_____理性の限界______________
| _______________ |
| | 合理論的独断論 ||
| | _________ ||
| 信 |/ |宇宙の無限 \ ||
| =二律背反←理性< 宇宙の構成要素\ ||
| 仰↖ /| |人間の自由 \ ||
| \ | | |神の存在 | || 関係 様相
| \| |_____________|_||
| |ー→知性=経験←ーーーーーーー|←ー|←ーアプリオリなカテゴリー
| | _____________|_ |
| | | | || 量 質
| \|感性=感覚と習慣 / ||
| | / ||
| |\_________/ ||
| | ||
| | ヒュームの懐疑論 ||
| |_______________||
|________________________|
(『図説・標準 哲学史』貫成人97頁より)
カントの三批判の関係
純粋理性
における ←理性____________道徳的判断
二律背反 『実践理性批判』
判断力_______
|___美的判断/自然の合目的性
知性(悟性)____|_ 『判断力批判』
| |
想像力(構想力)__| |_認識
| 『純粋理性批判』
感性__________|
同103頁より
以下、脱線。~カント、調停者による収奪~
第一批判ではヒュームの懐疑論を武器に、プラトン、メンデルスゾーン、デカルト、ライプニッツ、が論難される。
特にライプニッツは仮想敵として最大だ。ライプニッツを矮小化した上での批判は疑問も有る。クラーク=ニュートンとの論争を念頭に置いているが自身を調停者に見せかけて収奪をしている。ただし世界ではなく自然を扱ったスピノザはテーゼ、アンチテーゼ両方(観念論vs.唯物論でもある)にまたがるので収奪不可能だった。これは判断力批判に持ち越される。
_____理性の限界______________
| _______________ |
| | 合理論的独断論 ||
| | _________ ||
| 信 |/ |宇宙の無限キリスト教、プラトン、アリストテレス
| =二律背反←理性< 宇宙の構成要素ライプニッツ、ニュートン
| 仰↖ /| |人間の自由スピノザ、ヒューム
| \ |デカルト |神の存在 | || 関係 様相
| \| |_____________|_||
| |ー→知性=経験←ーーーーーーー|←ー|←ーアプリオリなカテゴリー
| | _____________|_ |
| | | | || 量 質
| \|感性=感覚と習慣 / ||
| | / ||
| |\_________/ ||
| | ||
| | ヒュームの懐疑論 ||
| |_______________||
|________________________|
(『図説・標準 哲学史』貫成人97頁より)
カントの三批判の関係
純粋理性
における ←理性____________道徳的判断
二律背反 『実践理性批判』
判断力_______
スピノザ |___美的判断/自然の合目的性
知性(悟性)____|_ 『判断力批判』
ライプニッツ | |
想像力(構想力)__| |_認識
| 『純粋理性批判』
感性__________|
ヒューム
_____理性の限界______________
| _______________ |
| | 合理論的独断論 ||
| | _________ ||
| 信 |/ |宇宙の無限 \ ||
| =二律背反←理性< 宇宙の構成要素\ ||
| 仰↖ /| |人間の自由 \ ||
| \ | | |神の存在 | || 関係 様相
| \| |_____________|_||
| |ー→知性=経験ーーーーーーー→|ー→|ー→アプリオリなカテゴリー
| | _____________|_ |
| | | | || 量 質
| \|感性=感覚と習慣 / ||
| | / ||
| |\_________/ ||
| | ||
| | ヒュームの懐疑論 ||
| |_______________||
|________________________|
図説・標準 哲学史 貫成人97頁より
_____理性の限界______________
| _______________ |
| | 合理論的独断論 ||
| | _________ ||
| 信 |/ |宇宙の無限 \ ||
| =二律背反←理性< 宇宙の構成要素\ ||
| 仰↖ /| |人間の自由 \ ||
| \ | | |神の存在 | ||
| \| |_____________|_||
| |ー→知性=経験 | |
| | _____________|_ |
| | | | ||
| \|感性=感覚と習慣 / ||
| | / ||
| |\_________/ ||
| | ||
| | ヒュームの懐疑論 ||
| |_______________||
|________________________|
図説・標準 哲学史 貫成人97頁より
理性の限界
合理論的
独断論
宇宙の無限
信仰 二律背反 理性 宇宙の構戍要素
人間の自由
神の存在
知性=経験
感性=感覚と習慣
ヒュームの
镶疑論
図説・標準 哲学史 貫成人97頁
理性の限界
________________________
| _______________ |
| | 合理論的 ||
| | 独断論 ||
| | _________ ||
| 信 |/ |宇宙の無限 \ ||
| =二律背反←理性< 宇宙の構成要素\ ||
| 仰↖ /| |人間の自由 \ ||
| \ | | |神の存在 | ||
| \| |_____________|_||
| |ー→知性=経験 | |
| | _____________|_ |
| | | | ||
| \|感性=感覚と習慣 / ||
| | / ||
| |\_________/ ||
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| | ヒュームの ||
| | 镶疑論 ||
| |_______________||
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図説・標準 哲学史 貫成人97頁より
理性の限界
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| ______________ |
| | 合理論的 ||
| | 独断論 ||
| | ________ ||
| 信 |/ 宇宙の無限 \ ||
| =二律背反←理性 宇宙の構成要素\ ||
| 仰↖ /| 人間の自由 \ ||
| \ | | 神の存在 | ||
| \| |____________|_||
| |ー→知性=経験 | |
| | ____________|_ |
| | |感性=感覚と習慣 | ||
| \| / ||
| | / ||
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| | ||
| | ヒュームの ||
| | 镶疑論 ||
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図説・標準 哲学史 貫成人97頁より
下記の書は、初心者としてはライプニッツクラーク論争を中心にした中山元解説を先に読んだ方がいいが、カントを熟読したい人には有益だろう。
投稿者 tenbun トップ1000レビュアー 投稿日 2014/10/6 形式: 単行本著者によるカントの「純粋理性批判」の噛み砕き本になります。著者曰く「解説することでも翻訳することでもなく肌触りをつかみ本物の哲学者の思索に触れること」P34というのだが、読後感は、まあ、解説本ですね。個人的には酷い解説本になっています。著者の本に「カントの読み方」があるのですが論調はこれと変わりありません。カントはわからない難解だ「カントのジャングルのような文章は読み解けばどうにかわかるにしても、根本的な「理性信仰」だけは普通の現代日本人にはわからないかもしれません」P72といいつつ岩波文庫の篠田訳を引用し誤訳と貶しつつ解説しています。しかし著者の本も十分意味不明なのですが……、「主観、客観、神」なんで三種類になるかわからないかもP43といい、
定言的理性推理(A=B,B=C,A=C)、
仮言的理性推理(A→B,B→C,A→C)、
選言的理性推理(A[B,C,D,E])を、
三つの推理形式を魂、宇宙、神という三つのテーマに無理やり対応させようとして考えた「こじつけ」P45という。
P46では、アンチノミーの特徴を解説した語句の「自己矛盾」を「矛盾論」ではなく「対立論」に書き換えて解説していますが、私は「矛盾」でいいと思っています。アンチノミーは善か悪か勧善懲悪を論じているのではなく二つの認識が成立する矛盾を論じているのだから。なぜ、著者は「矛盾」を「対立」に書き換えなければいけなかったかは後でわかります。著者は、石川本の「カント入門 (ちくま新書)」を持ち出してマネキンは男か女か、大人と子供、天と地をアンチノミーに当てはめる御馬鹿をやっている。このために「矛盾」ではなく「対立」にしないといけなかったわけなのだろうが、そして「男でありかつ女である人間」P104が現にいなくても論理的には可能であるという結論になっているのだが……、著者の御馬鹿ぶりは「美人」と「ブス」、「幸福」と「不幸」を例に持ち出しているが、これらは「アンチノミー」にも「カテゴリー」にも属さない、いうなれば主観的判断力であり、これは「純粋理性批判」とはまったく無関係な話である。著者の読解力の無さを暴露したようであるが……、
最高に失笑したのが、P262の自由についての「アンチノミー」で、「自由は認められるか、それとも認められないか」と認める者がいるようであるが何やら支配と被支配の自由闘争のようである。
著者は、自由を殺人者の殺人行為を元に自由と自然因果的決定論を展開しているのだが、殺人行為に至るまでの殺人者の生い立ちや性格云々を持ってきて自然因果性をたどる「理論的関心」P287と書かれて、読者は意味がわかっただろうか?
著者は、カントの「<椅子から立ち上がるという>この出来事に関しては、規定する自然原因はこうした決意と行為よりも前にすでに終わっているからである。」P291を引用し、この文章を「決意直前まで自然因果性が作用しているが、決意の瞬間それはいわば停止していて」と解釈している。が、どう解釈したら「終わっている」が「停止していて」になるのか? 終わったから停止とは御馬鹿すぎるだろう。
この自由についての「アンチノミー」でもっともわかりやすい例え話は飛び降り自殺者の例がいいと思うのだが、すなわち飛び降りるか降りないかは自殺者の自由であるが、いざ飛び降りたら、途中で取り消すことはできず、自然法則に従い、落下していく例を元に自由と自然因果を説明するとわかりやすいように思う。自殺者の生い立ちや性格云々を自然因果性として、自由についての「アンチノミー」で論じるのは脱線していると思うのだが。
著者が躓いているP22の私の解釈を書いておく。明敏な哲学者の「魂が分解によって滅びることはありえない」という論証はしかし「魂は消滅によってもその現存在を失うことが想定されうる」、これに対してメンデルスゾーンは「魂は滅びることは無い」それは「魂が在る時と無い時との間には時間が存在しないことになるから不可能である」といい、カントがいうのは「実在の度」があって「無に帰することがありうる」である。
すなわち「魂は消滅によってもその現存在を失うことが想定されうる」はMの論証ではなくAの論証に対するXの論証であろう。著者はXの論証をMの論証と解釈したために意味がわからなくなっている。
また著者は「外見上独断的な二つの認識」P99を何度読んでもぼんやりしたイメージしかつかめない、という。
私の解釈はAに対してBがあるのではなく、AがありまたBもある、という意味である。著者は「矛盾」を「対立」と解釈したために意味がわからなくなっているのである。たとえば空間があるがそれは無限のようでもありまた有限のようでもある。これが「アンチノミー」である。ところが著者のように「対立」と解釈するとおかしくなる。つまり空間は善であるか悪であるか? はおかしいだろう。「対立」で解釈するから「外見上独断的な二つの認識」の意味がわからないのである。
著者の論調には、「矛盾」を「対立」と解釈したように、「自己の主張のみが正しく、相手の主張は正しくない」という主観的要素が多分に盛り込まれており、よりカント哲学がわかりにくくなっているように思える。どうも噛み砕くつもりが噛み砕き損ねた本という感じである。(笑)
追記(2014/10/07)
著者はP46の「安楽死」という言葉がわからないとし推測の域を述べているが、私の解釈を追記しておく。篠田訳にはこの文章に注解でいくつかの説を書いている。著者はこの注解を読み落としているか意味がわかっていないために「安楽死」という言葉がわからないのである。そこで「安楽死」を「ひとりよがりの確信を抱いてぬくぬくとうたた寝する者」の延長で解釈すると、その寝ぼけた者には到底「純粋理性批判」を理解はしえないだろうからそのまま「安楽死」するがいい(=「安楽死」と呼ばれていい)というカントの皮肉であろう。これが「うたた寝」説である。しかし「うたた寝を避けるにせよ」その者は「懐疑論的絶望」と「独断論的専横」の二途のうちのいずれかに走りたがる。この両者はともに健全な哲学の死を意味する。「独断論的専横」のほうは「懐疑論的絶望」よりはまだましだが(=「安楽死」と呼ばれていい)かもしれない。これが「独断論的専横と懐疑論的絶望」説である。両者はともに健全な哲学の死を意味するとあるから良い意味ではない。まあ、両者は五十歩百歩という意味ではないだろうか。著者は篠田訳を自分の解釈で変訳するから意味がわからなくなるのである。ましてやその変訳を読んだ読者に意味がわかるはずもないのだが……、
NAMs出版プロジェクト: L'antinomie ne se resout pas; (アンチノミーは解消されない)
第一節 宇宙論的理念の体系
3:3:1
A418
B446
《われわれは世界と自然という二つの表象を用いるが、両者は往々混淆される。世界というのはあらゆる現象の数学的全体を意味し、…しかしこの同じ世界が、力学的全体として見られる場合には、これが自然と呼ばれる。》
貧しいソーフェル(聖書筆写師)の子としてドイツのデッサウに生まれた。母語は西方イディッシュ語であった。父は名をメンデル・ハイマン (Mendel Heymann) といい、「デッサウのメンデル」という意味でメンデル・デッサウと呼ばれていた。モーゼスもモーゼス・メンデル・デッサウなどと呼ばれていたが、後に「メンデルの息子」という意味でドイツ語風にメンデルスゾーン姓を名乗るようになった。
ユダヤ人の貧困階層のため就学できず、父親とラビのダーフィト・フレンケル(英語版)(David ben Naphtali Fränkel (1704 - 1762) [1])から聖書やマイモニデスの哲学、タルムードなどの(すぐれてユダヤ的な)教育を施される。このフレンケルがベルリンへ移住したため、後を追って同地へ移り住んだ。同地で貧困と戦いながら、ほぼ独学で哲学等を修得した。その他、ラテン語、英語、フランス語なども修めた。また、ジョン・ロック、ヴォルフ、ライプニッツ、スピノザなどの哲学に親しみ、これらの教養がかれの哲学の下地となった。 21歳の時、裕福なユダヤ商人イサーク・ベルンハルトから子どもたちの家庭教師を依頼され、この任を4年務めた後、ベルンハルトの絹織物工場の簿記係となった(後には社員、そして共同経営者となった)。
1754年には、ドイツの劇作家レッシングを知る。また、カントとも文通で交流を深めた。レッシングの数々の劇作において、ユダヤ人は非常に高貴な人物として描かれていた(なお、レッシングの代表作「賢者ナータン」のモデルはメンデルスゾーンである)。これらはメンデルスゾーンに深い感動を与えるとともに、メンデルスゾーンを啓蒙思想へと導き、信仰の自由を確信せしめた。その後、処女作としてレッシングを賞賛する著作を書き、レッシングもメンデルスゾーンに対する哲学の著作を書き、互いに親交を深めた。
その後、メンデルスゾーンの名声は高まり、1763年にはベルリン・アカデミー懸賞論文で、数学の証明と形而上学に関する論文でカントに競り勝つ。後にカント哲学を論難する人物とみなされるに至った。晩年には主として神の存在の証明に関する研究に没頭し、『暁 − 神の現存についての講義』(Morgenstunden oder Vorlesungen über das Dasein Gottes) を著した。また、生涯を通じての親友レッシングを巡ってヤコービらと汎神論論争を起こした。その反論書『レッシングの友人たちへ』 (Moses Mendelssohn an die Freunde Lessings) を刊行中、風邪をこじらせて他界した。
メンデルスゾーンは、当時キリスト教徒から蔑視されていたユダヤ教徒にも人間の権利として市民権が与えられるべきことを訴えるとともに、自由思想や科学的知識を普及させ、人間としての尊厳を持って生きることが必要であると説いた。そうした目的を成し遂げるためには、信仰の自由を保証することが必要であるとした。そしてこうした考えを、体系的でない、いわゆる「通俗哲学」として表現した。ユダヤ教徒の身分的解放という点で、メンデルスゾーンの果たした役割は大きい。
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通俗的かつ深淵な気風は孫に継承されている。
メンデルスゾーン バイオリン協奏曲 第1楽章 庄司紗矢香
http://youtu.be/dskvPJdRDoE
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