今年2009年はプルードン生誕200年にあたる(誕生日は1月15日)。
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以下、プルードン『経済的諸矛盾の体系または貧困の哲学』(未邦訳)の図解(『プルードン研究』佐藤茂行、p149より) 。
ヘー ゲルのアンチノミーのアウフヘーベンを根本的に否定したプルードンは、カントのアンチノミーに関しては、量に還元することおよび実体化することでその思弁 性からの脱出をはかる。以下、『経済的諸矛盾の体系または貧困の哲学』の図解(『プルードン研究』佐藤茂行、p149より)。
1分業
__|___
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N← →P
↑ /
↑ /
2機械 ↑ /
__|__ ↑ /
| |/
N← →P
↑ /
↑ /
3競争 ↑ /
__|__↑ /
| |/
N← →P
↑ /
↑ /
4独占 ↑ /
____|__↑ /
| |/
N← →P
↑ /
↑ /
5治安・租税 ↑ /
____|___↑ /
| |/
N← →P
以下次のように続く。
6貿易の均衡
7信用
8所有
9共有
10人口
結論:相互性
そしてそのその前段階としては、
神(悪←→正義)
経済(構成された価値、貨幣←→平等)
がある。
プルードンの思考法(系列的弁証法)はスピノザ(3と4混合周期)、カント(周期4)、ヘーゲル(周期3)、パーソンズ(変則周期4)の図解すべてにおける「原型」(DNAのようなもの)として考えることができる。それぞれ周期が違うだけなのだ。
ちなみに上記図が掲載された『プルードン研究』(佐藤茂行)はカントの形而上学との比較も詳しく、『経済的諸矛盾の体系』では総合の概念がまだ残っており、総合のない均衡という概念が確立するのは『革命と教会における正義』であると正確に述べている(p164)。
さて、ここでもう一度、プルードンとカントについて考えてみたい。
以下、『革命家の告白』第三版序文より。
<カントはもはや、彼以 前のあらゆる人々がしたように「神とは何か」とか「真の宗教とは何か」などとは自問しない。彼は事実への問いから形式への問いを生みだし、こう自らに言 うーー「なぜ私は神を信じるのか」「いかにして、なにゆえ,私の精神にこの観念が生じたのか」「その出発点と展開とはどんなものか」「その変遷,必要なら ば、その減退とはどんなものか」「最後に、宗教的精神において諸事象、諸観念はどのように生起するのか」
以上が、神と宗教について,このケーニヒスベルクの哲学者が思い定めたプランであった。(略)一言で言えば,彼は宗教の中に、もはや無限の存在の外的および超自然的啓示をではなく、悟性の現れを見たのである。
この時から、ただちに宗教の呪縛が解かれたーー宗教の秘密は哲学に対して露わになったのである。
(略) さて、カントがほぼ六〇年前に「宗教」に対して行ったこと、そしてそれ以前に「確実性」に対して行っていたこと、また、カント以前の人々が「幸福」「至高 善」に対して試みていたこと、そうしたことを『人民の声』紙は「政府」に対して企てようというのだ。
(略)カントに倣って、われわれは次のような問いを発した。すなわちーー
人間はなぜ所有するのか。私有財産はどのように獲得されるのか。それはいかにして消滅するのか。その変遷と変化の法則とは何なのか。それはどこへ向かうのか。要するに、それは何を表しているのか。(略)
第二に、人間はなぜ労働するのか。収入の格差はどうして生じるのか。社会における流通はどのように行われるのか。どんな条件で、どんな法則によってか。
(略) 今日に至るまで所有者の古いシンボルに包まれていたあれらすべての言葉から脱却し、それを処分するためには、どうすればよいか。労働者たちが互いに、労働 とその受け入れ先を保証しあうことである。そしてこの目的において、彼らは金銭的に相互的な義務を受け入れるということである。
(略)政治的自由は、われわれにとって産業的自由と同じく、相互的な保証から生じよう。(略)ところで、この自由と政治的保証のための方策は何か。現在のところでは普通選挙である。さらに後では、自由の契約だ…‥。
貸し付けの相互保証によって、経済的かつ社会的改革を。
個人の自由との和解によって,政治的改革を。
これが『人民の声』紙のプログラムである。(以下略)>
(邦訳p63-69より。初出はプルードンがゲルツィンの援助で発行した『人民の声(ヴォワ・デュ・プープル)』に掲載されたもの)
カントが脱しようとした神学的駄弁はプルードンにとっては、<政府がなかったならば、党派もないだろう。そして党派がなかったならば、政府もないだろう。われわれは、この循環からいつ抜け出るのか。>(p150、第8章末尾)といったものである。
そこからの安易な脱出はないがゆえに、それはプルードンにとって切実な問いである。例えば政党への人民の不信任は脱政治ではなくルイ=ナポレオンによる独裁を生んだだけだとプルードンは考える。
さらに彼はこう述べている。
<資 本の経済的観念、政府あるいは権威の政治的観念、教会の神学的観念は、同一的でかつ相互に交換可能な三つの観念である。それは今日あらゆる哲学者が十分 知っているように、一方を攻撃することはもう一方を攻撃することになる。資本が労働に行い、国家が自由に対して行うことを、今度は教会は知性に対して及ぼ すのだ。この絶対主義の三位一体は、哲学におけると同様、実践においても宿命的である。効果的に人民を抑圧するためには、その肉体、意志、理性を同時に縛 りつけなければならない。したがって社会主義が完全で、現実的で、あらゆる神秘主義から逃れたやり方で姿を現そうとしたならば、やるべきことは一つしかな く、それは知的循環の中にこの三つ揃いの観念を投入することであった。>(p316)
ここで述べられた資本、国家、宗教の三位一体。こ の認識は柄谷行人に先駆けるものだし、プルードンの恋愛観を賞賛したラカンの思考構造にも先駆けるものだ。さらに「あとがきーー中産階級礼賛」では、 「<宗教><国家><資本>という三者からなる定式の下で、旧来の社会は燃え上がり、見る間に燃え尽きていく。」(p386)とプルードンは述べている。 ちなみに、プルードンは階級闘争を議会で宣言したはじめての人間だが(p35-37)、実際の階級観は中産階級が上下に引き裂かれているという極めて現実的なものだ。
プルードンはカントの、自然、自由、芸術の構造を、社会学的に組み直しただけだったのかもしれない。ただし、プルードンが カントのように現実的に無力であったと決めつけるのは早計だ。カントのアンチノミーをプルードンは、交換における売り手と買い手の間に見出す。プルードンが簿記能力を人民に求めるのはその現実的解決をプログラムとして提示し得るものだからだ。
むしろ、カントの哲学は、プルードンにその現実化の可能性を見出したと積極的に言わなければならない。実際、『経済的諸矛盾の体系』でもカントのカテゴリー論を量的な契機に還元し、なおかつより総合 的なアンチノミーの系列を提示し得たのだ。これはマルクスがヘーゲルの観念論を唯物論的に逆転させてにもかかわらず、その弁証法を信じていたのとは対照的 である。
プルードンが具体的に指し示したプログラブである交換銀行、人民銀行の失敗は、原理的な思考、具体案としてはゲゼルに引き継が れるが、プルードンの思想的意義はそうした新たな流通を作る計画(さらに彼の晩年の提案「農工連合」は今こそ必要だ)と同様、今日ではよりアクチュアルなものがある。
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