以下、定本および『原理』の総合索引製作中の雑感。
第3巻「世界資本主義の共時的構造(the synchronic structure of world capitalism)」(399頁)なる言葉は、宇野弘蔵の著作集第8巻にはないと思う。
また、ジェイムズ(ス)・クリフォードが言ったという「人類学的コギト(anthropological Cogito)」(128,142頁)も見つからなかった。
定本第2巻(207頁)キルケゴールの印税についての日記も見つからなかった。
また、内容的に疑問に思うのは『原理』にある「自給自足的な共同体」(第3巻457、原理30頁)という言葉だ。
自給自足が出来ないから人は共同体をつくるのである(この場合の共同体は貨幣共同体とでも言うべきだが、、、)。
1997年日本で米不足が起こった時、タイから輸入したためにタイの米の値段が上がり、タイの貧困層が米を買えなくなった。
これなどは日本が自給自足していないから「貨幣共同体」に頼らざるを得なくなった事例だ。
ソローの『森の生活』ではないが、こうした自給自足(「自足」という言葉が「閉じた」印象を与えるのが悪いのだが)をアナキズムの伝統として見直す必要があろう。
以下、タルコフスキーの言葉。
「われわれ全員が共に、つまり人類が、ある文明を作り出しているということに言及するとき、世界で起こってることにたいする責任を、自分では気づくことなく他人の肩に負わせ、個人の責任から絶えず逃走しようとしているのである。この根源的な前提ゆえに、個人と社会のあいだの葛藤は、いよいよ絶望的なものとなり、個人と人類とを隔絶する壁が成長していくのだ。」(タルコフスキー『映像のポエジア』キネマ旬報社、347頁)
0 件のコメント:
コメントを投稿