(
リンク::::::、
文学、
ドゥルーズ)
参考:
NAMs出版プロジェクト: 京都学派 Kyoto School
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/kyoto-school.html?m=0
今まで柄谷行人は小林秀雄や吉本隆明を超えたところからスタートしたと思い込んでいたが、最近そうではないと思うようになった。
柄谷が吉本を超えたのは『世界史の構造』からだし、小林を超えるのは今年出るであろう柳田国男論からだろう。
最近あった講義を聞いたところによれば、多分、小林が講演で引用した柳田による魂の説明を柄谷は別の左翼的な形で引用するだろう、、、、
さて本題は小林秀雄である。
ドゥルーズを小林が生前誉めていたという話があるが、それを確かめに某大学にある小林文庫の蔵書にある『ベルクソンの哲学』の棒線箇所を調べてきた(最近雑誌で大澤信亮氏も小林秀雄の蔵書で赤線の引かれた『ベルグソンの哲学』を確認したと報告している)。
本居宣長関連の蔵書が多かったが、『思想と動くもの』『悲しき熱帯』『ニーチェと哲学』に赤鉛筆で線が引いてあった。
『悲しき熱帯』には大きく赤鉛筆でルソーと書かれていた。
『プルーストとシーニュ』もあったがこちらは線が引いてなかった。
基本的に線が引いてある蔵書は少ない。書き込みがあるのはほとんどない。
書き込みのある『ベルクソンと哲学』は珍しいのではないか?
(136頁中約60頁に赤鉛筆または青い万年筆による棒線があった。鉛筆によるものも数カ所あった。文字の書き込みは以下のなかにあるものがすべてである。)
また調べてみたい。
『ベルクソンの哲学』
ジル・ドゥルーズ著 宇波彰訳 法政大学出版 1974
目次
第一章 方法としての直観(方法の五つの規則) 3
第二章 直接与えられたものとしての持続(多様性の理論) 33
第三章 潜在的共存としての記憶(過去の存在論と記憶の心理学) 51
第四章 持続は一か多か(持続と同時性) 79
第五章 差異化の運動としてのエラン=ヴィタル(生命・知性・社会) 101
訳 註 130
訳者あとがき 133
Gilles Deleuze ,LE BERGSONISME, 1966
Table des matières
I – L’intuition comme méthode (Les cinq règles de la méthode)
II – La durée comme donnée immédiate (Théorie des multiplicités)
III – La mémoire comme coexistence virtuelle (Ontologie du passé et psychologie de la mémoire)
IV – Une ou plusieurs durées ? (Durée et simultanéité)
V – L’élan vital comme mouvement de la différenciation (Vie, intelligence et société)
http://www.puf.com/Quadrige:Le_bergsonisme
http://filosofia.fflch.usp.br/sites/filosofia.fflch.usp.br/..Bergsonisme.pdf
(小林秀雄の書き込みは第三章前半、第四章全体に多い。第五章も全体にラインが多い。)
第三章
「過去といふ永遠なる存在」56-7
「言語の意味」58-9
「円錐体」「プラトン」60-1
第四章
「一元論」80-1
「対象との共存」84-6
82-3
92-3
100-101
第五章(棒線あり。略)
136-7
(棒線は第三者が書いた可能性もあるし、こうした詮索は小林秀雄研究の本筋ではないだろう。ただ書き込みの筆跡が本人のものかどうかを確認してみたい気はする。)
参考:
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/5059/laugh1.html
『ユリイカ(2001年6月号)』p108、p114、p218。
上記ユリイカの鈴木和成氏の論考によれば大岡昇平全集別巻に大岡昇平の証言あるという。
小林秀雄がドゥルーズに関して褒めていたと前田英樹なども書いているが(『小林秀雄』195頁)、
郡司勝義『小林秀雄の思い出』に孫引きされているだけで、出典として指摘される肝心の『文学界』
1979年11月号の河上徹太郎との対談(「歴史について」)にはない。
郡司が編集者のような立場だったみたいなのでゲラから引用したのだろう(最近話題になった「考える人」2013年4月号のCDにはその内容は収められていなかったので推測の域を出ない)。
<小林秀雄は言う。
「ドゥルーズという若い人がいてね、この人の『ベルクソニスム』という本は
なかなかいい。ベルクソンの影響された当のものは、プラトンしかない、
と言っているんだな。つまり『持続』なんだよ、要するに、こう流れる、
これは『歴史』なんだよ」>(郡司勝義『小林秀雄の思ひ出』262頁)
<…それで、ジル・ドゥルーズの『べルグソン』の訳本(宇波彰訳、一九七四年)が出たときに——あれは『本
居宣長』が終ったころだと思いますけれど——彼の心残りは『感想』だろう、次は『感想』をやるだろうと思っ
て、ちょうど間違えて二冊買っちゃったから、彼に一冊贈ったんですよ。アインシュタインとの論争では、ベル
グソンがだめだということばかり言われるけれども、その経過においてベルグソンはとてもいいことを言ってる
んだということが、書かれているんです。
大江 ドゥルーズが書いているわけですか。
大岡 ええ、「註」の中に書いてあるんです。そのほか、ベルグソンについて、差違から入った、新しい見方
もある。その時はとっても喜んでたそうですよ。だいたい礼を言わない男でね。ぼくは彼が礼を言ったの聞いた
ことがないですよ。(笑)>
(大岡昇平「追悼小林秀雄 伝えられたもの 対談大江健三郎」大岡昇平全集別巻1996.8、669頁より。初出『文学界』1983.5)
<「父が最も嫌がっていたこと」として、明子さんの強く言明 されたことは大略次の如きことである。自分の公表した文章 はおろそかにされ、断片的に書いたメモや葉書の一文を継ぎ 接ぎして自分の文章が引用されること。また、とるに足りな い瑣細な資料から何事かを詮索されることである。いささか、 飛躍するようであるが、私は明子さんの言を聞きつつ、小林 氏の「西行」の一節を反芻していた。《凡そ詩人を解するに は、その努めて現さうとしたところを極めるがよろしく、努 めて忘れようとし隠さうとしたところを詮索したとて、何が 得られるものではない。》さもありなん、小林氏の意志はは っきりご家族に受けつがれている、と感じた。>
小林秀雄文庫について
http://members3.jcom.home.ne.jp/yoshihara.jya/books/bunko.html
補記:
★ベルクソンの「生命」は「植物」「動物」。
ベルクソンの生命の捉え方を「差異化の概略的シェーマ」(『創造的進化』第二章)としてジル・ドゥルーズ(1995)が示している(『ベルクソンの哲学』邦訳p114)。ドゥルーズは、「生命」とは、「動物」と「植物」であり、「物質」を除いているのである。
差異化の概略的シェーマ(『創造的進化』第二章)
物質 __|さまざまな世界。そしてそれぞれの世界に物質のもろもろのタイプがあり、
(弛緩) |それは、生命が回避すべき外的・内的な障害として出現する。
/
記憶-持続 植物:葉緑素の作用(連続的にエネルギー|/炭素同化作用
\ / を蓄積し、爆薬を貯蔵する。) |\窒素同化作用
生命
(収縮) 非中心化した神経系:本能
\動物:神経系(非連続的にエネ| / 物質の外在化と支配
ルギーを消費し、爆薬を| \中心化した神経/
爆発させる。) | 系:知性 \生命の転換と包括(直観)
27 Comments:
渡辺哲夫著『フロイトとベルクソン』(岩波書店:2012.6.27)のプロローグに、
小林秀雄が講演「現代思想について」で、ベルクソンの『物質と記 憶』(1896年)
とフロイトの『夢判断』(1899年)が近代思想にとって最重要な書物だと力強
く語ったことが書かれている。該当の個所を、同書に掲載 された講演のテープ
起こしから抜き書きしておく。
「ちょうどベルグソンがその本を書いて、ちょうどその頃です、フロイトが
『夢判断』を書いたのも、ちょうどその頃です。で、『夢判断』という本も、
ちょうどベルグソンが日本で流行って、原著を全然読まないで、「ベルグソン
はこんなことを言った人だ」ってことだけでもって流行ってしまったように、
フロイトも そうです、『夢判断』なんかおそらく読んでる人なんかないでしょ
う。だけど、フロイトっていう人はこんなことを考えた人、なんていうのはみ
んな知ってるん ですねぇ。そういうことはホントに悪いことなんです。『夢
判断』を読めばいいんです、大きな本じゃないんですから。諸君も買って読めばいいんです。
そういうふうなねぇ、やはり思想界には古典的な名著というものがありまし
てね。そういう古典的名著というものは、もう古くなるなんて性質のものじゃ
ないんです。徹底したものがあるんです、そこには。僕はそう思ってます、
近代の思想でいちばん重要な事件っていうのは、あの二つの本だと思ってます。
で、あの 二つの本を自分で読まなきゃいけないのです。」
「人生において調和を求めるなら、生存の戯曲で、私達は俳優でもあるし、
観客でもある事を、どんな時にも忘れてはならぬというあの昔の智慧を
思い起こさせる」
ハイゼンベルクが引用したボーアの言葉
小林秀雄全集別巻2『感想』下169頁
「実際、ここでは私達は、調和を求めるに当って、実生活という偉大なドラマにおいて私達は観客と同時に俳優でもある」
N.ボーア『因果性と相補性』岩波文庫191頁
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/52301.pdf
本稿はyojisekiブログからの転載
http://silhouette.livedoor.biz/archives/cat_10026138.html
このときわたしのなかで、小田氏の文章と原田氏の表情から小田昭太郎像が合成されたのだった。
これほどのインパクトを受けていながら、それ以後小田氏のことを想起することはなかったのである、8/28に当blogに書くまでは。
呆れるほど悠長なビデオテープの祟りではないか。
U氏がTVのドキュメンタリー番組を制作していると知ったので、わたしは知人の同業者について語った。
原田氏が「このひとはいつもいうんだから」と揶揄したので、もしかして原田氏は彼に嫉妬しているのかもしれないと思った。原田氏は偶然彼の制作した番組を観て、感銘を受けていたからである。
U氏の雰囲気が彼とどことなく似ていたので、わたしはU氏を凝視しながら「似てる」とつぶやいた。U氏はその視線に堪えられないという感じで、恥ずかしさに身をよじらせた。わたしは自分の不躾な視線を反省しながらも、視線をはずすことができなかった。どこが似ているのかを検証していたのだ。
もうひとりの客はU氏と親しい龍野忠久氏で、原田氏の親友だった。わたしは原田氏に対してさえ文学について語ったことがないにもかかわらず、いきなり龍野氏に文学についてあれこれ語ったのである。そのどれもに龍野氏は通じていた。
龍野氏は上梓した『パリ・一九六〇』(沖積社・1991/10/1)の書評が掲載された2種類の雑誌のコピーを持参して原田氏に説明していた。
いろいろ話が弾んだあとで、彼はそのコピーをわたしに突きつけ、「あなたにこの本を読んでほしい」と迫ってきた。
どちらかというと飄々としたイメージの彼の豹変ぶりに、わたしは抗する力を奪われた。この種のあつくるしくない迫られかたにわたしは弱いのだ。
U氏が仕事があるからと局にもどるべく立ち去った。当時の径書房が入っていたビルの門限は8時だったので、それ以後は近くの店で社員や来客と呑むのが慣例だった。いつのまにか隣室で仕事をしていた社員は消えていた。龍野氏を交えての3人の会話はおもしろくなるなあと期待しつつ、わたしは流しで原田氏と並んでグラスなどを片づけていた。
背後に視線を感じて振りむくと、龍野氏がさきほどとは打って変わった改まった顔つきで立っていた。
「いっしょに行かないんですか?」と問うと、龍野氏は万感の想いをこめて苦しげに言葉を吐いた。
「ぼくは食道を全部とったんです」
当然ながらわたしの頭には〈食道ガン〉という文字が浮かんだ。自然な流れで龍野氏に寄りそうように階段付近まで見送りにでた。
蹌踉とした足どりで階段を降りてゆく彼の背中には、ただならぬ寂寥感が漂っていた。そんな男の裸の背中をみせつけられたことの苦しさに、わたしは言葉を失ったままその場に呆然と立ちつくした。
原田氏から龍野氏との往復書簡集『死ぬことしか知らなかったボクたち』(径書房・1997/10/31)を贈られて、龍野氏が1993/10/15に逝ったことを知った。わたしが彼の背中をみてから1年6ヵ月後である。
龍野氏の著書『パリ・一九六〇』を読むと、彼がフランス文学者・山内義雄の弟子としてひどく愛されていたことがわかる。
山内義雄は外語時代に富永太郎にフランス語を教え、「少年富永の眼は非常に澄んでいて、迂闊なことは喋れないような輝きを持っていた」と語ったという。胸が躍る話である。
また、龍野氏の著書から彼が小林秀雄と黒澤明の初対談に立ち会ったことを知ったことで、「小林秀雄實記」を運営する杉本氏とのかかわりができ、その掲示板で富永太郎を愛する小向氏との関係が生じた。その関連で予想もしなかったblogを、こうして書いているのである。
1992/4/3にわたしが径書房を訪ねていなければ、杉本氏、小向氏、そして小田氏とは無関係だったのである。この1年、ネット上とはいえ、彼らとの関係が濃密であっただけに不思議な気分になる。
なお、龍野氏は『パリ・一九六〇』の扉にこう記している。
http://uejinoniwa.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post-7887.html
(左・マーティン・スコセッシ・・・この作品も作品賞獲れず)
~「映画批評」より抜粋~
【黒澤明】
この間小林秀雄さんと座談会をやったけれどもとても面白かった。
あなたの写真(映画)は一本も見ていないですというところから始まってね。
そして、いちばんおもしろかったのは、僕も古いものが好きだろう、
小林さんも古いもの が好きだから、こんな話になった。
たとえば「平家物語」という本を読んでおってもわからない。
具象的にはわからない。
ところがあの時分の鎧なんかを見る。
ほんとうに好きになってみれば、そこからイメージというのが出て来る。
前田青邨さんが持っている鎌倉時代のしゃもじ、
そのしゃもじを見ると、鎌倉という時代 はこういうものかというものが出てくる。
そのしゃもじがすごい。
いまのしゃもじはこうでしょう。平べったい。
そうじゃない。
掴むところがこういう具合に三角になっていて、
ここから こういう厚みのあるしゃもじですよ。
それを見ると、そのときの人間の状態がわかる。
それが飯器というこういうもの、こういう足のついている。
それに山の様に盛っためしの上 にそれが垂直に立っている。
それをこう持って、こういう具合にとって、めしをよそう・・・・
そういうものを想像して、そういうものから入っていかなければ、
古い時代のイメージは なかなか出て来ない。
パリ・1960 [単行本]
龍野 忠久 (著)
によれば
小林秀雄と黒澤明の対談は
1957-9の新年号
時事通信社
世界週報か
映画年鑑か
その他
と推測できる
毎日のムックに写真があったはず
黒澤明式読書術-gooブログ
http://blog.goo.ne.jp/stones10/e/a53df5b33e2e5ae89c50d90193ddad7d
以下は黒澤明の言葉。
日本は勉強不足というか。娯楽が多すぎて環境がよくないね。
ぼくらの頃は新しい本を読むのが唯一の楽しみで、電車にのらずに貯金して
本を買った。ドストエフスキーとか、よくわかりゃしないけど無理やり読む。
そのうちにわかってくる。そういうことが必要なんだろうね。
──20才の頃は何をしていらっしゃいました?
映画界に入ったのが26才くらい。まあ、本を読んでたな、ハタチの頃は、
小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いてるけど、『白痴』について
小林秀雄と論争したって負けないよ。
若い人もそういう具合の勉強のしかたをしなきゃいけないっていうんだよ。
「ドストエフスキーとか、よくわかりゃしないけど無理やり読む。そのうちにわかってくる。そういうことが必要なんだろうね」……ううむ。こんなふうに「罪と罰」を読むべきかもしれない。
もう一つ、黒澤明の言葉。
僕らがやさしいといっても、例えば大変な悲惨なものを見たとき目をそむけるようなそうゆうやさしさですね。あの人はその場合目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう。そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持ってると思うと僕は思うのです。
励まされるし、彼の小説を読みながら、愚痴を言っていた自分が恥ずかしく感じる。
そうか、黒澤っていう偉大な映画監督は、さすがに違う読み方をするものだなあ。
しかし、はいそうですか、僕も彼に負けないで、せめて登場人物を同じ苦悩を背負い込んで読みましょう、という具合にはうまくゆきそうにない。
ドストエフスキーは貪欲さが人並みはずれている。
人間に彼は凄く興味がある。外から見つめて安心しない。
内側のものをえぐりだし、僕たちの前にさらけださないではいられない。
人間愛などという生やさしい言葉ではくくれない、病的で狂おしい欲望の持ち主だ。
だから、半端な気持ちでぶつかっては、逆につぶされてしまう。圧搾機にかけられるようなものだ。
「罪と罰」を読む時こそ、睡眠をよくとり、栄養を摂取し、適度の運動をすべきだと真剣に考えている。
アランの経験主義を小林秀雄は受け継いでいる
ただし現実には、
夏目漱石、小林秀雄、ビートたけし、
という江戸っ子の系譜が日本を規定している
彼らにはコンプレックスがないから無意識に主流になり得る
http://deleuze.web.fc2.com/bergson.html
ベルグソンの哲学 (法政大学出版局 1974)
リジットな概念体系の展開を、考察の対象にそぐわないという理由で拒んだベルグソンのある意味で散文的な諸著作群の全体の読解から、ルグソンの議論をひとつひとつ論理的な順序性にのっとってベルグソンの哲学の内的体系性を解明していく。後の「シネマ」に至るベルグソニアンとしての思考は、ほぼこの段階に基礎的に用意されている。
第一章の冒頭に本書の目的として、持続、記憶、エラン・ヴィタールの三段階についてこの「三つの概念がどのようなつながりを持ちどのような進展を含んでいるかを規定すること」であると述べる。(p3)
ベルグソンの方法論的直観が「持続または記憶に対して二次的」(p4)であるのに対して上述の三つの概念は「直感(直覚)と言う方法論的な糸がなければ認識の視点からは規定されないままになっていたであろう」(p4)と述べ、持続または記憶の概念を実在的経験の内で認識する手段を与えるものが、直接的な認識である方法論的直観であることを、ドゥルーズは指摘する。
第二章ではベルグソンは直観に与えられた持続の概念の性格付けについて、フッサールも探求の対象としたリーマンの多様体の理論をもってする。ベルグソンは潜在性を持たず、分割しても性質の変わらないものを、数的多様体とし「分割されるものと分割との数と単位との適合」(p38)から空間的なものと延長の存在論的解明にあて、それに対して持続に「性質を変えることなくして分割することのできないもの」である数的でない質的多様体を「持続」の概念に充当する。「数的な多様体はすべては現実的なものであるが」(p39)「主観的なもの、または持続は潜在的なものであり」(p39)、持続が規定される質的多様体は「純粋に時間的でもはや空間的でない次元に入っている。」(p40)と言う
第三章では過去と記憶についての論考に入る。「ベルグソンは無意識と言う語を、意識の外側にある心理的実在を示すためにではなく、心理的でない実在を示すために用いる。」(p56)「心理的でない実在とはそれ自体としてある存在である。」「過去は純粋な存在論であり、純粋な記憶内容は存在論的意味作用しか持っていない。」(p51)と言う。「純粋持続はそれ自体が理論上の分割の結果である。」「記憶が持続と共存していることは確かである。」が「どのようなメカニズムによって持続が事実としての記憶になるか,理論上存在するものが、どうして実在化されるかということ」が記憶の特有の問題となる。「われわれは即自存在、過去の存在の中へと実際に飛躍するのだ。」まず第一に過去一般のなかに身をおき、つぎに 「記憶内容は徐々に心理的存在になり始める。」(p58)存在論的における潜在的共存としての記憶がいかにして実在的経験として心理的な現実となるかが述べられる。
第四章において、「過去のあらゆるレヴェル,緊張のあらゆるレベルが潜在的に共存しているという考え方は宇宙全体に拡げられている。すべてはあたかも宇宙が恐るべきひとつの記憶であるかのように進行する。」アインシュタインがリーマンから受け継ぎベルグソンが「意識に直接与えられ足る所与」で用いた多様体にかんして、アインシュタインが数的多様体と質的多様体を混同したことを非難する。
第五章においてベルグソンの哲学に固有の問題として、二種類の分化が存在し「第一のタイプの分化によればわれわれは混同されたもの」から出発し、「混合物をわれわれは実際に異なった二つの線に分割する。」「しかし今やわれわれは全く別のタイプの分割について語っているのである。われわれの出発点は、ひとつの統一性、単一性であり、潜在的な全体性である。」「この統一性はその中に潜在的に含まれているものを展開させ出発させる。」エラン・ヴィタール(生命の飛躍)に関して、潜在的なものの原働化、差異化しつつある単一性、分割されつつある全体性が問題になるのであると述べる。
http://deleuze.web.fc2.com/bergson.html#book10
差異について
本書は1956年の「ベルグソン研究」に掲載された「差異の概念について」という論文および、「ベルグソン1851-1941」の論文の貴重な邦訳である。一般に「構造主義」「ポスト構造主義」はソシュールの構造言語学における示差的関係の体系論における「差異」を論じるのであるが、ジル・ドゥルーズが汲み出してくる「差異」とはベルグソンの方法的直観における「本性上の差異」「程度上の差異」というベルグソン哲学における「差異」の概念としてであることに注目することが重要である。 ドゥルーズが言うところの「差異」という概念の特異性を見出すのは本書においてである。邦訳が近刊される「シネマ―運動イマージュ」(1985)に至るまで「ドゥルーズのベルグソンへの関心がほぼ30年間にわたることが明らかである」と訳者平井啓之は述べている。ドゥルーズにおける差異の概念とは、一見したところあるものと他のものの間の外在的な差異という観点から我々が考えがちであることに対して、「事物が現にあるとうりの相から出発して、それではない全てのものとの差異において、つまりその内的差異において把握しようと」志すのである。「差異そのものが時間的・空間的なものではなく、また種的なものでもなく、類的なものでもなく、つまり、差異とはその事物に対して外在的なものでも上位的なものでもない。」とのべる。(p11)「持続とは差異を生ずるものあるいは本性を変えるものであり、質であり、異質性であり、自己に対して差異を生ずるもの」であり(p180)、「持続、傾向とは自己に対して自己の持つ差異である。そして自己に対して差異を持つものとは直接的に実体と主体の一致である。」(p43) 持続における差異化に関してヘーゲル弁証法への反論が見られる。(p68)ドゥルーズ固有のベルグソン読解によれば自己に対して直接的に差異を生ずるもの(自己差異化するもの)としての持続を実体とみなす。(p41)これをさらに後の「差異と反復」においてスピノザの実体と合一し、二-チェの的生成としての実在の性格によってこれを変容するのである。本書を通じて上述のベルグソン哲学から汲み上げられる「差異の概念」について見ておくことは、他の諸著作の理解について非常に有益であり、読みやすく平明な文体の本書は晦渋な他の著作への手引きとなるであろう。
http://deleuze.web.fc2.com/bergson.html#book10
カントの批判哲学 (法政大学出版局 1984)
(筑摩書房 2008)
ドゥルーズが親密な敵と呼ぶカントについて述べた書であり、カントの批判哲学における内在的読解の究明から、その突破口を見出そうとする。カントにおける人間の力能を理性、悟性、構想力、と言う本性上の差異を持ったものとして区別することにおいて、カントの体系を認めたうえで、三能力の予定調和的な一致の源泉を「共通感覚」にもとめることに、批判の矛先を向けることによってカント哲学における、発生の問題を論じるのである。「カント哲学のもっとも独創的な点の一つは、われわれの持つ諸能力の間の本性上の差異という考えである。この本性上の差異は、認識能力、欲求能力、快・不快の感情の間に現れるのみでならず、表象の源泉としての諸能力の間にも現れる。感性と悟性とは、一方が直感の能力として、他方が概念の能力としてあるのであって。本性上異なっている。」「受動的な感性がどうやって能動的な悟性と一致するのかを説明するためにカントは諸概念に一致しつつ感性の諸形式にアプリオリの適応される構想力も総合および図式能力を引き合いに出すのである。」(国分p50)後の「差異と反復」における論点を先取りすれば、新しい概念創造とは、三能力の不調和的調和、カントにとって例外的である「力能の超越的行使」によって実在的経験から生じる。それゆえ「良識」や「常識」にとっての不条理として現れる実在的経験から新しい認識の総合を得るのであり、これが「差異と反復」における主題のひとつとなる。「ニーチェと哲学」において「力の諸関係は二重の視点から規定しうるひとつの境位を力そのものに付加しなければ依然として無規定である。」「諸力は二重の発生につまりそれらの量的差異の相互的発生とそれらの質の絶対的発生とにわれわれを差し向ける。」質の発生は異化=分化により、われわれに与えられる直接の与件として感性に与えられる。力への意志は「力に付加されるのはある関係における力の質の規定の内的原理としてであり、(x+dx)、この関係そのものの量的規定の内的原理としてである(dx/dy)。」(足立p80)とする。理念は「「無規定」であり、経験の諸対象との類比によって規定可能となるが、しかし悟性概念との関係においては無限な規定と言う理想であるという」三つの側面を持つ(国分p48)「未規定なものそのもの(dx,dy)には規定可能性の原理が対応し、現実的的に規定可能なもの(dx/dy)には相互規定の原理が対応し、現実的に規定されるもの(dx/dyの値)には十分な規定作用の原理が対応している。」この三つの原理が「充足理由律を形成しているのである。」(差異と反復p263 )それゆえドゥルーズにとっての「理念(イデア)」とは微分的な数的表現をとるものでありそれは上述のニーチェの力の諸関係における量的規定の内的原理の数を表現する。カントにおける「超越論的」なものは、理性が悟性の概念のもとに構想力が総合する以外には現象的な対象を持たないものであり、超感性的なイデアであるのに比して、ドゥルーズの「超越論的な場」とは特異性のセリーのカップリングによって出来事が生起する、前人称的・非人称的な場なのであって潜在的なものと現動的なものの間で、現働化がなされる境界面でありこのの平面を「内在平面」と呼ぶ。そこでの力の諸関係の量的規定の内的原理の差異の微分的な「理念」が力への意志のもとに総合されるのである。理論的共通感覚、実践的共通感覚、美的共通感覚、の根底にあるところの事実上のアプリオリとは、予定調和的には一致を保障されない偶然的な一致によるものである。共通感覚のドクサは社会集団間においても、各個人間においても伝達不可能性を帯びた無数の断裂を帯びたものであり、ア・プリオリにではなく経験より由来する蓋然的なドクサなのである。また理論的理性の共通感覚とは「科学」における「パラダイム」の根底を形成する歴史的なものである。「事実上のア・プリオリ」であるとされるものは、カントの語義にいうところの「共通感覚」ではなくして、思考にある不可視の前提を与え思考を一定の方向に導いていく、非思考たるところの「思考のイマージュ」が思考に巻きつくことによって生じる。この「思考のイマージュ論」はフランス哲学史における金字塔である。人間は社会的状況の共有に応じて思考のイマージュをその状況における「常識的臆見」として共通感覚を習得するのである。ドゥルーズが、権利上常に「思考イマージュ」を伴っている思考に対して「イマージュなき思考」を提唱するとき、常識における前提的または公準であるところの習慣的な既成価値の生に対する反動性を排除することによって、表象=代理現前(ルプレセンタシオン)の水準を超え、真の生成およびサイコロふりであるところの生の実践的な選択をなす存在様式に向け、永遠回帰へと超出することによって得られる「思考の生殖性」の局面を提示しようとするとことがその意図となるのである。
http://wine.wul.waseda.ac.jp/search
~S9*jpn?/t%7B21432d%7D%7B213050%7D%7B215c28%7D%7B213157%7D/t%7B21432d%7D%7B213050
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タイトル 時事通信. 映画藝能
ジジ ツウシン. エイガ ゲイノウ
jiji tsūshin. eiga geinō
出版事項 東京 : 時事通信社
トウキョウ : ジジツウシンシャ
tōkyō : jijitsūshinsha
配架場所 演劇博物館
請求記号 KA 607
図書館所蔵 4278<1960-1960>
形態 冊
巻次・年月次 12(昭20.11.15)-
分類 778.05 njb/9
継続前誌 時事通信. 文化藝能 AN10023790
別著者等 時事通信社
ジジ ツウシンシャ
jiji tsūshinsha
別タイトル 時事通信. 映画芸能
ジジ ツウシン. エイガ ゲイノウ
http://deleuze.web.fc2.com/bergson.html#book10
ベルクソンの哲学:
「記憶が持続と共存していることは確かである。」が「どのようなメカニズムによって持続が事実としての記憶になるか,理論上存在するものが、どうして実在化されるかということ」が記憶の特有の問題となる。「われわれは即自存在、過去の存在の中へと実際に飛躍するのだ。」
「過去のあらゆるレヴェル,緊張のあらゆるレベルが潜在的に共存しているという考え方は宇宙全体に拡げられている。すべてはあたかも宇宙が恐るべきひとつの記憶であるかのように進行する。」
差異について:
「持続とは差異を生ずるものあるいは本性を変えるものであり、質であり、異質性であり、自己に対して差異を生ずるもの」であり(p180)、「持続、傾向とは自己に対して自己の持つ差異である。そして自己に対して差異を持つものとは直接的に実体と主体の一致である。」(p43)
http://deleuze.web.fc2.com/bergson.html#book10
『ベルクソンの哲学』:
「記憶が持続と共存していることは確かである。」が「どのようなメカニズムによって持続が
事実としての記憶になるか,理論上存在するものが、どうして実在化されるかということ」が
記憶の特有の問題となる。「われわれは即自存在、過去の存在の中へと実際に飛躍するのだ。」
「過去のあらゆるレヴェル,緊張のあらゆるレベルが潜在的に共存しているという考え方は
宇宙全体に拡げられている。すべてはあたかも宇宙が恐るべきひとつの記憶であるかのよう
に進行する。」
『差異について』:
「持続とは差異を生ずるものあるいは本性を変えるものであり、質であり、異質性であり、
自己に対して差異を生ずるもの」であり(p180)、「持続、傾向とは自己に対して自己の持つ
差異である。そして自己に対して差異を持つものとは直接的に実体と主体の一致である。」(p43)
http://deleuze.web.fc2.com/bergson.html#book10
ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』:
「記憶が持続と共存していることは確かである。」が「どのようなメカニズムによって持続が
事実としての記憶になるか,理論上存在するものが、どうして実在化されるかということ」が
記憶の特有の問題となる。「われわれは即自存在、過去の存在の中へと実際に飛躍するのだ。」
…
「過去のあらゆるレヴェル,緊張のあらゆるレベルが潜在的に共存しているという考え方は
宇宙全体に拡げられている。すべてはあたかも宇宙が恐るべきひとつの記憶であるかのよう
に進行する。」
『差異について』:
「持続とは差異を生ずるものあるいは本性を変えるものであり、質であり、異質性であり、
自己に対して差異を生ずるもの」であり(p180)、「持続、傾向とは自己に対して自己の持つ
差異である。そして自己に対して差異を持つものとは直接的に実体と主体の一致である。」(p43)
http://deleuze.web.fc2.com/bergson.html#book10
ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』
「記憶が持続と共存していることは確かである。」が「どのようなメカニズムによって持続が
事実としての記憶になるか,理論上存在するものが、どうして実在化されるかということ」が
記憶の特有の問題となる。「われわれは即自存在、過去の存在の中へと実際に飛躍するのだ。」
…
「過去のあらゆるレヴェル,緊張のあらゆるレベルが潜在的に共存しているという考え方は
宇宙全体に拡げられている。すべてはあたかも宇宙が恐るべきひとつの記憶であるかのよう
に進行する。」
『差異について』
「持続とは差異を生ずるものあるいは本性を変えるものであり、質であり、異質性であり、
自己に対して差異を生ずるもの」であり(p180)、「持続、傾向とは自己に対して自己の持つ
差異である。そして自己に対して差異を持つものとは直接的に実体と主体の一致である。」(p43)
http://deleuze.web.fc2.com/bergson.html#book10
ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』
「記憶が持続と共存していることは確かである。」が「どのようなメカニズムによって持続が
事実としての記憶になるか,理論上存在するものが、どうして実在化されるかということ」が
記憶の特有の問題となる。「われわれは即自存在、過去の存在の中へと実際に飛躍するのだ。」
…
「過去のあらゆるレヴェル,緊張のあらゆるレベルが潜在的に共存しているという考え方は
宇宙全体に拡げられている。すべてはあたかも宇宙が恐るべきひとつの記憶であるかのよう
に進行する。」
『差異について』
「持続とは差異を生ずるものあるいは本性を変えるものであり、質であり、異質性であり、自己に
対して差異を生ずるもの」であり(p180)、「持続、傾向とは自己に対して自己の持つ差異である。
そして自己に対して差異を持つものとは直接的に実体と主体の一致である。」(p43)
http://ichirock.exblog.jp/20426638/
『新潮』2013年7月号から大澤信亮 の「小林秀雄」という小林秀雄論の新連載が開始。
ズバリ「小林秀雄」というタイトリングは、当人小林秀雄による「モオツァルト」や「本居宣長」にならったものかもしれず、力の入れ具合が察せられるが、書きぶりは今のところそれらとは異なる。そこに大澤信亮はいない。従って小林秀雄もいない(まだ一回目だが)。足跡をどんなに細密に辿ってもそこにその当人が現れるとは限らない。
「モオツァルト」や「ゴッホの手紙」や「本居宣長」は、小林秀雄の肖像画なのかモオツァルトらのそれなのか分からない。そんな事になっているところが魅力で、小林秀雄が対象に心底惚れ込み、真に理解し尽くそうとしている、その嗜好の形式でも尺度の形式でもなく無双の情熱の形式をとった彼の夢を前にして、俺はまさしく、舟が波に掬われる様に浚われて了うのだった。
蓮實重彦:で、小林秀雄あたりからそれがおかしくなってきている。やっぱり小
林秀雄ってのは頭がよすぎて、そんなことを考えてたらば、早晩なんにも書く
ことがなくなるということがかなり若いときからわかっていたんでしょう
なぜ95年にモダニズムのハード・コアが出たのかという話。
岡崎乾二郎:日本にグリーンバーグがいなかったのは、グリーンバーグより優秀な小林秀雄がいたから。 #genroncafe
栗原裕一郎/@y_kurihara2014/03/18(火) 01:52:46 via web
中森さんがそう(柄谷は現代の小林秀雄だ)いうと、慎太郎氏は首を振って、
いやあ、全然違う、まったく及びもしないといい、
「ああいう人はいなくなったねえ。何というか、こう、風みたいな人だったな」と、
少し遠くを見るような目をしたのだったw
柄谷 なによりもまず日本で批評を書いている人間の宿命みたいなものがありますよね。吉
本さんについてもぼくはその点でしか考えていない。ぼくがこんなことをいうとまずいけれ
ども、小林秀雄はいいと思っているんですよ(笑)。あとはだれもいないと思っている。ほんというと。
渡部 どんな点で?
柄谷 あるゆる点で。「霊界」もふくめてね(笑)。まえに中上(健次)とふたりで「小林
秀雄をこえて」といったときは、ほかのひとは一山いくらという感じで……やったわけですよ。
岡崎乾二郎 先日、近畿大学で小林秀雄の『近代絵画』を扱いました。小林秀雄は
その当時読める物を海外の文献を含めてだいたい読んでいる。これだけ文献を読んでいる
日本人は彼しかいないだろうというぐらい読んでいる。確かに論としてはヒントしか
書かれていないんですが、発展させればクレメント・グリンバーグからさらに現代の
ロザリンド・クラウスの議論に通じる論点までがそこにはある。なぜそういう射程
の深さがあったかというと、もちろんボードレールからアルフレッド・バーに至るまで、
先程の柄谷さんの話ではないけれど読むべき基本文献を読んでいたからですね。グリンパーグ
やらクラウスと共通の出発点をきちんと押さえていた。小林秀雄というとそれだけで誤解
があって、現代の美術批評はもちろん、その当時もおそらく誰もこの本の可能性を理解して
いなかったでしょう。「解説」を読むと案の定理解していなくて「画家たちの魂の深み」
みたいなことが書いてある(笑)。
つまり小林秀雄が前提とした文化的コーパス(サブカルチャーまで含めたかなりの広さの)
を共有していないと、小林秀雄が何を言っているか、何を批判しようとしていたかは、
わからない。グリンバーグが昔、日本に来て、マティスやセザンヌをみたことがない日本人
には自分のいっているモダニズムの議論は意味がないだろう。それはむしろ幸せなのかもし
れないなんてことをアイロニカルにいったけれど、この言葉は少なくとも小林秀雄には通用
しなかった。逆にいえば、ゆえに小林の美術論も当時の日本はおろか、現代の日本の文化の
状況でもまったく理解されえないだろうとも感じるのですね。その小林をわれわれが批判
しようとするときには、それ相当の覚悟がいる。せめて小林と同じくらいは美術や音楽に
触れていないとどうしようもない。現在小林よりもはるかに容易にそれに触れる
チャンスがあるのに小林ほどにも経験がないというのはどうしようもない。
レヴィストロースの本に大きく赤鉛筆で「ルソー」と書いてあったのが印象的だった。
その本は他に書き込みがなかったからコピーしなかったが。
http://blog.goo.ne.jp/mendokusai_/e/eb8611d9e39345f71dcbe534da849572
「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインは終生、量子力学の考えに対して異を唱え続けた事は有名であるが、ここで小林は早くも量子力学の成果に「ベルクソンの予想」の「的中」を見ている訳である。いささか先回りした言い方になるが、私には、「ベルクソンの予想」がこのアインシュタインによる相対性理論の「超えたところにあった」ということの意味を凡そのところ書き切ったところで、この『感想(ベルグソン論)』は中断していると思われる。小林はこの後、アインシュタインとベルクソンの論争に触れるつもりであったようだが、その意図は現在残されている文章からも充分に推察されよう。それは具体的には五十五章五十六章を指して言うのであるが、それはこの「的中」がそのままベルクソンの二元論の正しさを証しているということに他ならないのであって、私が思うに、その勘所は、主観客観の認識論的意味合いである。それを最も象徴的に表した、ハイゼンベルクの引いたボーアの言葉を小林は五十四章で孫引きしているので、さらにそれをここで引用する。
「量子論にあっては、人生において調和を求めるなら、生存の戯曲で、私達は俳優でもあるし、観客でもある事を、どんな時にも忘れてはならというあの昔の智慧を思い起させる」。
川田訳の方だ
悲しき熱帯 (レヴィ・ストロース) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/悲しき熱帯_(レヴィ・ストロース)
邦訳は各全2巻で、川田順造訳(中央公論新社のち中公クラシックス)と室淳介訳(邦題 『悲しき南回帰線』、大日本雄弁会講談社 ... クロード・レヴィ=ストロースが100歳の誕生 日(在日フランス大使館); ^ フレデリック・ベグベデ『文学の墓場〜20世紀文学の最終 ...
24 名前:考える名無しさん [sage] :2015/03/31(火) 14:15:30.02 0
岡崎乾二郎 先日、近畿大学で小林秀雄の『近代絵画』を扱いました。小林秀雄は
その当時読める物を海外の文献を含めてだいたい読んでいる。これだけ文献を読んでいる
日本人は彼しかいないだろうというぐらい読んでいる。確かに論としてはヒントしか
書かれていないんですが、発展させればクレメント・グリンバーグからさらに現代の
ロザリンド・クラウスの議論に通じる論点までがそこにはある。なぜそういう射程
の深さがあったかというと、もちろんボードレールからアルフレッド・バーに至るまで、
先程の柄谷さんの話ではないけれど読むべき基本文献を読んでいたからですね。グリンパーグ
やらクラウスと共通の出発点をきちんと押さえていた。小林秀雄というとそれだけで誤解
があって、現代の美術批評はもちろん、その当時もおそらく誰もこの本の可能性を理解して
いなかったでしょう。「解説」を読むと案の定理解していなくて「画家たちの魂の深み」
みたいなことが書いてある(笑)。
つまり小林秀雄が前提とした文化的コーパス(サブカルチャーまで含めたかなりの広さの)
を共有していないと、小林秀雄が何を言っているか、何を批判しようとしていたかは、
わからない。グリンバーグが昔、日本に来て、マティスやセザンヌをみたことがない日本人
には自分のいっているモダニズムの議論は意味がないだろう。それはむしろ幸せなのかもし
れないなんてことをアイロニカルにいったけれど、この言葉は少なくとも小林秀雄には通用
しなかった。逆にいえば、ゆえに小林の美術論も当時の日本はおろか、現代の日本の文化の
状況でもまったく理解されえないだろうとも感じるのですね。その小林をわれわれが批判
しようとするときには、それ相当の覚悟がいる。せめて小林と同じくらいは美術や音楽に
触れていないとどうしようもない。現在小林よりもはるかに容易にそれに触れる
チャンスがあるのに小林ほどにも経験がないというのはどうしようもない。
・『小林秀雄対話集』(講談社)
永井龍男×小林秀雄「批評について」昭和29年NHK教養大学(ラジオ放送と
思われる)
河上徹太郎×小林秀雄「美の行脚」『芸術新潮』(新潮社 昭和30年4月号)
大岡昇平×小林秀雄「現代文学とは何か」『文学界』(文芸春秋)
昭和26年6月号
・『直観を磨くもの』(新潮文庫)
永井龍男×小林秀雄「芸について」『婦人公論』(中央公論社
昭和42年4月)
河上徹太郎×小林秀雄「歴史について」『文学界』(文芸春秋
昭和54年11月)☆
大岡昇平×小林秀雄「文学の40年」『日本の文学 43 小林秀雄』
(月報 中央公論社 昭和40年11月)
直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫) 文庫 – 2013/12/24
小林 秀雄 (著)
小林秀雄がドゥルーズに関して褒めていたと前田英樹なども書いているが(『小林秀雄』195頁)、
郡司勝義『小林秀雄の思い出』に孫引きされているだけで、出典として指摘される肝心の『文学界』
1979年11月号の河上徹太郎との対談(「歴史について」)にはない。
郡司が編集者のような立場だったみたいなのでゲラから引用したのだろう(最近話題になった「考える人」2013年4月号のCDにはその内容は収められていなかったので推測の域を出ない)。
<小林秀雄は言う。
「ドゥルーズという若い人がいてね、この人の『ベルクソニスム』という本は
なかなかいい。ベルクソンの影響された当のものは、プラトンしかない、
と言っているんだな。つまり『持続』なんだよ、要するに、こう流れる、
これは『歴史』なんだよ」>(郡司勝義『小林秀雄の思ひ出』262頁)
<…それで、ジル・ドゥルーズの『べルグソン』の訳本(宇波彰訳、一九七四年)が出たときに——あれは『本
居宣長』が終ったころだと思いますけれど——彼の心残りは『感想』だろう、次は『感想』をやるだろうと思っ
て、ちょうど間違えて二冊買っちゃったから、彼に一冊贈ったんですよ。アインシュタインとの論争では、ベル
グソンがだめだということばかり言われるけれども、その経過においてベルグソンはとてもいいことを言ってる
んだということが、書かれているんです。
大江 ドゥルーズが書いているわけですか。
大岡 ええ、「註」の中に書いてあるんです。そのほか、ベルグソンについて、差違から入った、新しい見方
もある。その時はとっても喜んでたそうですよ。だいたい礼を言わない男でね。ぼくは彼が礼を言ったの聞いた
ことがないですよ。(笑)>
(大岡昇平「追悼小林秀雄 伝えられたもの 対談大江健三郎」大岡昇平全集別巻1996.8、669頁より。初出『文学界』1983.5)
大江は小林秀雄から本居の書を譲り受けているはず
大江はノーベル賞受賞後スピノザばかり読んでいた
小林秀雄は折口信夫に本居は源氏ですよと言われたそうだが
自分ならベルクソンではなくスピノザですよと小林秀雄に言いたい
小林秀雄がドゥルーズに関して褒めていたと前田英樹なども書いているが(『小林秀雄』195頁)、
郡司勝義『小林秀雄の思い出』に孫引きされているだけで、出典として指摘される肝心の『文学界』
1979年11月号の河上徹太郎との対談(「歴史について」)にはない。
郡司が編集者のような立場だったみたいなのでゲラから引用したのだろう(最近話題になった「考える
人」2013年4月号のCDにはその内容は収められていなかったので推測の域を出ない)。
<小林秀雄は言う。
「ドゥルーズという若い人がいてね、この人の『ベルクソニスム』という本は
なかなかいい。ベルクソンの影響された当のものは、プラトンしかない、
と言っているんだな。つまり『持続』なんだよ、要するに、こう流れる、
これは『歴史』なんだよ」>(郡司勝義『小林秀雄の思ひ出』262頁)
最近雑誌で大澤信亮氏も小林秀雄の蔵書で赤線の引かれた『ベルグソンの哲学』を確認したと報告している。
それを確かめに某大学にある小林文庫の該当書を調べに行ってみた。
本居宣長関連の蔵書が多かったが、『思想と動くもの』『悲しき熱帯』『ニーチェと哲学』に赤鉛筆で線が
引いてあった。
『悲しき熱帯』には大きく赤鉛筆でルソーと書かれていた。
『プルーストとシーニュ』もあったがこちらは線が引いてなかった。
基本的に線が引いてある蔵書は少ない。書き込みがあるのはほとんどない。
書き込みのある『ベルクソンと哲学』は珍しいのではないか? (136頁中約60頁に赤鉛筆または青い万年筆
による棒線があった。鉛筆によるものも数カ所あった。文字の書き込みは以下のなかにあるものがすべてである。)
『ベルクソンの哲学』ジル・ドゥルーズ著 宇波彰訳 法政大学出版 1974
Gilles Deleuze ,LE BERGSONISME, 1966
(小林秀雄の書き込みは第三章前半、第四章全体に多い。第五章も全体にラインが多い。)
第三章「過去といふ永遠なる存在」56-7
http://1.bp.blogspot.com/-2s2dRQ_mjkM/UWe8Y2VZh-I/AAAAAAAAUhE/rba1cYzvNp8/s1600/kobayashi.jpg
「言語の意味」58-9
http://1.bp.blogspot.com/-USOwW2wZ-vA/UWe8PtCaSKI/AAAAAAAAUg0/qYBYnBd99G4/s1600/kobayashi_0001.jpg
「円錐体」「プラトン」60-1
http://2.bp.blogspot.com/-3vPFXVPNQ7o/UWe8Pni3JHI/AAAAAAAAUg4/qcLFrQGHUf4/s1600/kobayashi_0002.jpg
第四章「一元論」80-1
http://4.bp.blogspot.com/-ZrbYwFOcigk/UWe8ZS-b_gI/AAAAAAAAUhM/O-azkmWDt5A/s1600/kobayashi_0003.jpg
「対象との共存」84-5
http://3.bp.blogspot.com/-kykySwJwLxo/UWe8mY8tTTI/AAAAAAAAUhk/ZmubA4jpvQ0/s1600/kobayashi_0005.jpg
《小林秀雄は言う。
「ドゥルーズという若い人がいてね、この人の『ベルクソニスム』という本は
なかなかいい。ベルクソンの影響された当のものは、プラトンしかない、
と言っているんだな。つまり『持続』なんだよ、要するに、こう流れる、
これは『歴史』なんだよ」》(郡司勝義『小林秀雄の思ひ出』262頁)
近年雑誌で大澤信亮氏も小林秀雄の蔵書で赤線の引かれた『ベルグソンの哲学』を確認したと報告している。
それを確かめに某大学にある小林文庫の該当書を調べに行ってみた。
136頁中約60頁に赤鉛筆または青い万年筆による棒線があった。鉛筆によるものも数カ所あった。
文字の書き込みは以下のなかにあるものがすべてである。
『ベルクソンの哲学』ジル・ドゥルーズ著 宇波彰訳 法政大学出版 1974
Gilles Deleuze ,LE BERGSONISME, 1966
(小林秀雄の書き込みは第三章前半、第四章全体に多い。第五章も全体にラインが多い。)
第三章「過去といふ永遠なる存在」56-7
http://1.bp.blogspot.com/-2s2dRQ_mjkM/UWe8Y2VZh-I/AAAAAAAAUhE/rba1cYzvNp8/s1600/kobayashi.jpg
「言語の意味」58-9
http://1.bp.blogspot.com/-USOwW2wZ-vA/UWe8PtCaSKI/AAAAAAAAUg0/qYBYnBd99G4/s1600/kobayashi_0001.jpg
「円錐体」「プラトン」60-1
http://2.bp.blogspot.com/-3vPFXVPNQ7o/UWe8Pni3JHI/AAAAAAAAUg4/qcLFrQGHUf4/s1600/kobayashi_0002.jpg
第四章「一元論」80-1
http://4.bp.blogspot.com/-ZrbYwFOcigk/UWe8ZS-b_gI/AAAAAAAAUhM/O-azkmWDt5A/s1600/kobayashi_0003.jpg
「対象との共存」84-5
http://3.bp.blogspot.com/-kykySwJwLxo/UWe8mY8tTTI/AAAAAAAAUhk/ZmubA4jpvQ0/s1600/kobayashi_0005.jpg
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