火曜日, 4月 08, 2014

ハイデガー動画集

http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50024519.html


ハイデガー マルクスを語る。1969年


Martin Heidegger Critiques Karl Marx - 1969 
http://jp.youtube.com/watch?v=jQsQOqa0UVc 
ハイデッガー 
(略)社会の変革などということがいったいどこまでいえるのかということも問題です。世界変革の要求を問題にするとすれば、結局、しばしば引用されるカール・マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』にある例の命題にまでさかのぼらねばなりません。 
その命題を正確に引用して読み上げてみましょう。「哲学者たちは世界をいろいろと解釈したにすぎなかった。大事なことは世界を変革することだ。」 
この命題を引用し、そしてまた特にこの命題に従って行動する場合、人は、世界の変革というものを前提としており、世界表象というものを十分に解釈することによってのみ得られる、とうことを見のがしています。
つまりマルクスはまったく明確な一つの世界解釈を地盤として、そのうえで世界の変革を要求しているのです。だからこの命題は決して基礎づけがしっかりなされたものだとはいえません。この命題は決然として哲学に反対しているかのように見えますが、じつはこの命題の後半には言わず語らずはっきり一つの哲学を要求する態度が前提とされているのです。
『ハイデッガーは語る』(1973年、理想社、pp78-79)



http://jp.youtube.com/watch?v=9_vYz4nQUcs 
Heidegger Speaks. Part 1. English subtitled. 
(冒頭の2分) 

情報の一つの道具としての言語についてのイメージは、今日極端なものにまで推し進められています。(略) 
言語に対する人間の関係は変化しつつあり、その変化の射程を我々はまだ見極めてはいません。この変化の進行も、それを直接押しとどめることはできません。しかもその進行は、きわめて静かに行われています。 
なるほど我々は認めざるを得ないのですが、日常に於ける言語は了解の一手段のように思われており、このような手段として、生活の通常の諸関係に対して利用されています。しかしながら、通常の諸関係が他にあるのです。ゲーテはこの別の諸関係を「より深い(諸関係)」と呼んで、言語について次のように言っています。 
「普通の生活では、我々は言語に関してぎりぎりの暮らしをしている、何故ならば、我々は表面的な諸関係しか言い表さないからである。より深い諸関係が話題になるや否や、直ちに別の言語、ポエーティッシュ(詩的)な言語が現れる。」(作品集第二部、第11巻、ワイマール1893年、167頁。) 

「ヘーベルーー家の友(1957年)」(邦訳『ハイデッガー全集13、思惟の経験から』p186より)

(以下続き。英訳のみ)
Uber die Aufgabe des Denkens 1964
2:17-5:00
The decisive experience of my thinking
and that means at the same time for western philosophy.
the meditation on the history of western philosophy
has shown me that in the past one question did never appear:
the question of being.
And this question is relevant because we determine in western thinking
that man is in a relation to the being and that he exists by corresponding to the being.

(Uber die Aufgabe des Denkens 1964)

The task which is given to the Thinking nowdays as I understand it
is new in the sense that it requires a new method of thinking
and this method can only be used in the direct dialogue between man and man
and and can only be attained through a long exercise and through an exercise as one
might say seeing in thinking .
That means:this way of thinking can be performed for the present only by a few
but can be then mediated through the different educational spheres communicated to others.
I'll give you an example.
Today everybody is able to operate a radio or television set without knowing the laws of physics that make them work
without knowing the methods which were used to find these laws
-methods which in their substantial contents
are understood today only by five or six Physicists.
The same in valid for the task of thinking.


追記:
以下のHPに日本語訳があった(07,12/28記)。ただし、出典は確認できなかった(全集13巻ではない?)。
http://nn-nico.blogspot.com/

 私の思考の決定的な経験は、同時に西洋哲学にとっての決定的な経験を意味する。西洋哲学史への思索が私に対して姿を現すのである。その思索とは、過去においては決して到来しなかった一つの問いだ。つまり、存在の問いである。

 私の思考の決定的な経験は、同時に西洋哲学にとっても決定的な経験を意味し、その思索は私に、過去決して現れることがなかった、存在の問いを示したのだ。

 この問いは重要(妥当・連関的)だ。というのは、西洋的思考において私はこう規定している。世人(ひと)は存在との関係のなかにあり、世人は存在と対応するようにして存在するのだ、と。

(…)この問は、私が規定するところの、人間は存在との関係のうちにあり、そしてかれは存在と調和することにおいて存在するということと連関する。

Über die Aufgabe des Denkens 1964
『[ハイデッガー全集13巻]思索の経験より』 1964 思惟の経験から

 いま思考に与えられたこの経験/使命(Aufgabe)は、思考が新たな方法を必要とし、その方法は世人間の直接対話においてのみ使用されうるという意味において新しいのだと私は理解している。で、そして、この新たな方法は長い試練を、試練を経てのみ獲得されるのであり、人はそれを思考における見(見ること・視覚...洞察?)だと言うだろう。このことが意味するのは、この思考の方法はいまではわずかな人によって遂行(上演)可能なだけだが、異なる教育的領域を通して思索されており、それを介してその人々(他者)の間でコミュニケート可能になっている。

 今日思考に与えられた使命とは、思考の新しい方法を必要とし、この方法が人と人との直接的な対話においてのみ使用されることができるという意味において、私が新しいと理解したものだ。(…)この思考方法は現在わずかな人間によって遂行されるのみであるが、異なった教育領域で媒介され、お互いがコミュニュケート可能なのだ。

 一つ例を出そう。今日ひとびとはラジオやテレビを操作可能だ。それらを作動させている物理法則を知らずに。物理法則を発見するためのもろもろの方法論を知らずに。(もろもろの方法論とは、その実質的な内容において、今日では五、六名の著名な物理学者にだけ理解可能なものとなっている)。

 同じことが思考の使命/経験にも言える。


heidegger on future of philosophy (english subtitles) 
http://jp.youtube.com/watch?v=MZkYMwmMS4k 
思惟の運命がどういうふうなさまになるかは誰にもわかりません。 
私は1964年にパリで「哲学の終わりと思惟の使命」という講演をしました。もっともこれは私がでかけて行って自分でしゃべったのでなく、フランス語に翻訳してもらって皆さんの前で読んでもらったのですが。この題からもおわかりのように、私は、哲学すなわち形而上学と、私が解しているような意味での思惟との間に一つの区別を設けているのです。 
この講演の中で私が哲学と区別し対照して置いている思惟------この区別、対照は特にギリシア的アレテイア(真理)の本質を明らかにしようという試みがなされることによって生じるのですが------この思惟は、事柄から言えば、形而上学との関係においては哲学よりずっとずっと単純です。しかし単純だからこそ実行においてはずっとずっとむずかしいのです。 
そしてそのためには、言葉というものを今までとは違った意味で慎重に扱わねばなりません。ただしこのことは、私自身もかつては考えていたことのある新しい述語の発明ということではないのです。そうではなくて、われわれ自身の国語でありながら、だんだん枯れてゆくような状態にありつづけている言葉の根源的な内実へと帰ることなのです。 
誰か将来の思惟する人が、たぶん、私が準備を試みているこの思惟を真に受け継ぐという使命の前に立たされるでしょう。その人に対しては、かつてハインリッヒ・クライストが書いた一句が述べているのとぴったり同じことがあてはまるでしょう。その句というのは次のようなものです。「私は、まだここにいるのではないひとりの前で後ずさりし、その人の精神のまえにひざまずく。」 
『ハイデッガーは語る』(1973年、理想社、pp89-90)