映画『動物農場』公式サイト
こうした社会の“しくみ”に焦点を当て、それに翻弄される人々の姿を描いた映画がある。この冬にジブリ美術館が公開するイギリスのアニメーション映画「動物農場」(1954)もそうした作品である。イギリスの片田舎の農場で、人間たちによる過酷な労働に耐え切れなくなった家畜たちが反乱を起こし、主人である人間たちを追い出して、自分たちで労働を管理し農場を経営していく。ところが、経営を指導するナポレオンというブタが独裁体制をしき、いつしか人間のような支配者になってしまうというストーリーである。農場という小さな社会の“しくみ”をとおして、支配する者と支配される者、搾取する者と搾取される者の姿をブラックな感覚で描いた寓話である。
この「動物農場」を監督したジョン・ハラスとジョイ・バチュラーのふたりは、公私にわたるカップルであり、1940年代からイギリス・アニメ界で活躍しており、その多彩なアニメ制作は2000本にも及ぶといわれる。わが国では「珍説・世界映画史」(1956)などが公開されているが、「動物農場」はまちがいなく彼らの代表作である。原作はイギリスの小説家ジョージ・オーウェルの有名な同名小説である。この小説は1944年に書かれたが、第二次大戦下の政治状況(小説の内容が同盟国だった旧ソ連を刺激すること)や出版事情(紙不足だったこと)などから、陽の目を見たのは翌年だった。
ジョージ・オーウェルといえば、わが国でよく知られているのは『カタロニア讃歌』だろうか。1960年代末の反乱の季節に多くの学生たちによって読まれた一冊であり、団塊の世代にとっては懐かしい本といえるのではないだろうか。この『カタロニア讃歌』は、1936年に勃発したフランコ将軍の反乱とそれに続くスペイン内戦に参加し、その体験に基づいて発表されたものである。ジョージ・オーウェルは当時、ファシズムと戦うために知識人の多くが結集した共産党系の国際旅団に加わらずに、トロツキスト系のPOUM(マルクス主義統一労働党)に参加した。このことが、そのあとのジョージ・オーウェルの創作活動に大きな影響を与えた。つまり、コミュニズムがはらむ矛盾とそれが生み出したスターリニズムの本性を見たことだ。彼の代表作である『動物農場』と『一九八四年』は、このスペイン内戦の体験がなければ生まれなかったといえる。
『動物農場』は寓話とはいえ、ナポレオンはスターリン、スノーボールはトロツキー、またメージャー爺さんはレーニンと見ることができるし、蜂起して勝利した動物たちの農場は明らかに当時のスターリン独裁体制下にあった旧ソ連と二重うつしにある。その意味ではアニメ映画「動物農場」は、ナポレオンをはじめから権力志向のずるい性格として説明したり、ボクサーがどうしてナポレオンを尊敬したのかという内面的な起伏が消えていたりと、いわゆるスターリニズムに対する批判を薄めているため、原作と比べると少し物足りない印象がしないでもない。ただし社会の“しくみ”は、いかなる社会であれ、それを活用する者しだいであることはよく伝わってくる。
映画はその歴史のなかで社会の“しくみ”に焦点を当て、それに翻弄される人々の姿をしばしば描いてきた。今日ではもはや死語に等しくなってしまったが、“社会派”といわれた映画はそうしたことをテーマに取り上げていた。わが国に関していえば、先に見た「蟹工船」などはその典型といえる。あるいは、野間宏の小説を原作にした山本薩夫監督の「真空地帯」(1952)や、八海事件という実話に基づく今井正監督の「真昼の暗黒」(1956)といった作品をあげることもできる。いずれも原作に基づいた映画であるが、軍隊という組織や司法という制度の“しくみ”に翻弄され苦しめられる人々を描いている。
もちろんハリウッド映画にも“社会派”とよばれる作品はある。たとえば、ジョン・フォード監督の「怒りの葡萄」(1940)がそうだ。1930年代半ばにアメリカ中西部を襲った大凶作によって飢餓状態に陥った農民たちは、土地を手放して新天地を求めてカルフォルニアに向かう。その凄まじい実態を、ヘンリー・フォンダ演じる主人公のドラマとともに描きながら、資本主義経済の“しくみ”の歪みを暴き出している。
アメリカ映画において“社会派”の作品が登場するのは、1930年代にアメリカ社会が経済不況の嵐に見舞われてからといわれる。映画製作は時代の産物であるが、エンターテインメントの帝国であるハリウッドも例外ではない。この時代以降のハリウッド映画には、飢餓や貧困、仕事の不正や若者の非行、人種問題、そして近年になっては宗教や民族などの問題を取り上げた作品が見られるようになる。このことはヨーロッパ映画でも同じである。たとえば、イタリアのネオリアリスモの代表作として有名なヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」(1948)も、戦争による敗戦という状況がなければ生まれなかったにちがいない。
もっとも映画が社会の“しくみ”を描くことに関しては、次のことはいっておかなければならないだろう。映画、とくに実写である劇映画は、つねに映像として具体的で個別的な世界を写しだすため、一般的で抽象的な“しくみ”をストレートに描き出すのは困難であるということである。たとえば、チャップリンが主演・監督した「モダン・タイムス」(1936)という作品がある。映画の前半で、チャップリンはベルトコンベアーの流れ作業で分業化された工場で働くが、同じ動作を繰り返すうちにとまらなくなって入院するハメになる。チャップリンのコミカルなアクションは笑いを誘うが、ここには機械による仕事の効率化に対する風刺を見ながらも、それが現代資本主義社会の生産性向上の“しくみ”に対するチャップリンなりの批判としてとらえることは難しいのではないだろうか。スクリーン上に描かれた具体的な世界から社会の“しくみ”を読みとるには、ほとんどの場合、観客の教養や能力にかかわっているといえる。
最近、こうした社会の“しくみ”に視線を向けた映画で想起されるのは、ケン・ローチ監督の「この自由な世界で」(2007)である。海外の移民労働希望者にイギリスにおける仕事を斡旋する職業紹介所で働く女性を主人公に、自分で会社を始めた彼女が、両親に預けている幼いひとり息子と一緒に暮らしたいため、不法移民の斡旋に手を出してお金を稼ぎ、やがて友人にも移民にも非情と思われることをおこなってしまう。自由な社会では自由に働いて稼ぐことができるが、社会的にも倫理的にも超えてはいけない規範があり、ほとんどの人々はそれを守って生活している。ところが、幸せな生活を求めるという理由のもと、その一線を越える「自由」もあることになる。この映画は、見終わったあと、まさに自由な社会の“しくみ”の良い面と悪い面が生々しく浮き彫りにされる怖さがある。
ケン・ローチ監督はこれまで、たとえば、労働者の生活を描いた「リフ・ラフ」(1991)や「レイニング・ストーンズ」(1993)、移民問題を扱った「カルラの歌」(1996)や「ブレッド&ローズ」(1999)、あるいは異なった文化や宗教を描いた「やさしくキスをして」(2004)など、現代社会が抱えるさまざまな問題を題材にして、独特なリアリズムで映画を作ってきた。しかも興味深いのは、そのいずれの作品でも、けっしてハッピーエンドで終わることはなく、主人公たちが抱える問題を解決するためには社会の“しくみ”に突き当たらざるをえないように描き出されていることである。
ケン・ローチ監督が描く世界の先にあるのは、おそらく社会の“しくみ”そのものを変えることであり、実際の変革のための政治的な次元ではないだろうか。その点で面白いのは、ジョージ・オーウェルが『動物農場』を書き上げるのに影響を与えたスペイン内戦を、ケン・ローチ監督も「大地と自由」(1995)で描いていることである。それも、ジョージ・オーウェルが体験したように、「大地と自由」の主人公もファシストと戦うために勇んでスペインの民兵部隊に入るが、非共産党部隊だったために悲劇が待ち受けるというストーリーである。ケン・ローチ監督が抱く政治思想には、ジョージ・オーウェルのそれに近いものが感じられる。
ジョージ・オーウェルもケン・ローチもともにイギリス育ちである。民主主義や自由主義の観念が古くから伝統的に培われてきたイギリスには、同じ民主主義でもアメリカのそれと異なり、また同じ社会主義でも旧ソ連や東欧のそれとはちがった独特の政治思想が育まれてきたように思われる。生まれ育った時代が異なり、小説と映画というちがいがあるにしろ、ふたりのイギリス人には社会の“しくみ”を見る視点にひと味もふた味もちがったものがあり、それが彼らの作品を独特で面白い世界にしている。
村山 匡一郎
一九四七年、東京生まれ。多摩美術大学客員教授。
幼い頃から映画が大好きでジャンルを超えて見て回る。早稲田大学大学院で映画学を学んだ後、フリーランスの映画評論家、映画研究者として現在に至る。日本経済新聞をはじめ新聞や映画雑誌で評論活動をする傍ら、武蔵野美術大学やイメージフォーラム研究所などで教える。主な著訳書に『世界映画全史』(共訳、全12巻、国書刊行会)、『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』(編著、フィルムアート社)、『映画は世界を記録する』(編著、森話社)など多数。
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