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木曜日, 5月 29, 2014

マルクス『経済学批判』(1859年刊行)序言より

                (マルクスリンク::::::::::

以下、ゲゼルマネーにつながる認識
価値を固定化する価値形態論よりも中期マルクスに可能性はある

経済学批判 第一部 資本について 貴金属

 貴金属の高い価値比重、恒久力をもち、相対的意味では破壊されず、空気にふれても酸化しないという性質、とくに金のばあいは王水以外の酸には溶解しないという性質、こうしたいっさいの自然的属性が、貴金属を貨幣蓄蔵の自然的材料たらしめている。だからチョコレートが非常に好きであったらしいペテル・マルティルは、メキシコの貨幣の一種であった袋入りのココアについて、つぎのようにのべている。「おお、いみじくもよき貨幣よ、おまえは人類に甘美にして滋養のある飲物をあたえ、その罪のない所有者を、貪欲という業病からまもってくれる。なぜならば、おまえは、地中に埋蔵されることも、長く保蔵されることもできないのだから。」(『新世界について』《アルカラ、一五三〇年、第五編、第四章》。)


 最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、またその逆の方向に転化されうること、それゆえひとたびあたえられた一定の使用形態にしばられないという、ほかの商品よりすぐれた点をもっていること、このことは、金銀を、貨幣というたえずひとつの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な材料たらしめるのである。…

(『されどマルクス』2018,94頁で実験経済学の川越敏司が引用)


マルクス『経済学批判』序言(全)
原著 Zur Kritik der politischen Ökonomie:Vorwort
著者 Karl Marx

著作集第一巻で三枝博音はマルクス『経済学批判』(1859年刊行)序言↓を論じている。

            <…‥わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、
簡単につぎのように公式化することができる。人間は、その生涯の社会的生産において、一定の、
必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸カの一定の発展段
階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっ
ており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、
一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、
政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのてはなくて、逆
に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。(社会の物質的生産諸力は、その発展があ
る段階にたっすると、いままでそれがそのなかで働いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法
的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生涯諸力の発展諸形態
からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。)経済的基礎の変化に
つれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。このような諸変革を考察
するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革
と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の
諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とをつねに区別しなければならない。(ある個人を
判断するのに、かれが自分自身をどう考えているかということにはたよれないのと同様、このよ
うな変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識
を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説
明しなければならないのである。[一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展
の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産
諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとって
かわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけであ
る、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条
件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生
するものだ、ということがつねにわかるであろうから。])大ざっぱにいって、経済的社会構成が進
歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげる
ことができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵
対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形
態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこ
の敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって。人間社
会の前史はおわりをつげるのである。>

(マルクス『経済学批判』岩波文庫13~15頁より。『世界史の構造』4-5頁参照)

柄谷行人は引用に際してカッコ内を省略したが、三枝は二番目のカッコ内の[ ]部分を「『資本論』の方法の真髄を語っているもの」(「資本論の弁証法」同280頁)として重要視する。


マルクスは『経済学批判』の序言で唯物史観を定式化し、これを自らの「導きの糸」と呼んでおり、その内容は以下である。
人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。
一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。
大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。
Karl Marx - Zur Kritik der Politischen Oekonomie - Vorwort
Das allgemeine Resultat, das sich mir ergab und, einmal gewonnen, meinen Studien zum Leitfaden diente, kann kurz so formuliert werden:

 In der gesellschaftlichen Produktion ihres Lebens gehen die Menschen bestimmte, notwendige, von ihrem Willen unabhängige Verhältnisse ein, Produktionsverhältnisse, die einer bestimmten Entwicklungsstufe ihrer materiellen Produktivkräfte entsprechen. Die Gesamtheit dieser Produktionsverhältnisse bildet die ökonomische Struktur der Gesellschaft, die reale Basis, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebt und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprechen. Die Produktionsweise des materiellen Lebens bedingt den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt. Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt. 

Auf einer gewissen Stufe ihrer Entwicklung geraten die materiellen Produktivkräfte der Gesellschaft in Widerspruch mit den vorhandenen Produktionsverhältnissen oder, was nur ein juristischer Ausdruck dafür ist, mit den Eigentumsverhältnissen, innerhalb deren sie sich bisher bewegt hatten. Aus Entwicklungsformen der Produktivkräfte schlagen diese Verhältnisse in Fesseln derselben um. Es tritt dann eine Epoche sozialer Revolution ein. Mit der Veränderung der ökonomischen Grundlage wälzt sich der ganze ungeheure Überbau langsamer oder rascher um. 

In der Betrachtung solcher Umwälzungen muß man stets unterscheiden zwischen der materiellen, naturwissenschaftlich treu zu konstatierenden Umwälzung in den ökonomischen Produktionsbedingungen und den juristischen, politischen, religiösen, künstlerischen oder philosophischen, kurz, ideologischen Formen, worin sich die Menschen dieses Konflikts bewußt werden und ihn ausfechten. Sowenig man das, was ein Individuum ist, nach dem beurteilt, was es sich selbst dünkt, ebensowenig kann man eine solche Umwälzungsepoche aus ihrem Bewußtsein beurteilen, sondern muß vielmehr dies Bewußtsein aus den Widersprüchen des materiellen Lebens, aus dem vorhandenen Konflikt zwischen gesellschaftlichen Produktivkräften und Produktionsverhältnissen erklären. 

Eine Gesellschaftsformation geht nie unter, bevor alle Produktivkräfte entwickelt sind, für die sie weit genug ist, und neue höhere Produktionsverhältnisse treten nie an die Stelle, bevor die materiellen Existenzbedingungen derselben im Schoß der alten Gesellschaft selbst ausgebrütet worden sind. Daher stellt sich die Menschheit immer nur Aufgaben, die sie lösen kann, denn genauer betrachtet wird sich stets finden, daß die Aufgabe selbst nur entspringt, wo die materiellen Bedingungen ihrer Lösung schon vorhanden oder wenigstens im Prozeß ihres Werdens begriffen sind. 

In großen Umrissen können asiatische, antike, feudale und modern bürgerliche Produktionsweisen als progressive Epochen der ökonomischen Gesellschaftsformation bezeichnet werden. Die bürgerlichen Produktionsverhältnisse sind die letzte antagonistische Form des gesellschaftlichen Produktionsprozesses, antagonistisch nicht im Sinn von individuellem Antagonismus, sondern eines aus den gesellschaftlichen Lebensbedingungen der Individuen hervorwachsenden Antagonismus, aber die im Schoß der bürgerlichen Gesellschaft sich entwickelnden Produktivkräfte schaffen zugleich die materiellen Bedingungen zur Lösung dieses Antagonismus. Mit dieser Gesellschaftsformation schließt daher die Vorgeschichte der menschlichen Gesellschaft ab.
Diese Skizze über den Gang meiner Studien im Gebiet der politischen Ökonomie soll nur beweisen, daß meine Ansichten, wie man sie immer beurteilen mag und wie wenig sie mit den interessierten Vorurteilen der herrschenden Klassen übereinstimmen, das Ergebnis gewissenhafter und langjähriger Forschung sind. Bei dem Eingang in die Wissenschaft aber, wie beim Eingang in die Hölle, muß die Forderung gestellt werden:















Qui si convien lasciare ogni sospetto
Ogni viltà convien che qui sia morta.
<Hier mußt du allen Zweifelmut ertöten,
Hier ziemt sich keine Zagheit fürderhin.
(Dante, "Göttliche Komödie")>

London, im Januar 1859
経済学の領域におけるわたくしの研究の経過についてのこの簡単な叙述は、わたくしの見解がどのように評価されようとも、また支配諸階級の利己的な偏見とどれほど一致しにくくとも、それが長年月にわたる良心的な研究の成果であることだけは、はっきりと示してくれるはずである。だが、科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。
  ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ。
  臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ*。
* ダンテ『神曲』

一八五九年一月
ロンドンにて   カール・マルクス
マルクス『経済学批判』序言(全)

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世界共和国へ-資本=ネーション=国家を超えて
柄谷行人 2014年5月21日

以下、上記書より






第Ⅰ部 交換様式
1 「生産」から「交換」へ 
 史的唯物論への疑問
 資本とネーションと国家について考えるとき、私が参照したいのはマルクスです。というのは、マルクスだけがそれらに関して、包括的な把握を示したからです。しかし、すでに述べたように、そこには国家やネーションに関する認識上の欠落があります。たとえば、マルクスはつぎのように書いています。

わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎのように公式化することができる。人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。(『経済学批判』序言、武田隆夫ほか訳)  

 このような見方は、のちにエンゲルス以下のマルクス主義者によって「史的唯物論」と呼ばれています。ここで問題があるのは、国家を、文学や哲学その他と同じようなものであるかのように「上部構造」においたことです。しかし、国家が経済的な下部構造の上にある上部構造だというような見方は、近代資本主義国家以後にしか成立しません。それ以前においては、国家(政治)と経済とに、はっきりした区別はありえないのです。
 たとえば、原始社会(部族的共同体)においては、そもそも国家がなく、したがって、経済的な構造と政治的な構造の区別はありません。また、「東洋的国家」においても、国家装置(軍・官僚・警察機構など)は、経済的な意味での支配階級の上にあるものではない。皇帝・王とそれを支える官僚層全体が、まさに経済的な意味での支配階級なのです。
 「生産様式」がもたらす誤謬
 マルクスは「経済的社会構成体が進歩してゆく段階として、アジア的、〔古典〕古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげることができる」と書いています(同前)。しかし、資本制以前の社会構成体においては、国家もいわば生産様式の一部です。つまり、そこでは経済的構造と政治的構造の区別がありません。にもかかわらず、「生産様式」という観点に立つと、まるでそのような区別があるかのように見えてしまいます。したがって、このような混乱を避け、資本制以前をふくめて社会構成体の歴史を普遍的に見るためには、「生産様式」という言い方をやめたほうがよいのです。
 マルクスは「経済学批判序説」で、個人と個人の間の商品交換からはじめるアダム・スミスに対して、それは近代社会での在り方を原始段階に投影することだと批判しました。だが、そうだとしたら、史的唯物論にも同じ誤謬があるといわねばならないでしょう。
 「生産様式」から「交換様式」へ

 マルクスが経済的な下部構造を重視したのは、人間をまず自然との関係において見るという観点をとったからです。そのために彼は、人間が自然に働きかけて財を作り出す「生産」を重視した。さらに、彼は、生産が人間と人間の関係を通してなされること、いいかえれば、一定の生産関係の下で生産がなされることを見た。それが生産様式という概念です。
 本来、生産様式とは、生産が一定の交換や分配の形態でなされる形態を意味します。つまり、生産があって、そののちに交換・分配がなされるのではない。ところが、「生産様式」という表現をとると、交換や分配が二次的なものとみなされてしまいます。
 たとえば、原始的氏族的生産様式という場合、それは狩猟採集というようなこと人間と自然の関係を指すのではありません。それは、生産物が互酬によって全員に配分されるような生産の様式人間と人間の関係を指します。であれば、それは生産様式というよりも、「交換様式」と呼ぶべきだと思います。
 その場合、交換様式は一つではありません。交換は普通、商品交換のようなイメージで考えられています。それは相互の合意と契約によって成立するものです。しかし、そのような交換は、交換一般の中ではむしろわずかの部分でしかありません。



_________

英語版:
Economic Manuscripts: A Contribution to the Critique of Political Economy 1859
Karl Marx 1859

A Contribution to the Critique of Political Economy


Written: 1859
Publisher: Progress Publishers, Moscow
First Published:1859
Translated: S.W. Ryazanskaya
On-Line Version: Marx.org 1993 (Preface, 1993), Marxists.org 1999
Transcribed: Tim Delaney, Zodiac;
Proofed: and corrected by Matthew Carmody 2009.

CONTENTS

Chapter 1: The Commodity
3. Money

Appendices
INTRODUCTION by Karl Marx

I. Production, Consumption, Distribution, Exchange (Circulation)




Economic Manuscripts: Critique of Political Economy. The Commodity
Economic Manuscripts: Means of Payment

42 件のコメント:

  1. なお『経済学批判』の序言“Vorwort”と、『経済学批判要綱』の序説“Einleitung”は別物である。

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  2. The general conclusion at which I arrived and which, once reached, became the guiding principle of my studies can be summarised as follows. In the social production of their existence, men inevitably enter into definite relations, which are independent of their will, namely relations of production appropriate to a given stage in the development of their material forces of production. The totality of these relations of production constitutes the economic structure of society, the real foundation, on which arises a legal and political superstructure and to which correspond definite forms of social consciousness. The mode of production of material life conditions the general process of social, political and intellectual life. It is not the consciousness of men that determines their existence, but their social existence that determines their consciousness. . . . The changes in the economic foundation lead sooner or later to the transformation of the whole immense superstructure. In studying such transformations it is always necessary to distinguish between the material transformation of the economic conditions of production, which can be determined with the precision of natural science, and the legal, political, religious, artistic or philosophic—in short, ideological forms in which men become conscious of this conflict and fight it out. . . . In broad outline, the Asiatic, ancient, feudal and modern bourgeois modes of production may be designated as epochs marking progress in the economic development of society. The bourgeois relations of production are the last antagonistic form of the social process of production—antagonistic not in the sense of individual antagonism but of an antagonism that emanates from the individuals’ social conditions of existence—but the productive forces developing within bourgeois society create also the material conditions for a solution of this antagonism. The prehistory of human society accordingly closes with this social formation.1



    1. Karl Marx, “Preface” to A Contribution to the Critique of Political Economy, in Karl Marx and Frederick Engels, Collected Works, vol. 29 (New York: International Publishers, 1975), 262

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  3. The Structure of World History: From Modes of Production to Modes of Exchange
    by Kojin Karatani, Michael K. Bourdaghs
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  4. 第Ⅰ部 交換様式
    1 「生産」から「交換」へ
    史的唯物論への疑問
     資本とネーションと国家について考えるとき、私が参照したいのはマルクスです。というのは、マルクスだけがそれらに関して、包括的な把握を示したからです。しかし、すでに述べたように、そこには国家やネーションに関する認識上の欠落があります。たとえば、マルクスはつぎのように書いています。

    わたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎのように公式化することができる。人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。(『経済学批判』序言、武田隆夫ほか訳)  

     このような見方は、のちにエンゲルス以下のマルクス主義者によって「史的唯物論」と呼ばれています。ここで問題があるのは、国家を、文学や哲学その他と同じようなものであるかのように「上部構造」においたことです。しかし、国家が経済的な下部構造の上にある上部構造だというような見方は、近代資本主義国家以後にしか成立しません。それ以前においては、国家(政治)と経済とに、はっきりした区別はありえないのです。
     たとえば、原始社会(部族的共同体)においては、そもそも国家がなく、したがって、経済的な構造と政治的な構造の区別はありません。また、「東洋的国家」においても、国家装置(軍・官僚・警察機構など)は、経済的な意味での支配階級の上にあるものではない。皇帝・王とそれを支える官僚層全体が、まさに経済的な意味での支配階級なのです。




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    世界共和国へ-資本=ネーション=国家を超えて
    柄谷行人
    哲学, ブック, ノンフィクション
    2014年5月21日
    アイテムを表示
    資本=ネーション=国家という結合体に覆われた現在の世界からは,それを超えるための理念も想像力も失われてしまった.資本制,ネーション,国家をそれぞれ3つの基礎的な交換様式から解明し,その結合体から抜け出す方法を「世界共和国」への道という形で探ってゆく.21世紀の世界を変える大胆な社会構想.

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  5.  「生産様式」がもたらす誤謬

     マルクスは「経済的社会構成体が進歩してゆく段階として、アジア的、〔古典〕古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式をあげることができる」と書いています(同前)。しかし、資本制以前の社会構成体においては、国家もいわば生産様式の一部です。つまり、そこでは経済的構造と政治的構造の区別がありません。にもかかわらず、「生産様式」という観点に立つと、まるでそのような区別があるかのように見えてしまいます。したがって、このような混乱を避け、資本制以前をふくめて社会構成体の歴史を普遍的に見るためには、「生産様式」という言い方をやめたほうがよいのです。
     マルクスは「経済学批判序説」で、個人と個人の間の商品交換からはじめるアダム・スミスに対して、それは近代社会での在り方を原始段階に投影することだと批判しました。だが、そうだとしたら、史的唯物論にも同じ誤謬があるといわねばならないでしょう。

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  6. アジア的、
    -------+
    〔古典〕古代的、封建的、
    ---------------+
    および近代ブルジョア的生産様式

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  7. 序文_序説 交換様式論*____________________________________
    | 序論 国家の起源  | B1  |     | 序論 氏族社会への移行    4首長の逆説☆|
    |1原都市☆|2ルソー |1アジア |     |呪術 農業共同体B←定住民A(←D)     |
    |6官僚制 | ホッブズ(中心、中核)     |氏族社会   (互酬 と 共同寄託)     | 
    |___第1章国家___|__第3章世界帝国__|  第2章贈与と呪術 |  第1章定住革命  |
    |     3国家の矛盾|3ギリシア|  B3 |  モース、ブーバー |サーリンズ☆、モーガン|  
    |     |     4ローマB2| 5封建制|      フロイト☆|2交易と戦争、クラストル 
    |     |     |(亜周辺)|2周辺と亜周辺☆         |           |
    |_____|_第二部 世界=帝国_1ウィットフォーゲル_第一部 ミニ世界システム__(交換様式)
    |         (B)1呪術から宗教へ   |         (A)(再分配)|(互酬) |
    |1国家と貨幣     | ウェーバー、ニーチェ|           | B国家 |Aネーション
    | 自給自足☆     |2帝国と一神教    |遊牧民C←狩猟採集民(遊動バンド)D     |
    |  第2章世界貨幣  |  第4章普遍宗教  |           |_*序説 交換様式論_|
    |3『リヴァイアサン』と|3模範的預言者4倫理的・           | 2図:近代の社会構成体☆
    |『資本論』価値形態論☆|     6キリスト教|           |(商品交換) (X)歴史☆
    |  ホッブズ、マルクス|8イスラム教・仏教・道教           | C資本 |D X 平等☆
    |___________|___________|___________4交通概念、モーゼス・へス
    | 序論 世界=帝国と世界=経済 ウォーラーステイン          |           |
    | ドップ、スウィージー、ブローデル、ポランニー|           |           |
    |4マルクスの国家論  |    2アンダーソン|           |           |
    |  第1章近代国家  |第3章ネーション   |           |           |
    |3カール・シュミット |3スミス4バウムガルテン           |           |
    |           |    5図:ボロメオの環☆         |           |
    |           |           |           |           |
    |____第三部 近代世界システム_______|______第四部 現在と未来________|
    |          (C)ロールズ      |          (D)          |
    |           |9福祉国家主義☆   |           |2アンチノミー(国家)|
    |7産業資本主義の限界 |第4章        |           |           |
    |  第2章産業資本  |アソシエーショニズム |第1章世界資本主義の | 第2章世界共和国へ |
    |4産業資本主義の起源 |     3経済革命と|   段階と反復   |     5贈与による|
    |3産業資本の自己増殖☆|      政治革命 |1図:資本主義の世界史的諸段階☆  永遠平和 | 
    |2労働力商品     |      プルードン|4ネグリ&ハート   |4カントとヘーゲル  |
    |_アンチノミー____|4労働組合と協同組合☆|___________|___________|TOP

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  8. 序 言

    -p.11-
     わたくしはブルジョア経済の体制をつぎの順序で考察する。すなわち、資本、土地所有、賃労働、国家、外国貿易、世界市場。はじめの三項目では、わたくしは近代ブルジョア社会がわかれている三大階級の経済的生活諸条件を研究する。あとの三項目の連関は一見してあきらかである。資本をとりあつかう第一巻の第一部は、つぎの諸章からなる。(一)商品、(二)貨幣または単純流通、(三)資本一般。そのはじめの二章が本書の内容をなしている。すべての材料は独立論文のかたちでわたくしの手もとにあるが、それらは、出版するためにではなく、自分自身にはっきりさせるために、それぞれかなりの期間をおいて書きおろされたものである、そしてそれらを右の計画にしたがってまとまったものにしあげられるかどうかは、外部の諸事情によるであろう。

     ざっと書きおえた一般的序説*を、わたくしはさしひかえることにする。というのは、よく考えてみると、これから証明していこうとする結論を先廻りして述べるようなことは何でも邪魔になるように思われるし、それに、いやしくもわたくしについてこようとする読者は、個別的なものから一般的なものへとよじのぼってゆく覚悟をきめなければならないからである。これに反して、ここでわたくし自身の経済学研究の経過について二三のことを簡単に述べておくことは、おそらく当をえたことではなかろうかと思う。

    * この序説は、この版の附録におさめられている。――編集者。

     わたくしの専攻学科は法律学であった。だがわたくしは、哲学と歴史とを研究するかたわら、副次的な学科としてそれをおさめたにすぎなかった。一八四二年から四三年のあいだに、「ライン新聞」の主筆として、わたくしは、いわゆる物質的な利害関係に口をださないわけにはいかなくなって、はじめて困惑を感じた。森林盗伐と土地所有の分割についてのライン州議会の討議、当時のライン州知事フォン・シャーペル氏がモーゼル農民の状態について「ライン新聞」にたいしておこした公の論争、最後に、自由貿易と保護関税とに関する議論、これらのものがわたくしの経済問題にたずさわる最初の動機となった。他方では、当時は「さらに進もう」というさかんな意志が専門的知識よりいく倍も重きをなしていた時期であって、フランスの社会主義や共産主義の淡い哲学色をおびた反響が「ライン新聞」のなかでもきかれるようになっていた。わたくしはこの未熟な思想にたいして反対を表明した。だが同時にまた「アルゲマイネ・アウクスブルク新聞」とのある論争で、わたくしのこれまでの研究では、フランスのこれらの思潮の内容そのものについてなんらかの判断をくだす力のないことを率直にみとめた。そこでわたくしは、紙面の調子をやわらげれば「ライン新聞」にくだされた死刑の宣告をとりけしてもらえるものと信じていた同紙の経営者たちの幻想をむしろ進んでとらえて、公の舞台から書斎にしりぞいたのであった。

     わたくしをなやませた疑問を解決するために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であった。この仕事の序説は、一八四四年にパリで発行された『独仏年誌』にあらわれた。わたくしの研究が到達した結論は、法的諸関係および国家諸形態は、それ自身で理解されるものでもなければ、またいわゆる人間精神の一般的発展から理解されるものでもなく、むしろ物質的な生活諸関係、その諸関係の総体をヘーゲルは一八世紀のイギリス人やフランス人の先例にならって「ブルジョア社会」という名のもとに総括しているが、そういう諸関係にねざしている、ということ、しかもブルジョア社会の解剖は、これを経済学にもとめなければならない、ということであった。この経済学の研究をわたくしはパリではじめたが、ギゾー氏の追放命令によってブリュッセルにうつったので、そこでさらに研究をつづけた。わたくしにとってあきらかになり、そしてひとたびこれをえてからはわたくしの研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単につぎのように公式化することができる。

    人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

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  9. 社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。

    このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。

    一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。

    大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。

     フリードリヒ・エンゲルスとわたくしは、経済学的諸カテゴリーを批判したかれの天才的小論が(『独仏年誌』に)あらわれて以来、たえず手紙で思想の交換をつづけてきたが、かれは別の途をとおって(かれの『イギリスにおける労働者階級の状態』を参照)わたくしと同じ結論に到達していた。そして一八四五年の春、かれもまたブリュッセルに落着いたとき、われわれは、ドイツ哲学の観念論的見解に対立するわれわれの反対意見を共同でしあげること、実際にはわれわれ以前の哲学的意識を清算することを決心したのであった。この計画はヘーゲル以後の哲学の批判という形で遂行された。二冊の厚い八つ折版の原稿*をヴェストファーレンの出版所に送り届けてからだいぶんあとで、われわれは、情勢がかわったので出版できかねるとの報せをうけとった。われわれはすでに自分にはっきりさせるというおもな目的をたっしていたので、それだけに気前よくその原稿をねずみどもがかじって批判するのにまかせたのであった。その当時、あれこれの面からわれわれの見解を公衆に示したばらばらの著作のうちで、わたしはここにエンゲルスとわたくしとの共著である『共産党宣言』と、わたくしが発表した『自由貿易論**』とだけをあげるにとどめよう。われわれの見解の決定的な諸論点は、論争の形式でではあるが、一八四七年に出版され、プルードンにたいしてむけられたわたくしの著書『哲学の貧困』のなかで、はじめて科学的に示された。「賃労働」についてドイツ語で書かれた一論文〔「賃労働と資本」〕は、わたくしがこの問題についてブリュッセルのドイツ人労働者協会でおこなった講演をまとめたものであったが、その印刷は、二月革命と、その結果わたくしがベルギーからむりやりに退去させられたこととにより中断した。

    * マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』をさす。――編集者。
    ** 一八四八年一月九日ブリュッセルの民主主義協会でおこなわれた自由貿易問題についての講演。――編集者。

     一八四八年と一八四九年の「新ライン新聞」の発行と、その後におこったさまざまの出来事とのために、わたくしの経済学の研究は中断させられ、ようやく一八五〇年になってロンドンでふたたびとりかかることができた。大英博物館に堆積されている経済学の歴史についての厖大(ぼうだい)な資料、ブルジョア社会の観察にとってロンドンがもつ有利な位置、最後に、カリフォルニアやオーストラリアの金の発見とともにブルジョア社会が到達したようにみえた新たな発展段階、これらのためにわたくしは、すっかりはじめからやりなおし、新しい資料によって批判的に仕事をしとげようという決心をかためた。このような研究のあるものは、しぜんと、一見まったく関係のないような諸学科に手をつけさせ、わたくしはその勉強に多かれ少かれ時間をついやさなければならなかった。だがとりわけ、わたくしの自由になる時間は、生計の資をえるというやむをえない必要のためにけずられた。一流の英米新聞である「ニューヨーク・トリビューン」への、これまで八年にもなるわたくしの寄稿は、本格的な新聞通信を、ただ余分な仕事としてやるわけだから、わたくしの研究をはなはだしく分裂させずにはおかなかった。けれどもイギリスや大陸での顕著な経済上の出来事についての論説が、わたくしの寄稿のかなり重要な部分を占めていたので、わたくしは本来の経済学の学問的領域外にある実際上の詳細にも精通しないわけにはいかないことになった。

    経済学の領域におけるわたくしの研究の経過についてのこの簡単な叙述は、わたくしの見解がどのように評価されようとも、また支配諸階級の利己的な偏見とどれほど一致しにくくとも、それが長年月にわたる良心的な研究の成果であることだけは、はっきりと示してくれるはずである。だが、科学の入口には、地獄の入口と同じように、つぎの要求がかかげられなければならない。

      ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ。
      臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ*。

    * ダンテ『神曲』


    一八五九年一月
    ロンドンにて   カール・マルクス

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  10. マルクス『経済学批判』

     
    マルクス『経済学批判』
    武田隆夫・遠藤湘吉・大内 力・加藤俊彦訳
    岩波文庫(昭和31年5月25日)
    原著 Zur Kritik der politischen Ökonomie
    著者 Karl Marx

    強調部分は訳書では傍点。
     
       序 言
       第一部 資本について
        第一篇 資本一般
         第一章 商品
          A 商品分析のための史的考察
         第二章 貨幣または単純流通
          一 価値の尺度
          B 貨幣の度量単位についての諸学説
          二 流通手段
           a 商品の変態
           b 貨幣の通流
           c 鋳貨。価値表章
          三 貨幣
           a 貨幣蓄蔵
           b 支払手段
           c 世界貨幣
          四 貴金属
          C 流通手段と貨幣についての諸学説
       附録 一
        「カール・マルクス著 経済学批判」(フリードリヒ・エンゲルス)
        「経済学批判」についての手紙(カール・マルクス)
        経済学批判序説(カール・マルクス)
       附録 二
        「経済学批判」の準備ノートから
        カウツキー版序文
        研究所版序文
       解 説

    http://archive.today/5RX3

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  11.  ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ
     臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ
     (ダンテ『神曲』)
    1859年1月   ロンドンにて   カール・マルクス

    „In der gesellschaftlichen Produktion ihres Lebens gehen die Menschen bestimmte, notwendige, von ihrem Willen unabhängige Verhältnisse ein, Produktionsverhältnisse, die einer bestimmten Entwicklungsstufe ihrer materiellen Produktivkräfte entsprechen. Die Gesamtheit dieser Produktionsverhältnisse bildet die ökonomische Struktur der Gesellschaft, die reale Basis, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebt, und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprechen. Die Produktionsweise des materiellen Lebens bedingt den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt. Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt.“

    „In großen Umrissen können asiatische, antike, feudale und modern bürgerliche Produktionsweisen als progressive Epochen der ökonomischen Gesellschaftsformation bezeichnet werden. Die bürgerlichen Produktionsverhältnisse sind die letzte antagonistische Form des gesellschaftlichen Produktionsprozesses, antagonistisch nicht im Sinn von individuellem Antagonismus, sondern eines aus den gesellschaftlichen Lebensbedingungen der Individuen hervorwachsenden Antagonismus, aber die im Schoß der bürgerlichen Gesellschaft sich entwickelnden Produktivkräfte schaffen zugleich die materiellen Bedingungen zur Lösung dieses Antagonismus. Mit dieser Gesellschaftsformation schließt daher die Vorgeschichte der menschlichen Gesellschaft ab.“

    Marx: Zur Kritik der politischen Ökonomie, S. 6f. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 2898f (vgl. MEW Bd. 13, S. 9f.)
    Hochspringen↑

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  12.  「生産様式」から「交換様式」へ

     マルクスが経済的な下部構造を重視したのは、人間をまず自然との関係において見るという観点をとったからです。そのために彼は、人間が自然に働きかけて財を作り出す「生産」を重視した。さらに、彼は、生産が人間と人間の関係を通してなされること、いいかえれば、一定の生産関係の下で生産がなされることを見た。それが生産様式という概念です。
     本来、生産様式とは、生産が一定の交換や分配の形態でなされる形態を意味します。つまり、生産があって、そののちに交換・分配がなされるのではない。ところが、「生産様式」という表現をとると、交換や分配が二次的なものとみなされてしまいます。
     たとえば、原始的氏族的生産様式という場合、それは狩猟採集というようなこと人間と自然の関係を指すのではありません。それは、生産物が互酬によって全員に配分されるような生産の様式人間と人間の関係を指します。であれば、それは生産様式というよりも、「交換様式」と呼ぶべきだと思います。
     その場合、交換様式は一つではありません。交換は普通、商品交換のようなイメージで考えられています。それは相互の合意と契約によって成立するものです。しかし、そのような交換は、交換一般の中ではむしろわずかの部分でしかありません。

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  13. Kindleストア ›
    "karatani"

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  14. …産業資本以前に、過去の、または衰滅しつつある社会的生産状態のただなかで出現した他の資本種類は、産業資本に従属させられて、その機能の機構では産業資本に適応するように変化させられるばかりでなく、もはや産業資本の基礎上でのみ運動するのであり、したがって、産業資本というその基礎と生死興亡を共にする。貨幣資本と商品資本は、独自の事業部門の担い手としての機能をもって産業資本と並んで現われるかぎりでは、もはや、産業資本が流通部面の内部でときに採り、ときに脱ぐさまざまな機能形態の、社会的分業によって自立化させられ、一面的に発達させられた、実存様式に他ならない。

    資本論
    2:1:4
    河出
    世界史の構造296~7頁参照

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  15. 『経済学批判』序言及び序説の前半
    http://members3.jcom.home.ne.jp/study-capital/2-houkou1/report2-1-001.html

    〔『経済学批判』への〕序説

    【要 約】
    一 生産、消費、分配、交換(流通)
    1 生産
    (a)ここでの対象はまず第一に物質的生産である。

     社会のなかで生産をおこなう諸個人、したがって諸個人の社会的に規定された生産が出発点である。個々の孤立した猟師や漁夫、スミスやリカードはここから出発するのであるが、これらのものは、18世紀のロビンソン物語の幻想を交えない想像物に属する。それは、本来は独立している諸主体を契約によって関係させ結合するルソーの社会契約と同様に、そのような自然主義にもとづくものではない。このような自然主義は、大小のロビンソン物語の外観でしかない。それは、むしろ、18世紀に成熟への巨歩を進めた「ブルジョア社会」を見越したものである。この自由競争社会では、個人は、それ以前の歴史上の時代には彼を一定の局限された人間集団の付属物にしていた自然的紐帯などから解放されて現われる。スミスやリカードがまだまったくその肩のうえに立っている18世紀の予言者たちの目には、このような18世紀の個人が、すでに過去の存在になっている理想として、歴史の出発点として浮かんでいる。なぜならば、それは彼らの目には、人間性についての彼らの観念に合致した自然に適合した個人として現われ、歴史的に生成する個人としてではなく、自然によってあたえられた個人として現われるからである。このような錯覚は、これまでどの新しい時代にもつきものだった。多くの点で18世紀に対立し、また貴族としてより多く歴史的な地盤のうえに立っているステュアートは、すでにこのような素朴さからまぬかれている。

     われわれが歴史を遠くさかのぼればさかのぼるほど、生産をおこなう個人は、独立していないものとして現われる。18世紀に「ブルジョア社会」ではじめて、社会的関連の種々の形態が、個人にたいして、外的な必然性として、相対するようになる。しかし、このような、ばらばらな個人の立場を生みだす時代こそは、これまでのうちで最も発展した社会的な諸関係の時代なのである。人間は最も文字どおりの意味で社会的動物、ただ社会のなかだけで個別化されることのできる動物である。社会の外でのばらばらな個人の生産は、 いっしょに生活しいっしょに語りあう諸個人なしでの言語の発達と同じようにありえないことである。それは、これ以上かかりあうにおよばないことである。もしも、18世紀の人人にとっては意味もあったこのたわいもないことがバスティアやケアリやプルードンなどによってまたしても大まじめに最新の経済学のまんなかにもちこまれさえしなかったら、この点に触れる必要はまったくなかったであろう。

     こういうわけで、生産という場合には、いつでも、一定の社会的発展段階での社会的な諸個人による生産をいう。それゆえ、およそ生産について語るためには、われわれは歴史的発展過程をその種々の段階で追跡しなければならない。または、われわれが取り扱うのは、ある一定の歴史的時代、たとえばじっさいわれわれの本来の主題である近代的ブルジョア的生産だということをまえもって言明しておく必要がある。とはいえ、生産上のすべての時代は共通な規定をもっている。生産一般は一つの抽象ではあるが、しかし、それが共通なものを現実に明瞭にしてくれるかぎりでは、一つの合理的な抽象である。しかしながら、この一般的なものは、それ自身、いろいろな規定に分かれていくものである。そのうちのいくつかのものは、どの時代にもあるものであり、他のものは、いくつかの時代に共通なものである。生産一般にあてはまる諸規定が分離されなければならないというのは、まさに、統一性のために本質的な相違が忘れられないようにするためである。これを忘れるところに、既存の社会的諸関係の永遠性と調和とを証明する現代の経済学者たちのいっさいの知恵がある。どんな生産も生産用具や過去の積み重ねられた労働なしには不可能である。資本は、とりわけ、生産用具でもあり、過去の客体化された労働でもある。だから、資本は、一つの一般的な永久的な自然関係である、と経済学者は言う。すなわち、「生産用具」、「積み重ねられた労働」をはじめて資本にするこの特殊なものを見落とすならば、そういうことになるのである。

     生産一般がないとすれば、一般的生産もない。生産はつねに一つの特殊な生産部門――たとえば農業や牧畜や製造工業など――であるか、または総体である。とはいえ、経済学は技術ではない。

     最後に、生産はまたたんに特殊な生産であるだけではなく、諸生産部門の大なり小なりの一つの総体のなかで活動しているものは、つねに、ただ、ある一つの社会体であり、一つの社会的主体である。

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  16. 経済学批判 - Wikipedia
    『経済学批判』(けいざいがくひはん、Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)は、カール・マルクスの6編プランから成る経済学批判体系の第1分冊に相当する著作である。フェルディナント・ラッサールの協力により、ドゥンカー書店から1859年に出版された。「序言」「第1章 商品」「第2章 貨幣または単純流通」から成る。
    経済学が用いている経済的カテゴリーを批判することをつうじて、資本主義経済のシステムを批判することを目的としている。
    この本の「序言」によると、資本主義経済のシステムを資本・土地所有・賃労働・国家・外国貿易・世界市場の順序で考察することになっていた。そのうち公刊されたのは、第1部「資本について」のうちの最初の2章、商品と商品流通(から生じる貨幣の諸機能)についてだけである。続きは上の計画をもとに分冊形式で出す予定だったが、1867年に『資本論』(副題に「経済学批判」)の形で出ることになった。『資本論』では最初の章に『経済学批判』の内容が要約され、また叙述が改善されているとマルクスは言っている。
    「序言」では唯物史観の簡単な定式が述べられている。
    邦訳では補録として、『経済学批判要綱』から転載された「経済学批判への序説」が収められている。
    なお『経済学批判』の序言“Vorwort”と、『経済学批判要綱』の序説“Einleitung”は別物である。

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  17. 柄谷がしばしば引用


    ドゥルーズ差異と反復文庫下57


    だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、

    マルクス、経済学批判、序文

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  18.  「生産様式」から「交換様式」へ

     マルクスが経済的な下部構造を重視したのは、人間をまず自然との関係において見るという観点をとったからです。そのために彼は、人間が自然に働きかけて財を作り出す「生産」を重視した。さらに、彼は、生産が人間と人間の関係を通してなされること、いいかえれば、一定の生産関係の下で生産がなされることを見た。それが生産様式という概念です。
     本来、生産様式とは、生産が一定の交換や分配の形態でなされる形態を意味します。つまり、生産があって、そののちに交換・分配がなされるのではない。ところが、「生産様式」という表現をとると、交換や分配が二次的なものとみなされてしまいます。
     たとえば、原始的氏族的生産様式という場合、それは狩猟採集というようなこと~人間と自然の関係~を指すのではありません。それは、生産物が互酬によって全員に配分されるような生産の様式~人間と人間の関係~を指します。であれば、それは生産様式というよりも、「交換様式」と呼ぶべきだと思います。
     その場合、交換様式は一つではありません。交換は普通、商品交換のようなイメージで考えられています。それは相互の合意と契約によって成立するものです。しかし、そのような交換は、交換一般の中ではむしろわずかの部分でしかありません。

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  19. 世界史の構造

    2:4:7



    宗教改革というと、しばしばルターのそれから説き起こされる。しかし、宗教改革は一二世紀から各地で起こっていた。そして、それは必ず社会運動と結びついていたのである。ルターの宗教改革はそうではなかった。彼は、そのことがきっかけで起こった農民戦争を断固として弾圧する側に回ったからである。ルターの宗教改革が教会側によって重視されるのは、むしろそのためであり、キリスト教信仰を個人の内面に閉じこめ、「神の国」を天上化するものとして、である。一方、ルターによって支援された封建諸侯が弾圧したドイツの農民運動を率いたのは、トーマス・ミュンツァーであった。エンゲルスはつぎのように述べている。

       ミュンツァーの宗教哲学が無神論につうじるところがあったように、彼の政治綱領は共産主義につうじていた。そして、近代の共産主義的宗派で、二月革命の前夜になってもまだその駆使する理論的武器庫の内容が一六世紀の「ミュンツァー派」のそれを越えなかったものは一つにとどまらなかったのである。この綱領当時の都市平民の諸要求の総括というよりも、むしろこの都市平民のあいだにやっと発展しはじめたプロレタリア的分子の解放条件の天才的な予見であったこの綱領は、教会をその本来の姿にひきもどし、このいわゆる原始キリスト教的な、しかし、じつはきわめて斬新な教会に矛盾するいっさいの制度を除くことによって、神の国、すなわち予言された千年王国をただちに地上にうちたてることを要求した。しかし、ミュンツァーは、この神の国ということを、ほかでもなく、いかなる階級差別も、私的所有も、社会の構成員にたいして自立的な、外的な国家権力も、もはや存在しない社会状態と解していたのである(15)

    エンゲルス『ドイツ農民戦争』伊藤新一訳、国民文庫、六二頁。

    1:56 午後 削除
    Blogger yoji さんは書きました...
    農民反乱が最も激しく戦われたのは、フランケン地方の北のテューリンゲン地方であった。
    その中心都市がミュールハウゼン(ドイツ語版、英語版)で、この都市を拠点に農民反乱を
    指導したのが聖職者のトーマス・ミュンツァーであった。ミュンツァーはルターの宗教改革運動
    に関わったが、次第にルターの考え方−現存する権力と秩序を認める−に批判的になり、
    「地上における神の国」の実現を求めるようになった。

    ミュンツァーは宗教改革の最左翼、ルターの穏健派に対し過激派を代表した神学者である。
    聖書研究にとどまらず、聖書の言葉を階級闘争に翻訳し、農民大衆を理想社会建設へ導こうとした。

    1:58 午後 削除

    返信削除
  20. ゲゼルマネーにつながる認識
    中期マルクスに可能性はある


    マルクス『経済学批判』第一部 資本について
    http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html
     貴金属の高い価値比重、恒久力をもち、相対的意味では破壊されず、空気にふれても酸化しないという性質、とくに金のばあいは王水以外の酸には溶解しないという性質、こうしたいっさいの自然的属性が、貴金属を貨幣蓄蔵の自然的材料たらしめている。だからチョコレートが非常に好きであったらしいペテル・マルティルは、メキシコの貨幣の一種であった袋入りのココアについて、つぎのようにのべている。「おお、いみじくもよき貨幣よ、おまえは人類に甘美にして滋養のある飲物をあたえ、その罪のない所有者を、貪欲という業病からまもってくれる。なぜならば、おまえは、地中に埋蔵されることも、長く保蔵されることもできないのだから。」(『新世界について』《アルカラ、一五三〇年、第五編、第四章》。)

     金属一般が直接的生産過程の内部で大きな意義をもつのは、それらが生産用具として機能することと関連している。ところが金銀は、それらが希少であることを度外視しても、鉄はもちろん銅(古代人が用いたようなやきをいれた状態のそれ)とくらべてさえ、はるかにやわらかく、そのことが、金銀を生産用具として利用することを不可能にし、したがってまたそれらから、金属一般の使用価値の基礎をなす属性を大幅にうばいとってしまっている。金銀は、直接的生産過程の内部ではこのように役にたたないのであるが、それと同じように、生活資料として、つまり消費の対象としてあらわれるばあいにも、なければなくてすむものである。だから金銀は、直接的な生産と消費の過程をそこなわずに、どれだけでもすきな量だけ社会的流通過程にはいっていくことができるのである。金銀に特有の使用価値が、それらの経済的機能と矛盾することはない。金銀の美的な諸属性は、これを、華美、粉飾、派手、日曜日につきものの諸欲望の自然発生的な材料、要するに余剰と富の積極的な形態たらしめるのである。それらは、いわば、地下からほりだされる純乎たる光としてあらわれる、というのは、銀は、すべての光線を本来の混合のままで反射するし、金は、もっとも強い色調である赤だけを反射するからである。しかも色彩感覚は、美的感覚一般のうちでもっとも親しみやすい形態である。インド・ゲルマン系のさまざまな言語における貴金属のよび名が、色彩関係と言語学的に連関していることは、ヤーコブ・グリムによって証明されている。(かれのドイツ語史をみよ。)

     最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、またその逆の方向に転化されうること、それゆえひとたびあたえられた一定の使用形態にしばられないという、ほかの商品よりすぐれた点をもっていること、このことは、金銀を、貨幣というたえずひとつの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な材料たらしめるのである。

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  21. ゲゼルマネーにつながる認識
    価値を固定化する価値形態論よりも中期マルクスに可能性はある??

    マルクス『経済学批判』第一部 資本について 貴金属
    http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html#KEIHI1124

     貴金属の高い価値比重、恒久力をもち、相対的意味では破壊されず、空気にふれても
    酸化しないという性質、とくに金のばあいは王水以外の酸には溶解しないという性質、こうし
    たいっさいの自然的属性が、貴金属を貨幣蓄蔵の自然的材料たらしめている。だからチョ
    コレートが非常に好きであったらしいペテル・マルティルは、メキシコの貨幣の一種であった
    袋入りのココアについて、つぎのようにのべている。「おお、いみじくもよき貨幣よ、おまえは
    人類に甘美にして滋養のある飲物をあたえ、その罪のない所有者を、貪欲という業病から
    まもってくれる。なぜならば、おまえは、地中に埋蔵されることも、長く保蔵されることもでき
    ないのだから。」(『新世界について』《アルカラ、一五三〇年、第五編、第四章》。)


     最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、またその
    逆の方向に転化されうること、それゆえひとたびあたえられた一定の使用形態にしばられ
    ないという、ほかの商品よりすぐれた点をもっていること、このことは、金銀を、貨幣という
    たえずひとつの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な
    材料たらしめるのである。…

    (前半を『されどマルクス』2018,94頁で実験経済学の川越敏司が引用している)

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  22. 現代の金融と地域経済 下平尾勲退官記念論集
    著者名等  下平尾勲/編著  ≪再検索≫
    出版者   新評論
    出版年   2003.2
    大きさ等  22cm 530p
    NDC分類 330.4
    件名    経済学  ≪再検索≫
    要旨    現代のわが国の経済における長期不況の中で最も鋭く問題が露呈しているのは、貨幣・金
    融現象と地域問題である。バブル経済の崩壊が生産過剰とともに極端な株価・地価暴落に
    端を発してから、金融、不動産、建設業などの産業分野の不良債権が表面化した。これら
    の主要産業の極端な経営縮小と合理化は、商業・サービス業、製造業、さらに地域経済へ
    と波及し、景気が悪化した。またそれにより、企業赤字の拡大と銀行の不良債権の増加と
    が悪循環に入っている。本書は、これら貨幣・金融および地域経済・産業に関する現代の
    状況をどのように捉えるのかという問題意識を起点として、現状分析、基礎理論、学説、
    政策などが「第1部 金融・貨幣の経済学」、「第2部 地域経済・産業の経済学」に大
    別されて論じられ、それぞれの争点が網羅されている論文集である。
    目次    第1部 金融・貨幣の経済学(現代の金融と貨幣;現代の国際金融);第2部 地域経済
    ・産業の経済学(現代の地域経済;現代の地域産業)
    内容    内容: 金融・貨幣の経済学 現代の金融と貨幣 1990年代長期不況と金融   下
    平尾勲著
    内容    成長通貨の供給と金融仲介   小林真之著
    内容    信用創造と「資金の先取り」   木村二郎著
    内容    銀行信用の本質と諸機能について   真田哲也著
    内容    現代貨幣と貨幣の起源   楊枝嗣朗著
    内容    インフレーション・ターゲティング論の虚妄性   建部正義著
    内容    金融機関の公共性   濱田康行著
    内容    株価形成要因としてのガバナンス構造   高田敏文著
    内容    信託銀行資産の成長:1980~2000年   一ノ瀬篤著
    内容    オーストラリアにおける地域通貨の開花の基盤   佐藤俊幸著
    内容    自己資本比率決定の銀行モデル   鴨池治著

    内容    非耐久財は貨幣となりうるか?実験研究によるアプローチ   川越敏司著


    内容    戦後恐慌論論争における富塚体系の位置   後藤康夫著
    内容    現代の国際金融 ユーロ発足とドイツ金融市場   岩見昭三著
    内容    アメリカの金融革新とファースト・アカウント   坂本正著
    内容    起業金融とアメリカの投資銀行   川波洋一著
    内容    アメリカの信用組合   数阪孝志著
    内容    中国の資本取引自由化への道   毛利良一著
    内容    中国における中小企業の発展と金融   汪志平著
    内容    現在中国の信用リスクと対策   陳作章著
    内容    地域経済・産業の経済学 現代の地域経済 地域経済の再生   下平尾勲著
    内容    「地域振興」から「地域再生」へ   鈴木浩著
    内容    日本的NPOの成長と自立の条件   星野〔キョウ〕二著
    内容    〈共生〉社会に向けた主体性の再定位   片山善博著
    内容    生産要素の差別的移動性と地域経済システム   山川充夫著
    内容    ほか12編

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  23. 世界史の構造2:4:7より

    《宗教改革というと、しばしばルターのそれから説き起こされる。しかし、
    宗教改革は一二世紀から各地で起こっていた。そして、それは必ず社会運動と
    結びついていたのである。ルターの宗教改革はそうではなかった。彼は、その
    ことがきっかけで起こった農民戦争を断固として弾圧する側に回ったからで
    ある。ルターの宗教改革が教会側によって重視されるのは、むしろそのためで
    あり、キリスト教信仰を個人の内面に閉じこめ、「神の国」を天上化するものと
    して、である。一方、ルターによって支援された封建諸侯が弾圧したドイツの
    農民運動を率いたのは、トーマス・ミュンツァーであった。エンゲルスはつぎの
    ように述べている。

       ミュンツァーの宗教哲学が無神論につうじるところがあったように、彼の
    政治綱領は共産主義につうじていた。そして、近代の共産主義的宗派で、二月
    革命の前夜になってもまだその駆使する理論的武器庫の内容が一六世紀の「ミュ
    ンツァー派」のそれを越えなかったものは一つにとどまらなかったのである。
    この綱領当時の都市平民の諸要求の総括というよりも、むしろこの都市平民のあいだ
    にやっと発展しはじめたプロレタリア的分子の解放条件の天才的な予見であったこの
    綱領は、教会をその本来の姿にひきもどし、このいわゆる原始キリスト教的な、しかし、
    じつはきわめて斬新な教会に矛盾するいっさいの制度を除くことによって、神の国、
    すなわち予言された千年王国をただちに地上にうちたてることを要求した。しかし、
    ミュンツァーは、この神の国ということを、ほかでもなく、いかなる階級差別も、私的
    所有も、社会の構成員にたいして自立的な、外的な国家権力も、もはや存在しない社会
    状態と解していたのである。

    エンゲルス『ドイツ農民戦争』伊藤新一訳、国民文庫、六二頁。》

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  24. 一般理論#1注で古典派の命名がマルクスのものであると言及している
    マルクスをよく読んでいる

    12:45 午後 削除
    Blogger yoji さんは書きました...
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/古典派経済学
    ジョン・メイナード・ケインズによれば、古典派の用語を初めて用いたのは、カール・マルクスであるという。マルクスは、1859年に出版された『経済学批判』において、古典派経済学による商品の分析について次のように記した。

    商品を二重の形態の労働に分析すること、使用価値を現実的労働または合目的的な生産的活動に交換価値を労働時間または同等な社会的労働に分析することは、イギリスではウィリアム・ペティに、フランスではボアギユベールに始まり、イギリスではリカードに、フランスではシスモンディに終わる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的最終成果である。[3]

    ケインズは、「古典派経済学」という用語にひとつの混乱をもたらした。『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、新古典派とみなされるマーシャルやピグーを含めて、その理論を「古典派理論」と呼んだからである[4]。現在では、この用法は一般に使われないが、ときにケインズの意味で「古典派」「古典派理論」と呼ぶ人がいるので注意を要する。ケインズは、古典派理論の本質はセイ法則を前提とするところにあり、『一般理論』はそれをくつがえすものであるとした[5]。

    イギリス系の経済学者に加えて、マルクスを古典派に数えることもある[6]。


    引用
    [3] ^ カール・マルクス『経済学批判』、国民文庫、1953年、58-59ページ

    12:48 午後 削除
    Blogger yoji さんは書きました...
    経済学批判
    http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHiJ.html
    http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html
    -p.57, l.13-
     商品を分析して二重の形態の労働に帰すること、つまり使用価値を現実の労働または合目的的な生産的活動に帰し、交換価値を労働時間または同質の社会的労働に帰することは、イギリスではウィリアム・パティ、フランスではボアギュベールにはじまり(15)、イギリスではリカアド、フランスではシスモンディにおわる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的な成果である。

       序 言
       第一部 資本について
        第一篇 資本一般
         第一章 商品
          A 商品分析のための史的考察☆
         第二章 貨幣または単純流通
          一 価値の尺度
          B 貨幣の度量単位についての諸学説
          二 流通手段
           a 商品の変態
           b 貨幣の通流
           c 鋳貨。価値表章
          三 貨幣
           a 貨幣蓄蔵
           b 支払手段
           c 世界貨幣
          四 貴金属
          C 流通手段と貨幣についての諸学説
       附録 一
        「カール・マルクス著 経済学批判」(フリードリヒ・エンゲルス)
        「経済学批判」についての手紙(カール・マルクス)
        経済学批判序説(カール・マルクス)
       附録 二
        「経済学批判」の準備ノートから
        カウツキー版序文
        研究所版序文
       解 説


    12:56 午後 削除

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  26. 『経済学批判』(けいざいがくひはん、Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)は、カール・マルクスの6編プランから成る経済学批判体系の第1分冊に相当する著作である。フェルディナント・ラッサールの協力により、ドゥンカー書店から1859年に出版された。「序言」「第1章 商品」「第2章 貨幣または単純流通」から成る。

    経済学が用いている経済的カテゴリーを批判することをつうじて、資本主義経済のシステムを批判することを目的としている。

    この本の「序言」によると、資本主義経済のシステムを資本・土地所有・賃労働・国家・外国貿易・世界市場の順序で考察することになっていた。そのうち公刊されたのは、第1部「資本について」のうちの最初の2章、商品と商品流通(から生じる貨幣の諸機能)についてだけである。続きは上の計画をもとに分冊形式で出す予定だったが、1867年に『資本論』(副題に「経済学批判」)の形で出ることになった。『資本論』では最初の章に『経済学批判』の内容が要約され、また叙述が改善されているとマルクスは言っている。

    「序言」では唯物史観の簡単な定式が述べられている。

    邦訳では補録として、『経済学批判要綱』から転載された「経済学批判への序説」が収められている。

    なお『経済学批判』の序言“Vorwort”と、『経済学批判要綱』の序説“Einleitung”は別物である。

    日本語訳 編集

    『経済学批判』杉本俊朗訳 大月書店国民文庫 ISBN 4-272-80040-X
    外部リンク 編集

    A Contribution to the Critique of Political Economy(原著英語訳,html)
    岩波文庫(昭和31年5月25日)
    関連項目 編集

    下部構造
    上部構造
    アジア的生産様式

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  27. 古典派の使用例最古は
    哲学の貧困2:1:7
    ?


    宿命論派経済学者があり、ブルジュワ自身が実践において、かれらが富を獲得することをたすけるプロレタリアの苦悩に無関心であるのとおなじく、かれらの理論においてかれらがブルジュワ的生産のふつごうとよぶところのものに対して無関心である。この宿命論学派のなかには古典派とロマン派とがある。古典派はアダム・スミスやリカードのように、なお封建社会の遺物とたたかいつつ、ただ経済関係から封建的汚点をふきとり、生産力を増大し、産業や商業に新しい飛躍をあたえることのみをつとめているブルジュワジーを代表する。この闘争にあずかるプロレタリアートは、この熱狂的な仕事に夢中になって、ただ一時的偶然的苦悩をもつにすぎず、み

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  28. …ロマン派は、ブルジェワジーがプロレタリアートに直接対立し、貧困が富とおなじほど大量に産出される、現代に属する。

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  29. 貧困の哲学では


    #7:1
    [ホッブズ]
    かれの著作 『リヴァイアサン 』はさんざん中傷されたが 、こうした古典的なアンチノミ ーを展開したものにほかならない 。

    税は 、アダム ・スミスが警察という語で総称した予防 ・強制 ・抑圧 ・懲罰の制度の一群に属する 。

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  30. つぎには人道学派がくる。これは現在の生産関係の悪い方面を気にかける。これは、気やすめや、現実の対照をすこしでもごまかそうとつとめる。それはプロレタリアートの悲嘆、ブルジュワ相互間の拘束のない競争を、心からなげく。

    博愛学派は完成された人道学派である。これは対立の必然性を否定する。これはすべての人をブルジュワにしようとする。


    経済学者がブルジュワ階級の科学的代表者であるのとおなじように、社会主義者と共産主義者とはプロレタリア階級の理論家である。


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  31. プルードンは

    氏はただ、資本と労働とのあいだを、経済学と共産主義とのあいだを、たえず動揺する

    とされる

    返信削除
  32. 有名なフレーズを頼りに
    ヘーゲルにオリエンタリズムを見つけようと思って読むと
    空振りすることになる
    ヘーゲルはちゃんと古代アジアを勉強しているから
    逆にマルクスの方が近代主義だから危ない
    植民地支配を反省していないように読める

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  33. ロマン派はシスモンディあたりを考えているのだろう

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  34. >>975ゲゼル錆びる紙幣につながる認識
    価値を固定化する価値形態論よりも中期マルクスに可能性はある。

    マルクス『経済学批判』第一部 資本について 貴金属
    http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html#KEIHI1124

    《 貴金属の高い価値比重、恒久力をもち、相対的意味では破壊されず、空気にふれても
    酸化しないという性質、とくに金のばあいは王水以外の酸には溶解しないという性質、こうし
    たいっさいの自然的属性が、貴金属を貨幣蓄蔵の自然的材料たらしめている。だからチョ
    コレートが非常に好きであったらしいペテル・マルティルは、メキシコの貨幣の一種であった
    袋入りのココアについて、つぎのようにのべている。「おお、いみじくもよき貨幣よ、おまえは
    人類に甘美にして滋養のある飲物をあたえ、その罪のない所有者を、貪欲という業病から
    まもってくれる。なぜならば、おまえは、地中に埋蔵されることも、長く保蔵されることもでき
    ないのだから。」(『新世界について』アルカラ、一五三〇年、第五編、第四章。)


     最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、またその
    逆の方向に転化されうること、それゆえひとたびあたえられた一定の使用形態にしばられ
    ないという、ほかの商品よりすぐれた点をもっていること、このことは、金銀を、貨幣という
    たえずひとつの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な
    材料たらしめるのである。…》

    (前半部分を『されどマルクス』2018,94頁で実験経済学の川越敏司が引用し、評価している)

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  35. >>155
    >経済学批判の言説

    参考:
    中期マルクスのゲゼル錆びる紙幣につながる認識。価値を固定化する価値形態論よりも中期マルクスに可能性はある。

    マルクス『経済学批判』第一部 資本について 貴金属
    http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html#KEIHI1124

    《 貴金属の高い価値比重、恒久力をもち、相対的意味では破壊されず、空気にふれても
    酸化しないという性質、とくに金のばあいは王水以外の酸には溶解しないという性質、こうし
    たいっさいの自然的属性が、貴金属を貨幣蓄蔵の自然的材料たらしめている。だからチョ
    コレートが非常に好きであったらしいペテル・マルティルは、メキシコの貨幣の一種であった
    袋入りのココアについて、つぎのようにのべている。「おお、いみじくもよき貨幣よ、おまえは
    人類に甘美にして滋養のある飲物をあたえ、その罪のない所有者を、貪欲という業病から
    まもってくれる。なぜならば、おまえは、地中に埋蔵されることも、長く保蔵されることもでき
    ないのだから。」(『新世界について』アルカラ、一五三〇年、第五編、第四章。)


     最後に、金銀が、鋳貨の形態から地金形態に、地金形態から奢侈品の形態に、またその
    逆の方向に転化されうること、それゆえひとたびあたえられた一定の使用形態にしばられ
    ないという、ほかの商品よりすぐれた点をもっていること、このことは、金銀を、貨幣という
    たえずひとつの形態規定性から他の形態規定性に転じなければならないものの自然的な
    材料たらしめるのである。…》

    (前半部分を『されどマルクス』2018,94頁で実験経済学の川越敏司が引用し、評価している)

    上は貴金属を特権化しているように読めるが逆の可能性も同時に示している

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  36. 序説
    2
    a)〔生産と消費〕  生産はまた直接に消費でもある。二重の消費、すなわち主体的な消費と客体的な消費と。生産することで自分の諸能力を発達させる個人は、また生産という行為のなかでその諸能力を支出し消費す

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  37. 経済学における古典派の命名はマルクスによるものと一般に言われている。ケインズが
    一般理論#1注で言及している。

    以下は『経済学批判』より
    http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html

    《商品を分析して二重の形態の労働に帰すること、つまり使用価値を現実の労働または合
    目的的な生産的活動に帰し、交換価値を労働時間または同質の社会的労働に帰することは、イ
    ギリスではウィリアム・パティ、フランスではボアギュベールにはじまり(15)、イギリスではリカア
    ド、フランスではシスモンディにおわる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判
    的な成果である。》

    通常『経済学批判』1859年第1章が参照されるが、『哲学の貧困』1847年#2:1:7の方が早い。

    《 宿命論派経済学者があり、ブルジュワ自身が実践において、かれらが富を獲得することを
    たすけるプロレタリアの苦悩に無関心であるのとおなじく、かれらの理論においてかれらが
    ブルジュワ的生産のふつごうとよぶところのものに対して無関心である。この宿命論学派のな
    かには古典派とロマン派とがある。古典派はアダム・スミスやリカードのように、なお封建社会
    の遺物とたたかいつつ、ただ経済関係から封建的汚点をふきとり、生産力を増大し、産業や
    商業に新しい飛躍をあたえることのみをつとめているブルジュワジーを代表する。

    …ロマン派は、ブルジェワジーがプロレタリアートに直接対立し、貧困が富とおなじほど大量
    に産出される、現代に属する。

    …つぎには人道学派がくる。これは現在の生産関係の悪い方面を気にかける。これは、気や
    すめや、現実の対照をすこしでもごまかそうとつとめる。それはプロレタリアートの悲嘆、ブル
    ジュワ相互間の拘束のない競争を、心からなげく。

    …博愛学派は完成された人道学派である。これは対立の必然性を否定する。これはすべて
    の人をブルジュワにしようとする。

    …経済学者がブルジュワ階級の科学的代表者であるのとおなじように、社会主義者と共産
    主義者とはプロレタリア階級の理論家である。

    …氏[プルードン]はただ、資本と労働とのあいだを、経済学と共産主義とのあいだを、たえず
    動揺する、… 》


    プルードンが中間に位置付けられている



    古典派の使用例最古はマルクス。それをケインズが流用した。

    マルクス哲学の貧困2:1:7

    宿命論派経済学者があり、ブルジュワ自身が実践において、かれらが富を獲得することをたすける
    プロレタリアの苦悩に無関心であるのとおなじく、かれらの理論においてかれらがブルジュワ的
    生産のふつごうとよぶところのものに対して無関心である。この宿命論学派のなかには古典派と
    ロマン派とがある。古典派はアダム・スミスやリカードのように、なお封建社会の遺物とたたかい
    つつ、ただ経済関係から封建的汚点をふきとり、生産力を増大し、産業や商業に新しい
    飛躍をあたえることのみをつとめているブルジュワジーを代表する。この闘争にあずかるプロレタリアート
    は、この熱狂的な仕事に夢中になって、ただ一時的偶然的苦悩をもつにすぎず…
    …ロマン派は、ブルジェワジーがプロレタリアートに直接対立し、貧困が富とおなじほど大量に産出される、
    現代に属する。


    ケインズ一般理論
    序章
    1一般理論

    (1)「古典派経済学者」とは、リカード、ジェームズ・ミル、および彼らの先行者たち、すなわち、
    リカードの経済学において最高潮に達する理論の創設者たちをひっくるめて言うために、マルクスがひ
    ねり出した呼称である。通常の用法には外れるかもしれないが、私は私なりに、リカードの追随者、
    すなわちリカードの経済理論を採用し完成させた人たち、(たとえば)J・S・ミル、マーシャル、
    エッジワース、それにピグー教授も一緒に「古典派」に含めることにしている。

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  38. 経済学批判
    大月#13


    142

    象徴的貨幣または信用貨幣~~ステュアートは貨幣のこれら二つの形態をまだ区別していない~~は、国内流通では、購買手段または支払手段としての貴金属の代用をすることができるが、世界市場では、そうすることができない。だから、紙券は社会の代貨幣(money
    of the society)であるが、 金銀は世界の貨幣 (money of the world)である。

    144

    重商主義の幻想にたいする論争に熱中したために、アダム・スミスは金属流通の諸現象を客観的に理解するのを妨げられたのであるが、他方、信用貨幣にかんする彼の目見解は独創的で深遠なものである。一八世紀の化石理論には、ノアの洪水についての聖書の伝説にたいする批判的または弁護論的顧慮から出てくる一つの底流がつねに流れているように、一八世紀のすべての貨幣理論の背後には、重金主義とのひそかな格闘、ブルジョア経済の揺藍のかつての守り手で、いまなおたえず立法のうえにその影を投げかけていたあの幽霊とのひそかな格闘が隠れているのである。


    145

    リカードは、彼の先行者たちと同様に、銀行券または信用貨幣の流通をただの価値章標の流通と混同している。彼の頭を支配していた事実は、紙幣の減価と、それと時を同じくしての諸商品価格の騰貴とである。ヒュームの場合のアメリカの諸鉱山にあたるものは、リカードの場合にはスレッドニードル街の紙幣印刷機であって、リカード自身もある個所で、この二つの要因をはっきりと同一視している。

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  39. ja.wikipedia.org/wiki/経済学批判
    経済学批判 - Wikipedia

    『経済学批判』(けいざいがくひはん、Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)は、カール・マルクスの6編プランから成る経済学批判体系の第1分冊に相当する著作で ...

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  40. 経済学批判
    大月#13


    142

    象徴的貨幣または信用貨幣~~ステュアートは貨幣のこれら二つの形態をまだ区別していない~~は、国内流通では、購買手段または支払手段としての貴金属の代用をすることができるが、世界市場では、そうすることができない。だから、紙券は社会の代貨幣(money
    of the society)であるが、 金銀は世界の貨幣 (money of the world)である。

    Symbolisches Geld oder Kreditgeld – Steuart unterscheidet diese beiden Formen des Geldes noch nicht – können die edeln Metalle als Kaufmittel oder Zahlungsmittel in der innern Zirkulation ersetzen, aber nicht auf dem Weltmarkt. Papiernoten sind daher das Geld der Gesellschaft (money of the society), während Gold und Silber das Geld der Welt sind (money of the world).127

    144

    重商主義の幻想にたいする論争に熱中したために、アダム・スミスは金属流通の諸現象を客観的に理解するのを妨げられたのであるが、他方、信用貨幣にかんする彼の見解は独創的で深遠なものである。一八世紀の化石理論には、ノアの洪水についての聖書の伝説にたいする批判的または弁護論的顧慮から出てくる一つの底流がつねに流れているように、一八世紀のすべての貨幣理論の背後には、重金主義とのひそかな格闘、ブルジョア経済の揺藍のかつての守り手で、いまなおたえず立法のうえにその影を投げかけていたあの幽霊とのひそかな格闘が隠れているのである。

    Polemische Spannung gegen die Illusionen des Merkantilsystems verhinderte übrigens Adam Smith, die Phänomene der metallischen Zirkulation objektiv aufzufassen, während seine Anschauungen vom Kreditgeld originell und tief sind. Wie in den Versteinerungstheorien des 18. Jahrhunderts stets eine Unterströmung durchläuft, entspringend aus kritischer oder apologetischer Rücksicht auf die biblische Tradition von der Sündflut, so versteckt sich hinter allen Geldtheorien des 18. Jahrhunderts ein heimliches Ringen mit dem Monetarsystem, dem Gespenst, das die Wiege der bürgerlichen Ökonomie gehütet hatte und stets noch seinen Schlagschatten auf die Gesetzgebung warf.


    145

    リカードは、彼の先行者たちと同様に、銀行券または信用貨幣の流通をただの価値章標の流通と混同している。彼の頭を支配していた事実は、紙幣の減価と、それと時を同じくしての諸商品価格の騰貴とである。ヒュームの場合のアメリカの諸鉱山にあたるものは、リカードの場合にはスレッドニードル街の紙幣印刷機であって、リカード自身もある個所で、この二つの要因をはっきりと同一視している。彼の初期の著作はもっぱら貨幣問題だけを扱ったものであるが、それらは、閣僚と主戦党とを味方としたイングランド銀行と、畿会の反対党であるウィッグ党および平和党を周囲に結集したその反対者とのあいだで、きわめて激烈な論争がおこなわれていた時代に書かれた。


    Ricardo, wie seine Vorgänger, wirft die Zirkulation von Banknoten oder von Kreditgeld mit der Zirkulation von bloßen Wertzeichen zusammen. Die ihn beherrschende Tatsache ist die Depreziation des Papiergelds und das gleichzeitige Steigen der Warenpreise. Was die amerikanischen Minen für Hume, waren die Papierzettelpressen in Threadneedle Street für Ricardo und er selbst identifiziert an einer Stelle ausdrücklich beide Agentien. Seine ersten Schriften, die sich nur mit der Geldfrage beschäftigen, fallen in die Zeit der heftigsten Polemik zwischen der Bank von England, auf deren Seite die Minister und die Kriegspartei standen, und ihren Gegnern, um die sich die parlamentarische Opposition, die Whigs und die Friedenspartei gruppierten.


    信用貨幣
    Kreditgeld

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  41. 資本論
    1:3:2:c

    第三章 貨幣または商品流通

    第二節 流通手段

    c) 鋳貨、価値章標

    ここでは、強制通用力をもつ国家紙幣だけを問題とする。それは直接的に、金属流通手段から発生する。これに反し信用貨幣は、単純な商品流通の立場からしてはわれわれのまだまったく知らない諸関係を内蔵している。

     Es handelt sich hier nur von Staatspapiergeld mit Zwangskurs. Es wächst unmittelbar aus der metallischen Zirkulation heraus. Kreditgeld unterstellt dagegen Verhältnisse, die uns vom Standpunkt der einfachen Warenzirkulation noch durchaus unbekannt sind. Im Vorbeigehn sei jedoch bemerkt, daß, wie eigentliches Papiergeld aus der Funktion des Geldes als Zirkulationsmittel entspringt, das Kreditgeld in der Funktion des Geldes als Zahlungsmittel seine naturwüchsige Wurzel besitzt.

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  42. 経済学批判
    大月#13

    141
     サー・ジェームズ・ステュアートは、鋳貨と貨幣についての彼の研究をヒュームとモンテスキューとの詳細な批判から始めている。じっさい、彼は流通する貨幣の量が商品
    価格によって規定されるのか、それとも商品価格が流通一する貨幣の量によって規定されるのか、という間題を提起した最初の人である。彼の説明は、価値の尺度についての
    空想的な見解と、交換価値一般についての動揺した叙述と…



    142

    ステュアートによって発見された第二の法則は、信用にもとづいた流通はその出発点に還流する、ということである。最後に、彼は、いろいろの国の利子率の差異が貴金属の国際的移出入に及ぼす作用を展開している。このあとの二つの規定は単純流通というわれわれの主題からかけはなれているので、ここでは説明を完全にするために暗示しておくだけにとどめる。

    Das zweite von Steuart entdeckte Gesetz ist der Reflux der auf Kredit gegründeten Zirkulation zu ihrem Ausgangspunkt. Endlich entwickelt er die Wirkungen, die die Verschiedenheit des Zinsfußes in verschiedenen Ländern auf die internationale Aus- und Einwandrung der edeln Metalle hervorbringt. Die beiden letztem Bestimmungen deuten wir hier nur der Vollständigkeit wegen an, da sie unserm Thema der einfachen Zirkulation fernliegen.126

    象徴的貨幣または信用貨幣~~ステュアートは貨幣のこれら二つの形態をまだ区別していない~~は、国内流通では、購買手段または支払手段としての貴金属の代用をすることができるが、世界市場では、そうすることができない。だから、紙券は社会の代貨幣(money
    of the society)であるが、 金銀は世界の貨幣 (money of the world)である。

    Symbolisches Geld oder Kreditgeld – Steuart unterscheidet diese beiden Formen des Geldes noch nicht – können die edeln Metalle als Kaufmittel oder Zahlungsmittel in der innern Zirkulation ersetzen, aber nicht auf dem Weltmarkt. Papiernoten sind daher das Geld der Gesellschaft (money of the society), während Gold und Silber das Geld der Welt sind (money of the world).127

    144

    重商主義の幻想にたいする論争に熱中したために、アダム・スミスは金属流通の諸現象を客観的に理解するのを妨げられたのであるが、他方、信用貨幣にかんする彼の見解は独創的で深遠なものである。一八世紀の化石理論には、ノアの洪水についての聖書の伝説にたいする批判的または弁護論的顧慮から出てくる一つの底流がつねに流れているように、一八世紀のすべての貨幣理論の背後には、重金主義とのひそかな格闘、ブルジョア経済の揺藍のかつての守り手で、いまなおたえず立法のうえにその影を投げかけていたあの幽霊とのひそかな格闘が隠れているのである。

    Polemische Spannung gegen die Illusionen des Merkantilsystems verhinderte übrigens Adam Smith, die Phänomene der metallischen Zirkulation objektiv aufzufassen, während seine Anschauungen vom Kreditgeld originell und tief sind. Wie in den Versteinerungstheorien des 18. Jahrhunderts stets eine Unterströmung durchläuft, entspringend aus kritischer oder apologetischer Rücksicht auf die biblische Tradition von der Sündflut, so versteckt sich hinter allen Geldtheorien des 18. Jahrhunderts ein heimliches Ringen mit dem Monetarsystem, dem Gespenst, das die Wiege der bürgerlichen Ökonomie gehütet hatte und stets noch seinen Schlagschatten auf die Gesetzgebung warf.


    145

    リカードは、彼の先行者たちと同様に、銀行券または信用貨幣の流通をただの価値章標の流通と混同している。彼の頭を支配していた事実は、紙幣の減価と、それと時を同じくしての諸商品価格の騰貴とである。ヒュームの場合のアメリカの諸鉱山にあたるものは、リカードの場合にはスレッドニードル街の紙幣印刷機であって、リカード自身もある個所で、この二つの要因をはっきりと同一視している。彼の初期の著作はもっぱら貨幣問題だけを扱ったものであるが、それらは、閣僚と主戦党とを味方としたイングランド銀行と、畿会の反対党であるウィッグ党および平和党を周囲に結集したその反対者とのあいだで、きわめて激烈な論争がおこなわれていた時代に書かれた。


    Ricardo, wie seine Vorgänger, wirft die Zirkulation von Banknoten oder von Kreditgeld mit der Zirkulation von bloßen Wertzeichen zusammen. Die ihn beherrschende Tatsache ist die Depreziation des Papiergelds und das gleichzeitige Steigen der Warenpreise. Was die amerikanischen Minen für Hume, waren die Papierzettelpressen in Threadneedle Street für Ricardo und er selbst identifiziert an einer Stelle ausdrücklich beide Agentien. Seine ersten Schriften, die sich nur mit der Geldfrage beschäftigen, fallen in die Zeit der heftigsten Polemik zwischen der Bank von England, auf deren Seite die Minister und die Kriegspartei standen, und ihren Gegnern, um die sich die parlamentarische Opposition, die Whigs und die Friedenspartei gruppierten.


    信用貨幣
    Kreditgeld


    資本論

    1:3:2:c

    第三章 貨幣または商品流通

    第二節 流通手段

    c) 鋳貨、価値章標

    ここでは、強制通用力をもつ国家紙幣だけを問題とする。それは直接的に、金属流通手段から発生する。これに反し信用貨幣は、単純な商品流通の立場からしてはわれわれのまだまったく知らない諸関係を内蔵している。

     Es handelt sich hier nur von Staatspapiergeld mit Zwangskurs. Es wächst unmittelbar aus der metallischen Zirkulation heraus. Kreditgeld unterstellt dagegen Verhältnisse, die uns vom Standpunkt der einfachen Warenzirkulation noch durchaus unbekannt sind. Im Vorbeigehn sei jedoch bemerkt, daß, wie eigentliches Papiergeld aus der Funktion des Geldes als Zirkulationsmittel entspringt, das Kreditgeld in der Funktion des Geldes als Zahlungsmittel seine naturwüchsige Wurzel besitzt.

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