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水曜日, 6月 11, 2014

墨子関連

              (リンク::::::::::歴史学

参考:中国文明孔子老子


NAMs出版プロジェクト: 墨子関連

サイトは殆どありません。抜粋は、以下のサイトにあります。
http://konton88.exblog.jp/16983598/
http://fiolencino.exblog.jp/2850990

Gブックスには、国訳漢文大系の「荀子、墨子」が公開されていて、書き下しと語釈を調べることができます。
http://books.google.co.jp/books?id=_fvA9Gfs4K4C&printsec=frontcover...

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墨子

墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前450~390頃?)は中国戦国時代思想家河南魯山の人[1]。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。は翟(羽の下に隹)という。

経歴[編集]

最初、儒学を学ぶも、儒学のの思想を差別愛であるとして満足せず、独自の学問を切り開き、墨家集団と呼ばれる学派を築くに至った。

生誕地はであると思われる。墨(ぼく)という名前から、墨(すみ)を頻繁に使う工匠、あるいは入れ墨をした囚人であった、などの諸説が生まれたが、詳しいことは全くわかっていない。司馬遷史記孟子荀卿列伝における墨子についての記述でも、「蓋し墨子は宋の大夫なり」(恐らく墨子は宋の高官であろう)などと憶測の文章になっている。前漢代から早くも謎多き人物であったようである。かなりの学があったようであるから、卑しい身分の家柄の出身では無かった可能性が高い。当時は、学問するにも書物を読むにも相応の家柄でなければ出来なかったからである。

著書[編集]

『墨子』

著書『墨子』(53篇現存)は墨子本人やその弟子の思想を記した書物。大部分は墨子本人による記述ではなく、その弟子によって編まれたとみられる。一部が散逸しており、元の姿は無い。近年の先秦時代由来の出土文献と比べることで、墨家集団消滅(後述)以来、清代末までほとんど編集の手が加えられてこなかった事が伺える。

  • 第一構成 「親士」「修身」「所染」「法義」「七患」「辞過」「三弁」
    断想集。
  • 第二構成 「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻」「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽」「非命」「非儒」
    「十論」。墨子の主要論考。
  • 第三構成 「経上」「経下」「経説上」「経説下」「大取」「小取」
    「墨弁」。墨子の哲学、幾何学等を記した論文集。
  • 第四構成 「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」「公輸」
    言行録、説話集。
  • 第五構成 「備城門」「備高臨」「備梯」「備水」「備突」「備穴」「備蛾傅」「迎敵祠」「旗織」「号令」「雑守」他に散逸して編名が分からないもの10編
    城(すなわち市街地)を守る為の詳細かつ具体的な技術論集。

主な思想[編集]

主な思想は以下のとおりである。兼愛・非攻のような非常に理想主義的な思想を展開する墨子は、当時勢力の拡大に躍起になっていた諸侯の考え方とは相容れず、諸侯からは敬遠されがちであったことが、墨子の多くの編から読み取ることが出来る。

兼愛[編集]

「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から起こるという思想。全ての人に平等な愛をということである。

非攻[編集]

一言で言えば、非戦論である。墨子直著と見られ、「人一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもらうのか」と疑問を投げかけている。

墨子、および墨家の全体像[編集]

墨子と弟子とのやりとりからは、功利主義的な多くの弟子を諭すのに苦労する墨子の姿が散見される[2]。また、墨子自らに赴いて、を攻めようとする楚王を説き伏せようと努力することもあった[3]。このような幾多の墨子の努力の甲斐有って、思想集団として、また、兼愛・非攻の究極の実践形と言える防御・守城の技術者集団として、墨家は儒学と並び称される程の学派となった[4][5]

墨子の没後、墨家集団は三墨と呼称される三つの集団に分裂するも、未だ大勢力を誇るが[4]帝国成立後、突如として各種文献から墨家集団の記述は無くなり、歴史上から消えてしまった。なぜ墨家は忽然と消えてしまったのか。焚書坑儒の言葉に代表される秦帝国の思想統制政策により、集団として強固な結束をもっていた墨家は儒学者その他の思想派よりも早く一網打尽にされ、一気に消滅したと思われる。 さらに代になると、墨家と激しく対立していた儒家が一大勢力となった為、墨家思想排斥の動きが加速したであろうことは想像に難くない。

その後、墨子の思想は中国でほとんど顧みられる事が無く、代まで時代が下る。清末の動乱期になって西洋文明を積極的に摂取していく動きが中国に広がる中で、墨子の思想はキリスト教の思想に酷似しているとの見地から再研究を始める学者が徐々に現れ始めた。その代表的な学者に孫詒譲がいる。かれら清末の学者らによって、墨子の思想は2000年以上の雌伏を経て再評価されるようになった。

逸話[編集]

  • 楚の王は伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器、雲梯(攻城用のはしご)を用いて、宋を併呑しようと画策する。それを聞きつけた墨子は早速楚に赴いて、公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨子先生が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨子先生がそれで守りきったなら宋を攻めるのは白紙にしましょう」と提案する。机上模擬戦の結果、墨子は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わないでおきましょう」と意味深な言葉を口にする。すかさず墨子は「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということでしょうが、すでに秘策を授けた弟子300人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせます」と再び公輸盤をやりこめた。そのやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを墨子に誓った。使命を終えた帰り道、宋の城門の軒先で雨宿りをしていた墨子は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまった。墨子の御技は、救われた宋人にもわからない程の素早さであった[3] この逸話から「自説を頑なに守る」という意味の「墨守」という故事成語が生まれた。
  • 2004年に当時の小泉純一郎首相が、イラクへの自衛隊派遣に関する国会論争において墨子の「義を為すは、毀(そしり)を避け誉(ほまれ)に就くに非(あら)ず」という言葉を引用して自説を主張した。

脚注[編集]

  1. ^ 墨子の出身地については、山東省滕州であるという説と、河南省平頂山市魯山県であるとする説がある。山东滕州央视宣传墨子故里引平顶山网友不满, 2009年08月06日 11:42 来源:大河网 记者 薛素芬
  2. ^ 『墨子』魯問編
  3. a b 『墨子』公輸編
  4. a b 韓非子』顕学編
  5. ^ 呂氏春秋』有度編

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]


墨家

墨家(ぼくか、ぼっか)は、中国戦国時代墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。博愛主義(兼愛交利)を説き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。代表的な思想家に、墨翟(墨子)がいる。

戦国時代儒家と並び最大勢力となって隆盛したが、の中国統一ののち勢威が衰え消滅した。

基本思想(墨家十論)[編集]

以下が『墨子』における墨家の十大主張である。全体として儒家に対抗する主張が多い。また実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強い。また全体的な論の展開方法として比喩や反復を多様しており、一般民衆に理解されやすい主張展開が行なわれている。この点、他の学派と異なった特色を有する。特に兼愛、非攻の思想は諸子百家においてとりわけ稀有な思想である。

兼愛
兼(ひろ)く愛する、の意。全ての人を公平に隔たり無く愛せよという教え。儒家の愛は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であるとして排撃した。
非攻
当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定する教え。ただし防衛のための戦争は否定しない。このため墨家は土木冶金といった工学技術と優れた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げた。
尚賢
貴賎を問わず賢者を登用すること。「官無常貴而民無終賤(官に常貴無く、民に終賤無し)」と主張し、平等主義的色彩が強い。
尚同
賢者の考えに天子から庶民までの社会全体が従い、価値基準を一つにして社会の秩序を守り社会を繁栄させること。
節用
無駄をなくし、物事に費やす金銭を節約せよという教え。
節葬
葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。儒家のような祭礼重視の考えとは対立する。
非命
人々を無気力にする宿命論を否定する。人は努力して働けば自分や社会の運命を変えられると説く。
非楽
人々を悦楽にふけらせ、労働から遠ざける舞楽は否定すべきであること。楽を重視する儒家とは対立する。
天志
上帝(天)を絶対者として設定し、天の意思は人々が正義をなすことだとし、天意にそむく憎み合いや争いを抑制する。
明鬼
善悪に応じて人々に賞罰を与える鬼神の存在を主張し、争いなど悪い行いを抑制する。鬼神について語ろうとしなかった儒家とは対立する。

組織[編集]

墨家集団は鉅子(きょし)と尊称された指導者の下、強固な結束で結ばれていた。その証左として『呂氏春秋』の記述によれば、において、守備していた城が落城した責任をとって鉅子の孟勝以下、墨者400人が集団自決したという。城から脱出して孟勝の死と鉅子の引継ぎを田襄子に伝えにいった使者の墨者二人も、楚に戻って後追い自殺したという。このような強固な結束と明鬼編の存在から、墨家集団は宗教集団的色彩をも帯びていたであろうと思われる。

歴代鉅子[編集]

墨子、呂氏春秋等に散見される鉅子の名前は以下の通り。なお、『荘子』・天下篇によれば、墨家は相里氏と鄧陵氏の二派に分れ、互いに「別墨」と非難したとある。また『韓非子』・顕学篇は、前二派に加え相夫氏もあると伝える。末期墨家の鉅子についての詳細は分かっていない。

  1. 墨子…初代
  2. 禽滑麓(きんかつり)…二代目
  3. 孟勝…三代目
  4. 田襄子…四代目

以下不詳

呂氏春秋・去私篇には鉅子・腹䵍の名前もある。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

参考:

楊朱

楊朱(ようしゅ、生没年未詳、前370頃? - 前319頃? )は中国春秋戦国時代の思想家。個人主義的な思想である為我説(自愛説)を主張した。は子居。

人間の欲望を肯定し、自己満足が自然に従うものであるとした。儒家墨家に対抗し、異端として孟子などから排撃される。著書は伝わらず、「列子(楊朱篇)」、「荘子」などに学説が断片的であるが記載される。

哲学史の研究においては、西洋で同時代に快楽主義を提唱したエピクロスと比較される。




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