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水曜日, 4月 03, 2019

MMT補足:ビル・ミッチェル「mmt(現代金融理論)の論/



「When Doves Cry」のイントロが鳴り響く株式市場
2019/4/2
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【MMTへの識者の見方、および、日米の財政赤字・政府債務】






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ビル・ミッチェル「MMT(現代金融理論)の論じ方」(2013年11月5日) — 経済学101


https://econ101.jp/ビル・ミッチェル「mmt(現代金融理論)の論/
2018/1/4


自惚れネオリベラルの時代

1980年代とそれ以降、主流派による過去への再解釈が勢いづいた。
Weber(1997: 71)は”新しい経済学”の勃興を以下のように特徴づけている:
『…生産におけるグローバリゼーション、金融の変化、雇用の性質、政策、新しい市場、そして情報技術が…景気循環の抑制を齎すようになった。』
[Reference: Weber, S. (1997) ‘The End of the Business Cycle?’, Foreign Affairs, 76(4), 65–82]

これらの「特徴」がスムースな成長をもたらしてきたし、現在の供給ショックは:
『…ショックに対して一層容易に順応するフレキシブルかつ適応的な経済においては、あまり重要なものではなくなり、新しい景気循環に火を付けるような性質は弱まるだろう』
Weberはまた、労働組合の弱体化、よりフレキシブルな労働市場、及び金融部門の急速な成長が、景気循環を終わらせるのに貢献すると主張した。

彼は、デリバティブ取引の”莫大な成長”が有益なものだと論じた。なぜなら”これらの新しい金融商品はリスクを拡散・多角化する”し、新しいタイプのファンドマネージャーは、”そうした新しいツールを用いて金融フローを安定化させ、自身をショックから守るのに一層長けている”からだ(1997: 74)。金融部門は、国際資本市場を円滑に”よりいっそう効率的”にし、”経済変動を和らげる衝撃吸収装置”の配置を作り上げたと見做されていた。

彼らはまたこうも言っている(1997: 80)。『中央銀行らのインフレについての現在の合意は政府の財政政策を制約』し、『政府支出の本質的な循環的性質は、景気循環の平準化につれて弱まるだろう』。
Weber(1997: 75)は、『最後の審判』的議論、つまり、『複雑な市場は、相乗効果を生じ、斉一的に崩壊するという議論は、説得的な理論や、経験上の証拠には全く支持されない』と結論付けた。こうした考えは、新世紀が近づくにつれ、主流派経済学者に大いに共有されるようになった。

2002年、ハーバード大学の経済学者James StockとMark Watsonはこうした所感を捉え、アメリカの経済は、”過去20年を越える景気循環の安定、及びGDP成長率のボラティリテの全般的低下を反映した””静止状態”になったと論じた(Stock and Watson, 2002)。彼らはこうした傾向を”大いなる安定”と名付けた(2002: 162)。[Reference: Stock, J.H. and Watson, M.W. (2002) ‘Has the Business Cycle Changed and Why?, in Gertler, M. and Rogoff, K. (eds.), NBER Macroeconomics Annual 2002, Volume 17, MIT Press, 159-218]

2004年2月20日、現在のFRB議長であるベン・S・バーナンキはワシントンで”大いなる安定”というタイトルの論文(Bernanke, 2004)のプレゼンを行った。その論文では、経済学者の大多数による「景気循環は滅びた!」という見解が要約されていた。

主流派経済学者によるこうしたお祝い気分の、独善的な確信は、ロバート・ルーカスJrによるアメリカ経済学会の会長講演(2003: 1)に最もよく要約されている:
『マクロ経済学は、今とは全く異なる状況であった1940年代に、大恐慌への知的反応の一部として生まれた。この言葉は、かのような経済的破局の再発を防ぐことを望んだ知識や専門性の体系を指すものだった。このレクチャーにおける私の主張は、オリジナルの意味におけるマクロ経済学は成功裏に終わったというものだ:その中心的な問題意識である不況防止は解決され、実際のところ、何十年もの間、その問題は解消していた。より良い財政政策による繁栄を通じた利得の重要性も残ってはいるが、私は「より良い支出のファインチューニングではなく、人々がより働き、貯蓄するような一層優れたインセンティブを与えることによる利得が存在する」ということを論ずる。過去50年のアメリカの経済パフォーマンスをベンチマークとすると、より良い長期的サプライサイド政策によって得られる繁栄のポテンシャルは、短期的総需要管理の一層の向上のポテンシャルよりもはるかに優れているのである。』

このメッセージはシンプルだ。経済を過剰規制し、民間企業のインセンティブを阻害し、労働組合を過剰に強化し、福祉支出だけを熱望する怠惰でやる気のない世代を育成してきた介入主義者たちに対し、主流派経済学者たちが打ち勝ったということである。

この勝利は、政策レベルでは、安定化政策としての金融政策の優位として現れ、政策の第一目標はインフレーションの安定となった。財政政策は受動的で劣位の政策となり、政府は完全雇用を維持するという責任を放棄した。

こうした議論については、私たちは2008年の本 Full Employment abandoned  で詳しく考察した。

ルーカスが表明した所感は、いわゆるミクロ経済学的改革へ向かう主要な政策シフトに寄り添っているものだった。こうして広範囲に及ぶ金融市場改革及び労働市場改革が遂行された。世界金融危機が生じる前提条件は、この時期に定着した。

生産性成長に対して実質賃金の上昇は遅れをとるようになった。これは労働組合への攻撃と、職業の不安定性の上昇(非正規雇用の増加と就職難の悪化)の結果であり、それによって労働者たちが十分な報酬を希求するための能力を毀損したのだ。

消費成長を維持する枠が小さくなった分を、金融部門の急成長が補った。金融部門は、民間債務の大規模な増加を背景に急速に成長した。民間債務は多くの新しい借手に提供され、複雑なデリバティブにパッケージされて次なるカモに売りつけられた。

公の物語はルーカスの話した通りのものだった――景気循環はほぼ滅びた。

熱烈な政治的キャンペーンがそのような世界観を後押しした。政府を縛っていてた「国民の総意」などという概念を捨て、経済とは個々の貢献に応じてそれぞれに果実を齎す自然なシステムであるという見方を推し進めた。

彼らは、経済とは自己制御的システムであると喧伝していた。

Anat Shankar-Osorioは、彼女の本 Don’t Buy Itで、二つの経済モデルを提示した。一つ目のモデルは、以下に示す図で描写されており、彼女はこのモデルが保守的な見方を示すと考えている(実際には進歩的な見方もこのカテゴリーの範疇だが)。

それによれば、現在のイメージは「人と自然は、一義的には経済に貢献するために存在している」(Location 439)。経済は我々から分離され、我々の努力を認識し、その努力に応じて報酬を与える道義的裁定者ということになっている。働かない者や、”経済”の犠牲になった者からは、報酬は奪われることになる。

さらに、もし”政府”がこうした競争的プロセスに介入し、報酬を受けるに値しない態度(怠惰etc)でも報酬を受け取れるような抜け道をもたらしたなら、そのときシステムは機能停止し、”不健康”(経済を生き物と見做すメタファー)に陥るだろう。その解決方法は、経済の自然なプロセスを修復することになるだろう(つまり、最低賃金、雇用保護、所得補償etcといった政府介入を取り除くということ)。

したがって、”自治的かつ自然的”というのが我々の受け取るメッセージということになり、このメッセージに従えば、”政府の’でしゃばり’は良いどころかむしろ有害で、現在の経済的苦難はただただ受容しなければならない”という結論が明確に導かれる。(Location 386)




このため、我々の成功は、経済の成功とはある意味独立したものになる。実質GDP成長が強いことが成功している国の品質証明だ。 ”それが大気環境、休暇、平均余命、あるいは幸せといったものを犠牲にして成り立っているかどうか” は無関係だ――”…そうしたものすべては二次的なものになる”。

もし貧困率が上昇しているとしても、それは経済の失敗というより、その人が経済のための活動を十分に行っていないからであって、現在の経済運営で我々にとって十分なことがなされているということになる。

我々が、我々自身の失敗を責められるのだ。貧困率上昇が生じるのは、我々が十分に貢献していないからだということになる。成功している経済に対して標準以下の成功しかしていないなら、どうして報酬を期待することができよう?

進歩的見解もこうした論説に取り込まれており、例えば、緊縮財政論議などにおいても、”より公平な”代替案を提示しようとする。先進国で現在行われている議論を見てみるといい。

どの主要な(進歩的)政党も、緊縮財政ドグマには挑戦しようとしない。あなたは進歩的評論家が以下のようなことを書いているのをたびたび読むことになるだろう… ”我々は、財政赤字が問題で、政府債務は減らさなければならないということは知っているが、もう少し漸進的に行うべきだと思う”。

この点において、両陣営ともに事実上似たり寄ったりの主張をしており、公共的思慮が煙と消えている。その基礎的にある命題が根から枝まで間違っているにもかかわらず、解決策は明瞭だと思われており、価値観体系(保守側にせよ進歩側にせよ)は維持したままに程度問題の議論となっている。

代替理論を目指して

1990年代前半、新自由主義下の信用が高まり始めていた頃、今では現代金融理論(MMT)として広く知られる理論の初期の提唱者たち――それは小さいグループ(Bell/Kelton, Fullwiler, Mitchell, Mosler, Wray)だった――は、過去の異端理論(機能的財政論etc)を利用しつつ、それらに金融システムに特有の運営上の知見を付加し――金融資本主義の運営法についての代替的な論説を発展させようとした。

彼らはそうした論説を通じ、当時目の前にあった「自己制御的市場が万人に対して最大限の富を齎す」という主流派の信条が助長した経済動態が、実は持続不可能であることを明らかにした。

民間負債が積み上がる初期の段階においてさえ、無思慮な金融慣行が生じており、重大な危機が近づいているのは明らかだった。

しかし、他の進歩的経済学者たちは、そうした問題に関心を抱いていなかった。彼らは概してジェンダーやセクシュアリティ、方法論といった問題に注力しており、主流派経済学の論説に対しては、断片的で、容易に退けられるような批判しかしていなかった。

MMTの提唱者によって生み出された言説が進歩的な陣営での地位を上げていくことについての敵意すらあった。

大いなる安定は世界金融危機によって完全な停滞に陥った。世界金融危機は、最初に2007年8月にフランスの銀行であるBNPパリバが、サブプライムローン証券の履行可能性に対する不安の増加による3つの投資銀行からの撤退を凍結したときに始まった。(訳注:要するに、サブプライム証券不安を受けて、投資銀行からの資金引き上げの動きが生じ始めていたときに、BNPパリバが(自行傘下の)投資銀行からの資金引き上げを一方的に凍結した、ということです。)同月の後半に、イギリスのノーザンロック銀行で取り付け騒ぎが発生した。

住宅価格と株価の急落に伴い、大いなる安定の中で積み上げられた富が幻であることが証明され始めた頃に、危機はエスカレートした。2008年9月、リーマンが破綻した。

このとき、自己制御的市場という考えが神話であることが暴かれ、主流派経済学理論の体系全体が信用性を失うことになった――大学で教えられ、研究論文で学術的に用いられる支配的なニューケインジアンモデルは、どれもこの危機を予測できるようにはできていなかったし、危機に対する実行可能な解決法を提示できるものでもなかった。

最終的に、王様は裸だということが明らかになったのだ。

主流派経済学者は当初、とんでもない想定外事象がいくつも生じたにも拘わらず危機に対して沈黙を守った。

危機がエスカレートしてきていた2008年10月23日、前FRB議長(訳注:アラン・グリーンスパンのこと)が米下院の監視・政府改革委員会に姿を現した。当委員会は”金融危機と連邦監督機関の役割”について調査していた。

下院議長のHenry Waxmanはグリーンスパンに対し、後で後悔することになったいくつもの決断を後押ししていたのは自由市場イデオロギーだったのではないかと尋ねた。彼は以下のように答えた:(US House of Representatives, 2008, page 36-37)

グリーンスパン: あー、思い出していただきたいのですが、何にせよ、イデオロギーというのは、人間が現実を扱うための概念上の枠組みなのです。すべての人が持っている。あなたも必ず持っている。生きる上で、あなたがたはイデオロギーを必要としている。問題なのは、持っているイデオロギーが適切か、そうでないかです。私が言いたいのは、そうですね、私の考えに欠陥を見つけたという事です。それがどれくらい重大で、永続的なのかわかりませんが、その事実に私は大変苦悩しておりまして…

Waxman議長:欠陥を見つけたと?

グリーンスパン:どのように世界が機能しているかを定義づける決定的に重要な機能構造だと認識していたモデルに、欠陥を見つけたという事です。言うなれば。

Waxman議長:言い換えれば、あなたの世界観、イデオロギーが、正しくなかったということ、機能しなかったということに気付いたと。

グリーンスパン:その通りです。それがまさに私がショックを受けた理由です。なぜなら、私は40年以上、そのモデルが非常に良く機能しているという相当な根拠を目にしてきたのですから。

しかし、「今回の危機が主流派経済学の役割に対する大いなる試練となった」という認識や、教育カリキュラムや望ましい研究事項を変更する動きも、短命に終わってしまった。

主流派の専門家は、民間の債務危機だったものを国家の債務危機に再構築し始めた。彼らの反政府・自由市場バイアスに適合するように。

危機を醸成させた動態(規制緩和や監督縮小)が解決策であると提唱された。公的な議論は「緊縮財政が唯一の道だ」という主張に溢れ、IMFやOECDのような主導的な国際組織も「大幅な財政緊縮は経済成長を毀損する」という考えを否定する熱烈な予測を立てた。

その後、IMFは自身の計算が間違っていることを認めざるを得なくなった(IMF apology ARTICLE)。
このように、MMTの論説は高度な予測上の価値を持っていたのだが、公共的議論への影響力はゼロに限りなく近かった。

Shenker-Osorio(2012)は経済について以下のような代替的概念を提案している。この概念は、経済が我々の構築物であり、我々から切り離せるものではないという考え方と整合的だ。彼女は以下のように書いている。(Location 1037)

このイメージは、本当に大事なのは、自然環境と密接に関係し依存している我々である概念を描写しています。経済は我々とともに機能するべきなのです。いま政策の是非判断は、それがどれだけ経済のサイズを大きくするかで考えられていますが、これからはその政策がどれだけ我々の幸福に資するかで考えられるべきです。

さらに我々としては「その政策がどれだけ財政赤字や政府債務を増やすか」をも政策の是非の判断材料に加えたい。

彼女の提案は機能的財政論の原則に正しく即している――そこでは経済は”構築物”と見做される――、政策介入は、それらが我々の広範な目標に対してどれだけ機能するかという尺度においてのみ評価されるべきだ、とされている。

だから私たちは、自分たちが何を目標として何を成し遂げたいのかをもっと幅広く正確に定める必要がある。ある一時点の財政赤字というのは無意味な目標だ。

財政バランスは――我々の目標や、政府純支出と目標の間の機能的関係に従って――いかようにもなり得るものだ。

政府は道徳を強化する存在ではないし、経済は道徳活動ではない。

メタファーと価値観
進歩的な文献(例えば、The Common Values Handbook)(訳注:The Common Cause Handbookの間違い? とりあえずそれらしきもの発見できず)では、”我々の態度や行動”に影響を与える”我々の基本規範”となる価値観を明示しようとしている。広範な研究によって、”一貫して生ずる人間的価値観が大量に特定された”。(Common Values Handbook, 2012:8)
この研究を大まかにまとめると、Schwartzの研究と彼の価値観を中心に展開するものだといえる。彼は我々の思考の枠組みとなっている基本で普遍的な10個の人間的価値観を特定した。
我々のビュー―このペーパーで詳説するもの―においては、こうした議論はある種付加的なものだ。そうした価値観は一般的であるため、どんな考えとも整合的なのである。
我々としては、それにいくつかの原則を付け加えることに集中し、その原則を支持する語法を確立していきたい。
諸原則と語法
その諸原則は以下のようなものだ:
1. 政府とは我々だ!
2. 政府は我々の代理人であり、あらゆる代理人と同様、我々が政府に対して資源と裁量を割譲する。なぜなら、我々は各々個人では達成不可能な便益を政府が創造することが出来ると信頼するからである。我々は規模というものを理解している。
3. 政府は、必要不可欠なサービスを提供することにより我々現役の世代の幸福に資する。収益は不必要。
4. 政府は、数十年に渡ってサービスを提供する生産的なインフラの建設を通じて、将来世代の幸福に資する。
5.私たちは政府にこのユニークな権限を与えることによって、制約に直面することなしに関心を追求できるようにしている。
6. 我々にとっての赤字は、その原資を見つけなければならないものだと理解されている。ところが、我々の代理人である通貨発行権付き政府にとっての赤字は、私たちの消費・貯蓄選択の原資となるものなのである。
7.政府の赤字が私たちの自由を強化する。所得を増やし選択肢を増やすからだ。
対決!主流とMMT
下の表は、経済学者や評論家が財政支出、財政赤字、公的債務、及び最も不利な状況にある労働者たちへの所得補償制度などを攻撃する際にしばしば用いている命題だ。
今回の論文では、これらの例が主流パラダイムが推進しようとする中核的な価値の強化につながっているということを示したい。例えば自己規律、独立性、野心、富、そして犠牲だ。
これらのそれぞれの偽命題の背後には、神話に偽装したメタファーの連鎖がある。二列目に書かれているのが、それらに対してMMTが提示する現実の動きだ。
主流経済学Modern Monetary Theory
財政赤字は悪財政赤字自体は善でも悪でもないが、非政府部門の消費意欲が現存する生産資源を十分かつ確実に利用するほど十分でないときには必要。
財政黒字は善財政黒字自体は善でも悪でもないが、資源に余力があり黒字が成長の足を引っ張る状況においては有害である。
財政黒字が国の貯蓄を産み出す自国通貨をもつ政府がその貨幣を貯蓄するという考えが無意味。貯蓄とは将来の支出を確実にするための支出行動で、金銭的制約を持つ政府ではない存在に適用されるもの。政府は支出のための資金をあらかじめ用意しておく必要がないので”貯蓄”の必要性は全くない。
景気循環を通じて予算は収支均衡させるべき予算は非政府部門の消費動向に応じて完全雇用を達成し維持するのに必要なだけの総支出水準に、景気循環とは無関係に調整されるべき。
財政赤字は金利を上げる。民間貯蓄との競合になるから。民間の貯蓄は収入次第で決められない。常に支出によって貯蓄が決まる。なぜなら貯蓄は収入の上下変動とともに変化し、支出の動きと直接関係しているので。
政府の資金調達費用は債券市場で決まる中央銀行が金利を定めており、イールドカーブの任意の箇所にコントロールすることができる。政府支出の費用は公共政策に利用可能な実物資源である。
財政赤字は将来の税負担財政赤字を返済する必要は全くない。各世代は自由に課税水準を選択することができる。
政府の財政余地がなくなるかもしれない財政余地はより正確には通貨で購入できる実質の財やサービスと定義される。通貨を発行する政府は、通貨で売られているものを常に購入することができる。政府にとって通貨での支払いができなくなるということはあり得ない。
財政赤字は大きな政府と同義だ財政赤字は大きな政府でも小さな政府でも生じ得るだろう。小さな政府でさえ、もし非政府部門が全体での貯蓄願望を持ち、かつ政策目標として国民所得を完全雇用水準に維持しようとするなら、継続的な赤字を計上する必要がある。
政府支出はインフレ促進的である全ての支出(民間あるいは政府)がインフレーションリスクを持つ。遊休資源(例えば失業)などがある間は、政府支出はインフレ促進的ではない。もし経済の実物キャパシティが吸収できる範囲を超えて名目総需要を加速させるなら、あらゆる支出がインフレ促進的となる。
民間部門に対して債券を発行すると、財政赤字によるインフレーションリスクが抑制されるある特定の政府純支出の水準に伴うインフレーションリスクは、赤字分と同額の債券を発行した場合と発行しなかった場合を比較しても違いはない。インフレーションリスクは、支出に関する金融的取り決めではなく、支出自体によって決定する。
将来世代の負担は、返済しなければならない債務という形態の財政赤字の継承にリンクしている将来世代の負担は、実物資源の利用可能性にリンクしている。例えば、ある世代が再生不可能な資源を使い果たせば、将来世代へ負担を課すことになる。将来世代は実物資源を過去へとタイムトラベルさせることはできない。

将来世代の負担は、返済しなければならない債務という形態の財政赤字の継承にリンクしている将来世代の負担は、実物資源の利用可能性にリンクしている。例えば、ある世代が再生不可能な資源を使い果たせば、将来世代へ負担を課すことになる。将来世代は実物資源を過去へとタイムトラベルさせることはできない。
インフレ率のコントロールのために失業を用いるインフレ率のコントロールのために雇用を用いる
通貨発行権のある政府にデフォルトリスクがある通貨発行権のある政府にはデフォルトリスクは全くない。通貨発行者は、当該通貨建てで負った負債はどんなものであれ返済可能だからだ。
納税者のお金公共貨幣。納税者は何の資金供給も行ってはいない。租税は実物資源を解放する装置であり、それによって、我々の代理人である政府は、我々の共同体的利益のために、社会経済プログラムを推進することが出来る。
人は個々の関心に従い合理的に態度を決める人間は複雑かつ予測困難であり、理性と感情は不可分である。
下の図は、主流の新古典派経済学が用いるメタファーの例で、これらは上図左列にまとめた誤った命題を強化するために用いられてきたものだ。
攻撃目標メタファー目的
政府支出分相応の

国のクレジットカードの枠がいっぱい

酔った水夫のような浪費
余剰と犠牲が必要
急いで削減を
破産する
無責任な支出
無責任なふるまい
財政均衡財政ブラックホール
国の財政が悪化する

巨大化する財政赤字
国が破産する、壊れる

膨れ上がる赤字と負債
大質量の星の崩壊(天文学)の比喩
健康の比喩。病気、緊急事態
TINA - 外科手術
制御不能
国の財政は家計のようなもの - 経済は私たちに似ている

制御不能 
国の負債アメリカは破産状態だ
債務の山
我々の孫たちへの負担
将来への借金
国は経営状態の悪い破産企業だ
莫大、重大
子供たちを弱らせる
将来を台無しにする
所得補償福祉依存
失業手当をもらったまま働かない人、ずる休みしている人
勤労者世帯
薬物中毒
怠惰、無価値

模範
語法
MMTが避けなければならない誤解を招きやすい表現がある。二つ例を挙げる。
ステートメント 1: 大量の失業は財政赤字が少なすぎることの兆候だ

結論としては正しい。
財政赤字という言葉には二つ問題がある。第一に、この言葉がネガティブな印象を与える。赤字とは不足を意味するからだ。
会計的な意味では赤字は支出に対しての収入不足だ。
第二に、財政収支の変動ではあいまいで、詳細かつ技術的な検討なしに量的な判断はできない。
結果としての財政収支が赤字なのが「良い」場合はある。民間部門の支出消費動向に基づいて完全雇用を維持しようという政府の裁量的な財政政策の結果として赤字が増えていた場合だ。「悪い」ケースとしては、民間の消費が落ち込み、自動安定化装置が税収を引き下げ失業が増加しているような場合がある。
またこの見方は、政府は財政収支をコントロールするのだという結論に行きがちだ。
現実において財政収支の結果とは、非政府部門の消費や貯蓄の動向と政府の裁量的な決定を反映する。
というわけでこの用語は問題があるし、実際ややこしいのだ。
国の収支に関しては「赤字」「黒字」という言葉を使うのをやめようと言う人もいるが、そのような提案が出てくる。
そのような、別の効果的な言葉が必要だという賛成ではあるのだが、教育によってコミュニケーションを効果的にできないかを考えている。
たとえば「赤字」のような言葉に代わる新語を作ったとるすると、その言葉が表しているストーリーそのものを完全に失ってしまいかねず、そうだとすればコミュニケーション上でほとんど意味がないことになると思う。
この種の問題は、新しい言語を開発するよりも、教育を改善したり理解を助けるツールを提供するほうが良いと考えるというわけだ。
ステートメント 2: 政府支出は非政府部門の金融資産を増やす
これも結論としては正しい。
マスコミはいつもありふれたメタファー ―― 政府は港で酔っぱらった船乗りのようにカネを使っている―― というのを使い人々の不安を煽っている。
失業を増やし実質所得を減らす財政緊縮を正当化するため、イデオロギー的に政府の介入に反対する人を利してしまう。
真実を隠す議論によって私たちの生活を悪化させる政策に手を貸してしまう。
支出、という語は何かが浪費されたりどこかへ行ってしまうような先入観を招いてしまうという事実がある。
政府支出とは実際には、非政府部門への資金(金融純資産)の供給であり、私たちの所得と貯蓄を増やし、雇用を増やし、非政府部門に将来のリスクを管理する手段をもたらす(貯蓄の蓄積によって)。
この場合は意味を変えずに言葉を変えられそうだ。
ここでは「政府の資本支出」ではなく、「政府の消費支出のための回帰的な投資」、「長期の投資」という語を使うべきだ。
しかしここでもまた、投資という語は混乱を招くかもしれない。なぜなら投資には二つの意味がある。:
(a)経済学者は生産力の増強と言う意味でこれを使うし、(b)普通の人々は金融資産の購入と言う意味で使う。
しかし「投資」にはポジティブな含意があるので有意義かもしれない。
まとめ
作業はまだ途中だ。
我々は、あなた方が用語が重要だと考えているかどうか、及び次のようなコンセプトについてどのような代替用語が適切と考えているかについて関心がある:
1. 財政バランス
2. 財政赤字
3. 財政黒字
4. 国債
5. 政府支出
6. 政府租税
7. 国民所得
8. 所得保障支出
9. 完全雇用
こうした取り組みを始動するべきだろう…
今日はここまで!

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