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月曜日, 11月 09, 2015

M・ハイデガー:インデックス

リンク::::::::::ハイデガー:インデックス) 
哲学に関する情報 『存在と時間』を読もう!
http://tetsugakusya.web.fc2.com/kiji/2014/00011.html#00
https://twitter.com/i/moments/1146751468076056577


M.ハイデガー:インデックス
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/heidegger.html(本頁)
ヒューパード・ドレイファス Hubert L. Dreyfus 1929-2017
ハイデガー著作目録
http://ambos.hatenablog.jp/entry/2018/01/13/164112

NAMs出版プロジェクト: ハイデガーとアリストテレス『自然学 』
http://nam-students.blogspot.jp/2016/08/blog-post_4.html 

Forclusion・スピノザとデリダ(ネグリ)&ハイデガー『シェリング講義』書 評:メモ(再掲)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/forclusion.html
NAMs出版プロジェクト: ハイデガーと老子、荘子:再掲
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/blog-post_62.html
ハイデガー「黒ノート」 Heideggers Schwarze Hefte (Heidegger’s Black Notebooks):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2016/02/heideggers-black-notebooks.html

ハイデガー『存在と時間』:メモ及び目次
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_26.html
『存在と時間』訳語比較用目次☆
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3.html
NAMs出版プロジェクト: ハイデガー「クーラの神話」『存在と時間』#42
http://nam-students.blogspot.jp/2014/06/42.html
NAMs出版プロジェクト: ケア、クーラの神話:再掲☆☆
http://nam-students.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7340.html
NAMs出版プロジェクト: 存在と時間:再考
http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/blog-post_25.html
「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/umgedrehter-platonismus.html
NAMs出版プロジェクト: ヘルダーリン(Friedrich Hölderlin):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/08/blog-post_22.html
四方対象

[瓶から]注がれたものを捧げることの全体に、四者の単一性は宿りつづけている。
注がれたものを捧げることの全体が、そもそも捧げることの全体であるのは 、それが 、
大地と天空、神的なものどもと死すべきものどもを宿りつづけさせるかぎりにおいてである。
もっとも、宿りつづけさせるとは 、ここではもはや、眼前的なものがただ居すわっている、
といった意味ではない。宿りつづけさせるはたらきは、 出来事として本有化する(エルアイ
グネン) 。つまりこのはたらきは 、四者をそれらに固有な本性の光のうちへもたらすのである。
この固有な本性の単一性にもとづいて 、四者はたがいに契りを結んでいる 。
 〔 『ブレーメン講演とフライブルク講演』一七頁 〕

大陸実在論の未来ハイデガ ーの四方界 グレアム・ハ ーマン 高野浩之 +飯盛元章訳 
現代思想臨時増刊号2018/2より孫引き

ハイデガー動画集 ☆☆☆
http://nam-students.blogspot.jp/2014/04/blog-post_8.html
マルクス 「フォイエルバッハに関するテーゼ」 #11:メモ ☆☆☆☆
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/karl-marx-thesen-uber-feuerbach-1845.html 
ハイデガー『ツォリコーンゼミナール』より、現存在の図(付:ハイデガーの日本における受容史)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_47.html 
NAMs出版プロジェクト: ハイデガーの思考構造図:まとめ(改訂版)
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_18.html
ハイデガー関連:別ブログ
http://yojiseki.exblog.jp/i11/

マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 - 1976年5月26日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/マルティン・ハイデッガー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%
E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC

Heidegger Martin - Sein und Zeit.pdf 1927(1967) ☆☆☆☆☆
http://busyreadywhat.org/Authors/Heidegger/Heidegger%20Martin%20-%20Sein%20und%20Zeit.pdf 2.7MB

英語版:


ハイデッガー全集

Gesamtausgabe (Heidegger)
http://de.wikipedia.org/wiki/Gesamtausgabe_%28Heidegger%29
・ハイデッガー全集の独、日、英版リスト

邦訳ハイデッガー全集
http://ambos.hatenablog.com/entry/2015/01/03/220709
・邦訳状況一覧

『ハイデガー読本』秋富克哉, 古荘真敬, 森一郎, 安部浩(法政大学出版局, 2014年) 
http://www.amazon.co.jp/dp/4588150707/
・巻末に全集全巻のサマリーあり 

『Sein und Zeit』の主な訳本 (英:Being and Time、仏:Être et Temps)

『存在と時間』 光文社 (中山元訳)<...刊行中>
『存在と時間』 作品社 (高田珠樹訳)
『存在と時間』 岩波書店 (熊野純彦訳)
『存在と時間』 岩波書店 (桑木務訳)
『存在と時間』 中央公論新社 (原佑、渡辺二郎訳)
『存在と時間』 勁草書房 (松尾啓吉訳)
『存在と時間』 三笠書房 (寺島実仁訳)
『存在と時間』 筑摩書房 (細谷貞雄訳)
『存在と時間』 理想社 (細谷貞雄、亀井裕、船橋弘訳)<ハイデッガー選集>
『有と時』 創文社 (辻村公一、ハルトムート・ブフナー訳)<ハイデッガー全集>

「Destruktion」の訳語
「解体」=細谷、桑木、高田、中山、辻村(構造解体)
「破壊」=原&渡辺、熊野、松尾、寺島


『存在と時間』:図解

        現 存 在
   ____世界=内=存在____
         |       
  世界_____自己   内=存在
    ____________|  不
  | |    頽        \_安
   | 了解_落__企投  内    
   |/視___好奇心 \・存
    |語り____沈黙| 在
    情状性____不安/ ・  
 _|_ (気分)  良心 死   
|   | \____ ・  ・  気遣い  
|   |   __|__  ・関心
|   | ・非本来的/本来的・・  |
|   | ・ |   ・  ・   
|世界性| 開示性_決意性_先駆的  
環境世界|         決意性  
|   道具全体性_適所性・・・世  
場              ・ 界   
        配慮/瞬視  ・  日常性
  既在性___現成化___到来_(脱自態)
  過去____現在____未来  時間性 
         今        内部性 
                  歴史性
               存在、存在論

『存在と時間』:目次
 緒論 存在の意味如何という問いの開陳
第一章 存在問題の必要と構造と優位 1-4
第二章 存在問題の精錬確立における二重課題。探究の方法とその構図 5-8


 第一部 時間性にもとづくとする現存在の学的解釈と、存在如何の問いの超越論的〔先験的〕地平としての時間の解明
  第一篇 現存在の予備的基礎分析
第一章 現存在の予備的分析の課題の開陳 9-11
第二章 現存在の根本構えとしての「世界内存在」一般 12-13
第三章 世界の世界性 14-24
第四章 共同存在および自己存在としての、「世界内存在」。『ひと・世人 das Man』 25-27

第五章 「内存在」そのもの 28-38
第六章 現存在の存在としての慮(気遣い) 39-45

  第二篇 現存在と時間性
第一章 現存在の可能的全体存在と、死への存在 46-53
第二章 自己本来的存在可能の現存在的証言と、覚悟性 54-60

第三章 現存在の自己本来的な全体存在可能と、慮の存在論的意味としての時間性 61-66
第四章 時間性と日常性 67-71
第五章 時間性と歴史性 72-77
第六章 時間性と、通俗的時間概念の根源としての時間内部性 78-83

参考:http://www.eleutheria.com/philosophia/data/22.html

☆☆
クーラの神話
ハイデガーの『存在と時間』第42節に以下のような神話が引用されており、その他者への気遣いをめぐる考察が福祉関連の人びとに参照されている。


クーラ(気遣い)の神話
in Hyginus’ Fabulae ヒュギーヌスの寓話より

昔、クーラ(気遣い、関心)が河を渡っていたとき、クーラは白亜を含んだ粘土を目にした。
クーラは思いに沈みつつ、その土を取って形作りはじめた。
すでに作り終えて、それに思いをめぐらしていると、ユピテル(ジュピター、収穫)がやってきた。
クーラはユピテルに、それに精神をあたえてくれるように頼んだ。そしてユピテルはやすやすとそれを成し遂げた。
クーラがそれに自分自身の名前をつけようとしたとき、
ユピテルはそれを禁じて、それには自分の名前があたえられるべきだ、と言った。
クーラとユピテルが話し合っていると、テルス(大地)が身を起こして、
自分がそれに自分のからだを提供したのだから、自分の名前こそそれにあたえられるべきだ、と求めた。
かれらはサトゥルヌス(クロノス、時間)を裁判官に選んだ。そしてサトゥルヌスはこう判決した。
ユピテルよ、お前は精神をあたえたのだから、このものが死ぬとき、精神を受け取りなさい。
テルスよ、お前はからだをあたえたのだから、(このものが死ぬとき)からだを受け取りなさい。
さてクーラよ、お前はこのものを最初に形作ったのだから、このものの生きているあいだは、このものを所有していなさい。
ところで、このものの名前についてお前たちに争いがあることについては、
このものは明らかに土humusから作られているのだから、人間homoと呼ばれてしかるべきであろう。

(Fabulae のラテン語テキストには異本が複数ある。これは Heidegger が Sein und Zeit. S.197. で用いているもの。Fabulae の邦訳は、ヒュギーヌス、松田治・青山照男訳『ギリシャ神話集』、講談社学術文庫、2005)
以上、下記サイトより引用。
http://edu-pdc.edu.wakayama-med.ac.jp/kyweb/kantake/ethics/sono2/curamyth.pdf.

注:
サトゥルヌスはクロノス、時間の神
ユピテルはジュピター、収穫の意
クーラは気遣い、関心の意、Cura (Greek Kore)、ペルセポネーのこと
→http://www.bellissimoyoshi.net/romamito.htm

ローマ神 ギリシャ名 機能
テルス ガイア 大地女神
サトゥルヌス クロノス 農耕の神
ユピテル ゼウス ローマの最高神
プロセルピナ ペルセポネ 農業の女神、あるいはペルセポネの移入


☆☆☆☆☆
#42
»Als einst die »Sorge« über einen Fluß ging, sah sie tonhal- tiges Erdreich: sinnend nahm sie davon ein Stück und begann es zu formen. Während sie bei sich darüber nachdenkt, was sie geschaffen, tritt Jupiter hinzu. Ihn bittet die »Sorge«, daß er dem geformten Stück Ton Geist verleihe. Das gewährt ihr Jupi- ter gern. Als sie aber ihrem Gebilde nun ihren Namen beilegen wollte, verbot das Jupiter und verlangte, daß ihm sein Name gegeben werden müsse. Während über den Namen die »Sorge« und Jupiter stritten, erhob sich auch die Erde (Tellus) und begehrte, daß dem Gebilde ihr Name beigelegt werde, da sie ja doch ihm ein Stück ihres Leibes dargeboten habe. Die Streiten- den nahmen Saturn zum Richter. Und ihnen erteilte Saturn fol- gende anscheinend gerechte Entscheidung: »Du, Jupiter, weil du den Geist gegeben hast, sollst bei seinem Tode den Geist, du, Erde, weil du den Körper geschenkt hast, sollst den Körper empfangen. Weil aber die »Sorge« dieses Wesen zuerst gebildet, so möge, solange es lebt, die »Sorge« es besitzen. Weil aber über den Namen Streit besteht, so möge es »homo« heißen, da es aus humus (Erde) gemacht ist.«       p.198

Cura cum fluvium transiret, videt cretosum lutum sustulitque cogitabunda atque coepit fingere. dum deliberat quid iam fecisset, Jovis intervenit. rogat eum Cura ut det illi spiritum, et facile impetrat. cui cum vellet Cura nomen ex sese ipsa imponere, Jovis prohibuit suumque nomen ei dandum esse dictitat. dum Cura et Jovis disceptant, Tellus surrexit simul suumque nomen esse volt cui corpus praebuerit suum.
 sumpserunt Saturnum iudicem, is sic aecus iudicat: ›tu Jovis quia spiritum dedisti, in morte spiritum, tuque Tellus, quia dedisti corpus, corpus recipito, Cura enim quia prima finxit, teneat quamdiu vixerit. sed quae nunc de nomine eius vobis controversia est, homo vocetur, quia videtur esse factus ex humo.‹ 

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☆☆☆
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/cat_50024519.html

ハイデガー マルクスを語る。1969年


Martin Heidegger Critiques Karl Marx - 1969
http://jp.youtube.com/watch?v=jQsQOqa0UVc
ハイデッガー
(略)(社会の変革などということがいったいどこまでいえるのかということも問題です。)世界変革の要求を問題にするとすれば、結局、しばしば引用されるカール・マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』にある例の命題にまでさかのぼらねばなりません。
その命題を正確に引用して読み上げてみましょう。「哲学者たちは世界をいろいろと解釈したにすぎなかった。大事なことは世界を変革することだ。」
この命題を引用し、そしてまた特にこの命題に従って行動する場合、人は、世界の変革というものを前提としており、世界表象というものを十分に解釈することによってのみ得られる、とうことを見のがしています。
つまりマルクスはまったく明確な一つの世界解釈を地盤として、そのうえで世界の変革を要求しているのです。だからこの命題は決して基礎づけがしっかりなされたものだとはいえません。この命題は決然として哲学に反対しているかのように見えますが、じつはこの命題の後半には言わず語らずはっきり一つの哲学を要求する態度が前提とされているのです。
『ハイデッガーは語る』(1973年、理想社、pp78-79)


☆☆☆☆
http://www.christopherkullenberg.se/2009/08
 Die Frage nach der Forderung der Weltveränderung, fällt ja auf einem vielzitierten Satz von Karl Marx, die These über Feuerbach zurück, und ich will ungenau sie zitieren und gleich vorlesen:
”Die Philosophen haben die Welt nur verschieden interpretiert [unterstrichen], es kommt darauf an, sie zu Verändern”.
Wenn die Zitation dieses Satzes, und bei der Befolgung dieses Satzes, übersieht mann dass eine Weltveränderung voraussetzt eine Änderung in der Weltvorstellung, und dass eine Weltvorstellung nur zu gewinnen ist dadurch dass man die Welt zureichend interpretiert.
Das heisst Marx ist fusst auf eine ganz bestimmten Weltinterpretation, um seine Veränderung zu fordern. Und dadurch erweisst sich dieser Satz als nicht fundeirter Satz. Er weckt den Eindruck als sei entschieden gegen die Philosophie gesprochen während dem zweiten Teil des Satzes gerade unausgesprochen die Forderung and der Philosophie vorausgesetzt.

 Martin Heidegger im Gesprach 1970 p68~69


 マルクス|ハイデガー
_____|______

 ス  ピ  ノ  ザ

              1実体
               /\
              /無限\
             /_無限定)\
    ________/_2a属性__\________
    \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
     \   悪/___2b様態\____\善   /  
      \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
       \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
       /\対象/ /_\/_\ \認識/\
     所産的自然/物体__欲望__観念\/  \  
     /  延長\ 身体3感情/精神 /思惟  \能産的
   神/______\___\/_第三種認識____\自然
            \ 4理性  /   
             \    /
              \_徳./
               \/
              5自由

____

ハイデガーが聴いた音楽: http://wp.me/p5ELdY-ax @PhiloMandPさんから

では, 例によって例のごとく前置きが長くなってしまいましたが, このよくも悪くも 20 世紀最大の哲学者ハイデガーによる一流の恋文集から笑, いやもうこれね, すごいっすよ笑, ほんーと, 読む価値あります笑, ではでは, ハイデガーがどのような音楽をたしなんでいたかを紹介しましょう.

まずは演奏会について, ハイデガーからアーレント宛, 1925年 9 月 14 日の手紙から.

    「もしも仕事の手があいたら, 九月二一日にちょっと山を降りてフライブルクへ行ってくる---グルリットがコレギウム・ムジークムで, ドイツ・バロック音楽をプレトリウス・オルガンで演奏するのだ ( プレトリウス, シャイト, パッヘルベル, ブクステフーデ )」

    プレトリウス Michael Praetorius , シャイト Samuel Scheidt , パッヘルベル Johann Pachelbel, ブクステフーデ Dieterich Buxtehude いずれも 16 〜 17 世紀頃の音楽家で, 作曲家・オルガン奏者でした.

    この演奏会に実際に行ったのかどうか, また感想のようなものは, この書簡集にみられないのが残念ですが, なかなか素敵じゃないですか. ドイツ・バロックだなんて.

    今谷 和徳『バロックの社会と音楽 ( 上 ) イタリア・フランス編』( 音楽之友社, 1988 )
    今谷 和徳『バロックの社会と音楽 ( 下 ) ドイツ・イギリス編』( 音楽之友社, 1988 )

    ハイデガーが演奏会へ行く記録は他にも, 1951 年 2 月 6 日のハイデガーからアーレント宛の手紙にでてきます. 同年の 1 月に, カール・オルフ Carl Orff 『アンティゴネー』Antigone の上演に行っています. このソフォクレスの悲劇をもとにした音楽劇 ( オルフ自身は, 自らの音楽劇を「世界劇」と称していました ) を, ハイデガーは公演を気に入ったようで, 同じ手紙において,

    「完全にヘルダーリン訳を使った音楽。これほどのものをわたしは久しく味わったことがない」

    「オルフは所作と踊りとことばの根源的な統一にまで遡るもの、そこから激しく生まれ出てくるものを、表現することにかなり成功している。オルフはヘルダーリンをとおして、ある独自の仕方でギリシャ的なものへ到達したのだ。ある瞬間瞬間に、神々がそこにいた。」

    と評しています. これは要するにめっちゃヤバかった, と言いたいわけです.

    また前述の通り. アーレント宛の手紙の冒頭に, 楽曲名を記載してもいます. たとえば, ベートーヴェン「ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111」 ( 1950 年 4 月 12 日の手紙 ) や ,

    ハインリヒ・シェンカー ( 著 ), 山田三香 他 ( 訳 )『ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番 op.111 批判校訂版: 分析・演奏・文献』( 音楽之友社, 2014 )

    バッハ「ブランデンブルク協奏曲 第三番 第二楽章 アレグロ」( 1950 年 3 月 19 日の手紙 ) です. ブランデンブルク協奏曲は他に, 1950 年 10 月 6 日の手紙にも記述がでてきます (「第 1 番 最終楽章」) . 「この曲, 知ってる ? 」みたいなノリで笑.

    ヴェルナー・フェーリクス ( 著 ), 杉山好 ( 訳 )『バッハ』 ( 講談社学術文庫, 1999)

    いまなら LINE で Youtube の URL を紹介し合うみたいな感じでしょうか.

    このように, ハイデガーの著作から音楽についてのまとまった考察を見つけるのはなかなか難しいですが, ハイデガーは音楽をたしなんでいたことがわかります. バッハ, ベートーヴェン, そして当時の最先端だったオルフ, やっぱ音楽でもドイツ! なんですね.

    ハイデガーに, 音楽をメインにした考察がなぜ少ないのか. あるいは, ハイデガー哲学で音楽を論じるとどうなるのか. といった空想は面白いかもしれませんが… このエントリーではそこまで突っ込みません.

    秋の夜長, ブランデンブルク協奏曲を聴きながら『存在と時間』を読む…, これはちょっと相当なマルチタスク力が必要ですが笑, 両作ともスゴい密度ですので笑, ブランデンブルク協奏曲を聴きながらハイデガーとアーレントの書簡集を読む, なんてのはありかもしれませんね. いや, ないな…, 本読むときは音楽消したいしな…

参考:
アドルノ参照、音楽・文学・哲学対応表
http://nam-students.blogspot.jp/2010/06/blog-post.html

_____

http://yojiseki.exblog.jp/6388324/
後期ハイデガー:メモ
後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
それは以下の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。

      天

神々           人間たち
  

      大地


大地の隣にシュヴァルツヴァルト(黒い森)、トートナウベルクの位置する森が付け加えられてもよいだろう。
トートナウベルクには日本人留学生に教えた謝礼金で造った山小屋があったのだ。
そしてドイツとギリシアをつなぐ媒介に選ばれた詩人がヘルダーリンだった。

以下、年譜におけるハイデガーの葬儀(=1976年5月28日、死去は26日)の記述より。

《死の少し前、ヘリングラード編のヘルダーリンの詩句を、「私の墓へ告別の挨拶としてゆっく
りと単純に朗読する」ことを望み、ヘルダーリンの讃歌では「ドイツ人に寄す」、「宥和する者」、
「巨人たち」から、悲歌では「パンと葡萄酒」から選ぶことを望んだ。(略)ヘルマン・ハイ
デッガーは父の意志通りにヘルダーリンを朗読した。その結びは「パンと葡萄酒」第三節のもの
であった。》

(人類の知的遺産75『ハイデガー』芽野良男、講談社p313より)
上記に挙げられた詩はすべて全集第2巻に所収されている。以下、その一節を引用する。


童児を嘲ってはいけない、鞭を手に 拍車をつけて
かれが木馬にまたがり 自分を雄々しい
偉大なものと思っているときも。
なぜならドイツ人諸君よ、君たちも
思想に富んで行為に貧しい者なのだから。(以下略)

「ドイツ人に寄せる」  ヘルダーリン(手塚富雄訳)
(『ヘルダーリン全集2』河出書房p10より)

Spottet nimmer des Kinds, wenn noch das alberne
Auf dem Rosse von Holz herrlich und viel
sich dünkt,
O ihr Guten! auch wir sind
Thatenarm und gedankenvoll!

"An die Deutschen"    Hölderlin
http://www.hoelderlin-gesellschaft.de/index.php?id=137
(ドイツ、ヘルダーリン協会サイトより)


ラジオ、テレビ、映画(『羅生門』に関して日本人との会話で触れている)との関わり(*)が端的に指し示すような、その技術論とともにこうした民族主義も後期ハイデガーを読む上で重要になるだろう。

*追記:
ハイデガーがヘルダーリンの詩を朗読したCDが現在販売されている。

NAMs出版プロジェクト: ヘルダーリン(Friedrich Hölderlin):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/08/blog-post_22.html


《ハイデガ ーの 〈大地 、天空 、神的なものども 、死すべきものども 〉が 、 
〈実在的オブジェクト 、実在的性質 、感覚的オブジェクト 、感覚的性質 〉から成る 「四方界 」と類似している》

オブジェクトへの道 グレアム ・ハ ーマン /飯盛元章訳 現代思想2018/1

大地  天空
神的  死

現実存在と本質?
不在と現前
存在と存在者
 〈覆いをかけられた実在 〉 〈覆いをとられた実在 〉1919

   実在的オブジェクト  実在的性質    〈世界そのもの(実在) 〉1919,1949
   感覚的オブジェクト  感覚的性質    〈それとの遭遇(感覚) 〉1919,1949

  「全体としての世界 」と 「特殊な存在者 」へ 1949


          天     
              [性質]

    神々           人間たち ←(感覚的)
  
[オブジェクト]
          大地
           ↑
         (実在的)



Quadruple Object, The || Zero Books || Book Info
http://www.zero-books.net/books/quadruple-object-the





四方とは、ハイデガーの四方界<Geviert>をモチーフにしている。 

  • 単行本: 237ページ
  • 出版社: 人文書院 (2017/9/26)

[瓶から ]注がれたものを捧げることの全体に 、四者の単一性は宿りつづけている 。注がれたものを捧げることの全体が 、そもそも捧げることの全体であるのは 、それが 、大地と天空 、神的なものどもと死すべきものどもを宿りつづけさせるかぎりにおいてである 。もっとも 、宿りつづけさせるとは 、ここではもはや 、眼前的なものがただ居すわっている 、といった意味ではない 。宿りつづけさせるはたらきは 、 出来事として本有化する(エルアイグネン)  。つまりこのはたらきは 、四者をそれらに固有な本性の光のうちへもたらすのである 。この固有な本性の単一性にもとづいて 、四者はたがいに契りを結んでいる ( 2 7 ) 。

( 2 7 ) H e i d e g g e r , B r e m e r u n d F r e i b u r g e r V o r t r ä g e , 1 2 . 〔ハイデガー全集79
 『ブレ ーメン講演とフライブルク講演 』一七頁 〕

大陸実在論の未来ハイデガ ーの四方界グレアム ・ハ ーマン /高野浩之 +飯盛元章訳 現代思想臨時増刊号2018/2より孫引き



 四方構造は 、人類の思想史において広く行きわたったものであって 、多くの場合 、ふたつの別個の二元論が交差することによって成り立っている 。ここでわたしたちが探求するのは 、一見すると神秘的なハイデガ ーの四方界を協働してつくりあげている 、ふたつの二元論である 。こうした二元論のうちのひとつめは 、時として彼がそれ以外の発想をまったく持っていないかのようにさえ思われるほどに 、彼の全業績をとおして再三繰り返されるものである 。それは 、ハイデガ ーのいわばトレ ードマ ークとなっているものだ 。つまり 、不在と現前 、 〈覆いをかけること 〉と 〈覆いを取ること 〉 、隠蔽と暴露 、退隠と 「として 」構造 、道具と壊れた道具 、被投と企投 、過去と未来 、存在と存在者 、といった同様の対どうしの戯れである 。これらの対立はどれもまったくおなじだという点に注意しさえすれば 、何千ペ ージにも及ぶハイデガ ーの著作の大半を 、一挙に習得することができる 。事物は現前から退隠するが 、その一方で部分的には 、しかじかのもの 「として 」現前する 。 〈隠れること 〉と 〈露わになること 〉という反対の極は 、両義的な現在のうちで結びつく 。これこそが 、ハイデガ ーが 「時間 」という語で言わんとしていたことのすべてなのである 。ハイデガ ーにしたがえば 、 「時間 」とは 、万物の同時的な不在かつ現前なのだ 。 〔さて 〕重々しく繰り返されてきたこの二元論に 、もうひとつの二元論を補えば 、ハイデガ ーの四方構造はただちに明らかになるだろう 。しかも 、この第二の二元性をハイデガ ーのうちに見いだすのは難しいことではない 。注意を向けさえすればよいにもかかわらず 、だれもかれも嘲笑してばかりいて 、 〈大地 、天空 、神的なものども 、死すべきものども 〉にことさら注意を向けようとはしてこなかったのである 。

このように 、一九一九年のハイデガ ーは 、わたしたちに四方界を提示してくれる 。 〔だが 〕それは 、一九四九年のあまりに派手な四方界に比べると 、いくぶん地味に見える 。 〔さらに 〕一九四九年のモデルは 、ある重要な一点においても異なっているのだ 。 〔たしかに 〕一九四九年のモデルにおいても 、ひとつめの二元論は変わっていない 。それは依然として 〈世界そのもの 〉と 〈それとの遭遇 〉とのあいだにあるものだ 。だが 、ふたつめの 〔二元論の 〕軸が変化しているのである 。それは 、あらゆる対象における現実存在と本質との闘争ではなくなり 、 「全体としての世界 」と 「特殊な存在者 」とのあいだの区別へと変化しているのだ 。そして 、この区別が 、覆いをかけられた次元と覆いを取られた次元 〔という 、ひとつめの二元論 〕において反復されることになる 。大地と神的なものどもは 、 〈覆いをかけられた実在 〉の次元に属している 。というのも 、 「大地 」はつねにハイデガ ーにおいて 、まなざしから退隠して見えなくなるものに対する用語として用いられているからだ 。
ところでわたしには 、若きハイデガ ーの四方界のほうが 〔後年のものよりも 〕優れているように思われる (たしかにその提示のされ方は地味であるかもしれないが ) 。


_____

訳語比較用目次、→リンク:::::::::
ハイデガー『存在と時間』:メモ及び目次
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_26.html
リンク図解図解2辻村中公ちくまちくま対訳目次訳語比較用目次解説図
クーラの神話
参考図解別サイト
動画別サイト
『存在と時間』訳語比較用目次
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3.html
ケア

        現 存 在1
   __☆@世界=内=存在2___
  |       |       |@@
  世界3     自己4   内=存在5 時間
世界性       |       |~2:2|
環境世界      |       |   過去
場 道具全体性 開示性非本来性/ 了解   現在 瞬視
適所性     決意性本来性   良心   未来
  |       |      企投    |
  |       |       | 存在、|
  |____気遣い、関心6____| 存在論0 日常性2:4
          |____________| 時間性2:3~6

存在と時間の翻訳ラッシュは時代(今は第一大戦後に近い)の気分的なものもあるが
構造が理解されていないから訳語に必要以上にこだわるようになるということだろう
迷路を進むネズミが虱潰しに進路を試すしかないのに似ている

Heidegger, Martin 1927  ハイデガー 存在と時間
Sein und Zeit (http://www.amazon.com/dp/3484701536/)
     http://www.filestube.com/80854927318d0aa403ea,g/Heidegger-Martin-Sein-und-Zeit.html
VIII Zweites Kapitel Das In-der-Welt-sein überhaupt als Grundverfassung des Daseins ☆
寺島實仁訳 三笠書房1939~4 (ハイデッガー表記)
  第二章 生存の根本機構としての『世にあること』一般
桑木務 訳 旧岩波 1960-3 
  第二章 現存在の根本構えとしての「世界・内・存在」一般
細谷貞雄 訳  理想社1963,ちくま1994 (ハイデッガー表記)
  第2章 現存在の根本的構成としての世界=内=存在一般
松尾啓吉 訳 勁草書房、1960-66
  第二章 現存在の根本構えとしての「世界内存在」一般
辻村公一 訳『有と時』河出1967,(創文社1997) (ハイデッガー表記)
  第二章 現有の根本体制としての世界の=内に=有ること一般
原佑、渡邊二郎 共訳 中公1971,中公2003
  第二章 現存在の根本機構としての世界内存在一般
熊野純彦 訳 新岩波 2013
  第二章 現存在の根本体制としての世界内存在一般
高田珠樹 訳 作品社2013 
  第二章 現存在の基本的な体制としての世界=内=存在の全般
中山元訳 光文社古典新訳文
    ?
http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3.html#index3


なお、Seinを「有」と訳した のは和辻哲郎がはじめだそうである(「有と時」創文社)。


追加:
Heidegger, Martin 1927 
Sein und Zeit
 (http://www.amazon.com/dp/3484701536/)
  http://www.filestube.com/80854927318d0aa403ea,g/Heidegger-Martin-Sein-und-Zeit.html
         訳語例: § 5.(Temporalitaet)@熊野版第一巻141頁に解説あり、§ 35. Das Gerede @@

存在と時間 邦訳
寺島實仁訳三笠書房1939~40    (覺時性) 、第三十五節 空談(噂話)
桑木務 訳 旧岩波 1960-3      (存在時間的(テンポラル)規定性) 、第三十五節 おしゃべり
細谷貞雄 訳  理想社1963,ちくま1994    (時節性) 、第35節 世間話
松尾啓吉 訳、勁草書房、1960-66     (時性) 、第三五節 空談
辻村公一 訳(有と時) 河出1967,創文社1997  (とき的規定性)河出,(テンポラリテート)創文 、第三五節 空話(雑談)
原佑、渡邊二郎 共訳 中公1971,中公2003  (存在時性) 、第三十五節 空談
熊野純彦 訳 岩波 2013          (有時性) 、第三五節 空談
高田珠樹 訳 作品社2013       (時節性) 、第三十五節 巷談
中山元訳光文社古典新訳文庫 ?、?


『存在と時間』:図解
            現 存 在 1:1
   ________世界=内=存在________
  |1:3   1:2  |           |
  世界 ________自己1:4       内存在1:5〜2:2
  | | ____________________|\_不安 世界 内=存在
  | ||       頽      良 1:6           
  | ||被投性_了解_落_好奇心__心_企投_死_企投   内   
  | ||__/ 視____好奇心  2:2  2:1 \__存   
  | |  |__語り___空談_____沈黙___沈黙_| 在   
 世界性 \  \_情状性__曖昧性____不安___不安/  ・   
 _|_  \  気分 ・1:5  負い目・  期待・     ・
|   |  \________     ・    ・     ・
|   |       ・   |    ・    ・     ・   1:6 
環境世界|    _______|______   ・     ・   気遣い
|1:3|   |人間 ・ 共同現存在  ・ |  ・     自・・・関 心
道具  |  非本来的 ・ /共同存在  ・本来的 ・ ・ ・ 己   cura  
|   |   | 顧慮・  1:4   ・ 自己 ・     ・   Sorge 
遠ざかり|   |_開示性_______決意性__先駆的決意性 ・   |
|   |                     ・     ・   |
|\  |              道具的存在性 ・     世   |
|方域 道具全体性__道具_得させる____適所性・・・ ・ ・界   |
|/      1:3      \_適所_/   ・         |
場  非本来/本来          全体性    ・         |
   事物的存在性 配慮 配視 瞬視        ・    2:4(日常性)
     既在性________現成化_______到来_  脱自態 時間性
     過去_________現在________未来_|_____2:3 
    忘却/反復_______現前________予期_| 通俗的
                 今             2:6(内部性) 
    (事実性)      (頽落性)  0:1(実存性)  存在、存在論
                               2:5 歴史性
                             開示と解釈(歴史学)
                      0:2      |    72
     好古的歴史学_____記念碑的歴史学___批判的歴史学 
                               |
 フッサール7、10  カント6、43  アリストテレス6  |   
 デカルト  ヘーゲル    7、64    ニーチェ76__|
 18〜21 6、82          パルメニデス36、44
 43                                図、TOP
    活動し努力する者の歴史   記念碑的歴史
    保存し崇敬する者の歴史   骨董的歴史
    苦悩し解放を要する者の歴史 批判的歴史
    (ニーチェ『反時代的考察』2「生に対する歴史の利害について」2〜3、ちくま134頁より)
    以上、『存在と時間』第76節で言及されている。

「現存在とはこの「中間」の存在であるというのであれば、いくらか現象的実態に近くなるであろう。…しかしこれらの存在者をはじめから設定すると、問題の現象ははやくも、破裂してしまう…」
(ちくま文庫上287−8頁 第一篇第五章 1:5 第28節より)

/////////
/////////

Heidegger, Martin 1927 
Sein und Zeit

 (ドイツ語目次、頁数は1967年ドイツ語版 http://www.amazon.com/dp/3484701536/より)
  http://www.filestube.com/80854927318d0aa403ea,g/Heidegger-Martin-Sein-und-Zeit.html

現象学と構造主義
道教と仏教
両者の差異が重要
それぞれ前者には時間、発生論がある
仏教の論理学は唯物論的だからハイデガーには合わない

存在と時間は巨大なクラインの壺的なトートロジーであって
そこでは存在と現存在と脱自が循環している
フッサールもサルトルも現存在という一点では同居している
ただハイデガーの興味は「なぜ無ではなく有なのか」つまり
論理学外の発生論にある
仏教に発生論はないからハイデガーは仏教とはズレる
(ハイデガーと違い仏教の性起は発生論ではない)
道教には発生論がある(講談社現代新書『東洋の合理思想』参照)

ハイデガーはそのトートロジーを
構造として示した点が優れていた
存在と時間以外は解釈学になるが

発生論は本来的なものを志向しファシズムに繋がり得る
ただしハイデガーはあくまで親衛隊ではなく突撃隊
ナチズムは国家主義だから(ワイマール的官僚機構を利用した?)親衛隊が主流
突撃隊では良くも悪くもアウシュビッツを管理出来ない

なおサルトルは弁証法を信じていてハイデガーは信じていない
共に逸脱したが現象学足り得ているのは後者


右翼に皇道派と統制派があるように
(ナチに突撃隊と親衛隊があるように)
左翼にもアナキズムとマルキシズムとがある
__

『存在と時間』で現存在、つまり世界内存在をハイデガーは世界、自己、内存在の
3つのパートに分ける
投企/被投企として受動能動が議論されるのは内存在のパート。
そのあとSorge関心が3つをつなげ、時間論に引き継がれる

ハイデガーの主旨は観念論の擁護だから、唯物論を世界だけで閉じるのがポイント
そして結局唯物論的な世界は捨象されるから不可逆的な観念論、時間論が出来上がる

それに対して受動能動はスピノザの用語と考えればいい
スピノザの場合は時間が消え、実体と属性(思惟と延長)が残る
様態もコナトゥスを伴う限りで残る

スピノザ的に見ると起成原因的な定義がハイデガーの世界、自己、内存在を貫徹する
受動能動が再び哲学的な意味を取り戻す









フッサールの関心Interesseとハイデガーの気遣いSorgeが分岐する
分析哲学と観念論が対立する

ただしハイデガーは唯物論的世界を巧妙に排除しつつも全体の再帰的
構造を提示しているからあらゆる党派的な差異を内包している










ハイデガーが未完の『存在と時間』でやろうとしたことは以下でだいたいわかる。

現象学の根本問題
カントと形而上学
1923/24 現象学的研究への入門 (*デカルト関連論考)
アリストテレスの現象学的解釈

ハイデガーは、カントの構想力を時間論で置き換え、アリストテレスへの円環を完成さ
せようとしたが、ハイデガーに内在する矛盾がそれを許さなかった。
『存在と時間』以降のハイデガーは解釈学だ。その技術論も含めて。
ただし偉大な解釈学だ。

『存在と時間』は以下の構造を持つ(文字ズレごめん)

   ____世界=内=存在____
  |       |       |
  世界      自己    内=存在  時間論
世界性       |       |    |
環境世界      |       |   過去
場 道具全体性 開示性非本来性/ 了解   現在 瞬視
適所性     決意性本来性   良心   未来
  |       |      企投    |
  |       |       |  存在、
  |____気遣い、関心_____|  存在論 日常性
          |____________| 時間性


Sorgeによって3つの要素が構造的に束ねられるから、
これを特権的に取り出すのは普通の読みとして正しい。
自分は#42のクーラの神話(主題的にゲーテのファウストへつながる)を最重要視している。

受動/能動(スピノザの用語と考えるといい)に関しては一度ハイデガー哲学を解体して
スピノザに対応させる必要があるということだろう。
ネグリが似たようなことをやっているし、ドゥルーズがその土台を作った。
デリダもハイデガーによるスピノザ排除について指摘しているが、自身がスピノザを排除した。

『存在と時間』:図解(改訂版)

        現 存 在2
   ____世界=内=存在____
  |       |       |
  世界3_____自己4   内=存在5
  | | ____________|  不
  | ||    頽        \_安
  | || 了解_落__企投  内    
  | ||/視___好奇心 \・存
  | | |語り____沈黙| 在
  | | 情状性____不安/ ・  
  | |  気分   被投性  ・
 _|_ \     良心  死 ・  
|   | \____ ・  ・ ・ 気遣い  
|   | ・  __|__ ・ 自・・関心
|   | ・非本来的/本来的・・己  |
|   | ・ |   ・  ・ ・  |
|世界性| 開示性_決意性_先駆的・  |
環境世界|         決意性・  |
|   道具全体性_適所性・・・・世  |
場              ・ 界  | 
        配慮/瞬視  ・  日常性6
  既在性___現成化___到来_(脱自態)
  過去____現在____未来  時間性 
         今        内部性 
                  歴史性
               存在、存在論1

了解 企投−Entwrulf−超越
気分 被投性−Geworfenheit−事実性 


以下、#43a中公より(改行引用者)

《この世界内存在は
気遣い
といういっそう根源的な存在機構
(世界内部的な存在者のもとでの存在として・おのれに先んじて・なんらかの世界の内ですでに存在しているというあり方)をもっているのである。》

Dieses ist wesenhaft nur als innerweltliches Seiendes zugänglich. Aller Zugang zu solchem Seienden ist ontologisch fundiert in der Grundverfassung des Daseins, dem In-der-Welt-sein. Dieses hat die ursprünglichere Seinsverfassung
der Sorge
(Sich vorweg – schon sein in einer Welt – als Sein bei innerweltlichem Seienden).
  自己     世界         内存在

世界、自己、内存在

下の日本語の語順がハイデガーの構成の順序

世界内存在

という言葉にすでに全体構造の3要素がある
この(解釈次第の)入れ子構造によって
受動的能動が可能になる

そこに仏教的解釈を誘う(誘ってしまった)何かがある
ただしハイデガーの思考は仏教と違い発生論を模索する

『存在と時間』:図解(改訂版。世界と自己を内存在が調停する。)

        現 存 在2
   ____世界=内=存在____
  |       |       |
  世界3___内=存在5    自己4
  | / _共現存在/共存在___|
  || /        先駆的
  ||| 開示性_決意性_決意性
  ||| ・ |   ・  ・ 
  |||_・非本来的/本来的・・自
  ||_ ・    |   ・ 己
 _|_ |・    良心  死 ・
|   ||・気分   被投性  ・
|   ||情状性____不安  内  気遣い
|   ||/語り____沈黙\ 存・・関心
|   | |視____好奇心|・在  |
|世界性| \了解_頽__企投/ ・  |
環境世界|     落      ・  |
|   道具全体性__適所性・・・世  |
場              ・ 界  | 
        配慮/瞬視  ・  日常性6
  既在性___現成化___到来_(脱自態)
  過去____現在____未来  時間性 
         今        内部性 
                  歴史性
               存在、存在論1

関心=Sorgeの有意性は能動性というよりは、
世界、自己、内存在の3要素を総合するところにある。


85 件のコメント:

  1. 他者を精神障害者と認定することで
    自己の正常性を確認したいのだろうが、
    あまりに幼稚だ。
    求められているのは夏目漱石のような
    医者と患者の一人二役だ。
    ハイデガーも後年は文献学者だから
    小市民的で、まともすぎた。

    返信削除
  2. 『シェリング講義』書評 : 関本洋司のブログ
    http://yojiseki.exblog.jp/7590366/
    『シェリング講義』書評
    (以下、先日の日記に出てきた本の書評メモです。)

    『シェリング講義』1999年、新書館
    マルティン ハイデガー, Martin Heidegger著, 木田 元, 迫田 健一訳

    本書ではハイデガーが珍しくスピノザに言及している。
    正確にはシェリングの『人間的自由の本質』経由の間接的な言及だが、許し難い意図的なスピノザの誤読がある。

    ハイデガーはシェリングを引用し、スピノザの誤りが「神が諸事物であり」、「一個の事物であるとするところにあるのだ」(p200)とし、存在忘却の典型だとしている。
    しかし、シェリングの原書ではその先があり、「一個の事物であるところの無限的な実体の抽象的な概念的把握に、あるのである。」(世界の名著続9、p416)と続くのだ。

    シェリングもハイデガーもスピノザを批判し、それ以上に能動性の契機を見出そうとしているのだが(シェリングは上記書p410でスピノザのいう実体を「A」、個別的実体を「A/a」と記載する等正確に理解しようとしているが)、ハイデガーの方はスピノザを矮小化したうえで「ドイツ観念論」に可能性を無理矢理見出そうとしているように見える。

    それもカントの批判哲学に寄り添う形のドイツ観念論をカントのものではないと、カントを両義的に捉えるというよりも矮小化(p102,134,191)しつつ、、、(これはあるべきものの逆転であるというフランツ・バーダーの悪の定義にあてはまる。世界の名著p438)。

    カントについては置くとして、肝心な点は、ハイデガーの存在忘却の指摘が実はスピノザの論理に近いという事だ。
    例えば、p116(及びp148)に出てくるハイデガー作成の存在-神-論の図は、
    http://yojiseki.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=7590366&i=200810/21/41/a0024841_1462089.jpg

    (要素を抽出するなら、)

       存在者である限り
     
    存在者         存在者全体

        ロゴス

    というものだが(左端の「存在者」を本書では「存在者そのもの」と記しており、複数に対する単数、様態に対する実体、つまり存在者=オンではなく存在=ウーシア的なものとも理解できる)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、
    http://yojiseki.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=7590366&i=200706/17/41/a0024841_1348034.jpg


    (同じく要素を抽出するなら、)

       全論理空間  

    実体        様態

       空のクラス 

    と、上下は逆だが相似である(『論理学史』山下正男p208より。ただしハイデガーはヘーゲルと同じで最終的には排中律を取らない)。
    つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである(ニーチェですらスピノザを正しく読んでいたのに)。

    「悪」を欠如やたんなる転倒としてではなく、人間の可能的形態としての自由論、それも数学的な理性体系(p108)の中に位置づけるとするなら、スピノザの即物的で動的な「悪」の定義こそ重要になるはずだが、、、

    そもそもハイデガーがカントの遺稿に言及するなら(p92-3)そこに記されたスピノザの重要性にきづいたはずである。

    索引もあり、訳も読みやすく本書の「存在」自体はたいへん意義があると思う。

    by yojisekimoto | 2008-10-21 01:33 | ハイデガー |

    返信削除

  3. ハイデガー マルクスを語る。1969年

    Martin Heidegger Critiques Karl Marx - 1969
    http://jp.youtube.com/watch?v=jQsQOqa0UVc
    ハイデッガー
    (略)(社会の変革などということがいったいどこまでいえるのかということも問題です。)世界変
    革の要求を問題にするとすれば、結局、しばしば引用されるカール・マルクスの『フォイエルバ
    ッハに関するテーゼ』にある例の命題にまでさかのぼらねばなりません。
    その命題を正確に引用して読み上げてみましょう。「哲学者たちは世界をいろいろと解釈した
    にすぎなかった。大事なことは世界を変革することだ。」
    この命題を引用し、そしてまた特にこの命題に従って行動する場合、人は、世界の変革という
    ものを前提としており、世界表象というものを十分に解釈することによってのみ得られる、とう
    ことを見のがしています。
    つまりマルクスはまったく明確な一つの世界解釈を地盤として、そのうえで世界の変革を要求
    しているのです。だからこの命題は決して基礎づけがしっかりなされたものだとはいえません。
    この命題は決然として哲学に反対しているかのように見えますが、じつはこの命題の後半に
    は言わず語らずはっきり一つの哲学を要求する態度が前提とされているのです。
    『ハイデッガーは語る』(1973年、理想社、pp78-79)

    http://www.christopherkullenberg.se/2009/08

    返信削除
  4.         現 存 在1
       __☆@世界=内=存在2___
      |       |       |@@
      世界3     自己4   内=存在5 時間
    世界性       |       |~2:2|
    環境世界      |       |   過去
    場 道具全体性 開示性非本来性/ 了解   現在 瞬視
    適所性     決意性本来性   良心   未来
      |       |      企投    |
      |       |       | 存在、|
      |____気遣い、関心6____| 存在論0 日常性2:4
              |____________| 時間性2:3~6

    存在と時間の翻訳ラッシュは時代(今は第一大戦後に近い)の気分的なものもあるが
    構造が理解されていないから訳語に必要以上にこだわるようになるということだろう
    迷路を進むネズミが虱潰しに進路を試すしかないのに似ている

    Heidegger, Martin 1927  ハイデガー 存在と時間
    Sein und Zeit (http://www.amazon.com/dp/3484701536/)
         http://www.filestube.com/80854927318d0aa403ea,g/Heidegger-Martin-Sein-und-Zeit.html
    VIII Zweites Kapitel Das In-der-Welt-sein überhaupt als Grundverfassung des Daseins ☆
    寺島實仁訳 三笠書房1939~4 (ハイデッガー表記)
      第二章 生存の根本機構としての『世にあること』一般
    桑木務 訳 旧岩波 1960-3 
     第二章 現存在の根本構えとしての「世界・内・存在」一般
    細谷貞雄 訳  理想社1963,ちくま1994 (ハイデッガー表記)
      第2章 現存在の根本的構成としての世界=内=存在一般
    松尾啓吉 訳 勁草書房、1960-66
      第二章 現存在の根本構えとしての「世界内存在」一般
    辻村公一 訳『有と時』河出1967,(創文社1997) (ハイデッガー表記)
      第二章 現有の根本体制としての世界の=内に=有ること一般
    原佑、渡邊二郎 共訳 中公1971,中公2003
      第二章 現存在の根本機構としての世界内存在一般
    熊野純彦 訳 新岩波 2013
      第二章 現存在の根本体制としての世界内存在一般
    高田珠樹 訳 作品社2013 
       第二章 現存在の基本的な体制としての世界=内=存在の全般
    中山元訳 光文社古典新訳文
        ?
    http://nam-students.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3.html#index3


    なお、Seinを「有」と訳した のは和辻哲郎がはじめだそうである(「有と時」創文社)。


    追加:
    Heidegger, Martin 1927 
    Sein und Zeit
     (http://www.amazon.com/dp/3484701536/)
      http://www.filestube.com/80854927318d0aa403ea,g/Heidegger-Martin-Sein-und-Zeit.html
             訳語例: § 5.(Temporalitaet)@熊野版第一巻141頁に解説あり、§ 35. Das Gerede @@

    存在と時間 邦訳
    寺島實仁訳三笠書房1939~40    (覺時性) 、第三十五節 空談(噂話)
    桑木務 訳 旧岩波 1960-3      (存在時間的(テンポラル)規定性) 、第三十五節 おしゃべり
    細谷貞雄 訳  理想社1963,ちくま1994    (時節性) 、第35節 世間話
    松尾啓吉 訳、勁草書房、1960-66     (時性) 、第三五節 空談
    辻村公一 訳(有と時) 河出1967,創文社1997  (とき的規定性)河出,(テンポラリテート)創文 、第三五節 空話(雑談)
    原佑、渡邊二郎 共訳 中公1971,中公2003  (存在時性) 、第三十五節 空談
    熊野純彦 訳 岩波 2013          (有時性) 、第三五節 空談
    高田珠樹 訳 作品社2013       (時節性) 、第三十五節 巷談
    中山元訳光文社古典新訳文庫 ?、?

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  5. 存在と時間

                現 存 在 1:1
       ________世界=内=存在________
      |1:3   1:2  |           |
      世界 ________自己1:4       内存在1:5〜2:2
      | | ____________________|\_不安 世界 内=存在
      | ||       頽      良 1:6           
      | ||被投性_了解_落_好奇心__心_企投_死_企投   内   
      | ||__/ 視____好奇心  2:2  2:1 \__存   
      | |  |__語り___空談_____沈黙___沈黙_| 在   
     世界性 \  \_情状性__曖昧性____不安___不安/  ・   
     _|_  \  気分 ・1:5  負い目・  期待・     ・
    |   |  \________     ・    ・     ・
    |   |       ・   |    ・    ・     ・   1:6 
    環境世界|    _______|______   ・     ・   気遣い
    |1:3|   |人間 ・ 共同現存在  ・ |  ・     自・・・関 心
    道具  |  非本来的 ・ /共同存在  ・本来的 ・ ・ ・ 己   cura  
    |   |   | 顧慮・  1:4   ・ 自己 ・     ・   Sorge 
    遠ざかり|   |_開示性_______決意性__先駆的決意性 ・   |
    |   |                     ・     ・   |
    |\  |              道具的存在性 ・     世   |
    |方域 道具全体性__道具_得させる____適所性・・・ ・ ・界   |
    |/      1:3      \_適所_/   ・         |
    場  非本来/本来          全体性    ・         |
       事物的存在性 配慮 配視 瞬視        ・    2:4(日常性)
         既在性________現成化_______到来_  脱自態 時間性
         過去_________現在________未来_|_____2:3 
        忘却/反復_______現前________予期_| 通俗的
                     今             2:6(内部性) 
        (事実性)      (頽落性)  0:1(実存性)  存在、存在論
                                   2:5 歴史性
                                 開示と解釈(歴史学)
                                   |    72
         好古的歴史学_____記念碑的歴史学___批判的歴史学 
                                   |
     フッサール7、10  カント7、43  アリストテレス6  |   
     デカルト  ヘーゲル     、64    ニーチェ76__|
     18〜21 6、82          パルメニデス36、44
     43                                図、TOP
        活動し努力する者の歴史   記念碑的歴史
        保存し崇敬する者の歴史   骨董的歴史
        苦悩し解放を要する者の歴史 批判的歴史
        (ニーチェ『反時代的考察』2「生に対する歴史の利害について」2〜3、ちくま134頁より)
        以上、『存在と時間』第76節で言及されている。

    「現存在とはこの「中間」の存在であるというのであれば、いくらか現象的実態に近くなるであろう。…しかしこれらの存在者をはじめから設定すると、問題の現象ははやくも、破裂してしまう…」
    (ちくま文庫上287−8頁 第一篇第五章 1:5 第28節より)



    /////////
    訳語比較用目次

    Heidegger, Martin 1927 
    Sein und Zeit

     (ドイツ語目次、頁数は1967年ドイツ語版http://www.amazon.com/dp/3484701536/より)
      http://www.filestube.com/80854927318d0aa403ea,g/Heidegger-Martin-Sein-und-Zeit.html



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  6. 主な訳本

    『存在と時間』 光文社 (中山元訳)<...刊行中>
    『存在と時間』 作品社 (高田珠樹訳)
    『存在と時間』 岩波書店 (熊野純彦訳)
    『存在と時間』 岩波書店 (桑木務訳)
    『存在と時間』 中央公論新社 (原佑、渡辺二郎訳)
    『存在と時間』 勁草書房 (松尾啓吉訳)
    『存在と時間』 三笠書房 (寺島実仁訳)
    『存在と時間』 筑摩書房 (細谷貞雄訳)
    『存在と時間』 理想社 (細谷貞雄、亀井裕、船橋弘訳)
    『有と時』 創文社 (辻村公一、ハルトムート・ブフナー訳)


    「Destruktion」の訳語

    「破壊」=原&渡辺、熊野、松尾
    「解体」=細谷、桑木、高田、中山
    「構造解体」=辻村

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  7. http://d.hatena.ne.jp/watanokuni/20111103/1320550065

    Gesamtausgabe Band 12, Unterwegs zur Sprach

     第12巻『言葉への途上』(亀山健吉+グロース訳、1996/10)

     「言葉」(1950)、「詩における言葉」(1952)、「言葉についての対話より」(1953/54)、「言葉の本質」(1957/58)、「語」(1958)、「言葉への道」(1959)を収める。

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  8. 存在と時間 下 新装版2015/5/14
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  9. yoji さんが投稿 "スピノザ:インデックス" に新しいコメントを書き込みました。


    http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/forclusion.html?m=1

    スピノザとデリダ(:メモ)
    http://yojiseki.exblog.jp/8762350
    NAMs出版プロジェクト: スピノザ『神学政治論』『国家論』:メモ及び目次
    http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html


    「スピノザはハイデガーを全面的に転倒させる。」
    (「力能と存在論ーハイデッガーかスピノザか」『スピノザとわたしたち』ネグリ、
    邦訳では102頁より)

    以下、ネグリの指摘をリストにしてみる。

     A        B
    ハイデガー    スピノザ
     不安       愛
     配視       精神
     決意性      欲望
     現前       コナトゥス
     配慮       衝動
     可能性      力能


    要はハイデガーのAにスピノザはBを対置するというのである。
    「愛は配慮の場を占める」という指摘もあるようなので必ずしも左右は一対一対応
    ではないらしい。
    同様の記述が講演録「スピノザの反近代」(邦訳『68年のスピノザ』78頁)
    にもある。
    これらはハイデガーを先に読んでいた現代の読者がスピノザから受ける衝撃を上手く
    説明するものかも知れない。


    ハイデガー自身はスピノザにほとんど言及しなかったことが指摘されている。

    それをデリダは「ハイデッガーにおけるスピノザの排除(去勢)(forclusion)」と言っ ていた。
    (「正しく食べなくてはならない」あるいは主体の計算――ジャン=リュック・ナンシーとの対話」
    『主体の後に誰が来るのか?』157頁参照)


    スピノザとデリダ(:メモ)
    http://yojiseki.exblog.jp/8762350

    デリダはハイデガーを批判的に受け継いでいると言われるが、ハイデガーと同じくスピノザへの言及は少ない。
    スピノザと同じユダヤ人異教徒=マラーノでも戦略が逆なのだ。

    批判哲学を受け継ぐハイデガー=デリダのラインは、時間軸を大切にする。
    一挙に(幾何学的に)真理を把握するスピノザのような実在論は危険なのだ。スピノザの哲学を導入すればハイデガー、デリダの哲学は一瞬で終わってしまう。極端に言えば、ハイデガーはスピノザを無視することで膨大な講義が可能となり、デリダもスピノザを無視することで物書きとして延々と書き続けられたのだ。

    しかし、原理的に外部のないデリダのエクリチュールが体現するのは、後述するように、スピノザ的心身並行論以外の何ものでもない。

    歴史的にはニーチェはスピノザに親近感を覚え、ヘーゲルはスピノザの心身並行論を一挙に解消しようとし、ラカンはスピノザの決定論と平行論を精神分析の基礎に据えるなど、スピノザはカント的批判哲学の外部からは常に宵の明星のような座標であった。

    こんな重要な存在をどうして無視して来たかと言えば、スピノザを安易に援用するとそこで差異が解消し、発生論的な矛盾が解消されてしまうからであるからだが、両者が真逆であるがゆえに、ここにある種の歴史の皮肉が見出せる。

    つまり、フッサールにおける発生論の取り扱いを論ずるデリダは自らの生の条件を負の条件から逆に照射しているが、逆にテクストに外部がないというデリダのテクストは(ドゥルーズとは違って)外部と連結するスピノザのテクストとは正反対であるがゆえに、スピノザ哲学はデリダを明確に浮き彫りにするのだ。

    「いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。」(『エチカ』3:4)

    テクスト内部においてそこに内在する権力をひっくり返そうとするデリダの脱構築はハイデッガーの存在論史の読み直し(=解体、『存在と時間』より)を受け継いだものであるが、これはスピノザの言う物質が持続して存在しつづけようとする性質(=努力、コナトゥス)を浮かび上がらせる。
    むしろディコンストラクションとは、行為としては終わることのないコナトゥス(努力)そのもののことだと言ってもいい。スピノザの終わることのない心身並行論は、デリダのテクストにこそそのサンプルを見出す。

    ハーバーマスとさえ共闘したデリダは「理性に導かれる人間」として「共同の決定にしたがって生活する国家」(『エチカ』4:73)を統整的に求めたし、そのために戦ったことにおいてはスピノザと同じだと言えるし、その存在は異なるポジションにおいてお互いを照射し合う。

    デリダの死は、デリダをそのテクストから引きはがし、デリダを生物学的にユダヤ人としてスピノザと同じ引き出しに入れるだろうが、デリダのテクストは、スピノザのテクストの逆を表現するものとして隣同士に並べてもいいかも知れない。


    追記:
    本文と関係ありませんが、デリダの遺言の画像を紹介しす。


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    投稿者: yoji 、ブログ名: NAMs出版プロジェクト、日付: 5:23 午後

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  10. フッサールは『存在と時間』でハイデッガーが書いたような存在についての語り方は絶対に許さないでしょう
    いわゆる主体が現存在として他の存在と同じ平面に並んでしまう
    しかし人間の思考や認識や知覚というのはその人にとっては特別に感じるものです
    そして主体から出発しないと論理展開ができない
    その証拠にハイデッガーは主体を他の存在と同一平面上に並べてしまったから一種のトートロジーに陥っている
    だから『存在と時間』は完成できなかったんでしょう
    フッサールは私から観た世界について定点考察した
    ハイデッガーはとどのつまりどの存在も私たりえるんですよあの方法論では
    だから分析哲学の源流としてフッサールはその一人に数えられている(マイケル・ダメットより)
    ハイデッガーのあの思考形式では論文の執筆もままならないはずです
    必ずトートロジーに陥って破綻しますから
    現にハイデッガーのまともな著作というのは1冊も完成していないですから

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  11. 〜TOMOHISA SUZUMURA’S CRITICAL SPACE/鈴村智久の批評空間〜 M・ハイデッガー『哲学への寄与論稿』におけるEreignisについて

    哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻 哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻
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    秘教的な性格を持ち、読む者にこの上なき衝撃と魔力を与え続ける20世紀の哲学者マルティン・ハイデッガーの『哲学への寄与「エアアイグニスについて」』は、『存在と時間』と並んで「ハイデッガーの思索の道における二つの絶頂」(フォン・ヘルマン)とされて現代に及んでいる。 このページでは、Ereignis(エアアイグニス)とAb-grund(深淵)という二つの重要なテーマ系を、民俗学的地平へと脱領土化させることによって、「存在と時間」であった20世紀の思想から、「存在と霊」の時代へとシフトしつつある21世紀への架け橋を示す。

    「ハイデッガーの思索において本質的なのは、神々を喪失したという歴史的な経験である」by G・フィガール



     
    私自身の経緯を先に少しだけ紹介程度に記しておくと、私はカトリック教会で洗礼を受けた二十一歳の頃に集中的に創文社版の「ハイデッガー全集」を読むことをしていた。
    このページのテクストは、そのような中でもう一つの主著である『哲学への寄与論稿』を読解した結果、堆積していったものから構成されている。
    これは、ハイデッガーの『哲学への寄与』の中で最も重大な意味を持つEreignis(エアアイグニス)と、Ab-graund(深淵)という二つのテーマ系の周辺で思考される。
    もしも表題をつけるとすれば、「存在と時間」ではなく、「存在と霊」になるであろう。何故、しかし「霊」なのか。「存在」と「霊」には、いかなる親和性があるのだろうか。そもそも、「霊」とは何であるか、ということも含めて私はこれを書き残す。
    いうまでもないが、これはソーシャルメディア(ツイッターやブログその他)などで私が極めてよく目にする、「新しいスピリチュアリズム」の運動とも連関している。ハイデッガーの存在論を、二十一世紀のこれからのスピリチュアリズムの文脈で改めて把捉するということ、これには単なる哲学界の常識を越えた強力な有効性がある。


    ○ 「Ereignisとは何か?」


     エアアイグニス――。
     目下、この言葉は極めて重要である。というのは、これを後期ハイデッガーの「思索を導く主導語」とする認知が研究者のあいだでも常識となっているためだ。フォン・ヘルマンが「西洋ヨーロッパ哲学の二つの偉大な著作」の一つとして称賛する名高い『哲学への寄与論稿』(以下、略して『寄与』)のサブタイトルも、やはり「Ereignisについて」である。(創文社版全集では、「性起」と訳されているが非常に判り難い言葉である。このような漢字を当てるくらいなら、いっそプラトンのイデアやニーチェのルサンチマンと同じく、カタカナで原語の響きを高貴に響かせる方が良かったのである)。
     Ereignisの意味は何であるのか? これは『フライブルク講演』の第三講演「同一性と差異」にて詳しく記されている。もともとの原義は、er-augen(エア-オイゲン)であり、これは「見つめて自分の方へ呼ぶこと」を意味している。Ereignisは名詞形であり、意味は「出来事、事件」である。ハイデッガーの後期思想の始まる『ヒューマニズム書簡』(1947)に登場しているのはsich sreignen(生じる、起こる)という意味の再帰動詞である。
     以上から、「エアアイグニス」という言葉の意味は少なくとも理解できる。基本的に、この言葉はハイデッガーにとって無限に深い奥行きを与えられていて、「ギリシア語のロゴスや、中国語のタオと同様、翻訳不可能である」とまでいわれているのであるが、それでも存在論的な意味をエアアイグニスに与えると、かろうじて「存在が人間を呼び求めているという存在論的関係そのもの」になると今のところは解釈できるはずである。
     よくハイデッガー関連の本を読んでいて、「Kehre(転回)」という言葉を目にするが、この語の存在論的な本来的意味は、「人間と存在の相互性(呼応関係)」を指しているとされている。特に重要なテクストは、「エアアイグニスは、見えざるものの内で最も見えざるもの、単純なものの内で最も単純なもの、近いものの内で最も近いもの、遠いものの内で最も遠いものであり、我々はその中に、死すべき者として生涯滞在するのである」(『フライブルク講演』)という箇所である。
     こうした意味が明確には伝達されない謎めいた性格をエアアイグニスは持っている。それは翻訳不可能であり、表現不可能性に帰属されるテーマであるが、少なくとも「極度に見えざるもの」でありつつ、「存在と人間の関係性」を指示する語として理解できよう。もともと、この言葉にハイデッガーが憑かれたのは、ヘルダーリンの「ムネモシュネー」に由来するといわれている。

     
     Lang ist
     Die Zeit, es ereignet sich aber
     Das Wahre.


     時は
     永い、だが真なるものは
     出来事として生じる。



     ここで、sich ereignen(生じる)という言葉を詩人が使用している。この「真なるものが出来事として生起する」ことを、ハイデッガーはそのヘルダーリン論の中で「存在の露になること」と理解した。より詳しく述べると、「乏しき時代」としての現代が、「世界の転換」にどのようにして遭遇するか、いうなれば「転換」がどのように「生じる」かを意味するのである。
     重要なことに、エアアイグニスは、「時間/存在」を、与えるところのものであるとも考えられている。「時間」というのは、実質的にエアアイグニスの発現形態なのだ。
     『寄与』におけるエアアイグニスについての言及によれば、「存在は没落する者たちを必要とし、ある存在者が現象する場合には彼らを既に呼び求めており、自らに割り当ててしまっている。これが存在それ自身の本質活動であり、この本質活動を我々はエアアイグニスと名付ける」とある。このテクストが重要なのは、「存在が存在者を呼び求めている」と記されている点にあり、実はこれは原義であるer-augen(エア-オイゲン)の「見つめて自分の方へ呼ぶこと」の意味と深く重なり合っているのである。いうなれば、「存在」が我々「存在者」を「呼び求める」という、その存在それ自身の「不可視」の「活動」を、ハイデッガーは「エアアイグニス」と規定する。
     ここまでの段階で、我々はまだハイデッガーのエアアイグニスという言葉の意味を紹介しただけに過ぎない。これは繰り返すが後期ハイデッガーを語る上で避けては通れない概念である。しかし、読者はここに何故「霊」的な意味が結び付いてくるのか、頭を傾げるだろう。それを示すためには、エアアイグニスと並んで重大な意味を持つ、Ab-grund(深淵)というテーマについて考えねばならないのだ。

    返信削除
  12. http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1259.html

    http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=applpd&x=wrt&p=+%E6%80%A7%E8%B5%B7

    一 つとして取り上げられる。 また天台教学の性具に対して、. 華厳の性起が取り上げ られ丶 それぞれの教学の特色を代表す. る言葉として対置されることもある。 そして、 すでに幾多の. 先学によって性起思想に対する論考も公にされている。 もち. ろん、 この 小論 ...
    性起はいうまでもなく仏駄賊陀羅訳 『華厳経』 「宝玉如来 性起品」 に基 ...(Adobe PDF)
    www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/36/2/36_2.../_pdf
    性起はいうまでもなく仏駄賊陀羅訳 『華厳経』 「宝玉如来. 性起品」 に基ずく中国華厳 教学の中核をなす教理を表わす語. とされる。 中国華厳宗の教理を論ずる場合必らず 立ち現われ. る思想表現であり、 華厳を研究する先学は 一 再ならずこの性.

    性起(しょうき)とは - コトバンク
    https://kotobank.jp/word/%E6%80%A7%E8%B5%B7-78971
    中国、華厳(けごん)宗の学説の一つ。華厳の教学では、天地万物すべて「法界(ほっかい)」すなわち真理の顕現した世界と教えるが、これを衆生(しゅじょう)についていうとき、すべての衆生は法界を体現する仏(法身(ほっしん))と同じ性質を本来有しており、その性より生起・顕現したものであるとみて、これを「性起」という。すなわち、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)に対する華厳宗的解釈である。性起説は、天台宗の性具(しょうぐ)説(衆生の本性には仏から地獄に至る十界(じっかい)を互具していると説く)に対比される。性起はまた因縁(いんねん)生起する有染(うぜん)の諸法に対し、本性清浄な仏の働き、すなわち毘盧遮那(びるしゃな)の智(ち)と悲(ひ)の具現をいう。

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  13.               1実体
                   /\
                  /無限\
                 /_無限定)\
        ________/_2a属性__\________
        \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
         \   悪/___2b様態\____\善   /  
          \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
           \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
           /\対象/ /_\/_\ \認識/\
         所産的自然/物体__欲望__観念\/  \  
         /  延長\ 身体3感情/精神 /思惟  \能産的
       神/______\___\/_第三種認識____\自然
                \ 4理性  /   
                 \    /
                  \_徳./
                   \/
                  5自由


     マルクス|ハイデガー
    _____|______

     ス  ピ  ノ  ザ


    Martin Heidegger Critiques Karl Marx - 1969
    http://jp.youtube.com/watch?v=jQsQOqa0UVc
    ハイデッガー
    (略)(社会の変革などということがいったいどこまでいえるのかということも問題です。)世界変革の要求を問題にするとすれば、結局、しばしば引用されるカール・マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』にある例の命題にまでさかのぼらねばなりません。
    その命題を正確に引用して読み上げてみましょう。「哲学者たちは世界をいろいろと解釈したにすぎなかった。大事なことは世界を変革することだ。」
    この命題を引用し、そしてまた特にこの命題に従って行動する場合、人は、世界の変革というものを前提としており、世界表象というものを十分に解釈することによってのみ得られる、とうことを見のがしています。
    つまりマルクスはまったく明確な一つの世界解釈を地盤として、そのうえで世界の変革を要求しているのです。だからこの命題は決して基礎づけがしっかりなされたものだとはいえません。この命題は決然として哲学に反対しているかのように見えますが、じつはこの命題の後半には言わず語らずはっきり一つの哲学を要求する態度が前提とされているのです。
    『ハイデッガーは語る』(1973年、理想社、pp78-79)

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  14. Martin Heidegger Critiques Karl Marx - 1969
    http://jp.youtube.com/watch?v=jQsQOqa0UVc
    ハイデッガー
    (略)(社会の変革などということがいったいどこまでいえるのかということも問題です。)世界変革の要求を問題にするとすれば、結局、しばしば引用されるカール・マルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』にある例の命題にまでさかのぼらねばなりません。
    その命題を正確に引用して読み上げてみましょう。「哲学者たちは世界をいろいろと解釈したにすぎなかった。大事なことは世界を変革することだ。」
    この命題を引用し、そしてまた特にこの命題に従って行動する場合、人は、世界の変革というものを前提としており、世界表象というものを十分に解釈することによってのみ得られる、とうことを見のがしています。
    つまりマルクスはまったく明確な一つの世界解釈を地盤として、そのうえで世界の変革を要求しているのです。だからこの命題は決して基礎づけがしっかりなされたものだとはいえません。この命題は決然として哲学に反対しているかのように見えますが、じつはこの命題の後半には言わず語らずはっきり一つの哲学を要求する態度が前提とされているのです。
    『ハイデッガーは語る』(1973年、理想社、pp78-79)


     マルクス|ハイデガー
    _____|______

     ス  ピ  ノ  ザ

                  1実体
                   /\
                  /無限\
                 /_無限定)\
        ________/_2a属性__\________
        \知 抑制  / 小←/\→大 完全性  至福/
         \   悪/___2b様態\____\善   /  
          \受動/\悲しみ_/\_喜び /\能動/
           \/ 憎しみ \努力/ 愛/  \/
           /\対象/ /_\/_\ \認識/\
         所産的自然/物体__欲望__観念\/  \  
         /  延長\ 身体3感情/精神 /思惟  \能産的
       神/______\___\/_第三種認識____\自然
                \ 4理性  /   
                 \    /
                  \_徳./
                   \/
                  5自由

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  15. ★ ハイデガーは なぜ「ナチ党員」だったのか ★
    286 :考える名無しさん:2012/07/23(月) 00:21:31.13 P
    466 :age :sage :2011/12/10(土) 00:10:32.53 P


    ハイデガーは下からの革命を支持したので、議会も選挙も拒否した。むろん官
    僚制(=統治の代理人)も。
    選挙、代理人の拒否は表象の拒否を意味するので、ハイデガーの思想と深く関わる。
    端的に言えば、実在論的存在(表象されるもの)と唯名論的存在者(表象す
    るもの)の差異は自らの決断による以外には埋まることがないという思想だ。
    (「いいかえると、投票はするが、それは代表制(議会)における投票のごと
    きものではない、というのです」柄谷『戦前の思想』)。

     ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。
     ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ
     し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくて
     むしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそ
     うしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる
     直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろう
     としているのは他でもない、自分自身の未来なのである。
     (「アドルフ・ヒットラ~と国家社会主義体制を支持する演説」1933年)
     (p)http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-606.html

    興味深いことに、柄谷はハイデガーが突撃隊を支持したことを、西田幾多郎が
    海軍に加担したことと比較している(定本5巻232頁)。
    ハイデガー批判は盛んだが、西田への批判は十分ではない、、、ということは
    日本人は未だに自分の姿が見えていないということでもある。




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  16. ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。 (「アドルフ・ヒットラ~と国家社会主義体制を支持する演説」1933年)

    これは、深遠な形而上学がどのような政治とつながるかを端的に示している。ハイデッガーにとっては、指導者を「選ぶ」といった自由主義的原理そのものが否定されなければならないのであり、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにある。そのときのみ、「民族の全体」の「本来の在り様」としての真理があらわれる、というのである。表象representationとしての真理観を否定することは、議会(=代表制representation)を否定することに導かれる。(柄谷行人『終焉をめぐって』p167)

    http://kaie14.blogspot.jp/2014/12/blog-post_80.html


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  17. おのがじし【己がじし】の意味 - goo国語辞書
    dictionary.goo.ne.jp/jn/32411/meaning/m0u/
    おのがじし【己がじし】とは。意味や解説、類語。[副]《「己 (おの) が為 (し) 為 (し) 」の意》 各自がめいめいに。それぞれに。「彼等は―勝手な真似をするだろう」〈漱石・草枕〉 - goo国語辞書は27万語以上を収録。政治・経済・医学・ITなど、最新用語の追加も定期 的 ...

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  18.  
     関口存男というのも無茶苦茶だ。何も知らない人間が読んだら、含蓄があるかもしれないなどと勘違いする可能性あり。
    そもそもゾルゲの構造を引用しながら、<投企と被投性と頽落>が個々に言われている、という意識すらないのだから、どうしようもない。


    http://blog.goo.ne.jp/maxikon2006/e/d2f1caebd771268ea368463a88c2abe4
    *************************************************************************
    02、「存在と時間」は再帰構造の展開

    Sich vorweg schon sein in einer Welt bei innerweltlich begegnendem Seienden.

     ハイデッガーを知らない人にはもちろん何の事だか分かる筈はない。けれども、これだけの文句をよく覚えていて、この文句の説明を一言一句に聴取せんとする心構えを以て、
    その『存在と時間』を読んでいけば、いずれは分かる事請け合いです。

     問題はこのsich vorweg(己自身に先んじて離れて)という一句ですが、この場合は、主語として考えられる自我とsich によって意味される自我とは、ハイデッガーの考えとしては全然別物です。

     また別物であればこそvorweg という事が言いうるのであり、また、別物だと区別を立てて関係を明らかにしたところにハイデッガーのシステム〔哲学体系〕があるのです。

     ハイデッガーの考え方によると、自我というものが、本来の自我(das eigentliche Selbst)と、本来ならざる自我(das uneigentliche Selbst又は das Man-Selbst)とに分かれる。

     すると、sich vorwegにおいては、sich によって指されているのはそのどっちかという疑問が当然起こって来なければならない。

     同時にsich は、その主語の方を考えさせるから、では主語の方はsich とは違った自我を指すであろうという事は当然考えられる。

     その問題は、ハイデッガーの論旨を知る人は、その次のschon sein in einer Welt 云々から考えれば当然判明する如く、
    sich によって指されているのが本来の自己であって、sein という不定法の主語として考えられる方が das Man-Selbst を指すであろう事は明白です。

    返信削除
  19. >ハイデッガーの考え方によると、自我というものが、本来の自我(das eigentliche Selbst)と、本来ならざる自我(das uneigentliche Selbst又は das Man-Selbst)とに分かれる。

    > すると、sich vorwegにおいては、sich によって指されているのはそのどっちかという疑問が当然起こって来なければならない。

     そういう疑問は起こしてはならない。ゾルゲの構造は、本来性と非本来性の別を問わないからだ。

     そういう話は時間性に行ってから。

     だから第41節をきっちり読まないと駄目だよと言っている。適当に自分の脳ミソでこねくり回して、これがハイデガーの言ってることだとやる。それは害毒でしかない。

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  20. EditWatch this page
    Bracketing (phenomenology)
    Bracketing (German: Einklammerung; also called epoché, transcendental reduction, or phenomenological reduction) is a term in the philosophical movement of phenomenology describing the act of suspending judgment about the natural world to instead focus on analysis of experience.



    エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。

    懐疑主義においては、エポケーは“suspension of judgment“「判断を留保すること」を意味する。もし真理が到達不可能なものだったり、到達しにくいものだったりするなら、判断を急ぎすぎるとかならず誤ることになるであろうからである。

    フッサールおよび現象学においては、エポケーは世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。

    精神分析学において、エポケーは現実に対するあらゆる判断を留保することを意味する。これによって治療者の幻想と無意識の世界をうまく航行できるようにするのである。

    執筆の途中です この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。

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  21. 存在と時間の全体構成

    第1部 現存在の解釈と時間の解明
    第1編 現存在の基礎分析 ← 41節
    第2編 現存在と時間性
    第3編 時間と存在

    第2部 存在論の歴史の現象学的解体
    第1編 カントの時間論について
    第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
    第3編 アリストテレスの時間論について

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  22. 2016年1月21日 ... フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以後『危機』)において、「関心( Interesse)」概念を、現象学の「無関心な傍観者(uninteressierter Zuschauer)」という 態度を特徴づけるための、対比概念として使用している。フッサール ...
    雑誌『フッサール研究』 Husserl Studies in Japan
    husserl.exblog.jp/
    2016年4月12日 ... フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以後『危機』)において、「関心( Interesse)」概念を、現象学の「無関心な傍観者(uninteressierter Zuschauer)」という 態度を特徴づけるための、対比概念として使用している。フッサール ...

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  23. ハイデガー

    #6,37,48
    Interesse 関心と

    #41,42
    Sorge気遣いとを使い分けている

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  24. フッサールの関心Interesseとハイデガーの気遣いSorgeが対立する
    分析哲学と観念論が対立する

    ただしハイデガーは唯物論的世界を巧妙に排除しつつも全体の構造を提示しているから
    あらゆる党派的な差異を内包させる

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  25. フッサールの関心Interesseとハイデガーの気遣いSorgeが対立する
    分析哲学と観念論が対立する

    ただしハイデガーは唯物論的世界を巧妙に排除しつつも全体の再帰的
    構造を提示しているからあらゆる党派的な差異を内包している

    返信削除
  26. フッサールの関心Interesseとハイデガーの気遣いSorgeが分岐する
    分析哲学と観念論が対立する

    ただしハイデガーは唯物論的世界を巧妙に排除しつつも全体の再帰的
    構造を提示しているからあらゆる党派的な差異を内包している

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  27. 宗教学研究室紀要 - 京都大学大学院文学研究科・文学部 (Adobe PDF) -htmlで見る
    www.bun.kyoto-u.ac.jp/wp.../rel-annual2009-the-full-text.pdf
    ハイデッガーの「近さ」とアーレントの「人類・地球」─. 氣多雅子 .... そこで我々が導 かれるのは、ベルクソンの「持続(durée)」の概念やフッサールの現象学に. よって拓 ... るのは、現存在の「配慮(Besorgen)」と呼ばれる気遣い(Sorge)である。 ..... は『生き られる時間』(1933年)の序で、率直に彼の問題関心がそのような危惧に基づ ...... な 関心とより高い認識に対する真剣な愛(das philosophische Interesse und die ernstliche Liebe.
    教育関係論から見た学校の地平 - 東京学芸大学リポジトリ (Adobe PDF)
    ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/130144/.../DK_2012_191.p...
    本研究は、オブジェクティブな経験世界から―具体的には、ハイデガー的な意味での「 ケア」(Sorge). の意味圏域に ..... スタンスである。 こうした実践論的関心から存在論的 関心への蝶番の役割を果たすのが、「臨床」という概念である。 ...... 一方、フッサールの 「志向性」(intentionnalité)は、対象を把持する意識のあり方を指してい. る。重要な違い ..... ての「関心」(interesse)が漲っている。そこに実現して ...... 気遣いや不安として 現れる何ものかについての意識から、「死に臨む存在」という本来性の自覚を導い. たが 、この ...
    最も的確な結果を表示するために、表示されている検索結果と似たページを除いています。

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  28. 存在と時間の全体構成

    第1部 現存在の解釈と時間の解明
    第1編 現存在の基礎分析 ← 41節
    第2編 現存在と時間性
    第3編 時間と存在

    第2部 存在論の歴史の現象学的解体
    第1編 カントの時間論について
    第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
    第3編 アリストテレスの時間論について


    現象学の根本問題
    https://www2.chuo-u.ac.jp/philosophy/res/heide10.html
    マルティン・ハイデガー 著 / 木田元 監訳 ・ 平田裕之 ・ 迫田健一 訳 (作品社 2010年12月刊)
    Martin Heidegger, Die Grundprobleme der Phänomenologie ――1927年夏学期マールブルク大学講義(未完の講義録から訳出)
    「哲学は存在についての学である。
     未完の主著『存在と時間』の欠落を補う最重要の講義録。 アリストテレス、カント、ヘーゲルと主要存在論を検証しつつ時間性に基づく現存在の根源的存在構造を解き明かす。」(―本書・帯より)
    ■目  次■
    序 論 主題の提示と全体区分/哲学の概念。学校概念と世界概念/存在の学としての哲学/四つのテーゼ/存在論の方法的性格。現象学的方法の三つの根本要素/全体の構成
    第一部  存在に関するいくつかの伝統的テーゼについての現象学的批判的な論究
    第一章  カントのテーゼ「存在はレアールな述語ではない」
    第一節 カントのテーゼの内容
    第二節 カントによって与えられた存在の概念、あるいは現実存在の概念の説明を現象学的に分析する
    第三節 このテーゼの問題内容をもっと原理的に捉え、もっと根本的に根拠づける必要があることを証示する
    第二章  アリストテレスにまで遡る中世存在論のテーゼ「存在者の存在構造には
    、つまり本質存在(エッセンティア)と、可能な事物的眼前存在、つまり事実存在(エクシステンティア)が属する」
    第四節 第二テーゼの内容とこのテーゼについての伝統的な議論
    第五節 第二テーゼの根底にひそむ問題を現象学的に明らかにする
    第六節 伝統的な問題の論じ方が不十分にしか基礎づけられていないことを証示する
    第三章 近代存在論のテーゼ「存在の根本様態は、自然の存在つまり
    広ガリノアルモノ(レス・エクステンサ)と、精神の存在つまり思考スルモノ(レス・コギタンス)である」
    第七部 広ガリノアルモノ(レス・エクステンサ)と思考スルモノ(レス・コギタンス)の存在論的区別を、この問題についてのカントの見解を手がかりにして特徴づける
    第八節 カントの解決を現象学的に批判し、原理的な問題設定が必要であることを証示する
    第九節 存在様態の多様性と存在概念一般の統一という原理的問題
    第四章 論理学のテーゼ「すべての存在者はそのつどの存在様態には関わりなく
    『である』(イスト)によって語られうる」。繫辞(コープラ)としての存在(ある)
    第十節 論理学の歴史の経過なかで登場してきたいくつかの特徴的な究明の仕方を引き合いに出して、繫辞という存在論的問題を特徴づける
    第十一節 繫辞としての存在(ある)と、言明という現象学的問題
    第十二節 言明の真理、真理一般の理念と、存在の概念に対するそれらの関係

    第二部 存在一般の意味についての基礎存在論的な問い。存在の根本諸構造と根本諸様態
    第一章  存在論的差異の問題
    第十三節 時間と時間性
    第十四節 時間性とテンポラリテート
    第十五節 テンポラリテートと存在
    第十六節 存在と存在者(存在論的差異)

    訳者あとがき
    訳註 / 人名・書名索引 / 内容目次・訳語対照
    *木田元=中央大学文学部名誉教授[哲学] / 迫田健一=中央大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程満期退学

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  29. ハイデガー『現象学の根本問題』、作品社版は一味違う : ウラゲツ☆ブログ
    http://urag.exblog.jp/11631109/
    はハイデガーの主著である『存在と時間』の刊行直後にマールブルク大学で行われた1927年の夏学期の講義です。未完かつ未刊である『存在と時間』の続き、すなわち第一部第三篇「時間と存在」の仕上げとして位置づけられています。既訳には、創文社版『ハイデッガー全集(24)現象学の根本諸問題』(溝口兢一+松本長彦+セヴェリン・ミラー訳、創文社、2001年)がありますが、今回の作品社版は底本が違います。創文社版はクロスターマン社版全集の記念すべき第1回配本(1975年)である第24巻が底本。一方、作品社版は、講義の速記録(未公刊、私家版のみ存在)が底本です。この速記録は講義を聴講していた日本人留学生がドイツ人学生に速記とタイプ刷りを依頼したものだそうです。加筆訂正された全集版とは異なっており、さらに省略されている講義冒頭の「前回のおさらい」や最後の「次回予告」が残されています。

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  30. wiki
    序論第2章8節「論証の構図」で明らかにされる『存在と時間』の全体的構成の概要はおおむね以下の通りである。

    第1部 現存在の解釈と時間の解明
    第1編 現存在の基礎分析
    第2編 現存在と時間性
    第3編 時間と存在
    第2部 存在論の歴史の現象学的解体
    第1編 カントの時間論について
    第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
    第3編 アリストテレスの時間論について
    このうち、実際に書かれたのは第1部第2編までにすぎず、そこで論じられているのは現存在と時間性についてである。序論以降ハイデッガーが何度も言明している「存在一般についての問い」に関する考察が書かれるべき〈本論〉は第1部第3編「時間と存在」という、書名自体にも似た標題をもつ章であると考えられるが、そこでハイデッガーが何を書くつもりであったのか、なぜそこへ至る前に中断されてしまったのかは長いあいだ謎とされてきた。

    ナトルプ報告 編集
    ハイデッガー自身の証言などから、1923年には『存在と時間』の草稿が書かれていたことが知られていたが、その所在は長らく不明だった。同年にハイデッガーはフライブルク大学の非常勤講師からマールブルク大学への異動が決まっており、そのさいに現在執筆中の著書の概要をまとめたものを審査論文として提示するよう要求され、『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』と題した論考をパウル・ナトルプへ提出していた(通称「ナトルプ報告」)。この論考が『存在と時間』の初期草稿に当たるのではないかと推測する向きと、「アリストテレスの現象学的解釈」と『存在と時間』がいかなる関係をもつのか疑問視する向きとがあったが、この「ナトルプ報告」も行方不明となっていたため結論は出なかった。しかし1989年、マールブルク大学と同時期にやはりハイデッガーを招聘しようとしていたゲッティンゲン大学のゲオルク・ミッシュに提出した同内容の論考が発見され、その内容から「ナトルプ報告」が『存在と時間』の初期草稿であるとする推測の正しかったことが証明された。そこで明らかにされている本論はアリストテレスの読解を通した古代ギリシアから中世を経て近代に至る存在論、ひいては西洋哲学全体の読み直しであり、問題の第1部第3編「時間と存在」はこの歴史的考察の基盤となるものであること、また序論はその準備段階にすぎないものであること、したがって実際に刊行された『存在と時間』は長大に膨れ上がった序論が本論へたどりつく前に中断されたものであることなどが明らかになった[1]。

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  31. 1923/24 (2)
    現象学的研究への入門

    返信削除
  32. 19-44) 現象学的研究への入

    著者名等  ハイデッガー/〔著〕  ≪再検索≫
    著者名等  辻村公一/〔ほか〕編  ≪再検索≫
    出版者   創文社
    出版年   2001.07
    大きさ等  22cm 350,13p
    注記    Einfu¨hrung in die pha¨nomenologische Fo
    rschung.
    NDC分類 134.9
    目次   
    第1部 アリストテレスにおけるファイノメノンとロゴス、フッサールによる現象学の自
    己解釈(アリストテレスへ遡っての「現象学」という表現の解明;フッサールによる自己
    解釈での今日の現象学);
    第2部 デカルトと彼を規定しているスコラ学的有論とへの回
    帰(これまで行われてきたことを回想する仕方での、デカルトへの回帰についての了解;
    デカルト。認識された認識への関心の開示的有の如何にと何;偽と真のデカルトによる規
    定 ほか);
    第3部 現有の明示としての有の問いの怠りの立証(確実性の関心によって
    の、思考スルモノの特種な有への問いの遮り;思考スルモノの確実有へのデカルトによる
    問いの提起とフッサールの現象学の主題的領野としての意識の有性格の無規定;現象学の
    主題的領野に対しての有の問いのフッサールによるより根源的な怠りと現有をそれの有に
    ついて見かつ説明するという課題)
    内容    索引あり

    返信削除

  33. 著者名等  マルティン・ハイデガー/著  ≪再検索≫
    著者名等  高田珠樹/訳  ≪再検索≫
    著者等紹介 【ハイデガー】1889~1976年。フライブルク大学で神学、哲学を修め、15年同
    大学私講師となり、フッサールに師事。23年にマールブルク大学教授となる。28年フ
    ライブルク大学教授、33年同大学総長に就任するが、1年で辞任。ドイツの哲学者。
    著者等紹介 【高田】1954年生まれ。現在、大阪大学教授。専攻はドイツ思想史、哲学。
    出版者   平凡社
    出版年   2008.2
    大きさ等  20cm 224p
    注記    Pha¨nomenologische Interpretationen zu A
    ristoteles./の翻訳
    NDC分類 134.9
    要旨    『存在と時間』の原型となった若きハイデガーの幻の草稿「ナトルプ報告」、初の邦訳単
    行本化。
    目次    アリストテレスの現象学的解釈(解釈学的状況の提示;『ニコマコス倫理学』第六巻;『
    形而上学』第一巻の第一章と第二章;『自然学』第一巻から第五巻;第二部について、『
    形而上学』第七巻、第八巻、第九巻の解釈);ハイデガーの初期「神学」論文(ハンス=
    ゲオルク・ガダマー);付録 『ナトルプ報告』の成立とその位置
    内容    『存在と時間』の原型であると同時に、「存在」と「真実」についての原モチーフが初め
    て現れた、ハイデガー哲学誕生の原点。若きハイデガーの幻の草稿「ナトルプ報告」、初
    の邦訳単行本化。
    ISBN等 4-582-70277-5

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  34. 0-76) カントと形而上学
    の問題
    著者名等  ハイデッガー/〔著〕  ≪再検索≫
    著者名等  辻村公一/〔ほか〕編  ≪再検索≫
    出版者   創文社
    出版年   2003.11
    大きさ等  22cm 310,8p
    注記    Kant und das Problem der Metaphysik./の翻訳
    NDC分類 134.9
    目次   
    第1章 発端における形而上学の根拠づけ(形而上学の伝承的概念;伝承的形而上学の根拠づけの発端 ほか);
    第2章 遂行における形而上学の根拠づけ(形而上学の根拠づけの遂行のための還帰次元の特徴づけ;オントロギーの内的可能性の企投の遂行の諸段階)
    第3章 その根源性における形而上学の根拠づけ(根拠づけにおいて置かれた根拠の明確な特徴づけ;二つの幹の根としての超越論的構想力 ほか);
    第4章 回復における形而上学の根拠づけ(人間学における形而上学の根拠づけ;人間における有限性の問題と現有の形而上学 ほか);
    付録

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  35. ハイデガーが未完の『存在と時間』でやろうとしたことは以下でだいたいわかる。

    現象学の根本問題
    カントと形而上学
    1923/24 現象学的研究への入門 (*デカルト関連論考)
    アリストテレスの現象学的解釈


    ハイデガーは、カントの構想力を時間論で置き換え、アリストテレスへの円環を完成さ
    せようとしたが、ハイデガーに内在する矛盾がそれを許さなかった。
    『存在と時間』以降のハイデガーは解釈学だ。その技術論も含めて。
    ただし偉大な解釈学だ。

    返信削除

  36. 存在と時間は以下の構造を持つ(文字ズレごめん)

    『存在と時間』:図解

            現 存 在2
       ____世界=内=存在____
      |       |       |
      世界3_____自己4   内=存在5
      | | ____________|  不
      | ||    頽        \_安
      | || 了解_落__企投  内    
      | ||/視___好奇心 \・存
      | | |語り____沈黙| 在
      | | 情状性____不安/ ・  
     _|_ \(気分)  良心 死 ・  
    |   | \____ ・  ・ ・ 気遣い  
    |   | ・  __|__ ・ 自・・関心
    |   | ・非本来的/本来的・・己  |
    |   | ・ |   ・  ・ ・  |
    |世界性| 開示性_決意性_先駆的・  |
    環境世界|         決意性・  |
    |   道具全体性_適所性・・・・世  |
    場              ・ 界  | 
            配慮/瞬視  ・  日常性6
      既在性___現成化___到来_(脱自態)
      過去____現在____未来  時間性 
             今        内部性 
                      歴史性
                   存在、存在論1


    Sorgeによって3つの要素が構造的に束ねられるから、
    これを特権的に取り出すのは普通の読みで正しい。
    自分は#42のクーラの神話を最重要視している。

    返信削除
  37. 『存在と時間』は以下の構造を持つ(文字ズレごめん)

       ____世界=内=存在____
      |       |       |
      世界      自己    内=存在  時間論
    世界性       |       |    |
    環境世界      |       |   過去
    場 道具全体性 開示性非本来性/ 了解   現在 瞬視
    適所性     決意性本来性   良心   未来
      |       |      企投    |
      |       |       |  存在、
      |____気遣い、関心_____|  存在論 日常性
              |____________| 時間性


    Sorgeによって3つの要素が構造的に束ねられるから、
    これを特権的に取り出すのは普通の読みで正しい。
    自分は#42のクーラの神話を最重要視している。

    返信削除

  38. 『存在と時間』は以下の構造を持つ(文字ズレごめん)

       ____世界=内=存在____
      |       |       |
      世界      自己    内=存在  時間論
    世界性       |       |    |
    環境世界      |       |   過去
    場 道具全体性 開示性非本来性/ 了解   現在 瞬視
    適所性     決意性本来性   良心   未来
      |       |      企投    |
      |       |       |  存在、
      |____気遣い、関心_____|  存在論 日常性
              |____________| 時間性


    Sorgeによって3つの要素が構造的に束ねられるから、
    これを特権的に取り出すのは普通の読みで正しい。
    自分は#42のクーラの神話(主題的にゲーテのファウストへつながる)を最重要視している。

    返信削除
  39. 受動能動に関しては一度ハイデガー哲学を解体して
    スピノザに対応させる必要があるということだろう。
    ネグリが似たようなことをやっているし、ドゥルーズがその土台を作った。
    デリダもハイデガーによるスピノザ排除について指摘しているが、自身がスピノザを排除した。

    返信削除
  40.        ドゥルーズ
       ハイデガー    ニーチェ
     カント
                   スピノザ

    スピノザとハイデガーの関係を検証する前に
    スピノザとカント、
    具体的にはカントの遺稿が検証されなければならない
    ドゥルーズは判断力批判どまりだから

    スピノザ哲学は王道で批判哲学は傍流
    自動車でブレーキやハンドルよりエンジンがアポリアであることに似ている
    スピノザが明確になればニーチェも、ライプニッツも明確になる

    返信削除
  41. アリストテレス
    思慮
    プロネーシス

    返信削除
  42. このコメントは投稿者によって削除されました。

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  43. http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11138642321

    【100枚】アリストテレスの時間論はどんな内容なのか詳しく教えて下さい...
    プロフィール画像
    angelic_chakochanさん 2014/11/25 12:06:59
    【100枚】アリストテレスの時間論はどんな内容なのか詳しく教えて下さい。

    出来る限り分かりやすく教えて頂ければ幸いです。
    回答数:1 閲覧数:375 お礼:知恵コイン100
    違反報告
    ベストアンサー
    プロフィール画像
    fieskrlqrtlmnczairkさん 2014/11/25 13:49:35
    アリストテレスの「自然学」第4巻、第3章「時間とは何であるか」で次のように言っています。

    「時間は運動に対して、その性格において準じるからであり、運動における・より先とより後・はその存在主体からいえば運動そのものに他ならないが、しかし、その定義のされ方は別であって、運動と同じものではない。そしてわれわれが時間を識別するのは運動を、より先とより後の区別によって区分するときに他ならない。つまり時間とは、より先とより後の区別に基づくに他ならないからである。したがって時間は運動そのものではなく、数をもつ限りおいての運動なのである」

    言っていることは、運動は連続しているけど、時間はその運動を、より先とより後に分割して、それを数えることだ、ということです。
    アリストテレスは時間は出来事の前後関係、因果関係だと言っていることになります。
    出来事のより先とより後を認識するための、一種の「枠組み」を時間と考えていた、ということ。
    違反報告
    質問した人からのコメント2014/11/30 22:20:40
    感謝 分かりやすくお答え頂きありがとうございました!
    55歳からの包茎問題を考える

    返信削除
  44. アリストテレスの現象学的解釈―『存在と時間』への道 | マルティン ハイデガー, Martin Heidegger, 高田 珠樹 | 本 | Amazon.co.jp
    https://www.amazon.co.jp/dp/4582702775


    5つ星のうち 4.0大きな矛盾を抱えている人の切れ味鋭い処女作という感じでしょうか
    投稿者 ib_pata トップ1000レビュアーVINE メンバー 投稿日 2012/6/23
    形式: 単行本 Amazonで購入
     ギリシャ=キリスト教的な生の釈意はドイツ観念論の哲学的人間学を規定しており、フィフテ、シェリング、ヘーゲルは神学の出身で、その神学は改革派に属するものだが、ルターの根本姿勢はトマスとボナウェントゥラが神学に提供した概念的な方策に依拠しており、そうなるとこうした神学が設定した生の現存在の理念は、アリストテレスに基づいている、というのが、ハイデガーの問題意識(p.47)。

     こうした西洋人間学の歴史を根源的に遡り、存在論上・論理学上の中心的な構造を浮き彫りにするためには、アリストテレス哲学に関して、根本的な現象学的人間学に定位した解釈が用意されてのみ、成し遂げられる、と(p.49-)。アリストテレスにとって、存在とは何の謂いなのかというと、それは「存在とは製作(ポイエーシス)されているの謂い」である、と。さらに、存在真実化の様態がテクネーであり、実践的な知である思慮(プロネーシス)と観想的な智慧(ソフィア)が重要な役割を果たす、と。思慮については《その目的のために有用かどうか注視すること》なんて書いてます(p.72)。ものすごく具体的な、接触感のある認識方法だと感じるのは、ユクスキュルの環境世界理論から影響されているからなんでしょうかね。ここから《人間の生とは、その都度それぞれ別様で在りうるというまさにそのことによって存在している存在者なのである》(p.75)として、動性の時間的性格も引き出している、と。

     ナトルプはプラトンに社会改革という視点から接近し、プラトンの『国家』の議論の中心は教育、社会的教育にあるとしているそうですが、こうした疑似哲学的な立場から遠いはずのハイデガーも大学総長就任演説で不意にプラトンを引用してしまったりしたのは、時代のなせるワザなんですかね…。

    返信削除
  45. ついに日本語訳単行本化:ハイデガー『アリストテレスの現象学的解釈』、平凡社より : ウラゲツ☆ブログ
    http://urag.exblog.jp/6819878/
    a0018105_23423181.jpgアリストテレスの現象学的解釈――『存在と時間』への道

    マルティン・ハイデガー:著 高田珠樹:訳
    平凡社 08年2月 定価2,940円 46判上製カバー装232頁 ISBN978-4-582-70277-4

    帯文より:『存在と時間』の原型となった若きハイデガーの幻の草稿「ナトルプ報告」、初の邦訳単行本化。「若きマルティン・ハイデガーの草稿、それも本人の偉大な活動の始まりを示す原稿が出てきたというのは、まことにひとつの事件というほかない。……このアリストテレス理解は真にひとつの革命を引き起こすことになった。アリストテレスが、われわれのいる場に立ち現われ、われわれに向かって本当に語り始めたのである」(ハンス=ゲオルク・ガダマー:本書より)。

    底本:"Phänomenologische Interpretationen zu Aristoteles (Natorp-Brecht)", hrg. von Günther Neumann, Reclam, 2003.

    目次:
    アリストテレスの現象学的解釈
     序にかえて
     解釈学的状況の提示
      『ニコマコス倫理学』第六巻
      『形而上学』第一巻の第一章と第二章
      『自然学』第一巻から第五巻
      〔第二部について、『形而上学』第七巻、第八巻、第九巻の解釈〕

    ハイデガーの初期「神学」論文 (ハンス=ゲオルク・ガダマー)
    編者あとがき (ギュンター・ノイマン)
    付録『ナトルプ報告』の成立とその位置 (高田珠樹)
    訳者あとがき

    ***
    発売は来週月曜日、2月25日ごろのようです。「編者あとがき」や「付録」「訳者あとがき」を参照すると、本書の成立はおおよそ次のようになるかと思います。

    新カント派の代表的哲学者の一人であるパウル・ナトルプの求めに応じて、マールブルク大学への就職のため自らの目下の研究内容を端的にまとめた「アリストテレス序論」、それが本書「ナトルプ報告」の名前の由来です。本稿は結局序論にとどまり、本編は執筆されませんでしたが、彼が試みた思索はやがて代表的著作『存在と時間』に結実します。その前哨地として長らく幻の草稿とされてきた「ナトルプ報告」が初めて公刊されたのは、ハイデガーの生誕百周年となる1989年でした。

    高田珠樹さんによる初の日本語訳が発表されたのは、岩波書店の月刊誌「思想」813号(92年3月)でした。底本は89年に『ディルタイ年鑑』第6号に掲載されたいわゆる「ミッシュ・タイプ稿」です。「序論」はマールブルク大学に送付されると同時に、ゲッティンゲン大学のゲオルク・ミッシュのもとにも送られていたのでした。

    「ナトルプ報告」には、ハイデガーの手元に残されていた、手書きの修正や加筆を含む「ハイデガー・タイプ稿」もあり、これが03年にレクラム文庫の元になっていて、ミッシュ稿との異同が注記されています。今回の単行本化においては、このレクラム文庫版を底本として改訳したとのことです。

    本書に収録されたガダマーの論文の中で、彼は「ナトルプ報告」のインパクトをこう回想しています。「当時の読者にとって、このテクストの一文一文がどれほど新奇なものであったか、今日ではほとんど書きつくせそうにない。ハイデガー自身の面識を得て、彼から次第に何かを学ぶようになった後も、私は、その頃を思い出しては、ナトルプが、この大胆な思索の徒の語り口や文章に見られる伝統に逆らった一種独特の流儀にもかかわらず、その若き後学の天分を認めたのにはやはり敬服するほかないと密かに考えたものである」(111頁)。

    かなり難解な著作であり、翻訳の苦労はつぶさに「訳者あとがき」に綴られています。「ナトルプ報告」は03年のレクラム版のあとに、05年にドイツ語版『ハイデガー全集』第62巻「存在論と論理学に関するアリストテレスの精選論文の現象学的解釈」に付録として収録されました。いずれは、創文社版『ハイデッガー全集』でも別訳が刊行されることになるのだろうと思います。創文社版では第62巻は、講義部門の初期フライブルク講義1919-1923のうち、1922年夏学期にあたり、邦訳題は「オントロギーと論理学に関するアリストテレスの精選諸論文の現象学的研究」と予告されています。

    返信削除
  46.  能動と受動の交錯(高田珠樹)5 『ハイデガー『哲学への寄与』解読』2006, P.213-

     「私たちは、常にすでにある特定の社会や文脈の中に生きている。しかし、それに対して常に自覚的に臨んでいるわけではない。
    特定の場の中にあることは、常に我々の意識に先立っている。意識はこれをけっして追い越したり、先回りしたりすることはできない。
    「被投性」や「既成事実性」ということで語られるのは、そういった事態である。死への先駆を潜り抜け、決断を通じて初めて、われわれがすでに以前からいたところは、
    「既在性」として浮かび上がってくる。それは、われわれが常にすでにそう在ってきたところである。
    この過去分詞としての「既在」が、しかし、まさにそのようなものとして力動的に迫り、私たち自身を支えてくれるものとして立ち現れること、おそらく、ハイデガーは、
    過去分詞の現在分詞化ということで、このような事態を言い表そうとしたのだろう。もっとも、用例としては、既在する将来(gewesende Zukunft)ないしは
    既在する現存在という言い方で出てくる。
    つまり、これまで在ってきたところを立ち上がるという意味で、既在性が既在してくるというより、まずは現存在があえて既在する、
    現存在がこれまで自分の在ってきた在り方を、あらためて在ること、あえて在ろうとすることなのであり、それに呼応して、被投性、事実性は、現存在にとって既在の場となって立ち現れる。」

    ***********************************************************

     過去分詞 gewesen の現在分詞化 gewesend ということに、高田は受動性(過去分詞)につきまとう能動性(現在分詞)を見ているのである。

    返信削除
  47. Was ist Gott? : 関本洋司のブログ
    http://yojiseki.exblog.jp/10485350/
    Was ist Gott?
    黒人歌手のプリンスが「サンダー」という曲で雷を神がいる「しるし」だと歌っていて、直接神=雷としていない点がさすがだと思ったことがある。プリンスはゴスペル経由で一神教を通っているからこうした認識になるのだが、以下のヘルダーリンの詩(「神とはなにか?」)は意識的にこれとは真逆の汎神論へ遡行している。
    ハイデッガーの朗読がCDで聞ける。

    ハイデッガー朗読、 ヘルダーリン「神とはなにか?」
    Heidegger liest Holderlin: 07 "Was ist Gott?"
    http://www.youtube.com/watch?v=iubeaUEJkuU


    Was ist Gott? unbekannt, dennoch
    Voll Eigenschaften ist das Angesicht
    Des himmels von ihm. Die blitze namlich
    Der Zorn sind eines Gottes. Jemehr ist eins
    Unsichtbar, schicket es sich in Fremdes. Aber der donner
    Der Ruhm ist Gottes. Die Liebe zur Unsterblickheit
    Das Eigentum auch, wie das unsere,
    Ist eines Gottes.

    神とはなにか?未知なるものだ、それにもかかわらず
    もろもろの特質が神の天の姿を満たしては
    いるが。実際稲妻は
    ある神の怒りだ。あるものが
    いっそうますます見えなくなる、…異質な事物のなかに委ねられたからには。だが、雷は
    神の栄誉だ。不滅であることへの愛は
    わたしたちの持ちものであり、また
    神たるものの持ちものだ。

    http://po-m.com/forum/threadshow.php?did=15427&start=20
    http://leisurehive.informe.com/a-poem-by-friedrich-h-lderlin-dt1345.html
    神奈川県内の美味しいお店が満載hitosara.com
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    返信削除
  48. Martin Heidegger - Liest Hölderlin (CD) at Discogs
    https://www.discogs.com/ja/Martin-Heidegger-Liest-H%C3%B6lderlin/release/8870334
    Martin Heidegger ‎– Liest Hölderlin
    レーベル:
    Verlag Günther Neske Pfullingen ‎– 0518
    フォーマット:
    CD
    国・地域:
    Germany
    リリース済み:
    1997
    ジャンル:
    Non-Music
    スタイル:
    Poetry
    収録曲
    01 Vorbemerkung 7:29
    02 Ermunterung 2:28
    03 Die Wanderung 7:43
    04 Heimkunft 10:51
    05 Friedensfeier 12:23
    06 Der Ister 4:07
    07 Was Ist Gott? 0:42
    08 Was Ist Der Menschen leben? 1:01
    09 Aber In Hütten Wohnet 1:08
    10 Wie Meeresküsten 0:50
    11 Heimath 1:12
    バーコードとその他の識別子

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  49. 01はじめに7時29分
    02激励2時28分
    03徒歩7:43
    04帰省10時51分
    午前12時23分05 Friedensfeier 平和祭
    06ハリネズミ4:07
    07神は何ですか? 12時42分
    08人が住んで何ですか? 1:01
    09しかし、小屋ドウェル1時08分で
    10どのように海岸0時50分
    11家庭1時12分

    返信削除
  50. >>750
    >中山訳でもまだ「sich vorweg」を「自己に先立って」と訳すと、
    >誤読を誘発することは修正されそうにない。

     誤読なんかしません。その訳で正しいのだから。存在は「自己に先だって」世界を
    開示し、人やモノに出遇わせるのです。だから自己にとって大きく、また或る思想家
    にとっては「ハイデガーのいう存在とは自由の否定であり、むしろ自己こそが
    何者にたいしても先行し、全体化するのである」という批判に的にもなった。

     しかし先の訳にかんしてはあれでいいのです。

    返信削除
  51. #43a
    中公

    この世界内存在は気遣いといういっそう根源的な存在機構(世界内部的な存在者のもとでの存在として・おのれに先んじて・なんらかの世界の内ですでに存在しているというあり方)をもっているのである。

    返信削除
  52. Dieses ist wesenhaft nur als innerweltliches Seiendes zugänglich. Aller Zugang zu solchem Seienden ist ontologisch fundiert in der Grundverfassung des Daseins, dem In-der-Welt-sein. Dieses hat die ursprünglichere Seinsverfassung der Sorge (Sich vorweg – schon sein in einer Welt – als Sein bei innerweltlichem Seienden).

    返信削除
  53. >>756

     「自己に先立って」という訳だと、「先立たれた自己」という意味が前提される。

     それは、企投と被投性のどちらかと言ったら、被投性の方に解される。これを「誤読」と言っているのだ。

     事実、前に私と対話した人はそう解していた。だが、テキストではそうはなっていない。

     この部分はゾルゲの1番目、すなわち企投 Entwurf を説明した箇所だからである。

     sich vorweg の正しい訳は、「自己に先立って」ではなくて、「自己の前方に」である。

     <未来>は<自己の前方にある>。そこに向かって意味を投げること(Entwurf)、これを企投とみなしたのがハイデガー。


    >>760

     前の投稿のお仕舞いで、「(Entwrulf)」は、「企投」のあとに付けてください。

     ちなみに、この企投とほとんど同じ意味で使われるのが、<超越>。こっちのほうは、<事実性>と対になっている。


     企投−Entwrulf−超越

     被投性−Geworfenheit−事実性

     まずこの対へ向かって、『『存在と時間』は進む。その際、人間の心性の対が重ね合わされている。

     つまり、企投には<了解>が、被投性には<気分>が。

     だが、基礎存在論が人間を超えると自負していても、このように人間の存在様態を絶対視しているのだから、ハイデガーが言うほど「基礎的」でも、また<脱認識論的>でもなかった。

    返信削除

  54. 『存在と時間』:図解

            現 存 在2
       ____世界=内=存在____
      |       |       |
      世界3_____自己4   内=存在5
      | | ____________|  不
      | ||    頽        \_安
      | || 了解_落__企投  内    
      | ||/視___好奇心 \・存
      | | |語り____沈黙| 在
      | | 情状性____不安/ ・  
     _|_ \(気分)  良心 死 ・  
    |   | \____ ・  ・ ・ 気遣い  
    |   | ・  __|__ ・ 自・・関心
    |   | ・非本来的/本来的・・己  |
    |   | ・ |   ・  ・ ・  |
    |世界性| 開示性_決意性_先駆的・  |
    環境世界|         決意性・  |
    |   道具全体性_適所性・・・・世  |
    場              ・ 界  | 
            配慮/瞬視  ・  日常性6
      既在性___現成化___到来_(脱自態)
      過去____現在____未来  時間性 
             今        内部性 
                      歴史性
                   存在、存在論1


    了解 企投−Entwrulf−超越

    気分 被投性−Geworfenheit−事実性

    返信削除

  55. 『存在と時間』:図解

            現 存 在2
       ____世界=内=存在____
      |       |       |
      世界3_____自己4   内=存在5
      | | ____________|  不
      | ||    頽        \_安
      | || 了解_落__企投  内    
      | ||/視___好奇心 \・存
      | | |語り____沈黙| 在
      | | 情状性____不安/ ・  
      | |  気分   被投性  ・
     _|_ \      良心 死 ・  
    |   | \____ ・  ・ ・ 気遣い  
    |   | ・  __|__ ・ 自・・関心
    |   | ・非本来的/本来的・・己  |
    |   | ・ |   ・  ・ ・  |
    |世界性| 開示性_決意性_先駆的・  |
    環境世界|         決意性・  |
    |   道具全体性_適所性・・・・世  |
    場              ・ 界  | 
            配慮/瞬視  ・  日常性6
      既在性___現成化___到来_(脱自態)
      過去____現在____未来  時間性 
             今        内部性 
                      歴史性
                   存在、存在論1


    了解 企投−Entwrulf−超越
    気分 被投性−Geworfenheit−事実性
    #43a
    中公

    この世界内存在は
    気遣い
    といういっそう根源的な存在機構
    (世界内部的な存在者のもとでの存在として・おのれに先んじて・なんらかの世界の内ですでに存在しているというあり方)をもっているのである。

    Dieses ist wesenhaft nur als innerweltliches Seiendes zugänglich. Aller Zugang zu solchem Seienden ist ontologisch fundiert in der Grundverfassung des Daseins, dem In-der-Welt-sein. Dieses hat die ursprünglichere Seinsverfassung
    der Sorge (Sich vorweg – schon sein in einer Welt – als Sein bei innerweltlichem Seienden).

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  56. 『存在と時間』:図解

            現 存 在2
       ____世界=内=存在____
      |       |       |
      世界3_____自己4   内=存在5
      | | ____________|  不
      | ||    頽        \_安
      | || 了解_落__企投  内    
      | ||/視___好奇心 \・存
      | | |語り____沈黙| 在
      | | 情状性____不安/ ・  
      | |  気分   被投性  ・
     _|_ \      良心 死 ・  
    |   | \____ ・  ・ ・ 気遣い  
    |   | ・  __|__ ・ 自・・関心
    |   | ・非本来的/本来的・・己  |
    |   | ・ |   ・  ・ ・  |
    |世界性| 開示性_決意性_先駆的・  |
    環境世界|         決意性・  |
    |   道具全体性_適所性・・・・世  |
    場              ・ 界  | 
            配慮/瞬視  ・  日常性6
      既在性___現成化___到来_(脱自態)
      過去____現在____未来  時間性 
             今        内部性 
                      歴史性
                   存在、存在論1


    了解 企投−Entwrulf−超越
    気分 被投性−Geworfenheit−事実性
    #43a
    中公

    この世界内存在は
    気遣い
    といういっそう根源的な存在機構
    (世界内部的な存在者のもとでの存在として・おのれに先んじて・なんらかの世界の内ですでに存在しているというあり方)をもっているのである。

    Dieses ist wesenhaft nur als innerweltliches Seiendes zugänglich. Aller Zugang zu solchem Seienden ist ontologisch fundiert in der Grundverfassung des Daseins, dem In-der-Welt-sein. Dieses hat die ursprünglichere Seinsverfassung
    der Sorge
    (Sich vorweg – schon sein in einer Welt – als Sein bei innerweltlichem Seienden).

    世界、自己、内存在

    日本語の語順の方がハイデガーの思考に沿う

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  57. In-der-Welt-sein

    世界内存在

    と言う言葉にすでに全体構造の3要素がある
    この(解釈次第の)入れ子構造によって
    受動的能動が可能になる

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  58. そこに仏教的解釈を誘う何かがあるが
    ハイデガーの思考は仏教と違い発生論を模索する

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  59.  あるとき「気遣い」が川を渡っていて、粘土質の土地を見かけた。「気遣い」は思うところがあって、その
    ひとかたまりを手にとって、形を作り始めた。自分が作ったものについて思いをめぐらせていると、ユピテルが
    やって来た。「気遣い」はユピテルに、自分が形を与えた土くれに精神を授けてやってほしいと頼んだところ、
    ユピテルは快く応じた。ところが、「気遣い」が自分の捏ね上げたものに自分の名前を付けようとすると、ユ
    ピテルはそれを禁じて、これには自分の名前が与えられて然るべきだと言った。名前について「気遣い」と
    ユピテルとが争っていたところ、テルス(地)もまた立ち上がって、その像に生身の一部を与えたのは自分な
    のだから、自分の名をそれに与えるように求めた。争う者らは、サトゥルヌスを裁き手に仕立てたところ、
    サトゥルヌスは次のような、どうやら公平とおぼしき裁きを与えた。「ユピテルよ、おまえは精神を与えたの
    だから、これが死ぬときに精神を取るとよい。また、地よ、おまえは体を与えたのだから、体をもらうとよい。
    「気遣い」は、このものに最初に形を作ってやったのだから、これが生きているかぎりは「気遣い」がそれを
    持っているとよい。しかし、名前について争いがあるのだから、それは見てのとおりフムス(土)から作られ
    ているゆえ、ホモ(人)と呼ぶのがよいだろう」。

    高田訳SZ#42,295~6頁


    この寓話に全てがある。

        気遣い
     ユピテル(精神) テルス(地) サトゥルヌス(時間)





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  60.  現存在を気遣いとする実存論的かつ存在論的な解釈を前存在論的に裏付ける証拠として以下に紹介する寓意詩を著者が知ったのは、K・ブルダッハの論文「ファウストと気遣い」(『文芸学と精神史のためのドイツ季刊誌』第一巻(一九二三年)、1ページ以下)においてである…


    Cura cum fluvium transiret, videt cretosum lutum
    sustulitque cogitabunda atque coepit fingere.
    dum deliberat quid iam fecisset, Jovis intervenit.
    rogat eum Cura ut det illi spiritum, et facile impetrat.
    cui cum vellet Cura nomen ex sese ipsa imponere,
    Jovis prohibuit suumque nomen ei dandum esse dictitat.
    dum Cura et Jovis disceptant, Tellus surrexit simul
    suumque nomen esse volt cui corpus praebuerit suum.
    sumpserunt Saturnum iudicem, is sic aecus iudicat:
    ›tu Jovis quia spiritum dedisti, in morte spiritum,
    tuque Tellus, quia dedisti corpus, corpus recipito,
    Cura enim quia prima finxit, teneat quamdiu vixerit.
    sed quae nunc de nomine eius vobis controversia est,
    homo vocetur, quia videtur esse factus ex humo.‹



    1 Der Verf. stieß auf den folgenden vorontologischen Beleg für die existenzial-ontologische Interpretation des Daseins als Sorge durch den Aufsatz von K. Burdach, Faust und die Sorge. Deutsche Vierteljahrsschrift für Literaturwissenschaft und Geistesgeschichte I (1923), S. 1 ff. B. zeigt, daß Goethe die Cura-Fabel, die als 220. der Fabeln des Hyginus überliefert ist, von Herder übernahm und für den zweiten Teil seines »Faust« bearbeitete. Vgl. besonders S. 40 ff. – Der obige Text ist zitiert nach F. Bücheler, Rheinisches Museum Bd. 41 (1886) S. 5, die Übersetzung nach Burdach, a. a. O. S. 41 f.


     あるとき「気遣い」が川を渡っていて、粘土質の土地を見かけた。「気遣い」は思うところがあって、そのひとかたまりを手にとって、形を作り始めた。自分が作ったものについて思いをめぐらせていると、ユピテルがやって来た。「気遣い」はユピテルに、自分が形を与えた土くれに精神を授けてやってほしいと頼んだところ、ユピテルは快く応じた。ところが、「気遣い」が自分の捏ね上げたものに自分の名前を付けようとすると、ユピテルはそれを禁じて、これには自分の名前が与えられて然るべきだと言った。名前について「気遣い」とユピテルとが争っていたところ、テルス(地)もまた立ち上がって、その像に生身の一部を与えたのは自分なのだから、自分の名をそれに与えるように求めた。争う者らは、サトゥルヌスを裁き手に仕立てたところ、サトゥルヌスは
    次のような、どうやら公平とおぼしき裁きを与えた。「ユピテルよ、おまえは精神を与えたのだから、これが死ぬときに精神を取るとよい。また、地よ、おまえは体を与えたのだから、体をもらうとよい。「気遣い」は、このものに最初に形を作ってやったのだから、これが生きているかぎりは「気遣い」がそれを持っているとよい。しかし、名前について争いがあるのだから、それは見てのとおりフムス(土)から作られているゆえ、ホモ(人)と呼ぶのがよいだろう」。

    高田訳SZ#42,295~6頁


    この寓話に全てがある。

        気遣い
     ユピテル(精神) テルス(地) サトゥルヌス(時間)





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  61. 《7[一五六]
     私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、
    より純粋に、より美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。
    1870年末−1871年4月》
    (ニーチェ「遺された断想」『ニーチェ全集』第1期第1巻白水社267頁より)

    【読書メモ】ハイデッガー「形而上学の超克」 要約
    http://42286268.at.webry.info/201411/article_3.html
    ハイデッガー「形而上学の超克」1936年-46年(『技術への問い』平凡社、2009年、所収)

    《 九 〔「形而上学の超克」をどのように考えるべきか〕
    ニーチェは「形而上学の超克」を目指したが、そこでは「超克」されるべき「形而上学」は
    プラトン主義〔=感性によってとらえられるものを、感性を超えたものが支配しているという
    考え方〕に限定されていた。
    したがってニーチェの「形而上学の超克」は、プラトン主義のたんなる逆転にすぎず、じつは
    形而上学の枠内のものでしかない。
    本当は、「形而上学の超克」は、存在忘却〔=「存在」の真理を忘れてしまっていること〕の
    原初的耐え忍びの前兆として考えられるべきである。》

    http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
    《現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
    プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
    のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
    ましい事態でもある。》(ドゥルーズ『差異と反復』邦訳単行本p102)

    《プラトニズムの転倒とは、シミュラークルを上昇させ、イコンもしくは
    コピーのあいだでのその権利を確認することである。》『意味の論理学』付論1より

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  62. 世界内存在 『存在と時間』における日常性の解釈学
    著者名等  ヒューバート・L.ドレイファス/著  ≪再検索≫
    著者名等  門脇俊介/監訳  ≪再検索≫
    著者名等  榊原哲也/〔ほか〕訳  ≪再検索≫
    出版者   産業図書
    出版年   2000.09
    大きさ等  22cm 372p
    注記    Being-in-the-world.
    NDC分類 134.9
    件名    存在と時間  ≪再検索≫ ハイデッガー マルティン
    件名    Heidegger Martin.
    要旨    20世紀哲学の傑作、ハイデガーの『存在と時間』の画期的解釈書。人工知能批判やフー
    コー研究で知られるヒューバート・ドレイファスが、伝統的哲学を解体して哲学的思考地
    図を描き直す、ハイデガーの革新的な思想を、専門家以外にも十分理解できるように明快
    かつ詳細に解説。
    目次    なぜ『存在と時間』を研究するのか;『存在と時間』の序論(内容的部分;方法論的部分
    );世界内存在についての予備的スケッチ;道具的存在性と事物的存在性;世界性;現代
    版デカルト主義に対するハイデガーの批判;空間性と空間;日常的現存在は「誰」か;内
    存在の三重の構造;情状性;了解;語りと意味;頽落;気遣いという構造;日常性の解釈
    学の哲学的意味
    内容    索引あり
    ISBN等 4-7828-0133-5
    書誌番号  3-0200060400

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  63. 将棋:糸谷八段、文学修士に 阪大院でハイデッガー研究 - 毎日新聞
    http://mainichi.jp/articles/20170317/k00/00m/040/148000c
    関連ニュースはこちら
    将棋

    糸谷八段、文学修士に 阪大院でハイデッガー研究

    毎日新聞2017年3月17日 08時30分(最終更新 3月17日 09時57分)
    社会
    めっちゃ関西
    話題
    速報
    カルチャー

    糸谷哲郎八段=2017年1月19日、新土居仁昌撮影
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     将棋の糸谷哲郎(いとだに・てつろう)八段(28)が大阪大学大学院文学研究科博士前期課程を修了した。22日の卒業式で修士(文学)の学位を授与される。北陸先端科学技術大学院大学の教授を務めている飯田弘之六段(引退)が東京農工大で工学博士を取得した例はあるが、タイトル獲得歴のあるトップ棋士が修士以上の学位を授与されるのは初めて。

    【将棋映画】「3月のライオン」試写会で神木隆之介さん、有村架純さんらが笑顔
    <糸谷哲郎八段>「将棋界は斜陽産業」と語った真の理由
    <有村架純>将棋映画「3月のライオン」に出演 演技や生き方について聞いた
    <将棋映画>「3月のライオン」あの3姉妹を演じるのは?
    <王将>返り咲いた久保が一夜明けて語ったこと
    <A級順位戦最終局>「将棋界の一番長い日」タイムライン
    【実は知らない】将棋のタイトルっていくつあるの?
    <王将戦予選>ステチェンスカ女流2級が初勝利
     糸谷八段は高校3年でプロになり、プロ入り後、大阪大学文学部に合格。卒業後の2011年、大学院に進みドイツの哲学者ハイデッガーを研究した。修士論文「現存在と存在者の関わり」は、ハイデッガー研究者の米国人哲学者、ヒューバート・ドレイファスの存在論をテーマにした。

     糸谷八段は日本将棋連盟関西本部所属で、若手強豪の一人。14年には初挑戦で「竜王」のタイトルを獲得した。糸谷八段は「修士を取得するまで6年もかかったので、達成感というより、ほっとした気分が強い。将棋に役立ったかと言えば、リフレッシュ効果はあった。今後は将棋に専念するが、将来チャンスがあれば学びを深めたい」と話している。

     なお、卒業式は対局があるため欠席するという。【新土居仁昌】


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  64. なぜ日本人はこんなにハイデガーが好きなのか、その「もや」を晴らす(轟 孝夫) | 現代ビジネス | 講談社(2/2)
    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52387?page=2
    すなわち本来性とは、何かが「ある」という事態を他の事物との関係性のうちでの生成変化の生起と理解し、そうしたものとして物事をあるがままに「あらしめる」態度を意味する。それに対して、非本来性は何かが「ある」という事態を、主体がその「何か」を実体として対象化することと同一視する態度である。

    返信削除
  65. デリダの脱構築の元はハイデガーの解体だし、その前はルター。

    デリダの脱構築(déconstruction)→ハイデガーの解体(Destruktion)→ルターの解体(destruere)

    ハイデガーやルターの解体とは、自己の歴史の解体であるし、
    デリダの脱構築は、ハイデガーの解体がただの破壊ではなく、
    解体し構築するものであることを注意深く付け加えた。

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  66. https://www.amazon.co.jp/dp/B079C9YFB7/
    現代思想 2018年2月臨時増刊号 
    総特集=ハイデガー
    −−黒ノート・存在と時間・技術への問い Kindle版
    M・ハイデガー,高田 珠樹,森 一郎,轟 孝夫,小泉 義之
    2018/1/27
    「エルンスト・ユンガーへ 」マルティン・ハイデガー /山本與志隆訳
    (全集第90巻所収)
    サンプルで試読可能

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  67. :
    『哲学への寄与論稿』読み直してるけど。〈正しさ〉に留まっている限り
    有の喪失の進行する中での真理概念には至らないのではないかという問い、
    つまり〈正しい〉と〈真理〉とをはっきり区別できなければ有は問い得ない
    だろうとするところ。

     底無しの深淵としての真理としては、〈空け透かす〉と〈覆蔵〉とは
    区別はつかない、根源的に合一していくというところ、一回的な性-起
    ereignis を考えるならばそこまで考えるしかない、とするところ、等々、
    以前は余り気が付かなかった卓越した有へのアプローチに震撼せざるを
    得なかった。

     そしてそういった視点からすると、真理を〈正しさ〉としてしか知り得ない
    哲学、それはほとんどがそういうものだが、それはそれ自体が有の窮迫なの
    であり、その地点を如何にして離脱できるのかが哲学に於ける問題なのだ、
    と言いたがっていることもよく分かった。

     それらは実存問題の窮極的な地点の提示だと思うが、『哲学への寄与論稿』
    の重要性に改めて気づくことができた。現在流通して行く哲学含めた
    教養や知性やについての根本的な異議申し立てなのだと読めてきた。いかに
    途轍もない本かということである。

     この本を初めて読んだのが翻訳刊行された2005年だったが、いまだに
    大きな発見がある。ハイデッガー恐るべし、と新たに感じ入る。

     この本は高いが、元は取れる、とも廃業する創文社さんのためにも
    言っておこう。よくこんな難物を翻訳し出してくれた。
    ありがとうと言いたい。

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  68. ハイデッガー全集 第79巻(第3部門 未完論文 「講演-思い」) ブレーメン講演
    とフライブルク講演
    著者名等  ハイデッガー/〔著〕  ≪再検索≫
    著者名等  辻村公一/〔ほか〕編  ≪再検索≫
    出版者   創文社
    出版年   2003.2
    大きさ等  22cm 238,17p
    注記    Bremer und Freiburger Vortra¨ge./の翻訳
    NDC分類 134.9
    要旨    未刊論文の中から、講演原稿2編を収録。
    目次    有るといえるものへの観入(物;総かり立て体制;危機;転回);思考の根本命題
    ISBN等 4-423-19639-5
    書誌番号  3-0203016551

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  69. 後期ハイデガーは老子をドイツ語訳し、言葉の円環のなかに住まおうとした。
    それは以下の図式を持ち、古代ギリシアを理想化するものだった。

          天

    神々           人間たち
      

          大地


    (人類の知的遺産75『ハイデガー』芽野良男、講談社より)

    《ハイデガ ーの 〈大地 、天空 、神的なものども 、死すべきものども 〉が 、
    〈実在的オブジェクト 、実在的性質 、感覚的オブジェクト 、感覚的性質 〉から成る 「四方界 」と類似している》
    オブジェクトへの道 グレアム ・ハーマン /飯盛元章訳 現代思想2018/1

    大地  天空
    神的  死


    実在的オブジェクト  実在的性質
    感覚的オブジェクト  感覚的性質


    Quadruple Object, The || Zero Books || Book Info
    http://www.zero-books.net/books/quadruple-object-the
    https://lh3.googleusercontent.com/-2DC0sDT9cso/WdmgUc6HzhI/AAAAAAABVH0/921Auk-hqNYkwbIdLtqrjMvnlxWpxOBsgCHMYCw/s640/blogger-image-2030216359.jpg


              天     
                  [性質]

        神々           人間たち ←(感覚的)
      
    [オブジェクト]
              大地
               ↑
             (実在的)

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  70. “元有の真理を、われわれは、世界が世界するはたらきにおいて思索し、
     天空と大地、死すべきものどもと神的なものどもからなる四方界の反照-遊戯、ととらえた。”

    ― 『ハイデッガー全集 第79巻 ブレーメン講演とフライブルク講演』 p93

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  71. ハイデガー
    存在と時間 中山元訳 光文社古典新訳文庫 2016~

    現存在とは「みずからおのれの存在へとかかわっている」存在者であること、つまり現存在は実存する。この第2分冊では、その実存の概念として「そのつどわたし」である各私性、平均的な日常性の概念が提起され、現存在の基本的な構造が「世界内存在」であることが詳細に考察される。古代ギリシア以来の問いを「時間」において捉え、現象学的解釈によって解き明かそうとしたハイデガーの主著(全8巻)。

      目  次
       凡例
       一九五三年 、第七版への前書き
     序論 存在の意味への問いの提示
      第一章 存在の問いの必然性 、構造 、優位
       第一節 存在への問いを明示的に反復することの必然性
       第二節 存在への問いの形式的な構造 
       第三節 存在問題の存在論的な優位第四節存在への問いの存在者的な優位
      第二章 存在への問いを遂行するための二重の課題 。探求の方法とその構図
       第五節 現存在の存在論的な分析論 ─ ─存在一般の意味を解釈するための地平を開拓する作業
       第六節 存在論の歴史の解体という課題
       第七節 探求の現象学的な方法
        A 現象の概念
        B ロゴスの概念
        C 現象学の予備概念
       第八節 考察の概要___①


    第一部 時間性に基づいた現存在の解釈と 、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明
     第一篇 現存在の予備的な基礎分析
      第一章 現存在の予備的な分析の課題の提示
       第九節 現存在の分析論の主題
       第一〇節 人間学 、心理学 、生物学と異なる現存在の分析論の領域の確定
       第一一節 実存論的な分析論と未開な段階にある現存在の解釈 、 「自然的な世界概念 」を獲得することの難しさ
      第二章 現存在の根本機構としての世界内存在一般
       第一二節 内存在そのものに基づいた世界内存在の素描
       第一三節 基礎づけられた様態による内存在の例示 。世界認識
      第三章 世界の世界性
       第一四節 世界一般の世界性という理念
        A 環境世界性と世界性一般の分析
       第一五節 環境世界において出会う存在者の存在
       第一六節 世界内部的な存在者においてみずからを告示する環境世界の世界適合性___②
      第三章 世界の世界性
       第一七節 指示とめじるし
       第一八節 適材適所性と有意義性 、世界の世界性
        B 世界性の分析とデカルトによる世界の解釈の対比
       第一九節 広がりのあるもの(レス・エクステンサ)としての 「世界 」の規定
       第二〇節  「世界 」の存在論的な規定の基礎
       第二一節  「世界 」についてのデカルトの存在論の解釈学的な考察
        C 環境世界の 〈まわり性 〉と現存在の 「空間性 」
       第二二節 世界内部的な手元存在者の空間性
       第二三節 世界内存在の空間性
       第二四節 現存在の空間性と空間
      第四章 共同存在と自己存在としての世界内存在 、 「世人(ひと) 」
       第二五節 現存在とは 〈誰なのか 〉を問う実存論的な問いの端緒
       第二六節 他者の共同現存在と日常的な共同存在
       第二七節 日常的な自己存在と 〈世人(ひと) 〉____③


    内容(「BOOK」データベースより)
    現存在とは「みずからおのれの存在へとかかわっている」存在者であること、つまり現存在は実存する。この第二分冊では、その実存の概念として「そのつどわたし」である各私性、平均的な日常性の概念が提起され、現存在の基本的な構造が「世界内存在」であることが詳細に考察される。


    解説 中山元
    訳者あとがき



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  72. 追加:

    ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を
    投じるように呼びかけられている。ただ し党首は民族から何かをもらおうとしているので
    はない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それ
    ともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機
    会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、
    自分自身の未来なのである。 (「アドルフ・ヒットラーと国家社会主義体制を支持する演説」1933年)

    これは、深遠な形而上学がどのような政治とつながるかを端的に示している。ハイデッガーに
    とっては、指導者を「選ぶ」といった自由主義的原理そのものが否定されなければならないの
    であり、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにある。そのときのみ、「民族の全体」
    の「本来の在り様」としての真理があらわれる、というのである。表象representationとしての
    真理観を否定することは、議会(=代表制representation)を否定することに導かれる。(柄谷行人『終焉をめぐって』p167)

    http://kaie14.blogspot.jp/2014/12/blog-post_80.html

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  73. 総統閣下は本当は何を言っているのか
    http://daimyoshibo.la.coocan.jp/ppri/fuehrer.html

    Sie ist ohne Ehre!
    栄誉などあるものか!
    ズィー イスト オーネ エーレ!
    「ちきしょーめ!」ですね。「ズィストーネーレ!」→「ちきしょーめー!」に
    なっています 。

    Von allem Anfang an bin ich nur verraten und betrogen worden!
    「最初の最初から、私は裏切られ、欺かれてきていたのだ」
    フォン アレム アンファング アン ビン イヒ ヌア フェアラーテン 
    ウント ベトローゲン ヴォルデン!

    ウント・ベがおっぱい、トローゲンがトローン、ヴォルデンがヴォルンになって、
    ぷるーんぷるんになっています。


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  74. ハイデガーはギリシア語で思考していたという説があり
    そうするとちくま版のギリシア語関連の注解が一番手軽で役に立つかもしれない

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  75. ハイデガーの存在と時間は一応構造化された全世界を提示している
    先の見えない時代に展望を垣間見させることに成功している
    未完なので色々類推する余地を残している

    存在を時間化したから続編は時間を存在化するつもりだったのだろうがあまり意味はない

    邦訳が多いのは読者が構造を読み取る努力を放棄して
    翻訳の未熟さに転嫁する習性ゆえだろう

    日本人はハイデガーを見習ってもう少し道教などを真面目に考えた方がいいと思う

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  76. ハイデガーの存在と時間は一応構造化された全世界を提示している
    先の見えない時代に展望を垣間見させることに成功している
    未完なので色々類推する余地を残している

    存在を時間化したから続編は時間を存在化するつもりだったのだろうがあまり意味はない

    邦訳が多いのは読者が構造を読み取る努力を放棄して
    翻訳の未熟さに転嫁する習性ゆえだろう

    西欧哲学史もいいが
    日本人はハイデガーを見習ってもう少し身近な道教などを真面目に考えた方がいいと思う

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  77. 道教に発生論はあるが仏教にはない
    仏教は批判哲学に近いが発生論がない時点でハイデガーの哲学は仏教の教義と一致しない
    ハイデガーは発生論を志向しているから道教に近い

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  78. 四次元主義の哲学―持続と時間の存在論 (現代哲学への招待―Great Works) 単行本 – 2007/10/1
    セオドア サイダー (著), Theodore Sider (原著), 中山 康雄 (翻訳), 小山 虎 (翻訳), 齋藤 暢人 (翻訳), 鈴木 生郎 (翻訳)
    5つ星のうち 5.0 1 件のカスタマーレビュー
    その他()の形式およびエディションを表示する

    ものは変化するのになぜ同一でありうるのか。
    「テセウスの船」や「粘土と像」といったパラドックスから、相対性理論やタイムトラベルなど、多彩な問題設定で対立する諸理論を精査、独自の時間論を提唱する若き俊英のアメリカ哲学会賞受賞作。
    現代の形而上学を知るのに不可欠な「用語解説」を付す。
    形而上学の大問題「存在と時間の謎」に挑み、数々のパラドクスを解決し相対性理論とも整合する美しい哲学。

    内容(「BOOK」データベースより)

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  79. 存在と時間は構造を示している
    だからサルトルに実存と本質の順番は関係ないと言い得た
    その構造は3つに分かれる点で人間の細胞分裂の系統図に似ている
    発生論を諦めていないから今も若者を引きつける

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  80. 東京大学出版会 (@UT_Press)
    2020/01/30 20:39
    【プレスリリース】2020年5月の創文社閉業にともないまして、創文社より刊行されていた『ハイデッガー全集』の続刊の刊行と既刊書の提供を東京大学出版会が引き継ぎます。詳細はプレスリリースの本文をご覧ください。
    utp.or.jp/news/n33386.ht… pic.twitter.com/lahE6XwZNg

    https://twitter.com/ut_press/status/1222846891420815360?s=21

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  81. 結果
    コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判
    コンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判
    ヒューバート・L. ドレイファス
    5つ星のうち4.4 4
    単行本
    ミシェル・フーコー―構造主義と解釈学を超えて
    ミシェル・フーコー―構造主義と解釈学を超えて
    ヒューバート・L. ドレイファス
    5つ星のうち5.0 2
    単行本
    純粋人工知能批判―コンピュータは思考を獲得できるか (アスキー・海外ブックス)
    純粋人工知能批判―コンピュータは思考を獲得できるか (アスキー・海外ブックス)
    ヒューバート・L. ドレイファス
    単行本
    世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学
    世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学
    ヒューバート・L. ドレイファス
    単行本
    インターネットについて―哲学的考察 (Thinking in action)
    インターネットについて―哲学的考察 (Thinking in action)
    ヒューバート・L. ドレイフ

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  82. 1
    世界内存在 『存在と時間』における日常性の解釈学 / ヒューバート・L.ドレイファス/著 / 産業図書 2000.09 / 134.9
    2
    ミシェル・フーコー 構造主義と解釈学を超えて / ヒューバート・L.ドレイファス/著 / 筑摩書房 1996.07 / 135.5
    3
    コンピュータには何ができないか 哲学的人工知能批判 / ヒューバートL・ドレイファス/著 / 産業図書 1992.4 / 007.1
    4
    純粋人工知能批判 コンピュータは思考を獲得できるか(海外ブックス) / ヒューバート・L.ドレイファス,スチュアート・E.ドレイファス/著 / アスキー 1987.4 / 007.1

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  83. https://www.shogi.or.jp/column/2020/12/pm3_1231.html

    ――哲学の研究が、将棋に活きていると感じることはありますか?

    哲学は、人間が勝手に抱いている思考の前提を消去して、何を前提として据えたいかをセットして考えるんです。将棋は「この形は端歩をついていくものだ」とか「この局面にはこの手」とか、前提をいくつも積み重ねて局面を考えます。そのほうが効率的なので人間は自分自身では思考のロックを外しにくいのですが、ロックを自分で解除するという発想を持っているか・いないかでは、出てくるものが違う。
    将棋AIが出す最善手に「人間はこの手は指さない」というのがありますが、それはたいてい前提を外した手なんです。思考を一段上に、メタにする手助けになるという点で、哲学は非常に将棋にも役立つと思いますね。

    PM3時の棋士たち(糸谷哲郎八段)05

    ――なるほど。今日お持ちいただきました本にも、哲学の本が入っていますね。

    撮影なのできれいな状態のものがいいかなと思い、知り合いが書かれた新しい本を持参しました。

    1冊目:
    大学院の同級生・戸谷洋志くんと百木漠さんの『漂泊のアーレント 戦場のヨナス:ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』。戸谷くんとは私も一緒に共著『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』を書かせていただきました。
    2冊目:
    ホラー作家・澤村伊智さんのミステリー『アウターQ 弱小Webマガジンの事件簿』。けっこうホラーとミステリーは近いようで遠いんです。完全なホラーって説明できない、「観たら呪われる」とかルールだけあって解決がないんですけど、これはホラーなのに解決がある作品でそこが面白いです。
    3冊目:
    先日対談させていただいた山口雅也さんと、菊池篤さんの『刑事コロンボの帰還』です。有名な推理小説家の先生が総指揮を取り、刑事コロンボの魅力について集めた一冊です。

    iPhoneから送信

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  84. Q5
    会ってみたい人はいますか?
    糸谷
    亡くなってしまっているんですけど、研究対象の哲学者・ハイデガーやヒューパード・ドレイファスです。会って教えを乞いたいです(笑)。
    PM3時の棋士たち(糸谷哲郎八段)10

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  85. 525 考える名無しさん[] 2021/05/22(土) 21:11:25.57 ID:0
    デリダによる「存在と時間」の引用箇所である。
     亀井大輔訳では、Destruktionの訳語として、破壊ではなく解体が使われている。
     破壊は、やはり単純に壊すイメージが強いが、それに対して、解体は、構築物を分解し再構成、再利用するニュアンスがある。

    ハイデガー「存在と時間」(デリダ『ハイデガー 存在の問いと歴史』亀井大輔訳、白水社)
    第六節
    存在論の創設的概念の系統に関するこの研究[Nachweis der Herkunft: 出所の探求、裏
    付け]は、それらのGeburtsbrief[貴族の証明書、出生証明書、身分証書、出自の標]
    の提示[Ausstellung: 展示、開示]として、存在論的見地の悪しき相対化とは何ら共通
    のものを持たない。この解体はまた、Abschuttelung〔振り切ること〕の否定的な意味
    ではほとんどない。この解体はつまり、そのような存在論的な伝統の破壊という否定的
    な意味をほとんど持っていない。それどころかこの解体は、その肯定的な可能性におい
    て、つまりつねにその限界において伝統を測量し、見積もるべきである[ab-stecken
    〔境界線を確定する〕]。その限界は、そのつどの問題系に対して、そのつどの問いの
    提起、問いの立て方によって、そしてこうして可能な研究領域に定められた限界画定に
    よって、事実的にそのつど与えられる。解体が否定的な仕方で向けられるのではまった
    くない。批判は今日に対して、今日優位にあるような存在論の歴史の取り扱いに対し
    て、当てられている。この取り扱いが学説史であれ、思想史であれ、問題史であれ、で
    ある。しかし、解体は過去を無(無価値なもの)に埋もれさせようとするのではない。
    解体は肯定的な意図を持っている。その否定的な機能は表立っておらず間接的なままに
    とどまるのである。
     存在論の歴史の解体は、存在の問いに本質的に属し、この問いのなかでしか可能では
    ないのだが、存在の問いの原理的な練り上げを目論むこの論の枠内では、存在論の歴史
    の解体は、原理的にこの歴史の決定的な段階にとどまることしかできない。

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