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義経記. 巻第八. 一 継信兄弟御弔の事. さる程に、判官殿高館に移らせ給ひて後、佐藤
庄司が後家の許へも、折々御使遣され、憐み給ふ。 ..... 弁慶〔は〕敵追払うて、〔君の〕
御前に参りて、「弁慶こそ参りて候へ」と申しければ、君は法華経の八の巻を遊ばしてお
はしましける ... 武蔵は敵を打払ひて、長刀を逆さまに杖に突きて、仁王立に立ちにけり。義経記 巻第八
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五 衣川合戦の事
さる程に寄手長崎大夫のすけを初として、三萬余騎一手になりて押寄せたり。「今日の討手は如何なる者ぞ」「秀衡が家子、長崎太郎大夫」と申 す。せめて泰衡・西木戸などにてもあらばこそ最期の軍をもせめ、東の方の奴原が郎等に向ひて、弓を引き矢を放さん事あるべからずとて、「自害せん」と宣ひ けり。爰に北の方の乳母親に十郎権頭・喜三太二人は、家の上に上りて、遣戸・格子を小楯にして散々に射る。大手には武蔵坊・片岡・鈴木兄弟・鷲尾・増尾・ 伊勢三郎・備前平四郎、以上人々八騎なり。常陸坊を初として、残り十一人の者共、今朝より近き辺の山寺を拝みに出でけるが、其儘帰らずして失せにけり。言 ふばかりなき事どもなり。
弁慶が其日の装束には、黒革威の鎧の裾金物平く打ちたるに、黄なる蝶を三つ二つ打ちたりけるを著て、大長刀の真中握り、打板の上に立ちけ る。「囃せや殿原達、東の方の奴原に物見せん。若かりし時は、叡山にて由ある方には、詩歌管絃の方にも許され、武勇の道には悪像の名を取りき。一手舞うて 東の方の賤しき奴原に見せん」とて、鈴木兄弟に囃させて、
嬉しや瀧の水、鳴るは瀧の水、日は照るとも、絶えずとうたり。東の奴原が、鎧冑を首諸共に、衣川に斬りつけ流しつるかな。
とぞ舞うたりける。寄手聞きて、「判官殿の御内の人々程剛なる事はなし。寄手三萬騎に、城の内は僅十騎許りにて、何程の立合せんとて舞舞ふ らん」とぞ申しける。寄手の者申しけるは、「如何に思召し候とも、三萬余騎ぞかし。舞も措き給へ」と申せば、「三萬も三萬によるべし、十騎も十騎による ぞ。汝等が軍せんと企つる様の可笑しければ笑ふぞ。叡山・春日山の麓にて、五月會に競馬をするに少しも違はず。可笑しや鈴木、東の方の奴原に手並の程を見 せてくれうぞ」とて、打物抜きて鈴木兄弟・弁慶轡を並べて、錏を傾けて、太刀を兜の真向に当てて、おつと喚きて驅けたれば、秋風に木の葉を散らすに異なら ず、寄手の者共元の陣へぞ引退く。「口には似ざるものや、勢にこそよれ、不覚人共かな、返せや返せや」と喚きけれども、返し合する者もなし。
斯かりける処に、鈴木三郎、てるひ(照井)の太郎と組まんと、「和君は誰そ」「御内の侍にてるひの太郎高治」「さて和君が主こそ鎌倉殿の郎 等よ。和君が主の祖父清衡、後三年の戦の時、郎等たりけるとこそ聞け。其子にたけひら(武衡。其衡ノ誤)、其子に秀衡、其子に泰衡、されば我等が殿には、 五代の相伝の郎等ぞかし。重家は鎌倉殿には重代の侍なり。されば重家が為には合はぬ敵なり。されども弓矢取る身は逢ふを敵、面白し泰衡が内に恥ある者とこ そ聞け。それが恥ある武士に後見する事やある。穢しや止まれとまれ」と言はれて返し合せ、右の肩斬られて引きてのく〔引退く〕。
鈴木既に弓手に二騎、馬手〔に〕三騎斬伏せ、七八騎に手負せて、我が身も痛手負ひ、「亀井六郎犬死すな、重家は今はかうぞ」と、是を最期の 言葉にて、腹掻切つて伏しにけり。「紀伊國鈴木〔藤代〕を出でし日より、命をば君に奉る。今思はず一所にて死し候はんこそ嬉しく候へ。死出の山にては必ず 待ち給へ」とて、鎧の草摺かなぐり捨てて、「音にも聞くらん目にも見よ。鈴木三郎が弟に亀井六郎、生年二十三、弓矢の手並日来人に知られたれども、東の方 の奴原は未だ知らじ。初めて物見せん」と言ひも果てず、大勢の中へ割つて入り、弓手にあひつけ、馬手にせめつけ、斬りけるに、面を向ふる者ぞなき。敵三騎 討取り、六騎に手を負せて、我が身も大事の疵数多負ひければ、鎧の上帯押寛げ、腹掻切つて、兄の伏したる所に、同じ枕に伏しにけり。
さても武蔵は、彼に討合ひ、之に討合ひする程に、咽笛打裂かれ、血出づる事は限りなし。世の常の人などは、血酔などするぞかし、弁慶は血の 出づればいとど血そばえして、人をも人とも思はず、前へ流るる血は鎧の働くに従つて、あけ血になりて流れける程に、敵申しけるは、「爰なる法師余りの物狂 はしさに、前にも母衣掛けたるぞ」と申しけり。「あれ程のふて者に寄り合ふべからず」とて、手綱を控へて寄せず。弁慶度々の軍に馴れたる事なれば、倒るる やうにては、起上り起上り、河原を走り歩くに、面を向ふる人ぞなき。さる程に増尾十郎も討死す。備前平四郎も敵数多討取り、我が身も疵数多負ひければ、自 害して亡せぬ。片岡と鷲尾一つになりて軍しけるが、鷲尾は敵五騎討取りて死にぬ。片岡一方隙きければ、武蔵坊・伊勢三郎と一所に懸かる。伊勢三郎敵六騎討 取り、三騎に手負せて、思ふ様に軍して深手負ひければ、暇乞して、「死出の山にて待つぞ」とて、自害してんげり。
弁慶〔は〕敵追払うて、〔君の〕御前に参りて、「弁慶こそ参りて候へ」と申しければ、君は法華経の八の巻を遊ばしておはしましけるが、「如 何に」と宣へば、「軍は限りになつて候。備前・鷲尾・増尾・鈴木兄弟・伊勢三郎、各々軍思ひのままに仕り、討死仕りて候。今は弁慶と片岡ばかりになつて 候。限りにて候程に、君の御目に今一度かかり候はんずる為に参りて候。君御先立ち給ひ候はば、死出の山にて御待ち候へ。弁慶先立ち参らせ候はば、三途の川 にて待ち参らせん」と申せば、判官、「今一入名残の惜しきぞよ。死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に止め んとすれば、味方の各々討死す。自害の所へ雑人を入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力及ばず、仮令我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたら ば実に三途の川にて待ち候へ。御経も今少しなり、読み果つる程は、死したりとも、我を守護せよ」と仰せられければ、「さん候」と申して、御簾を引上げ君を つくづくと見参らせて、御名残惜しげに涙に咽びけるが、敵の近づく声を聞き、御暇申して立出づ〔る〕とて、又立返り、かく申上げける。
六道の道の衢に待てよ君後れ先立つ習ありとも
かく忙はしき中にも、未来をかけて申しければ、御返事〔御返歌に〕、
後の世も又後の世も廻り會へ染む紫の雲の上まで
と仰せられければ、声を立ててぞ泣きにける。
さて片岡と背合に差合せて、一てう町を二手に分けて驅けたりければ、二人に驅け立てられて、寄手の兵共むらめかして引退く。片岡七騎が中に 走り入つて戦ふ程に、肩も腕も怺へずして、疵多く負ひければ、叶はじとや思ひけん、腹掻切り亡せにけり。弁慶今は一人なり。長刀の柄一尺〔ばかり〕踏折り てがはと捨て、「あはれ中々よきものや、えせ方人の足手に紛れて、悪かりつるに」とて、木戸〔きつと〕踏張り立つて、敵入れば寄せ合せて、はたとは斬りふ つとは斬り、馬の太腹前膝はらりはらりと斬りつけ、馬より落つる処は、長刀の先にて首を刎ね落し、脊にて叩き下しなどして狂ふ程に、一人に斬り立てられ て、面を向くる者ぞなき。鎧に矢の立つ事数を知らず。折り掛け折り掛けしたりければ、簑を逆さまに著たる様にぞありける。黒羽・白羽・染羽、色々の矢ど も、風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花〔の〕秋風に、吹き靡かるるに異ならず。八方を走り廻りて狂ひけるを、寄手の者共申しけるは、「敵も味方も討死 すれども、弁慶ばかり如何に狂へども死なぬは不思議なり。音に聞えしにも勝りたり。我等が手にこそ懸けずとも、鎮守大明神立寄りて蹴殺し給へ」と、呪ひけ るこそ痴がましけれ。
武蔵は敵を打払ひて、長刀を逆さまに杖に突きて、仁王立に立ちにけり。偏に力士の如くなり。一口笑ひて立ちたれば、「あれ見給へあの法師、 我等を討たんとて此方を守らへ、痴笑ひしてあるは只事ならず。近く寄りて討たるな」とて、〔左右なく〕近づく者もなし。さる者〔の〕申しけるは、「剛の者 は立ちながら死する事あると云ふぞ。殿原当りて見給へ」と申しければ、「我当らん」と言ふ者もなし。或武者馬にて辺を馳せければ、疾くより死にたる者なれ ば、馬に当りて倒れけり。長刀を握り竦みてあれば、倒れ様に先へ打越す様に見えければ、「すはすは又狂ふは」とて、馳せ退き馳せ退き控へたり。されども倒 れたるままにて動かず。其時に我も我もと寄りけるこそ、痴がましく見えたりけれ。立ちながら竦みたる事は、君の御自害の程、人を寄せじとて、守護の為かと 覚え〔て〕、人々いよいよ感じける。
六 判官御自害の事
十郎権頭・喜三太は、家の上より飛び下りけるが、喜三太は首の骨を射られて亡せにけり。兼房は楯を後に当てて、主殿の垂木に取りつきて、持 仏堂の廣廂に飛び入る。爰にしやさう〔やしやさう(ヨ)〕と申す雑色、故入道判官殿へ参らせたる下郎なれども、「彼奴原は自然の御用に立つべき者にて候。 御召使ひ候へ」と強ちに申しければ、別の雑色嫌ひけれども、馬の上を許され申したりけるが、此度人人多く落ち行けども、彼ばかり留まりてげり。兼房に申し けるは、「それ見参に入れて給ふべきや。しやさうは〔やしやさうめは(ヨ)〕御内にて防矢仕り候なり。故入道申されし旨の上は、下郎にて候へども、死出の 山〔の〕御供仕り候べし」とて、散々に戦ふ程に、面を向ふる者なし。下郎なれども彼ばかりこそ、故入道申せし言葉を違へずして、留まりけるこそ不便なれ。
「さて自害の刻限になりたるやらん。又自害は如何様にしたるをよきと云ふやらん」と宣へば、「佐藤〔四郎〕兵衛が京にて仕りたるをこそ、後 まで人々讃め候へ」と申しければ、「仔細なし、さては疵の口廣きをよきござんなれ〔こそよからめ〕」とて、三條小鍛冶〔が〕宿願あつて、鞍馬へ打つて参ら せたる刀の、六寸五分ありけるを、別当申し下して今の劔と名付けて秘蔵しけるを、判官幼くて鞍馬へ御出での時守刀に奉りしぞかし。義経幼少より秘蔵して身 を離さずして、西國の合戦にも鎧の下に差されける、かの刀を以て左の乳の下より刀を立て、後へ透れと掻切つて、疵の口を三方へ掻破り、腸を繰出し、刀を衣 の袖にて押拭ひ、衣引掛け、脇息にしてぞおはしましける。
北の方を呼び出し奉りて宣ひけるは、「今は故入道の後家の方にても兄人の方にても渡らせ給へ。皆都の者にて候へば、情なくは当り申し候は じ。故郷へも送り申すべし。今より後さこそ便を失ひ、御歎き候はんとこそ、後の世までも心に懸かり候はんずれども、何事も前世の事と思召して、強ちに御歎 きあるべからず」と申させ給へば、北の方、「都を連れられ参らせて出でしより、今まで存命へてあるべしとも覚えず。途にてこそ自然の事もあらば、先づ自ら を亡はれんずらんと思ひしに、今更驚く〔べき〕にあらず。早々自らをば御手に懸けさせ給へ」とて、取りつき給へば、義経「自害より先にこそ申したく候ひつ れども、余りの痛はしさに申し得ず候。今は兼房に仰せつけられ候へ。兼房近く参れ」とありけれども、何処に刀を立て参らすべしとも覚えずして、ひれ伏しけ れば、北の方仰せられけるは、「人の親の御目程賢かりけり。あれ程の不覚人と御覧じ入つて、多くの者の中に、女にてある自らに附け給ひたれ。我に言はるる までもあるまじきぞ。言はぬ先に亡ふべきに、暫くも生けて置き、恥を見せんとするうたてさよ。さらば刀を参らせよ」とありしかば、兼房申しけるは、「是ば かりこそ不覚なるが理にて候へ。君御産ならせ給ひて三日と申すに、兼房を召されて、『此君をば汝が計らひなり』と仰せ蒙りて候ひしかば、やがて御産所に参 り、抱き初め参らせてより、其後は出仕の暇だにも覚束なく思ひ参らせ、御成人候へば、女御・后にもせばやとこそ存じて候ひつるに、北の政所打続き薨れさせ 給へば、思ふに甲斐なき歎きのみ、神や仏に祈る祈は空しくて、斯様に見なし奉らんとは、露思はざりしものを」とて、鎧の袖を顔に押当てて、さめざめと泣き ければ、「よしや歎くとも今は甲斐あらじ。敵の近づくに」とありしかば、兼房目も昏れ心も消えしかども、「かくては叶はず〔ふまじ〕」と、腰の刀を抜出 し、御肩の上を押へ奉り、右の御脇より左〔の乳の下〕へつと刺透しければ、御息の下に念仏してやがて果敢なくなり給ひぬ。
御衣引被け参らせて、君の御側に置き奉りて、五つにならせ給ふ若君、御乳母の抱き参らせたる所につと参り、「御館も上様も、死出の山と申す 道越えさせ給ひて、黄泉の遙の界におはしまし候なり。若君もやがて入らせ給へと仰せ候ひつる」と申しければ、害し奉るべき兼房が首に抱きつき給ひて、「死 出の山とかやに早々参らん。兼房急ぎ連れて参れ」と責め給へば、いとど詮方なく、前後覚えずになりて、落涙に堰き敢へず。「あはれ前の世の罪業こそ無念な れ。若君様御館の御子と生まれさせ給ふも、かくあるべき契かや。亀割山にて巣守になせと宣ひし御言葉の末、実に今まで耳にある様に覚ゆるぞ」とて、又さめ ざめと泣きけるが、敵は頻りに近づく、かくては叶はずと思ひ、二刀刺貫き、「わつ」とばかり宣ひて、御息止まりければ、判官殿の衣の下に押入れ奉る。
さて生まれて七日にならせ給ふ姫君〔も〕、同じく刺殺し奉り、北の方の衣〔の下〕に押入れ奉り、「南無阿弥陀仏々々々々々々」と申して、我 が身を抱きて立ちたりけり。判官殿〔は〕未だ御息〔の〕通ひけるにや、御目を御覧じ開けさせ給ひて、「北の方は如何に」と宣へば、「早御自害、御側に御入 り候」と申せば、御側を探らせ給ひて、「是は誰、〔と仰せければ〕若君にて渡らせ給ふか〔給ふと申せば〕」と御手を差渡させ給ひて、北の方に取りつき給ひ ぬ。兼房いとど哀れぞ増さりける。「早々宿〔城〕所に火をかけよ」とばかりを最期の御言葉にて、こと切れ果てさせ給ひけり。
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妙法蓮華経(新字体全文)
五百弟子受記品第八
五百品第8
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『法華経』:文底内証の寿量品たる「一品二半」(漢訳/訓読)
「おくのほそ道」芭蕉句集
夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
http://www.bashouan.com/psBashouPt18B03.htm
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義経は、十六歳から二十二歳までの七年間で一気に、尋牛から→見跡→見牛→得牛→牧牛までを一気にクリアしてしまうのであった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3
十牛図(じゅうぎゅうず)は、禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもの[1]。十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)ともいう。中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)禅師によるものが有名。
廓庵禅師の十牛図には弟子の慈遠和尚により「どんな人にも仏の真源、仏性が備わっているが、迷いの世界に入り込みもがき苦しんでいるので、そこから逃れる方途をこれまでも示されてはきたがそれらは不十分であったので、新たに廓庵禅師は牧牛によってその方途を示された[1]」と頌が加えられている。
巻子、画帖など、また掛幅1幅に10描いたものもある。中国伝来のものもあるが、絶海中津や周文など日本の室町時代以後の禅僧、また絵画の各派の画人によって制作されたものもある。10図すべてを描いた作例よりも、1場面だけを描いた「牧牛図」の作例が数多く見られる[1]。
十牛図は以下の十枚の図からなる。ここで牛は人の心の象徴とされる。またあるいは、牛を悟り、童子を修行者と見立てる。
- 尋牛(じんぎゅう) - 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
- 見跡(けんせき) - 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
- 見牛(けんぎゅう) - 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
- 得牛(とくぎゅう) - 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
- 牧牛(ぼくぎゅう) - 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
- 騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
- 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
- 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
- 返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
- 入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
十牛図
伝 周文 筆:相国寺蔵http://homepage2.nifty.com/sanbo_zen/cow.html
十牛図はいわゆる牧牛図の一種で、我々の真の自己を牛に譬 えて、その牛を求め、捕まえ、馴らし、遂に求める自 分と牛とが全く一つとなり、それも忘れて只の生活が できる過程を画で示したものである。我々の修行の道程を 具象的に明示しているので、自分の修行を自ら点検し 策励の指標とするのに大変役立つものである。 そこでこの十牛図を参究することにより、常に皆様自 身の修行を自ら点検し、自分が今どの段階にあるかを 反省する指標として役立てて頂きたい。
十牛図の作者廓庵師遠禅師は、大随元静禅師(1065~1135)の法嗣で、臨済禅師より第十二代目 の法孫であるというだけで、生年寂年はじめその伝記 ははっきりしていない。十牛図は十枚の図のおの おのにまず廓庵禅師が「頌」をつけ、その後その弟子慈遠 (一説では廓庵自身とも廓庵の友人とも云われる)が 「総序」と頌の一つ一つに「小序」をつけたもの と云われている。
さて、十牛図には童子と牛が描いてある。ここで 牛とは我々が求めている真の自己のことである。
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