(リンク::::::::::、フーコーと行動システム、監視社会、本頁)
V #161ミシェル・フーコー、学校について -Michel Foucault à propos de l'école 1975-
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/07/michel-foucault-propos-de-lecole-1975.html
https://youtu.be/gbC5lNB8A8k
VII? フーコー(1978)、レヴィ=ストロース、サイード、鈴木大拙、今西錦司
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/07/michel-foucault-propos-de-lecole-1975.html
https://youtu.be/gbC5lNB8A8k
蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編
◆Ⅰ1954-1963 『狂気・精神分析・精神医学』
◆Ⅱ1965-1967 『文学・言語・エピステモロジー』
◆Ⅲ1968-1970 『歴史学・系譜学・考古学』
◆Ⅳ1971-1973 『規範・社会』
◆Ⅴ1974-1975 『権力・処罰』
◆Ⅵ1976-1977 『セクシュアリティ・真理』
◆Ⅶ1978 『知・身体』
◆Ⅷ1979-1981 『政治・友愛』
◆Ⅸ1982-1983 『自己・統治性・快楽』
◆Ⅹ1984-1988 『倫理・道徳・啓蒙』
◆Ⅰ1954-1963 『狂気・精神分析・精神医学』
◆Ⅱ1965-1967 『文学・言語・エピステモロジー』
◆Ⅲ1968-1970 『歴史学・系譜学・考古学』
◆Ⅳ1971-1973 『規範・社会』
◆Ⅴ1974-1975 『権力・処罰』
◆Ⅵ1976-1977 『セクシュアリティ・真理』
◆Ⅶ1978 『知・身体』
◆Ⅷ1979-1981 『政治・友愛』
◆Ⅸ1982-1983 『自己・統治性・快楽』
◆Ⅹ1984-1988 『倫理・道徳・啓蒙』
Foucault, Michel[ミシェル・フーコー]
http://www.arsvi.com/w/fm05.htm
http://www.arsvi.com/w/fm05.htm
☆ 一次文献
◇ 単著・編著
◇ コレージュ・ド・フランス講義録
◇ ミシェル・フーコー思考集成
◇ その他
◇ 1次文献に関するウェブサイト
☆ 二次文献
◇ 邦語
◇ 邦語以外
☆ 関連雑誌
☆ 引用
☆ 関連催しもの
◇ 単著・編著
◇ コレージュ・ド・フランス講義録
◇ ミシェル・フーコー思考集成
◇ その他
◇ 1次文献に関するウェブサイト
☆ 二次文献
◇ 邦語
◇ 邦語以外
☆ 関連雑誌
☆ 引用
☆ 関連催しもの
『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ 1954-1963 狂気/精神分析/精神医学』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=19881110 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ 1954-1963 狂気/精神分析/精神医学』,筑摩書房,393p. \5200
■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =19981110 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ 1954-1963 狂気/精神分析/精神医学』,筑摩書房,393p. ISBN-10:4480790217 ISBN-13:978-4480790217 \5200
■目次
謝辞
編者緒言
年譜 ダニエル・ドフェール/石田英敬訳
1954
1 ビンスワンガー『夢と実存』への序論 石田英敬訳
1957
2 心理学の歴史 1850?1950 石田英敬訳
3 科学研究と心理学 石田英敬訳
1961
4 『狂気の歴史』初版への序 石田英敬訳
5 狂気は社会のなかでしか存在しない 石田英敬訳
6 アレクサンドル・コイレ『天文学革命、コペルニクス、ケプラー、ボレッリ』金森修訳
1962
7 ルソーの『対話』への序文 増田真訳
8 父の〈ノン否〉 湯浅博雄・山田広昭訳
9 カエルたちの叙事詩 鈴木雅雄訳
10 ルーセルにおける言うことと見ること
11 かくも残酷な知 横張誠訳
1963
12 人間の夜を見守る者 三浦篤訳
13 侵犯への序言 西谷修訳
14 言語の無限反復 野崎歓訳
15 夜明けの光を見張って 野崎歓訳
16 水と狂気 野崎歓訳
17 距たり・アスペクト・起源 中野知律訳
18 恐怖の「ヌーヴォー・ロマン」 野崎歓訳
日本語版編者解説(石田英敬)
■内容
編者緒言
「『ミシェル・フーコー思考集成』全十巻に収録されたのは、生前に単行本として刊行されていた著作をのぞき、フランスおよび諸外国で刊行された、序文、序論、紹介文、対談、論文および記事、講演記録などからなる、ミシェル・フーコーの全テクストである」とまず初めにあり、そのあと「一 コーパスの定義」「二 テクストの配列」「三 テクストの提示の仕方」「四 テクスト校訂の規則」「五 年譜、索引、および書誌」と説明が続く。
『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=19990318 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』,筑摩書房,493p.
last update:20100407
■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =19990318 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』,筑摩書房,493p. ISBN-10:4480790225 ISBN-13:978-4480790224 \5800 [amazon]/[kinokuniya] ※
■目次
1964
19 書誌略述-カントの『人間学』 慎改康之訳
20 幻想の図書館 工藤庸子訳
21 アクタイオーンの散文 豊崎光一訳
22 小説をめぐる討論 堀江敏幸訳
23 詩をめぐる討論 堀江敏幸訳
24 空間の言語 清水徹訳
25 狂気、作品の不在 石田英敬訳
26 なぜレーモン・ルーセルの作品が再刊されるのか 鈴木雅雄訳
27 血を流す言葉 兼子正勝訳
28 J=P・リシャールのマラルメ 兼子正勝訳
29 書くことの義務 兼子正勝訳
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
31 哲学と真理 慎改康之訳
32 侍女たち 松浦寿輝訳
33 世界の散文 宮下志朗訳
34 ミシェル・フーコー『言葉と物』 廣瀬浩司訳
35 失われた現在を求めて 兼子正勝訳
36 物語の背後にあるもの 竹内信夫訳
37 マドレーヌ・シャプサルとの対談 根本美作子訳
38 外の思考 豊崎光一訳
39 人間は死んだのか 根本美作子訳
40 無言の歴史 増田真訳
41 ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズはニーチェにその本当の顔を返したがっている 金森修訳
42 哲学者とは何か 金森修訳
43 彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった 松浦寿輝訳
44 メッセージあるいは雑音? 金森修訳
1967
45 概括的序論 大西雅一郎訳
46 ニーチェ・フロイト・マルクス 大西雅一郎訳
47 「今日」の診断を可能にする構造主義哲学 増田一夫訳
48 歴史の書き方について 石田英敬訳
49 ポール・ロワイヤルの文法
50 フーコー教授、あなたは何者ですか 慎改康之訳
51 言葉と図像 阿部崇・近藤学訳
日本語版編者解説(小林康夫)
■内容
1964
19 書誌略述-カントの『人間学』 慎改康之訳
E.カント『人間学』(M.フーコー仏語訳)所収、パリ、ジャン・ヴラン書店、一九六四年刊、7-10ページ。
一九六一年、ミシェル・フーコーは、文学博士号取得のための副論文として、イマヌエル・カントの『実用的見地における人間学』の注解つきの翻訳三四七ページを、一二八ページに及ぶ序文とともに提出する。この翻訳および序文は、ソルボンヌ大学図書館にタイプ原稿のかたちで保管されている。フーコーは、ここにある「書誌略述」の添えられた翻訳のみを公刊した。
内容はカントの『人間学』が完成に至る過程とその時期についての分析である。
「『人間学』のなかのひとつの註は、この著作が、それが執筆される以前「およそ三十年間」にわたって行われた講義の内容であるということを示している。その三十年の間、冬学期の授業が人間学に、夏学期の授業が自然地理学にあてられていたということだが、しかし実際は、上の数字は正確なものではない。」(本文より)
Badiou interviews Michel Foucault (1965) 1/3 English Subtitles
http://youtu.be/PFyB09FrtaY
Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm4.htm
1965
30 哲学と心理学 慎改康之訳
(アラン・バデューとの対話)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年二月二十七日、65-71ページ。
この討論は、つづくNo.31と同様、一九六五-一九六六年度、ディナ・ドレフュス企画、ジャン・フレシェ監修のもと
に教育テレビ・ラジオ放送によって制作された番組である。
これらの番組は最近、国立教育資料センターおよびナタン出版社によって、『哲学者の時代』シリーズにビデオカセ
ットとして再版された。一方、「カイエ・フィロゾフィック」誌増刊号(一九九三年六月)にもこれらの番組内容の
逐語的な転写が掲載されているが、それはここに収録したテクストと大きく異なっている。なお、ここに収録したテ
クストのみが、討論の参加者たちによる見直しを通過したものである。
31 哲学と真理 慎改康之訳
(アラン・バデュー、ジョルジュ・カンギレム、ディナ・ドレフュス、ジャン・イポリット、ポール・リクールと
の対談)、『教育テレビ・ラジオ放送資料集』一九六五年三月二十七日、1-11ページ。前項No.30の紹介事項を参照。
「第一部(J・イポリット、G・カンギレム)」「第二部(M・フーコー、P・リクール)」「第三部(J・イポリット、
G・カンギレム、P・リクール、M・フーコー、D・ドレフュス)」「第四部(J・イポリット、G・カンギレム、P・リ
クール、A・バデュー、D・ドレフュス)」という構成になっている。
「しかし、おのれから出発して表明され得るような人間の本質、また、可能な認識すべての基礎であると同時に認識の
可能な限界そのものの基礎でもあるような人間の本質を規定しようと試みる、そのときから、ひとは誤謬推理のただな
かにいるのです。」(本文より)
『ミシェル・フーコー思考集成Ⅲ 1968-1970 歴史学/系譜学/考古学』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=19990710 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成III 1968-1970 歴史学/系譜学/考古学』,筑摩書房,484p.
1968
52 宗教的逸脱と医学 松村剛訳
53 これはパイプではない 岩佐鉄男訳
54 ミシェル・フーコーとのインタヴュー 原和之訳
55 フーコー、サルトルに答える 原和之訳
56 フーコーの見解 原和之訳
57 ジャック・プルースト宛書簡 原和之訳
58 「エスプリ」誌 質問への回答 石田英敬訳
59 科学の考古学について?〈認識論サークル〉への回答 石田英敬訳
1969
60 『ポール・ロワイヤルの文法』序文 井村順一訳
61 フーコー教授、あなたは何者ですか
62 17世紀の医師、裁判官、魔法使い 松村剛訳
63 マクシム・ドフェール 西宮かおり訳
64 アリアドネーは縊死した 小林康夫訳
65 追記 西宮かおり訳
66 ミシェル・フーコー、近著を語る 慎改康之訳
67 ジャン・イポリット 1907?1968 廣瀬浩司訳
68 ある世界の誕生 廣瀬浩司訳
69 作者とは何か 清水徹・根本美作子訳
70 言語学と社会科学 坂本圭子訳
71 研究内容と計画 慎改康之訳
1970
72 ミシェル・フーコー『言葉と物』英語版への序文 李孝徳訳
73 第七天使をめぐる七言 豊崎光一・清水正訳
74 バタイユ全集の巻頭に 西谷修訳
75 幻想の図書館
76 F・ダゴニェの論考「生物学史におけるキュヴィエの位置づけ」に関する討論 金森修訳
77 生物学史におけるキュヴィエの位置 金森修訳
78 ヴァンセンヌの罠 安原伸一郎訳
79 騒ぎはあるでしょう、が…… 西谷修訳
80 劇場としての哲学 蓮実重彦訳
81 成長と増殖 田村毅訳
82 文学・狂気・社会 M・フーコー+清水徹+渡辺守章
83 狂気と社会 神谷美恵子訳
日本語版編者解説(松浦寿輝)
53 これはパイプではない 岩佐鉄男訳
54 ミシェル・フーコーとのインタヴュー 原和之訳
55 フーコー、サルトルに答える 原和之訳
56 フーコーの見解 原和之訳
57 ジャック・プルースト宛書簡 原和之訳
58 「エスプリ」誌 質問への回答 石田英敬訳
59 科学の考古学について?〈認識論サークル〉への回答 石田英敬訳
1969
60 『ポール・ロワイヤルの文法』序文 井村順一訳
61 フーコー教授、あなたは何者ですか
62 17世紀の医師、裁判官、魔法使い 松村剛訳
63 マクシム・ドフェール 西宮かおり訳
64 アリアドネーは縊死した 小林康夫訳
65 追記 西宮かおり訳
66 ミシェル・フーコー、近著を語る 慎改康之訳
67 ジャン・イポリット 1907?1968 廣瀬浩司訳
68 ある世界の誕生 廣瀬浩司訳
69 作者とは何か 清水徹・根本美作子訳
70 言語学と社会科学 坂本圭子訳
71 研究内容と計画 慎改康之訳
1970
72 ミシェル・フーコー『言葉と物』英語版への序文 李孝徳訳
73 第七天使をめぐる七言 豊崎光一・清水正訳
74 バタイユ全集の巻頭に 西谷修訳
75 幻想の図書館
76 F・ダゴニェの論考「生物学史におけるキュヴィエの位置づけ」に関する討論 金森修訳
77 生物学史におけるキュヴィエの位置 金森修訳
78 ヴァンセンヌの罠 安原伸一郎訳
79 騒ぎはあるでしょう、が…… 西谷修訳
80 劇場としての哲学 蓮実重彦訳
81 成長と増殖 田村毅訳
82 文学・狂気・社会 M・フーコー+清水徹+渡辺守章
83 狂気と社会 神谷美恵子訳
日本語版編者解説(松浦寿輝)
◼︎内容
60 『ポール・ロワイヤルの文法』序文 井村順一訳
表象→もの
↓
表象→もの
あるいはまた、
観念→(対象=観念→)対象
文庫版3:227
観念→(対象= 観念→)対象
(a1)(a2)(b1)(b2)
3:231
レベル 分化の基準 文法的カテゴリー
《論理学》 《文法》
観念(a) 0
対象=記号(a) 0
1/2 記号の数 単数・複数
記号のひろがり 定冠詞-不定冠詞
観念(b) 1 観念の性質 名詞-動詞
1と1/2 観念の拡張 固有名詞-普通名詞
対象(b) 2 対象の性質 実詞-形容詞
2と1/2 対象間の関連 前置詞
3:233
↓
表象→もの
あるいはまた、
観念→(対象=観念→)対象
文庫版3:227
観念→(対象= 観念→)対象
(a1)(a2)(b1)(b2)
3:231
レベル 分化の基準 文法的カテゴリー
《論理学》 《文法》
観念(a) 0
対象=記号(a) 0
1/2 記号の数 単数・複数
記号のひろがり 定冠詞-不定冠詞
観念(b) 1 観念の性質 名詞-動詞
1と1/2 観念の拡張 固有名詞-普通名詞
対象(b) 2 対象の性質 実詞-形容詞
2と1/2 対象間の関連 前置詞
3:233
80 劇場としての哲学 蓮実重彦訳 文庫3:299頁
「わけても偉大なものとみえる二冊の書物、『差異と反復』と『意味の論理学』について語らねばならない。たぶんあまりの偉大さ故にであろう、それを語るのは至難の業だし、また、語ってみせたものもほとんどいはしない。思うに、この著作は、他を圧する比類なきいま一つの徴候たるクロソフスキー(ママ)のそれと謎めいた共鳴を響かせつつ、ながらく人びとの頭上を旋回するであろう。だがおそらくはいつの日か、時代はドゥルーズ的なものとなっていよう。…」
(Theatrum philosophicum 「クリティック」誌、282号、1970年11月)
http://1libertaire.free.fr/MFoucault244.html
Theatrum philosophicum
Michel Foucault
« Theatrum philosophicum », Critique, no 282. novembre 1970, pp. 885-908. (Sur G. Deleuze, Différence et Répétition. Paris. PUF, 1969, et Logique du sens, Paris, Éd. de Minuit, coll. « Critique », 1969.)
Dits Ecrits tome II texte n°80
Il me faut parler de deux livres qui me paraissent grands parmi les grands : Différence et Répétition, Logique du sens. Si grands sans doute qu'il est difficile d'en parler et que peu l'ont fait. Longtemps, je crois, cette oeuvre tournera au-dessus de nos têtes, en résonance énigmatique avec celle de Klossowski, autre signe majeur et excessif. Mais un jour, peut-être, le siècle sera deleuzien. …
Theatrum philosophicum
Michel Foucault
« Theatrum philosophicum », Critique, no 282. novembre 1970, pp. 885-908. (Sur G. Deleuze, Différence et Répétition. Paris. PUF, 1969, et Logique du sens, Paris, Éd. de Minuit, coll. « Critique », 1969.)
Dits Ecrits tome II texte n°80
Il me faut parler de deux livres qui me paraissent grands parmi les grands : Différence et Répétition, Logique du sens. Si grands sans doute qu'il est difficile d'en parler et que peu l'ont fait. Longtemps, je crois, cette oeuvre tournera au-dessus de nos têtes, en résonance énigmatique avec celle de Klossowski, autre signe majeur et excessif. Mais un jour, peut-être, le siècle sera deleuzien. …
参考:
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html?m=0#_1
「永遠回帰における反復は存在の一義性の定義である」(ドゥルーズ)
「永遠回帰における反復は存在の一義性の定義である」(ドゥルーズ)
『ミシェル・フーコー思考集成IV 1971-1973 規範/社会』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=19991125 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成IV 1971-1973 規範/社会』,筑摩書房,499p.
■目次
1971
84 ニーチェ、系譜学、歴史 伊藤晃訳
85 ミシェル・フーコーとの対談 慎改康之訳
86 GIP〔監獄情報グループ〕の宣言書 大西雅一郎訳
87 監獄について 大西雅一郎訳
88 監獄についての調査、沈黙の鉄格子を打ち破ろう 大西雅一郎訳
89 ミシェル・フーコーとの対話 大西雅一郎訳
90 監獄は到る所にある 大西雅一郎訳
91 序文 大西雅一郎訳
92 第十五条(集会での発言) 大西雅一郎訳
93 ジョベール事件についての情報委員会の報告(集会での発言) 大西雅
一郎訳
94 私は耐え難いものを感じる 大西雅一郎訳
95 ずっと以前から私はある問題に関心を持っている、それは懲罰システム
という問題だ 大西雅一郎訳
96 ミシェル・フーコー氏の書簡 大西雅一郎訳
97 批評の怪物性 大西雅一郎訳
98 善悪の彼岸 西宮かおり訳
99 トゥールの発言 大西雅一郎訳
100 フーコーは答える 西宮かおり訳
101 知への意志-コレージュ・ド・フランス一九七〇-一九七一講義要旨 石田英敬訳
1972
102 私の身体、この髪、この炉 増田一夫訳
103 歴史への回帰 岩崎力訳
104 デリダへの回答 増田一夫訳
105 大がかりな収監 菅野賢治訳
106 知識人と権力 蓮実重彦訳
107 円卓会議 菅野賢治訳
108 人民裁判について-マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論 菅野
賢治訳
109 文化に関する諸問題―フーコーとプレティの討議 安原伸一郎訳
110 我々の社会における医学の主要機能―ジャン・カルパンティエ博士の記者会見の席にて 高桑和己訳
111 自分の文化を罠にかける-ガストン・バシュラールについて 高桑和己訳
112 「真理―司法」集会。千五百人のグルノーブル人が弾劾する-ディス
コ火災に寄せて 高桑和己訳
113 流血あるいは火災―ディスコ火災に寄せて 高桑和己訳
114 ポンピドゥーの二人の死者―監獄と死について 高桑和己訳
115 刑罰の理論と制度―コレージュ・ド・フランス一九七一-一九七二度講義要
旨 高桑和己訳
1973
116 序文―セルジュ・リヴロゼ『監獄から反抗へ』に寄せて 高桑和己訳
117 労働者の記憶の年代記のために-フーコーがジョゼ、「リベラシオン」紙記者と語る 高桑和己訳
118 逃げる力―ポール・ルベロルの連作『犬たち』に寄せて 高桑和己訳
119 アルケオロジーからディナスティックへ 蓮実重彦訳
120 結論に代えて 石田久仁子訳
121 新しい雑誌? 石田久仁子訳
122 オイディプスをめぐって 石田久仁子訳
123 知識人は考えをまとめるには役立つが、知識人の知は労働者の知と比べれば部分的でしかない 石田久仁子訳
124 哲学者フーコーは、語っているところだ……。思考せよ 石田久仁子訳
125 刑務所と刑務所の中の反乱 石田久仁子訳
126 世界は巨大な精神病院である 石田久仁子訳
127 監獄的監禁について 石田久仁子訳
128 裁判所に出頭を命じられた 石田久仁子訳
129 最初の討論、最初のカタコト。都市は生産の力なのか、それとも反生産の力なのか? 石田英敬訳
130 精力的な介入により、歴史のなかへの心地よい滞留から引き剥がされて、私たちは「論理的カテゴリー」を建造すべく懸命に立ち働く 石田英敬訳
131 懲罰社会―コレージュ・ド・フランス一九七二-一九七三講義要旨 石田英敬・石田久仁子訳
日本語版編者解説(石田英敬)
■内容
1971
84 ニーチェ、系譜学、歴史 伊藤晃訳
『ジャン・イポリット記念論文集』、パリ、PUF社、「エピメテ」叢書、一九七一年、145-172ページ。
「この極めて重要な方法論的論文の狙いは、まさに、ヘーゲル的な〈大きな歴史〉、〈真理の歴史〉を全面的に転倒することだと見てよく、70年代以降、ポスト構造主義やポストモダニズムが繰り広げてみせた歴史や真理の物語の批判はすでにここにすべて書き込まれているといっても過言ではない」(「編者解説」496頁より)
「歴史の次の用い方。それはわれわれのアイデンティティーの組織的な解体である。というのは、われわれがある仮面のもとにまとめあげ確保しようとするこのアイデンティティーなるものは、じつはひどくあやふやなもので、それ自体一つのパロディーにすぎないからである。複数のものがそこには住んでおり、無数の魂がそこで争っているのである。」(本文35頁,文庫3:381頁より)
101 知への意志-コレージュ・ド・フランス一九七〇-一九七一講義要旨 石田英敬訳
「本年度の講義は、それぞれの断片が集まって次第に少しずつ「知への意志の形態学」を構成することをめざした、ひとつの分析のシリーズを開始するものである。知への意志というこの主題は、ある時は、限定された歴史的研究のなかで考えられていくことになるだろうし、またある時には、それ自身として、その理論的内実において扱われることになるだろう。」(本文158頁より)
1972
102 私の身体、この髪、この炉 増田一夫訳
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』、ガリマール社刊、一九七二年、補遺二、583-603ページ。(フーコーのこのテクストの最初のバージョンは、日本の「パイディア」誌に掲載された。本巻所収、No.104を参照のこと)。
「デリダが一九六三年に行った講義「コギトと『狂気の歴史』」に端を発し、十年近くをへてフーコーが「デリダへの回答」及び「私の身体、この紙、この炉」(No.102)で応じた、この論争と二人のその後の絶縁(そして、一九八二年チェコでのデリダ逮捕事件に際しての和解、『思考集成�』「年譜」七〇ページ参照)についてはすでに多量のインクが流されてきたし、「哲学の脱構築」の戦略と、「言説の歴史的分析論」とのどちらに軍配があがったかなどという無邪気に興味本位的関心で読まれるべきエピソードではけっしてない。」(「編者解説」498頁より)
103 歴史への回帰 岩崎力訳
「パイディア」誌十一号、一九七二年二月一日、45-60ページ。(一九七〇年一〇月九日、慶応大学における講演。録音テープから起こされたタイプ原稿にもとづき、ミシェル・フーコーの見直しを経たテキスト)
「そういうわけで、生命の種という隠喩を歴史にあてはめることによって、人間社会には革命の可能性がないことを保証したのでした。構造主義と歴史は、歴史と持続をめぐるこの生物学的神話の廃棄を可能にするとわたしは思います。構造主義はさまざまな変化を定義することによって、歴史学はさまざまな事件のタイプ、さまざまに異なる持続のタイプを描き出すことによって、歴史のなかの不連続の出現を可能にすると同時に、規制され首尾一貫した変化の出現を可能にします。構造主義と現代の歴史学は、連続性という古い概念にさからって、出来事の不連続性と社会の変革とを現実に即して考えるための理論的道具なのです。」(本文216頁より)
104 デリダへの回答 増田一夫訳
「パイディア」誌、第十一号、「特集=〈思想史〉を超えて-ミシェル・フーコー」、一九七二年二月一日、131-147ページ。
「デリダの分析は、その哲学的な深みと読解の詳細さゆえに確かに注目すべきものである。私はそれへの回答を企てようなどとは思わない。私がしたいのは、せいぜいいくつかの指摘を添えるということである。それらの指摘は、おそらくかなり外的なものに映るであろうし、また実際に外的なものなのであるが、それは『狂気の歴史』とそれに続くテクストたちが哲学の外部にあるという、まさにそのかぎりにおいてのことである。フランスにおいて哲学が実践され教えられている仕方に外的であるというそのかぎりにおいてのことなのだ。」(本文219頁より)
1972
102 私の身体、この髪、この炉 増田一夫訳
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』、ガリマール社刊、一九七二年、補遺二、583-603ページ。(フーコーのこのテクストの最初のバージョンは、日本の「パイディア」誌に掲載された。本巻所収、No.104を参照のこと)。
「デリダが一九六三年に行った講義「コギトと『狂気の歴史』」に端を発し、十年近くをへてフーコーが「デリダへの回答」及び「私の身体、この紙、この炉」(No.102)で応じた、この論争と二人のその後の絶縁(そして、一九八二年チェコでのデリダ逮捕事件に際しての和解、『思考集成�』「年譜」七〇ページ参照)についてはすでに多量のインクが流されてきたし、「哲学の脱構築」の戦略と、「言説の歴史的分析論」とのどちらに軍配があがったかなどという無邪気に興味本位的関心で読まれるべきエピソードではけっしてない。」(「編者解説」498頁より)
103 歴史への回帰 岩崎力訳
「パイディア」誌十一号、一九七二年二月一日、45-60ページ。(一九七〇年一〇月九日、慶応大学における講演。録音テープから起こされたタイプ原稿にもとづき、ミシェル・フーコーの見直しを経たテキスト)
「そういうわけで、生命の種という隠喩を歴史にあてはめることによって、人間社会には革命の可能性がないことを保証したのでした。構造主義と歴史は、歴史と持続をめぐるこの生物学的神話の廃棄を可能にするとわたしは思います。構造主義はさまざまな変化を定義することによって、歴史学はさまざまな事件のタイプ、さまざまに異なる持続のタイプを描き出すことによって、歴史のなかの不連続の出現を可能にすると同時に、規制され首尾一貫した変化の出現を可能にします。構造主義と現代の歴史学は、連続性という古い概念にさからって、出来事の不連続性と社会の変革とを現実に即して考えるための理論的道具なのです。」(本文216頁より)
104 デリダへの回答 増田一夫訳
「パイディア」誌、第十一号、「特集=〈思想史〉を超えて-ミシェル・フーコー」、一九七二年二月一日、131-147ページ。
「デリダの分析は、その哲学的な深みと読解の詳細さゆえに確かに注目すべきものである。私はそれへの回答を企てようなどとは思わない。私がしたいのは、せいぜいいくつかの指摘を添えるということである。それらの指摘は、おそらくかなり外的なものに映るであろうし、また実際に外的なものなのであるが、それは『狂気の歴史』とそれに続くテクストたちが哲学の外部にあるという、まさにそのかぎりにおいてのことである。フランスにおいて哲学が実践され教えられている仕方に外的であるというそのかぎりにおいてのことなのだ。」(本文219頁より)
『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =20000325 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』,筑摩書房,487p.
■目次
1974
132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
133 『中国の第二の革命』について 嘉戸一将訳
134 『中国の第二の革命』について 嘉戸一将訳
135 D・ビザンティオスについて 嘉戸一将訳
136 権力のメカニズムにおける監獄と収容所 嘉戸一将訳
137 アッティカ刑務所について 嘉戸一将訳
138 セクシュアリテと政治 嘉戸一将訳
139 真理と裁判形態 西谷修訳
140 反懐古趣味 高桑和巳訳
141 狂気、権力の一問題 高桑和巳訳
142 精神鑑定に関する座談会 高桑和巳訳
143 精神医学の権力 高桑和巳訳
1975
144 序文一B・ジャクスン『彼らの監獄 アメリカの囚人たちによる自伝』に寄せる 高桑和己訳
145 手紙一M・クラヴェルに宛てる 高桑和己訳
146 狂人の家 高桑和巳訳
147 消防士が裏を明かす 高桑和巳訳
148 政治とは別の方法による戦争の継続である 高桑和己訳
149 哲学者たちは何を夢想しているのか? 高桑和己訳
150 フォトジェニックな絵画 小林康夫訳
151 拷問から官房へ 中澤信一訳
152 尋問の椅子で 中澤信一訳
153 あるフランス人哲学者の見た監獄 中澤信一訳
154 エクリチュールの祭典 中澤信一訳
155 父の死 中澤信一訳
156 監獄についての対談一本とその方法 中澤信一訳
157 権力と身体 中澤信一訳
158 マドリード行き 中澤信一訳
159 『マルグリット・デュラスについて』 中澤信一訳
160 精神病院、性、監獄 中澤信一訳
161 ラジオスコピー 石田久仁子訳
162 狂人を装う 中澤信一訳
163 ミシェル・フーコー一哲学者の回答 中澤新一訳
164 サド、性の法務官 中澤信一訳
165 異常者一コレージュ・ド・フランス一九七四?一九七五年度講義要旨 中澤信一訳
日本語版編者解説(西谷修)
■内容
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホーヘン高等技術学校にて収録)。
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、ということです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取したいと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(本文42~43頁より)
■目次
1974
132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
133 『中国の第二の革命』について 嘉戸一将訳
134 『中国の第二の革命』について 嘉戸一将訳
135 D・ビザンティオスについて 嘉戸一将訳
136 権力のメカニズムにおける監獄と収容所 嘉戸一将訳
137 アッティカ刑務所について 嘉戸一将訳
138 セクシュアリテと政治 嘉戸一将訳
139 真理と裁判形態 西谷修訳
140 反懐古趣味 高桑和巳訳
141 狂気、権力の一問題 高桑和巳訳
142 精神鑑定に関する座談会 高桑和巳訳
143 精神医学の権力 高桑和巳訳
1975
144 序文一B・ジャクスン『彼らの監獄 アメリカの囚人たちによる自伝』に寄せる 高桑和己訳
145 手紙一M・クラヴェルに宛てる 高桑和己訳
146 狂人の家 高桑和巳訳
147 消防士が裏を明かす 高桑和巳訳
148 政治とは別の方法による戦争の継続である 高桑和己訳
149 哲学者たちは何を夢想しているのか? 高桑和己訳
150 フォトジェニックな絵画 小林康夫訳
151 拷問から官房へ 中澤信一訳
152 尋問の椅子で 中澤信一訳
153 あるフランス人哲学者の見た監獄 中澤信一訳
154 エクリチュールの祭典 中澤信一訳
155 父の死 中澤信一訳
156 監獄についての対談一本とその方法 中澤信一訳
157 権力と身体 中澤信一訳
158 マドリード行き 中澤信一訳
159 『マルグリット・デュラスについて』 中澤信一訳
160 精神病院、性、監獄 中澤信一訳
161 ラジオスコピー 石田久仁子訳
162 狂人を装う 中澤信一訳
163 ミシェル・フーコー一哲学者の回答 中澤新一訳
164 サド、性の法務官 中澤信一訳
165 異常者一コレージュ・ド・フランス一九七四?一九七五年度講義要旨 中澤信一訳
日本語版編者解説(西谷修)
■内容
1974
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホーヘン高等技術学校にて収録)。
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、ということです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取したいと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(本文42~43頁より)
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm7.htm
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=56m
Debate Noam Chomsky & Michel Foucault - On human nature [Subtitled]
http://youtu.be/3wfNl2L0Gf8?t=56m
『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=20001125 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』,筑摩書房,375p.
last update:20100407
■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =20001125 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』,筑摩書房,375p. ISBN-10:4480790268 ISBN-13:978-4480790262 \7245 [amazon]/[kinokuniya] ※
■目次
1976
166 容認しえない死 久保田淳訳
167 政治の面相 阿部崇訳
168 一八世紀における健康政策 中島ひかる訳
169 地理学に関するミシェル・フーコーへの質問 國分功一郎訳
170 医学の危機あるいは反医学の危機? 小倉孝誠訳
171 「ポールの物語」について 森田祐三訳
172 ソ連およびその他の地域における罪と罰 國分功一郎訳
173 規範の社会的拡大 原和之訳
174 犯罪としての知識 M.フーコー+寺山修司
175 ミシェル・フーコー、違法性と処罰術 石岡良治訳
176 魔術と狂気 原和之訳
177 視点 久保田淳訳
178 ミシェル・フーコーの「ヘロドトス」誌への質問 國分功一郎訳
179 〈生物-歴史学(ビオ・イストワール)〉と〈生物-政治学(ビオ・ポリティック)〉 石田英敬訳
180 ミシェル・フーコーとの対話 鈴木雅雄訳
181 西欧と性の真理 慎改康之訳
182 なぜピエール・リヴィエールの犯罪なのか 鈴木雅雄訳
183 彼らはマルローについて語った 丹生谷貴志訳
184 知識人の政治的機能 石岡良治訳
185 ピエール・リヴィエールの帰還 鈴木雅雄訳
186 ディスクールとはそんなものではなくて… 鈴木雅雄訳
187 社会は防衛しなければならない 石田英敬訳
1977
188 『我が秘密の生涯』への序文 慎改康之訳
189 ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文 松浦寿輝訳
190 性現象と真理 慎改康之訳
191 『カーキ色の判事たち』への序文 久保田淳訳
192 真理の権力 北山晴一訳
193 一九七六年一月七日の講義 石田英敬訳
194 一九七六年一月十四日の講義 石田英敬・石田久仁子訳
195 権力の眼 伊藤晃訳
196 社会医学の誕生 小倉孝誠訳
197 身体をつらぬく権力 山田登世子訳
198 汚辱に塗れた人々の生 丹生谷貴志訳
199 社会の敵ナンバー・ワンのポスター 國分功一郎訳
200 生の王権に抗して 慎改康之訳
201 寛容の灰色の曙 森田祐三訳
202 境界なき精神病院 原和之訳
203 プレゼンテーション 西宮かおり訳
204 事実の大いなる怒り 西永良成訳
205 裁くことの不安 西宮かおり訳
206 ミシェル・フーコーのゲーム 増田一夫訳
207 文化動員 國分功一郎訳
208 真理の拷問 原和之訳
209 監禁、精神医学、監獄 阿部崇訳
210 クラウス・クロワッサンは送還されるのだろうか 石田靖夫訳
211 今後は法律よりも治安が優先する 石田靖夫訳
212 権力、一匹のすばらしい野獣 石田靖夫訳
213 治安と国家 石田靖夫訳
214 左翼の若干のリーダー達への手紙 國分功一郎訳
215 拷問、それは理性なのです 久保田淳訳
216 権力と知 蓮實重彦訳
217 私たちは自分が汚れた種であるかのように感じた 久保田淳訳
218 権力と戦略 久保田淳訳
日本語版編者解説(松浦寿輝)
■内容
1976
166 容認しえない死 久保田淳訳
B・キュオー『ミルヴァル事件、あるいはいかにして物語は犯罪を消し去るか』(パリ、プレス・ドージュールドュイ、一九七六年)への序文、�―��ページ。
一九七四年二月二十二日、アンティル出身の二十歳の頑強な若者、パトリック・ミルヴァルが、フルリ=メロジスの監獄で死亡した。自殺、行政機構はそう発表した。ミショー判事のもとで予審が開かれ、そこでは十人の法医学者が調査に当たった。その二年後、法務省はなお、不起訴処分にするか、看守にリンチ殺人の容疑があるかで迷い続けている。(…)
「司法機構はしばしば非難されてきたように、誤ったことを有効と認めたり、偽りや嘘を作り出したり、命令によってか自発的な共謀によってか黙り込んだりすることがある。しかしそれが、少しずつ、日にちの経過とともに、証拠資料をたどりながら、報告書や証言や手掛かりを通して、「認知しえないもの」を作り出していくやり方は、あまり知られていない。」(本文より)
180
Michel Foucault A propos de Pierre Rivière, par Pascal Kané. (1976)
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm8.htm
ミシェル・フーコーとの対話
P・カネとの対話。R・アリオの映画『私ことピエール・リヴィエールは、母と妹、弟を殺害しましたが......』に 関して
A propos de Pierre Rivière, le film du tournage, réalisé par Pascal Kané. (25min - 1976)より
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm8.htm
ミシェル・フーコーとの対話
P・カネとの対話。R・アリオの映画『私ことピエール・リヴィエールは、母と妹、弟を殺害しましたが......』に 関して
A propos de Pierre Rivière, le film du tournage, réalisé par Pascal Kané. (25min - 1976)より
http://www.dailymotion.com/video/k7bEl5c8BkVvdh2GERN
上記動画に採用されたのは以下。()内はカットされている。
(邦訳『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』 より)
「いずれにしろこのディスクールは、考えられるあらゆる攻略方法をあまりに見事に逃れてしまっています。
ですから事件の核心そのものについて、この犯罪、この行為について、無限に後退した位置から発言する以外、
どうしようもありません。なんにせよこれは、犯罪史においてもディスクールの歴史においても、比べる
ものがないような現象です。この犯罪は一つのディスクールに伴われているわけですが、そのディスクールが
あまりに強く、あまりに奇妙なせいで、犯罪というものがついには存在になくなってしまう、ついには
逃れ去ってしまうのです。そのディスクールが、犯罪を犯した本人がその犯罪について書いたものである
という事実によって、そうなのです。」(127~8頁)
「アリオのフィルムの重要性としては、農民たちにその悲劇を与えたという点もありますね。十八世紀までの
農民の悲劇は、最終的には飢餓の悲劇でした。ところが十九世紀からは、そしておそらく今でもそうなので
すが、それはあらゆる偉大な悲劇と同様に、法の悲劇、法と土地の悲劇なのです。(ギリシア悲劇とは、法の誕生
と、法が人間に与えた致命的な効果を語る悲劇です。リヴィエール事件は一八三六年、つまり民法施行から約二
十年後に起きました。)農民は日常生活の中で新しい法を押し付けられ、この新しい法体系の中で争っていたわけ
です。リヴィエールのドラマはまるごと法のドラマであり、法典の、法律の、土地の、結婚の、あるいは財産の
ドラマなのです。ところが農民の世界は、いつでもまさにこの悲劇の内側で動いています。(だから肝心なのは、
現在の農民たちに、彼らの生活のそれでもあるこの古いドラマを演じさせることであるわけです。古代ギリシア
の市民たちが、舞台の上に自分たち自身の都市を見ていたのと同じことなのです。)」(130頁)
上記動画に採用されたのは以下。()内はカットされている。
(邦訳『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』 より)
「いずれにしろこのディスクールは、考えられるあらゆる攻略方法をあまりに見事に逃れてしまっています。
ですから事件の核心そのものについて、この犯罪、この行為について、無限に後退した位置から発言する以外、
どうしようもありません。なんにせよこれは、犯罪史においてもディスクールの歴史においても、比べる
ものがないような現象です。この犯罪は一つのディスクールに伴われているわけですが、そのディスクールが
あまりに強く、あまりに奇妙なせいで、犯罪というものがついには存在になくなってしまう、ついには
逃れ去ってしまうのです。そのディスクールが、犯罪を犯した本人がその犯罪について書いたものである
という事実によって、そうなのです。」(127~8頁)
「アリオのフィルムの重要性としては、農民たちにその悲劇を与えたという点もありますね。十八世紀までの
農民の悲劇は、最終的には飢餓の悲劇でした。ところが十九世紀からは、そしておそらく今でもそうなので
すが、それはあらゆる偉大な悲劇と同様に、法の悲劇、法と土地の悲劇なのです。(ギリシア悲劇とは、法の誕生
と、法が人間に与えた致命的な効果を語る悲劇です。リヴィエール事件は一八三六年、つまり民法施行から約二
十年後に起きました。)農民は日常生活の中で新しい法を押し付けられ、この新しい法体系の中で争っていたわけ
です。リヴィエールのドラマはまるごと法のドラマであり、法典の、法律の、土地の、結婚の、あるいは財産の
ドラマなのです。ところが農民の世界は、いつでもまさにこの悲劇の内側で動いています。(だから肝心なのは、
現在の農民たちに、彼らの生活のそれでもあるこの古いドラマを演じさせることであるわけです。古代ギリシア
の市民たちが、舞台の上に自分たち自身の都市を見ていたのと同じことなのです。)」(130頁)
(→フーコーと行動システム)
『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=20001125 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』,筑摩書房,375p.
1978
219 フーコーによる序文 廣瀬浩司訳
220 十九世紀司法精神医学における「危険人物」という概念の進展 上田和彦訳
221 権力をめぐる対話 菅野賢治訳
222 狂気と社会 M・フーコー+渡辺守章
223 紹介文 鈴木雅雄訳
224 私の好きなウージェーヌ・シュー 渡辺響子訳
225 驚くべき博識 坂本佳子訳
226 アラン・ペイルフィットの釈明……ならびに、ミシェル・フーコーの返答 國分功一郎訳
227 伝統的な政治的枠組み 國分功一郎訳
228 危険、要注意 高塚浩由樹訳
229 近代テクノロジーへの病院の組み込み 小倉孝誠訳
230 性と政治を語る M・フーコー+渡辺守章+根本長兵衛
231 危機に立つ規律社会(記事)
232 政治の分析哲学 M・フーコー+渡辺守章
233 〈性〉と権力 渡辺守章訳
234 哲学の舞台 M・フーコー+渡辺守章
235 世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか M・フーコー+吉本隆明
236 M・フーコーと禅 佐藤清靖訳
237 神秘なる両性具有者 鈴木雅雄訳
238 権力に関する明言―一部の批判に答えて 菅野賢治訳
239 「統治性」 石田英敬訳
240 犯罪者の善用について 高塚浩由樹訳
241 軍は大地の揺れる時に 高桑和巳訳
242 M・フーコー、「権力構造」を分析する哲学者とのコンプレックス抜きの会話 菅野賢治訳
243 シャーは百年遅れている 高桑和巳訳
244 テヘラン-シャーに抗する信仰 高桑和巳訳
245 イラン人たちは何を考えているのか? 高桑和巳訳
246 レモンとミルク 高桑和巳訳
247 鮮烈な驚き 西宮かおり訳
248 素手での反抗 高桑和巳訳
249 反体制派への挑戦 高桑和巳訳
250 理念のルポルタージュ 高桑和巳訳
251 イラン人女性読者へのミシェル・フーコーの回答 高桑和巳訳
252 イランの反抗はカセット・テープ上を走っている 高桑和巳訳
253 反抗の神話的指導者 高桑和巳訳
254 フーコーから「ウニタ」への書簡 西宮かおり訳
255 治安・領土・人口 小林康夫訳
日本語版編者解説(小林康夫)
■内容
1978
219 フーコーによる序文 廣瀬浩司訳
G・カンギレム『正常と病理』(ボストン、D・リーデル、一九七八年、9-20ページ)所収。
「カヴァイエス、コイレ、バシュラール、カンギレムなどの作品の等価物をフランス以外に求めるとするならば、それはおそらくフランクフルト学派のなかに見いだされることだろう。もちろん文体はかなり違うし、研究方法や研究分野も異なる。一方はデカルトの記憶につきまとわれ、他方はルターの亡霊におびやかされてはいるが、最終的にはどちらも同じ種類の問題を提起している。(…)フランスの科学史とドイツの批判理論のどちらにおいても、根底から検討すべきものは理性である。理性は、その構造的な自律性そのものにおいて、独断論と専制主義の歴史をかかえこんでいる。したがって理性が解放の効果を持つことができるのは、おのれ自身から解放されたときだけなのだ。」(本文8頁より)
220 十九世紀司法精神医学における「危険人物」という概念の進展 上田和彦訳
221 権力をめぐる対話 菅野賢治訳
222 狂気と社会 M・フーコー+渡辺守章
223 紹介文 鈴木雅雄訳
224 私の好きなウージェーヌ・シュー 渡辺響子訳
225 驚くべき博識 坂本佳子訳
226 アラン・ペイルフィットの釈明……ならびに、ミシェル・フーコーの返答 國分功一郎訳
227 伝統的な政治的枠組み 國分功一郎訳
228 危険、要注意 高塚浩由樹訳
229 近代テクノロジーへの病院の組み込み 小倉孝誠訳
230 性と政治を語る M・フーコー+渡辺守章+根本長兵衛
231 危機に立つ規律社会(記事)
232 政治の分析哲学 M・フーコー+渡辺守章
233 〈性〉と権力 渡辺守章訳
234 哲学の舞台 M・フーコー+渡辺守章
235 世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか M・フーコー+吉本隆明
236 M・フーコーと禅 佐藤清靖訳
237 神秘なる両性具有者 鈴木雅雄訳
238 権力に関する明言―一部の批判に答えて 菅野賢治訳
239 「統治性」 石田英敬訳
240 犯罪者の善用について 高塚浩由樹訳
241 軍は大地の揺れる時に 高桑和巳訳
242 M・フーコー、「権力構造」を分析する哲学者とのコンプレックス抜きの会話 菅野賢治訳
243 シャーは百年遅れている 高桑和巳訳
244 テヘラン-シャーに抗する信仰 高桑和巳訳
245 イラン人たちは何を考えているのか? 高桑和巳訳
246 レモンとミルク 高桑和巳訳
247 鮮烈な驚き 西宮かおり訳
248 素手での反抗 高桑和巳訳
249 反体制派への挑戦 高桑和巳訳
250 理念のルポルタージュ 高桑和巳訳
251 イラン人女性読者へのミシェル・フーコーの回答 高桑和巳訳
252 イランの反抗はカセット・テープ上を走っている 高桑和巳訳
253 反抗の神話的指導者 高桑和巳訳
254 フーコーから「ウニタ」への書簡 西宮かおり訳
255 治安・領土・人口 小林康夫訳
日本語版編者解説(小林康夫)
■内容
1978
219 フーコーによる序文 廣瀬浩司訳
G・カンギレム『正常と病理』(ボストン、D・リーデル、一九七八年、9-20ページ)所収。
「カヴァイエス、コイレ、バシュラール、カンギレムなどの作品の等価物をフランス以外に求めるとするならば、それはおそらくフランクフルト学派のなかに見いだされることだろう。もちろん文体はかなり違うし、研究方法や研究分野も異なる。一方はデカルトの記憶につきまとわれ、他方はルターの亡霊におびやかされてはいるが、最終的にはどちらも同じ種類の問題を提起している。(…)フランスの科学史とドイツの批判理論のどちらにおいても、根底から検討すべきものは理性である。理性は、その構造的な自律性そのものにおいて、独断論と専制主義の歴史をかかえこんでいる。したがって理性が解放の効果を持つことができるのは、おのれ自身から解放されたときだけなのだ。」(本文8頁より)
『ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-81 政治/友愛』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=200109100 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-81 政治/友愛』,筑摩書房,461p.
1979
256 ミシェル・フーコーの序文 大西雅一郎訳
257 十八世紀における健康政策 中島ひかる訳
258 作者とは何か
259 精神のない世界の精神 高桑和巳訳
260 司法のありかた 山上浩嗣訳
261 イスラームという名の火薬庫 高桑和巳訳
262 ミシェル・フーコーとイラン 高桑和巳訳
263 良俗の法 慎改康之訳
264 かくも単純な悦び 増田一夫訳
265 メフディー・バーザルガーンへの公開書簡 高桑和巳訳
266 居心地の悪さのモラルのために 阿部崇訳
267 ミシェル・フーコー 真実の瞬間 慎改康之訳
268 時代を別様に生きること 阿部崇訳
269 蜂起は無駄なのか? 高桑和巳訳
270 周辺の戦略 大西雅一郎訳
271 難民問題は21世紀・民族大移動の前兆だ 宇野邦一訳
272 フーコー、国家理性を問う 坂本佳子訳
273 監獄をめぐる闘争 山上浩嗣訳
274 生体政治の誕生 石田英敬訳
1980
275 序文 大西雅一郎訳
276 序文
277 塵と雲 栗原仁訳
278 一九七八年五月二十日の会合 栗原仁訳
279 あとがき 栗原仁訳
280 フーコー、国家理性を問う 坂本佳子訳
281 ミシェル・フーコーとの対話 増田一夫訳
282 それでも監獄 大西雅一郎訳
283 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」と左翼連合 阿部崇訳
284 黙示録の四騎士と日々の虫けら 千葉文夫訳
285 覆面の哲学者 市田良彦訳
286 十九世紀の想像力 竹内孝宏訳
287 両性具有者と性 蓮実重彦訳
288 ロラン・バルト(一九一五年十一月十二日―一九八〇年三月二十六日) 松浦寿輝訳
289 生者たちの統治について 石田英敬訳
1981
290 第二版への序文 大西雅一郎訳
291 全体的なものと個的なもの―政治的理性批判に向けて 北山晴一訳
292 ロジェ・カイヨワへの手紙 阿部崇訳
293 生の様式としての友愛について 増田一夫訳
294 資料「死刑」、彼らは反対と書いた 大西雅一郎訳
295 性現象と孤独 慎改康之訳
296 思考することはやはり重要なのか 阿部崇訳
297 権力の網の目 石井洋二郎訳
298 ミシェル・フーコー―法律について監獄について、すべてを考え直さねばならない 阿部崇訳
299 精神分析の「解放者」、ラカン 原和之訳
300 代替刑に反対する 大西雅一郎訳
301 処罰するというのは最も難しいことである 高桑和巳訳
302 ピエール・ヴィダル=ナケとミシェル・フーコーの回答 阿部崇訳
303 見聞きすることについての覚え書き 阿部崇訳
304 主体性と真理 石田英敬訳
257 十八世紀における健康政策 中島ひかる訳
258 作者とは何か
259 精神のない世界の精神 高桑和巳訳
260 司法のありかた 山上浩嗣訳
261 イスラームという名の火薬庫 高桑和巳訳
262 ミシェル・フーコーとイラン 高桑和巳訳
263 良俗の法 慎改康之訳
264 かくも単純な悦び 増田一夫訳
265 メフディー・バーザルガーンへの公開書簡 高桑和巳訳
266 居心地の悪さのモラルのために 阿部崇訳
267 ミシェル・フーコー 真実の瞬間 慎改康之訳
268 時代を別様に生きること 阿部崇訳
269 蜂起は無駄なのか? 高桑和巳訳
270 周辺の戦略 大西雅一郎訳
271 難民問題は21世紀・民族大移動の前兆だ 宇野邦一訳
272 フーコー、国家理性を問う 坂本佳子訳
273 監獄をめぐる闘争 山上浩嗣訳
274 生体政治の誕生 石田英敬訳
1980
275 序文 大西雅一郎訳
276 序文
277 塵と雲 栗原仁訳
278 一九七八年五月二十日の会合 栗原仁訳
279 あとがき 栗原仁訳
280 フーコー、国家理性を問う 坂本佳子訳
281 ミシェル・フーコーとの対話 増田一夫訳
282 それでも監獄 大西雅一郎訳
283 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」と左翼連合 阿部崇訳
284 黙示録の四騎士と日々の虫けら 千葉文夫訳
285 覆面の哲学者 市田良彦訳
286 十九世紀の想像力 竹内孝宏訳
287 両性具有者と性 蓮実重彦訳
288 ロラン・バルト(一九一五年十一月十二日―一九八〇年三月二十六日) 松浦寿輝訳
289 生者たちの統治について 石田英敬訳
1981
290 第二版への序文 大西雅一郎訳
291 全体的なものと個的なもの―政治的理性批判に向けて 北山晴一訳
292 ロジェ・カイヨワへの手紙 阿部崇訳
293 生の様式としての友愛について 増田一夫訳
294 資料「死刑」、彼らは反対と書いた 大西雅一郎訳
295 性現象と孤独 慎改康之訳
296 思考することはやはり重要なのか 阿部崇訳
297 権力の網の目 石井洋二郎訳
298 ミシェル・フーコー―法律について監獄について、すべてを考え直さねばならない 阿部崇訳
299 精神分析の「解放者」、ラカン 原和之訳
300 代替刑に反対する 大西雅一郎訳
301 処罰するというのは最も難しいことである 高桑和巳訳
302 ピエール・ヴィダル=ナケとミシェル・フーコーの回答 阿部崇訳
303 見聞きすることについての覚え書き 阿部崇訳
304 主体性と真理 石田英敬訳
内容
284 黙示録の四騎士と日々の虫けら は、ジーバーベルクを擁護する。
297 権力の網の目 は、複数の権力の分析をしている『資本論』第二巻を賞賛する。
<『資本論』の第二巻に見いだせるもの、それは結局のところ、まず第一に、一つの権力があるのではなく、いくつもの権力があるということです。複数形の権力、それは支配の諸形式、服従の諸形式という意味であり、それらは局地的に、たとえば工場、軍隊、奴隷制を敷いている所有地や隷属関係が存在する所有地などで機能するものです。こうしたすべては局地的・地域的であって、そこには固有の作動様式があり、それなりの手順や技術が存在します。〔中略〕まず第一に、一つの権力があるのではなく、いくつもの権力があるということです。〔中略〕これらの権力は本源的であるような一種の中心的権力からの単なる派生物とか結果としては理解することができないし、理解されるべきでもないということです。法学者の図式というのは、グロティウスやプーフェンドルフのそれであれ、ルソーのそれであれ、次のように言うところに存します。「初めは社会なるものはなかったが、それから社会が出現した。まず主権の中心点が出現して社会集団を組織し、しかる後に一連の局地的・地域的な権力を可能にしたのである」。マルクスは暗黙のうちに、この図式を認めていません。彼は逆に、これらの小さな権力地域が――所有地、奴隷、工場、また軍隊として――初めからもともと存在すると考え、そこから発して国家の大きな装置がいかにして少しずつ形成されえたのかを示しています。国家の単一性もじつのところ、これらの地域的・特殊的な権力と比べれば二次的なものであり、これら複数の権力こそが一次的なものなのです。>(Foucault 1981b 186:406 -407頁)
以前触れていたブリュメールについての言及はない。
『ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-83 自己/統治性/快楽』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=20011120 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-83 自己/統治性/快楽』,筑摩書房,482p.
last update:20100407
■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =20011120 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-83 自己/統治性/快楽』,筑摩書房,482p. ISBN-10:4480790292 ISBN-13:978-4480790293 \6825 [amazon]/[kinokuniya] ※
■目次
305 ピエール・ブーレーズ、突き抜けられた画面 笠羽映子訳
306 主体と権力 渥海和久訳
307 思考、エモーション 野崎歓訳
308 ヴェルナー・シュレーターとの対話 野崎歓訳
309 西欧の植民地化の第一歩 西永良成訳
310 空間・知そして権力 八束はじめ訳
311 フーコーとの対話 増田一夫訳
312 純潔の戦い 田村俶訳
313 性的快楽の社会的勝利―ミシェル・フーコーとの会話 林修訳
314 術(アート)としての男たちの愛撫 林修訳
315 権力の網の目
316 あちこちのテロリズム 西永良成訳
317 性の選択、性の行為 増田一夫訳
318 フーコー-妥協にノンを! 林修訳
319 ミシェル・フーコー「中立はありえず」 西永良成訳
320 ポーランド人たちを見捨てるとは、私たち自身の一部を断念することだ 西永良成訳
321 ミシェル・フーコー「ポーランドの倫理的・社会的経験が消されることはもうありえない」 西永良成訳
322 封印令状の黄金時代 佐藤嘉幸訳
323 主体の解釈学 神崎繁訳
1983
324 仕事のさまざま 神崎繁訳
325 無限の需要に直面する有限の制度 西永良成訳
326 倫理の系譜学について-進行中の仕事の概要 浜名優美訳
327 そんなものに興味はありません 西永良成訳
328 歴史の濫造者たちについて 西永良成訳
329 自己の書法 神崎繁訳
330 構造主義とポスト構造主義 黒田昭信訳
331 ミシェル・フーコーとの往復書簡 佐藤嘉幸訳
332 快楽の夢―アルテミドーロスの『夢判断』をめぐって 神崎繁訳
333 ミシェル・フーコー/ピエール・ブーレーズ-現代音楽と聴衆 松浦寿夫訳
334 ポーランド、そしてその後は? 西永良成訳
335 《あなたがたは危険だ》 西永良成訳
336 スティーヴン・リギンズによるミシェル・フーコーへのインタヴュー 佐藤嘉幸訳
337 ……彼らは平和主義について、その本性、その危険、その幻想について……宣言した 西永良成訳
338 快楽の用法と自己の技法 神崎繁訳
日本語版編者解説(西永良成)
■内容
305 ピエール・ブーレーズ、突き抜けられた画面 笠羽映子訳
M・コラン、J-P・レオナルディーニ、J・マルコヴィッツ編『十年そしてその後―フェスティヴァル・ドトンヌ回想アルバム』パリ、メシドール社、「現代」叢書、一九八二年、232-236ページ。
「原文テクストは、初出の項に記されているように、一九七二年から毎年秋パリで、演劇・舞踏・音楽の領域で創造的な催しを展開している「フェスティヴァル・ドトンヌ」の十年間の歩みを記念・回顧して編まれた、写真の多数挿入された美しい書物に収められている。(…)題名後半部分を「突き抜けられた画面」という妙な日本語にしてしまったが、本文中にもあるブーレーズの表現「まるで画面ででもあるかのように、それを突き破る La crever comme un ecran」をもじったものであることは明らかであろう。なお、crever l'ecranとは、一般に、映画俳優が見事な演技で画面を食う、圧倒する、独り占めにするというような場合に用いられる表現。(…)」(本文の後ろに付いた訳者による解説より)
「ブーレーズは、芸術の実践において、あらゆる思考は、それがある技術の諸規則や、それらの適切な作用について省察するのでなければ、余計である、という考えをいまだかつて認めたことがない。同様に、彼はヴァレリーをあまり好んでいなかった。思考から彼が期待していたのは、まさに、それが彼に自分の行っている以外のことを行なうのを絶えず可能にしてくれるということだった。」(本文より)
306 主体と権力 渥海和久訳
(F・デュラン=ボガール訳)、H・ドレイファス、P・ラビノウ『ミシェル・フーコー-構造主義と解釈学を超えて』シカゴ、シカゴ大学出版局、一九八二年、208-226ページ。
「なぜ権力を研究するか-主体の問題」「権力はいかに行使されるか」「「権力はいかに現れるか」という意味での「いかに」ではなく、「いかなる手段を通じて行使されるか」」「個々人が他者に対して権力をふるうとき、何が起きるのか」「権力の特質を構成するものは何か」「権力関係をいかに分析すべきか」「権力関係と戦略の関係」という章立て。
「私がここで論じたい問題は、理論でもなければ方法論でもない。/何よりもまず、この二十年間を通じての私の仕事の目標が何であったのかということを述べてみたい。それは権力現象を分析することでも、その分析の基礎を築くことでもなかった。私の目的は、そうではなくて、私たちの文化において人間が主体(サブジェクト)化され(=服従(サブジェクト)を強いられ)ているさまざまな様式について、一つの歴史を構想することであった。」(本文より)
307 思考、エモーション 野崎歓訳
D・マイケルズ『一九五八年から一九八二年までの写真』、パリ、パリ市現代美術館、一九八二年、�-�ページ。
「写真を物語るべきでないことは私も承知している。間違いなくそれは、人が写真についてうまく話せないことのしるしである。というのも二つのうち一つであるからだ。写真は何も物語ってなどおらず、物語はそれを変質させてしまうのか。あるいは、もし何かを物語っているとしても、写真はわれわれの助力など必要としていないのか。しかしデュアン・マイケルズ〔一九三二年生まれのアメリカの写真家。コマーシャル・フォトを経て一九六六年以降、物語性を持ったシークエンス写真を制作〕の写真は、それについて物語りたいという不謹慎な願望を私に与えるのである。」(本文より)
308 ヴェルナー・シュレーターとの対話 野崎歓訳
(一九八一年十二月三日、G・クーラン、W・シュレーターとの対話)、G・クーラン『ヴェルナー・シュレーター』、パリ、ゲーテ・インスティテュート、一九八二年、39-47ページ。
一九七一年、ヴェルナー・シュレーター監督『マリア・マリブランの死』の公開に際しミシェル・フーコーは文章を寄せた(前出n°164のテクストを参照)。シュレーターはその文章が当時の自分の仕事に関するもっとも正確で的を射た分析であると認めている。しかしながらミシェル・フーコーとヴェルナー・シュレーターは長らく会う機会がなかった。一九八一年十二月、二人は初めて顔を合わせた。
「同性愛の方が異性愛よりも興味深いものであることには客観的証拠があるのです。異性愛者の中には同性愛者になりたいと願う者が大勢いるのに対し、本気で異性愛者になりと願う同性愛者はごく少数にすぎません。それはちょうど東ドイツから西ドイツに移るようなものです。」(本文より)
309 西欧の植民地化の第一歩 西永良成訳
「歴史への回帰」(「西欧の植民地化の第一歩」)。T・ドゥ・ボッセ、C・ポラックとの対談。一九八二年一月十七日録音。「中央公論」一九八二年三月号、45-60ページ。
「ソ連における低開発経済というこの性格は原料の売却ということによってはっきり示されています。低開発経済とはみずからの原料の売却によって生き、テクノロジーを輸入する経済です。ロシアはテクノロジーを輸入してきて、そして今や原料を、しかも原則として大規模に売却しています。なにしろフランスでは、自国のガスの三十パーセントをソ連に依存することになるのですから。依存するという感情-発達していない経済に依存すると同時に脅迫される、他国よりはるかに発達した武力によって脅迫されるというこの感情は、世論の激しい苛立ちと不安の気持ちを惹き起こします。」(本文より)
310 空間・知そして権力 八束はじめ訳
(P・ラビノーとの対話)、「スカイライン」誌、一九八二年三月、16-20ページ。
建築をめぐる対話。ル・コルビュジエ、ポスト・モダン、ハーバーマスについて述べている部分がある。
「P.R 建築はそれ自体では社会的問題を解決し得ないということですか?M.F 建築家の解放への意志が人々の自由の遂行の現実の実践と一致するときには、それがポジティブな効果を生み出すことは可能であり、またそうしているとは思います。
P.R しかし同じ建築家が他の目的にも奉仕し得る。
M.F 全く然りです。(…)」
311 フーコーとの対話 増田一夫訳
(J-P・ジェケール、M・オヴェール、A・サンジオとの対話)、「マスク」誌、第十三号、一九八二年春、15-24ページ。
「私は、新たな関係を発見したり発明したりするためにおのれの性(セクシュアリテ)を用いるべきだ、と言いたいのです。ゲイであること、それは生成過程にあるということであり、さらに、質問にお答えするためにつけ加えるならば、同性愛者になるべきなのではなく、懸命にゲイになるべきなのです。」(本文より)
『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-88 倫理/道徳/啓蒙』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=20020325 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-88 倫理/道徳/啓蒙』,筑摩書房,389p.
■Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =20020325 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-88 倫理/道徳/啓蒙』,筑摩書房,389p. ISBN-10:4480790306 ISBN-13:978-4480790309 \6825 [amazon]/[kinokuniya] ※
■目次
1984
339 啓蒙とは何か 石田英敬訳
340 『性の歴史』への序文 慎改康之訳
341 政治と倫理 インタヴュー 高桑和巳訳
342 論争、政治、問題化 西兼志訳
343 ある情念のアルケオロジー 鈴木雅雄訳
344 倫理の系譜学について?進行中の作業の概要 守中高明訳
345 フーコー 野崎歓訳
346 処罰するとは何の謂か? 高桑和己訳
347 真実への関心 安原伸一郎訳
348 歴史のスタイル 安原伸一郎訳
349 ミシェル・フーコーのインタヴュー 原宏之訳
350 真実への気遣い 湯浅博雄訳
351 カントについての講義 小林康夫訳
352 快楽の源へ
353 ミシェル・フーコーに聞く 石田久仁子訳
354 道徳の回帰 増田一夫訳
355 政府に対しては、人権を 原宏之訳
356 自由の実践としての自己への配慮 廣瀬浩司訳
357 生存の美学 増田一夫訳
358 ミシェル・フーコー、インタヴュー?性、権力、同一性の政治 西兼志訳
359 知識人と権力 小野正嗣訳
360 他者の場所-混在郷について 工藤晋訳
1985
361 生命-経験と科学 廣瀬浩司訳
1988
362 真理、権力、自己 原和之訳
363 自己の技法 大西雅一郎訳
364 個人の政治テクノロジー 石田英敬訳
日本語版編者解説(石田英敬)
既刊概要
人名索引
概念索引
■内容
1984
◆339 啓蒙とは何か 石田英敬訳
P・ラビノウ編『フーコー読本』、ニューヨーク、パンテオン・ブックス刊、一九八四年、32?50ページ。
「今や二世紀にもわたって思考の歴史は、様々な形式のもとに、その問いを反復し続けている。〈啓蒙〉と人が呼ぶこの出来事とは何なのか?私たちが今そう在るところのもの〔=私たちの存在〕、私たちが今考えていること〔=私たちの思考〕、私たちが今行っていること〔=私たちの実践〕を、少なくとも部分的には決定してしまったその出来事とは何なのか?ヘーゲルから、ニーチェやマックス・ウェーバーをへて、ホルクハイマーやハーバーマスにいたるまで、直接的にせよ、間接的にせよ、この同一の問いに直面しなかったという哲学はほとんど皆無なのだ。」(本文より)
http://blog.goo.ne.jp/himeros_2011/e/fe8708fde44a5e3ccea534c19ae6ee1b
フーコーによると、「現代の哲学とは、二世紀前に、かくも不用意に投げかけられた問い、『啓蒙とは何か』(カントが「ベルリン月刊」に載せたテクスト)に答えようと試みる哲学である」という。カントのこのテキストによって、一つの問い、「私たちが今そう在るところのもの、私たちが今考えていること、私たちが今おこなっていることを、少なくとも部分的には決定してしまったその出来事とは何なのか」という問いが思考の歴史のなかに入りこむことになった、とフーコーは主張する。そこで提起されているのは「現在についての問い」であり、「今何が起こっているのか」、「この今とは何なのか」という問いである。フーコーはデカルトとの相違を、『方法序説』を例に取り出し述べている。デカルトは、当時の学問の歴史的状況に対して自分を顧みている。つまり「現存しているものとして布置のなかに哲学的な決定のための動機を見出すこと」であることに対して、カントは「現在のなかの一体何が、現在、哲学の考察にとって意味あるものであるか」を問うている。哲学者自らが「哲学へと関わるプロセスの担い手」であり、要素であると同時に行為者なのである。「哲学が自らの言説の現在性を問題化する」ことである、つまり、カントの主張は己の帰属を問うことであるとフーコーはいう。
◆340 『性の歴史』への序文 慎改康之訳
P・ラビノウ編『フーコー読本』ニューヨーク、パンテオン・ブックス、一九八四年、333-339ページ。
このテクストは当初、『性の歴史』全体への序論として執筆され、第二巻の冒頭を飾る予定であった。しかし結局フーコーはそれを断念し、新たな序論を書くことになる。n°338を参照。
「性現象に関して-以前、病や非行に関して行われた分析形態のような-認識の一領域の組織化を中心に据えた分析、もしくは、管理と強制の諸技術の発達を中心に据えた分析を繰り返してしまうおそれがあった。自己に対する関係の諸形態それ自体についてより適切な分析を行うため、私は、最初に定めていたよりもさらに古く年代を遡ることになった。」(本文より)
■目次
1984
339 啓蒙とは何か 石田英敬訳
340 『性の歴史』への序文 慎改康之訳
341 政治と倫理 インタヴュー 高桑和巳訳
342 論争、政治、問題化 西兼志訳
343 ある情念のアルケオロジー 鈴木雅雄訳
344 倫理の系譜学について?進行中の作業の概要 守中高明訳
345 フーコー 野崎歓訳
346 処罰するとは何の謂か? 高桑和己訳
347 真実への関心 安原伸一郎訳
348 歴史のスタイル 安原伸一郎訳
349 ミシェル・フーコーのインタヴュー 原宏之訳
350 真実への気遣い 湯浅博雄訳
351 カントについての講義 小林康夫訳
352 快楽の源へ
353 ミシェル・フーコーに聞く 石田久仁子訳
354 道徳の回帰 増田一夫訳
355 政府に対しては、人権を 原宏之訳
356 自由の実践としての自己への配慮 廣瀬浩司訳
357 生存の美学 増田一夫訳
358 ミシェル・フーコー、インタヴュー?性、権力、同一性の政治 西兼志訳
359 知識人と権力 小野正嗣訳
360 他者の場所-混在郷について 工藤晋訳
1985
361 生命-経験と科学 廣瀬浩司訳
1988
362 真理、権力、自己 原和之訳
363 自己の技法 大西雅一郎訳
364 個人の政治テクノロジー 石田英敬訳
日本語版編者解説(石田英敬)
既刊概要
人名索引
概念索引
■内容
1984
◆339 啓蒙とは何か 石田英敬訳
P・ラビノウ編『フーコー読本』、ニューヨーク、パンテオン・ブックス刊、一九八四年、32?50ページ。
「今や二世紀にもわたって思考の歴史は、様々な形式のもとに、その問いを反復し続けている。〈啓蒙〉と人が呼ぶこの出来事とは何なのか?私たちが今そう在るところのもの〔=私たちの存在〕、私たちが今考えていること〔=私たちの思考〕、私たちが今行っていること〔=私たちの実践〕を、少なくとも部分的には決定してしまったその出来事とは何なのか?ヘーゲルから、ニーチェやマックス・ウェーバーをへて、ホルクハイマーやハーバーマスにいたるまで、直接的にせよ、間接的にせよ、この同一の問いに直面しなかったという哲学はほとんど皆無なのだ。」(本文より)
http://blog.goo.ne.jp/himeros_2011/e/fe8708fde44a5e3ccea534c19ae6ee1b
フーコーによると、「現代の哲学とは、二世紀前に、かくも不用意に投げかけられた問い、『啓蒙とは何か』(カントが「ベルリン月刊」に載せたテクスト)に答えようと試みる哲学である」という。カントのこのテキストによって、一つの問い、「私たちが今そう在るところのもの、私たちが今考えていること、私たちが今おこなっていることを、少なくとも部分的には決定してしまったその出来事とは何なのか」という問いが思考の歴史のなかに入りこむことになった、とフーコーは主張する。そこで提起されているのは「現在についての問い」であり、「今何が起こっているのか」、「この今とは何なのか」という問いである。フーコーはデカルトとの相違を、『方法序説』を例に取り出し述べている。デカルトは、当時の学問の歴史的状況に対して自分を顧みている。つまり「現存しているものとして布置のなかに哲学的な決定のための動機を見出すこと」であることに対して、カントは「現在のなかの一体何が、現在、哲学の考察にとって意味あるものであるか」を問うている。哲学者自らが「哲学へと関わるプロセスの担い手」であり、要素であると同時に行為者なのである。「哲学が自らの言説の現在性を問題化する」ことである、つまり、カントの主張は己の帰属を問うことであるとフーコーはいう。
◆340 『性の歴史』への序文 慎改康之訳
P・ラビノウ編『フーコー読本』ニューヨーク、パンテオン・ブックス、一九八四年、333-339ページ。
このテクストは当初、『性の歴史』全体への序論として執筆され、第二巻の冒頭を飾る予定であった。しかし結局フーコーはそれを断念し、新たな序論を書くことになる。n°338を参照。
「性現象に関して-以前、病や非行に関して行われた分析形態のような-認識の一領域の組織化を中心に据えた分析、もしくは、管理と強制の諸技術の発達を中心に据えた分析を繰り返してしまうおそれがあった。自己に対する関係の諸形態それ自体についてより適切な分析を行うため、私は、最初に定めていたよりもさらに古く年代を遡ることになった。」(本文より)
フーコー入門 (ちくま新書) by 中山元
あるインタビューでフーコーは知識人としての自分の役割を次のように説明している。
「人々が、自分で考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと信じているいくつかのテーマが、歴史の特定の時点に作り出されたものであり、このみかけの上での自明性は批判し、破壊することができるものだということを示すことです。人々の精神において何かを変えること、それが知識人の役割です。」
Mon rôle -mais c'est un terme trop pompeux -est de montrer aux gens qu'ils sont beaucoup plus libres qu'ils ne le pensent, qu'ils tiennent pour vrais, pour évidents certains thèmes qui ont été fabriqués à un moment particulier de l'histoire, et que cette prétendue évidence peut être critiquée et détruite. Changer quelque chose dans l'esprit des gens, c'est cela, le rôle d'un intellectuel.
Vérité pouvoir et soi, 'DE'-4 : 778.
Dits Ecrits tome IV texte n°362
http://1libertaire.free.fr/MFoucault240.html
思考集成10
362 真理、権力、自己 原和之訳
あるインタビューでフーコーは知識人としての自分の役割を次のように説明している。
「人々が、自分で考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと信じているいくつかのテーマが、歴史の特定の時点に作り出されたものであり、このみかけの上での自明性は批判し、破壊することができるものだということを示すことです。人々の精神において何かを変えること、それが知識人の役割です。」
Mon rôle -mais c'est un terme trop pompeux -est de montrer aux gens qu'ils sont beaucoup plus libres qu'ils ne le pensent, qu'ils tiennent pour vrais, pour évidents certains thèmes qui ont été fabriqués à un moment particulier de l'histoire, et que cette prétendue évidence peut être critiquée et détruite. Changer quelque chose dans l'esprit des gens, c'est cela, le rôle d'un intellectuel.
Vérité pouvoir et soi, 'DE'-4 : 778.
Dits Ecrits tome IV texte n°362
http://1libertaire.free.fr/MFoucault240.html
思考集成10
362 真理、権力、自己 原和之訳
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『フーコーコレクション』ちくま学芸文庫(全6巻+1巻):目次
『フーコーコレクション』ちくま学芸文庫(全6巻+1巻)◆フーコー・ガイドブック
◆1 狂気・理性
◆2 文学・侵犯
◆3 言説・表象
◆4 権力・監禁
◆5 性・真理
◆6 生政治・統治
* 第1巻は著作のごく簡単な要約と『思考集成Ⅰ』所収の年譜、以降は『思考集成』の選集
『フーコー・コレクション 1 狂気・理性』
Foucault,Michel 1994 Dits et écrits 1954-1988,Edition établie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Gallimard.
=20060510 小林 康夫・石田 英敬・松浦 寿輝 訳,筑摩書房,442p.
ビンスワンガー『夢と実存』への序論
心理学の歴史 1850‐1950
科学研究と心理学
『狂気の歴史』初版への序
狂気は社会のなかでしか存在しない
ルソーの『対話』への序文
父の“否”_______(1/2)
狂気、作品の不在 2
哲学と心理学 2
宗教的逸脱と医学 3
十七世紀の医師、裁判官、魔法使い 3
文学・狂気・社会 3
狂気と社会 3
解説:小林康夫
ルーセルにおける言うことと見ること
幻想の図書館
■目次
________________________(/2)
侍女たち 2
世界の散文 2
歴史の書き方について 2___________(2/3)
文学・狂気・社会 3
狂気と社会 3
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 2 文学・侵犯』
■目次
ルーセルにおける言うことと見ること
かくも残酷な知
侵犯への序言
言語の無限反復
夜明けの光を見張って
距たり・アスペクト・起源___________(1/2)
幻想の図書館
アクタイオーンの散文
空間の言語
血を流す言葉
J=P・リシャールのマラルメ
書くことの義務
物語の背後にあるもの
外の思考
彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった________(2/3)
アリアドネーは縊死した 3
作者とは何か ___________(3/2)
解説:小林康夫
『フーコー・コレクション 3 言説・表象』
________________________(/2)
侍女たち 2
世界の散文 2
歴史の書き方について 2___________(2/3)
これはパイプではない 3
科学の考古学について―「認識論サークル」への回答 3
『ポール・ロワイヤルの文法』序文 3
科学の考古学について―「認識論サークル」への回答 3
『ポール・ロワイヤルの文法』序文 3
ジャン・イポリット1907‐1968 3
ミシェル・フーコー『言葉と物』英語版への序文
第七天使をめぐる七言
劇場としての哲学__________________(1970:3/1971:4)
ニーチェ、系譜学、歴史
私の身体、この紙、この炉
解説:松浦寿輝
■目次
GIP(監獄情報グループ)の宣言書
監獄についての調査、沈黙の鉄格子を打ち破ろう
歴史への回帰
大がかりな収監
知識人と権力
人民裁判について―マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論
監獄的監禁について____________________(4/5)
狂人の家
監獄についての対談― 本とその方法
ミシェル・フーコー―哲学者の回答____________(5/6)
地理学に関するミシェル・フーコーへの質問
医学の危機あるいは反医学の危機?
ソ連およびその他の地域における罪と罰
真理と権力
権力の眼
権力と知
解説:松浦寿輝
■目次
性現象と真理
身体をつらぬく権力
性の王権に抗して________________________(6/7)
世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか__________(7/8)
性現象と孤独__________________________(8/9)
性の選択、性の行為
倫理の系譜学について―進行中の仕事の概要
快楽の用法と自己の技法_____________________(9/10)
『性の歴史』への序文
自由の実践としての自己への配慮
生存の美学
自己の技法
個人の政治テクノロジー
解説:石田英敬
■目次
1.真理と裁判形態……西谷修訳 5
第七天使をめぐる七言
劇場としての哲学__________________(1970:3/1971:4)
ニーチェ、系譜学、歴史
私の身体、この紙、この炉
解説:松浦寿輝
『フーコー・コレクション 4 権力・監禁』
GIP(監獄情報グループ)の宣言書
監獄についての調査、沈黙の鉄格子を打ち破ろう
歴史への回帰
大がかりな収監
知識人と権力
人民裁判について―マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論
監獄的監禁について____________________(4/5)
狂人の家
監獄についての対談― 本とその方法
ミシェル・フーコー―哲学者の回答____________(5/6)
地理学に関するミシェル・フーコーへの質問
医学の危機あるいは反医学の危機?
ソ連およびその他の地域における罪と罰
真理と権力
権力の眼
権力と知
解説:松浦寿輝
■目次
性現象と真理
身体をつらぬく権力
性の王権に抗して________________________(6/7)
世界認識の方法―マルクス主義をどう始末するか__________(7/8)
性現象と孤独__________________________(8/9)
性の選択、性の行為
倫理の系譜学について―進行中の仕事の概要
快楽の用法と自己の技法_____________________(9/10)
『性の歴史』への序文
自由の実践としての自己への配慮
生存の美学
自己の技法
個人の政治テクノロジー
解説:石田英敬
1.真理と裁判形態……西谷修訳 5
2.〈生物-歴史学〉(ビオ・イストワール)と〈生物-政治学〉(ビオ・ポリティック)……石田英敬訳 6
3.ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文……松浦寿輝訳 6
4.社会医学の誕生……小倉孝誠訳 6
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳 6
6.「統治性」……石田英敬訳 7
7.十八世紀における健康政策……中島ひかる訳 6
8.全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて……北山晴一訳 8
9.啓蒙とは何か……石田英敬訳 10
10.道徳の回帰……増田一夫訳 10
11.生命――経験と科学……廣瀬浩司訳 10
編者解説……石田英敬
■引用
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
「 こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を超えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやって来る言語(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ。権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか? しかし、まず、もし仮にこれらの生が、ある一瞬に権力と交錯することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか? 結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか? それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交っ>0210>た短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑(モニュメント)があるのだ。時を超えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。
要するに私は、世に知られることなき人々の伝説(レジェンド)のために、これらの人々が不幸或いは激怒の中で権力との間に交わしたディスクール群に発して、幾つかの基礎原基を集めてみたいと思ったのである。」(pp.210-211)
「 私がここに集めた文書は同質のものである。そのため、単調に見えてしまう危険がおおいにある。しかしすべてはそれぞれ調和を欠いて機能しているのである。語られていることとその語り方の不調和。嘆き嘆願する者と彼らに対してあらゆる権力を持つ者との間の不調和。提起される問題の微細さとそこに繰り出される権力の大きさとの間の不調和。儀式と権力の言語と、激怒或いは無力者の言語との間の不調和。それらのテクストはラシー>0227>ヌやボシュエ或いはクレビヨンの方を向くようなテクストである。しかし、彼らとともにそれらのテクストが担うのは、民衆のざわめきであり、悲惨、暴力、《卑小なること》と言われもしたことどもであり、同時代の文学が扱うことのできなかったであろうことどもである。(中略)
その不調和が消え去る日がやってくるだろう。その日以降、日常の生の水準で機能するだろう権力は、もはや近くて遠く、全能できまぐれ、あらゆる正義の源泉であり、あらゆる誘惑の対象であり、政治的原理であると同時に魔術的力でもあった君主の権力ではなくなるだろう。司法、警察、医学、精神科学といった多様な制度が絡まり合った、より微細で、分化されつつ連続する網目によって権力は構成されるだろう。そして、そこに形成されることになるディスクールは、もはやかつてのような人工的で不器用な古い演劇性を持>0228>ちはしないだろう。観察と中立性からなる言語であろうとする言葉の中に展開されるディスクールが現れるのだ。その日以降、平凡なものは、行政、ジャーナリズム、科学の効率的だが灰色の格子によって分析されることになるだろう。そこでは、彩りきらめく言葉は、それらの格子から少しばかり離れたところにある文学の中に探しに行くほかないだろう。十七世紀と十八世紀、人々は未だ無骨で野蛮な時代に属していて、そこには様々に媒介的な多様な格子は未だ存在しなかった。悲惨なる者たちの身体とその喧騒は ほとんど直接的に、王の身体と儀礼性に直面していたのである。そこにはまた、共通の言葉も存在せず、叫びと儀式性との、そう言いたければ無秩序とそれが従わねばならなかった形式の厳格さとの間の衝突があった。そこから、その政治のコードの中への日常生活の初めての浮上を遠くから見る私たちの眼に、それらの言語は不思議な閃光を帯びたもの、金切り声と緊迫した強度を帯びたものとして現れるのであり、そしてそれは、ついで人々がこうした事物と人間を《事件》、三面記事や事例として捉えるようになると、消え去るであろう。」(pp.227-229)
「監視し、見張り、不意をつき、禁止し、罰するだけのものであるなら、おそらく権力は軽々と容易に解体されるであろう。しかし、権力は人々をそそのかし刺激し生産するのである。権力は単に耳と眼ではない。それは動かし語らせるのである。」(p.230)
啓蒙とは何か[pp.303-361]
カントの『啓蒙とは何か』の検討
(1) ドイツの啓蒙とユダヤ解放運動が、「両者ともに、どのような共通のプロセスに自分たちが依り処をもつものなのかを知ろうとするようになる」(p.364)。
(2) カントは、一つの全体や、将来の成就から出発して、〈現在〉を理解しようとはしない。彼は〈今日〉は、〈昨日〉にたいして、いかなる差異を導入するものなのか、一つの差異を求めるのである。
(3) カントが、どのように〈現在〉についての哲学的問いを立てるのかを理解するために、重要と思われる特徴を抽出する。以下4点
3-1:啓蒙の特徴は脱出にあり、カントは脱出とは「私たちを〈未成年〉の状態から脱却させる過程である」と記す(pp.366-367)。
3-2:〈脱出〉はカントにおいて、両義的である。「カントはそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている」が、「同時に一つの使命、義務として定時している」(p.367)。
3-3:「啓蒙は、人間存在の人間性を構成しているものに影響を及ぼす変化のこと」だというカントの答えは、両義性を伴う。カントは、未成年を脱出するためには二つの条件を定め、それらは二つとも「精神的であると同時に制度的、倫理的であると同時に政治的なものだ」(p.367)。
3-3-1:服従に属することと、理性の使用に属することを明確に区別しなければならない(p.367)。
3-3-2:理性はその公的な使用においてこそ自由であるべきであり、その私的な使用において服従させれれたものであるべきだ(p.370)。
3-4:いかにして理性の使用が、理性にとって必然的な形をとりえるのか、諸個人が可能なかぎり厳格に服従しているときに、いかにして知る勇気が堂々と行使されうるのか、という問題が問われる。→自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となる(p.372)。
カントの三大批判都と『啓蒙とは何か』の間に結び付きが存在する。「啓蒙」を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとするモーメントであると描いている(p.372)。
↓
フーコーの仮説:『啓蒙とは何か』が批判的省察と歴史についての考察との、言わば連結部に位置する→歴史についての省察、さらに、自分が物を書く〈時〉、その時だからこそ物を書くというその単独な〈時〉についての個別的な分析、という三者を結び付けて考えたのは初めてのことだった。歴史における差異としての〈今日〉、また、個別的な哲学的使命の動機としての〈今日〉、についてのこのような反省こそ、このテクストの新しさだ、と私には思えるのである(p.374)。
↓
カントのテクストを参照することによって、私は、現代性を、歴史の一時期というよりは、むしろ一つの〈態度〉として考えることができないだろうか(p.375)。→ギリシア人たちのいうエートス
〈現代性〉の態度の必然的な例:ボードレール→一九世紀における現代性の最も先鋭的な意識のひとつを認められる(p.375)
ボードレールの現代性の4つのポイント
(1)「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」であるが、現代性は、時間の流れを追うだけの流行とは区別される。それは、現在性とは、逃げ去る現在についての感受性の事象ではなく、現在を「英雄化」一つの意志なのだ(p.376)。
→「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」(p.377)。
(2)遊歩は、「眼を開き、注意を払い、思い出のなかに収集することで満足する」。ボードレールは遊歩の人に、現代性を対置する。→ボードレールの現代性の例=デッサン画家:コンスタンタン・ギース
ボードレールがいう現代性とは、「〈現在〉のもつ高い価値は、その〈現在〉を、そうであるのとは違うように想像する熱情、〈現在〉を破壊するのではなく、〈現在〉がそうある在り方の裡に、〈現在〉を捕捉することによって、〈現在〉を変形しようとする熱情」(p.378)である。
(3)現代性の意志的な態度は、それに欠かすことの出来ない禁欲主義と結びついている。現代的であるとは、過ぎ去る個々の瞬間の流れにおいて、あるがままに自分自身をうけいれることではなく、自分自身を複雑で困難な練り上げの対象とみなすこと(p.379)。
(4)上記の、1、アイロニカルな英雄化 2、現実的なものを変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、3、自己禁欲的な練り上げは、社会ではなく、ボードレールが芸術と呼ぶ場所で成立する(p.380)。
フーコーはボードレールの現代性の特徴を、これらボードレール的な現代性の4点によって要約しているのではなく、そうではなく〈哲学的な問い〉が〈啓蒙〉に根差しており、「私たちを啓蒙に結び付けている絆が、教義の諸要素への忠誠というようなものではなく、むしろ一つの態度の絶えざる再活性化なのだ」(p.380)ということを指摘している。→この態度を、〈哲学的エートス〉として特徴づけることができる。
〈哲学的エートス〉のネガティヴな特徴づけ
(1) 啓蒙は受け入れる/拒否するという二者択一を拒否するということを意味している。「弁証法的なニュアンスを導入することなど、この恐喝の外にでることにはならないのだ」(p.381)。
(2) 人間主義のテーマと啓蒙の問題とを混同するような歴史的道徳的混迷主義をも逃れなければならない(pp.384-385)。
〈哲学的エートス〉のポジティヴな特徴づけ
(1)〈哲学的エートス〉は、一つの限界的態度として性格づけることができる。それは、拒絶の態度ではない。ひとは、外と内との二者択一を脱して、境界に立つべきなのだ。批判とは、まさしく限界の分析であり、限界についての反省なのだ(p.385)。
(2)限界に立つことで実行されるこの仕事が、一方では、歴史的調査の領域を開くものであるべきだということ、他方では、変化が可能であり、また望ましくもある場所を把握し、また、その変化がどのようなものであるべきかを決定するために、現実と同時代の試練を自ら進んで受けるべきだ(p.387)。
(3)Q:つねに部分的で局所的な実験にとどまり続けることによって全体的な諸構造に逆に規定されないか?
A1:完全で決定的な認識を断念しなければならないのはその通り。
A2:しかし、無秩序と偶然性においてしか行われることを意味しない。その作業は、固有の賭けられたもの、均一性、体系性、一般性をもつ(pp.388-389)
・固有の賭けられたもの
能力と権力のパラドクスといった技術的諸能力の増大と権力関係の強化とをどのように切り離しうるかということ(p.390)
・均一性
行うことの諸々の様態を組織している合理性の諸形式を対象とするとともに、他人たちが行うことに反応しつつ、またある程度までは自らのゲーム規則を変更しつつ、人間がそれらの実践のシステムのなかで行動するときの自由を対象として扱う(p.390)。
・体系性
如何にして、私たちは私たちの知の主体として成立してきたのか、如何にして私たちは、権力関係を行使し、またそれを被るような主体として成立してきたのか、また、如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか、という体系化である(p.391)。
・一般化
歴史的―批判的調査は、つねに、一つの素材、一つの時代、限定された実践と言説が作り出す一つのまとまりであり、非常に個別的なものだが、西欧社会という尺度において、それらの調査は一般性をもつ(p.391)。→〈問題化〉の諸様式の研究は、一般的な射程を持った諸問題を、歴史的に単独な諸形態において分析するという方法なのである(p.392)。
まとめ
私たち自身の批判的存在論、それをひとつの理論、教義、あるいは蓄積される知の恒常体と見なすのではなく、一つの態度、一つのエートス、私たち自身のあり方の批判が、同時に私たちに課せられた歴史的限界の分析であり、同時にまた、それらの限界のありうべき乗り越えの分析であるような、一つの哲学生活として、それは理解されるべきなのだ。 カントの啓蒙の問いは、一つの哲学態度として理解できる。そしてその哲学態度は、様々な調査の作業に翻訳されなければならない。それらの調査は、技術論的なタイプの合理性であると同時に、諸々の自由の諸戦略ゲームとしてとらえられた諸々の実践の、考古学的であると同時に系譜学的な研究においてこそ、方法論的一貫性を持つことになる(p.393)。
編者解説「啓蒙とは何か(2)」……石田英敬
「 およそ「西欧」の歴史全体を視野に入れ、そのなかで「発明」された「技法」や「政治テクノロジー」から、「認識」の歴史を捉え返し、私たちをとらえている「政治的理性」の批判を実行すること、そうした方法および態度はむしろフーコーにおいては全仕事を通してつねに一貫した戦略であったと考えるべきなのだ。」(p.450)
「「国家」とは、逆説的なことだが、「個人化」の政治テクノロジー抜きには成り立ちえないものだ。「私たちはどのようにして、自分たち自身を、社会として、社会的実体の要素として、国民や国家の一部として、認識するようになったのか」(「個人の政治テクノロジー」、コレクション第5巻408頁)という問いに答えることこそが、「国家」の問いに答えることである。」(p.451)
3.ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』への序文……松浦寿輝訳 6
4.社会医学の誕生……小倉孝誠訳 6
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳 6
6.「統治性」……石田英敬訳 7
7.十八世紀における健康政策……中島ひかる訳 6
8.全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて……北山晴一訳 8
9.啓蒙とは何か……石田英敬訳 10
10.道徳の回帰……増田一夫訳 10
11.生命――経験と科学……廣瀬浩司訳 10
編者解説……石田英敬
■引用
5.汚辱に塗れた人々の生……丹生谷貴志訳
「 こう語る声が聞こえる。あなたはまたもや、一線を超えることも向こう側に出ることも出来ず、よそから或いは下方からやって来る言語(ランガージュ)を聞き取ることも聞き取らせることも出来ない。いつもいつも同じ選択だ。権力の側に、権力が語り語らせることの側についている。何故、この生を、それらが自分自身について語る場所において聞き取ろうとはしないのか? しかし、まず、もし仮にこれらの生が、ある一瞬に権力と交錯することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか? 結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか? それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交っ>0210>た短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑(モニュメント)があるのだ。時を超えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。
要するに私は、世に知られることなき人々の伝説(レジェンド)のために、これらの人々が不幸或いは激怒の中で権力との間に交わしたディスクール群に発して、幾つかの基礎原基を集めてみたいと思ったのである。」(pp.210-211)
「 私がここに集めた文書は同質のものである。そのため、単調に見えてしまう危険がおおいにある。しかしすべてはそれぞれ調和を欠いて機能しているのである。語られていることとその語り方の不調和。嘆き嘆願する者と彼らに対してあらゆる権力を持つ者との間の不調和。提起される問題の微細さとそこに繰り出される権力の大きさとの間の不調和。儀式と権力の言語と、激怒或いは無力者の言語との間の不調和。それらのテクストはラシー>0227>ヌやボシュエ或いはクレビヨンの方を向くようなテクストである。しかし、彼らとともにそれらのテクストが担うのは、民衆のざわめきであり、悲惨、暴力、《卑小なること》と言われもしたことどもであり、同時代の文学が扱うことのできなかったであろうことどもである。(中略)
その不調和が消え去る日がやってくるだろう。その日以降、日常の生の水準で機能するだろう権力は、もはや近くて遠く、全能できまぐれ、あらゆる正義の源泉であり、あらゆる誘惑の対象であり、政治的原理であると同時に魔術的力でもあった君主の権力ではなくなるだろう。司法、警察、医学、精神科学といった多様な制度が絡まり合った、より微細で、分化されつつ連続する網目によって権力は構成されるだろう。そして、そこに形成されることになるディスクールは、もはやかつてのような人工的で不器用な古い演劇性を持>0228>ちはしないだろう。観察と中立性からなる言語であろうとする言葉の中に展開されるディスクールが現れるのだ。その日以降、平凡なものは、行政、ジャーナリズム、科学の効率的だが灰色の格子によって分析されることになるだろう。そこでは、彩りきらめく言葉は、それらの格子から少しばかり離れたところにある文学の中に探しに行くほかないだろう。十七世紀と十八世紀、人々は未だ無骨で野蛮な時代に属していて、そこには様々に媒介的な多様な格子は未だ存在しなかった。悲惨なる者たちの身体とその喧騒は ほとんど直接的に、王の身体と儀礼性に直面していたのである。そこにはまた、共通の言葉も存在せず、叫びと儀式性との、そう言いたければ無秩序とそれが従わねばならなかった形式の厳格さとの間の衝突があった。そこから、その政治のコードの中への日常生活の初めての浮上を遠くから見る私たちの眼に、それらの言語は不思議な閃光を帯びたもの、金切り声と緊迫した強度を帯びたものとして現れるのであり、そしてそれは、ついで人々がこうした事物と人間を《事件》、三面記事や事例として捉えるようになると、消え去るであろう。」(pp.227-229)
「監視し、見張り、不意をつき、禁止し、罰するだけのものであるなら、おそらく権力は軽々と容易に解体されるであろう。しかし、権力は人々をそそのかし刺激し生産するのである。権力は単に耳と眼ではない。それは動かし語らせるのである。」(p.230)
啓蒙とは何か[pp.303-361]
カントの『啓蒙とは何か』の検討
(1) ドイツの啓蒙とユダヤ解放運動が、「両者ともに、どのような共通のプロセスに自分たちが依り処をもつものなのかを知ろうとするようになる」(p.364)。
(2) カントは、一つの全体や、将来の成就から出発して、〈現在〉を理解しようとはしない。彼は〈今日〉は、〈昨日〉にたいして、いかなる差異を導入するものなのか、一つの差異を求めるのである。
(3) カントが、どのように〈現在〉についての哲学的問いを立てるのかを理解するために、重要と思われる特徴を抽出する。以下4点
3-1:啓蒙の特徴は脱出にあり、カントは脱出とは「私たちを〈未成年〉の状態から脱却させる過程である」と記す(pp.366-367)。
3-2:〈脱出〉はカントにおいて、両義的である。「カントはそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている」が、「同時に一つの使命、義務として定時している」(p.367)。
3-3:「啓蒙は、人間存在の人間性を構成しているものに影響を及ぼす変化のこと」だというカントの答えは、両義性を伴う。カントは、未成年を脱出するためには二つの条件を定め、それらは二つとも「精神的であると同時に制度的、倫理的であると同時に政治的なものだ」(p.367)。
3-3-1:服従に属することと、理性の使用に属することを明確に区別しなければならない(p.367)。
3-3-2:理性はその公的な使用においてこそ自由であるべきであり、その私的な使用において服従させれれたものであるべきだ(p.370)。
3-4:いかにして理性の使用が、理性にとって必然的な形をとりえるのか、諸個人が可能なかぎり厳格に服従しているときに、いかにして知る勇気が堂々と行使されうるのか、という問題が問われる。→自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となる(p.372)。
カントの三大批判都と『啓蒙とは何か』の間に結び付きが存在する。「啓蒙」を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとするモーメントであると描いている(p.372)。
↓
フーコーの仮説:『啓蒙とは何か』が批判的省察と歴史についての考察との、言わば連結部に位置する→歴史についての省察、さらに、自分が物を書く〈時〉、その時だからこそ物を書くというその単独な〈時〉についての個別的な分析、という三者を結び付けて考えたのは初めてのことだった。歴史における差異としての〈今日〉、また、個別的な哲学的使命の動機としての〈今日〉、についてのこのような反省こそ、このテクストの新しさだ、と私には思えるのである(p.374)。
↓
カントのテクストを参照することによって、私は、現代性を、歴史の一時期というよりは、むしろ一つの〈態度〉として考えることができないだろうか(p.375)。→ギリシア人たちのいうエートス
〈現代性〉の態度の必然的な例:ボードレール→一九世紀における現代性の最も先鋭的な意識のひとつを認められる(p.375)
ボードレールの現代性の4つのポイント
(1)「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」であるが、現代性は、時間の流れを追うだけの流行とは区別される。それは、現在性とは、逃げ去る現在についての感受性の事象ではなく、現在を「英雄化」一つの意志なのだ(p.376)。
→「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」(p.377)。
(2)遊歩は、「眼を開き、注意を払い、思い出のなかに収集することで満足する」。ボードレールは遊歩の人に、現代性を対置する。→ボードレールの現代性の例=デッサン画家:コンスタンタン・ギース
ボードレールがいう現代性とは、「〈現在〉のもつ高い価値は、その〈現在〉を、そうであるのとは違うように想像する熱情、〈現在〉を破壊するのではなく、〈現在〉がそうある在り方の裡に、〈現在〉を捕捉することによって、〈現在〉を変形しようとする熱情」(p.378)である。
(3)現代性の意志的な態度は、それに欠かすことの出来ない禁欲主義と結びついている。現代的であるとは、過ぎ去る個々の瞬間の流れにおいて、あるがままに自分自身をうけいれることではなく、自分自身を複雑で困難な練り上げの対象とみなすこと(p.379)。
(4)上記の、1、アイロニカルな英雄化 2、現実的なものを変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、3、自己禁欲的な練り上げは、社会ではなく、ボードレールが芸術と呼ぶ場所で成立する(p.380)。
フーコーはボードレールの現代性の特徴を、これらボードレール的な現代性の4点によって要約しているのではなく、そうではなく〈哲学的な問い〉が〈啓蒙〉に根差しており、「私たちを啓蒙に結び付けている絆が、教義の諸要素への忠誠というようなものではなく、むしろ一つの態度の絶えざる再活性化なのだ」(p.380)ということを指摘している。→この態度を、〈哲学的エートス〉として特徴づけることができる。
〈哲学的エートス〉のネガティヴな特徴づけ
(1) 啓蒙は受け入れる/拒否するという二者択一を拒否するということを意味している。「弁証法的なニュアンスを導入することなど、この恐喝の外にでることにはならないのだ」(p.381)。
(2) 人間主義のテーマと啓蒙の問題とを混同するような歴史的道徳的混迷主義をも逃れなければならない(pp.384-385)。
〈哲学的エートス〉のポジティヴな特徴づけ
(1)〈哲学的エートス〉は、一つの限界的態度として性格づけることができる。それは、拒絶の態度ではない。ひとは、外と内との二者択一を脱して、境界に立つべきなのだ。批判とは、まさしく限界の分析であり、限界についての反省なのだ(p.385)。
(2)限界に立つことで実行されるこの仕事が、一方では、歴史的調査の領域を開くものであるべきだということ、他方では、変化が可能であり、また望ましくもある場所を把握し、また、その変化がどのようなものであるべきかを決定するために、現実と同時代の試練を自ら進んで受けるべきだ(p.387)。
(3)Q:つねに部分的で局所的な実験にとどまり続けることによって全体的な諸構造に逆に規定されないか?
A1:完全で決定的な認識を断念しなければならないのはその通り。
A2:しかし、無秩序と偶然性においてしか行われることを意味しない。その作業は、固有の賭けられたもの、均一性、体系性、一般性をもつ(pp.388-389)
・固有の賭けられたもの
能力と権力のパラドクスといった技術的諸能力の増大と権力関係の強化とをどのように切り離しうるかということ(p.390)
・均一性
行うことの諸々の様態を組織している合理性の諸形式を対象とするとともに、他人たちが行うことに反応しつつ、またある程度までは自らのゲーム規則を変更しつつ、人間がそれらの実践のシステムのなかで行動するときの自由を対象として扱う(p.390)。
・体系性
如何にして、私たちは私たちの知の主体として成立してきたのか、如何にして私たちは、権力関係を行使し、またそれを被るような主体として成立してきたのか、また、如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか、という体系化である(p.391)。
・一般化
歴史的―批判的調査は、つねに、一つの素材、一つの時代、限定された実践と言説が作り出す一つのまとまりであり、非常に個別的なものだが、西欧社会という尺度において、それらの調査は一般性をもつ(p.391)。→〈問題化〉の諸様式の研究は、一般的な射程を持った諸問題を、歴史的に単独な諸形態において分析するという方法なのである(p.392)。
まとめ
私たち自身の批判的存在論、それをひとつの理論、教義、あるいは蓄積される知の恒常体と見なすのではなく、一つの態度、一つのエートス、私たち自身のあり方の批判が、同時に私たちに課せられた歴史的限界の分析であり、同時にまた、それらの限界のありうべき乗り越えの分析であるような、一つの哲学生活として、それは理解されるべきなのだ。 カントの啓蒙の問いは、一つの哲学態度として理解できる。そしてその哲学態度は、様々な調査の作業に翻訳されなければならない。それらの調査は、技術論的なタイプの合理性であると同時に、諸々の自由の諸戦略ゲームとしてとらえられた諸々の実践の、考古学的であると同時に系譜学的な研究においてこそ、方法論的一貫性を持つことになる(p.393)。
編者解説「啓蒙とは何か(2)」……石田英敬
「 およそ「西欧」の歴史全体を視野に入れ、そのなかで「発明」された「技法」や「政治テクノロジー」から、「認識」の歴史を捉え返し、私たちをとらえている「政治的理性」の批判を実行すること、そうした方法および態度はむしろフーコーにおいては全仕事を通してつねに一貫した戦略であったと考えるべきなのだ。」(p.450)
「「国家」とは、逆説的なことだが、「個人化」の政治テクノロジー抜きには成り立ちえないものだ。「私たちはどのようにして、自分たち自身を、社会として、社会的実体の要素として、国民や国家の一部として、認識するようになったのか」(「個人の政治テクノロジー」、コレクション第5巻408頁)という問いに答えることこそが、「国家」の問いに答えることである。」(p.451)
◇ Michel Foucault Archive (仏, 英ほか) http://michel-foucault-archives.org/
◇ Portail Michel Foucault (仏) http://portail-michel-foucault.org/ ※関連行事、出版物の案内など。
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啓蒙とは何か[pp.303-361]
返信削除カントの『啓蒙とは何か』の検討
(1) ドイツの啓蒙とユダヤ解放運動が、「両者ともに、どのような共通のプロセスに自分たちが依り処をもつものなのかを知ろうとするようになる」(p.364)。
(2) カントは、一つの全体や、将来の成就から出発して、〈現在〉を理解しようとはしない。彼は〈今日〉は、〈昨日〉にたいして、いかなる差異を導入するものなのか、一つの差異を求めるのである。
(3) カントが、どのように〈現在〉についての哲学的問いを立てるのかを理解するために、重要と思われる特徴を抽出する。以下4点
3-1:啓蒙の特徴は脱出にあり、カントは脱出とは「私たちを〈未成年〉の状態から脱却させる過程である」と記す(pp.366-367)。
3-2:〈脱出〉はカントにおいて、両義的である。「カントはそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている」が、「同時に一つの使命、義務として定時している」(p.367)。
3-3:「啓蒙は、人間存在の人間性を構成しているものに影響を及ぼす変化のこと」だというカントの答えは、両義性を伴う。カントは、未成年を脱出するためには二つの条件を定め、それらは二つとも「精神的であると同時に制度的、倫理的であると同時に政治的なものだ」(p.367)。
3-3-1:服従に属することと、理性の使用に属することを明確に区別しなければならない(p.367)。
3-3-2:理性はその公的な使用においてこそ自由であるべきであり、その私的な使用において服従させれれたものであるべきだ(p.370)。
3-4:いかにして理性の使用が、理性にとって必然的な形をとりえるのか、諸個人が可能なかぎり厳格に服従しているときに、いかにして知る勇気が堂々と行使されうるのか、という問題が問われる。→自律的な理性の公的で自由な使用は、服従の最良の保証となる(p.372)。
カントの三大批判都と『啓蒙とは何か』の間に結び付きが存在する。「啓蒙」を、人類が、いかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用しようとするモーメントであると描いている(p.372)。
↓
フーコーの仮説:『啓蒙とは何か』が批判的省察と歴史についての考察との、言わば連結部に位置する→歴史についての省察、さらに、自分が物を書く〈時〉、その時だからこそ物を書くというその単独な〈時〉についての個別的な分析、という三者を結び付けて考えたのは初めてのことだった。歴史における差異としての〈今日〉、また、個別的な哲学的使命の動機としての〈今日〉、についてのこのような反省こそ、このテクストの新しさだ、と私には思えるのである(p.374)。
↓
カントのテクストを参照することによって、私は、現代性を、歴史の一時期というよりは、むしろ一つの〈態度〉として考えることができないだろうか(p.375)。→ギリシア人たちのいうエートス
〈現代性〉の態度の必然的な例:ボードレール→一九世紀における現代性の最も先鋭的な意識のひとつを認められる(p.375)
ボードレールの現代性の4つのポイント
(1)「一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもの」であるが、現代性は、時間の流れを追うだけの流行とは区別される。それは、現在性とは、逃げ去る現在についての感受性の事象ではなく、現在を「英雄化」一つの意志なのだ(p.376)。
→「あなた方は現在を軽蔑する権利がない」(p.377)。
(2)遊歩は、「眼を開き、注意を払い、思い出のなかに収集することで満足する」。ボードレールは遊歩の人に、現代性を対置する。→ボードレールの現代性の例=デッサン画家:コンスタンタン・ギース
ボードレールがいう現代性とは、「〈現在〉のもつ高い価値は、その〈現在〉を、そうであるのとは違うように想像する熱情、〈現在〉を破壊するのではなく、〈現在〉がそうある在り方の裡に、〈現在〉を捕捉することによって、〈現在〉を変形しようとする熱情」(p.378)である。
(3)現代性の意志的な態度は、それに欠かすことの出来ない禁欲主義と結びついている。現代的であるとは、過ぎ去る個々の瞬間の流れにおいて、あるがままに自分自身をうけいれることではなく、自分自身を複雑で困難な練り上げの対象とみなすこと(p.379)。
(4)上記の、1、アイロニカルな英雄化 2、現実的なものを変容させるために現実的なものと取り結ぶ自由の戯れ、3、自己禁欲的な練り上げは、社会ではなく、ボードレールが芸術と呼ぶ場所で成立する(p.380)。
フーコーはボードレールの現代性の特徴を、これらボードレール的な現代性の4点によって要約しているのではなく、そうではなく〈哲学的な問い〉が〈啓蒙〉に根差しており、「私たちを啓蒙に結び付けている絆が、教義の諸要素への忠誠というようなものではなく、むしろ一つの態度の絶えざる再活性化なのだ」(p.380)ということを指摘している。→この態度を、〈哲学的エートス〉として特徴づけることができる。
〈哲学的エートス〉のネガティヴな特徴づけ
(1) 啓蒙は受け入れる/拒否するという二者択一を拒否するということを意味している。「弁証法的なニュアンスを導入することなど、この恐喝の外にでることにはならないのだ」(p.381)。
(2) 人間主義のテーマと啓蒙の問題とを混同するような歴史的道徳的混迷主義をも逃れなければならない(pp.384-385)。
〈哲学的エートス〉のポジティヴな特徴づけ
(1)〈哲学的エートス〉は、一つの限界的態度として性格づけることができる。それは、拒絶の態度ではない。ひとは、外と内との二者択一を脱して、境界に立つべきなのだ。批判とは、まさしく限界の分析であり、限界についての反省なのだ(p.385)。
(2)限界に立つことで実行されるこの仕事が、一方では、歴史的調査の領域を開くものであるべきだということ、他方では、変化が可能であり、また望ましくもある場所を把握し、また、その変化がどのようなものであるべきかを決定するために、現実と同時代の試練を自ら進んで受けるべきだ(p.387)。
(3)Q:つねに部分的で局所的な実験にとどまり続けることによって全体的な諸構造に逆に規定されないか?
A1:完全で決定的な認識を断念しなければならないのはその通り。
A2:しかし、無秩序と偶然性においてしか行われることを意味しない。その作業は、固有の賭けられたもの、均一性、体系性、一般性をもつ(pp.388-389)
・固有の賭けられたもの
能力と権力のパラドクスといった技術的諸能力の増大と権力関係の強化とをどのように切り離しうるかということ(p.390)
・均一性
行うことの諸々の様態を組織している合理性の諸形式を対象とするとともに、他人たちが行うことに反応しつつ、またある程度までは自らのゲーム規則を変更しつつ、人間がそれらの実践のシステムのなかで行動するときの自由を対象として扱う(p.390)。
・体系性
如何にして、私たちは私たちの知の主体として成立してきたのか、如何にして私たちは、権力関係を行使し、またそれを被るような主体として成立してきたのか、また、如何にして私たちは、私たちの行動の道徳的主体として成立してきたのか、という体系化である(p.391)。
・一般化
歴史的―批判的調査は、つねに、一つの素材、一つの時代、限定された実践と言説が作り出す一つのまとまりであり、非常に個別的なものだが、西欧社会という尺度において、それらの調査は一般性をもつ(p.391)。→〈問題化〉の諸様式の研究は、一般的な射程を持った諸問題を、歴史的に単独な諸形態において分析するという方法なのである(p.392)。
まとめ
私たち自身の批判的存在論、それをひとつの理論、教義、あるいは蓄積される知の恒常体と見なすのではなく、一つの態度、一つのエートス、私たち自身のあり方の批判が、同時に私たちに課せられた歴史的限界の分析であり、同時にまた、それらの限界のありうべき乗り越えの分析であるような、一つの哲学生活として、それは理解されるべきなのだ。 カントの啓蒙の問いは、一つの哲学態度として理解できる。そしてその哲学態度は、様々な調査の作業に翻訳されなければならない。それらの調査は、技術論的なタイプの合理性であると同時に、諸々の自由の諸戦略ゲームとしてとらえられた諸々の実践の、考古学的であると同時に系譜学的な研究においてこそ、方法論的一貫性を持つことになる(p.393)。
編者解説「啓蒙とは何か(2)」……石田英敬
「 およそ「西欧」の歴史全体を視野に入れ、そのなかで「発明」された「技法」や「政治テクノロジー」から、「認識」の歴史を捉え返し、私たちをとらえている「政治的理性」の批判を実行すること、そうした方法および態度はむしろフーコーにおいては全仕事を通してつねに一貫した戦略であったと考えるべきなのだ。」(p.450)
「「国家」とは、逆説的なことだが、「個人化」の政治テクノロジー抜きには成り立ちえないものだ。「私たちはどのようにして、自分たち自身を、社会として、社会的実体の要素として、国民や国家の一部として、認識するようになったのか」(「個人の政治テクノロジー」、コレクション第5巻408頁)という問いに答えることこそが、「国家」の問いに答えることである。」(p.451)
*作成:石田 智恵
更新:中田喜一, 箱田 徹
UP:20080831 REV:20091226 20100428
フーコー権力論のアクチュアリティについて
返信削除桑野 弘隆
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/kuwano_42.pdf
なぜ国家が現れたのか,なぜ国家は必要なの
かというような問いをフーコーは立てない。理
由探しが国家の起源という過去への遡行である
とするならば,フーコーの焦点はむしろ現在に
結ばれる。それは現在性への問いである。フー
コーが立てた問いは,国家が存在するとしてそ
!!!!!
れはどのような諸条件において可能になったの
!!!!!
か,あるいは国家はどのように構成されたのか, というものだ。フーコー的な問いの地平は, 『資本論』のマルクスに言及するフーコーの発 言にも明らかである。
< 『資本論』の第二巻に見いだせるもの,それは結局のところ,まず第一に,一つの権 力があるのではなく,いくつもの権力があ るということです。複数形の権力,それは 支配の諸形式,服従の諸形式という意味で あり,それらは局地的に,たとえば工場, 軍隊,奴隷制を敷いている所有地や隷属関 係が存在する所有地などで機能するもので す。こうしたすべては局地的・地域的であ って,そこには固有の作動様式があり,そ れなりの手順や技術が存在します。〔中 略〕まず第一に,一つの権力があるのでは なく,いくつもの権力があるということで す。〔中略〕これらの権力は本源的である ような一種の中心的権力からの単なる派生 物とか結果としては理解することができな いし,理解されるべきでもないということ です。法学者の図式というのは,グロティ ウスやプーフェンドルフのそれであれ,ル ソーのそれであれ,次のように言うところ に存します。「初めは社会なるものはなか ったが,それから社会が出現した。まず主 権の中心点が出現して社会集団を組織し, しかる後に一連の局地的・地域的な権力を 可能にしたのである」。マルクスは暗黙の うちに,この図式を認めていません。彼は 逆に,これらの小さな権力地域が――所有 地,奴隷,工場,また軍隊として――初め からもともと存在すると考え,そこから発 して国家の大きな装置がいかにして少しず つ形成されえたのかを示しています。国家 の単一性もじつのところ,これらの地域 的・特殊的な権力と比べれば二次的なもの であり,これら複数の権力こそが一次的な ものなのです。>(Foucault 1981b 186:406 -407頁)
フーコー
返信削除「わけても偉大なものとみえる二冊の書物、『差異と反復』と『意味の論理学』について語らね
ばならない。たぶんあまりの偉大さ故にであろう、それを語るのは至難の業だし、また、語って
みせたものもほとんどいはしない。思うに、この著作は、他を圧する比類なきいま一つの徴候た
るクロソウスキーのそれと謎めいた共鳴を響かせつつ、ながらく人びとの頭上を旋回するであろ
う。だがおそらくはいつの日か、時代はドゥルーズ的なものとなっていよう。」
(劇場としての哲学 蓮実重彦訳 Theatrum philosophicum 「クリティック」誌、282号、
1970年11月、邦訳フーコーコレクション文庫3:299頁)
http://1libertaire.free.fr/MFoucault244.html
《Theatrum philosophicum》 Michel Foucault
l me faut parler de deux livres qui me paraissent grands parmi les grands : Différence et
Répétition, Logique du sens. Si grands sans doute qu'il est difficile d'en parler et que peu
l'ont fait. Longtemps, je crois, cette oeuvre tournera au-dessus de nos têtes, en résonance
énigmatique avec celle de Klossowski, autre signe majeur et excessif. Mais un jour, peut-être,
le siècle sera deleuzien.
表象→もの
返信削除↓
表象→もの
あるいはまた、
観念→(対象=観念→)対象
3:227
ポールロワイヤル文法序文
観念→(対象= 観念→)対象
(a1)(a2)(b1)(b2)
レベル 分化の基準 文法的カテゴリー
《論理学》 《文法》
観念(a) 0
対象=記号(a) 0
1/2 記号の数 単数・複数
記号のひろがり 定冠詞-不定冠詞
観念(b) 1 観念の性質 名詞-動詞
1と1/2 観念の拡張 固有名詞-普通名詞
対象(b) 2 対象の性質 実詞-形容詞
2と1/2 対象間の関連 前置詞
3:233
表象→もの
返信削除↓
表象→もの
あるいはまた、
観念→(対象=観念→)対象
3:227 ポールロワイヤル文法序文
観念→(対象= 観念→)対象
(a1)(a2)(b1)(b2)
3:231
レベル 分化の基準 文法的カテゴリー
《論理学》 《文法》
観念(a) 0
対象=記号(a) 0
1/2 記号の数 単数・複数
記号のひろがり 定冠詞-不定冠詞
観念(b) 1 観念の性質 名詞-動詞
1と1/2 観念の拡張 固有名詞-普通名詞
対象(b) 2 対象の性質 実詞-形容詞
2と1/2 対象間の関連 前置詞
3:233
表象→もの
返信削除↓
表象→もの
あるいはまた、
観念→(対象=観念→)対象
3:227 ポールロワイヤル文法序文
観念→(対象= 観念→)対象
(a1)(a2)(b1)(b2)
3:231
レベル 分化の基準 文法的カテゴリー
《論理学》 《文法》
観念(a) 0
対象=記号(a) 0
1/2 記号の数 単数・複数
記号のひろがり 定冠詞-不定冠詞
観念(b) 1 観念の性質 名詞-動詞
1と1/2 観念の拡張 固有名詞-普通名詞
対象(b) 2 対象の性質 実詞-形容詞
2と1/2 対象間の関連 前置詞
3:233
演繹↓
返信削除2
返信削除1
0
パーソンズの図式と呼応する
返信削除「1983年1月5日の講義」(ミシェル・フーコー) - simply2complicated
返信削除http://d.hatena.ne.jp/hirokim21/20091006/1254764685
「1983年1月5日の講義」(ミシェル・フーコー)
Book
Michel Foucault, Le gouvernement de soi et des autres : Cours au College de France. 1982-1983., Paris, Gallimard et Seuil, 2008.
【一時限目】
・私がやろうとしているのは「思考の歴史(une histoire de la pensee)」だ。<思考>ということで私が意味しているのは<経験の源(foyers d'experience)>の分析である。すなわち、第一に可能な知の諸形式について、第二に諸個人にとっての行動の規範的な型について、そして第三に可能な諸主体にとっての潜在的な存在様式についての分析である。これら三つの要素の配置(articulation)こそが<経験の源>である。(pp. 4-5)
・これら三つの軸についての研究こそ私がこれまで試みてきたことだ。
(1)真と偽のゲーム、真理を言うこと(veridiction)の諸形式、connaissanceの歴史からsavoirsの分析への移動
(2)大文字の権力(Pouvoir)の分析ではなく、それによって他者(autres)の振る舞い(conduite)の指導(conduire)が企てられるところの諸テクニックや諸手続きについての分析
統治の手続きの領域での権力の行使(exercer)の分析
規範(norme)の分析から権力の諸実践(exercices)の分析へ
(3)主体の理論への参照からそれによって個人が自分自身を主体として構成するよう導かれるところの様々な形式についての分析へ(自己との関係についての諸テクニック/テクノロジー、すなわち自己のプラグマティックを介した主体化の諸形式)
→<諸経験(experiences)」>の歴史へ(pp. 5-7)
・自己の統治と他者の統治との関係
「啓蒙とは何か」Was ist Aufklarung? (カント)
1784年9月に執筆され12月にベルリン月報(Berlinische Monatsschrift)という雑誌に発表されたテクスト。
カント同じ雑誌で以下の所論考を発表。
1784年11月「世界公民的見地における一般史の構想」
1785年「人種の概念の規定」
1786年「人類の歴史の臆測的起源」
さらにカントは同時期に一般文芸新聞(Allegemeine Literaturzeitung)にヘルダーの著作について書いたり、ドイツ・メルクール(Teutsche Merkur)で「哲学における目的論的原理の使用について」を発表したりしていた。※さらに詳しいカントの年表はここ(リンク)。(pp. 8-9)
・これらの諸論考が発表されたのが「雑誌」であったということが「公衆(public,
Publikum)」概念との関係で重要である。
(1)第一に、それは作家と読者の関係の機能を意味する。カントが分析したのはこの関係についてであった。「公衆」とは一つの「現実(realite)」である。それは学者サークル(societes savantes)やアカデミー、雑誌、あるいはその界隈で流通しているものの存在によって制度化され描かれた現実である。
(2)同時期に同じ雑誌でユダヤ人哲学者のモーゼス・メンデルスゾーンが同じ「啓蒙とは何か」という論考を書いていた。カントとメンデルスゾーンにおいて共に問題となっていたのは、意識することにとどまらず、私的実践と考えられる宗教的実践の表現の絶対的自由の必要性であった。自己の宗教への勧誘(proselytisme)や私的に秩序づけられた共同体内部での権威などとは全く関係なく、自らの宗教にどのような態度をとるかという問題がここでは問われている(キリスト教でもユダヤ教でも)。
(3)哲学的省察の領域における新しいタイプの問いの出現――現在(present)の問い、現在性(actualite)の問い――「今日何が起こっているか?」「我々がそこでそれぞれとしてあり、そこで私が書いている場であり点であるところの、この<今>とは何か?」
もはやある教義や伝統、あるいは人間共同体一般への所属が問われるのではなく、この現在への所属が問われる。すなわちこの<我々(nous)>、それ固有の現在性に特徴的な文化的総体と関わる<我々>への所属が問われるのである。この<我々>こそ哲学による省察の対象でなければならず、あるいはそうならなければならない。哲学は近代の/についての言説となる。
「啓蒙」とは自分自身を指し示す一つの時代であり、自分自身の信条(devise)や掟(precepte)を定める時代である。それはまた一つの名である。
(4)18世紀の終わりから19世紀にかけて<現代の(moderne)>哲学が始まる。フランス革命(Revolution)はその時代を画す出来事である。「啓蒙とは何か?」という問いとともに「革命とは何か?」という問いが問われる。これは1794年にフィヒテが『フランス革命論』を刊行して以来の問いである。カントは1798年の『諸学部の争い』の一部でこれを取り上げる。カントは哲学部と法学部の関係について書かれた第二論文のなかで、この関係の本質を「人類にとっての恒常的な進歩はあるか?」という問いの周囲に位置づける。歴史自身において原因の存在の恒久的なしるし(signe)があるかが問題となる。そのしるしはrememoratif、demonstratif、pronostiqueの三種である。そして革命はこの出来事のしるしとして導入される。
しかし革命の中身が重要なのではない。意味がある(signicatif)のは革命に参加していない傍観者(spectateurs)が、しかしそれを見物することでそれに巻き込まれるそのやり方なのである。革命そのものは単なる無駄遣いである。重要なのは革命を行っておらず、革命の主要なアクターでもない者たちの頭のなかで何が起きるか、なのである。それは彼らが自身とこの革命との間に結ぶ関係である。革命への熱狂(enthousiasme)にこそ意味がある。
この革命は、第一に、全ての人々が自分たちにとって都合がよく自分たちが望む政体(constitution politique)をもつのは当然の権利であると考えるというしるしである。第二に、それは人々がすべて攻撃的戦争を避ける政体を求めるというしるしでもある。ここでは革命が啓蒙のプロセスとなっている。革命は啓蒙のプロセスを完了し継続させるものなのだ。
そして過去に革命があったということが一つの永続的な潜在性(virtualite)を構成する。未来の歴史のために進歩に向けた足取りの非忘却(non-oubli)と継続性を保証するのである。(pp. 9-21)
・啓蒙はカント以降の哲学的思考を貫通している。革命もまた然りである。そしてカント以降の哲学は大きく分けて二つの伝統を形成するに至った。
(1)真理の分析学、アングロ・サクソンの分析哲学
(2)現在の、現在性の、現代の、我々自身の存在論――我々の可能な諸経験の現在的な(actuel)領域は何か?
そして我々が現在的に(actuellement)直面している哲学的な選択がこれである。もちろん、私ができうるかぎり自らを結びつけるところの省察の形式を基礎づけたのは、ヘーゲルからニーチェとウェーバーを経てフランクフルト学派に至る哲学の形式のほうである。(pp. 21-22)
啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)
作者: カント,篠田英雄
出版社/メーカー: 岩波書店
発売日: 1974/06/17
メディア: 文庫
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フランス革命論―革命の合法性をめぐる哲学的考察 (叢書・ウニベルシタス)
フーコー
返信削除「わけても偉大なものとみえる二冊の書物、『差異と反復』と『意味の論理学』について語らね
ばならない。たぶんあまりの偉大さ故にであろう、それを語るのは至難の業だし、また、語って
みせたものもほとんどいはしない。思うに、この著作は、他を圧する比類なきいま一つの徴候た
るクロソウスキーのそれと謎めいた共鳴を響かせつつ、ながらく人びとの頭上を旋回するであろ
う。だがおそらくはいつの日か、時代はドゥルーズ的なものとなっていよう。」
(劇場としての哲学 蓮実重彦訳 Theatrum philosophicum 「クリティック」誌、282号、
1970年11月、邦訳フーコー思考集成3、フーコーコレクション文庫3:299頁)
http://1libertaire.free.fr/MFoucault244.html
《Theatrum philosophicum》 Michel Foucault
l me faut parler de deux livres qui me paraissent grands parmi les grands : Différence et
Répétition, Logique du sens. Si grands sans doute qu'il est difficile d'en parler et que peu
l'ont fait. Longtemps, je crois, cette oeuvre tournera au-dessus de nos têtes, en résonance
énigmatique avec celle de Klossowski, autre signe majeur et excessif. Mais un jour, peut-être,
le siècle sera deleuzien.
Theatrum philosophicum Michel Foucault - L'idée libertaire
返信削除1libertaire.free.fr/MFoucault244.html
Il me faut parler de deux livres qui me paraissent grands parmi les grands : Différence et Répétition, Logique du sens. Si grands ... La métaphore ne vaut rien, me dit Deleuze : point de coeur, point de coeur, mais un problème, c'est-à- dire une ...
フーコー
「わけても偉大なものとみえる二冊の書物、『差異と反復』と『意味の論理学』について語らね
ばならない。たぶんあまりの偉大さ故にであろう、それを語るのは至難の業だし、また、語って
みせたものもほとんどいはしない。思うに、この著作は、他を圧する比類なきいま一つの徴候た
るクロソウスキーのそれと謎めいた共鳴を響かせつつ、ながらく人びとの頭上を旋回するであろ
う。だがおそらくはいつの日か、時代はドゥルーズ的なものとなっていよう。」
(劇場としての哲学 蓮実重彦訳 Theatrum philosophicum 「クリティック」誌、282号、
1970年11月、邦訳フーコー思考集成3、フーコーコレクション文庫3:299頁)
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《Theatrum philosophicum》 Michel Foucault
Il me faut parler de deux livres qui me paraissent grands parmi les grands : Différence et
Répétition, Logique du sens. Si grands sans doute qu'il est difficile d'en parler et que peu
l'ont fait. Longtemps, je crois, cette oeuvre tournera au-dessus de nos têtes, en résonance
énigmatique avec celle de Klossowski, autre signe majeur et excessif. Mais un jour, peut-être,
le siècle sera deleuzien.
返信削除正常と病理
Le normal et le pathologique
https://www.amazon.co.jp/dp/4588002252
1987/12
法政大学出版局
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784588140389
2017/1
叢書・ウニベルシタス
正常と病理 (新装版)
カンギレム,ジョルジュ【著】〈Canguilhem,Georges〉/滝沢 武久【訳】
1 正常と病理に関するいくつかの問題についての試論(一九四三年)(病理的状態は、正常な状態の量的変化にすぎないか?;正常と病理の科学は存在するか?)
2 正常と病理に関する新考(一九六三年‐一九六六年)(二十年後…;社会的なものから生命的なものへ;人間の有機的規範について;病理学における新しい概念―“誤謬”;結語)
著者紹介
カンギレム,ジョルジュ[カンギレム,ジョルジュ] [Canguilhem,Georges]
1904年フランス西南部のカステルノダリーに生まれる。ソルボンヌで哲学を、ストラスブール大学で医学を修め、バシュラールに師事して科学哲学研究者の道を歩む。バシュラールの後任としてパリ大学科学史・技術史研究所長をつとめ、1955年から71年までソルボンヌの教壇に立ち、科学史・科学哲学を講じた。科学哲学、医学、生物学にわたる深い学殖をもとに、概念の生成を歴史的に究明し、アルチュセール派、ラカンの後継者たち、さらにはフーコー、ダゴニェ、ブルデュー、セールらに大きな影響を与えた。1995年死去
滝沢武久[タキザワタケヒサ]
1931年東京生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。電気通信大学教授、大妻女子大学教授を経て、電気通信大学名誉教授。2015年死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
出版社内容情報
医学の基礎をなす認識論上の問題を哲学・心理学・生物学・社会学等の広範な視野から検討し,生命科学の意味を根底から問う。科学批判の認識論の立場から生命科学の根本問題を問いなおし、生命を物理・化学現象に解消させる機械論を徹底的に批判しつつ、正常と病理の概念を「生命に内在する規範」をもとに定義しなおして、現代医学・生命科学はもとより、科学哲学に新たな展望をひらく。エピステモロジーの古典的名著にしてフランス現代思想のオリジンとして必読書!
緒言
Ⅰ 正常と病理に関するいくつかの問題についての試論(1943年)
第二版の序
序論
第一章 病理的状態は、正常な状態の量的変化にすぎないか?
Ⅰ 問題への導入
Ⅱ オーギュスト・コントおよび《プルセの原理》
Ⅲ クロード・ベルナールおよび実験病理学
Ⅳ ルリッシュの考え
Ⅴ 理論の意味
第二章 正常と病理の科学は存在するか?
Ⅰ 問題への導入
Ⅱ いくつかの概念の批判的検討
――正常と病理および病気、正常なものと事件的なもの
Ⅲ 規範と平均
Ⅳ 病気、回復、健康
Ⅴ 生理学と病理学
結論
Ⅱ 正常と病理に関する新考(1963年―1966年)
二十年後
社会的なものから生命的なものへ
人間の有機的規範について
病理学における新しい概念――《誤謬》
結語
原註
訳註
訳者あとがき
人名牽引
文献目録
参考文献一覧
ジョルジュ・カンギレム[カンギレム ジョルジュ]
(Georges Canguilhem)
1904年フランス西南部のカステルノダリーに生まれる。ソルボンヌで哲学を、ストラスブール大学で医学を修め、バシュラールに師事して科学哲学研究者の道を歩む。バシュラールの後任としてパリ大学科学史・技術史研究所長をつとめ、1955年から71年までソルボンヌの教壇に立ち、科学史・科学哲学を講じた。科学哲学、医学、生物学にわたる深い学殖をもとに、概念の生成を歴史的に究明し、アルチュセール派、ラカンの後継者たち、さらにはフーコー、ダゴニェ、ブルデュー、セールらに大きな影響を与えた。1995年死去。邦訳書に、本書『正常と病理』、『生命の認識』、『反射概念の形成』、『科学史・科学哲学研究』、『生命科学の歴史』(以上、法政大学出版局)がある。
滝沢 武久[タキザワ タケヒサ]
1931年東京生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。電気通信大学教授、大妻女子大学教授を経て、電気通信大学名誉教授。2015年死去。著書に、『知能指数』(中公新書)、『認知発達の心理学』(白水社)、『子どもの思考力』(岩波新書)、『子どもの思考と認知発達』(大日本図書)、訳書に、ピアジェ『心理学と認識論』(誠信書房)、ピアジェ『思考の誕生』(朝日出版社)などがある。
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NAMs出版プロジェクト: 『ミシェル・フーコー思考集成 全10巻』筑摩書房 目次:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2014/03/10.html
『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』
Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=20001125 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』,筑摩書房,375p.
1978
219 フーコーによる序文 廣瀬浩司訳
…
■内容
1978
219 フーコーによる序文 廣瀬浩司訳
G・カンギレム『正常と病理』(ボストン、D・リーデル、一九七八年、9-20ページ)所収。
「カヴァイエス、コイレ、バシュラール、カンギレムなどの作品の等価物をフランス以外に求めるとするならば、それはおそらくフランクフルト学派のなかに見いだされることだろう。もちろん文体はかなり違うし、研究方法や研究分野も異なる。一方はデカルトの記憶につきまとわれ、他方はルターの亡霊におびやかされてはいるが、最終的にはどちらも同じ種類の問題を提起している。(…)フランスの科学史とドイツの批判理論のどちらにおいても、根底から検討すべきものは理性である。理性は、その構造的な自律性そのものにおいて、独断論と専制主義の歴史をかかえこんでいる。したがって理性が解放の効果を持つことができるのは、おのれ自身から解放されたときだけなのだ。」(本文8頁より)
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/051204canguilhem.html
正常と病理 / ジョルジュ・カンギレム[著] ;
滝沢武久訳. -- 法政大学出版 局, 1987. -- (叢書・ウニベルシタス ; 225) 読書メモ
返信削除http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/051204canguilhem.html
正常と病理 / ジョルジュ・カンギレム[著] ;
滝沢武久訳. -- 法政大学出版 局, 1987. -- (叢書・ウニベルシタス ; 225) 読書メモ
池田光穂
[使用上の注意]馬鹿で無思慮な人間のノートですので内容は保証しません。
正常と病理 / ジョルジュ・カンギレム[著] ; 滝沢武久訳. -- 法政大学出版 局, 1987. -- (叢書・ウニベルシタス ; 225)
Le normal et le pathologique / par Georges Canguilhem. -- Presses univ ersitaires de France, 1966. -- (Galien : histoire et philosophie de la biologie et de la medecine)
Le normal et le pathologique / Georges Canguilhem. -- 9e ed. -- Paris : PUF, c2003.
著者: Canguilhem, Georges, 1904-
●疾病論上の二項対立
「医学者たちの考えは、病気についてのこうした二つの表象(病原体のような〈存在論〉と調和の攪乱のような〈全体論〉のこと――引用者註) の一方から他方へ、二つのかたちの楽観論の一方から他方へ揺れ動き続けた。そして揺れ動くたびごとに、必ずどちらかの側にとっての何かしらもっともな理由 を、新しく明らかにされた病因の中に、見つけたのだった。欠乏症の病気およびいっさいの伝染病や寄生病は、存在論的理由に軍配を挙げ、内分泌障害および不 十分、困難、異常、障害などを示す接頭辞dysのついたあらゆる病気は、ダイナミズムの理論つまり機能的理論に軍配を挙げる。にもかかわらず、これら二つ の考え方には一つの共通点がある。すなわち、いずれも病気の中に――病/気であるという経験の中にといった方がいい――戦いの場をみている。一方は有機体 と外部のものとの戦いであり、もう一方は内部のせめぎ合う力同士の戦いである。一方は一定の本源的要素の存在や欠如によって、もう一方は有機体全体の配置 替えによって、病気は健康状態から区別される。一つの性質が他の性質とは異なるように、病理的なものは正常なものと異なるのである」(カンギレム 1987:15-16)。
●規範の哲学/規範の不在
「完全なものはあらゆる完全さをもっているものだから、自己を存在させることの完全さももっているだろうと考えて、その完全さの性質から出 発して、完全なるものの存在を証明できるかどうかを、人は長い間追求してきた。完全な健康が事実上存在するかという問題もこれと同様である。まるで完全な 健康が、批判的な概念ないし理想型ではないかのようではないか? 厳密にいえば規範は存在しない。規範は、存在するものを低く評価して修正可能とならしめ る役割を果たしている、完全な健康が存在しないということは、単に、健康の概念が存在概念ではなくて、規範概念だということだ。規範の役割と価値は、存在 するものにかかわり合って、これを変更させることにある。このことは、健康が空虚な概念だということを意味しない」(カンギレム 1987:55)。
●衛生の規範
「衛生の規範の定義は、政治的見地からすると、統計的に見た住民の健康や、生活条件の衛生や、医学に焦点を合わせた予防と治療の処置の均等 な拡張などに向けられた関心を前提とする。オーストラリアでは、マリア・テレジアとヨゼフ二世とか、帝国健康委員会(Sanita~ts- Hofdeputation. 1753)を創設して「主要衛生規則」(Haupt Medizinal Ordnung)を公布することによって、公衆衛生の制度に法律的規定を与えている。主要衛生規則は、一七七〇年、「衛生規範」(Sanita~ts- normativ)に置き代えられた。それは、医学や獣医技術や薬局や外科医養成や人口統計や医学統計などに関連する四十の規定から成る。ここで/は規範 と規格化に関して、実体とともに言葉をもつわけである」(カンギレム 1987:228-229)。
●規範・規格化
「……正常という用語そのものは、教育制度と衛生制度という二つの制度特有の語彙から出発して、通俗語の中を通って、そこへ移植されたので ある。そして、これらの制度の改革も少なくともフランスに関する限り、フランス革命という同じ原因の影響のもとで、同時におこった。正常というものは十九 世紀に、学校の模範や身体器官の健康状態をさし示す用語だった。理論としての医学の改革それ自体が、実地としての医学の改革にもとづいている。すなわち、 理論としての医学の改革は、フランスでも、オーストラリアでも、病院の改革と密接に結びついている。病院の改革と教育改革とは、合理化の要請を表してい る。合理化の要請は、出現し始めた工業機械化の影響のもとに、経済にも政治にも現れている。そして結局は、それ以後、規格化 (normalisation)と呼ばれたものに帰着することになる」(カンギレム 1987:219)。
●規範概念が、病理概念を相対化する
「もし病気がやはり一種の生物学的規範だということが認められるなら、病理的状態はけっして異常といわれることはできず、一定の場面との関 係の中で異常だといえることになる。逆に病理的なものは一種の正常なものなのだから、健康であることと正常であることとはまったく同じではない。健康であ ることは、一定の場面で正常であるということだけでなく、その場面でも、また偶然出会う別の場面でも、規範的であるということでもある。健康を特徴づける ものは、一時的に正常と定義されている規範をはみ出る可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範/を設ける可 能性である」(カンギレム 1987:175-176)。
●クロード・ベルナールの平均・嫌悪
「クロード・ベルナールは、平均で表された生物学的分析や生物学的実験のすべての結果に対して、嫌悪感を示していた」(カンギレム 1987:130)。
●健康の2つの意味
「正常なものと異常なものとを、相対的な統計的頻度で定義して、病理的なものを正常とみなすやり方は、おそらく存在する。ある意味で、完全 な健康が続くことは異常なことといわれている。しかし、それは健康という言葉には2つの意味があるということである。絶対的な意味での健康は、有機体の構 造と行動の理想型を示す規範概念である。この意味では、よい健康を語ることはひとつの冗語法(redundancy?:引用者)である。なぜなら、健康と は器官がよいことだからだ、資格ありとされる健康は、可能な病気に対する個々の有機体のある種の傾向と反応を示す記述概念である」(カンギレム 1987:116)。
●ベルナールとコント
「クロード・ベルナールは『実験医学研究序説』(仏語省略)を著すにあたって、効果的作用が科学と同じだということを主張しようとしただけ でなく、同時にこれと並行して、科学は現象の法則の発見と同じだということも主張しようとした。この点で、コントと完全に一致している。コントが彼の生物 哲学において生存条件の学説と呼んでいるものを、クロード・ベルナールは決定論とよんでいる。彼はこの用語をフランスの科学的言説の中に、最初にもち込ん だと自負している」(カンギレム 1987:86)。
●ジョン・ライル(John A. Ryle*)論文「正常の意味」
The meaning of normal. 1947
「オックスフォード大学の社会医学の教授であるこの著者は、何よりもまず、生理的規範とくらべて個人にある種の偏りがみられたとしても、そ れだけでは病理的指標ではありえないことを証明しようと努めている。生理的変異性が存在することは正常である。それは順応にとって、したがって生存にとっ て、必要なのである」(カンギレム 1987:252)Canguilhem G. Le Normal et le Pathologique, Paris, P.U.F., 1966.
フーコー
返信削除思考集成7
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青苔寺 上野原青苔寺 山梨
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臨済宗南禅寺派 飯盛山 青苔禅寺(せいたいじ):住職挨拶
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桂河九曲して鶴州の邊り、鐘韻塵を除って萬境鮮なり。眼下を見下ろせば桂川の畔に 位置する風光明媚な臨済宗南禅寺派のお寺「飯盛山 青苔寺」(せいたいじ)
大森曹玄老師