オーデン(W.H.Auden 1907-1973)の詩論「作ること、知ること、判断すること」
1956年6月11日、オックスフォード大学で行われた詩学教授就任講演
(『オーデン詩集』1993.10.20 小沢書店、179頁より)
芸術作品を創作したいという衝動は、つぎのようなときに、ある種の人々の心に生じるのであります。
すなわち、聖なる存在あるいはできごとによって喚起された受動的な畏怖感が変形されて、ひとつの願
いになるときです。この畏怖感を礼拝または尊敬の儀式において表現したいという願いです。そして、
適切な尊敬であるためには、この儀式は美しくなければなりません。この儀式はなんら魔術的、偶像崇
拝的な意図はもっていません。お返しになにも期待していません。それはまた、キリスト教的な意味で
の祈祷の行為でもありません。それが造物主を讃美する場合には、神の被造物を讃美することによって、
間接的にするのです。この披造物のなかには、神性についての人間の概念も含まれているかもしれませ
ん。この儀式と救い主としての神との関係は、どちらかといえば、もしあるにしてもごくわずかしかな
いのであります。
詩の場合、この儀式はことばで行なわれます。名前をつけることによって、尊敬を払うのであります。
わたしは、精神が詩という手段に向かう原因は、ある誤りに求められるのではないかと思っています。
かりに、子守りが子供にむかって「ごらん、お月さまよ!」といったとします。子供は月を見ます、こ
の子供にとって、これは聖なる出会いであります。彼の心のなかでは「月」という語は、聖なる物体に
つけられた名前ではなく、そのもののもっとも重要な属性のひとつであり、したがって神霊的なのであ
ります。もちろん、彼には詩を書こうという考えは浮かび得ません。そういう考えが生まれるのは、名
称と事物とは同一ではないこと、知性によって知り得る聖なる言語は存在し得ないことを彼が悟ってか
らのことです。しかし、わたしは疑問に思うのです、すなわち、もし彼が以前に、この誤った同一化を
していなかったら、彼が言語の社会的性質を発見したときに、言語の用途のうちのひとつであるこの名
前をつけるという用途に、これほどの重要性を付与するであろうか、と思うのです。
「生活の技術、とくに詩人の生活の技術は、なすべき何事かをもつこと
ではなくて、なにかをなすことである。」
という言葉を掲げている。
178-9頁
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ます。第一の想像力にとっては、聖なる存在とは、そうであるままのものです。第二の想像力にとって
は、美しい形式とは、そうであるべきものですし、みにくい形式とは、そうであってはならないもので
す。第二の想像力は、美しいものを観察すると満足感を覚えます。喜びの感じ、争いの不在の感じを覚
えるのです。みにくいものを観察すると、逆の感じを覚えます。第二の想像力は、美しいものを欲しま
せん。しかしみにくい形式は、第二の想像力のなかに、このみにくさが修正され、かつ美しくされねば
ならぬという欲望を引き起こすのであります。それは、美しいものを崇拝はしません。美しいものに賛
成し、この賛成の理由を述べることができるのです。第二の想像力は、ブルジョア的性質をもっている
といってよいでしょう。それは規則正しさ、空間的均斉、時間的反復に賛成であります。法則と秩序に
賛成でありまして、混乱状態、見当違い、不潔さに反対なのです。
最後に、第二の想像力は人づきあいがよく、他の人々との意見の一致を切望するものであります。も
しわたしがある形を美しいと思い、あなたがみにくいと思ったら、われわれはともに、ふたりのうち、
どちらかが誤っているに違いないということに同意せざるを得ません。これに反して、もしわたしがあ
るものを聖なりと考え、あなたがそれを俗なりと考えたとしても、われわれはともに、そのことを問題
にしようとは夢にも思わないのです。
精神の健康にとっては、双方の想像力が肝要であります。聖なる畏怖についてのインスピレーション
がなければ、この美しい形もやがて陳腐となりましょうし、このリズムも機械的となるでしょう。第二
の想像力の能動性がなければ、第一の想像力の受動性は、精神の破滅の原因となるでしょう。おモかれ
早かれ、その聖なる存在はそれを支配し、第一の想像力はみずからを聖なりと考えるようになり、外部
世界を俗として排除し、そうして気が狂うでありましょう。
芸術作品を創作したいという衝動は、つぎのようなときに、ある種の人々の心に生じるのであります。
すなわち、聖なる存在あるいはできごとによって喚起された受動的な畏怖感が変形されて、ひとつの願
いになるときです。この畏怖感を礼拝または尊敬の儀式において表現したいという願いです。そして、
適切な尊敬であるためには、この儀式は美しくなければなりません。この儀式はなんら魔術的、偶像崇
拝的な意図はもっていません。お返しになにも期待していません。それはまた、キリスト教的な意味で
の祈祷の行為でもありません。それが造物主を讃美する場合には、神の被造物を讃美することによって、
間接的にするのです。この披造物のなかには、神性についての人間の概念も含まれているかもしれませ
ん。この儀式と救い主としての神との関係は、どちらかといえば、もしあるにしてもごくわずかしかな
いのであります。
詩の場合、この儀式はことばで行なわれます。名前をつけることによって、尊敬を払うのであります。
わたしは、精神が詩という手段に向かう原因は、ある誤りに求められるのではないかと思っています。
かりに、子守りが子供にむかって「ごらん、お月さまよ!」といったとします。子供は月を見ます、こ
の子供にとって、これは聖なる出会いであります。彼の心のなかでは「月」という語は、聖なる物体に
つけられた名前ではなく、そのもののもっとも重要な属性のひとつであり、したがって神霊的なのであ
ります。もちろん、彼には詩を書こうという考えは浮かび得ません。そういう考えが生まれるのは、名
称と事物とは同一ではないこと、知性によって知り得る聖なる言語は存在し得ないことを彼が悟ってか
らのことです。しかし、わたしは疑問に思うのです、すなわち、もし彼が以前に、この誤った同一化を
していなかったら、彼が言語の社会的性質を発見したときに、言語の用途のうちのひとつであるこの名
前をつけるという用途に、これほどの重要性を付与するであろうか、と思うのです。
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