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月曜日, 6月 08, 2015

高杉晋作 花燃ゆ 第20話

上海から帰国した高杉晋作、





上海を回想する。

1862年5月13日…イギリス領事館から五、六間ほど離れ、新大橋と名付けられた橋がある。今から七年前、古い橋が朽ちて崩れてしまったが、支那人には再建する力が無かった。そこでイギリス人がこの橋を架けた。支那人は通行するたびに、イギリス人に一銭を貢がなければならないという。

『高杉晋作の「革命日記」』(一坂太郎著)より、現代語訳








      上海


実上海之地雖属支那、謂英仏属地、又可也

―実に上海の地は支那に属すると雖も、
       英仏の属地と謂ふも、又可なり。―
                  上海掩留日録
                    しょうじん
1862(文久2)年4月27日幕府の小人目付・犬塚鑅三郎の従者として幕船千歳丸に乗り込んだ晋作は
5月6日、初めて上海の地に下り立ち、そこで欧米諸国の半植民地と化した上海の現実を目の当たりにする。
晋作はこの時の見聞を航海日録・上海掩留日録等からなる『遊清五録』に書留ています。
この中には病身(麻疹)を押し杖を付いて波止場に到った事や船内の様子、船の位置・風向等の航海記録、
上海滞留中の見聞録や筆談等が細かく記され、説明文を添えて描かれたアームストロング砲の図には
晋作の関心の強さが窺がえます。
 
―貴邦尭舜以来堂々正気之国、而至近世区々西洋夷蛮夷之所猖獗則何乎
  (貴邦は尭舜以来堂々正気の国なり。而るに近世に至りて、区々たる西洋夷蛮夷の猖獗する所は、則ち何ぞや。)―

                                貴邦
―国運陵替、君臣之不得其道故也、君臣得其道、何有国運陵替、近世之衰微、自為災而已矣豈謂之天命乎
  (国運の陵替するは、、君臣の其の道を得ざるが故なり。君臣其の道を得れば、何ぞ国運の陵替あらんや。
   貴邦
    の近世の衰微は、自ら災ひを為すのみ、豈に之を天命と謂はんや。)―


―支那兵術不能及西洋銃隊之強堅可知也
  (支那の兵術は西洋の銃隊の強堅に及ぶこと能はざるを知るべきなり。)―


列強の支配にあえぐ上海の実態は晋作の祖国に対する大きな危機感となり、彼のその後の運命を決定付ける事となります。

この後、上海から帰国した晋作は蒸気船一隻を独断でオランダに注文しています。
これは結果的には実現しませんでしたが、この時の事を晋作はこう記しています。

―かくの如く衰微せしは何故ぞと看考仕候に、必竟彼れ外夷を海外に防ぐ之道を知らざるに出し事に候。
  其証拠には、万里之海濤を凌ぐの軍艦運用船、敵を数十里之外に防ぐの大砲等も制造成さず、
                            いたずら  固陋之説を        こうしょ
  彼邦志士之訳せし海国図志なども絶板にし、徒に 僻気象を以 唱へ、因循苟且、空しく歳月を送り、
  断然太平之心を改め、軍艦大砲制造し、敵を敵地に防ぐの大策無き故、かくの如き衰微に至り候事也。
 それ
  夫故、我日本にも已に覆軼を蹈むの兆有れば、速に蒸気船の如き―


もはや一刻の猶予もならぬほど晋作の危機感は深刻だったのでしょう。


激動幕末 - 12.海国図志:国立公文書館

http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/12.html

『海国図志』は、清の道光22年(1842)、南京条約が締結された年の12月に、イギリスに対する清朝の降伏を憤り民族的危機を感じた魏源(ぎげん 1794-1856)が、19世紀前半の西洋諸国の情勢を説き、近代的軍備と殖産興業等による中国の富国強兵を訴えた実用の地理書です。魏源は実学を重視した学者で、アへン戦争では、浙江方面(長江下流平野の南部)で実際にイギリス軍と交戦した人でもありました。

『海国図志』は、当時の世界情勢を知ろうとする人々にとってバイブル的役割を果たし、海防と開国の難問に直面するわが国にも最新かつ豊富な情報をもたらしました。外交問題に対する判断に及ぼした影響も少なくありません。吉田松陰(よしだしょういん)や橋本左内(はしもとさない)など幕末の志士に深い感銘を与えたことでも有名ですが、幕府もまた、アメリカの情勢等をより正確に把握するために本書を活用しています。資料は光緒2年(1876)刊。全24冊。

維新の風雲児 高杉晋作1 「日本を支那の二の舞にはさせぬ」晋作は上海で誓った -

http://blog.goo.ne.jp/takuyoshio/e/8a8182608aad3adadd053870188a0035
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第十四回 維新の風雲児 高杉晋作1(『祖国と青年』22年6月号掲載)

「日本を支那の二の舞にはさせぬ」晋作は上海で誓った

 松下村塾の門下生たちは、松陰先生が亡くなった翌年(万延元年)一月から塾に集って松陰遺文と孟子と伝習録の会読を開始し、尊攘の志を深めて行った。萩に王陽明の語録である『伝習録』を初めて齎したのは高杉晋作だと言われている。晋作は、生涯、王陽明を尊崇した。晋作が持っていた『伝習録』には次の漢詩が書かれていた。

王学振興して聖学新なり 古今の雑説遂に沈湮
唯能く良知の字を信得せば 即ち是れ羲皇以上の人
(王陽明の学問が興って、聖人の学問である儒学は面目が一新し、これ迄の様々な学説の総てが沈黙せざるを得なくなった。王陽明が提唱した「良知」を真に体得するなら、古代帝王の伏羲を超える聖人となる事が出来るであろう。)

又、晋作は、文久元年の世子定広公小姓役の時に『せつ御日誌并心録』を記しているが、その表紙には自らを「致良知洞主人」と称している。晋作は王陽明の漢詩「四十餘年睡夢の中 而今醒眼始めて朦朧 知らず日已に亭午を過ぐるも 起って高楼に向って暁鐘を撞く」を好み、文久二年に上海を訪れた際には、現地人との筆談で、「常欽慕貴邦奇士王守仁之為人」(私は常に貴方の国の王陽明の人となりを慕っている。)と自己紹介している。元治元年の野山獄中詩作の中には「書を披いて良知を養ふ」と詠んでいる。

   師・松陰との出会いと別れ

 高杉晋作は天保十年(1839)に生れた。高杉家は武田氏の流れを汲み、二百石の上級藩士の家柄(藩士の中核の大組(八組))の一人息子であった。名前は春風、晋作は通称である。藩校明倫館に通ったが、館内の学問には飽き足りない気持ちを抱き、当時の漢詩に「自ら笑ふ平生の拙 区々として腐儒を学ぶ」「明倫館裏経義を談ずるも 畢竟明倫するもの幾人かある」と、道を本気で明らかにしようともしない口先だけの学問に対する嘆きを詠じている。この様な多感で志を抱く少年には本物の師が必要だった。

安政四年十一月、十九歳の時、親友の久坂玄瑞に誘われて松下村塾を尋ね、九歳年上の吉田松陰に出会い、その人格に惹かれて行く。だが晋作は翌年七月には学問修行の為江戸に上京したので、松下村塾での学びは九ヵ月にも満たない。しかし、松陰は晋作の才能を見抜き、晋作は松陰の志に深く共鳴した。晋作は頑固な性格であったが、松陰はそれを矯正するのでは無く、自らが確信を抱く様な体験を十年程積ませれば必ず立派な人物になると太鼓判を押し、十年後に共に事を計る事が出来る人物は晋作だとさえ述べている。そして、晋作の「識見」を高く評価した。

しかし、晋作が江戸で学問に励んでいる最中に安政の大獄が起こり、松陰は幕府に反抗する罪人として江戸に送られ、投獄されてしまう。晋作は獄にいる松陰の世話に力尽すが、十月二十七日、松陰は終に処刑され三十年の生涯を終える。その三ヶ月程前に晋作は獄中の松陰に「丈夫、死すべきところ如何」「僕今日如何にして可ならん」との質問を投げかけた。それに対する松陰の言葉が有名な「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。」であった。更に、「大意遠大の論なり。先づ遊学済まし成され候はば、蓄妻就官等の事一すら父母の御心に任せられ、若し君側にでも御出でなれば深く精忠を尽し君心を得べし。然る後正論正義を主張すべし。此の時必ず禍敗を取るなり。禍敗の後、人を謝し学を修め一箇恬退の人となり給はば、十年の後必ず大忠を立つるの日あらん。極々不幸にても一不朽人となるべし。」だった。十年はかからなかったが、その後の晋作は実際この様に生きて行く。松陰が処刑される前に萩に戻っていた晋作は、処刑の報を聞き「実に私共も師弟の交わりを結び候程の事故、仇を報い候らわで安心仕らず候。」と周布政之助宛書簡に認めた。

  上海体験

 翌年(万延元年)一月、晋作は妻を迎えるが、志を大いに伸ばすべく、国内・更には海外への遊学を志している。

●大丈夫宇宙の間に生く、何ぞ久しく筆研に事えんや。(『東帆録』冒頭)
(男児たるものは宇宙の中に生きている。何で久しく筆を執り硯に向う生活ばかりしておられようぞ。)

●翼あらば千里の外も飛めぐり万の国を見としぞおもふ

八月には、剣の修業(この春柳生新陰流目録を取得)も兼て東北遊歴を行い、笠間の加藤有隣、信州の佐久間象山、越前の横井小楠を訪ねて教えを受けている。文久二年、二十四歳の晋作は、藩から上海視察を命じられ、幕府の使節船に同乗して渡海した。五月六日から七月六日迄の二ヶ月、半植民地化していた上海の実態を観察し、わが国防衛の方策を考えて行く。晋作にとって上海体験はその後の行動の起点となる。『遊清五録』に晋作は次の様に記している。

●上海の形勢を熟観するに、支那人は尽く外国人のために使役せらる。英・仏人、街市を歩行すれば、清人みな傍に避けて、道をゆづる。実に上海の地、支那の属といへども、英・仏の属地といふも可なり。

晋作は、長崎に戻るや独断で、オランダからの軍艦購入を行う。結果的には藩が代金を出し渋り破談するが、晋作は上海で抱いた危機感を直ぐに行動に表したのである。何故その様な行動に出たかとの弁明書にこう記している。

●彼地ノ形勢及北京ノ風説ヲ探索シ、我 日本ニモ速ニ攘夷ノ策ヲ為サスンハ、遂ニ支那ノ覆軼ヲ踏ムモ計リ難シト思シナリ(中略)如此衰微せしは何故そと看考仕候ニ、必竟彼れ外夷を海外ニ防く之道を知さるニ出し事ニ候、其証拠ニは、万里之海濤を凌くの軍艦運用船、敵を数十里之外ニ防くの大砲等も制造成さす、彼邦志士之訳セし海国図志なとも絶板にし、徒に固陋之説僻気象を以を唱へ、因循苟且、空しく歳月を送り、断然太平之心を改め、軍艦大砲制造し、敵を敵地ニ防くの大策無き故、如此衰微ニ至リ候事也、夫故我日本にも已に覆軼を踏むの兆有れは、速に蒸気船ノ如き
(上海の実態並びに北京の情報を鑑みた所、わが日本国でも早急に攘夷の方策を確立しなければ、終にはシナの二の舞に陥ってしまうとも限らない。(中略)シナがこの様に衰えてしまったのは何故かと考えれば、結局は、シナが外敵を海外で防ぐ手だてを講じる事が出来なかった事に起因している。その証拠に、万里の外の海洋に漕ぎ出す軍艦や船舶、敵を遠方で防ぐ大砲も建造せず、シナの有志が翻訳した海国図志なども絶版にし、頑な説に固執して、何もせずに時を費やし、断固として太平の気分を改めて軍艦や大砲を造って敵を敵地で防ぐという大いなる策が無かった為にこの様に衰退してしまったのだ。翻ってわが日本国を考えた場合、シナの失敗を繰り返す様な兆しがあるので、速やかに対応すべく蒸気船の購入を決意した)

  晋作の「割拠論」と長州藩「京都工作」との葛藤

 晋作が上海に渡った文久二年は、桜田門外の変後の公武合体運動により、京都の朝廷と江戸の幕府との力関係が逆転して行く時期であり、薩摩の島津久光が朝廷の大原重徳三位卿を奉じて江戸に赴いて幕政改革を実現させ、その後は京都が政局の中心地となる。長州藩では長井雅楽の「航海遠略策(開国を前提とした公武合体)」を久坂玄瑞等が批判し、遂に長井雅楽は失脚し、長州藩は「破約攘夷論(朝廷の攘夷のご方針の実行を幕府に迫る)」を標榜して京都での国論形成の担い手に躍り出ていた。長州藩は幕府に攘夷断行を迫るべく公武間の周旋に力を注いでいた。

 上海から戻った晋作は、攘夷を行う事には異論は無かったが、京都での工作には疑問を抱いていた。攘夷を渋る幕府に約束を迫るより、長州藩自身が攘夷を断行出来る実力を養う事に全力を投入すべきだと「割拠」論を唱えた。だが、藩の重役は晋作の意見に耳を貸そうとしなかった。これから暫く、晋作の煩悶の日々が続く。晋作には政界工作に奔走する尊攘志士達の軽薄さが我慢ならなかった。晋作は「独歩登天の志を決し」脱藩して水戸浪士と攘夷を断行せんとするが、笠間の加藤有隣に説得されて帰藩した。

●文才兵智とも、玄瑞・弥八にはもとより百歩を譲り候事なれども、一身を以って二国を任し候事は及ばずながら鉄至誠心敢えて他人に譲らざる落着にござ候、右故この度も断然独志狂放のそしりを顧みず、この狂挙には及び候。一点天下鬼神に負ざる事、我が心に誓い居り候。(文才や兵法の智恵は久坂玄瑞や楢崎弥八郎には百歩を譲るとしても、この一身を以て防長二国を担う事は誰にも譲らない覚悟です。それ故、この度も一人志を立て他からの誹りも顧みずに脱藩を断行した訳です。私の行動には一点も神に恥じる事は無いと、心に誓って居ります。)
    
●決心未だつかぬのに勤王と申し唱え、右ようの虚動これあるの義は、功名勤王にて真の勤王にはこれなき事
(命を賭して行う決心も定まっていないのに、勤王と唱え、空虚なる事ばかり行っているのは、功名を求めるための勤王であり、真の勤王の行動では無い。)

●    壬戌八月廿七日桜邸を亡命す
官禄吾に於て塵土軽し 笑て官禄を抛つて東に向つて行く
他の世上勤王の士を見るに 半は是れ功を貪り半は利名
(官職や俸禄は私にとっては塵や芥の様に軽い物である。笑いながらそれらを投げ打って水戸に向って出発した。今の勤王の士と言う者達は、半分は功業を貪り、半分は利益や高名の為にそれを唱えているに過ぎない。)

江戸に戻った晋作は、鬱々たる日々を過す。その満たされぬ心境を九月二十九日桂小五郎宛に次の様に書いている。

●了海先生(熊沢蕃山)の事業を学びおり候ところ、打ちやめ、彦九(高山彦九郎)の節義も出来ず空しく日月を送り、愚か狂か、智か節義か、なんだか訳も分らぬ人物に相成り、それだというて、天地鬼神に対し恥る心もこれなく、人を恐るる心もこれなく、しからば槁木死灰の工夫(生死超脱)が出来るかと思えばさにもあらず、ぶらぶらとして、瓢に未だ酒を入れぬ時の如く、坐りも悪しく、又しめくくりもこれなく、江戸っ子のいわゆるごろつき野郎者か、

十一月になって晋作を中心に松下村塾生たちは、外国公使の襲撃計画を立てたが世子に説得され断念。そして遂に十二月十二日、品川御殿山に建設中のの英国公使館の焼き討ちを断行する。幕府の追及を避ける為に玄瑞達は京都へと向うが、晋作だけは江戸に残った。この年の八月朝廷は安政の大獄以来の国事犯の名誉回復の勅旨を下されたので、年が明けて一月五日、晋作は伊藤俊輔や白井小助らと共に長州藩別邸があった若林大夫山(現在の世田谷区・松陰神社)に改葬した。江戸にて事を起さんと志していた晋作だったが、藩命により三月遂に京都に上った。晋作は思う所あって、十年の暇乞いを申し出て許される。藩政の中にあるより、もっと自由な形での行動を期したのだった。

●癸亥三月十五日、麻田(周布政之助)と論ず、頗る憤懣に堪へざる所有り、因つて断然剃髪し入道と為り、自ら名づけて東行と曰ふ、故人西行法師の人と為りを慕ふて云ふ、すなはち国歌を賦して壁に書す
 西へ行く人を慕ひて東行く心の底そ神や知るらむ

晋作は、周布政之助から贈られた甲冑の側面に「予将に東行せんとす。周布政之助贈るに此甲冑を以てす。他日攘夷の戦あれば之を着して討死せん。」と記した。東には幕府がある、晋作の胸中には幕府打倒の強い志が刻まれていた。その後、晋作は促されて萩に帰郷する。その折の心境の詩。

●邦家の為に正義を起さんことを要す 雲と作り雨と作り天地を揺がさんとす 一朝蹉跌して志終に違ひ 却つて人に呼ばれて狂士と做さる(国の為に正義の挙を起そうと志し、雲や雨となって天地を揺るがそうとした。だが、頓挫して志と違い、人からは「狂人」と見做されてしまった。)

この頃から晋作は「狂」という文字を自らの号に良く使う様になる。「東洋一狂生」「西海一狂生」「長門一狂生」「東行狂生」「東狂」などがあり、自らの行動を「狂挙」と記している。晋作が好んで使った「狂」とは、現代に使う「キチガイ」の意味ではない。『論語』子路第十三や『孟子』巻第十四尽心章句下に「狂」について書かれているが、「狂」とは「中庸」の次に位置付けられるもので、理想が高く理想に対して只管突き進む者を差している。吉田松陰も『講孟箚記』の中で、道を興すには「狂者」でなければ出来ない、と述べている。晋作は、自らを狂者と自任し、局面を打開して行く為の「狂挙」を練る様になる。




2 件のコメント:


  1. 激動幕末 - 12.海国図志:国立公文書館
    www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/.../12.html
    海国図志』は、清の道光22年(1842)、南京条約が締結された年の12月に、イギリス に対する清朝の降伏を憤り民族的危機を感じた魏源(ぎげん 1794-1856)が、19世紀 前半の西洋諸国の情勢を説き、近代的軍備と殖産興業等による中国の富国強兵を訴え た ...
    asahi.com:朝日新聞 歴史は生きている - 朝日新聞デジタル
    www.asahi.com>...>歴史は生きている>1章:アヘン戦争と明治維新
    高杉晋作(たかすぎ・しんさく)(1839~67年)長州藩(現在の山口県)の出身。 ... 志の ある下級武士や農民、町民を集めた「奇兵隊」をつくったことで有名。 ... 幕末から明治 維新までの動きに影響を与えた人たちはほとんど、『海国図志』の熱心な読者だった。
    魏源 - Wikipedia
    ja.wikipedia.org/wiki/魏源
    魏源
    魏 源(ぎ げん、Wei Yuan、1794年4月23日(乾隆59年3月24日) - 1857年3月26日( 咸豊7年3月1日))は清の思想家。もとの名は遠達、字は黙深・墨生・ ... 的に1852年に 100巻本となった。『海国図志』の中...
    著作-日本での『海国図志』受容-実学
    高杉晋作 上海
    www.geocities.jp/branaghza/sinsyanhai.htm
    国運陵替、君臣之不得其道故也、君臣得其道、何有国運陵替、清近世之衰微、自為災 而已矣豈謂之天命乎 (国運の陵替するは、、君臣の其の道を得ざるが故 ... 彼邦志士之 訳せし海国図志なども絶板にし、徒に 僻気象を以 唱へ、因循苟且、空しく歳月を送り、
    アヘン戦争は、日本にも大きな影響を及ぼしましたか? - アヘン戦争は日 ...
    detail.chiebukuro.yahoo.co.jp>...>歴史>日本史
    その海国図志は吉田松陰や佐久間象山、西郷隆盛らに読まれ、彼らの思想に大きな 影響を与えました。 ... 高杉晋作は太平天国の乱当時の上海に留学しますが(上海は アヘン戦争後の租界地)、日本はこうなってはいけないと思って奇兵隊を ...
    維新の風雲児 高杉晋作1 「日本を支那の二の舞にはさせぬ」晋作は上海 ...
    blog.goo.ne.jp/.../e/8a8182608aad3adadd053870188a0035
    先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第十四回 維新の風雲児 高杉晋作1 (『祖国と青年』22年6月号 ... ニは、万里之海濤を凌くの軍艦運用船、敵を数十里之外 ニ防くの大砲等も制造成さす、彼邦志士之訳セし海国図志なとも絶 ...
    そえじまたかひこ - 副島隆彦(そえじまたかひこ)の学問道場 -
    www.snsi.jp/bbs/page/1Cached/page:272
    幕末思想家を揺り起こした清朝知識人-魏源の『海国図志』 (その一) 田中 ... この章を 参照、引用しながら『海国図志』(Illustrated Treatise On Sea Powers ,1843) ..... この吉田晋という名はおそらく吉田松陰と高杉晋作を合成したのだろう。
    hfu on Twitter: "「高杉晋作が、アヘン戦争のときに上海にいたんや ...
    twitter.com/_hfu_/status/126316194440560640
    高杉晋作が、アヘン戦争のときに上海にいたんや。そして、林則徐が編纂を命じた「海国 図志」という本を持ち帰って、一生懸命勉強したんや。だから、日本の恩人とも言える人 やな、林則徐は」 / “虎門にアヘン戦争を思う:路地裏の中国経済: ...
    千歳丸 (Adobe PDF) -htmlで見る
    aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository...
    (高杉晋作『無題』一八六四年四月七日撰). 報は長崎から江戸へと通報された。 ... 海国 図志』を書き写して、日本の志を抱く人々に同様の優. れた本を書くよう勧めた。 ... 国 強兵の基礎として考え始め、隣国の中国が疑いもなく貿. 易の主要な相手であったため 、 ...

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  2. 【中国】日本は中国から「3つの宝」を手に入れたからこそ、強くなれたのだ [無断転載禁止]©2ch.net

    1 : らむちゃん ★@無断転載は禁止2017/06/28(水) 19:59:38.97 ID:CAP_USER>>34>>39>>43>>94
    配信先、サーチナ2017-06-28 16:12
    http://news.searchina.net/id/1638716?page=1

     近代、日本は文明開化、富国強兵をスローガンに、欧米列強と肩を並べるほどの国力を身に着けた。一方中国大陸は清朝が世界の情勢を見誤り、列強に蹂躙される苦難の時期を迎えることになった。中国メディア・今日頭条は27日、「中国から3つの宝を得られなかったら、日本は強くなっていなかった」とする記事を掲載した。
     
     記事は、近代に日本が弱国から資本主義の列強国になった原因についての論争が現在に至るまで絶えず行われているとしたうえで、日本の著名な東洋史専門家である内藤湖南氏が「中国からもたらされた3つの宝を得たことで、日本は強くなれた」と論じていることを紹介している。
     
     1つ目の宝は、魏源が記した「海国図志」だとした。この書籍は幕末の日本の志士に大きな影響を与え、明治維新へと導く流れを作ったと説明。一方で「皮肉なことに、当時の清朝政府はこの本を知りながら重要視しなかったのである」と伝えた。
     
     2つ目は、中国の儒家思想だ。記事は「日本人は儒家文化の忠君愛国思想によって日本人の精神を強化し、本土の武士道文化と組み合わせることで国の結束力を高めた。同時に、儒家文化から中庸の意味を知り、明治維新において西洋化を進める一方で伝統文化の保存にも努めた」と解説している。
     
     そして3つ目は「先進のものを学ぶ精神」としている。白村江の戦いで唐軍に打ちのめされた日本人は唐に学ぶことを決意し、その数百年後に朝鮮で明朝に打ち負かされた時にも、明朝から学ぶ姿勢を見せたと紹介。この経験が日本人に外から学ぶこと、強者に学ぶことの大切さを知らしめ、この学びを通じて自らを大きく成長させることに成功したのだと説明した。

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