土曜日, 5月 20, 2017

『東芝解体 電機メーカーが消える日』(講談社現代新書)大西 康之 2017


『東芝解体 電機メーカーが消える日』(講談社現代新書)大西 康之 2017

目次:
序章 日本の電機が負け続ける 「本当の理由 」電機メ ーカ ーを長年支え続けた 〝本業 〟の正体

1 東芝 「電力ファミリ ーの正妻 」は解体へ待ちうける 〝廃炉会社 〟への道

2  N E C 「電電ファミリ ーの長兄 」も墜落寸前通信自由化時代 3 0年を無策で過ごしたツケ

3 シャ ープ台湾 ・ホンハイ傘下で再浮上知られざる経済産業省との 「暗闘 」

4 ソニ ー平井改革の正念場脱エレクトロニクスで 、かすかに見えてきた光明

5 パナソニック立ちすくむ巨人 「車載電池 」 「住宅 」の次に目指すもの

6 日立製作所エリ ート野武士集団の死角 「技術の日立 」を過信し 、消費者を軽んじた

7 三菱電機実は構造改革の優等生 ? 「逃げながら 」 「歩み続ける 」経営力

8 富士通コンピュ ータ ーの雄も今は昔進取の気性を失い 、既得権にしがみつく

おわりに
原発はもはや民間企業のレベルを超えている /日本の技術者はまだまだ戦える /
恐竜は絶滅し 、哺乳類が誕生する

http://egg.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1495287841/l50

【経営】「日本の電機全滅」はなぜ起きたか 本当の要因 これは、避けては通れない道だった [無断転載禁止]©2ch.net

1 : 
2017/05/20(土) 22:44:01.17 ID:CAP_USER
>>88
2017.05.20 
大西 康之ジャーナリスト 

東芝倒産の危機をはじめ、日本の白物家電業界が絶滅の危機に追い込まれている。かつて世界市場を席巻した日本の電気産業は、なぜここまで凋落してしまったのか?  
根本的な原因を探った時、浮かび上がるのが二つの超巨大企業の存在だった…。 

記者として長年電気業界を取材し続けてきた大西康之氏が、その要因を著書『東芝解体 電気メーカーが消える日』で明かした。 

凋落の原因はなにか? 

名門東芝が経営破綻の危機に瀕している。 

粉飾決算(東芝自身は「不適切な会計」と呼んでいる)が発覚したのが2015年の春。そこから、あれよという間に白物家電や半導体メモリー事業を売却するという、 
事実上の解体に追い込まれた。メディカル事業はキヤノンが、白物家電は中国の美的集団(マイディア)が買収。 
半導体メモリーの買い手はまだ決まっていないが外資になる見通しだ。 

それでも原発事業で発生した損失を埋めきれる保証はない。米原発子会社のウェスチングハウス(WH)は米連邦破産法第11章(チャプターイレブン)の適用を申請して、 
事実上、倒産したが、それでも東芝が2006年以降に続けた無謀な原発関連投資のリスクは遮断しきれておらず、 
このままでは東芝本体が法的整理(事実上の倒産)に追い込まれる可能性が高い。 

東芝より一足早く経営危機を迎えたのがシャープだ。液晶テレビ「アクオス」の大ヒットで世界一の「液晶帝国」となった同社は、液晶パネル工場への過剰投資が仇となり、 
リーマン・ショックを境に一気に坂道を転げ落ちた。2016年夏には台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業の傘下に入った。 

シャープPhoto by gettyimages 
もう少し前には半導体、液晶パネルで身の丈を超えた投資をした三洋電機が経営危機に陥り、白物家電事業を中国の海爾集団(ハイアール)に売却。 
本体はパナソニックの傘下に入った。 

かつて電機産業は自動車と並ぶ日本の中核産業だった。国内で生産されるラジオ、テレビ、ビデオレコーダーや半導体は世界市場を席巻し、輸出立国の礎となった。 
しかしリーマン・ショックを境に二つの産業は明暗をくっきり分けた。 

自動車はさらなるリストラと海外展開を加速。トヨタ自動車は一時、米ゼネラル・モーターズ(GM)を抜いて販売台数で世界一に躍り出た。 
マツダ、スバル(旧富士重工業)といった中堅メーカーも元気だ。 

ところが電機は海外市場で韓国サムスン電子や中国メーカーに押され、スマートフォンやパソコンといったデジタル機器でも白物家電でも半導体でも、 
さっぱり稼げなくなってしまった。 

原因はどこにあるのか。個々の企業に個別の判断ミスがあったのは事実だが、ここまで連敗が続く背景には構造的な問題があるはずだ。 
その点を徹底して分析したのが拙著『東芝解体 電機メーカーが消える日』(講談社現代新書)である。 

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51791

電電ファミリー ‐ 通信用語の基礎知識

www.wdic.org/w/TECH/旧電電ファミリー

電電ファミリー. 読み:きゅうでんでんファミリー品詞:名詞. 旧電電公社のファミリー 企業のこと。 概要. ITゼネコン大手4グループ(NTTグループ、日立グループ、NEC グループ、富士通グループ)をいう。 


仏教活論序論:井上円了


大東出版社

http://www.daitopb.co.jp/7561.html

現代語訳 仏教活論序論[2012,1887]

著者名: 井上円了〔著〕・佐藤 厚〔訳〕

ISBN: 978-4-500-00756-1

判型: 4-6判

体裁: 並製・カバー装

頁数: 188

発行日: 2012年10月30日

在庫:

定価(8%税込): ¥1,620

送料: ¥300


国立国会図書館デジタルコレクション - 仏教活論序論 : 縮刷[要約]

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/817128


仏教活論 序論 | 井上円了 | 仏教 | Kindleストア | Amazon[完全版]1887

https://www.amazon.co.jp/dp/B016PZ86EU/

   

関連論考:

https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/12679.pdf

http://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/9324.pdf

以下の論文が、西田以前の明治期哲学について詳しい。


「明治期アカデミー哲学の系譜 : 「現象即実在論」をめぐって」

井上克人

http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006160420.pdf?id=ART0008128267


船山信一(一九〇七−一九九四)は、『増補明治哲学史研究』(昭和四〇年)のなかで、

西田幾多郎は井上哲次郎(一八五五−一九四四)が初めて提唱した「現象即実在論」の継承者であり、その完成者なのであって、

一定の流れどの中で自らの思想の原点を見出し、それを彫琢することに一生を費やしたと語っている。


ところで、この「現象即実在論」、つまり現実そのままが真の実在であるとする考えは、

遡れば天台本覚思想にその淵源をもつが、明治二〇年代には日本人独自の考え、しかも仏教的な哲学として人々に夙に知れ渡っていた。

とくに、明治期の哲学界に於けるもう一人の鬼才、井上円了(一八五九−一九一九)は明治一九年の「哲学一夕話』以降、

「現象即実在論」と呼べる論文をいくつも発表しており、その影響は無視できない。

じじつこの『哲学一夕話』は西田の若い頃の愛読書の一冊に数えられている。

更に清澤満之の『純正哲学』(明治一、四年)がその後に続くわけであり、

そういった仏教系の哲学者とならんで東京大学の哲学教授の井上哲次郎が、

宗教色を感じさせることなく純哲学理論として、「現象即実在論」を提唱していたのである。


明治一六年に公刊された井上哲次郎の『倫理新説』に於いては、しばしばカント、フィヒテ、シェリング、へーゲルの名が挙がっている。

とは云え、ただ彼らの原理のみが紹介されているに過ぎない。

カントの「物自体」、シェリングの「絶対者」、へーゲルの「理念」は、

荘周の「無々」、列子の「疑独」、釈迦の「如来蔵」と同一系列に置かれて、いずれも「人力の管内」に入り難きものとして説明されている。

ただ注意すべきことは、ここでは、ドイツ観念論の神秘的側面が既に東洋的形而上学と結びつけられ始めているということである。

この点については、井上円了も同様である。彼は『仏教活論序論』(明治二〇年)の中で、仏教の「真如」とへーゲルの絶対者とを同一視している。 



《内容紹介》

近代西洋哲学に見出した真理が仏教の中に存在することを発見し、当時低迷の極みにあった明治仏教に「活」を入れるべく、独り敢然と起ち上がった若き井上円了(いのうえ・えんりょう)。“妖怪博士”ではない“哲学者”井上円了の真骨頂が味わえる近代仏教の名著が、初の現代語訳にて甦る!!

《目次》

第一章 国家と真理 19 

 第一節 護国と愛理 20 

  第一項 護国と愛理 20 

  第二項 国民と学者の義務 21 

  第三項 護国と愛理は、どちらが重いか? 21 

  第四項 護国と愛理は一体である 22 

 第二節 真  理 24 

  第一項 僕は幼い時から真理を求めていた 24 

  第二項 人間の趣向というもの 26 

  第三項 真理とはどのようなものか 26 

  第四項 真理と宗教 27 

  第五項 仏教とキリスト教とを比較する 28 

  第六項 仏教に真理がある 29 

 第三節 僕の思想遍歴 30 

  第一項 僕はお寺で生まれ育った 30 

  第二項 儒学、キリスト教に真理はなかった 31 

  第三項 西洋哲学に真理を発見し、改めて仏教を見ると、西洋哲学の真理と一致していた 32 

第二章 国家と仏教 35 

 第一節 日本で仏教を再興し、世界に輸出せよ 36 

  第一項 今の日本だけが仏教を維持できる 36 

  第二項 日本から世界へ仏教を輸出すべし 37 

  第三項 今の日本で仏教の再興が必要な理由 38 

  第四項 宗教と国民精神および国の独立 39 

  第五項 仏教を西洋に輸出せよ 42 

  第六項 小  結 44 

 第二節 キリスト教は日本のためにならない 45 

  第一項 「キリスト教がすべて」という人がいるが、それはおかしい 45 

  第二項 仏教こそが日本のためになるのだ 46 

  第三項 「仏教は政治社会に利益を与えない」という批判に答える 47 

  第四項 「西洋人と交際する際にはキリスト教徒になるのがよい」という考えは間違っている 48 

  第五項 西洋の模倣は、日本人に対する蔑視を生むだけだ 49 

  第六項 小  結 50 

 第三節 僕が考えるキリストとキリスト教 51 

  第一項 僕はキリストが憎いのではない 51 

  第二項 キリスト教信者は僕の同胞兄弟である 52 

  第三項 キリストは英雄である 52 

  第四項 だが僕は絶対にキリスト教を信じない 54 

  第五項 キリスト教の害毒 55 

  第六項 キリスト教は、人間の知性と社会の発展を阻害する 56 

 第四節 学者才子よ、仏教改良に起て! 57 

  第一項 宗教の改革ができるのは日本だけである 57 

  第二項 日本の僧侶たちでは改革は不可能だ! 58 

  第三項 学者才子よ! 僧侶に代わって仏教を護持せよ! 59 

  第四項 キリスト教の奴隷になるな! 仏教を改良して世界宗教を一変させよ! 60 

  第五項 小  結 61 

 第五節 明治十八年の僕の苦労 63 

第三章 仏教と真理 67 

 第一節 仏教の区分 68 

  第一項 仏教の分類方法─聖道門と浄土門 68 

  第二項 仏教は、哲学と宗教からなる 70 

  第三項 人間は情感と知力の二つの心のはたらきを持ち、仏教は両方を兼ねる 71 

  第四項 小  結 75 

 第二節 仏教の哲学的部分 76 

  第一項 近世西洋哲学の発展の構図と釈迦の中道 77 

  第二項 仏教宗派と西洋哲学との対応 83 

  第三項 因果の規則は科学と一致する 109 

 第三節 仏教の宗教的部分 116 

  第一項 仏教各宗の安心にいたる方法 117 

  第二項 仏教の説く幸福の意味 118 

  第三項 仏教でいう幸福は多くの人の幸福である 118 

  第四項 仏教の目的 119 

 第四節 釈迦の意図とは? 方便と中道との関係 120 

  第一項 釈迦の本意は何か? 120 

  第二項 釈迦の説教の順序の意味 121 

  第三項 釈迦の説教は中道が目的である 122 

  第四項 平等と差別との関係を再説する 123 

  第五項 人間の思想発達の順序について 125 

  第六項 横浜─サンフランシスコ行きの船の例で、中道と方便とを説明する 128 

  第七項 人間が邪道に走るから方便は必要なのである 130 

  第八項 釈迦は出世間だけを説いたのではなかった 132 

  第九項 釈迦は肉食妻帯を禁止したのではない 133 

  第十項 釈迦の教説はすべて中道に基づく 134 

  第十一項 仏教が多くの宗派に分かれたのも中道が関係する 135 

  第十二項 小  結 136 

結 論 137 

訳  註 143 

付  録 175


現代日本思想大系 7 仏教

 出版者   筑摩書房

 出版年   1965.5

 大きさ等  20cm 430p

 NDC分類 121.6

 NDC分類 182.1

 件名    仏教-日本-歴史-明治以後  ≪再検索≫

 内容    内容:解説仏教思想の近代化(吉田久一) 三条教則批判建白書(島地黙雷) 仏教活論

序論(井上円了) わが信念,精神主義(清沢満之) 仏教の位置(姉崎正治) 仏法と

世法,三条愚弁(福田行誡) 仏教統一論第一編大綱論余論(村上専精) 宗門の維新(

田中智学) 受苦と随喜と尊重(金子大栄) 一遍上人(柳宗悦) 東洋的無,禅(久松

真一) 法蔵菩薩(曽我量深) 社会変革途上の新興仏教(妹尾義郎) 立正安国(藤井

日達) 大本神諭(出口なお) 生活指導原理としての価値論(牧口常三郎) 著者略歴

・著作・参考文献,近代仏教思想関係略年表:p421-430

 書誌番号  3-0190316577









水曜日, 5月 17, 2017

fisher 1929





《Stocks have fallen in a week 30%, and a week ago, they had fallen some 10% from the previous high of this year. The real reason, as I understand it, for this drop is that people have been speculating on small margins. It was not that the stock market was very much too high, but that people were so enthusiastic about making the money that they properly expected to make in the investment of stocks, tried to do business on a shoestring. They went into debt, and the real lesson of this market is, "If you buy stock, buy them with your own money, and not with borrowed money any more than can be helped." If that lesson is learned, possibly in the end, this experience to some people, 
may be a blessing in disguise. 

This country is fundamentally sound.…》1929/10/30
and the technical situation in the stock market is not going to prevent the great improvement, forcastive improvement in our wonderful prosperity.
___
All of the world today people are vitally interested in new york stock market.
Millions of people looking a daily paper to see what had happend their favorit stocks.
and thousands of people have suffered severely during the last week.


A week ago today, a too black afternoon, there was bear rate on the stock market.
and ever since that time that has been frenzic feeling and panic selling such as the country has never seen.

It is one of the greatest tragedy in history of this country.
At tenderly it now looks like bottom of market have been  found and many are taking  advantage  of the oppotunity to come back and  invest again.

If what I say is true, if this nurses is correct, we may expect that the future of this country will justify the stocks that they have been.


Living in the ill: a great invensions. And as ease, invensions are exploited. Invensions are made in these great invensions.  Now produce more recovery ever before in the history of ill.

America as a whole it surely got benefit wonderfully by the earnings of the companies that will exploit these new invensions.

京都学派 Kyoto School



京都学派(きょうとがくは)とは、一般に西田幾多郎田邊元および彼らに師事した哲学者たちが形成した哲学の学派のことを指すが、京都大学人文科学研究所を中心とした学際的な研究を特色とした一派も、京都学派、あるいは哲学の京都学派と区別するために、新・京都学派とも称する。その他にも様々な学問分野において『京都学派』と呼ばれるグループが存在している。

目次:

京都学派(哲学)

京都学派(哲学)の人物

京都学派(近代経済学)

京都学派(京大人文研)

東洋史学

京都学派(憲法学)

京都学派(精神医学)

関連人物

哲学

近代経済学

憲法学

精神医学

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

京都学派(哲学)編集

その詳細な定義は国や研究者によって異なり、未だに世界各国で盛んな研究の対象となっている。主なメンバーとして、西田幾多郎田邊元波多野精一朝永三十郎和辻哲郎三木清西谷啓治久松真一武内義範土井虎賀壽下村寅太郎上田閑照大橋良介らが挙げられ、また左派としては三木清以外に戸坂潤中井正一久野収らが挙げられる。とりわけ中井は後述する京都学派(人文研)の桑原武夫や、京都学派(近代経済学)の青山秀夫とも懇意であった。また桑原は父親が京大文学部教授であったこともあって西田とも若い頃から接していたという。

京都学派は西洋哲学東洋思想の融合を目指した『善の研究』などで表される西田哲学の立場に立ち、東洋でありながら西洋化した日本で、ただ西洋哲学を受け入れるだけではなくそれといかに内面で折り合うことができるかを模索した。しかしながら東洋の再評価の立場や独自のアイデンティティを模索することは次第に「西洋は行き詰まり東洋こそが中心たるべき」との大東亜思想に近づくことになった。特に京都学派四天王(西谷啓治・高坂正顕高山岩男鈴木成高)らは、「世界史の哲学」や「近代の超克」を提唱し、海軍に接近した。このため太平洋戦争の敗戦により、戦前の京都学派はいったん没落した。だが戦後も高坂、高山らは自民党などの保守政治に接近し、京都学派と政治とのかかわりは今日に至るまで脈々と続いている。なお、陸軍が海軍に較べて圧倒的な力をもっていた時代において、海軍への接近は軍部政権への翼賛というよりは、軍部の方針を是正しようとする体制批判の行動であったと、大橋良介は評している。また、大島康正メモによると、この海軍のブレーントラストとしての京都学派の集まりに、京都学派(東洋史学)の宮崎市定も常連として参加していたと大橋は指摘する。

なお、大橋の著書では梯明秀の分類に依拠しながら、京都学派と京都哲学とを分けて捉えることを提案する。要するに、「何らかのかたちで<無>の思想を継承・展開した思想家のネットワーク」を京都学派と捉え、西田や田辺に学び、単に彼らの知的ネットワークの下にいるものを京都哲学に分類する。その場合、三木は微妙な立ち位置になるとされるが、多くの左派の弟子たちは京都学派に含まれない。また弟子として西田の著作の編集や解説を書きつつ、自分自身の研究は歴史的な方向へと向かった下村寅太郎もたぶん含まれないであろう。また京都大学とは縁はないので一般に京都学派に含めないし、大橋も言及していないが、鈴木大拙は西田の親友で、「<無>の思想を継承・展開」するという点でも相互に影響を与え合っているし、京都の大学(大谷大学)に務めてはいるので、大橋の定義に従えば鈴木も京都学派ということにもなる。他方、中村雄二郎は『共通感覚論』 (1979) において、三木や戸坂や中井(それに京大卒ではないが戸坂と親しい三枝博音の名が挙げられる)の共通感覚への言及を追っていくと、西田哲学の「場所の論理」の批判的乗り越えが可能となると示唆する。その点からも京都学派(哲学)を狭く捉えすぎない方が、生産的であるとも考えられる。

京都学派(哲学)の人物編集

京都学派(近代経済学)編集

戦前の日本で「国際的に評価された最初の経済学者」[1]である柴田敬を中心に、その一般均衡理論の師であり「日本のマーシャル」とも呼ばれた高田保馬、高田門下で戦後多くの俊秀を育てた青山秀夫の3人の京大教授を挙げて、「近代経済学の京都学派」と名付けたのは、東大の根岸隆[2]である。

また、森嶋通夫も、「戦前日本の代表的経済学者は、高田保馬、園正造、そして柴田敬の3人の京大教授」[3]だと言っている。

柴田敬は、京大で河上肇のゼミ生としてマルクス経済学を河上に、一般均衡論を高田保馬に、国民主義経済学を作田荘一に学んだ後、黄金時代のハーバード大やケインズ革命勃興期のロンドンに留学し、シュンペーターケインズからも日本人経済学者として最も高い評価[4]を受けた理論経済学者であったが、留学から帰国後、京都学派(哲学)や近衛文麿等の新体制運動の経済理論上の指導者となり、戦後、公職追放となった。しかしながら、近年、根岸隆、福岡正夫等から、柴田経済学の再評価が行われている[5]。また柴田の代表的な弟子の一人が杉原四郎である。杉原は柴田の師匠である河上を研究し、また書誌学・図書館学と経済思想史を結びつけた研究を展開した[6]。また、柴田の恩師の河上は山口高等商業にて西田幾多郎からドイツ語を学び、その縁で京大時代も西田と交流をもち、近衛も西田と河上に学ぶために東大から京大に転学しており、柴田ならびにその周辺は京都学派(哲学)と縁が深く、さらに西田ら京都学派(哲学)が蓑田胸喜の執拗な攻撃の対象となったのも、昭和研究会、近衛の延長上に彼らがいたからであるとの説も紹介されている[7]

京都学派(京大人文研)編集

また、上記とは別に戦後京都大学人文科学研究所(京大人文研)にて頻繁に共同研究会を開き、活発な討論を行っていた一派も、京都学派と呼ばれるが、上記の京都学派とは直接の関係はない。こちらは東洋史学の貝塚茂樹塚本善隆藤枝晃中国文学吉川幸次郎フランス文学桑原武夫植物学中尾佐助生態学から人類学にまたがる成果を挙げた今西錦司らが特に著名である。この顔ぶれからも推察されるように、この京大人文研の活動範囲は狭義の人文科学から自然科学の領域にまでまたがった学際的なもので、今西は自らの学問領域を自然学とも称した。また、国立民族学博物館へと活躍の場を移した梅棹忠夫(生態学→民族学人類学)や、国際日本文化研究センターの設立に尽力した梅原猛(哲学)らも、この京大人文研の京都学派に含める。また桑原によって京大人文研助教授に迎えられた鶴見俊輔、同助手でのちに教育学部助教授に配置換えとなった加藤秀俊らは一般に京都学派に含めないが、桑原武夫をはじめ多くの人文研スタッフとともに思想の科学研究会の主要メンバーでもあった(鶴見はメンバーというよりも会の創設者)。鶴見らは京都学派(哲学)の中井正一、久野収らとも懇意で、中井、久野と一緒に運動を行った世界文化同人の多くが思想の科学研究会に加わっていて(例えば武谷三男。なお武谷は上記人文研の貝塚茂樹の弟湯川秀樹の共同研究者としても名高い)、その点で、京都学派(哲学)の左派と京都学派(人文研)二つをつなぐ媒介項に、鶴見、桑原、思想の科学研究会があったともいえよう。なお京都学派(哲学)の主流には思想の科学研究会は批判的で、例えば同研究会『共同研究 転向』第2篇第2章第6節「総力戦理論の哲学―田辺元・柳田謙十郎」(後藤宏行)では田辺に代表される京都学派の主流が戦争協力した点を断罪し、中井正一らの着想によってそれが乗り越えられるとしているし(その点で先述の中村雄二郎『共通感覚論』での指摘の先駆でもある)、また鶴見も「哲学の言語」(『思想』1950年)で西田が「即というコプラ」を多用することを批判的に捉える。

東洋史学編集

東洋史学分野における京都学派は、より古く京都帝国大学期の内藤湖南桑原隲蔵(上記、人文研の桑原武夫の父)、羽田亨を創始者とし、他に狩野直喜矢野仁一等がいる。弟子に宮崎市定田村実造三田村泰助谷川道雄、ほか多数の東洋学者たちがおり、京大人文研の一角をなした島田虔次川勝義雄吉川忠夫(上記、吉川幸次郎の子息)等もいる。

その特色は、湖南が提唱した時代区分論である。時代までを上古(古代)、魏晋南北朝時代を中世以降を近世アヘン戦争以降を近代とする四時代区分法を中心に中国史の研究を展開した。大戦後には、東京大学に本拠を置く歴史学研究会唯物史観を基にした時代区分法(東京学派)(唐中期までを古代とし、宋以降を中世とする)との間で激しい史学論争が行われた。

京都学派(憲法学)編集

佐々木惣一大石義雄阿部照哉佐藤幸治らを中心とした憲法学の学派。東京大学を中心とする学派の政治学的解釈に対する法律学的解釈を志向するなどを特色とする。

京都学派(精神医学)編集

今村新吉初代教授により京都大学医学部精神医学教室には哲学的精神病理学の方向性が示された。その後三代目村上仁教授によって精神病理学の伝統は受け継がれ、後に加藤清笠原嘉木村敏藤縄昭など時代を代表する精神医学者を多数輩出した[8]。なお木村敏は西田哲学会で「西田哲学と私の精神病理学」という演題の講演を行っており[9]、京都学派(哲学)と京都学派(精神医学)との関係は深い。

関連人物編集

脚注編集

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  1. ^ 根岸隆:「経済思想10日本の経済思想2」鈴木信雄編 第4章 柴田敬 国際的に評価された最初の経済学者
  2. ^ 根岸隆:「現代経済思想の散歩道」倉林義正ほか編2004年7月15日 日本評論社 第8章 近代経済学の京都学派
  3. ^ 宮崎義一伊東光晴「忘れられた経済学者・柴田敬」経済評論S53/8月号
  4. ^ 「日本の経済学者でシュンペーターのもとを訪れた者のうち、シュンペーター自身が、来る前から異常に高く評価したのは柴田敬であり、来た後に高く評価したのが都留重人であって、これ以外の人についてはほとんど評価していない」、「ケインズの日本人嫌いの理由の一つには、日本の経済学者でケインズのところへ来た人間にろくなやつがいなかったということがあります。論争らしい論争をやったのは柴田さん一人ですか」宮崎義一、伊東光晴「忘れられた経済学者・柴田敬」経済評論53/8月号
  5. ^ 国際的な経済学大辞典 (The New Palgrave1987) の独立項目にその名を記す日本人経済学者は僅か5人を数えるのみであるが、その一人として、柴田敬が選ばれている
  6. ^ 後藤嘉宏 「社会科学における書誌作成の意義と根拠:杉原四郎における経済思想史の方法論と図書館学的関心の関わり」『図書館学会年報』44巻2号(1998年9月)、pp.49-64
  7. ^ 小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』岩波現代文庫,2011年
  8. ^ 藤縄昭 『私家本 仏像遍歴』 ナカニシヤ出版、2002年2月、94頁。ISBN 9784888486729
  9. ^ 西田哲学会 第10回年次大会プログラム”. 2014年4月閲覧。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集




・西周(1829-1897)

・福沢諭吉(1835-1901)

・中江兆民(1847-1901)

・井上哲次郎(1856-1944)

・井上円了(1858-1919)

・内村鑑三(1861-1930)

・岡倉天心(1862-1913)

・清沢満之(1863-1903)

・南方熊楠(1867-1941)

・鈴木大拙(1870-1966)

・柳田國男(1875-1962)

・折口信夫(1887-1953)

・柳宗悦(1889-1961)

・宮沢賢治(1896-1933)

・井筒俊彦(1914-1993)


京都学派

・西田幾多郎(1870-1945)

・波多野精一(1877-1950)

・田辺元(1885-1962)

・九鬼周造(1888-1941)

・和辻哲郎(1889-1960)

・久松真一(1889-1980)

・三木清(1897-1945)(京都学派左派)

・戸坂 潤(1900-1945)(京都学派左派)

・高坂正顕(1900-1969)(京都学派四天王、近代の超克)

・西谷啓治(1900-1990)(京都学派四天王、近代の超克)

・高山岩男(1905-1993)(京都学派四天王、近代の超克)

・鈴木成高(1907-1988)(京都学派四天王、近代の超克)

・梅原猛(1925-)

・上田閑照(1926-)

・大橋良介(1944-)  

下村寅太郎(1902-1995)(京都哲学、近代の超克)


下村 寅太郎(しもむら とらたろう、1902年明治35年)8月17日 - 1995年平成7年)1月22日)は、日本哲学者科学史家

科学史から芸術美術史精神史まで幅広い論考著述を行った。

目次

略歴編集

京都市生まれ。京都帝国大学哲学科卒。西田幾多郎に師事し、後に「全集」編集委員。1941年昭和16年)東京文理科大学助教授、1945年(昭和20年)教授、学制改革により校名変更し東京教育大学教授、1967年(昭和42年)定年退官。学習院大学教授に就いた。1971年(昭和46年)『ルネッサンスの芸術家』により学士院賞受賞。1975年(昭和50年)日本学士院会員。

『著作集』(全13巻)は11年かけ、みすず書房で刊行された。蔵書は関西学院大学図書館に収められ、2002年(平成14年)に『下村寅太郎蔵書目録』が出された。

著書編集

  • ライプニッツ』 弘文堂〈西哲叢書〉 1938、みすず書房(増補版) 1983
  • 『自然哲学』 弘文堂〈教養文庫〉 1939
  • 『科学史の哲学』 弘文堂 1941、評論社(新版) 1975
  • 『無限論の形成と構造』 弘文堂 1944、みすず書房(新版) 1979
  • 『西田哲学』 白日書院 1947、「西田哲学への道」現代教養文庫 1951
  • 『若き西田幾多郎先生 「善の研究」の成立前後』 人文書林 1947
  • 『科学以前』 弘文堂〈アテネ文庫〉 1948
  • 『精神史の一偶』 弘文堂 1949
  • レオナルド・ダ・ヴィンチ』 勁草書房 1961、新版1979
  • 『ヨーロッパ遍歴 聖堂・画廊・広場』 未來社 1961、新版1975
  • 『西田幾多郎 人と思想』 東海大学出版会 1965 新版1977
  • アッシシの聖フランシス』 南窓社 1965、新版1980、1991(キリスト教歴史双書)
  • 『ルネッサンスの芸術家 精神史的研究』 筑摩書房 1969
  • 『遭逢の人』 南窓社 1970
  • 『精神史の森の中で 研究ノートより』 河出書房新社 1972
  • モナ・リザ論考』 岩波書店 1974
  • 『スウェーデン女王クリスチナ バロック精神史の一肖像』 中央公論社 1975、中公文庫 1992
  • 『ルネッサンス的人間像 ウルビーノの宮廷をめぐって』 岩波新書 1975、復刊1992
  • 『レオナルド 遠景と近景』 南窓社 1977
  • 『西東心景 雁のたより1』 北洋社 1977
  • 『わが書架 雁のたより2』 北洋社 1979
  • 『明治の日本人 雁のたより3』 北洋社 1979
  • 東郷平八郎』 講談社学術文庫 1981
  • 『精神史の中の芸術家』 筑摩書房 1981
  • 『煙霞帖』 南窓社 1982
  • ブルクハルトの世界 美術史家・文化史家・歴史哲学者』 岩波書店 1983
没後出版
  • 大橋良介編解説 「精神史の中の日本近代」 京都哲学撰書4 燈影舎 2000
  • 野家啓一編解説 「精神史としての科学史」 京都哲学撰書27 燈影舎 2003
  • 加藤尚武解説 「科学史の哲学」 みすず書房〈始まりの本〉 2012
  • 小坂国継編解説 「西田幾多郎研究資料集成 第5巻 下村寅太郎集」クレス出版 2012

著作集編集

  • 下村寅太郎著作集』全13巻 みすず書房 1988-99
  1. 「数理哲学・科学史の哲学」、1988
  2. 「近代科学史論」、1992
  3. 「アッシジのフランシス研究」、1990
  4. 「ルネサンス研究 ルネサンスの芸術家」、1989
  5. 「レオナルド研究」、1992
  6. 「ルネサンスとバロックの人間像」、1993
  7. 「ライプニッツ研究」、1989
  8. 「聖堂・画廊・広場 ヨーロッパ遍歴」、1988
  9. 「ブルクハルト研究」、1994
  10. 「美術史・精神史論考」、1995
  11. 「哲学的問題」、1997
  12. 「西田哲学と日本の思想」、1990
  13. 「エッセ・ビオグラフィック」 、1999

編著編集

  • 『哲学研究入門』 淡野安太郎共編 小石川書房 1949
  • 『現代哲学入門 唯物論と人間』 有斐閣 1958
  • 『学問の建設 心の対話』 今西錦司との対話 日本ソノサービスセンター 1969
    • 新装版 『学問のこころ 心の対話』 ぺりかん社 1982
  • 『西田幾多郎 同時代の記録』 岩波書店 1971
  • 『哲学思想 現代日本思想大系24』 古田光と共編・解説 筑摩書房 1975
  • スピノザライプニッツ』、「世界の名著25」中央公論社 1969、新版1978
    • 『ライプニッツ モナドロジーほか』、中公クラシックス 2005、解説「来るべき時代の設計者」
  • 『レオナルド・ダ・ヴインチ 世界美術全集5』 田中英道と解説、集英社 1977、普及版1978
  • 『光があった 地中海文化講義』 小川国夫との対話 朝日出版社 1979
  • アッシジ修道院 世界の聖域14』 長塚安司と解説、講談社 1981

翻訳編集

記念論集編集

  • 『ヨーロッパ精神史の基本問題 下村寅太郎先生退官記念論文集』

外部リンク編集




近代の超克」(きんだいのちょうこく)は、戦中期日本文芸誌文学界』(1942年(昭和17年)9月および10月号)の特集記事で、掲載された13名の評論家によるシンポジウム

この特集をまとめ、単行本が1943年創元社で刊行された。竹内好による同タイトルの批判論文(1959年)もある。

目次

概要編集

「知的協力会議」と銘打ったこのシンポジウムは、対米英開戦という時局のもと、明治時代以降の日本文化に多大な影響を与えてきた西洋文化の総括と超克を標榜して1942年7月、河上徹太郎を司会として2日間にわたり行われた。

『文学界』の同年9月号にはシンポジウムに参加した西谷啓治諸井三郎津村秀夫吉満義彦の論文が、10月号には亀井勝一郎林房雄三好達治鈴木成高中村光夫の論文、およびシンポジウム記録が掲載された(このうち事後に書かれた三好・中村のものを除く論文は、事前に執筆されシンポジウムで検討に供されたものである)。これらは翌1943年7月には同名タイトルの単行書として創元社より刊行されたが、この際、鈴木の論文は外され、代わりに当初未掲載であった下村寅太郎菊池正士の論文、および司会の河上による「結語」が新たに収録されている(論文タイトルなどは後出)。

第二次世界大戦後、竹内好は『近代日本思想史講座』第7巻(筑摩書房より1959年刊)に、論文「近代の超克」を寄稿し、当時はほとんど忘れ去られていたこのシンポジウムを批判的に検討し日本思想史の問題として全面的に総括することを提起した。

参加者編集

参加者の大半は京都学派(「世界史の哲学」派)の哲学者、旧『日本浪曼派』同人・『文学界』同人の文学者文芸評論家により構成されていた。なお役職名は当時のものであり、論文タイトルは1943年創元社版に収録されたものを記した。

  • 西谷啓治 - 京都学派の哲学者。京都帝国大学助教授。論文「「近代の超克」私論」を執筆。
  • 諸井三郎 - 音楽評論家。東洋音楽学校・東京高等音楽院講師。論文「吾々の立場から」を執筆。
  • 鈴木成高 - 京都学派の西洋史家。京都帝大助教授。
  • 菊池正士 - 物理学者。大阪帝国大学教授。論文「科学の超克について」を執筆
  • 下村寅太郎 - 京都学派の科学史家。東京文理科大学教授。論文「近代の超克の方向」を執筆。
  • 吉満義彦 - 哲学者・カトリック神学者。東京帝国大学講師。論文「近代超克の神学的根拠」を執筆。
  • 小林秀雄 - 文学界同人の文芸評論家。明治大学教授。
  • 亀井勝一郎 - かつて日本浪曼派に参加し、文学界同人の文芸評論家。論文「現代精神に関する覚書」を執筆。
  • 林房雄 - 文学界同人の文芸評論家。論文「勤王の心」を執筆。
  • 三好達治 - 文学界同人の詩人。明大講師。論文「略記」を執筆。
  • 津村秀夫 - 映画評論家。朝日新聞記者。文部省専門委員。論文「何を破るべきか」を執筆。
  • 中村光夫 - 文学界同人の文芸評論家。論文「「近代」への疑惑」を執筆。
  • 河上徹太郎 - 文学界同人の文芸評論家。論文「「近代の超克」結語」を執筆。

参考文献編集

1943年の創元社版に、松本健一による「解題」、竹内好の同名論文を併録。
  • 廣松渉『〈近代の超克〉論-昭和思想史への一断想-』(朝日出版社、1980年/講談社学術文庫、1989年)
  • 孫歌『竹内好という問い』(岩波書店)
  • 菅原潤『「近代の超克」再考』(晃洋書房)
  • 子安宣邦『「近代の超克」とは何か』(青土社)

関連項目編集



しかし、1943年の「こどものための小交響曲」を発端に、それまでの彼の作品には有り得なかった日本的、叙情的な作風が顔を出すようになる。1944年に書かれた「交響曲第3番」は、彼が戦争による死を覚悟し、まさしく遺書として書かれた、日本の音楽史上に燦然と輝く壮絶な大作である。特に最終楽章「死に関する諸観念」の、苦悩から悟りの境地に達する音楽は圧倒的感銘を聴き手に与える。2004年にナクソスよりこの曲のCDが発売され(指揮:湯浅卓雄)、多くの人々の感動を呼んでいる。

戦後の作曲活動は不活発で、1945年から没年の1977年の32年の間にわずか8曲しか残していない。その理由は、「交響曲第3番」の作曲によって「燃え尽きた」ためであるという指摘が多い。しかし1951年の「交響曲第4番」は、当時国内に流入しはじめてきたロシア音楽の素材を彼なりに消化した、「交響曲第3番」とは驚くほど対照的な明朗快活な音楽である。また最晩年の1977年に書かれた「ピアノ協奏曲第2番」では、弟子たち(入野義朗柴田南雄)や息子(諸井誠)より数十年遅れて十二音技法による作曲を試みており、作品数は少ないながらも新境地を切り開いていることは大いに注目に値する。

作曲活動が下火になるのと対照的に、著作者としての顔が表に現れるようになる。1946年からの20年間に、平均して年2冊のペースで著書を出版するほどに力を注いだ。

https://www.amazon.co.jp/諸井三郎-交響曲-第3番・交響的二楽章他/dp/B0002V04A8/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1495201985&sr=8-1&keywords=諸井三郎