<図4p39>+p22 B 国家 A ネーション (再分配) (互酬) C 資本 D アソシエーション (商品交換) (X)
図4 資本制社会構成体の構図
※注 『世界共和国へ』(p4)で紹介されている1970年(1971年は間違い)のチョムスキーの講演「未来の国家」(Government in the Future)が以下で聞けます。
チョムスキー・インフォサイト? http://www.chomsky.info/audionvideo.htm http://www.chomsky.info/audionvideo/19700216.mp3 Government in the Future. Poetry Center, New York. February 16, 1970.
4:25 午前 yoji said... Tangible Information: Noam Chomsky lecture from 1970 (!) -- full text transcript http://tangibleinfo.blogspot.jp/2006/11/noam-chomsky-lecture-from-1970-full.html
Rather similar thoughts were expressed by Kant 40 years later, "he cannot", he says, "accept the proposition that certain people are not right for freedom, for example the serfs of some landlord." "If one accepts this assumption," he writes, "freedom will never be achieved. For one cannot arrive at the maturity for freedom without having already acquired it. One must be free to learn how to make use of ones powers freely and usefully. The first attempts will surely be brutal and will lead to a state of affairs more painful and dangerous than the former condition. Under the dominance but also the protection of an external authority. However, one can achieve reason only through one's own experiences and one must be free to be able to undertake them. To accept the principle that freedom is worthless for those under one's control and that one has the right to refuse it to them forever, is an infringement on the right of God himself, who has created man to be free." [30:29]
This particular remark is interesting because of its context as well. Kant, in this case, was defending the French revolution during the terror, against those who claimed it showed the masses to be unready for the privilege of freedom. And his remarks too, I think, have obvious contemporary relevance. No rational person will approve of violence and terror, and in particular the terror of the post-revolutionary state, which has fallen into the hands of a grim autocracy, has more than once reached indescribable levels of savagery. At the same time no person of understanding or humanity will too quickly condemn the violence that often occurs, when long subdued masses rise against their oppressors or take their first steps towards liberty and social reconstruction. [31:17]
《--たがいに関係しあう諸国家にとって 、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには 、理性によるかぎり次の方策しかない 。すなわち 、国家も個々の人間と同じように 、その未開な (無法な )自由を捨てて公的な強制法に順応し 、そうして一つの (もっともたえず増大しつつある )諸民族合一国家 ( c i v i t a s g e n t i u m )を形成して 、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる 、という方策しかない 。だがかれらは 、かれらがもっている国際法の考えにしたがって 、この方策をとることをまったく欲しないし 、そこで一般命題として i n t h e s i正しいことを 、具体的な適用面では i n h y p o t h e s i 斥けるから 、一つの世界共和国という積極的理念の代わりに (もしすべてが失われてはならないとすれば ) 、戦争を防止し 、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが 、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである 。 》 ( 『永遠平和のために 』宇都宮芳明訳 、岩波文庫 、 1 9 8 5 : p . 4 5 )
67 Comments:
講義「宗教哲学」ハンドアウト(6):古典的「宗教哲学」カント(ii) - 哲学・思想学系 (Adobe PDF) -htmlで見る
Ⅱ シェーラーやプフライデラーのあげる条件とカント哲学(序文に見られる事柄). Ⅲ カントの宗教哲学 ... 私は何を知りうるか:認識論──『純粋理性批判』. 用語: .... カント は「私は何を知ることができるか」「私は何を為すべきか」「私は何を望みうる. か」「人間と は ...
www.logos.tsukuba.ac.jp/~horoatsu/handoutphr6kant2.pdf
4:25 午前
yoji said...
Tangible Information: Noam Chomsky lecture from 1970 (!) -- full text transcript
http://tangibleinfo.blogspot.jp/2006/11/noam-chomsky-lecture-from-1970-full.html
Rather similar thoughts were expressed by Kant 40 years later, "he cannot", he says, "accept the proposition that certain people are not right for freedom, for example the serfs of some landlord." "If one accepts this assumption," he writes, "freedom will never be achieved. For one cannot arrive at the maturity for freedom without having already acquired it. One must be free to learn how to make use of ones powers freely and usefully. The first attempts will surely be brutal and will lead to a state of affairs more painful and dangerous than the former condition. Under the dominance but also the protection of an external authority. However, one can achieve reason only through one's own experiences and one must be free to be able to undertake them. To accept the principle that freedom is worthless for those under one's control and that one has the right to refuse it to them forever, is an infringement on the right of God himself, who has created man to be free." [30:29]
This particular remark is interesting because of its context as well. Kant, in this case, was defending the French revolution during the terror, against those who claimed it showed the masses to be unready for the privilege of freedom. And his remarks too, I think, have obvious contemporary relevance. No rational person will approve of violence and terror, and in particular the terror of the post-revolutionary state, which has fallen into the hands of a grim autocracy, has more than once reached indescribable levels of savagery. At the same time no person of understanding or humanity will too quickly condemn the violence that often occurs, when long subdued masses rise against their oppressors or take their first steps towards liberty and social reconstruction. [31:17]
正誤表:p4 チョムスキーの講演、1971×→1970/p59「宣言」ではなく実質的な成立/p83『人間の経済』×→『経済の文明史』*/p71コインの発明はバビロニアではなくリュディア?/p175図4→図5
柄谷行人流の脱原発はPTAのA - 尾関章 - 尾関章の文理悠々 - コラム別に読む - 書評・コラムを読む - BOOK asahi.com:朝日新聞社の書評サイト
先日、東京・新宿の朝日カルチャーセンターで柄谷行人さんと対談したとき、会場の参加者から、コミュニティーとアソシエーションの違いを尋ねる質問が出た。これに対して、柄谷さんは「アソシエーションはPTAのA」と答えた。コミュニティーには、たまたま居合わせた地域社会のイメージがあるが、アソシエーションは自分の意思で参加も脱退もできる集まりだという。今のPTAの実態がどうかは別として、本来のParent-Teacher Associationはそういうものなのだろう。
脱原発の日本列島で、さまざまな場にPTAのAが生まれたらよいと思う。
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ボロメオの環
(『世界共和国へ』175頁より)
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自 由
マルクスは、商人資本と違って、産業資本は生産過程において剰余価値を得るということを強調しましたが、同時に、それはまだ剰余価値の実現ではない、といっています。剰余価値が真に実現されるのは、その生産物が流通過程において売られるときである。《生産物が売れないとか一部分しか売れないとかであれば、あるいは生産価格以下の価格でしか売れないとすれば、労働者はたしかに搾取はされたが、彼の搾取は資本家にとっては搾取として実現されていないのであって、しぼりとった剰余価値がまったく実現されないこともあれば部分的にしか実現されないこともあるというだけでなく、実に彼の資本の一部または全部の喪失をともなうことさえもあるのである》(『資本論』第三巻)。 ここにあるのは、さきほど述べたのと同じアンチノミーです。すなわち、剰余価値は流通過程では生じないし、また、流通過程でしか実現されない、ということです。しかし、このアンチノミーはつぎのように考えれば解消されまます。産業資本は、労働者が労働力を売り、そして消費者として彼らの生産物を買い戻すという広義の「流通過程」から、剰余価値を得るのだ、と。
(柄谷行人『世界共和国へ』)
<マルクスは、商人資本と違って、産業資本は生産過程において剰余価値を得るということを強調しました
が、同時に、それはまだ剰余価値の実現ではない、といっています。剰余価値が真に実現されるのは、その
生産物が流通過程において売られるときである。《生産物が売れないとか一部分しか売れないとかであれ
ば、あるいは生産価格以下の価格でしか売れないとすれば、労働者はたしかに搾取はされたが、彼の搾取は
資本家にとっては搾取として実現されていないのであって、しぼりとった剰余価値がまったく実現されない
こともあれば部分的にしか実現されないこともあるというだけでなく、実に彼の資本の一部または全部の喪
失をともなうことさえもあるのである》(『資本論』第三巻)。 ここにあるのは、さきほど述べたのと同じ
アンチノミーです。すなわち、剰余価値は流通過程では生じないし、また、流通過程でしか実現されない、
ということです。しかし、このアンチノミーはつぎのように考えれば解消されまます。産業資本は、労働者
が労働力を売り、そして消費者として彼らの生産物を買い戻すという広義の「流通過程」から、剰余価値を
得るのだ、と。>
(柄谷行人『世界共和国へ』)
<マルクスは、商人資本と違って、産業資本は生産過程において剰余価値を得るということを強調しました
が、同時に、それはまだ剰余価値の実現ではない、といっています。剰余価値が真に実現されるのは、その
生産物が流通過程において売られるときである。《生産物が売れないとか一部分しか売れないとかであれ
ば、あるいは生産価格以下の価格でしか売れないとすれば、労働者はたしかに搾取はされたが、彼の搾取は
資本家にとっては搾取として実現されていないのであって、しぼりとった剰余価値がまったく実現されない
こともあれば部分的にしか実現されないこともあるというだけでなく、実に彼の資本の一部または全部の喪
失をともなうことさえもあるのである》(『資本論』第三巻)。
ここにあるのは、さきほど述べたのと同じアンチノミーです。すなわち、剰余価値は流通過程では生じな
いし、また、流通過程でしか実現されない、ということです。しかし、このアンチノミーはつぎのように考
えれば解消されまます。産業資本は、労働者が労働力を売り、そして消費者として彼らの生産物を買い戻す
という広義の「流通過程」から、剰余価値を得るのだ、と。>
(柄谷行人『世界共和国へ』)
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世界共和国へ-資本=ネーション=国家を超えて
柄谷行人
哲学, ブック, ノンフィクション
2014年5月21日
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資本=ネーション=国家という結合体に覆われた現在の世界からは,それを超えるための理念も想像力も失われてしまった.資本制,ネーション,国家をそれぞれ3つの基礎的な交換様式から解明し,その結合体から抜け出す方法を「世界共和国」への道という形で探ってゆく.21世紀の世界を変える大胆な社会構想.
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<マルクスは、商人資本と違って、産業資本は生産過程において剰余価値を得るということを強調しました
が、同時に、それはまだ剰余価値の実現ではない、といっています。剰余価値が真に実現されるのは、その
生産物が流通過程において売られるときである。《生産物が売れないとか一部分しか売れないとかであれ
ば、あるいは生産価格以下の価格でしか売れないとすれば、労働者はたしかに搾取はされたが、彼の搾取は
資本家にとっては搾取として実現されていないのであって、しぼりとった剰余価値がまったく実現されない
こともあれば部分的にしか実現されないこともあるというだけでなく、実に彼の資本の一部または全部の喪
失をともなうことさえもあるのである》(『資本論』第三巻)。
ここにあるのは、さきほど述べたのと同じアンチノミーです。すなわち、剰余価値は流通過程では生じな
いし、また、流通過程でしか実現されない、ということです。しかし、このアンチノミーはつぎのように考
えれば解消されます。産業資本は、労働者が労働力を売り、そして消費者として彼らの生産物を買い戻すと
いう広義の「流通過程」から、剰余価値を得るのだ、と。>
(柄谷行人『世界共和国へ』)
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<マルクスは、商人資本と違って、産業資本は生産過程において剰余価値を得るということを強調しました
が、同時に、それはまだ剰余価値の実現ではない、といっています。剰余価値が真に実現されるのは、その
生産物が流通過程において売られるときである。《生産物が売れないとか一部分しか売れないとかであれ
ば、あるいは生産価格以下の価格でしか売れないとすれば、労働者はたしかに搾取はされたが、彼の搾取は
資本家にとっては搾取として実現されていないのであって、しぼりとった剰余価値がまったく実現されない
こともあれば部分的にしか実現されないこともあるというだけでなく、実に彼の資本の一部または全部の喪
失をともなうことさえもあるのである》(『資本論』第三巻15章中公2,366頁)。
ここにあるのは、さきほど述べたのと同じアンチノミーです。すなわち、剰余価値は流通過程では生じな
いし、また、流通過程でしか実現されない、ということです。しかし、このアンチノミーはつぎのように考
えれば解消されます。産業資本は、労働者が労働力を売り、そして消費者として彼らの生産物を買い戻すと
いう広義の「流通過程」から、剰余価値を得るのだ、と。>
(柄谷行人『世界共和国へ』)
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1:31 午前
3 技術革新による存続140(剰余価値の実現140/剰余価値はどこから141/強いられた技術革新142)
資本論
第15章 この法則の内的矛盾の展開
第一節 概 説
<マルクスは、商人資本と違って、産業資本は生産過程において剰余価値を得るということを強調しました
が、同時に、それはまだ剰余価値の実現ではない、といっています。剰余価値が真に実現されるのは、その
生産物が流通過程において売られるときである。《生産物が売れないとか一部分しか売れないとかであれ
ば、あるいは生産価格以下の価格でしか売れないとすれば、労働者はたしかに搾取はされたが、彼の搾取は
資本家にとっては搾取として実現されていないのであって、しぼりとった剰余価値がまったく実現されない
こともあれば部分的にしか実現されないこともあるというだけでなく、実に彼の資本の一部または全部の喪
失をともなうことさえもあるのである》(『資本論』第三巻15章中公2,366頁p272?)。
ここにあるのは、さきほど述べたのと同じアンチノミーです。すなわち、剰余価値は流通過程では生じな
いし、また、流通過程でしか実現されない、ということです。しかし、このアンチノミーはつぎのように考
えれば解消されます。産業資本は、労働者が労働力を売り、そして消費者として彼らの生産物を買い戻すと
いう広義の「流通過程」から、剰余価値を得るのだ、と。>
(柄谷行人『世界共和国へ』)
https://itunes.apple.com/jp/book/shi-jie-gong-he-guohe-zi-ben/id881336775?mt=11
3 技術革新による存続140(剰余価値の実現140/剰余価値はどこから141/強いられた技術革新142)
資本論
第15章 この法則の内的矛盾の展開
第一節 概 説
4 自己再生的システム
労働者と消費者
あらためていうと、産業資本の剰余価値は、労働者が労働力を売り、そしてその生産物を消費者として買い戻すという広義の「流通過程」にしかありません。このことは、剰余価値が個別資本においてではなく、社会的総資本において考えられねばならないということを意味します。たとえば、マルクスはつぎのように言っています。
どの資本家も、自分の労働者については、その労働者にたいする自己の関係が消費者に〔たいする〕生産者の関係でないことを知っており、またその労働者の消費を、すなわちその交換能力、その賃金をできるだけ制限したいと望んでいる。もちろん、どの資本家も、他の資本家の労働者が自分の商品のできるだけ大きな消費者であることを望んでいる。だが、おのおのの資本家が自分の労働者にたいしてもつ関係は、資本と労働との関係一般であり、本質的な関係である。ところが、まさにそのことによって、幻想が、すなわち自分の労働者を除くそのほかの全労働者階級は、労働者としてではなく、消費者および交換者として、貨幣支出者として、自分に相対しているのだ--個々の資本家を他の全ての資本家から区別するなら、彼にとってこのことは真実なのであるが、という幻想が生まれてくる。(中略)
資本を支配〔・隷属〕関係から区別するのは、まさに、労働者が消費者および交換価値措定者として資本に相対するのであり、貨幣所持者の形態、貨幣の形態で流通の単純な起点流通の無限に多くの起点の一つになる、ということなのであって、ここでは労働者の労働者としての規定性が消し去られているのである。(『資本論草稿』第二巻、渡辺憲正訳)
以上の考察から、幾つかのことが考えられます。第一に、労働者は資本家に対してたんに「隷属関係」にあるだけでないということです。労働者は個々の生産過程では隷属するとしても、消費者としてはそうではない。逆に、資本は消費者としての労働者に対して「隷属関係」にあるのです。私はここに、産業資本主義に対する闘争のがあると考えます。それに関しては、最後に論じます。
柄谷行人『世界共和国へ』136頁?
『世界史の構造』283頁参照
マルクスの国家社会主義批判
一方、マルクスが絶対に受け入れなかったのは、ラッサールの「国家社会主義」でした。マルクス派とラッサール派が合同で作ったドイツ社会民主労働党の「ゴータ綱領」(一八七五年)についても、彼は、国家によってアソシエーション(生産者協同組合)を育成するというラッサールの考えを痛烈に批判しています。
労働者が協同組合的生産の諸条件を社会的規模で、まず最初は自国に国民的規模でつくりだそうとするのは、現在の生産諸条件の変革のために努力することにほかならず、国家の補助による協同組合の設立とはなんのかかわりもないものである! 今日の協同組合についていえば、それらは政府からもブルジョアからも保護を受けずに労働者が自主的につくりだしたものであるときに、はじめて価値をもっているのだ。(『ゴータ綱領草案批判』、山辺健太郎訳)
国家によって協同組合を育成するのではなく、協同組合のアソシエーションが国家にとって替わるべきだと、マルクスはいっているのです。しかし、何らかの国家の補助がないならば、生産者協同組合が資本制企業に敗れてしまうこと
世界共和国へ
資本制への三つの移行
マルクスは封建的生産様式から資本制への移行において、「三様の移行」があるといっています。《第一には、商人が直接に産業資本家になる。商業の土台の上に起こされた諸産業のばあいがそれで、ことに、商人によって原料や労働者とともに外国から輸入される奢侈品工業、たとえば、一五世紀にイタリアでコンスタンティノープルから輸入されたそれのようなばあいである。第二には、商人が小親方を自分の仲買人(middlemen)とするか、あるいはまた直接に自己生産者から買う。商人は生産者を、名目上は独立のままにしておき、その生産様式を変化させずにおく。第三には、産業家が商人となって、直接に大規模に商業のために生産する》(『資本論』第三巻)。
マニュファクチュアの段階では、これらが共存していました。旧来の生産様式を根本的に変えてしまうのは、「第三の場合」です。それが窮極的に第一や第二の資本家を駆逐した。そして、このことが最も早く起こったのはイギリスです。第一や第二の形態にもとづいていたオランダにとってかわったのです。産業資本が優位に立つとともに、商人資本はたんに産業資本の一端を担う商業資本に転落します。
世界共和国へ
世界史の構造492~3
資本論3:20
1,2vs3
資本制への三つの移行
マルクスは封建的生産様式から資本制への移行において、「三様の移行」があるといっています。
《第一には、商人が直接に産業資本家になる。商業の土台の上に起こされた諸産業のばあいがそれで、ことに、商人によって原料や労働者とともに外国から輸入される奢侈品工業、たとえば、一五世紀にイタリアでコンスタンティノープルから輸入されたそれのようなばあいである。第二には、商人が小親方を自分の仲買人(middlemen)とするか、あるいはまた直接に自己生産者から買う。商人は生産者を、名目上は独立のままにしておき、その生産様式を変化させずにおく。第三には、産業家が商人となって、直接に大規模に商業のために生産する》(『資本論』第三巻)。
マニュファクチュアの段階では、これらが共存していました。旧来の生産様式を根本的に変えてしまうのは、「第三の場合」です。それが窮極的に第一や第二の資本家を駆逐した。そして、このことが最も早く起こったのはイギリスです。第一や第二の形態にもとづいていたオランダにとってかわったのです。産業資本が優位に立つとともに、商人資本はたんに産業資本の一端を担う商業資本に転落します。
世界共和国へ138?
世界史の構造492~3
資本論3:20
1,2vs3
…一般的に、マルクス主義者は、生産力あるいは科学技術の進歩に関して無邪気なまでに肯定的でした。
だから、エコロジストがマルクス主義者を批判するのは、的はずれではありません。しかし、マルクスはそ
うではなかった。たとえば、彼は『資本論』で、土壌化学の創始者といわれるドイツの農業化学者リービッ
ヒが、化学肥料によって自然界のエコシステムが破壊されることを指摘したことに注目し、その仕事を称賛
して、つぎのように述べています。
<資本主義的農業における進歩はすべて、労働者から略奪するだけでなく、土壌からも略奪するようなやり方
で進む。一定の期間だけ土壌の肥沃度を増加させるプロセスは、その肥沃さを長期にわたって維持する基盤
を破壊するプロセスである。アメリカ合衆国のように、発展の背景に大規模な産業をもつ国家では、この
破壊のプロセスはより急速に進む。したがって、資本主義的生産が技術と生産の社会的プロセスの結合とを
発展させるのは、同時に土壌と労働者という、すべての富の本来の源泉を害することによってのみ可能であ
る。>(『資本論』第一巻) 1:13:10節
マルクスはここで、産業資本が労働者を搾取するだけでなく、いわば自然を搾取=開発(exploit)するこ
と、それによって「土壌と人間」という自然を破壊してしまうことを批判しているのです。そして、つぎの
ように述べます。《このことから学ぶべき教訓は、資本主義体制は合理的農業とは逆方向に進むものであ
り、合理的農業は資本主義体制とは両立不可能(たとえ資本主義体制が農業における技術発展を促進したとし
ても)である。合理的農業に必要なのは、自分自身のために畑を耕す小規模な農民または連合した生産者たち
を管理していくことである》(同前)3:6:2。
柄谷行人『世界共和国へ』より
『世界史の構造』29~30頁参照
2 「交換」の今日的意味
「交換」と「交通」
私はマルクスがいったことを、「生産」ではなく「交換」という観点から見直し、また、交換を広い意味で考えようとしています。しかし、これは必ずしも、マルクスを否定することにはならない。実は、マルクスは若いとき「交換」と同じように広い意味で、「交通」という概念を頻繁に用いていたのです。たとえば、『ドイツ・イデオロギー』では、交通という語はつぎのように使われています。それを四ヶ所から引用します。
貨幣によって、あらゆる交通形態と交通それ自体とが、諸個人に偶然的なものにされる。したがって貨幣のうちにすでに、いままでの交通が、すべて決められた諸条件のものにおける諸個人の交通ではなかったということが内在する。
分業のそのつぎの拡大は、生産と交通との分離であり、商人という特殊な階級の形成だった。
いままでのすべての歴史的段階に存在する生産諸力によって制約されていながら、またこれらを制約もしているところの交通形態は、市民社会である。これは、まえにのべたところからもすでにわかるように、単純家族と複合家族、いわゆる種族制をその前提および基礎としており、そしてそのくわしい規定はまえにのべたところにふくまれている。
征服する蛮族のばあいには、すでにうえにふれておいたように、戦争そのものがまだ一つの正常な交通形態である。(『ドイツ・イデオロギー』、古在由重訳)
右の例は、交通という概念が、家族や部族のような共同体、さらに、共同体と共同体の間の交易、さらに戦争までをふくんでいることを示しています。それは交換を広い意味で考えるのと同じことです。それに対して、この時期、マルクスは生産様式という語を狭い意味で用いています。のちに生産様式と呼んだものを、彼はこの時期、交通形態と呼んでいたのです。
ヘスの交通論と有機的共同社会
交通という概念を最初に提唱したのは、モーゼス・ヘスです。彼は、マルクスより少し年長の青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の哲学者で、フォイエルバッハの宗教批判(自己疎外論)を、国家や資本の批判に転化・拡張した最初の人物です。彼は『貨幣体論』という本で、交通という概念を提起しました。それによって、人間と自然、人間と人間の関係をとらえようとした。
ヘスは、第一に、人間と自然の関係を「物質代謝」(Stoffwechsel)という観点からとらえた。ドイツ語では、代謝(Wechsel)は交換を意味するので、人間と自然の関係は交換あるいは交通ということになるのです。
つぎに、ヘスは人間と人間の交通形態として、「略奪と奴隷制」、さらに「商品取引」をあげています。彼の考えでは、商品取引という形態が拡大すると、それは略奪と奴隷制(つまり、暴力によって人の生産物を奪うかもしくは人に労働させる)にとってかわるが、結局、それを別の形、つまり、貨幣によって行うことに帰結する。貨幣をもつことで、人は他人を強制することができるからです。そこでは、各人の諸能力は、貨幣というかたちで疎外されている。
さらに、ヘスは、真に共同的であるような交通形態は、資本主義経済のあとにのみありうると考えました。すでに資本制生産において人々は資本の下で協業しているのですが、資本を廃棄し、自分たちが共同で働くようにすれば、「有機的共同社会」が真に実現されるだろう、と。これは、プルードンによって提唱されていた「アソシエーション」あるいは協同組合的生産の言い換えです。実は、マルクスもこのような考えを終生保持したのです。
マルクスへの影響
このようにみれば、マルクスが『経済学・哲学草稿』(一八四四年)の段階で、ヘスの「交通」論の影響を受けていたことは明らかですが、それは先ほど引用したように、『ドイツ・イデオロギー』にも受け継がれています。
ところが、その後、経済学研究に深入りするにつれて、マルクスはなぜか、交通という言葉をキーワードとしてもちいなくなりました。それは、彼が『資本論』において、交通の一形態、すなわち、共同体と共同体の間に生じる交易(商品交換)が拡大することによって成立した資本制経済の研究に専念したということと切り離せないでしょう。おそらく、このことが、国家や共同体、ネーションといった領域に関する考察を二次的なものにしてしまったのです。したがって、それらの問題を包括的に扱うためには、交通という概念にもどって見る必要があります。私が交換という言葉を広い意味で使うのは、その意味においてです。
『世界共和国へ』
交通という概念を最初に提唱したのは、モーゼス・ヘスです。彼は、マルクスより少し年長の青年ヘーゲ
ル派(ヘーゲル左派)の哲学者で、フォイエルバッハの宗教批判(自己疎外論)を、国家や資本の批判に転化・
拡張した最初の人物です。彼は『貨幣体論』という本で、交通という概念を提起しました。それによって、
人間と自然、人間と人間の関係をとらえようとした。
ヘスは、第一に、人間と自然の関係を「物質代謝」(Stoffwechsel)という観点からとらえた。ドイツ語で
は、代謝(Wechsel)は交換を意味するので、人間と自然の関係は交換あるいは交通ということになるので
す。
つぎに、ヘスは人間と人間の交通形態として、「略奪と奴隷制」、さらに「商品取引」をあげています。
彼の考えでは、商品取引という形態が拡大すると、それは略奪と奴隷制(つまり、暴力によって人の生産物を
奪うかもしくは人に労働させる)にとってかわるが、結局、それを別の形、つまり、貨幣によって行うことに
帰結する。貨幣をもつことで、人は他人を強制することができるからです。そこでは、各人の諸能力は、貨
幣というかたちで疎外されている。
さらに、ヘスは、真に共同的であるような交通形態は、資本主義経済のあとにのみありうると考えまし
た。すでに資本制生産において人々は資本の下で協業しているのですが、資本を廃棄し、自分たちが共同で
働くようにすれば、「有機的共同社会」が真に実現されるだろう、と。これは、プルードンによって提唱さ
れていた「アソシエーション」あるいは協同組合的生産の言い換えです。実は、マルクスもこのような考え
を終生保持したのです。
《このようにみれば、マルクスが『経済学・哲学草稿』(一八四四年)の段階で、ヘスの「交通」論の影
響を受けていたことは明らかですが、それは先ほど引用したように、『ドイツ・イデオロギー』にも受け
継がれています。
ところが、その後、経済学研究に深入りするにつれて、マルクスはなぜか、交通という言葉をキーワー
ドとしてもちいなくなりました。それは、彼が『資本論』において、交通の一形態、すなわち、共同体と
共同体の間に生じる交易(商品交換)が拡大することによって成立した資本制経済の研究に専念したという
ことと切り離せないでしょう。おそらく、このことが、国家や共同体、ネーションといった領域に関す
る考察を二次的なものにしてしまったのです。したがって、それらの問題を包括的に扱うためには、交通
という概念にもどって見る必要があります。私が交換という言葉を広い意味で使うのは、その意味におい
てです。》
『世界共和国へ』より
2 「交換」の今日的意味
「交換」と「交通」
私はマルクスがいったことを、「生産」ではなく「交換」という観点から見直し、また、交換を広い意
味で考えようとしています。しかし、これは必ずしも、マルクスを否定することにはならない。実は、マ
ルクスは若いとき「交換」と同じように広い意味で、「交通」という概念を頻繁に用いていたのです。たと
えば、『ドイツ・イデオロギー』では、交通という語はつぎのように使われています。それを四ヶ所から引
用します。
貨幣によって、あらゆる交通形態と交通それ自体とが、諸個人に偶然的なものにされる。したがって貨幣
のうちにすでに、いままでの交通が、すべて決められた諸条件のものにおける諸個人の交通ではなかったと
いうことが内在する。
分業のそのつぎの拡大は、生産と交通との分離であり、商人という特殊な階級の形成だった。
いままでのすべての歴史的段階に存在する生産諸力によって制約されていながら、またこれらを制約もし
ているところの交通形態は、市民社会である。これは、まえにのべたところからもすでにわかるように、
単純家族と複合家族、いわゆる種族制をその前提および基礎としており、そしてそのくわしい規定はまえに
のべたところにふくまれている。
征服する蛮族のばあいには、すでにうえにふれておいたように、戦争そのものがまだ一つの正常な交通形
態である。(『ドイツ・イデオロギー』、古在由重訳)
右の例は、交通という概念が、家族や部族のような共同体、さらに、共同体と共同体の間の交易、さらに
戦争までをふくんでいることを示しています。それは交換を広い意味で考えるのと同じことです。それに対
して、この時期、マルクスは生産様式という語を狭い意味で用いています。のちに生産様式と呼んだもの
を、彼はこの時期、交通形態と呼んでいたのです。
ヘスの交通論と有機的共同社会
交通という概念を最初に提唱したのは、モーゼス・ヘスです。彼は、マルクスより少し年長の青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の哲学者で、フォイエルバッハの宗教批判(自己疎外論)を、国家や資本の批判に転化・拡張した最初の人物です。彼は『貨幣体論』という本で、交通という概念を提起しました。それによって、人間と自然、人間と人間の関係をとらえようとした。
ヘスは、第一に、人間と自然の関係を「物質代謝」(Stoffwechsel)という観点からとらえた。ドイツ語では、代謝(Wechsel)は交換を意味するので、人間と自然の関係は交換あるいは交通ということになるのです。
つぎに、ヘスは人間と人間の交通形態として、「略奪と奴隷制」、さらに「商品取引」をあげています。彼の考えでは、商品取引という形態が拡大すると、それは略奪と奴隷制(つまり、暴力によって人の生産物を奪うかもしくは人に労働させる)にとってかわるが、結局、それを別の形、つまり、貨幣によって行うことに帰結する。貨幣をもつことで、人は他人を強制することができるからです。そこでは、各人の諸能力は、貨幣というかたちで疎外されている。
さらに、ヘスは、真に共同的であるような交通形態は、資本主義経済のあとにのみありうると考えました。すでに資本制生産において人々は資本の下で協業しているのですが、資本を廃棄し、自分たちが共同で働くようにすれば、「有機的共同社会」が真に実現されるだろう、と。これは、プルードンによって提唱されていた「アソシエーション」あるいは協同組合的生産の言い換えです。実は、マルクスもこのような考えを終生保持したのです。
マルクスへの影響
このようにみれば、マルクスが『経済学・哲学草稿』(一八四四年)の段階で、ヘスの「交通」論の影響を受けていたことは明らかですが、それは先ほど引用したように、『ドイツ・イデオロギー』にも受け継がれています。
ところが、その後、経済学研究に深入りするにつれて、マルクスはなぜか、交通という言葉をキーワードとしてもちいなくなりました。それは、彼が『資本論』において、交通の一形態、すなわち、共同体と共同体の間に生じる交易(商品交換)が拡大することによって成立した資本制経済の研究に専念したということと切り離せないでしょう。おそらく、このことが、国家や共同体、ネーションといった領域に関する考察を二次的なものにしてしまったのです。したがって、それらの問題を包括的に扱うためには、交通という概念にもどって見る必要があります。私が交換という言葉を広い意味で使うのは、その意味においてです。
『世界共和国へ』
《このようにみれば、マルクスが『経済学・哲学草稿』(一八四四年)の段階で、ヘスの「交通」論の影
響を受けていたことは明らかですが、それは先ほど引用したように、『ドイツ・イデオロギー』にも受け
継がれています。
ところが、その後、経済学研究に深入りするにつれて、マルクスはなぜか、交通という言葉をキーワー
ドとしてもちいなくなりました。それは、彼が『資本論』において、交通の一形態、すなわち、共同体と
共同体の間に生じる交易(商品交換)が拡大することによって成立した資本制経済の研究に専念したという
ことと切り離せないでしょう。おそらく、このことが、国家や共同体、ネーションといった領域に関す
る考察を二次的なものにしてしまったのです。したがって、それらの問題を包括的に扱うためには、交通
という概念にもどって見る必要があります。私が交換という言葉を広い意味で使うのは、その意味におい
てです。》
『世界共和国へ』より
https://itunes.apple.com/jp/book/shi-jie-gong-he-guohe-zi-ben/id881336775?mt=11
『世界共和国へ-資本=ネーション=国家を超えて』より
柄谷行人「左翼的なるものへ――人は「理念」から逃れることはできない」
「論座」二〇〇七年四月、『柄谷行人インタヴューズ2003―2013』(講談社文芸文庫)
「左翼になるための」ブックガイド(柄谷行人・選)
イマニュエル・ウォーラーステイン『入門・世界システム分析』(山下範久訳、藤原書店)
G・W・F・ヘーゲル『歴史哲学講義』(長谷川宏訳、岩波文庫)
S・フロイト『精神分析入門』(高橋義孝ほか訳、新潮文庫)
マルセル・モース『社会学と人類学』(有地亨ほか訳、弘文堂)
大塚久雄『共同体の基礎理論』(岩波現代文庫)
マックス・ウェーバー『支配の諸類型』(『経済と社会』第一部三・四章所収、世良晃志郎訳、創文社)
カール・シュミット『政治的なものの概念』(田中浩ほか訳、未來社)
カール・ウィットフォーゲル『オリエンタル・デスポティズム』(湯浅赳男訳、新評論)
カール・マルクス『資本論』(向坂逸郎訳、岩波文庫)
カール・ポランニー『人間の経済』(全二巻、玉野井芳郎ほか訳、岩波モダンクラシックス)
玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』(みすず書房)
カント『啓蒙とは何か』(篠田英雄訳、岩波文庫)
プルードン「連合の原理」(アナキズム叢書『プルードン3』、江口幹訳、三一書房)
エリック・ホッファー『大衆運動』(高根正昭訳、紀伊國屋書店)
3 マルチチュードの限界
マルチチュードとは何か
資本主義がどんなにグローバルに浸透しようと、国家は消滅しません。それは商品交換の原理とは別の原理に立っているからです。たとえば、一九世紀のイギリスの自由主義者は「安い政府」を唱えましたが、実際に、イギリスの「自由主義的帝国主義」を支えたのは、強大な軍事力であり世界最大の課税でした。それは今日のアメリカの「ネオリベラリズム」についても同じです。リバタリアンやアナルコキャピタリストは、資本主義が国家を解体するかのように考えているのですが、そんなことは絶対にありません。
ところで、ネグリとハートは「帝国」(世界市場)の下で国民国家は実質的に消滅し、それに対して、「マルチチュード」が対抗するだろうという見通しを語ります。マルチチュードとは、労働者階級だけでなく、マイノリティ、移民、先住民その他の多様な人間集団、いわば有象無象という意味のようです。しかしこれは一八四〇年代にマルクスがもっていた認識、つまり、世界は資本家とプロレタリアという二大階級の決戦になるといった予言と類似するものです。実際、ネグリとハートは、マルクスのいうプロレタリアが労働者階級という狭い意味に限定されないということ、それは彼らのいう「マルチチュード」に近いことを強調しているのです。
しかし、ネグリとハートは、スピノザからマルチチュードという概念を引き出したというのですが、それは強引な読みかえです。というのは、マルチチュードはもともとホッブズが使った言葉であり、それは自然状態にある多数の個人を意味します。個々人が各自の自然権を国家に譲渡し、マルチチュードの状態を脱することによって、市民あるいは国民になるわけです。その点で、スピノザも同じ意見です。ただ、ホッブズよりも国家に譲渡しなくてもよい自然権を広く認めたということが違うだけで、スピノザもまたマルチチュードを肯定していないし、それに期待もしていない。
国家論の不在
だから 、ネグリとハ ートの考え方は 、実際は 、プル ードンがいったように 、深層の 「真実社会 」そこには多数的 ・創造的な民主主義があるという考えに近い 。いいかえれば 、これはアナキズムです 。そのことは 、彼らがプル ードンに一切言及しないで 、スピノザやマルクスについて語るとしても明白です 。
先に述べたように 、マルクスはプル ードンの影響を受けて 、諸国家を超えてその基底に存するような 「市民社会 」を想定しました 。そして 、そこにおけるプロレタリアの自己疎外の廃棄 =絶対的民主主義の実現が 、グロ ーバルな国家と資本の揚棄になるだろうというヴィジョンを描いたわけです 。ここで 、プロレタリアのかわりにマルチチュ ードといえば 、ネグリとハ ートの考えになります 。彼らは要するに 、プロレタリアによる同時的世界革命のかわりに 、マルチチュ ードによる同時的世界革命を唱えているわけです 。
ネグリとハ ートは 、 「現代の地政学に関する議論のほとんどは 、グロ ーバル秩序を維持するためには二つの戦略単独行動主義か多国間協調主義かのいずれかしかないことを前提としている 」という ( 『マルチチュ ード 』 ) 。 「単独行動主義 」 ( u n i l a t e r a l i s m )とは 、冷戦後のアメリカの立場であって 、 「それまでの敵 ‐味方の境界を規定し直し 、世界全体を統制する単一のネットワ ークを組織しはじめた 」 (同前 ) 。それに対して 、 「多国間協調主義 」 ( m u l t i l a t e r a l i s m )とは 、アメリカを批判するヨ ーロッパ 、あるいは国連の立場です 。ネグリとハ ートは 、これらはいずれも無効であるという 。 《マルチチュ ードこそが困難に立ち向かい 、世界を民主主義的に構成する新しい枠組みをうみださなければならない 》 (同前 ) 。 《マルチチュ ードがついに自らを統治する能力を手にするときにこそ 、民主主義は可能になるのだ 》 (同前 ) 。
これは 、マルチチュ ードの自己疎外としてある諸国家は 、マルチチュ ードが自己統治することによって揚棄されるだろう 、というアナキズムの論理です 。ここでは 、国家の自立性が無視されています 。こうしたマルチチュ ードの反乱は 、国家の揚棄よりも 、国家の強化に帰結するほかないでしょう 。
私は先にこう述べました 。マルクスが国家主義的であったことが 、国家主義的な独裁体制をもたらしたのではない 。むしろ 、国家が簡単に死滅するだろうという見方が 、それをもたらしたのだ 、と 。あるいは 、国家をその内部だけで考える見方が 、それをもたらしたのだ 、と 。ゆえに 、われわれはこの種のアナキズムに対して警戒すべきなのです 。
バクーニン、カント、ヘーゲル、シュミットからの重要な引用。
バクーニン:
《孤立した一国だけの革命は成功し得ないこと 。したがって 、自由を志向する万国の人民の革命的同盟 ・連合が不可欠であること 》 ( 「国際革命結社の諸原理と組織 」 『バク ーニン著作集 5 』外川継男 、左近穀ほか訳 、白水社 、 1 9 7 4 : p . 2 1 6 ) 。
atプラス03
『世界共和国へ』に関するノート(14)最終回
世界同時革命より
カント:
《完全な意味での公民的組織を設定する問題は 、諸国家のあいだに外的な合法的関係を創設する問題に従属するものであるから 、後者の解決が実現しなければ 、前者も解決され得ない 。個々の人達のあいだに合法的な公民的組織を設けてみたところで 、換言すれば一個の公共体を組織してみたところで 、それだけでは 、あまりたいした効果はない 。人々を強要して公民的組織を設定せしめたのとまったく同じ非社交性は 、諸国家の場合にもまた原因となって 、対外関係における公共体は 、他の諸国家に対する一国家として 、自己の自由をほしいままに濫用することになる (後略 ) 。 》
( 「世界公民的見地における一般史の構想 」 (第七命題 ) 、 『啓蒙とは何か他四篇 』篠田英雄訳 、岩波書店 、 1 9 7 4 : p . 3 6 )
《--たがいに関係しあう諸国家にとって 、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには 、理性によるかぎり次の方策しかない 。すなわち 、国家も個々の人間と同じように 、その未開な (無法な )自由を捨てて公的な強制法に順応し 、そうして一つの (もっともたえず増大しつつある )諸民族合一国家 ( c i v i t a s g e n t i u m )を形成して 、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる 、という方策しかない 。だがかれらは 、かれらがもっている国際法の考えにしたがって 、この方策をとることをまったく欲しないし 、そこで一般命題として i n t h e s i正しいことを 、具体的な適用面では i n h y p o t h e s i 斥けるから 、一つの世界共和国という積極的理念の代わりに (もしすべてが失われてはならないとすれば ) 、戦争を防止し 、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが 、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである 。 》
( 『永遠平和のために 』宇都宮芳明訳 、岩波文庫 、 1 9 8 5 : p . 4 5 )
《自然状態は 、むしろ戦争状態である 。言いかえれば 、それはたとえ敵対行為がつねに生じている状態ではないにしても 、敵対行為によってたえず脅かされている状態である 。それゆえ 、平和状態は 、創設されなければならない 》 (同前 、 p . 2 6 ) 。
ヘーゲル:
《 カントの構想の批判 … …もろもろの国家のあいだには最高法官などおらず 、せいぜい調停者か仲介者がいるだけである 。しかもこれすら 、偶然の成り行きで 、特殊な意思任せでしかない 。カントは国家連盟による永遠の平和を表象した 。国家連盟はあらゆる抗争を調停し 、個々の諸国家それぞれから承認を受けた一権能として 、すべての反目を鎮め 、こうして戦争による決着を不可能ならしめる 、というのである 。だが 、こうした表象は諸国家の合意を前提にしている 。この合意は 、宗教的 、道徳的 、あるいはその他のどんな根拠や側面においてにせよ 、総じていつも特殊な主権的意思に基づいてきたし 、まただからいつも偶然性がまとわりついているにも拘らず 、である 。
[原注 ]理想論として考えるかぎり 、私たちはカントの構想などのほうにより大きな親近感を示すに相違ない 。けれども 、現代にいたるまで 、リアリスティックに考えるなら 、こうした事態のほうが歴史の示した現実であった 。そして 、私たちはこういうリアリズムを踏まえたうえで今後の世界を考えていかねばならないだろう 。 》
( 『法権利の哲学 』第三三三節 、三浦和男ほか訳 、未知谷 、 1 9 9 1 : p . 5 1 5 )
シュミット:
《「世界国家」が、全地球・全人類を包括する場合には、それは政治的単位ではなく、単に慣用上から国家と呼ばれるに過ぎない。 (中略)それが、この範囲を越えてなお、文化的·世界観的その他なんであれ、「高次の」単位、ただし同時にあくまで非政治的な単位を形成しようとしたばあいには、それは、倫理と経済という両極間に中立点をさぐる消費-生産組合であるであろう。国家も王国も帝国も、共和政も君主政も、貴族政も民主政も、保護も服従も、それとは無緑なのであって、それはおよそいかなる政治的性格をも捨て去ったものであるであろう。》
(『政治的なものの概念』田中浩·原田武雄訳、未來社、1970:p.68-69)
シュミットはソレルの影響を受けている。そしてソレルはプルードンの影響を受けている。マルクスの系譜ではない。と言ってもマルクスはプルードンの系譜ではあるが。
アナキズムは国家の消滅を安易に期待する思考と言うより
国家に頼らない自主管理の思考だ
政治に関わるべきではないと言うわけでもないが
プルードンは議員になった
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