NAMs出版プロジェクト: 経済原論131~2頁、再生産表式関連
http://nam-students.blogspot.jp/2014/06/1312.html:本頁
宇野弘蔵は『経済原論』(岩波全書版123頁)で以下の(この段階では単純再生産であって拡張再生産ではない)表式を例示する。
1 6000=4000c+1000v+997m+1m+2m
2 2995.5=1997c+499.25v+498.25m+1m
流通過程で必須とされる媒介する金(gold,geld独)が、計3億、資本家の個人消費として控除される。
1で2億、2で1億、貨幣として蓄積される金がある。
カレツキの表式なら1は二つに分けられる。
流通に必要な金は消費手段生産部門における生産物として考えられる。
資本家の消費は総不変資本に編入されると考えられるのだ。
投資と消費が国民総生産を規定するのだから。
<…賃金を通して労働者の手に渡され
る消費資料によって再生産される労働力は、資本のもとに種々なる生産部面に配分せられ、
前年度の生産物たる生産手段をもって、新に生産手段と消費資料とを生産するのであるが、
そしてまたそれは同時に生産手段の価値cに、新に労働によって形成せられるv+mの価値
を加えることになるのであるが、資本にとってはv部分は、c部分と共に先きに投じた資
本部分を回収する、いわば資本のー部分の再生産されたものとしてあらわれる。これに対し
てm部分は、v部分と同様に労働によって新しく形成せられた、いわゆる価値生産物をなす
にもかかわらず、資本にとってはその価値増殖分をなし、資本家の所得となるのである。労
働者の賃金もー般に所得といわれるが、それは労働力の商品の代価としてえられるものであ
って、資本家の所得とは全く異っている。いかにも資本家の所得も商品の代価としての貨幣
には相違ないが、それは剩余価値生産物の代価にすぎない。労働力商品の場合は、その代価
によって自分らの労慟によって生産された価値生産物を買戻すのである。しかもそれだけで
はない。労働者にとっては、労働力商品は販売してしまえぱ、それで済むというものではな
い。また実際、労働力は、他の商品と異って、商品として販売しても労働者の手を離れるわ
けではない。労働者はその労働力を資本の生産過程に消費して、新なる生産物と共に新なる
価値を生産し、剩余価値部分と共に労働力商品の代価として支払われた価値部分をも再生産
するのである。いいかえれぱ労働者は、その労働力商品の販売によって、自らの生産物を買
戻して労働力を再生産しつつ、また再び買戻すべき生産物を生産するのである。>
(宇野弘蔵『経済原論』131~2頁、再生産表式関連)A''
以下、『資本論』第二部より
<…資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいして
は、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては
一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に
商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。>
(『資本論』第二部、第二一章 蓄積と拡大再生産、第一節 部門Ⅰにおける蓄積、 一 貨幣蓄蔵より)
<…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣
価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下
した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…>
(『資本論』第二部、第二〇章 単純再生産〔395〕第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈
品より)
補足:
<
|G--W……P
W'--G'・〈
|g--w
というように、剰余価値部分は、資本の流通過程に、いわば附属的な流通をなすわけである。かくして資本は、その再生産過程を展開するのである。>
(「経済原論』95~7頁)A'
_G'・G_
/ \
/ \
| |
W' W
・ ・
・ ・
・・・P・・・・
<(資本の運動は)G_W…P…W'…G'に対して、生産過程Pに始まるP…W'…G'・G_W…Pの生産過程の循環、さらにまた商品資本W'に始まるW'…G'・G_W…P…W'の商品資本の循環をもなすものとしなければならない。それは産業に投ぜられる資本の運動の三面を示すものとなるのである。>(同86頁)
第一部第23章 資本主義的蓄積の一般的法則
「産業予備軍は、沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する。だから、相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景なのである。それは、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界のなかに、押しこむのである。…」
『経済表原論』114~5頁で引用(引用元は岩波文庫)
/\
/ \
/ 利子 \
/_C____\
/\ <分配論>/\
/ \ / D\
/ 利潤 \ / 地代 \
B______\/______\
/\ /A''
/ E\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ A\ <生産論>/A'
/ G\ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/___F__\/_生産過程_\/_流通過程_\
_______________
置塩信雄や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に思える。
問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい(あくまで『資本論』のサブテクストとして)。
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁)A
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁) B
「生産力は、発展すればするほど、消費諸関係がよって立つ狭隘な基礎とますます矛盾するようになる。」マルクス資本論3:15:1河出
「恐慌は、つねに、現存する諸矛盾の一時的な暴力的解決にすぎず、攪乱された均衡を瞬間的に建設する暴力的爆発にすぎない。」マルクス資本論3:15:2河出
「労働の生産力の発展は、利潤率の低落において、この生産力じしんの発展にたいし特定の点でもっとも敵対的に対立するところの、したがって絶えず恐慌によって克服されねばならぬところの、一法則を生みだす」マルクス資本論3:15:3河出
「…賃労働者数がその相対的減少にもかかわらず絶対的に増加するということは、資本制的生産様式の要求にほかならない。資本制的生産様式にとっては、一日に一二時間ないし一五時間の就業がもはや必要でなくなれば、すでに労働者は過剰になる。生産諸力の発展──それによって労働者の絶対数が減少するような、すなわち、事実上全国民がより僅かな時間で彼らの全生産を完遂することができるような──は、革命をまねくであろう、というのは、それは人口の多数を遊ばせておくことになるからである。ここにも、資本制的生産の独自な制限が、そして、資本制的生産はけっして生産諸力と富の創造との発展のための絶対的形態ではなく、むしろこの発展と特定の点で衝突するにいたるということが、現象する。部分的にはこの衝突は、旧来の就業様式での労働者人口の、時にはこの部分、時にはかの部分の過剰化から生ずる周期的恐慌において現象する。」マルクス資本論3:15:4
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめ(A)に、上記の利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭(B)にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解(1/4)に記している(固定資本が念頭にあったのだろう)。
<…現物形態で機能しつづける固定資本は、前提にしたがってこれ(引用者注:総価値)から除外されている。>(資本論2:20:2)
<利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。>C
「商業信用のばあいに利子が──信用価格の現金価格からの区別として──商品価格に入りこむのは、手形の有効期間が普通よりも長いかぎりでにすぎない。そうでなければ入りこまない。そしてこのことは、誰でも一方では商業信用を受け他方では商業信用を与えるということによって説明がつく。(これは私の経験とは一致しない。──F・エンゲルス。)だが割引料は、ここにこの形態で入りこむかぎりでは、この商業信用によってではなく貨幣市場によって規制される。」
資本論3:32、宇野弘蔵著作集1:466引用
「…高い利潤率と事業拡張とは高い利子歩合の原因たりうるとしても、だからといって、高い利子歩合はけっして高い利潤の原因ではない。そして問題はまさまさに、高い利潤率がとっくに左様ならとなった後に、この高い利子(恐慌期に現実に生じたような)が持続しなかったか──またはむしろ初めて絶頂に達しなかったか──どうかということである。」マルクス『資本論』3:26河出
「恐慌期には、貸付資本にたいする需要、したがって利子率がその最高限度に達する。」マルクス『資本論』3:32河出
/ \
/ 利子 \
/_C____\
/\ <分配論>/\
/ \ / D\
/ 利潤 \ / 地代 \
B______\/______\
/\ /A''
/ E\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ A\ <生産論>/A'
/ G\ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/___F__\/_生産過程_\/_流通過程_\_
宇野原論とヘーゲル論理学との本来の対応はもっと細かい(旧原論目次:http://nam-students.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2835.html#ref)。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した(ウェーバー以上にヘーゲルは批判されるべきだった)。
ヘーゲル論理学と資本論との対応の話は『資本論五十年』上472頁に出て来る。構想としては古いことがわかる(スピノザを読んだのとほぼ同時期)。
マルクス『資本論』を再構成しつつも原理論はヘーゲル、段階論はスピノザに依拠している、ということか?
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働=生産過程
第二節 価値形成=増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展 A
第二章 資本の流通過程 A'
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産〜〜資本の再生産と労働力の再生産
第二節 拡張再生産〜〜資本家的蓄積の現実的過程
第三節 社会総資本の再生産過程〜〜価値法則の絶対的基礎 A''
第三篇 分配論
第一章 利潤 B
第一節 一般的利潤率の形成〜〜価値の生産価格への転化
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)〜〜需要供給の関係と超過利潤の形成
第三節 一般的利潤率の低落の傾向〜〜生産力の増進と景気循環
第二章 地代 D
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本 C
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
参照:
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re2_index/U/uno_kozo.html
参考、マルクス:再生産表式
p1 追加的不変資本M1c
_産業利潤_追加的可変資本M1v
_____ | 個人的消費M1k
|第1部門 | P|_C利子z_単利__|
|機械と原料| 利潤| 複利 |
|_____| /|_D地代r_差額地代|
B A / 絶対地代|
不変資本c 可変資本v 剰余価値m 生産物w |
_____\____ / |
/ \ / |
____ / 労賃\ / _産業利潤→ |
|第2部門| / \/ | | |
|生活手段| / /\ 利潤_|_利子→__| |
|____ / 労賃→_/__\ / | | |
固定資本?/ / / \\ |_地代→__| |
/\ / / / /\\ | |
不変資本 可変資本/ 剰余価値 生産物______/_/
/ /
____ / /
|第3部門| / /
|総生産物| / /
|____|/ /
____/ _______/__
不変資本 可変資本 剰余価値 生産物
単純再生産の場合、1(V+M)=2(c)
拡大再生産の場合、1(V+Mv+Mk)=2(c+Mc)。通常は、1(V+M)>2(c)、と表現する。A''
有機的構成=c/v (『資本論』第2巻21章参照)
_G'・G_
/ \
/ \
| |
W' W
・ ・
・ ・
・ ・
・・P・・・
「(資本の運動は)G_W…P…W'…G'に対して、生産過程Pに始まる
P…W'…G'・G_W…Pの生産過程の循環、さらにまた商品資本W'に
始まるW'…G'・G_W…P…W'の商品資本の循環をもなすものとしな
ければならない。それは産業に投ぜられる資本の運動の三面を示すものとな
るのである。」(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版86頁)
|G--W……P
W'--G'・〈
|g--w
というように、剰余価値部分は、資本の流通過程に、いわば附属的な流通をなすわけである。かくして資本は、その再生産過程を展開するのである。」(『経済原論』95~7頁)A'
第一部第23章 資本主義的蓄積の一般的法則
「産業予備軍は、沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する。だから、相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景なのである。それは、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界のなかに、押しこむのである。…」
『経済原論』114~5頁で引用(引用元は岩波文庫)
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>
(3:2)
あるいは、
わゆる「剰余価値の実現」の問題を論じた一節「直接的搾取の諸条件と剰余価値の実現の諸条件とは同一で
はない。‥‥‥‥」を引用して、「マルクスは、明らかに、資本主義の動態に対する有効需要の影響を深く認
識していた」としつつも、「彼は、彼の再生産表式によって叙述されている過程を、有効需要の問題の帰結
として資本主義に内在する矛盾という観点から体系的に吟味することをしなかった」と、マルクスにおける
『資本論』第3巻の「剰余価値の実現」の問題=「有効需要の問題」と第2巻の再生産表式論との関連の未
展開を批判する。>
http://www.unotheory.org/news_II_8
栗田康之 :カレツキの資本主義経済論―マルクスおよび宇野理論との関連で―(PDF形式:563KB)
<直接的搾取の条件とその実現の条件とは同一ではない。それらは、時間的および場所的にばかりでなく、
概念的にも別のものである。前者は社会の生産力によってのみ制限され、後者は、相異なる生産部門間の比
率性により、また社会の消費力によって制限されている。だが、社会の消費力は、絶対的生産力によっても
絶対的消費力によっても規定されないで、敵対的な分配諸関係──これは社会の大衆の消費を、多かれ少な
かれ狭い限界内でのみ変動する最小限に縮小する──の基礎上での消費力によって規定されている。>
「社会の総生産物したがってまた総生産はつぎの二大部門に分かれる、──
Ⅰ、生産手段。生産的消費に入りこむべき、または少なくとも入りこみうる形態をとる諸商品。
Ⅱ、消費手段。資本家階級および労働者階級の個人的消費に入りこむ形態をとる諸商品。
…
要約すれば、年々の総商品生産物はつぎのとおりである。
Ⅰ ) 4000c+ 1000v+1000m=6000 生産手段
Ⅱ) 2000c+ 500v+ 500m=3000 消費手段
総価値は9000であって、現物形態で機能しつづける固定資本は、前提にしたがってこれから除外されている。」
(2:20:2。3:49で再検討される)
「B 拡大された規模での再生産のための出発表式
Ⅰ ) 4000c+ 1000v+1000m=6000 生産手段
Ⅱ) 1500c+ 750v+ 750m=3000 消費手段 」
(2:21:3)
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20040908JyoyokachinoShihonhenotenka.htm
<第一部第22章 剰余価値の資本への転化
22. Verwandlung von Mehrwert in Kapital
第一節 拡大された規模での資本主義的生産過程 商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への変転
1. Kapitalistischer Produktionsprozeß auf erweiterter Stufenleiter. Umschlag der Eigentumsgesetze der Warenproduktion in Gesetze der kapitalistischen Aneignung
これまでは、どのようにして剰余価値が資本から生ずるかを考察しなければならなかったが、今度は、どのようにして資本が剰余価値から生ずるかを考察しなければならない。剰余価値の資本としての充用、または剰余価値の資本への再転化は、資本の蓄積と呼ばれれる。
Früher hatten wir zu betrachten, wie der Mehrwert aus dem Kapital, jetzt wie das Kapital aus dem Mehrwert entspringt. Anwendung von Mehrwert als Kapital oder Rückverwandlung von Mehrwert in Kapital heißt Akkumulation des Kapitals.824>
/ \
/ 利子 \
/_C____\
/\ <分配論>/\
/ \ / D\
/ 利潤 \ / 地代 \
B______\/______\
/\ /A''
/ E\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ A\ <生産論>/A'
/ G\ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/___F__\/_生産過程_\/_流通過程_\__
参考、NAMs出版プロジェクト: 宇野弘蔵『経済原論』とヘーゲル『小論理学』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2835.html#ref:旧原論目次「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁)A
資本論1:17より
<「労働の価値及び価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現われる本質的な関係としての労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫っているが、それを意識的に定式化することはしていない。古典派経済学は、ブルジョアの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。>
(以下、経済原論43頁より)E
<…この(産業資本の)形式ではG-Wで購入される商品は、単にW'の生産に必要な生産手段だけでなく、その生産手段をもって新しく商品W'を生産する労働者の労働力をも商品として購入するというのでなければならない。労働力自身を商品として買入れるとき始めて(産業)資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
G____W
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W'
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W'____G____W''
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W''____G
生産部面 流通市場 消費部面(著作集1:56参照)
< …商品は一般に売買されると流通界を脱して消費に入るのに反して、貨幣は商品の売買を
媒介しつつ常に流通市場に留まることになる。貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能
し、それを基礎としながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁より)
(以下、『経済原論』29頁における『資本論』1:1:3:Dからの引用。貨幣形態)G
< 20エレのリンネル =|
1着の上着 =|
10ポンドの茶 =|
40ポンドのコーヒー = 〉2オンスの金
1クォーターの小麦 =|
1/2トンの鉄 =|
x量の商品A =| >
原著では末尾にさらに「その他の商品 =」が加わる。
参考:http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/27b9d76ea3bfb8c1506781375bba957f
参考、マルクス:再生産表式。再掲
p1 追加的不変資本M1c
_産業利潤_追加的可変資本M1v
_____ | 個人的消費M1k
|第1部門 | P|_利子z__単利__|
|機械と原料| 利潤| 複利 |
|_____| /|_地代r__差額地代|
/ 絶対地代|
不変資本C 可変資本V 剰余価値M 生産物W |
_____\____ / |
/ \ / |
____ / 労賃\ / _産業利潤→ |
|第2部門| / \/ | | |
|生活手段| / /\ 利潤_|_利子→__| |
|____ / 労賃→_/__\ / | | |
/ / / \\ |_地代→__| |
/ / / /\\ | |
不変資本 可変資本/ 剰余価値 生産物______/_/
/ /
____ / /
|第3部門| / /
|総生産物| / /
|____|/ /
____/ _______/__
不変資本 可変資本 剰余価値 生産物
単純再生産の場合、1(V+M)=2(c)
拡大再生産の場合、1(V+Mv+Mk)=2(c+Mc)。通常は、1(V+M)>2(c)、と表現する。
有機的構成=c/v
(『資本論』第2巻21章参照)
てm部分は、v部分と同様に労働によって新しく形成せられた、いわゆる価値生産物をなす
にもかかわらず、資本にとってはその価値増殖分をなし、資本家の所得となるのである。労
働者の賃金もー般に所得といわれるが、それは労働力の商品の代価としてえられるものであ
って、資本家の所得とは全く異っている。いかにも資本家の所得も商品の代価としての貨幣
には相違ないが、それは剩余価値生産物の代価にすぎない。労働力商品の場合は、その代価
によって自分らの労慟によって生産された価値生産物を買戻すのである。しかもそれだけで
はない。労働者にとっては、労働力商品は販売してしまえぱ、それで済むというものではな
い。また実際、労働力は、他の商品と異って、商品として販売しても労働者の手を離れるわ
けではない。労働者はその労働力を資本の生産過程に消費して、新なる生産物と共に新なる
価値を生産し、剩余価値部分と共に労働力商品の代価として支払われた価値部分をも再生産
するのである。いいかえれぱ労働者は、その労働力商品の販売によって、自らの生産物を買
戻して労働力を再生産しつつ、また再び買戻すべき生産物を生産するのである。それは単な
る商品の売買ではない。ただ労働力の商品としての売買関係がこの点を隠蔽し、労働力商品
の代価をも資本家の所得と同様の所得と見せるにすぎない。事実、労働者の所得とせられる
賃金によって購入せられるべき消費資料は、資本の再生産過程から離れても、労働力の再生
<第二〇章 単純再生産〔395〕
第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈品
…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…
第二一章 蓄積と拡大再生産
第一節 部門Ⅰにおける蓄積
一 貨幣蓄蔵
…
資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいしては、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。>
_______________
_______________
_______________
プルードンがマルクスに送った手紙(1846年)の定式をのちのプルードン自身の言葉で言えば以下になる。
「政治機能は産業機能に還元される、社会秩序はたんに交換という事実にのみ由来する」
(プルードン「連合の原理」原著1863年,三一書房版選集第三巻339頁、定本『トランスクリティーク』274頁 、
現代文庫版267頁より孫引き)
マルクスはこの言葉に沿って経済決定論を展開したといって良い。
つまりマルクスはプルードン主義者なのであり、すべてのマルクス主義者は未だ覚醒せざるプルードン主義者なのだ。
実践において政治権力奪取を一時的にでも目指すかが違うだけだ。
(狭義のマルクス主義でも権力奪取は臨時的なものだが)
/>>918
/ \
/ 利子 \
/_C____\
/\ <分配論>/\
/ \ / D\
/ 利潤 \ / 地代 \
>>886_____\/______\
/\ />>915
>>906\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ >>910\ <生産論>/\
>>901\ / \ / \ />>911,>>912
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/__>>903_\/_生産過程_\/_流通過程_\
マルクス『資本論』 絶対的5〜9、 商品と
__________相対的10〜13__貨幣〜3
|資本の変態|(資本の |剰余|資本|拡大|単純|
| と循環| 循環過程)価値|へ4|価値形態論1
| 1〜6 |1、2、3| 〜16 一般的|貨幣|
|_二資本の流通過程__|_一資本の生産過程__|
| |拡大|単純|時間| | 資本の |
|資本の回転|再生産 ・|_労 賃_|蓄積過程 |
|7〜17 社会的総資本|17〜20|21〜25|
|_____|18〜21|出来高__|_____|
| | 生産過程49|資本|労働|
| 利潤 | | 競争の |_三位一体48
| 1〜20| | 外観50|土地| |
|____三資本主義的生産の総過程への転化|__|
| 絶対・|差額| 資本家|労働者
| 利子 |_地代_・| 生産51|_諸階級52
|21〜36|37〜47| 分配と |地主| |
|複利24_資本主義的・|_____|__|__|
_______________
中村賢一郎『経済学説研究』118~120頁によると、スミスはv+mのドグマに陥っていないとのことである。
A
《剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、
剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
B
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
C
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
なぜマルクスは利潤A、利子C、地代Bの順で論じ、宇野は利潤A、地代B、利子Cの順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは
強調していない点だ。
/ \
C 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/A \ >>967 / B\
/ 利潤 \ / 地代 \
>>886_____\/______\
/\ />>915
>>906\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ >>910\ <生産論>/\
>>901\ / \ / \ />>911,>>912
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/__>>903_\/_生産過程_\/_流通過程_\
マルクス『資本論』 絶対的5〜9、 商品と
__________相対的10〜13__貨幣〜3
|資本の変態|(資本の |剰余|資本|拡大|単純|>>901
| と循環| 循環過程)価値|へ4|価値形態論1
| 1〜6 >>911,>>912| 〜16 一般的|貨幣|>>903
|_二資本の流通過程__|_一資本の生産過程__|>>906
| |>>915 | |時間| 資本の |
|資本の回転|社会的 |_労 賃_|蓄積過程 |
| 7〜17|総資本 |17〜20|21〜25|
|_____|18〜21|>>910__|_____|
| >>886 | | |労働| |
| 利潤 | |生産過程 三位一体48|
| 1〜20| | 49 |資本|土地|
|____三資本主義的生産の総過程への転化|__|
| >>967 |競争の 労働者| |
| 利子 | 地代 |外観50 |_諸階級52
|21〜36|37〜47| 分配と 資本家|地主|
|_____|_____|_生産51|__|__|
>>918
絶対的
時間 | 法則
拡大__|__単純
効率 | 総合
相対的
やはり宇野よりマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割(マルクス)を先に学んで後から三分割(宇野>>968)に読み
直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスもヘーゲル的三分割
志向だったが、ある時期これを捨てている。
資本論各巻構成表式
第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値(絶対的、相対的)、価値形態論__
\ 絶対的 \(使用価値) l
第二巻が間をつなぐ、生産論 パラレル___l
/ 相対的 /(交換価値)
第三巻=価格論、分配論
利潤、利子、地代
『資本論』各巻構成表式
第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) l (地代)
第二巻が間をつなぐ、生産論 パラレル___l (利潤)
/ (相対的) /(交換価値) (利子)
第三巻=価格論、分配論 l
利潤、利子、地代__________________________l
『資本論』各巻構成表式
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) l (地代)
第2巻が間をつなぐ、生産論 パラレル___l (利潤)
/ 固定資本 流動資本 (相対的) /(交換価値) (利子)
第3巻=価格論、分配論 l
地代______利潤_____利子_______________l
『資本論』各巻構成表式
第一巻=価値論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) l (地代)
第二巻が間をつなぐ パラレル___l (利潤)
/ (相対的) /(交換価値) (利子)
第三巻=価格論 l
地代______利潤_____利子_______________l
『資本論』各巻構成表式
第1巻=価値論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) l (地代)
第2巻が間をつなぐ パラレル______l (利潤)
/ 固定資本 流動資本 (相対的) /(交換価値) (利子)
第3巻=価格論 l
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」がキーワードである
『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) | (地代)
第2巻が間をつなぐ パラレル______| (利潤)
/ 固定資本 流動資本 (相対的) /(交換価値) (利子)
第3巻=価格論 |
地代______利潤_____利子_______________|
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」がキーワードである
『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) | (地代)_差額地代
第2巻が間をつなぐ パラレル______| (利潤) |
/ 固定資本 流動資本 (相対的) /(交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論 |
地代______利潤_____利子_______________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会の倒錯と言うべきなのだろうが…
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」がキーワードである
『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的)\ (使用価値) | (地代)_差額地代
\ \ | |
第2巻が間をつなぐ、(再)生産論 パラレル______| (利潤) |
/ / |
/ 固定資本 流動資本 (相対的)/ (交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論、分配論 |
地代______利潤_____利子_______________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) | (地代)_差額地代
第2巻が間をつなぐ、(再)生産論 パラレル______| (利潤) |
/ 固定資本 流動資本 (相対的) /(交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論、分配論 |
地代______利潤_____利子_______________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論
\ (絶対的) (使用価値) (地代)_差額地代
\ | |
第2巻が間をつなぐ、(再)生産論 (利潤) |
/ | |
/ 固定資本 流動資本 (相対的) (交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論、分配論 |
地代______利潤_____利子____________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
ある『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論
\ (絶対的) (使用価値) (地代)_差額地代
\ | |
第2巻が間をつなぐ、(再)生産論 (利潤) |
/ | |
/ 固定資本 流動資本 (相対的) (交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論、分配論 |
地代______利潤_____利子____________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
需要と供給のように
価値と価格は交差する図式を持つ
価 供給
格\/
/\需要
取引量
普通は上の図になるが(この図は価値が考慮されていない)、
需要は価値に
供給が価格に対応する
需要 価格
\/
供給/\価値
ある『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論
\ (絶対的) (使用価値) (地代)_差額地代
\ | |
第2巻が間をつなぐ、(再)生産論 (利潤) |
/固定資本 流動資本 | |
第3巻=価格論、分配論 |
地代______利潤_____利子____________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
価値と価格は交差する図式を持つ
価 供給
格\/
/\需要
取引量
普通は上の図になるが(この図は価値が考慮されていない)、
需要は価値に
供給が価格に対応する(価値は複素平面的だ)
需要 価格
\/
供給/\価値
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」(例:価値と価格)がキーワードで
ある『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論
\ (絶対的) (使用価値) (地代)_差額地代
\固定資本 流動資本 | |
第2巻が間をつなぐ (利潤) |
/(再)生産論 | |
/ (相対的) (交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論、分配論 |
地代______利潤_____利子____________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
以下『資本論』と私』(2008年、 お茶の水書房)より
『朝日年鑑』昭和22年版(1947年)。宇野弘蔵の作成になる「日本国勢統計図表」の一部。
正木千冬 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/正木千冬国立国会図書館デジタルコレクション - 朝日年鑑. 1947年版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123519
以下、『資本論』第二部より
返信削除<…資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいして
は、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては
一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に
商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。>
(『資本論』第二部、第二一章 蓄積と拡大再生産、第一節 部門Ⅰにおける蓄積、 一 貨幣蓄蔵)
<…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣
価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下
した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…>
(『資本論』第二部、第二〇章 単純再生産〔395〕第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈
品)
以下、『資本論』第二部より
返信削除<…資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいして
は、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては
一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に
商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。>
(『資本論』第二部、第二一章 蓄積と拡大再生産、第一節 部門Ⅰにおける蓄積、 一 貨幣蓄蔵より)
<…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣
価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下
した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…>
(『資本論』第二部、第二〇章 単純再生産〔395〕第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈
品より)
<…資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいしては、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。>
返信削除(『資本論』第二部、第二一章 蓄積と拡大再生産、第一節 部門Ⅰにおける蓄積、 一 貨幣蓄蔵)
<…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…>
(『資本論』第二部、第二〇章 単純再生産〔395〕第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈品)
<…賃金を通して労働者の手に渡され
返信削除る消費資料によって再生產される労働力は、資本のもとに種々なる生産部面に配分せられ、
前年度の生産物たる生産手段をもって、新に生産手段と消費資料とを生産するのであるが、
そしてまたそれは同時に生産手段の価値cに、新に労働によって形成せられるv+mの価値
を加えることになるのであるが、資本にとってはv部分は、c部分と共に先きに投じた資
本部分を回収する、いわば資本のー部分の再生産されたものとしてあらわれる。これに対し
てm部分は、v部分と同様に労働によって新しく形成せられた、いわゆる価値生産物をなす
にもかかわらず、資本にとってはその価値増殖分をなし、資本家の所得となるのである。労
働者の賃金もー般に所得といわれるが、それは労働力の商品の代価としてえられるものであ
って、資本家の所得とは全く異っている。いかにも資本家の所得も商品の代価としての貨幣
には相違ないが、それは剩余価値生産物の代価にすぎない。労働力商品の場合は、その代価
によって自分らの労慟によって生産された価値生産物を買戻すのである。しかもそれだけで
はない。労働者にとっては、労働力商品は販売してしまえぱ、それで済むというものではな
い。また実際、労働力は、他の商品と異って、商品として販売しても労働者の手を離れるわ
けではない。労働者はその労働力を資本の生産過程に消費して、新なる生産物と共に新なる
価値を生産し、剩余価値部分と共に労働力商品の代価として支払われた価値部分をも再生産
するのである。いいかえれぱ労働者は、その労働力商品の販売によって、自らの生産物を買
戻して労働力を再生産しつつ、また再び買戻すべき生産物を生産するのである。>
(宇野弘蔵『経済原論』131~2頁、再生産表式関連)
返信削除http://www.unotheory.org/news_II_1
Newsletter第2期の第1号にはNewsletter第2期のご案内と、投稿論文(1)馬場宏二著「矢内原段階論と宇野段階論―ひとつの問題提起―」、投稿論文(2)柴垣 和夫著「クリーピング・ソーシャリズムについて——榎本正敏編著『21世紀 社会主義化の時代』を読む——」を掲載します。
【添付ファイル】
[ご案内]
Newsletter第2期のご案内
[投稿]
馬場宏二著「矢内原段階論と宇野段階論―ひとつの問題提起―」
柴垣 和夫著「クリーピング・ソーシャリズムについて——榎本正敏編著『21世紀 社会主義化の時代』を読む——」
[一括ダウンロード]
社会の総生産物したがってまた総生産はつぎの二大部門に分かれる、──
返信削除Ⅰ、生産手段。生産的消費に入りこむべき、または少なくとも入りこみうる形態をとる諸商品。
Ⅱ、消費手段。資本家階級および労働者階級の個人的消費に入りこむ形態をとる諸商品。
…
要約すれば、年々の総商品生産物はつぎのとおりである。
1) 4000c+ 1000v+1000m=6000 生産手段
2) 2000c+ 500v+500m=3000 消費手段
総価値は9000であって、現物形態で機能しつづける固定資本は、前提にしたがってこれから除外されている。
2:20:2
矢内原忠雄 - Wikipedia
返信削除ja.wikipedia.org/wiki/矢内原忠雄
表・話・編・歴. 矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1月27日 - 1961年 (昭和36年)12月25日)は、日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士 院会員。正三位勲一等瑞宝章。 目次. 1 人物・生涯. 1.1 青年期; 1.2 壮年期; 1.3 晩年.
返信削除社会の総生産物したがってまた総生産はつぎの二大部門に分かれる、──
Ⅰ、生産手段。生産的消費に入りこむべき、または少なくとも入りこみうる形態をとる諸商品。
Ⅱ、消費手段。資本家階級および労働者階級の個人的消費に入りこむ形態をとる諸商品。
…
要約すれば、年々の総商品生産物はつぎのとおりである。
1) 4000c+ 1000v+1000m=6000 生産手段
2) 2000c+ 500v+500m=3000 消費手段
総価値は9000であって、現物形態で機能しつづける固定資本は、前提にしたがってこれから除外されている。
2:20:2
B 拡大された規模での再生産のための出発表式
1) 4000c+ 1000v+1000m=6000 生産手段
2) 1500c+ 750v+750m=3000 消費手段
2:21:3
返信削除社会の総生産物したがってまた総生産はつぎの二大部門に分かれる、──
Ⅰ、生産手段。生産的消費に入りこむべき、または少なくとも入りこみうる形態をとる諸商品。
Ⅱ、消費手段。資本家階級および労働者階級の個人的消費に入りこむ形態をとる諸商品。
…
要約すれば、年々の総商品生産物はつぎのとおりである。
1) 4000c+ 1000v+1000m=6000 生産手段
2) 2000c+ 500v+500m=3000 消費手段
総価値は9000であって、現物形態で機能しつづける固定資本は、前提にしたがってこれから除外されている。
2:20:2
(3:49で再検討される)
B 拡大された規模での再生産のための出発表式
1) 4000c+ 1000v+1000m=6000 生産手段
2) 1500c+ 750v+750m=3000 消費手段
2:21:3
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
返信削除部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象
する。>
(3:2)
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>
(3:2)
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
返信削除部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>
(3:2)
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
返信削除上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>
(3:2)
返信削除https://itunes.apple.com/jp/book/waido-ban-shi-jieno-da-si/id866995482?mt=11
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ワイド版世界の大思想 第3期〈4〉マルクス
マルクス, 高島善哉 & 三浦和男
哲学/思想, ブック, ノンフィクション
2005年5月1日
アイテムを表示
<学問にとって平安の大道はない>。ここに収められたマルクスの諸論文は初期マルクスの思想が「資本論」にまで、いかに結実されたかを知るうえで必読のものばかりである。なお「ドイツ・イデオロギー」は原稿から直接再編されたロシア版によって日本で初めて訳出した。
〈収録タイトル〉
経済学・哲学論集(ドイツ・イデオロギー/共産党宣言/賃労働と資本他7編)
※この電子書籍は、オンデマンド本「ワイド版世界の大思想」を底本としております。
目 次 ◆ユダヤ人問題によせて 花田圭介 訳 ◆ヘーゲル法哲学批判序説 高島善哉 訳 高島光郎 訳 ◆経済学─哲学手稿 三浦和男 訳 ◆フォイエルバッハについての十一のテーゼ 高島善哉 訳 高島光郎◆ドイツ・イデオロギー 中野雄策 訳 ◆共産党宣言 都留大治郎 訳 ◆賃労働と資本 長洲一二 訳◆哲学の貧困 岡崎三郎 訳 ◆経済学批判序説 岡崎次郎 訳 ◆経済学批判序言 岡崎次郎 訳 ◆解題 ◆解説 高島善哉 山中隆次 ◆マルクス年表 渡辺 寛
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だが、利潤率をとおしての移行によって剰余価値が利潤の形態に転化される方式は、生産過程ですでに行なわれている主体と客体との顚倒のいっそうの発展にすぎない。すでに生産過程でも、われわれの見たように、労働の全主体的生産諸力が資本の生産諸力として現われる〔第一部二七一頁参照〕。
返信削除3:2
また事実上、利潤率は歴史的な出発点である。剰余価値および剰余価値率は、相対的には、眼に見えないものであり、探究されるべき本質的なものであるが、利潤率、したがって利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われる。
返信削除3:2
置塩信雄や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に思える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解(1/3)に記している(固定資本が念頭にあったのだろう)。
ちなみに、資本論本文には以下のようにある。
<…現物形態で機能しつづける固定資本は、前提にしたがってこれ(引用者注:総価値)から除外されている。>(2:20:2)
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>
(3:2)
置塩信雄や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に思える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解(1/3)に
記している(固定資本が念頭にあったのだろう)。
ちなみに、資本論本文には以下のようにある。
<…現物形態で機能しつづける固定資本は、前提にしたがってこれ(引用者注:総価値)から除外されている。>
(2:20:2)
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>
(3:2)
置塩信雄や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に思える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解(1/3)に
記している(固定資本が念頭にあったのだろう)。
ちなみに、資本論本文には以下のようにある。
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>(3:2)
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>
(3:2)
置塩信雄や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に思える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」
(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解(1/3)に
記している(固定資本が念頭にあったのだろう)。
ちなみに、資本論本文には以下のようにある。
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>(3:2)
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>
(3:2)
置塩信雄や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に思える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」
(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解(1/3)に
記している(固定資本が念頭にあったのだろう)。
http://2.bp.blogspot.com/-srJPQ_inlhw/U452Og7Q7AI/AAAAAAAAfbU/V_99JRgl70A/s1600/marx-table_0002b.jpg
ちなみに、資本論本文には以下のようにある。
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>(3:2)
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>(3:2)
マルクス経済表(再生産表式と同じ部門順に改変、点線実線の区別は省略)
返信削除_____ (技術革新等 | (労働時間
|第1部門 | 空間的差異)|絶 の延長) 2:21
|機械と原料|___相対的__|対_____ _追加的不変資本___ Mc
|_____| 剰余価値 |的 ___産業利潤_/_追加的可変資本___\ Mv
本 1:10 |剰 利| \_個人的消費_____/|Mk
固定資本2:9 流動資本 |余 潤|___利子_____単利_________|
\機械)(原料/\ |価 | \___複利________/|
(土地 消耗品) \ |値 /|___地代_____差額地代_______|
源 \ / (労働力) | / \_絶対地代______/|
不変資本C 可変資本V 剰余価値M 生産物W |
1:6 ____\____ / |
1:24 / \ / |
的 ____ / 労\ / _産業利潤___3:1〜____ |
|第2部門| / 賃\/ 利| \ |
|生活手段| / /\ 潤|_利子_____3:21〜____| |
|____|/ 労賃__/__\ / | 3:24 | |
蓄 / / / \\ |_地代_____3:37~44__| |
/ / / /\\ 3:45 | |
不変資本 可変資本/ 剰余価値 生産物____________G____/_/
/ / 四: ◎ 貨幣
積 ____ / / ◯
|第3部門| / / 三: /| 一般的
|総生産物| / / ☆☆☆ 1:1、3、
|____|/ _______/_ ☆☆☆ 3:33
/ 二:|/ 拡大
不変資本 可変資本 剰余価値 生産物 ◯
形態一:◯=☆ 単純
(相対的価値形態 = 等価形態)
参考、マルクス:再生産表式
返信削除p1 追加的不変資本M1c
_産業利潤_追加的可変資本M1v
_____ | 個人的消費M1k
|第1部門 | P|_利子z__単利__|
|機械と原料| 利潤| 複利 |
|_____| /|_地代r__差額地代|
/ 絶対地代|
不変資本C 可変資本V 剰余価値M 生産物W |
_____\____ / |
/ \ / |
____ / 労賃\ / _産業利潤→ |
|第2部門| / \/ | | |
|生活手段| / /\ 利潤_|_利子→__| |
|____ / 労賃→_/__\ / | | |
/ / / \\ |_地代→__| |
/ / / /\\ | |
不変資本 可変資本/ 剰余価値 生産物______/_/
/ /
____ / /
|第3部門| / /
|総生産物| / /
|____|/ /
____/ _______/__
不変資本 可変資本 剰余価値 生産物
単純再生産の場合、1(V+M)=2(c)
拡大再生産の場合、1(V+Mv+Mk)=2(c+Mc)。通常は、1(V+M)>2(c)、と表現する。
有機的構成=c/v
(『資本論』第2巻21章、第三巻49章参照)
3:1
返信削除〔57〕利潤をpと名づけるならば、範式W=c+v+m=k+mは、範式W=k+pすなわち、商品価値=費用価格+利潤 に転形する。
3:1
返信削除費用価格をkと名づけるならば、範式W=c+v+mは、範式W=k+m、すなわち、商品価値=費用価格+剰余価値に転形する。
https://lh5.googleusercontent.com/-j0NTS94tcYE/U4-qENZlPCI/AAAAAAAAfc0/mlIyhlHwepk/s640/blogger-image-473529628.jpg
返信削除https://lh5.googleusercontent.com/-j0NTS94tcYE/U4-qENZlPCI/AAAAAAAAfc0/mlIyhlHwepk/s1600/blogger-image-473529628.jpg
置塩信雄や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に思える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」
(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解(1/3)に
記している(固定資本が念頭にあったのだろう)。
http://lh5.googleusercontent.com/-j0NTS94tcYE/U4-qENZlPCI/AAAAAAAAfc0/mlIyhlHwepk/s1600/blogger-image-473529628.jpg
ちなみに、資本論本文には以下のようにある。
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>(3:2)
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>(3:2)
置塩信雄や森嶋通夫の示した利潤率が正なら剰余価値率も正という証明、これは当たり前に思える。
返信削除問題は剰余価値率と利潤率の位置づけだ。
この点は宇野弘蔵『経済原論』がわかりやすい。
「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」
(岩波全書版『経済原論』137頁)
体系としても剰余価値率の説明が第2篇生産論のはじめに、利潤率の説明が第3篇分配論の冒頭にあるなど的確だ。
再生産表式も生産論の一部という扱いでしっくりくる。
ただ価値増殖過程にすべて回されるという錯覚を与えるかもしれない。
マルクスは大月資本論草稿集9,588頁で不変資本4000のうち3600は「価値増殖過程にはいらない」と図解(1/4)に
記している(固定資本が念頭にあったのだろう)。
http://lh5.googleusercontent.com/-j0NTS94tcYE/U4-qENZlPCI/AAAAAAAAfc0/mlIyhlHwepk/s1600/blogger-image-473529628.jpg
ちなみに、資本論本文には以下のようにある。
<…利潤は剰余価値の転化形態であり、剰余価値の根源と定在の秘密とを隠蔽し抹殺する形態である。事実
上、利潤は剰余価値の現象形態であって、後者は分析によって初めて前者から摘出されねばならない。剰余
価値においては、資本と労働との関係が暴露されている。>(3:2)
<…資本は、そのもろもろの転形の環を通過する。最後に資本は、いわば、その内部的な有機的生活から外
部的な生活諸関係に、すなわち、そこでは資本と労働がではなく、一方では資本と資本が、他方では個人と
個人が、ふたたび単に買手および売手として対立しあう諸関係に、入りこむ。…したがって利潤が、商品の
販売価格がその内在的価値をこえる超過分として現象する。>(3:2)
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20040908JyoyokachinoShihonhenotenka.htm
返信削除第22章 剰余価値の資本への転化
22. Verwandlung von Mehrwert in Kapital
第一節 拡大された規模での資本主義的生産過程 商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への変転
1. Kapitalistischer Produktionsprozeß auf erweiterter Stufenleiter. Umschlag der Eigentumsgesetze der Warenproduktion in Gesetze der kapitalistischen Aneignung
これまでは、どのようにして剰余価値が資本から生ずるかを考察しなければならなかったが、今度は、どのようにして資本が剰余価値から生ずるかを考察しなければならない。剰余価値の資本としての充用、または剰余価値の資本への再転化は、資本の蓄積と呼ばれれる。
Früher hatten wir zu betrachten, wie der Mehrwert aus dem Kapital, jetzt wie das Kapital aus dem Mehrwert entspringt. Anwendung von Mehrwert als Kapital oder Rückverwandlung von Mehrwert in Kapital heißt Akkumulation des Kapitals.824
1:22
返信削除第二二章 剰余価値の資本への転化
第一節 拡大された規模での資本制的生産過程。商品生産の所有法則の資本制的取得法則への転変
いかにして剰余価値が資本から発生するかは、さきに考察したので、いまやわれわれは、いかにして資本が剰余価値から発生するかを考察しよう。資本としての剰余価値の充用、または、剰余価値の資本への再転化は、資本の蓄積と呼ばれる。
http://henryhenry6.jugem.jp/?eid=1512
返信削除産業連関分析入門―ExcelとVBAでらくらくIO分析
産業連関分析入門―ExcelとVBA...の他のレビューをみる»
評価:
藤川 清史
日本評論社
¥ 3,150
(2005-06)
JUGEMテーマ:学問・学校
NHKではビッグデータを震災復興に使うプロジェクトを特集しましたが、それを純粋に経済学にフィードバックしようとする視点はありませんでした。
その是非は置くとして、すでに計量経済学では多くの統計情報を組み込む手法が確立され、経済予測に使われています。今回決まった2020年東京オリンピックの経済効果は3兆円とはじき出しているのも、この経済学のおかげなのです。
その元は、総務省がA4版で出している3巻本の分厚い産業連関表であり、それは旧ソ連のレオンチェフという経済学者が編み出した産業連関分析、インプット・アウトプット表なのです。
そして彼の独創的な発想の元となったのは、総務省のその本によるとマルクスの再生産表だといいますから驚きです。
そのマルクスの発想の元は、ケネーの経済表だというのはよく知られています。
産業連関表、再生産表、経済表!!
これらは簡単に言うと、金は天下の回りもの、ということを経済学的に述べたもです。
ただし、再生産表は、ほんとうの利益は商品交換ではなく生産から生まれるということを前提にし、その他はそれを組み込んでいないので、今後は修正していくことが大切です。資本主義社会の限界を感じざるをえません。
ともあれ、経済学では、商品を生産、流通、循環という視点からとらえることが大切ですが、これまでの統計情報という「平均」から脱却して、ビッグデータを利用するとが今、重要になってくるのではないかと思うのです。
これまでは、ある業種に予算をインプットすれば、どういう業種が儲かるか?という「面」でとらえてきたのですが、ビッグデータを利用すれば、チャイナバタフライが東京スカイツリーの入場者にどれだけ影響するかをはじき出せるというような、「点」でとらえることもできるようになるのではないかと思うのです。
レオンチェフ経由でマルクスに学んだ成果を実践に生かしているのは総務省の役人だろう。
返信削除例えば、福島のバイオエネルギー構想などは、環境省でも農水省でも経産省でもなく、
まずは総務省に相談すべきだった。誰も全体を見ていない。
産業連関表の構造と見方(pdf) - 総務省 より
http://www.soumu.go.jp/main_content/000286851.pdf
<この産業連関表については、一般にL.ワルラス(1834~1910)の「一般均衡理論」を
現実の国民経済に適用しようとする試みであり、また、F.ケネー(1694~1774)の「経
済表」を米国経済について作成しようとする試みであったと評されている。
___K.マルクス「再生産表式」
F.ケネー「経済表」__|____
|
L.ワルラス「一般均衡理論」__|__W.レオンチェフ「産業連関表」 >
産業連関表の実例:
平成17年(2005年)産業連関表からみた日本経済(:2,626KB)
http://www.soumu.go.jp/toukei_toukatsu/data/io/005index.htm
http://www.soumu.go.jp/main_content/000290969.pdf
↑ただし、ローザ・ルクセンブルクの指摘した軍事費が書かれてない。
ローザは再評価されるべきだ。戦争は最大最悪の公共事業(カントの定義なら私的)だからだ。
経済原論208-9頁
返信削除利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…
銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。
利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本字社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよいの
であって、この資今は、個々の資本家の資金てありながら、銀行を辺して社会的資金として、
上述のように資本の蓄積に対する壮言的規制をなすものとなる。それは個々の資本の蓄積過
程の内に形成せられつつ壮言的に利用せられるものであって、マルクスもいうように「侈く
の糾合、利子の低い扶熊は繁栄期または特別川洲期に、利子の上昇は繁栄とそ・の転換との境
界期に、また極端なズ利的高さに至る利子の号尚限ぱ恐慌に、対応する」(『資本論』第三巻〔ィ〕
三九回頁、〔岩〕田四回竺ということになり、「使百ては、比較的低い利子が沈滞に伴い、また
ある程度の上昇が活気の憎犬に伴うこと七あるゴ尚上マ言一九四頁、〔岩一則四言責)。それは資
本の運動力中から出ながら、個々の資本の運動と独立に、貨幣市場において一定の期限をも
った原品として売買せられることになるのであって、個々の資本の運動に利用せられ、池辺
費用の節約に投入ちながら、個々の資本の運動を社会的に規制するものとなる。それはまさ
に真率回的原品経済に適応した用例方法といってよい。資金の原品化による資本に対する川
副である。
(5) マルタスは、前に七指摘しかように、この資全の商品化か直ちに資本の商品化とするのである
が、ここてはなが作字が商品化しているわけてはない。利子は、作亮の一定期間の使用に対する代
価であって、有本の代価ではない。後に明らかにするように、有本は定期的に一定の利子を生むも
のとして商品化するのてあるが、商品としての有本の代価は明らかに利子ではなレ。
第二節 商談資本と商談利潤
銀行資本は爪談資本の遊休貨幣資本を資金として社会的に岫通し、これによって流通資本
を生子資本化して判金価値の生爪の直接的増加を豆らすことに寄与するのに対して、商談資
本は京菜資本力運動における商乱立本の役付資本への転化ヅーーよの巡視ヽいいかえ牡ば貸
本の違勅における鏝も困難なる問題を言行商品の販売を卒業資本に代って引受けて専門的に
行いつつこれを促進することによって、いれば間接的に判金憤恨の生爪増加に寄与すること
になる。同じく流頌皆川の節約による剰余価値の生産増加をなすわけであるが、界スだ役割
を心してレるのてある。
203
(6) 利子諭で面詰有本を説くことは、外見的には見様に見えるから知れないが、流通費用の節約と
いう同に役目を有する焉のであり、貸付資本の形成にはその背後に銀行資本があり、商業資本はま
たこの同じ役目から、次に述べるように貸付資本を前提とし、これを極力利川するものとなるので 09
ある。『資本論』にかける「商品爪印こ貝本」「利子付資本」の順序は、むしろこの関連を不明頴にす
< |G--W……P
返信削除W'--G'・{
|g--w
というように、剰余価値部分は、資本の流通過程に、いわば附属的な流通をなすわけである。かくして資本は、その再生産過程を展開するのである。>(経済原論95~7頁)A'
返信削除宇野弘蔵は『経済原論』(岩波全書版123頁)で以下の(この段階では単純再生産であって
拡張再生産ではない)表式を例示する。
1 6000=4000c+1000v+997m+1m+2m
2 2995.5=1997c+499.25v+498.25m+1m
(『経済原論』29頁における『資本論』からの引用。貨幣形態)G
返信削除< 20エレのリンネル =|
1着の上着 =|
10ポンドの茶 =|
40ポンドのコーヒー = }2オンスの金
1クォーターの小麦 =|
1/2トンの鉄 =|
x量の商品A =| >
901
返信削除以下、宇野弘蔵『経済原論』(岩波全書版29頁)における『資本論』(1:1:3:d)からの引用、
貨幣形態。
20エレのリンネル =|
1着の上着 =|
10ポンドの茶 =|
40ポンドのコーヒー = 〉2オンスの金
1クォーターの小麦 =|
1/2トンの鉄 =|
x量の商品A =|
マルクスの原著では末尾にさらに「その他の商品 =」が加わる。
参考:http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/27b9d76ea3bfb8c1506781375bba957f
返信削除G____W
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W'
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W''
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G
< …貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能し、それを基礎としながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁より)
返信削除G____W
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W'
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W''
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G
< …貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能し、それを基礎としながら
W-G-W'の関連においては流通手段として機能する。…>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁より)
<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
返信削除Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることに
返信削除なるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
G____W
返信削除\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W'
\ ↗︎
\/
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/ ↘︎
W'____G____W''
\ ↗︎
\/
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/ ↘︎
W''____G
< …貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能し、それを基礎としながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁より)
G____W
返信削除\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W'
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W'____G____W''
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W''____G
< …貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能し、それを基礎とし
ながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁より)
G____W
返信削除\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W'
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W'____G____W''
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W''____G
< …商品は一般に売買されると流通界を脱して消費に入るのに反して、貨幣は商品の売買を媒介しつつ常に流通市場に留まることになる。貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能し、それを基礎とし
ながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁より)
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返信削除\ ↗︎
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< …商品は一般に売買されると流通界を脱して消費に入るのに反して、貨幣は商品の売買を
媒介しつつ常に流通市場に留まることになる。貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機
能し、それを基礎としながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁より)
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< …商品は一般に売買されると流通界を脱して消費に入るのに反して、貨幣は商品の売買
を媒介しつつ常に流通市場に留まることになる。貨幣は、G-Wとしては価値尺度として
機能し、それを基礎としながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁より)
G____W
返信削除\ ↗︎
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< …商品は一般に売買されると流通界を脱して消費に入るのに反して、貨幣は商品の売買を
媒介しつつ常に流通市場に留まることになる。貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能
し、それを基礎としながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁より)
(以下、経済原論43頁より)E
返信削除<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
返信削除_G'・G_
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・ ・
・ ・
・ ・
・・P・・・
G_W…P…W'…G'に対して、生産過程Pに始まるP…W'…G'・G_W…Pの生産過程の循環、さらにまた商品資本W'に始まるW'…G'・G_W…P…W'の商品資本の循環をもなすものとしなければならない。それは産業に投ぜられる資本の運動の三面を示すものとなるのである。
返信削除86頁
返信削除_G'・G_
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W' W
・ ・
・ ・
・ ・
・・P・・・
<(資本の運動は)G_W…P…W'…G'に対して、生産過程Pに始まるP…W'…G'・G_W…Pの生産過程の循環、さらにまた商品資本W'に始まるW'…G'・G_W…P…W'の商品資本の循環をもなすものとしなければならない。それは産業に投ぜられる資本の運動の三面を示すものとなるのである。>
(同86頁)
返信削除_G'・G_
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W' W
・ ・
・ ・
・ ・
・・P・・・
<(資本の運動は)G_W…P…W'…G'に対して、生産過程Pに始まる
P…W'…G'・G_W…Pの生産過程の循環、さらにまた商品資本W'に
始まるW'…G'・G_W…P…W'の商品資本の循環をもなすものとしな
ければならない。それは産業に投ぜられる資本の運動の三面を示すものとな
るのである。>
(同86頁)
_G'・G_
返信削除/ \
/ \
| |
W' W
・ ・
・ ・
・・・P・・・・
<(資本の運動は)G_W…P…W'…G'に対して、生産過程Pに始まるP…W'…G'・G_W…Pの生産過程の循環、さらにまた商品資本W'に始まるW'…G'・G_W…P…W'の商品資本の循環をもなすものとしなければならない。それは産業に投ぜられる資本の運動の三面を示すものとなるのである。>(同86頁)
< |G--W……P
返信削除W'--G'・〈
|g--w
というように、剰余価値部分は、資本の流通過程に、いわば附属的な流通をなすわけである。
かくして資本は、その再生産過程を展開するのである。>(経済原論95~7頁)A'
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余
返信削除価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(宇野弘蔵、岩波全書版『経済原論』67頁)
http://plaza.rakuten.co.jp/monozuki226/8008/
以下、資本論1:17より
<「労働の価値及び価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現われる本質的な関係として
の労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形
態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通
の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見され
なければならない。古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫っているが、それを意識的に定式化すること
はしていない。古典派経済学は、ブルジョアの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。>
(経済原論80頁で引用)
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余
返信削除価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」
(宇野弘蔵、岩波全書版『経済原論』67頁)
http://plaza.rakuten.co.jp/monozuki226/8008/
以下、資本論1:17より
<「労働の価値及び価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現われる本質的な関係として
の労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形
態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通
の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見され
なければならない。古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫っているが、それを意識的に定式化すること
はしていない。古典派経済学は、ブルジョアの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。>
(経済原論80頁で引用)
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余
返信削除価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」
(宇野弘蔵、岩波全書版『経済原論』2:1:3,67頁)
http://plaza.rakuten.co.jp/monozuki226/8008/
以下、資本論1:17より
<「労働の価値及び価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現われる本質的な関係として
の労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形
態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通
の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見され
なければならない。古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫っているが、それを意識的に定式化すること
はしていない。古典派経済学は、ブルジョアの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。>
(経済原論2:1:3,80頁で引用)
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余
返信削除価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」
(宇野弘蔵、岩波全書版『経済原論』67頁)A
912
返信削除である。…」
『経済原論』114~5頁で引用(引用元は岩波文庫)
以下、『資本論』(河出書房新社)第二部より
返信削除《…資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいして
は、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては
一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に
商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。》
(『資本論』第二部、第二一章 蓄積と拡大再生産、第一節 部門Ⅰにおける蓄積、 一 貨幣蓄蔵より)
《…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣
価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下
した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…》
(『資本論』第二部、第二〇章 単純再生産〔395〕第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈
品より)
返信削除以下、『資本論』(河出書房新社)第二部より
《…資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいして
は、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては
一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に
商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。》
(『資本論』第二部、第二一章 蓄積と拡大再生産、第一節 部門Ⅰにおける蓄積、 一 貨幣蓄蔵より)
《…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣
価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下
した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…》
(『資本論』第二部、第二〇章 単純再生産〔395〕第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈
品より)
参照:>>
返信削除以下、『資本論』(河出書房新社)第二部より
《…資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいして
は、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては
一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に
商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。》
(『資本論』第二部、第二一章 蓄積と拡大再生産、第一節 部門Ⅰにおける蓄積、 一 貨幣蓄蔵より)
《…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣
価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下
した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…》
(『資本論』第二部、第二〇章 単純再生産〔395〕第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈
品より)
参考:マルクス経済表 >>55
返信削除以下、『資本論』第二部より
《…資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいして
は、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては
一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に
商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。》
(『資本論』第二部、第二一章 蓄積と拡大再生産、第一節 部門Ⅰにおける蓄積、 一 貨幣蓄蔵より)
《…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣
価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下
した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…》
(『資本論』第二部、第二〇章 単純再生産〔395〕第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈
品より)
引用は河出書房新社版より
参考:マルクス経済表 >>55
返信削除以下、『資本論』第二部より
《…資本Ⅰは資本Ⅱにたいし、一方的にIvの額だけの商品販売者として対応するが、労働者階級Ⅰにたいして
は、彼らの労働力の購入において商品購買者として対応する。そして労働者階級Ⅰは、資本家Ⅱにたいしては
一方的に商品購買者として(すなわち生活手段の購買者として)対応するが、資本家Ⅰにたいしては一方的に
商品販売者として、すなわち自分の労働力の販売者として対応する。》
(『資本論』第二部、第二一章 蓄積と拡大再生産、第一節 部門Ⅰにおける蓄積、 一 貨幣蓄蔵より)
《…労働者Ⅱは、資本家Ⅱから受けとった労賃で自分じしんの生産物の一部分──労賃として受けとった貨幣
価値の大いさに照応する──を買戻すのである。これによって資本家階級Ⅱは、労働力の支払のために投下
した自分の貨幣資本を貨幣形態に再転形する…》
(『資本論』第二部、第二〇章 単純再生産〔395〕第四節 部門Ⅱの内部での転態。必要生活手段と奢侈
品より)
引用は河出書房新社版より
参考:マルクス経済表 >>55 (リンク先画像とは部門番号が逆)
返信削除「ジョン・ラッセル卿宛書簡において政治経済学の諸原理から演繹された国民的諸困難の原因 および救済策、ロンドン、1821」
(蛯原良一訳、『新潟大学経済論集』第6号1969年)
ディルク
「資本とは貯えられた剰余労働であります。」
74頁
返信削除「ジョン・ラッセル卿宛書簡において政治経済学の諸原理から演繹された国民的諸困難の原因 および救済、ロンドン、1821」
(蛯原良一訳、『新潟大学経済論集』第6号1969年)
ディルク(匿名での発表)
「資本とは貯えられた剰余労働であります。」
74頁
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配することを、
返信削除土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵192頁)
(マルクスの記述はC利子D地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは
強調していない点だ。)
前述したようにマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割を三分割に読み直す方が、逆より理解
が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応し、理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいいからでもある。資本論以前はマルクスも三分割志
向だったが、ある時期これを捨てている。
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配することを、
返信削除土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版192頁)
(マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。)
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割を三分割に読み直す方が、逆より理解
が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応し、理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいいからでもある。資本論以前はマルクスも三分割志
向だったが、ある時期これを捨てている。
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配することを、
返信削除土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版192頁)
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割を三分割に読み直す方が、逆より理解
が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応し、理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいいからでもある。資本論以前はマルクスも三分割志
向だったが、ある時期これを捨てている。
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
返信削除することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版192頁)
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割を先に間なんで展開後から
三分割に読み直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応し、
理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスも三分割志
向だったが、ある時期これを捨てている。
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
返信削除することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版192頁)
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割を先に学んで後から
三分割に読み直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、
理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスも三分割志
向だったが、ある時期これを捨てている。
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
返信削除することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版192頁)
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割を先に学んで後から三分割に
読み直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、
理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスもヘーゲル的
三分割志向だったが、ある時期これを捨てている。
《…資本主義経済に必然的なる、周期
返信削除的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
返信削除「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁:参照)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
返信削除《…資本主義経済に必然的なる、周期
的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかった失望を強調しそれが資本論執筆につながったと書くが、
宇野は資本論に恐慌待望論の残余があるとする。そこに原理化の動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる。
返信削除《…資本主義経済に必然的なる、周期
的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかった失望を強調しそれが『資本論』執筆につながったと書くが、
宇野は『資本論』に恐慌待望論の残余があるとする。そこに原理化の動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる。
返信削除《…資本主義経済に必然的なる、周期
的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかった失望を強調しそれが『資本論』執筆につながったと書くが、
宇野は『資本論』に恐慌待望論の残余があるとする。そこに原理化の動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口=労働力商品の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる
(『世界史の構造』302頁)。
返信削除《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:2岩波全書版208-9頁)
《…資本主義経済に必然的なる、周期
的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかった失望を強調しそれが『資本論』執筆につながったと書くが、
宇野は『資本論』に恐慌待望論の残余があるとする。そこに原理化の動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口=労働力商品の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる
(『世界史の構造』302頁)。
返信削除《…資本主義経済に必然的なる、周期
的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:2岩波全書版208-9頁)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
参考:
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかった失望を強調しそれが『資本論』執筆につながったと書くが、
宇野は『資本論』に恐慌待望論の残余があるとする。そこに原理化の動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口=労働力商品の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる
(『世界史の構造』302頁)。
返信削除《…資本主義経済に必然的なる、周期
的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
参考:
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかった失望を強調しそれが『資本論』執筆につながったと書くが、
宇野は『資本論』に恐慌待望論の残余があるとする。そこに原理化の動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口=労働力商品の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる
(『世界史の構造』302頁)。
返信削除《…資本主義経済に必然的なる、周期
的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
参考:
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかった失望を強調しそれが『資本論』執筆につながったと書くが、
宇野は『資本論』に恐慌待望論の残余があるとする。そこに原理化の動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口=労働力商品の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる
(『世界史の構造』302頁)。
マルクスによるプルードンへの攻撃は恐慌待望論で説明がつく。マルクスは恐慌を
待望するが、プルードンの交換銀行は恐慌を防ぐものだからだ。
返信削除《…資本主義経済に必然的なる、周期
的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
参考:
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかった失望を強調しそれが『資本論』執筆につながったと書くが、
宇野は『資本論』に恐慌待望論の残余があるとする。そこに宇野の『資本論』原理論化への動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口=労働力商品の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる
(『世界史の構造』302頁)。
ちなみにマルクスによるプルードンへの攻撃は恐慌待望論で説明がつく。マルクスは恐慌を
待望するが、プルードンの交換銀行は恐慌を防ぐものだからだ。
返信削除《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
参考:
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第七巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかった失望を強調しそれが『資本論』執筆につながったと書くが、
宇野は『資本論』に恐慌待望論の残余があるとする。そこに宇野の『資本論』原理論化への動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口=労働力商品の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる
(『世界史の構造』302頁)。
ちなみにマルクスによるプルードンへの攻撃は恐慌待望論で説明がつく。マルクスは恐慌を
待望するが、プルードンの交換銀行は恐慌を防ぐものだからだ。
《マルクスは『資本論』第一巻第二十四章第七節の「資本家的蓄積の歴史的傾向」で資本主義か
返信削除ら社会主義への転化の必然性を述べているのであるが、私にはこれは『資本論』で明らかにされて
いる資本主義社会の経済的運動法則による規定とは考えられない。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:4岩波全書版226頁)
参考:
「新しい革命は新しい恐慌にひきつづいてのみ起こりうる。
しかし、革命はまた、恐慌が確実なように確実である。」
マルクス=エンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」1850年10月
(大月マルエン全集第7巻450頁。柄谷行人「革命と反復」at1号7頁より孫引き)
柄谷は1857年の恐慌時に革命が起こらなかったマルクスの失望を強調しそれが『資本論』執筆につながったと
書くが、宇野は『資本論』に恐慌待望論の残余があるとする。そこに宇野の『資本論』原理論化への動機がある。
もちろん柄谷は資本の過剰、労働人口=労働力商品の調整の不可能性という宇野の視点を受け継いでいる
(『世界史の構造』302頁)。
ちなみにマルクスによるプルードンへの攻撃はマルクスの恐慌待望論で説明がつく。マルクスは恐慌を
待望するが、プルードンの交換銀行は恐慌を防ぐものだからだ。
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
返信削除することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割を先に学んで後から三分割に
読み直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、
理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスもヘーゲル的
三分割志向だったが、ある時期これを捨てている。
《…資本主義経済に必然的なる、周期
返信削除的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落による資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割を先に学んで後から三分割に
読み直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、
理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスもヘーゲル的
三分割志向だったが、ある時期これを捨てている。
/>>918
/ \
/ 利子 \
/_C____\
/\ <分配論>/\
/ \ / D\
/ 利潤 \ / 地代 \
>>886_____\/______\
/\ />>915
>>906\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ >>910\ <生産論>/\
>>901\ / \ / \ />>911,>>912
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/__>>903_\/_生産過程_\/_流通過程_\
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
返信削除る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割(マルクス)を先に学んで後から三分割(宇野)に
読み直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、
理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスもヘーゲル的
三分割志向だったが、ある時期これを捨てている。
返信削除《…資本主義経済に必然的なる、周期的恐慌現象は、この利潤率の急激なる低落に
よる資本の過剰を根本的原因とするのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1:3岩波全書版170頁)
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
返信削除することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
返信削除る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割(マルクス)を先に学んで後から三分割(宇野)に
読み直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスもヘーゲル的
三分割志向だったが、ある時期これを捨てている。
返信削除プルードンは「ユダヤ人」という著作の構想を持っていたようだが、
内容はわからない。マルクスの『哲学に貧困』に応答したものであった
かも知れない。ただ、プルードンにとって当時のライバルはナポレオン三世
であってマルクスではないし、また高利の金融システムは市井のユダヤ人の
高利貸しによるものというよりも、フランスのブルジョアジーが結託した
高度なものだった(ユダヤ資本がどの程度占めていたかはわからない)。
明示された範囲で、プルードンのユダヤ人観、というよりユダヤ教観は以下の
ようなものであった。
「ユダヤの立法者の目的が,第7日目の礼拝に関するかぎり,4重
であるということ,すなわち同時に市民的,家庭的,道徳的かつ衛生を考
慮したものであるこの目的は,したがって,国民の創立者の思想が包括す
ることのできるもっとも広大でもっと普遍的なものであるということをわ
たくしが確証することに首尾よく成功するならば,つづいてわたくしが,
われわれの時代には知られていない哲学のいかなる諸原則によって第4の
戒律が考えつかれたか,それはいかにして認められたか,それは人民の迎
合にいかなる諸結果を及ぼすことになるかを示すならば,わたくしは課題
のすべての条件を満足させることになると信ずる。そしてモーゼの諸制度
の崇高さを示すことによってわたくしはわたくしの検討する問題の深みに
達するであろう。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.37)
「宗教は…理性に話しかけることをやめてしまった。…そのことで宗教を
責めようとは思わない…宗教は新しい事態に順応しまたはそれと調和する
時をいまだもっていない。」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.47)
「イスラエル人たちは……住所を変えること,過度に裕福にな
ったり破産したりすることはできなかった。その理由を発見するのは容易
である。かれらのあいだでは,少なくとも相続財産分配の不安定性や思わ
ぬ出来事が許す範囲で,不動産は平等であった。家族の財産が他の家族
の手に移るのを禁止する法律もあった。……初めから上地は平等な分配に
従わされていた。…」(『日曜礼拝論』未翻訳、原著p.54)
以上、「初期プルードンにおける経済学的諸命題について」(後藤修三)
「中京商学論叢」vol.14.3.1967年より孫引き
返信削除「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁) B
「生産力は、発展すればするほど、消費諸関係がよって立つ狭隘な基礎とますます矛盾するようになる。」マルクス
資本論3:15:1河出
「恐慌は、つねに、現存する諸矛盾の一時的な暴力的解決にすぎず、攪乱された均衡を瞬間的に建設する暴力的爆発
にすぎない。」マルクス資本論3:15:2河出
「労働の生産力の発展は、利潤率の低落において、この生産力じしんの発展にたいし特定の点でもっとも敵対的に対立
するところの、したがって絶えず恐慌によって克服されねばならぬところの、一法則を生みだす」マルクス資本論3:15:3河出
「…賃労働者数がその相対的減少にもかかわらず絶対的に増加するということは、資本制的生産様式の要求にほか
ならない。資本制的生産様式にとっては、一日に一二時間ないし一五時間の就業がもはや必要でなくなれば、すでに
労働者は過剰になる。生産諸力の発展──それによって労働者の絶対数が減少するような、すなわち、事実上全国民
がより僅かな時間で彼らの全生産を完遂することができるような──は、革命をまねくであろう、というのは、それは
人口の多数を遊ばせておくことになるからである。ここにも、資本制的生産の独自な制限が、そして、資本制的
生産はけっして生産諸力と富の創造との発展のための絶対的形態ではなく、むしろこの発展と特定の点で衝突するに
いたるということが、現象する。部分的にはこの衝突は、旧来の就業様式での労働者人口の、時にはこの部分、
時にはかの部分の過剰化から生ずる周期的恐慌において現象する。」マルクス資本論3:15:4
返信削除「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」
(宇野弘蔵岩波全書版『経済原論』137頁)
以下、マルクス『資本論』第三部15章(河出書房新社)より
「生産力は、発展すればするほど、消費諸関係がよって立つ狭隘な基礎とますます矛盾するようになる。」資本論3:15:1河出
「恐慌は、つねに、現存する諸矛盾の一時的な暴力的解決にすぎず、攪乱された均衡を瞬間的に建設する暴力的爆発
にすぎない。」資本論3:15:2河出
「労働の生産力の発展は、利潤率の低落において、この生産力じしんの発展にたいし特定の点でもっとも敵対的に対立
するところの、したがって絶えず恐慌によって克服されねばならぬところの、一法則を生みだす」資本論3:15:3河出
「…賃労働者数がその相対的減少にもかかわらず絶対的に増加するということは、資本制的生産様式の要求にほか
ならない。資本制的生産様式にとっては、一日に一二時間ないし一五時間の就業がもはや必要でなくなれば、すでに
労働者は過剰になる。生産諸力の発展──それによって労働者の絶対数が減少するような、すなわち、事実上全国民
がより僅かな時間で彼らの全生産を完遂することができるような──は、革命をまねくであろう、というのは、それは
人口の多数を遊ばせておくことになるからである。ここにも、資本制的生産の独自な制限が、そして、資本制的
生産はけっして生産諸力と富の創造との発展のための絶対的形態ではなく、むしろこの発展と特定の点で衝突するに
いたるということが、現象する。部分的にはこの衝突は、旧来の就業様式での労働者人口の、時にはこの部分、
時にはかの部分の過剰化から生ずる周期的恐慌において現象する。」資本論3:15:4
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
返信削除る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。
ただこれはマルクス自身の論理でもある、
「…高い利潤率と事業拡張とは高い利子歩合の原因たりうるとしても、だからといって、高い利子歩合はけっして高い
利潤の原因ではない。そして問題はまさまさに、高い利潤率がとっくに左様ならとなった後に、この高い利子(恐慌期
に現実に生じたような)が持続しなかったか──またはむしろ初めて絶頂に達しなかったか──どうかということ
である。」マルクス『資本論』3:26河出
また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これ
はマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割(マルクス)を先に学んで後から三分割(宇野)に
読み
直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスもヘーゲル的
三分割
志向だったが、ある時期これを捨てている。
宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在する
返信削除マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう
返信削除《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
なぜマルクスは利潤、利子、地代の順で論じ、
宇野は利潤、地代、利子の順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
返信削除《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
なぜマルクスは利潤、利子、地代の順で論じ、
宇野は利潤、地代、利子の順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
マルクスは革命を信じ、宇野は信じていない。
返信削除「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
以下、マルクス『資本論』第三部15章(河出書房新社)より
「生産力は、発展すればするほど、消費諸関係がよって立つ狭隘な基礎とますます矛盾するようになる。」資本論3:15:1河出
「恐慌は、つねに、現存する諸矛盾の一時的な暴力的解決にすぎず、攪乱された均衡を瞬間的に建設する暴力的爆発
にすぎない。」資本論3:15:2河出
「労働の生産力の発展は、利潤率の低落において、この生産力じしんの発展にたいし特定の点でもっとも敵対的に対立
するところの、したがって絶えず恐慌によって克服されねばならぬところの、一法則を生みだす」資本論3:15:3河出
「…賃労働者数がその相対的減少にもかかわらず絶対的に増加するということは、資本制的生産様式の要求にほか
ならない。資本制的生産様式にとっては、一日に一二時間ないし一五時間の就業がもはや必要でなくなれば、すでに
労働者は過剰になる。生産諸力の発展──それによって労働者の絶対数が減少するような、すなわち、事実上全国民
がより僅かな時間で彼らの全生産を完遂することができるような──は、革命をまねくであろう、というのは、それは
人口の多数を遊ばせておくことになるからである。ここにも、資本制的生産の独自な制限が、そして、資本制的
生産はけっして生産諸力と富の創造との発展のための絶対的形態ではなく、むしろこの発展と特定の点で衝突するに
いたるということが、現象する。部分的にはこの衝突は、旧来の就業様式での労働者人口の、時にはこの部分、
時にはかの部分の過剰化から生ずる周期的恐慌において現象する。」資本論3:15:4
返信削除「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
以下、マルクス『資本論』第三部15章(河出書房新社)より
「生産力は、発展すればするほど、消費諸関係がよって立つ狭隘な基礎とますます矛盾するようになる。」資本論3:15:1河出
「恐慌は、つねに、現存する諸矛盾の一時的な暴力的解決にすぎず、攪乱された均衡を瞬間的に建設する暴力的爆発
にすぎない。」資本論3:15:2河出
「労働の生産力の発展は、利潤率の低落において、この生産力じしんの発展にたいし特定の点でもっとも敵対的に対立
するところの、したがって絶えず恐慌によって克服されねばならぬところの、一法則を生みだす」資本論3:15:3河出
「…賃労働者数がその相対的減少にもかかわらず絶対的に増加するということは、資本制的生産様式の要求にほか
ならない。資本制的生産様式にとっては、一日に一二時間ないし一五時間の就業がもはや必要でなくなれば、すでに
労働者は過剰になる。生産諸力の発展──それによって労働者の絶対数が減少するような、すなわち、事実上全国民
がより僅かな時間で彼らの全生産を完遂することができるような──は、革命をまねくであろう、というのは、それは
人口の多数を遊ばせておくことになるからである。ここにも、資本制的生産の独自な制限が、そして、資本制的
生産はけっして生産諸力と富の創造との発展のための絶対的形態ではなく、むしろこの発展と特定の点で衝突するに
いたるということが、現象する。部分的にはこの衝突は、旧来の就業様式での労働者人口の、時にはこの部分、
時にはかの部分の過剰化から生ずる周期的恐慌において現象する。」資本論3:15:4
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
返信削除することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
なぜマルクスは利潤、利子、地代の順で論じ、
宇野は利潤、地代、利子の順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
返信削除《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
「…高い利潤率と事業拡張とは高い利子歩合の原因たりうるとしても、だからといって、高い利子歩合はけ
っして高い利潤の原因ではない。そして問題はまさまさに、高い利潤率がとっくに左様ならとなった後に、
この高い利子(恐慌期に現実に生じたような)が持続しなかったか──またはむしろ初めて絶頂に達しなか
ったか──どうかということである。」マルクス『資本論』3:26河出
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは強調して
いない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割(マルクス)を先に学んで後から三分割(宇野)に読み
直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスもヘーゲル的三分割
志向だったが、ある時期これを捨てている。
A
返信削除《剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
B
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
C
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
なぜマルクスは利潤、利子、地代の順で論じ、宇野は利潤、地代、利子の順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは強調して
いない点だ。
/>>918
返信削除/ \
C 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/A \ >> / B\
/ 利潤 \ / 地代 \
>>886_____\/______\
/\ />>915
>>906\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ >>910\ <生産論>/\
>>901\ / \ / \ />>911,>>912
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/__>>903_\/_生産過程_\/_流通過程_\
A
返信削除《剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、
剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
B
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
C
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
なぜマルクスは利潤、利子、地代の順で論じ、宇野は利潤、地代、利子の順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは
強調していない点だ。
返信削除A
《剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、
剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
B
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
C
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
なぜマルクスは利潤A、利子C、地代Bの順で論じ、宇野は利潤A、地代B、利子Cの順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは
強調していない点だ。
/>>918
返信削除/ \
C 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/A \ >>967 / B\
/ 利潤 \ / 地代 \
>>886_____\/______\
/\ />>915
>>906\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ >>910\ <生産論>/\
>>901\ / \ / \ />>911,>>912
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/__>>903_\/_生産過程_\/_流通過程_\
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/okisio.html
返信削除込んでいる。
■■■□■ 「所有」とは「決定」である ■□■■■
それは、所有と決定の問題を中心にすえていることである。最近話題の共産党の綱領改定案では、「生産手段の社会化」の問題を社会主義問題の中心にすえているが、置塩はすでにこの時点で、「所有と決定の問題は、社会主義の問題を考えるさいに最大の重要性をもつ。社会主義の基礎は生産手段の社会的共有であるとされている」としている。(社会化と社会的所有のあいだにはちがいがある、という議論はおいておこう)
つづけて、置塩は「あるものXが、社会的共有であるということはどんな事態をさすのであろうか」と問いをたてている。置塩の答はこうである。
「私の考えでは、あるものXが、社会的共有であるということは、そのXに関する決定が社会の全構成員によって掌握されているということでなければならない」
置塩は、資本主義における不均衡の累積の研究から「所有の所在=決定の所在」というこの答をみちびきだした(置塩『再生産の理論』)。
これがなぜ画期的ななのかといえば、このような「所有」イメージは、これまでのような「〈社会〉を代表するものが、私的な機械や土地をとりあげる」という社会主義イメージを根底からくつがえし、あるいはその狭さから解放し、社会がさまざまな回路によってこの決定に関与するという多様で自由なイメージを、一気に広げるからである。
すでに、資本主義社会のなかで、法律やら誘導税制やら行政指導やら社会的規制力(世論とか購買行動とか)やらによって、私的資本を規制する回路はさまざまに出来ている。すでに存在しているのである。その、すでに出来つつある回路に、最終的に社会的理性が働くようにしていけばいいのであって、そうなると、現状のように大企業をふくめた私的企業を広範にのこし、その市場経済の活力を十分にいかしながら、社会的理性を働かせるという道が開けてくるのである。
社会主義と、現在の国家独占資本主義とのあいだに、絶望的な溝はなくなる。
せいぜいハンガリーやらユーゴスラビア、あるいはソ連のペレストロイカあたりの「市場社会主義」モデルというものが、いかに狭い範囲の話かということもここでわかる。
ひるがえって、ここからソ連分析も可能となる。
「ソビエト連邦をはじめとする『社会主義』社会において、生産手段の社会的共有は実質的には存在しなかった。生産手段を用いての生産に関する決定は、社会の多数の構成員を排除して、一部の国家機関構成員によって独占的・集中的に掌握された」
■■■□■ 生産手段の社会化とはどういうことか ■□■■■
置塩はさらに「広範な社会的分業に基礎をおく大規模な社会において、生産手段の社会的共有に基礎をおく社会主義は可能なのか。社会の全構成員が生産に関する決定に関与することは可能なのか。」と問いをたて、問題をいっそう深く論じていく。
置塩は、「社会の全成員が生産に関する決定に関与する経路」として3つをあげ、「(1)代表選出あるいは直接投票による全社会的一元的決定への関与、(2)企業、地域レベルにまかされた分権的決定への関与、(3)市場における個人的選択の表明」である。
これらは、(1)が国会、法律や誘導税制、(2)が自治体の条例や従業員の会社参画、(3)が市場そのもの、または消費行動や環境に配慮する世論、などをイメージしてもらえればよい。
この一元的理性と分権的理性の結合ともいうべきイメージは、ハイエクが提出した「中央政府による単一計画の無理」という問題をクリアする手がかりとなる。全社会は大局的な経済の方向だけをしめし、それがさまざまな下位レベルの無数の小理性によって、弾力をもった、活力を剥ぎ取られないようなコントロールをしめしていくことができるのだ。
レーニンの「管制高地」というイメージもこれに近いと思う。
置塩ははっきりとこう言っている。
「何をどれだけ生産するか。どのような方法で、どこで、いつ生産するか。次期以後の生産のために、何
をどれだけ蓄積するか等の決定項目の数は著しく大きい。生産物の種類を鉄鋼、電力、……、ネクタイと数えるだけでなく、たとえばネクタイにしても、その材質、デザインの相違をも考慮すると、その数は無数といえるほどである。1種類の生産物に関して、また決定すべき事項が多数あるのだから、生産に関する決定事項の数はさらに増加する。社会の全構成員がこの巨大な数にのぼる決定事項について直接関与することは可能であろうか、もし、これを実行するとすれば、各構成員はこのことに生活時間のほとんどを費やすか、まったく無責任な意思表明(非表明も含めて)を行うかのいずれかになるのではないだろうか」「これらをすべて、社会の全成員が事前に、直接に決定することはできない」「では、社会の全構成員が生産に関与する状態をつくりだすのは、どのようにして可能になるだろうか。このためには、……各種のチャンネルが必須である」。
返信削除ハイエクが指摘した単一の中央計画の無理を、きちんと承認している。
■■■□■ いまの資本主義下ですでに生まれているチャンネル ■□■■■
さらに置塩は、この各種のチャンネルを詳細に論じる。
(1)の全構成員による決定は、(イ)最低限保障される生活水準、(ロ)社会全体の剰余率、(ハ)剰余のごく大まかな使途、となる。(ロ)の計算式に、労働時間や賃金が入ってくる。このマクロバランスの決定は、労働市場や経済動向を見た上での見通し的なものになるだろうと思う(置塩はそこまではふみこんでいないが)。これは、すでに国家独占資本主義下の政府が「見通し的な計画」としておこなっているものであり、市場の活力をいかして誘導する政策技術はしだいに発達してきている。ただ、それが独占資本の蓄積に奉仕するためにおこなわれている、というにすぎないのである。おそらくこの決定の中心は、国会となる。
(2)企業構成員としての決定関与については、(イ)~(ト)の7点の「基準」をしめし、この社会的基準をクリアしたかたちで、各企業が私的イニシアチブをもってあとは自由にすすめる、というイメージをしめしている。そこであげられている原則は、たとえば一定率の税金とか、一定率の賃金とか、すでに国家独占資本主義下でおこなわれていることがほとんである。
ただ、ここで置塩のイメージにはやや不自由なものを感じる。それは、彼の前提は、「協同組合的・公的企業体」のイメージがつよいのである。しかし、私は、この分野は全体として私的企業にしたとしても、置塩がここであげている問題はすべてクリアできると考えるから、置塩のこのイメージには不満をもっている。
個人の創意がいかされる私的企業体を基本として、それを規制する社会ルールや従業員関与が一定強化されるだけ、というふうにすれば、市場経済の活力と社会的理性をどちらも兼ね備えることができる。そしてそれは現代の資本主義のもとでもあるていど骨格ができている(労働者の企業参加など)のである。
(3)は、消費者としての決定関与の問題。購買という「貨幣による投票」という行動によって関与させようというのだ。環境にいいものをつくる企業の製品を買う、などである。置塩はその投票用紙をもつ量ができるだけ平等である必要がある、とのべているが、これは、「再分配」=社会保障や税制などによって一定幅の範囲で解決するしかない。完全平等ということは絶対にありえない。
このように、考えてくると、ここで論じられたチャンネルは、ほとんど現在の国家独占資本主義下のもとでその基本的枠組みがすでに生まれているものばかりで、その法律やルールのレベルの目盛りをあげていくだけで、基本的には「全社会的所有」は達成できる。当たり前であるが、それは資本主義政党の政権下でも一定程度はできるものであるが、やはり系統的な達成は社会主義政権のもとでの一つひとつの段階をふんでの提案がなければ絶対にできない。これなら、昔の「構造改革論」の悪い点――権力獲得をあいまいにするという問題をきちんとクリアしたうえで、それが提起した重要な問題――一つひとつの改革や改良をつみかさねて、質的な飛躍につなげる――をきちんと生かすことができる。
さて、置塩は、社会主義下での商品の問題や失業の問題についても考察をすすめており、それはそれで興味深いのだが、ここでは割愛して、さいごに、「共産党綱領改定案」などにもかかわる社会主義にとって大事な問題をあげておく。
それは「搾取の廃絶」とはどういうことか、という問題である。
■■■□■ 「搾取をなくす」とはどういうことか ■□■■■
搾取がなくなる、とは一体どういう事態なのか。
置塩は、搾取の廃止とは剰余労働の消滅を意味するのだろうか、と問いをたて、そうではない、と結論づける。
「問題なのは、剰余労働を行うのかどうか、どれくらい剰余労働を行うのか、剰余労働で生産された剰余生産物をどのような使途にあてるのかなどについて、労働者がその決定を行うのでなく、誰か他の人びとが決定し、労働者はそれに従わねばならないという点にある。そして、そのようなとき、労働者は搾取されているのである」「剰余生産物の処分の決定を誰が行うか」
つまり、ここにたいして社会が決定にくわわれれば、搾取は存在しないのである。
これは(1)のチャンネルであり、それはまさに、生産手段の社会的所有=社会的決定を媒介にしている。
搾取の廃絶とはどのような事態か、ということについて、多くの左翼は十分な回答をしてこなかったように思う。これが最初かどうかは不明だが、置塩はその問題に明解な解答を与えたのではないだろうか。
いずれにせよ、読後、社会主義についてのあらゆる狭いイメージからわれわれは解放される。「青写真論ではないか」という非難がうまれるかもしれないが、それは社会主義についてつきまとっている強烈な先入観を破壊するためにはやむをえないものだと思う。というか、このようなある意味で一面的に徹底した叙述こそ、われわれの意識を解放するのである。
636 :あ:2014/06/21(土) 04:10:31.76 ID:JAcQCNIl0
返信削除今の時期だとキャンプ地イトゥと1,2試合目のナタル、レシフェは気候的には北海道と沖縄ぐらいの差がある。
イトゥ17度、ナタルレシフェ29度。
距離的にも沖縄と北海道ぐらい。
日本の地理に例えると如何に馬鹿げたことをしてるか理解できる。
14日 札幌出発 那覇到着
15日 コートジボワール戦 那覇
16日 那覇出発 札幌到着
17日 調整
18日 調整
19日 札幌出発 那覇到着
20日 ギリシャ戦 那覇
21日 那覇出発 札幌到着
これでは具合悪くなりに行っているようなものだ。
キリンブラジル本社がイトゥにあり今回のキャンプ地が決まった。
因みにレシフェとナタルはわずか200キロしか離れていない。
スポンサーの柵を断ち切って1,2戦目の近郊をキャンプ地にするべきだった。
イトゥをキャンプ地にした協会の罪は重い。
参考:
《寄稿》 日本は調整不良で全敗する!=2014年W杯緊急問題提起=フリージャーナリスト 笹井宏次朗
http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-sasai1.html
ニッケイ新聞 2014年1月10日付け
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/okisio.html
■■■□■ 「所有」とは「決定」である ■□■■■
…
つづけて、置塩信雄は「あるものXが、社会的共有であるということはどんな事態をさすのであろうか」
と問いをたてている。置塩の答はこうである。
「私の考えでは、あるものXが、社会的共有であるということは、そのXに関する決定が社会の全構
成員によって掌握されているということでなければならない」
636 :あ:2014/06/21(土) 04:10:31.76 ID:JAcQCNIl0
返信削除今の時期だとキャンプ地イトゥと1,2試合目のナタル、レシフェは気候的には北海道と沖縄ぐらいの差がある。
イトゥ17度、ナタルレシフェ29度。
距離的にも沖縄と北海道ぐらい。
日本の地理に例えると如何に馬鹿げたことをしてるか理解できる。
14日 札幌出発 那覇到着
15日 コートジボワール戦 那覇
16日 那覇出発 札幌到着
17日 調整
18日 調整
19日 札幌出発 那覇到着
20日 ギリシャ戦 那覇
21日 那覇出発 札幌到着
これでは具合悪くなりに行っているようなものだ。
キリンブラジル本社がイトゥにあり今回のキャンプ地が決まった。
因みにレシフェとナタルはわずか200キロしか離れていない。
スポンサーの柵を断ち切って1,2戦目の近郊をキャンプ地にするべきだった。
イトゥをキャンプ地にした協会の罪は重い。
参考:
《寄稿》 日本は調整不良で全敗する!=2014年W杯緊急問題提起=フリージャーナリスト 笹井宏次朗
http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-sasai1.html
ニッケイ新聞 2014年1月10日付け
11:36 午前
yoji さんは書きました...
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/okisio.html
■■■□■ 「所有」とは「決定」である ■□■■■
…
つづけて、置塩は「あるものXが、社会的共有であるということはどんな事態をさすのであろうか」
と問いをたてている。置塩の答はこうである。
「私の考えでは、あるものXが、社会的共有であるということは、そのXに関する決定が社会の全構
成員によって掌握されているということでなければならない」
置塩は、資本主義における不均衡の累積の研究から「所有の所在=決定の所在」というこの答を
みちびきだした(置塩『再生産の理論』)。
資本論各巻構成表式
返信削除第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値(絶対的、相対的)
\第二巻が間をつなぐ、生産論
/
第三巻=価格論、分配論
利潤、利子、地代
資本論各巻構成表式
第一巻=価値論
\第二巻が間をつなぐ
/
第三巻=価格論
返信削除資本論各巻構成表式
第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値(絶対的、相対的)
\
第二巻が間をつなぐ、生産論
/
第三巻=価格論、分配論
利潤、利子、地代
返信削除資本論各巻構成表式
第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値(絶対的、相対的)
\
第二巻が間をつなぐ、生産論
/
第三巻=価格論、分配論
利潤、利子、地代
返信削除資本論各巻構成表式
第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値(絶対的、相対的)、価値形態論__
\ パラレル/
第二巻が間をつなぐ、生産論
/
第三巻=価格論、分配論
利潤、利子、地代
返信削除資本論各巻構成表式
第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値(絶対的、相対的)、価値形態論__
\ \使用価値 l
第二巻が間をつなぐ、生産論 パラレル___l
/ /交換価値
第三巻=価格論、分配論
利潤、利子、地代
返信削除資本論各巻構成表式
第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値(絶対的、相対的)、価値形態論__
\ \ 使用価値 l
第二巻が間をつなぐ、生産論 パラレル___l
/ / 交換価値
第三巻=価格論、分配論
利潤、利子、地代
返信削除資本論各巻構成表式
第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値(絶対的、相対的)、価値形態論__
\ 絶対的 \(使用価値) l
第二巻が間をつなぐ、生産論 パラレル___l
/ 相対的 /(交換価値)
第三巻=価格論、分配論
利潤、利子、地代
『資本論』各巻構成表式
第一巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) l (地代)
第二巻が間をつなぐ、生産論 パラレル___l
/ (相対的) /(交換価値) (利子)
第三巻=価格論、分配論 l
利潤、利子、地代__________________________l
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」がキーワードである
返信削除『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) l (地代)
第2巻が間をつなぐ パラレル___l (利潤)
/ 固定資本 流動資本 (相対的) /(交換価値) (利子)
第3巻=価格論 l
地代______利潤_____利子_______________l
返信削除三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」がキーワードである『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) | (地代)
第2巻が間をつなぐ パラレル______| (利潤)
/ 固定資本 流動資本 (相対的) /(交換価値) (利子)
第3巻=価格論 |
地代______利潤_____利子_______________|
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」がキーワードである
返信削除『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) | (地代)_差額地代
第2巻が間をつなぐ パラレル______| (利潤) |
/ 固定資本 流動資本 (相対的) /(交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論 |
地代______利潤_____利子_______________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えるといったマルクスの思考の倒錯がある。
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」がキーワードである
返信削除『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的) \(使用価値) | (地代)_差額地代
第2巻が間をつなぐ パラレル______| (利潤) |
/ 固定資本 流動資本 (相対的) /(交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論 |
地代______利潤_____利子_______________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会の倒錯と言うべきなのだろうが…
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」がキーワードである『資本論』の
返信削除再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論____
\ (絶対的)\ (使用価値) | (地代)_差額地代
\ \ | |
第2巻が間をつなぐ、(再)生産論 パラレル______| (利潤) |
/ / |
/ 固定資本 流動資本 (相対的)/ (交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論、分配論 |
地代______利潤_____利子_______________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」がキーワードである『資本論』の
返信削除再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論
第1巻=価値論、流通論 (絶対的) (使用価値) (地代)_差額地代
\ | |
第2巻が間をつなぐ、(再)生産論 (利潤) |
/ | |
第3巻=価格論、分配論 | |
固定資本 流動資本 (相対的) (交換価値) (利子) 絶対*地代
地代______利潤_____利子____________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」(例:価値と価格)がキーワードで
返信削除ある『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論
\ (絶対的) (使用価値) (地代)_差額地代
\ | |
第2巻が間をつなぐ、(再)生産論 (利潤) |
/ | |
/ 固定資本 流動資本 (相対的) (交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論、分配論 |
地代______利潤_____利子____________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
需要と供給のように
返信削除価値と価格は交差する図式を持つ
\/
/\
需要と供給のように
返信削除価値と価格は交差する図式を持つ
価 供給
格\/
/\需要
取引量
普通は上の図になるが、
需要は価値に
供給が価格に対応する
返信削除需要と供給のように
価値と価格は交差する図式を持つ
価 供給
格\/
/\需要
取引量
普通は上の図になるが(この図は価値が考慮されていない)、
需要は価値に
供給が価格に対応する
価値 供給
\/
価格/\需要
返信削除三分割でも四分割でも二項対立が基本だ。その意味で「二重性」(例:価値と価格)がキーワードで
ある『資本論』の再構成、理解の準備段階には、二元論化がふさわしい。以下試作。
~『資本論』各巻構成表式~
第1巻=価値論、流通論
本源的蓄積、不変資本、可変資本、剰余価値、価値形態論
\ (絶対的) (使用価値) (地代)_差額地代
\固定資本 流動資本 | |
第2巻が間をつなぐ (利潤) |
/(再)生産論 | |
/ (相対的) (交換価値) (利子) 絶対*地代
第3巻=価格論、分配論 |
地代______利潤_____利子____________|
*名称が逆。ここに貨幣形態を固定的に捉えることに端的に示されるようなマルクスの倒錯がある。
資本主義社会それ自体の倒錯と言うべきなのだろうが…
1公理
返信削除六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_2018.html?m=0#ref
スピノザ エチカ(1677):
第一部定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1p5
マルクス、柄谷、ヘーゲル:
(価値は精神的なもので価格は物質的なもの、ただし精神と物質とは厳密な対概念ではない。)
価格 価値
神学
資本[身体] 国民 [精神]国家 85、86、87
アソシエーション
自由 友愛 平等
[モナドロジー]+(エチカ):
1実体
/\
[神] 系列 (無限) [論理]
/_無限定_\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 (完全性)至福/
\ (悪)/___2b様態\____\(善) /
\(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/
\/ 憎しみ \努力/(愛) \/
/\対象/ /[調和]\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\
/ 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的
神/__[襞]_\___\/_第三種認識____\自然
[動物] \ 4理性 / [魂]
[欲求] \[基礎]/ [表象]
[精神] \ (徳)/ [多様性]
[神の国] \/ [モナド]
5自由
ライプニッツ:
欲求 表象 15
基礎
意志 認識
源泉
[物体]変化、生産 [観念]48
神、力
予定調和78
作用原因 目的原因 79
身体 魂 81
自然の物理的な世界 恩寵の道徳的な世界
宇宙という機械の建築家 神 精神からなる神の国の君主 87
87. さきにわれわれは、二つの自然界、つまり作用原因(実現原因)の世界と目的原因の世界のあいだに完全な調和があることを確認したが、ここではまた、自然の物理的な世界と恩寵の道徳的な世界、つまり宇宙という機械の建築家として考えられた神と、精神からなる神の国の君主として考えられた神とのあいだに、もう一つの調和があることを認めなければならない。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
返信削除http://platypus1917.org/2014/11/01/platypus-review-issue-71-article-1/
返信削除http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/201411-platypusthere-is-no-such-thing.html
KK:
In this regard, I would say that I was influenced by the Marxist economist Kohzo Uno. He was an economist specializing in Marx’sCapital, but was not part of left politics of any kind, either old or new. In his view, Capital is a science, while historical materialism is an ideology that served as a “guiding thread” toward Capital. Also he claimed thatCapital could prove the necessity of crisis in the capitalist economy, but not the necessity of socialist revolution. I gather that socialism was first and foremost an ethical-practical matter for Uno. He was a kind of Kantian Marxist, though he never said so manifestly.
Japanese Marxian economist Uno Kohzo in 1952. He is best know for his book Principles of Political Economy: Theory of a Purely Capitalist Society, published in 1964, and translated from the Japanese by Thomas T. Sekine and published in 1980.
For Uno, capitalism is basically merchant capitalism. In my view, this is to consider the capitalist economy from the exchange of money and commodity, the mode of exchange, whereas Marxists generally start from the capitalist and proletariat, the mode of production. You can see how Uno paved the way to my theories. But it is true that he did not give any thought to the state and the nation.
This is all to indicate our Marxist current, where I formed my ideas and thoughts. Actually, I learned Uno’s economics not because I was a Marxist, but because I was a student in an economics department. Up to 1970s, Uno’s reading of Capital was compulsory to the students of law and economics at the University of Tokyo. These students were expected to be the elites in the government offices and business world. It is interesting to think that people who learned from Uno about the fatal fragility of capitalism were gathering at the core of the capital-state, just when Japan’s industry was rising and overwhelming the U.S. industry. And as those who learned American market-economy theories replaced them, Japan’s economy began to fall off!
返信削除http://blogs.yahoo.co.jp/kaze_24yori/38327315.html
マルクス・エンゲルス・レーニンの数学力
新しくレーニンを読んで(1)
まえがき
ウラジーミル・イリイッチ・レーニンの著作はたくさん読みました。今書棚に残っている文庫本だけでも20作以上あります。しかし、レーニンの著書にはマルクス・エンゲルスの思想から逸脱した、一方的なものや誤解があると不破さんが言いだしてから、あまり読まなくなりました。ところが最近、新経済政策の頃のいわゆる最後の3年間の著書などを拾い読みして面白く思ったので、いくつか感想などを書き連ねてみたいと思います。
むかし読んだ著書(順不同)
帝国主義論、唯物論と経験批判論、一歩前進二歩後退、何をなすべきか、カール・マルクス、青年同盟の任務、いわゆる市場問題について、国家と革命、マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分、宗教に対する労働者党の態度について、マルクス主義と修正主義、民族自決権について、帝国主義と社会主義の分裂、共産主義における左翼小児病、民主主義革命における社会民主党の二つの戦術、プロレタリア革命と背教者カウツキー、戦闘的唯物論の意義について、社会主義革命と民族自決権、貧農に訴える、弁証法について、ロシアにおける資本主義の発展etc。哲学ノートは多分買った(本棚から廃棄処分になっている)が途中で投げ出したと思う。同じくレーニン全集はそろえたのだが、もう読むことはないだろうと昨年資源ごみに出してしまいました。
今回読んだのは、「いわゆる市場問題について」(二度目)、「食糧税について」などレーニン全集31-33巻の主な論文や報告などです。
「いわゆる市場問題について」
マルクスは研究や執筆に疲れると、代数をやって頭脳を休めていたというほど、代数に強かったらしいのですが、「マルクスは代数学者として非常に理解が深かったが、数の計算、とくに商業上の計算には慣れていなかった…・彼は回転の計算ではすっかり混乱におちいり、そのため・・・・結局正しくないものや矛盾したものが数多く見られることとなった」(不破哲三「資本論全3部を読む第4冊239―240頁から孫引き」)とエンゲルスが資本論第二部第15章第4節の最後で注釈しているように、第二部「資本の回転」の項では、計算違いや試行錯誤があったようです。しかし、マルクスはこの部分の第8草稿の執筆途中で病魔に襲われ、結局完成しないまま亡くなってしまったという事情がありますので、未完成の研究途上の原稿の間違いをあげつらうことは失礼なことだと思います。
不破さんによると「エンゲルスが、マルクスよりも算術に強かった」(同前240頁)ようだし、レーニンはそれ以上に代数にも算術にも強かったようです。
マルクスは第二部資本の回転の項で、単純再生産、および拡大再生産の数式を示していますが、資本の有機的構成の高度化を表す計算式――つまり、資本主義社会では、生産手段の生産がもっとも急速に拡大するという数式を提示できず、後世の課題として未完成のまま亡くなりました。
レーニンの「いわゆる市場問題について」は、革命前の1893年、「人民大衆が貧困であり、またますます貧困になっているのに、我がロシアで資本主義が発展すること、完全に発展することが可能か?」(レーニン選集第10巻「いわゆる市場問題について」 9頁)という、当時、ロシアでマルクス主義に反対していた勢力の主張を反駁するためにレーニンが書いた論文です。
レーニンはこの著書で、マルクスの表式が第一部門(生産手段)の優位を示さないのは、「この表式はほかならぬ技術的進歩を考慮に入れていない。」(レーニン選集第10巻「いわゆる市場問題について」 14頁)からだ、とはっきり見抜き、技術的進歩を考慮した拡大再生産の表式を提示します。さらにレーニンは、現物経済から資本主義経済への転化の過程を解明する独創的な「市場表式」を提示しますが、不破さんは、「レ一ニンが、マルクスの再生産論を独創的に発展させただけでなく、資本主義形成の理論とも呼ぶべき市場理論にとりくみ、その表式化にまで成功したことは、科学的社会主義の経済学の発展にたいする、若きレーニンの特筆すべき貢献と評価してよいでしょう。」(不破哲三「レーニンと資本論1」154頁)と書いています。
ここからはつまらない私の理解力不足の話です。私は「資本の有機的構成の高度化」のことを長い間、納得することができませんでした。これは単なるドグマではないかとさえ思ったりしていました。レーニンの表式を見てもなぜそのような数字になるのか、その必然性が理解できませんでした。次図に示す表式の数字で、第一年度の剰余価値1000mの半分が蓄積に回され、第Ⅰ部門に450c+50vと分割されるのはなぜなのだ?420c+80vでもいいではないか。あるいはそれ以外ではなぜいけないのかというのがひっかかる理由で、なかなか次に進めませ んでした。
この式は技術進歩による生産性向上を表す表式です。生産性の向上とは、技術進歩によって一人の労働者が従来より多くの商品を生産しなければなりません。不変資本(c)は設備等の固定資本と原材料などの変動資本から構成されますが、少なくともCの中の原材料に投下される資本の比率は、vに投下される資本との比率で、従来の比率を上回らなければ生産性向上にはならないことに気が付いたのです。追加される投資の資本構成c/v > 既存資本構成c/vでなければ、生産性の向上とはならないからだということが、ふとしたはずみに閃いたのです。
レーニン選集第10巻「いわゆる市場問題について」(14頁)で「マルクスが『資木論』第一巻で証明したように、技術的進歩は、不変資本にたいする可変資本の比率(v/c) がしだいに減少することのうちに現われるのだが、・・・・もし表式にこういう変化を取り入れると、消費資料と比較して生産手段の生産がより急速に成長することになるのは、すでに自明である。それにもかかわらず、第一に、一目瞭然とするために、そして第二には、この前提から生じかねないまちがった結論を未然にふせぐために、この計算をすることも余計なことではないだろうと、私には思われる」とまで、レーニンが書いているのを、読んでいたのにその表式が理解できなかった。判ってしまえば簡単なことですが、数字に幅があることを理解せず、細かい数字自体にとらわれて、理解が前に進まなかったのです。
ひとたび霧が晴れれば第4年度までの数字も理解できるし、次図のように生産手段のための生産手段の比率が消費手段や消費手段のための生産手段の比率よりもはやい速度で増大することがはっきり理解できます。
さらに資本主義の形成過程を表示した「市場表式」の理解も進みます。
この表については不破さんの解説を転載して取り留めもない話は終わりにしましょう。
「この過程を通じての社会的分業の進展状況を見てみましょう。
出発点では、六人の生産者のすべてが、農業(a部門)に従事していましたが、社会的分業の拡大とともに、農業と工業の分離の過程がすすみ、分業が完成した第六期には、農業(a部門)に従事するのは、生産者の三分の一(二人―― 一人は経営者として、一人は賃労働者として)にすぎず、あとの三分の二は、それぞれの工業部門(b、c部門)に従事するようになります。こうして、表式は、農業人口を犠牲にした工業人口の増大の傾向をも、くっきりと表現しました。レーニンは、この表式を展開するさい、社会の生産物の総量は変わらないことを前提にしました。生産物の総量は54のままなのに、社会的分業の進展とともに、市場に入る生産物の量が、第一期・ゼロ、第二期・6、第三期・18、第四期・22、第五期・26 第六期・36と拡大してゆく様子が、鮮やかに表式化きれています。そして、そのすべてが、どこか外にある資本主義制度の働きかけによってではなく、現物経済を出発点とした生産者たち自身の関係の変化、この社会の内在的な動きによって説明されているところに、レーニンの表式の大きな意味がありました。」(レーニンと資本論 1 151頁)
返信削除http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/executive/fuwa/f19980915/5-0920.htm
レーニンは再生産論のどこを発展させたか
不破 そこで、さきほど山口さんがマルクスが残した宿題といわれた問題ですが、再生産論というのは、社会の生産の全体が、供給と需要の過不足なく順調に流れてゆくことが、そもそも可能であるのか、可能だとすれば、その条件はどういう点にあるのか、こういう問題を解明する理論です。それで生産の規模が拡大しない場合、これを単純再生産というのですが、この単純再生産の場合は、マルクスは、早い時期に解決して、表式も仕上げていました。それで単純再生産がいちばんの基本で、これが解決されていれば、拡大再生産の場合はたいして困難はないと考えたのでしょうか。拡大再生産についての草稿はなかなか書かないで、晩年、一八八〇年ごろ、結果的には死ぬ三年ほど前ということになりましたが、はじめて本格的な執筆にとりかかったのです。ところが、はじめてみると、なかなかすすまない、予想しなかった難関に何度もぶつかって、試行錯誤をかさねる。その過程が、実は、現在の第二部の拡大再生産のところには、全部、本文にふくまれているのです。そして、最後にようやくすべての難問を解決して、拡大再生産の表式にも到達して、それでほっとするんですね。
それまでのマルクスの『資本論』第一部や第三部草稿で展開していた立場からいえば、生産力の高度な発展の場合、拡大再生産の表式がなりたつかどうか、ということは、当然、重要な論点の一つになることでした。しかし、マルクスは、そこまで書くにいたらないまま、死を迎えました。私は、それを残された宿題と位置づけてみたのですが、その宿題をレーニンが果たしたことになるんですね。
それから、レーニンの功績では、ロシアの問題をとくには再生産論だけでは足りないのだといって、商品・資本主義経済が、非資本主義経済を吸収しながら発展する過程を表式化した「市場表式」をつくりあげましたね。これも、ほんとうに重大な貢献だと思います。
数字に強いレーニン
レーニンの市場表式は、農家を6件、表式に組み入れたり、3年に渡る段階的な資本主義化への移行を図にしていてわかりやすい。
返信削除外国貿易、侵略に頼らなくても発展は可能ということを示したのだ。
ただ、工業を生産手段の部門、農業を消費手段の部門においたとしても、両者の理想的な関係は新たに考察しなければならないだろう。
文明と文化の違いだからだ(帝国の構造103頁参照)。
<…賃金を通して労働者の手に渡され
返信削除る消費資料によって再生産される労働力は、資本のもとに種々なる生産部面に配分せられ、
前年度の生産物たる生産手段をもって、新に生産手段と消費資料とを生産するのであるが、
そしてまたそれは同時に生産手段の価値cに、新に労働によって形成せられるv+mの価値
を加えることになるのであるが、資本にとってはv部分は、c部分と共に先きに投じた資
本部分を回収する、いわば資本のー部分の再生産されたものとしてあらわれる。これに対し
てm部分は、v部分と同様に労働によって新しく形成せられた、いわゆる価値生産物をなす
にもかかわらず、資本にとってはその価値増殖分をなし、資本家の所得となるのである。労
働者の賃金もー般に所得といわれるが、それは労働力の商品の代価としてえられるものであ
って、資本家の所得とは全く異っている。いかにも資本家の所得も商品の代価としての貨幣
には相違ないが、それは剩余価値生産物の代価にすぎない。労働力商品の場合は、その代価
によって自分らの労慟によって生産された価値生産物を買戻すのである。しかもそれだけで
はない。労働者にとっては、労働力商品は販売してしまえぱ、それで済むというものではな
い。また実際、労働力は、他の商品と異って、商品として販売しても労働者の手を離れるわ
けではない。労働者はその労働力を資本の生産過程に消費して、新なる生産物と共に新なる
価値を生産し、剩余価値部分と共に労働力商品の代価として支払われた価値部分をも再生産
するのである。いいかえれぱ労働者は、その労働力商品の販売によって、自らの生産物を買
戻して労働力を再生産しつつ、また再び買戻すべき生産物を生産するのである。>
(宇野弘蔵『経済原論』131~2頁、再生産表式関連)A''
2016文庫版145~6頁
<
返信削除|G--W……P
W'--G'・〈
|g--w
というように、剰余価値部分は、資本の流通過程に、いわば附属的な流通をなすわけである。かくして資本は、その再生産過程を展開するのである。>
(「経済原論』95~7頁b108)A'
_G'・G_
/ \
/ \
| |
W' W
・ ・
・ ・
・・・P・・・・
<(資本の運動は)G_W…P…W'…G'に対して、生産過程Pに始まるP…W'…G'・G_W…Pの生産過程の循環、さらにまた商品資本W'に始まるW'…G'・G_W…P…W'の商品資本の循環をもなすものとしなければならない。それは産業に投ぜられる資本の運動の三面を示すものとなるのである。>(同86頁)b98
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁)A
返信削除b78
宇野の経済原論208-9頁にはこうある。
返信削除<利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。>C
b225~6頁
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁b78)A
返信削除http://plaza.rakuten.co.jp/monozuki226/8008/
資本論1:17より
<「労働の価値及び価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現われる本質的な関係としての労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫っているが、それを意識的に定式化することはしていない。古典派経済学は、ブルジョアの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。>
(経済原論80頁b91で引用)A
(以下、経済原論43頁b52より)E
<…この(産業資本の)形式ではG-Wで購入される商品は、単にW'の生産に必要な生産手段だけでなく、その生産手段をもって新しく商品W'を生産する労働者の労働力をも商品として購入するというのでなければならない。労働力自身を商品として買入れるとき始めて(産業)資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁b52より)
(以下、同32頁b40)F
G____W
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W'
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W'____G____W''
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W''____G
生産部面 流通市場 消費部面(著作集1:56参照)
< …商品は一般に売買されると流通界を脱して消費に入るのに反して、貨幣は商品の売買を
媒介しつつ常に流通市場に留まることになる。貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能
し、それを基礎としながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁b41より)
(以下、『経済原論』29頁b37における『資本論』1:1:3:Dからの引用。貨幣形態)G
< 20エレのリンネル =|
1着の上着 =|
10ポンドの茶 =|
40ポンドのコーヒー = 〉2オンスの金
1クォーターの小麦 =|
1/2トンの鉄 =|
x量の商品A =| >
原著では末尾にさらに「その他の商品 =」が加わる。
参考:http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/27b9d76ea3bfb8c1506781375bba957f
返信削除「剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、剰余価値の
全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。」(岩波全書版『経済原論』137頁b151) B
/\
返信削除/ \
/ 利子 \
/_C____\
/\ <分配論>/\
/ \ / D\
/ 利潤 \ / 地代 \
B______\/______\
/\ /A''
/ E\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ A\ <生産論>/A'
/ G\ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/___F__\/_生産過程_\/_流通過程_\
吉田茂はどうやって気難しいマッカーサーの信頼を勝ち得たのか
返信削除http://ironna.jp/article/2742
ある日、吉田茂は「食糧難がひどく、このままでは大量に餓死者が出る。至急食糧支援を
お願いしたい」と申し出た。マッカーサーは「では必要量を統計からはじいてくれ」と即答し、
米国から大量の小麦粉や脱脂粉乳などを送らせた。
ところが大量の在庫が出た。マッカーサーが吉田に「一体どんな統計データを基に必要量
をはじいたんだ」と迫ると、吉田は平然とこう言ってのけた。
「日本がきちんと統計をできるなら米国と戦争なんてしていない」
/\
返信削除/ \
/ 利子 \
/_C____\
/\ <分配論>/\
/ \ / D\
/ 利潤 \ / 地代 \
B______\/______\
/\ /A''
/ E\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ A\ <生産論>/A'
/ G\ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/___F__\/_生産過程_\/_流通過程_\_
宇野原論とヘーゲル論理学との本来の対応はもっと細かい(旧原論目次:http://nam-students.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2835.html#ref)。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した(ウェーバー以上にヘーゲルは批判されるべきだった)。
ヘーゲル論理学と資本論との対応の話は『資本論五十年』上472頁に出て来る。構想としては古いことがわかる(スピノザを読んだのとほぼ同時期)。
マルクス『資本論』を再構成しつつも原理論はヘーゲル、段階論はスピノザに依拠している、ということか?
宇野弘蔵『経済原論』 目次 岩波文庫頁数
序
序論 9
第一篇 流通論 27
第一章 商品 29
第二章 貨幣 38
第三章 資本 47
第二篇 生産論 57
第一章 資本の生産過程 59
第一節 労働=生産過程 59
第二節 価値形成=増殖過程 63
第三節 資本家的生産方法の発展 75 A
第二章 資本の流通過程 93 A'
第三章 資本の再生産過程 110
第一節 単純生産 110
第二節 拡張再生産 115
第三節 社会総資本の再生産過程 128 A''
第三篇 分配論 151
第一章 利潤 155 B
第一節 一般的利潤率の形成 155
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格) 171
第三節 一般的利潤率の低落の傾向 180
第二章 地代 193 D
第三章 利子 214
第一節 貸付資本と銀行資本 215 C
第二節 商業資本と商業利潤 224
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本 235
第四節 資本主義社会の階級性 240
参照:
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
/\
返信削除/ \
/ 利子 \
/_C____\
/\ <分配論>/\
/ \ / D\
/ 利潤 \ / 地代 \
B______\/______\
/\ /A''
/ E\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ A\ <生産論>/A'
/ G\ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/___F__\/_生産過程_\/_流通過程_\_
宇野原論とヘーゲル論理学との本来の対応はもっと細かい(旧原論目次:http://nam-students.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2835.html#ref)。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した(ウェーバー以上にヘーゲルは批判されるべきだった)。
ヘーゲル論理学と資本論との対応の話は『資本論五十年』上472頁に出て来る。構想としては古いことがわかる(スピノザを読んだのとほぼ同時期)。
マルクス『資本論』を再構成しつつも原理論はヘーゲル、段階論はスピノザに依拠している、ということか?
宇野弘蔵『経済原論』 目次 岩波文庫頁数
序
序論 9
第一篇 流通論 27
第一章 商品 29
第二章 貨幣 38
第三章 資本 47
第二篇 生産論 57
第一章 資本の生産過程 59
第一節 労働=生産過程 59
第二節 価値形成=増殖過程 63
第三節 資本家的生産方法の発展 75 A
第二章 資本の流通過程 93 A'
第三章 資本の再生産過程 110
第一節 単純生産 110
第二節 拡張再生産 115
第三節 社会総資本の再生産過程 128 A''
第三篇 分配論 151
第一章 利潤 155 B
第一節 一般的利潤率の形成 155
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格) 171
第三節 一般的利潤率の低落の傾向 180
第二章 地代 193 D
第三章 利子 214
第一節 貸付資本と銀行資本 215 C
第二節 商業資本と商業利潤 224
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本 235
第四節 資本主義社会の階級性 240
参照:
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
スピノザには国家と資本を双頭として見ることを可能にする視座がある。
返信削除宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
スピノザ『エチカ』第三部序言
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。…」
8:20 午後
Blogger yoji said...
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
――スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007 http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
8:22 午後
Blogger yoji said...
タイトル 資本論の読み方 宇野弘蔵に学ぶ
著者名等 山口重克/著 ≪再検索≫
出版者 有斐閣
出版年 1983.9
大きさ等 20cm 251p
NDC分類 331.6
件名 「資本論」 ≪再検索≫ マルクス カール
件名 Marx Karl Heinrich.
ISBN等 4-641-06411-3
書誌番号 3-0190114550
資本論を学ぶ
資本論に学ぶ
後者が宇野
10:23 午後
Blogger yoji said...
「…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋 化によって要請される政策目標設定との
「同時並行性」を指摘するのであるが, この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身 に
よって述懐されていることは,十分に注意されてよい。 宇野自身によるその説 明がない以上,その真意は測りかねるが,た
とえばアルチュセールによれば, 「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。 これは並
行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実 現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に
対して,知性(精神)からの 制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」 の名で知ら
れるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されていると いうことでもない。精神が身体と「ともに」思考すると
いうことであり,一方の 他方に対する優越を禁じているのである。 この関係は,国家と資本とのあいだに おいても想定可能
である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離され えないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本
と「ともに」思考 する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を 展開するのである。国家
という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本 の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という
「身体」と「と もに」,あるいは資本という「身体」 に「おいて」 しか思考できない。 こうした 理解を示すかのように,
宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と 身体との関係になぞらえるのである (宇野弘蔵『資本論五十年』上,
法政大学出版局1973]:476)。」
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007より
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,太田出版 他を纏めたもの)
宇野原論は引用頁は岩波文庫
返信削除引用文そのものは大月版
返信削除A
《剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、
剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
B
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
C
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
なぜマルクスは利潤A、利子C、地代Bの順で論じ、宇野は利潤A、地代B、利子Cの順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは
強調していない点だ。
/\
/ \
C 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/A \ / B\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁)
返信削除b78
/\
返信削除/ \
/ 利子 \
/_C____\
/\ <分配論>/\
/ \ / D\
/ 利潤 \ / 地代 \
B______\/______\
/\ /A''
/ E\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ (A搾取率)\ <生産論>/A'
/ G\ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/___F__\/_生産過程_\/_流通過程_\
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
返信削除することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版192頁)
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版208~9頁)
マルクスの記述は利子→地代の順。宇野は意識的に逆にした。利子を資本主義社会のある種の到達点
と考えているのだ。また、宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆され
る。これはマルクスは強調していない点だ。
とはいえマルクス『資本論』を先に読んだ方がいい。四分割を先に学んで後から三分割に
読み直す方が、逆より理解が容易いからだ。多分、現実は四分割に対応しやすく、
理念は三分割に対応しやすい。
いきなり理念に飛びつきわかった気にならない方がいい。資本論以前はマルクスもヘーゲル的
三分割志向だったが、ある時期これを捨てている。
<…賃金を通して労働者の手に渡され
返信削除る消費資料によって再生産される労働力は、資本のもとに種々なる生産部面に配分せられ、
前年度の生産物たる生産手段をもって、新に生産手段と消費資料とを生産するのであるが、
そしてまたそれは同時に生産手段の価値cに、新に労働によって形成せられるv+mの価値
を加えることになるのであるが、資本にとってはv部分は、c部分と共に先きに投じた資
本部分を回収する、いわば資本のー部分の再生産されたものとしてあらわれる。これに対し
てm部分は、v部分と同様に労働によって新しく形成せられた、いわゆる価値生産物をなす
にもかかわらず、資本にとってはその価値増殖分をなし、資本家の所得となるのである。労
働者の賃金もー般に所得といわれるが、それは労働力の商品の代価としてえられるものであ
って、資本家の所得とは全く異っている。いかにも資本家の所得も商品の代価としての貨幣
には相違ないが、それは剩余価値生産物の代価にすぎない。労働力商品の場合は、その代価
によって自分らの労慟によって生産された価値生産物を買戻すのである。しかもそれだけで
はない。労働者にとっては、労働力商品は販売してしまえぱ、それで済むというものではな
い。また実際、労働力は、他の商品と異って、商品として販売しても労働者の手を離れるわ
けではない。労働者はその労働力を資本の生産過程に消費して、新なる生産物と共に新なる
価値を生産し、剩余価値部分と共に労働力商品の代価として支払われた価値部分をも再生産
するのである。いいかえれぱ労働者は、その労働力商品の販売によって、自らの生産物を買
戻して労働力を再生産しつつ、また再び買戻すべき生産物を生産するのである。>
(宇野弘蔵『経済原論』131~2頁、再生産表式関連)A''
2016文庫版145~6頁
< |G--W……P
返信削除W'--G'・{
|g--w
というように、剰余価値部分は、資本の流通過程に、いわば附属的な流通をなすわけである。かくして資本は、その再生産過程を展開するのである。>(経済原論95~7頁)A'
(以下、経済原論43頁より)E
返信削除<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁b78)A
返信削除http://plaza.rakuten.co.jp/monozuki226/8008/
資本論1:17より
<「労働の価値及び価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現われる本質的な関係としての労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫っているが、それを意識的に定式化することはしていない。古典派経済学は、ブルジョアの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。>
(経済原論80頁b91で引用)A
(以下、経済原論43頁b52より)E
<…この(産業資本の)形式ではG-Wで購入される商品は、単にW'の生産に必要な生産手段だけでなく、その生産手段をもって新しく商品W'を生産する労働者の労働力をも商品として購入するというのでなければならない。労働力自身を商品として買入れるとき始めて(産業)資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁b52より)
(以下、同32頁b40)F
G____W
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W'
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W'____G____W''
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W''____G
生産部面 流通市場 消費部面(著作集1:56参照)
< …商品は一般に売買されると流通界を脱して消費に入るのに反して、貨幣は商品の売買を
媒介しつつ常に流通市場に留まることになる。貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能
し、それを基礎としながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁b41より)
(以下、『経済原論』29頁b37における『資本論』1:1:3:Dからの引用。貨幣形態)G
< 20エレのリンネル =|
1着の上着 =|
10ポンドの茶 =|
40ポンドのコーヒー = 〉2オンスの金
1クォーターの小麦 =|
1/2トンの鉄 =|
x量の商品A =| >
原著では末尾にさらに「その他の商品 =」が加わる。
参考:http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/27b9d76ea3bfb8c1506781375bba957f
返信削除/\
/ \
/ 利子 \
/_⑤____\
/\ <分配論>/\
/ \ / ④\
/③利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ ①\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / ②\ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
①
(以下、経済原論43頁より)E
<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
②
《剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、
剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
③
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁)
b78
④
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
⑤
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
なぜマルクスは利潤、利子、地代の順で論じ、宇野は利潤、地代、利子の順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは
強調していない点だ。
返信削除/\
/ \
/ 利子 \
/_⑤____\
/\ <分配論>/\
/ \ / ④\
/③利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ ①\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / ②\ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
①
(以下、経済原論43頁より)
<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
②
《剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、
剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
③
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁)
b78
④
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
⑤
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
なぜマルクスは利潤、利子、地代の順で論じ、宇野は利潤、地代、利子の順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは
強調していない点だ。
返信削除/\
/ \
/ 利子 \
/_⑤____\
/\ <分配論>/\
/ \ / ④\
/③利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ ①\ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / ②\ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
①
(以下、経済原論43頁より)
<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。
かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
②
《剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、
剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
③
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…
マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の
搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁)b78
④
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
⑤
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
なぜマルクスは利潤、利子、地代の順で論じ、宇野は利潤、地代、利子の順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは
強調していない点だ。
返信削除/\
/ \
/ 利子 \
/_c____\
/\ <分配論>/\
/ \ / b\
/③利潤 \ / 地代 \
/_a____\/______\
/\ /c
/ \ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ a\ ① / \ /②a\ / b\
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/___b__\/_生産過程_\/_流通過程_\
①a
(以下、『経済原論』29頁b37における『資本論』1:1:3:Dからの引用。貨幣形態)
< 20エレのリンネル =|
1着の上着 =|
10ポンドの茶 =|
40ポンドのコーヒー = 〉2オンスの金
1クォーターの小麦 =|
1/2トンの鉄 =|
x量の商品A =| >
原著では末尾にさらに「その他の商品 =」が加わる。
参考:http://blog.goo.ne.jp/sihonron/e/27b9d76ea3bfb8c1506781375bba957f
b
(以下、同32頁b40)
G____W
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W____G____W'
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W'____G____W''
\ ↗︎
\/
/\
/ ↘︎
W''____G
生産部面 流通市場 消費部面(著作集1:56参照)
< …商品は一般に売買されると流通界を脱して消費に入るのに反して、貨幣は商品の売買を
媒介しつつ常に流通市場に留まることになる。貨幣は、G-Wとしては価値尺度として機能
し、それを基礎としながらW-G-W'の関連においては流通手段として機能する。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版32頁b41より)
c
(以下、経済原論43頁より)
<労働力自身を商品として買入れるとき始めて資本は自ら商品を生産しうることになるわけである。かくてこの形式は、
Pm
G__W/ ……P……W'__G' (Aは労働力、Pmは生産手段)
\A
ということになる。>
(宇野弘蔵『経済原論』岩波全書版43頁より)
②a
「いわゆる労働日をできうる限り延長することが…資本にとっては…基本原理となる。…マルクスはこれを剰余価値率m/v(vは可変資本、mは剰余価値)をもってあらわし、労働力の搾取度を示すものとするのである。」(岩波全書版『経済原論』67頁)
b78
http://plaza.rakuten.co.jp/monozuki226/8008/
資本論1:17より
<「労働の価値及び価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現われる本質的な関係としての労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫っているが、それを意識的に定式化することはしていない。古典派経済学は、ブルジョアの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。>
(経済原論80頁b91で引用)
②b
< |G--W……P
W'--G'・{
|g--w
というように、剰余価値部分は、資本の流通過程に、いわば附属的な流通をなすわけである。かくして資本は、その再生産過程を展開するのである。>(経済原論95~7頁)A'
②c
<…賃金を通して労働者の手に渡され
る消費資料によって再生産される労働力は、資本のもとに種々なる生産部面に配分せられ、
前年度の生産物たる生産手段をもって、新に生産手段と消費資料とを生産するのであるが、
そしてまたそれは同時に生産手段の価値cに、新に労働によって形成せられるv+mの価値
を加えることになるのであるが、資本にとってはv部分は、c部分と共に先きに投じた資
本部分を回収する、いわば資本のー部分の再生産されたものとしてあらわれる。これに対し
てm部分は、v部分と同様に労働によって新しく形成せられた、いわゆる価値生産物をなす
にもかかわらず、資本にとってはその価値増殖分をなし、資本家の所得となるのである。労
働者の賃金もー般に所得といわれるが、それは労働力の商品の代価としてえられるものであ
って、資本家の所得とは全く異っている。いかにも資本家の所得も商品の代価としての貨幣
には相違ないが、それは剩余価値生産物の代価にすぎない。労働力商品の場合は、その代価
によって自分らの労慟によって生産された価値生産物を買戻すのである。しかもそれだけで
はない。労働者にとっては、労働力商品は販売してしまえぱ、それで済むというものではな
い。また実際、労働力は、他の商品と異って、商品として販売しても労働者の手を離れるわ
けではない。労働者はその労働力を資本の生産過程に消費して、新なる生産物と共に新なる
価値を生産し、剩余価値部分と共に労働力商品の代価として支払われた価値部分をも再生産
するのである。いいかえれぱ労働者は、その労働力商品の販売によって、自らの生産物を買
戻して労働力を再生産しつつ、また再び買戻すべき生産物を生産するのである。>
(宇野弘蔵『経済原論』131~2頁、再生産表式関連)A''
③a
《剰余価値率がm/vとして、資本家と労働者との関係をあらわすのに対して、利潤率はm/c+vとして、
剰余価値の全資本に対する分配率を示し、資本家と資本家との関係をあらわすものになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:1岩波全書版137頁)
b
《…資本は、その生産物に対象化された剰余価値部分を利潤として他の資本と平均的に分配
することを、土地所有によって阻止され、これを地代化するのである。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:2岩波全書版192頁)
c
《利潤率に対する利子率の関係は、前者が一般に個々の資本にとってその投資部面を決定す
る基準となるのに対して、後者は個々の資本の運動中に生ずる遊休貨幣資本を資金として資
本家社会的に共同的に利用しつつ、利潤率の相違を補足的に均等化するものといってよい…。
…銀行資本は…間接的に剰余価値の生産増加に寄与することになる。》
(宇野弘蔵『経済原論』3:3:1岩波全書版208~9頁)
なぜマルクスは利潤、利子、地代の順で論じ、宇野は利潤、地代、利子の順で論じたのか。
宇野自身一応説明しているが、宇野にとって地代は恐慌とともに資本に内在するが、
マルクスにとって地代は本源的蓄積のように資本の外部を含む、ということだろう。
宇野が地代と利子の利潤における機能を対立的に捉えていることも特筆される。これはマルクスは
強調していない点だ。