NAMs出版プロジェクト: アリストテレスと四大元素:付リンク::::
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/blog-post_1706.html
ポルフィリオスの樹
ゲーデルとライプニッツ:付リンク::::
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/blog-post_407.html
NAMs出版プロジェクト: ライプニッツ『人間知性新論』とロック『人間悟性論』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/11/blog-post_11.html
ヒューム:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_07.html
ルイス・キャロルの論理ゲーム:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html
必要条件、十分条件、図解
https://nam-students.blogspot.com/2019/05/blog-post_25.html
グラフ理論(ケーニヒスベルクの橋)関連:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/blog-post_11.html
ウィトゲンシュタイン 哲学探究
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
NAMs出版プロジェクト: QUINE-DERRIDA
http://nam-students.blogspot.jp/2010/02/quine-derrida.html
レビュー:カント全集〈17〉論理学・教育学
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/the-periodic-table-of-elements.html
「箭の喩えの経」とカント
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_6.html
ボルツァーノ 『知識学(Wissenschaftslehre)』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/wissenschaftslehre.html
NAMs出版プロジェクト: 哲学入門 (ちくま新書) 戸田山 和久 (著):書評
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html
NAMs出版プロジェクト: 「にくを くわえた 犬」論理学入門?
http://nam-students.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html
参考:
ミルの論理学
http://yojiseki.exblog.jp/10263714/
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
|| /|\ /\
\/ | \ ||
法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
ヒュームを受け継ぐミルの論理学は自由連想法を含み、フロイトも影響を受けた。
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/blog-post_407.html
NAMs出版プロジェクト: ライプニッツ『人間知性新論』とロック『人間悟性論』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/11/blog-post_11.html
ヒューム:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_07.html
ルイス・キャロルの論理ゲーム:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html
必要条件、十分条件、図解
https://nam-students.blogspot.com/2019/05/blog-post_25.html
グラフ理論(ケーニヒスベルクの橋)関連:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/blog-post_11.html
NAMs出版プロジェクト: 墨子:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_15.html
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_15.html
NAMs出版プロジェクト: インド唯名論と実在論:再送
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_30.html
ダブルバインド(Double bind)Bateson, G.1956
http://nam-students.blogspot.jp/2017/02/double-bindbateson-g1956.html
現代思想の古層と表層のダイアグラム 近藤和敬 (改)
http://nam-students.blogspot.jp/2018/01/blog-post_92.htmlウィトゲンシュタイン 哲学探究
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/jp/index.html
NAMs出版プロジェクト: ショーペンハウアーとウィトゲンシュタイン
http://nam-students.blogspot.jp/2012/08/blog-post_28.html
NAMs出版プロジェクト: 「論理哲学論考」 Tractatus Logico-Philosophicus
http://nam-students.blogspot.jp/2017/01/tractatus-logico-philosophicus.htmlNAMs出版プロジェクト: QUINE-DERRIDA
http://nam-students.blogspot.jp/2010/02/quine-derrida.html
レビュー:カント全集〈17〉論理学・教育学
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/the-periodic-table-of-elements.html
「箭の喩えの経」とカント
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_6.html
ボルツァーノ 『知識学(Wissenschaftslehre)』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/wissenschaftslehre.html
NAMs出版プロジェクト: 哲学入門 (ちくま新書) 戸田山 和久 (著):書評
http://nam-students.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html
NAMs出版プロジェクト: 「にくを くわえた 犬」論理学入門?
http://nam-students.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html
帰納と演繹:ミル『論理学体系』再考
参考:
ミルの論理学
http://yojiseki.exblog.jp/10263714/
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
|| /|\ /\
\/ | \ ||
法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
ヒュームを受け継ぐミルの論理学は自由連想法を含み、フロイトも影響を受けた。
K.Kengo (@KKnagomi)
返信削除2013/04/18 9:11
「私たちは一体どんな日本の未来をイメージするのか、政治家はそれを国民に語り、私たちがそれを議論して初めてTPP参加か否かが判断されなければなりません。
弱肉強食の競争社会なのか、相互扶助の社会なのか。」出口汪 amba.to/YlWwbp
2013/04/22 1:41
出口汪『論理とは何か?その1』 amba.to/ZHjy8F
<書店には、アメリカから輸入した難しい論理…そうした本で論理力が身につき、人生が変わったという話しを、私は聞いたことがない。…いくら難しいパズルを解いたところで、言葉の使い方が変わることがないからだ。>
返信削除http://ajes.blog.so-net.ne.jp/2011-06-15
1936年の『想像力』の中でサルトルは、心象(心的な像)を意識の中にある対象とみなす見方を「素朴な存在論」による心象の事物化として退け、ある特定の仕方で意識の外部の対象に向かう意識の在り方(ある特定の志向的構造)が「心象」と呼ばれているのだと考えた。更に彼は、心象についての議論を画像についての議論へと接続し、意識が画像を(一つの物体として知覚するのではなく)像として捉えるとき、つまりその画像が表象する対象を意識するとき、その意識は「心象」の場合と同様の志向的構造を有していると考えた。つまり、「心象」という経験をする場合も、画像を「像として」経験する場合も、どちらも意識が「像形成的」に作用しており、両者の違いはヒュレーの違いに基づくと考えたのである。ここで、画像の像経験のヒュレーは感覚与件であるとされたが、心的な像経験のヒュレーが何であるかは確定されず、これが課題として残された。
以上のことを踏まえて、1940年の『想像的なもの』(邦訳『想像力の問題』)におけるこの課題へのサルトルの取り組みを、フッサール自身の取り組みと比較しながら検討した結果、暫定的にではあるが、次のような結論に達した。
サルトルは「心象は意識である」(心象は意識の中にある対象ではなく意識それ自体である)というスローガンを掲げた。そして像一般(画像と心象)を意識の作用として定義した。しかし彼は、像経験のヒュレーとしての「類似的表象体」を(画像の場合は物理的媒体として、心象の場合は意識における超越として)実体化して解明しようとした。一方フッサールは、紆余曲折を経ながらも、「感覚もファンタスマも既に意識である」と言い(「感覚」は知覚および像意識のヒュレー、「ファンタスマ」は空想ないし心象のヒュレー)、ヒュレーの実体化を回避する。このフッサールの視点は、サルトルが自分の当初の姿勢(「素朴な存在論」に対する批判)に忠実であれば、当然到達せざるをえなかったはずの視点であるように思われる。
意識が世界を如何に受け止めるのかという問題設定を維持し、想像する意識を具体的に論じようとしたサルトルと、意識の外部を前提せずに経験の構造を解明しようとし、ヒュレーを最初から「機能上の概念」とみなしたフッサール。この差異が、心的な像経験のヒュレーに対する捉え方を左右したように思われる。(荒金直人)
アリストテレスは、ヒューレー(質料、現代風に言うと“ 素材”)とエイドス(形相)という概念を用いて様々なことを説明した
返信削除レビュー対象商品: 世界の大思想〈第26巻〉ラッセル (1966年)社会改造の諸原理 数理哲学入門 自由人の信仰 他 (単行本)
返信削除本書に収録された『数理哲学入門』がおすすめ。
『プリンキア・マテマティカ』の入門編だが、ラッセルはこれを反戦活動で入獄させられている時に書いたそうだ。
数理哲学とは複雑化する数学とは違い、もっと基礎的な数に対する定義を問題にした学問だ。
この論考における集合論の援用や、無限の概念に関するラッセルの考え方には今日では様々な議論があるだろうが、数学と論理学の関係についての基礎的な文献だと言える。
(岩波文庫のバージョンより読みやすい。)
また、平和・社会運動、歴史学研究といったラッセルの別の側面も他の収録作品から読み取ることができる。(ラッセルが消費協同組合と生産協同組合の違いについてちゃんと書いていたのには驚いたし、教育に関してモンテッソーリの名前がでていたことにも驚いた。)
一世を風靡した著名人なので逆に過小評価されがちなラッセルだが、ラッセルの全体像を知りたい向きにはちょうど良い本だ。
2010年01月12日
返信削除[エドムンド・フッサールの現象学と『ノエシス・ノエマ』:2]
エドムンド・フッサールの現象学と『ノエシス・ノエマ』:2
この項目は、[前回の記事]の続きです。現象学的還元によって、私たちが当たり前の現実として認識している『事実的世界(現象世界)』が括弧に入れられて保留されることになるが、事実的世界の本質を抽出した後(エポケーした後)に残る意識が『純粋意識』である。生活世界の周囲にある対象(事物)は『感覚的ヒュレー』という素材によって成り立っているが、感覚的ヒュレーの特徴は志向性(作用性)を持たないということである。
対象(事物)がどういった意味や内容を持つのかは、感覚的ヒュレーにどのような意味づけ・解釈が為されるのかによって決まるが、感覚的ヒュレーに作用する志向性が『ノエシス』である。ノエシスは『志向するもの・志向作用』であり、ノエマは『志向されるもの・志向内容』であるが、ノエシスの意識作用によって無機的・無内容な感覚的ヒュレーに何らかの意味・価値が付与されることになる。
ノエシスが対象に作用することを『ノエシス的契機』と呼ぶことがあり、ノエシス的契機によって『概念的・感情的・表象的・意思的な意味づけ(意味付与)』が行われるのである。
ノエシス的契機の意識作用には、それ以外にも『確信・推測・判断・計画などの信憑作用』もあり、ノエシスの志向性によって感覚的ヒュレーの意味論的なレベルの認識が成立するのである。『ノエシス的契機』と対になる相関概念として『ノエマ的内実』があるが、ノエマ的内実とは『志向されるもの・志向される意味や概念』のことである。
『ノエマ・ノエシス』は純粋意識の二つの側面であり、志向される内容としてのノエマ的内実は『対象・事物そのもの(物理的なもの)』ではない。ノエマは意識レベルの『志向された内容・意味』であり、ノエシス的契機の多様性に応じて『知覚・想像・表象・虚構・仮構・生き生きとした現実の反映』などさまざまな形を取る。生き生きとした現実を完全に反映した志向内容のことを『全きノエマ』と呼ぶこともあるが、全きノエマを意識するための体系的・技術的な方法論は開発されていない。
E.フッサールの『現象学』は、存在(事象)の本質や純粋意識の形式に接近するための方法論であり、諸学問(精密学としての自然科学)の認識論の基礎づけを論理的に行うための『厳密学』としての性格を持っている。超越論的現象学は『事象そのもの』を解明するための『意識の哲学(志向性の哲学)』として理解することができ、フッサールが考案した『ノエシス‐ノエマの純粋意識の相関構造』は分析哲学や実存主義哲学にも多くの示唆・気づきを与えている。
タグ:哲学 現象学 フッサール 認識論
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ミルの論理学
ミルの論理学
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
/|\
↓ | \ ↑
法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
◯ 演 /法 段|遍 自\ 法 ◯
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 ◯ 論 の|然 類\ ◯ 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 ◯/_________提|__________\◯ 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の ◯ | ◯ の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミルは上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
ヒュームを受け継ぐミルの論理学は自由連想法を含み、フロイトも影響を受けた。
by yojisekimoto | 2010-03-24 14:41 | 研究 | Trackback | Comments(5)
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Commented by yojisekimoto at 2010-03-25 18:02
普 遍 法 則
(大前提)
/\
演 繹 法 ↓/ \↑帰 納 法
/____\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
Commented by yojisekimoto at 2010-03-25 18:09
普 遍 法 則
(大前提)
deduction /\ induction
/ \
演 繹 法 ↓ / \↑帰 納 法
/______\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
Commented by yojisekimoto at 2010-03-25 19:24
普 遍 法 則
(大前提)
deduction /\ induction
演 繹 法 ↓/ \↑帰 納 法
/____\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
Commented by yojisekimoto at 2010-03-25 21:00
普 遍 法 則
(大前提)
deduction /\ induction
演 繹 法 ↓ / \↑帰 納 法
/____\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
Commented by clonecd834 at 2011-05-12 19:10 x
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演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
/|\
↓ | \ ↑
法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
◯ 演 /法 段|遍 自\ 法 ◯
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 ◯ 論 の|然 類\ ◯ 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 ◯/_________提|__________\◯ 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の ◯ | ◯ の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミルは上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
ヒュームを受け継ぐミルの論理学は自由連想法を含み、フロイトも影響を受けた。
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演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
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法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 ◯
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ ◯ 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\◯ 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | ◯ の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミルは上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
ヒュームを受け継ぐミルの論理学は自由連想法を含み、フロイトも影響を受けた。
返信削除http://yojiseki.exblog.jp/10263714/
ミルの論理学
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
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法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミルは上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
ヒュームを受け継ぐミルの論理学は自由連想法を含み、フロイトも影響を受けた。
返信削除参考:
ミルの論理学
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演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
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法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
ヒュームを受け継ぐミルの論理学は自由連想法を含み、フロイトも影響を受けた。
ミル論理学の図解は「理性による真の推理」を別物として図示している点が優れている
返信削除_______________________
返信削除| | |
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| 国家 | ネーション |
| B | A |
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| | |平
|___________|___________|
| | |等
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| 資本 | アソシエーション |
| C | D X |
| | |
| | |
|___________|___________|
自 由
『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照。
反時計回りが帰納
時計回りが演繹
ligaが帰納
返信削除agilが演繹
g i
a l
返信削除215 : :sage :13/10/29 11:29
哲学 / 柄谷行人を解体する47 - 情報
>>710
柄谷行人:
_________________
| | |
| S | I |
| 国家 | ネーション |
| B | A |
| 共同幻想 | 個人幻想 |平
|________|________|
| | |等
| R | |
| 資本 |アソシエーション|
| C | D X |
| 対幻想 | |
|________|________|
自 由
『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照、改変。
>>710の図形と上の図形との関係は、下記の図形とその展開図を考えればいい。
吉本の欠点はアソシエーションの位置がわかりにくいということだ。
______
/ 悟性 /|
/_____/想|
| |像|
| 感性 |力|
| | /
|_____|/
個人幻想と対幻想は入れ替わり得る
返信削除
返信削除参考:
ミルの論理学
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演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
// /|\ __
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法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
ヒュームを受け継ぐミルの論理学は自由連想法を含み、フロイトも影響を受けた。
_________________
| | |
| S | I |
| 国家 | ネーション |
| B | A |
| 共同幻想 | 個人幻想 |平
|________|________|
| | |等
| R | |
| 資本 |アソシエーション|
| C | D X |
| 対幻想 | |
|________|________|
自 由
『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照。
反時計回りが帰納
時計回りが演繹
ligaが帰納
agilが演繹
g i
a l
返信削除参考:
ミルの論理学
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演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
// /|\ __
\__ | \ l\\
法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
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| 国家 | ネーション |
| B | A |
| | |平
|________|________|
| | |等
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| 資本 |アソシエーション|
| C | D X |
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自 由
『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照。
反時計回りが帰納
時計回りが演繹
ligaが帰納
agilが演繹
g i
a l
パーソンズのは基本はAGILシステム図。
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|L Latency 潜在性 |Integration 統合 I |
|ーーーーーーーーーーーーーー+ーーーーーーーーーーーーーーーーー|
| | G |
|A Adaptation適応|Goal Attainment目標|
|______________|_________________|
柄谷行人の4つの交換図はパーソンズの社会システムに対応している。
> _____________
> |lll | lli|
> |信託システム|共同体共同体|
> |ーーーーーー+ーーーーーー| 社会システム
> |lla 経済|政治 llg|
> |______|______|
人間的でない| 人間的
契 |
約 ステート | ネーション
な g | i
し |
________|________
あ キャピタル | アソシエーション
り a | l
|
柄谷行人の交換図↑はlとgがパーソンズと逆。igal図式と呼べる。パーソンズの場合、契約の有無ではなくmessage/codeで分けられる。)
返信削除参考:
ミルの論理学
http://yojiseki.exblog.jp/10263714/
演繹(deduction) 帰納( induction)
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____←_真__の_|_推__理______
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識 O 提|/ O 識 一 則
現 | 現
象 | 象
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事 | 事
実 | 実
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
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法 / | \ 帰
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J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
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自 由
『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照。
反時計回りが帰納
時計回りが演繹
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agilが演繹
g i
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パーソンズのは基本はAGILシステム図。
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|L Latency 潜在性 |Integration 統合 I |
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|A Adaptation適応|Goal Attainment目標|
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柄谷行人の4つの交換図はパーソンズの社会システムに対応している。
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> |信託システム|共同体共同体|
> |ーーーーーー+ーーーーーー| 社会システム
> |lla 経済|政治 llg|
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人間的でない| 人間的
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約 ステート | ネーション
な g | i
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あ キャピタル | アソシエーション
り a | l
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柄谷行人の交換図↑はlとgがパーソンズと逆。igal図式と呼べる。パーソンズの場合、契約の有無ではなくmessage/codeで分けられる。)
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ミルの論理学
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演繹(deduction) 帰納( induction)
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____←_真__の_|_推__理______
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現 | 現
象 | 象
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事 | 事
実 | 実
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
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法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
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識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
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J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
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自 由
『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照。
反時計回りが帰納
時計回りが演繹
ligaが帰納
agilが演繹
g i
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パーソンズのは基本はAGILシステム図。
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|L Latency 潜在性 |Integration 統合 I |
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|A Adaptation適応|Goal Attainment目標|
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柄谷行人の4つの交換図はパーソンズの社会システムに対応している。
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> |ーーーーーー+ーーーーーー| 社会システム
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柄谷行人の交換図↑はlとgがパーソンズと逆。igal図式と呼べる。パーソンズの場合、契約の有無ではなくmessage/codeで分けられる。)
返信削除参考:
ミルの論理学
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演繹(deduction) 帰納( induction)
諸 | 諸
事 | 事 自 因
物 O | O 物 然 果
・ ____←_真__の_|_推__理______ ・ の←の
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演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
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法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
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| 資本 |アソシエーション|
| C | D X |
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自 由
『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照。
反時計回りが帰納
時計回りが演繹
ligaが帰納
agilが演繹
g i
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パーソンズのは基本はAGILシステム図。
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|L Latency 潜在性 |Integration 統合 I |
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|A Adaptation適応|Goal Attainment目標|
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柄谷行人の4つの交換図はパーソンズの社会システムに対応している。
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> |信託システム|共同体共同体|
> |ーーーーーー+ーーーーーー| 社会システム
> |lla 経済|政治 llg|
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人間的でない| 人間的
契 |
約 ステート | ネーション
な g | i
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あ キャピタル | アソシエーション
り a | l
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柄谷行人の交換図↑はlとgがパーソンズと逆。igal図式と呼べる。パーソンズの場合、契約の有無ではなくmessage/codeで分けられる。)
返信削除ミルの論理学
http://yojiseki.exblog.jp/10263714/
演繹(deduction) 帰納( induction)
諸 | 諸
事 | 事 自 因
物 O | O 物 然 果
・ ____←_真__の_|_推__理______ ・ の←の
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演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
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自 由
←演繹 帰納⤴︎
『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照。
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自 由
←演繹 帰納⤴︎
『世界史の構造』15頁、定本『トランスクリティーク』425頁(文庫版415頁)参照。
帰納( induction) 演繹(deduction)
返信削除諸 | 諸
事 | 事
物 O | O 物
・ ______真__の_|_推__理→_____ ・
意 \ | / 意
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\\| 似\ 則|前 /法 //\
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|
帰納法 | 演繹法
(既知の事例より未知の事例へ)(帰納的推理の記録の解釈)
事実の発見(観察・実験・説明) 事実の検証
自然の類似 | 三段論法の法則
返信削除帰納( induction) 演繹(deduction)
諸 | 諸
因 自 事 | 事
果 然 物 O | O 物
の→の ・ ______真__の_|_推__理→_____ ・
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O \|/ O
|
帰納法 | 演繹法
(既知の事例より未知の事例へ)|(帰納的推理の記録の解釈)
事実の発見(観察・実験・説明)| 事実の検証
自然の類似 | 三段論法の法則
返信削除帰納( induction) 演繹(deduction)
諸 | 諸
因 自 事 | 事
果 然 物 O | O 物
の→の ・ ______真__の_|_推__理→_____ ・
法 斉 意 \ | / 意
則 一 識 O \ | / O 識
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事 法 然\ 自|法 /論 法 事
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O \|/ O
|
帰納法 | 演繹法
(既知の事例より未知の事例へ)|(帰納的推理の記録の解釈)
事実の発見(観察・実験・説明)| 事実の検証
自然の類似 | 三段論法の法則
ボールが落ちて来る
返信削除ボールが弾む
観察と予測に似ている
返信削除[モナドロジー]+(エチカ):
1実体
/\
[神] 系列 (無限) [論理]
/_無限定_\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 (完全性)至福/
\ (悪)/___2b様態\____\(善) /
\(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/
\/ 憎しみ \努力/(愛) \/
/\対象/ /[調和]\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\
/ 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的
神/__[襞]_\___\/_第三種認識____\自然
[動物] \ 4理性 / [魂]
[欲求] \[基礎]/ [表象]
[精神] \ (徳)/ [多様性]
[神の国] \/ [モナド]
5自由
返信削除予定調和説
最善説
/ \
/ \
無窓説 無窓説
/ 予定説 \
/ ① \デカルト
思惟/汎心論①①①①①動力学\延長説
ライプニッツ
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
/|\
↓ | \ ↑
法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
◯ 演 /法 段|遍 自\ 法 ◯
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 ◯ 論 の|然 類\ ◯ 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 ◯/_________提|__________\◯ 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の ◯ | ◯ の
事 | 事
実 | 実
返信削除(p)http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c298
298. 私たちは「重要なのはこれだ」と ―― 自分自身に対して感覚を指しながら
―― 実に好んで言いたがる。 ―― このことからして既に、私たちには、何の情報
も伝えないことを言う強い傾向があることを示している。
(p)http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html#LocalLink-c309
309. 哲学における君の目的は何か? ―― 蝿に蝿取り壺からの出口を示してやること。
普 遍 法 則
返信削除↓(大前提)
deduction /|\ induction
演 繹 法 / | \↑帰 納 法
/__|__\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
普 遍 法 則
返信削除↓(大前提)
deduction /|\ induction
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/__|__\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
普 遍 法 則
返信削除↓(大前提)
deduction /|\ induction
演 繹 法/ | \↑帰 納 法
/__|__\
(事実) ← (事実)
真 の 推 理
ホワイトヘッド
返信削除ライルが『心の概念』において、心身二元論を大学とその建物という比喩でカテゴリーミステイクとして批判したのは、明らかにホワイトヘッドからの剽窃だ。邦訳著作集第4巻『自然という概念』所収の「自然と思考」は、ライルのようにデカルトを悪者にしているだけではなく、経験といったものの質を如何に拾い上げるかという根本的な議論をしている。これを読んではじめてドゥルーズのホワイトヘッド賞讃の理由が分かったような気がした。
さて、クワイン等も直接および間接的にホワイトヘッドから影響を受けているが、その可能性を厳密性と引き換えに閉ざしてしまった観がある。クワインの「自然化された認識論」も、認識論を自然科学へ手渡してしまっただけで、ホワイトヘッドの意図とは結果的に真逆になってしまった(ドゥルーズは何よりも出来事の哲学としてホワイトヘッドを賞讃したのだが、それは論理学の中に閉じ込めることは出来ない種類のものなのだ)。
先に言及した後続の哲学者による剽窃の例は、アドルノとジジェクの関係にも見られる。
むろんヘーゲリアンとして開き直るジジェクとアドルノでは立場は少し違う。アドルノの理論の縮小再生産はアドルノ自身にも原因がある。結局アドルノは本格的なヘーゲル論を書くべきだったと思う。それを書かなかったからジジェクのようなヘーゲリアンがレトリックとして気軽にヘーゲルを使うようになるのだ。
スピノザからニーチェへの影響、ライプニッツから論理哲学への影響等も更なる例としてあげられ得るが、哲学史には自明となってしまたまま隠蔽された剽窃と言うべき事件、出来事が我々の想像以上に多いような気がする。
http://yojiseki.exblog.jp/10520516/
ライルが『心の概念』において、心身二元論を大学とその建物という比喩でカテゴリーミステイクとして
返信削除批判したのは、明らかにホワイトヘッドからの剽窃だ。邦訳著作集第4巻『自然という概念』所収の
「自然と思考」は、ライルのようにデカルトを悪者にしているだけではなく、経験といったものの質を如
何に拾い上げるかという根本的な議論をしている。これを読んではじめてドゥルーズのホワイトヘッド賞
讃の理由が分かったような気がした。
さて、クワイン等も直接および間接的にホワイトヘッドから影響を受けているが、その可能性を厳密性と引き換えに閉ざしてしまった観がある。クワインの「自然化された認識論」も、認識論を自然科学へ手渡してしまっただけで、ホワイトヘッドの意図とは結果的に真逆になってしまった(ドゥルーズは何よりも出来事の哲学としてホワイトヘッドを賞讃したのだが、それは論理学の中に閉じ込めることは出来ない種類のものなのだ)。
ライルが『心の概念』において、心身二元論を大学とその建物という比喩でカテゴリーミステイクとして
返信削除批判したのは、明らかにホワイトヘッドからの剽窃だ。邦訳著作集第4巻『自然という概念』所収の
「自然と思考」は、ライルのようにデカルトを悪者にしているだけではなく、経験といったものの質を如
何に拾い上げるかという根本的な議論をしている。これを読んではじめてドゥルーズのホワイトヘッド賞
讃の理由が分かったような気がした。
さて、クワイン等も直接および間接的にホワイトヘッドから影響を受けているが、その可能性を厳密性と
引き換えに閉ざしてしまった観がある。クワインの「自然化された認識論」も、認識論を自然科学へ手渡
してしまっただけで、ホワイトヘッドの意図とは結果的に真逆になってしまった(ドゥルーズは何よりも出
来事の哲学としてホワイトヘッドを賞讃したのだが、それは分析哲学の中に閉じ込めることは出来ない種類の
ものなのだ)。
返信削除参考:
ミルの論理学
演繹(deduction) 帰納( induction)
演繹法 | 帰納法
(帰納的推理の記録の解釈)|(既知の事例より未知の事例へ)
事実の検証 | 事実の発見(観察・実験・説明)
三段論法の法則 | 自然の類似
|| /|\ /\
\/ | \ ||
法 / | \ 帰
繹 則 三|普 \ 納
O 演 /法 段|遍 自\ 法 O
諸 の 論|的 然\ 諸
事 /法 法|自 の\ 事 自 因
物 O 論 の|然 類\ O 物 然 果
・ /段 大|法 似\ ・ の←の
意 三 前|則 \ 意 斉 法
識 O/_________提|__________\O 識 一 則
現 ← 真 の | 推 理 現
象 | 象
の O | O の
事 | 事
実 | 実
J.S.ミル(John Stuart Mill, 1806 - 1873)は上の図における形式的な演繹法(図:左側)よりも、実質的な
帰納法(図:右側)を重視
した(とはいえそれは理性による真の推理とは異なる)。
「我々は帰納による以外には『普遍』を知ることができない。なぜならば抽象的な思考
によって到達された概念を理解せしめ得るのは帰納によってのみである。」
(「分析論」後篇1部18章、白水社『ミル推理論』35、38頁より、竹田加壽雄作成の図を参照)
ヒュームを受け継ぐミルの論理学は自由連想法を含み、フロイトも影響を受けた。
返信削除http://mathworld.wolfram.com/images/eps-gif/WhiteheadLink_1000.gif
The Whitehead link has linking number 0. It was discovered by Whitehead in 1934 (
Whitehead 1962, pp.?21-50) as a counterexample to a piece of an attempted proof
of the Poincar? conjecture (Milnor).
http://mathworld.wolfram.com/WhiteheadLink.html
返信削除_
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http://mathworld.wolfram.com/images/eps-gif/WhiteheadLink_1000.gif
7:59 午前
yoji さんは書きました...
http://en.wikipedia.org/wiki/Whitehead_link
8:04 午前
神は死んだ(ニーチェもね)。
返信削除いまや世界のありようを解明するのは科学である。万物は詰まるところ素粒子のダンスにすぎないのだ。
こうした世界観のもとでは、哲学が得意げに語ってきたものたちが、そもそも本当に存在するのかさえ疑わしい。
「ことばの意味とは何か」「私たちは自由意志をもつのか」「道徳は可能だろうか」、そして「人生に意味はあるのか」……
すべての哲学問題は、根底から問い直される必要がある!
科学が明らかにした世界像のただなかで人間とは何かを探究する、最もラディカルにして普遍的な入門書。
他に類を見ない傑作です。
出版社からのコメント
序 これがホントの哲学だ
第1章 意 味
第2章 機 能
第3章 情 報
第4章 表 象
第5章 目 的
第6章 自 由
第7章 道 徳
人生の意味――むすびにかえて
参照文献と読書案内
あとがきまたは謝辞または挑戦状
http://www.amazon.co.jp/哲学入門-ちくま新書-戸田山-和久/dp/448006768X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1396278545&sr=8-1&keywords=戸田山+哲学入門
第6章 自 由 第7章 道 徳
返信削除第5章 目 的
第2章 機 能 第1章 意 味
第3章 情 報 第4章 表 象
第6章 自 由 第7章 道 徳
第5章 目 的
第2章 機 能 第1章 意 味
第3章 情 報 第4章 表 象
経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
返信削除その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
戸田山哲学入門は以下になる。
第1章 意 味
第2章 機 能
第3章 情 報
第4章 表 象
第5章 目 的
第6章 自 由
第7章 道 徳
________
第4章 表 象/ 社会システム
/___/___/ |
第1章 意 味/第2章 機 能 |
/___/___/ |
| | |行為システム
| | | |
____|___|___|___|
/ | / /| /
/第7章 道 徳| /_第3章 情 報 /
/ |/ / |/
/_______|___/___|生命システム
/ / /
/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
/ / /
/_______/_______/
経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
返信削除その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
戸田山哲学入門はパーソンズを応用すると以下になる。ipad以下は文字化けする。
第1章 意 味
第2章 機 能
第3章 情 報
第4章 表 象
第5章 目 的
第6章 自 由
第7章 道 徳
________
第4章 表 象/ 社会システム
/___/___/ |
第1章 意 味/第2章 機 能 |
/___/___/ |
| | |行為システム
| | | |
____|___|___|___|
/ | / /| /
/第7章 道 徳| /_第3章 情 報 /
/ |/ / |/
/_______|___/___|生命システム
/ / /
/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
/ / /
/_______/_______/
返信削除ルーマン パーソンズ
社会システム 一般行為システム
貨幣 (A)貨幣 知能 行動
権力 (G)権力 自我の能力 パーソナリティ
(遂行能力)
愛 (I)影響力 > 集合感情 社会
(感情)
真実 (L)価値委託 集合表象 文化
(状況の定義)
一般化されたメディアの対比
(T・パーソンズ『社会システムの構造と変化』1984年、創文社p.34より)
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
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/信託シ/社会的共同体
/ステム/___/ |
/ 経済/ 政治/ 社会システム
/___/___/ |
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/ | / /| /|
/文化 | /___/_|_/ |
/システム |/ / |/ |
/_______|___/___| 行為システム
/ / / |
/行動システム /パーソナリティ/ |
/ / システム / |
/_______/_______/ |
| | | |
生命システム
経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
返信削除その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを応用すると以下になる。ipad以下は文字化けする。
第1章 意 味
第2章 機 能
第3章 情 報
第4章 表 象
第5章 目 的
第6章 自 由
第7章 道 徳
________
第4章 表 象/ 社会システム
/___/___/ |
第1章 意 味/第2章 機 能 |
/___/___/ |
| | |行為システム
| | | |
____|___|___|___|
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/第7章 道 徳| /_第3章 情 報 /
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/_______|___/___|生命システム
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
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返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを応用すると以下になる。ipad以下は文字化けする。
第1章 意 味
第2章 機 能
第3章 情 報
第4章 表 象
第5章 目 的
第6章 自 由
第7章 道 徳
人生の意味――むすびにかえて
第4章 表 象/ 第3章 情 報
/___/___/ |
第1章 意 味/第2章 機 能 |
/___/___/ |
| | |行為システム
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/人生の意味| /_第7章 道 徳 /
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
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返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを応用すると以下になる。ipad以下は文字化けする。
第1章 意 味
第2章 機 能
第3章 情 報
第4章 表 象
第5章 目 的
第6章 自 由
第7章 道 徳
人生の意味――むすびにかえて
社会システム
________
第4章 表 象/ 第3章 情 報
/___/___/ |
第1章 意 味/第2章 機 能 |
/___/___/ |
| | |行為システム
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/人生の意味| /_第7章 道 徳 /
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
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返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを応用すると以下になる。ipad以下は文字化けする。
第1章 意 味
第2章 機 能
第3章 情 報
第4章 表 象
第5章 目 的
第6章 自 由
第7章 道 徳
人生の意味――むすびにかえて
社会システム
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第4章 表 象/ 第3章 情 報
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第2章 機 能/第1章 意 味 |
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返信削除社会システム
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第4章 表 象/ 第3章 情 報
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第2章 機 能/ 第1章 意 味|
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/人生の意味| /_第7章 道 徳 /
/ l |/ /i |/
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
/ a / g /
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社会システム
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第4章 表 象/ 第3章 情 報
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第2章 機 能/ 第1章 意 味|
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| | |行為システム
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/人生の意味| /_第7章 道 徳 /
/ l |/ /i |/
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
/ a / g /
/_______/_______/
ンズ
____キャピタル ☆☆
/________/|
ネーション ステート |
| | | |
| | 柄谷行人 |
| | | 坂本龍馬
文学 | | |
| | | |
美術 | | |
| | ルソー | 正義論:犯罪 カント
映画| ____|_|______フーコー
| | /デュルケ|ム|l/ ウェーバーa/|
音楽 |/_____|_|/_______/パーソンズ
| / マルクスi| / フロイトg/ |
|/_______|/_______/ラカン|
| | 軍事 災害 | |
| | |アドルノ|
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
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例えば戸田山哲学入門はパーソンズを応用すると以下になる。ipad以外は文字化けする。
第1章 意 味
第2章 機 能
第3章 情 報
第4章 表 象
第5章 目 的
第6章 自 由
第7章 道 徳
人生の意味――むすびにかえて
社会システム
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第4章 表 象/ 第3章 情 報
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第2章 機 能/ 第1章 意 味|
/___/___/ |
| | |行為システム
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/人生の意味| /_第7章 道 徳 /
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
/ a / g /
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返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
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例えば戸田山哲学入門はパーソンズを応用すると以下になる。ipad以外は文字化けする。
第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
社会システム
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第4章 表 象/ 第3章 情 報
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第2章 機 能/ 第1章 意 味|
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| | |行為システム
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/人生の意味| /_第7章 道 徳 /
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
/ a / g /
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返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
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例えば戸田山哲学入門はパーソンズを応用すると以下になる。ipad以外は文字化けする。
第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
社会システム
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第4章 表 象/ 第3章 情 報
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第2章 機 能/ 第1章 意 味|
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
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返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
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例えば戸田山哲学入門はパーソンズを援用すると以下になる。
第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
社会システム
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第4章 表 象/ 第3章 情 報
/___/___/ |
第2章 機 能/ 第1章 意 味|
/___/___/ |
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/人生の意味| /_第7章 道 徳 /
/ l |/ /i |/
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
/ a / g /
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返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
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例えば戸田山哲学入門はパーソンズを援用すると以下になる。
社会システム
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第4章 表 象/ 第3章 情 報
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第2章 機 能/ 第1章 意 味|
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| | |行為システム
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/人生の意味| /_第7章 道 徳 /
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/ 第6章 自 由 / 第5章 目 的 /
/ a / g /
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第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
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例えば戸田山哲学入門はパーソンズを援用すると以下になる。
社会システム
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人生の意味/ 第7章 道 徳
/_il/_ii/ |
第6章 自 由/ 第5章 目 的|
/_ia/_ig/ |
| | |行為システム
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/第4章 表 象| /_第3章 情 報 /
/ l |/ /i |/
/_______|___/___|生命システム
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/第2章 機 能 / 第1章 意 味 /
/ a / g /
/_______/_______/
第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを援用すると以下になる。 社会システム
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人生の意味/ 第3章 情 報
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第6章 自 由/ 第5章 目 的|
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| | |行為システム
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/第4章 表 象| /_第7章 道 徳 /
/ l |/ /i |/
/_______|___/___|生命システム
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/第2章 機 能 / 第1章 意 味 /
/ a / g /
/_______/_______/
第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
3と7が逆であるべきだ。
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを援用すると以下になる。
社会システム
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人生の意味/ 第7章 道 徳
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第6章 自 由/ 第5章 目 的|
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| | |行為システム
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/第4章 表 象| /_第3章 情 報 /
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/第2章 機 能 / 第1章 意 味 /
/ a / g /
/_______/_______/
第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
3と7が逆であるべきだ。
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを援用すると以下になる。
社会システム
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第4章 表 象/ 第3章 情 報
/_il/_ii/ |
第6章 自 由/ 第5章 目 的|
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| | |行為システム
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/人生の意味| /_第7章 道 徳 /
/ l |/ /i |/
/_______|___/___|生命システム
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/第2章 機 能 / 第1章 意 味 /
/ a / g /
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第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
3,4と7,むすびは逆であるべきだ。
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを援用すると以下になる。 社会システム
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人生の意味/ 第3章 情 報
/_il/_ii/ |
第6章 自 由/ 第5章 目 的|
/_ia/_ig/ |
| | |行為システム
| | | |
____|___|___|___|
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/第4章 表 象| /_第7章 道 徳 /
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/第2章 機 能 / 第1章 意 味 /
/ a / g /
/_______/_______/
第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
3と7が逆であるべきだ。
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを援用すると以下になる。 社会システム
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人生の意味/ 第3章 情 報
/_il/_ii/ |
第6章 自 由/ 第5章 目 的|
/_ia/_ig/ |
| | |行為システム
| | | |
____|___|___|___|
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/第4章 表 象| /_第7章 道 徳 /
/ l |/ /i |/
/_______|___/___|生命システム
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/第2章 機 能 / 第1章 意 味 /
/ a / g /
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第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
3と7が逆であるべきだ。
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門はパーソンズを援用すると以下になる。
(社会システム)
行為システム
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人生の意味/ 第7章 道 徳
/_il/_ii/ |
第6章 自 由/ 第5章 目 的|
/_ia/_ig/ |
| | |生命システム
| | | |
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/第4章 表 象| /_第3章 情 報 /
/ l |/ /i |/
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/第2章 機 能 / 第1章 意 味 /
/ a / g /
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第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山哲学入門もパーソンズと重なる。
(社会システム)
行為システム
________
人生の意味/ 第7章 道 徳
/_il/_ii/ |
第6章 自 由/ 第5章 目 的|
/_ia/_ig/ |
| | |生命システム
| | | |
____|___|___|___|
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/第4章 表 象| /_第3章 情 報 /
/ l |/ /i |/
/_______|___/___|
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/第2章 機 能 / 第1章 意 味 /
/ a / g /
/_______/_______/
第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山『哲学入門』もパーソンズ体系と重なる。
(社会システム)
行為システム
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人生の意味/ 第7章 道 徳
/_il/_ii/ |
第6章 自 由/ 第5章 目 的|
/_ia/_ig/ |
| | |生命システム
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第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
表象は行為システム上にあるべきだ。方法論と対象が混同されている。
返信削除
返信削除経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山『哲学入門』もパーソンズ体系と重なる。
(社会システム)
行為システム
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人生の意味/ 第7章 道 徳
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第6章 自 由/ 第5章 目 的|
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第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
表象は行為システム上にあるべきだ。方法論と対象が混同されている。
意味と目的の世界 生物学の哲学から
返信削除叢書名 ジャン・ニコ講義セレクション ≪再検索≫
著者名等 ルース・G.ミリカン/著 ≪再検索≫
著者名等 信原幸弘/訳 ≪再検索≫
著者等紹介 【ミリカン】1933年生まれ。コネチカット大学名誉教授。
著者等紹介 【信原】1954年兵庫県生まれ。83年東京大学大学院理学系研究科科学史・科学基礎
論専攻博士課程単位取得退学。東京大学大学院総合文化研究科助教授。主著に「心の現代
哲学」など。
出版者 勁草書房
出版年 2007.1
大きさ等 20cm 361,18p
注記 Varieties of meaning./の翻訳
NDC分類 461.1
件名 生物学 ≪再検索≫
要旨 進化論の観点から、“心”と“言語”と“生物”を統一的に理解する。現代哲学に新しい
理論の地平を開く、自然主義の力強く透徹した思索。
目次 第1部 目的とその食い違い(人間の目的とその食い違い;ミームの目的とその食い違い
);第2部 自然的記号と志向的記号(局地的自然記号と情報;自然的記号における生産
性と埋めこみ ほか);第3部 外的な志向的記号(言語記号は自然的記号から出現する
;言語を介した直接知覚 ほか);第4部 内的な志向的記号(内的なオシツオサレツ;
対象の表象を分離する ほか)
内容 その生物の存続を可能にする「固有機能」を軸に、生物における「目的」と「意味」の様
相を開示し、心や言語を含めた生物の諸現象を包括的に捉える。ミリカン哲学のエッセン
スを、豊當な具体例でわかりやすく展開。
ISBN等
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5つ星のうち 5.0 バクテリアから人間の意識までを一貫させる雄大な構想 2007/5/29
By お気に召すまま トップ1000レビュアー
形式:単行本
面白い本が翻訳された。「表象」(=何か別のものを表現するもの)が、原始の地球に生まれ、育ち、進化し、人間の高度な言語や思考にまで進む数十億年の「表象の進化論」が描き出される。ある種のバクテリアは酸素の多い海水が苦手なので、細胞内の磁石が示すN極の方向へ動くことによって、酸素の少ない深い海へ移動できる。磁石のN極の方向と、酸素の少ない海水とは、何の因果関係もないので、この磁石は酸素の少ない海水のありかを「表象する(表現する、指示する)」原始的な自然記号である(p61)。因果関係ではなく、何かを「表現する」という機能は、自然そのものに起源をもつのだ。ミツバチのダンスは蜜の場所を「表現する」。このような「表現(表象)」は、事実がどうあるかという記述的側面と、それが記号を受け取る側に行動を促すという指令的側面がまだ分離せず、両者が一体となった自然記号である。著者はこれを「オシツオサレツ表象」と呼ぶ。人間の笑いや渋面も、このような原始的な自然記号である(216)。だが、こうした自然記号と、主語・述語の文のように真と偽がある志向的記号との間には、まだ大きなギャップがある。それを埋めようとする著者の苦闘と提案は実に独創的で示唆に富む。
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経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
返信削除その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山『哲学入門』もパーソンズ体系と重なる。
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第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
ミリカンのいう表象は広い意味で使われすぎる。道徳と情報は逆でいい。
経験主義と合理主義というよりも、想像力と判断力(分析哲学は主にこちらを扱う)が対になる。
返信削除その際、判断力がカテゴリー別に分けられてないと差異を排除しがちになる。
以下、パーソンズの体系(富永健一作成の図、『人間の条件パラダイム』所収より)
http://1.bp.blogspot.com/_u3hakHag62c/TFtCdy3AVOI/AAAAAAAAAkQ/Q4T4NIc-tzY/s1600/a0024841_102315.jpg
例えば戸田山『哲学入門』もパーソンズ体系と重なる。
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第1章 意 味/第2章 機 能/第3章 情 報/第4章 表 象/
第5章 目 的/第6章 自 由/第7章 道 徳/人生の意味――むすびにかえて
返信削除http://lawnbowls.blog.bai.ne.jp/?eid=196180
ドリトル先生が猿の国で一心不乱に治療と予防接種の投与を続けた結果、猿たちを苦しめていた伝染病は終息しました。猿たちはこの偉大な先生にいつまでも猿の国に留まって欲しいと願いますが、チーチーは先生がアフリカへ来る為にイギリスで借金を抱えていることを説明し、猿たちは知恵を出し合ってお礼を考えます。
その結果、ヨーロッパの動物園でも未だ飼われていない世にも珍しい2つの頭を持った珍獣・オシツオサレツを献上することになりました。
この「オシツオサレツ」という訳語は井伏鱒二のオリジナルで、原文では"pushmi-pullyu"("push me, pull you"が語源)とされています。但し、最初からこの訳語を思い付いていた訳ではないようで1951年以前の旧訳(光文社版『ドリトル先生アフリカ行き』、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)ではそのまま音訳して「プシュミプリュー」とされていました。本作を井伏鱒二に紹介した石井桃子(1907 - 2008)によれば、井伏は岩波少年文庫での改訳作業に際し「おしくらまんじゅう」に着想を得て「両方の頭と胴体が押しつ押されつ」しているという秀逸な訳語を思い付いたとされています。オリジナリティが際立ち過ぎるからか、他の日本語訳では余り継承されておらずソレオセヤレヒケ(訳・飯島淳秀、講談社文庫)、オシヒッキー(訳・麻野一哉、パブー)、フタマッタ(訳・小林みき、ポプラポケット文庫)、ボクコチキミアチ(訳・河合祥一郎、角川つばさ文庫)など様々に訳されています。
このオシツオサレツは非常に恥ずかしがりで、最初はイギリスへ渡って見世物になることを嫌がるのですがドリトル先生との初対面で「この人は信頼出来そうだ」と一目で見抜き、着いて行くことを承諾します。2つの頭は人格(?)を共有している訳ではなく、それぞれ別々に物事を考えられるのですが、一方の頭がおしゃべりをする時はもう一方の頭が草を食べ、また一方の頭が眠っている時はもう一方の頭が人間や肉食動物の襲撃を警戒すると言った具合に分業を徹底しており、頭同士で喧嘩になることはまず無いのだそうです。純血種の動物ではなく、母方の血統はアジア種の小カモシカで父方の曾祖父は絶滅してしまった一角獣(ユニコーン)の最後の一頭だったと言います。
こうしてドリトル家に新しい仲間が加わることになったのですが、猿の国を後にした先生たちは待ち伏せしていたジョリギンキの兵士たちに捕まり、再び投獄されてしまったのたでした。
さて、オシツオサレツは見た目のインパクトが強いことも有ってか後々の作品でもリスペクトされており、"pushmi-pullyu"ないし「オシツオサレツ」の名前を持つ双頭の動物が色々と登場します。一例を挙げると、コンピュータRPG「ウルティマVI 偽りの預言者」やアニメ「世紀末オカルト学院」第5話など。
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(7)──オシツオサレツ
返信削除猿の国を危機に陥れた伝染病を終息させたお礼に、猿たちは世にも珍しい双頭の動物──オシツオサレツをドリトル先生に献上します。
オシツオサレツとの初対面(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)
ドリトル先生が猿の国で一心不乱に治療と予防接種の投与を続けた結果、猿たちを苦しめていた伝染病は終息しました。猿たちはこの偉大な先生にいつまでも猿の国に留まって欲しいと願いますが、チーチーは先生がアフリカへ来る為にイギリスで借金を抱えていることを説明し、猿たちは知恵を出し合ってお礼を考えます。
その結果、ヨーロッパの動物園でも未だ飼われていない世にも珍しい2つの頭を持った珍獣・オシツオサレツを献上することになりました。
この「オシツオサレツ」という訳語は井伏鱒二のオリジナルで、原文では"pushmi-pullyu"("push me, pull you"が語源)とされています。但し、最初からこの訳語を思い付いていた訳ではないようで1951年以前の旧訳(光文社版『ドリトル先生アフリカ行き』、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)ではそのまま音訳して「プシュミプリュー」とされていました。本作を井伏鱒二に紹介した石井桃子(1907 - 2008)によれば、井伏は岩波少年文庫での改訳作業に際し「おしくらまんじゅう」に着想を得て「両方の頭と胴体が押しつ押されつ」しているという秀逸な訳語を思い付いたとされています。オリジナリティが際立ち過ぎるからか、他の日本語訳では余り継承されておらずソレオセヤレヒケ(訳・飯島淳秀、講談社文庫)、オシヒッキー(訳・麻野一哉、パブー)、フタマッタ(訳・小林みき、ポプラポケット文庫)、ボクコチキミアチ(訳・河合祥一郎、角川つばさ文庫)など様々に訳されています。
このオシツオサレツは非常に恥ずかしがりで、最初はイギリスへ渡って見世物になることを嫌がるのですがドリトル先生との初対面で「この人は信頼出来そうだ」と一目で見抜き、着いて行くことを承諾します。2つの頭は人格(?)を共有している訳ではなく、それぞれ別々に物事を考えられるのですが、一方の頭がおしゃべりをする時はもう一方の頭が草を食べ、また一方の頭が眠っている時はもう一方の頭が人間や肉食動物の襲撃を警戒すると言った具合に分業を徹底しており、頭同士で喧嘩になることはまず無いのだそうです。純血種の動物ではなく、母方の血統はアジア種の小カモシカで父方の曾祖父は絶滅してしまった一角獣(ユニコーン)の最後の一頭だったと言います。
こうしてドリトル家に新しい仲間が加わることになったのですが、猿の国を後にした先生たちは待ち伏せしていたジョリギンキの兵士たちに捕まり、再び投獄されてしまったのたでした。
さて、オシツオサレツは見た目のインパクトが強いことも有ってか後々の作品でもリスペクトされており、"pushmi-pullyu"ないし「オシツオサレツ」の名前を持つ双頭の動物が色々と登場します。一例を挙げると、コンピュータRPG「ウルティマVI 偽りの預言者」やアニメ「世紀末オカルト学院」第5話など。
返信削除http://d.hatena.ne.jp/charis/20070622
2007-06-22 ミリカン『意味と目的の世界』(7)
[読書] ルース・ミリカン『意味と目的の世界』(信原幸弘訳、勁草書房、07年1月刊)
哲学には、「事実から規範は導出できない」という古くからの難問がある。しかしミリカンはまったく逆に考える。そもそも記号(=表象)の起源は、「生物が、自己の生存に適する行動を指令されるように周囲の環境を知覚する」ことにあるのだから、ミツバチのダンスのように、事実を表象することと行動の指令は一体のものだ。環境の認知は、生存の必要性に合うように形成されたのであり、存在と当為はもともと分かれていない。人間のような高度に進化した動物だけが、事実認識と行動指令を分離する。だから、両者をいかにして繋げるかという問いは、転倒した問いなのである。むしろ我々は、生物の知覚と認知の進化の結果、どうして人間において両者が分離したのかと問うべきである。ミリカンは、本書第13~19章において、この分離の経過を追跡する。
彼女は言う。「ずばぬけて基礎的であるような種類の志向的記号は、私が<オシツオサレツ(pushmi-pullyu)記号>と呼ぶ記号である。・・それは、事実を表象することとその事実にふさわしい行動を指令することが差異化されていない記号である。それは一度に、事実を表象し、かつ指令を与える(つまり目標を表象する)。公共言語においてさえ、オシツオサレツ記号が見られる。たとえば、「だめよ、ジョニー、豆は指で食べないものよ」がそうである。私の知る限り、人間以外の動物のあいだで用いられる志向的記号はすべてオシツオサレツ記号である。」(p216)
「だめよ、ジョニー、豆は指で食べないものよ」という発言は、ジョニーが豆を指で食べているという事実を表象すると同時に、それをやめるよう指令しているオシツオサレツ記号なのである。オシツオサレツ記号は、きわめて原始的なところから始まり、動物の身体で働く化学的メッセンジャー(ある部位の化学的組成を探知し、その情報を信号として他の部位へ送り出し、必要な分泌を促す伝令)がそれである。そのような生物の体内信号から、「だめよ、ジョニー、・・・」のような発言に至るまでの遠大なスパンが、「オシツオサレツ記号」という一つの共通項で括られるところに、ミリカンの記号論の面白さがある。
http://d.hatena.ne.jp/tsuka_ryo/20110218/1298030080
返信削除2011-02-18
ルース・ギャレット・ミリカン『意味と目的の世界』
読書 | 20:54 |
分析哲学者とか認知心理学者が対象にしている、表象とか志向性とか心身問題などを扱う分野に興味があるけどこの2010年代に、身体になにやら魂が宿っているという二元論を主張し続ける覚悟もなく(今そんな主張してると電波とか呼ばれますマジで)、しかし「科学ではなくあくまで哲学の本がいい!」それでいて「だけどデネットやチャーチランドはみんな知ってるしなァ」という、そんなアナタにはルース・ギャレット・ミリカンをレコメンしたい。
ミリカンはアメリカ合衆国の哲学者で、クワインと双璧をなしアメリカを代表する*1哲学者ウィルフリド・セラーズのお弟子さんである。セラーズの弟子といえばマクダウェルやブランダムなどがいるが、こういう優秀な弟子を輩出しているのを見るとセラーズの偉大さを思わずにはいられない。
ミリカンは20世紀分析哲学を特徴づけていた概念分析という手法には頼らず理論構築という手法で哲学を行うので分析哲学者と呼んでいいものかどうか。
ミリカンの哲学は、心の志向性と言語の規範性を生物的な視点から自然化し、心――言語――生物諸現象 を統一的に理解しようというものだ。
オシツオサレツ(pushmi-pullyu)表象
ミリカンの特筆すべきキーワードは何といっても「オシツオサレツ(pushmi-pullyu)表象」*2だと思う。「オシツオサレツ表象」というのは原初的な内的表象で、記述と規範を同時に行うような表象である。例えば
ミツバチのダンスは蜜がどこにあるか告げ(記述)、同時にどこに行くべきかを告げる(規範)
バナナの甘さは栄養があると告げ(記述)、同時にもっと食べろと告げる(規範)
前方に熊がいるという知覚は、前方に熊がいることを記述すると同時に逃げることを指令するようなオシツオサレツ表象を形成することだと考える。
局地的反復自然記号
足跡の主を意味する鳥の足跡や、雨を意味する黒い雲を自然記号という。
ドレツキは自然記号の条件として「Aが起これば必ずBが起こる」という強い相関関係を求めるが、それに対して、ミリカンはある程度の相関関係があればよいとする。
たとえば「ε」という足跡はAの森ではキジを意味するかもしれないし、Bの森ではウズラを意味するかもしれない。このようなおのずと成立した自然な領域(準拠領域)での「利用者に優しい」自然記号を「局地的反復自然記号」と呼ぶ。
以前無人島でペンギンを見つけたが人間を見ても逃げなかった、というエピソードを聞いたことがあるのだが、ミリカンのアイデアを使えば、それはそのペンギンたちの準拠領域に人間が存在しなかったので、「人間だ! - 逃げろ!」というオシツオサレツ表象が生じなかったからだと理解できる。
これを現代の日本人がラテン語の文章を見ても理解できない、ということと地続きのものとしてみる、というのである。
むろん人間はそう単純ではない。人間の意識的な心理は、原初的な愛好や嫌悪、たとえば甘さや笑みへの愛好とか、痛みへの嫌悪などに直接、根ざしているわけではない。膨大な数の真なる信念や偽なる信念に媒介されている。その事にミリカンは自覚的だ。
慣習的記号は、生産者と消費者の各組によってその都度、新たに発見ないし発明されるのではなく、ある目的のために再生産ないし「複製」されるのである。それゆえ慣習性は明らかに程度問題である。
(p.197)
この種の曖昧さは、比喩的な発言や含み、その他の拡張的な用法にも、もちろん当てはまるだろう。これらは、完全に革新的なものから少し馴染みのものへ、そして文法的解剖や合成構造にもとづく意味導出の媒介なしに自動的に扱われるものへと、ゆっくり移行していくのである。
(p.197)
自分は語用論などに疎いので、妥当かどうか判断しかねる部分もあったけど、全体的にけっこう直観にフィットするものだった。
余談だがミリカンには4人子供がいるそうで、本書には「娘が服の好みを変えるのは母親にとって大したことではないが菜食主義者になられたら大変なことだ」みたいな例が出てきてほほえましい。
わたしは本章で最後まで、現代における古典的な意味で「内包的」であるような言語的文脈を生み出す現象について論じてきた。そこにはクワインの「暗黒の生物」に類するものや、カルナップとのつながりで理解されるような「内包」、あるいはフレーゲ的な意味に類するものにたいする言及がまったくなかったことに留意していただきたい。わたしが記述してきたのは、目的の違いと、意味論的写像関数ーー自然的もしくは志向的記号をそれが表示する外延的な事態に写像する関数ーーの違いだけである。「内包的」なものが完全に外延的な言葉で説明されたのである。
(pp.135-137 「第7章 内包性」の最後)
意味と目的の世界 (ジャン・ニコ講義セレクション)
作者: ルース・ギャレット・ミリカン,信原幸弘
出版社/メーカー: 勁草書房
発売日: 2007/01/19
メディア: 単行本
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*1:影響力はあるが知名度は低い
*2:ミリカンはこのネーミングを『ドリトル先生』に出てくる頭の二つある動物の名前からとった。『ドリトル先生』邦訳ではpushmi-pullyuは「オシツオサレツ」とされていて、信原氏はそれに従った。
返信削除http://blogs.yahoo.co.jp/honkytonkman_2/34312788.html
仏教哲学は、自己に対する現代の洞察と驚くほど一致しているとバジーニは指摘する。人間には安定した不変の本質というものはないと仏陀は考えていた。むしろ、人間は身体的な経験を、思考と感情の総和であると仏陀は説いている。
これはヒュームの束理論にかなり近いが、仏教では、定まった自己がないというところに大きな”可能性”を強調する点が異なっている。我々は生涯を通じて、知覚、思考、行動を磨き上げることによって、自己をきわめて意識的な方法で”創造”できる。
自己を構築物とみなす考えは受け入れにくいとバジーニは認めている。それは自己の中心に「真の」自己意識は存在しないという主張だからだ。
しかし、実在だと考えられているものの中にも、構築物はいくらでもある。
一本の木は、まとまって一つの体系をなす数十億、数百億もの原子の集まりだし、インターネットは単一のものではなく、ネットワークだ。あるものが部分の集合であるという理由だけで、その実在性や力が損なわれるものではない。
バジーニが紹介する興味深い事例の一つに、ブルック・マグナンティーという女性がいる。彼女は大学の研究者、ブログ運営者、売春婦という役割を掛け持ちし、それを「ベル・ド・ジュール」というブログに綴って有名になった。それぞれの役割がどれほどかけ離れていようと、マグナンティーはそれらを単に自分自身の異なる面だとみなしており、心理学的な分裂はまったく感じていない。
バジーニが言うとおり、「人間は、普段考えているよりも統一性やまとまり、一貫性、永続性に欠けるが、それでも実在で単一の存在である」
ポストモダンの考えでは、人間は本質的に言語、社会化、力関係によって形作られる構築物である。しかしバジーニは、我々は単なる構築物を超えた存在だと断言している。確固たる本質や不滅の魂がないとしても、人間には統一性と継続性がある。「自己というものがあるのは明らかだ。ただ、自己はそれを構成する部分から独立した存在ではないというだけである」とバジーニは主張する。
逆説的であるが、自己のあらゆる様相や側面をあますとこなく体験することによって、我々は自分を見失う代わりに、意味のある人生を送ることができる。不変の本質や無形の魂があるという考えを捨てても、なお意味のある人生が可能であるという事実こそ、確かな成熟の証である。
本書『エゴ・トリック』を要約するなら次になる。
脳と身体は強い継続的な自己意識を生む。
この自己意識によって我々は自分自身を創造する自由を得ている。
出典:『世界の名著 50の哲学』69-71頁。
返信削除http://moroshigeki.hateblo.jp/entry/20080330/1206696218
私以外の報告はいずれも興味深かったが、ここに書くのはまたいずれ。私の(ゆるい)報告は、デレク・パーフィット『理由と人格』の紹介。
理由と人格―非人格性の倫理へ
作者: デレクパーフィット,Derek Parfit,森村進
出版社/メーカー: 勁草書房
発売日: 1998/06
メディア: 単行本
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この本は「英米の哲学界では二〇世紀末の最も重要な哲学書の一つと目されている」らしい。永井均氏や森岡正博氏の著作に時々出てきたりする。以前、この研究会の機関誌で、再帰的な書き換え系としての記憶=「わたし」について短文を書いたことがあるが(師茂樹「記憶を書き出す―総括にかえて」、『GYRATIVA』4, pp. 64-71, 2007)、この本を読むのは言わばその延長戦であり、ついでに言えば最近やってる一般キャラクター論にも関連する。
興味深いのは、このパーフィットが、自分の主張する所謂「還元主義」的人格観(「ある人物の時間を通じた同一性は、もっと細かい (particular) ある事実が妥当するということだけからなる」)が歴史的、地域的一般性を持つことを主張するために、『ミリンダ王の問い』や『倶舎論』を引いて「ブッダならば同意しただろう」と述べている点である。これについては、欧米の仏教研究者が何人か反応している:
Contemporary analytic philosopher Derek Parfit worked out what is perhaps the most famous example of such a theory in the 1980s, in his brilliantly influential book Reasons and Persons. I recall it as one of the few contemporary books assigned me in different undergraduate philosophy courses. Parfit presents a number of science and science-fiction derived thought experiments, too numerous and detailed to go into here, explicitly confirming the Buddha’s approach to the self. He expresses the “Reductionist View” this way:
返信削除Because we ascribe thoughts to thinkers, it is true that thinkers exist. But thinkers are not separately existing entities. The existence of a thinker involves the existence of his brain and body, the doing of his deeds, the thinking of his thoughts, and the occurrence of certain other physical and mental events. We could therefore redescribe any person’s life in impersonal terms. In explaining the unity of this life, we need not claim that it is the life of a particular person. We could describe what, at different times, was thought and felt and observed and done, and how these various events were interrelated. Persons would be mentioned here only in the descriptions of the content of many thoughts, desires, memories, and so on. Persons need not be claimed to be the thinkers of any of these thoughts. (p. 251).
As a result, for Parfit there are no selves or persons as separate entities, apart from certain streams of physical and mental events. What matters is not the existence of souls, persons, or even strict identity over time. Instead, for Parfit, “Relation R is what matters. R is psychological connectedness and/or psychological continuity, with any cause.” (E.g., p. 262).
What makes us selves, individuals, persons over time is just that we are a causally connected and continuous stream of psychological (or perhaps psycho-physical) events. As Parfit emphasizes, “Buddha would have agreed.” (p. 273).
Buddha claimed that, though [it] is very hard [to believe the Reductionist View], it is possible. I find Buddha’s claim to be true. …
The truth is very different from what we are inclined to believe. Even if we are not aware of this, most of us are Non-Reductionists. … [W]e would be strongly inclined to believe that our continued existence is a deep further fact, distinct from physical and psychological continuity, and a fact that must be all-or-nothing. This is not true.
Is the truth depressing? Some may find it so. But I find it liberating, and consoling. When I believed that my existence was such a further fact, I seemed imprisoned in myself. My life seemed like a glass tunnel, through which I was moving faster every year, and at the end of which there was darkness. When I changed my view, the walls of my glass tunnel disappeared. I now live in the open air. There is still a difference between my lives and the lives of other people. But the difference is less. Other people are closer. I am less concerned about the rest of my own life, and more concerned about the lives of others. (pp. 280-81).
返信削除Persons are not like glass tunnels or unbroken threads. Instead they are like nations, clubs, or committees. They are complex constructs, like Milinda’s chariot in the Milinda Pañha. Since personhood is a somewhat vague and indeterminate matter, one that is fuzzy around the edges, we are not as separate from others as we might have thought. But we are also not as much ourselves.
The Contemporary Strategy
A secular interpretation of the self will do away with the strong notion of kammic causation, and the rounds of saṃsāric rebirth.* There is no evidence for the certainty of kammic reward, nor for significant continued psychological connectedness or continuity after bodily death.
To that end, a Secular Buddhist view of the self is actually somewhat thinner than the Buddha’s own: as I’ve argued before, using an ancient analogy to our modern approach, Secular Buddhism mixes elements from the “annihilationist” materialist Ajita Kesakambalī’s view of persons with the ethical and practical teachings of Siddhattha Gotama.
It may be that one day in our future we will be persons who have to confront the possibility of brain transplants, neural implants, mind uploads, or teletransporter duplicates. Perhaps those future beings will have constructed a real world of saṃsāric rebirth, where questions of identity through radical transformation become more acute. But for now at least, these exist only in the realms of theory and speculation. So for now Parfit’s “relation R” still corresponds very closely to our intuitive understanding of single minds in single bodies and brains.
Although we cannot simply identify ourselves with our brains, what we are is constructed out of our brains and depends upon them intimately. Like all physical things, brains inevitably pass away, and we cannot survive their deaths. All the more reason to strive diligently.
————————-
* Interestingly, Parfit (p. 227) claims that rebirth, were there really evidence for it, would tend to support the view of an ātman — some “further fact” about self identity — rather than the Buddha’s view that the self was a construct. I am inclined to agree with him.
http://secularbuddhism.org/2013/04/03/gotama-and-parfit-on-the-self/
エゴ・トリック 2 - honky tonk manの黙示録 - Yahoo!ブログ
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2014年3月19日 ... このように自己を感じる傾向は信じられないほど強いが、それにはちゃんとした理由が ある。我々は自分と他者を ... 現代の哲学者デレク・パーフィットは、人格とは「心理的 連結性と継続性」を保っている状態であると述べている。 「エゴ・トリック」と ...
現代の哲学者ジュリアン・バジーニは、『エゴ・トリック』の冒頭にディビッド・ヒュームの次の言葉を掲げている。
返信削除私に関する限り、私が「自己 myself」と呼ぶものにもっとも深く分け入るとき、私が見つけたものは、常に、熱や冷、明や暗、愛や憎、苦や快など、あれやこれやの個々の知覚である。私は、いかなるときにも知覚なしに自己を捉えることが、けっしてできない。<ヒューム『人間本性論』>
ヒュームは、統一された同一の自己や魂というものはなく、人間はたえず変化する知覚の束であるという主張で知られている。そして、ある時点での知覚と時間をおいた別の時点での知覚の仕方を考えれば、この主張が正しいのは明らかなように思える。
「自己」と「人格」は現代の哲学および心理学において大きな関心を集めている領域であり、バジーニは、きわめつきに面白いこの問題をわかりやすく解き明かしながら、「真珠理論」とヒュームの「束」理論という、自己の関する二つの対立する見方を考察する。バジーニが答えようとしているのは、「我々とは何か、そして時間がたっても我々の継続的な存在を支えているものは何なのか」という壮大な問題である。
自己の「真珠」理論では、我々が一生の間にどれほど変化しても、核となる真珠、すなわち本質的な「私性」は変わらないと考える。この自己は自由意志を持ち、死後も身体を超越して残る可能性さえある。
しかし、神経科学による入念な研究にかかわらず、そのような真珠は見つかっていない。本質的な「私」というものは、脳のどの特定の領域にも存在しないのである。
実際には、脳内のいくつかのシステムの連携によって、我々は単一で統制のとれた存在だという感覚を与えられているにすぎない。他の生命体、たとえばトカゲは、人間ほど発達した自己意識を持っていない。それらの生物は、ある特定の瞬間に自己を意識するかもしれないが、人間は”長期間、自己意識を持ちつづける”という点で、他の生き物とは違っている。人間には経験に基づいて、豊かな詳細と複雑さを持つストーリーを形成できる「自伝的自己」があるのである。
続く。
出典:『世界の名著 50の哲学』65-66頁。編集。
ヒュ-ムのいう知覚の束を私は正しいと確信している。
「真珠」理論は、プラトン、デカルトから連なる、また、キリスト教神学が唱えている、何ら根拠のない戯論である。永遠不滅の魂と神の存在を前提にしての旧態然とした考え方である。
バジーニはダマシオが頻繁に使用する「自伝的自己」という言葉を用いている。
人間が長期間、自己意識を持ちつづけることができるのは、「自伝的自己」があるからか、「自伝的記憶」を持っているからかのどちらかであろう。
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返信削除http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk23/tsuruta.html
3-1.功利主義に対する批判
パーフィットが取り組むのは、人格の別個性にまつわる功利主義批判の見直しである。RPにおいて、パーフィットは功利主義を支持すると明言しているわけではない。だが、彼が提言する道徳理論は、行為が誰に影響するかは重視しない行為者中立的な帰結主義であり、概ね功利主義的であるといえる。
人格の別個性という点から功利主義を批判する近年の代表的論者はロールズである。ロールズの『正義論』によれば、社会の各成員は正義に基づく不可侵性をもつ(Rawls, p.3)。この不可侵性は、利益の考慮に優越する。ゆえに、ある人が不利益を被ることによって他の人々が利益を受けるといった、個人間の利益の相殺は拒絶されねばならない。しかし、功利主義者は、この不可侵性を直接には重要視できない。さらに、功利主義はひとりの人(理想的な観察者)の判断を集団に適用しようとしていると非難して、ロールズはこう言う。
……これを行うことは、諸個人の複数性(plurality)と個別性(distinctness)を真剣に考えていないし、これらを人々が同意するであろう正義の原理としても認識していないのである(Rawls, p.26)。
このような批判の後にロールズ自身が提出する正義原理は、個人間の配分の差異とその是正を重視する。正義の二原理は次のように表される。
第一原理
各人は、全ての人の同様な自由の体系と両立するかぎりでの、平等な基本的自由の全体系を最大限度までもつ平等な権利を有するべきである。
第二原理
社会的、経済的不平等は、
(a)……最も恵まれない人の最大の利益となるよう取り決められるべきである。……。(Rawls, p.266)
ロールズによれば、正義という観点からは、自然的、社会的偶然(生来の資質や環境、運など)から生じる配分の不平等を無批判に許容することはできない(Rawls, p.63)。だが、功利原理は、利益の総和のみを正不正の基準とする。従って、すでに不遇な状況にある人々が他人の犠牲となり、さらに不遇な人生を送ることを理論上は排除できない(Rawls, p.157)。これに対して、ロールズの提示する正義原理のうち第二原理(格差原理)は、不遇な状況にある人の利益を優先的に考慮するよう命じる。この原理は人々の完全な平等を要求するものではない。しかし、偶然的理由によって生じた不平等を最小化するような仕方で、結果として人々の状態ができるだけ平等に近づくことを目指す。このようなロールズの主張は、一般的に平等主義(egalitarianism)と称されている。
パーフィットは、ロールズの平等主義的主張に対し、平等原理と人格に対する信念との関係、そして平等それ自体の価値という点から検討を試みている。
次の功利主義批判は、配分原理の軽視と最大化に関するものである。功利主義は、集団内の利益から不利益を差し引き、結果として得られる利益が最大となることを目指す。功利主義の最大化に対するロールズの批判は、この方法が、別々の人々のもつ欲求を一つに混ぜ合わせてしまうというものである。ロールズによれば、功利主義は「全ての欲求を混ぜ合わせる(conflating)という仕方で、一人の人間にとっての選択原理を社会に適用してしまう(Rawls, p.26)」。つまり、個々人のもつ別々の欲求や必要性を足し合わせ、それぞれを区別しないというものである。
返信削除パーフィットは、このような批判に対して、「なぜ、ロールズは、一個人の内部での最大化は否定しないのだろうか」と問う。実際、ロールズは次のように書いている。
考えてみると、各人は自分自身の利益を実現するときに、確かに自分の利得と損失を自由に比較考量している。われわれは、後のより大きな利益のために、現在の自分自身に犠牲を強いることもあるだろう。少なくとも他人に影響しないとき、人は自分自身の最大善を達成し、できる限り自分の合理的な目的に向かって前進するよう、まさに適切に行為しているのである。(Rawls, p.21)
そしてまた、利益の最大化が認められるのは、行為者の視点からだけではない。他人についても、その人の人生の内部で利益を最大化することは、大抵は正しいとされている。例えば、医師が患者の利益を最大化する治療を選択したり、親が子供の利益を最大化するよう配慮したりすることもまた、正しい行為とみなされるだろう。そして、それが正当化されるのは、「一つの生の内部だからだ」という根拠によることが多いだろう。だが、このような説明は正しいのだろうか。功利主義者は反論するだろう。「最大化が正当化されるのは、快いものはよく、苦痛は悪いからである。そして、悪いものは少なければ少ないほどよく、よいものが多ければ多いほどよいからである。それで十分な理由となるはずである。また、快苦が誰のものであろうとも、苦痛が悪く快はよいということは変わらない。人格の別個性は最大化批判の根拠とはならない。(RP, p.334)」あるいは、こうも反論するだろう。「われわれが一般的に平等を評価する場合であっても、その理由は、平等を重視した方が全体として帰結がよいからである。平等は、ただ派生的な価値だけをもつのであって、結果を抜きにしてそれ自体では道徳的重要性をもたない(RP, pp.339-340)」。
さらに、経験者と経験の時点との関係からも、パーフィットは平等原理の問題点を指摘する。前述のように、還元主義者にとって、ある経験が「誰のものか」ということはそれほど重要ではないかもしれない。それと同じように、「いつ起きた経験か」ということも重要ではないかもしれない。しかし、人格の別個性を道徳的に重大なものだと考える人々は、経験が誰のものかと同様に、経験が起こる時点によっても重大な違いが生じると考えるだろう。ロールズの格差原理は、現在不遇な状態にある人々の利益を、彼等が不遇な状態に置かれてきたという理由から優先的に考慮することによって、その不利益を埋め合わせる利益を与えるよう命じる。では、次の例を考えてみよう(RP, p.341)。現在、AとBというふたりの人たちが苦しんでいると仮定する。われわれは、どちらか一人しか助けることができない。Aを助けた方が、成果が大きい(彼らが病人であると仮定したなら、Aの治療の方がうまくいくと予想される)。しかし、過去により一層苦しんできたのはBである。この場合、われわれは、どちらを助けるべきなのだろうか。パーフィットは、ここで平等それ自体を優先的に考慮するならば、Bを助けることになるだろうと主張する。なぜなら、それによって、両者の生涯における苦しみの量が平等に近づくからである。たとえ、Bを助ける効果がほとんどなく、助けられなかったAが一層苦しむことになるとしてもである。果たして、この選択は理にかなっているのだろうか。
異なる選択肢もありうる。これによれば、われわれが目指すべきものは、平等それ自体ではない。配分がどうであれ、人々の苦しみができる限り小さいことである。むろん、この選択肢をとるにせよ、配分原理をまったく無視することはできないだろう。だが、ロールズほどに平等を特別視することは、われわれには無益であるように見える選択を支持することにもなりかねない。
もし、人格の還元主義をとるとすれば、ある人の利益を考えるときに、生涯全体を考慮の単位とすることには説得力がなくなる。それよりも、特定の時点を単位とする方が、個人間の配分だけでなく、個人内の配分についても、より偏りない考慮ができる。これを認めるならば、よりよい原理とは、最も恵まれない立場にある人々の生涯を改善することではなく、特定の時点で人々が陥る最悪の状態を改善することである。パーフィットによれば、この原理は、利益の最大化ではなく、苦痛の最小化を目指す消極的功利主義(Negative Utilitarianism)と一致する。どれだけ過去の人生において恵まれてきた人であっても、他の人々と比較して最も悪い状態にあることがありうる。例えば、生得的、社会的に恵まれた環境にある人が、ある時点では重い病に苦しみ、激痛を感じているかもしれない。パーフィットが示唆する原理は、この時点では、一番苦しんでいるこの人の苦しみを除去するよう命じる。この原理は、生涯の利益の量や配分とは無関係だからである。
パーフィットは、人格について還元主義的な信念をもったなら、われわれは経験の質そのものに対して現在よりも大きな関心を持つようになるだろうと主張する(RP, p.341、p.346、p.446)。なぜなら、私が還元主義的信念を抱くならば、未来の自己が得るであろう利益のために現在の私の利益を犠牲にすることの正当化や動機づけが自明ではなくなるからである。なぜ現在の私が、遠い未来の自己の利益を気遣わなくてはならないのだろうか。未来の自分と現在の私が同一だという保証がないのであれば、われわれは、むしろ現在の私がどのような経験をするか、私がもつ欲求と必要がどのようなものであるか、どのような快楽や苦痛を得るのか、どのような満足と不満足を得るのかといったことに強い関心を抱くだろう。そうなれば、還元主義者にとって、引き続く自己たちの系列全体が得る利益の総和がどれだけ大きいかということは、現在の私が得る利益や欲求に比べれば、重大な関心事ではない。少なくとも、非還元主義者ほどには関心をもてないだろう。
この場合、われわれにとって重要なのは、生の統一や経験をもつ存在者ではなく、実は、その生の統一の要素である、さまざまな経験そのものなのである。このように経験と経験の質それ自体をより重視することは、経験に対する欲求を重視することにもつながる。ここで判断基準となるのは、欲求の強さそのものでしかない。かくして、人格の還元主義は総和的、非個人的な功利主義的アプローチに接近することになる。
http://circle.ubc.ca/bitstream/handle/2429/28488/UBC_1989_A8%20S25.pdf?sequence=1
返信削除PARFIT'S USE OF THE BUDDHIST VIEW ON PERSONAL ... - cIRcle(Adobe PDF)
circle.ubc.ca/bitstream/handle/.../UBC_1989_A8%20S25.pdf?...
Psychological Criterion, Parfit discusses several views. A kind of psychological continuity that resembles physical. 1. Derek P a r f i t , Reasons and Persons, p. 202-209. Hereafter, in references, I will use the number in the Bibliography and the ...
The appendix J 'Buddha's View' ([26],p.502-3) contains these quotations:
At the begining of their conversation the king asks themonk hisname,and receives the following reply: 'Sir, I am known as "Nagasena"; my fellows inthe religious life address me as "Nagasena". Although my parents gave (me) the name "Nagasena"... i ti s just an appellation, a form of speech, a description, a conventional usage. "Nagasena" i s only a name, forno person isfound here'.
([5],p.182)
A sentient being does exist, you think, O Mara? You are misled by a false conception. This bundle of elements i s void ofSelf, inithere isno sentient being, just as a set of wooden parts receives the name of carriage, so do we give to elements, the name of fancied being. ([34],p.839)
Buddha has spoken thus: '0 Brethren, actions do exist, a,nd also their
consequences, but the person that acts does not. There isnoonetocast away this set of elements and no one to assume a new set of them. There exists no Individual, itisonly a conventional name given to a set of elements.
([34],p.845)
返信削除Vasubandhu:...When Buddha says, 'I myself was this teacher Sunetra', he means that his past and his present belong to one and the same lineage of momentary experiences; he does not mean that the former elements did not disappear. Just as when we say 'this fire which has been seen consuming that
thing has reached this object', the fire is not the same, but overlooking this difference we indirectly call fire the continuity of itsmoments. ([34],p.851)
Vatsiputriya. If there is no soul, who is i t that remembers? Vasubandhu: What is the meaning of the word 'to remember'? Vatsiputriya. It means to grasp an object by memory. Vasubandhu: Is this 'grasping by memory1 something different from memory? Vatsiputriya: It is an agent who acts through memory. Vasubandhu: The agency by which memory is produced we have just explained. The cause producive of a recollection i s a suitable state of mind, nothing more. Vatsiputriya: But when we use the expression 'Caitra remembers' what does it mean? Vasubandhu: In the current of phenomena which i s designated by the name Caitra, a recollection appears.
([34],p.853)
The Buddhist term for an individual, a term which is intended to suggest the difference between the Buddhist view and other theories, is santana, i.e. a
'stream1. ([5],p.247-261)
Vatsiputriya. What i s an actual, and what a nominal existence? Vasubandhu. If something exists by itself (as a
separate element) i t has an actual existence. But i f something represents a combination (of such elements) i t i s a nominal existence. ([35],p.26)
The mental and the material are really here, But there is no human being to be found, For it is void and merely fashioned like a doll, Just suffering piled up like grass and sticks.
([5],p.133)
Parfit remarks that Nagel once claimed that i t is psychologically impossible to believe the Reductionist View. Parfit also says Buddha claimed that, though this is very hard, i t i s possible, and that he finds Buddha's claim to be true. ([26],p.280) Having stated how Buddha would have agreed with him on the nature of Personal Identity, Parfit advances views about the importance of Personal Identity. Now, I shall state Parfit's views regarding the importance of the Reductionist View of Personal Identity. In the last sections of this thesis, I will show how Parfit and Buddha differ on these views. I will also show how Buddha does not hold the Reductionist View in Parfit's sense but holds a more radical view about the concept of self.
2014/05/18
[5] Collins, Steven. Selfless Persons. Cambridge University Press, 1982.
返信削除[6] Conze, Edward. Buddhist Scriptures
[26]
Parfit, Derek. Reasons and Persons. New York: Oxford University Press, 1986.
Rahula, Walpola. What the Buddha
[34] Th. Stcherbatsky. The Soul Theory of the Buddhists in Bulletin de l'Academie des Sciences de Russie, 1919.
[35] Th. Stcherbatsky. Central Conception of Buddhism London: Royal Asiatic Society,1923.
[36] Thomas, E.J. History of Buddhist Thought 2nd Edit. London: Routledge & K.Paul, 1951.
返信削除2014/05/18 19:56、関本 洋司 のメッセージ:
哲学者デレク・パーフィットは、自我論者と束論者の区別を設けることにより、混乱した状況を
いくらか整理しようとしている。彼は、自分というものが経験を持つ単一で連続的な自我であるよ
うに思われるという、疑いようのない事実から出発し、それはなぜかと問う。この問いにたいし、
自我論者はそれが文字通りの真実だからだと答えるが、束論者はそれは真実ではなく、自我の経験
はほかの何らかの仕方で説明されるべきだと答える。
束理論という名称は、哲学者デイビッド・ヒューム(1711~76)の著作に由来する。ヒュー
ムは自分の経験を見つめることで、その経験を持つ自我を探してみたが、そこに見いだされたのは
経験だけであったと述べている。このことから彼は、自我は実在するものではなく、「感覚の束」
のようなものであると結論づけている。人生とはさまざまな印象の連続であり、それらの印象はひ
とりの個人に属するものとして統合されているように思われても、実際はたんに記憶やそのほかの
関係によって相互に結びつけられているにすぎないのである。
…
数ある宗教のなかで仏教だけが自我の観念を否定している。歴史上実在した人物としてのブッダ
は、二千五百年ほどまえに北インドで生きており、木のしたでの長い瞑想のあとに悟りを開いたと
されている。彼は当時一般的だった宗教的教義を否定したが、そのなかには永遠の内的自我、すな
わちアートマンが存在するということも含まれていた。これに代わって、彼は人間の苦るしみは無知、
とりわけ自我という誤った観念への執着によって引き超こされると説いた。苦しみから抜け出す方
法は、自我をたえず新たに作り出す欲求や執着をすべて捨て去ることである。つまり彼の教義の中
心にあったのは、無我という考えである。これは自我が存在しないということではなく
、自我は錯
覚である、つまりそれは見かけ通りのものではないということである。自我は個人の生を生きる持
続的な実体ではなく、たんにひと組の要素に与えられた便利な名前にすぎないのである。彼はまた、
すべてのものがそれに先立つ原因に依存しており、どんなものも独立には生じないとも説いている。
これは宇宙が相互に依存し合っており、因果的に閉じているという現代の考え方と共通している。
「行為は存在するし、その結果も存在するが、それを行った人は存在しない」というブッダの主張は、
彼のこの教えから理解できる。パーフィットは、ブッダを最初の束論者としている。
『意識』(スーザン・ブラックモア、信原幸弘他訳、岩波書店、88~90頁)
ここでつぎのことに注意しよう。一二九論は已我理論の.つの形にすぎず、連続的な自我の存在を
價じるからといってかならず二几論者になってしまうわけではない。実際のところ、あとで見るよ
うに、二元論を拒否する現代の科学理論の多くは、それでもなお自我の神経相関物を突き止めよう
としたり、脳内の持続的な構造に訴えて自我を説明しようとしたりしている。したがって、これら
は自我理論なのである。
主要な宗教のうちに、自我理論や束理論の明確な具体例が見られるが、そのほとんどは明らかに
自我理詣である。示教によって、自我は魂や精神と考えられたり、アートマンやそのばかのものと
考えられたりするが、ともかく自我の存在が前提とされている。個人的な自我の存在が、自己の回
コ往、死後の生、道徳的責任にかんする教義の根底にあり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、
ヒンドゥー教の哲仰の核とかつている。俗心深い科学者たちのなかには、科学と宗教のあいだに矛
盾などないと土張する人々もいるがドロ我の問題は明らかに難問である。もしも各個人が脳を持っ
ているのと同じように福神や魂も待っているとしたら、科学によってそれを検知することができな
ければならない。しかし、これまでのところ検知できていない。これは検知が永遠にできないとい
うyダーではないが、それが問題なのは確かだ。
教ある定款のなかで仏教だけが自我の観念を否定している。堅史上実在した人物としてのブッダ
は、一一千五百年ほどまえに北インドで生きており、本のしたでの長い瞑想のあとに悟りを問いとど
されている。彼は当時」般的だった宗教的教義を否定したが、そのなかには永遠の内的自我、すな
わちアートマンが存在するということも會まれていた。これに代わって、彼は人間の苫しみは無知、
とりわけ自我という誤った観念への試着によって引き超こさ牡ると説いた。苦しみから抗け出す方
法は、自我をたえず新たに作り出す欲求や執着をすべて捨て去ることである。つまり彼の教義の中
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のものがそれに先立つ原因に依存しており、どんなものも独立には生じないとも説いている。これは宇宙が
相互に依存し合っており、因果的に閉じているという
現代の考え方と共通している。「行為は存在するし、その結果も存在するが、それを行った人は存在しない」というブッダの主張は、彼のこの教えから理解で
きる。パーフィットは、ブッダを最初の束論者としている。
束理論を理解し受け入れることはとても難しい。束
理論を認めれば、自分が意識と白山意志を持つ存在で
あるとか、この特定の身体の生を生きている存在であるという考えを完全に捨て去ることになる。
そしてその代わりにノ「自我」という語は、便利ではあるが実在するものや持続的なものをいっさ
い指さない、たんなる観ルック言葉にすぎないということを認めなければならなくなる。そして、経
験を持つ巾口我にかんしては、その上うな自我は個々の経験に伴って生じては消えていく、つかの問
の印象にすぎないのである。自我が持続しているという錯覚が生じるのは、つかの問の白]我が記憶
脳を分離する
IIIIII
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を伴って現れ、その記倍加「白我が持続している」という印象をもたらすからなのである。
私たちの直観にこ牡はどそぐわない理論は、一見、考察する価値さえないように思われる。しか
し、このような理論を採用しなければ、白我とはいったい何なのかと考えるときに、かならず大き
な困難に突き当たってしまうのである。白我が錯覚であるという考えは、白我にまつわるつぎのも
っと百妙な現象に注目するときに、少なくとも心に留めておくだけの価値はあろう。
胴を牛分に切られるというのはどんな感じだろう。たんなる思考実験のように聞こえるかもしれ
ないが、しつけ、ご九五〇年代から六〇年代にかけて、このような道激な手術が実際に行われてい
たのである。てんかんが非常口重くなると発作がほとんど途切れることかく続いて、生活白休が耐
えがたいものになってしまうことがある。現代ではそのような症例は、薬やあまり侵襲的でない外
科手術によって治療できるが、当時は、きわめて重い症状の患者にたいし、胴の二つの牛球を切断
して、発作が一方の脳から他方の脳へ広がるのを防ぐという処置がとられていた。多くの場合、二
つの脳半球のあいだの土質な接背部である脳膜が切断され、脳幹とはかの接背部はそのまま残され
た。したがって、脳が子分に切られたなどと言うのは犬げさかもしれないが、胴梁がないと右牛球
と左半球のあいだて通常行われている情報伝達がほとんど途絶えてしまうのである。
哲学者デレク・パーフィットは、自我論者と束論者の区別を設けることにより、混乱した状況を
返信削除いくらか整理しようとしている。彼は、自分というものが経験を持つ単一で連続的な自我であるよ
うに思われるという、疑いようのない事実から出発し、それはなぜかと問う。この問いにたいし、
自我論者はそれが文字通りの真実だからだと答えるが、束論者はそれは真実ではなく、自我の経験
はほかの何らかの仕方で説明されるべきだと答える。
束理論という名称は、哲学者デイビッド・ヒューム(1711~76)の著作に由来する。ヒュー
ムは自分の経験を見つめることで、その経験を持つ自我を探してみたが、そこに見いだされたのは
経験だけであったと述べている。このことから彼は、自我は実在するものではなく、「感覚の束」
のようなものであると結論づけている。人生とはさまざまな印象の連続であり、それらの印象はひ
とりの個人に属するものとして統合されているように思われても、実際はたんに記憶やそのほかの
関係によって相互に結びつけられているにすぎないのである。
…
数ある宗教のなかで仏教だけが自我の観念を否定している。歴史上実在した人物としてのブッダ
は、二千五百年ほどまえに北インドで生きており、木のしたでの長い瞑想のあとに悟りを開いたと
されている。彼は当時一般的だった宗教的教義を否定したが、そのなかには永遠の内的自我、すな
わちアートマンが存在するということも含まれていた。これに代わって、彼は人間の苦るしみは無知、
とりわけ自我という誤った観念への執着によって引き起こされると説いた。苦しみから抜け出す方
法は、自我をたえず新たに作り出す欲求や執着をすべて捨て去ることである。つまり彼の教義の中
心にあったのは、無我という考えである。これは自我が存在しないということではなく、自我は錯
覚である、つまりそれは見かけ通りのものではないということである。自我は個人の生を生きる持
続的な実体ではなく、たんにひと組の要素に与えられた便利な名前にすぎないのである。彼はまた、
すべてのものがそれに先立つ原因に依存しており、どんなものも独立には生じないとも説いている。
これは宇宙が相互に依存し合っており、因果的に閉じているという現代の考え方と共通している。
「行為は存在するし、その結果も存在するが、それを行った人は存在しない」というブッダの主張は、
彼のこの教えから理解できる。パーフィットは、ブッダを最初の束論者としている。
『意識』(スーザン・ブラックモア、信原幸弘他訳、岩波書店、88~90頁)
ここでつぎのことに注意しよう。一二九論は已我理論の.つの形にすぎず、連続的な自我の存在を
價じるからといってかならず二几論者になってしまうわけではない。実際のところ、あとで見るよ
うに、二元論を拒否する現代の科学理論の多くは、それでもなお自我の神経相関物を突き止めよう
yojisekimoto shared from 世界の哲学50の名著 エッセンスを究める (Japanese Edition) by T・バトラー=ボードン
返信削除ジョン・ドリスは著書『Lack of Character(人格の欠如)』の中で、「人格よりも状況の方が、しばしば行動を予見する確実な要因になる」と指摘している。
yojisekimoto shared from 世界の哲学50の名著 エッセンスを究める (Japanese Edition) by T・バトラー=ボードン
自己の「真珠」理論では、われわれが一生の間にどれほど変化しても、核となる真珠、すなわち本質的な「私性」は変わらないと考える。この自己は自由意志を持ち、死後も身体を超越して残る可能性さえある。
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04 エゴ・トリック The Ego Trick(2011)
ジュリアン・バジーニ Julian Baggini
自己は構築物だという考えには、多くの人が抵抗を示す。なぜなら、それでは自己は実在しないことになるからだ。しかし、構築物であっても完全に実在し得るのは言うまでもない。
あなた、つまりあなたの人格は、これらの思考から、またその思考を持つものから離れては存在しない。むしろあなたはこれらの思考の集合体にすぎない。(中略)これがエゴ・トリックの核心である。エゴ・トリックとは、コントロールセンターのない脳内で、本当は無秩序で断片的な経験や記憶の連続にすぎないものから、統一性と単一性の強い感覚を生み出すわざである。重要なのは、〝このトリックは成功する〟という点だ。(中略)自己はここにあると一カ所を指し示すことはできないが、われわれはあたかも自己があるかのようにふるまう必要がある。
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バジーニが言うとおり、「人間は、普通考えているよりも統一性やまとまり、一貫性、永続性に欠けるが、それでも実在で単一の存在である」。ウォルト・ホイットマンはこれをもっと詩的に表現している。
* * *
おれは巨大だ、おれは多様性をかかえている。
(『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』光文社 飯野友幸訳)
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* * *
自己を構築物とみなす考えは受け入れにくいとバジーニは認めている。それは自己の中心に、「真の」自己意識は存在しないという主張だからだ。
しかし、実在だと考えられているものの中にも、構築物はいくらでもある。一本の木は、まとまって一つの体系をなす数十億、数百億もの原子の集まりだし、インターネットは単一のものではなく、ネットワークだ。あるものが部分の集合であるという理由だけで、その実在性や力が損なわれるわけではない。
yojisekimoto shared from 世界の哲学50の名著 エッセンスを究める (Japanese Edition) by T・バトラー=ボードン
◎自己を創造する
仏教哲学は、自己に対する現代の洞察と驚くほど一致しているとバジーニは指摘する。人間には安定した不変の本質というものはないと仏陀は考えていた。むしろ、人間は身体的な経験や、思考と感情の総和であると仏陀は説いている。
これはヒュームの束理論にかなり近いが、仏教では、定まった自己がないというところに大きな〝可能性〟を強調する点が異なっている。われわれは生涯を通じて、知覚、思考、行動を磨き上げることによって、自己をきわめて意識的な方法で〝創造〟できる。それは、バジーニが引用する仏典『法句経』の次の言葉に示されている。
* * *
まこと 溝つくりたちは 水を導き
弓師たちは 箭を 矯め正し
木工たちは 木材を 矯め正し
賢きひとびとは みずからを 整う
(『ダンマパダ・法句経』青土社 三枝充悳訳)
返信削除yojisekimoto shared from 世界の哲学50の名著 エッセンスを究める (Japanese Edition) by T・バトラー=ボードン
◎自己を創造する
仏教哲学は、自己に対する現代の洞察と驚くほど一致しているとバジーニは指摘する。人間には安定した不変の本質というものはないと仏陀は考えていた。むしろ、人間は身体的な経験や、思考と感情の総和であると仏陀は説いている。
これはヒュームの束理論にかなり近いが、仏教では、定まった自己がないというところに大きな〝可能性〟を強調する点が異なっている。われわれは生涯を通じて、知覚、思考、行動を磨き上げることによって、自己をきわめて意識的な方法で〝創造〟できる。それは、バジーニが引用する仏典『法句経』の次の言葉に示されている。
* * *
まこと 溝つくりたちは 水を導き
弓師たちは 箭を 矯め正し
木工たちは 木材を 矯め正し
賢きひとびとは みずからを 整う
(『ダンマパダ・法句経』青土社 三枝充悳訳)
バジーニが紹介する興味深い事例の一つに、ブルック・マグナンティーという女性がいる。彼女は大学の研究者、ブログ運営者、売春婦という役割を掛け持ちし、それを「ベル・ド・ジュール」というブログに綴って有名になった。それぞれの役割がどれほどかけ離れていようと、マグナンティーはそれらを単に自分自身の異なる面だとみなしており、心理学的な分裂はまったく感じていない。
バジーニが言うとおり、「人間は、普通考えているよりも統一性やまとまり、一貫性、永続性に欠けるが、それでも実在で単一の存在である」。ウォルト・ホイットマンはこれをもっと詩的に表現している。
* * *
おれは巨大だ、おれは多様性をかかえている。
(『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』光文社 飯野友幸訳)
http://blogs.yahoo.co.jp/honkytonkman_2/34312788.html
返信削除仏教哲学は、自己に対する現代の洞察と驚くほど一致しているとバジーニは指摘する。人間には安定した不変の本質というものはないと仏陀は考えていた。むしろ、人間は身体的な経験を、思考と感情の総和であると仏陀は説いている。
これはヒュームの束理論にかなり近いが、仏教では、定まった自己がないというところに大きな”可能性”を強調する点が異なっている。我々は生涯を通じて、知覚、思考、行動を磨き上げることによって、自己をきわめて意識的な方法で”創造”できる。
自己を構築物とみなす考えは受け入れにくいとバジーニは認めている。それは自己の中心に「真の」自己意識は存在しないという主張だからだ。
しかし、実在だと考えられているものの中にも、構築物はいくらでもある。
一本の木は、まとまって一つの体系をなす数十億、数百億もの原子の集まりだし、インターネットは単一のものではなく、ネットワークだ。あるものが部分の集合であるという理由だけで、その実在性や力が損なわれるものではない。
バジーニが紹介する興味深い事例の一つに、ブルック・マグナンティーという女性がいる。彼女は大学の研究者、ブログ運営者、売春婦という役割を掛け持ちし、それを「ベル・ド・ジュール」というブログに綴って有名になった。それぞれの役割がどれほどかけ離れていようと、マグナンティーはそれらを単に自分自身の異なる面だとみなしており、心理学的な分裂はまったく感じていない。
バジーニが言うとおり、「人間は、普段考えているよりも統一性やまとまり、一貫性、永続性に欠けるが、それでも実在で単一の存在である」
ポストモダンの考えでは、人間は本質的に言語、社会化、力関係によって形作られる構築物である。しかしバジーニは、我々は単なる構築物を超えた存在だと断言している。確固たる本質や不滅の魂がないとしても、人間には統一性と継続性がある。「自己というものがあるのは明らかだ。ただ、自己はそれを構成する部分から独立した存在ではないというだけである」とバジーニは主張する。
逆説的であるが、自己のあらゆる様相や側面をあますとこなく体験することによって、我々は自分を見失う代わりに、意味のある人生を送ることができる。不変の本質や無形の魂があるという考えを捨てても、なお意味のある人生が可能であるという事実こそ、確かな成熟の証である。
本書『エゴ・トリック』を要約するなら次になる。
脳と身体は強い継続的な自己意識を生む。
この自己意識によって我々は自分自身を創造する自由を得ている。
出典:『世界の名著 50の哲学』69-71頁。
人間は30年前と同じ人間ではないかもしれないが、自己意識は一生保ちつづける。ある意味で、我々とは『何か』だの『本当の自分』だのを探そうとする試みは、重要ではない。バジーニにとって、我々が長い間自己を保ち、維持しつづけているという事実こそが、驚きに値するのである。
返信削除脳に重大な損傷を受けた人でも、記憶などの機能が影響を受けたとしても、ほとんどの人は統一された自己意識を感じつづけるという。
実際、「自己」が脳の一部だけに備わっている「真珠理論」としたら、この部分がほんのわずか傷ついただけでも「私」という意識は損なわれるはずだ。
反対に、自己意識がいくつかの要素の組み合わせであり、脳の複数の領域の相互作用なのだとしたら、-----ホンキー注:ダマシオが同じことを言っている-----それらの構成要素になんらかの外傷や破壊が生じたとしても、自己意識はおそらく存続するだろう。たとえ脳が大きなダメージを受けても、人間は一連のできごとをつなぎ合わせた物語的な自己意識をたえず作り出すように生まれついている。
このように自己を感じる傾向は信じられないほど強いが、それにはちゃんとした理由がある。我々は自分と他者を別々の「私」として見なければ、社会的動物としての機能が果たせないのだ。
現代の哲学者デレク・パーフィットは、人格とは「心理的連結性と継続性」を保っている状態であると述べている。
「エゴ・トリック」とは、「本当は無秩序で断片的な経験や記憶の連続にすぎないものから、統一性と単一性の強い感覚」を脳と体が作り出す作業であるとバジーニは説明している。
脳にはコントロールセンターがまったくないというまさにその理由で、このトリックは成功するのである。
続く。
http://blogs.yahoo.co.jp/honkytonkman_2/34303492.html
ナイス!3
返信削除今日のあなたは子どもの頃のあなたと同じ人間であろうか?
もちろんそうだ。あなたが大人になって、どれほど変わろうと、DNAは同じである。あなたは相変わらず「あなた」だ。
しかし、アルツハイマー病にかかった人や、脳に障害を負った人はどうだろう。その人たちがもう記憶を取り戻せず、時間、空間、そして他人に対する一定の感覚をもはや持っていないとしたら、同じ自己は今も存在するといえるのだろうか?
「私」が「私」であるという感覚、この「私性」とでも呼ぶべき感覚は、どこから来るのだろうか。「私性」は実在するのか、あるいは単に、脳や身体が生み出す幻想にすぎないのだろうか?
現代の哲学者ジュリアン・バジーニは、『エゴ・トリック』の冒頭にディビッド・ヒュームの次の言葉を掲げている。
私に関する限り、私が「自己 myself」と呼ぶものにもっとも深く分け入るとき、私が見つけたものは、常に、熱や冷、明や暗、愛や憎、苦や快など、あれやこれやの個々の知覚である。私は、いかなるときにも知覚なしに自己を捉えることが、けっしてできない。<ヒューム『人間本性論』>
ヒュームは、統一された同一の自己や魂というものはなく、人間はたえず変化する知覚の束であるという主張で知られている。そして、ある時点での知覚と時間をおいた別の時点での知覚の仕方を考えれば、この主張が正しいのは明らかなように思える。
「自己」と「人格」は現代の哲学および心理学において大きな関心を集めている領域であり、バジーニは、きわめつきに面白いこの問題をわかりやすく解き明かしながら、「真珠理論」とヒュームの「束」理論という、自己の関する二つの対立する見方を考察する。バジーニが答えようとしているのは、「我々とは何か、そして時間がたっても我々の継続的な存在を支えているものは何なのか」という壮大な問題である。
自己の「真珠」理論では、我々が一生の間にどれほど変化しても、核となる真珠、すなわち本質的な「私性」は変わらないと考える。この自己は自由意志を持ち、死後も身体を超越して残る可能性さえある。
しかし、神経科学による入念な研究にかかわらず、そのような真珠は見つかっていない。本質的な「私」というものは、脳のどの特定の領域にも存在しないのである。
実際には、脳内のいくつかのシステムの連携によって、我々は単一で統制のとれた存在だという感覚を与えられているにすぎない。他の生命体、たとえばトカゲは、人間ほど発達した自己意識を持っていない。それらの生物は、ある特定の瞬間に自己を意識するかもしれないが、人間は”長期間、自己意識を持ちつづける”という点で、他の生き物とは違っている。人間には経験に基づいて、豊かな詳細と複雑さを持つストーリーを形成できる「自伝的自己」があるのである。
続く。
出典:『世界の名著 50の哲学』65-66頁。編集。
ヒュ-ムのいう知覚の束を私は正しいと確信している。
「真珠」理論は、プラトン、デカルトから連なる、また、キリスト教神学が唱えている、何ら根拠のない戯論である。永遠不滅の魂と神の存在を前提にしての旧態然とした考え方である。
バジーニはダマシオが頻繁に使用する「自伝的自己」という言葉を用いている。
人間が長期間、自己意識を持ちつづけることができるのは、「自伝的自己」があるからか、「自伝的記憶」を持っているからかのどちらかであろう。
.
http://blogs.yahoo.co.jp/honkytonkman_2/34299450.html
因果性
返信削除哲学する
哲学
2014/3/17(月) 午後 1:46
ナイス!4
因果性に対する見解は、ヒュームの思想の中心である。事物が原因と結果の関係にあるように見えたとしても、それは単に我々の精神が関連性を想像しているにすぎない。ある出来事が別の出来事の原因になっていると、本当に確実性をもって言うのは不可能だ。言えるのはただ、二つの出来事の間にしばしば「習慣的連接」が生じているということだけである。
あるものが真理のように見えるからといって、つねに真理であると言うこともできない。実際、人間の「知識」のほとんどは、習慣に対する信頼か、みんなが言うことを真理として受け入れているだけなのである。習慣は真理を伝えるのではなく、ただ人生を生きやすくするにすぎない。我々は習慣によって意味のある世界を構築することが可能になり、感覚を通じて一瞬ごとに世界を新しく創造し直す手間を省けるのである。
ヒュームをめぐって、研究者たちは論争を続けてきた。
実証主義者の伝統的なヒューム像は、因果の「規則性説」に要約される。
因果の規則性説とは、あるものごとの中に他のものごとを引き起こす原因はなく、我々はただ、出来事がある一定の規則をもって繰り返されているとしかいえないという考えである。
ヒュームのたとえを借りれば、一つの玉突きのボールがもう一つのボールに当たるのを見て、それが第二のボールの運動の原因だと推論することはできるが、我々はそれについて決して確信を持てない。我々に言えることは、二つの出来事が「時間的・空間的に接近し、原因が結果に先行(継起)し、二つの出来事の接近と継起が規則的に繰り返されてきた(恒常的連接)」ということだけであって、事物を動かす見えない「力」や「エネルギー」というものは存在しないのである。
「或る対象が、他の対象に隣接し先行していても、それの原因とは見なされないということが、あり得る」とヒュームは言う。
実証主義者たちは、原因と結果を指摘できると主張する輩は誰であろうと「理解不可能な用語」つまり形而上学的な用語で話さなければならず、哲学の風上にも置けないというヒュームの見解を支持している。
実際、ヒュームが『人間知性研究』の締めくくりで哲学の厳密さを要求し、あらゆる形而上学的な書物に疑いの目を向けるように激しい言葉で述べていることはよく知られている。
「量や数に関するなんらかの抽象的推論を含んで」いない書物、あるいは「事実の問題と存在」に関する論証に基かない書物は炎に投じなければならない。
なぜなら、それは詭弁と幻想しか含むことができないのだから。
出典:『世界の名著 50の哲学』217-219頁。編集。
ナイス!4
http://blogs.yahoo.co.jp/honkytonkman_2/34294361.html
世界の哲学50の名著 エッセンスを究める (Japanese Edition) by T・バトラー=ボードン
返信削除◎自己を創造する
仏教哲学は、自己に対する現代の洞察と驚くほど一致しているとバジーニは指摘する。人間には安定した
不変の本質というものはないと仏陀は考えていた。むしろ、人間は身体的な経験や、思考と感情の総和であ
ると仏陀は説いている。
これはヒュームの束理論にかなり近いが、仏教では、定まった自己がないというところに大きな〝可能
性〟を強調する点が異なっている。われわれは生涯を通じて、知覚、思考、行動を磨き上げることによっ
て、自己をきわめて意識的な方法で〝創造〟できる。それは、バジーニが引用する仏典『法句経』の次の言
葉に示されている。
* * *
まこと 溝つくりたちは 水を導き
弓師たちは 箭を 矯め正し
木工たちは 木材を 矯め正し
賢きひとびとは みずからを 整う
(『ダンマパダ・法句経』青土社 三枝充悳訳)
バジーニが紹介する興味深い事例の一つに、ブルック・マグナンティーという女性がいる。彼女は大学の
研究者、ブログ運営者、売春婦という役割を掛け持ちし、それを「ベル・ド・ジュール」というブログに綴
って有名になった。それぞれの役割がどれほどかけ離れていようと、マグナンティーはそれらを単に自分自
身の異なる面だとみなしており、心理学的な分裂はまったく感じていない。
バジーニが言うとおり、「人間は、普通考えているよりも統一性やまとまり、一貫性、永続性に欠ける
が、それでも実在で単一の存在である」。ウォルト・ホイットマンはこれをもっと詩的に表現している。
* * *
おれは巨大だ、おれは多様性をかかえている。
(『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』光文社 飯野友幸訳)
現代の哲学者ジュリアン・バジーニは、『エゴ・トリック』の冒頭にディビッド・ヒュームの次の言葉を掲
返信削除げている。
私に関する限り、私が「自己 myself」と呼ぶものにもっとも深く分け入るとき、私が見つけたもの
は、常に、熱や冷、明や暗、愛や憎、苦や快など、あれやこれやの個々の知覚である。私は、いかなるとき
にも知覚なしに自己を捉えることが、けっしてできない。
<ヒューム『人間本性論』>
ヒュームは、統一された同一の自己や魂というものはなく、人間はたえず変化する知覚の束であるという主
張で知られている。そして、ある時点での知覚と時間をおいた別の時点での知覚の仕方を考えれば、この主
張が正しいのは明らかなように思える。
「自己」と「人格」は現代の哲学および心理学において大きな関心を集めている領域であり、バジーニは、
きわめつきに面白いこの問題をわかりやすく解き明かしながら、「真珠理論」とヒュームの「束」理論とい
う、自己の関する二つの対立する見方を考察する。バジーニが答えようとしているのは、「我々とは何か、
そして時間がたっても我々の継続的な存在を支えているものは何なのか」という壮大な問題である。
自己の「真珠」理論では、我々が一生の間にどれほど変化しても、核となる真珠、すなわち本質的な「私
性」は変わらないと考える。この自己は自由意志を持ち、死後も身体を超越して残る可能性さえある。
しかし、神経科学による入念な研究にかかわらず、そのような真珠は見つかっていない。本質的な「私」と
いうものは、脳のどの特定の領域にも存在しないのである。
実際には、脳内のいくつかのシステムの連携によって、我々は単一で統制のとれた存在だという感覚を与
えられているにすぎない。他の生命体、たとえばトカゲは、人間ほど発達した自己意識を持っていない。そ
れらの生物は、ある特定の瞬間に自己を意識するかもしれないが、人間は”長期間、自己意識を持ちつづけ
る”という点で、他の生き物とは違っている。人間には経験に基づいて、豊かな詳細と複雑さを持つストーリ
ーを形成できる「自伝的自己」があるのである。
。
返信削除問題は敵バイタルを使える選手が少ないということだ
オオギミがいないのでなおさらだ
以下の選手くらいだ
阪口
杉田
上尾野辺
宮間はクォーターバックが適正
高瀬阪口
川澄宮間杉田中島
宇津木川村鰯水小原
高瀬菅澤
川澄阪口宮間中島
宇津木川村鰯水小原
山根
中島→猶本
宮間→上尾野辺or杉田
鰯水→乗松
仏教哲学は、自己に対する現代の洞察と驚くほど一致しているとバジーニは指摘する。人間には安定した
返信削除不変の本質というものはないと仏陀は考えていた。むしろ、人間は身体的な経験や、思考と感情の総和であ
ると仏陀は説いている。
これはヒュームの束理論にかなり近いが、仏教では、定まった自己がないというところに大きな〝可能
性〟を強調する点が異なっている。われわれは生涯を通じて、知覚、思考、行動を磨き上げることによっ
て、自己をきわめて意識的な方法で〝創造〟できる。それは、バジーニが引用する仏典『法句経』の次の言
葉に示されている。
* * *
まこと 溝つくりたちは 水を導き
弓師たちは 箭を 矯め正し
木工たちは 木材を 矯め正し
賢きひとびとは みずからを 整う
(『ダンマパダ・法句経』青土社 三枝充悳訳)
バジーニが紹介する興味深い事例の一つに、ブルック・マグナンティーという女性がいる。彼女は大学の
研究者、ブログ運営者、売春婦という役割を掛け持ちし、それを「ベル・ド・ジュール」というブログに綴
って有名になった。それぞれの役割がどれほどかけ離れていようと、マグナンティーはそれらを単に自分自
身の異なる面だとみなしており、心理学的な分裂はまったく感じていない。
バジーニが言うとおり、「人間は、普通考えているよりも統一性やまとまり、一貫性、永続性に欠ける
が、それでも実在で単一の存在である」。ウォルト・ホイットマンはこれをもっと詩的に表現している。
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おれは巨大だ、おれは多様性をかかえている。
(『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』光文社 飯野友幸訳)
新たなる認識論理の構築 ―公理系と知識空間 - 名古屋学院大学 (Adobe PDF)-htmlで見る
返信削除www2.ngu.ac.jp/uri/jinbun/pdf/jinbun_vol4501_02.pdf
して,新認識論理,認識代数,知識空間を提唱. する。つまり, ... 述語記号 K,C. 論理 記号 →,∧,∨,∃. 述語記号のKとCは,それぞれ「知っている」. と「共有知識である」を 表す。このように新認. 識論理では,古典 ..... 信じる,宗教を信じるなど)。著者としては, .
鈴木啓司
http://www2.ngu.ac.jp/uri/jinbun/pdf/jinbun_vol4501_02.pdf#search='論理記号+信じる'
公理系
まず言語(使用する記号)を定義する。
変数記号 x, y, z, ...... 定数記号 a, b, c, ...... 述語記号 K,C 論理記号 →,∧,∨,∃
第一公理:推進知識あるいは存在の公理 K(x ∃xKxy)
これは新認識論理の土台となる,「何か知らな いが知らないことがあることを知っている」 の論理式である。字義通りには,「x は y と知る x が存在することを知っている」となるが,パ ラフレーズすれば,「x は自身が y という知識状 態になることを知っている」とでもなろうか。
第二公理:共有知識の公理
KxK(y a)∧KyK(x a)→Cx(y a)
これは「x が y が a と知っていることを知り, かつ y が x が a と知っていることを知っている なら,a は x と y の間で共有知識である」とい う意味である。このとき連言記号∧の解釈は, 複数の認識主体の知識の対面状態を表す。対面 状態とは,互いの知識状態を知ることによって 自分の知識状態が決定する状況である。ゆえ に,この記号は当事者同士の間で意味を持ち, 第三者の解釈の介入を許さない。これを外から の視点で見ると,すなわち,従来の∧で解釈す ると,両者は互いが a という命題を知っている ことを知っているが,そのこと自体を互いが 知っていることにはならない。それを表現しよ うとすると,K を無限に連ねればならないこと になった。これが共有知識を外から形式化する ことの壁である。そこでどうしても主観的な記 号解釈の次元が必要となってくるのである。
そこでこれまでイタリックやゴチックであった 記号は従来の字体になり,新たに=,¬,∀, φと,エージェント記号 i,j,k、が加わる。 Cx(y a)内
変数記号 x,y,z、 定数記号 a,b,c、 エージェント記号 i,j,k、 述語記号 K,C 論理記号 →,∧,∨,∃,∀,¬ 等号 =
空集合 φ 共有知識は認識主体が同じ知識状態のことであ る。すなわち,x = y。だが,一つの同じ知識 状態を複数の違う個体(エージェント i,j)が 構成している。i∨j=∀,i∧j=φ,i=¬j, j =¬ i。これは共有知識という閉じた場の成立 により,全体とそれを構成する個という概念が 生じたことを意味する。そこでは個は互いに素 であるということで,否定と空という概念も導 き出される。ところで,新認識論理には古典論 理のような推論規則はない。推論とは何か未知 のものを引き出す行為と思われがちだが,そう ではなく,あらかじめ引かれた境界条件内の命 題を探索する手段である。ゆえに共有知識とい う閉じた全体が設定されてからの話であって, それに対し新認識論理は,あくまで共有知識の 成立過程を構成する論理なのである。ちなみに, この全体と空集合にそれぞれ 1 と 0 という最大 元,最小元を当てて推論を計算可能な算術の形 に改めたのが,ブール束だ。
真理公理の代わりに共有知識の公理を置いたも のである。
古典論理 新認識論理 排中律 → 推進知識
S5 ↓除く 直観主義論理 S4
様相認識論理(知識) 新認識論理 真理公理 → 共有知識 ↓除く
様相認識論理(信念)
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/00000sisaku4.htm
さらに進んで,論者(観測者)x も対象と対 等な知識状態に降りてくる現象がある。それが 共有知識だ。この図はすでに前稿までに何度か 掲載したものだが,x,y,z は三者間で共通の 距離を保有している3)。それにより三者はこの 円環内で可換な関係にはいる。同時に,他者を 経て自己に帰ってくるループにより(そこが図 2 とは違う),自己性(アイデンティティー) を得る。自乗の意味はそういうことだ。この改 めての反射性により,様相認識論理の真理公理 が成立する。可能世界モデルでは,真理公理は 反射性に対応している。こうした状況の劇的変 化により,公理系のところで示したシフトチェ ンジが起こり,自己の否定としての他者,他者 の否定としての自己,その両者が織り成す全 体,それを結びつけている同一の知識といった 新たな概念が生じ,閉じた対称的円環内で古典 論理の展開を可能にするのである 4)。また,代 数的にはそれらの概念に当たる記号,-,1, 0,=と,交換則が導入される(この交換則成 立のシフトチェンジを表すために考え出された のが,自乗数間で交換則が成り立つ認識代数で あった)。位相的には,これは同一の知識状態 を表す同値の一点であり,そこにその知識状態 を共有するエージェントが同値類として集合す る,いわゆる商空間を形成している。以上によ り,その内部では四則演算がすべて可能になっ たといえる。
返信削除また,0 と 1 の導入により,共有知識自体を ― 31 ―
ブール代数的な演算式で表現することもでき る。それは次のようになる。 1) x×y=1 x=1 y=1 2) x+y=1 x=1(0) y=0(1) これは内的,主観的にエージェントの共有知識 状態を表している。すなわち,1)x と y の知識 状態は同じで全体をなし,2)その視点はおの おの違って全体をなしているのである。この 1) 式が,x×y=0 となったのが,ブール代数を特 徴づける相補則である。これは外的,客観的に エージェントの存在状態を表している。すなわ ち,1)x と y は分離した違うものであり,2) それが合わさって全体をなしている。このこと は演算式であるため,集合論的に言い表せる。 共有知識は,内的には積集合と和集合が同値で あるのに対し,外的には積集合と和集合が最小 元と最大元である閉集合となっている。それは 一つの連続空間を分離空間にしたことを意味す る。畢竟,ブール代数,古典論理は,エージェ ントの内的知識状態を無視して,それを外的存 在物として俯瞰的に見下ろしたところに成立し ているといえるであろう。 かくして共有知識の式は,古典論理への橋 渡しの意味で,こう書いてもよい。KiK(j a)∧ KjK(i a)→CijA→A この最後に出てくる原子 式 A をもとに,これまでたどったステップをい わゆる客観的視点でたどり直したのが,古典論 理なのである。上に掲げてきた図をわれわれ が無意識のうちに俯瞰的な超越者の視点で見る のは,すでにわれわれがこの環境にあることを 物語っている。共有知識を経て全体と個という 概念を得れば,あれらの図は点の集合体である 線の織り成す光景と映る。そして,そこに可換 な距離という位相が持ち込まれ,統一的な座標 軸で仕切られた空間内ですべては見
論理学と修辞学の対立があると考えた方がいい
返信削除帰納と演繹はセットなのだから
スミマセン。ライオンのパラドックスってどんな話ですか?? 検索して...
返信削除qv_v_vpさん 2006/07/17 22:36:16
スミマセン。ライオンのパラドックスってどんな話ですか??
検索してみたのですが競馬?みたいなのしかでスミマセン。ライオンのパラドックスってどんな話ですか??
検索してみたのですが競馬?みたいなのしかでなくて…
どなたかご存知の方教えてください。
回答数:2 閲覧数:2,269 お礼:知恵コイン0
違反報告
ベストアンサー
goodfoodgetさん 2006/07/17 22:42:40
Q:『ジャングルで、探検家が、人食いライオンに捕まったんです。その探検家は「どうか助けてください」と言いました。するとライオンはその探検家に「じゃあ今俺が考えていることをずばり当てて見せたら、お前を助けてやろう」と言いました。さぁ、探検家は、どう言えばいいでしょう?』
A1:「あなたは私を食べようと思ってますね。」そう言われたライオンは、もしイエスならばライオンは心を読まれたわけだから、探険家を助けなければならない。一方ノーならば、ライオンは最初から食べる気がなかったのだから、これも探検家を助けなければならない。いずれにせよライオンは、探検家を食べることができない。
A2:もう一つの考え方も、相手に言うことは同じです。「あなたはわたしを食べようと思ってますね。」するとライオンは、探検家を食べてしまうと探険家の言ったことが正しくなるので、探検家を助けねばならない。しかし助けると、今度は探検家の言ったことが間違いということになるので、やはり食べねばならない。けれどそうすると、探検家の言ったことが正しくなるので…という無限ループです。
これ昔古畑任三郎でやってましたよね。けどわたしは「人食いワニのパラドクス」で習ったような覚えがあります。こちらで検索してみると引っかかるかもしれません。
ワニのパラドックス
ワニのパラドックスは、自己言及のパラドックスのひとつ。人食いワニのジレンマともいわれる。このパラドックスは、不思議の国のアリスの作者として知られる数学者ルイス・キャロルが創作し、クロコディルズ(ラテン語: Crocodilus)というタイトルで発表した[1] [2]。
目次 [非表示]
1 内容
2 類型
3 脚注
4 参考文献
内容[編集]
ナイル川の河岸で人食いワニが子供を人質にとり、その母親に「自分がこれから何をするか言い当てたら、子供を食わないが、不正解なら食う」と言った。これに対し、母親が「あなたはその子を食うでしょう」といった場合、
ワニが子供を食う場合、母親はワニがしようとすることを言い当てたので食べてはならない。
ワニが子供を食わない場合、母親の予想が外れたのでワニは子供を食べても良いことになる。しかしそこで食べると、結果的に母親の予想は正しかった事になるため、矛盾にぶつかる。
このように、ワニが何をしようとも自己矛盾してしまい、子供を食べる事も、食べない事もできなくなってしまう。
原文は次の通り。 A Crocodile had stolen a Baby off the banks of the Nile. The Mother implored him to restore her darling. "Well," said the Crocodile, "if you say truly what I shall do I will restore it: if not, I will devour it." "You will devour it!" cried the distracted Mother. "Now," said the wily Crocodile, "I cannot restore your Baby: for if I do, I shall make you speak falsely: and I warned you that, if you spoke falsely, I would devour it." "On the contrary," said the yet wilier Mother, "you cannot devour my Baby: for if you do, you will make me speak truly, and you promised me that, if I spoke truly, you would restore it!" (We assume, of course, that he was a Crocodike of his word; and that his sense of honour outweighed his love of babies.)[3]
類型[編集]
他にも「死刑判決を下された予言者に対し、国王が予言をさせ、それが成就したか否かによって処刑方法を変えようとする」などのバリエーションがある。
ドラマ「古畑任三郎」では、ライオンが冒険家の前に現れ、上記のワニの場合と同様の問を発するという形で登場した。
スペインの小説「ドン・キホーテ」において、サンチョ・パンサの元に次のような相談が舞い込んでくる。「ある橋を渡って向こう側に行くには、その目的を報告しなければならず、それが嘘だった場合には絞首刑に処せられることになっている。ところがある男が『私は絞首刑になるためにやってきたのだ』と言ったため、どうしていいかわからなくなった」
これに対しサンチョ・パンサは、そのまま通行させてやれと答えている。その根拠は「判断に迷ったときは慈悲深くあれ、と私は旦那様にいつも言われていた」というもの。
脚注[編集]
^ [1] Robin Wilson, "Lewis Carroll in Numberland: His Fantastical Mathematical Logical Life",2008,pp.221-222 , ISBN 978-0393060270
^ ロビン・ウィルソン著、岩谷宏訳『数の国のルイス・キャロル』ソフトバンククリエイティブ、2009年 ISBN 978-4797348385 p.232
^ [2]
参考文献[編集]
野崎昭弘『詭弁論理学』中央公論新社、1976年 ISBN 978-4121004482
カテゴリ: パラドックス集合論論理学数学に関する記事
キャロルの論理ゲーム:
返信削除一個の属性、すなわち「中名辞」を共有する二個の前提から結論を引き出す。
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|__y__m__y'_|
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A
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|7 | 8|
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例
美味なるケーキは不健全ではない
=yケーキはm'ではない
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|○ | |
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1と7が「空き○」になる。
(『不思議の国の論理学』ルイス・キャロル136頁~)
キャロルの論理ゲーム:
返信削除一個の属性、すなわち「中名辞」を共有する二個の前提から結論を引き出す。
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|__y__m__y'_|
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A
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|y_|_y'
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___________
|1 | 2|
| __|__ |
| |3 | 4| |
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|7 | 8|
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例
美味なるケーキは不健全ではない
=yケーキはm'ではない
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1と7が「空き0」になる。
(『不思議の国の論理学』ルイス・キャロル136頁~)
__x__
返信削除| | |
y__m__y'
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a
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|y_|_y'
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a
格子?
返信削除束 (lattice) の語源 | TETRA'S MATH
http://math.artet.net/?eid=967524
<< ハッセの図式と論理学 | main | 三段論法の代数化(アリストテレスとブール) >>
束 (lattice) の語源
「ブール」という人がどんな人なのか、「束(そく)」という概念がどんなものかまったく知らなくても、「ブール束」という言葉だけはイヤでもあちこちで目にしていました。とにかく、“ブール”のあとには“束”がつくらしいものという認識でいました。でも、ブールは束論の契機はつくったけれど、束論自体をつくったわけではないという話もきいたことがありました。
さて、『情報の論理数学入門』では、Ⅰ.で基礎代数(集合、関係と写像、代数系と群、環と体)の説明がなされたあと、Ⅱ.でブール代数の説明に入ります。最初は「束」で、次が「順序集合」です。これはたぶん一般的というか、わかっている人にとってはあたりまえの構成なのかもしれませんが、私は「束」と「順序集合」との関係を理解するのにとても時間がかかりました。というか、いまだに理解できていません。
もしかすると、「定義や公理から考えようとする頭」と「歴史的流れや数学者の個人的動機から考えたい気持ち」の間でふらふら揺れているからかもしれません。できれば後者で考えたいけれど、それをするには知識も資料も少なすぎる。
というもやもやした気持ちで手元の2冊をめくっていたら、面白い記述を見つけました。山下正男『論理学史』のp56です。
* * *
束論の起源はシュレーダーやパースといった記号論理学者にあるけれど、それを抽象的数学の一分野として純粋に数学的な扱いをした最初の人はデデキントで、この段階では「双対群」と呼ばれていた(群が1種類の操作しかもたないのに対して、2種類の操作に関して双対性が成り立つ構造という意味において)。しかし、この新しい構造はもやは群構造とはまったく別の新しい構造だということがはっきりしてきたので、クラインが群と対抗させる意味で、「束(Verband)」という名前を与えた。この場合、Verbandは「組合」や「クラブ」という意味で使われており、群(group)と呼応している。群も束も集合体で、集団の規約(公理)が違うだけ、という発想から。
ドイツではこのVerbandが定着し、日本でも直訳である「束」という語を定着させた。一方、英米圏ではVerbandではなくlatticeと呼ぶ。命名したのはアメリカの数学者バーコフ。latticeというのは格子細工の幾何学的模様を意味しており、明らかにハッセの図式を意識したものと考えられる。フランス語でも格子紋様や網の目模様のことを意味する言葉があてられている。
* * *
束の“lattice”については直訳するとどんな言葉かも調べないまま、なんとなく「かわいらしい言葉だなぁ」なんて感じていたのですが、ああ、これってあれだ、ベランダなどでよく見かける格子の“ラチス”だ~!と知って、とても納得したのでした。Verbandという言葉で表される“束”には、公理で定義される代数系というイメージが似合うし、latticeという言葉で表される“束”には、ハッセ図で表現できる順序集合というイメージが似合うように思います。
(つづく)
2008.11.17 Monday
論理数学 | permalink
《墨子》(ぼくし)とは - コトバンク
返信削除https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E5%A2%A8%E5%AD%90%E3%80%8B-1415075
世界大百科事典内の《墨子》の言及
【道教】より
…その第1点は,中国の思想史とくに古代,中世の思想史において,一般的に〈道教〉という言葉が実際にどのような思想概念として用いられてきているか,また,それは中国土着の民族宗教としての〈道教〉の概念とどのようなかかわりを持っているかであり,第2点は,中国において民族宗教としての道教が,その神学教理もしくは思想哲学を一応整備完成するにいたる唐・五代・宋初の時期において,道教の教団内部の学者たちがその教をどのような宗教として自覚し,規定し,ないしは神学教理の整備体系化を行っているかである。
[〈道教〉の語の用例]
中国の思想史において,〈道教〉という言葉(概念)が最も古く用いられているのは,前4世紀ころにその成立が推定される《墨子》の〈非儒篇〉およびこれより少しおくれて前3世紀ころにその成立が推定される〈耕柱篇〉においてである。〈非儒篇〉では〈儒者〉すなわち当時の孔子学派の学者たちが,みずからの教を〈道教〉とよんでいるのは正しくないと批判し,〈耕柱篇〉では墨子の教説こそ真正の〈先王の道教〉であることを強調している。…
【墨家】より
…それ以前は墨者(ぼくしや)と呼ばれた。開祖は戦国初期の宋の工匠,墨翟(ぼくてき)(墨子,前5世紀後半~前4世紀前半)。墨翟の後を継ぐ指導者を鉅子(きよし)(巨子)という。…
【論理学】より
…ディグナーガより1世紀ばかり後に,その孫弟子であるダルマキールティや非仏教的学派に属するウッディヨータカラが現れ,ディグナーガの論理学をさらに完璧なものにし,ここでインド論理学は完成する。
[中国]
中国人の手になる最初の論理学書は《墨子》のうちの六つの章〈経上〉〈経下〉〈経説上〉〈経説下〉〈大取〉〈小取〉である。《墨子》は前5世紀に,墨子およびその集団によって書かれたものであり,全部で71章からなるが,そのうちの6章が論理学を扱った部分である。…
※「《墨子》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
【社会】外国人を悩ませる日本人特有の資料とは? [無断転載禁止]©2ch.net
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1ノチラ ★2017/08/17(木) 10:56:42.87ID:CAP_USER>>36
次のような質問が私の事務所に寄せられました
【質問9】
先日、弊社でワークショップが行われました。相手企業はドイツ企業と日本の協力企業です。帰国後、ドイツ人技術者から私は依頼を受けました。私のパワーポイントから全ての「矢印」を削除し、文書化してほしいというのです。理由を尋ねると、ドイツの仲間に報告できないほど意味不明の「矢印」が氾濫しており、まるで暗号のようだったからとのこと。でも、協力企業からはそうした声は皆無でした。一体、何のためのワークショップだったのか悩んでいます。何がいけなかったのでしょうか。
この質問に対する私の回答はこうです。
【回答9】
「ああ、やっぱり!」と思わず声を上げてしまいました。実は、似たような質問を数多く私は受けています。この質問に対する答えは簡単です。矢印の使い方がまずいのです。私はこの手の矢印を「QC矢印」と呼んでいます。実はこのQC矢印が、外国人技術者を大いに悩ませているのです。
一方で、設計コンサルタントとして私が非常に心配しているのが、日本の協力企業の姿勢です。質問が皆無って考えられますか? 無関心ということでしょうか。あうんの呼吸で理解しているならばよいのですが、第7回で掲載した「2-6-2の法則」の下位層を思い出し、日本の将来を心配してしまいます。
外国人技術者を悩ませるQC矢印
外国人技術者を非常に困惑させる、典型的な日本人の技術資料があります。それは、矢印を多用した資料です。図1を見てください。これは、ある大手精密機械企業の「新人事制度」を説明する図です。この企業の人事部の社員が作成しました。
皆さんは、まずどこに視線を向けますか。あれ? どこから見始めてよいか分かりませんね。スタート位置が不明です。では、その点を置いておくとして、全部、いや一部でも構いません。「解読」できるでしょうか。できないと思います。
http://techon.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/041800110/081700010/zu1.JPG
この資料は、他人には理解できない「自己満足の資料」です。従って、職場の仲間に伝えることも、議論もできません。この原因は、図中に矢印を多用にあります。これらの矢印を、私の事務所のコンサルタント仲間では「QC矢印」と呼んでいます。「カビの生えたQC矢印」と言う辛口の人もいるほどです。
かつて「QC手法」が全盛だった時代に、「ボトムアップ」という単語が出現しました。企業の活性化のためにはボトム層、つまり、一般社員が士気を高める必要があるというのです。最近は、TQM(Total Quality Management、総合的品質管理)と呼ばれていますが、言葉の定義に厳しい方々からの非難を覚悟しつつ、本コラムではQC手法と呼ばせてもらいます。
話を元に戻すと、QC手法では前述のボトム層、つまり、一般社員の士気を高めるために「QCサークル」が発足しました。職場単位のサークル活動です。目的は、作業改善一筋。さらに一層の活性化手段として、「QCサークル発表会」が企業大会や県大会、全国大会へと発展していきました。そして、これらのプレゼンテーションに使用されたのが、文章や接続詞を排除した「QC矢印」だったのです。言うまでもなく、日本独特の矢印です。
初めは簡潔だと評判でしたが、しばらくすると勝手な使い方が増えていきました。いわゆる「理解しにくい方言」へと変化したのです。これが国内から海外に伝わり、今では「外国人技術者が悩む、日本人が多用するQC矢印」とまで、私のコンサルタント仲間内で言われています。
以下ソース
http://techon.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/041800110/081700010/
以下などは図をピラミッド状にしてわかりやすさを推奨している
https://www.amazon.co.jp/dp/4478490279/
考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則 単行本 – 1999/3/1
バーバラ ミント (著), Barbara Minto (原著), 山崎 康司 (翻訳)
背理法(はいりほう、英: proof by contradiction, reduction to the absurd, indirect proof, apagogical argument など、羅: reductio ad absurdum)とは、ある命題 P を証明したいときに、P が偽であると仮定して、そこから矛盾を導くことにより、P が偽であるという仮定が誤り、つまり P は真であると結論付けることである。帰謬法(きびゅうほう)とも言う。
返信削除P を仮定すると、矛盾が導けることにより、P の否定 ¬P を結論付けることは否定の導入などと呼ばれる。これに対して ¬P を仮定すると矛盾が導けることにより P を結論付けることを狭義の背理法あるいは否定の除去ということがある。否定の導入と狭義の背理法をあわせて広義の背理法ということもある。
一般的には、背理法と言った場合広義の背理法を指す。否定の導入により、¬P から矛盾が導けた場合、¬¬P を結論できるが、いわゆる古典論理では推論規則として二重否定の除去が認められているため、結局 P が結論できることになる。排中律や二重否定の除去が成り立たない直観論理では、狭義の背理法による証明は成立しないが、否定の導入や、¬¬¬P から ¬P を結論することは、認められる。
背理法を使って証明される有名な定理には、
2
{\sqrt {2}} が無理数であること、素数が無限に存在すること、中間値の定理,ハイネ・カントールの定理などがあり、無限を相手にした証明には基本的に背理法のスタイルを取らざるを得ないものが多くある。[要出典]
しかし例えば、
2
{\sqrt {2}} が無理数である(すなわち有理数でない)ことの証明は、狭義の背理法ではなく否定の導入によって証明することができる。
背理法の証明において仮定に矛盾する結論を導く場合は,容易に非背理法証明に直すことができる.たとえば,ハイネ・カントールの定理:「有界閉集合上の連続関数は一様連続である」は,有界閉集合上の連続関数 f は一様連続でないと仮定して議論を進め, f が連続でないことを導いて矛盾を出すが,これは連続性を仮定せず「有界閉集合上の関数 f が一様連続でない」と仮定し,連続でないことを示すことによって,対偶としてハイネ・カントールの定理が直接証明できる(((P かつ Q)⇒R) ⇔ ((P かつ ¬R)⇒¬Q) ということを用いる).
関連項目 編集
転換法
無矛盾律
返信削除https://www.amazon.co.jp/世界の大思想%E3%80%88第26巻〉ラッセル-1966年-社会改造の諸原理-数理哲学入門-自由人の信仰-他-ラッセル/dp/B000JBC0H6
5つ星のうち4.0本書所収『数理哲学入門』がおすすめ
投稿者yojiseki2008年6月26日
本書に収録された『数理哲学入門』がおすすめ。
『プリンキア・マテマティカ』の入門編だが、ラッセルはこれを反戦活動で入獄させられている時に書いたそうだ。
数理哲学とは複雑化する数学とは違い、もっと基礎的な数に対する定義を問題にした学問だ。
この論考における集合論の援用や、無限の概念に関するラッセルの考え方には今日では様々な議論があるだろうが、数学と論理学の関係についての基礎的な文献だと言える。
(岩波文庫のバージョンより読みやすい。)
また、平和・社会運動、歴史学研究といったラッセルの別の側面も他の収録作品から読み取ることができる。(ラッセルが消費協同組合と生産協同組合の違いについてちゃんと書いていたのには驚いたし(集合論の援用?)、教育に関してモンテッソーリの名前がでていたことにも驚いた。)
一世を風靡した著名人なので逆に過小評価されがちなラッセルだが、ラッセルの全体像を知りたい向きにはちょうど良い本だ。
返信削除社会改造の諸原理
現在の体制がもつ諸弊害は、消費者、生産者、資本家、といういくつかの立場の利害が、分断されていることから派生している。これら三つの立場のいずれの一つをとってみても、その利害は共同社会全体の利害、あるいは他のどの立場の利害とも同じではない。生活協同組合(コオパラティヴ)の組織は、消費者と資本家の利害を融合させており、産業協同組合主義(シンディカリズム)は、生産者と資本家の利害を融合させようとする。いずれも、さきの三つのの利害をすべて融合させるものではなく、また産業を牛耳る人々の利害を、共同社会の利害にまったく同一化させようともしていない。したがってこの二者はいずれも、産業界の闘争をまったく防止しうるわけではなく、調停者としての国家の必要性を、なくしてしまうわけでもない。しかしそのいずれにしても、現在の体制よりはましであって、おそらく両者のある折衷形態が、現存するままの工業生産体制がもつ諸弊害を、大部分、癒やすことになるであろう。
ジョン・サールのMaking the Social Worldが邦訳される!
返信削除社会的世界の制作 人間文明の構造
ジョン・サール 著、三谷 武司 訳
(勁草書房)
ISBN:978-4-326-15455-5
出版年月:2018年8月
判型・ページ数:四六判・340ページ
予価:本体3,500円+税
人間の社会的・制度的現実の基本的性質とその成り立ちを理論的に解明する。
国家、貨幣、会社、スキークラブ、夏休み、アメフトの試合――これらが「存在
する」とは一体いかなる事態なのか。志向性と言語の理論を携えて社会科学の
根本問題に取り組むサール社会的存在論の真骨頂。
宇多田ヒカル (@utadahikaru)
返信削除https://twitter.com/utadahikaru/status/1019173627340709888?s=21
2018/07/17 19:55
有名無名問わず、誰かがメディアでした話から別の誰かが一言だけ抜き取って、文脈から切り離して
ネットで持ち出して、そこから少数派を除いた多くの人がソースの文脈を参照しようとしないまま
自己投影に基づいた批判や擁護(つまり妄想)のたたき台にして論争が繰り広げられる現象にまだ
名前ないのかな
宇多田ヒカル (@utadahikaru)
https://twitter.com/utadahikaru/status/1019184883216855041?s=21
2018/07/17 20:39
ストローマン、または藁人形論法という言葉を初めて知ってスッキリした!
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-1217.html
返信削除ルーリード
「ストローマン」は、「うんと少ししか持っていない君たちに対して または全然何も持っていない君たちに対して すごくたくさん持っている俺たち 普通の人が必要とするよりもはるかにたくさんのものを持っている俺たち 新しい100万ドルの映画なんて誰が必要としているんだろうか 新しい100万ドルのスターなんて誰が必要としているんだろうか」「ワラ男よ まっすぐ悪魔のところへ行け カカシ野郎 地獄へ堕ちろ 10億ドルのロケットを 誰が必要としているんだろうか」と歌う。ルーは「1%による99%の支配」をストレートに批判している。
マルクスのテキストから政治革命は出てこない
返信削除経済決定論が政治革命を目指すのは矛盾している
社会革命を目指すべきだしエンゲルスもマルクス自身もその方向へ修正していった
ルー・リードにストローマンという曲があります。
返信削除藁人形論法を歌っているわけでは無いようですが、痛烈な歌詞です。
「…新しい100万ドルの映画なんて誰が必要としているんだろうか 新しい100万ドルのスターなんて誰が必要としているんだろうか…ワラ男よ まっすぐ悪魔のところへ行け…」
ミル/著 ≪再検索≫
返信削除著者名等
竹田加寿雄/訳 ≪再検索≫
出版者
白水社
出版年
1950.6
大きさ等
22cm 246p
注記
附:ミル論理学研究
NDC分類
133.4
書誌番号
3-0190502190
現在の予約数1人
予約かごに入れる
因果推論を学ぶ人に一冊だけ読むとしたらこの本をおすすめしています。インベンス(経済学)とルービン(統計学)が執筆した教科書です。この本の謝辞に、グリーンランド(疫学)とパール(コンピューターサイエンス)の名前を発見して少し驚きました。
返信削除#原因と結果の経済学
もう一冊読むとしたらシャディッシュ、クック、キャンベル(2002)です。因果推論の古典と言ってもよいと思います。
#原因と結果の経済学
https://twitter.com/yusuke_tsugawa/status/1118752880092049409?s=21
必要条件 十分条件 図解
返信削除野菜はトマトの必要条件
トマトは野菜の十分条件
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ネオリベの限界 (@keizaikininaru)
返信削除2020/04/26 9:03
心理的バイアスをかけて2択を提示して選択させる虚偽は
謝った二分法と言う詭弁です twitter.com/fujimaki_takes…
https://twitter.com/keizaikininaru/status/1254199449699512320?s=21