子やギリシャのクセノフォンにまで遡ることができるようだが,a19世紀末に1つの完成をみる貨幣数量説の直接の起源は16世紀のスペインに求められる。当時のスペインでは中南米の「新世界」から金銀が流入し,物価が大きく上昇した。のちに「価格革命」として有名になったこの現象は,スペインの貿易収支の赤字によリヨーロッパの国々(とくにイタリア・フランス・オランダ・イギリス)にも波及したので,当時の学者たちの注意を惹いたものと思われる。当時のスペインではサラマンカ大学を中心に,スコラ主義の学問が盛んに研究され,そのなかで経済の現象に関しても多くの記述がなされた。たとえば1556年にアスピルクエタ(Azpilcucta)は次のように述べている:………他の条件が同じであれば,貨幣が多い国よりも少ない国ではすべての商品や労働が安くなる スペインよりも貨幣が少ないフランスでは,パン・ワイン・布・労働が安いことを我々は経験から知っている.スペインでさえ,インド諸島の発見で金銀が大量に流入する以前には貨幣が少なく,商品や労働は安かった.貨幣が豊富にあるのではなく貨幣が少ないときは貨幣の価値が高くなるからである.つ上記引用中の「インド諸島」は,コロンブスの発見した西インド諸島とメキシヨ・チリ・ペルーなどの中南米植民地を含むものと理解してよさそうである.これらの地域からまず金,のちに銀が大量にスペインに流入し,スペインの物2)Hcgcland(1951),pp 7-10 なおこの研究書は全編を通して貨幣数量説の歴史的発展とその評価について詳述している3)G五cc―Hutchhson(1978),p104 以下,原典の引用に際して,原典の日本語訳がある場合でも,参考にはしたが,すべて筆者の試訳である|


Hugo Hegeland - 1951 - スニペット表示
The attempts to trace the origin of the 'simple' form of the quantity theory as far back as possible in the history of ... The 'simple' or 'primitive' form is generally understood as containing only a statement that changes in the quantity of ... a statement would primarily be to show that the value of money is not something fixed and intrinsic, but is a flexible ... that is was »the duty of a good ruler of the empire to exercise control over the relative value of commodities and the quality of the money.


Hegeland (Hugo) - The Quantitative Theory of Money. A critical ...
www.persee.fr/.../reco_0035-2764_1953_num_4_4_40...
[Note: Göteborg, Elanders Boktzyckeri, 1951. In-8°, x-262 p. 25 couronnes suédoises. M. Hegeland nous contie dans sa ...


hegeland
Already  the  Chinese  reflected  upon  the  value  of  money.  In  the  writing of  Confucius’  disciples  there  are  statements  that  imply  the  application  of the  general  law  of  demand  and  supply  to  the  value  of  money.  Thus  Matawn-lin  declared  that  it  was  “the  duty  of  a  good  ruler  of  the  empire  to exercise  control  over  the  relative  value  of  commodities  and  the  quality  of money.  But  this  should  be  done  by  changing  the  amount  of  goods!”  The causal  relation  is  thus  reversed  to  that  of  the  quantity  theory,  but  to  restore the  old  value  of  the  monetary  unit,  the  quantity  of  money  is  said  to  be  lessened.  Hence,  Ma-twan-lin’s  theory  is  based  upon  the  opinion  that  average prices  shall  not  differ  from  the  “usual”  purchasing  power  of  money  in either  direction. It  may  be  worth  mentioning  that  the  observations  both  refer  to  a  period  when  the  government  alone  had  the  power  to  issue  coins  and  consequently  to  determine  the  stamp  value  of  the  coin.  The  main  task  for  the government  was  to  keep  the  purchasing  power  of  money  equal  to  its  stamp value,  which,  in  the  minds  of  the  people,  probably  represented  a  certain amount  of  goods.  It  is  very  interesting,  indeed,  that  the  modern  policy  of keeping  the  price  level  stable  was  considered  to  be  the  duty  of  the  government  even  in  those  days!

すでに中国人はお金の価値を反映しています。孔子弟子の執筆では、お金の価値に需要と供給の一般法則を適用することを暗示する陳述があります。したがって、Matawn-linは、「商品の相対価値とお金の質を支配するのは、帝国の良い支配者の義務である」と宣言した。しかし、これは商品の量を変えることによって行うべきである! "因果関係は量論のそれとは逆になるが、通貨単位の古い価値を元に戻すために、金額は少なくなると言われている。したがって、Ma-twan-linの理論は、平均価格がどちらの方向でも「普通の」購買力と変わらないという意見に基づいている。観察だけでは、政府だけでコインを発行し、結果としてコインのスタンプ値を決定する権限がある期間を指すことに言及する価値があるかもしれません。政府の主な任務は、貨幣の購買力をその人の心の中でおそらく一定量の財を代表する刻印価値と同じに保つことでした。その時代にあっても、物価安定の現代政策は政府の義務と考えられていたのは、本当に興味深いことです。

Mencius - Wikipedia

en.wikipedia.org/wiki/Mencius

Mencius or Mengzi was a Chinese philosopher who has often been ... Mencius is buried in the "Mencius Cemetery" (孟子林, Mengzi Lin, also known as 亞聖林, Yasheng Lin), which is located 12 km to ...


Ma lin  Confucius money

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E5%8F%B2

春秋戦国時代から漢代にかけては、多くの貨幣論も書かれている。春秋戦国時代の出来事をもとに書かれた『国語』に登場する単穆公は、基準通貨と補助通貨の2種類の貨幣で調整をするという子母相権論を説いた。紀元前5世紀頃の『墨子』では刀貨と穀物価格の関係を論じており、紀元前4世紀頃の『孟子』では一物一価の法則への反論がなされている。司馬遷は『史記』の貨殖列伝で范蠡の逸話を通して物価の変動を説き、『管子』は君主による価格統制をすすめている[46]。文芸作品では、西晋魯褒が当時の社会を風刺した『銭神論』を著している[47]

日本のお金、中国のお金(上) | nippon.com

www.nippon.com/ja/column/g00486/

2017年12月27日 ... さらに、中国の儒学者孟子も「恒産なくして恒心なし」と喝破して .... 日本銀行で見るお金の歴史:貨幣博物館.


孟子wiki

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90

孟子の対立思想として、荀子の性悪説が挙げられる。しかし、孟子は人間の本性として「#四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(きんじゅう。けだものの意)同然の存在だと言う。決して人間は放っておいても仁・義・礼・智の徳を身に付けるとは言っておらず、そのため学問をして努力する君子は禽獸同然の人民を指導する資格があるという主張となる。一方、荀子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀という「偽」(こしらえもの、人為の意)を後天的に身に付けることによって公共善に向うことができると主張する。すなわち、両者とも努力して学問することを通じて人間がよき徳を身に付けると説く点では、実は同じなのである。すなわち「人間の持つ可能性への信頼」が根底にある。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な人間中心主義に終始したのに対して、荀子は君主がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによってそのまま法家思想となっていった。


北村 孟子 248頁

https://books.googleusercontent.com/books/content?req=AKW5QaeBKlb0-tsyJFiPTrcoqCUejSMLnZoHA-FIm_LuGr6v--CgJS-1Gn5QChpbKc6bhbydRfrSKqWY9Gap-G9gKn92Yr09f5eTxCsb-OQSwmlfYv3qqhDvC6ogrPAXZP-IIXNEk43gR4uZZYvrRpsndHAEoDUQwZTgx_0KdpFmuzlW34ThGXJBdnVq47VDF_MYiFxm5P4S1ops-T8X0qNEcRFe9zFcJvh2_kE4KqnbzWgR1I1Q36b00jO0rRCrEPSzPJNZ_LX_




滕文公章句上4

曰、夫物之不齊、物之情也。或相倍蓰、或相什伯、或相千萬。子比而同之、是亂天下也。巨屨小屨同賈、人豈爲之哉。從許子之道、相率而爲僞者也。惡能治國家。
夫、音扶。蓰、音師、又山綺反。比、必二反。惡、平聲。○倍、一倍也。蓰、五倍也。什伯千萬、皆倍數也。比、次也。孟子言、物之不齊、乃其自然之理、其有精粗、猶其有大小也。若大屨小屨同價、則人豈肯爲其大者哉。今不論精粗、使之同價、是使天下之人皆不肯爲其精者、而競爲濫惡之物以相欺耳。
【読み】
曰く、夫れ物の齊[ひと]しからざるは、物の情[せい]なり。或は相倍蓰[ばいし]し、或は相什伯し、或は相千萬す。子比[つ]いで之を同じうせば、是れ天下を亂るなり。巨屨小屨賈を同じうせば、人豈之をせんや。許子が道に從わば、相率[ひき]いて僞をせん者なり。惡んぞ能く國家を治めん、と。
夫は音扶。蓰は音師、又山綺の反。比は必二の反。惡は平聲。○倍は一倍なり。蓰は五倍なり。什伯千萬は皆倍數なり。比は次ぐなり。孟子言う、物の齊しからざるは、乃ち其れ自然の理にて、其の精粗有るは、猶其の大小有るがごとし。若し大屨小屨價を同じうせば、則ち人豈肯えて其の大いなる者をせんや。今精粗を論ぜず、之れ價を同じうせしむるは、是れ天下の人をして皆肯えて其の精なる者をせず、競って濫惡の物をして以て相欺かしむるのみ。


滕文公章句上5
○墨者夷之、因徐辟而求見孟子。孟子曰、吾固願見。今吾尙病。病愈、我且往見。夷子不來。辟、音壁、又音闢。○墨者、治墨翟之道者。夷、姓、之、名。徐辟、孟子弟子。孟子稱疾、疑亦託辭以觀其意之誠否。


In the long list of writers who have been pointed out as the originators of the quantity theory Xenophon is the oldest except for the Chinese: “With an increase in the number of bronze-workers articles, bronze may become so cheap that the bronze-worker has to retire from the field… But the converse is the case in the working of silver; there the larger the quantity of ore discovered and the greater the number of persons ready to engage in the operation “(The Works of Xenophon, tansl. by H.G. Dakyns, London 1892, vol. II, p. 335). His argument evidently is that nobody will ever get too much money -an idea you will later meet in the writings of Locke- because silver is the commonly accepted medium of exchange. Thus the general law of demand and supply has no bearing in this case, whereas gold, in spite of being a precious metal, will decrease in value


when its supply is increased. Evidently, Xenophon’s statement is diametrically opposed to the quantity theory, and one might instead be inclined to denote him as the first anti-quantity theorist.


ヘグランド
http://archivesofeconomichistory.com/webdata/magaz/040113210417VolumeXI_No1-2_2000.pdf
11,12:

量論の創始者として指摘されている作家の長いリストの中で、キセノンは中国人を除いて最も古く、「青銅労働者の記事の数が増えれば、青銅は非常に安くなり、青銅労働者現場から退く必要があります...しかし、逆は銀の働きの場合です。発見された鉱石の量が増え、作業に従事する準備ができている人の数が増える」(H.G.Dakyns、London 1892、vol。II、p.335のXenophon、tanslの作業)。彼の主張は明らかに、あまりにも多くのお金を儲ける人はいないということです。なぜなら銀は交換の普遍的に受け入れられる媒体なので、あなたが後でLockeの執筆で会うという考えです。したがって、需要と供給の一般的な法則はこの場合には関係しないが、金は貴金属であるにもかかわらず価値が低下する

その供給が増加したとき。明らかに、ゼノフォンの陳述は、量論に正反対であり、代わりに、彼を最初の反量論者とする傾向があるかもしれない。

Ways and Means, by Xenophon

ebooks.adelaide.edu.au/x/xenophon/x5wa/

With an increase in the number of bronze-workers articles of ... may become so cheap that the bronze-worker has to retire ... But the converse is the case in the working of silver; there ...

IV
.46 But in silver mining [operations] the universal complaint is the want of hands. Indeed there is no analogy between this and other industries. With an increase in the number of bronze-workers articles of bronze may become so cheap that the bronze-worker has to retire from the field. And so again with ironfounders. Or again, in a plethoric condition of the corn and wine market these fruits of the soil will be so depreciated in value that the particular husbandries cease to be remunerative, and many a farmer will give up his tillage of the soil and betake himself to the business of a merchant, or of a shopkeeper, to banking or money-lending. But the converse is the case in the working of silver; there the larger the quantity of ore discovered and the greater the amount of silver extracted, the greater the number of persons ready to engage in the operation. One more illustration: take the case of movable property. No one when he has got sufficient furniture for his house dreams of making further purchases on this head, but of silver no one ever yet possessed so much that he was forced to cry “enough.” On the contrary, if ever anybody does become possessed of an immoderate amount he finds as much pleasure in digging a hole in the ground and hoarding it as in the actual employment of it. And from a wider point of view: when a state is prosperous there is nothing which people so much desire as silver. The men want money to expend on beautiful armour and fine horses, and houses, and sumptuous paraphenalia47 of all sorts. The women betake themselves to expensive apparel and ornaments of gold. Or when states are sick,48 either through barrenness of corn and other fruits, or through war, the demand for current coin is even more imperative (whilst the ground lies unproductive), to pay for necessaries or military aid.



クセノポン

クセノポン(クセノポーン、ΞενοφώνXenophon紀元前427年?-紀元前355年?)は、古代ギリシアアテナイ軍人哲学者著述家。アテナイの騎士階級の出身で、ソクラテスの弟子(友人)の1人でもあった。クセノフォンとも。

クセノポンはグリュロスなる人物の息子で、(古代ギリシアでは父の名を息子につける慣習があるため)同名の息子がいる。息子のグリュロスは紀元前362年マンティネイアの戦いでテバイの名将エパメイノンダスを討ち取ったといわれる(パウサニアス, VIII. 11. 6; IX. 15. 5)。

目次

生涯編集

ソクラテスとの出会い編集

クセノポンがソクラテスの弟子になるにあたっては、次のようなことがあったと、ディオゲネス・ラエルティオス著の『ギリシャ哲学者列伝』(第2巻第6章)に書かれている。

青年時代、アテナイの町を歩いていると、ソクラテスがやってきて、杖でクセノポンの行く手を阻んだ。ソクラテスは、青年クセノポンに尋ねる。「○○を手に入れるには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えると、ソクラテスは畳み掛けるように、さまざまな食料品についてこの質問を繰り返した。クセノポンがいちいちそれに答えると、最後にソクラテスはこう言った。「では、立派な人になるためには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えられないでいると、ソクラテスはこう言った。「では、私のところに来て、勉強しなさい」。クセノポンは、この時以降、ソクラテスの弟子になったという。

ペルシアへ編集

クセノポンは若いころ、ペルシアアルタクセルクセス2世の弟キュロスが兄王を打倒すべく雇ったギリシア傭兵に参加した(紀元前401年紀元前399年)。クセノポンがこのことについてソクラテスに相談すると、ソクラテスは「神様にお伺いをたてろ」と言った。しかしクセノポンは「参加するにあたっては、どの神にお供えをすればいいか」とお伺いをたててしまい、その答えを聞いてしまった。クセノポンは参加したくてたまらなかったのであろう。ソクラテスはしかたなく「『参加するにあたっては』、とお伺いを立ててしまった以上、神様にうそはつけない」として、参加を許したという。しかし、このおかげでクセノポンは師の死(紀元前399年)に立ち会うことができなかった。

傭兵として参加した東征も、キュロスの戦死によって失敗に終わる。しかし、雇用主と指揮官の死去によってペルシア帝国の真ん中に放り出された傭兵部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威を防ぎながらも敵中を脱することができたのは、クセノポンの名采配あってこそだった。

ペルシアからの帰還とその後編集

アナバシス』はギリシア傭兵たちがまとめて小アジアに侵攻したスパルタに雇われることで終わる。クセノポンは、そのままスパルタ軍の一員として活躍したようである。彼の著作『アゲシラオス』を見ると、スパルタ王アゲシラオス2世に心酔していたことが分かる。始めは、スパルタ軍と小アジアを支配するペルシア帝国との戦いであったが、ギリシア本土で反スパルタ陣営の反乱が生じ、コリントス戦争が勃発するにあたり、スパルタ軍の一員であるクセノポンも反スパルタ陣営との戦いに突入することになる。アテナイも反スパルタ陣営に在ったので、コロネイアの戦いにて、とうとうアテナイ軍を敵にまわして戦うはめになってしまった。

このため、クセノポンは当時の敵国であったスパルタに加担して、祖国に弓を引いたということで、アテナイを追放される。それでも、クセノポンはコリントス戦争をスパルタ側として戦い続けた。その功績を讃えられ、アンタルキダスの和約によってコリントス戦争が終結した後に、クセノポンはスパルタからオリュンピア近くのスキルスに荘園をもらって住み、悠々自適の生活を送りつつ、狩猟や著述にいそしんだという。その後情勢が変わってテーベがスパルタを破ってスキルスを占領したためにクセノポンはスキルスを追われる事になる。だが、皮肉にも今度はテーベの台頭を恐れたアテナイとスパルタが同盟を結んだために、クセノポンはアテナイ追放から解かれた。しかし、アテナイに帰国したかどうかは定かではなく、スキルスの次はコリントスに移住し、そこでその生涯を閉じた。没年は定かではない。

著作編集

クセノポンの著作全体は、ギリシア語の模範テキストに多く用いられたため、ほぼ散逸すること無く現代に伝承されている。

日本語訳編集

参考文献編集

  • 八木雄二 『裸足のソクラテス 哲学の祖の実像を追う』春秋社、2017年
    • クセノポンの著作の重要箇所を訳・註釈し、ソクラテスの人となりを再現する試み。
  • 真下英信 『伝クセノポン「アテーナイ人の国制」の研究』慶應義塾大学出版会、2001年

脚注編集

関連項目編集