All in the Family S3 E14 - Archie and the Bowling Teamhttps://t.co/oRT0noQwDI
— luminous woman (@_luminous_woman) August 26, 2021
4:20〜 pic.twitter.com/o628UqbSpU
ダブルバインド(Double bind)Bateson, G.1956
Joyce, Beckett, Artaud ( paranoid, hebephrenic, catatonic)妄想、破瓜、緊張型
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/joyce-beckett-artaud-paranoid.html
NAMs出版プロジェクト: What's the difference?:再々投稿
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/whats-difference.html@https://youtu.be/BwkUDWqhCio?t=3m24s
参考:
『読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語』
ポール・ド・マン, Paul de Man, 土田 知則 2012年 岩波書店
http://www.amazon.co.jp/dp/4000254634
20年以上前の「現代思想」の特集「日本のポストモダン」(1987.12)を読んでいたら、ド・マンのことが評価基軸のように複数の論者に何回か触れられていた。柄谷行人がまだポストモダン(結局反ヘーゲルということだったと思う)の反抗的地位にこだわっていた時期で、『世界史の構造』を考えると隔世の感がある。
というわけで、以前別ブログに書いた「What's the difference?」の再々投稿です。
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51757604.html
http://yojiseki.exblog.jp/11278751
ポール・ド・マンは『読むことのアレゴリー』(原著、P. de Man, "Semiology and Rhetoric", in Allegories of Reading, 1979, p.9、2007年時点では未邦訳。注:その後冒頭に掲げたように2012年岩波書店より邦訳が刊行された)で、言語、というよりも読むことの難しさ (=決定不能性)について説明する際の例として、アメリカのテレビドラマ「ALL IN THE FAMILY」を挙げている。柄谷行人は『隠喩としての建築』で以下のように紹介している。
<アーチー・バンカーが、女房に、ボーリングシューズのひもを上結びにしてほしいか下結びにしてほしいかと聞かれて、"What's the difference?"と答えたとき、女房はその違いを説明しようとする。亭主は「そんな違いがどうだっていうんだ」といったのに、女房はそれを「どういう違いがあるか」という問いとして受け取ったわけである。ド・マンは、これを、これを文法的に同一な文が相互に排他的な意味を生み出す例として挙げている。われわれは、その文がはたして問うているのか、問うことを拒んでいるのかを、形式主義的な観点の下では説明できない。>(『隠喩としての建築』岩波版104頁より)
All in the Family S3 E14 - Archie and the Bowling Team
DVD:
All In the Family: The Complete Third Season (1971)
episode14. Archhie and the Bowling Team 1972年12月16日放送
http://www.amazon.co.jp/All-Family-Complete-Season-Import/dp/B000255LG6
ド・マンがこのテレビ番組を見ていたかと思うと、別の意味で感慨深いものがある。。。
柄谷はさらに続ける。
<だが、われわれはこれを「笑う」ことができる。それは、なおわれわれが彼らに対してメタレベルにたつことができるということを意味する。決定不能性の深刻さは、こうした例ではなく、そこからの出口がなくてそれを「生きてしまう」分裂病者に見出されるべきである。>(同104頁)
<誰でも相互に否定しあうような二つのレベルのメッセージに直面し且つその矛盾について語りえないとき、しかもそれに応答することを迫られるような場合には、同じことが生じる。たとえばずる休みした会社員が昼間どこかの盛り場で上役に会い、「どうして(how)」こんな所に来たんだい?」ときかれたとき、「電車で」と答えるとするならば、彼は上役の「どうして」という言葉を定義通りに取ったわけである。>(同106頁)
<かくして、異なる領域で異なるタームで語られてきた諸問題が基本的に、形式化の問題として共通していることが明らかとなる。>(同109頁)
こういった西欧哲学における問題、つまり行為と言説との矛盾、形式と内容の錯綜(「自己言及のパラドックス」)、といった課題をアイルランド系の移民がフィジカルな笑いに転化しているのを見るのは痛快である(同じ主題を「学童たちのあいだで(Among School Children)」で謳ったイエーツもアイルランド人だった)。
なお、このエピソードは東浩紀の『存在論的、郵便的』(19頁)でも触れられており、ポストモダンの思索を切り開く鍵となっていると言えよう。
DVDに関しては日本語字幕版が待たれる。
*注:
『読むことのアレゴリー』の巻頭論文「記号論とレトリック」には柄谷行人氏による邦訳が存在する(『現代思想』1981.7/1981.8)。
参考サイト(土田知則論文pdf):
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/library1/jinbun_33_Tsuchida.PDF
以下、上記論文より:
レトリカル・クエスチョンの一例はいわゆる文学や哲学のテクストからではなく、マス・メディア作品から採られている。この例はド・マンの議論を広く人々に知らしめた重要なものなので、多少長くなるが、その分析に関係する部分を以下に引用しておくことにしよう。
ボーリング・シューズの紐を上結びにしたいか下結びにしたいかを妻に訊ねられ、アーチー・バンカー(Archie Bunker)は"What’sthedifference?"という質問で応じる。極めて単純な読解者(reader)である彼の妻は、辛抱強く上結びと下結びの違いを説明するのだが、どう説明しても夫の怒りをそそるばかりである"What’sthedifference?"〔どう違うんだい?〕は違いを訊ねているのではなく、"Idon’tgive a damn what the difference is."〔どう違おうとどうでもいいよ〕を意味しているのである。同一の文法的パターンが相互に排他的な二つの意味を生む。字義どおりの意味(literal meaning)は概念(違い)を求めているが、その存在は比喩的な意味(figurative meaning)によって否定されてしまう。事がボーリング・シューズの問題に留まっていれば、結果はそう大したことではない。アーチー・バンカーは起源の権威(無論、正しい起源でなければならないが)を大いに信頼しているので、不愉快を感じないわけではないが、字義どおりの意味と比喩的な意味が互いに邪魔し合う世界を何とか切り抜ける。だが、ここで"What’sthe Difference?"と問うのが「バンカー」ではなく、否定する人(de―Bunker)であり、起源(arche/origin)の"de―bunker"、たとえばニーチェやジャック・デリダのような"archie Debunker"だとしてみよう。彼の文法からは、彼が「実際に」「どんな」差異を知りたがっているのか、あるいはそんなものは見出そうとさえすべきではないと言っているのかが分からないのである。文法とレトリックの差異という問題に直面するとき、文法はわれわれに質問を発することを許すが、われわれが質問を発するために用いる文は、まさに質問の可能性そのものを否定してしまうかもしれない。というのも、私はそれを問いたいのだが、ある質問が問うているのか問うていないのかを明確に決定することさえできないならば、質問を発することはそもそも何の役に立つというのだろうか(pp.9―10)。
この夫婦のやりとりにおいてアーチー・バンカーが発する単純な一文の例(!What’sthe difference?")は、統辞的にまったく明快な文法形式が、同時に二つ以上の意味を有するような文を産出してしまう経緯を雄弁に物語っている。だが、この場合、「二つ以上の」という言い方はいわゆる「多義的な」という表現とは性質を異にしている。言語が多義的であるというのは決して珍しいことではない。多義性の問題圏においては、考えられうる複数の意味を同時に維持することが可能であり、言語使用の価値や意義は――たとえば詩的言語表現におけるように――まさにそうした可能性のうちにあるとさえ言えるだろう。
アーチーの言葉がとりわけスキャンダラスであるのは、それが単に多義的であるからではなく、それが二つのまったく相容れない意味を生じさせ、「文法的あるいは他の言語学的な方策によっては〔......〕どちらがより支配=説得的であるかを決定することが不可能」(p. 10)になってしまうからである。さらに言うなら、意味の決定不可能性は文法形式の決定不可能性を連動的に生じさせる。文法形式的には明快な疑問文であるはずの"What’sthe difference?"という一文がそもそも疑問文であるか否かを決定するのも、意味の場合と同じく、原理的にはまったく不可能と考えられるからである。
こうした考え方を必要以上の杞憂として一笑に付すことは確かに可能かもしれない。ド・マンも言うように、バンカー夫妻の行き違いは、「たとえばアーチー・バンカーが妻の思い違いを正すといったような、テクスト外的な意図の介入によって〔......〕解決される」(p.10)と考えられるからだ。だが、たとえそうであるにせよ、それはあくまでも何らかのテクスト外的な力に訴えかけることによってしかなされえない。テクストの内部に引き起こされる意味の「レトリカルな」決定不可能性については、個々の解釈による以外いかなる対処のしようもないし、その場合、どの解釈がはたして支配=説得的であるかを決める基準のようなものはどこにも存在していないからである。アメリカ人夫婦の一見何の変哲もない会話のなかに不意に引き起こされた苛立ちが、ド・マンにとって(そしてたぶんアーチー・バンカーにとっても)火急の意味合いを帯びるのはそのためである。それはその場限りの問題として瞬時のうちにクリアーされていくようなもの(ド・マンの言う「ミニ・テクストの一部」〔p.10〕)では決してなく、言語そのものが必然的に内包せざるをえないような意味的構造の「ずれ=偏差」という深刻な事態に他ならない。ド・マンは、われわれの意図や論理では把捉しきれないそうした言語の揺動、そしてある種の脅威を、アーチーの不安と重ね合わせながら次のように表現している。
だが、まさに彼〔=アーチー〕がみせる怒りは苛立ち以上のものを示している。つまりそれは自分ではコントロールできないような、そして将来似たような混乱が無限に生じ、もしかするとそのどれもが無残な結果に終わるかもしれないという悲観的な見とおしを与えるような、言語的意味構造に直面させられたときの彼の絶望を暴き出している(p.10)。
ド・マンの言語意識に終始つきまとうアーチー的な苛立ちは、その後イェール学派の系譜に連なる人たち(ショシャナ・フェルマン、バーバラ・ジョンソンなど)によっても精密に分析されていくことになるが)、こうした言語の「内的な差異」という問題について語る際もっとも重要なのは、やはりフランスの哲学者ジャック・デリダの存在であろう。もはやあらためて指摘するまでもなく、アーチーが遭遇する二つの意味間の決定不可能性という現象は、デリダが機会あるごとに暴き出してきたものに他ならない。ド・マンが「文」(レトリカル・クエスチョン)のレヴェルに見出したアポリアを、デリダはさらにミクロな「語」のレヴェルに探りあてていたのである。
(土田知則「『読むことのアレゴリー』を読む」より)
付記:
以下、関係ないですが別ブログのための下書きです。
(かつては形式的な一貫性によって全体を転覆しようとしていた一批評家が、最新作において、ヘーゲルに対抗する体系を構築してしまったことは興味深い。)
『世界史の構造』(岩波書店):参考文献表(登場順、50音順)。☆は参考図あり。関連年表 正誤表 TOP
(参考→『世界共和国へ』索引、定本柄谷行人集総合索引)
序文_序説 交換様式論*____________________________________
| 序論 国家の起源 | B1 | | 序論 氏族社会への移行 |
|1原都市☆|2ルソー |1アジア | |氏族社会 農業共同体B←定住民A |
|6官僚制 | ホッブズ(中心、中核) |呪術(互酬と共同寄託)| 4首長の逆説☆|
|___第1章国家___|__第3章世界帝国__| 第2章贈与と呪術 | 第1章定住革命 |
| 3国家の矛盾|3ギリシア| B3 | モース、ブーバー |サーリンズ☆、モーガン|
| | 4ローマB2| 5封建制| フロイト☆|2交易と戦争、クラストル
| | |(亜周辺)|2周辺と亜周辺☆ | |
|_____|_第二部 世界=帝国_1ウィットフォーゲル_第一部 ミニ世界システム__(交換様式)
| (B)1呪術から宗教へ | (A)(再分配)|(互酬) |
|1国家と貨幣 | ウェーバー、ニーチェ| | B国家 |Aネーション
| 自給自足☆ |2帝国と一神教 |遊牧民C←狩猟採集民(遊動バンド)D |
| 第2章世界貨幣 | 第4章普遍宗教 | |_*序説 交換様式論_|
|3『リヴァイアサン』と|3模範的、4倫理的預言者 | 2図:近代の社会構成体☆
|『資本論』価値形態論☆| 6キリスト教| |(商品交換) (X)歴史☆
| ホッブズ、マルクス|8イスラム教・仏教・道教 | C資本 |D X 平等☆
|___________|___________|___________4交通概念、モーゼス・へス
| 序論 世界=帝国と世界=経済 ウォーラーステイン | |
| ドップ、スウィージー、ブローデル、ポランニー| | |
|4マルクスの国家論 | 2アンダーソン| | |
| 第1章近代国家 |第3章ネーション | | |
|3カール・シュミット |3スミス4バウムガルテン | |
| | 5図:ボロメオの環☆ | |
| | | | |
|____第三部 近代世界システム_______|______第四部 現在と未来________|
| (C)ロールズ | (D) |
| |9福祉国家主義☆ | |2アンチノミー(国家)|
|7産業資本主義の限界 |第4章 | | |
| 第2章産業資本 |アソシエーショニズム |第1章世界資本主義の | 第2章世界共和国へ |
|4「二つの道」と国家 | 3経済革命と| 段階と反復 | 5贈与による|
|3産業資本の自己増殖☆| 政治革命 |1図:資本主義の世界史的諸段階☆ 永遠平和 |
|2労働力商品 | プルードン|4ネグリ&ハート |4カントとヘーゲル |
|_アンチノミー____|4労働組合と協同組合☆|___________|___________|TOP
☆
あるいは、
序文_序説 交換様式論*____________________________________
| 序論 国家の起源 | B1 | | 序論 氏族社会への移行 |
|1原都市☆|2ルソー |1アジア | |氏族社会 農業共同体B←定住民A |
|6官僚制 | ホッブズ(中心、中核) |呪術(互酬と共同寄託)| 4首長の逆説☆|
|___第1章国家___|__第3章世界帝国__| 第2章贈与と呪術 | 第1章定住革命 |
| 3国家の矛盾|3ギリシア| B3 | モース、ブーバー |サーリンズ☆、モーガン|
| | 4ローマB2| 5封建制| フロイト☆|2交易と戦争、クラストル
| | |(亜周辺)|2周辺と亜周辺☆ | |
|_____|_第二部 世界=帝国_1ウィットフォーゲル_第一部 ミニ世界システム_(交換様式)|
| (B)1呪術から宗教へ | (A)(再分配)|(互酬) |
|1国家と貨幣 | ウェーバー、ニーチェ| | B国家 |Aネーション
| 自給自足☆ |2帝国と一神教 | 遊牧民C←狩猟採集民(遊動バンド)D
| 第2章世界貨幣 | 第4章普遍宗教 | |_*序説 交換様式論_|
|3『リヴァイアサン』と|3模範的、4倫理的預言者 | 2図:近代の社会構成体☆
|『資本論』価値形態論☆| 6キリスト教| |(商品交換) (X)歴史☆
| ホッブズ、マルクス|8イスラム教・仏教・道教 | C資本 |D X 平等☆
|___________|___________|___________4交通概念、モーゼス・へス
| 序論 世界=帝国と世界=経済 ウォーラーステイン | |
| ドップ、スウィージー、ブローデル、ポランニー| | |
|4マルクスの国家論 | 2アンダーソン| | |
| 第1章近代国家 |第3章ネーション | | |
|3カール・シュミット |3スミス4バウムガルテン | |
| | 5図:ボロメオの環☆ | |
| | | | |
|____第三部 近代世界システム_______|______第四部 現在と未来________|
| (C)ロールズ | (D) |
| |9福祉国家主義☆ | |2アンチノミー(国家)|
|7産業資本主義の限界 |第4章 | | |
| 第2章産業資本 |アソシエーショニズム |第1章世界資本主義の | 第2章世界共和国へ |
|4「二つの道」と国家 | 3経済革命と| 段階と反復 | 5贈与による|
|3産業資本の自己増殖☆| 政治革命 |1図:資本主義の世界史的諸段階☆ 永遠平和 |
|2労働力商品 | プルードン|4ネグリ&ハート |4カントとヘーゲル |
|_アンチノミー____|4労働組合と協同組合☆|___________|___________|
☆
参考:
農業共同体B←-------定住民A
\ /
原都市=国家 ↑
/ \
遊牧民C ←-------狩猟採集民D
返信削除http://www.sing365.com/music/lyric.nsf/Educating-Archie-lyrics-Van-Morrison/320141C8E2E374E448257A93007B3546
Lyrics - Van Morrison - Educating Archie Lyrics
EDUCATING ARCHIE LYRICS - VAN MORRISON
You're a slave to the capitalist system
Which is ruled by the global elite
What happened to, the individual
What happened to, the working class white
They filled his head with so much propaganda
Entertainment on TV and all kinds of shite
What happened to the individual
When he gave up all of his rights
Tell you up is down and wrong is right
Nothing to hang your hat on, can't even get uptight
You're controlled by the media
Everything you say and do
What happened to, the individual
Tell me what happened to you
Tell you up is down, not able to fight
Keep you docile and complacent, can't even get uptight
Controlled by the media and you don't know what you can do
They took away your constitution you don't even know what happened to you
Waffle is the language that they taught you, taught you to talk
But you can't even get any angle because you forgot how. Keep on walking the walk
You're a slave to the capitalist system and it's controlled by the global elite
Double dealing with the banks, behind your back, just can't fight
その後2012年岩波書店より邦訳が刊行された
返信削除http://www.amazon.co.jp/dp/4000254634
読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語 [単行本]
ポール・ド・マン (著), Paul de Man (原著), 土田 知則 (翻訳)
単行本: 432ページ
出版社: 岩波書店 (2012/12/22)
ISBN-10: 4000254634
ISBN-13: 978-4000254632
発売日: 2012/12/22
アーチーに関しては後にアイルランド人のヴァン・モリソンが曲の題名に無知の代名詞?として使っている。
返信削除Lyrics - Van Morrison - Educating Archie Lyrics
EDUCATING ARCHIE LYRICS - VAN MORRISON
http://www.sing365.com/music/lyric.nsf/Educating-Archie-lyrics-Van-Morrison/320141C8E2E374E448257A93007B3546
考える名無しさん[sage] 投稿日:2010/08/13 09:30:11
返信削除284 名前: 考える名無しさん Mail: sage 投稿日: 2010/08/10(火) 02:12:12
ポール・ド・マンは『読むことのアレゴリー』(原著、P. de Man, "Semiology and Rhetoric", in Allegories
of Reading, 1979, p.9)で、言語、というよりも読むことの難しさ (=決定不能性)について説明する際の例と
して、アメリカのテレビドラマ「ALL IN THE FAMILY」を挙げている。柄谷行人は『隠喩としての建築』で
以下のように紹介している。
<アーチー・バンカーが、女房に、ボーリングシューズのひもを上結びにしてほしいか下結びにしてほしいか
と聞かれて、"What's the difference?"と答えたとき、女房はその違いを説明しようとする。亭主は「そんな違
いがどうだっていうんだ」といったのに、女房はそれを「どういう違いがあるか」という問いとして受け取っ
たわけである。ド・マンは、これを、これを文法的に同一な文が相互に排他的な意味を生み出す例として挙げ
ている。われわれは、その文がはたして問うているのか、問うことを拒んでいるのかを、形式主義的な観点の
下では説明できない。>(『隠喩としての建築』岩波版p104より)
該当シーン(30秒)
http://www.youtube.com/watch?v=HlV4MdnZ4lE
DVD:All In the Family: The Complete Third Season (1971)
episode14. Archhie and the Bowling Team 1972年12月16日放送
ド・マンがこのテレビ番組を見ていたかと思うと、別の意味で感慨深いものがある。
ちなみに、『読むことのアレゴリー』の巻頭論文「記号論とレトリック」には柄谷行人による邦訳が存在する
(『現代思想』1981.7/1981.8 )。
73
考える名無しさん[sage] 投稿日:2010/08/13 10:05:59
前近代文明の三重構造の地政学的型(参考:『世界史の構造』B-2-2):
亜周辺| ヨ 亜周辺| |中心 | 朝 |
アテネ ____| | 西ヨーロッパ____| | | 鮮 |
/ア | ロ /バ | | 中国 | 半 |
古 ローマ / ナ 周辺| ッ / ル 周辺| | | 島 |
典 / リト | パ / 半カ | | / /
古 / ア __| 中 / 島ン __| |__/ベ /
代 /キ / | 世 /イ / | | ト /
社 | プ /ペルシア 社 | ベ /イスラーム |周辺 ナ / 日
会 | ロ |帝国 中心 会 |半リ |帝国 中心 |___ム/ 本
__|_ス__|____| __|島ア__|____| |亜周辺__________
ユーラシア西1 ユーラシア西2 ユーラシアの東
(中心) |ペルシア帝国 |イスラム帝国 |中国
(周辺) |キプロス・アナトリア |バルカン半島・イベリア半島 |朝鮮半島・ベトナム
(亜周辺)|アテネ・ローマ |西ヨーロッパ |日本
| =古典古代社会 | =ヨーロッパ中世社会 |
(湯浅 赳男 『 「東洋的専制主義」論の今日性―還ってきたウィットフォーゲル 』より)
http://pds.exblog.jp/pds/1/200712/20/41/a0024841_1803330.jpg [画像をインライン表示]
ローマという中心の亜周辺にゲルマン,西ヨーロッパがあるとも考えられる(180頁他)。
考える名無しさん[sage] 投稿日:2010/08/13 10:05:59
前近代文明の三重構造の地政学的型(参考:『世界史の構造』B-2-2):
亜周辺| ヨ 亜周辺| |中心 | 朝 |
アテネ ____| | 西ヨーロッパ____| | | 鮮 |
/ア | ロ /バ | | 中国 | 半 |
古 ローマ / ナ 周辺| ッ / ル 周辺| | | 島 |
典 / リト | パ / 半カ | | / /
古 / ア __| 中 / 島ン __| |__/ベ /
代 /キ / | 世 /イ / | | ト /
社 | プ /ペルシア 社 | ベ /イスラーム |周辺 ナ / 日
会 | ロ |帝国 中心 会 |半リ |帝国 中心 |___ム/ 本
__|_ス__|____| __|島ア__|____| |亜周辺__________
ユーラシア西1 ユーラシア西2 ユーラシアの東
(中心) |ペルシア帝国 |イスラム帝国 |中国
(周辺) |キプロス・アナトリア |バルカン半島・イベリア半島 |朝鮮半島・ベトナム
(亜周辺)|アテネ・ローマ |西ヨーロッパ |日本
| =古典古代社会 | =ヨーロッパ中世社会 |
(湯浅 赳男 『 「東洋的専制主義」論の今日性―還ってきたウィットフォーゲル 』より)
http://pds.exblog.jp/pds/1/200712/20/41/a0024841_1803330.jpg [画像をインライン表示]
ローマという中心の亜周辺にゲルマン,西ヨーロッパがあるとも考えられる(180頁他)。
これは上の図ではローマがイスラムに場を譲ることで説明される。
TOMOHISA SUZUMURA’S CRITICAL SPACE ー 鈴村智久の批評空間 ポール・ド・マンの「アレゴリー」、「隠喩」の概念について――『読むことのアレゴリー』第二部の読解記録(七章、十章)
返信削除http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1735.html
命名については、字義的なのか、比喩的なのか、といった言明は不可能である。(p189)
言語とは、全て命名に関する言語、つまりは観念的・比喩的・隠喩的なメタ言語なのだ。こうした性格を有する言語は、隠喩が指示的な未確定性をある特定の意味単位に字義的に移し替える時、その隠喩の盲目性に加担することになる。言語のメタ言語的(あるいは観念的)な性質に関するこうした言明は、ルソーに直接由来する先の言明――それによれば、命名が形をなすには、差異という観念(あるいは考え)を仮定しなければならない――と同等の意味を備えている。(p194)
返信削除http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51758544.html
『イワン雷帝』と形式化の極限
一般に現代では、ダブルバインド的状況は蔓延しており、そこでは「笑い」*が治療としてあるとさえ言える。
だが、そうした状況から逃避せずに、形式化を極限まで問いつめる柄谷のような思想家による著作があるし、映画ではエイゼンシュテインの『イワン雷帝』のような作品がある。(10ミニッツ・オールダーというオムニバス映画のゴダールの作品の最後のワンカットは『イワン雷帝』第二部のものだった、、、)
これは、エイゼンシュテイン自身も分析しているシーンで、主人公の感情が受動的な悲しみから能動的な怒りへ展開するシーンである。
ジジェクも言及していたようにここにプーチンのプロトタイプを見出すことも出来るが、むしろ複数のモチーフの重なり合いを見出すべきだろう。
*注
ちなみに、ダブルバインドを笑いとして捉えた映画に、黒澤明の『影武者』がある。
この映画には以下のように3つほど笑いのシーンがあるが、これらは皆自己言及のパラドックスを笑ったものである。
1、家臣の山縣が赤い顔をして信玄に我を忘れるとは何事かと、自ら我を忘れて説教をする。
2、隊列を組む兵士が見事な隊列だと感嘆したとたんに、列を乱すなと他の兵から説教される。
3、侍大将入場のために、砂場の足跡を消していたふたりの使用人が、自分の足跡を消すのを忘れる。
理解されなかったとはいえ、これらはみな同一性の希求とその不可能性という映画本来のテーマと呼応するものである-----同様のシーンは『乱』にもあるが(狂阿弥=いたずら小僧が神様を「いたずら小僧」と罵る)、こちらは悲劇的トーンで描かれる。
p.75
返信削除example from the mass media: When Archie Bunker, the well-known sitcom character
https://www.scribd.com/doc/26566416/Karatani-Kojin-Architecture-as-Metaphor
返信削除paradox is introduced, all of these structures
返信削除-algebraic, =z
We must now look at this
"self-referential formal
system" in the context of con~munication. Natural com-
munication is far more complex than semiologists usual-
ly understand it to be. De Man offers this example from
the mass media: When Archie Bunker, the well
sitcom character from the 1970s, is asked by his wife
Edith whether he wants to have his bowling shoes laced
over or under, he answers with the question,
the difference?" His wife replies by patiently explaining
the difference. Even though he meant,
"I don't give a
damn what the difference is," his wife understood it as a
question about the difference between lacing over and
lacing under. De Man uses this as an example to suggest
that the same grammatical pattern engenders two mutu-
ally exclusive meanings.' At least within formalism it is
impossible to decide whether this sentence is question-
ing or refusing questioning itself.
Our ability to laugh at the undecidability of the sit-
com implies that we stand on a meta
-level. A more seri-
ous situation is witnessed with schizophrenics, whose
lives are conditioned by undecidability. Gregory Bateson
elaborates on this in Steps to an Ecology ofMind:
paradox is introduced, all of these structures
返信削除-algebraic, =z
We must now look at this
"self-referential formal
paradox is introduced, all of these structures
-algebraic, =z
We must now look at this
"self-referential formal
system" in the context of con~munication. Natural com-
munication is far more complex than semiologists usual-
ly understand it to be. De Man offers this example from
the mass media: When Archie Bunker, the well
sitcom character from the 1970s, is asked by his wife
Edith whether he wants to have his bowling shoes laced
over or under, he answers with the question,
the difference?" His wife replies by patiently explaining
the difference. Even though he meant,
"I don't give a
damn what the difference is," his wife understood it as a
question about the difference between lacing over and
lacing under. De Man uses this as an example to suggest
that the same grammatical pattern engenders two mutu-
ally exclusive meanings.' At least within formalism it is
impossible to decide whether this sentence is question-
ing or refusing questioning itself.
Our ability to laugh at the undecidability of the sit-
com implies that we stand on a meta
-level. A more seri-
ous situation is witnessed with schizophrenics, whose
lives are conditioned by undecidability. Gregory Bateson
elaborates on this in Steps to an Ecology ofMind:
system" in the context of con~munication. Natural com-
munication is far more complex than semiologists usual-
ly understand it to be. De Man offers this example from
the mass media: When Archie Bunker, the well
sitcom character from the 1970s, is asked by his wife
Edith whether he wants to have his bowling shoes laced
over or under, he answers with the question,
the difference?" His wife replies by patiently explaining
the difference. Even though he meant, "I don't give a
damn what the difference is," his wife understood it as a
question about the difference between lacing over and
lacing under. De Man uses this as an example to suggest
that the same grammatical pattern engenders two mutu-
ally exclusive meanings.' At least within formalism it is
impossible to decide whether this sentence is question-
ing or refusing questioning itself.
Our ability to laugh at the undecidability of the sit-
com implies that we stand on a meta-level. A more seri-
ous situation is witnessed with schizophrenics, whose
lives are conditioned by undecidability. Gregory Bateson
elaborates on this in Steps to an Ecology of Mind:
Karatani, Kojin...Architecture as Metaphor
返信削除| Deconstruction | Plato - Scribd
https://www.scribd.com/.../Karatani-Kojin...
Karatani, Kojin...Architecture as Metaphor - Free download as PDF File (.pdf) or read online for free. ... De Man offers this example from the mass media: When Archie Bunker, the well-known sitcom character from the 1970s, is asked by his wife Edith whether he wants to have his bowling shoes laced over o r under, ...
返信削除We must now look at this "self-referential formal
system" in the context of con~munication. Natural com-
munication is far more complex than semiologists usual-
ly understand it to be. De Man offers this example from
the mass media: When Archie Bunker, the well
sitcom character from the 1970s, is asked by his wife
Edith whether he wants to have his bowling shoes laced
over or under, he answers with the question,
the difference?" His wife replies by patiently explaining
the difference. Even though he meant, "I don't give a
damn what the difference is," his wife understood it as a
question about the difference between lacing over and
lacing under. De Man uses this as an example to suggest
that the same grammatical pattern engenders two mutu-
ally exclusive meanings. At least within formalism it is
impossible to decide whether this sentence is question-
ing or refusing questioning itself.
Karatani, Kojin Architecture as Metaphor p.75
返信削除We must now look at this "self-referential formal
system" in the context of communication. Natural communication
is far more complex than semiologists usually understand it to be.
De Man offers this example from the mass media: When Archie Bunker, the well
sitcom character from the 1970s, is asked by his wife
Edith whether he wants to have his bowling shoes laced
over or under, he answers with the question,
the difference?" His wife replies by patiently explaining
the difference. Even though he meant, "I don't give a
damn what the difference is," his wife understood it as a
question about the difference between lacing over and
lacing under. De Man uses this as an example to suggest
that the same grammatical pattern engenders two mutually
exclusive meanings. At least within formalism it is
impossible to decide whether this sentence is questioning or
refusing questioning itself.
Karatani, Kojin Architecture as Metaphor p.75
When Archie Bunker, the well-known sitcom character from the 1970s, is asked by his wife
返信削除Edith whether he wants to have his bowling shoes laced over or under, he answers with the question,
the difference?" His wife replies by patiently explaining the difference. Even though he meant, "I don't give a
damn what the difference is," his wife understood it as a question about the difference between lacing over and
lacing under. De Man uses this as an example to suggest that the same grammatical pattern engenders two mutually
exclusive meanings. At least within formalism it is impossible to decide whether this sentence is questioning or
refusing questioning itself.
Karatani, Kojin Architecture as Metaphor p.75
3:24
返信削除…When Archie Bunker, the well-known sitcom character from the 1970s, is asked by his wife
Edith whether he wants to have his bowling shoes laced over or under, he answers with the question, “What's
the difference?" His wife replies by patiently explaining the difference. Even though he meant, "I don't give a
damn what the difference is," his wife understood it as a question about the difference between lacing over and
lacing under. De Man uses this as an example to suggest that the same grammatical pattern engenders two mutually
exclusive meanings. At least within formalism it is impossible to decide whether this sentence is questioning or
refusing questioning itself.
Karatani, Kojin Architecture as Metaphor p.75
読むことのアレゴリー岩波書店2012
返信削除10頁
テレビ放送日まで付記
https://youtu.be/CtfQNaKpKY8
返信削除14話
岩波では15x
返信削除All in the Family S3 E14 - Archie and the Bowling Team
https://youtu.be/CtfQNaKpKY8
3:20
返信削除All in the Family S3 E14 - Archie and the Bowling Team
youtu.be/CtfQNaKpKY8
4:20〜 pic.twitter.com/o628UqbSpU
2021/08/26 10:27
https://twitter.com/_luminous_woman/status/1430703301138337793?s=21