『イワン雷帝』(及び『影武者』)と形式化の極限:メモ(再掲)
http://nam-students.blogspot.jp/2013/12/blog-post_1.html
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51758544.html
(上記ブログの再掲載)
NAMs出版プロジェクト: 孫子
http://nam-students.blogspot.jp/2016/09/blog-post_28.html
一般に現代では、ダブルバインド的状況は蔓延しており、そこでは「笑い」*が治療としてあるとさえ言える。
だが、そうした状況から逃避せずに、形式化を極限まで問いつめる柄谷のような思想家による著作があるし、映画ではエイゼンシュテインの『イワン雷帝』のような作品がある。(10ミニッツ・オールダーというオムニバス映画のゴダールの作品の最後のワンカットは『イワン雷帝』第二部のものだった、、、とはいえゴダールには権力という笑いと対になるべき主題とは無縁だが。)
これは、エイゼンシュテイン自身も分析しているシーンで、主人公の感情が受動的な悲しみから能動的な怒りへ展開するシーンである。
ジジェクも言及していたようにここにプーチンのプロトタイプを見出すことも出来るが、むしろ複数のモチーフの重なり合いを見出すべきだろう。
*注
ちなみに、ダブルバインドを笑いとして捉えた映画に、黒澤明の『影武者』がある。
この映画には以下のように3つほど笑いのシーンがあるが、これらは皆自己言及のパラドックスを笑ったものである。
1、家臣の山縣が赤い顔をして信玄に我を忘れるとは何事かと、自ら我を忘れて説教をする。
2、隊列を組む兵士が見事な隊列だと感嘆したとたんに、列を乱すなと他の兵から説教される。
3、侍大将入場のために、砂場の足跡を消していたふたりの使用人が、自分の足跡を消すのを忘れる。
理解されなかったとはいえ、これらはみな同一性の希求とその不可能性という映画本来のテーマと呼応するものである-----同様のシーンは『乱』にもあるが(狂阿弥=いたずら小僧が神様を「いたずら小僧」と罵る)、こちらは悲劇的トーンで描かれる。
Kagemusha (1980) Trailer
http://nam-students.blogspot.jp/2016/09/blog-post_28.html
一般に現代では、ダブルバインド的状況は蔓延しており、そこでは「笑い」*が治療としてあるとさえ言える。
だが、そうした状況から逃避せずに、形式化を極限まで問いつめる柄谷のような思想家による著作があるし、映画ではエイゼンシュテインの『イワン雷帝』のような作品がある。(10ミニッツ・オールダーというオムニバス映画のゴダールの作品の最後のワンカットは『イワン雷帝』第二部のものだった、、、とはいえゴダールには権力という笑いと対になるべき主題とは無縁だが。)
これは、エイゼンシュテイン自身も分析しているシーンで、主人公の感情が受動的な悲しみから能動的な怒りへ展開するシーンである。
ジジェクも言及していたようにここにプーチンのプロトタイプを見出すことも出来るが、むしろ複数のモチーフの重なり合いを見出すべきだろう。
*注
ちなみに、ダブルバインドを笑いとして捉えた映画に、黒澤明の『影武者』がある。
この映画には以下のように3つほど笑いのシーンがあるが、これらは皆自己言及のパラドックスを笑ったものである。
1、家臣の山縣が赤い顔をして信玄に我を忘れるとは何事かと、自ら我を忘れて説教をする。
2、隊列を組む兵士が見事な隊列だと感嘆したとたんに、列を乱すなと他の兵から説教される。
3、侍大将入場のために、砂場の足跡を消していたふたりの使用人が、自分の足跡を消すのを忘れる。
理解されなかったとはいえ、これらはみな同一性の希求とその不可能性という映画本来のテーマと呼応するものである-----同様のシーンは『乱』にもあるが(狂阿弥=いたずら小僧が神様を「いたずら小僧」と罵る)、こちらは悲劇的トーンで描かれる。
Kagemusha (1980) Trailer
返信削除時代的にはイワン雷帝(1530~1584)は(織田信長(1534~1582)と重なる。
返信削除http://yokato41.blogspot.jp/2013/11/blog-post_8369.html
他方、逆に、相手を非難する「批判」とか、批判している対象と異質な地平に立ったような批評でも、そのすべてではないにしろ、実は己れを語っているというふうに見ることができる。少なくともそういったふうに他者非難の言葉を読んでみることもときには必要であろう。
プルーストにはこのあたりのことを指摘する文章がいくらでもある。
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト『囚われの女』井上究一郎訳)
つまるところ、自分がもっているものと、あるいはもっていたものと、とてもよく似た欠点が他人にあるので、それによく気づき非難のことばが生まれる、あるいはそういった場合が多いということだ。そうでなかった場合、そんな欠点に気がつくことは少なく、嫌悪感も生まれにくいのではないか。
……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。近視の男は他人の近視のことをこういう、「だってあれはほとんど目があけられないくらいですよ。」胸部疾患の人間は、この上もなく頑丈な人間の健康な肺臓にも種々の疑念をもつし、不潔な男は、他人がお湯や水を浴びないことばかりを口にするし、悪臭を放つ人間は、誰でもいやな匂がすると言いはる、だまされた亭主は、いたるところにだまされた亭主たちを、浮気な女房はいたるところに浮気な女房たちを、スノッブはいたるところにスノッブたちを見出す。それからまた、各自の悪徳は、それぞれの職業とおなじように、専門の知識を要求し、それをひろくきわめさせる、各自はそんな知識を得々と人まえで弁じたてずにはいられない。倒錯者は倒錯者たちを嗅ぎだし、社交界に招かれたデザイナーは、まだこちらと話をまじえないのに、もうこちらの服地に目をつけ、その指は生地のよしあしをさわってみたくていらいらしているし、歯科医を訪ねて、しばらく話をまじえたのちに、こちらについて忌憚のない意見をきいてみると、彼はこちらの虫歯の数をいうだろう。彼にはこれよりも重大に見えることはないのだが、そういう彼自身の虫歯に気がついたこちらにとっては、これほどこっけいなことはない。そして、われわれが他人を盲目だと思うのは、われわれが自分のことを話しているときばかりではない。われわれはいつも他人が盲目であるかのようにふるまっている。われわれには、一人一人に、特別の神がついていて、その神が、われわれの欠点にかくれ蓑をかけてわれわれからかくし、他人には見えないという保証をしてくれているのであって、同様に、その神は、からだを洗わない人々にたいして、耳にためた垢の筋や、腋の下から発する汗の匂に、目をとじ鼻腔をふさがせ、誰もそれと気づかないであろう社交界へ、それぞれその垢の筋や汗の匂をもちこんでも平気だという確信をあたえるのだ。そしてイミテーションの真珠を身につけたり、贈物にしたりする人は、それがほんものに見られるだろうと想像するのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」 第二部井上究一郎訳)
そしてこれらのことは優れた人間でも凡庸な人間でも変わりがない、とプルーストは書く。
性格の法則を研究する場合でさえ、われわれはまじめな人間を選んでも、浮薄な人間を選んでも、べつに変わりなく性格の法則を研究できるのだ、あたかも解剖学教室の助手が、ばかな人間の屍体についても、才能ある人間の屍体についても、おなじように解剖学の法則を研究できるように。つまり精神を支配する大法則は、血液の循環または腎臓の排泄の法則とおなじく、個人の知的価値によって異なることはほとんどないのである。(プルースト「見出された時」)
もちろん、これは広い意味での「心理学」の領域の話なので、たとえばフロイトにもふんだんにこの類の指摘はある。
……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。
ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))
ようするにラカン派的な言葉づかいをすれば、《自分の欲望についての真理を隠すために》他者非難をするのだ。
他方、フロイトは、「自己非難」についても、次のような逆転を書く。
メランコリー患者のさまざまな自責の訴えを根気よくきいていると、しまいには、この訴えのうちでいちばん強いものは、自分自身にあてはまるものは少なく、患者が愛しているか、かつて愛したか、あるいは愛さねばならぬ他の人に、わずかの修正を加えれば、あてはまるものであるという印象をうけないではいられない。事態をしらべればしらべるほど、この推測は確かなものになる。このように、自己非難とは愛する対象に向けられた非難が方向を変えて自分自身の自我に反転したものだと見れば、病像を理解する鍵を手にいれたことになる。
夫に同情して、自分のような働きのない女と一緒になったのは気の毒であると口に出して言う妻は、どのような意味で言っているにせよ、実は夫の働きのないことを訴えているのである。(……)言葉の古い意味にしたがえば、彼らの訴えは告訴なのである。彼らが自分について言っている軽蔑の言葉は、根本的には他人について言っているのだから、彼らはそれを恥じたり、かくしたりしないわけである。また、実際に品性下劣な者だけにふさわしいはずの卑下や屈従を、周囲の人に見せることをしないで、きわめてはげしく苦しみ、たえず悩み、ひどく不当な目にあっているかのようにふるまうわけである。これらすべてのことは、彼らの態度に見られる反応が反逆という精神的姿勢から発しているからこそ可能なのであって、この反逆がある過程によってメランコリーの後悔というものに移行するのである。(フロイト『悲哀とメランコリー』 フロイト著作集6)
返信削除http://maruyamaxx.exblog.jp/i2/3/
=第3部~ 未完。 罪悪感に打ちひしがれたイワンがそれまで粛清してきた人物の名
を読み上げ、懺悔するというものであった。その中には、スターリンによって粛清され
たエイゼンシュテインの友人たちの名が密かに取り入れられており、第2部以上にスター
リンへの批判が明瞭になっていた=
イワン雷帝
返信削除http://maruyamaxx.exblog.jp/i2/3/
=第3部~ 未完。 罪悪感に打ちひしがれたイワンがそれまで粛清してきた人物の名
を読み上げ、懺悔するというものであった。その中には、スターリンによって粛清され
たエイゼンシュテインの友人たちの名が密かに取り入れられており、第2部以上にスター
リンへの批判が明瞭になっていた=
http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/EIGA/rossia.html
…明らかに独裁者スターリンと重なっ てくる。このために第二部で製作は中断され、まもなく
エイゼンシュテイン自身が死去 したため第三部は製作されなかった。
以下は影武者の冒頭シーンを想起させる
返信削除http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20110314
▲ (アウグスティヌス:神の国について 4・4) ~~~~~~~~~
もし正義(法)を欠くならば 国家というものは 盗賊のむさぼり行為とほかならないのではなかろうか。何故なら 盗賊団も かれらがむさぼりに際して指導者を持ち そのもとに ともに共同行動を誓い戦利品はかれらの法にしたがって分けられるのなら それは国家でなくて何であろう。
だから かれらが もしその気をもって拠点を確保し定住して 都市〔国家〕を築くまでになるなら たとえ隣国をむさぼろうとも かれらの政府は もはや盗賊団とは呼ばれないのであって 自他ともに認める国家の名を称するに至る。
しかもそれは かれらが それまでの行為を止めてしまったからではなく 同じくそうしていても 法をふりかざして不法を咎める者が いなくなったことによる。
事実アレクサンドロス大王に捕らえられた或る海賊は 大王に対して優雅にかつ真実に 次のように答えたのである。すなわち 王がこの男に向かって どういう了見でお前は海を荒らしまわっているのかと尋ねたところ その男は何らはばかることなく次のように豪語した。
――あなたが全世界を荒らしまわっているのと同じ了見です。わたしは
それをちっぽけな船舶でしているから海賊と呼ばれているのですが
あなたは大艦隊でやっているから 皇帝と呼ばれているのです。
と。
帝国95頁参照
10:05 午前
yoji さんは書きました...
ヘロドトス『歴史 中』(松平千秋訳、岩波文庫)
オタネスがペルシアの七長老を前にして、ペルシアは民主制を採用
すべきであると意見を述べたという話を信じようとしないギリシア人に
とっては、世にも不可思議なとしか思えぬようなことが起こったので、
それをここにお話ししよう。つまりこの時マルドニオスは、イオニアの
独裁者をことごとく排除して、各都市に民主制を敷かせたのである
6:43
中222頁
9:41 午前
yoji さんは書きました...
暴力の規模が小さければ「テロリスト」と呼ばれ、
暴力の規模がすさまじく、巨大で継続的なものが「アメリカ」である。
古代のキリスト教思想家アウグスティヌスが取り上げている、
アレキサンダー大王と海賊の会話のエピソードを想起してほしい。
あるとき、アレキサンダー大王は、海賊を捕らえた。
大王が海賊に、海を荒らすのは、どういうつもりか」と問うたとき、海賊はすこしも臆すところなく、「陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ、わたしは小さい舟でするので盗賊とよばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝とよばれるだけです」と答えたのである。(アウグスティヌス『神の国』第1巻、272頁、岩波文庫)
http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200805/article_6.html
10:20 午前
yoji さんは書きました...
まず冒頭では「影武者」のタイトルがスクリーンに映し出される前に、プロローグとして甲斐の国躑躅(つつじ)ヶ崎武田屋形(やかた)の広間に3人の男が座っている場面が付け加えられている。3人は容貌も体軀もそっくりで、また同じ直垂(ひたたれ)を身につけているので、見わけがつかないが、そのあとすぐに台詞が始まってそれぞれがどういう人物なのかが分かってくる。中央の敷畳にどっしりと座っているのが、本物の武田信玄(仲代達矢)であり、そのそばの円座に座っているのが、これまで長年信玄の影武者を務めてきた弟の信廉(のぶかど、山崎努)である。その2人から少し離れて一段下の板の間にもう1人の男(仲代達矢)が座っている。弟の信廉が兄の信玄に説明するところによると、この男は領内を荒らし廻っている盗人で、信玄によく似ているので、何かの役に立つかもしれないと思って、逆磔(さかさはりつけ)になるところを信廉が助けておいたという。その対面の場でも男は、無礼にも信玄に向かって、「俺はたかだか5貫10貫の小銭を盗んだ小泥棒だ。国を盗むために数えきれないほど人を殺した大泥棒に悪人呼ばわりされる覚えはない!」などと、自分の言いたいことをずけずけと言ってのけるので、逆に信玄はあとで使えるかもしれないと思って、その身柄を弟の信廉に預けた。俳優仲代達矢が山のように動かぬどっしりとした信玄と野卑な盗賊の男の二役を務める印象的なプロローグである。
http://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/109/109-1.html
10:23 午前
返信削除yoji さんは書きました...
冒頭 信玄 信康 影武者 3人の会話で始まる。
その構図が 絵になっている。
逆さ磔にされる盗人 があまりにも信玄に似ているので
つれてこられたということから・・・はじまる
影武者は、
『たかが 5貫10貫 盗んだ 小どろぼう・・・
国をとるために かぞえきれない人を殺したものに
悪人呼ばわりされる筋合いはない』という。
信玄は
『何なりと申すがよい。
確かに わしは強欲非道の大悪人じゃ。
実の父を追放し わが子も殺した。
天下を盗むためにはなにごとも辞さぬ覚悟じゃ。』
このシーンが実に印象的である。
信玄だけに 大きな影が 壁に映る。
http://blog.livedoor.jp/chinadvddiary/tag/黒澤明
10:25 午前
yoji さんは書きました...
信玄「ふむ・・良く似ておる」
「確かにわしは強欲非道の大悪人じゃ、天下を盗むためには何事も辞さぬ覚悟じゃ」
「冷えて参ったな・・冷えると古傷が痛む」
「この者、使えるかも知れぬ」
「我が旗を京の都に立てること・・この信玄の生涯の夢じゃ」
「瀬田の橋はもう過ぎたか?」
信廉「“影法師”も楽ではない、己を殺して影に徹するのは辛い務めだ・・
時々、己に帰って気侭に寛ぎたくなる」
「影はその人を離れて、独り歩きは出来ん」
「あの男、またもや磔にかけられた心地じゃろうな・・」 ←このセリフは重要!
「動くな、何事があっても悠然と構え、動いてはならん」
山県「ご機嫌麗しう・・」
信玄「ない!」
家臣「寝ぼけ眼を開いて、しかと見よ・・お屋形(やかた)様はあれに御座るわ!」
「武田の精鋭、一糸乱れぬ・・見事な眺めじゃ」
「お屋形様、お通りぃ!」
「間者の目(?)に戸は立てられん!」 ←と聞こえた気が(・ω・) 普通は「口に戸」ですネ
「亡きお屋形様を想うなら、今こそお役に立つ時ぞ!」
「ここ数日、念入りに教えた通りにやれば良い」
「子供の眼は騙せぬな・・」
「黒雲(くろくも=愛馬)はお屋形様しか乗りこなせぬ」
「如何に(姿形が)似ていようと、根まではそうも行くまい・・」
「殿、ご酒(しゅ)が過ぎます」
「医者が申すには、病の後、しばらく女人(にょにん)を近付けぬようとのこと」 ←いや〜ん
「見ろ! この者たちは貴様を護って死んだ、貴様も磔になった覚悟で動くな」
「良くやりおる・・さながら亡きお屋形様が乗り移ったとしか思えぬ」
間者「もっと近くで見るべぇや、影武者かも知んねぇ」
山県「武田の家に殉ずる覚悟の者でなくてはつとまらぬ」
「親方様は病の後じゃ、当分は馬にも側室にも“乗る”事は控えて頂く」 ←いや〜ん
「よかろう、その件は信廉殿の裁量に任せよう」
「※だけは欺けなんだ・・」
盗人「俺はあのお方の役に立ちたいんだ、使ってくれ!」
「どうじゃ、面(おも)代わり致したであろう?」
「重い病は、人の心も変える・・」
「この信玄・・戦のときは本陣、常はこの館にある」
「動くな! ・・山は動かんぞ」
竹丸「違う、これはおじじではない!」
「おじじは本当に変わった、怖くなくなった」
家康「武田を攻めて見れば、その後ろに信玄のあるなし(=生死)は分かる」
信長「武田の備えはお主(=家康)に任せる」
「流石は信玄、死して3年、よくぞこの信長をたばかった」
「山が動いてはそれまでよ」
「アメン!」 ←宣教師に向かって
勝頼「この勝頼、幾ら足掻いても亡き父の幻から逃れることが出来ぬ!」
追記1:本作でクロサワに救いの手を差し伸べたのがフランシス・フォード・コッポラ&ジョージ・ルーカス(共同で海外プロデューサー)である。
追記2:“長篠の戦い”では、撃たれた騎馬隊の屍体が累々と横たわる描写があるが・・辛抱し切れないのか、細かく足をばたつかせたり、首を持ち上げたりする“お馬さんたち”のナチュラルな演技(?)が微笑ましかった(⌒〜⌒ι)
http://tim3.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1980-0288.html
10:26 午前
yoji さんは書きました...
http://booklog.jp/users/touxia/archives/1/B000UH4TUA
冒頭 信玄 信康 影武者 3人の会話で始まる。
その構図が 絵になっている。
逆さ磔にされる盗人 があまりにも信玄に似ているので
つれてこられたということから・・・はじまる
影武者は、
『たかが 5貫10貫 盗んだ 小どろぼう・・・
国をとるために かぞえきれない人を殺したものに
悪人呼ばわりされる筋合いはない』という。
信玄は
『何なりと申すがよい。
確かに わしは強欲非道の大悪人じゃ。
実の父を追放し わが子も殺した。
天下を盗むためにはなにごとも辞さぬ覚悟じゃ。』
このシーンが実に印象的である。
信玄だけに 大きな影が 壁に映る。
このころは 信長(隆大介)家康のいる 時代である。
信玄は 京に上ろうとしていたが・・
野田城において 銃撃される・・
(実際は 結核で死んだといわれているが・・・
果たして、信玄は死す事になるが・・。
10:30 午前
yoji さんは書きました...
244
7-6
ただし影武者の論理は交換様式Aである
10:34 午前
『影武者』再考
返信削除以前影武者について書いたがそれは脇の主題についてだった
柄谷の新著はアウグスティヌスの紹介したアレクサンドロス大王と海賊のやりとりを引用している
それは影武者冒頭と似ている
帝国の原理は拡大主義で効果様式Bであるが
自由を保障する
影武者の論理はAにとどまるが、Bの論理を揺さぶる
その答えは連合に求められるだろうが、柄谷も黒澤明も積極的にDを提示するには至っていない
アリストテレスは老子と同じで小国主義だ
返信削除師ではあるがアレクサンドロスと対立したとされる
93頁参照
返信削除最近の著書ではくじ引きと地域通貨が触れられていないから積極的にDは提示できない
返信削除柄谷のマクベス論と蜘蛛の巣城は呼応するが
返信削除福田こうそんにまだ柄谷は近かった
黒澤は近代的自我を認めない
福田より過激なのだ
戦艦ポチョムキンは集合力を描いた代表的作品
返信削除
返信削除http://yojiseki.exblog.jp/10082625/
トロツキーとエイゼンシュテイン:改稿版
編集 | 削除
最近、柄谷行人はトロツキーの永久革命論を社会革命から乖離したものとして批判していますが、無論これはカント的批判=吟味でもあります。
さて、ネットでトロツキーの動画を見つけましたが、トロツキーの動画や音声はどの程度残っているのでしょうか?
trotsky speaks the truth
http://jp.youtube.com/watch?v=fKI9oi1YJNM
上の動画におけるトロツキーの発言内容は以下です。スターリンに反論しています。
"Stalin's trial against me is built upon false confessions, extorted by modern Inquisitorial methods, in the interests of the ruling clique. There are no crimes in history more terrible in intention or execution than the Moscow trials of Zinoviev-Kamenev and of Radek-Piatakov. These trials develop not from communism, not from socialism, but from Stalinism, that is, from the irresponsible despotism of the bureaucracy over the people!"
ちなみに、1926年に公開され、2005年にドイツで修復され最近日本でもDVDが販売された『戦艦ポチョムキン』の冒頭には本来はトロツキーの以下の言葉が掲げられていました。
「革命の精神がロシア国土のうえに漂っていた。ある巨大で秘密に満ちたプロセスが、無数の心のなかで成就した。すなわち、
ようやく自分自身を認識したばかりであった個人性が、大衆のなかに解消され、そして大衆が、大いなる飛躍のなかに解消されたのだ。」
参考:
http://osiris22.pi-consult.de/view.php3?show=54670727
「ベンヤミン 救済とアクチュアリティー」(河出書房新社p.115)
『1905年』という本の「艦隊反乱」という章からだそうです(現代思潮社p.197。ほとんどこの十数頁の短い章が映画の原作と言っていい)。
http://8025.teacup.com/trotskylibrary/bbs(トロツキー研究所掲示板)
エイゼンシュテイン、シネクラブ↓
http://www2.neweb.ne.jp/wd/eisenstein/reikai-2000.html
「水声通信」no.4にも関連記事がありました。ペットショップボーイズが『ポチョムキン』につけた音楽の紹介もあります。
最新版DVDはトロツキーの言葉が復元され、音楽もマイゼル版というもっともエイゼンシュテイン自身が評価していたものが使用されています。
エイゼンシュテインはトロツキーを意識していたでしょうが(『十月』はトロツキーの出演シーンが検閲でカットされていたはず)、『メキシコ万歳』などはトロツキーのメキシコ亡命を先取りした「永久革命論」だったのではないでしょうか?(地域間移動によって歴史を描く手法は『惑星ソラリス』の高速道路のシーンを思い出させますし、『メキシコ万歳』はパゾリーニの生の三部作を想起させますが。)
追記:
(通時的な構造を共時的な移動によって表現することは、世界同時革命説が持っていた観念性を解消する方法論として有効だろう。もともと世界同時革命論は非均質的な世界観が基盤なのだが、過度に政治的になってしまった。それを映像を通じて非政治化することは可能だし、そうすることによって永続革命という通時的なヴィジョンに転化しうるのである。)
少なくともスターリンとの一騎打ちにエイゼンシュテインだけが歴史的に勝利したと言えるのではないでしょうか?
(ヒットラーVSチャップリン、ナポレオン三世VSプルードンに匹敵する闘いだった。。。)
スターリンによる粛正への抵抗(この件に関しては数年前にNHKのドキュメンタリーがあった)であることは無論のこと、トロツキーの指向した軍事的政治革命、柄谷に言わせれば行き過ぎた革命を、エイゼンシュテインは社会革命化したとも言える。
トロツキーのメキシコ時代に関心がある方はジョセフ・ロージー監督、アラン・ドロン主演『暗殺者のメロディ』がおすすめです。
写真は同映画より有名なトロツキーの遺書を自身(リチャード・バートンが扮している)で録音するシーンより。
トロツキーの遺書は以下です。
。。。。。。。。。。
私の血圧が高いことは(それはますます上昇している)、周囲の者たちに、私の活動状況に関して誤解を与えている。私は意気軒昂であるし、仕事をする能力もある。しかし、おそらく、終末は近づきつつあるようだ。この一文は私の死後に公表されるだろう。
スターリンとその手先たちのばかげた下劣な中傷を、ここでもう一度反駁する必要はない。私の革命的名誉には一点の曇りもない。私は直接的にも間接的にも、労働者階級の敵と、どんな舞台裏での協定もしたことはないし、交渉したことさえない。スターリンに反対した何千人もの人々が、同種の偽りの告発によって犠牲となった。新しい革命的世代は、これらの人々の政治的名誉を回復し、クレムリンの死刑執行人たちにその報いを与えるだろう。
私の生涯の最も困難な時期に私に忠実でありつづけた友人たちに、心から感謝したい。とくにその友人たちの名前をここに挙げることはしない。そのすべてを挙げることはできないからである。
けれども、わが伴侶、ナターリャ・イワノーヴナ・セドーヴァについてだけは例外をもうけても許されるだろう。運命は、私に、社会主義の大義のために闘う戦士となる幸福にくわえて、彼女の夫となる幸福を与えてくれた。私たちが生活をともにしたほとんど40年もの間、彼女は、愛と広い心と優しさの尽きることのない源泉でありつづけた。彼女は多大な苦難を嘗めることになった。とりわけ私たちの生涯の後半においては。しかし、彼女には幸福の日々もまたあったのだということに、私は慰めを見出す。
私は、自分の意識的生涯の43年間というもの革命家でありつづけたし、そのうちの42年間はマルクス主義の旗のもとで闘った。たとえはじめからやり直すことになったとしても、もちろん、私はあれこれの過ちを避けるように努めるだろうが、私の生涯の全般的な方向性は変わらないだろう。私は、プロレタリア革命家、マルクス主義者、弁証法論的唯物論者、したがってまた非和解的な無神論者として死ぬだろう。人類の共産主義的未来に対する私の信念は現在、青年のころに劣らず熱烈であり、その時よりも強固でさえある。
ちょうど今、ナターシャが中庭から窓のところにやって来て、私の部屋に風がもっと自由に入るよう窓を開けてくれた。塀の下には、輝くばかりの青々とした芝生が細長く伸びているのが見える。塀の上には澄みわたった青空が広がり、太陽の光があたり一面にふりそそいでいる。人生は美しい。未来の世代をして、人生からすべての悪と抑圧と暴力を一掃させ、心ゆくまで人生を享受せしめよ。
1940年2月27日
『日記と手紙』所収
Amazon.co.jp: 戦艦ポチョムキン 復元(2005年ベルリン国際映画祭上映)・マイゼル版 クリティカル・エディション [DVD]: アレクサンドル・P・アントノフ, ウラジミール・G・バルスキー, セルゲイ・M・エイゼンシュテイン: DVD
返信削除http://www.amazon.co.jp/dp/B000P5EQZA/ref=cm_cr_thx_view
トロツキーの言葉
冒頭のトロツキーの文章(『1905年』より)が復元され、エイゼンシュテイン自身が賞賛していたマイゼル作曲の音楽が採用された点で画期的な『戦艦ポチョムキン』のDVDである。
マイゼルの音楽は映画のリズムを的確に表現しており素晴らしい。今後はこの版が標準になるだろう。
ただし、字幕のロシア語が見やすさを優先したデジタルバージョンだったりする点が残念だ。例えば草月ホールで上演された版では「ユダヤ人を殺せ」という字幕は手書きだったはずだが、このセリフは手書きでなければならないはずだ。
その他においては、着色された赤旗などを含め、申し分ないできで、付録の復元ドキュメンタリー(45分)や小冊子もうれしい。
こうした企画を実現したドイツの映画研究は日本も見習うべきだろう(例えば『影武者』の海外版もドイツでしか入手できない)。
DVDという個人所有に留まらず、今後、各地で観衆を集めて上映されるのがこの映画に相応しいと思う。
内容に関して言うことはないが、技術的なこと以上に、民衆の集合力を描いた代表的な作品ということは強調しておきたい。
Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: イワン雷帝 [DVD]
返信削除https://www.amazon.co.jp › product-revi...
チャップリン自伝・下巻 栄光の日々」で、チャップリンも会ったエイゼンシュタイン監督の本作品「イワン雷帝」について、 「およそ歴史映画というものの最高作といってよかった。詩人の精神で歴史を扱っているのだ」と書かれてい ...
Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: イワン雷帝 [DVD]
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チャップリン自伝・下巻 栄光の日々」279頁#20で、チャップリンも会ったエイゼンシュタイン監督の本作品「イワン雷帝」について、 「およそ歴史映画というものの最高作といってよかった。詩人の精神で歴史を扱っているのだ」と書かれてい ...
3:13 午前 削除
278~9
返信削除ロシアの映画監督セルゲイ・エイゼンシュタイン(規L一九一M規)がヽグリゴ‐ル・アレクサンドロフ(謝雑映醇MFレ∞境ュ膨“″m協切一者が∞ユ触畦凡て)や若いイギリス人アイヴァー・モンタギューなどを含むスタッフをつれて、ハリウッド入りをした。わたしはたびたび彼らと会った。みんなよくわたしの家のコートで、下手なテニスをしたものだった。――そう、少なくともアレクサンドロフはよくやった。
エイゼンシュタインはパラマウント社で映画をつくりにきたのだが、当時すでに彼は、『戦艦ポチョムキン』や『世界を震撼させた十日間』で有名な監督だった。パラマウントとしては、その彼に監督ばかりでなく、脚本も一緒に書かせたほうがよいと計算していたのである。事実彼はカリフォルニア開拓時代に関する興味深い記録をもとにして、『サッターの黄金』というすばらしい脚本を書いた。宣伝臭などみじんもないものだったのに、パラマウント社はエイゼンシュタインがロシア人だというだけで怖じ気づき、結局映画はできずじまいにおわった。
ある日エイゼンシュタインと共産主義の話をしたことがあるが、わたしは、プロレタリアも教育さえ受ければ「長い文化的背景を持っている貴族と、知性の点で十分対抗できるものだろうかという愚問を発した。おそらく彼はわたしの無知ぶりにあきれたことだろう。彼自身はロシアの中流家庭、技術者の子だった。「教育さえ受ければ、大衆の知力は新しい肥沃チャップリン自伝な土地と同じですよ」と、彼は答えた。
第二次大戦後に見た彼の傑作『イワン雷帝』は、およそ歴史映画というものの最高作といってよかった。詩人の精神で歴史を扱っているのだ――歴史を扱うもっともよい方法にちがいない。ごく最近の事件でさえいかにひどく歪められるかを知っているわたしとしては、ただ歴史というだけでは、むしろ疑いたくなるだけだ。それに反して、詩的解釈というものは、かえってある一時期を全体的に把握させてくれる。要するに、なまじ史書などというものよりも、芸術作品のほうが、はるかに多くのたしかな真実を伝えているからである。
一般に現代では、ダブルバインド的状況は蔓延しており、そこでは「笑い」*が治療としてある
返信削除とさえ言える。
だが、そうした状況から逃避せずに、形式化を極限まで問いつめる柄谷のような思想家による
著作があるし、映画ではエイゼンシュテインの『イワン雷帝』のような作品がある。
https://youtu.be/MaLjpUCZkPs
これは、エイゼンシュテイン自身も分析しているシーンで、主人公の感情が受動的な悲しみから
能動的な怒りへ展開するシーンである。
ジジェクも言及していたようにここにプーチンのプロトタイプを見出すことも出来るが、むしろ複数
のモチーフの重なり合いを見出すべきだろう。
*
ダブルバインドを笑いとして捉えた映画に、黒澤明の『影武者』がある。
この映画には以下のように3つほど笑いのシーンがあるが、これらは皆自己言及のパラドックス
を笑ったものである。
1、家臣の山縣が赤い顔をして信玄に我を忘れるとは何事かと、自ら我を忘れて説教をする。
2、隊列を組む兵士が見事な隊列だと感嘆したとたんに、列を乱すなと他の兵から説教される。
3、侍大将入場のために、砂場の足跡を消していたふたりの使用人が、自分の足跡を消すのを
忘れる。
理解されなかったとはいえ、これらはみな同一性の希求とその不可能性という映画本来のテーマ
と呼応するものである-----同様のシーンは『乱』にもあるが(狂阿弥=いたずら小僧が神様を「い
たずら小僧」と罵る)、こちらは悲劇的トーンで描かれる。
返信削除ちなみに、1926年に公開され、2005年にドイツで修復され最近日本でもDVDが販売された『戦艦ポチョムキン』の冒頭には本来はトロツキーの以下の言葉が掲げられていた。
「革命の精神がロシア国土のうえに漂っていた。ある巨大で秘密に満ちたプロセスが、無数の心のなかで成就した。すなわち、
ようやく自分自身を認識したばかりであった個人性が、大衆のなかに解消され、そして大衆が、大いなる飛躍のなかに解消されたのだ。」
参考:
http://osiris22.pi-consult.de/view.php3?show=54670727
「ベンヤミン 救済とアクチュアリティー」(河出書房新社p.115)
『1905年』という本の「艦隊反乱」という章からだそうだ(現代思潮社p.197。ほとんどこの十数頁の短い章が映画の原作と言っていい)。
http://8025.teacup.com/trotskylibrary/bbs(トロツキー研究所掲示板)
エイゼンシュテイン、シネクラブ↓
http://www2.neweb.ne.jp/wd/eisenstein/reikai-2000.html
(「水声通信」no.4にも関連記事があった。ペットショップボーイズが『ポチョムキン』につけた音楽の紹介もある。)
最新版DVDはトロツキーの言葉が復元され、音楽もマイゼル版というもっともエイゼンシュテイン自身が評価していたものが使用されている。
エイゼンシュテインはトロツキーを意識していただろうが(たしか『十月』はトロツキーの出演シーンが検閲でカットされていたはず)、『メキシコ万歳』などはトロツキーのメキシコ亡命を先取りした「永久革命論」だったのではないだろうか?(地域間移動によって歴史を描く手法は『惑星ソラリス』の高速道路のシーンを思い出させますし、『メキシコ万歳』はパゾリーニの生の三部作を想起させる。)
追記:
(通時的な構造を共時的な移動によって表現することは、世界同時革命説が持っていた観念性を解消する方法論として有効だろう。もともと世界同時革命論は非均質的な世界観が基盤なのだが、過度に政治的になってしまった。それを映像を通じて非政治化することは可能だし、そうすることによって永続革命という通時的なヴィジョンに転化しうるのである。)
少なくともスターリンとの一騎打ちにエイゼンシュテインだけが歴史的に勝利したと言えるのではないだろうか?
(ヒットラーVSチャップリン、ナポレオン三世VSプルードンに匹敵する闘いだった。。。)
スターリンによる粛正への抵抗(この件に関しては数年前にNHKのドキュメンタリーがあった)であることは無論のこと、トロツキーの指向した軍事的政治革命、柄谷に言わせれば行き過ぎた革命を、エイゼンシュテインは社会革命化したとも言える。
返信削除トロツキーのメキシコ時代に関心がある方はジョセフ・ロージー監督、アラン・ドロン主演『暗殺者のメロディ』がおすすめ。
写真は同映画より有名なトロツキーの遺書を自身(リチャード・バートンが扮している)で録音するシーンより。
トロツキー1
トロツキー2
トロツキー3
トロツキーの遺書は以下。
。。。。。。。。。。
私の血圧が高いことは(それはますます上昇している)、周囲の者たちに、私の活動状況に関して誤解を与えている。私は意気軒昂であるし、仕事をする能力もある。しかし、おそらく、終末は近づきつつあるようだ。この一文は私の死後に公表されるだろう。
スターリンとその手先たちのばかげた下劣な中傷を、ここでもう一度反駁する必要はない。私の革命的名誉には一点の曇りもない。私は直接的にも間接的にも、労働者階級の敵と、どんな舞台裏での協定もしたことはないし、交渉したことさえない。スターリンに反対した何千人もの人々が、同種の偽りの告発によって犠牲となった。新しい革命的世代は、これらの人々の政治的名誉を回復し、クレムリンの死刑執行人たちにその報いを与えるだろう。
私の生涯の最も困難な時期に私に忠実でありつづけた友人たちに、心から感謝したい。とくにその友人たちの名前をここに挙げることはしない。そのすべてを挙げることはできないからである。
けれども、わが伴侶、ナターリャ・イワノーヴナ・セドーヴァについてだけは例外をもうけても許されるだろう。運命は、私に、社会主義の大義のために闘う戦士となる幸福にくわえて、彼女の夫となる幸福を与えてくれた。私たちが生活をともにしたほとんど40年もの間、彼女は、愛と広い心と優しさの尽きることのない源泉でありつづけた。彼女は多大な苦難を嘗めることになった。とりわけ私たちの生涯の後半においては。しかし、彼女には幸福の日々もまたあったのだということに、私は慰めを見出す。
私は、自分の意識的生涯の43年間というもの革命家でありつづけたし、そのうちの42年間はマルクス主義の旗のもとで闘った。たとえはじめからやり直すことになったとしても、もちろん、私はあれこれの過ちを避けるように努めるだろうが、私の生涯の全般的な方向性は変わらないだろう。私は、プロレタリア革命家、マルクス主義者、弁証法論的唯物論者、したがってまた非和解的な無神論者として死ぬだろう。人類の共産主義的未来に対する私の信念は現在、青年のころに劣らず熱烈であり、その時よりも強固でさえある。
ちょうど今、ナターシャが中庭から窓のところにやって来て、私の部屋に風がもっと自由に入るよう窓を開けてくれた。塀の下には、輝くばかりの青々とした芝生が細長く伸びているのが見える。塀の上には澄みわたった青空が広がり、太陽の光があたり一面にふりそそいでいる。人生は美しい。未来の世代をして、人生からすべての悪と抑圧と暴力を一掃させ、心ゆくまで人生を享受せしめよ。
1940年2月27日
『日記と手紙』所収
追記:
「あっと+3」誌上の柄谷行人論考で考察された、永続革命と世界同時革命の根拠は『ドイツ・イデオロギー』の以下にある。
「共産主義は、経験的には、主要な諸民族が《一挙に》、かつ同時に遂行することによってのみ可能なのであり、そしてそのことは生産力の普遍的発展とそれに結びついた世界交通を前提としている。」(柄谷論考あっと+3p86 、マルクス全集3大月p31参照)
「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれに向けて形成されるべき何らかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名付けている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる。」
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Marx%20German%20Ideology.htm
「あっと」1号の柄谷の論考によると、1850年(『ドイツ・イデオロギー』はそれ以前の執筆)に永続革命を主張し、その半年後撤回しているそうだ(全集7p259、8巻p586参照)。簡単に言えば政治革命から社会革命への転換だが、柄谷の指摘するように、恐慌待望論(第7巻p450)を伴っているために評価は難しい。
上記引用前半で気になるのは、マルクスが民族なるものを過小評価している部分だ。これだとインターナショナルが民族のメタレベルに位置することが要求されるが、歴史を観るとそれは不可能なのではないだろうか?
母体と主体の見極めが現実的でないのである。
その点、『ドイツ・イデオロギー』のシュティルナー論は興味深い。デリダが論考し、廣松渉が省略した部分に、個体性論があるのだが、これはマルクスが後に価値形態論に応用した箇所だ。個体性と普遍性の転換はまさに拡大された価値形態と一般的等価形態の転換に相当する。
この時期のマルクスは、明確に政治革命に挫折した後ではなかったが故に、そのシュティルナー批判は生々しい抵抗のあと(理論的敗北の過程、「シュティルナー以上にさいなまれ、取り憑かれ、虜となっていたかもしれないマルクス」邦訳デリダ『マルクスの亡霊たち』p291)を見事に記録しているのである。
戦艦ポチョムキン 復元(2005年ベルリン国際映画祭上映)・マイゼル版 クリティカル・エディション [DVD]
返信削除アレクサンドル・P・アントノフ (出演), ウラジミール・G・バルスキー (出演), セルゲイ・M・エイゼンシュテイン (監督, 脚本) 形式: DVD
形式: DVD|Amazonで購入
冒頭のトロツキーの文章(『1905年』より)が復元され、エイゼンシュテイン自身が賞賛していたマイゼル作曲の音楽が採用された点で画期的な『戦艦ポチョムキン』のDVDである。
マイゼルの音楽は映画のリズムを的確に表現しており素晴らしい。今後はこの版が標準になるだろう。
ただし、字幕のロシア語が見やすさを優先したデジタルバージョンだったりする点が残念だ。例えば草月ホールで上演された版では「ユダヤ人を殺せ」という字幕は手書きだったはずだが、このセリフは手書きでなければならないはずだ。
その他においては、着色された赤旗などを含め、申し分ないできで、付録の復元ドキュメンタリー(45分)や小冊子もうれしい。
こうした企画を実現したドイツの映画研究は日本も見習うべきだろう(例えば『影武者』の海外版もドイツでしか入手できない)。
DVDという個人所有に留まらず、今後、各地で観衆を集めて上映されるのがこの映画に相応しいと思う。
内容に関して言うことはないが、技術的なこと以上に、民衆の集合力を描いた代表的な作品ということは強調しておきたい。
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戦艦ポチョムキン 復元(2005年ベルリン国際映画祭上映)・マイゼル版 クリティカル・エディション [DVD]
返信削除アレクサンドル・P・アントノフ (出演), ウラジミール・G・バルスキー (出演), セルゲイ・M・エイゼンシュテイン (監督, 脚本) 形式: DVD
2007
形式: DVD|Amazonで購入
冒頭のトロツキーの文章(『1905年』より)が復元され、エイゼンシュテイン自身が賞賛していたマイゼル作曲の音楽が採用された点で画期的な『戦艦ポチョムキン』のDVDである。
マイゼルの音楽は映画のリズムを的確に表現しており素晴らしい。今後はこの版が標準になるだろう。
ただし、字幕のロシア語が見やすさを優先したデジタルバージョンだったりする点が残念だ。例えば草月ホールで上演された版では「ユダヤ人を殺せ」という字幕は手書きだったはずだが、このセリフは手書きでなければならないはずだ。
その他においては、着色された赤旗などを含め、申し分ないできで、付録の復元ドキュメンタリー(45分)や小冊子もうれしい。
こうした企画を実現したドイツの映画研究は日本も見習うべきだろう(例えば『影武者』の海外版もドイツでしか入手できない)。
DVDという個人所有に留まらず、今後、各地で観衆を集めて上映されるのがこの映画に相応しいと思う。
内容に関して言うことはないが、技術的なこと以上に、民衆の集合力を描いた代表的な作品ということは強調しておきたい。
返信削除戦艦ポチョムキン 復元(2005年ベルリン国際映画祭上映)・マイゼル版 クリティカル・エディション [DVD]
アレクサンドル・P・アントノフ (出演), ウラジミール・G・バルスキー (出演), セルゲイ・M・エイゼンシュテイン (監督, 脚本) 形式: DVD
2007
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冒頭のトロツキーの文章*(『1905年』より)が復元され、エイゼンシュテイン自身が賞賛していたマイゼル作曲の音楽が採用された点で画期的な『戦艦ポチョムキン』のDVDである。
*
「革命の精神がロシア国土のうえに漂っていた。ある巨大で秘密に満ちたプロセスが、無数の心のなかで成就した。すなわち、
ようやく自分自身を認識したばかりであった個人性が、大衆のなかに解消され、そして大衆が、大いなる飛躍のなかに解消されたのだ。」
参考:
http://osiris22.pi-consult.de/view.php3?show=54670727
「ベンヤミン 救済とアクチュアリティー」(河出書房新社p.115)
「艦隊反乱」より
(『1905年』現代思潮社p.197。ほとんどこの十数頁の短い章が映画の原作と言っていい)
マイゼルの音楽は映画のリズムを的確に表現しており素晴らしい。今後はこの版が標準になるだろう。
ただし、字幕のロシア語が見やすさを優先したデジタルバージョンだったりする点が残念だ。例えば草月ホールで上演された版では「ユダヤ人を殺せ」という字幕は手書きだったはずだが、このセリフは手書きでなければならないはずだ。
その他においては、着色された赤旗などを含め、申し分ないできで、付録の復元ドキュメンタリー(45分)や小冊子もうれしい。
こうした企画を実現したドイツの映画研究は日本も見習うべきだろう(例えば『影武者』の海外版もドイツでしか入手できない)。
DVDという個人所有に留まらず、今後、各地で観衆を集めて上映されるのがこの映画に相応しいと思う。
内容に関して言うことはないが、技術的なこと以上に、民衆の集合力を描いた代表的な作品ということは強調しておきたい。
返信削除戦艦ポチョムキン 復元(2005年ベルリン国際映画祭上映)・マイゼル版 クリティカル・エディション [DVD]
アレクサンドル・P・アントノフ (出演), ウラジミール・G・バルスキー (出演), セルゲイ・M・エイゼンシュテイン (監督, 脚本) 形式: DVD
2007
形式: DVD|Amazonで購入
冒頭のトロツキーの文章*(『1905年』より)が復元され、エイゼンシュテイン自身が賞賛していたマイゼル作曲の音楽が採用された点で画期的な『戦艦ポチョムキン』のDVDである。
*
「革命の精神がロシア国土のうえに漂っていた。ある巨大で秘密に満ちたプロセスが、無数の心のなかで成就した。すなわち、
ようやく自分自身を認識したばかりであった個人性が、大衆のなかに解消され、そして大衆が、大いなる飛躍のなかに解消されたのだ。」
参考:
http://osiris22.pi-consult.de/view.php3?show=54670727
「ベンヤミン 救済とアクチュアリティー」(河出書房新社p.115)
「艦隊反乱」より
(『1905年』現代思潮社p.197。ほとんどこの十数頁の短い章が映画の原作と言っていい)
マイゼルの音楽は映画のリズムを的確に表現しており素晴らしい。今後はこの版が標準になるだろう。
ただし、字幕のロシア語が見やすさを優先したデジタルバージョンだったりする点が残念だ。例えば草月ホールで上演された版では「ユダヤ人を殺せ」という字幕は手書きだったはずだが、このセリフは手書きでなければならないはずだ。
その他においては、着色された赤旗などを含め、申し分ないできで、付録の復元ドキュメンタリー(45分)や小冊子もうれしい。
こうした企画を実現したドイツの映画研究は日本も見習うべきだろう(例えば『影武者』の海外版もドイツでしか入手できない)。
DVDという私的所有に留まらず、今後、各地で観衆を集めて上映されるのがこの映画に相応しいと思う。
内容に関して言うことはないが、技術的なこと以上に、民衆の集合力を描いた代表的な作品ということは強調しておきたい。
返信削除戦艦ポチョムキン 復元(2005年ベルリン国際映画祭上映)・マイゼル版 クリティカル・エディション [DVD]2007
セルゲイ・M・エイゼンシュテイン (監督, 脚本)
冒頭のトロツキーの文章*(『1905年』より)が復元され、エイゼンシュテイン自身が賞賛していたマイゼル作曲の
音楽が採用された点で画期的な『戦艦ポチョムキン』のDVDである。
*
「革命の精神がロシア国土のうえに漂っていた。ある巨大で秘密に満ちたプロセスが、無数の心のなかで成就した。
すなわち、ようやく自分自身を認識したばかりであった個人性が、大衆のなかに解消され、そして大衆が、大いなる
飛躍のなかに解消されたのだ。」
(「艦隊反乱」『1905年』現代思潮社p.197。ほとんどこの十数頁の短い章が映画の原作と言っていい)
マイゼルの音楽は映画のリズムを的確に表現しており素晴らしい。今後はこの版が標準になるだろう。
ただし、字幕のロシア語が見やすさを優先したデジタルバージョンだったりする点が残念だ。例えば草月ホールで
上演された版では「ユダヤ人を殺せ」という字幕は手書きだったはずだが、このセリフは手書きでなければならないはずだ。
その他においては、着色された赤旗などを含め、申し分ないできで、付録の復元ドキュメンタリー(45分)や小冊子もうれしい。
こうした企画を実現したドイツの映画研究は日本も見習うべきだろう(例えば『影武者』の海外版もドイツでしか入手できない)。
DVDという私的所有に留まらず、今後、各地で観衆を集めて上映されるのがこの映画に相応しいと思う。
内容に関して言うことはないが、技術的なこと以上に、民衆の集合力を描いた代表的な作品ということは強調しておきたい。
返信削除戦艦ポチョムキン 復元(2005年ベルリン国際映画祭上映)・マイゼル版 クリティカル・エディション [DVD]2007
セルゲイ・M・エイゼンシュテイン (監督, 脚本)
冒頭のトロツキーの文章*(『1905年』より)が復元され、エイゼンシュテイン自身が賞賛していたマイゼル作曲の
音楽が採用された点で画期的な『戦艦ポチョムキン』のDVDである。
*
「革命の精神がロシア国土のうえに漂っていた。ある巨大で秘密に満ちたプロセスが、無数の心のなかで成就した。
すなわち、ようやく自分自身を認識したばかりであった個人性が、大衆のなかに解消され、そして大衆が、大いなる
飛躍のなかに解消されたのだ。」
(「艦隊反乱」『1905年』現代思潮社p.197。ほとんどこの十数頁の短い章が映画の原作と言っていい)
マイゼルの音楽は映画のリズムを的確に表現しており素晴らしい。今後はこの版が標準になるだろう。
ただし、字幕のロシア語が見やすさを優先したデジタルバージョンだったりする点が残念だ。例えば草月ホールで
上演された版では「ユダヤ人を殺せ」という字幕は手書きだったはずだが、このセリフは手書きでなければならないはずだ。
その他においては、着色された赤旗などを含め、申し分ないできで、付録の復元ドキュメンタリー(45分)や小冊子もうれしい。
こうした企画を実現したドイツの映画研究は日本も見習うべきだろう(例えば『影武者』の海外版もドイツでしか入手できない)。
DVDという私的所有に留まらず、今後、各地で観衆を集めて上映されるのがこの映画に相応しいと思う。
内容に関して言うことはないが、技術的なこと以上に、民衆の集合力を描いた代表的な作品ということは強調しておきたい。
トロツキーと『戦艦ポチョムキン』:改稿版
返信削除最近、柄谷行人はトロツキーの永久革命論を社会革命から乖離したものとして批判しているが*、無論これはカント的批判=吟味でもある。
*
|
国家|国民
___|______
資本|アソシエーション
|
(上記の区分をとりはらってしまうような永続革命計画は無効であり、上記の区分を維持しつつ内外で同時に課題に取り組む限りで世界同時革命計画は有効なのだということであろう。後者の場合、トランスバーサルな移動が重要になるが、この方法論に関して後述する。)
さて、ネットでトロツキーの動画を見つけましたが、トロツキーの動画や音声はどの程度残っているのだろうか?
trotsky speaks the truth
http://jp.youtube.com/watch?v=fKI9oi1YJNM
上の動画におけるトロツキーの発言内容は以下。スターリンに反論している。
"Stalin's trial against me is built upon false confessions, extorted by modern Inquisitorial methods, in the interests of the ruling clique. There are no crimes in history more terrible in intention or execution than the Moscow trials of Zinoviev-Kamenev and of Radek-Piatakov. These trials develop not from communism, not from socialism, but from Stalinism, that is, from the irresponsible despotism of the bureaucracy over the people!"
ちなみに、1926年に公開され、2005年にドイツで修復され最近日本でもDVDが販売された『戦艦ポチョムキン』の冒頭には本来はトロツキーの以下の言葉が掲げられていた。
「革命の精神がロシア国土のうえに漂っていた。ある巨大で秘密に満ちたプロセスが、無数の心のなかで成就した。すなわち、
ようやく自分自身を認識したばかりであった個人性が、大衆のなかに解消され、そして大衆が、大いなる飛躍のなかに解消されたのだ。」
参考:
http://osiris22.pi-consult.de/view.php3?show=54670727
「ベンヤミン 救済とアクチュアリティー」(河出書房新社p.115)
『1905年』という本の「艦隊反乱」という章からだそうだ(現代思潮社p.197。ほとんどこの十数頁の短い章が映画の原作と言っていい)。
http://8025.teacup.com/trotskylibrary/bbs(トロツキー研究所掲示板)
エイゼンシュテイン、シネクラブ↓
http://www2.neweb.ne.jp/wd/eisenstein/reikai-2000.html
(「水声通信」no.4にも関連記事があった。ペットショップボーイズが『ポチョムキン』につけた音楽の紹介もある。)
最新版DVDはトロツキーの言葉が復元され、音楽もマイゼル版というもっともエイゼンシュテイン自身が評価していたものが使用されている。
エイゼンシュテインはトロツキーを意識していただろうが(たしか『十月』はトロツキーの出演シーンが検閲でカットされていたはず)、『メキシコ万歳』などはトロツキーのメキシコ亡命を先取りした「永久革命論」だったのではないだろうか?(地域間移動によって歴史を描く手法は『惑星ソラリス』の高速道路のシーンを思い出させますし、『メキシコ万歳』はパゾリーニの生の三部作を想起させる。)
追記:
(通時的な構造を共時的な移動によって表現することは、世界同時革命説が持っていた観念性を解消する方法論として有効だろう。もともと世界同時革命論は非均質的な世界観が基盤なのだが、過度に政治的になってしまった。それを映像を通じて非政治化することは可能だし、そうすることによって永続革命という通時的なヴィジョンに転化しうるのである。)
少なくともスターリンとの一騎打ちにエイゼンシュテインだけが歴史的に勝利したと言えるのではないだろうか?
(ヒットラーVSチャップリン、ナポレオン三世VSプルードンに匹敵する闘いだった。。。)
スターリンによる粛正への抵抗(この件に関しては数年前にNHKのドキュメンタリーがあった)であることは無論のこと、トロツキーの指向した軍事的政治革命、柄谷に言わせれば行き過ぎた革命を、エイゼンシュテインは社会革命化したとも言える。
トロツキーのメキシコ時代に関心がある方はジョセフ・ロージー監督、アラン・ドロン主演『暗殺者のメロディ』がおすすめ。
写真は同映画より有名なトロツキーの遺書を自身(リチャード・バートンが扮している)で録音するシーンより。
トロツキー1
た。とりわけ私たちの生涯の後半においては。しかし、彼女には幸福の日々もまたあったのだということに、私は慰めを見出す。
返信削除私は、自分の意識的生涯の43年間というもの革命家でありつづけたし、そのうちの42年間はマルクス主義の旗のもとで闘った。たとえはじめからやり直すことになったとしても、もちろん、私はあれこれの過ちを避けるように努めるだろうが、私の生涯の全般的な方向性は変わらないだろう。私は、プロレタリア革命家、マルクス主義者、弁証法論的唯物論者、したがってまた非和解的な無神論者として死ぬだろう。人類の共産主義的未来に対する私の信念は現在、青年のころに劣らず熱烈であり、その時よりも強固でさえある。
ちょうど今、ナターシャが中庭から窓のところにやって来て、私の部屋に風がもっと自由に入るよう窓を開けてくれた。塀の下には、輝くばかりの青々とした芝生が細長く伸びているのが見える。塀の上には澄みわたった青空が広がり、太陽の光があたり一面にふりそそいでいる。人生は美しい。未来の世代をして、人生からすべての悪と抑圧と暴力を一掃させ、心ゆくまで人生を享受せしめよ。
1940年2月27日
『日記と手紙』所収
追記:
「あっと+3」誌上の柄谷行人論考で考察された、永続革命と世界同時革命の根拠は『ドイツ・イデオロギー』の以下にある。
「共産主義は、経験的には、主要な諸民族が《一挙に》、かつ同時に遂行することによってのみ可能なのであり、そしてそのことは生産力の普遍的発展とそれに結びついた世界交通を前提としている。」(柄谷論考あっと+3p86 、マルクス全集3大月p31参照)
「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれに向けて形成されるべき何らかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名付けている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる。」
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Marx%20German%20Ideology.htm
「あっと」1号の柄谷の論考によると、1850年(『ドイツ・イデオロギー』はそれ以前の執筆)に永続革命を主張し、その半年後撤回しているそうだ(全集7p259、8巻p586参照)。簡単に言えば政治革命から社会革命への転換だが、柄谷の指摘するように、恐慌待望論(第7巻p450)を伴っているために評価は難しい。
上記引用前半で気になるのは、マルクスが民族なるものを過小評価している部分だ。これだとインターナショナルが民族のメタレベルに位置することが要求されるが、歴史を観るとそれは不可能なのではないだろうか?
母体と主体の見極めが現実的でないのである。
その点、『ドイツ・イデオロギー』のシュティルナー論は興味深い。デリダが論考し、廣松渉が省略した部分に、個体性論があるのだが、これはマルクスが後に価値形態論に応用した箇所だ。個体性と普遍性の転換はまさに拡大された価値形態と一般的等価形態の転換に相当する。
この時期のマルクスは、明確に政治革命に挫折した後ではなかったが故に、そのシュティルナー批判は生々しい抵抗のあと(理論的敗北の過程、「シュティルナー以上にさいなまれ、取り憑かれ、虜となっていたかもしれないマルクス」邦訳デリダ『マルクスの亡霊たち』p291)を見事に記録しているのである。
追記の追記:
柄谷のカント及び丸山真男を受け継いだ国連改革論は、
以下のようなNAMの構造とパラレルのような気がしてならない。
セ
評ン
議タ\ __ __ __ __
会| | | | | | | | |
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地域系 京都 東京 海外 /
各地 など\/
NAMセンター評議会の位置に国連本部が位置づけられる。
また、各地域系は諸国家に、各関心系は様々なNPOに取って替わる。
再掲:エイゼンシュテイン「『資本論』映画化のためのノート」について
返信削除https://plaza.rakuten.co.jp/yojiseki/diary/200409170000/
エイゼンシュテイン「『資本論』映画化のためのノート」について
2004年09月17日
カテゴリコラム (51)
エイゼンシュテインには「『資本論』映画化のためのノート」(全集4、キネ旬所収) という論考がある。
1920年代後半まで、エイゼンシュテインは本気で『資本論』の映画化を考えていた。
詳細は全集に譲るとして、彼のアイデアの形式面での特徴を要約すると、資本主義という構造の中に取り囲まれた場合、その対抗運動は意識の面では反復にならざるを得ないということだ。
資本主義という構造の外に容易に立つことは出来ない。そして、資本主義の内部で闘うこと、しかも日常(という交換の場)で闘うこと自体に意味があるのだ。
したがって、ジョイスの意識の流れを形式面で採用することは必然なのだ(「形式面はジョイスに捧げられる」ノートより)。
もちろんエイゼンシュテインが言うように、『資本論』は「社会民主主義」(資本主義により拡がる貧富の格差を、民主主義的な議会主義という外観を装いつつも国家による収奪・分配によって補完する)に対する外部からの最大の批判である。しかし、そもそも資本論の素材は国家の側から提出されたものであるから、はじめから完全な外部はあり得ない。また、その説得力ある映画化を実際に起こった出来事(ニュース)に素材を得た形で行なうとすれば、1997年のアジア通貨危機など後年の素材を待たなければその説得力は十分なものにならなかったかもしれない。
山田和夫(『日本映画の歴史と現代』)が指摘するように『全線』の冒頭の財産の分割が利益にならないといった教訓をあらわす描写は、『資本』を描くという意味で成功しているし(このシーンは何よりも同一化への欲求を表しているのだが、このロシア人特有の主題に関しては別稿が必要だと思う)、『イワン雷帝』などの経済分析は、資本論の映画化の構想の延長と言っていいと思う。
ちなみに価値形態論の図式をエイゼンシュテインが『十月』でやったように逆モーションにするとほとんどLETS(通帳式交換システム)の理念になるのではないだろうか。
意識の流れということであれば『アメリカの悲劇』の構想も資本論の延長である言っていいだろうし、晩年の立体映画論(「立体映画について」1947年)こそは、『資本論』映画化のアイデアのうちの、階級闘争としての映画を理念的に発展させ得たものだと思う(この論文を要約すれば、映画における四次元は技術的にも思想的にもプロレタリアートのために開かれる、というものである)。
ただ、『ストライキ』における映像表現などを見ると、エイゼンシュテインの作品群は実はアナーキズムの発露としても見ることができるのではないか?(ドゥルーズ『千のプラトー』における『ストライキ』内の複数の穴の描写の指摘を参照。また、メイエルホリドの身体論や空間演出もコミュニズムからアナーキズムに転回し得るものだ。)
われわれに残されたエイゼンシュテインの遺産(黒澤はエイゼンシュテインの影響でカラー映画を撮り、タルコフスキーは『イワン雷帝』を見て映画監督を志した)は、まだまだ可能性を秘めていると思う。