西川長夫は『フランス近代とボナパルティズム』でプルードンを引用し、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』に疑問を投げかけている。平凡社『プルードン・セレクション』では抜粋されていなかった箇所を使って論じているので紹介したい。以下引用です。
カエサル主義は、ローマ人のあいだでは貴族にたいする平民の勝利と、生活手段の保証としての世界の征服
が結びついたときに可能になった。……ローマの平民の消費と皇帝の安全のために諸国を組織的に強奪するこ
と、これこそカエサル主義である。……だが今日では事情が全くちがう。われわれは征服地を失った……、外
国からは一サンチームも引きだせない。ブルジョアジー、資本家、地主たちにたいして勝利をおさめるために、
勤勉で自由な中間階級を服従させ、下層民によって支配するために、彼征服国からえた戦利品で下層民を養う
ことはもはや問題外である。下層民に彼ら自身の生産物で生活させること、一言で言えば彼らを労働させるこ
とが問題なのである。(『一二月二日のクーデタによって証明された社会革命』La Révolution Sociale
démontrée par le coup d'État du Deux Décembre, Marcel Rivière, p.294)
プルードンはルイ・ナポレオンのクーデタを論じた書物(一八五二年)のなかで右のように記している。マルクス
と異なったやり方ではあるがプルードンもまた古代ローマと現代の社会的歴史的条件のちがいを説いて、労働者階
級の問題を、二月革命の新しい重要なスローガンであった「労働の権利」の文脈のなかで提起すると同時に、ボナ
パルトの政権がたどるであろう帝国主義的な政策にあらかじめ警告を与えている。現代のカエサル主義は歴史的必
然によって社会主義に導かれざるをえない、というのがプルードンのテーゼであった。プルードンは「カエサル主
義かアナルシズムか」という形で選択をせまっているのである。
(西川長夫『フランス近代とボナパルティズム』131-132頁)
……この時点のマルクスにとって、第一帝政と第三帝政は「悲劇」と「茶番」、真実態とパロディーのち
がいはあるが、いずれにせよ帝政という一つの歴史的な制度の初めと終りなのである。さらにつけ加えれば、悲劇
あるいは真実態としての帝政はその茶番とパロディーが現われることによって歴史から抹殺される。「皇帝のマン
トがついにルイ・ボナパルトの肩にかかるとき、ナポレオンの銅像はヴァンドームの円柱のてっぺんからころげお
ちるであろう」という末尾の言葉が意味しているのは、このことであろう。ボナパルティズムのこのような把捉の
仕方が必ずしも全面的に正しくないことは、後にマルクス自身も認めざるをえないところであるが、しかしマルク
スにとっては帝政全体あるいは帝政そのものが問題であるという点では変らないのである。
(同54頁)
西川は少なくともマルクス(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte)1952)が否定した様にはプルードンの分析を否定していない。同等以上の価値を認めている。 プルードンも独裁を生む構造を指摘している。むしろマルクスによる戯画化は帝国主義を正確に捉えているとは言えない。独裁は表象ではなく経済問題なのだ。階級闘争が経済問題を隠蔽している。マルクスの経済学研究が本格化するのはこの後である。
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返信削除Proudhon. Justice et liberté. ... Société officielle et société réelle. 100. Les conditions géographiques du ... Les textes qu'on trouvera dans ce recueil sont extraits des ouvrages de Proudhon que voici par ordre chronologique : 1. Encyclopédie ...
classiques.uqac.ca/.../Proudhon/justice.../la_liberte_extraits.doc
返信削除マルクス・レーニン主義
民主集中制
もともとは「分派結成の自由」も含めた異論の表明は保障するが、少数は多数の「決定」に従わなければならない、とする組織原則。ボルシェビキは、17年革命以前は分派結成の自由を保障していた。革命後の内戦・帝国列強のロシア侵入に対する戦争の中で「指導部の指導力」を強める必要から、ロシア共産党は1921年に一時的な措置として「分派の結成」を禁止した。スターリンは、レーニンの死後、「党は討論クラブではない」として、「分派の禁止」を「民主集中制の原則」にまで高めた。以後、第二次大戦後も各国共産党は、「分派を禁止する一枚岩の組織原則としての民主集中制」を保持し続けた。それは党内討論よりも指導部による方針の上意下達を優先する、各国の共産党を例外なく蝕んだ「組織内官僚主義」の組織論的根拠となったと言えよう。(民主集中制の組織原則は党の方針について、全党的な議論をする、多数決によって決定された方針の正誤は、全党の実践を通じて検証するという組織原則である。民主集中制の組織原則を乱暴に破壊したのはスターリンであるとされる。スターリンはレーニン死後、指導部の90%余りの幹部を弾圧して独裁体制をつくりあげた。)
一国一前衛党論
レーニンは第三インターナショナル(コミンテルン)結成に際して、「支部承認」を求める組織に「社会民主主義からの訣別の証」として「(国名)共産党・共産主義インターナショナル支部」と名乗ることを義務付けた。また、一国で複数の共産主義組織の加入申請があった場合はどれか一つ、もしくは組織の統一をさせたうえで支部承認した。しかし、初期のコミンテルンは「一国一支部」を原則としながらも、「コミンテルン支部以外の共産主義組織」を「イコール敵対者」と定義していたわけではない。ドイツ共産党(KPD)から分裂したドイツ共産主義労働者党(KAPD)も、コミンテルンのシンパ支部として受け入れられた。このコミンテルンの原則を「統一した党は革命の司令部であり、司令部がいくつもあったら命令指揮系統が混乱する」とする「一国一前衛党論」として「原則」にまで高めたのはスターリンである。その結果、スターリン指導下のコミンテルンによる「一国一前衛党論」は、各国支部以外の共産主義組織に対して「反革命トロツキスト」(それは必ずしもトロツキー派の組織ではなくてもレッテルを貼って攻撃した)などと激しく攻撃する「セクト主義」の論理として機能していくことになる。コミンテルンに対抗して1938年に結成されたレフ・トロツキーの第四インターナショナルも「一国一支部の承認」を原則としているが、自派以外の共産主義組織の存在を認める「複数主義」の立場をとっている。
9:53 午後
Blogger yoji said...
コミンテルン
共産主義インターナショナル
(第三インターナショナル)
略称 コミンテルン
前身 第二インターナショナル
後継 コミンフォルム
設立年 1919年3月2日
廃止年 1943年5月15日
種類 共産主義政党の国際組織
目的 共産主義
マルクス・レーニン主義
メンバー 388(1922年 第4回大会)
設立者 ウラジーミル・レーニン
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共産主義
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関連項目[表示]
表・話・編・歴
コミンテルン(ロシア語: Коминтерн、カミンテールン、ラテン文字転写例:Komintern、英語: Comintern)は、1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織である。別名第三インターナショナル。
「コミンテルン」とは正式名称の「共産主義インターナショナル」(ロシア語: Коммунистический Интернационал、コムニスチーチェスキイ・インテルナツィオナール、英語: Communist International)の略称。
1919年3月に結成され、1935年までに7回の大会を開催した。第七回大会には65ヶ国の党と国際組織の代表が出席した[1]。前身の組織として第一インターナショナル、第二インターナショナルが存在する。
9:55 午後
Blogger yoji said...
マルクス・レーニン主義
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この項目では、マルクス・レーニン主義のうち、おもにレーニンの独自な理論について記述しています。マルクス主義については「マルクス主義」をご覧ください。
共産主義
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関連項目[表示]
表・話・編・歴
マルクス・レーニン主義(マルクス・レーニンしゅぎ)とは、マルクス主義の一つの潮流であり、〈ロシア革命の指導理念としてボリシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンが案出したもの、またそれを一般化・普遍化した思想〉である。
目次 [非表示]
1 理論
1.1 世界認識、経済学、社会主義論
1.2 戦略論
1.3 前衛党論
2 関連項目
3 参考文献
理論[編集]
世界認識、経済学、社会主義論[編集]
マルクス主義を参照。
帝国主義論
資本主義は、資源と労働力と市場の確保のため、植民地争奪戦争を必然化するとする。
戦略論[編集]
プロレタリア独裁
革命後、全ての生産手段が社会化される共産主義に至るまでの時期には、反革命勢力となるブルジョワジーが残存しており、革命勢力であるプロレタリアートは奪った権力を行使して、これを抑圧しなければならないとする。後にスターリンはマルクス・レーニン主義を定式化するにあたり、レーニンにおいては共産主義に至る前段階であったプロレタリアート独裁期を社会主義であるとした。
レーニンにとって「独裁」とは、「直接に暴力に立脚し、どんな法律にも拘束されることのない権力」のことであった。(実際にはエスエル、メンシェビキその他の政党は、ソビエト体制下でもソビエトに参加していた。ところが反革命のテロ活動を行ったとして、レーニンはこれらの政党を禁止した。)そのため、レーニン直属のチェーカーなどの抑圧機関が無制限に国民の粛清を行った。チェーカーは1922年にGPUと改名して、スターリン時代も国民の大粛清を行った。これにより、元貴族や資産家、クラークばかりでなく、体制に反対した市民などが「人民の敵」として無制限に処刑され、他の共産圏でも踏襲された。
永続革命論
一国でプロレタリアートの政権が成立しても、目標を実現したことにはならず、目標は全世界で共産主義社会を実現することにあるとする世界革命論を発展させ、一国でのプロレタリアートの政権の成立はそれだけでは社会主義社会への移行には不十分で、特に後進国の場合、プロレタリアートの政権の維持そのもののために、他国での連続した革命が必須であり、それを可能にするためには最初からプロレタリアートが革命をリードする必要があり、また既に権力の奪取が成功した国では止むことのない改革が必要であるとした。レーニンは当初、二段階革命論を主張し、永続革命論を主張するトロツキーと対立していたが、帝政の崩壊後永続革命論の立場に転じ四月テーゼを発表した。一国社会主義を標榜するスターリンはマルクス・レーニン主義を定式化するときに永続革命論を否定したので、ソビエトでは継承発展されず、トロツキーの思想の系譜につながる人々やアントニオ・グラムシなど西欧のマルクス主義者が継承し、形を変えながらも発展させた。
帝国主義戦争の内乱への転化(革命的祖国敗北主義)
自国が帝国主義戦争を起こすに至ったら、労働者は自国の戦争での勝利のために闘うのではなく、戦争に乗じて階級闘争を激化させ現体制を打倒するために闘うべきだとした。レーニンはこのようにして第一次世界大戦時に革命を成功させ、ロシアを戦争から離脱させた。
前衛党論[編集]
レーニンは自らの党組織論をおおむね『何をなすべきか』(1902年)において記している。これは労働組合主義を「経済主義」と呼んで批判する論争的な著作である。
レーニンは革命の可能性について自然発生性よりも目的意識性を重視した。そのうえで革命への目的意識は外部からプロレタリアートに注入できるとも考え、革命理論はプロレタリアートの外側から知識人が持ち込むものと考えた(この点まではカール・カウツキーと一致している)。加えて、それゆえに実際の党組織と労働者組織は峻別されるべきだと考えた。これらの運動論・党組織論は次のように実践された。
職業革命家により構成される党
ドイツ社会民主党を範とするメンシェヴィキは、大衆に開かれた党を主張した。メンシェビキを率いるマルトフは、党の指導のもと、個人的に党活動に参加すべきであると考えていた。
しかし、「党員は党組織の一部を担う」べきだと主張しつづけていたレーニンは、大衆に開かれた党を官憲に開かれた党であるとした。そのうえで言論の自由のないロシアでは、革命党は職業革命家の党にならざるを得ないとした。のちに、これらの党専従活動家・党官僚がノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級と化してしまうという皮肉が現出した。
http://yaplog.jp/dunlop1957/archive/130
返信削除カール・カウツキー(1937)『社会民主主義と共産主義の対決』
August 13 [Fri], 2010, 1:20
本書は直井武夫氏の訳で酣燈社より1951年に出版された本ですが、現在はいずれの出版社からも訳本は出ていないと思います。
ざっと読んだ限りでは、晩年のカウツキーが到達した思想的位置というのは、私の認識していたカウツキー主義とはやや趣を異にしていて、暴力革命やプロレタリア独裁、民主主義のあり方について現代社会民主主義にかなり近づいていたようです。日本の左翼は「背教者」ぐらいの認識しかないのでしょうが、これまでカウツキーの著作を読んだ限りでは、レーニンよりカウツキーのほうが理論的で頭がいいと感じています。
その中でも気になった、印象に残った記述がいくつかあったので紹介します。
「マルクスが最も恐れたことはその学説が動きのとれない宗派に堕落することであつた。(中略)初期のイギリスのマルクス主義者がマルクス主義を宗派的精神で取り扱つた際、エンゲルスは口を極めてこれを非難した。もし彼が生きていて、マルクス主義者の一派が政権を掌握した後、マルクス主義を国定宗教に変じたのを見たとすれば、彼は何といふであらうか?ソヴィエトではマルクス主義は一個の宗教と化し、政府はその信仰の各条と解釈を厳重に監視し、その批評、いな僅かな異説さへ国家の厳罰に処せられている。マルクス主義はスペインの宗教裁判の方法で支配し、火と剣とをもつて傅道され、芝居がかつた儀式となつている(レーニンの死体の保存にみられるやうに)」(p33)
「唯一神教の神のやうに独裁者は非常に嫉妬深い神である。党内で独裁者の神聖な不可侵性を信じない者は彼の恐ろしい憎しみを買わねばならぬ。(中略)どんな党組織にせよ独裁権が確立されるならば、その組織はつねに知的堕落をまぬがれない。なぜなら独裁は、最良の分子を堕落させ、その独立心を放棄させるか、乃至はこれを党外に駆逐するからである。(中略)レーニン主義がロシア社会民主党内にあらわれるや否や、これをメンシェビキとボリシェビキに分裂させた」(p61)
カール・カウツキー
返信削除カール・カウツキー
生誕 1854年10月16日
オーストリア帝国, プラハ
死没 1938年10月17日(84歳)
オランダ, アムステルダム
時代 19世紀哲学
地域 西欧哲学, ドイツ哲学
学派 マルクス主義, 生物学主義
研究分野 政治哲学, 政治学, 経済学, 歴史学
主な概念 社会進化論的認識論
道徳進化論
社会文化的進化論
超帝国主義
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影響を与えた人物:[表示]
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カール・カウツキー(Karl Johann Kautsky, 1854年10月16日 - 1938年10月17日)は、ドイツのマルクス主義政治理論家、革命家、政治家、哲学者、経済学者。
目次 [非表示]
1 略歴
2 主な業績
3 著書(日本語訳)
4 参考文献
4.1 関連文献
4.2 同時代の文献
5 外部リンク
略歴[編集]
プラハに生まれる。父ヨハンはチェコ人で背景画家、母ミンナ(ドイツ語版)はドイツ人で女優・作家だった(ユダヤ人の両親のもとプラハで生まれるとも言われている)。7歳の時にウィーンに移り、ウィーン・ギムナジウム(グラマースクール)を経て1874年にウィーン大学に入学。大学では歴史哲学を専攻する傍ら、在学中の1875年にオーストリア社会民主党へ入党。大学卒業後の1880年にチューリッヒへ転居し、翌1881年にロンドンを訪問しマルクスやエンゲルスと意見交換する機会を持った。
1882年にマルクス主義機関誌「Die Neue Zeit」を創刊、1885年~1890年にかけてロンドンに滞在しエンゲルスと度々意見交換をしながら、アウグスト・ベーベルやエドゥアルト・ベルンシュタインらとともにドイツ社会民主党(SPD)のエルフルト綱領の策定に関わった。エンゲルスの死後はベーベルと共に社会民主党のマルクス主義中間派を形成して党内の主導権を掌握した。しかし1913年にはベルンシュタインや社会民主党左派とともに、軍事力増強法案に反対し、1917年に至って「Die Neue Zeit」の編集主幹を辞しベルンシュタイン、フーゴ・ハーゼ、ゲオルク・レーデブーアらとともに独立社会民主党(USPD)に参加した。
第一次世界大戦後の1922年にドイツ社会民主党に復帰しヴァイマル共和国の要職を短期間務めたものの、フライコールによる革命派の弾圧に反対し党の国会議員団から除名。1924年に政治活動から引退してウィーンへ帰郷するも、アンシュルスに伴いナチスに追われて、プレスブルク、プラハを経由してアムステルダムへと逃れ其処で客死。
主な業績[編集]
生前のマルクス、エンゲルスと直接意見交換する機会を持つばかりか、エンゲルスの死後にはマルクスの遺稿の整理・編集の仕事を引き継ぎ、『経済学批判序説』、『剰余価値学説史』、『資本論・民衆版』を編集・刊行した。また、ベーベルやベルンシュタインなどと綱領策定に関わったことから、マルクス主義理論の正統的な後継者の地位を確立。自ら編集主幹を務めた「Die Neue Zeit」を足場として、社会主義の最も重要で影響力のある理論家の一人となりマルクス主義の法王と渾名された。
ベルンシュタインとは大学時代からの知り合いでマルクス主義者となったのも彼の影響だったが、1890年代半ば以降ベルンシュタインが打ち出した修正主義が党内に台頭していくと、『農業問題』(1899年)、『ベルンシュタインと社会民主主義の綱領』(1899年)などの著作で修正主義の一連の主張に反論した。 一方で、1910年代に入って盛んとなったローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトなど左派の側に対しても批判を行い、1918年には『プロレタリアートの独裁』でソヴィエト社会主義政権を一党独裁であると非難し、民主主義による社会主義の実現を主張した。(それに対し、レーニンは『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(1918年)で彼を「背教者」、「ユダ」などと激しく罵倒した。)この他、『資本論解説』(1887年)、『近代社会主義の先駆者たち』(1895年)、『倫理と唯物史観』(1906年)、『キリスト教の起源』(1908年)、『権力への道』(1909年)など、極めて多方面の文筆活動を行った。
著書(日本語訳)[編集]
『マルクス資本論解説』、大鐙閣、1921年。
『民衆政治と独裁政治』、広文館、1921年。
『資本論解説』、而立社、1924年。
『資本主義と物価問題』、早稲田泰文社、1924年。
『マルクス経済学入門』、新潮社、1925年。
『社会民主党綱領解説』、弘文堂書房、1925年。
『マルクス・エンゲルス評伝』、我等社、1926年。
『改訳資本論解説』、高畠素之訳、改造社、改訂版1927年。
『エルフルト綱領解説』(改造文庫)、三輪寿壮訳、改造社、1930年。
『唯物史観』(第1巻 第1書-第3書 自然と社会)、佐多忠隆訳、日本評論社、1931年。
『倫理と唯物史観』(改造文庫)、堺利彦訳、改造社、1932年。
『貨幣論』、向坂逸郎・岡崎次郎共訳、改造社、1934年。
『恐慌論』、松崎敏太郎訳、叢文閣、1935年。
『農業問題』(岩波文庫)、向坂逸郎訳、岩波書店、1946年
『資本論解説』、佐藤栄訳、彰考書院新社、1946年。
『フランス革命時代の階級対立』、日高明三訳、アカギ書房、1946年。
『社会民主主義と共産主義の対決』、直井武夫訳、酣燈社、1951年。
『帝国主義論』(創元文庫)、波多野真訳、創元社、1953年。
『フランス革命時代における階級対立』(岩波文庫)、堀江英一・山口和男共訳、岩波書店、1954年5月。
『農業問題――近代的農業の諸傾向の概観と社会民主党の農業政策』(国民文庫)、山崎春成・崎山耕作共訳、国民文庫社、1955年。
『トマス・モアとユートピア』(りぶらりあ選書)、渡辺義春訳、法政大学出版局、1969年。
『キリスト教の起源――歴史的研究』 (叢書・ウニベルシタス65)、栗原佑訳、法政大学出版局、1975年1月、ISBN 4588000659。
『エルフルト綱領解説』(改造文庫復刻版第1期)、三輪寿壮訳、改造図書出版販売、1977年。
『倫理と唯物史観』(改造文庫復刻版第1期)、堺利彦訳、改造図書出版販売、1977年。
『中世の共産主義』(叢書・ウニベルシタス96)、栗原佑訳、法政大学出版局、1980年1月、ISBN 4588000969。
『マルクスの経済学説―『資本論』入門』、相田慎一訳、丘書房、1999年3月、ISBN 4871410722。
カール・カウツキー、カール・レンナー、シルビオ・ゲゼル著『カウツキー・レンナー・ゲゼル『資本論』の読み方』、相田慎一訳、ぱる出版、2006年4月、ISBN 4827202133
参考文献[編集]
関連文献[編集]
田中克彦著『言語からみた民族と国家』(岩波現代文庫)、岩波書店、1978年、1991年、2001年、ISBN 9784006000639
山本佐門著『ドイツ社会民主党とカウツキー』、北海道大学図書刊行会、1981年、ISBN 4832951513
ゲアリ・P・スティーンソン著『カール・カウツキー 1854‐1938――古典時代のマルクス主義』、時永淑・河野裕康訳、法政大学出版局、1990年2月、ISBN 4588002856
相田慎一著『カウツキー研究――民族と分権』、昭和堂、1994年7月、ISBN 4812293065
相田慎一著『言語としての民族――カウツキーと民族問題』、御茶の水書房、2002年3月、ISBN 4275018990
上島武著『ロシア革命・ソ連史論――カウツキーからドイッチャーへ』、窓社、2003年3月、ISBN 4896250516
同時代の文献[編集]
マルクス・エンゲルス共著『ゴータ綱領批判 エルフルト綱領批判』、後藤洋訳、新日本出版社、2000年9月、ISBN 4406027602
カウツキーの社会民主主義観 (Adobe PDF) -htmlで見る
返信削除の社会主義思想形成に大きな影を及ぼしながらも、 最後は社会主義革命のあ. り方を め ぐって彼等と決定的に対立したカウツキーこそ、 西欧市民社会的思想. の継承者で あり、 また、 ベルンシュタイ ンと並んで、 ドイ ツ社会民主主義の擁. 護者であった。
www.pu-kumamoto.ac.jp/~tosho/file/.../KJ00000199751.pdf
http://www.pu-kumamoto.ac.jp/~tosho/file/pdf/kad/5-4/KJ00000199751.pdf#search='カウツキー+民主主義'
唯物論的歴史観
返信削除http://homepage1.nifty.com/ta/sfk/kautsky.htm
返信削除『唯物史観 第1巻 自然と社会』 Die materialistische Geschichtsauffassung
Three Volumes
Tr:佐多忠隆(Sata Tadataka)/他 Pb:日本評論社
1931-1932
One:「精神と世界」 Tr:藤井悌/佐多忠隆
Two:「人間性」 Tr:佐多忠隆
Three:「人間社会」 Tr:佐多忠隆
『マルクス資本論解説』
返信削除Tr:高畠素之(Motoyuki Takabatake) Pb:大鐙閣
1920(大正9)
『民主政治と独裁政治』
Tr:来原慶助(Kuruhara Keisuke) Pb:広文館
1921(大正10)
『社会民主党綱領 -エルフルト綱領』
Tr:三輪寿壮(Miwa Jusou) Pb:大鐙閣
1923(大正12)
『資本主義と物価問題』
Tr:市川正一(Ichikawa Shoh-ichi) Pb:早稲田泰文社
附録:「労働者と物価騰貴」 アーノード・ペタゼン/「貨幣の起原及職能」 ダニエル・デ・レオン 1924(大正13)
『資本論解説』
Tr:高畠素之(Motoyuki Takabatake) Pb:而立社
1924(大正13)
『社会民主党綱領解説 -エルフルト綱領』
Tr:三輪寿壮(Miwa Jusou) Pb:弘文堂書房/社会思想叢書/第3編
1925(大正14)
『農業の社会化』
Ed/Tr:河西太一郎(Kasai Taichirou) Pb:同人社書店
1925(大正14)
「農業社会化論」 カアル・カウツキー
「農業社会化案」 カアル・マルヒオニニ
『マルクス経済学入門』
Tr:石川準十郎(Ishikawa Junjuhrou) Pb:新潮社(ShinchoSha)/社会哲学新学説大系09
1925(大正14)
『マルクス・エンゲルス評伝』
Tr:櫛田民蔵(Tamizou Kushida)/大内兵衛(Oouchi Hyoh-e) Pb:我等社/我等叢書/第1冊
1926(大正15)
『改訳資本論解説』
Tr:高畠素之(Motoyuki Takabatake) Pb:改造社(KaizoSha)
1927
『金融資本と恐慌 -ヒルファディング「金融資本論」批判』 Finanzkapital und Krise
Tr:笠信太郎(Ryuu Shintarou) Pb:叢文閣
1927
『マルキシズムの人口論』 Vermehrung und Entwicklung
Ed/Tr:松下芳男(Matsushita Yoshio) Pb:新潮社(ShinchoSha)/マルクス思想叢書05
1927/7
『マルキシズムの擁護』 Bernstein und das sozialdemokratische Programm
Ed/Tr:安倍浩(Abe Kou) Pb:新潮社(ShinchoSha)/マルクス思想叢書08
1927/1
『無産階級革命とその綱領』 Die proletarische Revolution und ihr Programm
Tr:高橋正男(Takahashi Masao) Pb:金星堂
1927
『基督教の起源』 Der Ursprung des Christentums
Two Volumes
Tr:近藤宗男(Kondou Muneo) Pb:啓明社
1928
『社会革命論』
Tr:松本信夫(Matsumoto Nobuo) Pb:白揚社(HakuyoSha)
1928
『消費組合と労働運動』 Consumvereine und Arbeiterbewegung
Tr:村山重忠(Shigetada Murayama) Pb:叢文閣
1928
『トゥマス・モーアとそのユゥトピア』 Thomas More und seine Utopie
Tr:高橋正男(Takahashi Masao) Pb:聚英閣
1928
『フランス革命時代に於ける階級対立』
Tr:宗道太(Michita Sou) Pb:叢文閣/マルクス主義名著叢書03
1928
『マルクスの資本論』
Ed:北[レイ]吉(Kita Reikichi) Pb:潮文閣/万有文庫35
1928
『基督教の発生と古代無産階級』 Der Ursprung des Christentums
Tr:近藤宗男(Kondou Muneo) Pb:社会評論社
1929
返信削除『倫理と唯物史観』
Tr:堺利彦(Sakai Toshihiko) Pb:改造文庫(Kaizo bunko)/第1部076
1930
Tr:堺利彦(Sakai Toshihiko) Pb:改造図書出版販売/改造文庫覆刻版/第1期
1977/2
『エルフルト綱領解説』
Tr:三輪寿壮(Miwa Jusou) Pb:改造文庫(Kaizo bunko)/第1部105
1930
Tr:三輪寿壮(Miwa Jusou) Pb:改造図書出版販売/改造文庫覆刻版/第1期
1977/2
『資本論解説 -改訳』
Tr:高畠素之(Motoyuki Takabatake) Pb:改造社(KaizoSha)
1930
『資本論解説』Tr:佐多忠隆(Tadatakasata) Pb:改造社(KaizoSha)
1932
『カウツキーは共産党をかく排撃する』
Tr:小池四郎(Koike Shirou) Pb:クララ社/社会民主主義叢書01
1930
『サウィエート・ロシアの革命的実験は成功したか? -五ケ年計画立往生』
Tr:小池四郎(Koike Shirou) Pb:先進社
1931
『マルクス恐慌理論』
Tr:松井隆一(Matsui Ryuh-ichi) Pb:叢文閣
1931
『行き詰つたボルシェヴィズム』
Tr:武井秀吉(Hideyoshi Takei) Pb:中央報徳会/社会思想パンフレツト/第4輯
1931
『農業経済学』
Tr:向坂逸郎(Itsurou Sakisaka) Pb:中央公論社(ChuokoronSha)
1932
『唯物史観 第1巻 自然と社会』 Die materialistische Geschichtsauffassung
Three Volumes
Tr:佐多忠隆(Sata Tadataka)/他 Pb:日本評論社
1931-1932
One:「精神と世界」 Tr:藤井悌/佐多忠隆
Two:「人間性」 Tr:佐多忠隆
Three:「人間社会」 Tr:佐多忠隆
『資本論解説』 Karl Marx'Okonomische Lehren
Tr:大里伝平(Oosato Dempei) Pb:岩波文庫(Iwanami bunko)
1933
『農業問題』
Three Volumes
Tr:プロレタリア科学研究所農業問題研究会 Pb:鉄塔書院
1931-1933
『マルクス主義貨幣論』
Tr:高村雪夫(Takamura Yukio) Pb:労農書房
1933
『貨幣論』
Tr:向坂逸郎(Itsurou Sakisaka)/岡崎次郎(Okazaki Jirou) Pb:改造社(KaizoSha)
1934
『恐慌論』
Ed/Tr:松崎敏太郎(Toshitarou Matsuzaki) Pb:叢文閣
1935
『資本論解説』
Tr:佐藤栄(Satou Sakae) Pb:彰考書院新社
1946
『農業問題 -近代的農業の諸傾向の概観と社会民主党の農業政策』
Two Volumes
Tr:向坂逸郎(Itsuro Sakisaka) Pb:岩波文庫(Iwanami bunko)
1946
『フランス革命時代の階級対立』
Tr:日高明三(Meizou Hidaka) Pb:アカギ書房
1946
『倫理と唯物史観』
Tr:堺利彦(Sakai Toshihiko) Pb:彰考書院
1947
『社会民主主義と共産主義の対決』
Tr:直井武夫(Naoi Takeo) Pb:酣灯社(Kantosha)
1951
『帝国主義論』
Tr:波多野真(Hatano Makoto) Pb:創元社(SogenSha)/創元文庫(Sogen bunko)
1953
『フランス革命時代における階級対立』
Tr:堀江英一(Horie Eiichi)/山口和男(Yamaguchi Kazuo) Pb:岩波文庫(Iwanami bunko)
1954
『農業問題 -近代的農業の諸傾向の概観と社会民主党の農業政策 第1冊』
Tr:山崎春成(Yamazaki Harushige)/崎山耕作(Sakiyama Kohsaku) Pb:国民文庫社/国民文庫
1955
『トーマス・モーアとそのユートピア』
Tr:渡辺義晴(Watanabe Yoshiharu) Pb:東京教育書林
1957
『ローザ・ルクセンブルグの手紙 -カール及びルイゼ・カウツキーへの1896-1918』
Ed:ルイゼ・カウツキー(Luise Kautsky)
Tr:松井圭子(Matsui Keiko) Pb:岩波文庫(Iwanami bunko)
1932
Tr:松井圭子(Matsui Keiko) Pb:岩波文庫(Iwanami bunko)
1963
『トマス・モアとユートピア』
Tr:渡辺義晴(Watanabe Yoshiharu) Pb:法政大学出版局(Hosei University Press)/りぶらりあ選書
1969
『キリスト教の起源 -歴史的研究』
Tr:栗原佑(Kurihara Tasuku) Pb:法政大学出版局(Hosei University Press)/叢書・ウニベルシタス0065
1975
『中世の共産主義』 Vorlaufer des neueren Sozialismus
Tr:栗原佑(Kurihara Tasuku) Pb:法政大学出版局(Hosei University Press)/叢書・ウニベルシタス0096
1980/7
『『資本論』入門 -マルクスの経済学説』 Karl Marx's konomische Lehren
Tr:相田愼一(Aida Shin-ichi) Pb:丘書房,
1999/3
ISBN4-87141-072-2
「基督教の成立」 Die entstehung des christentums (1885)
Tr:喜多野清一(Kitano Seiichi) 岩波文庫(Iwanami bunko) 『原始基督教史考』
「マルキシズム修正の駁論」
Tr:松下芳男(Matsushita Yoshio)/山川均(Yamakawa Hitoshi) 春秋社(ShunjyuSha) 『世界大思想全集047』
プルードンとマルクス
返信削除は
デューリングとエンゲルス
カウツキーとレーニン
に対応する。
カウツキーはアナキストではないが、、、
858 :自治スレでLR変更等議論中@転載は禁止:2015/01/05(月) 15:01:59.59 ID:VZEQcS800
返信削除http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20081101/1225470411
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)
作者: カールマルクス,Karl Marx,植村邦彦
柄谷曰く、代表性が孕む表象の「穴」こそが、このような独裁制を招く。
つまり、ある階級の中の人々と階級を代表する議員の間には、乖離があると
いうことである。それはシニフィエとシニフィアンの乖離と類似している。
その乖離こそが独裁の萌芽となるのであった。
https://mobile.twitter.com/hamano_satoshi/status/5126296080
引用続き:たとえば柄谷行人は、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』を読解
しながら、普通選挙の問題は、政治家(代表するもの)と有権者(代表されるもの)の結び
つきを「恣意的」(ソシュール)にしてしまう点にあると指摘した。
ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と
返信削除述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな
笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、
1973〜95年のモンターニュ派の代わりに1848〜51年のモンターニュ派、小男の伍長と彼の
元帥たちの円卓騎士団の代わりに、借金を抱えた中尉たちを手当たり次第にかき集めて
引き連れたロンドンの警官!天才のブリューメル18日の代わりに白痴のブリュメール18日!
そしてブリュメール18日の第二版が出版された状況も、これと同じ戯画である。一度目は
フランスが破産の瀬戸際にあったが、今度はボナパルト自身が債務者拘留所に入る瀬戸際
だった。あのときは列強の連合が国境にいたが、――今度はルーゲ=ダラシュの連合が
イングランドに、キンケルブレンターノの連合がアメリカにいる。あのときはサン・ベルナール
峠を越えなければならなかったが、今度は一個中退の憲兵隊をジュラ山脈を越えて送り込
まなければならない。あのときはマレンゴ以上のものを獲得しなければならなかったが、
今度はサン・タンドレ大十字勲章を獲得し、『ベルリン国民新聞』の尊敬を集めなければならない。
人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るの
ではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべて
の死せる世代の伝統が、悪夢のように生きている者の思考にのしかかっている。そして、生き
ている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事
に携わっているように見えるちょうどそのとき、まさにそのような革命的危機の時期に、不安
そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役にたてようとし、その名前の、鬨の声、衣装を
借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じよ
うとするのである。
カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」
http://murashit.hateblo.jp/entry/20081030/1225379175
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(ドイツ語: Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte)は、カール・マルクスの著書。フランス第二共和制における諸階級の政治闘争がフランス皇帝ナポレオン3世のクーデター(フランス語版、英語版)を成立させた過程について分析した評論で、「ボナパルティズム」という言葉を世の中に定着させた。
返信削除冒頭部分は有名である。
世界史上の有名人物は二度現れるとヘーゲルは書いた。だが、ヘーゲルは次の言葉を付け加える事を忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇としてと
原文は以下の通りである。
<115> Hegel bemerkte irgendwo, daß alle großen weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich sozusagen zweimal ereignen. Er hat vergessen, hinzuzufügen: das eine Mal als Tragödie, das andere Mal als Farce.
最新翻訳者の市橋秀泰はこの部分を以下のように翻訳している。
ヘーゲルはどこかで言っている。すべての世界史的な大事件と巨人は二回現れるというようなことを。ただしヘーゲルは、それに加えて次のように言うのを忘れている──一回目は偉大な悲劇として、二回目は安っぽい茶番狂言として、と。
この冒頭部分をどう解釈するかが問題であるが、「偉大な悲劇」が、ナポレオン・ボナパルトがフランス革命をクーデタで流産させたことを意味しており、「安っぽい茶番狂言」が、その甥のルイ・ボナパルトが、第二共和制の下で民主的に大統領に選出されながら、同じくクーデタで共和制を流産させ、大統領権限を大幅に強化した新憲法を制定して独裁体制を樹立し、翌年には国民投票を経て皇帝に即位し第二帝政を樹立して、ナポレオン3世と自らを称したことを意味していると考えられる。そしてマルクスのこの著作の表題はこのような解釈を行って初めて理解出来る。
共和暦8年霧月(Brumaire)18日(Dentelaire)は、ナポレオン・ボナパルトがクーデタでフランス革命を流産させ、自らを皇帝と称しはじめた悲劇の日であるから、ルイ・ボナパルトとは直接には関係ないが、マルクスの目から見れば、クーデタで民主的制度を崩壊させた点では伯父と甥とは歴史的に同じ役割を果たしたことになるから、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」という表現には「大きな皮肉」が込められていることになる。
マルクスは第2版へのマルクスの序文の中でこの著作の特徴を、ヴィクトル・ユゴーの「小ナポレオン」とプルードンの「クーデタ」と比較して、以下のように述べている。
<359>Ich weise dagegen nach, wie der Klassenkampf in Frankreich Umstände und Verhältnisse schuf, welche einer mittelmäßigen und grotesken Personage das Spiel der Heldenrolle ermöglichen.
市橋秀泰訳は以下の通りである。
私が証明しているのは逆であって、フランスにおける階級闘争というものが事態や情況を作り出して、そのおかげで、平凡で馬鹿げた一人物が主役を演じることができるようになったということなのだ。
市橋は、「馬鹿げた」と翻訳しているが、原語は、'grotesken'であり、小学館独和大辞典の訳語には、グロテスクな・怪奇(異様)な・奇妙な・ばかげた・滑稽な等が掲載されている。
ただ、ナポレオン・ボナパルトのクーデタとは異なり、ルイ・ボナパルトのクーデタが彼の能力や実力によってではなく、フランスにおける階級闘争の結果が彼にそれを可能にした事実を示したと本人が述べている事は確かであり、この記述を念頭に置けば、何故、マルクスが、ルイ・ボナパルトとブリュメール18日とを意図的に関連づけ表題としたのかより理解が深まると考える。
最後にナポレオン1世・2世・3世とナポレオン・ボナパルトの出自を記述しておく。ナポレオン1世、ナポレオン・ボナパルトは、シャルル・マリ・ド・ボナパルトの四男としてフランス領コルシカ島に生れた。ナポレオン3世、シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトは五男ルイ・ボナパルトの息子であるから、両者は伯父と甥の関係にあった。ナポレオン2世、ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトはナポレオン・ボナパルトの嫡男で、1815年6月22日から7月7日まで名目上のフランス皇帝であった。
日本語訳 編集
伊藤新一、北条元一訳 岩波文庫 1954年9月25日
植村邦彦訳、柄谷行人解説 平凡社ライブラリー 2008年9月
市橋秀泰訳、新日本出版社・科学的社会主義の古典選書 2014年1月10日
http://e-hon.cloudpages.jp/viewer/asp/9784_406_057707
関連項目 編集
ブリュメールのクーデター 1799年11月9日に発生したナポレオン1世のクーデター。
唯物史観
マルクス主義
フランス革命
フランス帝国
This article is about Karl Marx’s work. For the coup d'état itself, see French coup d'état of 1851.
返信削除1852 publication in Die Revolution
The Eighteenth Brumaire of Louis Napoleon (German: Der 18te Brumaire des Louis Napoleon) was an essay written by Karl Marx between December 1851 and March 1852, and originally published in 1852 in Die Revolution, a German monthly magazine published in New York City and established by Joseph Weydemeyer. Later English editions, such as an 1869 Hamburg edition, were entitled The Eighteenth Brumaire of Louis Bonaparte.
228 NHK名無し講座[] 2021/05/09(日) 20:17:03.46 ID:nRNt+BPw
返信削除1830年・七月革命→七月王政 1848年二月革命→第二共和政→第二帝政
1870年・パリコミューン→第三共和政