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木曜日, 12月 19, 2019

井上智洋 熱い論争の的、MMTの本当の独自性はどこにあるのか 「衰退途上国」からの脱却 2019/12

参考:
クリフォード・ヒュー・ダグラス 1879〜1952

特別番組「MMTとは何か」前編 駒沢大学経済学部准教授 井上智洋 倉山満【チャンネルくらら】 
2020/03/13



毎年120万円を配れば日本が幸せになる
⁦‪@q81pY70eh38D7Mp‬⁩
10万円給付について麻生財務大臣が「消費に回っていない。貯金に回されただけだ」と言っているそうですが、預金13兆円だけをみて言っているのだとするとそれは間違い。誰かがお金を使ったらそのお金は別の人の銀行預金となるので、預金全体の13兆円という数字は変わらないわけです。(井上智洋)
2021/01/28 17:40
https://twitter.com/q81py70eh38d7mp/status/1354710934875295744?s=21




 10万円給付については、麻生財務大臣が「まったく消費に回っていないじゃないか、貯金に回されただけだ」と言っていますね。 


井上:もし麻生さんが預金13兆円だけをみて言っているのだとすると「それは間違いですよ」ということですね。ほとんどのお金は現金で持ち歩くのではなく、銀行に預けておくものですから、誰かがお金を使ったらそのお金は別の人の銀行預金となるのですから、預金全体の13兆円という数字は変わらないわけです。

毎年120万円を配れば日本が幸せになる  


https://www.amazon.co.jp/dp/B08T97FCHZ/


著 者 

井上智洋      

小野盛司

扶桑社 (2021/1/21)


市井の銀行の裁量に貨幣の起源を求めることで
国家主義を避けたいのはわかる
ただ国家も市井の銀行発行券を拒否出来るし
市民側からもそうだ
結局取引に適したインフラを誰が整備出来るかだ
国家も逆に超国家的視点から選別される
だから国家主義を批判するには超国家的貨幣(バンコール)を創出すべきなのだ
それはLETS(通帳式地域通貨)と同じ原理だ


ガルブレイブスのエピソードはMMTがデフレ時に限定される議論では無いと証言している
BI派はインフレになった時のことを考えていない
徴税すればいいというのは答えにならない
国家が集め国家が分配するのは中間団体の排除である
後に何も残らない
MMTは労働価値説の復権が肝だからJGPがなければならない
BIは歴史的には社会保障をカットすることとペアだ
BI社会保障並存派がほとんどだろうがその時点で社会保障を先に議論しなければならなくなる
そこにはJGPが真っ先に入る
JGPは最低賃金を規定し
地方に主体性を与える
分配は生産現場でなされなければならない
BIにはそのインセンティブがない
地域再投資法など地域金融という中間組織の活用を見据えるべきだ

ーー
ISHIZUKA Ryouji (@ISHIZUKA_R)
Iさんの本、読んでみたら、あれこれ問題が。
まず「預金準備」という言い方がひっかかるが、まぁよい。
ベースマネーとマネーストックを主流派は分けない、と批判するのはよいのだが利子率の話になると分けてない。インターバンクの話が出ない。
政府支出の説明も中途半端で、むしろ無いほうがよい。

https://twitter.com/ishizuka_r/status/1210831673765457921?s=21

現金をどんどん配れ
https://iitomo2010.blogspot.com/2020/05/mmt-2000510.html

井上智洋
熱い論争の的、MMTの本当の独自性はどこにあるのか 「衰退途上国」からの脱却
2019/12/19
来るべきAI社会、人々に保証すべきは仕事か所得か
2019/12/20


にゅん だってさ。主流派経済学者が批判されるべき理由は「貨幣が無からいくらでも作り出せることを言わないから」じゃないよ。まさにここで著者がやっているように「民間の債務」を忘却したかのような物言いをすることなんだよね。
おかみ ああ。。。




【ユヴァル・ノア・ハラリを読む】貨幣の未来――ハラリ・MMT・仮想通貨|Web河出
http://web.kawade.co.jp/bungei/3222/

【ユヴァル・ノア・ハラリを読む】貨幣の未来――ハラリ・MMT・仮想通貨







寄稿
単行本 - 人文書
井上智洋(駒澤大学経済学部准教授)
2020.01.15

貨幣の虚構性
誰もが知っていることではあるけれど、一万円札というのはただの紙切れだ。日銀が「一万円」と印字しているから、それだけの価値を持っているに過ぎない。紙幣というのは「紙の約束」(註1)なのである。
世の中に出回っている貨幣は「現金」と「預金」から成り立っていて、預金の方の正体は何かというと、現代ではコンピュータ上のデータに他ならない。
ハラリは、貨幣の持つこの情報性・記号性を「虚構」という言葉で言い表している。この虚構こそが、多数の人々が協力して大きな目的を成し遂げる原動力である。
ホモ・サピエンスの脳の平均容量はおよそ1,350cc で、ネアンデルタール人は1,550ccである。脳の大きさのみが、賢さを決定づけるわけではないにせよ、ホモ・サピエンスの優位性を示す脳科学的な証拠はない。にもかかわらず、ネアンデルタール人は絶滅し、ホモ・サピエンスだけがあらゆる地表を我が物顔で跳梁跋扈している。
繁栄の理由は、私達ホモ・サピエンスが神話や国家、法制度といった現実には存在しないものを生み出せたことにある。貨幣もまたそのような虚構の一つである。貨幣がなければ、私達はこれだけの経済的豊かさを享受することはできなかっただろう。
最近、貨幣の持つこの情報性・記号性を強調する経済理論が注目を浴びている。それは「現代貨幣理論」(Modern Monetary Theory, MMT) である。
貨幣がコンピュータ上のデータであるならば、それは幾らでも無から作り出せることになる。実際、銀行は企業などに貸出を行う際に、コンピュータのキーボードを叩いてその企業の口座に 100 万円などと書き入れるだけで新たに貨幣を作り出すことができる。MMT ではこういう貨幣を「キーストロークマネー」と言っている。
なぜ貨幣は価値を持つのか?
それにしても、ただの紙切れやただのデータに過ぎない貨幣がなぜ価値を持つことができるのか? ハラリは、「これまで考案されたもののうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ」(註2)と言っている。一体なぜ私達はただの紙切れをシャツやバッグと交換してもらえるものと信頼しきっているのだろうか?
貨幣が価値を持つ理由としては、「貨幣の自己循環論法」が広く知られている。貨幣が価値を持つのは貨幣が価値を持つからというものだ。あるいは、日本円に一般受容性があるのは、一般受容性があるからと言うこともできる。貨幣を人々が受け取ってくれることを、経済学では一般受容性という。
しかし、これではどうどう巡りになってしまっており、貨幣が価値付けの自己循環に入るための最初の一歩をどう踏み出したのかが分からない。
MMT派の経済学者ランダル・レイは、貨幣の自己循環論法を「ババ抜き貨幣論」(註3)とか「間抜け比べ」(註4)といって侮蔑している。代わりにMMTが提供しているのは「租税貨幣論」だ。
これは、実質的な価値のない貨幣が価値を持ち得るのは、それを使って税を納められるからだという説である。このようにして価値を持つに至った貨幣を「タックス・ドリブン・マネー」(租税駆動型貨幣)という。
確かに、納税に使えるというのは貨幣に価値を持たせるための強力な手段になり得る。だからといって、貨幣の自己循環論法を切り捨てることはできないのではないか?
というのも、人々がより強く意識するのは、納税の手段としての貨幣ではなく、交換の媒介としての貨幣だからである。一年の内、納税日以外の 364 日は、叙々苑で焼肉を食べたいとか久兵衛で寿司が食べたいといった想いが沸き上がることで、お金の必要性を痛感するのではないか?
そして、私達が給料などのお金を受け取るのは、買い物の際にお店がお金を受け取ってくれるからだろう。一般受容性があるからこそ一般受容性があるというのは、生活の実感に適合している。
要するに、租税貨幣論が正しいとしても、貨幣の自己循環論法を切り捨てる必要はないということだ。貨幣が価値付けの自己循環に入るには、最初の「神の一撃」が必要である。そして租税こそが、最も強力な一撃になり得るのである。
ビットコインと貨幣発行自由化論
租税は確かに強力だが、恐らくは自己循環に入るための唯一の手段ではないだろう。他にも、国家が貨幣に強制通用力を持たせること、金や銀を含むこと、便利なこと、希少価値があることなどなんでも良いかもしれない。
現に、ビットコインのような仮想通貨(暗号資産)は納税に使えないにもかかわらず、普及している。ランダル・レイは、ビットコインを「間抜けをだますための道具」(註5)と言って貨幣として認めていない。
だが、投機目的で保有されることが多いにしても、決済の手段としても若干は使われているので、貨幣ではないと完全に切り捨てることはできないだろう。
それよりも、ビットコインは円やドルといった法定通貨に比べると遥かに流通力は弱いが、利便性と希少価値の 2 点に拠って、かろうじて貨幣たり得ていると見なす方が妥当と思われる。
利便性は海外への送金のしやすさなどが挙げられる。希少価値は 4 年ごとに新規発行量が半減していく仕組みと 2140 年に達する 2100 万Bitcoin という貨幣量の天井によって担保されている。
そもそも、ビットコインの発案者であるサトシ・ナカモト(国籍不明、正体不明の人物ないし集団)は、典型的なリバタリアン(自由至上主義者)で、貨幣の発行を国の機関に任せるべきではないという思想の持ち主だった。
各国で行われていた金融緩和がインフレを引き起こすであろうことを危惧して、インフレを起こさないような貨幣としてビットコインを設計したのである。
これは、オーストリアの経済学者で、リバタリアンの始祖の一人と目されているフリードリッヒ・ハイエクによる『貨幣発行自由化論』(1976年)に沿った動きである。
ハイエクは、この本で公的機関による貨幣発行を廃止して、様々な民間経済主体が自由にそれぞれの貨幣を発行できるようにすべきだと主張している。
金本位制度の時代には、貨幣量は金の採掘量によって限定されていた。そのために、インフレは抑制されていたが、逆に言えばデフレ不況に陥りやすかった。
1930年代に日本を含めた多くの主要国が金本位制度から脱して管理通貨制度を採用し、政府・中央銀行が貨幣量をコントロールするようになった。だが、1970年代、主要国でインフレが進行していたので、ハイエクは貨幣発行自由化論を唱えたのである。
ビットコインは、いわば金本位制度の時代に立ち返るかのように、マイニング(採掘)によって貨幣量を限定することによって、インフレを防ぐ仕組みを備えている。逆に言うと、ビットコインは絶えずデフレ(貨幣価値が上がる)傾向にあり、それがためにもっぱら投機の対象になりがちである。国際会議などの公的な場で、仮想通貨ではなく暗号資産と呼ばれるようになったのはそのためである。
ビットコインはその希少性を高め過ぎたために、決済手段として利用が広がっていない。したがって、ビットコインが法定通貨を駆逐することはないだろう。
それでも今後なんらかの仮想通貨が、法定通貨の地位を脅かすようになるかもしれない。ハイエクの提唱した複数の貨幣が競合するような状態が自然と形作られる可能性もある。
国家 VS. プラットフォーム企業
私は 2019年5月に出版した『純粋機械化経済』という本の中で、グーグルやアマゾンが仮想通貨を発行してばらまくようになるだろうと述べた。そのすぐ後、2019年6月にフェイスブックは仮想通貨「リブラ」を発表している。
リブラは価値を安定させるために、ドルやユーロ、円といった法定通貨のバスケットによって裏付けされる「ステーブルコイン」になりそうだ。そうであれば、リブラは法定通貨を補完する役割を果たすだけだ。
しかしながらこれから、法定通貨とは全く異なった価値の源泉を持つ仮想通貨が、プラットフォーム企業によって発行される可能性も否定はできない。
一方、法定通貨そのものを仮想通貨として発行する動きもある。例えば、スウェーデンの中央銀行リクスバンクは、法定仮想通貨「e-クローナ」を 2021 年から流通させ始める予定だ。
もし、円という法定通貨が仮想通貨になれば、私達は銀行に預金としてお金を預ける必要がなくなり、これまでの貨幣制度・金融制度が抜本的に変革されることになる。そして、国家の発行する仮想通貨と企業などの民間経済主体の作り出した仮想通貨とが競い合うことになる。
貨幣は、利用者が多ければ多いほど利便性が増して、それによってさらに利用者が増えるという「ネットワーク外部性」という性質を持っている。
電話のようなネットワーク外部性を持つ事業は、日本では長らく国営企業(電電公社)によって担われ、アメリカでは独占企業(AT&T) によって担われてきた。検索エンジンやSNSなどのネットワーク外部性を持つサービスも、グーグルや  フェイスブックのようなプラットフォーム企業によって、独占(ないし寡占)されてきた。
ネットワーク外部性を持った土台をプラットフォームと呼ぶならば、貨幣もまたプラットフォームであり、それは主に国家によって運営されてきた。国家の重要な役割の一つは、プラットフォームの運営にあったのである。
ハラリに基づいて言えば、国家は人間が作り上げた最も強力な虚構ということになる。それがために貨幣のような大規模なプラットフォームの運営が可能だったのである。
ところが今、プラットフォーム企業が、プラットフォーム運営者としての国家の地位を脅かしている。グーグルやフェイスブックは、独占(ないし寡占)企業であるがために、規模的にも国家に匹敵する。実際のところ、グーグルの 2017 年の売り上げは 1108 億ドルであり、世界で 61 位のウクライナのGDPに相当する。
貨幣というプラットフォームを牛耳るのは国家かプラットフォーム企業か? 租税に拠らない貨幣がタックス・ドリブン・マネーを駆逐することはあり得るだろうか? いずれにしても貨幣は今、千年に一度くらいの大変革にさらされている。
(1) Coggan (2012) の題名。
(2) Harari (2014)
(3) Wray (2015
(4) Wray (2015)
(5) Wray (2015)
参考文献
  • Coggan, Philip (2012) Paper Promises: Debt, Money and the New World Or- der, Penguin (松本剛史訳『紙の約束 : マネー、債務、新世界秩序』日本経済新聞出版社、2012 年。)
  • Harari, Yuval (2015) Sapiens: A Brief History of Humankind, Harper. (柴田裕之訳『サピエンス全史 : 文明の構造と人類の幸福 上・下』河出書房新社、2016 年。)
  • Wray, Randall (2015) Modern Money Theory: A Primer on Macroeconomics for Sovereign Monetary Systems, Palgrave (島倉原・鈴木正徳訳『MMT現代貨幣理論入門』東洋経済新報社、2019 年。)
関連ページ

小料理屋書評シリーズ!井上智洋『MMT 現代貨幣理論とは何か』 番外編 【一万円札の原価の話を好む人たちの誤解】

(にゅんさん、店の外で夜空の星を見ている)
(しばらくしておかみも外に出て声をかける)
おかみ にゅんさん、少しは落ち着いた?
にゅん おかみ。。。
おかみ そろそろいいかな。何を考えていたの?

一万円札の製造原価との差額が「益」だという与太話

にゅん あのさ、「一万円札の製造原価が20円だから、一万札を発行すると9980円が利益として生み出されることになる」って与太話はどうして出てくるんだろうかって考えていて。
おかみ 統合政府は通貨の発行者で、そうするとお札を渡すっていうのは「借用証書を渡す」ことに他ならないから、むしろ統合政府の資産「減」になるね。受け取った民間は資産の「増」だもんねえ。だから、一万円の支出をするためにいくらかけるんだよって話なんだね。そんなんもん益じゃないだろう、損やんっていう。
にゅん うん、だから「原価が安いほうが好ましい」ならわかるんだ。でも財務省の榊原さんだっけ、わざわざ四万円だかの費用を余分にかけて十万円硬貨を発行して、それが手柄になったとか。
おかみ それねえ。むしろ単なる両替より悪いもので、投機を煽る側面しかないような。。。
にゅん うん。おかみはよくわかっているなあ。
おかみ にゅんさんのおかげだよ。。。

「一万円札の原価」話をするのがリフレ系の人に多いのはなぜ?

にゅん それで、この話するのって井上さんだけじゃなくて、高橋洋一森永卓郎、若田部昌澄(日経新聞2016年6月17日)、あたりかな? 若田部さんなんか今や日銀副総裁だもんなあ。なぜかリフレ派と言われる人ばかりなんだ。なにか秘密があるんじゃないかなっていま考えてて。
おかみ 井上さんも、まあ、世間ではそのカテゴリーだよね。
にゅん にゅんも以前はリフレ政策に共鳴していたから、そういうものかなーとは思ってた。
おかみ あはは。でも、確かにどうしてあの人たちこの話が好きなんだろうね。今や笑われてるだけなのにね。
にゅん いや、井上さんが堂々とこの話をMMT紹介本に肯定的に書いてしまうように、結構キャッチーで受け入れ易い話なんだよ。でも、どうしてそうなるのか、やっとわかった気がする。
おかみ ほうほう。
にゅん うん。どこか、通貨の発行者が中央銀行だと思っている人たちなんだね。
おかみ そこなんだ!
にゅん おかみはもうわかっている通り、通貨の発行者は政府だよね。
おかみ さすがにそれはもうわかった。MMTで。ええと、「通貨が発行される」、まあ貨幣でもいいけどつまり、「民間の純金融資産が増えるのは政府支出の支払いがなされる瞬間だけ」、だったよね。
にゅん そうだよね。これがわかっていれば、貨幣増は政府支出と同額なんだから、その物理的な素材が何であるかは関係がないわけだよね。
おかみ うん。
にゅん だけれども。金本位制のイメージを引きずって、お金っていうのは中央銀行が地下金庫に持っているゴールドを分配するための証券だよというイメージが消えない人だと。。。
おかみ そうか。中央銀行にしてみれば、お金に含まれているゴールド成分は少なければ少ないほど「お得」ってことになるわね。
にゅん そういう感覚で、昔の金貨とかは金の含有量が多かったのが、お札になると紙と印刷代だけにになって、預金になるとゼロ円になってそれだけ儲かる!。MMTてこれか!っと思うのかな。
おかみ そうだねえ。結局、貸付資金説やん、みたいな。
にゅん そうだね。井上さんもここを突破すれば「政府が民間銀行からお金を借りる」とかおかしなことを書かなくて済むようになるし、まだ疑問に思っておられる「金融政策の無意味さ」や、「JGPを導入しないことの不合理さ」がわかっていくと思う。そうすれば、素晴らしい教科書ができるかもしれないね。
(にゅんさんの背後で、いつのまにか大将も話を聞いている。)
大将 ただねえ。たぶんそう簡単じゃないよ。
にゅん わ!大将びっくりした。
大将 主流の言説っていうのは金融資本の論理と結託してるからね。そう簡単には崩れない。考えてみろ。日銀の中に若田部と原田がいる世界なんだぜ。
おかみ 帝国。。。まあ、中に戻って続きやろうか。
にゅん まあ、とにかく、通貨の発行者は政府\(^o^)/
おかみ いつものにゅんさんに戻った。

小料理屋書評シリーズ!井上智洋『MMT 現代貨幣理論とは何か』その4 この本もうやめ!読むな!

おかみ えっと。前回までのまとめとして、この本は「デフレ不況とそれに伴う政府支出の出し惜しみによって」さまざまな悪いことが起こっているというビュー、そして、どうやら、「お金を作っているのは銀行」というビューが貫かれているという感じがすると。で、そういうのこそ「主流ビュー」じゃんというにゅんさんの論評があったと。
にゅん うん。加えて「民間債務をなぜか軽視する」傾向もあったと。万年筆マネーのところとか。
おかみ それはもうお腹いっぱいだよ。じゃあもう第二章「貨幣の正体-お金はどのようにして作られるのか?」の後半に行こうよ。残る項目は四つかな。
 ・二種類の貨幣とブタ積み
 ・貨幣は債務証書
 ・貨幣と国債は親類
 ・あなたも貨幣を発行できる
いちばん長いのが最初のこれだね。図もあるし。

「二種類の貨幣とブタ積み」の節

(一同、読む)
にゅん みんな読んだ?
おかみ 読んだ。
にゅん ちょっとこれは無いんじゃないかなあ。ひどすぎる。
大将 これは。。。
おかみ うーん、まあ、確かににゅんさんがいつも言っていることとだいぶ違う。なんとういうか、すごく大事なことがまるっきりすっ飛ばされている感じがするわね。でもあたしじゃうまく言えないから、ちょっとにゅんさん解説してみてよ。
にゅん とても気が進まないけど。。。
大将 さすがにオレてもそう思う。著者はMMTの論理をぜんぜんわかっていなかったってことが明瞭になるところだね。 
にゅん そうなんだよ。で、その人が「本書は恐らく、日本のマクロ経済学者が書いたMMTに関する初めての本格的な書籍になるはずです」と前書きで胸を張っている。いやこの書き方のいったいどこが「本格的」なんだ??ってことだよね。にゅんに言わせれば、学者だからこそ「本格的」なやつなんて書けるはずがなかったんだけどさ。そりゃもう、よく訓練されてるから。
おかみ わかったよ。じゃあ、悪口コーナーは別に作るからさ、論理的にやってみよう。
にゅん おし。まず、この節で何が書かれていたか。大将まとめてみてよ。
大将 まず、二種類の貨幣についての話をして、いわゆるQE(量的緩和)の話につなげているね。まず、
『二種類の貨幣があると。まず、世の中に出回っているお金、つまりマネーストック(MS)というのがある。預金と現金の合計だ。もう一つ、マネタリーベース(MB)というのがある。これは準備預金と現金の合計だ。』
次に、QEについてはこのような書き方だ。
『日銀の量的緩和(QE)、つまり国債買い政策はマネタリーベース(MB)を増やすことによってマネーサプライ(MS)を増やそうという政策だったが、実際にはMBを劇的に増やしても肝心のMSはあまり増えなかった。』
おかみ 事実の話だね。
にゅん MMT的に見れば、こんな政策がそもそも有効なわけがない。だから彼らはずっとこんなバカなことはやめろと言ってきたんだ。有名な話。
大将 ところがこの筆者はそのことには一言も触れず、自分の意見を書いてまとめに入る。
実際に、一九九九年のゼロ金利政策導入は、図2-11のようにマネタリーベースの増大率が劇的に高まっても、マネーストックの増大率はほとんど影響をうけず、およそ二パーセントの低位安定状態にありました。これを私はマネタリーベースとマネーストックの「デカップリング」と呼んでいます。
にゅん 大将、これ意見ですらないでしょ。QEなんて効かないというMMT的な説明はでなく、自分はその現象を「デカップリング」と言うよと言っているだけ。MMTじゃなくてもふつうに考えれれば銀行の国債を準備預金に「両替」させたところで何か起こるわけないじゃん。その分が超過準備になるだけだから。そもそも有効な理由がない。
大将 筆者はこう書いているね。
これは「超過準備」(あるいは俗に「ブタ積み」と言われています(図2-12)。無駄に積まれたお金と見なされているからです。この超過準備(ブタ積み)の存在こそが、デカップリングが生じた原因と考えられるでしょう。
おかみ これはあたしにもわかるくらい変だね。だって、MBを増やしてもMSが増えないってのはすなわち超過準備が増えましたということよね。筆者はそうした状態に「デカップリング」というカッコよさげな名前を付けた。で、何を言うかと思ったら、デカップリングの原因は超過準備の存在なのだと。トートロジーじゃん。論理的な話ができない人だね。。。
大将 いや恒真だから非論理とは言えない。
おかみ やめなさい。意味ある話ができないのかって意味!
にゅん まあそれでも、MMTの本なんだから次には「QEが無効であることがMMTからはどう説明されるのか」の話が来ると期待するじゃん?MMTの本なんだから。
おかみ にゅんさんも二回言うな\(^o^)/
大将 ところが、この話はこれで終わり、唐突に「補足」と称して「納税と政府支出のプロセス」というコラムが入る。そしてこう書く\(^o^)/。
「補足」納税と政府支出のプロセス
 信用創造や預金準備制度を含む、近代的な貨幣制度の基本的なところを説明し終えたので、ここで納税と政府支出のプロセスを説明しましょう(この補足は面倒であれば読み飛ばしてもらってもかまいません)。
おかみ 何だろうね、これは..。「デカップリング」って名付けたのがよほどご自慢なようで。MMTの話は読み飛ばして良くて、QEと繋げたりしないんだねえ。。。
にゅん 厳しく言うと、本人が理解していないから書けないんだと思う。
大将 そう言われても仕方がないな。これは。
にゅん もういいでしょう。この本、もうやめよう。自分が誘っちゃったけど、もう著者のひどい理解不足は明らかだと思うから。
おかみ うん、それが示せたからもういいね。でもにゅんさん、この図あるやん。にゅんさんもこんな図を使ってMMTの説明してたよね。せっかくだから、この図を使って「MMT的なQE無効性」の説明をちゃんとしておかない?
画像2
にゅん 簡単なことだよね。マネタリーベースというのは中央銀行の負債なんだから、政府の負債である国債を分けて考えても、そもそも意味がないんだ。QEというのをこの図で言えば、国債を預金準備に両替するだけだよね。預金準備が増えたってその分国債が減るのなら、統合政府の負債の合計は不変なんだから、マネーストックとは関係ないじゃんって話だよ。
おかみ なぜそれだけのことを書かなかったんだろう。
大将 だからやっぱり、そんなこともわかっていないってことだろうね。そう言われても仕方がない。
にゅん やっぱりね。筆者の貨幣観が見事に「主流」なわけ。少なくとも、政府が創造し破壊しているものだ、というビューが腑に落ちていないんだよね。貨幣は「中央銀行が供給する」とか「なんか知らないけどその辺にあるもの」、って思っている。そして筆者のそのビューが典型的に表れたのが図2-8ってやつで。
キャプチャ
にゅん これ、矢印が下から上になっているでしょう。この図は、「なんか知らないけど」家計がお金をすでに持っていて、それを銀行に預けるというところで話をスタートさせている。そうじゃない。MMTが言っているのは、その、いま家計や企業が持っている貨幣って政府支出か銀行の貸出でできたものじゃん。準備預金は政府支出と同時にできているわけ。だから、図は政府支出から書き始めないとダメなんだ。お話にならない。
おかみ あたしもね。この図が目に飛び込んだとき、これは「主流の間違った説明の話」をしたいんのかなって思ったよ。
にゅん だよねえ。にゅんを悲しくさせるのは、このレベルの「嘘MMT本」が「日本のマクロ経済学者が書いたMMTに関する初めての本格的な書籍」として著され、宣伝され、流通し、国会議員が新幹線で読んだり、それを反緊縮派の人たちがツイッターとかで喜んでしまう、この構図がね。
おかみ にゅんさん、日本には経済学者は存在しない方がいいとか前によく書いてたけど、そういう意味だったんだね。
大将 でもまあ、マルクスファンに言わせればだ。経済学の連中がこうなりがちなのも、目下盛大に行われている金融資本による収奪の過程と連動しているっていうことだよ。民間債務の軽視も、それを黙認するどころか資本の自由を推し進める政府という存在の軽視もそれそのもの。そして必ず「筆者は中立」というテイになる。わっかりやす。
にゅん そうだね。最近は大将のそういう話が腑に落ちてきて、もう彼らに腹が立つようなことはなくなったかな。無自覚な主流ビューのままだから、なぜジョブギャランティーが要請されるかも、なぜ金利政策が有害なのかもわかるわけがないんだよね。
おかみ あたしたちにしてみたら、生まれちゃったのがこの時代なんだから、各自の持ち場でできることをやるしかないよ!
にゅん うん。ちょっと元気戻ったかな。また来るよ。
(にゅんさん去る)
大将とおかみ ...
おかみ あ、にゅんさんてばまたお勘定しないで消えたよ\(^o^)/


小料理屋書評シリーズ!井上智洋『MMT 現代貨幣理論とは何か』その3 第二章(けっこう致命的?)|小料理屋おかみ|note
https://note.com/nyunnyun/n/n781dc747ea5a

小料理屋書評シリーズ!井上智洋『MMT 現代貨幣理論とは何か』その3 第二章(けっこう致命的?)

おかみ 第二章行こうか。いよいよここからが本論かな。
にゅん 改めて目次を見てみよう。この本は全部で六章の構成になっているね。
第1章 なぜいまMMTが注目されるのか?
第2章 貨幣の正体-お金はどのようにして作られるのか?
第3章 政府の借金はなぜ問題にならないか?
第4章 中央銀行は景気をコントロールできるのか?
第5章 政府は雇用を保障すべきか?-雇用保障プログラム
第6章 MMTの余白に―永遠の借金は可能だろうか?
にゅん 第2章から第5章までの筋書きは第1章で予告されていた感じだ。つまり、第3章から第5章は第一章でみた「MMTの主要な論点」として挙げた三つに対応しているね。
(1)財政的な予算制約はない
これが第3章。
(2)金融政策は有効ではない(不安定である)
これが第4章。
(3)雇用保証プログラムを導入すべし
これが第5章。
おかみ で、これは『筆者が考える主要な論点』ってことだったよね。そして、筆者の見立てはこのうち(1)だけは有意義だけど(2)と(3)は「かなりの違和感や疑問があるという立場」になると書いていたね。
にゅん うん。しかも(1)は主流も同じ結論が得られているとかなんとか。それはまあ置いといて、今日見る第2章は「貨幣の正体」。実はこれも第1章で予告されていた感じなんだ。そこから引用。太字はにゅん。
 つまり、私もMMTに全面賛成ではありません。それでも、すでに述べたとおり、現在の日本経済という文脈では、「財政的な予算制約はない」はとても重要な論点だと捉えており、本書のような書籍を執筆しているわけです。
 一点注意が必要なのは、MMTはあくまでも貨幣理論なので、「貨幣とは何か?」という話が理論の中軸を成しています。そこから、もちろん政策提言も出てくるわけですが、「ある程度のインフレ率になるまで政府の借金を増やしつつ財政支出を拡張すべし」ということを積極的に主張しているわけではありません。
おかみ ああ、たしかに。
にゅん マネタリーセオリーだから「あくまで貨幣理論」なんだと。そこから派生的に政策提言が出てくる、みたいな言い方。だから第2章では「貨幣理論」としての骨格的な話をして、第3~5章で(1)~(3)の論点を語る、ということになるわけだ。
嫌な予感がしたんだよ。
おかみ どんな?
にゅん この貨幣のビューのところで、主流との対比をちゃんとやってくれるかな?っていう不安が。まあ、まずちゃんとはやっていないだろうなって。
おかみ MMTと主流はどういうところが違うの?
にゅん 二つあると思う。一つは、「民間の総金融資産を増減させることができるのは政府だけ」ということ。
おかみ こないだあたしにも説明してくれた話かな。それくらいは書いてあるんじゃないかなあ。
にゅん それを「丁寧に」議論できているかが問題なんだよ。「増減させることができるのは政府だけ」ということは「民間にはそれができない」ということを含意しているのだけど。
おかみ ふむ。
にゅん よくあるのは「万年筆マネー」を持ち出して、「銀行貸出ではゼロから預金を作っています!」とやるやつ。大事なのは、このとき銀行は預金という負債と同時に、貸付金という資産もつくるということ。
おかみ あたりまえだよね。
にゅん いやね。そのあたりまえのことをほとんどの日本人はなぜか説明しないんだよね。借り手にしてみたらタダで預金がもらえるわけじゃなくて、ローンを抱えることになるのにさ。むしろ大事なのはそっちの方だよ。ねえ、大将。
大将 あ、呼んだ?それな。
にゅん たとえば住宅ローンや奨学金ローンみたいな民間債務についての問題意識はMMTの問題意識の中核にあるやつなんだよね。これが金融危機を招いたわけで。
大将 マルクス系の文脈だとギリシャのラパヴィツァスさんとかだっけかな、労働からの搾取だけじゃなくて、そういうローンからの収奪をちゃんと考えようとしているよな。MMTはあのへんの議論に接合できそうだからとても面白いと思ってる。民間債務はゼロサムなんだよね。「いくらでも」なんてのは乱暴で、そのとき収奪が起こっているはず。
にゅん そう。民間債務はゼロサム。このへんが書かれているかだね。もう一つは、「通貨の創造と破壊は政府がやっている、中央銀行は従属的な役割を果たしているに過ぎない」これが書かれているかだね。
おかみ わかった!じゃあその二つに気を付けて第二章を読もう
(一同、読む)

「貨幣はデータに過ぎないの節

一同 これは...
おかみ 出ちゃったね…万年筆マネー... 引用するよ(強調はおかみ)
 貨幣がコンピュータ上のデータに過ぎないのであれば、いくらでも無から貨幣が作り出されることになります。コンピュータがない時代には、帳簿がその役割を果たしていました。帳簿に一〇〇万円とかけば、一〇〇万円がそこに生じたことになります。MMTでは、「万年筆マネー」という言葉が頻繁に用いられます。これは、まさに万年筆で帳簿に書き入れることによってお金が生まれることを意味します。
 なお、「万年筆マネー」は、MMT派ではなく主流派のノーベル賞受賞経済学者であるジェームズ・トービンの言い出した言葉として知られています。
 MMT派では、「キーストロークマネー」という、より現代の実情に即した言葉も使われます。これは、コンピュータのキーボードを叩くことでいくらでもお金を生み出せることを意味します。
 こうしたことは当たり前の事実を言っているだけで、MMTの専売特許というわけではありません。
おかみ 預金と同時に生まれる負債のことが書かれてないよねこれ。これだと民間債務がゼロサムであることが伝わらない。同額のローンが発生するのに。。。それどこか「いくらでも」の方が強調されているという。
にゅん うん。それで「当たり前の事実をいっているだけ」ときたもんだ。あと。。。「MMTでは万年筆マネーという言葉が頻繁に用いられます。」ともあるけれど、そういえるかなあ。レイの入門でも使ってなかったはずだし、ミッチェルのブログでも自分から使っている例はほぼないよ。まあ、次。
ただし、主流派経済学者はともすると、貨幣を無からいくらでも作り出せるという事実を忘却したかのような物言いをすることがあるので、MMT論者としては改めて強調しておく必要があったのです。
にゅん ないわー
おかみ そこまでひどいの?
にゅん だってさ。主流派経済学者が批判されるべき理由は「貨幣が無からいくらでも作り出せることを言わないから」じゃないよ。まさにここで著者がやっているように「民間の債務」を忘却したかのような物言いをすることなんだよね。
おかみ ああ。。。
にゅん 負債論の大御所の一人マイケル・ハドソンがスティーブ・キーンの本の書評かなんかで言ってたけど、「主流経済学者ってのは負債というものを見ないよう見ないように訓練された人々だ」って。
おかみ あはは\(^o^)/(にゅんさん風)
にゅん 先に言っちゃうけど。実はこの本の第四章「中央銀行は景気をコントロールできるのか?」は、いかに筆者ら主流経済学者が奨学金ローンや住宅ローンを見ないように理論、というか砂上の与太話を構築しているかのよいサンプルになっているんだ。
おかみ まあ落ち着いて、次の節見ようよ

貨幣の分類と貨幣発行益」の節

おかみ 読んだよー。ふむ。まず、貨幣には実物貨幣と名目貨幣(信用貨幣)があって、現代のお金は後者だと。そのあとに貨幣発行益の話。
にゅん ここの流れもめっちゃマズイよ。この貨幣発行益の話って、高橋洋一や若田部さんとかも言ってて、一見まともだけど最悪の主流ビュー丸出しのやつなんだよね。この本だと、このあとに「貨幣は債務証書」だっていう節があるのだけど、それと両立しない考えなんだ。「一万円札は原価が一枚当たり約二〇円だから日本銀行は一枚当たり約九九八〇円の利益」なんていう話が、まさかMMTの本に出てくるとは思わなかった
おかみ あたしにわかるように説明して。
にゅん まずね。「お金の発行者」である政府日銀(統合政府)と、「お金の使用者」である国民の立場の違いがめっちゃ大切なんだ。使用者にとっては貨幣が増えたら「益」だけれど、発行者には益にならん。借用証書が増えたら益になるの?っていう。
おかみ ふうむ。一〇万円硬貨についても、こう書かれている。。。
日本が1986年に発行した一〇万円硬貨は、四万円しか素材価値のない金貨を、一〇万円で売ったので、その差額だけ儲けることができました。図2-2のように、四万円を一〇万円から引いた残りの六万円が政府の利益になります(実際にはコインを造るのに若干の鋳造費用がかかかる)。貨幣を発行することで得られるこのような利益は、「貨幣発行益」と呼ばれています。
にゅん 考えてみてよ。政府は一〇万円硬貨を発行して一〇万円を受け取るわけでしょ。これはただの両替で、損にも益にならんのよ。むしろ預金通貨なら原価ゼロで売れるわけで、原価なしで売れるものにわざわざ四万円の原価をかけちゃってるのだから、そのぶん損してるだけだよ。
おかみ 利益どころか、むしろ損と。確かにおかしいね。
にゅん こういう正反対に誤った俗論は「MMTではダメなことがはっきりする話」、みたいに書いてくれないとなあ。ちょっと読む気を失う...
おかみ 気を取り直して!次はにゅんさんのヒーローであるモズラーだから。

「パパの名刺をあげるよ」の節

にゅん おお有名なモズラーの親子クーポンの話やね。
MMTの創始者と目されるウオーレン・モズラー氏の実体験である「モズラーの名刺の逸話」は、租税貨幣論の理解の手助けになります。
おかみ なんで「創始者である」でなく「創始者と目される」なんだろう。
にゅん まあまあ。それよりこの話を「モズラーの実体験」って言い切るんだ。たぶん違うと思うけど...。まあ、内容は特に文句はないよ。もっちーやにゅんの翻訳を紹介してくれればうれしかったけどね。
ここの読者の方にはもっちーのやつをご紹介。ビル・ミッチェル「シンプルな”名刺”経済」

「政府が支出してから国民は納税する」の節

にゅん 通貨は政府が発行していないと納税できなじゃんっていう話。12行くらいの短い節だね。
おかみ あたし、ここがすごく気になった。
「支出が先で、租税は後」というわけです。MMTでは、これを「スペンディング・ファースト」と呼んでいます。
「支出」(スペンディング)が「最初」(ファースト)ということです。
おかみ MMTでは「スペンディング・ファースト」と呼ぶって言うんだけど、これ「支出が先」の元の英語が spending first ってだけの話じゃないの?
にゅん 「MMTでは日本を「ジャパン」と呼んでいます」、みたいな不思議な気持ちになるね。なんか、日本には「スペンディング・ファーストおおお」みたいにやる人が時々いるからね。
おかみ (にゅんさんやってなかったかな?)

「税金は財源ではない」の節

にゅん この節は、前節で「納税より政府支出が先」、つまり「貨幣を渡さないと納税できないじゃん」の話を出しだけれど、でも「近代的な貨幣制度の下では分かりにくくなっている」と締めてたから、それを受けてそれを解説しようとしているということかな?
おかみ 政府支出が先、ということは租税は財源としては必要ないっていう話にいくよね、と。
にゅん まあそうやね。この節も二十数行と短いけれど、預金とベースマネーの区別を書いていないのがめっちゃ不満だなあ。ベースマネーを入手しなければ納税することができないっていうのがいろいろキモになっていくんだけどね。これは物凄い不満。この不満は次節で爆発します\(^o^)/

「銀行がお金を作る仕組み」の節

おかみ ここは、銀行の貸出しの際に預金が作られるっていう話の説明だね。
(一同、読む)
にゅん ああ、今気が付いた。一回目は基礎的なところだなと思ってまじめに読んでなかったけど、いまちゃんと読んだらひどいな、なんだこれ!最後のところ!にゅん的には、ここで本をぶん投げるレベル
 板倉は、民間企業が貸し出しを行うことによってマネーストックが増大すると言っているわけです。そうであれば、企業や政府は民間銀行からいくらでもお金を借りられることになります。
 これは重要な意味を持っています。というのも、国民の保有する預金の残高という上限があるので、政府の借金が増大し続けるような状態は持続不可能であり、それゆえに増税すべしと主張した経済学者が少なくなかったからです。
 彼らは、預金が貸し出しに回っているのであり、政府が民間銀行から借金を続ければいつかは預金でまかない切れなくなり、それ以上の借金は不可能になると考えていたのです。しかし、実際には貸し出しの度に預金は増大してたので、預金残高は上限としての意味をなさなかったのです。
大将 これは…
にゅん 暗澹たる気持ちになるね...
おかみ ん。。。あたしはその気持ち、わかったようなわからないような。noteに纏めたいからわかるように説明して!
にゅん ここはねえ、明らかに著者が民間の債務と政府の債務とを混同しているんだよ。言い換えて、民間の信用創造と政府の貨幣創造が混同されている。これはMMT本を名乗るには、スタートラインに立てていないレベルと言われても仕方がないよ。金取るなよ!あうあう
大将 あー、にゅんさん興奮しちゃった。代わって俺が説明するか。
おかみ ああ大将、お願い♡
大将 ベースマネーの動態がわかっていないんだよ。ベースマネーってのは準備預金と現金の合計だけど、ここは簡単のため準備預金だけで考えよう。
おかみ 準備預金なら、あたしもにゅんさんブログで結構詳しくなったよ。このエントリとか。
大将 上の引用で、真っ先に気になるのは「民間企業が貸し出しを行うことによってマネーストックが増大すると言っているわけです。そうであれば、企業や政府は民間銀行からいくらでもお金を借りられることになります。」というところね。
 いいかい。政府はそもそも民間銀行からお金を借りる必要があるのかな?スペンディング・ファーストとか、モズラーの名刺の話までしておいて、どうして「政府は民間銀行からいくれでもお金を借りられる」なんて言い出すのだろうね?
おかみ うん、この時点で変だよね。。。でも、著者がわかっていないのはどのへんなんだろう。
大将 たぶん当たっている想像なんだけど、民間企業への貸し出しと、政府の国債による資金供与を混同してると思うね。いま「資金供与」といったのは貸出とは違うからなんだけど、これは正確には「国債による資金供与」ではなくて「国債と準備預金の両替」に過ぎない。
おかみ ああそうか。わかったよ。
こうね。銀行目線で見てみよう。

[銀行が国債を購入する場合]
自らの資産である準備預金を同じく自らの資産である国債と両替。
仕訳だと 資産/資産
負債である預金は関係ないから、マネーストックは増大ししない
けど、ベースマネーは増大する。

ところが

[銀行が企業に貸し出す場合]
資産である貸付金と負債の預金が同額増える。
仕訳だと 資産/負債
負債である預金が増えてるから、マネーストックは増大する
けど、ベースマネーは変化しない。
(長い沈黙)
にゅん 善意に解釈して、この銀行は日銀のことだと仮定しても...ダメだね、そういうゴマカシは利きそうにない。
おかみ そうね。中央銀行に国債を発行しても政府預金と両替になるだけで政府内取引だから、マネーストックは増えない... 
にゅん もうやめようかな、これ、くだらなすぎすぎる!
大将とおかみ にゅんさん、あのさあ。

それ、にゅんさんの悪いところ!

大将 誰にだって至らないところはあるし、完璧な本なんてあるわけないだろ!
おかみ そうやってすぐブチ切れて、賢者を気取って、ひとを馬鹿にした態度をとって。傲慢なんだよ。
大将 (そこまで言うか)
おかみ ここはにゅんさんのブログじゃなくて、あたしの note なんだから、やると言ったらやるんだよ! 
(にゅんさん反省中)
にゅん わかったよ。やろう。
おかみ ♡
あたしはここで、マルクス的MMTっていうのをちゃんと考えたいんだ。だから途中でやめちゃダメ。でも、文字数が多すぎるから、第二章はエントリを分割するね。

じゃあ、次回をお楽しみに!


熱い論争の的、MMTの本当の独自性はどこにあるのか 「衰退途上国」からの脱却(1/4) | JBpress(Japan Business Press)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58617

熱い論争の的、MMTの本当の独自性はどこにあるのか

「失われた30年」と言われた平成が終わった。しかし今のままでは「失われた40年」になってしまう。熱い論争を巻き起こしているMMTの内容、独自性について、気鋭の経済学者・井上智洋氏が主流派・非主流派といった枠組みを超えて客観的に論じる。全2回、前編。(JBpress)
(※)本稿は『MMT現代貨幣理論とは何か』(井上智洋著、講談社選書メチエ)より一部抜粋・再編集したものです。

失われた30年

 平成の30年間は、失われた30年で終わりました。この時代に私たちは、多くのものを失ってきました。
 デフレ不況とそれに伴う政府支出の出し惜しみによって、少なからぬ国民が生活の安定や人生そのものを失いました。企業はイノベーション力を、大学は科学技術力を、家計は消費意欲を、若者はチャレンジ精神をそれぞれ失いました。我が国の国力衰退は、目を覆わんばかりです。
 この国を再興するには、デフレ不況からの完全な脱却を果たす以外にありません。そのためには、「拡張的財政政策」を大々的に実施する必要があります。「拡張的財政政策」というのは、税金を減らして財政支出を増やすことです。そうすると政府の借金は増大します。ですが、財政の拡大なくしてデフレ不況からの脱却はありません。それを怠ったために、失われた10年は20年となり、30年近くにまで延長されました。
 それにもかかわらず、2019年10月に消費税が増税され、政府支出の出し惜しみも続いています。デフレ不況という長く暗いトンネルの出口には、まだたどり着けそうもありません。
 では、なぜ政府は、経済を衰退させるような、こうした自滅的な政策をとり続けるのでしょうか?
 それは、日本が財政難に直面していると危惧されているからです。
 ところが、「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory)」、頭文字をとって「MMT」という経済学の理論に基づけば、過度なインフレにならないかぎり財政支出をいくら増やしても問題はない(つまり、財政危機なるものは存在しない)と主張することができます。
 MMTは、非主流派の経済理論、つまり一般的な経済学の教科書には載っていない理論です。主流派の経済学者からすれば、MMT派は「異端派」ということになります。
 私は、大学の講義で「ミクロ経済学」とか「マクロ経済学」といった主流派の経済学を教え、学術的な論文も主流派のフレームワーク(枠組み)にしたがって書いています。しかしながら、主流派とか非主流派といった区分に本質的な意味があるとは思っていません。
 私自身は、MMTに全面的に賛成でも、全面的に反対でもありません。明確に賛成できる部分と疑問や違和感を抱かされる部分とが混在しています。本書は、そうした立場の経済学者から著されたものです。
 MMTは、拡張的財政政策を採用して借金を増やすのが正しいのか、逆に緊縮的財政政策を採用して借金を減らすのが正しいのか、という国の命運を左右するようなテーマに関わっています。



https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58617?page=2

熱い論争の的、MMTの本当の独自性はどこにあるのか

MMTの論点

 さて、多くの論点を含むMMTですが、主流派との熱い論争を巻き起こすと思われるのは、
(1)財政的な予算制約はない
(2)金融政策は有効ではない(不安定である)
(3)雇用保障プログラムを導入すべし
 の三点です。繰り返しになりますが、「財政的な予算制約はない」と言っても、過度なインフレにならない程度という上限があります。この上限を度外視してMMTを「トンデモ理論」だと批判する人が散見されますが、それでは藁人形論法になってしまいます。
 論敵の主張を藁人形のようにすぐに倒せそうな形に歪めてやっつけているに過ぎないというわけです。
 金融政策というのは、日銀のような中央銀行が行う政策で、貨幣量(お金の量)や利子率を操作して、インフレ率や失業率を調整することを目的としています。MMT派は、このような政策は有効ではないか、かなり不安定なので、金融政策は適切な政策ではないと見なしています。
 それでは、どのようにしてインフレ率や失業率を調整すればよいかというと、それが「雇用保障プログラム(Job Guarantee Program)」です。よくJGPとかJGと略されていて、希望する失業者をすべて政府が雇い入れて仕事をさせるという制度です。
 景気が悪いときに、経済はデフレ気味になります。その際、JGPが導入されていれば、失業者をたくさん雇い入れるために政府支出が増えて、それによって景気が刺激され、物価の下落が抑えられます。
 逆に、景気が良いときに、経済はインフレ気味になります。そうすると民間の雇用が増え賃金も上昇するので、政府に雇われていた人はもっと給料の高い仕事を求めて民間企業に勤めるようになるので、政府の支出が減ることにより景気が抑制され、インフレ率は低下します。
 ほとんどの主流派経済学者は、(1)~(3)のいずれにも否定的です。私自身は、(1)「財政的な予算制約はない」については賛成であり、(2)「金融政策は有効ではない」と(3)「雇用保障プログラムを導入すべし」については、頭ごなしに否定するわけではないけれど、かなりの違和感や疑問があるという立場です。
 つまり、私もMMTに全面賛成ではありません。それでも、すでに述べたとおり、現在の日本経済という文脈では、(1)「財政的な予算制約はない」はとても重要な論点だと捉えており、本書のような書籍を執筆しているわけです。

紙切れの価値

 紙切れでしかないお札に価値があるのはなぜか? という疑問は、誰しも一度は抱いたことがあるでしょう。
 貨幣の価値に関する議論については、もともと「金属主義」という考えがありました。それは、物々交換では面倒なので、金属のような価値ある商品が交換の媒介を一手に果たすようになったというものです。
 それに対して、ドイツの統計学者ゲオルグ・フリードリッヒ・クナップが20世紀初頭に唱えた「貨幣国定説」は、貨幣の価値を担保しているのは国家による法的な強制力であるという学説です。
 現在では、紙切れでしかない紙幣やコンピュータ上のデータでしかない預金通貨が、貨幣として立派に流通しています。だから、金属主義は間違っていて、貨幣国定説のほうが妥当性があるのではないかと考えられるわけです。
 MMTは貨幣国定説の一種である「租税貨幣論」に基づいて貨幣を論じます。これは、実質的な価値のない貨幣が価値をもち得るのは、それを使って税を納められるからだという説です。

熱い論争の的、MMTの本当の独自性はどこにあるのか

MMTの創始者

 MMTの創始者と目されるウォーレン・モズラー氏の実体験である「モズラーの名刺の逸話」は、租税貨幣論の理解の手助けになります。モズラー氏は、大学教員のようなアカデミックな学者ではなく、「モズラー・オートモーティブ」というヘッジファンドを設立した投資家であり、エンジニアでもあります。投資で大儲けしたようで、プール付きの大邸宅に住んでいます。
 そんなモズラー氏は、子供たちが家の手伝いをしないことを不満に思っていました。そこで、「家の手伝いをしたらパパの名刺をあげるよ」と子供たちにもちかけたのです。皿洗いや庭の芝刈りをしたら名刺を渡すというわけです。
 ところが、子供たちはいっこうに手伝いをしようとしません。なぜかと聞いたら、「だって、パパの名刺なんて欲しくないから」と答えるではありませんか。当たり前です。むしろ、どうして名刺を渡すなどという不可思議な発想に至ったのか、皆目見当がつきません。
 そこでモズラー氏は、子供たちに手伝いをさせるために、月末に30枚の名刺を納めることを義務づけました。名刺を納めないとこの邸宅から追い出すぞと脅したのです。
 酷い話ですが、ともかくそれで目の色を変えて手伝いをしはじめたことは言うまでもありません。
 モズラー氏にとって名刺という紙切れには大した価値はありません。子供たちから受け取った名刺はシュレッダーにかけてしまっても、すぐに印刷できるので特に問題ないのです。
 もちろん、名刺を再利用してまた子供たちに配ってもかまいません。重要なのは、モズラー氏は名刺が欲しくて子供たちからもらっているわけではなく、子供たちに手伝いをさせるために受け取っているということです。
 この名刺は、もちろん貨幣のアナロジー(類似的な概念)になっており、モズラー氏が実際に体験したというこの小話から三つのことが導けます。
 一つ目は、納税より先に政府支出があるということです。モズラー氏は手伝いをした子供たちに名刺を渡しました。これは公共事業を行った業者に政府がお金を支払うことに類似しています。子供たちがパパに名刺を渡すという納税相当の行為を行うのはその後です。
 二つ目は、納税によって貨幣は、価値をもつようになるということです。名刺はただの紙切れなので、パパへ上納すべきチケットでないかぎり、子供たちはそれを欲しがりません。同様に、紙幣はただの紙切れなので、納税すべきチケットでもないかぎり、誰もそれに価値があるなどと思わないというわけです。
 三つ目は、租税は財源ではないということです。モズラー氏が名刺を欲しがらないのと同様に、政府も貨幣が欲しいわけではありません。名刺にせよ紙幣にせよ印刷すれば済む話です。
 租税を徴収しなかったとしても、政府は紙幣を印刷することで(キーボードを叩くだけで)、いくらでも財源を作り出すことができます。

政府支出ありきの納税

 当たり前ですが、私たちは通常お金を作らないし、作ったとしてもそれで納税はできません。したがって、まず政府がお金を使わなければ、私たちは納税すべきお金を得ることができません。「支出が先で、租税は後」というわけです。
 MMTでは、これを「スベンディング・ファースト」と呼んでいます。「支出」(スベンディング)が「最初」(ファースト)ということです。
 主流派経済学では、まず租税があってそれを財源に政府支出を行うと考えます。それに対しMMTでは、まず政府支出があって、国民はそれによって得たお金を納税します。
 MMT派経済学者のレイ氏が言うように、近代的な貨幣制度が確立する以前であれば、スベンディング・ファーストは明瞭な事実です。というのも、コインで納税するのであれば、国王や領主などの主権者がまず発行したコインを支出に充てなければならないからです。
 政府支出なしに私たちが納税できないのは、考えてみれば当たり前のことです。ただ、日銀のような中央銀行を主軸とした近代的な貨幣制度の下では分かりにくくなっています。

熱い論争の的、MMTの本当の独自性はどこにあるのか

税金の目的と貨幣の価値

 MMTが言うように、まず政府支出ありきというのであれば、租税は財源としては必要ないという話になってくるわけです。そうかといって、MMTは税金をとらない国「無税国家」を推奨しているわけではありません。
 先ほど紹介した「モズラーの逸話」から分かるように、租税がなければ貨幣は価値をもちません。
 逆に言うと、租税の目的は貨幣を流通させるためにこそあります。そのような貨幣の有様を指してMMTは「タックス・ドリブン・マネー(租税駆動型貨幣)」と言っています。
 租税が貨幣の価値を保証するという見解は格別変わったものではありませんが、MMTは「租税の目的は貨幣の価値を保証することにある」と主張する点において独自性があります。
 租税の目的は財源の確保にあると誰しも思うでしょうし、ほとんどの経済学者もそう考えています。ところが、MMTでは、租税の目的が財源の確保であることを明確に否定しています。
 政府は国民に対し、納税義務を課します。貨幣は納税義務を果たすためのチケットであり、国民はこのチケットを手に入れなければなりません。それゆえに、このチケットつまり貨幣は価値をもつのです。租税はそのためにこそあって財源ではないので、貨幣を市中から回収してしまったら用済みです。
 前述したとおり、そもそも貨幣のほとんどは預金であってコンピュータ上のデータです。たとえば、私たちが100万円を紙幣で納税しても、結局は政府預金(政府が中央銀行に持つ当座預金)のデータとして、100万円が加わるだけのことであって、政府自身が紙幣を手に入れて支出に充てるわけではありません。
 モズラー氏は、納税者が税務署に紙幣で支払うと、スタッフはデータ入力した後に紙幣をシュレッダーにかけるということを言っています。
 日本の税務署がシュレッダーにかけているかどうか分かりませんが、そのすべてを廃棄してもほとんど問題にはなりません。紙幣が必要ならばまた20円ばかりのコストを掛けて印刷すればよいのです。
 1万円札を廃棄したら、1万円の富が失われる。私たちミクロな個人はこう考えてしまいがちです。しかし、一国の経済というマクロ的視点で見たら、1万円札を廃棄しても失われる富はせいぜい20円です。
 政府は紙幣が欲しいわけではないし、貨幣を欲しているわけでもありません。政府はキーボードを叩けば、自分の預金口座にいくらでも貨幣を生み出すことができるからです。


来るべきAI社会、人々に保証すべきは仕事か所得か 理想的な「脱労働社会」の実現のために(1/4) | JBpress(Japan Business Press)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58618

来るべきAI社会、人々に保証すべきは仕事か所得か


 AIが発達した先に訪れるであろう「脱労働社会」。そこで必要とされるのは、雇用保障なのか、それとも所得保障なのか? 気鋭の経済学者、井上智洋氏が、望ましい社会設計のあり方を論じる。全2回、後編。(JBpress)
(※)本稿は『MMT現代貨幣理論とは何か』(井上智洋著、講談社選書メチエ)より一部抜粋・再編集したものです。

雇用保障プログラム

(前編)熱い論争の的、MMTの本当の独自性はどこにあるのか
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58617
 金融政策はあてにできないとMMT派は主張します。それでは、どうやって景気をコントロールするのでしょうか? 政府支出を増やしたり減らしたりすることでコントロールするのでしょうか?
 MMTが主張するのはある意味ではそういうことです。しかし、政府が景気に応じて、人為的に判断して政府支出額を決めるわけではありません。
 MMTは、マクロ経済政策の中軸に「雇用保障プログラム(JGP)」を据えています。これは、すべての希望する失業者に仕事を与える政策です。その賃金は、1日8時間くらい働いたら最低限の生活を送れるような額に設定する必要があります。
 明確に導入した国はまだありませんが、たとえばアメリカでは、2020年大統領選に出馬すると見られている民主党のコリー・ブッカー上院議員が、雇用保障を政策として提案しています。
 過去にはJGPに近いものとして、ニューディール政策の一環である雇用促進局(Works Progress Administration [Work Projects Administration] WPA)の雇用プログラムがありました。1930年代の大恐慌期にアメリカで実施されたこのプログラムによって、ダムの建設から壁画の制作、音楽演奏に至るまで様々な仕事が創出され、850万人もの人々が雇用されています。


https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58618?page=2

来るべきAI社会、人々に保証すべきは仕事か所得か

最後の雇用者

 失業は自死すら招きかねない大きな災厄なので、完全雇用の実現は、マクロ経済のもっとも重要な目的だと言えるでしょう。
 完全雇用は、働きたい人がすべて働けているような状態です。言い換えると、雇用が無くて失業を余儀なくされている「非自発的失業」がゼロであるような状態です。
 ケインズの分類では、失業には他に「摩擦的失業」「自発的失業」があります。摩擦的失業は、転職に伴う失業で、自発的失業は雇用の口があるにもかかわらず、賃金が低いといった理由で選り好みしているがために生じる失業です。
 そのような失業もあり得るので、完全雇用は失業ゼロを意味するわけではありません。たとえば、失業率2パーセントでも完全雇用であるかもしません。
 ただし、いかなる失業率のときに完全雇用であるかを明確に言い当てるのは困難です。2019年4月現在、日本の失業率は2.4パーセントほどですが、これが完全雇用を示しているのかどうかは大いに議論の余地があります。
 これまでのマクロ経済政策では、財政支出の増大や貨幣量の増大による財政赤字やインフレを警戒して、完全雇用が実現する手前で緊縮的政策に転じてしまうことがたびたびありました。
 いまの日本は、まさにそういう状況にあって、完全雇用が目前にありながらもそれから遠ざかろうとしているのではないかと思われます。
 MMTが言うには、金融政策だけではなく、一般的な財政政策もそれが人為的なコントロールによってなされているかぎりあてにはならず、完全雇用を保証するものではありません。
 金融政策であれ財政政策であれ、これまでのマクロ経済政策が、景気を刺激することを通じて完全雇用を間接的に目指すのに対し、JGPは完全雇用を直接的に目指します。それゆえに、景気にかかわらず完全雇用が常に保たれた状態になります。
 JGPにおいて、政府は「最後の雇用者(Employer of Last Resort)」としての役割を果たします。どの民間企業にも雇われなかった労働者を政府が責任をもって雇い入れるというわけです。
 これは、資金不足に陥った銀行が他の銀行からお金を借りることができなかったときに、日銀のような中央銀行が「最後の貸し手(Lender of Last Resort LLR)」の役割を果たすのになぞらえています。
 銀行が最後の貸し手になることによって、銀行の資金不足による倒産をなくすことができるのと同様に、政府が最後の雇用者となることによって、非自発的失業をなくすことができます。ただし、JGPはただの失業対策ではなく、景気を安定化させ物価を調整する機能ももっています。

来るべきAI社会、人々に保証すべきは仕事か所得か

無駄な労働

 次から次へと無駄な労働が作り出されるという事態は、私がこの世でもっとも理不尽に感じていることの一つです。
 人類学者のデヴィッド・グレーバー氏は、2018年に『Bullshit Jobs: A Theory(クソのような仕事)』という本を出版しています。その本によれば、自分の仕事が無意味と思っている人はかなり多くて、イギリスのユーガブという調査会社の調査によれば、37パーセントの人々がそう思っているようです。
 グレーバー氏によれば、受付係やドアマン、ロビイスト、企業弁護士などがクソのような仕事ということになります。
 私は、これらの仕事を必ずしも無意味であるとは思っていません。そうではなく、日本中の至るところで、日々無駄な会議が開かれ、書類が作られているのを嘆かわしく思っています。
 私としては、そうした無為な営みに時間や労力を費やすよりも、本を読んだり、映画を見たり、経済学の研究を進めたり、居酒屋に行ったりしたいわけです。
 JGPでは、求人に応じて労働者が雇われるのではなく、求職に応じて労働者が雇われます。労働が必要な分だけ労働者が雇われるのではなく、希望する労働者を雇い入れる分だけ労働が作り出されなければなりません。
 したがって、無駄な労働が作り出されることは避けられないと私は考えています。
 たとえ、私自身がJGPに参加して無駄な労働に従事するのでなかったとしても、この国で盛大に無駄な労働が作り出されているとしたら、それを望ましいことと考えることはできません。
 政府が、労働者に穴を掘らせてその穴を土で埋めさせるという作業を延々と繰り返させていたら、多くの人々が違和感を覚えるでしょう。
 しかしながら、私たちが日々取り組んでいる無駄な会議や書類は、結局のところこうした“穴掘り”“穴埋め”と変わりありません。
 JGPであからさまに無意味なことは行われないだろうけれど、十分綺麗な道路すらもいつまでも掃除するというような作業が行われることは目に見えています。

来るべきAI社会、人々に保証すべきは仕事か所得か

一億総アーティスト社会の保障

 私たちは、無駄な労働をするよりも、絵を描いたり、ギターを弾いたり、仲間とフットサルをしたり、カフェで友人と語らったり、家族で旅行したりすべきではないでしょうか?
 無駄な労働をしなくてもお金をもらって生活できる社会にすべきではないでしょうか? ベーシックインカム(BI、基本所得)という社会制度が、そのような社会を実現可能にします。
 BIは、生活に最低限必要な所得を国民全員に保障する制度です。たとえば、毎月7万円のお金が老若男女問わず国民全員に給付されます。これを私は「子ども手当+大人手当」つまり「みんな手当」と説明しています。
 AI・ロボットが高度に発達したら多くの人々が労働する必要がなくなるので、BIは必要不可欠になります。しかし私は、いまでも可能ならBIを導入すべきだと思っています。生活保護よりも、優れた制度だからです。
 生活保護は捕捉率(受給されるべき人のうち実際に受給されている人の割合)が2割ほどしかなく、残り8割ほどの人は、給付を受けられずに貧しい生活を強いられています。また、生活保護には、労働して収入を得ると受給額をかなり減らされるので労働のインセンティブをもちにくく、「貧困の罠」から脱却し難いという欠点があります。
 生活保護の捕捉率を100パーセントにして、労働して稼いでも受給額があまり減らされないように改良し、労働のインセンティブをもたせると、BIとほぼ同じ制度になります。つまり、生活保護の問題点を解消するとBIになるというわけです。
 AI・ロボットが高度に発達した未来においてAIが導入されれば、多くの人々が労働する必要がなくなる「脱労働社会」が実現するでしょう。それは完全に労働が消滅した社会ではないけれど、労働して生活費を稼ぐことが人生における選択肢の一つでしかないような社会です。
 この社会で多くの人々は、趣味や儲からない好きな仕事に没頭するようになるでしょう。
 今後増えていくのは、ユーチューバーやティックトッカーのような自分を表現する仕事、つまりクリエイティブな仕事です。ところが、そうした仕事で食べていける人はほんの数パーセントに過ぎません。
「一億総アーティスト社会」とか「クリエイティブ・エコノミー」が到来すると言われていますが、それは収入の面からすれば地獄のような社会・経済なのです。
 食えないクリエイターとなった多くの人々のために導入すべきなのは、雇用保障なのか所得保障なのか? 基本雇用なのが基本所得なのか? JGPなのかBIなのか? 私は、JGPよりもBIのほうが望ましいと考えています。
 人々は生活のために仕方なく行う賃金労働で1日を潰すのではなく、自らが欲する営みに大切な時間を使うべきだからです。
 ただし、脱労働社会が根づくまでは、Blに加えてJGP的なものを取り入れることが社会に望ましい作用を及ぼす可能性があります。

5 件のコメント:

  1. ウィル 『奇跡の経済教室』必読! (@HUANWIL)
    2020/01/03 22:00
    ミッチェル教授を始めとする海外のMMT学者達はベーシック・インカムはインフレを制御できず、主流派経済学への屈服だとして否定している。MMTを支持しながらもBIを進めようとする日本の一部には注意しなければならない。政府支出は無条件の所得移転ではなく、物やサービスの調達でなければならない。

    https://twitter.com/huanwil/status/1213082766532694016?s=21

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  2. 「MMT 現代貨幣理論とは何か」井上智洋著/講談社選書メチエ|日刊ゲンダイDIGITAL
    https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/267458

    「MMT 現代貨幣理論とは何か」井上智洋著/講談社選書メチエ

     現代貨幣理論(MMT)が、日本の経済学者を二分し、感情的な対立が続いている。本書は、そのMMTをマクロ経済学者の立場から、冷静に、客観的に、分かりやすく解説したものだ。

     著者によると、MMTの論点は、①財政的な予算制約はない②金融政策は有効でない③雇用保障プログラムを導入すべし、の3点だという。著者の見立ては、①については肯定的で、②と③については懐疑的だ。

     いま最大の論争になっている①の「自国通貨を発行する国では、財政赤字は問題にならない」という点について、著者は貨幣論の観点から、とても丁寧な説明をしている。著者によれば、貨幣はデータに過ぎない。お札は単なる紙切れで、それを貨幣にしているのは政府なのだから、政府はお金を刷ることでいくらでも借金を返せる。もちろん、それをやり過ぎるとインフレになってしまうから、おのずと限度はあるが、そのこともMMTはきちんと認識している。主流派経済学者たちの大きな間違いは、税収の範囲内に財政支出を抑えようとする財政均衡主義だと著者は言う。これはとても重要な指摘だ。財政均衡主義を外せば、財政政策の自由度が大きく増えるからだ。

     一方で、著者は財政の持続可能性について、主流派の経済理論とMMTは、矛盾しないという驚愕の結論を導き出している。詳しい説明をする紙幅がないが、冷静に考えると著者の説明は正しい。つまり、どちらの理論を採るにせよ、ほどほどの財政赤字を出し続けることは可能なのだ。

     その財源を使って何をやるのか。MMTは、すべての求職者に政府がもれなく雇用機会を用意する雇用保障プログラムを導入すべきとしているが、著者は例えば月額7万円をすべての国民に一律に給付するベーシックインカムのほうが望ましいという。政府が望ましい仕事を常に用意できるのかという問題があるからだ。

     もしMMTを政府が理解し、ベーシックインカムを導入すれば、デフレからの脱却ができるだけでなく、日本社会が根底から変わる。その意味で、本書は日本を閉塞状況から救い出すきっかけになる力を持っている。すべての人に読んで欲しい。

    ★★★(選者・森永卓郎)

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  3. BIはインフレになったら歯止めが効かない
    新自由主義に魂を売り渡すのと同じ
    労働者の敗北
    JGPがなければ世の中の最低賃金を規定できない
    MMTerでBIを主張する人はいない
    池戸井上はわかってない
    BIは他の全てを犠牲にさせる
    JGPを完全に浸透させてからでいい

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  4. 「現金給付」の経済学: 反緊縮で日本はよみがえる (NHK出版新書 653) 新書 – 2021/5/11
    井上 智洋 (著)
    その他 の形式およ

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  5. 20世紀のベーシックインカム論  BIの現代的な起源は、クリフォード・ヒュー・ダグラスが提唱した「国民配当」と、ミルトン・フリードマンが提唱した「負の所得税」にある。ダグラスは、BI的制度の提唱者として知られるイギリス生まれの経済思想家であり、フリードマンはノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者だ。  ダグラスは、1924年に『社会信用論』で、テクノロジーの進歩によって生産性が向上すると、供給に対して消費が追いつかなくなり、需要不足が生じると論じている。そして、その需要不足を解消するために、国民のおよそ全員に「国民配当」として、お金を給付することを提案している。  フリードマンが1962年の著作『資本主義と自由』で提唱した「負の所得税」は、低所得者がマイナスの租税、つまり給付が受けられる制度を指す。あとで見るように、負の所得税とBIは似たような制度である。フリードマンは右派の経済学者であり、これを理由に負の所得税やBIに反対する左派の論者は少なくない。  ネットで流布していたBIの起源に関する勘違いというのは、フリードマンをBIの最初の発案者と見なすところから生じていたようだ。だが、すでに見たようにBIの起源はもっと古くに遡ることが可能であり、フリードマンの負の所得税はあくまでも現代的な起源の一つに過ぎない。

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