参考:
十二支縁起
http://nam-students.blogspot.jp/2018/05/blog-post_11.html
以下、末木剛博(すえきたけひろ)『東洋の合理思想』講談社現代新書33ー34頁より
「…カントはこれら三種(魂、宇宙、神)の問題に一定の解答を与えることは
不可能であることを論理的に証明している。したがってこれらの問題に関
する形而上学は論理的には成立しないといって、形而上学を排除したのである。
これを初期仏教の形而上学批判とくらべると、精粗の違いはあるが、主旨は
はなはだよく似ている。初期仏教では形而上学の立場を前述のように常見と
断見との二種に大別しているが、さらにカントのあげた諸問題とほとんど
同じ問題を論じている場合もある。たとえば『中阿含経』の一部の「箭喩経
(せんゆきょう)」では次の諸問題があげられている。
(A) 自我および世界は時間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(3)無限かつ有限である。
(B)世界は空間的に、
(1)無限である。
(2)有限である。
(C)魂と肉体とは、
(1)同一である。
(2)別異である。
(D)如来(完全な悟りを得た者)は死後に、
(1)生存する。
(2)生存しない。
これらの問題は、カントのあげた問題とは多少のずれがあるが、それは時代と国土
にもとづく関心のちがいである。しかし、たとえば(A)と(B)とは、カントの
第一および第二の問題とほとんど同じであり、(D)の如来の問題とカントの第三の
神の問題とも類似している。
相違点を挙げれば、初期仏教は(A)の問題に対して四種の解答を用意しているのに対し、
カントは、(1)無限であると(2)有限であるとの二つだけを用意し、その二者択一を
せまるのである。
『箭喩経』では四種の解答を(A)の問題だけにそろえてあるが、他の文献では、あらゆる
問題に対してそろえている場合もあり、そのほうが論理的には完全なわけである。それで
後世には、この四種の解答、つまり一問題に対する(1)肯定、(2)否定、(3)肯定
かつ否定、(4)非肯定かつ非否定、の四つを四句分別と名づけている。
ともかく、カントの提出した問題と、形の上では多少の差はあるが、本質的にはほとんど同じ
問題をかかげて、しかもカントと同様にこれらの問題に対しては何らの解答も与えられない、
と言うのである。したがって形而上学批判に関しては初期仏教はカントの批判哲学と本質的に
一致するのであり、哲学上は一種の批判主義である。」
参考:四句ベン図他
http://labo.wikidharma.org/images/7/77/四句.jpeg
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%94%BB%E5%83%8F:%E5%9B%9B%E5%8F%A5.jpeg
http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/mn.html
『中阿含経』
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552019920&tid=ja965a4ca4f2bfa1a9&sid=552019920&mid=641
『中阿含経』「人は死後存在するとか…」(長尾責任編集『世界の名著1』中央公論社p473
以下、『阿含経』より
http://space.geocities.jp/buddha_res/2.html (リンク切れ)
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130505/p2
「…マールンクヤプッタよ、世界は常住なりとの見解の存する時にも、あるいは、世界は無常なりとの見解の存するときにも、やっぱり、生はあり、老いはあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教える」
「…マールンクヤプッタよ、<人は死後もなお存するとの見解が存するとき、そのとき清浄の行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存しないとの見解が存するとき、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ。人は死後にもなお存するとの見解があるときにも、あるいは、人は死後には存しないとの見解の存するときにも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現世においてそれを克服することを教えるのである。」
(増谷文雄訳『阿含経典』p52)
_____
僧侶のたくらみ 毒矢のたとえ
http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/blog-entry-691.html
…
尊者マールンキャープッタは人影のないところへ行って静思していたが、
こころに次のような思考が起こった。
「これらの見解を世尊は説いておらず、捨てておかれ、無視されている。すなわち、
『世界は永遠である』とも、『世界は永遠でない』とも、
『世界は有限である』とも、『世界は無限である』とも、
『生命と身体とは同一である』とも、『生命と身体とは別異である』とも、
『如来は死後存在する』とも、『如来は死後存在しない』とも、
『如来は死後存在しながらしかも存在しない』とも、
『如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない』とも。
こういうこれらのさまざまな見解を世尊はわたしに説かなかった。
世尊がわたしに説かなかったということは、わたしにはうれしいことではない。
わたしには堪えられることではない。
わたしは世尊のもとへ行って、その意味を尋ねよう。
もし世尊が、答えて下さるなら、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しよう。
もし世尊が、答えて下さらないなら、
わたしは修学を放棄して、世俗の生活に戻ることにしよう。」
そこでマールンキャープッタは、
夕方、静思の座から立ち上がって、世尊のところへやってきた。
やってきて世尊にあいさつしてかたわらにすわった。
かたわらにすわったマールンキャープッタは世尊にいった。
「尊師よ、もし世尊が、『世界は永遠であるかないか』、『世界は有限か無限か』、
『生命と身体とは同じか別か』、『如来は死後存在するかしないか』、
ということについて知っているなら、世尊はわたしに説いてください。
もし世尊が知らないなら、知らない者、わからない者にとり、
『わたしは知らない、わたしはわからない』というのが正しいことです。」
「マールンキャープッタよ、
たとえばある人が毒を厚く塗った矢で射られたとしよう。
かれの友人や同僚や親戚の者たちが内科医や外科医に手当をさせようとしたとしよう。
もしかれが、『わたしを射た者がクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、
ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者の名前はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は背が高いか背が低いか中くらいか知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者はこれこれの村に、または町に、
または都市に住んでいると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た弓は普通の弓か石弓かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったり、またもしかれが、
『わたしを射た弓の弦がアッカ草でつくったものか、サンタ草でつくったものか、
動物の腱でつくったものか、マルヴァー麻でつくったものか、
キーラパンニンでつくったものかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
わたしを射た矢の矢柄がカッチャ葦であるか、
ローピマ葦であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽であるか、
あおさぎの羽であるか、鷹の羽であるか、孔雀の羽であるか、
シティラハヌの羽であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものであるか、
水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た矢は普通の矢であるか、クラッパであるか、ヴェーカンダであるか、
ナーラーチャであるか、ヴァッチャダンタであるか、
カラヴィーラパッタであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
マールンキャープッタよ、その者はそれを知らないうちに死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、これとまったく同様に、
『世界は永遠である』とか、『世界は永遠でない』とか、
『世界は有限である』とか、『世界は無限である』とか、
『生命と身体とは同一である』とか、『生命と身体とは別異である』とか、
『如来は死後存在する』とか、『如来は死後存在しない』とか、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』とか、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』とかを、
世尊がわたしに説かないうちは、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しない、
という人がおれば、マールンキャープッタよ、
世尊によって説かれないままに、その人は死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、
『それらの答えがあれば、清らかな行ないを実修するであろう』というのは正しくない。
それらの答えがあっても、
しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
わたしは現実に現世においてこれらを制圧することを説く。
マールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。
では、マールンキャープッタよ、わたしは何を説かなかったか。
『世界は永遠である』、『世界は永遠でない』、『世界は無限である」、
『生命と身体とは同一である』、『生命と身体とは別異である』、
『如来は死後存在する』、『如来は死後存在しない』、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』、とわたしは説かなかった。
マールンキャープッタよ、なにゆえにわたしはこのことを説かなかったのか。
マールンキャープッタよ、なぜならこのことは目的にかなわず、
清らかな行ないの基礎とならず、世俗的なものを厭離すること、
情欲から離れること、煩悩を消滅すること、こころの平静、すぐれた智慧、
正しいさとり、涅槃のために役に立たない。
それゆえわたしはそれを説かなかったのである。
マールンキャープッタよ、『これは苦である』とわたしは説く。
『これは苦の生起する原因である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅に導く道(実践)である』とわたしは説く。
マールンキャープッタよ、なぜにそれをわたしは説くのか。
なぜならこのことは目的にかない、清らかな行ないの初歩であり、
世俗的なものを厭離すること、情欲から離れること、煩悩を消滅すること、
こころの平静、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃のために役に立つ。
それゆえわたしはそれを説いたのである。
それゆえマールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。」
世尊は以上のように説いた。
尊者マールンキャープッタは歓喜し、世尊の教説を信受した。
パーリ原始仏典中部第63経「箭喩経」
______
______
僧侶のたくらみ 毒矢のたとえ
http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/blog-entry-691.html
…
では、マールンキャープッタよ、わたしは何を説かなかったか。
『世界は永遠である』、『世界は永遠でない』、『世界は無限である」、
『生命と身体とは同一である』、『生命と身体とは別異である』、
『如来は死後存在する』、『如来は死後存在しない』、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』、とわたしは説かなかった。
マールンキャープッタよ、なにゆえにわたしはこのことを説かなかったのか。
マールンキャープッタよ、なぜならこのことは目的にかなわず、
清らかな行ないの基礎とならず、世俗的なものを厭離すること、
情欲から離れること、煩悩を消滅すること、こころの平静、すぐれた智慧、
正しいさとり、涅槃のために役に立たない。
それゆえわたしはそれを説かなかったのである。
…
パーリ原始仏典中部第63経「箭喩経」
「マールンクヤプッタよ、<人は死後もなお存するとの見解が存するとき、そのとき清浄の
行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存しないとの見解が存
するとき、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ。人は死後にも
なお存するとの見解があるときにも、あるいは、人は死後には存しないとの見解の存するとき
にも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、
いまこの現世においてそれを克服することを教えるのである。」(増谷文雄訳『阿含経典』p52)
追記:
般若心経における「a是諸法空相、b不生不滅、c不垢不浄、d不増不減」は、
カントのカテゴリーにそれぞれ対応する。*
1量 2質
3関係4様相
1不増不減d2不垢不浄c
3不生不滅b4諸法空相a
参考:
カント、純粋理性のカテゴリー(厳密にはさらにそれぞれが3つの契機に分かれる)
量(単一性、多数性、全体性d)
質( 実在性c、否定性、限界性)
関係(実体性、 因果性b、相互性)
様態(可能性、現実存在、必然性a)
カントが挙げているアンチノミーには、(カテゴリー順に)四つ(a-d)ある(それぞれの
テーゼにアンチテーゼが対応)。**
1 世界は有限(時間的、空間的に)である。←→世界は無限である。
2 世界におけるどんな実体も単純な部分から出来ている。←→単純なものなど存在しない。
3 世界には自由な原因が存在する。←→自由は存在せず、世界における一切は自然法則に従って生起する。
4 世界の内か外に必然的な存在者がその原因として存在する。←→必然的な存在者など存在しない。
http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html
*
空海(『般若心経秘鍵』角川文庫、及びちくま文庫空海コレクション2所収)の解説だとこ
の部分は法相宗及び三論宗の教義(両者間で論争があった。空海は後者側で般若心経肯定派)。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/51/2/51_2_649/_pdf
**
般若心経は全てにおいてアンチテーゼ、懐疑論の立場に常に立つ。
独断論の立場には立たない。ただし、以下のサイトのように論理学というよりもベン図を使った集合論としてみた方が分かりやすいかも知れない。
http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2008/02/9_7cc1.html http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2009/12/12-2f05.html
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説
色\ /空
/ \/ \
/ /\ \
/ 1/3 \2 \
\ \ / /
\ \/ /
\ /\ /
\/ \/
三つの領域に区分される。「色であり、かつ空でない」領域1、「空であり、かつ色ではない」領域2、「色であり、かつ空である」領域3の三者である。…
有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。
______
| 識 |
| /\ |
|_/__\_|
/ \
/\ / \ /\
/ \/ \/ \
/ 色 /\ 空 /\ 行 \
\ \/ \/ /
\ /\ /\ /
\/ _\_ _/_ \/
| \| |/ |
| 受 \ / 想 |
| |\/| |
|___| |___|
あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経:改訂版
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_05.html
返信削除http://space.geocities.jp/buddha_res/2.html
(形而上学上の問い)
ブッダに「覚りをもたらした問い」。少なくとも、「その糸口を与えた問い」が、「阿含経典」の「箭の喩えの経」に納められている。
本経で、ブッダが、マールンクヤプッタから受けた問いは、次の四つであった。
「この世界は時間的に無限であるか、有限であるか」
「この世界は空間的に有限であるか。無限であるか」
「霊魂と身体とは同一であるか。各別であるか」
「人間は死後なお存するか、存せざるか」
問いの立て方によって、十ないし十四の立て方があるので、「十難」ないし「十四難」と称される有名な問いである。
西洋哲学が当初から「存在論」であったとおり、本経でも「存在論」が問われている。「心身の関係の問題」も問われている。増谷博士が見事に解明されたとおり、ブッダにとって、「神」とは「非凡な人」。「悪魔」とは「自らの煩悩」であった(「阿含経典」の「開題」)が、当時から、「神の存在」も問題とされていたことを考えれば、西洋哲学の「形而上学上の問い」そのものであった、ことに気づく。この側面からも、「ブッダの覚り」は、「東洋独自の思想」としてではなく、「西洋哲学の一環」と考えるべきこと、が判明しよう。
知人数名に試したが、脂汗が滲み出すような表情を浮かべ、息を呑んで、一つ一つの問いを真剣に考え始める者と、何も考えず、条件反射的に答えを出す者とに分かれた。しかも、後者にも、「なぜ、そんなことが分かるのか」と問うと、前者とまったく同じ表情を浮かべた。
(現世利益)
本経において、ブッダは、まず、「こうした問いには回答を与えない」とした。「語ることのできないものごとについては、人は沈黙しなくてはならない」としたヴィットゲンシュタインと酷似した回答、といえよう。
そして、その理由を、「……マールンクヤプッタよ、世界は常住なりとの見解の存する時にも、あるいは、世界は無常なりとの見解の存するときにも、やっぱり、生はあり、老いはあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教える」とした。なお、例によって、(いわば「言葉を惜しむ日本人」とは異なり、)西洋人らしく、一切の疑問の余地が生じないように、「他の三つの問い」に対しても、一々、まったく同じ回答を繰り返した。
次いで、「マールンクヤプッタよ、では、わたしによって説かれたこととは何であろうか」とし、「いわく、〈これは苦である〉とわたくしによって説かれた。〈これは苦の生起である〉とわたしによって説かれた。〈こは苦の滅尽である〉とわたしによって説かれた。また、〈こは苦の滅尽にいたる道である〉とわたしによって説かれた」と「彼の覚りの核心・四諦(四つの真理)」を説いた。
最後に、その理由を、「では、それらのことは、何故にわたしによって説かれたのであろうか。マールンクヤプッタよ。それは他でもない、利益があるからであり、清浄の行のはじめとなるからであり、厭離・離貪・滅尽・智通・正覚・涅槃に役立つからである。……」とした。
カントにとって許しがたい暴論となろうが、「ブッダにとっての価値(善悪の基準)」とは、「自分の利益」。しかも、「現世利益」であった、のである。
返信削除http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130505/p2
2013-05-05
シャカの道2・・・シャカは死後には無関心
仏教
シャカが人間の死後の問題についてどういうふうに考えていたかを示している二つの話がある。一つは「ヴァッチャゴッタの問い」、もう一つは「毒矢の譬え」である。これらは原始仏典『阿含経典』のなかに納められている。いずれも私たちが注目している「死後観」については、内容的にはまったく同じことを言っているので、ここでは毒矢のたとえだけを示すことにしたい。本文全体に関心のある方は増谷文雄『阿含経典』第五巻(筑摩書房)を御覧いただきたい。
マールンクヤプッタという哲学青年が、次のような哲学的な問題をシャカの所に持ってきた。<この世界は常住であるか、無常であるか。この世界は辺際があるかないか。あるいは、霊魂と身体は同じであるか、各別であるか。また、人は死後にもなお存するのであるか、存しないのであるか。あるいはまた、人は死後には存し、かつ存しないのであるか、それとも、人は死後には存するのでもなく、存しないのでもないのであろうか。>そしてマールンクヤプッタはこれらの問いにシャカが納得の行く答えをくださったら、シャカについて清浄の修業をしようと考えていた。
これらの問題は、シャカのいた時代、インドの哲学者たちの間で関心をもたれ、議論されていたものだった。シャカのいた前五世紀という時代は自由思想家の時代で、すでに「インドでは、ウパニシャッドに見られる多くの哲人が、すでに輩出したのちであった。そこには極端な唯物主義、快楽論から懐疑主義に至るまで、あらゆる思想が出そろっていた」(長尾p11)。シャカもそうした自由思想家の一人だった。
さて、この問いに対してシャカはどう答えたか。世界の永遠性についても、世界の無限性についても、霊魂と身体の一体性区別性についても、人間の死後の存在問題についても「無記」の答え、つまりイエスともノーとも答えなかった。死後の問題に関するところだけ引用しておく。
「マールンクヤプッタよ、<人は死後もなお存するとの見解が存するとき、そのとき清浄の行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存しないとの見解が存するとき、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ。人は死後にもなお存するとの見解があるときにも、あるいは、人は死後には存しないとの見解の存するときにも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現世においてそれを克服することを教えるのである。」(増谷文雄訳『阿含経典』p52)
2)アンチノミー(二律背反)
返信削除カントが挙げているアンチノミーには、四つがある。
1 世界は有限(時間的、空間的に)である。←→世界は無限である。
2 世界におけるどんな実体も単純な部分から出来ている。←→単純なものなど存在しない。
3 世界には自由な原因が存在する。←→自由は存在せず、世界における一切は自然法則に従って生起する。
4 世界の内か外に必然的な存在者がその原因として存在する。←→必然的な存在者など存在しない。
http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html
1量 2質
3関係4様相
是諸法空相、不生不滅a、不垢不浄b、不増不減c。
1不増不滅c2不垢不浄b
3不生不滅a4諸法空相d
カント第一批判
http://nam-students.blogspot.jp/2011/10/blog-post_27.html?m=0#_122
(以下『純粋理性批判』中巻)
返信削除第二部 先験的弁証論
緒言
I 先験的仮象について
II 先験的仮象の在処としての純粋理性について
A 理性一般について
B 理性の論理的使用について
C 理性の純粋使用について
第一篇 純粋理性の概念について
第一章 理念一般について
第二章 先験的理念について
第三章 先験的理念の体系
第二篇 純粋理性の弁証法的推理について
第一章 純粋理性の誤謬推理について
心〔心霊〕の常住不変性に対するメンデルスゾーンの証明を反駁する
心理学的誤謬推理に対する論定
理性的心理学から宇宙論への移り行きに関する一般的注
第二章 純粋理性のアンチノミー →☆
第一節 宇宙論的理念の体系
第二節 純粋理性の矛盾論
第一アンチノミー(先験的理念の第一の自己矛盾)
正命題
反対命題
第一アンチノミーに対する注
正命題に対する注
反対命題に対する注
第二アンチノミー(先験的理念の第二の自己矛盾)
正命題
反対命題
第二アンチノミーに対する注
正命題に対する注
反対命題に対する注
第三アンチノミー(先験的理念の第三の自己矛盾)
正命題
反対命題
第三アンチノミーに対する注
正命題に対する注
反対命題に対する注
第四アンチノミー(先験的理念の第四の自己矛盾)
正命題
反対命題
第四アンチノミーに対する注
正命題に対する注
反対命題に対する注
第三節 これらの自己矛盾における理性の関心について
第四節 絶対に解決せられ得ねばならぬ限りにおける純粋理性の先験的課題について
第五節 すべてで四個の先験的理念によって示される宇宙論的問題の懐疑的表明
第六節 宇宙論的弁証論を解決する鍵としての先験的観念論
第七節 理性の宇宙論的自己矛盾の批判的解決
第八節 宇宙論的理念に関する純粋理性の統整的原理
第九節 これら四個の宇宙論的理念に関して理性の統整的原理を経験的に使用することについて
I 現象を合成して世界全体とする場合にその合成の全体性に関する宇宙論的理念の解決
II 直観において与えられた全体を分割する場合にその分割の全体性に関する宇宙論的理念の解決
数学的-先験的理念の解決に対するむすびと力学的-先験的理念の解決に対するまえおき
III 世界の出来事をその原因から導来する場合におけるかかる導来の全体性に関する宇宙論的理念の解決
自然必然性の普遍的法則と調和するところの自由による原因性の可能
普遍的自然必然性と結合された自由という宇宙論的理念の解明
IV 現象の現実的存在に関して現象一般の依存の全体性に関する宇宙論的理念の解決
純粋理性の全アンチノミーに対するむすび
返信削除第三章 純粋理性の理想
第一節 理想一般について
第二節 先験的理想について
第三節 思弁的理性が最高存在者の現実的存在を推論する証明根拠について
第四節 神の存在の存在論的証明の不可能について
第五節 神の存在の宇宙論的証明の不可能について
必然的存在者の現実的存在に関するすべての先験的証明における弁証的仮象の発見と説明
第六節 自然神学的証明の不可能について
第七節 理性の思弁的原理に基づくあらゆる神学の批判
先験的弁証論・付録
純粋理念の統整的使用について
人間理性にもちまえの自然的弁証法の究極意図について
Amazon.co.jp: ブッダ論理学五つの難問 (講談社選書メチエ): 石飛 道子: 本
返信削除http://www.amazon.co.jp/dp/4062583356/ref=pd_sim_b_3
『アングッタラ・ニカーヤ』 3.67 の発見は意義深い! 2005/7/21
By vivekatrek VINE™ メンバー
形式:単行本(ソフトカバー)
本書を最初に読んだ時には良く分からなかった。そこで一念発起して、論理学を2年かけて勉強し直した。結果として、本や仏教経典の読解能力が高まったように思う。そして久しぶりに本書を再読すると、気になる箇所があった。
一つは、時間を含む論理に関して述べる著者の主張である。ブッダの教説を扱う場合には「因→果」と「因縁→果報」とは論理に差をもたらすので、典型的な具体例をもっと検討しなければ説得力は生まれないように思う。
もう一つは、p.90に引用した『アングッタラ・ニカーアヤ 3.67.6』の文章「ただ一つの法を直観する人であるならば、正しい解脱に触れる」の解釈である。著者は「論理学を理解したものは解脱できる」と断定するが、引用された文章に続いて「執着を離れ心の解脱がある」という文章がある。ブッダが“心の解脱”と限定しているのは、身体からの解脱、感情からの解脱、心からの解脱までは論理で到達できるが、最後の法(ダルマ)からの解脱については論理では到達できないことを示していると理解すべきであろう。
ブッダは、在家修行のままでシュダオン(預流)、シダゴン(一来)、アナゴン(不還)まで到達できると述べている。そして、阿羅漢に到達すると在家に留まることができなくなって出家すると述べている。著者が発見した経典によって、論理を究めればアナゴンまでは到達できることが分かった事は意義深いことであり、不備を補った本書の改訂版が出版されることを期待する。
Amazon.co.jp: ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道: 石飛 道子: 本
返信削除http://www.amazon.co.jp/dp/490167952X/ref=la_B004LRDRV2_1_6?ie=UTF8&qid=1367923280&sr=1-6
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5つ星のうち 5.0 阿含経典と中論が見事につながった 2007/9/24
By 熊太郎
形式:単行本
龍樹の「中論」をここまで緻密に分析した本は今まで見た事がない。
中論を題材にした本は少なくないが、ほぼその全ては、西洋思想に当てはめたり、瞑想と神秘の世界で終わったり、論理的に展開されても相依相関関係と捉える空に結論ずけらるものばかりである。
この本は、そうしたこれまでの龍樹研究より一重深い仏教の視点が平易な言葉で明かされた。
文体は難しくなく、一般人でも読み進める事も容易であるにもかかわらず、説かれた内容は高度で大乗仏教、上座部仏教を問わず、仏教を学するものは一読する価値がある。
日本においては故中村元氏の龍樹論を超えるものと言えるかもしれない。
この分野に関しては古今東西に残る名作ではないだろうか。
早期の英訳が期待される。
この作者の深い仏教理解には脱帽である。
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5つ星のうち 5.0 仏教思想に興味を持つ人必読 2008/1/25
By ドラゴン ポルト トップ500レビュアー
形式:単行本
釈尊が説いたとされる原始仏教の経典を丁寧に読み解き、中観の思想と関連させて論じています。とてもエキサイティングな内容です。平易なことばで深い哲理を説明できる力量はなかなかのものです。仏教思想に興味を持つ人には大変参考になる本です。
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5つ星のうち 3.0 真諦では俗諦を語ることは出来ない! 2008/4/2
By vivekatrek VINE™ メンバー
形式:単行本|Amazon.co.jpで購入済み
本書の内容については、著者の管理するマニカナ=ホームページのマジカナ道場で、『インド人の論理学』の著者である桂紹隆氏と興味深い議論が交わされている。幾つものテーマで議論の末、途中参加のDavid氏が著者の敗北を宣言し、著者も首肯したかに見える。また、著書への言及を感謝する三浦俊彦氏からも『論理学に関する無理解のサンプルについて 68 の指摘』が本書に対して提出されている。
なぜ、そうなったのか?
本書は、釈尊の「苦楽の中道」と龍樹の「八不中道」に共通するのが「仏教論理学」だと主張し、真理表を用いた論証を試みている。しかし、「苦楽の中道」は此岸(凡夫)から彼岸(聖者=四沙門果)に至る方法を述べた「俗諦(世俗諦)i.e. 事実」であり、「八不中道」は「真諦(勝義諦)i.e. 真理」とされる「縁起の理法」を凡夫が勘違いして執着しないように否定形で述べたものである。その龍樹も、後年の『十住毘婆紗論』では釈尊と同様に、四沙門果の最初であるシュダオン(預流)に入る重要性を力説している。
ブッダ釈尊の教法を学ぶからには、四聖諦の苦諦と滅諦が真諦(法則)であり、集諦と道諦が俗諦(法則の具体的な応用方法)であることに気づかなければならない。従って凡夫が聖者を目指すならば、我が身に照らして集諦を理解し、道諦を実践しなければならないのである。だから釈尊は、様々な個性や成長段階の凡夫に対応し得る修行法として、三十七菩提分法を創出したのである。
そのように理解すれば、凡夫が聖者に近づくために役立つ「仏教論理学」は「俗諦」の論理を扱うべきであったように思う。釈尊も龍樹も絶対視(=執着)されることを恐れて慎重に扱っていた「真諦」を真理表のような限定された方法で安易に扱ってしまったのは無謀だったかも知れない。
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Amazon.co.jp: 龍樹―あるように見えても「空」という (構築された仏教思想): 石飛 道子: 本
返信削除http://www.amazon.co.jp/dp/4333024617/ref=pd_sim_b_3
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5つ星のうち 5.0 以上なわかりやすさ 2013/3/31
By YM
ーブッダー
【縁起】だから
【無我】だから
ー龍樹ー
【 (無自性だから無他性だから)中道】だから
【空(あるでもなくないでもない)】。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わずか120ページの本に、↑たったこれだけのこ とがわかりやすーく書いてあります。
既にちゃんと中観を学んでる人には、「んなこた前提以前の常識」なのかもしれませんが、
中道、縁起、空、無我(←わざとバラバラに並べました)これらの関係、因果関係がわからなかったら、
原始仏教派のひとだったら「縁起だから無我、空とかはたぶん縁起の雑な言い換え、間違い」とか、大乗仏教派閥のひとだったら「空こそがすべて、無、縁起は間違い」とか言ってしまうかもしれません。
龍樹にせよ中観にせよ大乗にせよ、現代日本で仏教に感心を持ったひとが、本気の本気でテーラワーダ一本槍でほかはいっさい関わらない、というのでない限り、必ず、龍樹や空はついてまわります。
最初の最初の一冊に、本当におすすめです。
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ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道
石飛 道子著
エディション: 単行本
34 人中、19人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 1.0 これが論理学?, 2009/3/29
レビュー対象商品: ブッダと龍樹の論理学―縁起と中道 (単行本)
第一章を読む途中で、著者が「西洋論理学」について誤解していることがわかる。
論理学で言う「P∧Q」の、PとQの入れ替え可能の原則について、
著者は、これは日常用語の「PそしてQ」にあたるとして、日常用語ではPとQが
入れ替え不能であり、現実の世界に適用できないとしているが、「∧」は「そして」
ではなく、「かつ」のことであり、日常用語としても入れ替えはできる。
また、「PならばQ」の説明として、「これがクジラならば、これは哺乳類である」を
例文として挙げて、Pに「これがクジラである」を入れ、Qに「これは哺乳類である」を
当てはめて、「QならばP」が現実の世界では成り立たないとして、このように日常言語
で成り立たないものを、成り立つとしているのが「西洋論理学の特徴である」としている。
しかし、これはPとQにどの命題を当てはめるかで決まることではないのか。
Pが「これは哺乳類である」Qが「これはクジラである」にしたら「QならばP」は
成り立ってしまうではないか。
それに、成り立たないとされる「これが哺乳類であれば、これはクジラである」は
命題として「偽」であるだけで、日常言語の文章として成り立たないというわけではない。
おかしなところは他にもたくさんあるのだが、あげきれない。
この本にはかなり期待していたところもあるので、正直いってがっかりしてしまった。
中部経典63 毒矢のたとえ②
返信削除2010/10/26(火) 午前 0:19中部経典63 毒矢の譬え練習用
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〔毒矢のたとえ〕
「マールンキャープッタよ、たとえばある人が毒を厚く塗った矢で射られたとしよう。かれの友人や同僚や親戚の者たちが内科医や外科医に手当をさせようとしたとしよう。もしかれが、『わたしを射た者がクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、『わたしを射た者の名前はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、『わたしを射た者は背が高いか背が低いか中くらいか知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、『わたしを射た者は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、『わたしを射た者はこれこれの村に、または町に、または都市に住んでいると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、『わたしを射た弓は普通の弓か石弓かが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったり、またもしかれが、『わたしを射た弓の弦がアッカ草でつくったものか、サンタ草でつくったものか、動物の腱でつくったものか、マルヴァー麻でつくったものか、キーラパンニンでつくったものかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄がカッチャ葦であるか、ローピマ葦であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、『わたしを射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽であるか、あおさぎの羽であるか、鷹の羽であるか、孔雀の羽であるか、シティラハヌの羽であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、『わたしを射た矢は普通の矢であるか、クラッパであるか、ヴェーカンダであるか、ナーラーチャであるか、ヴァッチャダンタであるか、カラヴィーラパッタであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、マールンキャープッタよ、その者はそれを知らないうちに死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、これとまったく同様に、『世界は永遠である』とか、『世界は永遠でない』とか、『世界は有限である』とか、『世界は無限である』とか、『生命と身体とは同一である』とか、『生命と身体とは別異である』とか、『如来は死後存在する』とか、『如来は死後存在しない』とか、『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』とか、『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』とかを、世尊がわたしに説かないうちは、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しない、という人がおれば、マールンキャープッタよ、世尊によって説かれないままに、その人は死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、『<世界は永遠である>という見解があるとき、清らかな行いを実践するであろう』というのは正しくない。マールンキャープッタよ、<世界は永遠でない>という見解があるとき、清らかな行いを実践するであろう』というのも正しくない。『世界は永遠である』という見解があっても、『世界は永遠ではない』という見解があっても、しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。わたしは現実に(現世において)これらを制圧することを説く。
ナイス!0
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/63041041.html
シャカの道2・・・シャカは死後には無関心 - 苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳
返信削除http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130505/p2
2013-05-05
シャカの道2・・・シャカは死後には無関心Add Star
仏教
シャカが人間の死後の問題についてどういうふうに考えていたかを示している二つの話がある。一つは「ヴァッチャゴッタの問い」、もう一つは「毒矢の譬え」である。これらは原始仏典『阿含経典』のなかに納められている。いずれも私たちが注目している「死後観」については、内容的にはまったく同じことを言っているので、ここでは毒矢のたとえだけを示すことにしたい。本文全体に関心のある方は増谷文雄『阿含経典』第五巻(筑摩書房)を御覧いただきたい。
マールンクヤプッタという哲学青年が、次のような哲学的な問題をシャカの所に持ってきた。<この世界は常住であるか、無常であるか。この世界は辺際があるかないか。あるいは、霊魂と身体は同じであるか、各別であるか。また、人は死後にもなお存するのであるか、存しないのであるか。あるいはまた、人は死後には存し、かつ存しないのであるか、それとも、人は死後には存するのでもなく、存しないのでもないのであろうか。>そしてマールンクヤプッタはこれらの問いにシャカが納得の行く答えをくださったら、シャカについて清浄の修業をしようと考えていた。
これらの問題は、シャカのいた時代、インドの哲学者たちの間で関心をもたれ、議論されていたものだった。シャカのいた前五世紀という時代は自由思想家の時代で、すでに「インドでは、ウパニシャッドに見られる多くの哲人が、すでに輩出したのちであった。そこには極端な唯物主義、快楽論から懐疑主義に至るまで、あらゆる思想が出そろっていた」(長尾p11)。シャカもそうした自由思想家の一人だった。
さて、この問いに対してシャカはどう答えたか。世界の永遠性についても、世界の無限性についても、霊魂と身体の一体性区別性についても、人間の死後の存在問題についても「無記」の答え、つまりイエスともノーとも答えなかった。死後の問題に関するところだけ引用しておく。
「マールンクヤプッタよ、<人は死後もなお存するとの見解が存するとき、そのとき清浄の行がなる>ということはない。マールンクヤプッタよ、<人は死後には存しないとの見解が存するとき、そのとき清浄の行がなる>ということもない。マールンクヤプッタよ。人は死後にもなお存するとの見解があるときにも、あるいは、人は死後には存しないとの見解の存するときにも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現世においてそれを克服することを教えるのである。」(増谷文雄訳『阿含経典』p52)
死後、人間がどうなるかということについては、シャカは何も答えない。シャカにとっては、死後どうなるかという問題は現世の苦悩にはなんら関係がない。そして、シャカは自分の務めはなにかといえば、「いまこの現世において」人間が持つもろもろの苦悩を克服する方法を教えることなのだということである。徹底した現世主義。この点がシャカの思想が、もろもろの形而上学的な問題を議論することで明け暮れていた当時の自由思想家のなかでユニークな点であった。
シャカは死後の「救い」については沈黙して、「いまこの現世において」というところに集中して、苦悩からの解放の道を説こうとした。シャカにとっては死後の「救い」は関心の外にある。だから、自分が死のうとするときにも、シャカは弟子たちに命じた。「私の葬式には在家の信者たちがするだろうから、君たちは大切な修業に専念しなさい。」と。
そういうことから考えると、もしかりにシャカという人物が現代の日本に生きていたら、一般的な意味での宗教家という範疇の外の人であろう。日本では、宗教というものは死後の問題を扱うものであり、宗教家というのは葬式や死者の供養にかかわる務めをするものであるというのが、一般的な考え方であるから。もし現代にシャカが生きていたら、「葬式仏教」の現状に目玉が飛び出るだろう。彼自身は大学の心理学ゼミの教授か、あるいは町の精神科のクリニックのお医者さんをしているのではないか。
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僧侶のたくらみ 毒矢のたとえ
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2008.09.11 毒矢のたとえ
仏教
お釈迦さまは「無記」によって霊魂や死後の世界を否定したのだ、とよく言われます。
しかし、これは意図的に捻じ曲げられた解釈なのです。
有名な「毒矢のたとえ」を見てみましょう。
尊者マールンキャープッタは人影のないところへ行って静思していたが、
こころに次のような思考が起こった。
「これらの見解を世尊は説いておらず、捨てておかれ、無視されている。すなわち、
『世界は永遠である』とも、『世界は永遠でない』とも、
『世界は有限である』とも、『世界は無限である』とも、
『生命と身体とは同一である』とも、『生命と身体とは別異である』とも、
『如来は死後存在する』とも、『如来は死後存在しない』とも、
『如来は死後存在しながらしかも存在しない』とも、
『如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない』とも。
こういうこれらのさまざまな見解を世尊はわたしに説かなかった。
世尊がわたしに説かなかったということは、わたしにはうれしいことではない。
わたしには堪えられることではない。
わたしは世尊のもとへ行って、その意味を尋ねよう。
もし世尊が、答えて下さるなら、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しよう。
もし世尊が、答えて下さらないなら、
わたしは修学を放棄して、世俗の生活に戻ることにしよう。」
そこでマールンキャープッタは、
夕方、静思の座から立ち上がって、世尊のところへやってきた。
やってきて世尊にあいさつしてかたわらにすわった。
かたわらにすわったマールンキャープッタは世尊にいった。
「尊師よ、もし世尊が、『世界は永遠であるかないか』、『世界は有限か無限か』、
『生命と身体とは同じか別か』、『如来は死後存在するかしないか』、
ということについて知っているなら、世尊はわたしに説いてください。
もし世尊が知らないなら、知らない者、わからない者にとり、
『わたしは知らない、わたしはわからない』というのが正しいことです。」
「マールンキャープッタよ、
たとえばある人が毒を厚く塗った矢で射られたとしよう。
かれの友人や同僚や親戚の者たちが内科医や外科医に手当をさせようとしたとしよう。
もしかれが、『わたしを射た者がクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、
ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者の名前はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は背が高いか背が低いか中くらいか知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者はこれこれの村に、または町に、
または都市に住んでいると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た弓は普通の弓か石弓かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったり、またもしかれが、
『わたしを射た弓の弦がアッカ草でつくったものか、サンタ草でつくったものか、
動物の腱でつくったものか、マルヴァー麻でつくったものか、
キーラパンニンでつくったものかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
わたしを射た矢の矢柄がカッチャ葦であるか、
ローピマ葦であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽であるか、
あおさぎの羽であるか、鷹の羽であるか、孔雀の羽であるか、
シティラハヌの羽であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものであるか、
水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た矢は普通の矢であるか、クラッパであるか、ヴェーカンダであるか、
ナーラーチャであるか、ヴァッチャダンタであるか、
カラヴィーラパッタであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
マールンキャープッタよ、その者はそれを知らないうちに死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、これとまったく同様に、
『世界は永遠である』とか、『世界は永遠でない』とか、
『世界は有限である』とか、『世界は無限である』とか、
『生命と身体とは同一である』とか、『生命と身体とは別異である』とか、
『如来は死後存在する』とか、『如来は死後存在しない』とか、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』とか、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』とかを、
世尊がわたしに説かないうちは、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しない、
という人がおれば、マールンキャープッタよ、
世尊によって説かれないままに、その人は死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、
『それらの答えがあれば、清らかな行ないを実修するであろう』というのは正しくない。
それらの答えがあっても、
しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
わたしは現実に現世においてこれらを制圧することを説く。
マールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。
では、マールンキャープッタよ、わたしは何を説かなかったか。
『世界は永遠である』、『世界は永遠でない』、『世界は無限である」、
『生命と身体とは同一である』、『生命と身体とは別異である』、
『如来は死後存在する』、『如来は死後存在しない』、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』、とわたしは説かなかった。
マールンキャープッタよ、なにゆえにわたしはこのことを説かなかったのか。
マールンキャープッタよ、なぜならこのことは目的にかなわず、
清らかな行ないの基礎とならず、世俗的なものを厭離すること、
情欲から離れること、煩悩を消滅すること、こころの平静、すぐれた智慧、
正しいさとり、涅槃のために役に立たない。
それゆえわたしはそれを説かなかったのである。
マールンキャープッタよ、『これは苦である』とわたしは説く。
『これは苦の生起する原因である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅に導く道(実践)である』とわたしは説く。
マールンキャープッタよ、なぜにそれをわたしは説くのか。
なぜならこのことは目的にかない、清らかな行ないの初歩であり、
世俗的なものを厭離すること、情欲から離れること、煩悩を消滅すること、
こころの平静、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃のために役に立つ。
それゆえわたしはそれを説いたのである。
それゆえマールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。」
世尊は以上のように説いた。
尊者マールンキャープッタは歓喜し、世尊の教説を信受した。
パーリ原始仏典中部第63経「箭喩経」
このマールンキャープッタの問いは、
「霊魂の有無」や「死後の世界の有無」に関するものではありません。
問いは、「肉体といのちの同異」や「如来の死後の状態」に関するものなのです。
しかも、お釈迦さまの答えは、
それらの答えがどうであろうとも、現に生老病死の苦がある、
その解決が先である、というものです。
お釈迦さまは、現世において現実の苦しみを解決をしないと、
また来世で苦の輪廻を受けることになるというカルマの法則を示しておられるのです。
「無記」というのは、霊魂や死後の世界を否定したものではありません。
僧侶のたくらみ 毒矢のたとえ
返信削除http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/blog-entry-691.html
…
では、マールンキャープッタよ、わたしは何を説かなかったか。
『世界は永遠である』、『世界は永遠でない』、『世界は無限である」、
『生命と身体とは同一である』、『生命と身体とは別異である』、
『如来は死後存在する』、『如来は死後存在しない』、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』、とわたしは説かなかった。
マールンキャープッタよ、なにゆえにわたしはこのことを説かなかったのか。
マールンキャープッタよ、なぜならこのことは目的にかなわず、
清らかな行ないの基礎とならず、世俗的なものを厭離すること、
情欲から離れること、煩悩を消滅すること、こころの平静、すぐれた智慧、
正しいさとり、涅槃のために役に立たない。
それゆえわたしはそれを説かなかったのである。
…
パーリ原始仏典中部第63経「箭喩経」
(参考:増谷文雄訳『阿含経典』p52)
返信削除諸派の聖典集成は一般に三つの部類に区分されており、それを「三蔵」といいます。パーリ語聖典の三蔵は次の三つから成ります。
律蔵 出家した修行者のための戒律の規定、およびそれに関連する説明を述べています。
経蔵 釈尊および直弟子の教えを記したもので、次の五つの集成書から成ります。(下は相当する漢訳の経典)
1長部(ディーガ・ニカーヤ) 『長阿含経』
2中部(マッジマ・ニカーヤ) 『中阿含経』
3相応部(サンユッタ・ニカーヤ) 『雑阿含経』
4増支部(アングッタラ・ニカーヤ) 『増壱阿含経』
5小部(クッダカ・ニカーヤ)
最後の小部は十五の部分から成りますが、そのうちには『スッタニパータ』(非常に古い教えを含む)、『ダンマパダ』(法句経)、『ジャータカ』(釈尊の過去世物語)などを含みます。
論蔵 教義に関する論書の集成であり、経蔵や律蔵の中に現れる諸観念や諸術語を論議している諸々の解観念や諸術語を論議している諸々の解説・注釈・研究です。
中村元原始仏典
「六処相応」[1](ろくしょそうおう、巴: Saḷāyatana-saṃyutta, サラーヤタナ・サンユッタ)とは、パーリ仏典経蔵相応部に収録されている第35相応。
相応部六処篇 44・10無記説相応 10阿難 - 原始仏典・和訳&解説 @ 和井恵流 | @wiki
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/sp/pages/17.html
■相応部経典 六処篇 44.第10無記説相応 10阿難
〈 和 訳 〉
ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 ( 出家者 ) が、世尊 が 滞在している処 へと 赴 ( おもむ ) いて、次のように 尋ねました。
「 ゴータマ尊 よ、我 (アートマン ) は 有る ( 存在する ) のでしょうか? 」
── この 質問 に、釈尊は、黙したまま 何も 答えません。
「 それならば、ゴータマ尊 よ、我 (アートマン ) は 無い ( 存在しない ) のでしょうか? 」
── この 質問 に対しても、釈尊は、黙したまま 何も 答えません。
計三度 尋ねても、釈尊 は 三度とも 黙して答えなかった ので、その 普行沙門 は 立ち去って しまいました。
この ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 が 立ち去ってから しばらくして、
尊者アーナンダ は 釈尊 に、次のような 質問を しました。
「 大徳よ、どうして世尊は、先の ヴァッチャ族出身の普行沙門が質問したこと に、返答をされなかった のですか? 」
「 アーナンダよ、もし 私が 彼に 『 我は有る ( アートマンは 存在する ) 』 と 答えていたならば、
彼は 常住論 に陥っていたであろう。
── しかしまた、もし 私が 彼に、『 我は 無い ( アートマンは 存在しない ) 』 と 答えていたならば、
断滅論 に 陥ることに なったであろう。
そして、アーナンダよ、さらに、もしも『 我は有る 』 と 答えたならば、
〔 一切法は無我である 〕 という智慧の発現の障害となっていたし、
『 我は無し 』 と 答えたならば、愚かな ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 は、
『 先にも 今も、我は 無し 』 と考えて、ますます 迷妄 に 陥ったであろう。」
── と、このように、釈尊 は 説明 を されたのです。
〈 和 訳・おわり 〉
六処相応 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/六処相応
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六処相応
パーリ仏典 > 経蔵 (パーリ) > 相応部 > 六処相応
「六処相応」[1](ろくしょそうおう、巴: Saḷāyatana-saṃyutta, サラーヤタナ・サンユッタ)とは、パーリ仏典経蔵相応部に収録されている第35相応。
目次
構成 編集
19品248経から成るが、省略されている部分も多い。
Anicca-vaggo --- 全12経
Yamaka-vaggo --- 全10経
Sabba-vaggo --- 全10経
Jātidhamma-vaggo --- 全10経
Sabbaanicca-vaggo --- 全10経
Avijjā-vaggo --- 全10経
Migajāla-vaggo --- 全11経
Gilāna-vaggo --- 全10経
Channa-vaggo --- 全10経
Saḷa-vaggo --- 全10経
Yogakkhemi-vaggo --- 全10経
Lokakāmaguṇa-vaggo --- 全10経
Gahapati-vaggo --- 全10経
Devadaha-vaggo --- 全12経
Navapurāṇa-vaggo --- 全10経
Nandikkhaya-vaggo --- 全12経
Saṭṭhi-peyyāla-vaggo --- 全60経
Samudda-vaggo --- 全10経
Āsīvisa-vaggo --- 全11経
日本語訳 編集
『南伝大蔵経・経蔵・相応部経典4』(第15巻) 大蔵出版
『原始仏典II 相応部経典4』 中村元監修 春秋社
脚注・出典 編集
^ 『南伝大蔵経』
関連項目 編集
外部リンク 編集
Saḷāyatanasaṃyuttaṃ - Tipitaka.org
ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 ( 出家者 ) が、世尊 が 滞在している処 へと 赴 ( おもむ ) いて、次のように 尋ねました。
「 ゴータマ尊 よ、我 (アートマン ) は 有る ( 存在する ) のでしょうか? 」
── この 質問 に、釈尊は、黙したまま 何も 答えません。
「 それならば、ゴータマ尊 よ、我 (アートマン ) は 無い ( 存在しない ) のでしょうか? 」
── この 質問 に対しても、釈尊は、黙したまま 何も 答えません。
計三度 尋ねても、釈尊 は 三度とも 黙して答えなかった ので、その 普行沙門 は 立ち去って しまいました。
この ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 が 立ち去ってから しばらくして、
尊者アーナンダ は 釈尊 に、次のような 質問を しました。
「 大徳よ、どうして世尊は、先の ヴァッチャ族出身の普行沙門が質問したこと に、返答をされなかった のですか? 」
「 アーナンダよ、もし 私が 彼に 『 我は有る ( アートマンは 存在する ) 』 と 答えていたならば、
彼は 常住論 に陥っていたであろう。
── しかしまた、もし 私が 彼に、『 我は 無い ( アートマンは 存在しない ) 』 と 答えていたならば、
断滅論 に 陥ることに なったであろう。
そして、アーナンダよ、さらに、もしも『 我は有る 』 と 答えたならば、
〔 一切法は無我である 〕 という智慧の発現の障害となっていたし、
『 我は無し 』 と 答えたならば、愚かな ヴァッチャ族出身 の 普行沙門 は、
『 先にも 今も、我は 無し 』 と考えて、ますます 迷妄 に 陥ったであろう。」
── と、このように、釈尊 は 説明 を されたのです。
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/sp/pages/17.html
2009年12月 6日
返信削除般若心経解説(12)受想行識亦復如是
~ シリーズ最初からよむ人はこちら ~
(漢文読み下し)
受想行識もまたかくの如し
(梵文和訳)
まさしくこのように、受想行識は(空性であり、空性こそが受想行識なのである。受想行識は空性とは異ならず、空性は受想行識とは異ならない。受想行識であるところのものが空性であり、空性であるところのものが受想行識なのである)。
この一節は、色不異空などの縁起的存在のあり方を色のみならず受想行識にも適用できるという意味である。だから、繰り返しを厭わずに述べると、以下のようになる。(括弧内はサンスクリットの般若心経にのみ存在する意味。)
(受は空性であり、空性がまさしく受なのである。)受は空性とは異ならず、空性は受とは異ならない。受であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが受なのである。
(想は空性であり、空性がまさしく想なのである。)想は空性とは異ならず、空性は想とは異ならない。想であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが想なのである。
(行は空性であり、空性がまさしく行なのである。)行は空性とは異ならず、空性は行とは異ならない。行であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが行なのである。
(識は空性であり、空性がまさしく識なのである。)識は空性とは異ならず、空性は識とは異ならない。識であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが識なのである。
受は苦楽の感受作用、想は対象の形相を捉える構想作用、行は意志や動機などの力動的な心理作用、識は認識作用である。これらには、定まった性質(すなわち自性)がない。
たとえば、同じ水を感受するにしても、渇いているときは快楽を感じるが、溺れているときは苦痛以外の何ものでもない。あるいは、薄暗い道で長いものをみつけて蛇だと思って恐れる場合もあれば縄だと分かって安堵する場合もあるように、同じ対象が必ずしも同じ形相に捉えられることはない。また、人間の意志(たとえば特定の人への愛情)は永遠ではなく、ころころと変わってしまう。さらに、さまざまな経験によって対象に対する認識はどんどん変化していく。むしろ、状況によってどんどん心が変化しうるからこそ人間は外界に適応できるのだとさえ言える。
ところで、色は広義には目に見えている形あるもの、すなわち事物一般である。事物一般は永遠不滅ではなく時間とともにいずれ形が崩れていくものであり、それゆえ実体性がない。だが、この場合の色は、狭義に肉体と考えても差し支えない。そして、人間の心に相当する受想行識もまた色と同じ法則のもとにあるということは、人間は身心ともに空性であるという意味でもある。
一般に、初期仏教(原始仏教から説一切有部などの部派仏教まで)では我が空であることまでしか明らかにされず、大乗仏教において初めてあらゆる要素的存在(すなわち諸法)もまた空であることが明らかにされたと考えられている。そして、般若心経のこの一節までが初期仏教の我空を意味し、この後の「舎利子是諸法空相」以下の部分で法空が明らかにされる、と解釈されることもある。
たしかに個人が死んで無になっても外界はそのまま存続しているのだが、もしこれを、初期仏教は“皮膚の内側”のみを空として“皮膚の外側”を有と考えたと見なしたならば、それには少々問題がある。なぜなら、皮膚の外側にある形あるもの(色)もまた生滅することは、諸行無常・諸法無我によって原始仏教の頃からすでに教えているからである。この教えをうけて部派仏教では、形あるあらゆる事物がそれ自身としては実体性がなく諸法(すなわち要素的存在)に還元される(分解される)故に空である、と見なした。ところがそこまでで認識が止まってしまった。一方、大乗仏教徒はその諸法までもが空であるとの認識に達した。皮膚の内外(または自他)が問題なのではなく、むしろ存在の根底が空であるかどうかが問題だったのである。
《以前》、色即是空の解説のために以下の図を使用した。
色と空(2)
これを拡張して、これまでの経文の意味を一括して図示すると以下のような図になるだろう。
五蘊と空
中央の大きな円が空性を表わす。そして、それ以外の(円の外側)部分は、仏教的には存在しないものの領域を意味する。空性の円と色受想行識の円とが重なったアーモンド型の五つの領域は、おのおの色即是空、受即是空、想即是空、行即是空、識即是空を意味する。これらが世の中に実際に存在する五蘊であり、これらをまとめて有為法という。また、これらの外側に割り当てられる色受想行識は、存在していると観念的に思われているだけで実際には存在していない。一方、中央の☆の水色領域は無為法を意味する。有為法と無為法を合わせて一切法という。それは中央の大きな円に相当するから、一切法は空性であることになる。
原始仏教では五蘊が一切法だったが、部派仏教になるとそれらは有為法と呼ばれ、その他に無為法が加えられた。説一切有部は虚空、択滅、非択滅の三つを無為とし、唯識法相宗はさらに不動滅、想受滅、真如を加えて六無為とした。
虚空は五蘊を容れる空間である。択滅は涅槃と同義とみていいだろう。非択滅は縁が欠けているために何も生じない状態である。『大乘百法明門論解』(大蔵経テキストデータベースを参照)によると、不動滅は色界の第四禅で顕われる真理、想受滅は無色界の無所有処で想受が働かないときに顕われる真理だから、深い禅定で体得される空の理を意味していると考えて差し支えあるまい。真如は第一義諦としての空性そのものと考えていいのではないかと思う。無為法は、色の否定としての空、ないし受想行識の否定としての空とほとんど同じものを指していると言ってもよかろう。いわば無になった状態を意味する概念である。
色でない空性の領域には、空である受想行識(四つのアーモンド型の領域)も含まれてはいるが、これは色ではない別の存在状態を意味している。しかしながら、「色即是空」で言いたいのは“色であると同時に空である状態”だから、この四つのアーモンド型の領域はあまり議論すべき問題ではなかったのだろう。「色即是空 空即是色」で警戒すべき重要な点は、色を否定するあまり空無の観念に陥ってしまって色がそのまま空であることを見落としてしまうことである。
原始仏教では、涅槃が無為とされる。それは、あえて何かを打ち立てたのではない状態を意味する。有るがままに(現象が)有り無いがままに(自性が)無い状態の認識(般若の智慧)にとどまっているのが涅槃だが、原始仏教では完全な涅槃(般涅槃)は肉体を滅した涅槃(無余依涅槃)だから、彼岸という虚無の世界がそれ自体として存在するような気がする。だが、もしもここで無為“法”として何らかの観念を打ち立てたなら、それはもはや法であって無為そのものではないだろう。涅槃はあらゆる観念を離れて寂静としている。それと同様、六無為もまた本来は“法”ではない。
しかし、概念的に整理するために説一切有部はそれらを法として扱っている。私がここで提示した図もまた概念的な整理のためである。私が真如を意味するときに「この図の向こう側」などと表現するのは、そのためである。真如もまた概念的に把握するならばこの無為法の領域に入る。そして無為“法”の向こう側には、無為法の実相としての無為がある。
般若心経の経文自体は、無為法もまた空性であるとは明言していない。しかし、のちほど経文に出て来る「無苦集滅道」の滅は択滅を意味しているから、無為法もまた五蘊等の有為法と同列に空性であると見なしていると考えて差し支えなかろう。
ところで、この図では我ないし人間はどこにいるのか。
インド哲学でいう我(アートマン)は、実体であって空ではないとされるのだから、中央の大きな円の外側、すなわち存在しない領域に割り当てられる。一方、縁起的な現象としての人間は、これらの五蘊(五つのアーモンド型の領域)から構成されたものである。だから、存在の要素(すなわち法)のどれかとしては出て来ない。
あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。現象としての人間はどの部分をとっても空性だが、自らの五蘊の全体またはその一部でもある。たとえば、肉体の一部が欠けていても人間だし、感覚が麻痺している場合には受がないし、深く眠っている場合には識がない。また、感情などを抑圧している場合には、私の心の一部を恣意的に否定していることになろう。誰でも「人間」と言ったり「私」と言ったりする場合には、このようにその状況で生理的・恣意的に変化する伸縮自在な一定範囲を指してそう宣言しているのである。
結局は、「これが私だ」と恣意的に定義され、執着され、永遠だと誤認されたものが「我」なのであって、それは実体として客観的に存在するものではない。ところが、実体としては存在しないけれども、「私」という言葉のもとにかき集められた身心が、現象としては存在しているのである。
〔つづきはこちら〕
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空はバラモンとの論争において発達した論理学的概念だ
返信削除ただし、以下のサイトのように論理学というよりもベン図を使った集合論としてみた方が
分かりやすいかも知れない。
http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2008/02/9_7cc1.html http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2009/12/12-2f05.html 「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説 色\ /空 / \/ \ / /\ \ / 1/3 \2 \ \ \ / / \ \/ / \ /\ / \/ \/ 三つの領域に区分される。「色であり、かつ空でない」領域1、
「空であり、かつ色ではない」領域2、「色であり、かつ空である」領域3の三者である。… 有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。 ______ | 識 | | /\ | |_/__\_| / \ /\ / \ /\ / \/ \/ \ / 色 /\ 空 /\ 行 \ \ \/ \/ / \ /\ /\ / \/ _\_ _/_ \/ | \| |/ | | 受 \ / 想 | | |\/| | |___| |___| あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
空はバラモンとの論争において発達した論理学的概念だ
返信削除ただし、以下のサイトのように論理学というよりもベン図を使った集合論としてみた方が
分かりやすいかも知れない。
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「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説
色\ /空
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三つの領域に区分される。「色であり、かつ空でない」領域1、
「空であり、かつ色ではない」領域2、「色であり、かつ空である」領域3の三者である。…
有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。
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あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
返信削除空はバラモンとの論争において発達した論理学的概念だ。
ただし、以下のサイトのように論理学というよりもベン図を使った集合論としてみた方が
分かりやすいかも知れない。
http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2008/02/9_7cc1.html http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2009/12/12-2f05.html
般若心経解説(12)受想行識亦復如是
(漢文読み下し)
受想行識もまたかくの如し
(梵文和訳)
まさしくこのように、受想行識は(空性であり、空性こそが受想行識なのである。受想行識は空性とは異ならず、空性は受想行識とは異ならない。受想行識であるところのものが空性であり、空性であるところのものが受想行識なのである)。
この一節は、色不異空などの縁起的存在のあり方を色のみならず受想行識にも適用できるという意味である。だから、繰り返しを厭わずに述べると、以下のようになる。(括弧内はサンスクリットの般若心経にのみ存在する意味。)
(受は空性であり、空性がまさしく受なのである。)受は空性とは異ならず、空性は受とは異ならない。受であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが受なのである。
(想は空性であり、空性がまさしく想なのである。)想は空性とは異ならず、空性は想とは異ならない。想であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが想なのである。
(行は空性であり、空性がまさしく行なのである。)行は空性とは異ならず、空性は行とは異ならない。行であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが行なのである。
(識は空性であり、空性がまさしく識なのである。)識は空性とは異ならず、空性は識とは異ならない。識であるところのもの、それが空性であり、空性であるところのもの、それが識なのである。
受は苦楽の感受作用、想は対象の形相を捉える構想作用、行は意志や動機などの力動的な心理作用、識は認識作用である。これらには、定まった性質(すなわち自性)がない。
…
ところで、色は広義には目に見えている形あるもの、すなわち事物一般である。事物一般は永遠不滅ではなく時間とともにいずれ形が崩れていくものであり、それゆえ実体性がない。だが、この場合の色は、狭義に肉体と考えても差し支えない。そして、人間の心に相当する受想行識もまた色と同じ法則のもとにあるということは、人間は身心ともに空性であるという意味でもある。
一般に、初期仏教(原始仏教から説一切有部などの部派仏教まで)では我が空であることまでしか明らかにされず、大乗仏教において初めてあらゆる要素的存在(すなわち諸法)もまた空であることが明らかにされたと考えられている。そして、般若心経のこの一節までが初期仏教の我空を意味し、この後の「舎利子是諸法空相」以下の部分で法空が明らかにされる、と解釈されることもある。
…
《以前》、色即是空の解説のために以下の図を使用した。
色と空(2)
色\ /空
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これを拡張して、これまでの経文の意味を一括して図示すると以下のような図になるだろう。
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中央の大きな円が空性を表わす。そして、それ以外の(円の外側)部分は、仏教的には存在しないものの領域を意味する。空性の円と色受想行識の円とが重なったアーモンド型の五つの領域は、おのおの色即是空、受即是空、想即是空、行即是空、識即是空を意味する。これらが世の中に実際に存在する五蘊であり、これらをまとめて有為法という。また、これらの外側に割り当てられる色受想行識は、存在していると観念的に思われているだけで実際には存在していない。一方、中央の☆の水色領域は無為法を意味する。有為法と無為法を合わせて一切法という。それは中央の大きな円に相当するから、一切法は空性であることになる。
原始仏教では五蘊が一切法だったが、部派仏教になるとそれらは有為法と呼ばれ、その他に無為法が加えられた。説一切有部は虚空、択滅、非択滅の三つを無為とし、唯識法相宗はさらに不動滅、想受滅、真如を加えて六無為とした。
虚空は五蘊を容れる空間である。択滅は涅槃と同義とみていいだろう。非択滅は縁が欠けているために何も生じない状態である。『大乘百法明門論解』(大蔵経テキストデータベースを参照)によると、不動滅は色界の第四禅で顕われる真理、想受滅は無色界の無所有処で想受が働かないときに顕われる真理だから、深い禅定で体得される空の理を意味していると考えて差し支えあるまい。真如は第一義諦としての空性そのものと考えていいのではないかと思う。無為法は、色の否定としての空、ないし受想行識の否定としての空とほとんど同じものを指していると言ってもよかろう。いわば無になった状態を意味する概念である。
色でない空性の領域には、空である受想行識(四つのアーモンド型の領域)も含まれてはいるが、これは色ではない別の存在状態を意味している。しかしながら、「色即是空」で言いたいのは“色であると同時に空である状態”だから、この四つのアーモンド型の領域はあまり議論すべき問題ではなかったのだろう。「色即是空 空即是色」で警戒すべき重要な点は、色を否定するあまり空無の観念に陥ってしまって色がそのまま空であることを見落としてしまうことである。
原始仏教では、涅槃が無為とされる。それは、あえて何かを打ち立てたのではない状態を意味する。有るがままに(現象が)有り無いがままに(自性が)無い状態の認識(般若の智慧)にとどまっているのが涅槃だが、原始仏教では完全な涅槃(般涅槃)は肉体を滅した涅槃(無余依涅槃)だから、彼岸という虚無の世界がそれ自体として存在するような気がする。だが、もしもここで無為“法”として何らかの観念を打ち立てたなら、それはもはや法であって無為そのものではないだろう。涅槃はあらゆる観念を離れて寂静としている。それと同様、六無為もまた本来は“法”ではない。
しかし、概念的に整理するために説一切有部はそれらを法として扱っている。私がここで提示した図もまた概念的な整理のためである。私が真如を意味するときに「この図の向こう側」などと表現するのは、そのためである。真如もまた概念的に把握するならばこの無為法の領域に入る。そして無為“法”の向こう側には、無為法の実相としての無為がある。
般若心経の経文自体は、無為法もまた空性であるとは明言していない。しかし、のちほど経文に出て来る「無苦集滅道」の滅は択滅を意味しているから、無為法もまた五蘊等の有為法と同列に空性であると見なしていると考えて差し支えなかろう。
ところで、この図では我ないし人間はどこにいるのか。
インド哲学でいう我(アートマン)は、実体であって空ではないとされるのだから、中央の大きな円の外側、すなわち存在しない領域に割り当てられる。一方、縁起的な現象としての人間は、これらの五蘊(五つのアーモンド型の領域)から構成されたものである。だから、存在の要素(すなわち法)のどれかとしては出て来ない。
あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。現象としての人間はどの部分をとっても空性だが、自らの五蘊の全体またはその一部でもある。たとえば、肉体の一部が欠けていても人間だし、感覚が麻痺している場合には受がないし、深く眠っている場合には識がない。また、感情などを抑圧している場合には、私の心の一部を恣意的に否定していることになろう。誰でも「人間」と言ったり「私」と言ったりする場合には、このようにその状況で生理的・恣意的に変化する伸縮自在な一定範囲を指してそう宣言しているのである。
結局は、「これが私だ」と恣意的に定義され、執着され、永遠だと誤認されたものが「我」なのであって、それは実体として客観的に存在するものではない。ところが、実体としては存在しないけれども、「私」という言葉のもとにかき集められた身心が、現象としては存在しているのである。
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空はバラモンとの論争において発達した論理学的概念だ。
返信削除ただし、以下のサイトのように論理学というよりもベン図を使った集合論としてみた方が
分かりやすいかも知れない。
http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2008/02/9_7cc1.html http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2009/12/12-2f05.html
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説
色\ /空
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三つの領域に区分される。
「色であり、かつ空でない」領域1、
「空であり、かつ色ではない」領域2、
「色であり、かつ空である」領域3
の三者である。…
有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。
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あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
返信削除空はバラモンとの論争において発達した論理学的概念だ。
(ブッダの時代では空より無限の方が概念として親和性は高かったろう…)
ただし、以下のサイトのように論理学というよりもベン図を使った集合論としてみた方が
分かりやすいかも知れない。
http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2008/02/9_7cc1.html http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2009/12/12-2f05.html
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説
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三つの領域に区分される。
「色であり、かつ空でない」領域1、
「空であり、かつ色ではない」領域2、
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の三者である。…
有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。
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あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
悪人、善人、
キリスト教的に救われる人、裁かれる人、
この集合論は倫理的にも活用できる。
中庸が推奨されるとは言え、すべての人の立場を集合論的に位置づけるのが「慈悲」と言えよう。
六道輪廻図や牧牛図も単なる教訓ではなくそれぞれ段階に応じたものとして集合論的に読める。
返信削除空はバラモンとの論争において発達した論理学的概念だ。
(ブッダの時代では空より無限の方が概念として親和性は高かったろうが…)
以下のように論理学というよりもベン図を使った集合論としてみた方が分かりやすい。
http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2008/02/9_7cc1.html http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2009/12/12-2f05.html
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説
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三つの領域に区分される。
「色であり、かつ空でない」領域1、
「空であり、かつ色ではない」領域2、
「色であり、かつ空である」領域3
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有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。
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あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
この集合論は倫理的にも活用できる。
悪人、善人、キリスト教的に救われる人、裁かれる人、
中庸が推奨されるとは言え、すべての人の立場を集合論的に位置づけるのが「慈悲」と言えよう。
六道輪廻図や牧牛図も単なる教訓ではなくそれぞれ段階に応じたものとして集合論的に読める。
返信削除空はバラモンとの論争において発達した論理学的概念だ。
(ブッダの時代では空より無限(バラモン的?)の方が概念として親和性は高かったろうが…)
以下のように論理学というよりもベン図を使った集合論としてみた方が分かりやすい。
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「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説
色\ /空
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三つの領域に区分される。
「色であり、かつ空でない」領域1、
「空であり、かつ色ではない」領域2、
「色であり、かつ空である」領域3
の三者である。…
有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。
あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
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この集合論は倫理的にも活用できる。
悪人、善人、キリスト教的に救われる人、裁かれる人、
中庸が推奨されるとは言え、すべての人の立場を集合論的に位置づけ認めるのが慈悲と言えよう。
六道輪廻図や牧牛図も単なる教訓ではなくそれぞれ段階に応じたものとして集合論的に読める。
返信削除空はバラモンとの論争において発達した論理学的概念だ。
(ブッダの時代では空より無限の方が概念(バラモン的?)として親和性は高かったろうが…)
以下のように論理学というよりもベン図を使った集合論としてみた方が分かりやすい。
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「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説
色\ /空
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三つの領域に区分される。
「色であり、かつ空でない」領域1、
「空であり、かつ色ではない」領域2、
「色であり、かつ空である」領域3、の三者である。…
有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。
人間を集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
___ ___
| |/\| |
| 受 / \ 想 |
| /| |\ |
/\|_/_| |_\_|/\
/ \/ \/ \
/ 色 /\ 空 /\ 行 \
\ \/ \/ /
\ /\ /\ /
\/ \ / \/
\ /
_\__/_
| \/ |
| 識 |
|______|
この集合論は倫理的にも活用できる。
悪人、善人、キリスト教的に救われる人、裁かれる人、
中庸が推奨されるとは言え、すべての人の立場を集合論的に位置づけ認めるのが慈悲と言えよう。
六道輪廻図や牧牛図も単なる教訓ではなくそれぞれ段階に応じた立場を用意するものとして
集合論的に読める。
箭の喩えの経
返信削除開題 この経の原本は、つぎの二経である。
南伝 中部経典 六三、摩羅迦小経(M. 63, Cūa-Mālukya-suttanta)
漢訳 中阿含経 二二一、箭喩経
和辻哲郎博士は、その著『原始仏教の実践哲学』において、この一経を中心としてその所論を展開された
以下に所収
増谷文雄「阿含経典3」
https://itun.es/jp/oemvdb.l
マールンクヤプトラという弟子が釈尊に対して、「世界は未来永劫に存在するのでしょ うか」「世界には果てがあるのでしょうか」「如来は死後も存在するのでしょうか」などの 疑問をなげかけました。 そして、これらの問いに答えてくれないならば、自分は還俗し ますと ...
返信削除2本の矢のたとえ(阿含経その8)「箭によりて」|釈迦牟尼スーパースター ...
ameblo.jp/nibbaana/entry-10587327486.html
もし家族や恋人が死んでも、 仏の道の人は悲しくもなんともないのでしょうか? まったく 心が動かない? 解脱とはいわば、感情が死滅した状態を目指せ、 ということなので しょうか? そんな疑問に、とてもわかりやすく答えてくれるお経がありま ...
第7話「答えない」 - 荒村寺
www.kosonji.com/buddhismepisode/bep7.html
毒矢の喩え」として有名なお話。 哲学好きなマールンキヤさんとお釈迦さんが登場します 。 彼は当時流行していた 哲学的な問題についてよく質問していました。 お釈迦さんは その問いに対して、 はっきりした答えを一切与えてくれません。 不満に思う彼と、お釈迦 ...
仏説箭喩経
www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/.../SenyuKyou.htm
そこでついに、仏に、お聞きしたのですが、だいたいお前は、何よりも大切な事を考えず に、役にも立たないことを考えて、何をしているのだと、たいそう呵られてしまいました。 世尊は、比丘たちに、ある毒箭に射られた男についてたとえ話をされました。 この経は、 ...
や【矢/箭】の意味 - goo国語辞書
dictionary.goo.ne.jp>...>日本史>その他の日本史の言葉
や【矢/×箭】の慣用句. 矢でも鉄砲でも持って来い. どんな手段を使ってもかまわない からかかってこい。腹を据えた場合や半分やけになった場合などに発する言葉。 矢の如 し. きわめて速いこと、速くまっすぐに進むことのたとえ。「光陰―」「帰心―」. 矢の催促.
「毒箭の喩(どくせんのたとえ)」念佛宗(念仏宗 無量寿寺 ... - livedoor Blog
blog.livedoor.jp/tyup/archives/25869336.html
念佛宗(念仏宗 無量寿寺)で聞いた話「毒箭の喩」(どくせんのたとえ) 緊急事態が発生 した場合、まずは、情報を収集.
119考える名無しさん2017/05/27(土) 13:00:27.500
返信削除ジレンマ(dilemma) - 対立する2つの間に立つこと
トリレンマ(trilemma) - 対立する3つの間に立つこと
テトラレンマ(tetralemma) - 対立する4つの間に立つこと
120考える名無しさん2017/05/27(土) 13:01:08.500
◇四句分別(テトラレンマ、四句否定)
1. 肯定 (Aである)
2. 否定 (Aではない)
3. 肯定かつ否定 (Aであり且つAではない)(両是)
4. 肯定でも否定でもない (AであるのでもなくAでないのでもない)(両否)
◇四句否定(以下、角川『仏教の思想 3 空の論理』第一部より)
四句否定(厳密に一致はしないが、便宜的にテトラレンマと呼ぶ学者もある)はナーガールジュナの創見ではなくて、
すでに初期経典にも見られたもので、彼はその伝統を受け継いだだけである。
たとえばナーガールジュナの
「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」(二五・一七)という詩頌は
『マッジマ・ニカーヤ』六三でマールンキヤーブッタがシャカムニ・ブッダの教えとして伝えるものと内容は同じである。
『中論』にはこの形の四句否定ははなはだ多い。
ものは自らも生ぜず、他からも生ぜず、自他の両者からも生ぜず、無因(両者の無)からも生じない(二・二)といったり、
本体についても、自己の本体、他の本体、存在(自と他)、非存在(両者の無)のすべてを否定している(二五・三-五)。
有名な詩頌「有でなく、無でなく、有無でなく、両者の否定なるものでもない、四句を越えた真実を中観者は知る」(プラジュニャーカラマティ『入菩提行論注』第九章引用)
が示すように、四句否定は中観の真理を表わすものと理解されてきた。
881考える名無しさん2017/05/27(土) 13:04:56.850
返信削除◇四句分別(テトラレンマ、四句否定)
1. 肯定 (Aである)
2. 否定 (Aではない)
3. 肯定かつ否定 (Aであり且つAではない)(両是)
4. 肯定でも否定でもない (AであるのでもなくAでないのでもない)(両否)
◇四句否定(以下、角川『仏教の思想 3 空の論理』第一部より)
四句否定(厳密に一致はしないが、便宜的にテトラレンマと呼ぶ学者もある)はナーガールジュナの創見ではなくて、
すでに初期経典にも見られたもので、彼はその伝統を受け継いだだけである。
たとえばナーガールジュナの
「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」(二五・一七)という詩頌は
『マッジマ・ニカーヤ』六三でマールンキヤーブッタがシャカムニ・ブッダの教えとして伝えるものと内容は同じである。
『中論』にはこの形の四句否定ははなはだ多い。
ものは自らも生ぜず、他からも生ぜず、自他の両者からも生ぜず、無因(両者の無)からも生じない(二・二)といったり、
本体についても、自己の本体、他の本体、存在(自と他)、非存在(両者の無)のすべてを否定している(二五・三-五)。
有名な詩頌「有でなく、無でなく、有無でなく、両者の否定なるものでもない、四句を越えた真実を中観者は知る」(プラジュニャーカラマティ『入菩提行論注』第九章引用)
が示すように、四句否定は中観の真理を表わすものと理解されてきた。
882考える名無しさん2017/05/27(土) 13:05:24.570
ヨーロッパ的論理の代表である俳中律は>>881の1、2に限り、
曖昧で中間的な判断を排すことで明晰な論理空間を構築した。
パルメニデス「有るものは有る。無いものは無い」
883考える名無しさん2017/05/27(土) 13:05:45.320
仏教やインド哲学における真理は、テトラレンマ的に表現されることがよくある。
・空の定義「非有非無」(有るのでもなく無いのでもない)
・「不一不異」(同一でもなく差異があるのでもない)
・解脱の段階の一つ「非想非非想処」(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地)
・「そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。」(リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129))
など
884第三の波平(ただのリーマン) ◆kpxxLE2Sh. 2017/05/27(土) 13:09:32.440
自称釈迦の生まれ変わりの引きこもりは消えた?
885考える名無しさん2017/05/27(土) 13:10:54.770
『大パリニッバーナ経』(3:33)でブッダが説く8段階の解脱
1.内心に「色」(物質)を想起して、外識の「色」(物質)を見る
2.内心に「無色」(非物質)を想起して、外識の「色」(物質)を見る
3.全てを清浄と認める
4.空無辺処(全ては無辺なる虚空であるという境地)
5.識無辺処(全ては無辺なる識であるという境地)
6.無所有処(何も無いという境地)
7.非想非非想処(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地)
8.想受滅(表象も感受も消滅する境地)
886考える名無しさん2017/05/27(土) 13:11:16.250
1.そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。
空界もなく、その上の天もなかった。(中略)
深く測ることのできない水は存在していたのか。
2.その時、死も不死もなかった。夜と昼のしるしもなかった。
かの唯一物は自力によって風なく呼吸していた。これより他の何も存在しなかった。
3.始原の時、暗黒は暗黒におおわれた。この一切はしるしのない水波だった。
空虚におおわれて現れつつあるもの、かの唯一物は、熱の力によって生まれ出た。
4.最初にかの唯一物に意欲が現われた。これは思考の第一の種子だった。
詩人たちは心に探し求めて、有の始原を無に見つけた。(以下略)
― リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129)
887考える名無しさん2017/05/27(土) 13:11:57.290
心にしみる原始仏典
返信削除http://manikana.la.coocan.jp/canon/canonindex.html
http://manikana.la.coocan.jp/canon/mahavagga.html
『アングッタラ・ニカーヤ』Ⅲ.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8)
三の集まり 大なる章 67
1.比丘たちよ。つぎのような三つが、討論に関することがらである。三つとは何か。
比丘たちよ。過去の時については、「過去の時に、このようであった」と語らねばならな
い。あるいは、比丘たちよ、未来の時については、「未来の時に、このようであろう」と
語らねばならない。あるいは、今現在に関しては、「今現在このようである」と語らねば
ならない。
2.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知ら
ねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定
的に解答せず、分けて答えるべき問いに、分けて解答せず、反問して答えるべき問いに、
反問して解答せず、捨て置くべき問いを捨て置かないならば、このような人は、比丘たち
よ、ともに語るにふさわしくないのである。
またもし、比丘たちよ、もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に
解答し、分けて答えるべき問いに、分けて解答し、反問して答えるべき問いに、反問して
解答し、捨て置くべき問いを捨て置くならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語る
にふさわしいのである。
…
返信削除http://manikana.la.coocan.jp/canon/mahavagga.html
またもし比丘たちよ、もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに断定的に
解答し、分けて答えるべき問いに分けて解答し、反問して答えるべき問いに反問して
解答し、捨て置くべき問いを捨て置くならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語る
にふさわしいのである
原始仏教思想論 特に大乗思想の淵源に注意して
返信削除著者名等 木村泰賢/著 ≪再検索≫
出版者 丙午出版社
出版年 1922
大きさ等 23cm 466,20p
NDC分類 181.02
書誌番号 3-0190437730
仏教論争 (ちくま新書) 新書 – 2018/5/9
宮崎 哲弥 (著)
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Kindle版
¥ 864
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返信削除初期仏教の思想〈下〉 (レグルス文庫)
初期仏教の思想〈下〉 (レグルス文庫)1995/4
三枝 充悳
新書
¥ 7,057中古 & 新品(2 出品)
返信削除叢書名 レグルス文庫 ≪再検索≫
著者名等 三枝充悳/著 ≪再検索≫
出版者 第三文明社
出版年 1995.03
大きさ等 18cm p491~768,34,9p
NDC分類 181.02
件名 原始仏教 ≪再検索≫
要旨 「四諦」「八正道」「縁起説」「ニルヴァーナ」についての検討及び考察。
ISBN等 4-476-01213-2
書誌番号 3-0195018740
和辻哲郎全集 第19巻
返信削除著者名等 安倍能成/〔ほか〕編 ≪再検索≫
出版者 岩波書店
出版年 1963.5
大きさ等 22cm 394p
NDC分類 121.6
件名 仏教哲学 ≪再検索≫
内容 内容:仏教倫理思想史 解説(中村元)
書誌番号 3-0190324276
原始仏教思想の研究―縁起の構造とその実践 (1969年)1969
返信削除舟橋 一哉
-
¥ 1,200中古 & 新品(6 出品)
印度哲学研究〈第2〉 (1965年)
印度哲学研究〈第2〉 (1965年)1965
宇井 伯寿
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¥ 2,000中古 & 新品(4 出品)
陳那著作の研究 (1958年)
陳那著作の研究 (1958年)1958
宇井 伯寿
-
¥ 200中古 & 新品(14 出品)
釈道安研究 (大乗仏教研究 8)
釈道安研究 (大乗仏教研究 8)1990/3/15
宇井 伯寿
単行本
¥ 2,000中古 & 新品(5 出品)
前のペ
返信削除仏教論争 (ちくま新書) 新書 – 2018/5/9 宮崎 哲弥 (著)
参考文献が列記されていない
主要な参考文献は、
原始仏教思想論 特に大乗思想の淵源に注意して 木村泰賢 丙午出版社 1922
和辻哲郎全集(仏教倫理思想史) 第19巻 岩波書店 1963.5
印度哲学研究〈第2?〉 (1965年)1965 宇井 伯寿
原始仏教思想の研究―縁起の構造とその実践 (1969年) 舟橋 一哉
初期仏教の思想〈下〉 (レグルス文庫)1995/4 三枝 充悳
等々
25日に電子書籍版が出るので再度確認したい
返信削除仏教論争 (ちくま新書) 新書 – 2018/5/9 宮崎 哲弥 (著)
索引もなく参考文献が列記されていない
主要な参考文献は、
原始仏教思想論 特に大乗思想の淵源に注意して 木村泰賢 丙午出版社 1922
和辻哲郎全集(仏教倫理思想史) 第19巻 岩波書店 1963
印度哲学研究〈第2?〉 (1965年)1965 宇井 伯寿
原始仏教思想の研究―縁起の構造とその実践 (1969年) 舟橋 一哉
初期仏教の思想〈下〉 (レグルス文庫)1995/4 三枝 充悳
等々
25日に電子書籍版が出るので再度確認したい
仏教論争 (ちくま新書) 新書 2018/5/9 宮崎 哲弥 (著)
返信削除主要な参考文献は、
原始仏教思想論 特に大乗思想の淵源に注意して 木村泰賢 丙午出版社 1922
和辻哲郎全集(仏教倫理思想史) 第19巻 岩波書店 1963
印度哲学研究〈第2?〉 (1965年)1965 宇井 伯寿
原始仏教思想の研究―縁起の構造とその実践 (1969年) 舟橋 一哉
初期仏教の思想〈下〉 (レグルス文庫)1995/4 三枝 充悳
等々
25日に電子書籍版が出るので再度確認したい
128武内
返信削除仏教の思想―その原形をさぐる (中公新書 364) 新書 – 1974/6
上山 春平 (編さん), 梶山 雄一 (編さん)
5つ星のうち 4.3 3件のカスタマーレビュー
191
返信削除縁起説論争--死に至る病 (仏教学研究の諸問題)掲載誌 東洋学術研究 20(1) 1981.04 p.p49~68
梶山 雄一
http://www.totetu.org/assets/media/paper/t100_049.pdf
64~5
著作集1に再録?
128頁
返信削除武内義範「縁起説の解釈」
仏教の思想―その原形をさぐる (中公新書 364) 新書 – 1974/6
上山 春平 (編さん), 梶山 雄一 (編さん)
返信削除ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) Kindle版
中村 元 (著)
阿含経典1 (ちくま学芸文庫) Kindle版 1~3
増谷文雄 (編集)
大乗仏典〈14〉龍樹論集 (中公文庫) 文庫 – 2004/10/25
梶山 雄一 (翻訳), 瓜生津 隆真 (翻訳)
返信削除ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) Kindle版
中村 元 (著)
阿含経典1 (ちくま学芸文庫) Kindle版 1~3 3にせん/やの比喩
増谷文雄 (編集)
大乗仏典〈14〉龍樹論集 (中公文庫) 文庫 – 2004/10/25
梶山 雄一 (翻訳), 瓜生津 隆真 (翻訳)
返信削除『仏教論争』第1章で言及されている以下あたりが基本文献だろう。
20頁ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) Kindle版
中村 元 (著)
16頁
阿含経典1 (ちくま学芸文庫) Kindle版 1~3 3にせん/やの比喩
増谷文雄 (編集)
64頁
大乗仏典〈14〉龍樹論集 (中公文庫) 文庫 – 2004/10/25
梶山 雄一 (翻訳), 瓜生津 隆真 (翻訳)
返信削除『仏教論争』第1章で言及されている以下あたりが基本文献だろう。
20頁
ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) Kindle版
中村 元 (著)
16頁
阿含経典1 (ちくま学芸文庫) Kindle版 1~3 3にせん/やの比喩
増谷文雄 (編集)
64頁
大乗仏典〈14〉龍樹論集 (中公文庫) 文庫 – 2004/10/25
梶山 雄一 (翻訳), 瓜生津 隆真 (翻訳)
『仏教論争』第1章で言及されている以下あたりが基本文献だろう。
返信削除20頁
ブッダのことば−スッタニパータ (岩波文庫) Kindle版
中村 元 (著)
16頁
阿含経典3 (ちくま学芸文庫) Kindle版
増谷文雄 (編集)
64頁
大乗仏典〈14〉龍樹論集 (中公文庫) 文庫 2004/10/25
梶山 雄一 (翻訳), 瓜生津 隆真 (翻訳)
13頁
返信削除捨ててこそ 空也(新潮文庫) Kindle版
梓澤要 (著)
『仏教論争』第1章で言及されている以下あたりが基本文献だろう。
返信削除20頁
ブッダのことば−スッタニパータ (岩波文庫) Kindle版
中村 元 (著)
16頁
阿含経典3 (ちくま学芸文庫) Kindle版
増谷文雄 (編集)
55,64頁
大乗仏典〈14〉龍樹論集 (中公文庫) 文庫 2004/10/25
梶山 雄一 (翻訳), 瓜生津 隆真 (翻訳)
160頁
返信削除ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第6巻〉縁起の分析 Kindle版
アルボムッレ・スマナサーラ (著), 藤本晃 (著)
297頁
柄谷行人『隠喩としての建築』
160頁
返信削除相応部経典 第二巻 (原始仏典II) 単行本 – 2012/5/17
中村 元 (監修), 前田 專學 (編集), 浪花 宣明 (翻訳)
33頁
返信削除小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)~正田大観 翻訳集 ブッダの福音~ Kindle版
正田 大観 (著)
仏教論争 (ちくま新書) 新書 2018/5/9 宮崎 哲弥 (著)
返信削除主要な参考文献は、
80頁~
原始仏教思想論 特に大乗思想の淵源に注意して 木村泰賢 丙午出版社 1922
153頁
和辻哲郎全集(仏教倫理思想史) 第19巻 岩波書店 1963
96頁
印度哲学研究〈第2?〉 (1965年)1965 宇井 伯寿
原始仏教思想の研究―縁起の構造とその実践 (1969年) 舟橋 一哉
56,190頁
初期仏教の思想〈下〉 (レグルス文庫)1995/4 三枝 充悳
等々
25日に電子書籍版が出るので再度確認したい
ウダーナ聖典(自説経)阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る 1 菩提の章 1. 1 第一の菩提の経( 1)
返信削除33頁
小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)~正田大観 翻訳集 ブッダの福音~ Kindle版
正田 大観 (著)
ウダーナ聖典(自説経)菩提の章 1. 1 第一の菩提の経( 1)冒頭が引用されている
(これが十二支縁起の原型らしい)
unlimitedで読めるのでオススメ
308頁
返信削除仏法【新装版】 Kindle版
ポー・オー・パユットー (著)
1:4に十二支縁起詳説
これもunlimitedで読める
33頁
返信削除小部経典 第一巻 (パーリ語原文付)〜正田大観 翻訳集 ブッダの福音〜 Kindle版
正田 大観 (著)
ウダーナ聖典(自説経)菩提の章 1. 1 第一の菩提の経( 1)冒頭が引用されている
(これが十二支縁起の原型らしい)
kindle unlimitedで読めるのでオススメ
308~9頁
仏法【新装版】 Kindle版
ポー・オー・パユットー (著)
1:4に十二支縁起詳説(日常生活における簡単な意味)
これもunlimitedで読める
和辻哲郎全集〈第5巻〉原始仏教の実践哲学, 仏教哲学の最初の展開 ...
返信削除www.amazon.co.jp/和辻哲郎全集〈第5巻〉原始仏教...
Amazonで和辻 哲郎の和辻哲郎全集〈第5巻〉原始仏教の実践哲学, 仏教哲学の最初の展開 (1962年)。
印度哲学研究 2
返信削除著者名等 宇井伯寿/著
出版者 甲子社書房
出版年 1926.9
大きさ等 23cm 1冊
NDC分類 126
書誌番号 3-0190502232
原始仏教思想の研究 縁起の構造とその実践
著者名等 舟橋一哉/著
出版者 法蔵館
出版年 1952.04
大きさ等 22cm 255,15p
NDC分類 181.1
件名 仏教-教義
和辻哲郎全集〈第5巻〉原始仏教の実践哲学, 仏教哲学の最初の展開 ...
返信削除www.amazon.co.jp/和辻哲郎全集〈第5巻〉原始仏教...
Amazonで和辻 哲郎の和辻哲郎全集〈第5巻〉原始仏教の実践哲学, 仏教哲学の最初の展開 (1962年)。
和辻は木村
原始仏教思想論を引き
木村は西洋研究者から得ている
第一篇大 綱 論たものとして最も有名なものでぁる。それにしたがぇば、当時、諸派の論じた題目と解答とは大体において次の八項となるとぃぅことでぁる。すなわち第一は常見論→,゛゛,Sふ8)にて、世界も自我も常恒だとぃぅ主張を指し、第二は半常半無常論(鮮R88φり,.”5)とて、世界おょび有情について、 一部分は無常なれど一部分は常恒でぁると主張する説である。第二は有辺無辺論(営けど営一〕5)で、世界の有限無限を論じたものでぁる。第四は詭弁論→8,”T寿ドF。壽腎不死矯乱論、捕鰻論)で、何事に関しても決定的解答を与えないのを主義とするものにて、その的確な意味を捕捉し難きこと、あたかも鰻の捕ぇ難きに似たものあるをいぅ。第五は無因論→魯”o。”38688)で、 一切は偶然の現象で、因果の関係なしと主張するもの、第六は死後論→9,3”り”一”ョ〕S)にて、死後における意識状態を種々に解釈するもの、第七は断見論(〓。汀計く巴じにて、死後の断減を主張するもの、第八は現法涅槃論C♯F,監,日日,●﹈3ッじで、ぃかなる状態を以って現在における最高の境界とするかを論じたものでぁる。右の八項に関する主張を更に細分したのは、すなわちぃゎゅる六十二見で、この六十二種の見解の中には、ぁたかも網の中に魚の収まるがごとくに一切の主張が摂せられるといぅは、ゃがて梵網経の名ある所以でぁるとは、経自身の宣言するところでぁる。もちろん、この中には、強いて仏教側で範疇を設けて、ぁり得べき説といぅのを事実あったものでぁるかのごとくに整えょぅとしたものもぁる様ではぁるけれども、ともかく、吾人はこれによって当時における問題の所在、その解答ぶりの大体を知ることができる点において、貴重の資料とぃゎざるを得ぬ。すなわち当時の諸派は実にかかる点について、種々意見を述べたもので、沙門団の主としたところもまた実にこ神らについてでぁったのでぁる。しかも彼らは互いに往来して意見を闘わすを通例としたので、議論法も大いに発達し)その極、遂に議論のための議論を得意とする派をさえ生じたくらいであった。当時の詭弁派なるものは、実にかくして養われたものであるが、もちろん、仏陀は議論のための議論を大いに忌んだけれども、また一方からすれば、仏の弁論法の可なりに鋭かったのも、 一つにはかかる空気の中に養われたためであったろうと思う。右の八項六十二見なるものは、要するに一般的分類であるが、更にこれを個々の派に移して考えるに、不幸にしてこの点に関する材料は余り豊富ではない。六十二見なるものも、いかなる説をいかなる派で主張したかという問題には多く寄与するところがないのである。ことに吾人の最も遺憾に堪えないのは、仏陀が初めて師事した阿羅遅迦藍、欝陀迦羅摩子の説が詳細に伝わらぬことである。けだし仏陀はこれら両人の説に満足し得なかったとしても、少なくも、阿羅遅の説いた無所有処定、欝陀迦の説いた非想非々想定が仏教の禅定的地位において高位に置かれてあるところから判ずれば、その人生観もまた、仏陀に可なりに影響したものと推定せねばならぬからである。後世の仏伝(過去現在因果経、仏所行讃経)は阿羅遅が仏陀に対して、生死の次第を説明して、冥初―我慢―痴心―染愛―五微塵気(五唯)―五大―煩悩―生老死の順序を提示したといっておるが、 もし果たして然りとすれば、彼は実に一種の数論師であったといわねばならぬ。しかも仏陀の十二因縁観の淵源もまた実にここにあったと見得べく、種々の点において極めて重要なる意義を帯びて来るけれども、不幸にして、古い阿合の記録には少しもこれに類する記事を見出すこ之ができない。したがって、吾人を以ってすれば、真に震い附いても採用したい史料ながらも、今後の精細なる批評的研究を経た上でなければ、完全に彼の人生観であったと断定するに躊躇せざるを得ないのである。欝陀迦に関しては、後世の記録にさえ詳しいことが載っておらぬから、その主張を窺うに一そう困難なものがある。しかし、ともかく、第二早時勢と仏教 七
和辻5:90頁
返信削除1
ブッダは哲学的思索を斥けた,と多くの学者が主張する。我々もまたブッダが偉大なる人格者であって単なる哲学
者でなかったということは容易に想像し得ると思う。しかしなが会の主張に対しては我々は次のごとく問わなけれ
ばならない。我々の取り扱い得る資料からかくも截然と歴史的ブッダを規定し得るか。その資料自身は果して哲学的
思索を排斥しているか。
(1) H. Beckh, Buddhismus, I, 1916, S. 125.「人類の精神的指導者のうちでブッダのごとく全然あらゆる哲学的思索を斥けた
人はまれである。」--wa-leser, Die philosophische Grundlage des alteren Buddhismus, 1904, S. 11.「原理的、形而上
学的に立場を取ることは1つの体系の予備条件であるが、 ブッダはあらゆる形而上学的問題を根本的に斥けた、……だ
からブッダは体系家ではない。」---H. Oldenberg, Buddha, 7. Aufl., s. 230 f.「ブッダの教えは、認識欲に充たされて事物
は仏教的思索の取り扱う問題をのみ限定したのであって、まじめなる思惟の働き一般の必要、抽象的概念を統制することの
必要をさえ解脱に努力する者に対して拒もうとしたのではない。
ただ思想家のみがこれらの事象を通じて永久の平和への道を見いだし得る。」このオルデンベルクの意見は、解脱に関する
範囲内において哲学的思索があったと認めるにほかならぬ。ところでこの範囲内の哲学的思索が、果たして「事物の究極の
根拠を探求しよう」としていないかどうかは充分問題になるのである。---木村泰賢氏『原始仏教思想論』七五ページ以下
の議論はオルデンベルクの祖述にほかならないが、オルデンベルクのいわゆる「問題の限定」という点を考慮に入れないた
めに、ブッダの教えは哲学的興味から来たものではないが、同時に哲学的思弁の圏内に触るるものであるという不得要領な
議論に終わっている。
木村3:73
返信削除の
とるの
三、特に諸沙門団の主張について 前節に述べた仏時代の諸教派の中で、婆羅門に関しては、吾人はすでに『印
度哲学宗教史』の中で述べておいたし、奥義書系(および梵書系)の思想に関しては『印度六派哲学』の中で述べて
おいた。したがって、今、それらの主張をここに略説する必要もあるまいと思うが、ただ当時のいわゆる沙門団の主
張に関しては、未だこれを公に述べたことがないから、ここで少しくこれを紹介しておく必要があろうと思う。けだ
し前にも述べ、また、後にも諸所で指摘するがごとく、種々の点において仏陀の主張なり、態度なりが、彼らと交渉
するものがあるから、一通りこれを理解しておく必要があるからである。ただし厳格にいえば、これも一個独立の大
問題として根本的に調べる段となれば、決して容易のことではないから、今は要するに、仏教を理解するための補助
として、専ら仏教側の紹介なり批評なりによってその一班を述べるに止めるつもりである。
先ず問題の所在からするに、当時の諸派の論じたところも大体からすれば、やはり世界の起源、人生の帰趣という
ことであった。世界は有辺か無辺か、聖者の死後は有か無か、身と命とは同か異かなどとは、彼らの好んで論じた題
目であって、しかもその帰するところは、要するに吾らはいかにあることが人生最終の帰趣を実現する所以の道であ
るかを明らかにしようとするためであった。この意味において、彼らの間&#所詮、奥義書以来、提供されて来たも
のと大差ないということができる。ただ、その大いに異なるところは、その解答が全く自由で伝承に拘束されること
なく、果ては詭言懐疑に走ったものも少なくはなかったことである。
長阿含巻十四、梵動経«D. I Brahmapila-s.は、実に当時におけるあらゆる派のあらゆる間題とそ
解答とを網羅し
第二章 時勢と仏教
七三
第一篇大綱論
返信削除七四
たものとして最も有名なものである。それにしたがえば、当時、諸派の論じた題目と解答とは大体において次の八項と
なるということである。すなわち第一は常見論(sassatavada)にて、世界も自我も常恒だという主張を指し、第二は半
常半無常論(ekacca sassatikā)とて、世界および有情について、一部分は無常なれど一部分は常恒であると主張する説
である。第三は有辺無辺論(antanantikā)で、世界の有限無限を論じたものである。第四は詭弁論(amaravikkhepikā :
不死矯乱論、捕鰻論)で、何事に関しても決定的解答を与えないのを主義とするものにて、その的確な意味を捕捉し難
きこと、あたかも饅の捕え難きに似たものあるをいう。第五は無因論(adhiccasarnuppada)で、一切は偶然の現象で
因果の関係なしと主張するもの、第六は死後,udhamaghatamikā)にて、死後における意識状態を種々に解釈するも
の、第七は断見論(ucchedavada)にて、死後の断滅を主張するもの、第八は現法涅槃論(dittha-dhamma nibbāna)で、い
かなる状態を以って現在における最高の境界とするかを論じたものである。右の八項に関する主張を更に細分したの
は、すなわちいわゆる六十二見で、この六十二種の見解の中には、あたかも網の中に魚の収まるがごとくに一切の主
張が摂せられるというは、やがて梵網経の名ある所以であるとは、経自身の宣言するところである。もちろん、この
中には、強いて仏教側で範疇を設けて、あり得べき説というのを事実あったものであるかのごとくに整えようとした
ものもある様ではあるけれども、ともかく、吾人はこれによって当時における問題の所在、その解答ぶりの大体を知
ることができる点において、貴重の資料といわざるを得ぬ。すなわち当時の諸派は実にかかる点について、種々意見
を述べたもので、沙門団の主としたところもまた実にこれらについてであったのである。しかも彼らは互いに往来し
て意見を闘わすを通例としたので、議論法も大いに発達し、その極、遂に議論のための議論を得意とする派をさえ生
れの子
返信削除せ定
塵仏あ
じたくらいであった。当時の詭弁派なるものは、実にかくして養われたものであるが、もちろん、仏陀は議論のため
の議論を大いに忌んだけれども、また一方からすれば、仏の弁論法の可なりに鋭かったのも、一つにはかかる空気の
中に養われたためであったろうと思う。
にく
右の八項六十二見なるものは、要するに一般的分類であるが、更にこれを個々の派に移して考えるに、不幸にして
この点に関する材料は余り豊富ではない。六十二見なるものも、いかなる説をいかなる派で主張したかという問題に
は多く寄与するところがないのである。ことに吾人の最も遺憾に堪えないのは、仏陀が初めて師事した阿羅邏迦藍、
欝陀迦羅摩子の説が詳細に伝わらぬことである。けだし仏陀はこれら両人の説に満足し得なかったとしても、少なく
も、阿羅邏の説いた無所有処定、欝陀迦の説いた非想非々想定が仏教の禅定的地位において高位に置かれてあるとこ
ろから判ずれば、その人生観も褒た、仏陀に可なりに影響したものと推定せねばならぬからである。後世の仏伝(過
去現在因果経、仏所行讚経)は阿羅邏が仏陀に対して、生死の次第を説明して、冥初1我慢1痴心1染愛-五微塵気(五
唯)-五大1煩悩-生老死の順序を提示したといっておるが、もし果たして然りとすれば、彼は実に一種の数論師で
あったといわねばならぬ。しかも仏陀の十二因縁観の淵源もまた実にここにあったと見得べく、種々の点において柩
めて重要なる意義を帯びて来るけれども、不幸にして、古い阿含の記録には少しもこれに類する記事を見出すことが
できない。したがって、吾人を以ってすれば、真に震い附いても採用したい史料ながらも、今後の精細なる批評的研
究を経た上でなければ、完全に彼の人生観であったと断定するに躊躇せざるを得なぃのである。欝陀迦に関しては、
後世の記録にさえ詳しいことが載っておらぬから、その主張を窺うに一そう困難なものがある。しかし、ともかく、
アーラーラカーラーマ
ウッダカラーマプッタ
第二章時勢と仏教
七五
木村は長阿含経を参照している
返信削除中阿含経ではない
和辻5:91
返信削除原始仏教の実践哲学
の議論はオルデンベルクの祖述にほかならないが、オルデンベルクのいわゆる「問題の限定」という点を考慮に入れないた
めに、ブッダの教えは哲学的興味から来たものではないが、同時に哲学的思弁の圏内に触るるものであるという不得要領な
議論に終わっている。
ブッダが哲学的思索を斥けたということの証拠としてあげられるのは、「我及び世間は常存であるか、あるいは無常
であるか。我及び世間は有限であるか、あるいは無限であるか。身体と霊魂とは一つであるか、あるいは別の存在で
あるか。如来は死後生存するか、あるいはしないか」等の問題に対して「ブッダが答えなかった」という経の記述で
ある。我々は右の問題の立て方が諸経においてはなはだしく相違する事実から考えて、この記述がどれほど正確に仏
語を伝えているかを危ぶむものであるが、しかし少なくともブッダがこの種の形而上学的問題 答えなかったという
ことを承認するとして、この歴史的事実の意義が那辺に存するかを考えてみたい。この種の形而上学的問題に答えな
いということは,直ちに哲学的あるいは体系的思索を斥けたということにはならない。かえってそれが一つの思想的
立場を明白に特徴づけるということもあり得る。だからこの「答えない」ということの意義は「何ゆえに答えないか」
のうちに見いだされなくてはならぬ。
(2)
これらの問題については、長阿含第十七、布吒婆楼経(大正蔵\"111ページ)は、我世間有常,…我世間無常…我世
……
とく、常、無辺、命身、如来終の四つの問題を四句分別によって十六に分かっている。しかるにこれと同経たるべきDN. IX
Potthapada-s.では我及び世間ではなくただ世間のみの常,無辺を問題にするのであるが、その際常、無辺,命身の問題は
肯定否定の二つのみであり最後の如来終の問題だけが四句分別をうける。従って問題は十個である。同じ題目を取り扱う
SN. XXXIII, l. MN. 63, 72, Udina V1.4等においても、常無辺はただ世間についてのみ立言せられまた問題は同じく十個
返信削除に分かたれる。それに対してMN. 63.に相当する中阿含箭喩経(大正蔵1,八03ページ)は全然これと同様であるが、SN.
XXXIII 1.に相当する雄阿含巻三十四、九六三(大正些一,二四六ページ), MN. 72に相当する雑阿含同九六二(大正些1,
二四五ページ)などは我世間でなく世間のみである点が同様であるにしても、命身の問題のほかは皆四句分別をうけて問題
の数が十四になる。また他方で長阿含十二清浄経は世間と我とを別々に問題にしておのおのを十六に分かっているが、それ
と同経たるべきDN. XXIX, Pasadikaでは我及び世間について立言し、その常及び因縁を問題としている。また命牙如
来等の問題の代わりに死後の霊魂の可見、意識無意識を問題とする。11以上のごとく問題の立て方は決して一定しておら
ぬ。これに対して、「この言い現わし方は我々がこれを無条件にブッダ自身に帰したく思うほど特徴のあるものである」(Y
ック前引書一、二七-八ページ)というのは言い過ぎであろうと思う。
ブッダは何ゆえに答えなかったか。これに対して多くの学者は、「解脱のために要なきがゆえに」と説明する。「解
脱のため」という実践的目的に支配された教説は、この目的に添わざる一切のものを、たといそれが哲学としていか
に意義深いものであっても、排除せざるを得なぃという考えがそこにある。しかし経典の記述は、「解脱のため」と
「真実の認識」とをかくも截然と区別しているであろうか。解脱のために(すなわちさとりを開くために)要なしとは
同時にそれが真実の認識の道でないということを意味しておらぬであろうか。この点について誤解を引き起こした責
任者の一人であろうと思われるオルデンベルクは, 一方では「解脱は精神的に貧しいものの所有ではなくして、ただ
これらの事象を通じて解脱へ
道を見いだし得る、」と説きながら、他方ではこれらの思想家が事物の究極の根拠を探求しようとしなかったと主張
青申.
......ただ思想家のみが事象の大いなる秩序を把捉し、
知識あるもののみの所有である。
の
する。彼によれば形而上学的な諸問題は事物の究極の根拠を探求するものであり、
そうして
同時にブハダの答えな
93
返信削除93
ったものである。しかし経典中のブッダは果たして「事物の究極の根拠」について答えておらぬであろうか。ォルデ
ンベルクのいわゆるr事象の大いなる秩序」は事物の究極の根拠として説かれたものではないであろうか。前掲のご
とき諸問題が答えられないのは、それが真実の認識に,すなわち、事象の大いなる秩序の認識に向かわざるがゆ
なかろうか。
えでは
(m)
Buddha, 7. Aufl., S. 231.
形而上学的な問題に答えない理由としてしばしば引用せられるのは、「それが益なく,梵行(brahrnaca
riya)をすす
めず、出離(nibbida)、無欲(virāga)、寂滅(nirodha)、止息(upa amana)、智(abhinna)、覚(sambodhi)、涅槃(nib
bana)に向かわぬゆえに」である。しかしこれはあらゆる経において常に一致するところとは言えない。同経の漢訳
では,出離,無欲、寂滅、止息の四を省いてr法相応にあらず」の1を加えている。「法に合う」(dhammasamhitam)
の1項は他の経にも現われているが、仏教哲学 !おける法の概念の重大さから考えれば、-たとえば前に引いたオ
ルデンベルクの大いなる「秩序」はこの法の訳語である、その解釈は仏教哲学の根本に関係する、かりにこれを宇宙
の真理あ は法則の義に解するな«M、前掲のごと高題が法に倉ぬとは真理に合わぬあるいは法則に合わぬと
いう意味になるであろう、-この点を考えれば、この一語がここに現われて来たということは軽視茗を得ない重
大な問題である。従って前掲の個所も、右のごとき傾向を眼中に置いて、正しい力点を加えつつ解釈しなければなら
ない。出離,無欲,寂滅,止息等は多分に実践的意義を持つものではあるが,しかしそれらは梵行あるいは涅槃の!
仏語に含意せしめて省略することもできた。それに対して智と覚とは決して梵行あるいは涅槃の語の内に影を没するこ
とがない。そうしてこの智と覚とは、いかに完裳的に色づけられているにもせよ、真の認識を意味すること疑いなき
5
目次
返信削除ものである。しかもその真の認識は,パウロによって神の智慧と呼ばれているような神秘的な、超感覚的なものの認
識ではなく、無我,五蘊、縁起,四諦というごとき原理の認識にほかならぬ。かく見れば、前掲のごとき問題に答え
ぬ理由は,それが梵行の本とならず真の認識をもたらさぬゆえであって、単に実践的目的に合わないゆえとのみ解せ
らるべきでない。いわんやこの理由のうちに「法に合わぬがゆえに」の一項が加えられるに至れば、重点はむしろ認
識の方に置かれたと見なければならぬ。
9
(4)
益なくの益は、
mann), calculated to profit(Rhys Davids)などと訳するに従ったのであるが、中阿含箭喩経(大正蔵\"八〇五ページ),
長阿含布吒娑楼経(同1 1 1ページ)などでは、これに当たる個所に「非義相応」,「不与義合」の語がある。漢訳「義」の原
語はartha (意義、目的、もの)であったと思われる。かく「義に合わぬ」という意に解し得らるるならば、「益なく」は実践
的に益なくでなく理論的に益なくの意味,すなわち「真理をもたらさぬ」の意になる。
Attha-samhitam
をGewinn bringen (Oldenberg), zweckdienlich(Seidensticker), heilsam(Neu
(a)
(6 )
(7 )
(w)
MN, 63.
中阿含箭喩経。此非義相応、非法相応、非梵行本、不趣智、不趣覚、
たとえばDN. IX, 30.長阿含布吒婆楼経(大正蔵1 , 1-1ページ)"
不趣涅槃。
Abhinna (包はErkenntnis (Franke, Oldenberg), hoheres Wissen (Seidensticker), Durchschauung (Neumann), real
knowledge (Rhys Davids)などと訳され、Sambodhi(正覚)はErleuchtung (Franke, Oldenberg), Erwachung (Seiden.
sticker, Neumann), insight (Rhys Davids), perfect knowledge (Childers)などと訳される。
(9 )
前引MN, 63,中阿含箭喩経に説かれる毒矢の比喩は仏の教えが実践的目的のみに支配されたものであることを示すものと
して引用され勝ちである。しかしこの比喩はそう解しなければならぬであろうか。
体格、肌色、現在いる場所、あるいは弓や弦の性質、箭幹箭羽箭鏃の性質な
が射手の階級、氏族、
どを知るまでは矢を抜かぬと言ったならば、「彼は
ついに何事をも知るを得ないうちに死んでしまうであろう,」(彼人竟不得知、於其中間而命終也0 Annatam-eva tam teria
毒矢に中ったもの
95
返信削除urisena assa atha so puriso kalam kareyya.)そのごとく形而上学的な問題が説かれるまではブッダに従って梵行をやら
ぬと言うならば、同じく彼も解決を得ないうちに死ぬであろう。これが毒矢の比喩である。ところでこの比喩は、ブッダに
enか従わぬかを問超とせるるのに対して、ブッダに従うべく説服するために用いられるので当て、何ゆえにかの問題を
#444の理由を直接に述べたものでない。毒
むものの側にはブッダがいる。医者に、あるいはブッダに従え、というにほかならない。
について最も確実な認識を持っているからであり、ブッダに従うのはブッダ
この比喩からもまた形而上学的問題が真の認識の道でないという意味は汲み取れるであろう。ブッダは哲学的
のでなく、
矢に中ったものの側には医者が来ている。形而上学的な問題に執著して苦し
が現前の事実
のみが真の認識を成就したためであると見れば,
題を避けた
医者に従うのは医者
それに真実に答えることによって救いをもたらそうとしたのである。
この解釈を裏書きするものとして我々は長阿含清浄経(DN. XXIX)を引くことができる。この経に列記せらるる形
、両
者ほぼ一致すると見られよう。我(attā)及び世界(loka)は有限である、あるいは無限である、というごときことを主
而上学的問題は漢パ著しく相違しているが、
しかしこの種の問題について一つの主張を持つことを斥ける理由は
張して、
「これのみが真実であり他の説は虚偽であると言うならば、
それは仏の許さぬところである。
なぜならば
人々はこの問題について意見を異にし、おのおの自説のみに執するからである。(すなわち相反する種々の説が同じ
博高さの立場に並んでいるからである。) これよりして自分は、真の認識の立場から見て、いずれの説も自分と等しい高
0の立場ではないとする、いわんやより高い立場ではない その点では自分こそまさにより高い。すなわちより高い
認識の立場である。(この立場から見ると、)右の種々なる主張はただ言葉に過ぎぬ。ともに論ずるにあたらない。」こ
始 れ明らかにこの種の諸問題を、実践的理由からではなく、真の認識に関する理由から斥けたものではなかろうか。世
界の有限無限を考えるということは、これを考える人と同じ立場に立つ限り、同じ権利をもっていずれにも結論し得
10
9
原
· 中是
返信削除通の
96
る。そうして相反する結論が同じ権利をもって対立するということは、この問題の解決が不可能であることを明示し
ている。異なれる主張が並び立つゆえにそのいずれの主張をも許さぬとは、まさに二律背反の捕捉を意味せぬであろ
うか。それはただにブッダによって内的に体験せられていたと推定されるだけでなく、経典自身が明らかにそれを説
いていると言えぬであろうか。ブッダが答えなかったのは、自ら右の立場に下って相背反する主張の一つを取ること
を欲しなかったからである。これらの問題を「益なし」あるいは「義に合わず」と見るのは、それが到底真の認識に
役立たぬがゆえであり、「法に合わぬ」と見るのはこの種の問題の解決が本来不可能だからである。
(0)
この訳は漢パの双方を合わせ、
此実余虚妄 如是語者仏所不許、所以者何、此諸見中各有結使,我以理推、諸沙門婆羅門中、無与我等者、況欲出過,此諸
邪見但有言耳、不中共論o DN. XXIX, 35, Yan ca kho te evam āhamsu, Idam eva saccarn, mogham annan ti, tam tesam
nānujānāmi. Tam kissa hetu ? Annathā.san nino pi h, ettha sant eke sattā. Imāya pi kho aham pannattiyā n, eva
attano samasamam sa manupassāmi kuto bhy yo, atha kho aham eva tattha bhiyyo yadidam adhippannatti.自分は
NGパーリ文が漢訳と一致する意味に解し得られるのではないかと考えた。すなわち異なれる意見をもてる(annathi-san
tino)ある소 (else sattā)が存するというのは,その人々がおのおの異なれる意見を抱きつつ自説のみの真実を主張せる事
を意味し、従ってその自説への執著は諸見各結使ありの意味に通ずる。pannattiyaはリス·デヴィズのごとく前記の諸見
と同視すべきでなく「理をもって」の意に近く解すべきであろう。リス·デヴィズは「自分はこの意見を自分自身のと同じ
レヴェルにおいては考えぬ」と訳するが、かく解するためにはpannattiyaはアキュザティヴでなくてはならない。しかし
それは明らかにアキニザティヴでなくインスツルメンタルケースである。だから「理をもって」との読み方の方が正しいと
思われる。かくpanna (真の認識)の語を強調して解すれば、より高い、より進んだものとして最後にadhippannattiの語
が出てくるゆえんも明瞭に理解されるであろう。
自分の解釈によって言葉を補ったものである。長阿含清浄経(大正蔵一、
七六ページ)では、
97
返信削除原始仏教の実践
れ、
述、
、同
97
ブッダが何ゆえに答えなかったかの理由としては、経典自身は右のごとく認識に重点を置いて答えている。そうし
てこの理由を説明するものもまたブッダ自身として描かれるのである。すなわち「経典に描かれたるブッダ」は、前
掲のごとき問題に答えなかったとともに、その答えぬ理由を言わば二律背反に基づけているのである。我々はこの記
述の中からどの程度に歴史 的 ダを見いだすべきかは穹まい。ただしかJyの記掌根拠としてブッダーが哲学的
思索を斥けたとは言い得ぬ、という事だけは主張したいと思う。経の描けるブッダは哲学的問題を避けたのではない。
前掲のごとき形而上学的問題が真の哲学的問題でないゆえに答えなかったまでである。従って真に哲学的問題たり得
るのは、無我、五蘊、縁起等において取り扱われた問題にほかならぬ。この点にこそ我々は、初期仏教の思想的立場
がインド思想史の開展においていかに断乎たる転回点を意味するかを看取すべきであると思う。
オルデンベルクは初期仏教の思想が重大なる転回を意味することを認めようとしなかった。彼は一方にブッダが知
識を無上に尊重する傾向を持ったということを許し、他方にブッダが理剪ための理論、空虚なる知識、すなわち-
時代の哲学的理論を斥けたということを認める。しからば当然知識を尊重するブッダが空虚ならざる知識、真実の理
論を同時代の哲学的理論と異な56立場において追窮したと認めなくてはならぬはずである。しかるに彼が全力をっ
くすのは、ブッダが空虚なる知識と認めたその哲学の中から仏教思想をいかにして導き出そうかというにある。彼に
よれば初期仏教の根本思想はウパニシャッドの哲学が数論を通じて展開しきたったものである。しかしかく見るため
に仏教の根本思想が数論に合うように解釈されていることは學わけに行かない。また一致を強調するために重大な
学
to
2
始
3
以上和辻
返信削除以下木村
3:371
しかしこれには有力な専門家の反対もあって、欧洲では、一部の学者を除いては、余りその追随者を見出しかねていたが、近時、我国において、恐らく右の解釈に刺激されてか、盛んに論理的解釈を主張したのは宇井氏と和辻氏とである。なかんずく宇井氏は最近におけるこの説の提唱者の先駆をなしたけれども、正直にいえば、この間に常識的実在感の混入があって、それを徹底的に推し進めかねた嫌いがあるを免れないものがある。これに対して、和辻氏のそれは、大体において宇井説を継承しながらも、その常識観を排去して、徹底的に論理的見解を以って始終したところ、この立場にしたがう限り、けだしその代表的解釈といって然るべしと思う。そこで今、私がいわゆる論理主義的解釈を考慮するに当たっても、専ら和辻氏を中心として、宇井説をこれに配して、以ってその得失を考えて見ることにしたいと思う。順序として、先ず両氏主張の大綱を挙げる.ならば、けだし、左の諸点はその特徴を最もよく代表するものであろう。一、同じ阿含経や尼桐耶中にも、歴史的にいえば、その間に新古の層がある。縁起観についていえば、大体上、雑阿含(相応部)にあるものは古く、 長・中阿合にあるものは新しい。 またたとえ雑阿合にあるものでも、説明に渉るものは新しく、簡潔なものは古い。故に、吾らは縁起観の原始的意義を明らかにするためには、出来得る限り、その古いものによらねばならぬ。古い縁起経とその解釈経と阿毘達磨的解釈とは断然分けて考えるべきものであるとは、宇井氏も和辻氏も等しく論ずるところの文献的方法論である。二、同じく縁起経と称せられるものでも、その中に大小種々の系列を含む数十種の経典がある。しかしそれらは必ずしも同一立脚地に属する主張の広略ではなく、各々特殊の立場からの見方を代表するものであるから、その解釈を上、近時の縁起観とその得失 一二七一
和辻はカントに近づけすぎてはならないという
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