日曜日, 9月 17, 2017

Field experiments in economics: Steven D.Levitt John A.Listab、進化する 経済学の実証分析 経済セミナー増刊2016

   ( 経済学リンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: 経済学日本人著者入門書
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_9.html

Field experiments in economics: Steven D.Levitt John A.Listab、進化する 経済学の実証分析 経済セミナー増刊2016

http://nam-students.blogspot.jp/2017/09/field-experiments-in-economics-past.html @


リーマンショックへの反省があまり見られない点に危惧の念が湧くが、良書である。

経済学における実証研究の分類:

           主体均衡 ← 「理論との対応関係」 → 一般均衡
     ↑     ・部分均衡                         
  統計実験データ |
          |
 ラボ実験 
          |         経済実験
          |フィールド実験
          |
 「用いられるデータ」 自然実験   観察データに基づく
          |
 疑似的実験   計量経済学研究
          |
          |
 構造推定    数値解析      AGE/CGE/DSGE
  観察データ   |
     ↓    
                  「数量的検証方法」

出所)Levitt and List(2009)のFigure1*を筆者が拡張したもの。
経済学における実証分析の進化(進化する経済学の実証分析 経済セミナー増刊 ):澤田康幸 より

応用一般均衡モデル  (AGE: Applied General  Equilibrium) 
計算可能一般均衡モデル(CGE: Computable General Equilibrium)
動学的確率的一般均衡モデル(DSGE: Dynamic Stochastic General Equilibrium)

Field experiments in economics



 経済モデルには多くの種類があり、マクロ経済モデル、数量経済モデル、産業関連モデル、計算可能一般均衡モデル(CGE: Computable General Equilibrium)、動学的確率的一般均衡モデル(DSGE: Dynamic Stochastic General Equilibrium)などがある。
 Shoven and Whalley(1984)による応用一般均衡  (AGE: Applied General  Equilibrium) モデルは静学モデルであるものの、複数の製品市場と生産要素市場、および市場間の取引がモデルに反映され、効用関数、生産関数、予算の制約といった条件もモデル内に明確に表されていた。そのため、当該モデルは税制の改変、貿易自由化の経済に対する影響面などで広く利用されている。本研究が採用する計算可能一般均衡モデル(CGE)と応用一般均衡モデルはこの点において同じである。違いは本研究では静学モデルだけでなく、動学モデルも構築していることである。つまり、我々は動学的制約条件下における異時点間の最適化行動も考慮している。 
 一方、Kydland and Prescott (1982)は効用関数、生産関数、予算の制約条件を明示しただけでなく、動学的に最適化した動学モデルに、確率的に発生するインパクトまでも動学的一般均衡モデルに取り込んでいる。ただ、このモデルは多部門の産業政策の評価ではなく、ランダムに発生するインパクトが経済変動に影響する実際の景気循環の研究などで使われることが多く、重要なマクロ経済の仮説の検証によく用いられている。このDSGE(Dynamic Stochastic General  Equilibrium)モデルの特徴は労働供給が内生である上に、ランダムに発生するインパクトを表現している点にある。当然のことながら本研究で構築するCGEモデルでは、モデルの労働供給も内生であり、ランダムに発生するインパクトも明確に表すことができる。DSGEモデルは、主にマクロ経済の評価に用いられ、CGEモデルは主に課税や貿易自由化など産業政策の評価に用いられる。 


 Harrison and List (2004) develop a taxonomy of experiments which proves useful for thinking about the variety of research that falls under the rubric of ‘‘field experiments.’’ They classify field experiments into three categories: artefactual, framed, and natural. Fig. 1 shows how these three types of field experiments compare and contrast with laboratory experiments and the analysis of naturally-occurring data. On the far left in Fig. 1 are laboratory experiments, which typically make use of randomization to identify a treatment effect of interest. Making generalizations outside of this domainmightprovedifficult in some cases (see Harrison and List, 2004; Levitt and List, 2007a,b), but to obtain the effect of treatment in this particular domain the only assumption necessary is appropriate randomization. The right-most part of the empirical spectrum in Fig. 1 includes examples of empirical models that require making identification assumptions to identify treatment effects from naturally-occurring data. Rosenzweig and Wolpin (2000), Blundell and Costas Dias (2002), and Harrison and List (2004), among others discuss the necessary assumptions of these approaches. 

Harrison and List(2004)は、「野外実験」のループルに該当する様々な研究について考えてみるのに役立つ実験の分類法を開発しています。フィールド実験は、人為的、枠組み的、自然の3つのカテゴリに分類されます。図1は、これらの3つのタイプの現場実験をどのように比較し、実験室実験および自然発生データの分析と対比させるかを示す。図1の左端には、典型的には無作為化を利用して目的の治療効果を特定する実験室実験がある。いくつかのケースでHarrison and List、2004; Levitt and List、2007a、bを参照。しかし、この特定の領域における治療効果を得るためには、必要な唯一の仮定は適切なランダム化である。図1の経験的スペクトルの最も右の部分には、自然発生データからの治療効果を同定するための同定仮定を必要とする経験的モデルの例が含まれています。 RosenzweigとWolpin(2000)、Blundell and Costas Dias(2002)、およびHarrison and List(2004)などは、これらのアプローチの必要な前提について議論している。


 Between these endpoints are field experiments. The most minor departure from the typical laboratoryexperiment is the ‘‘artefactual’’ (i.e., artificial, fake, or synthetic) field experiment, which mimics a lab experiment except that it uses ‘‘nonstandard’’ subjects, typically experimental participants from the market of interest.14 Examples of early contributions in this genre include Bohm’s (1972) seminal work comparing how willingness to pay for a sneak previewa Swedish television show differs when the activity is purely hypothetical versus when the payment and sneak preview will actually occur. This study qualifies as an artefactual field experiment because the subject pool is drawn from a random sample of the Stockholm population aged 20–70, as opposed to college students. While Bohm’s insights have influenced a general line of research within environmental economics (see List and Gallet, 2001 for a meta-analysis), the literature did not quickly follow Bohm’s lead to pursue research outside of the typical lab experiment.

 これらのエンドポイントの間にはフィールド実験があります。典型的な実験室実験からの最も小さな出発点は、「非標準的」被験者、典型的には市場からの実験参加者を使用することを除いて実験室実験を模倣する「人為的、擬似的、または人工的」現場実験であるこのジャンルの早期寄稿の例としては、Bohm(1972)の作品があります。スウェーデンのテレビ番組の予告編を支払う意志が、支払いとスニークプレビューが実際に行われる時とはまったく仮定的なものである場合と異なります。この研究は、対象のプールが、大学生とは対照的に、20-70歳のストックホルム人口の無作為標本から引き出されているため、人工現場実験としての資格があります。ボームの洞察は、環境経済学の中で一般的な研究に影響を与えてきたが(リストとガレット、2001年のメタアナリシス参照)、典型的な実験室実験以外の研究を追求するための文献はすぐにはなかった。

      Controlled Data       Naturally-Occurring Data 
___________________________________
 Lab AFE FFE          NFE NE, PSM, IV, STR 

Lab: Lab experiment 
AFE: Artefactual field experiment 
FFE: Framed field experiment 
NFE: Natural field experiment 
NE: Natural experiment 
PSM: Propensity score estimation 
IV: Instrumental variables estimation 
STR: Structural modeling 

      Fig. 1. A field experiment bridge.

Field experiments in economics: The past, the present, and the future

金曜日, 9月 15, 2017

【インド】最古の「ゼロ」文字、3~4世紀のインド書物に 英大学が特定[2017/09/16]



【インド】最古の「ゼロ」文字、3~4世紀のインド書物に 英大学が特定[09/16] [無断転載禁止]©2ch.net

1虎跳 ★2017/09/16(土) 11:10:11.16ID:CAP_USER
最古の「ゼロ」文字、3~4世紀のインド書物に 英大学が特定 

【9月16日 AFP】3~4世紀のインドの書物に記された黒い点が、数字の「0(ゼロ)」の最古の使用例であることを、英オックスフォード大学(University of Oxford)のチームが特定した。 

 この書物は、1881年に現パキスタン国内に位置する村で発掘されたカバノキの樹皮の巻物で、発見場所の村の名前にちなみ「バクシャーリー(Bakhshali)写本」と呼ばれている。1902年からオックスフォード大学のボドリアン図書館(Bodleian Libraries)で保管されてきた。 

 バクシャーリー写本は、すでにインド最古の数学書であるとされていたものの、その年代についてはこれまでさまざまな意見が飛び交っていた。しかし同図書館の科学者チームが放射性炭素年代測定したところ、制作時期がこれまで考えられていたよりも約500年さかのぼる3~4世紀であることが判明した。 

 ゼロの最古の使用例はこれまで、インド・グワリオル(Gwalior)の寺院の壁に残る9世紀の碑銘だとされていた。ゼロを意味する文字はマヤやバビロニアといった古代文明でも使用されていたが、現在使われている「0」記号の起源は古代インドで使用されていた点記号だった。(c)AFP 

AFP 
http://www.afpbb.com/articles/-/3143151?cx_part=topstory&cx_position=3 
http://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/a/a/700x460/img_aa9cfbc7b13f4704be444d27e347b918216862.jpg

水曜日, 9月 13, 2017

【日印】安倍首相、インドで大歓迎 4度目の訪印


インドは高齢化を免れた唯一の大国
アメリカと地球の反対側だからIT産業に有利
“中国共産党のおかげ”でインドと手を組めればOK
https://lh3.googleusercontent.com/-iUMxNeLgaM4/WboKjYiFJvI/AAAAAAABUPk/DL4m3jM40WM_OPNwqJivAbF-P6WVxP-LACHMYCw/s640/blogger-image--1426404676.jpg


【日印】安倍首相、インドで大歓迎 4度目の訪印 [無断転載禁止]©2ch.net

1右大臣・大ちゃん之弼 ★2017/09/14(木) 12:49:56.89ID:CAP_USER9>>78
日本時間13日午後7時すぎ、インド西部の都市アーメダバードに到着した安倍首相。 
熱烈なインド舞踊での歓迎に、昭恵夫人は、思わずスマホで撮影。 
さらに、インドのモディ首相に促されて、花束に囲まれた特別車両に乗り込む安倍首相は、いつの間にか民族衣装の姿に。 
そして始まったのは、9kmに及ぶパレード。 
沿道には、数え切れないほどの市民が押し寄せ、街には、安倍首相の写真を載せた看板に、日本語で「ようこそ」の文字まで。 
アーメダバードは、モディ首相の出身地。 
この地に招かれ、パレードも開かれた外国の首脳は安倍首相が初めてだと、現地メディアは報じている。 
安倍首相にとって、インド訪問は今回で4度目。 
14日には、10回目の首脳会談も控える。 
なぜ、これほどまでにインドとの関係を重視するのか。 
そこには、経済協力、そして、「ある国」をけん制する狙いがあった。 
2016年のGDP(国内総生産)成長率が7.1%と、中国を上回るほど、急速な成長を遂げるインド経済。 
こうした背景から、インドに進出する日系企業も、右肩上がりで増加している。 
経済のつながりを強める中、2016年、モディ首相が来日した際には、「モディ首相は、大変気に入っておられまして...」と、首相自ら、新幹線のトップセールスを展開。 
2023年開業予定のインド初の高速鉄道に、日本の新幹線方式を採用することが決まっており、ほかの路線にも採用を働きかけた。 
インド滞在中には、この高速鉄道の起工式典にも出席し、インフラの輸出を通して、さらなる関係の強化を図ることにしている。 
そして、もう1つ、インドと蜜月関係を築く理由が、中国の海洋進出対策。 
日本にとって経済の生命線ともいえる、南シナ海からインド洋、スエズ運河に至る、シーレーン。 
今、中国が、このシーレーンに強い影響力を及ぼす動きを見せている。 
中国は、ミャンマーやパキスタンなど4カ国に、港の建設を援助。 
つなぎ合わせてみると、インドにネックレスをつけるように囲んでいるのがわかる。 
こうしたことから、海洋の安全保障分野でも連携・協力を進めるなど、日本とインドの関わりは急接近している。 

09/14 00:43 
http://www.fnn-news.com/sp/news/headlines/articles/CONN00370327.html

月曜日, 9月 11, 2017

ハイデガーと不安

http://www.oyg.ac.jp/lib/wp/wp-content/uploads/KJ00004176990.pdf
ハイデガーは#30,40,50と不安に触れる

存在と時間において不安が基調となる

#40

恐れは、「世界」に頽落した非本来的な不安であり、しかも恐れ自身にはそうしたものとしては秘匿されている不安なのである。


哲学にとってタブーとは何か?/デリダ『精神について』Ⅰを読む - 学者たちを駁して

http://rodori.hatenablog.com/entry/2014/05/04/221040
vermeidenの翻訳に賭けられたもの

「避ける」の言わんとするものは何か、とりわけハイデガーにおいては?それは必ずしも回避[evitement]や否認[denegation]ではない。

何が問題なのか。vermeiden[避ける]の翻訳が不可能であることが問題なのである。フランス語のevitement[回避]やdenegation[否認]ではドイツ語のvermeiden[避ける]が孕んでいる独特のニュアンスをうまく伝えることが出来ない。これらのフランス語は、vermeiden[避ける]の訳語としては「不十分なものである」。なぜなら、これらの語は、vermeiden[避ける]という語を「習慣的に」使用するフロイトの「精神分析」が、ハイデガーの「存在の問いに晒される」「場所」を「計算に入れること」「から程遠いところにいる」からだ。vermeidenの適切な訳語を持っていないフランス人に出来ることと言えば、ただそ「の場所」に「接近することだけ」なのである。

これらのカテゴリーは、習慣的にそれを働かせる言説が、たとえば精神分析の言説がvermeidenの経済を、それが存在の問いに晒されるの場所場所で計算に入れない限りにおいて、不充分なものである。この計算に入れること[prise en compte] - これは言いうる最小のことだが - われわれは、そこから程遠いところにいる。 そして私が今日やってみたいと思うことは、そこに接近することだけだ。

デリダのこの指摘は、おそらくvermeidenのフランス語訳だけに当てはまる問題ではない。vermeidenの日本語訳もまた、それと同様の問題を孕んでいる。翻訳者の港道隆は、vermeidenを「避ける」と翻訳しているが、この訳語では、向こうから飛んでくるボールを避けるという意味での「回避」とほとんど区別がつかない。要するに日本語「避ける」でもドイツ語のvermeidenが持っている固有のニュアンスがうまく伝わらないのである。しかも、日本語の「避ける」は、フロイト精神分析ハイデガーの存在の問いが交錯する「場所」へと読者を導いて行かないと言う意味でも「不十分なもの」である。したがって、日本語の「避ける」は、vermeidenの訳語としては、二重の意味で「不十分なもの」なのだ。したがって、日本人もまた、デリダと同様に、ドイツ語のvermeidenが持つ微妙なニュアンスを掴むべくそれに「接近すること」を試みなければならないということになるだろう。vermeidenの翻訳不可能性の問題はけっして他人事ではないのである。

次のことが問われている。

  • フランス語にも日本語にもないドイツ語のvermeidenに固有の意味とは一体どのようなものか?
  • vermeidenの訳語として日本語の「避ける」が不十分なのは具体的にはどの点でか?

だが、デリダが求めるのはそれだけではない。彼にとって、vermeidenに固有の意味へのこの「接近」は、同時にまた、ハイデガーフロイトの「起こらなかった出会い」を成就させる「場所」を与えるものでなくてはならない*10。したがって、今や読者は、vermeidenの固有の意味に「接近する」に際して、フロイトがこの語をどのように使用していたかについて前もって知っていることが求められているのである。

タブーの両義性について

フロイトは『トーテムとタブー』の中で、オーストラリアやメラネシアなど"未開社会"で幅広く観察される近親相姦の禁止の「風習」に言及して、次のように述べている。

この風習ないし風習的禁止はvermeidungと名づけてもよい。

ドイツ語のこの名詞vermeidungの日本語訳はどうなっているか?「回避」や「否認」とは訳されていない。なぜか。「回避」や「否認」では、vermeidungが持っている「神聖とも言うべき嫌悪の要素が考慮されていない」からである。神聖であり、なおかつ嫌悪の要素を含むvermeidungの訳語として選ばれるのは「忌避」である。

話を戻すと、動詞vermeidenの意味は、確かに「避ける」だが、向こうから飛んでくるボールを回避するという意味で「避ける」のではなく、何かを認めることを拒絶する(否認する)という意味で「避ける」のでもない。ハイデガーは「精神」を、飛んでくるボールを避けるように避けたのではなく、神聖かつ忌まわしいものとしてそれを避けたのである。vermeidenが有るものを「避ける」のは、それが聖なるものであり、同時にまた、嫌悪を引き起こす忌まわしいものでもあるからだ。『精神について』の日本語訳が採用した「避ける」が翻訳として「不十分」なのは、vermeidenが持つ神聖な忌避の要素を十分に伝えることができていないからなのである。

vermeidenの訳語としては、「忌避する」の方が、ハイデガーフロイトの「起こらなかった出会い」が成就する「場所」により近く、デリダが『精神について』で「接近」を試みている「場所」により近い。というのも、この訳語は、少なくとも、「精神」を忌避すべし[vermeiden]と命じるハイデガー定言命法(タブー)を、『トーテムとタブー』で行われる強迫神経症精神分析へと接続することを可能にしてくれるからだ。

『トーテムとタブー』は、"未開社会"においてタブーを固く守る人々を「強迫神経症者」とみなしてその行動様式を分析した。ポリネシア語Tabuの翻訳不可能性についてフロイトはこう言っている。

タブー Tabu というのはポリネシア語であるが、これを訳すことはわれわれには困難である。というのは、われわれはこの語をあらわす概念をもはや持っていないからである。古代ローマ人はまだこのタブーなる概念をよく知っていた。ラテン語のsacer[聖なる]はポリネシア人のタブーと同義だったのである。ギリシア人のαγος[触るべからず]、ヘブライ人のKodausch[聖なる]も、ポリネシア人がタブーという語によって、〔…〕言い表すものと同一の事柄を意味していたにちがいない。

タブーの翻訳が不可能なのは、その意味が両義的だからである。一方では「神聖な」とか「浄められた」とかを意味し、他方ではその反対の「不気味な」とか「不浄な」とか「禁じられた」とかを意味するのである。ポリネシアでのタブーの反対語はnoaであり、「誰でも近づきやすい」という意味がある。裏を返せばタブーには、常に「遠慮」や「忌避」の要素が含まれており、実際タブーは禁止や制限といった形をとって現れることが常なのである。

精神分析との連関をほのめかしながらハイデガーのvermeiden[忌避する]の翻訳不可能な意味を強調するとき、デリダは、読者に対して、タブーにまつわる上に挙げられたすべての意味論とそれに関する『トーテムとタブー』でのフロイトの分析を一挙に想起=回帰させることを企てているのである。

哲学にとってタブーとは何か?

フロイトは、タブー(忌避)の問題を"未開社会"や歴史以前の社会の中だけに閉じ込めたりはしなかった。私たちが生きる現代の社会にも、タブー的禁止を自分ひとりでつくって、"未開人"がそれを厳守するのと同じように、それを固く守っている人たちが大勢いるからである。このような人々のことを、フロイトは「強迫神経症者」と呼んでいる。

哲学者とてその例外ではない。特定の概念を穢れたもの・忌まわしいもの・浄めが必要なものとみなしてそれに触れることを自らに禁じるハイデガーはまさにそうだし、ある特定の領域を括弧に入れてその場所への立ち入りを自らに禁じる現象学者たちもそうである。語り得ないものへの沈黙を自らに課しその戒律を厳格に守っている分析哲学者や表象不可能なものに対面してうやうやしく敬礼する20世紀の仏文学者たちも重度の強迫ヒステリーを患っていると言えるだろう。総じて、偉大な哲学者であればあるほど、次々とタブーを生産する傾向にあるようだ。タブーの生産こそが哲学者としての卓越性[αρετη]の条件なのかもしれない。立派な哲学者であればあるほど、他の誰かによって禁じられたものを単に守るのではなくて、自ら作り上げた内的な禁止によって自分を縛る。そして、そのことによって自分を高めるのである。

要するに、デリダは、オーストラリアやポリネシア江戸時代の日本の人々にフロイトが注いだのと同じ眼差しを、哲学者たちへと向けているのである。

議論の締めくくりとして、『トーテムとタブー』が列挙する強迫神経症とタブー(忌避)に共通する4つの特徴を挙げて終わりとする。 

  1. 禁止の動機が不明瞭であること。
  2. 自分ひとりで禁止を作り上げること。
  3. 禁止があちこちに転移すること。タブーとなっている人・物・場所を通じて禁止が伝染する危険があること。
  4. 禁止に基づく儀礼的行為が発生すること。

ある哲学者が、以上の特徴を備えている場合、その人物はまず間違いなく偉大だと言ってよい。そして、タブー(=偉大な哲学)が持つ以上の特徴をふまえた上で本書を読めば、デリダがなぜハイデガーにおける「精神」の忌避[vermeidung]に目をつけたのかをより明瞭に理解することが出来るだろう。「精神」に対するハイデガーの愛憎入り混じった曖昧な態度は、フロイトの言うタブーの両義性に由来しているのである。

スキゾというやつには、それが本物であれ贋物であれ、もううんざりだから、喜んでパラノに宗旨変えをしたいくらいなんだよ。パラノイア万歳を叫んでもいい。
― ジル・ドゥルーズ『口さがない批評家への手紙』

デリダからの贈り物

だが、それにしても…デリダの書いたものはなぜこうもハイコンテクストで多大な読書=労働を読む者に強いるのか?『精神について』を理解するために、読者は先ず、ハイデガーを読み、フロイトを読み、ヘルダーリンを読み、シェリングを読み、ニーチェを読み、トラークルを読み、ヴァレリーを読み、バシュラールを読み、許斐剛を読み…、そして何よりもまずそれらについてデリダがあちこちで書き散らしたものを読むことを強いられる。

ところが、大多数の読者にとって、読書とは一種の気晴らしであり余暇にすぎない。だが、デリダの本にそういう快適さはない。人は本の内容を理解できないと、自分の至らなさを本の上に投影し、この本は意味不明だと罵るのが常である。実際、デリダの書く本は、最初の一行目から極度の集中力が必要な共同作業を読者に対して強制する。折り重なりつつ同時に進行する主題の多重性に対する鋭い注意力、次に何が来るかあらかじめ分かっている読み方の対応物としてのありきたりな物語の断念、一度きりの固有なものを捉える張りつめた感覚、あるいはほんの一瞬の隙を突いて入れ替わるさまざまなモティーフと二度と繰り返されないその歴史をしっかりと掴み取る能力を読者に対して要求する。

デリダ自身は断固としてテクストそのものに粘り強くより添い、その要求にそのつど身を委ねるのだが、その妥協を知らない断固たる態度のせいで彼は今なお人々に対して決定的な影響を与えられずにいる。他でもない彼の文章の生真面目さ・豊かさ・完全無欠さといったものが、それを読む者の中でひそかな憎悪を呼び覚ますからだ。彼の本が読者に対して贈るものが多ければ多いほど、彼の本は読者にとってますます受け容れがたいものとなっていくのである。

デリダの本は、本そのものが織りなす意味作用の運動に読者が自分から参加し、共同でその運動を遂行する[ενεργειν]ことを求めている。つまり、デリダは、単なる観照ではなく、いわば実践を読者に対して期待する。ところが、まさにその期待によって彼は、書物とは常に耳に心地よい聴覚刺激のまとまりとして読み手に提供されるべきだという怠惰な読者の淡い期待を踏みにじることになってしまう。あのハイデガーでさえ、《哲学のための哲学を》という当時の知的雰囲気にもかかわらずこの期待にだけは応えたというのにだ。

他のデリダの著作と同様に、本書もまた、人生を労働と余暇に分ける二分法に違反している。というのも彼は、果たしてこれが余暇かと戸惑うような過酷な労働を余暇に対して要求しているからだ。*11だが、そうした要求は大多数の読者にとっては単なる苦痛でしかない。早い話が読むのが不快なのだ、この本は!

デリダは生前「私はまだ読まれていないのではないか」と嘆いていたと、人伝えに聞いたことがある。たぶん実話であり、自業自得である。本書『精神について』がその知名度にかかわらずたいして読まれていないのもおそらく同じ理由であり、ある時期の東浩紀のように苦痛に満ちたその労働=読書を快楽へと転化する能力を持つテンからのマゾヒストだけが、本書を最後まで読み切ることができるのだろう。