カント
アンチノミー
カント
0:01 純粋理性のアンチノミー
先験的理念の第一の自己矛盾
0:23 先験的理念の第二の自己矛盾
0:43 先験的理念の第三の自己矛盾
1:13 証明
4:31 先験的理念の第四の自己矛盾
4:56 実践理性のアンチノミー
8:04 趣味のアンチノミーの提示
純粋理性のアンチノミー 先験的理念の第一の自己矛盾<量>
http://correlative.org/exhibition/antinomie/kant1.html
正命題 |
世界は時間的な始まりをもち、 |
また空間的にも限界を持つ。 |
反対命題
世界は時間的な始まりをもたないし、
また空間的にも限界をもたない、
即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。
純粋理性のアンチノミー 先験的理念第二の自己矛盾<質>
http://correlative.org/exhibition/antinomie/kant2.html
正命題 |
世界においては、合成された実体は |
すべて単純な部分から成っている、 |
また世界には単純なものか、 |
さもなければ単純なものから成る |
合成物しか実在しない。 |
反対命題
世界におけるいかなる合成物も
単純な部分から成るものではない、
また世界には、
およそ単純なものはまったく実在しない。
純粋理性のアンチノミー 先験的理念の第三の自己矛盾<関係>
http://correlative.org/exhibition/antinomie/kant3.html
正命題 |
自然法則に従う原因性は、 |
世界の現象がすべてそれから |
導来せられ得る唯一の原因性ではない。|
現象を説明するためには、 |
そのほかになお自由による |
原因性をも想定する必要がある。 |
反対命題
およそ自由というものは存しない、
世界における一切のものは
自然法則によってのみ生起する。
証明
…
純粋理性のアンチノミー 先験的理念の第四の自己矛盾<様相>
http://correlative.org/exhibition/antinomie/kant4.html
正命題 |
世界には、 |
世界の部分としてかさもなければ |
世界の原因として、 |
絶対に必然的な存在者であるような |
何か或るものが実在する。 |
反対命題
およそ絶対に必然的な
存在者などというものは、
世界のうちにも世界のそとにも、
世界の原因として
実在するものではない。
https://nam-students.blogspot.com/2019/04/blog-post_90.html?m=1
一 実践理性のアンチノミー
我々にとって実践的な最高善換言すれば[言い換えれば]、我々の意志によって実現され得る最高善においては、徳と幸福とが必然的に結合していると考えられるから、純粋実践理性がその一方を想定し得るとすれば、他方もまた必ず最高善に属せねばならない。ところでこの結合は(一般に、いかなる結合もそうであるが)分析的であるか、さもなければ綜合的であるか、そのいずれかである。しかしここで問題にしている結合が、分析的であり得ないことは、つい今しがた述べた通りである。するとこの結合は綜合的であり、しかも原因と結果との必然的連結と考えられねばならない、この結合は、実践的善に換言すれば[言い換えれば]、行為によって可能になるような善に関係するからである。すると幸福を得ようとする欲望が、徳の格律に向かわしめる動因でなければならないか、それとも徳の格律が幸福の作用原因でなければならないか、二つのうちのいずれかである。第一の命題は、絶対的に不可能である、(分析論で証明した通りx)意志の規定根拠を、幸福を求める意志の要求のなかに置くような格律は、決して道徳的ではなく、また徳を確立し得るものではないからである。しかし第二の命題もまた不可能である、この世界における原因と結果との実践的連結は、単に意志を規定することから生じた結果としては、意志の道徳的心意に従っているのではなくて、すべて自然法則の知識と、この知識を意志の意図を達成するために使用する自然的能力とに向けられているからである。それだからこの世界では、幸福と徳との必然的な、また最高善を形成するに十分であるような連結は、たとえ道徳的法則をいくら几帳面に遵奉[?]したところで、とうてい期待できることではない。ところが最高善は、このような連結をその概念のうちに含んでいるのであるから、最高善の促進は我々の意志のア・プリオリな必然的目的であり、またこのことは道徳的法則と不可分離的に関連しているのであるから、第一の命題の不可能は、また第二の命題の虚偽をも証明するものでなければならない。そこでもし最高善が、実践的法則に従うのでは〔その実現が〕不可能であるというのなら、最高善の促進を命令するような道徳的法則もまた空想の所産であって、虚構された空しい目的を追求することになり、従ってまたそれ自体が虚偽でなければならない。
趣味のアンチノミーの提示
趣味の原理に関しては次のようなアンチノミーが提示される。
正命題:趣味判断は、概念に基づくものではない。もしそうだとしたら、趣味判断は論議せられうることになるからである。
反対命題:趣味判断は、概念に基づくものである。さもないと、判断が相違するにもかかわらず、趣味判断について論争することができなくなるからである。
(一)正命題。趣味判断は、概念に基づくものではない、もしそうだとしたら趣味判断は論議され得る(証明によって決定され得る)ことになるからである。
(二)反対命題。趣味判断は、概念に基づくものである。さもないと判断が相違するにも拘らず我々はその判断について論争できなくなる(他の人達が我々の判断に必然的に同意することを要求できなくなる)からである。(『判断力批判』上、篠田英雄訳、岩波文庫)上312
ネーションと美学31頁
books.google.co.jp › books
さもなければ、それはたんに個人的な適意(快適)にすぎないからである。カントはそのことをつ(一)正命題。趣味判断は、概念に基づくものではない、もしそうだとしたら趣味判断は論議され得る(証明によって決定され得る)ことになるからで
第56節 趣味のアンチノミーの提示 310-312、232-234 1.
正命題:趣味判断は、概念に基づくものではない。というのも、さもなければ、趣味判断について論議するdisputieren(=証明によって決定する)ことができることになるから。2.
反対命題:趣味判断は、概念に基づくものである。というのも、さもなければ、判断が相違するにもかかわらず、趣味判断について論争するstreiten(=この判断について他人と必然的に一致することを要求する)ことができなくなるから。
http://www.ne.jp/asahi/net/jpn/1000p/dat/050929a.pdf
趣味のアンチノミー
正命題 趣味判断は概念に基づくものではない、もしそうであれば趣味判断は証明によって決定され得るからである
反対命題 趣味判断は、概念に基づくものである。さもないと、その判断が相違したとき、その判断についてわれわれは論議することができなくなる(われわれの判断に他の人々が同意することを要求できなくなる)からである
(第56節)
「(一)定立:趣味判断は概念に基づかない。なぜなら、もしも基づくとするならば、趣味判断について論議でき る(証明によって決定できる)ことになってしまうからである。
(二)反定立:趣味判断は概念に基づく。なぜなら、もしも基づかないとするならば、趣味判断 が異なっているにもかかわらず、趣味判断について論争する(他のひとびとがこの判断に必然的に同意することを要求する)ことすらできなくなってしまうから である」(第56節)
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1059/kotoba.html
趣味のアンチノミー
正命題 趣味判断は概念に基づくものではない、もしそうであれば趣味判断は証明によって決定され得るからである
反対命題 趣味判断は、概念に基づくものである。さもないと、その判断が相違したとき、その判断についてわれわれは論議することができなくなる(われわれの判断に他の人々が同意することを要求できなくなる)からである
(第56節)
判断力のアンチノミー
正命題 物質的な物の産出は、すべて単なる機械的法則に従ってのみ可能である ×
反対命題 物質的な物の産出のなかには単なる機械的法則に従うのでは不可能なものがある×
しかしこれは『純粋理性批判』の第三アンチノミーの言い換えにすぎない。つまりこれは、いまだ与えられていない概念―原理を、あらかじめ与え られた客観的原理と取り違える誤謬によって発生したアンチノミーにすぎないとカントは退ける。反省的判断力において生じるのは、正しくは、
正命題 物質的な物とその形式との産出は、すべて単なる機械的法則に従ってのみ可能であると判定されなければならない◯
反対命題 物質的自然における所産のなかには、単なる機械的法則に従ってのみ可能であると判定され得ないものがある◯
(第70節)
http://correlative.org/publishing/jyunbi.html
http://tetsugakusya2.blog38.fc2.com/?mode=m&no=18
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